はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11

『田村はまだか』

朝倉かすみ『田村はまだか』(光文社文庫)を、再読した。
雪が降ると読みたくなる小説は多々あれど、この冬真っ先に開いたのは、これだった。舞台は、北海道、札幌。
「札幌である。ススキノである。一杯呑み屋やスタンドが重なるように軒をつらねる狭っ苦しい小路である」からスタートする。
季節は3月。小学校の同窓会から流れてきた5人が集う、スナックのカウンター。年の頃は40だ。
「田村はまだか」繰り返されるのは、その言葉。
どうやら彼らは、同級生だった田村を待って飲んでいるらしいと、齢44のマスター花輪は、静かに酒を淹れるのだった。
ひと言でいえばいいやつ永田。腕白小僧の面影を残す池内。むかし田村が好きだった千夏。要領よく立ち回り過ぎて人生の要領を見失っている坪田。浮気がばれ離婚したばかりの祥子。5人はみな、田村を待っていた。
「ほんとうはなにもないんだ」「どうせ死ぬんだ」
ぶつけるように言い、泣きじゃくる大人びた女子、理香に彼は言った。
「どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか」
小6の教室で、田村が言った言葉は、それぞれに衝撃的だったのだ。

小説は、田村を語り、5人それぞれとマスター花輪の事情を、明らかにしていく。みなもう、小学生ではない。田村と過ごした時間より、その後の時間の方が遥かに長い。だがみな、卒業以来会っていない田村を待っていた。花輪も、会ったこともない田村を、彼らと共に待ちかねるような気持になっていた。
春まだ遠い3月のススキノ。寒さから遮断された小さなスナック。
その場所を連想しつつ、真冬の温かな部屋でページをめくりながら、正反対とも同じとも思えるふたつのことを考えた。
「人はいずれ、死ぬんだ」そして「わたしは今、生きているんだ」と。

読み終えると、最後のページに、レシートが挟まっていました。
4年前のちょうど今頃の日付け。やはり、冬に読みたくなる小説なんですね。
あの時、書店の壁いっぱいに立てて並べてあったのも冬おススメだからかな。
雪が降る冷たい夜に、どうぞ。

拍手

『すべてがFになる』

その話をすると、末娘は、顔をしかめた。
「知ってるよ。観ないけど」ぶっきらぼうに、言う。
森博嗣の推理小説『すべてがFになる』(講談社文庫)ドラマ化の話である。
彼女は、高校時代から、この『すべてがFになる』から始まるシリーズのファンだったのだ。
主人公、犀川創平と西之園萌絵のイニシャルから名づけられたS&Mシリーズは10冊あり、その他にシリーズの関連人物が登場するVシリーズも10冊。Fで登場する天才、真賀田四季を主人公としたものが春夏秋冬、4冊ある。
そのすべてを読み、心酔していた。彼女の話のなかには、まるで友人の話でもするかのように「犀川先生がね」「萌絵がね」と、二人の名が登場するので、ついにわたしも、シリーズ1冊目『すべてはFになる』を読んだのだった。娘と同じ本を読み、その話をするのは楽しいものだ。

主人公達は、工学部建築学科の助教授と、その学生。理系な二人である。
萌絵が16歳の時、彼女の両親は死んだ。飛行機が着陸寸前に墜落し、空港で待っていた萌絵は、目の前で両親を亡くしたのだ。そのせいか彼女は人の死に鈍感になっていて、様々な殺人事件に首を突っ込み、理系的な発想を効かせ、推理を重ねるという設定。その萌絵の推理も、犀川にはかなわないのだが。

末娘が特に気に入っていて、何度も話してくれたエピソードがある。
萌絵の父親が大学教授だった頃、犀川は学生で、その授業をとっていた。
初めて西之園教授の授業を受けた時「予習をしてきたか?」と聞かれ、犀川が代表する形で「していない」と答えた。すると「じゃあ、来週までに1章の予習をしてくること」と言って、教授は教室から出て行った。次の週、予習をしていくと「わからないところはなかったか」と聞かれたが、誰も質問をしなかった。教授は「わかっているのなら、私にできることはもうない」と、教室を出て行った。犀川は、必死に予習をして、次の週、質問した。すると教授は、4週分の授業をかけて、犀川に質問に答え、4週目に学生達に向け「次の質問はないか」と言ったのだという。

「こんな先生が、いたらいいのになぁ」
文系に進んだが、数学が得意であり好きだった彼女は、うっとりと言ったものだった。そんな彼女にしたら、売れ線俳優起用のドラマ化に、いい顔できる訳がない。しかし、1冊しか読んでいないわたしは、ドラマ化の恩恵に預かり、S&Mシリーズを楽しんでいる。娘と同じ本を読むのは楽しいが、何しろ、森博嗣の本は分厚い。文庫のくせして、どうしてこんなに重いの? と文句を言われる作家の一人だろう。それで、手が出せなかったのだ。もう一人の分厚い文庫代表である京極夏彦も、娘はやはり読んでいて、わたしはそれを遠くから眺め、まあこっちはドラマ化しないでやってくださいと、ただ祈っている。

ドラマ仕様のカバーが、上に被せてありました。
主演の二人は、わたし的には、適役だと思います。
レゴブロックの装幀、シンプルでかっこいいですね。
読み直してみて、あらためて人物描写の面白さに、気づきました。

拍手

『イニシエーション・ラブ』

乾くるみの恋愛小説『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)を、読んだ。
「最後の2行は、決して先に読まないでください」という注意書きに、まず注目。恋愛小説だが、ミステリーだという意見もあるとも聞き、どちらとも好きなわたしには、ずっと気になる存在だった。10年前に刊行された小説だが、ここまで読まずにきたのは、多分表紙の「若者の恋」色の強さからだと思う。

読み始めてみれば、時代設定は1986~7年。章のタイトルも、その頃の流行歌「木綿のハンカチーフ」「ルビーの指輪」などで構成され、それを集めたA面とB面とに分かれていてレコードの時代を懐かしく思い出させてくれた。

合コンで知り合った大学生、鈴木夕樹と歯科衛生士、成岡繭子。二人は、ごく自然に恋に落ちていく。A面は、本当に普通のラブストーリーを楽しめた。
だがB面、遠距離恋愛の二人に、胸を傷めることも多かった。わたし的には、これは恋愛小説だと言いたいが、ラスト2行に仕掛けられた罠には最後まで気づけなかった。ミステリーだと言われれば、否定はできない。その仕掛けは、読んで知るべきものなのでかかないが、テーマは、大人になる過程での恋。
以下本文、鈴木に恋した美弥子のセリフから。

「そう。子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、彼は別れ際に私にそう言ったの。初めての恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には、この世界には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの」

うーん。大人になるのって、難しいなぁ。

いただいたスノーマンクッキーと紅茶で、読書タイム。
でも、コージーミステリーだと高をくくっていると、やられます。
けっこうヘビーで、お酒飲みたくなるストーリーです。

拍手

『ハルフウェイ』

以前映画館で観た映画『ハルフウェイ』を、DVDで観た。
上映された頃、北川悦吏子脚本・監督で、岩井俊二がプロデュースしたと聞き、東京に出掛けた際に渋谷の小さな映画館へ観に行ったのだ。なんと観客は、わたしと、OL風の女性が二人のみ。3人貸し切りという映画みたいなシチュエーションだったが、心に残るというよりは、瞼の裏に残る、ワンシーンワンシーンが、切なく美しい映画だった。

北海道の高校に通うヒロ(北乃きい)とシュウ(岡田将生)の淡い恋のストーリー。二人は3年生。ヒロの片思いを知ったシュウが告白し、つきあい始めるが、地元で進学するヒロは、シュウが早稲田を受けることを知り、傷つく。自分を置いて東京に行くのかと、怒る。そんな二人の卒業までを描いた、ただそれだけ? と言えば、ただそれだけの映画だ。
だが、ふたりで歩く川沿いの道からは、川に映る空に雲が流れていき、悩みながらも理科室でシャボン玉を吹く女子達の笑顔は、シャボン玉のように儚げで、テニスコートの審判台に上ってふざけあう二人のシルエットや、仲直りした雨上がりの校庭にできた水たまりに映る夕焼けや、落ち葉だらけの土手に寝転んで作った落ち葉の顔や、魅きつけられて、微笑みつつも、胸が苦しくなるようなシーンで、いっぱいだ。
タイトルは、二人で勉強をするシーンで、ヒロが英語の問題を出す。
「途中」シュウは判らず、ヒロが答えを言った。「ハルフウェイ」
正解は「halfway ハーフウェイ」なのだが、二人は「ハルフウェイ」の方がかっこいいねと言い合い、そう覚える。
二人の物語の途中を描いた、大好きな映画の一つである。

翌日、車で走っていて不意に「そうだ。ここも、途中なんだ」と思い、前と後ろを、交互に見た。どちらにも道が伸びていた。
そして「うん。今だって、まだ途中なんだ」と思えた。
もし道が突き当ったら、そこが終点か。いや、谷川俊太郎が詩にかいていた。
「みちのおわったところでふりかえれば みちはそこからはじまっています」

向かっていた南側は、薄く暮れかかっているようだったのに、

北側を向くと、明るくて驚きました。太陽が南にあるからかな?

拍手

『ヘヴン』

川上未映子『ヘヴン』(講談社文庫)を、読んだ。
学校で、日常的に暴力を受け続けている、14歳の僕のふで箱に、ある日手紙が入っていた。「わたしたちは、仲間です」
それは、同じクラスで女生徒達から苛めを受け続けている女子、コジマからだった。ふたりは、ひっそりと手紙のやり取りをするようになり、学校ではない場所で会うようになる。
しかし、恐怖で眠れなくなるほどの酷い暴力を受けてから、僕は、コジマと会うことも、手紙の返事をかくこともできなくなっていく。以下本文から。

「子どものころさ、悪いことをしたら地獄に落ちるとかそういうこと言われただろ?」と百瀬は言った。
「そんなもの、ないからわざわざ作ってるんじゃないか。なんだってそうさ。意味なんてどこにもないから、捏造する必要があるんじゃないか」
と百瀬は笑った。
「弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ」
「誰に、……そんなことがわかるんだ」僕は声をしぼるように言った。
「ふつうの頭を持ってたら誰にだってわかるさ」と百瀬は笑いながら言った。
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」

読んでいて、鉛でも飲みこんでしまったかのように苦しかった。だが、最後まで読まずには、いられなかった。
読み終えることができたのは、主人公の僕が持つ、心の温かさを、常に感じられたからだと思う。コジマに対して、また、義理の母親に対して。
苛めを中心に据えているが、人が生きることの意味を問うている小説だ。
丸かったはずの心に、いつしかひびが入り、欠けて角ができていく。読みながら、忘れていた自分の心の尖った部分に、触れる瞬間を、何度も感じた。

『すべて真夜中の恋人たち』の広告が、入っていました。
川上未映子、意志の強そうな、綺麗な顔をした人ですね。

拍手

『謎解きはディナーのあとで』

東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』(小学館文庫)を読んだ。
そして、映画も見た。これでやっと、世間に追いつけた気がする。それほどに、売れていた訳で、映画はドラマ版の続きであり、無論1回読み切りタイプになっていたが、1冊読んだだけでは追いつかない設定などもあった。
まあ、映画を観たのはおまけ、というか、椎名桔平が出ていたのが理由で、かっこいい役なら尚更よかったが、三枚目役も個性たっぷりこなすいい役者であるなぁと、再認識し、ただただ楽しんだ。

主人公は、大財閥の令嬢という身分を隠した新米刑事、宝生麗子。その上司、風祭は、中堅自動車メーカーの御曹司だということを、ことあるごとに鼻に掛け、推理はあさっての方向に飛ぶ、出来ないやつ。事件迷宮入りも茶飯事かと思われるコンビだが、それでは小説にならない。救世主は、麗子の執事兼運転手、影山。彼は、麗子の話を聞くだけで、ディナーをサーブしながら、事件の謎を解いてしまうのだ。世に言う「安楽椅子探偵」事件現場に足を運ばず、聞いただけで謎を解いてしまう探偵役をそう呼ぶ。

6話の連作短編になっていて、気軽に読める。殺人事件は登場するが、紅茶を飲みながらゆったりくつろいで読めるといわれる、殺人のないコージーミステリーに近いモノを感じた。それは、惜しみなく繰り広げられる上質なギャグの応酬のせいに他ならない。くすくす笑いながら読みつつも、謎解きは、ハッとさせられるものばかりだ。

聞くことだけで判ることは、そう多いとは思えない。諺にも『百聞は一見にしかず』とある。しかし、安楽椅子探偵にはなれずとも、周囲の話にもっと耳を傾けてみたら、今まで判らなかったことも見えてくるかも知れない。そして、安楽椅子探偵には、話し上手な情報提供者が必要だ。相手が判るように話すこともまた、大切なことなのだ。
まあ、わたしが安楽椅子探偵になることはないとは思うが。

今つかえつつ読んでいるのは、川上未映子の『ヘヴン』
読もうと思って、ベッドに置いたままの『イニシエーション・ラブ』
3冊とも表紙に、それぞれの個性が出ていますね。

拍手

『密室の鍵貸します』

東川篤哉『密室の鍵貸します』(光文社文庫)を、読んだ。
『謎解きはディナーのあとで』(小学館)が、大ヒットした作家のデビュー作だ。『ディナー』の方は、というと、まだ読んでいない。普通なら、平積みされたヒット作から読むのだが、ヒットした本にまとわりつく評価に惑わされたのだ。売れた本は、たくさんの人が読み、言いたいことを言う。
「言うほど、おもしろくないじゃん」「読んで、損した」
「ドラマのキャスト見た? 桜井翔なんだよね、キライー」
などなど、言いたい放題であるが、ヒット作の宿命とも言えよう。だが、楽しんで読む人が多いなか『ディナー』について言えば、そんな声が友人知人から聞こえてきてクローズアップされ、わたしの耳に大きく響いた。なので、これまで何度となく目の前を通過しつつも、避けて通ってきた訳だ。
我が道を行こうと心に決めながら、周囲に惑わされつつ生きている優柔不断さに呆れつつも、そんな自分を情けなくも再確認する。

それを払拭したのは、本屋で見かけた『密室の鍵貸します』のタイトルと、帯の文句だった。「烏賊川市(いかがわし)は私の本籍地である(著者)」
遊んでいる。舞台の名からして、意味なく「いかがわし」い。タイトルも名作映画『アパートの鍵貸します』からとったことは、明白。同シリーズの第2弾のタイトルは『密室に向かって撃て!』もちろん『明日に向かって撃て!』からつけられたものだ。真剣勝負で、遊んでいる。そこに、感動すら覚えた。
上質のユーモアとは言えずとも、上質のギャグ炸裂の予感。文庫本を手に、そのままレジに向かった。そして無論、予感は的中し、ベッドのなかで夜中まで、くすくす笑いながら読んだのだった。

主人公は、映画学科に通う大学生、流平。彼を振った恋人が殺された同夜、部屋を訪ね一緒に飲んでいた先輩が、気づかぬうちに浴室で刺され、死んでいた。気づいた時にはドアにはチェーンがかかっていて、部屋は完全密室状態。なかには先輩の死体と流平だけ、というマズイ状況に陥り、当然の如く、恋人殺しの疑いもかけられるわで、もう逃げるしかなくなって・・・。

「ああ、ユーモア(上質のギャグ)ミステリーって、いいわぁ」
連打されるくだらないユーモア(上質のギャグ)に、心くすぐられ、急ぎ『謎解きはディナーのあとで』を買いに走ったことは言うまでもない。

『ここに死体を捨てないでください!』は、烏賊川市シリーズ第5弾。
文庫の表紙も、漫画っぽいのとミステリーっぽいのと、2種類ありました。

拍手

『すべて真夜中の恋人たち』

何度も、息を飲んだ。こんなに美しい文章は、読んだことがなかった。
川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社文庫)
時に、描写の美しさに圧倒され、読み進めなくなり、中断を余儀なくされた。以下本文から。

人からみればなんでもない夕方と夜のさかいめを、けれどもふたりでゆっくりときりひらいていくように思えてしまう青い薄暮は、つかのま、三束さんとわたしをおなじ色にした。三束さんはいつもおなじように手をふって、いつもおなじように階段への角をまがって消えていった。わたしは何か言いたいのだけれど、もっと何かを伝えたいのだけれど、それが言葉になるまえに、それが音になって空気をふるわせるまえに、三束さんはいつだって角をまがって消えていくのだった。

ただ喫茶店で珈琲を飲み、話をするだけの冬子と三束(みつつか)さん。恋人同士ではないが、冬子は想いを募らせていく。またすぐに会えると知りつつも、別れの瞬間が淋しくてたまらない。そんな本当になんでもないシーンにさえ、ハッとさせられた。

読んでいて、胸が、ざわざわした。
自分が言葉にできない、できなかった感情や時やモノや、様々な事柄が、ああ、そうだよなぁと思えるような文章で表現されていく心地よさが、すっと胸に入ってくる瞬間、痛みを感じるのだ。それは、冬子の痛みでもあり、自分がこれまで経験してきた何かが持つ痛みでもあった。

人を好きになるって、そうだよ、こんなに苦しいものだったんだよ。うん、そうだ。と、久しぶりに思い出した。

先日訪ねた、二十歳になったばかりの末娘の部屋で見つけた文庫本です。
「川上未映子、読むんだ―?」と、わたし。
「けっこう読むよ。これなんか、読みやすいよ」と、娘。
娘よ、ありがとう。教えてくれて。本とのご縁も、また不思議。

拍手

『誰かが足りない』

「あ、シンクロ、してる?」
以下の文章を読んだ時に、真っ先にそう思った。昨日ブログにかいたこと、それは一昨日聞いた話でもある。

しあわせな記憶がこの人を支える。思い出せるしあわせだけではない。思い出せない無数の記憶によっても人は成り立っているみたいだ。しあわせだったり、そうでなかったり、うれしい思い出も、悲しい欠片も。
美しい記憶がそのままその人の美しさを支えるわけではないように、悲しい記憶が人のやさしさを支えることがあるように、いいことも、悪いことも、いったん人の中に深く沈んで、あるとき思いもかけない形で発露する。

宮下奈都の連作短編集『誰かが足りない』(双葉文庫)のなかにでてきた、小説の一部。ブログをかいたあとに衝動買いした文庫本だ。
しかし、こういうことは、ままある。テレビを観ながらしゃべっていて、突然ドラマの登場人物と同じ言葉をハモってしまった経験はないだろうか。
ただ、そういう時にふと、思うのだ。
「何かが作用しているのか? これは、メッセージなのか? 宗教は持たないけれど、神様っているのかも。何処かで、笑って観ているのか?」
などなど。その答えが、出たためしはないけれど。

小説のキーになるのは「ハライ」という名のレストラン。初めて扉をくぐった人にも懐かしく感じられ、一度料理を食べたら生涯その味は、忘れられない。特別な時に、特別な人と、食事を共にしなくてはいられなくなる場所だ。
この物語は、秋も終わりの夜、そこに偶然居合わせる6組の客達の、その時に至るまでのドラマを描いた6編の短編集である。

『予約1』会社が倒産し田舎に帰ることもできずコンビニで働く若者は、副業で偽のパワーストーンを売るうちに、自分自身が偽物のような気がしてくる。
『予約2』夫が死んだことを何度も忘れてしまう認知症の老女は、料理をするうちに、昔夫から聞いた「ハライ」のことを思い出す。
『予約3』係長になり仕事とストレスが増えるだけの生活に疲弊する女性は、これまで幼馴染みの男の子を、理解しようとしなかった自分に気づく。
『予約4』母親が急死してから、部屋に引きこもるようになった男子高校生は、ビデオを回すことでしか、外界を見られなくなってしまう。
『予約5』忙し過ぎるブッフェレストランで、硬くなったオムレツを温め直す日々に、頭痛や腹痛を起こしながら働くコック見習いは、ひとりとても美味しそうに食事する女性を見て、ハッとする。
『予約6』他人の失敗を知る嗅覚を持った女性は、古書市で、匂いを感じた知らない男性に声をかける。失踪した叔父のことが頭から離れなかったからだ。

夫の出張中、ひとりで食事をしていると、確かに思う。
「誰かが、足りないなぁ」食卓とは、そういう場所なのかもしれない。
この小説は、そんなわたしへの本の神様からの贈り物だったのだろうか。

末娘が二十歳になったので、お好み焼き屋へ飲みに行きました。
でも、おしゃべりに夢中で、写真を撮るのを忘れてしまいました。
これは、ひとり二次会の様子です。淋しくはないんだけど、
やっぱ『誰かが足りない』?

拍手

『雨』(『いくつもの終末』より)

秋の雨が、しっとりと降っている。
音もなく降るものだから、一昨日は洗濯物を濡らしてしまったが、大きな被害はなかった。静かな秋の雨は温かく、気持ちが落ち着く。

作家、江國香織は、雨が降り始めると、窓を開けて雨を見るそうだ。エッセイ集『いくつもの週末』(世界文化社)で、かいている。以下本文から。

雨が好きで、雨が降ると雨をみる。窓を開けて眺めるのだ。雨の音をきいて、雨の匂いをかぐ。うちでは母も妹もそうだった。小さな庭やお向かいの屋根、みなれた風景が濡れるのをみる。光るアスファルト、低い空、たっぷりと水を吸い、葉っぱの一枚一枚をふるわせている木。私たちはみんな雨が好きで、雨が降れば窓を開けた。

このエッセイ集は、江國香織が、自らの夫婦生活を描いたものである。
彼女が、雨に興味を示さない夫を不思議に思うように、彼もまた、雨が降る度に窓を開けて眺める妻を不思議に思っていたらしい。

わたしには、雨を見る習慣はないが、雨の庭を歩く度、このエッセイを思い出す。庭に降る雨は、土の匂いを感じさせてくれる。雪のように一瞬にして世界を変えるような魔法を、雨は持たないが、感じようとする人にだけ、小さなプレゼントをする用意は、いつでもできているようだ。

マツボックリは笠をぎゅっと閉じ、ドングリと寄り添っています。
白いお花のようなきのこが、あちらこちらに生えていました。

ホソバウンランは、春からずっと種を落としては咲いています。
花を咲かせつつ、種もしっかり作っているようです。

ツユクサは、すっかり花を終わらせて、種を落としています。

最後のシロツメクサかな。ひとつだけ、ひっそりと咲いていました。

葉には、たくさんの雨粒が、キラキラ光っています。

薔薇の若い棘って綺麗。雨粒がちょこんとのっていました。

拍手

『もう二度と食べたくないあまいもの』

井上荒野の短編集『もう二度と食べたくないあまいもの』(祥伝社文庫)を、読んだ。
タイトルに魅かれ衝動買いしたのは、自分が甘いものが食べられない体質になってから、もう長く、それがコンプレックスになっているからだ。
しかし、小説のなかには甘いものは登場しなかった。このタイトルは、一つの短編を表題作としてつけらえたものでさえなかった。
ここでいう「甘いもの」とは「恋」なのである。それを二度と食べたくないというのだから、描かれているのは「甘いもの」ではなくなった男女の関係だ。

『奥さん』では、移動販売でカレーを売る男が、団地で集まる気に入った奥さんと、とっかえひっかえ情事を繰り返す。挙句、奥さんの一人に告発されることになるのだが。以下本文から。

四号棟の奥さんの仕業であることは、火を見るよりもあきらかだった。いやなことをさせてしまったな。彼は心から気の毒に思った。こんなことをするほど傷ついているなんて思わなかった。どうせビラを持ってきたのなら俺がいるときに来ればよかったのに。そうすれば気がすむまで怒鳴られてやったし、あらためて打たれてやってもよかったし、そのあと慰めてやることもできたのに。

『朗読会』では、朗読会で出会った男との関係を続ける美紗と、それに気づいていながら黙認している隆との夫婦関係を、美紗の語りで描かれている。
以下本文から。

裏切っていた? その言いかたは、でもじつは、あまりしっくりこない。道を間違えた、というほうが正確に思える。悪い道にいる。善悪の悪ではなくて、wrong wayにいると感じている。選択を誤ったという意識はなくて、いつの間にかその道を歩いていた。

全編通しての共通項は、答えを示さないこと。その突き放したとも言えるラストには、びっくりするようなどんでん返しはなくとも、小説は、静かに広がるような驚きを感じさせることができるのだという発見があった。

カラフルな明るい表紙が、読み終えた後、悲しく見えてきます。

目次です。どれも、シンプルなタイトル。その潔さにも魅かれました。

拍手

『ガーデン』

近藤史恵『ガーデン』(創元推理文庫)を、読んだ。
主人公は、二十歳を過ぎたふたりの女性。真波(まなみ)と火夜(かや)
生きることへの苛立ちは、純粋な若い心を容赦なく削り取り、痛みはやがて絶望へと変わり、ふたりを引き合わせる。赤髪の火夜は、大学に通う真波の部屋に居つき、蜜月とも呼べる静かな時間を過ごした後、何も言わず出て行った。
そして2週間後、真波のもとへと小箱が届く。そこには、切り取った小指が1本、入っていた。火夜と同じ鮮やかな珊瑚色のマニキュアを塗った、女の指だった。真波は、同じマンションに住む「今泉文吾探偵事務所」を訪ねる。
一方、真波から離れた火夜は、一丁の拳銃とともに、死をまとい、死を見つめ、生きていた。

章立てが、語り手別になっている。真波、火夜、今泉と、一度だけ諏訪。
以下、真波を思う「火夜の章」から。

わたしの刃は外へ向き、彼女の刃は内に向いていた。
たしかなのは、彼女がわたしのようにめちゃめちゃに破壊されてこなかった、ということだ。だから、わたしは彼女がうらやましかった。
でも、冷静に考えてみると、本当に彼女の方が恵まれていたのだろうか。
憎むものを持っているだけ、わたしのほうがましだったのかもしれない。

生きていると、不意に、底なし沼に足をとられそうになる瞬間がある。
そんな底なし沼を、あてもなくさまよう季節もある。
そんな季節を過ごした若い頃を、心痛く思い出しつつ、読み進めるうちに、大人と呼ばれるようになった今でも、いつ足もとがぬかるむか判らない危うさが、すぐ目の前にあるのではないかという思いに捉われていた。

殺人の舞台に選ばれたのは、誰もが息をのむほど美しい庭、ガーデン。
近藤史恵が20代半ばでかいたというこの小説には、若さゆえの揺らぎや、美しい物へのこだわりが散りばめられている。

「ガーデン」とは間違っても言えない我が家の「庭」で撮影しました。

拍手

眠れない夜に『ホテルカクタス』

わたしも、末娘も、数字の2が、好きだ。
数字のなかで、2が一番好き、ということではない。江國香織の小説『ホテルカクタス』(集英社文庫)の登場人物(?)の3人のなかで、数字の2が一番好きなキャラクターだということだ。
ちなみに、あとのふたりは、きゅうりと帽子だ。

何を話していて、そういう話になったのかは忘れたが、ふたりとも『ホテルカクタス』は大好きな小説なので、日常会話にも、自然に登場する。
「数字の2が、眠れなくなる話、あったじゃない?」と、娘。
「えっ? そんな話、あったっけ?」と、わたし。
「えーっ? 覚えてないの? あの話が、一番好きなのに」
「帽子が、競馬で全財産すっちゃう話が、印象的だったからなぁ」
「帰りのバス代なくなっちゃって、2にかぶってもらって乗るやつね」
「で、2が、眠れないんだって、きゅうりと帽子の部屋に行くんだよ」
「それで、きゅうりは?」
「きゅうりのことだから、運動すれば眠くなるよとか、適当なこと言ったんじゃなかったかな?」
と、親しい友人の話でもするかのように、娘。きゅうりは、運動マニアだ。
「で、帽子のことだから」「酒でも飲めとか、言ったんでしょう」
「あ、ラスト思い出した」と、わたし。
「呆れた2は、ああ疲れたって、部屋に帰ってぐっすり眠りましたとさ」
彼女は、眠れない夜に、その話を思い出すと言う。

その、数字の2が眠れなくなる話を、再読した。
すると、きゅうりは「一週間も眠れずにいたら、それは不眠症だから医者に行くべきだ」と言い、がんばって一週間眠らずにいるように励ました。帽子はというと「じゃあ、起きていればいい」と言い、酒に誘った。
途中は多少違っていたが、ラストは娘が覚えていた通りだった。

読み直して、ひとり暮らしの部屋で、眠れない夜に『ホテルカクタス』の3人を思う娘を、想像した。想像し、胸がほっこりした。眠れない夜も、そう悪くはないかも知れない。

「ホテルカクタス」という名の古いアパートに、3人は住んでいました。

久しぶりに会った末娘は、お土産をくれました。
夏休みに、北海道へ旅してきた彼女。「楽し過ぎた」そうです。
夫にはリクエストの「鮭とば」と、何故か私には「ビールキャラメル」

拍手

『谷川俊太郎 一行一ダース』

夫が、会社のボーリング大会で優勝したと、優勝賞品を持ち帰って来た。
鉛筆である。『谷川俊太郎 一行一ダース』とあり、12本の鉛筆に、それぞれ違った言葉が刻まれている。それを「自分で好きに並べて1編の詩にしてください」と、注意書きが添えてあり、面白い趣向だなぁと感心した。

しかし、1編の詩にするには、1本1本の言葉が強すぎる。
いいな、と思ったものをあげると、
「その鉛筆は地平線を引き終えて力尽きた」
「紙がないときの鉛筆の怒りに感情移入せよ」
「芯は鉱物、軸は植物、書き手は動物哺乳類」
「鉛筆が書けないものは、深い沈黙」などなど。
1本1本が、すでに詩、なのだ。

ところで、彼はボーリングがそこそこ上手いということが、今回証明された訳だが、わたしは、大の苦手である。何故、あんなに重い球を、目的地まで転がせるのかが、全く判らない。けれど、ボーリングのピンに、一行詩がかいてあったとしたら、今より狙いが定まるような気がするのだが、どうだろうか。
「鉛筆が未熟な言葉を突っついてる」的な結末が、待っているだけかな。

こんな鉛筆あったんだぁと、驚きました。

言葉が、それぞれ、生き生きしていますね。不思議です。

拍手

『女性秘匿捜査官・原麻希 アゲハ』

『女性秘匿捜査官・原麻希 アゲハ』(宝島社文庫)を読んだ。
『私の結婚に関する予言38』で、日本ラブストーリー大賞・エンタテイメント特別賞受賞の吉川英梨描く警察小説シリーズ第1弾だ。

主人公は、警視庁の鑑識課に所属する原麻希。この家族が、いい味を出している。歳の離れた夫は、同じく警視庁勤務だが、めったに帰って来ない。娘の菜月7歳は、おしゃまで大人びていて母親似の推理眼を思わせる。そして夫の連れ子である健太25歳が、いい。母親を早くに亡くしてからは、帰らぬ父をひとり待つ日々に無口になる一方だった彼は、妹が生まれたことに飛び上るほど喜んだ。そして高校を卒業後、刑事の両親の代わりに、家事育児を一手に引き受ける。トップクラスの高校でトップの成績だったにもかかわらず。そんな健太が、菜月を甘やかし、可愛がる様は、微笑ましい限りだ。

シリーズ第1作目は、そんな家族のすれ違いと絆を、描いている。
健太と菜月が、アゲハと名乗る何者かに誘拐された。気が狂わんばかりに、ふたりを探す麻希は、熱血刑事と言うよりは、子どもを熱愛する母親だ。だが、誘拐されたはずの健太に、ある時点から容疑がかけられることとなる。動機は、ニートである生活への不安と継母との確執などとでっち上げられるが、麻希は、菜月を愛する健太を信じ、大きな闇に向かって行く。
もちろん、軸は推理劇のストーリー。驚きの結末あればこそ、斬新な形で描いた家族の様が生きてくるというものだろう。

子育て期に、やむなく退職したわたしは、健太のように家族を愛し子育てをサポートをしてくれる誰かがいたら、何か変わっていたかもなぁと、思わずにはいられない女性のひとりだと思う。それを受け止めつつ、生き方が多様化していくなか、職を持つ持たないで、人をきちんと見ずに、ニートなどと決めつける風習は、小説のなかだけではないのだろうと、あらためて考えさせられた。
第2弾は『スワン』楽しみだ。

紫がかったアゲハ蝶が、ビルの谷間を舞う表紙です。
アゲハとは、いったい何からとった偽名だったのでしょうか。

本との出会いもまた、不思議。伊坂幸太郎の短編が入ったアンソロジーに、
『ハラマキシリーズ』が収録されていて、それがおもしろくて。
「わたしをフルネームで呼ばないで!」とハラマキ巡査部長は言いますが。

拍手

『八月の六日間』

北村薫『八月の六日間』(角川書店)を、読んだ。
帯には「滋養たっぷりのお仕事&山歩き小説」とある。北村薫らしからぬ帯だなぁと疑問を持ちつつも、また「元気をもらえる小説 №1!」に、騙されてみるかという気になった。いや、北村薫なら外れないだろう。安心の北村薫。そんな気持ちで手にとったのだ。

主人公は、と、かきかけて、気づいた。
「また、やられたかぁ」
主人公の一人称でかかれた、この小説には、主人公の名が記されていなかった。後輩の藤原ちゃんは、最初から苗字がニックネームだし、山で出会ったはつらつとした女子、宗形三千子さんなどは、フルネームで記されているにもかかわらず、主人公の名がない。そこに違和感を持たせず、最後まで読ませてしまう作家なのだ。
なにしろ、デビュー作『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)から始まるシリーズ5冊も、主人公の名を記さず、描いている。その時もまた、読み終えるまで気づかなかった。主人公と姉との確執など、込み入ったストーリーでさえ、ふたりの名を記さず淡々と描いてしまう。(その上、その時には覆面作家だった。大学生の主人公が実際に語っているようなイメージ創りだったとか)

ということで、出版社で副編集長を務める40歳の女性が、単独で山歩きをする小説だ。その時々の心の動きが、山を背景に描かれている。
以下、本文『八月の六日間』から。

暗い中でふと、小学校から高校まで、ずっと一緒だった友を思った。何でも話せる相手だった。彼女は故郷、わたしは東京と別れても、ずっと側にいるような気がしていた。そんな彼女が逝った時、わたしは、
― 一人になった。
と、打ちのめされた。共有する数々の思い出が消えるような気がした。だがやがて、まだ一人いる、わたしがいる ― と思えるようになった。それは「たけし君」から「敦」を見るような思いだ。あんなことが、こんなことがあったね ― と、ふと思う時、あの人はよみがえるのだ。

『九月の五日間』は槍ヶ岳『二月の三日間』は裏磐梯『十月の五日間』は常念岳『五月の三日間』は麦草峠、そして『八月の六日間』は穂高周辺。
読み終えて、胸がしんとする小説だ。だが、北村薫のセンスのいいユーモアが、そこ此処に散りばめられていて、くすりと笑えるシーンも多々あった。個人的には、それが、ものすごく好きなのだ。

この山は、穂高辺りなんでしょうか?南アルプスと八ヶ岳しか、判りません。

拍手

『マスカレード・イブ』

東野圭吾『マスカレード・イブ』(集英社文庫)を、読んだ。
『マスカレード・ホテル』から始まるシリーズ、2作目だ。シリーズ2作目といっても『イブ』は、物語序章の意味合いが強く『ホテル』で、主役の二人、山岸尚美と新田浩介が出会う以前の出来事を描く、短編集になっている。
シリーズのこれからを楽しみに、軽く流して読めるミステリー4編だ。

その表題作『マスカレード・イブ』のなかで、印象に残ったシーンがあった。
殺人現場は、大学の研究室。刑事である新田が、部屋に入るなり回想したのは、小学校での理科の実験だった。以下、本文から。

五円玉にメッキをし、銀色にする実験を行った。ただしこの実験のことは人にいいふらしてはいけない、と先生はいった。硬貨を加工するのは法律違反だかららしい。それを聞いて、余計に興味が湧いた。メッキした五円玉は、一見すると五十円玉のようだった。店で使ったらばれるだろうか。目の悪いお婆さんなら気づかないのではないか。想像すると、わくわくした。

してはいけないことを、してみたいという欲望。心の奥底に、しまい込んでいる感情が、ふと表に現れる瞬間。そういうものは、誰にでもあるのだろうか。

散歩道に、漆の葉が茂っている。見ていると、不意に強い感情が流れ、触ってみたくなる。触ればひどくかぶれ、後悔することは判っている。だが、してはいけないことを、してみたくなる瞬間を、漆に見てしまうのだ。

意味もなく非常ベルを押したくなったり、白いブラウスに赤ワインをこぼしてみたくなったり、開けてはいけない扉を開けたくなったり。多分、一生やることはないだろう、無意味な欲望達。
「触って、ごらん」と、林で漆が、呼んでいる。

マスカレードのテーマで何処まで行けるかなぁ。楽しみ!

生き生きと伸び、林じゅうに広がっている漆。青々としています。

色づいている葉も、ちらほら。紅葉の季節には、漆は主役になります。

トンボくんは、とまっても、かぶれないんだね~。

拍手

『きりこについて』

「きりこは、ぶすである」から始まる、西加奈子の小説『きりこについて』(角川文庫)を読んだ。
きりこの顔の描写は、こんな具合だ。ぶわぶわと頼りない輪郭、がちゃがちゃと太い眉、点のような目、アフリカ大陸をひっくり返したような鼻、難解な歯並び。そして首は、見当たらない。

客観的に見るとぶすであるきりこだが、両親に愛され「可愛い」と言われ続けて育つ。自然と、自分がぶすであることに気づかず育つこととなる。小学5年で、初恋のこうたくんに「ぶす」と言い放たれるまでは。
鏡を見なくなり、学校に行くのをやめ、眠ってばかりいる十代のきりこと一緒にいたのは、賢い黒猫、その名もラムセス2世だ。きりこは、容姿がどうであれ、自分は自分以外の何ものでもないことを知っていた。そしてまたラムセス2世も、きりこがそれを知っているからこそ、彼女に寄り添っているのだった。以下本文から。

猫たちはすべてを受け入れ、拒否し、望み、手に入れ、手放し、感じていた。猫たちは、ただそこにいた。ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさを、きりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある「鏡」だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「評価」や「自己満足」という言葉に置き換えられた。それらは、猫たちにとって排泄物よりもないがしろにされるものであった。

読み終えて、「自分らしく」という言葉さえもが、中途半端に感じるほど、きりこの物語にのめり込んでいる自分に気づいた。自分そのままに生きることの難しさ、自分そのままに生きることの大切さを描いた小説。
きりことラムセス2世に、すぐにでも、会いに行きたくなった。
ラストに、どんでん返しとは言えなくとも、衝撃的なオチがある。すべてが腑に落ちる瞬間、心温かく笑う自分を感じた。

「うちは、入れ物も、中身も込みで、うち、なんやな」
「今まで、うちが経験してきたうちの人生のすべてで、うち、なんやな」
それでこそ、わが、きりこだ!! ラムセス2世は思うのだった。

拍手

『鹿踊りのはじまり』

「そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました」
宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』冒頭の文章だ。『注文の多い料理店』(新潮社)に収められている。

今、近所で見かけるすすきが、そんな具合に、白く光っている。すすきの花。何故、咲くとは言わないのだろう。そう、今花盛りなのだ。
そして『鹿踊りのはじまり』の語り手は、続ける。
「わたくしが疲れてそこに眠りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人の言葉に聞こえ、やがてそれは、今北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました」
鹿にと団子を置いたはいいが、手ぬぐいを忘れ戻った嘉十は、すでにやって来ていた鹿達の会話を覗くでもなく聞いてしまう。団子は食べたいが、手ぬぐいが何者か判らず、相談しているのだった。語り手は秋の風からその話を聞く。

すすきの在るところ、いつ不可思議な世界に足を踏み入れても可笑しくない。そんな風が吹いている。わたしも、すすき野原にたたずみ、耳を澄ませてみよう。いったい誰の話が聞けるだろうか。

伸びゆく最中のススキは、ぴんとして元気いっぱいに見えます。
すすきの「すす」は、まっすぐすくすくと「き」は芽が萌え出る萌(き)
からつけられた名だとの説もあるとか。すくすく、すすき ♪

我が町、明野町は、茅が岳のふもとにあります。
「茅」は、かやぶき屋根の材料で「すすき、ちがや、すげ」などのこと。
すすきが広がる地にそびえる山だから『茅が岳』と呼ばれているそうです。
緑の茅が岳には、青い空と白い雲が似合いますね~。

秋の風に揺れるすすき。向こうに誰か、見えますか?

拍手

『ふたりの名前』(『1ポンドの悲しみ』より)

石田衣良の短編『ふたりの名前』を再読した。
伊坂目当てで買った短編アンソロジー『短編工場』(集英社文庫)に、収録されていたのだ。『1ポンドの悲しみ』(集英社)は、10年前に読んでいる。やはり、跡形もなく記憶からは抹消されていたので、これが再読と言えるかどうかは、悩むところだ。

『1ポンドの悲しみ』は、30代の女性視点で描かれた恋愛短編集。
『ふたりの名前』は、共に暮らし始めて1年弱のふたりを描いている。
朝世と俊樹の暮らしには、決め事があった。それぞれの持ち物に、自分のイニシャルをかき込んでおくことだ。卵一つ一つにもAとTの文字がかかれ、薄型テレビの裏側には巨大なTの文字が、ワイングラスの底には小さくAの文字がかかれている。そんなふたりが子猫を飼うことになった。以下、本文から。

「おでこのまんなかにAって書かないのか」
朝世はそんなことは考えもしなかった。憤然としていった。
「書くわけないじゃない。この子は家族の一員で、俊樹のテレビなんかとはくらべものにならないんだから」
しばらくのあいだ車内は静かになった。恵比寿に近づいてから、俊樹がようやく口を開いた。
「この一年でイニシャルを書かなくていいものがうちにきたのは、初めてだ。そういうのがだんだん増えていくと、ぼくたちの暮らしも変わっていくのかもしれないな」
いつになくまじめな口調にはっとして、朝世は運転中の横顔に目をやった。俊樹は口元を結んで、正面を見つめている。朝世は片手で子猫をなでながら、シフトレバーにのせられた俊樹の手にもう一方を重ねた。

そして、猫に名前をつけるまでの間に起こった出来事により、ふたりは気づいていく。名前とは、誰の所有物かを表すだけのものじゃなく、大切な誰かを思う時に、心のなかでそっと唱える呪文のようなものなのだと。

10年前にも、図書館で借りました。本屋で平積みされている新刊が、
カウンター向かい側に、無造作に置かれていたのが印象的で覚えています。
田舎の図書館を利用する上での、大きな利点です。
借りに行った図書館の前で、シオカラトンボを見かけました。
写真には撮れなかったけど、小さい秋、見つけた ♪
これも、田舎の図書館の利点?(笑)

拍手

『あまからカルテット』

柚木麻子『あまからカルテット』(文春文庫)を、読んだ。
帯には「『ランチのあっこちゃん』作者が描く、アラサ―女子四人組の美味しい謎解き!」とある。中高一貫の女子校、中学時代からの仲良し四人組は、恋に仕事に悩み尽きぬ日々だが、その友情は変わらない。

ピアノ講師でおっとりした咲子が出会った「稲荷寿司のきみ」を3人が探し出す『恋する稲荷寿司』
唯一家庭を持つ由香子は、料理本出版に当たり悩んでいた。それを助けるべく3人が、子どもの頃に彼女が食べたという甘食を探し出す『はにかむ甘食』
彼の浮気を疑う、デパートで美容部員をする美人の満里子。真相を確かめようと3人が乗り出した『胸さわぎのハイボール』
口は悪いが、何をやらせても優秀な大手出版社で編集をする薫子が結婚した。引っ越しの荷物もそのままに仕事に忙殺される彼女のもとに、何故かラー油が『てんてこ舞いにラー油』
4人で作ったおせちを持ち寄り、薫子が作ったと偽り姑に食べさせようと企むが、大晦日に想定外の大雪が降る『おせちでカルテット』

「女の友情って、いいよなぁ」読み終えて、素直に思った。
そして、友人の顔をいくつか思い浮かべた。
小説のなかの彼女達より20歳以上歳をとってなお、人生いろいろあると思い知らされる日々。友人達に助けられることもあるし、ほんの少しだけ、わたしが助けてあげられることもあるかも知れない。
解説は、『負け犬の遠吠え』をかいたエッセイスト、酒井順子。
「親子でも夫婦でも友人でも、他の相性が悪くとも、食のセンスが共通していると、その関係は長続きするもの」という言葉に、うなずいた。食べることって、人と人が生きていく上で欠かせない、大切な大切なことなのだ。

咲子は彼のほっそりした体やそげた頬をまじまじと見つめる。そうだった。どうして彼から離れたくなったのか思い出した。薫子達の意見に流されたからでも、住む世界が違うからでもない。見てくればかりを気にして、お米をちゃんと食べないところに付いていけなくなったのだ。『おせちでカルテット』より

拍手

『at Home』

タイトルの通り、家族がテーマだ。本多孝好『at Home』(角川文庫)
帯には「父さんは泥棒 母さんは詐欺師 サイテーで、最高の僕の家族」とある。その表題作は、竹野内豊と松雪泰子で、映画化決定だそうだ。
文庫は、4編収録の短編集。
表題作の他、血の繋がらない父娘を襲う、不安『日曜日のヤドカリ』
借金を返す代わりに1年間、妊娠した見知らぬ外国女性と暮らすことになった男の戸惑い『リバイバル』
妹の子どもの身体じゅうに、虐待の痣を見つけた兄の衝撃『共犯者たち』
ごく普通とは言えないが、それでも何処かにいそうな家族が描かれている。

家族だから、甘える。頼る。わがままを言う。当たり前のそんなことが、暴力に繋がっていったら? 甘えから出る言葉だって、相手を傷つけるにはじゅうぶんで、頼られ過ぎて折れてしまう弱さも、誰だって持っていて、わがままを言い合うことで壊れることだってあることも忘れがちで。家族の近しさ故に心の弱さが表れ、相手が壊れても壊れても止められず、暴力をぶつけてしまう。

家庭とは、そんな落とし穴が、不意に現れる要素が隠された場所なのではないか。うたた寝したアリスがうさぎ穴に落ちていったように、ほんの小さなきっかけで、落とし穴は見え隠れしているのではないか。すぐそこに危うさを感じ、恐くなる小説だった。

文庫を購入した際には、帯で拳銃が見えなくて、料理本のように見えました。

我が家の朝ご飯には、拳銃は似合いそうにありません。

拍手

『マスカレード・ホテル』

久しぶりに、東野圭吾を読んだ。『マスカレード・ホテル』(集英社文庫)
「マスカレード」は、仮面舞踏会の意味があるが、ホテルでそういったパーティを行う物語ではない。ホテルという場所に集う人々が、様々な仮面をかぶり、本当の姿とは違った自分を演じている。そんな人間の2面性の面白さを描いたストーリーだ。

ヒロイン山岸尚美は、一流ホテル、コルシアのフロントクラーク。そこに警察から異例の捜査が持ち込まれた。連続殺人事件の次の犯行場所がコルシアである可能性が高く、刑事達をホテルマンに化けさせ、潜入捜査を行うというものだった。尚美は、フロントクラークに化ける若手刑事、新田の教育係となる。
こうして仮面をかぶった刑事達が入場し、仮面舞踏会は始まっていく。客も様々。視聴覚障害者を装う老婦人。ホテル内の備品を盗むカップル。この男を近づけるなと写真を持ち込む女性。新田を目の敵にし難癖をつけてくる男。ストーカー被害にあっていることを新郎に隠している花嫁。
仮面をかぶった怪しげな人々が集うなかで、捜査は行われていく。

この小説でとても魅かれたところは、尚美を初めとするホテルマン達のプロ意識である。以下、尚美が新田にホテルマンとしての心得を説くシーン。
「ルールはお客様が決めるものです。昔のプロ野球に、自分がルールブックだと宣言した審判がいたそうですが、まさにそれです。お客様がルールブックなのです。だからお客様がルール違反を犯すことなどありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません。絶対に」

また、尚美の上司、久我も、新田に言う。
「基本は、お客様を快適な気分にさせる、ということです。身だしなみや言葉遣いに気を配るのも、そのためです。自分の言ったことに反論されれば、殆どの人は不愉快になります。だからホテルマンはお客様には反論しません。しかし、何でもいいなりになるわけでもありません」

そして新田達刑事も、もちろんプロの仕事をする。そんなプロフェッショナルなぶつかり合いが、小気味よく描かれたサスペンスだった。

東野圭吾は、加賀恭一郎シリーズが好きで、よく読みました。
『マスカレード・ホテル』は、シリーズ第1弾だそうです。楽しみ~♪

拍手

『小野寺の弟・小野寺の姉』

家族は、チームだと、以前『月の砂漠をさばさばと』を読み、感じた。
それは母親と小学生の娘との二人暮らしのチームだったが、今回読んだ、西田征史『小野寺の弟・小野寺の姉』(泰文堂)は、タイトルからも判るように、チームを組んでいるのが姉と弟だ。
40歳を過ぎた姉と30代半ばの弟。共に未婚、恋人なし。特別仲がいいという訳ではないが、ふたりのリズムで暮らしている。姉は、はっきりものを言い、じっとしていることが苦手。風水にハマり、未体験である朝寝坊をするのが夢。弟は、思ったことの半分も言葉にせず、時間通りに動くのが苦手。ご飯が炊ける匂いを何より愛し、なんだかんだ言っても姉には逆らえない。

家族って、面白いなぁと思ったのは、視点が弟、姉と交互になっていることで、同じ出来事に対するふたりの感じ方の違いや、たがいに内緒にし合っていることなどが、明らかになるところだ。

たとえば、姉、より子の章。
進は昔から迷子になりやすかった。そうなるたび、私はこうやって片手を上げ売り場の真ん中に立ってあげる。大柄な私がこうすると目立つのか、幼き日の進は、すぐにこちらを見つけて駆け寄って来た。おそらく自由の女神のように見えていたのだろう。

そして、弟、進の章。
大柄な姉ちゃんが手をあげる姿はとても目立つ。『自由の女神』みたいなポーズだが、まるでそうは見えない。おかっぱ頭で右手を突き上げているその姿は『選手宣誓をしているこけし』みたいだといつも思う。

こんな風に、ちょっとズレながらチームを組む姉弟。親子でも、兄弟でも、夫婦でも、家族はやっぱりチームなんだと、そして、ちょっとズレているのが当たり前なんだと、読み終えて温かい気持ちになった。

本屋でタイトルに魅かれて、衝動買いしました。
小野寺が中心にいて、その弟とその姉とも取れるタイトルですが、
それがふたりのことを指すというのが、面白くて。
秋には、映画公開予定だそうです。姉は片桐はいり、弟は向井理。

カバーをとると、なかには小説のキーワードになる絵が描かれていました。
特別なことをどちらかやるか、決める時にするオセロゲーム。
より子がハマっている風水によって、居間に置かれた赤べこ。
花が咲くと夢が叶うといわれる、ワイルドストロベリーの鉢。
スーパーの福引きで当てまくった、ポケットティッシュ。

拍手

『家日和』

奥田英朗『家日和』(集英社文庫)を、読んだ。
5日前に読んだ『我が家の問題』と対になる短編集で、テーマは家族だ。『家日和』の方が先に刊行されていて、1話のみ同じ家族の話も収録されている。
『家日和』では、全編通じて、ありふれた毎日のなかに「夢中になれるもの」を見つけた人物が滑稽に描かれていた。

『サニーデイ』では、ネットオークションにハマった妻を。
『ここが青山』では、会社倒産後、家事育児に夢中になる夫を。
『家においでよ』では、妻に出て行かれ、自分の部屋を住み心地よくすることに楽しみを見つけた夫を。
『グループフルーツ・モンスター』では、内職の仕事を持ってくる男性社員が夢に出てくることに癒しを求める妻を。
『夫とカーテン』では、新しい事業を求めて転職を繰り返す夫を。
『妻と玄米御飯』では、ロハスに凝りだした妻を描いている。

夢中になれる、新しいこと。それを見つけた喜びは、判る。しかし、わたしの場合、いつも自分に、ストップをかけてしまう。そんなに夢中になっていいのか? との疑問をぶら下げつつ、適当に夢中になる。冷めた奴だよなぁと、自分でも思う。この小説に共感できるのは、その冷めた視点が、要所要所に出てくるところだ。以下『妻と玄米御飯』から。

康夫には、若い頃から天邪鬼なところがあった。社交が嫌いで、建前を好まない。流行は大抵疑ってかかる。作家になったのも、会社勤めが神経症になるほど辛くなり、一人でやれる仕事はないものかとたどり着いた末である。強固な主義主張はないが、好き嫌いははっきりしていた。愛するものはおとぼけユーモアで、近寄りたくないのは、ナルシシズムと冗談が通じない人たちだ。

主人公、康夫は、妻を含め、ロハスに夢中になる人達を、皮肉を込めたユーモア小説に描いてしまうのだが。

わたしは、康夫ほどは、冷めていないかも知れない。ロハスな人達に、ナルシシズムは感じない。ただ羨望の眼差しを向けるのみだ。夢中になることに、ストップをかけずにいられる人ってすごいよなぁ、と思うのだ。

家族というものを、俯瞰したようなイメージの表紙です。

集英社文庫は、ブックカバーをプレゼント中。

リバーシブルになっています。あと2種類ありました。

拍手

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
Template by repe