はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『我が家の問題』

ほろりと、来た。6編収められている短編、すべてにだ。
「奥田英朗、なのに?」という独り言は、わたしの偏見である。
奥田英朗の小説のなかでも、『マドンナ』や『ガール』に分類されるハートウォーミング要素たっぷり。描いているのは、家族。『我が家の問題』(集英社文庫)を、読んだ。

全編に通じるのは、家族を心配する様子が描かれていることだ。
『甘い生活?』では、新婚の妻に、価値観の違いを伝えられずにいる夫の。
『ハズバンド』では、どうやら夫は、仕事ができないらしいと気づいた妻の。
『絵里のエイプリル』では、両親の離婚問題に直面した高校生の娘の。
『夫とUFO』では、夫の異変に戸惑う妻の。
『里帰り』は、夫婦が互いの実家への初めての里帰りに互いを気遣う様子が。
『妻とマラソン』では、マラソンに没頭する妻を心配する夫の。

家族のことは、そりゃあ心配だ。かくいうわたしも、娘達からは「全くもう! 心配性なんだから」と、半ば呆れて言われることも多い。自分でも滑稽だと思うくらい、些細なことで心配してしまう。でも心配なのだ。心配したっていいじゃないか。心配して何が悪い。思う存分心配してやる。と開き直る。
読み終えて、ホッとした。なぁんだ、わたしだけじゃないじゃん、と。誰だって家族のことは、心配なのだ。滑稽なほど心配するのが、当然なのだ。

そして思った。奥田英朗って、すごいなぁと。こんなにもユーモラスに、こんなにも温かく家族を描けるなんて。

末娘と、飲みに行きました。「最近、本読んでないんだよねぇ」と、彼女。
心配して聞くと「2日に1冊くらいしか」との返事。
なぁんだ。わたしより、ずいぶん読んでるじゃん。
そんな小さな変化から心配が生まれるのが、家族なのかも。

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『うさぎパン』

日々の生活が、いっぱいいっぱいになった時、地続きの小説が読みたくなる。
経理の仕事と、毎日の生活と、遊び、そして、イレギュラーな出来事。自分ではムリのない範囲でスケジュールを組んでいるつもりでも、このくらいはだいじょうぶと思っていたことが思いもよらず膨らみ、自分を追い詰めることが、ままある。自分の不器用さに落ち込み、逃げ場を探す。その逃げ場は、いつも地続きの小説だ。地続きと勝手に呼んでいるのは、つまり繋がっている場所。いつもは降りない駅で降りたら、そこには小説そのままの生活が、不思議でもなんでもなくある。そんな身近なストーリーのことだ。

瀧羽麻子『うさぎパン』(幻冬舎文庫)は、疲れきって手にとった一冊。
帯の「ほのぼのしてあったか~い毎日」を読み、初めて読む作家なのに、何も考えずレジに進み、購入していた。

主人公は、高校1年の優子。父親は単身赴任中で、血の繋がらない母親とふたりで暮らすが、ステレオタイプな関係ではなく、ごく普通に仲がいい。優子は、女子だけだった小中学校に別れを告げ、地元の共学校に入学し、気になる男子、富田くんとパン屋巡りを始める。クラスの自己紹介をきっかけに、仲よくなったふたりの会話が微笑ましい。以下、本文から。

「パンが好きってほんとだったんだ」
少し意外な気がした。あの気まずい沈黙を破るために、話を合わせてくれたのだとばかり思っていた。
「自己紹介で嘘ついたらだめでしょう」富田くんは屈託なく笑う。
「じゃあさ、バゲットとかくるみパンとか好き?」
「好き、大好き」勢い込んで言うと、
「パンが好きってほんとだったんだー」
わたしの口調をまねて、そのままくりかえす。思わずふきだしてしまった。
「自己紹介で嘘はちょっと」わたしはすっかりうちとけていた。

読み終えて、思い出した。
これだけ歳をとった今だって、自分が、どれだけ小さなことに思い悩んで暮らしているのか。どれだけ小さな毎日を、大切にしているのか。

ところがなんと、小さなファンタジー要素が含まれる物語でした。
表紙をじっと見ると、ファンタジックな一面をうかがわせる雰囲気も。
収録された書下ろし短編『はちみつ』も、同じ街での物語です。
優子の家庭教師で理系大学院生の、美和ちゃんが登場します。

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「豆」を取り除く時間

気が置けない友人とのおしゃべりに、気持ちが晴れる。それって、どうしてなんだろうかと考えて、ふと思い至った。
心の奥底に眠っていた、自分でもあることすら知らずにいた「豆」に気づいて、それを取り出すようなものかなぁ、と。
アンデルセンの、わりと知られてはいるが『おやゆび姫』や『みにくいアヒルの子』のように脚光を浴びることは少ない物語『エンドウ豆の上のお姫さま』の「豆」である。

本当の姫を探し、世界中を回ったが見つけられずにいた王子のもとに、ある日やってきたお姫さま。ずぶ濡れで、姫には見えなかったが、王子の母親が試す策を出す。ベッドの上に一粒のエンドウ豆を置き、その上に敷布団20枚、そして柔らかな羽根布団20枚を敷き、彼女を寝かせた。翌朝、眠れたかとの問いに「何か硬いものが身体にあたり眠れなかった」と、彼女は答え、王子は「本当の姫を見つけた」と妃に迎え入れる。

何十枚もの布団の下に埋もれた、気になっていること。王子とその母親は、彼女が、それを見つけられる人だと思ったのではなかろうか。

先日も、友人と目的もなく、ただただしゃべる時間のなかで、いくつかの「豆」は見つかり、それを取り出すことが出来た。気持ちはスッキリと晴れ、友人に感謝した。彼女にとっても、そういう時間であったならいいなと思う。

しかし「豆」は止め処を知らず、ベッドの上に生まれ続ける。そして、わたし達はしゃべり続けるのだ。それって、ただ楽しいからなんじゃないかって? もちろん、そうなんだけど(笑)

健康的なランチでした。おかず2品を、20種類くらいのなかから、
選びました。白身魚の甘酢あんかけが、美味しかった ♪

ショッピングモールには七夕飾り。「ぷーるがおよげるようになりたい」の
たどたどしい字を微笑ましく思いつつ、願い事を考えました。
「若者達、子ども達が、戦場に行くなんてことには、絶対なりませんように」

『エンドウ豆の上のお姫さま』は、
『アンデルセン童話集1』(岩波少年文庫)に収められています。

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『花桃実桃』

直木賞受賞作『小さいおうち』(文藝春秋)を、手にとったことはない。
どうしても同タイトルのロングセラー絵本を、思い出してしまい、何故だか気がそがれたのだ。だから、同じく中島京子がかいた『花桃実桃(はなももみもも)』(中公文庫)を開いたのは、本屋で偶然見かけたからに過ぎない。
― 43歳シングル女子、茜が、昭和の香り漂うアパート「花桃館」で、へんてこな住人に面食らう日々が始まる ―
との、本の後ろにある紹介文に、強く魅かれたのだ。この本には、お宝が眠っていると予感させるキーワードだらけだった。
「43歳シングル女子」「昭和の香り漂う」「アパート」「へんてこな住人」「面食らう」そして最後には「ユーモアに包んで描く」ときた。
ここまで心魅かれるキーワードが揃うと、もう、出会うべくして出会ったとしか思えない。そしてこれがまた、読み終えてニヤニヤ笑いがとまらないほど、面白かったのだ。つい笑っちゃう。くすくす笑っちゃう。そんなユーモアの応酬に、本を読む幸せを感じ得ずにはいられなかった。

都心から郊外へ走る私鉄沿線、築20年の木造アパートは、全9戸のうち4戸が空き室。茜は大家としてその一室に住み始める。住人は、死んだ父親の愛人だった老婦人。20代のウクレレ弾きの青年。詩人のように上品な雰囲気を漂わせた老夫婦。ダメダメな父親と、しっかりし過ぎている中学生男子に、その弟が二人。整形マニアの女性。ハンチング帽をかぶる探偵。新しい住人も、越してくる。みな、一筋縄ではいかない人々である。

登場人物は誰もが個性的だが、一番好きだったのは、茜の高校の同級生、諺マニアの尾木くんだ。予備校講師を辞めてバーを始めたばかりの彼は、会社を辞め大家となった茜と、たがいに心許せる相談相手となっていく。
茜は諺や古文を独特に解釈する癖があり、尾木くんから聞いた諺「淵に臨みて魚をうらやむは退いて網を結ぶにしかず」=「他人の幸福をうらやむよりも、自ら幸せになるための方途をさぐるほうがいい」なのだが、考えているうちにあさっての方向へ向かってしまう。以下、本文から。

「退いて網を結ぶ」
出勤途中の満員電車でも、ぽつりとそう口に出してみたりした。
退いて。網を。結ぶ。
この「網」が、いつのまにか頭のなかで「網焼きの店」と変化してしまい「退職して、海の近くで網焼きハマグリの店を出すことによって、幸せになる」といったイメージが、茜のなかで膨らみだした。

そんな茜でさえが面食らう「花桃館」での出来事を楽しみつつ、思った。
自分も含め、人が生きていくって、なんて滑稽なんだろうかと。滑稽で、いいじゃないかと。いや、むしろ滑稽であれと。

「花桃はきれいだけど実がつかないのね。つかないわけじゃないけど、小さくて美味しくないの。美味しい桃がなるのはべつの花なの。人間もおんなじで、いろいろな人がいて、実が小さい人もいるじゃない? でもねえ。どっちがどうって話じゃないと思うのよ。花や実だけじゃなくてね、ジャガイモみたいに、重要なのは地下茎って人も、きっと人間の中にもいるわよ」

庭のワイルドマジョラムが、咲き始めました。目立たないけど可愛い。
「花桃館」では、今何が咲いているかな?

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『グランド・ブダペスト・ホテル』

映画『グランド・ブダペスト・ホテル』を、観た。
ウェス・アンダーソン監督映画は、初めて観たが、あっけにとられた。
「かっこいい!」「かっこいい!」「かっこいい!」
映画館で、大声で叫びたい衝動に、何度も駆られる。駆られるが、例え映画館が貸切だったとしても、口を開けたまま、叫ぶどころではなかっただろう。それくらい、かっこよかったのだ。

舞台は、ハンガリーの首都ブダペストかと思えば、架空の地、ズブロフカ共和国。かつて栄えた頃、そのホテルは、ピンクが基調のスイーツのような外観をしていた。物語は、グランド・ブダペスト・ホテルを仕切っていた伝説のコンシェルジュ、グスタブと、天涯孤独のベルボーイ、ゼロのストーリーだ。

グスタブは、客をもてなすプロフェッショナル。マダム達の夜の相手も仕事のうち。彼が相手に選ぶ条件は、金持ちで、年配、金髪、そして不安を抱えていて、愛を要している。
そのグスタブに、殺人容疑がかけられる。上顧客マダムDが、殺害されたのだ。冤罪で刑務所に入ったグスタブを助けたのは、彼の人柄と、ゼロと、ズブロフカ共和国一のパティスリー『メンドル』のシュークリームだった。

映画のジャンルとしては「スクリューボール・コメディ」変化球のなかでもひねり球であるその名に、一風変わったという意味合いを込めているらしい。
声を上げて、心の底から笑い転げるコメディではない。心の奥底に隠してある、自分でも忘れてしまったような部分を、何度も何度もくすぐられるような感覚といえばいいだろうか。そうして笑いつつも、生きることの悲しさが、胸いっぱいに込み上げてくる。映像の端切れとくすぐったい気持ちが、喉元の辺りにいつまでも残って消えることのない映画だった。

こんな風に、笑わせることができるものなのだと、笑うことの、そしてそれを創りあげる人間の、深く大きな可能性を感じた。

新宿シネマカリテには、模型が飾ってありました。

グスタブを演じたのは、英国人レイフ・ファインズ。
ゼロ役は新人、カリフォルニア生まれのトニー・レヴォロリ。
ズブロフカ共和国の名は、監督が、好きなウオッカ『ズブロッカ』から
連想したそうです。ポーランドのお酒です。

ゼロの恋人で『メンデル』で働くアガサ役は、シアーシャ・ローナン。
『メンデル』の箱のピンクが、映画全体に効いていました。
ウェス・アンダーソン監督作品は、これが8作目。
過去7作品、レンタルしてこようっと ♪

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ほたるぶくろの落し物

庭で、ほたるぶくろが咲いた。
多分、何年か前に、子ども達のうちの誰か判らぬが、道すがら摘んで持ち帰ったものが、種を落としたのだろう。
その淡い紫色の花を見ると、思い出す詩がある。西村佑見子『せいざのなまえ』(JULA出版局)に収められた『ほたるぶくろ』だ。

『ほたるぶくろ』

そのなかから 
どんなに だいじな 
おとしものを したのでしょう

みんなして うつむいて
ただ ためいきばかりが
きこえてきます

庭に、ほたるぶくろが咲くようになる前から、心魅かれていた詩だ。何を落としたのだろうかと、漠然とほたるぶくろを眺めていた。
だが、蕾から咲くまでを観察するようになり、一つの仮説が芽生えた。
大きく膨らみうつむくほたるぶくろも、小さな蕾のうちは、ツンと鼻先を空に向けていることを知ったのだ。その蕾は凛としていて、何一つ憂う様子はない。それを見て、多分、と推測した。花を咲かせたいと願う思いが、いつしか自分でも支えきれないほどに、重く大きく膨らんでいくのだろう、と。
そして咲いた途端、膨らんだ大切な思いを何処かに落とし、ただただ呆然とうつむくことしかできず、深くため息をついているのかも知れない、と。

蛍の季節に咲きます。なかで蛍が光っているのは見たことありません。
  
小さな小さな蕾が、こんなに大きく膨らむ不思議。

姫シャラも咲き始めました。夏椿ともいわれる爽やかな白。

オレガノ・ディングルフェアリーは、幸福のシンボルだとか。

勝手に生えてきた木苺も、真っ赤に熟し始めました。

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『きことわ』

昨日、今日の記憶よりも、子どもの頃や若い頃の記憶の方が忘れにくいと言うが、本当だろうか。確かにこの頃、今やろうと思ったことすら、立ち上がっただけで忘れてしまうことも多い。
夫に話したつもりでいたことが、話そうと思っていただけだったとか、19日にね、と話していたのに、明日が19日であることと繋がらなかったり、だとか、霧のなかに立っているかのような日々ではある。

朝吹真理子『きことわ』(新潮社)は、そんな思いを巡らせてしまうような、現実と夢と過去の記憶が入り混じり、現実のみが本当ではないのかも知れないと、不意に判らなくなってしまうような危うさをはらんだ小説だった。

夏休みごとに海辺の別荘で過ごしたふたりが、最後に会ったのは、貴子(きこ)8歳、永遠子(とわこ)15歳の時だった。それから25年後、ふたりは再会する。親戚でも何でもない年の離れたふたりだが、その繋がりは、四半世紀の時を超え、様々な記憶を絡み絡ませ、深く残っていた。以下、本文から。

「これは、とわちゃんの足だった」
にやにやと貴子が笑う。永遠子も、これはどっちの足だと、貴子の足をくすぐりかえす。貴子が永遠子の頬をかむ。永遠子が貴子の腕をかむ。たがいの歯形で頬も腕も赤らむ。素肌を合わせ、貴子の肌のうえに永遠子の肌がかさなり永遠子の肌のうえに貴子の肌がかさなる。しだいに二本ずつのたがいの腕や足、髪の毛や影までがしまいにたがいちがいにからまって、どちらがおたがいのものかわからなくなってゆく。

思い出すのは、子ども達が幼かった頃、あちこち小さな傷を作っては、軟膏を塗ってやったことだ。あ、塗らなくちゃと風呂上りに娘の膝を見るが傷はなく、すりむいていたのは自分だったと気づく。その逆もあった。くっついているうちに、どちらがどちらの身体なのか判らなくなっていくのだ。

その頃の記憶もまた、混乱し、霧のなかで絡まりあっている。本当にあったことなのか、夢だったのか、記憶違いなのか。そして今ここで過ごしている時間は、いったい本当のものなのか。目をつぶると、落下していく自分を感じた。
2011年『芥川賞』受賞作。

ビールを飲みながら、読むことに記憶が曖昧になる原因あり?

タパスセットと、ライトなハートランドビールで乾杯 ♪
何に? 年に一度の健康診断がぶじ終了。なんら異常ありませんでした。
自分的には、体重が着々と増えているのが気になるところではありますが。
待ち時間に読もうと選んだのが『きことわ』です。

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スペンサーシリーズ『誘拐』

ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズを、久々に読んだ。
日本語訳では7作目にあたるが、シリーズ2作目の『誘拐』(ハヤカワ文庫)
30年ほど前に夢中になって読んだ文庫達を開くと、年月を感じさせる埃臭さで歓迎してくれた。
ハードボイルド探偵モノという以外に、ストーリーは覚えていない。唯一記憶にあるのは、探偵スペンサーとその恋人、スーザンとの絡みが素敵で、だからこそ飽きることなく何冊も読んでいた、ということだ。
なので、スーザン初登場の『誘拐』から読もうと、読み始めた。
読み始めて驚いた。何とも、かっこいいのである。以下、冒頭文。

椅子を一杯に後ろへ倒して首をぐっと横に向けると、私のオフィスから空が見える。デフォルト焼きの青、雲一つなく、固形物のように輝いている。労働休日が過ぎた九月、たぶんどこかでトウモロコシが象の目ほどの高さに伸びていて、アル中が戸口で眠っても寒くないような陽気である。

スペンサーの一人称で描かれているのだが、次の一行でハッとさせられる。
「ミスタ・スペンサー、私たちの話を聞いてるの?」
一人オフィスにたたずんでいるのかと思えば、接客中だ。ここで読者は気づく。この探偵は、空も季節も、依頼人さえも、外界何もかもを、彼特有のユーモアとペーソスを散りばめた目線で見つめているのだということに。

そして読み進めて、思い出した。スペンサーは、食にこだわる料理人なのだった。以下、スーザンに初めて電話をかけ、夕食に誘う台詞。

「時間が遅いのは判ってるが、今からポーク・テンダロイン・アン・クルートを作るところだ。来て一緒に食べながら、ケヴィン・バートレットのことをもう少し話し合わないか。おれは料理がすごくうまいんだ。探偵としてはたいしたことはないかもしれない。自分の喉仏を見つけるのに苦労するし誘拐の人質捜しにさして成功していない。しかし、料理の腕は素晴らしい」

ケヴィンは誘拐された15歳の少年で、スーザンは彼の学校のカウンセラーだ。スペンサーは、自分で言う通りに料理の腕は素晴らしい。三ツ星レストランで出すような料理ではなく、一人あるいはふたりで楽しむような、家庭的な料理を得意とする。その夜スーザンが、彼のアパートを訪ねたのは、言うまでもないことだ。自分の魅力か、ポーク・テンダロイン・アン・クルートが好物なのかと量りかねるスペンサーもまた、チャーミングに描かれていた。

読み終えて「惜しいよなぁ」と、ひとりごちた。
翻訳して35年は経っているだろう文章に、馴染めないところも多かった。キスを接吻とかくようなストーリーじゃないのだ。
村上春樹さん、パーカーファンだって聞きましたが、翻訳しませんか?

文庫がたくさんあるのは、記憶にありましたが、8冊。

新刊で買った方が、9冊と上回っていました。
当時、そうとう夢中になって読んでいた様子が、うかがえます。



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『あつあつを召し上がれ』

「誰にだって 忘れられない味がある。」
小川糸の短編集『あつあつを召し上がれ』(新潮文庫)の帯に掲げられたコピーだ。その下には「身も心も温まる、食卓をめぐる7つの物語」とある。
『食堂かたつむり』の作者による、食が主役の短編集となれば、手にとらない手はない。もともと、小説に登場する食卓でのシーンを、こよなく愛している。手にとった途端、ランランランとスキップしたくなるほどだ。

目次を開くと、それぞれのタイトルに、食べ物が入っていた。かき氷、ぶたばら飯、松茸、おみそ汁、ハートコロリット(?)ポルク(?)きりたんぽ。
1話から丁寧に読み進め、2話目の『親父のぶたばら飯』を読み、ごくりと、つばを飲み込んだ。食卓での描写の巧妙さは『食堂かたつむり』で判っていたにもかかわらず、驚かされる。例えば。

ふかひれのスープは、優しく優しく、まるで野原に降り積もる雪のように、私の胃袋を満たしていった。地面に舞い降りた瞬間すーっと姿を消してしまうかのように、胃から身体の隅々へ行き渡っていく。儚い夢を見ているようだった。美味しい物を食べている時が、一番幸せなのだ。嫌なこととか、苦しいこととか、その時だけは全部忘れることができる。

「中華街で一番汚い店なんだけど」と言う恋人に連れて行ってもらった主人公、珠美の感想だ。最初は焼売で、その描写も秀逸。その後もちろん、ぶたばら飯が待っている。そして、ふたりのドラマも展開していくのだ。

食に対するこだわりが人物を表している部分にも、とても魅かれた。
「熱い食べ物は、熱いうちに。私達が食事を共にする時の鉄則である」
「この人は、絶対にカラザを取り除く。少しでも白身と黄身が混ざっていないと、不機嫌になるのだ」
「お父さん、ほんとにうるさかったの。料理全般に口出ししたけど、こと、きりたんぽに関してはね。ご飯粒が残り過ぎていても文句を言うし、かと言ってつぶしすぎると餅じゃあるまいしって不機嫌になるし」などなど。

この短編の多くは、人生のターニングポイントでの食卓を描いていて「食を描くことって人を描くことなんだ」と、すとんと胸に落ちた。温かな涙がところどころプラスされ、塩味、ちょっと効いてるかも。

庭のラベンダーが、咲きそろいました。

少し切って一輪挿しに。その後キッチンで、長さを切りそろえ落とした茎に、
うっかりお湯を、かけてしまいました。
キッチンじゅうが、ラベンダーの強い香りに包まれ、びっくり ♪
キッチンでの小さなドラマは、日々繰り広げられているんだよなぁ。

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『チョコレートドーナツ』

映画『チョコレートドーナツ』は、甘くなかった。
1970年代、ニューヨークで起こった実話を、映画化したものだ。

母親に育児放棄された、ダウン症の少年、マルコは、施設に馴染めず隣人でゲイのルディと暮らすようになる。ルディは出会ったばかりのポールと恋に落ち、3人は一緒に暮らし始めた。マルコは、学校に通い始め、よく笑うようになり、ルディは毎晩ベッドで、お話を聞かせ、ポールは勉強を教えた。マルコは、チョコレートドーナツが好きだった。3人は家族になっていった。だが、その頃のアメリカでは、ゲイに対する差別意識が強く、親として失格だと、ふたりはマルコと引き離されてしまう。

印象的だったのは、差別することが正しいと思い込み、疑う気持ちを持とうとしない検察官の姿と、ただ愛する者と一緒に居たいと願う3人の対比だった。

自分が正しいと思い込み過ぎないこと。いつも自分を疑ってみること。
それは、とても難しい。しかし、夢中で走り過ぎているときこそ立ち止まり、考えたいと思っている。自分の胸の奥に潜んでいるかもしれない差別や、人を見下す気持ちや、自分を棚に上げるずるさなどが、浮上して来ていないか。

「母親が薬物依存症なのも、ダウン症に生まれたことも、彼のせいじゃない」
そんなルディの言葉で始まった3人の暮らしは、理不尽極まりない理由で、壊されてしまった。3人の繋がりが、これ以上ないほどに温かく、それだけに、ひどく胸が痛む映画だった。
  
ひとり映画の後、余韻を味わいつつ、ひとりビールを飲む幸せ。
ひとりを楽しめるのも、家族がいるからこそ感じられる幸せですね。

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本との出会い

以前読んだ小説に、再び出会うことがある。
読み始めは気づかなくとも、何故かストーリーの流れやラストが、不意に思い浮かび、ああ、これ読んだことある、と気づく。

中田永一の短編集『百瀬、こっちを向いて。』(祥伝社文庫)に収められた『なみうちぎわ』が、そうだった。この短編の初出、おなじく祥伝社の男性作家6人による恋愛アンソロジー『LOVE or LIKE』は、読んだ記憶がある。だが、タイトルも作家名も覚えていなかったし、中田永一に注目したことは、これまでなかった。覆面作家だということも、今回初めて知った。

さて『なみうちぎわ』
海で溺れ、5年間、意識が戻らなかった姫子は、嵐の夜、目を覚ました。
一つ年上の姉は、赤ん坊を抱いていて、眠りにつく前、高校生だった姫子が、今は21歳であることを告げる。そして、見たことのない高校生男子が、すぐに駆けつけた。彼、小太郎は、姫子が家庭教師をしていた小学生だった。姫子は、彼を助けるために海に飛び込んだのだ。

印象的な設定では、ある。それだけに、逆にありがちなものに見えたのかも知れない。根っこのところで印象に残っていても、大きな興味は湧かなかったとも言える。そして、再びこうして出会った不思議にハッとさせられる。
「恋する胸の痛みを、ちょっとは思い出してみたら?」
とでも言っているような、淡く焦がれる恋心を、キュンキュン感じる短編ばかりが4編、揃っていた。

本との出会いは、人との出会いと似ている。
図書館や本屋で、いつも背表紙のみ見ていて、気になりつつ何年も手にしない本。それをふと手にとってみたら、思いもよらぬ大きな出会いに発展していった、という経験はないだろうか。
人との出会いも、また、巨大な迷路のなかで、何故か何度も出くわしてしまうような偶然と必然との繰り返しに思える。
手にとることのない多くの本。すれ違うだけのたくさんの人。考えると、出会ったものの大切さが、心に沁みてくる。

お気に入りの孔雀模様の帽子を、今年初めて使いました。
野外で読書にいい季節。のはずが、何故にこんなに暑いの?

田んぼに映った案山子は、涼しげに笑っているんだけどなぁ。

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『本日は、お日柄もよく』

友人からすすめられたのは、無闇矢鱈と、ぼろぼろ泣ける小説だった。
原田マハ『本日は、お日柄もよく』(徳間文庫)装幀やタイトルから、結婚式モノ? と思いきや「スピーチライター」が主役のお仕事小説だ。

物語は、主人公のOL、こと葉が出席した幼馴染み、厚志の結婚式から始まる。仕事関係者の祝辞があまりに退屈で、こと葉は舟を漕ぎ、冷めたスープに頭をぶつけてしまう。そこで出会ったのが、伝説のスピーチライター、久遠久美だった。言葉が持つ魔力に呆然とし、そしてその魅力に目覚め、こと葉は、久美の事務所に修行に通うようになる。やがて、政治になど興味を持たぬ彼女は、新人議員候補、厚志のスピーチを担当することになった。

何故、これほどまでに泣けるのか?
それはやはり、言葉が持つ魔力、魅力を最大限に活かしてかかれた文章だからだと思う。よく知っている何でもない言葉が、使われるシーンにより、突然、特別なものとなって輝きを放つ。それが琴線に触れるのだろう。例えば。

厚志君はおかしくてたまらないようだった。くすくす笑いながら「でも何になろうと、おれら、友だちだから」と言った。そのひと言は、乾いた砂浜にすうっと寄せる波のようだった。
政権交代、国民目線の政治、マニフェスト、完全なる勝利―それらの言葉はとてつもなく強く、胸にも耳にもずっしりと響くものばかりだ。それらの文言は、繋がれ、語られ、受け入れなければならないものだった。私と厚志君は、重い使命を帯びた言葉達に向かい合い、それらを武器に今、闘っているのだ。
そんな中で、ぽつんと聞いた言葉。友だち。そんな単純なひと言に、なぜだか私の心は震えた。

久美が、ある人にもらったという、言葉もいい。
「困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。三時間後の君、涙がとまっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。二日後の君、顔を上げている。三日後の君、歩き出している」

人前でしゃべるのは苦手なわたしだが、スピーチ、こんな風にできたらかっこいいだろうなぁと思わずにはいられなかった。スピーチの極意、十箇条つき。
話すこと、そして聞くことの大切さをも、描いた小説だ。

自分では選びそうにない本を、教えてくれた友人に感謝です。
帯の「入学・就職・結婚のお祝いに!」を見て、完全にひいていました(笑)
言葉の選び方ひとつで、人を魅きつけ、また、離れさせてしまう、帯。
そのコピーを読むのも、本好きにはかかせない、本の魅力の一つです。

昨日、義母から、夫のバースディプレゼントが届きました。穴子です。
それをつまみつつ、夕方ウッドデッキで、近所のお二人と夫と4人、
ビールタイム。他愛ない話一つ一つに、聞くことの大切さを思いました。
これまで、しゃべることばかりに夢中になっていた自分を、恥じつつ。

拍手

『百瀬、こっちを向いて。』

「かるく死にたくなったよ」
中田永一『百瀬、こっちを向いて。』(祥伝社文庫)に出て来た、主人公、相原(高校一年、男子)のセリフだ。相原の何処がよくてつきあってるのかと、百瀬(同級生、女子)は女子達に聞かれ、返答に困りこう答えたという。
「しょうがないから、ナメクジみたいなところがいいってこたえておいたよ」
そりゃあ、かるく死にたくもなるよなぁと、読んでいて笑った。
それも、彼らは本当につきあっている訳じゃないのだ。相原は、尊敬する先輩に頼まれ、やむなく、百瀬が彼女だという芝居をしている。誰が見ても、不釣り合いな、ふたりなのに。

野生動物のようなシンプルな格好よさを持ち、躍動するように歩く、野良猫のように挑戦的な目つきの少女、百瀬。
一方、相原は、自分自身を「人間レベル2」と客観視する。10のうちの2ではなく、100のうちの2だ。一生女の子と縁がなく、手を握ることさえできない人々の一員だと、自覚する。
自覚していたのに、好きになってしまった。百瀬に恋をした。相原は、その抱えたことのない心にともった温かな灯りを持て余し、苦しむ。そんな恋する切なさが、あわあわと描かれた短編小説だ。

ところで、最近、気づいたのだが「かるく死にたくなった」は「死にたくなった」とは、全く違う言葉だ。「ちょっと変」と「変」が違うように。だから「ちょっと変。かなり」なんて日本語として「かなり変」なようにも思うが「ちょっと変」をひとつの単語として考えると、ありかな、とも思う。「変」より「ちょっと変。かなり」の方が、言葉として軽い感じもする。柔らかく伝えること、つまりは誤魔化すことに慣れ言葉が一体化してしまったのだろう。

などと関係ないことを考えつつ、今公開中の映画『百瀬、こっちを向いて。』を観に行こうかと、検索した。
「うそ! 山梨でやってないの? なんで? 向井理が出てるのに?」
全くもう。しょうがないから『オー!ファーザー』を観に行くかと再び検索。
「うそでしょ! これもやってないの? 岡田将生、主演のエンタメだよ。なんで! ひどい! 武田信玄にいまだ恨みを持つ、東京もんの仕業か?」
独り言では、八つ当たりも空しく、空を仰ぐ。もう、かるく、そう。もう、かるく絶望するしかなかった。

アイビーの上で撮影。最初に『百瀬』を知ったのは『I LOVE YOU』でした。
伊坂幸太郎目当てで読んだ、男性作家6人による恋愛小説アンソロジーです。

庭のアイビーは、山になっています。何故か? 意味もなく置いておいた、
丸太に根付いてしまいました。いい加減な庭造りが顕著に表れています(笑)
若葉の季節の木洩れ陽は、15歳の恋を思わせますね。

拍手

『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』

本を読んでから映画を観るか、映画を観てから本を読むか。
意見が分かれるところだと思うが、わたしは「まず本、そして映画」派だ。
映画を観てしまうと原作本を読まずに終わることも多く、もったいない、という気持ちもあり、映画化に合わせ、本を読むこともある。まあ、読まなくってもいいかと思い、映画を観る場合もある。

三浦しをん『神去(かむさり)なあなあ日常』(徳間文庫)は、夫が読んだ文庫が本棚にある。だが、手に取る気になれず、スルーしていた。なので、読まなくってもいいか → 映画観ちゃおう、となり、ふらりと出かけた。
『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』

笑って泣いて、楽しんだ。だが、何だろう。この不完全燃焼な感覚。
主人公、勇気は、大学受験に失敗。浪人するのも面倒だし「なんとなく」手に取ったチラシを頼りに、三重県の山奥、神去村に林業修行に行く。その1年間を描いた映画だ。
不完全燃焼感は、この「なんとなく」が、最初から最後まで、勇気から離れなかったせいかも知れない。
「なんとなく」高校卒業したけどやりたいこともなく「なんとなく」林業修行を始め「なんとなく」仕事を覚え「なんとなく」1年が過ぎた。そんな感じ。

映画館を出て、歩きながら考えた。
この「なんとなく」と「なあなあ」は繋がってるのかな、と。タイトルにもなっている「なあなあ」は、神去村の方言で「ゆっくり行こう」「まあ、落ち着いて」などの様々な意味を持つ。スローライフにも通じる鍵になる言葉だ。映画では、そこを前面に出し過ぎて、林業の過酷さも、必死さも、コメディのなかに閉じ込めて、きっちり蓋をしてしまった感が、あった。多分そこが意識下で気になって、不完全燃焼を起こしてしまったのだろう。

でもさ。現実って、実は不完全燃焼なものなのかも、と疑問を持つ。
「なんとなく」働き「なんとなく」恋をし「なんとなく」歳をとるような生き方だって、そう悪くはないんじゃないか。
「わたしだって、なんとなく、生きてるよなぁ」自分をも、振り返る。
「うーむ。やっぱ、読むか」本は、2年後を描いた続編も、発売中だそうだ。

続編は『神去なあなあ夜話』です。

ちょうど、我が家の隣の林で、伐採をしていました。

映画に出てきたように、倒す方にまず、くさび形に切り口を入れ、
反対側から切っていき、少し切り残してそこを蝶つがいにし、
くさびを入れて叩き、切り口を広げ、倒してあります。
ギザギザになっているところが、切り残した蝶つがい部分です。

新しく植えた苗には、ピンクのリボンが結んでありました。
きちんと根付くまで、大切に育てるためです。

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『星間商事株式会社 社史編纂室』

三浦しをん『星間商事株式会社 社史編纂室』(ちくま文庫)を読んだ。
本屋のPOPに、ついつい買ってしまったのだ。その内容は。
「恋愛あり、友情あり、一風変わった趣味もあり。おまけにミステリー要素ありのてんこ盛りお仕事小説。三浦しをんワールド全開!」
早い話が、エンターテイメント・コメディだ。
くつくつ笑いながら読みつつ、時に切なく胸を痛めた。登場人物達のキャラがまた、やたら可笑しく、なのに、みな何処か真面目で、共感さえでき、雲の上を歩いているようなふわふわ感のなかに、血の通った現実が見え隠れする。
不思議な小説だった。以下、本文から、社史編纂室、4人の様子。

「きみは腐女子なんだな、川田くん」
幸代に背広の襟を摑まれつつ、本間課長はなおも念押しした。幸代はもうヤケになって、わたしは腐女子と自称したことは一度もないんですけどねと思いながら「ええ、ええ、そうですよ」と怒鳴った。
「エロい同人誌作ってますよ。ここ十年、抽選落ちしないかぎり夏冬のコミケに参加し続けてますよ、いけないですか?」
「ふじょしって?」みっこちゃんが目をぱちくりさせ、
「朝からなんの騒ぎなんすか、課長」と矢田がソファから身を起こした。

主人公、幸代は29歳。いつふらりと旅に出てしまうか判らない彼と同棲中。高校時代からの女友達3人で同人誌(サラリーマン男同士の恋愛がテーマ)を作ってコミケに出すのが趣味。上手くいってるのか判らない恋に、夢中になって来た趣味に、微かな波紋が広がり始め、会社では、社史を調査中に秘められた過去に気づいてしまう。迷いながらもたどり着いた先に、見えたものは。

強く魅かれた、一文があった。

そうだ。紙に記されたひとの思いは、時間を越えていつか誰かに届く。燃やしつくすことも、粉砕しつくすこともできない、輝く記憶の結晶となって。

「紡がれる言葉」は「誰かの思い」なのだと、再確認した。

「えっ、先輩の彼氏さん、いまおうちにいるんですか?」
と、みっこが話に割りこんだ。幸代は優しく教え諭す。
「彼氏にさんづけするの、やめようね」「なんでですかー」
尻の座りが悪いからだよ、と内心では考えていた。
「氏」ってのがすでに敬称なのに、さらに「さん」をつけたらおかしいだろ。「川田氏さん」って言わないだろ。(社史編纂室での会話より)

月と星の国旗が、物語の鍵になります。小説では架空の国が登場しますが、
実際、月、星、太陽をモチーフにした国旗、けっこう多いんですね。

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『円卓』

リズムが、頭から離れない。
西加奈子『円卓』(文春文庫)を、読んだ。その釣りたての魚のようにピチピチ飛び跳ねる言葉のリズムが、頭のなかをぐるぐる回っているのである。渦原(うずはら)家の円卓のように。
主人公は、こっこ。小学三年生。祖父母と両親、三つ子で中2の姉達と、8人暮らし。その狭い団地の居間に置かれた円卓の描写が、以下。

渦原家のテーブルは、潰れた駅前の中華料理屋「大陸」からもらってきた、円卓。とても大きいから、居間のほとんどを、占拠している。大家族にはとても便利なテーブルなのだが、六畳間の畳の上では、やはり圧巻である、真紅だ。

体言止めを要所要所に効かせた、ガツンとパンチのある文章で、小説全体に統一された心地よいリズムを創り上げている。
さてこっこは、家族に対し不満を訴えはしないまでも、胸のなかには渦巻いているものが多くあった。以下。

こっこ、こっこ、こっこ。にこにこと嬉しそうな三つの、同じ顔。
(凡人が! 三つ子に甘んじやがって!)
だが実際、理子が髪をとかす手は優しく、眞子のくれるチョコレートがついたドーナツ甘く、朋美が縫ってくれるピンクの糸は、可愛い。
こっこは、三つ子に囲まれて眠る。こっこは、孤独が欲しい。三つ子の妹でもない、誰でもない「こっこ」になりたい。

クラスメイト達も、個性的だ。幼馴染みで同じ団地に住み、吃音でしゃべる男子ぽっさん。大人っぽい香田めぐみさん。ベトナム人のゴックん。学級委員の朴くん。授業中いつも紙を小さく折りたたんでいる女子、幹成海、などなど。そしてもちろん、こっこと家族の物語だ。9歳の、子どもから脱皮する瞬間を、描いている。担任のジビキは、夏休み明けの子ども達を見て思う。以下。

子供らが向かうのは、自分と同じ死であるはずなのに、彼らはまったく違う意思を持って、違う目的に歩いていくように思える。その行軍に、すでに成人の自分だけは、混ざれないのだ。彼らは彼らのまま、凶暴に成長してゆく。

この小説、電車のなかでは読まない方が、身のためかもしれない。笑いが止まらなくなる可能性あり、危険だ。

芦田愛奈ちゃん主演、行定勲監督で、映画は6月21日公開予定です。
ジャポニカ学習帳が、小説のなかでは鍵になる小道具なのですが、
お目当ての自由帳は、キャラクターものしか売っていませんでした。

今では、様々なメーカーから出しているんですね。

漢字練習帳を購入。友人とんぼちゃんの勧めで、自分流いろはがるたを、
作ってみることに。テーマは「好きなもの」にしました。

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『あと少し、もう少し』

本屋で、瀬尾まいこの新刊を、久しぶりに見つけた。
開くと1年以上前に刊行されている。最近読んでいなかったなと帯をじっと見るが、買うのをためらった。何故かと言えば、駅伝を走る中学生を描いた青春小説とある。スポコンを読む気分じゃなかった。だが、瀬尾まいこである。ただのスポコンで終わる訳が、あるまい。1分間ためらって、真っ直ぐレジに進んだ。そしてその夜、読み終えた。『あと少し、もう少し』(新潮社)
「いやー、面白かった! さすが、瀬尾まいこ」と、誰彼かまわず言いたくなるほど、ゲラゲラ笑って、ぼろぼろ泣いた。駅伝を走り切った時みたいに、爽快だった。もちろん、駅伝、走ったこともない訳だが。

「章立て」がまず、駅伝の区分けと同じく6区に分かれていて、それぞれ、走者の一人称での語りになっているのが鍵だ。
1区、小学生の頃、いじめられっ子だった、設楽。「身体は無駄にでかいくせに、声は小さくしゃべればどもる。それだけでいじめてくれという雰囲気が漂っているのに、ついでに名前は設楽亀吉だ。おじいちゃんがつけた名前だけど、今の世の中を亀吉で生きていくのは至難の技だ」
2区、はみ出した不良、大田。「俺はやったってできない。だいたいやればできるやつは、ちゃんとやっている。何にも力を注がない時間がこれだけ積み重なった俺にできることなど、一つもなくなっていた」
3区、何でも頼まれれば断れないお調子者、ジロー。「『頼まれたら断るな』これが母親の教えだ。頼んでもらえるのはありがたいことだ。幼いころからそう言われ続けたから、俺の人生はずっとそんな感じ」
4区、吹奏楽部でサックスを吹きクールを装う、渡部。「騒がずはしゃがず冷静で、音楽や美術が好きで知的であか抜けている。ハングリー精神はゼロで、無駄な努力はせず、いつも余裕が溢れている。ちゃんとなりきれているのか、これが正解なのかもわからない。だけど、こういう俺でいれば大丈夫なのだ」
5区、先輩、桝井に憧れて走る2年生、俊介。「こんな時までどうして桝井先輩をなぞろうとするのだろう。誰かのまねをしてうまく走れるわけがない。僕は何のために走ってるんだ。自分自身の走りをせずにどうする」
そして6区、桝井。陸上部に設楽を誘い、俊介に慕われ、部員でもない大田、ジロー、渡部に一目置かれ、駅伝をまとめる役割を背負ったデキルやつ。だが彼にも自分の言い分はあるのだ。

自分が知っている自分と、誰かから観た自分とは、違う。そこには小さな誤解や、大きな勘違いが当たり前にあり、6人のたがいへの思いを読むにつけ、それを思い知らされる。例えば設楽は、乱暴な大田を恐れ、自分はバカにされていると思っているが、大田は小学2年の時に鬼ごっこで追いつけなかった設楽に勝ちたいと単純に思っていた。6人それぞれ抱いている気持ちのズレが、不思議と6人をまとめていく。それ故に起こる風を感じるストーリーだった。

前から、設楽、大田、ジロー、渡部、俊介、桝井の順で走っています。

カバーを開くと、何処までも広がる見慣れた田舎の風景。
自転車でも追いつけない陸上を知らなさすぎる顧問、上原先生に、
桝井は苛立ちを感じますが、彼女はマイペースで応援していきます。
「ファイト」と「がんばって」と「あと少し」
彼女が彼らにかけた、3パターンしかなかった言葉を、かけたくなる絵です。

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パプリカ、ワイン、泣き上戸?

『おうちで、ワイン』の夜が多くなり、パプリカが、食卓によく登場するようになった。焼いてよし、生でよし。色味が綺麗だから、料理も華やいだ雰囲気になる。さっぱりしていて、こってり系の料理と合わせると、酒も進む。何もない時には、オリーブオイルと塩胡椒、バルサミコ酢をかければ、パプリカだけで、じゅうぶん美味しい肴になる。なので、最近は常備し、重宝している。だがその味は、わたしのなかでは、ちょっと切ない。

パプリカで思い出す、小説のワンシーンがある。川上弘美の連作短編集『神様』(中公文庫)に収められた『草上の昼食』だ。以下、本文から。

ワインは飲まないの、と聞くと「酒はたしなみません、おつきあいできなくて申し訳ない」と答えた。くまの白湯のコップとわたしのワインのコップを打ち合わせ、食事を始めた。最初わたしもくまも黙りがちだったが、くまが料理の作り方を説明しはじめたころから、次第に口がほぐれてきた。
赤ピーマンが甘いね。「薄皮を剥くのが少しむつかしいでした」
どうやって剥くの。「オーブンで十分ほど焼いて、それからすぐに紙袋に入れて蒸らします」なるほど。「うまく蒸れるとするする剥けます」
気持ちよさそう。「気持ちいいです」お料理はどこで。「自己流です」
上手。「今まで何でも自己流でしたから。学校に入るのも難しいですし」
ああ。くまであるのならなるほど学校には入りにくかったかもしれない。学校ばかりではない、難儀なことは多かろう。

同じマンションに越して来た、雄の成熟した熊と、生きにくさを抱えて生きている主人公、わたしを描いた、連作短編のなかでもキーになるストーリーだ。
熊は親しくなったわたしに、別れの挨拶を言うため、手をかけた弁当を作りピクニックに誘ったのだった。「結局馴染みきれなかったんでしょう」と言う熊に「わたしも馴染まないところがある」と、口にせずただただ思うわたし。「おなじく、わたしも馴染まないところがある」と、何度読んでも切なくなる。それで多分パプリカには、切ないスパイスが効いてしまっているのだ。
ん!? いーや、案外パプリカが美味しくて、ただワインが過ぎるせいなのかも。パプリカ、ワイン、泣き上戸? うーん。真実は霧のなかだな。

冷蔵庫にあるものを、オリーブオイルで炒めて塩胡椒するだけで、美味しい!
お好みで、バルサミコ酢をかけても。

チキンとしめじのグラタンにも、色取りに。焼く前にのせるだけ。

簡単おつまみ、ワイン用。バルサミコ酢の代わりにレモンでもOK!
庭のイタリアンパセリは、日々活躍中。伸びすぎたアスパラも。

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『昨夜のカレー、明日のパン』

ぎっくり腰をいいことに、のんびり本を読んだ。
『昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン』(河出書房新社)木皿泉(きざらいずみ)初めての小説にして、本屋大賞ノミネート作品である。初めての小説と言っても、ふたりで一つの作品を生み出す売れっ子脚本家夫婦の、という前置きつき。ふたりで、どうやってかくんだろう。謎だ。しかし、誰がかいていたっていい。例え百人の共作だとしても、小説さえ面白ければ。
で、文句なく面白い連作短編集だった。何しろ空気がいい。澄んでいる。容赦なく濁ったものを、浮き出させるほどに。

物語は、ひとつの家庭から始まる。テツコとギフ。ギフは文字通りテツコの義父で、テツコは7年前に夫、一樹(カズキ)を亡くして以来、28歳の若さで、ギフとふたりで暮らしている。テツコの恋人、岩井。隣人で一樹の幼馴染み、タカラ。いとこの虎尾。一樹の死んだ母親、夕子。様々な人の思いが、ドラマとなり綴られている。

ひとつひとつの短編に収められたエピソードに、読んだ人それぞれ、ビビッとくる要素があり、またそれもそれぞれ違うんだろうなと思いつつ、わたしがビビッときた文章を挙げてみようと思う。

テツコは、急に憎くなった。晴れやかに笑っている雑誌の表紙のアイドルも、美しい歯をそのままにと書かれたガムの包装紙も、活性酸素を除去するという天然水のペットボトルも、なにもかも憎かった。
        『昨夜のカレー、明日のパン』収録『ムムム』より

中学の頃、鞄や机に突っ込んだままにした学級通信を、思い出した。
中学生のわたしは、危うく読みそうになり「目が、つぶれる」と、読まずにくしゃくしゃにした。今思うと、先生達大人も一所懸命だったんだろうと判る。だが、そこに並べられた「一所懸命」だとか「前進」だとか「真心」「誠意」「心を一つに」「笑顔」「目標に向かって」などなどの言葉に共感できるものは、なかった。と言うか、くしゃくしゃに丸めて捨てるしかなかった。テツコのように、綺麗なものすべてを、憎んでいたんだと思う。

誰しも胸の奥にそんな気持ち、抱えてるんじゃないかな。不器用だなぁと自分でも思いつつ。そんな不器用な人達のハートウォーミングストーリーである。

銀杏の木が、物語の核になっています。栞の黄色が綺麗です。
カバーをとってみると、箸置きと箸。ギフとテツコのものでしょうか。
食卓って、やっぱり家庭の核なんだよなぁ。

タカラは、今、私はファスナーの先端だと思った。しっかりと閉じられているこの道は、私が開けてくれるのを待っている。そう思ったら、何だか嬉しくて、気がつくと心の底から笑っていた。
     『昨夜のカレー、明日のパン』収録『パワースポット』より

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『女のいない男たち』(6)

村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)も、6話目でラスト。表題作で、書き下ろし作品だ。
ストーリーは、真夜中の電話で、昔の恋人の訃報を受けた男が、失くした恋人について、恋人を失くすということについて、また『女のいない男たち』について、思いを巡らせることに終始する。

読みながら、くすくす笑いが止まらない小説だった。筆が滑り過ぎでしょうと思うのだが、それが村上春樹独特のユーモアになっていて、ここまで、さらにここまで滑らせるかと、可笑しくてたまらなくなるのだ。
真面目にやればやるほど滑稽で、可笑しさが込み上げ笑いが止まらないタイプの一人芝居を観ているようだった。
例えば、精一杯ドレスアップし気どった女性が、ネックレスと間違えて延長コードを首にかけていることに気づかずにいるような、そんな可笑しさと言えば理解していただけるだろうか。以下、本文から。

世界中の船乗りたちが彼女をつけ狙っているのだ。僕一人で護りきれるわけがない。誰だってちょっとくらい目を離すことはある。眠らなくてはならないし、洗面所にもいかなくてはならない。バスタブだって洗わなくてはならない。玉葱を刻んだり、インゲンのへたをとったりもする。車のタイヤの空気圧をチェックする必要もある。そのようにして僕らは離ればなれになった。
         『女のいない男たち』収録『女のいない男たち』より

そう言えば、恋するってこと自体、滑稽だよなと思い当たった。本人達は大真面目で必死な訳だが、傍から見ると、微笑ましくもあり、可笑しくもあり。放っとけよと言われそうだが、揃いのTシャツを着ていたり、半分に割れたハートの欠片をふたりしてぶら下げていたり、恋するものだけが出来る滑稽な行動だと、歳を重ねた今なら判る。歳をとったらとったで、また何処までも滑稽なのだが。ラブコメが、永遠であり続ける所以かな。

いやいや。この小説がラブコメという訳ではない。どちらかと言えば短編集のエピローグといった役割で、ラストにそっと、かなりうるさく収まっている。
まあ、などなどと『女のいない男たち』を読み、楽しみ、くすくす笑う女たち、のひとりであるわたしは、思うのである。

写真はイメージです(笑)7年前イタリアを旅した時のものです。
短編『女のいない男たち』では「水夫」がタフな男たち代表になっています。

女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)彼女を連れて行ってしまうのは奸智(かんち)に長けた水夫たちだ。
                『女のいない男たち』より

最後まで顔が見えてこなかった死んだ昔の恋人は、こんなイメージかな。
ヴェネツィアのカフェです。工事中の目隠しには、素人(?)アート。
photo by my husband

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『女のいない男たち』(5)

村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)の5話目『木野』は、わたしが思うに、なかでもとりわけ村上春樹的な小説だった。

木野(きの)は、主人公の男の苗字で、また店の名でもある。
青山は根津美術館の裏手の路地に、彼は『木野』というバーをひとり経営している。物語は、いつも同じ席に座る独特な雰囲気を持つ男の話から始まるのだが、次第に木野の心の闇に触れていく。木野は、同僚と妻との浮気現場を目撃し、何も言わず家を出て、ひとり落ち着ける場所を求めてたどり着いた猫のように、バーを始めたのだった。
だがある日、男が木野に言う。此処から離れ、遠くに行くようにと。「多くのものが欠けてしまった」から、と。木野は男に訊ねる。「正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから、重大な問題が生じた」ということか、と。木野がしなかった「正しいこと」とは。以下、本文から。

しかし時間はその動きをなかなか公正に定められないようだった。欲望の血なまぐさい重みが、悔恨の錆びた碇が、本来あるべき時間の流れを阻もうとしていた。そこでは時は一直線に飛んでいく矢ではなかった。雨は降り続き、時計の針はしばしば戸惑い、鳥たちはまだ深い眠りに就き、顔のない郵便局員は黙々と絵葉書を仕分けし、妻はかたちの良い乳房を激しく宙に揺らせ、誰かが執拗に窓ガラスを叩き続けていた。こんこん、こんこん、そしてまたこんこん。目を背けず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがおまえの心の姿なのだから。   『女のいない男たち』収録『木野』より

読み終えて、自分の心の闇さえも覗いてしまったような深い喪失感を覚えた。

表紙のこの絵はバー『木野』を描いたものでした。

路地の奥の一軒家、小さな目立たない看板、歳月を経た立派な柳の木、無口な中年の店主、プレーヤーの上で回転している古いLPレコード、二品ほどしかない日替わりの軽食、店の片隅で寛いでいる灰色の猫。そんなたたずまいを気に入って、何度も足を運んでくれる客もできた。  『木野』より

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『女のいない男たち』(4)

友人宅で、ふたり、のんびりと家飲みし、気持ちよく酔っぱらっていた。
その帰り、中央線。都心に向かう各駅停車での出来事である。
22時を過ぎた金曜の夜。それも大型連休に入る前日だ。車両には、立っている人が5人ほどで、空いている席もあった。全体にまったりとした雰囲気が漂っているのは、酔っているせいだったのだろうか。
わたしは、行きの電車で読み終えたばかりの村上春樹『女のいない男たち』(文藝春秋)と、小さなショルダーバッグを膝の上に置き、ドアの隣の端の席で、手すりに頭をもたれかけ、斜めに車内を眺めるでもなく観ていた。

友人は、とても素敵に明るく笑う女性で、彼女と話すと、真剣に悩み事を語り合った夜でさえ、すっと心が軽くなるような不思議な力を持っている。また気配りの人でもあり、わたしのグラスには、飲めども飲めども、泡のたった新しく冷たいビールがまるで湧いてくるかのように継ぎ足されていく。自分で思っているよりも、ずいぶんと酔っぱらっていたのかも知れない。

そんな風にして観た電車のなかの風景は、何処か現実とズレているような錯覚をさせた。ふと、隣に座っているOL風の女性が、舟を漕いでいるのを肩に感じ、彼女の膝に目を落とした。膝の上の開かれたままの本に、一瞬にして2つのワードを読みとってしまう。
「シェエラザード」と「羽原(はばら)」『女のいない男たち』に収められた4話目の短編『シェエラザード』だと判る。

『シェエラザード』は、何かの理由で「ハウス」に隔離された羽原と、そこに連絡係として食料などを運ぶシェエラザード(とは、羽原がこっそりつけたニックネームで、彼女の前でそう呼ぶことはない)の話だ。シェエラザードは、捉えどころのない話を、訪ねる度に羽原に語り聞かせるのだった。

「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッドのなかで言った。とてもあっさりと「北極点はずっと北の方にある」と告げるみたいにこともなげに。   『女のいない男たち』収録『シェエラザード』より

わたしは、そっと自分の膝の上の本をショルダーバッグで隠した。彼女は、舟を漕ぎ、また目覚め、本のページをめくり、また舟を漕いだ。
静かに車内を、見回してみる。そして想像する。この電車に乗るすべての人が『女のいない男たち』を鞄に忍ばせているんじゃないかと。
立っている人達が、海の底でゆらゆらと揺れる水草のように揺れていく。あるいは、シェエラザードが羽原に話した、水草に紛れて揺れる「やつめうなぎ」のように。わたしは1冊の本を読み終えた充実感と、友人の笑顔を思いつつ、くつくつ笑いたくなるのを必死にこらえながら、ただそれを見つめていた。

ライトなビールが大好きなふたり、バドワイザーで乾杯 ♪

アボカドのカルパッチョ、さっぱりレモン味で、うーん、ボーノ!

ご主人がご帰宅。ちゃんと西京焼きと野菜たっぷりナムルを用意していて、
身体のことに、気を使ってるんだよなぁ、と感心しました。
「お酒は、イケる方なんですか?」と聞かれ「少々」と答えました。
「その少々が、一番怖いですね」と、笑っていただき(?)ました。

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『女のいない男たち』(3)

引き続き、村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)を読んでいる。3話目は『独立器官』52歳の整形外科医、渡会(とかい)について、僕(谷村)が、文章をかき起こす、というスタイルでかかれていた。

渡会は、結婚生活には興味がない、いわゆる独身主義者だが、女性と過ごす時間は、重要視していた。結婚を前提とせず、便利な「雨天用ボーイフレンド」に徹することで、複数の女性達と、質のいい時間を共にすることができ、充実した日々を送っていた。しかしある日彼は、落ちてしまった。深い深い恋に。
渡会は自ら、それをこう表現した。
「彼女の心が動けば、それにつれて引っ張られます。ロープで繋がった2艘のボートのように。綱を切ろうと思っても、それを切れるだけの刃物がどこにもないのです」
谷村には、彼の気持ちが理解できなかった。いや、判り過ぎていたとも言える。恋に落ちるということは、何も渡会だけではなく、誰もが経験するごく自然な感情なのだから。だが渡会は、その、ごく自然な感情の波に飲まれ、自分を見失っていった。いや、真剣に自分を見つめ過ぎたのかも知れない。

渡会の女性全般に対する見解が、印象的な文章となっている。

どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なところで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。
            『女のいない男たち』収録『独立器官』より

恋に落ちる。そのコントロール不可能な激しい感情を、息ができないほどに切ない気持ちを、思い起こさずにはいられない小説だった。

小説に登場した『ブラック・アンド・タン』を作ってみました。
黄色と黒に分離した神秘的なビアカクテル。
ほんとはギネスで黒を表現するんだけど、手に入らず。
上手くいかなーい! 2度目で ↓ こんな感じ。

我々はフライドポテトとピックルスをつまみに『ブラック・アンド・タン』の大きなグラスを傾けていた。
「『逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり』という歌がありますね」と渡会が言った。「権中納言敦忠」と僕は言った。どうしてそんなことを覚えていたのか、自分でもよくわからないけれど。

渡会は、言う。「恋しく想う女性と会って身体を重ね、さよならを言って、その後に感じる深い喪失感。息苦しさ。考えてみれば、そういう気持ちって千年前からひとつも変わっていないんですね」

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『女のいない男たち』(2)

村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)を、読んでいる。
2話目の『イエスタデイ』は、木樽(きたる)という名の大学時代の友人について、主人公、僕(谷村)が一人称で語る形式をとっている。

木樽はビートルズの『イエスタデイ』を関西弁に訳し風呂でよく歌っていた。
♪ 昨日は あしたのおとといで おとといのあしたや ♪
東京は田園調布出身の木樽は、神戸出身の谷村からみても、完璧な関西弁を喋った。阪神タイガースの熱烈なファンで、わざわざ関西にホームステイして学んだという。その木樽に、谷村は頼みごとをされる。
「なあ、谷村、そしたらおれの彼女とつきおうてみる気はないか?」
木樽には、小学生の頃からつきあっている女の子がいた。

一貫して出てくる谷村の自己分析が、面白い。(以下、本文から)

うまく言葉が出てこなかった。大事な時に適切な言葉が出てこないというのも、僕の抱えている問題のひとつだった。
(じゃあ、デートしましょうと木樽の彼女が言った時)

何かがいったん決定されてしまってから、どうしてこうなってしまったのかと考え込んでしまうところも、僕の抱える問題のひとつだ。
(木樽の彼女とのデートが、決まってしまった時)

誰かにすぐ大事な相談をもちかけられてしまうことも、僕の抱える恒常的問題のひとつだった。
(木樽とのこれからについて、彼女に相談をもちかけられた時)

決めの台詞を口にしすぎることも、僕の抱えている問題のひとつだ。
(16年後再会した彼女が、回り道し続けている自分を持て余している様子に「僕らはみんな終わりなく回り道をしているんだよ」と言いそうになった時)

この短編は、彼女が繰り返し見たという夢が鍵になっていて、その夢の存在が、小説全体を切なく美しいラブストーリーに創り上げている。
なーんて、分析しちゃうのが、わたしの抱える問題のひとつかも知れないな。

最初で最後のデートに、谷村が彼女を誘ったのは、小さなイタリアン。
写真はイメージです(笑)7年前に夫とイタリアを旅した時のもので、
ローマの中心部から川を超えた『トラステベレ』という地域です。

「ピザとキャンティ・ワイン?」と木樽は驚いたように言った。
「ピザが好きやなんて、ちっとも知らんかった」

彼女が見た夢は、長い航海をする大きな船の船室から見た風景でした。
写真は、ヴェネツィアです。ゴンドラには、乗れませんでした。

夢のなかの風景は、夜でした。海には月が映っていました。
写真はフィレンツェのヴェッキオ橋から見た、夕暮れです。
photo by my husband

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『女のいない男たち』(1)

久しぶりに、村上春樹を読んでいる。出版されたばかりの短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)6編の短編小説が収められていて、1話目の『ドライブ・マイ・カー』を、読み終えたところだ。
何年か前に病気で妻を亡くした舞台俳優、家福(かふく、と読む。苗字だ)が、専属ドライバーに雇ったのは、運転の腕にかけては超一流で無口な24歳の女性、みさきだった。会話のない車中を、心地よく感じていた家福だったが、ふと、亡き妻に対し抱えていたある思いを語り始めるのだった。

「そういうのって気持ちとしてつらくはなかったんですか? 奥さんと寝ていたってわかっている人と一緒にお酒を飲んだり、話したりすることが」
「つらくないわけないさ」と家福は言った。
「考えたくないこともつい考えてしまう。思い出したくないことも思い出してしまう。でも僕は演技をした。つまりそれが僕の仕事だから」
「別の人格になる」とみさきは言った。「そのとおり」
「そしてまた元の人格に戻る」「そのとおり」と家福は言った。
「いやでも元に戻る。でも戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている。それがルールなんだ。完全に前と同じということはあり得ない」
        『女のいない男たち』収録『ドライブ・マイ・カー』より

読んでいて、この文章が、すっと胸に落ちた。
女優でも何でもない、繰り返しの毎日を生きているわたしだが、昨日と今日は、少しだけ立ち位置が違っているのを感じる。一つの小説を読む前と後では、やはり少しだけ立ち位置が違っていることを感じる。友人とゆっくり喋った後にも、同じようにそれを感じる。それは「成長」や「進歩」などと呼ぶ種類のものではない。在るか無しかのほんの小さな、けれど確かな「変化」だ。
家福の台詞は、そんな目に見えない変化を、垣間見せてくれた。

さて今夜は、2話目『イエスタデイ』を楽しもう。

この表紙を見て、思い出しました。村上春樹が学生時代に経営していたジャズ喫茶が『ピーターキャット』彼の飼い猫からとった名だということを。
村上龍も訪れたことがあるとか。わたしはもちろん行ったことありません。

家福の車は、黄色のサーブ900コンバーティブル。
彼の亡き妻が、選んだ色です。

帯には、1話ずつ丁寧な紹介分が載せられていました。

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水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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