はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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小説ホリック

時に、パニックになる。一瞬、どうしようもなく何かが欠落しているのを感じ、何処に立っているのか判らなくなる。春が訪れ、向かいの林に越してきたキジが、日々ケンケンとうるさく鳴いているからではない。
原因は「読みたい小説が、手元にない」ただそれだけのこと、である。
だが長く生きていれば、誰しも「ただそれだけのこと」に、ひどく惑わされた経験を持っているはずだ。大切な「ただそれだけのこと」を、ひとりひとり抱えて生きているのだ。多分。

息子や末娘などは、わたしより重症である。出かける時には、必ず文庫本を持参。それも、途中で読み終えてしまった時の恐怖に備え、2冊は持っている。息子は大抵、ポケットの大きな上着やパンツに、文庫本を忍ばせている。例えたった5分の待ち時間でさえ、本がないという事態に陥らないよう、常に油断を怠らず、最善を尽くしている。
末娘は、ただ帰省するだけなのに7冊もの本を鞄に入れていた。その癖、わたしの本棚から「村上さん、借りていい?」と村上春樹を持ち出しては、ごろごろと寝っころがり「帰るまでに、読み終わらなくちゃ」と、夜中まで読み「『1Q84』の2巻は、洗濯物と一緒に送ってね」と、タイムスケジュールまで組んでいた。わたしも含め、小説ホリックなのである。

わたしには、彼らほど脇目も振らず数多くの本を読んだりは、出来ない。ただ、読みたい小説が手元に「ない」のと「ある」のとでは、全く違う。
心を平穏に保つためには、図書館の存在は、大きい。自ら厳選した、まだページを開いていない小説が、手元に何冊かある。その幸せ。
この幸せ、本を読む楽しさを体験していない子ども達に、伝えられたらなぁと思う。まずは、読書=勉強=やりたくないけど嫌々やってる、という方程式を崩すことが早道だと思うのだが、どうだろうか。

お隣は韮崎市の図書館。ガラス張りで明るく解放感があります。
もともとは『イトーヨーカ堂』だった建物を再利用し3年前にオープンした
市の施設の2階が図書館や閲覧室、会議室になっています。

小説のコーナー。通路が広く、ゆったりスペース。
伊坂幸太郎の小説も、ほとんど揃っています ♪

パソコンを使えたり、海外の本を置くのも、今ではごく普通なのかな。
自動読み取りの貸出機を始めて見た時には、感動しました!
都心と違い、平日あまり人がいないのが、もったいない感じです。

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混乱を混乱のままに抱きかかえて

「やっぱ、やられたかぁ」文庫本を閉じ、微笑む。
大藪春彦賞を選考した大沢在昌の言葉が、帯にあった。
「計算し尽くした上で、読者をも企みにはめる、恐ろしい書き手である」
覚悟はしていたが、やはりハメられた。ミステリーの醍醐味を味わった。
沼田まほかる『ユリゴコロ』(双葉文庫)変わった名だが女流作家だ。

主人公、亮介は、損なわれていく自分達に、ただ呆然としていた。
婚約者が失踪し、父は末期癌を宣告され、そして、母は突然、交通事故で死んだ。頑なに治療を拒みひとり暮らす父を訪ねた彼は、押し入れにしまい込んであった4冊のノートを見つける。『ユリゴコロ』と題されたノートには、殺人に取り憑かれた誰かの告白文がびっしりとかかれていた。
イヤミス(嫌な読後感が残るミステリー)の旗手とも言われている作家だが『ユリゴコロ』に関して言えば、脇を固めるキャラの魅力のせいか、読後感は、そう悪いものではなかった。あくまでミステリー好きから観た意見だが。

そんなミステリーという分野を超えて、印象的な文章に、出会った。
『年をとるというのは、たぶん、混乱を混乱のままに抱きかかえて生きられるようになることではないだろうか。人間の心そのものが、永遠に解き明かせないひとつの混乱だと、知ることではないだろうか』

犯罪とは縁遠い日常のなかに居ても、様々な混乱を抱えて悩み苦しむことは、誰にだってあるはずだ。そんな自分のなかで、何かにあらがい続け暴れていた混乱が、いつしか静まっていくのを感じていた。

帯は、2種類ありました。2年前の本屋大賞ノミネート作品だそうです。
そして、第14回大藪春彦賞受賞作品です。

甲府駅の駅ビル『エクラン』4階のタリーズで。雑誌がたくさん並んでます。

隣には、本屋さん。電車の待ち時間を過ごすのにぴったり。
駅ナカにあれば、なおいいんだけど、田舎ではそうもいきません。

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ニシノユキヒコの冷蔵庫的魅力

物に名前をつけると、たちまち擬人化し親しくなったような気がして面白い。
川上弘美の連作短編集『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮文庫)に収められた『通天閣』に、物に名前をつける一風変わった女の子、昴が登場する。

『冷蔵庫を、昴は「ぞぞさん」と呼んでいた。ぞぞさんに足つっこむと、罰があたるかなあ、などと言いながら、よく足で冷蔵庫の扉を開けては、そのまま足先をつっこんでいた。わたしがいくら注意しても、やめなかった。ぞぞさんはうるさいひとだね、と言いながら、ぶうん、という音を真似したりした』

これほど印象的な冷蔵庫のシーンには、なかなかお目にかかれない。主人公はニシノユキヒコだし、ストーリー的に重要でもないのに何故か記憶に残るシーンだ。21歳の、ちょっとばかげたことが好きな昴の人物描写を、冷蔵庫との絡みが深く描いているからかも知れない。

この連作短編は、十の短編から成り、それはすなわちニシノユキヒコの十の恋を描いている。14歳の西野君としおり。18歳の西野くんと二十歳ののぞみさん。二十歳の幸彦とカノコ。30歳のユキヒコと33歳のマナミ。35歳のニシノくんと40歳のエリ子さん。50代半ばの西野さんと二十歳の愛。そして死後、夏美さんの前に現れたニシノさん。などなど。
「うーん。ニシノユキヒコ、何故に、そこまでモテる?」
と、うなってしまうほど、恋多き男。女性には果てしなく優しく、二股をかけていても限りなく真剣で、じつは真実の愛を求めている。

久しぶりに、昴の冷蔵庫のシーンを読み、ふと考えた。
「ニシノユキヒコって、冷蔵庫みたい」と。
上の娘は、冬でもよく冷蔵庫を開ける。「お腹、空いてるの?」と聞くと、
「いや、冷蔵庫開けると、ホッとするんだよね」との答え。
いくらお洒落なデザインにしてもウドの大木的ぼくとつな容姿。それに加え、何かいいもの入ってないかなぁというびっくり箱的わくわく感。そして、全体を把握できないブラックホールのような謎めいた性格(?)なんとも親近感がわく、一度使ったら手放せない電化製品だ。
そう考えると、ニシノユキヒコと、彼が愛した女性達、彼に恋した女性達の切なくも不思議なラブストーリーの魅力その謎が、すとんと腑に落ちた。

私のところに来るときは携帯の電源くらい切ったら、と言うと、エリ子さんが恋人になってくれたらそのときにはね、とニシノくんは答えたものだった。「ニシノくんって、なんだかまちがってる」と私が言うと、ニシノくんは真面目な顔で頷いた。「僕がまちがっていることは、僕が一番よく知っている」
『ニシノユキヒコの恋と冒険』収録『しんしん』より

我が家の冷蔵庫とレシピ表の守り神、マグネットやもりくんです。
「はじめまして。最近の冷蔵庫は、静かですねぇ」

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夢でまで、推理して

夢のなかでまで、推理してしまった。
今読み終えた、湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』(集英社文庫)
一昨日、所用で出かけた立川の駅ナカ『エキュート』の本屋で衝動買い。帰りの特急あずさで半分読んで、ベッドのなかでさらにクライマックスと言えるところまで読み進め、で、夢である。
推理は半分当たり、半分外れていた。しかし、起きている時のわたしよりも鋭く推理しており、寝てた方が頭冴えてるんじゃない? と疑問が湧く。「白ゆき姫なのに、何で林檎出てこないの?」とは、夢のなかでわたし。ストーリー構成にまで口出ししている。まあそれは置いといて、小説は、面白かった。

湊かなえの小説は『告白』(双葉社)しか読んでいない。これが2冊目となる。『告白』は小説では読後感の悪さが、映画では松たか子の綺麗な顔だけが印象に残る、好きとは言えない作品だった。
そして今回も、これ好き! とは絶対に言えない物語。まず、文章が好きじゃない。癇に障るというのだろうか。奥底にある淀んだものを感じる。なのに、読みやすく、面白い。つい引き込まれ、深い闇に落ち、夢中になる。

惨殺された美人社員と、その直後、行方不明になった地味な同僚の女性。その事件を取材していく週刊誌の記者は、会社内部はもちろん、行方不明の同僚の学生時代、子どもの頃までさかのぼり、様々な話を聞いていく。小説は、そのひとりひとりの言い分の羅列形式をとっていて、視点がコロコロ変わるのにも引き込まれるし、話す側が、思い込みの強さや憶測で自信満々しゃべったり、ゴシップやうわさ好きな顔、自意識過剰さが見え隠れする様子なども興味深い。そして最後に当事者の話でいったん幕を閉じ、分厚い関連資料が用意されている。ネットのコミュニティサイトでの会話を雰囲気そのままアイコン入りで、週刊誌では世間をあおる様子や、新聞は切り抜きの形で掲載。ネットや週刊誌報道の恐さを、架空の事件とは思えないようなリアルさで描いている。
「ネット炎上」映画CMのキーワードの一つに、それがあった。「匿名という名の皮をかぶった悪意と集団心理」文庫カバーには、かかれていた。読み終えて感じたのは、人間の醜さ、愚かしさ、悲しさだった。

駅ナカで買ったからといって、電車で読むのに適しているとは限らない。夢中になりすぎて乗り過ごさないよう、注意が必要だ。
絶賛! 映画公開中。エンターテイメント? サスペンス? どっちでもいいけど、伊坂幸太郎作品『ゴールデンスランバー』『ポテチ』などを映画化している中村義洋が監督だわ、綾野剛が出てるわで、やっぱ、観に行くかなぁ。

立川駅ナカの本屋さん。ちょっとお洒落な雰囲気が気に入っています。

展示も凝っていて、今回のテーマは『春のよそおい』でした。
文房具の他、小物もいろいろ置いてあります。

話題の本も、たくさん。にゃんこ本のコーナーもありました。

お隣はカフェ。買っていない本は持ち込めませんが、食事もできて、
お酒も飲める、落ち着ける場所です。会計はもちろんスイカで、ピッ!

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『ひなたぼっこ』な、春

仙台から帰ると、庭の水仙が咲いていた。可愛い。
春は、そこ此処にやって来ていて、大雪のなかから助け出した植え替えたばかりのライラックにも蕾がついているのを見つけ、嬉しくなる。
日陰に植えてもいないのに生息しているふきのとうは、もう一度天麩羅にして楽しめそうだし、土筆のにょきっと音を立てて生えてきた様子や、オオイヌフグリの控えめなブルーに、相好を崩す。
「もう、4月なんだなぁ」
誰もいない庭で、思いっきり身体を伸ばし深呼吸する。太陽の陽射しが温かい。太陽の温かさに、工藤直子の詩を思い出した。
6巻でセットにもなっている『のはらうた』Ⅳ(童話屋)に収められた、こねずみしゅんの『ひなたぼっこ』

ひなたぼっこ  こねずみしゅん

でっかい うちゅうの なかから
ちっぽけな こねずみ いっぴき みつけだして
おでこから しっぽのさきまで あたためてくれるのね
 ・・・・・
おひさま ぼく どきどきするほど うれしい

『のはらうた』は、詩人、工藤直子が「のはらみんなのだいりにん」となり、小さなもの達の視点で描かれたあまりにも有名な詩集だ。
そのなかには他に好きな詩も、たくさんあれど、この詩をよく思い出す。多分息子の名が「しゅん」だからだ。
東京は寒さが身に沁みる街だけど、しゅんのところにも、春が来てるといいな。こねずみしゅんくん。元気ですか?

水仙は、優しい黄色の顔を寄せ合い、にぎやかにおしゃべりしているよう。

白い花を咲かせるライラックも、蕾を膨らませています。

北側の雪は、3月も30日まで残っていましたが、
その下から、ふきのとうが頭を出しました。
  
クリスマスローズ。少しずつ、少しずつ伸びて開いていきます。
ツクシンボも、1本だけ発見しました。

雑草とは言え、可愛いオオイヌフグリ。満開です。

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ドラマスタート直前、かけこみ読書はいかが?

「早くしないと、始まっちゃうよ」夫が、急かす。
「うん。そうだね」生返事の、わたし。
野球には明るくないし、大会社の様子もさっぱり判らない。手に取るには、分厚く、重く、難しそうだと、敬遠していた。
「それでも、絶対に読んだ方が面白いよ」と、きっぱりと夫。

来月からTBS系で始まる日曜劇場が『ルーズヴェルト・ゲーム』だと知り、彼はアドバイスしてくれているのだ。池井戸潤を何冊も読んだ彼が「これを、ドラマ化するのか?」と驚きの声を上げていたからには、さぞ訳ありなんだろうとは思ったのだが、なかなか手を出せずにいたのだ。「いつでも、どうぞ」と爽やかグリーンの背表紙を見せ、彼の本棚に収まっているにもかかわらず。

「これを、ドラマ化するのか?」と聞き、まず思い浮かんだのは、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。映像化することで、「あれ」が物語途中でバレちゃうんじゃないかとの危惧を、鮮やかに打ち破った、すごい映画だ。でも「あれ」は、やはり読んでから観ることをオススメする。ならば『ルーズヴェルト・ゲーム』も然り。なのではないかと、読み始めたのだった。・・・「あれ」が知りたい方は、本を読むことをおススメします。by 伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)

今は半分読み進め、もう頭のなかは、廃部寸前の青島製作所野球部でいっぱいになっている。コンビニに夫所望のシュークリームを買いに行き、スポーツ新聞の赤や青の大見出しを見て「あ、青島製作所野球部は?」と一瞬思ってしまったほどだ。(マジです。自分の頭の構造を疑いました)

「一番おもしろい試合は、8対7だ」
『野球を愛したルーズヴェルト大統領は、そう語った』と、帯にある。
ルーズヴェルト・ゲーム =『奇跡の大逆転』とも、かかれている。
増税前のかけこみ需要ならぬ、ドラマスタート直前のかけこみ読書、ご一緒にいかがですか?

赤ワインを飲みながら、のんびり読書の連休です。
監督、主力選手共にライバル社に引き抜かれた、かつての名門、青島製作所野球部。会社は不況にきしみ、大規模なリストラをせざるを得ない状況。廃部か存続か。それ以前に会社は生き残れるのか。
「人生を賭した男達の戦いがここに始まる」帯より

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時間は人を変えていく

どのストーリーも時同じくして読んだのに、ひとつの物語だけが印象に残っている短編集がある。
宮部みゆき『人質カノン』(文春文庫)だ。
帯の奇抜さとセンスに魅かれて買った文庫は、リビングに置いておくと、娘たち二人もそのインパクトにやられたのか、それぞれ部屋に持ち込み読んでいた。6、7年前になるだろうか。

表題作でもない二つ目に収められた『十年計画』は、読んだ時に「似てるけど、正反対」と思った短編小説があり、それがものすごく好きな小説だったこともあり、忘れられないストーリーになっている。
「似てるけど、正反対」なのは、山本文緒『絶対泣かない』(角川文庫)に収められた『今年はじめての半袖』手ひどい失恋をして、職までも失った20代の女性。傷つき、男を恨み、人生が変わった。それは、ふたつの短編の共通項。その二人の女性が取った行動、必死に働くというのもまた、共通項。違っていたのは『半袖』の女性は、両親が死ぬまでは死ねないが、その後、自殺しようと考えた。『十年計画』の女性は、タイトル通り十年後に、男を殺そうという計画を立てた。

「あたしはね、お嬢さん。人をひとり殺してやろうと思って、それで運転免許を取ろうと決めたんです」
ちょっとの間、わたしは黙った。顔には笑顔が張りついたままだったと思う。

『十年計画』の女性はタクシードライバーで、客であるわたしに、昔語りをする。もちろん殺人計画は、遂行されなかった。こうして昔語りをしている時点で、明確である。ハートウォーミングストーリーと銘打つ映画のような華やかさはないが、こういう短編に出会うと、ああ、本が好きになってよかったと、小さく微笑んでしまう。心がほぐれ、解放されていく。

時間は、人を変えていく。2つの短編は、語っている。

最近読み始めた、小川洋子『人質の朗読会』と一緒に。

腕時計をつけるのは、苦手です。だから時間が止まっているのかなぁ。

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恋は切なく

「オススメしないよ」末娘に、言われた。
何年か前に文庫化を機に、ふたりで読んだ中村航『100回泣くこと』(小学館文庫)が、昨年映画化され、それを観た彼女の感想だ。
「全く別物と、思った方がいいね。本を薦めた友人にも、評判よくなかった」
夢中になって読んだこともあり、落胆したのだろう。
「あの、歯磨きのシーンは?」「そんなの、あったっけ?」
「いちばん好きなシーンなんだよぉ」
「ブックとの出会いのエピソードがカットされてたのには、唖然としたけど」
それぞれに感じる印象深いシーンは違うし、映画を観てどう思うかも違うのだと思いつつ、反論もする。
「そんなにこき下ろされたら、観られないじゃん」
腹いせに村上春樹『ノルウェイの森』は、観ない方がいいよと嫌がらせした。

その中村航の新刊『デビクロくんの恋と魔法』(小学館)を、読んだ。
帯の「圧倒的な多幸感に包まれる」に魅かれたのだ。ハッピーエンドの恋愛小説が読みたい気分だったのもあり、末娘が冷静に「出版と同時に映画化が決まってるし、映像向けな雰囲気感じた」との感想を漏らしたのもあり。

読みながら、そして読み終えて「恋するって切ないよなぁ」と、胸がきゅーんと切なくなった。切なくなりつつ、時には声を出して笑った。恋する切なさに包まれるものの滑稽さは、年齢問わず永遠である。そんな抜粋したい文章が、数々あれど、どれも抜粋したら判らないだろうと思われるのが、中村航だ。

千葉県流山市では、恋愛中の証にと『恋届』をまるで『婚姻届』の如く役所に提出する企画が始まったとテレビのニュースで観た。
「結婚しててもわたし夫に恋してますって『恋届』出していいのかな? で終焉を迎えたら、夫との恋終わりましたって出したりとか」
夫相手にジョークを飛ばし、失笑を買う。なんでも、若者の結婚離れや、少子化への問題提起もあり、始めた企画だとか。
「恋ってさぁ、もっとさぁ」何か違うよなぁと、ひとりごちるのだった。

ショッキングピンクが効いていますね。帯が素敵だと嬉しくなります。
  
主人公の書店員、光は、いつか自分の絵本を創りたいと思っています。
時々デビクロくんに変身し『デビクロ通信』を様々な場所に配る変な奴、
でもあります。『デビクロ通信』ポストに入ってたらいいのになぁ。

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十月を目指して

リビングに置きっぱなしにしていた『Vaho』のトートバッグを、倒してしまった。倒して初めて、底の部分を見た。『Vaho』のバッグや小物は、すべてビニール製ポスターをリサイクルしたもので、様々なポスターを組み合わせて作られている。だから、どんな模様でもどんな色でも可笑しくはない。買った時には見たのかも知れない底の部分も、何か月か経つうちにすっかり忘れている。いや、よくよく見て選んだと思ってはいたが、見ていなかったのかも知れない。何しろ普段は、見えない部分なのだから。

「何にでも、見える部分と、見えない部分があるんだよなぁ」
つぶやいてみて、金子みすずの詩『星とたんぽぽ』を思い出した。

 青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ、
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、
 春がくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ、
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

トートバッグの底には、藍色がかったブルーの生地に白い文字で『OCTUBRE →』とかかれていた。調べるとスペイン語で『十月』だ。この矢印は『十月に向かえ』ということか。もちろん、意味などないのだと判ってもいる。だが何があるのかと期待しつつ、十月を楽しみに暮らしていくのもまた、いいかも知れない。何か月後かの未来だって、はっきりとは見えると言えない世の中だけれども、未来はあると信じたい。
いや『十月に向かえ』じゃなく『十月を目指して』だったら?
うーん、いったい十月までに、何かが出来るのだろうか。そう思うと、途方に暮れる。ただ途方に暮れ、空を見上げる。見えない星を見いだすように、ピカピカに磨かれた冬の青空に、微かに見える未来を見上げるのみである。

うっかり倒すまで、気にも留めませんでした。
  
リラックマの背中に、ファスナーがついていることは知っていました。
でも、上の娘がびっきーのお骨の前にお供えした、星つきリラックマの
肩とお尻にハートがついていたなんて、知らなかった。
  
この小鉢を裏返すと『美山』と窯元の名が入っているのは知っていました。
でも、選んだ時に気に入った、雪えくぼのようなへこみがあることは、
すっかり忘れていました。見えなくなってしまうものなんですねぇ。

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藤沢周平に、作戦を練る

「おっ、生きてた」
息子からのバースディメールに、ついこぼした言葉である。
もう3年ほど帰ってこないが、母親の誕生日は覚えていたらしい。ちょっとひらめいて、メールを返した。
「ありがとう。最近読んだ本で、オススメある?」
相変わらず、本の虫なのだろうとは思ったが、人間変わっていくものだし、まだ26歳だ。しかし返信はすぐに来た。
『用心棒日月抄』
絵文字も、そっけもないメールだったが、調べてみる。『用心棒日月抄』(新潮文庫)は、藤沢周平の時代物連作短編集だった。

時代物は守備範囲ではないが、とりあえず文庫で買って読み始めた。
時代小説に慣れていないせいで慣れるまで四苦八苦したが、今では本を閉じるのが惜しいくらいに面白く読んでいる。

不意に考える。娘達とは、同じ本を読み、時には同じ音楽を聴き、同じ映画を観て、ああだこうだとくだらないことばかり喋ってきた。わたしには「本の感想は聴かない」という子育てポリシーがあった。何故なら、読んだ本の感想をいちいち聞かれていたら、オチオチ本も読めないからだ。読後の余韻に浸っている時間は、大人だろうと子どもだろうと、そっとしておいてほしいはず。だからこそ、ある程度時間が経ってから、主人公は和菓子党だとか、脇役の皮肉な性格がそこはかとなく好きだとか、テレビドラマやバラエティなどを一緒に楽しむように喋ってきた。
だが、息子は寡黙だった。うん、とか、ああ、しか言わず、大学入学と同時に出て行ったきり、東京に移り住み、その後、笑って喋った記憶はない。

読み終えたら、彼を訪ねてみよう。いや、今までもランチに誘ったことはあるのだが、ことごとくフラれている。何か作戦が必要だ。どうせ『用心棒日月抄』読んだよと言ったとしても、そう、とか、もう忘れた、と返ってくるのは目に見えているのだから。読み始めると、主人公で用心棒、青江又八郎は、息子とおなじく26歳だった。

新潮社のマークは葡萄。息子が幼い頃探していた葡萄のマークでした。
文庫の裏表紙には「江戸時代の庶民の哀歌を映しながら、同時代人から見た『忠臣蔵』の実相を鮮やかに捉えた」と、あります。

「山梨陸の孤島に!」の報道後も音沙汰がないので、息子にメールしました。
「雪、だいじょうぶ?」「だいじょうぶ。」反対だろ!? 気づけよ!
あ、失礼しました。つい、感情的に・・・。

八ヶ岳は雪深く、彼の如く寡黙です。

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孤独の手のひらに、包まれた時には

江國香織の小説で一番好きなのは、何といっても『ぼくの小鳥ちゃん』だが、初期の短編集『つめたいよるに』(新潮文庫)は、格別に好きで、不意に手に取って、当てもなくページをめくりたくなる。
そのなかでも『ねぎを刻む』は、またしても格別に魅かれるものがあり、手に取るとつい読んでしまう短編だ。その小説はこんな風にして始まる。

「孤独がおしよせるのは、街灯がまるくあかりをおとす夜のホームに降りた瞬間だったりする。0.1秒だか0.01秒だか、ともかくホームに片足がついたそのせつな、何かの気配がよぎり、私は、あっ、と思う。あっ、と思った時にはすでに遅く、私は孤独の手のひらにすっぽりと包まれているのだ」

孤独の手のひらに瞬時に包まれ、ハッとする瞬間は誰しもにあることで、それは、恋人がいても夫がいても、両親がいる温かい食卓があっても、子ども達の笑い声が響いていても、時間をいとわず長電話してくれる友人がいても、解消されるものではない。

「誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない」
主人公の私は、確信を持っている。そして、そんな夜には、ねぎを刻むのだ。

淋しいなと、ふとつぶやいてしまうような、薄暗くぬるい沼のような孤独を感じつつ過ごすことにも、歳と共に慣れてきた。誰しもにあることなのだと、たぶん、昔よりは判っているということなのか。

しんとした心持ちで、葱を、たくさん刻みました。

茗荷とオクラも、刻みました。生姜は針生姜に。

ひとりランチのフカヒレスープ卵とじ雑炊が、超豪華に!
ちなみに、末娘に聞いたところ『ひとりランチ』を若者言葉で、
『ボッチめし』と言うそうな。ひとりぼっちのご飯だから?
「でも悲惨な雰囲気漂うから、仲間うちでは『ソロランチ』って言ってた」
若者達も、言葉に工夫もしているんだな。

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家族の絆を描いた『卵の緒』

久しぶりに、瀬尾まいこの『卵の緒』(マガジンハウス)を読んだ。
彼女のデビュー作にして、「坊ちゃん文学賞大賞」受賞作である。短い小説なので、もう1編とセットで1冊になっている。
初めて瀬尾まいこを読んだ時には、驚いた。発想の突飛さが、そこ此処に見え隠れしていて、小さな驚き満載なのだ。面白くない訳がない。

例えば、冒頭文。
「僕は捨て子だ。子どもはみんなそういうことを言いたがるものらしいけど、僕の場合は本当にそうだから深刻なのだ」
主人公で9歳の小学4年生、育生の語りで物語は進む。

育生がへその緒を見せてと頼むと、母さんが出して来たのは卵の殻だった。
「母さん、育生は卵で産んだの。だから、へその緒じゃなくて、卵の殻を置いているの」母さんは、けろりとした顔で言う。いぶかる育生に更に言う。
「育生。世は二十一世紀よ。人間が月へ飛んでいくのよ。ロボットが工場で働くのよ。コンピューターでなんでもできるこの世の中。卵で子どもを産むくらいなんでもないわよ」

発想の突飛さにまず魅かれ、そして血の繋がらない育生を育てる「母さん」の大らかさに、母であるわたしはますます魅かれた。

本との出会いは、人との出会いと似ている。本屋の店頭で「一目惚れ」したり、何度も手に取っては戻し「馴染みの顔」になっていったり、気になってはいるのに手を伸ばせない「遠慮がちな仲」だったり、それを乗り越えたら「意気投合」しちゃったり。
瀬尾まいこには、間違いなく「一目惚れ」だった。偶然にも同じ日に、中学生だった上の娘が学校で司書さんに薦められて借りて来ていたというエピソード付き。ふたりの娘達と、貸し借りして、ほぼすべての作品を読んでいる。強い繋がりを感じる作家だ。

親と子は、そういう出会いにはくくれないものがあるけれど、そう言えば、と考えた。わたしにも、血の繋がらない家族がいる。夫とその両親だ。そう考えてみれば、出会いの不思議と、その大きさに息を飲む。
『卵の緒』家族の絆を描いた、魅力あふれる小説である。

『図書館の神様』(マガジンハウス)が2作目です。
ある事件を機に故郷を離れ、中学で国語の講師をする女性の物語。

この間、神戸にある夫の実家に帰った時に、
義母のマグカップが欠けているのを見て、探していました。
カラフルで安定感があるマグを見つけて、ようやく送りました。
義母から、すぐに喜びのメールが。気に入ってもらってうれしいな。

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始めよければ?

『終わりよければ、すべてよし』とは言うが、始まりも重要だ。
こと小説においての始まりは、その物語の半分を語るとも思えるほどに重要である。「つまらない」と本を閉じられてしまったら、いくら『終わりよく』ても、どうしようもない。そして、やはり始まりが決まってる小説は、終わりまでわくわくした気持ちを抱えつつ読めるものが多いと個人的には思っている。

例えば、伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮社)
「春が二階から落ちてきた。私がそう言うと、聞いた相手は大抵、嫌な顔をする。気取った言い回しだと非難して来たり、奇をてらった比喩だと勘違いする。そうでなければ『四季は突然空から降ってくるものなんかじゃないよ』と哀れみの目で、教えてくれたりする。春は、弟の名前だ」
超かっこいい。洒落ている。マジ、しびれちゃう。素敵だ。

無論、伊坂は素敵だ。だが、わたしが現時点、一番好きだと思う小説の始まりは、川上弘美の短編集『神様』(中公文庫)に収められた『花野』だ。
「すすきやかるかやの繁る秋の野原を歩いていると、背中から声をかけられた。この時刻でこの場所ならばたぶんそうだと思っていたが、振り向くと、やはり叔父が立っていた。五年前に死んだ叔父である」
もう、これだけで「読んでよかった!」と思えるほどに、粋な始まりだ。驚きもあり、物語に吸い込まれるように読み進めずにはいられない魅力がある。

ところで『終わりよければ、すべてよし』というのは、日本の諺かと思えば、シェイクスピアの喜劇『All's Well That Ends Well』から来ていた。好きな人と結婚するために、手を尽くす女性のストーリーだ。なので、この『終わり』は結婚だ。うーむ。結婚こそ、始まりだと思うんだけどなぁ。
やっぱ、始まり、重要だよ。

もちろん、浅田真央ちゃんのフリーの演技は、初めから終わりまで、本当に素晴らしく、始まり終わり云々など忘れてしまうほどよかったけれど。

ようやく一部渇いたウッドデッキで、撮影しました。
ハードカバーの方は、タイトル文字がシルバー。
文庫の装幀では、虹色になっています。

『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)の始まりは、
「腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくかもしれない
けれど、僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた」
映画では、濱田岳くんが演じた、椎名の語りから始まっています。

「どうせなら雪かきも、遊びながら」と、夫が作った、かまくらもどき。

半分以上は、渇いてきました。板、腐らないといいけど。

八ヶ岳は、いつも雪乗っけてて肩こるだろうなぁ。
でも、これだけの大雪だったのに、あんまり変わらないような気が。

拍手

馬鹿がつくほど真っすぐな男

久しぶりに、奥田英朗の小説を読んだ。『純平、考え直せ』(光文社文庫)
3度、本屋で手に取り、3度目で購入した文庫本である。
帯には「この青春 おかしくて、せつない」と断言するかの如く白い文字でかかれた通りの青春小説だ。帯のその下に、心魅かれるワンフレーズがあった。「馬鹿がつくほど真っすぐな男」もちろん、主人公、純平のことだ。
人間、馬鹿がつくほど真っすぐには、なかなかなれない。だからこそ、小説に求める。この間まで読んでいた『ペテロの葬列』の杉山三郎だって、下っ端やくざの純平とは対極にあるキャラだが「馬鹿がつくほど真っすぐな男」という点に措いては、一致している。『ペテロ』は、けっこう真剣に『純平』は、ケラケラ笑いつつ読んだのだが。

21歳の純平は、組の盃を貰って2年目。歌舞伎町を歩けば30mごとに声がかかる人気者だ。凄んで見せてもベビー・フェイスで嫌でも可愛がられてしまう。そんな純平が、他の組の幹部の命(タマ)を獲って来くることになった。

『やくざモノ』ではなく、きっちり『青春小説』に仕上がっているあたり、さすが奥田英朗! と、思わずにはいられない。
純平は、決行の時までの3日間、金と自由を手にする。そこで、様々な人に出会う。仕事がつまらなくて週末ごとに遊び歩いている同い年のカナ。教授を辞めて家族を捨て、歳をとってからようやくグレたのだと笑う無銭飲食常習犯の老人、西尾。五分五分の兄弟盃を初めて交わしたテキ屋のシンヤ。
そしてカナが流した書き込みから、やくざの鉄砲玉になろうとしている純平へ、ネット上でも多種多様な声が飛び交っていく。

鉄砲玉になる予定はないが、3日間だけ、金と自由を手にして、その後何もかもを失くすとしたらと、チラッと考えてみる。3日間かぁ。自分は、いったい何をするんだろう。だが、チラッと考えただけで、すぐにやめた。雪に閉じ込められた、この3日間、雪掻きして、洗濯して料理して、家族としゃべって、笑って喧嘩して、テレビを観て本を読み、ごくごく普通に過ごした。多分そんな風に過ごすのだろうと、想像できた。それでいい。それがいい。
だいたいこの本は、ケラケラ笑って、じーんとして、純平ってほんと、いいやつだよなぁ。西尾のじいさん、いいキャラしてる。あー面白かった! と、本を閉じるべき、正真正銘のエンターテイメント小説なのである。
雪かきをしつつも、純平の真っ新な心を思ってしまう小気味いい本だった。

雪に閉じ込められて2日目。轍の上を踏んでも、腰までズボッ!
雪かきもしましたが、読書日和でもありました。

トラツグミは、薪のなかの虫を探しにやって来ました。

純平、いい顔してるなぁ。「盃を交わそう」と、純平。
「ウイスキーでなんやけど、こういうのは形やあらへん」と、シンヤ。

奥田小説のなかで、特に好きなのは『マドンナ』と『ガール』です。
『ガール』は、香里奈主演で、映画化されました。

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『ぜんぶ雪のせいだ』

映画『鍵泥棒のメソッド』を観た。ついこの間、WOWWOWで予告編がやっていて観たいと思っていたのだ。
しかし、最初のワンシーンで気づいた。「あ、これ、観たことある」と。悲しいことにラストシーンまでありありと瞼に焼き付いている。ショックである。
こんな些細な間違いは、ままあることではあるが、その度にショックを受ける。何かにすべての責任を、なすりつけたい気分にもなる。
『ぜんぶ雪のせいだ』との広告コピーを思い出した。JR東日本の広告だが、変にインパクトのあるコピーだ。

「だって、マジ雪のせいだもん」と、文句も言いたくなる。
雪で、自力で出かけられなくなった娘を迎えに行き「電車乗り遅れちゃったから、30分待ってて」と能天気なメールが来て、時間を潰そうとツタヤに行き、探そうと思ったDVDのタイトルを(雪のせいで?)忘れ、(雪のせいで)うっかり借りた映画だった。いや。ぜんぶ娘のせいだとも言えるが。
それでも、忘れているシーンもストーリーもあり『お家で映画』を楽しんだ。

今更言うのもおこがましいが、堺雅人のファンである。映画『ココニイルコト』(2001年公開)を観てからずっと注目してきたのでけっこう長いのだが、これだけ売れてしまうと、中学生の頃「俺、宇宙戦艦ヤマト、ずっと好きだったのに、みんなが観てる状況に馴染めない」と言ってた弟や「ちびまる子ちゃんの面白さは、ずっと前からわかってたんだよ」と嘆いていた友人にもシンパするものを感じ、なかなか言えない。

『鍵泥棒のメソッド』では、堺雅人は情けなさすぎる男を淡々と演じ、
「これだよ! 堺ちゃん。半沢よりこういう役の方が、断然似合ってるって」
と、思わせてくれた。
広末涼子演じる女性がまた、素敵に面白可笑しいコメディドラマだった。
「よし! ストーリーもきっぱり把握した」
3度目はないと、今は、確信しているのだが。もしこの、ままある出来事が起こったのが夏だったら、雪のせいとも言えない訳だし。

大雪が降った夜、ハイになってはしゃぐ上の娘、23歳。

夫が、薪小屋までの道を作ってくれました。

そこに、シジュウカラやヤマガラ、ジョウビタキのために向日葵の種を。

でも、山鳩が独り占め。大きな身体で睨みをきかせています。
シジュウカラ達は、隙を見てくわえては、飛んでいきました。
今日はどうか、雪、積もりませんように!

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人の弱さを、あらためて読む

宮部みゆき『ペテロの葬列』(集英社)を読み終えた。文句なく面白かった。
『彼か』『名もなき毒』に続く、杉村三郎シリーズ3作目。宮部小説のなかでも、大好きなシリーズの最新作とあって、本屋で手に取るなり、真っ直ぐレジに向かってしまった。
ミステリーとしても面白いが、主人公、杉村三郎と、妻、菜穂子、小学生の娘、桃子の家庭の様子が微笑ましく、杉村さんちのファンなのである。

1作目、2作目もそうだったが、今回も杉村三郎は事件に巻き込まれた。乗っていたバスが乗っ取られたのだ。犯人は拳銃を持った老人だった。3時間で終焉したバスジャックだったが、杉村は人質になった7人と共に、老人の本当の意図を調べていく。そこには、被害者が加害者となり次々に被害者を生んでいくネズミ講の、人を騙すことの暴力性が深く底のない闇となり見えてきた。

杉村は、書斎で画集を開き『聖ペテロの否認』のなかに、嘘をつき影に沈んだペテロの心中に胸を傷めつつも、思うのだ。
「嘘が人の心を損なうのは、遅かれ早かれいつかは終わるからだ。嘘は永遠ではない。人はそれほど強くなれない。できれば正しく生きたい、善く生きたいと思う人間であれば、どれほどのっぴきならない理由でついた嘘であっても、その重荷に堪えきれなくなって、いつかは真実を語ることになる」

読み終えて感じたのは、人の弱さだった。弱いから、嘘をつき、嘘をついたらまた、その嘘をつき通すために嘘をつく。ひとつの嘘をつき通すためには、約30の嘘をつかなければならないという言葉を思い出した。それは如何にも、ネズミ講の図式と似ている。そしてもう一つ、切に願った。続きを早く、シリーズ4作目を早く読みたいと、焦りにも似た気持ちでひとりごちた。
「杉村三郎、がんばれ!」
  
帯の『「悪」は伝染する。』と真っ赤な表紙が、印象的です。

カバーを開けてみると、なかは黒に白い線画。『葬列』のイメージ。

最初のページには、レンブラントの描いた『聖ペテロの否認』があります。

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記憶の隙間

久しぶりに、夫婦で映画を観に出かけた。
50歳以上の夫婦なら、いつでもふたりで二千円。映画もお得に観られる。
だが、ふたりで観に行ったのはそれだけではない。昨夏夫婦で読んだ文庫本『永遠の0』(講談社文庫)は、やはり夫婦で観に行こうと決めていた。

夫が買った本だが、わたしもノンストップ一気読み。文句なく面白かった。
実は、戦争モノ、歴史モノは苦手である。難しい人名、地名がつらつら並べられ、記憶が追いつかないことや、目を覆いたくなるような残酷なシーンを外せないこともあり、気合いを入れないと読み始められない。
だが、『永遠の0』は違った。現代の若者が、特攻隊員だった自分の祖父の人となりを戦友達に取材して回るという設定がよかったのだと思う。

映画は、本よりもさらりと綺麗に撮られていた。悪くなかった。
「あのシーン、土砂降りの設定にしたんだね」と、わたしは、本との違いを楽しみつつ、映画の作り手が苦心して撮ったであろうシーンなどを、ふむふむと観ていた。だが、夫は違ったようだ。
「うそ。よく覚えてるね。本では、何処だったっけ?」
「部屋だよ。普通に」即答するわたしに、彼は首を傾げる。
「全く覚えてない。っていうか、ストーリー自体ほぼ忘れてた」
彼はなんと、最もキーになるドラマをも、すっかり忘れていたのだ。かいてしまうと完全ネタバレになるので、やめておくが。
「それ、逆にすごい! まるまる、2度楽しめたってことじゃん」
「ま、まあね。それにしても、きみはよく覚えてるねぇ、細かいとこまで」
それだけ印象深い本だった、というのはある。しかし、忘却能力については、人より勝ると自負している。なのに何故?

考えて、気がついた。苦手と思って避けてきた分、記憶の隙間が出来ていたのかもしれないと。夫は、小学生の頃から戦争について興味を持ち、多くの本を読んだと言っていた。わたしとは正反対。彼には隙間がなかったのだ。
難しいからとか、残酷な話だからとか言って、避けてばかりいてはいけない。自分や愛する人のために、戦争について考える時だよと、映画に教えられた。

映画館と同じモール内の『ルピシア』でローズヒップティーを購入。
スタバのハイビスカス・ブレンドより柔らかい酸味でした。
   
ローズヒップ、ハイビスカス、紅茶が入っているそうです。
紅茶一つとっても、数多くの種類から選べることに贅沢、実感します。

夫の文庫本は「戦争のことが知りたい」と言う上の娘に貸出中。
海外に行くと、戦争に限らず日本のことをよく聞かれるので、
英語だけじゃなく、いろいろ勉強しているようです。

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観覧車みたいな木

埼玉の大学に通う末娘が、正月に帰省し、再び埼玉に帰る道で、つぶやいた。
「あの木、観覧車みたいだねぇ」
枝を丸く綺麗に伸ばした木が、運転席からも見える。しかし、見飽きるほど通った道でのことである。これまで彼女の目には、あの木は『観覧車みたい』ではなかったのだろう。それが都会に出て、大きく枝を伸ばした木を見ることよりも、観覧車を見かけることの方が多くなったのかも知れない。
少し淋しい気持ちで「そう言われれば、そうだねぇ」と答えた。
山や森や木を見て育った彼女は、もしかすると観覧車を初めて見た時『大きな木みたい』だと思ったかも知れない。それが今、逆転したということか。いや、彼女の『センス・オブ・ワンダー』は、きっと彼女のなかに残っている。木を見て『観覧車みたい』と思う感性もまた、面白いではないか。

帰省した際「貸して」と言い、彼女はわたしと夫の本棚から村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『1Q84』を持ち出した。そして『世界の終り』は、ほぼ1日で読了し「ありがとう」と、本棚に収めた。それを久しぶりに開いてみると、素敵に面白い比喩達が歓迎してくれた。

「入院したことはある?」「ない」と私は言った。私はだいたいにおいて『春の熊のように』健康なのだ。

誰も私の眠りをさまたげることはできない。私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。『フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさの』ひきがえるがやってきて私に口づけするまで、私はこんこんと眠りつづけるのだ。

聴いているだけで神経が擦り減ってしまいそうだった。私は首をぐるぐるとまわしてから、ビールを喉の奥に流しこんだ。胃は『外まわりの銀行員の皮かばんみたいに』固くなっている。

まさかとは思ったが、私が二本食べた他は彼女がたいらげた。『重機関銃で納屋をなぎ倒すような』すさまじい勢いの食欲だった。

村上春樹的に言うとすれば『木のような観覧車』より断然『観覧車みたいな木』の方が、ぴったりくる。彼女のこの何気なくつぶやいた比喩は、村上春樹に影響されただけだったのかも、とふと考えた。

国道141号を韮崎に向かう道、左側の木のことです。

昨日は、所用の帰りに通った道で、野焼きをしていました。

野焼き。村上春樹なら、どんな比喩で表現するんでしょう。

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彼女の『センス・オブ・ワンダー』

実家の父から、電話があった。昨日まで上の娘が世話になっていたことは判っていたので、礼を言ったが、肝心の娘はまだ帰っていない。今夜は友人カロリナの家に泊まるとメールがあった。飲み会だそうだ。
「忙しい子だねぇ」父は、目を細めるように言った。
「今朝、握り飯、持たせてやったんだ」とも。
TOEICの試験で、上京していたのだ。そのついでに友人と会い「二日酔い~」とfacebookにアップしていた。連チャンということか。

学友カロリナは、ポーランドから将棋を学びに来ている女子で、英会話サークルで仲良くなったという。「ベッドは貸さないよ」と言われても、娘は寝袋を持って「気にしなくていいから」と、泊まりに行く。たこ焼きやお好み焼きパーティも、カロリナの部屋で娘が企画し楽しんだらしい。
家族5人分の寝袋は、今、和室の押し入れにしまってある。娘はいつ寝袋を出したんだか。だいたい、寝袋持参の女子大生ってどうよ?

寝袋から、家族でよくキャンプした頃を思い出し、レイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)を思い出した。タイトルは文中で「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と訳され、子どもにとって「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと、レイチェルはかいている。
「もし、あなた自身は自然への知識をほんの少ししか持っていないと感じていたとしても、親としてたくさんのことを子どもにしてあげることが出来ます。たとえば、子どもと一緒に空を見上げてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空に瞬く星があります」

幼い頃いく度もキャンプし山のなかを走り回ったことや、田舎で暮らし毎日1時間近く歩いて学校に通ったことや、晴れた空の下八ヶ岳から吹き降ろす雪を見た瞬間や、そんないろいろが、今の彼女を形成するパズルの1ピースとなっているのかもしれないな、と考えた。
「ヨーロッパを自転車で回るなんて、無茶なんじゃないの?」
と思いつつ、彼女が借りた自転車と、忙しく走り回る娘を眺める日々である。

玄関を占領している、2台の自転車と、キック・スクーター。

久しぶりに読みましたが、新しい発見を、そこ此処に感じました。

娘が小学校の頃、嬉しそうにバリバリ踏んで歩いていた凍った堰。

凍っては溶けてを繰り返している、堰沿いの朽ちた木に生息する苔達。
  
そして僕と過ごした毎日が何より、姫にとってワンダーでしたよね。
「びっきー、散歩行くよー」と言われると、嬉しくてついつい、
はしゃいで逃げ回って、姫はリードを付けられず困っていましたね。
僕も、子どもだったなぁ。
ちい姫には最近まで、そうやって遊んであげていましたけれどね。
左の写真を、おとーさんが部屋に飾ってくれました。
おかーさんは「反省びっきー」なんて言うんですよ。ひどいなぁ。

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掏摸と『ハイビスカス・ブレンド』

スタバの『ハイビスカス・ブレンド』にハマっている。
ストレート・ホットティーが何種類かあり、普通の紅茶に分類されるものは『イングリッシュ・ブレックファースト』『アールグレイ』日本茶は『ほうじ茶』インド産の紅茶にジンジャー、シナモン、ブラックペッパーをブレンドした『チャイ』ハーブティーに『スペアミント・グリーン』と『ハイビスカス・ブレンド』がある。
『ハイビスカス・ブレンド』には、ハイビスカスはもちろん、シナモン、レモングラス、ローズヒップなどがブレンドされていて、きりっとした酸味が味わえる。カフェインレスで、身体も温まり、疲れている時にぴったりのお茶だ。

なので最近、注文する時にもスムーズだ。
「ホットのハイビスカス・ブレンドをトールで」と、メニューを見ずに頼む。
すると、店の女の子に「ハイビスカス・ブレンド、お好きなんですか?」と、聞かれた。
「ここんとこ、いつもこれなの」と、わたし。
「美味しいですよね」と、彼女は笑顔を向けるが、少し面食らった。
「でも、どうして?」と、つい聞いてしまう。オーダーを受ける度に、客に聞いている訳ではなかろう。
「いえ、あまりに迷わず、注文されたので」
なるほど、と合点する。人は見ていないようで、いろいろなことを見ている。もしここに刑事の聞き込みが入ったら、あの子はわたしのことを覚えているんだろうなと思い、ちょっと悔しくなる。存在を消すためには、スタバで注文する時さえ、メニューを見て少し迷い、指差したりしつつオーダーしなければ返って目立ってしまうのだ。

今『掏摸(すり)』(河出文庫)を読んでいる。中村文則の大江健三郎賞受賞作だ。これが面白い。刑事の聞き込み時に、まるでそこに居なかったかの如く存在を消す練習をするのもまた、面白そうだ。
とりあえず、スタバでは「えーっと」と言い、メニューを見ることにしよう。

濃い赤が綺麗なハーブティー。風邪の喉にも、よさそうです。

「濃厚な時間は、その人間に再現を求めるんだ。もう一つの人格を持ったみたいに。またあの感覚を、またあの感覚をって、自分に要求してくる」
主人公の掏摸仲間で、行方知れずになった石川のセリフです。

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サボテンの棘ほどの些細な幸せ

「僕たちは、サボテンだ」
宮部みゆきの短編小説『サボテンの花』に出てくる印象的なセリフだ。
「誰にも、剪定されないから」
6年1組男子の、クラスみんなを代弁したような言葉。

その言葉に、ハッとさせられた。
剪定されて生きてきた自分と、剪定されまいと生きてきた自分を、瞬時に天秤にかける。枝を伸ばせば、ハサミだらけの世の中だ。あっちで切られ、こっちで切られ、縮こまってやり過ごすしかないと思い知らされることばかり。
それでも。

「私だって、サボテンだ」
教頭が背筋を伸ばして、自分に宣言するシーンがある。6年1組のサボテン達が、彼は好きなのだった。

十何年かぶりに読んだ短編小説だが、今読んでも新鮮で、わくわくした気持ちのまま読み終えることが出来た。ハッとさせられたり、涙したり、くすりと笑ったり、やられた! と展開の意外性に悔しがったり。こういうサボテンの棘ほどの些細なことに、小さな幸せ感じる、クリスマス。
「いやぁ、本って、本当にいいもんですねぇ」
と、思いっきり、水野晴郎さんを真似てみたくなった。

『サボテンの花』は『我らが隣人の犯罪』(文春文庫)に収録されています。

「この世に一つしかない酒。そんなものがもしあるなら、飲んでみたい」
それが、教頭の夢でした。わたしは最近、小さな夢のひとつ、
「オニオングラタンスープを食す」を、叶えました。
美味しかった! サンタさん、ありがとう(笑)

で、クリスマスだからって、新刊2冊も買っちゃいました。
亡くなった天野祐吉さんの『CM天気図』は、
いつも楽しみに読んでいた、朝日新聞のコラムです。

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ふと思い出す小説

何かのきっかけで、小説のワンシーンを、ふと思い出すことがある。
例えば雪が積もれば、朝倉かすみの『田村はまだか』(光文社文庫)札幌ススキノでスナックをやっているマスターの耳たぶを触る癖を思い出し、衣替えで半袖になった中学生を見れば、山本文緒の『絶対泣かない』(角川文庫)に収められた短編『今年はじめての半袖』のラストシーンで、主人公が震えながら半袖から出たひじをさするシーンを思い出す。

そんな風にして、村上春樹の『カンガルー日和』(講談社文庫)のなかの短編『鏡』を思い出した。
百物語的に、みんなで不可思議な体験談や本当にあった恐い話をしているという設定で、主人公の僕は、その家の主。最後に「鏡」の話をする。

「煙草を3回くらいふかしたあとで、急に奇妙なことに気づいた。つまり、鏡の中の僕は僕じゃないんだ。いや、外見はすっかり僕なんだよ。それは間違いないんだ。でも、それは絶対に僕じゃないんだ」

よくある話なのに、鏡を見てふと思い出すのはそのシーン。自分じゃない自分が鏡に映っている。そしてもうひとりの自分は自分をひどく憎んでいるのだ。

思い出したのは、洗面所の鏡に映った自分の顔が、ずいぶんと疲れて見えたからだ。いけない、いけないと、ゆったりと風呂につかり、久しぶりにパックした。鏡のなかのわたしの憎しみ、少しは解消されたかな。
  
猫は、トイレの壁に。トカゲは、玄関。京都の藍染めの暖簾が映っています。
いや、映っているのは、本当に藍染めの暖簾なのか? ふっふっふっ。

久々に読んだ『カンガルー日和』面白かった!
『タクシーに乗った吸血鬼』のイントロ部分の比喩に、春樹節を感じました。
「他人とうまくやっていくというのはむずかしい。玄関マットか何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える」

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渇きに、気づいて

いつの間に、渇いてしまったのだろう。
このところ、本を読めずにいることは、うすうす気づいていた。気持ちがざわついて、落ち着いて本を開く気持ちになれなかったのだ。

久々に本屋を闊歩し、そんな、気づかずにいた小さな渇きに気づいた。
「読みたい本が、見つからない」
突き付けられた事実に、愕然とする。小さなことと思う人も多いだろう。だがわたしにとって、海よりも空よりも、大きく大切なことなのである。
30分ほど、本屋を歩き回った。
「伊坂を再読しようか」「川上弘美の読んでいない小説もある」
考えに考え、ようやく手に取ったのは、恩田陸の『朝日のようにさわやかに』(新潮文庫)短編集なら、恩田陸なら、読めるだろう。

自分的ルールに反し、表題作のラスト1編から読み始めた。
思い出せそうで思い出せずにいた、ずっと引っかかっていたものを、不意に思い出した瞬間を描いている。ミステリー要素が微かに匂う、独り言に似た掌編だった。

それでも久しぶりに読んだ初めて読む小説は「本っていいなぁ」という気持ちを、わくわくする心持ちを思い出させてくれた。
いつの間にか渇いてしまった川に、水が流れ始めた。堰を切るというような圧はないが、水は確かに流れ始めたのである。

珈琲屋さんで読む本は、家で読むのと違う感じがします。

「オランダのビールに、グロールシュという銘柄がある」から始まる
短編でした。カルディに寄ってみましたが、並んでいるのは、
ベルギービールばかり。イングランドビールも1本買いました。

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銀杏を見て、思うこと

銀杏を観に行こうと思いつつ、時を過ごしてしまった。
所用で甲府に出た際立ち寄った、銀杏スポット、山梨県立美術館の駐車場では、すでに多くの葉が散ってしまっていた。
それでも見上げる銀杏の木は、「間に合ったね」と言うように、秋の空とのコラボレーションを楽しんでいるかのように見えた。

よしもとばななの小説に『デッドエンドの思い出』(文春文庫)がある。
表紙は銀杏の葉が敷きつめられた公園のような場所で、子ども達ふたりが走っている。写真を加工したものだろうが、そのふたりが如何にも楽しげで、温かくカラフルなフリースで身をまとい、幸せを絵に描いたような雰囲気なのだ。

婚約者に裏切られボロボロになった心で、ただ時間が過ぎるのを待つように寝たり起きたりするだけの主人公、私。身を寄せたのは親戚が経営する『袋小路』という名のクラブでもバーでもないような小さな店の2階で、事情を知る雇われ店長の西山君だけが、ぽつりぽつりと話をする相手だった。
「幸せって言うと何を思い浮かべる?」と、私。
晴れた秋の日、公園の芝生でふたり座って話していた。
「私は、のび太くんとドラえもんを思いだすな」と、答えを待たず、私。
のび太の部屋で、漫画を読みながらどら焼きを食べている。そのふたりの関係性とか、折った座布団を枕に寝転がっている様子とか、中流家庭の雰囲気とか、ドラえもんが居候であるとかすべてを含め、そこに幸せを感じると話す。
それを読んだ時に、うんうん、わかるなぁと思った。

最近だと、たとえば、上の娘の英単語のテストを手伝っている。彼女がかいた連語30ほどをランダムに並べ替えてかくだけだ。順番を変えても覚えられるようにしたいのだと言う。その娘の字が、判読不可能なことが多く困る。
「きみの字、cなのかeなのか、vなのかrなのか読めないよ」と、わたし。
「えー、お母さんの字だって読めないよー」と娘。
「読めないのは適当にかいたから、スペル違ってたのあったでしょ?」
「それが、全部あってたんだよ」「うそ。それは、謎だ」「謎だ」
娘とのそんな時間にのび太とドラえもんが「私」に感じさせた幸せを重ね、あ、これかも。今、幸せかもと思ったりした。
  
銀杏は、秋の高い青空に似合う、立ち姿をしています。
西山君は空を見上げ「自由な感じかな」と答えました。
自由って、いったい何だろう。

銀杏(ぎんなん)可愛いし、美味しいのに、匂いだけ強烈ですよね。

銀杏(ぎんなん)拾いをする人の姿も、ありました。

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独特のユーモアとペーソスを、いっぱいに浴びて

東京に出た帰り、六本木で『スヌーピー展』に寄ってきた。
漫画『ピーナッツ』の個性的なキャラクター達が創りだす、独特のユーモアあふれる世界が大好きなのだ。
1万7千以上のなかから厳選したという約100点の漫画達が、テーマごとに分けられて展示されていた。
にやっと笑い、ふふふと笑い、あーあとため息をつき、なるほどーと感心したりしながらまた、くすくす笑い、ゆっくりと観て歩いた。

主人公は「おなじみいいやつ、チャーリー・ブラウン」何をやっても上手くいかない彼だが、お人よしだということだけは確か。
(GOOD OL’を「おなじみいいやつ」と訳した谷川俊太郎は、すごい!)
飼い犬スヌーピーは変装が得意な皮肉屋だし、おしゃべりでわがままなガミガミ屋女子、ルーシーや、ベートーベンマニアのピアニスト、シュローダー。安心毛布がトレードマークのライナス、「関係ないでしょ」が口癖で気が強い妹、サリー。他にもたくさんの不思議なキャラクターが、揃っている。

『ピーナッツ』このタイトルは、いつもそこにある小さな世界との意味があり、パンフには「一粒一粒毎日美味しい」とかかれていた。
キャラクターも然り。凝縮されたワンシーンも然り。
だが、キャラクターやユーモアだけじゃない。登場人物達が時折見せる大人びた顔が切なく、大人になっても共感できる部分は大きい。彼らの人生観を不意にのぞかせたような、そんなシーンに魅きつけられた人も多いはずだ。
チャーリー・ブラウンが、ベッドのなかで眠れずにいる作品に目を止めた。

 夜眠れずに問いかけることがある。「何故僕は此処にいるの?
 いったい何が目的なんだ? 僕の人生には意味があるのか?」
 すると声が聞こえる。「やめてくれ! そういう問いかけは苦手なんだ!」

自問自答である。そして彼のお腹の上では、スヌーピーが気持ちよさそうに眠っているのだ。余計なことを考えてしまうことが誰しもに在り、余計なことを考えるのはやめようと思うことも誰しもに在り、説明するのも野暮だよなぁと思うしかないほど、シンプルな絵と短い言葉でそれを見事に表現している。

短い時間だったが、独特のユーモアとペーソスを、いっぱいに浴びて、帰り道、いつになく胸がすっきりしているのを感じた。
  
最後の部屋は撮影OK。大きなフィギア(?)が並んでいました。

天井近くの壁に大きく描かれた、味わいある一コマ漫画。
  
ご先祖様の絵かな? スヌーピーが、8匹兄弟だと初めて知りました。
初期の頃の絵もまた、可愛いんです。

様々な広告にも使われています。フォード社の車、ファルコンにも。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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