はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在

夫がとうとう、ルンバを「びっきー」と呼んだ。

「びっきー」というのは我が家の愛犬。13歳で彼が死んでから2年半経つ。上の娘の10歳のバースデイプレゼントだったから飼い主は娘だ。里親の会のイベントで捨て犬だったびっきーを選んだのも、名前をつけたのも娘である。
その頃、末娘はまだ5歳。小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在だった末娘。そこにもっと小さなびっきーが来て、わたしはちょっと混乱した。ついつい、呼んでしまうのだ。「びっきー」と呼ぶところ、末娘の名を。「あ、そこは危ないよ」とか、とっさのときに。
末娘からしたら、それはかなりおもしろくないことだったようだ。「小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在である」という共通点が招く混乱なのだが、若干5歳の彼女にそんな大人の都合が理解できるはずもない。

そんなことが記憶にあったので、感慨深いのだ。
「ふーむ。とうとう呼んだか。ルンバを、びっきーと」
しかし彼は「小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在」なのだろうか。ベッドの下に入ろうとして挟まって動けなくなったりしていると、ちょっと可愛いなと思ったりもするのだが。

びっきーは、生後2カ月で我が家にやってきました。
自分の家に、ちょっと慣れた頃の写真です。

飼い主である上の娘と、嬉しそうに散歩するびっきー。

夏毛に生えかわって、元気いっぱい走り回っていたびっきー。

冬毛がふさふさ生えていて、ちょっとだけ強そうに見えるびっきー。
「ごぶさたしています。びっきーです。ちょっとおとーさん、
ルンバと僕が一緒っていうのは、ひどいんじゃないでしょうか。
えっ? なかなか可愛いやつだから、友達になってくれって?
2階から落ちないように見張ってくれないかって?
責任は持てませんけど。そう言うんなら。犬が好いなあ、僕も」

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都会の藤と田舎の藤

野山に咲き乱れる藤の花を見て、なつかしく思い出した。びっきーがいた2年前の春まで、彼と散歩する道すがら、藤の花が咲いたことを教えてくれたのは足もとに散ったいく枚かの花びらだった。

それを都会に住む友人に話すと「田舎では、そうなんだね」と言われた。
都会では、藤は藤棚で咲くもので、それは花壇に咲いているチューリップの如く、人によってきちんと整備された主張を怠らない花であり、そのイメージが定着しているのだそうだ。なので、高い、視野の範囲を超えた場所で咲き、地面に落ちた花びらでその花が咲いたことを知るなど、あり得ないことらしい。

それを聞き「そうだっけ」と、すでに都会での暮らしを思い出せなくなっている自分に気づいた。山梨の田舎に越して来て15年と少しが経っている。それでも、東京で暮らした時間の方が遥かに長いというのに。
わたしはもう、すっかり田舎のねずみになったのだろうか。
見上げる高さの藤の花を愛で、嬉しいような淋しいような気持になった。

東側の林で咲いている藤の花です。高い場所にもたくさん咲いています。

こちらは、夫が一眼レフで撮った写真。
普段は遠目にしか見えないひとつひとつの花を、綺麗に捉えています。

足もとに落ちた藤の花。風情がありますよね。散った花びらは、藤色じゃなくて紫色なんですよね。藤が終わると、白い房のニセアカシアですね。あの匂い、犬的観点からは強すぎて好きにはなれないなぁ。ところでおかーさん、足もとで藤の花びらを見つけてないってことは、散歩をサボっているんでしょう。それじゃあ太る一方ですよ。全くしょうがないなぁ。ぶつぶつ。

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八ヶ岳おろしに混じる雪

八ヶ岳から吹き下ろしてくる強い北風を、八ヶ岳おろしと呼ぶ。
八ヶ岳おろしが、林の木々をキィーキィーと鳴らし、広葉樹のしがみついていた葉を吹き飛ばし、家じゅうを揺らした翌朝、八ヶ岳で一番高い赤岳には、雪が積もっていた。
「おー、雪だ」夫のその言葉は、テレビに映った札幌に降った雪のことを指していたのだが、わたしはつい、窓の外を見てしまった。
晴れた朝、雪が降ると思っていた訳ではない。八ヶ岳おろしに、雪が混じり舞ってきたのかと思ったのだ。

「冬が、来たね」と、わたし。「嫌だね」と、笑いながら夫。
「嫌だねぇ。でも今年は、びっきーがいないから、寒いなか外を歩く機会は、ずいぶんと減るね」と、わたし。
びっきーが死んでから、もうすぐ1年になる。
びっきーと一緒に、八ヶ岳おろしに混じる雪を頬に受けながら歩いた日々。
今は、心にともった灯りのように、温かい気持ちで思い出せる。
雪の上をサクサクと、音を立てて歩くのが大好きだったびっきー。もしかすると今頃、冬を先取りして、雪の赤岳を散歩しているかも知れない。
そう思った瞬間、北風にびっきーの匂いを感じた。

一昨日の八ヶ岳です。木枯らしを吹かせる雲がかかっていました。

そして、昨日の朝。最高峰赤岳は、すっかり雪化粧しています。

夕方には、権現岳も、顔を出しました。

一方、南アルプス連峰は、雲一つなく、のんびりと八ヶ岳の雪を、
眺めているかのようです。すがすがしい表情をしていました。

山里では、そろそろ柿もおしまい。重そうに枝をたれていました。

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チェシャ猫が消えた庭で

最近、猫を見かける。灰色の目立たない縞模様で、太ったやつだ。
この辺りには、越してくる前から野良猫がいた。だがこれまで、道で見かけても、我が家の敷地内には入ってこなかった。また、迷い込んだとしても、東側の林には足を踏み入れることはなかった。びっきーが、居たからだ。
しかし、12月に彼が死んでから、はや5ヶ月。犬小屋はあっても、主は長く留守にしていることを知っているのだろう。長い鎖をつけたびっきーが自由に行き来していた、隣の林との間を、猫が悠々と歩いていく。
わたしを見ると、一瞬立ち止まり、警戒したような目で一瞥し、走って行ってしまうので、やはり野良だろう。あれだけ太っているのだから、誰かが餌をあげているのかも知れない。

「ん? 太った縞々の猫と言えば、チェシャ猫?」
不意に、目の前の風景が、揺らぐ。
ご存じの通りチェシャ猫とは『不思議の国のアリス』に登場する架空の猫である。アリスが困ったり迷ったりしていると、にやにや笑いと共に何処からか現れ、助言とも、悪戯ともとれるセリフを残し、消えていく。
「もしかして本当に、チェシャ猫なのかな。あいつ」
突然、迷子になったことに気づいた時のように、急に心細くなる。頭も目もぼんやりとして、此処はいったい何処なんだろうかと、考える。
びっきーがいた、この場所。びっきーがいない、この場所。
チェシャ猫が消えた庭で、そんな風にしばらく、真昼の月を探した。

鎖も、水入れも、小屋同様、何も片づけていません。
びっきーが好きだった毛布も、置きっぱなしになっています。
種が飛んだのか、小屋の横から、ムクゲが芽を出し、伸びています。

隣の林のクヌギは、今年もびっきーのために木陰を作ってくれています。
林のあちらこちらに、ヤマツツジが咲いていて、可愛い ♪
びっきーが走り回っていたので、ここにだけ雑草が生えていません。

北側は、急な傾斜で、農業用水路、堰が流れています。
橋もついているので、猫なら楽々渡って行き来できるはず。
チェシャ猫ならば、もちろん橋は必要ありませんが。

北側の足元には、木苺がいっぱい。勝手に出てきています。
きみは、スズメバチ? それとも、アシナガバチ? 判別難しいです。

一昨年の夏、北側の軒下に、キイロスズメバチが作った巣は、
鳥に突かれたまま保存状態(笑)2度は使わないそうです。

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春が来たよ、びっきー

毎朝、我が家の前を犬が通る。もちろん、犬だけではない。飼い主も通る。散歩コースにするのに気持ちのいい道なのだろう。
3か月前、びっきーが13歳で死んでから、犬を見る度に胸が痛むものなのかと覚悟していた。しかし、そんなふうに思う朝は一度もなかった。捨て犬だった雑種の彼と重ね合せるほど似た犬に会っていないこともあるが、他の犬とは全く違うのだと、頭ではなく胸の奥の部分で認識していたことを、今になって知ることとなった。
びっきーを思い出さないというのとは違う。玄関横の彼の小屋には、今でも声をかける。
「びっきー、ただいま」
リビングにはまだお骨があり、雪が解けたら埋めてあげようかと相談したりもしている。だがもう、胸が痛んだりはしない。静かに眠る彼の安らかな心持ちが判るのだ。

よく晴れた週末、久しぶりに土いじりをした。伸びすぎたツルムラサキを切り、落ち葉を除くと、先週取り残したふきのとうが出ているのを見つけ、クリスマスローズが蕾をつけていることに驚き、気持ちよく汗をかいた。
夫が落ち葉を集めるカサコソという音。頬にあたるやわらかな風。そして、湿った土の匂い。そのとき、不意にびっきーを思い出した。濡れた鼻をひくひく動かし、土の匂いを嗅ぐびっきーを。
頭でも胸の奥でもなく、彼と一緒に嗅いだ土の匂いを身体に感じて、びっきーがすぐそこに居るかのように思い出したのだ。
一つ思い出すと、記憶は堰を切るようにして押し寄せてきた。何かを探し土を懸命に掘る力強い前足。落ち葉を踏む音を楽しみつつ歩くピンと伸びた耳。陽だまりで眠る安心しきったような背中。
「びっきー・・・、春が来たよ」
土いじりの手を休め、暮れていく早春の空を、しばし仰いだ。

ふきのとう、3つ発見! 大人になっても楽しい宝探しです。

このところ、毎日食卓に登場するイタリアンパセリ。

大雪の下に埋もれていて、あきらめていたから、なお嬉しい。
クリスマスローズの濃いピンクの蕾です。

春の空気を思いっきり吸い込むには、こうしてみてください。

ハァハァ。ちょっと息が切れました、失礼。
うーん、撹拌された春が、身体じゅうに満ちていきます。
胸の奥でも、頭を出したばかりの小さな芽が、草の匂いを放っています。

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手袋、履きますか? はめますか?

今でも、口をついて出てしまう時がある。
「あ、びっきーとの散歩用の手袋、履いちゃった」
雪掻き中、一息ついた時にびっきーの匂いがして、つぶやいた。玄関に置きっぱなしにしていた散歩用の手袋には、まだ、2か月前に死んだびっきーの匂いが、残っていた。いつのまにか、2か月が過ぎていることに、驚く。

『手袋を、履く』と言うのは、両親が生まれ育った北海道は森町の言葉だ。
今でこそ、方言って素敵だなという感じ方も一般的になっているが、わたしが小学生の頃には、違う言葉 = 間違った言葉、方言を使うのは恥ずかしいという意識があり、それを違うと指摘する子もいた。
それに、わたしが使う北海道の言葉は、如何にも中途半端で、東京言葉のなか、自分でも知らないところに散りばめられているという具合。指摘されるのが嫌で、話すことが億劫になり、無口だと言われた頃もあった。

だが、ある時、母に聞いてみた。
「どうして、北海道では、手袋を履くって言うんだろう?」
すると、思いもよらない答が返ってきた。
「手は、真っ直ぐ下におろすと、腰より下になる。だから、北海道では、履くって言うんだよ。でも、上にあげると、腰より上。だからきっと、東京では、はめるとか、するとか言うんだね。どっちも間違いじゃないんだよ」
なるほど。すとんと腑に落ちた。それからは、口をついて出てしまった時には「北海道では、ね」と、話すようになり、気が楽になった。
地方によって違う言葉を使うのは、間違いじゃない。もしかしたら、面白くて素敵なことかもと、小学生のわたしは、わくわくとしたものだった。

びっきーの匂いと雪の匂いに、子どもの頃遊びに帰った北海道を思い出した。夏にしか行ったことのない北海道を、何故か思い出した。

びっきーを、いっぱい撫でて、匂いが染みついている手袋。

朝7時。前日溶けた雪が滑ってくださいと言わんばかりに、凍ってました。

畑に入る人は、誰もいません。動物の足跡すらありませんでした。

雪は、大好きです。歩くとサクッサクッと音がするのが楽しいし、
綺麗なものも汚れたものも、すべてを覆い尽くし、
真っ新にしてくれる。新しい気持ちが、静かに芽生えるのを感じます。

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エアワンコと一緒に

夕方まで座りっぱなしで仕事をして、身体ががちがちに固まってしまったこともあり、一段落ついたところで、思い切ってウォーキングに出かけた。
昨日は、このまま春が来るのかと勘違いしそうなほど暖かく、夕暮れが近づいても気温は下がることがなかった。

びっきーがいない手持無沙汰感を振り払うように、早足で歩く。すると、一つ目の十字路で、犬の散歩をする近所の人と会った。
「お、びっきーは?」と、彼は言いかけ、もういないことに気づいたようだ。
「少し、歩こうかと思って」と、わたし。すると、
「ああ、エアワンコと、散歩かぁ」と、笑った。
「いってらっしゃい」と、後ろを歩く奥様も励ますように声を掛けてくれた。

「エアワンコ、かぁ」
何故か、そう言われた途端、足元に、小さかった頃のびっきーがちょろちょろしているような気分になる。かと思うと、急に大きくなって走り出したり、立ち止まって土の匂いをくんくん嗅いだり。
それからは、エアワンコと一緒に歩いた。何しろ、びっきーとよく散歩した道だ。あちらこちらにエアワンコが居るのを感じる。だがその犬は、びっきーではないのだと判る。びっきーによく似た、びっきーではない犬。

ほどなくして、まだ別の近所のご夫婦と会った。彼らもウォーキング中で、びっきーを連れていた時はペースが合わず、挨拶して別れるのみだったが、昨日は一緒に歩いた。びっきーが死んだことや、おたがいの子ども達のことなどをしゃべりつつ、歩く。
そうして歩くうちに、エアワンコは、何処かへ行ってしまった。
「明日も、歩こうかな」
びっきーがいないのは淋しいが、外の空気を吸ったせいか、身体を動かしたからか、思いのほか、気分はすっきりしていた。

梅はもう、蕾が膨らんでいました。

枯れススキも、春を待って種を落としています。

八ヶ岳の雪も、昨日はずいぶん溶けました。
畑が、綺麗に耕してあります。何を植えるんでしょうか。

この写真は、8歳の初夏ですね。隣が林だったから、毎日が森林浴でした。
おかーさん。写真ばかり撮っていては、有酸素運動になりませんよ。
ほら、もっと腕を振って。足は高く上げて。汗、かかなくっちゃ。

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柚子の匂い、日向の匂い

箱根から帰ると、柚子が届いていた。昨年も同じ頃に送ってくれた、東京で農業を営む友人からである。40個近くある。嬉しい。

包みのなかには、クリスマスカードが入っていて、メッセージに添えて吉野弘の詩『生命は』が、手書きでかかれていた。
「生命は、自分だけでは完結できないようにつくられているらしい」
から始まる、長い詩だ。花だって、めしべやおしべだけでは足りず、風や虫が訪れてこそ命が生まれることなどが、静かにかかれ、
「生命は、その中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ」
と、一連目を結んでいる。

真っ先に思ったのは、びっきーのことだった。
びっきーが死に、彼と接した時間を思うとき後悔に似た感情が見え隠れし、何処かもやもやしたものを抱えていた。だが詩を読み、びっきーとわたし達家族は、おたがいに欠如した部分を満たし合っていたのだと、腑に落ちた。
足りないところだらけのわたしだが、これは短所ではないのだと思えた。満たしてくれる誰かに出会える素質に、恵まれているということなのだ。そしてわたしも、誰でもが、誰かを満たすものを、何か持っているはずだと。
柚子をひとつ手に取り、匂いをかいだ。小屋の前や石の上で、よく日向ぼっこしていたびっきーを思いだし、胸が温かくなった。

陽だまりを集めたような、あったかい色ですね。

クチナシの実も、入っていました。きんとんに使おう♪
  
はりねずみ達が描かれたクリスマスカードでした。
庭を歩くと、枯葉に埋もれながらも、
気持ちよさそうに太陽を浴びるツルムラサキが目に留まりました。

去年の写真を、おとーさんが写真立てに入れて、飾ってくれました。
小春日和は日向ぼっこ日和。朝から昼過ぎまでぽかぽか陽のあたる小屋です。
玄関の横だから、宅配便のおじさん達とも仲良しだったんですよ。

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冬一番の木枯らしが吹いて

冬一番などという言葉はないが、これはもう造語でも何でもいいから、あえてそう呼びたくなるような北風が吹いた。
「地震?」と、何度も疑ってみるが、風である。
我が家はこの土地に生えていた赤松を、大黒柱や梁などに使い建てたせいもあってか、隣りの林の赤松のようにしなり、揺れるのだ。
「こりゃ、防風林だな。いや、防風家(ぼうふういえ)だ」
友人のおしゃべりな大工さんは、これまためちゃくちゃな造語でからかう。

薪を運ぶと、木とは見た目よりもずいぶんと重いのだと判る。それを揺らす北風の強さは並大抵のものではない。これからの季節、その風に負け、または雪の重みなども加わり、重量のある木でも倒れることがある。
「この松は、倒れるとしたら、道路側だな」とか、
「そこの松が倒れたら、周りの山桜もみんな折れるんじゃない」など、
冬が近づき林の木の葉が落葉し、見通しが良くなるにつれ、びっきーと夫と散歩をしながらの会話も自然と倒木のことになった。ついこの間のことだが、遠い昔のことのように思い出す。

「悲しさにフタをしないで、びっきーの話をたくさんしてあげてくださいね」
友人からメールをもらった。それもあってか自然にか、普通にびっきーを思い出し、家族で普通にびっきーのことを話し笑っている。

「こんな風が強い日は、誰が散歩に行くか揉めたよなぁ」と、夫。
「揉めたことないよ。いつもわたしが行ってたじゃない」と、わたし。
「そ、それは、思い出、美しすぎるんじゃない?」
「事実だ」「嘘だ、いつも俺が行ってた」「いや、わたしが行ってた」
冬一番の木枯らしのなか、軽トラでゴミを出しに行くのも、びっきーと散歩した道。ふたり笑いながら、びっきーをたっぷりと思い出した。

北風に吹かれて、同じ方向を向いたススキ野原。
  
「キー、キー」と鳴きながら、ゆーらりゆーらり、揺れる赤松。

あ、これは、おとーさんに撮ってもらった写真ですね。僕が9歳の冬かな。
この道は、おとーさんとよく歩きました。甲斐駒が、綺麗ですねぇ。
木枯らし吹くなか、おとーさんは、いつも遠くまで連れてってくれたなぁ。

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ひとつだけ、確かなこと

子ども達が幼かった頃のことを、最近よく思い出すようになった。
玄関で、病気になったびっきーを寝かせるようになってからだ。

例えば、毛布を掛けたびっきーが玄関で寝ているのに違和感を覚えた飼い主である上の娘が言う。
「踏まないように、気をつけなくっちゃね」
「赤ん坊じゃないんだから」と、わたし。
末娘が生まれた時、6歳の息子と4歳半の娘に踏まれないように、どれだけ気をつけたことか。

また例えば、息子が2歳の頃、泣かない夜泣きを経験した。
寝ぼけているのは明らかだが、布団に入ろうとしてくれない。なだめすかし、寝かしつけるまで2時間ほど。いく晩か過ごすうちに、水を飲ませるとことんと眠ることが判明。しかしまた水を飲むよう説得するのに1時間かかるのだ。
びっきーも水を飲むと、安心するのかすっと眠った。

また例えば、瞼を閉じさせるようにおでこを撫でると、子ども達は早く寝付いた。びっきーも、おでこを撫でると気持ちよさそうに眠りに入っていった。

また例えば、びっきーが子犬だった頃、びっきーに向けて、5歳だった末娘の名を間違えて、呼んでしまうことがよくあった。仕草が似ていたのだ。

びっきーが、死んだ。一昨日の夜、いびきをかいてぐっすり眠っているのを確認し、ちょっとだけと出かけている間に、まるで誰もいなくなるのを待っていたかのように、息をひきとっていた。
「シアワセダッタ」とか「ゴネンネ」とか「アリガトウ」さえも、言葉の歯車が外れたかの如く、ゲシュタルト崩壊していく夜を過ごした。
ひとつ確かなことは、山梨の小さな田舎町に越して来た年、家族になったびっきーが、そこにいなかった13年間など、考えられないということだけだ。
安心したような、ちょっとすました様な、彼らしい死に顔をしていた。

あ、ちょっとこの写真、太って見えるからやめてくださいよ。
冬毛で、もこもこしてるだけなんですけどね。5歳の頃の僕です。

これも、臆病そうに見えて嫌だなぁ。6歳の夏ですね。
小屋にいる時は、ホッとしました。夏でもけっこう涼しいんですよ。

これ、これ。この7歳の夏に撮った写真、お気に入りなんです。
『わんわん物語』のトランプに、表情が似ていませんか?
賢さと精悍さと優しさとクールさを合わせ持つって言ったら、言い過ぎかな。
恋多き過去を持つトランプはレディと恋に落ちましたが、僕は姫一筋でした。
姫はまだまだ、一人前とは言えなくて心配です。ぼーっとしてるし。
でもこれからは、何処にいても僕が見守っていきますよ。

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珈琲で測る、元気度

自分の元気度を測る基準として、ひとつ、珈琲がある。
新鮮な豆を挽き、自分のためにドリップして楽しめる時は、大抵元気度が上昇気流に乗っている時だ。
だがこのところ誰かのためなら珈琲も淹れられるが自分のためとなると全くやる気が起きず、かと言ってインスタント珈琲を飲む気にもなれず、リプトンのティーバッグ、アールグレイをストレートでがぶ飲みする日々が続いている。

びっきーが、食べ物をまったく口にしなくなって1週間が過ぎた。1週間前、点滴で栄養補給をしてから、何を食べさせようとしても、顔を背けるようになってしまった。
「好きなものを食べさせてあげてください」と、獣医さんに言われ、あれやこれやと試してみたにも関わらずだ。これまで健康のためにと、ドライフードしか食べさせなかったことを悔いても、もう遅い。

一昨日までは、それでも立ち上がり、庭を歩いたり排泄したりしていた。それが昨日は1日、寝言を言いながら眠ったまま。娘とかわるがわる頭を撫で、時々スポイトで水を飲ませる。百均に買いに走ったスポイトが、5本セット百円で売っていることにさえも、八つ当たりだと知りつつ何やら憤りを感じた。

何処にも行く気になれなかったが、娘が大学に行く前に、10日期限だった会社の税金を納めに銀行と郵便局を回った。その帰り、初めてコンビニで挽きたてドリップ珈琲を買って帰った。

玄関に入ると、そこで眠っているびっきーがくうくう鳴いている。珈琲は、薄いのに苦く、飲み込むのにひどく苦労した。
飲み終えて気がつくと、まだカーテンも開けていなかった。外は、さっきまで降っていた雨がやみ、明るい陽が射していた。

レジでお金を払って、紙コップをセットし、ボタンを押すだけ。
Tカードのポイントで払ったので、ただでした。

娘が華道の花を活ける際、切りすぎたと一輪挿しに挿したガーベラと。

カーテンを開けると、昔、夫と末娘と歩いたイタリアはフィレンツェの、
小さな雑貨屋で買った時計が、1時間遅れで時を刻んでいました。

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淋しさの入口は、夕暮れ時に開いて

淋しさの迷路に迷い込む入口は何処にでもあるのだが、特別、夕暮れ時には口を大きく開け、誰も彼もを待ち受けている。
理由などいらない。さっきまで、自分は何て幸せなんだろうと満ち足りた気持ちでいた人にも同様にゲートは開き、何ものかが甘くささやいて呼び寄せ、気づいた時には、ふらふらとなかに入ってしまっているのだ。
入った途端にゲートは閉じ「幸せって、いったい何?」と誰かが言ったと思えば「涙の海で如何に滑稽に心を溺死させるかオリンピックで金メダルを取ることさ」と何処かの物語に出て来たニヤニヤ笑いの猫が言いサッと消えていく。

そんな夕暮れに、捕まった。
びっきーを検査入院させて、迎えに行く夕暮れだ。入院といっても日帰りで、昼の間彼がいないだけのことだったが、散歩に行こうと思い「あ、いないんだ」と思い、薬をあげなくちゃと思い、またも「あ、いないんだ」と思う。急にご飯を食べなくなったのは3週間ほど前だ。それから、何度か病院に通い、薬を処方してもらっていた。
息子を保育園に預け、働いていた頃を思い出した。
抱いていた子どもを、不意に誰かに手渡したような、自分の身体の一部分を持って行かれたような気分を久しぶりに味わった。

検査結果は、よくなかった。今すぐにどうこうということではないが、内臓が弱っていて治療は難しいと言う。
「好きなものを食べさせて、好きなようにさせてあげてください」
びっきーには、夕暮れの空が見えていただろうか。

写真を撮ろうとすると信号って、意外に早く変わるんだなと思いました。

家に帰ると、1番星が瞬いていました。

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日常に潜む、小さな謎

「何で、ここだけ椎の実が、やたらと落ちているんだろう?」と、夫。
「動物かな? 熊? は、ないか。猪もないだろうし鹿にしても獣道がないし、やっぱ猿か、栗鼠かなぁ」と、わたし。
夫とふたりでびっきーと散歩する際、秋口からその場所を通る度に、疑問を抱き、話題にしていた。椎の木もクヌギも、そこ此処に生えていて、実もあちらこちらに落ちてはいるのだが、そこに落ちた実は、不思議な集中の仕方をしているのだ。今年は、猿をこの林で見かけるようになったこともあり、多分まあ猿が木を揺らしつつ実を食べたのだろうということで話は落ち着いていた。

しかし「また何で、道路に面した此処なの? 林のなかにも椎の木はたくさんあるのに」との疑問は、胸の奥底に微かに揺れる蝋燭の炎の如く残っていた。

だが先日びっきーと歩いていて、その疑問は雲が晴れるが如く、すっきりと解けたのだ。そこは十字路の少し手前で、木が道に張り出している。丁度そこで、出会ったのだ。猿に? いや。動物などではなかった。
通り過ぎていったのは、宅配便のトラックだった。張り出した椎の木の枝に上部を当てて、椎の実を落としつつ過ぎ去っていったのだ。宅配便のトラックが、毎日のように何台も通過する場所だ。ここに、落ちた実が集まっているのも、何ら不思議ではなかったのだ。
「謎は、解けたぜ、ワトソンくん」びっきーに言うと、くうんと鳴いた。

「びっきーは、影もとぼけた感じがして可愛いね」と、おかーさん。
とぼけたっていうのは、褒め言葉なんですか? 疑問です。
姫も先日 facebook に「性格もドジで可愛い」と、かいていました。
ドジっていうのは、褒め言葉なんですか? ホント謎です。

椎の実が落ちるのも、そろそろ終わりですかね。

小春日和でいっぱい太陽に浴びたせいか、帰るなりたくさん水を飲みました。
「今、新しい水に替えてあげるから、待ってってば!」と、おかーさん。
残念ですが、待てません。ご飯は待っても、水だけは待てません。

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階段を駆け上がっているうちは

飼い主である上の娘と、びっきーを病院に連れて行った。
右目の色が変わってきているのと、散歩の途中、歩かなくなることが増え、足も診てもらおうかということになったのだ。
13年と少し、びっきーの人生で、車に乗るのはまだ何度目か。それも、病院に行く時だけである。彼は少し不安げで「くう、くう」と微かな声を出し、何か訴えているようでもある。しかし車窓の風景を楽しんでいるようでもある。娘が後部座席で話しかけたり、頭をなでたりしている。20分ほどで病院に到着。娘が車から抱いて下ろすと、看護師の女性が「あらあら、びっきーちゃん。階段上れる?」と、びっきーに話しかけた。病院の入口の階段はなだらかなたったの2段。娘と苦笑する。我が家の玄関の階段は5段ほど。それを毎日駆け上がるびっきーなのだ。

犬の13歳という年齢は、微妙なお年頃なのだろう。歩けなくなる犬もいれば、若い頃と何ら変わりない犬もいるようだ。
確かにびっきーは、歳をとった。
知らない人や、他の犬に吠えかからなくなり、歩くのもゆっくりになった。「くう、くう」と鳴く声も微かな高音になった。黒かった顔もずいぶんと白くなり「歳とったねぇ」と会う人会う人に声をかけられるようになった。

病院では、右目は緑内障で、足は加齢とともに関節が動きにくくなっているだけだとの診断だった。目薬と、関節の潤滑油になる飲み薬を処方してもらった。体重もほとんど変わらず「食べるのは好きなのねぇ」と、看護師さんが安心したように笑った。
これからは、薬もびっきーの生活の一つに組み込まれるのかな。
しかし「まだまだ、元気ですよ」と言うかのように、家に帰ると、抱こうとする娘を上目使いに一瞥し、びっきーは軽々と車から飛び降りた。
だいじょうぶ、階段を駆け上がっているうちは心配ないと、石の階段を下りるびっきーの足元を見つめた。

車に乗るのは、久しぶりです。
姫がずっと、不安げな表情で見ていたんですけど、何か心配でも?

冬支度。新しい敷物を敷いてもらいました。うーん。温かいです。
右目がグリーンっぽく見えますが、これが緑内障だそうです。
痛くも痒くもないんです。目薬も、嫌ではありませんよ、ええ。

毎日、駆け上がる、玄関の階段。目をつぶっても上がれます。
何百回、いや何千回、上り下りしてると思ってるんですか?

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記憶の整理

びっきーが、よく眠る。明らかに、去年までとは違う睡眠時間の長さだ。
心配になって調べてみた。成犬で12時間から15時間、子犬や老犬は18時間ほど眠るのが普通だとの記載を見つけた。
13歳を過ぎたびっきーは、もう老犬と呼ばれる時期に入ったのだろう。18時間眠ったら目覚めている時間は1日6時間しかない。もともとが夜行性動物なのだから、昼間ほとんどの時間、眠っていても心配することはなさそうだ。

犬の睡眠を調べていて、驚いたことがある。
犬は眠りが浅い時間が多いが、深い眠りの時間を取ることで、記憶の整理をするとかかれてた。良い記憶と悪い記憶を思い出し整理することで、プラス思考になれるのだそうだ。「おすわりしたら、頭をいっぱい撫でてもらって嬉しかった」とか「車が通った時に、吠えて叱られた」とか。褒められて嬉しいことは、またしたいなという場所に、叱られて嫌だったことは、もうやめようという場所に整理する。だから、しつけるときに褒めたり叱ったりしても、深い睡眠がとれないと効果は薄くなるというのだ。記憶をきちんと整理することで、ストレスも解消されるという。

「びっきーも、そんな小難しいことしてるのかな?」
娘に話すと「あー、わたしもおんなじだ」と言う。
「誰かに嫌なこと言われたりして落ち込んでても、眠るとすっきりするもん」
日々、深く深く眠っているわけだ。幸せなことである。
「きみの前世は、犬だったんじゃない?」「かもね」と、ふたり笑った。
犬は飼い主に似るとはよく聞くが、びっきーも娘に似たならさぞ幸せだろう。

むにゃむにゃ。今日は姫と、秋の道を走って楽しかったなぁ。
栗踏んじゃったのは、痛かった。明日は踏まないようにしようっと。

むにゃむにゃ。なーんだ、おかーさんですか。
姫じゃないんですかー。散歩ですかー。行くんですか―。
全く「秋眠暁を覚えず」とはよく言ったものですね。むにゃ。
「それ、春眠だからね。びっきー」と、わたし。

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『花泥棒は、罪』に1票

びっきーと歩いていると様々な人とすれ違う。犬と散歩する人。ウォーキングする人。軽トラで通る農家さん。そして、会いたくもなかった花泥棒にも。

『花盗人は罪にならない』という言葉は知っていた。深く意味は知らずとも聞いたことはある程度の知っていた、だ。
だが目前で、他人の庭の白く綺麗に咲いた花を切る女性を見て驚いた。彼女はわざわざ車を停め、ハサミを手にしていた。花は切ってもわからないくらいにたくさん咲いていたし、花壇に踏み込んで根こそぎ盗っていた訳ではない。
それを泥棒だと思うわたしは、頭が固いのだろうか。風情だとか風流だとかいうものから、遠い場所にいるのだろうか。

調べれば、狂言『花盗人』で、桜の枝を折って捕まった僧が、桜の木に縛り付けられたまま「この春は 花のもとにて縄つきぬ 烏帽子桜と人や見るらん」という歌を詠み、その歌に感動した花見の衆が罪を許して花見の宴に加えたことから花盗人は罪にはならずと言われるようになったとの説があると知った。

花泥棒、推定60代の女性は、目撃者である目を見開き驚くわたしに言った。
「これ、いただいていいですか?」失敗したなぁという顔。だが笑顔だ。
いただいても何も、もう花はハサミで切った後。悪を働く者も、同意が欲しいのだと、ただただ呆れた。
「うちの、花じゃないですから」そう答えるのが精一杯だった。
花泥棒の車が走り去るのを見送り、びっきーのリードを引いた。素直に歩き始めるびっきーが悲しくもあり、泣きたい気持ちで重たい足を動かした。
びっきーと白い花と夕暮れが作りだした混沌のなか、整然としたリビングなどに飾られるのであろう白い花のその後が、ちらちらと見える気がした。

花には、興味ありません。匂いが強いものは好きじゃないんです。
それより、姫に違う犬の匂いがすると思ったら、ドッグカフェなるところで、
働いているらしいんです。それも可愛い犬が来るとか言っていたと、
おかーさんが無神経にも、教えてくれました。ショックです。
ところで姫、散歩まだですかー?
意識して可愛く呼んでみることにしました「クゥーーン、クゥーン」

あっ♪ 散歩ですか? 散歩ですよね。散歩だぁ!
「びっきーが、いちばん好きだよ」と、娘。
「ですよねー」と、びっきー。
「でも、変な声で鳴いて朝起こすのだけは、やめてね」「……」

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リラックマをめぐる攻防

娘と夫との間で、リラックマをめぐる攻防が続いている。
もう10日ほどになるだろうか。我が家の階段で、リラックマがくるくると回っているのだ。

始まりは、いつもふとしたことだ。娘はクリスとマリーを迎える際、客用の和室に4匹のリラックマを並べた。歓迎しようという彼女なりの心配りのつもりらしい。と、そこまではいい。その心配りが心配りと言えるのかどうかも、この際目をつぶろう。問題はその後、ふたりの客人が帰った後だ。
「和室のリラックマ、片づけるように言っといてよ」と言い置き、夫は会社に行った。そしてわたしは、暗に娘に片づけるように言った。
「リラックマ達、部屋に帰りたがってるよ」
「うん。わかった」と、素直に娘。
しかしこの素直さが曲者なのだ。素直に聞き過ぎて、すぐに忘れる。「うん」と言った後「わかった」と言う前にはすでに忘れていることも多いくらい素直過ぎる性格だ。その上リラックマは彼女のなかでは何処にいても違和感のない空気的存在。リラックマ4匹は、しばらく和室で過ごすこととなった。

数日後、会社から戻った夫は、しびれを切らしリラックマを階段に運んだ。2階が子ども部屋になっている我が家では、洗濯物や郵便物などは階段に置いておき自分の物を持って行く決まりだ。しかしリラックマはいまだ階段にいる。
「きれいに並べたのが、まずかった」と、夫。
考えた彼は、娘に片づけさせようと、リラックマ1匹を逆立ちさせた。しかし、翌朝もリラックマはいなくなっているどころか、逆さにしておいた1匹も、元に戻っていたのである。夫は憮然とし、またリラックマを逆立ちさせた。だが、リラックマはふたたび元に戻る。いたちごっことはこのことだ。
その後、娘とはリラックマの話はしていないが、普通に学校やバイトのことなどは、しゃべっている。彼女は、夫ともにこやかに挨拶を交している。
果てさて、この攻防。いつまで続くことやらである。
     
実は、リラックマ達。勝手に動いているのかもと思える不思議。

姫は、僕が1番だと言ってくれます。2番はリラックマなのかな。
百匹いようが二百匹いようが、僕にとっては可愛い子分的存在ですよ。
ムキになるほどのことじゃ、ありませんね。まあ、僕も大人ですから。

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びっきーと娘の蜜月

娘がびっきーに虫がついていると言うので、病院で薬を出してもらった。
外で飼っている犬につきやすい虫だと言う。13年もつかなかったのに何故と思うが、夏の暑さも虫の生態も変わっているのだろう。びっきーの体温なども寄る年波で変わっているのかもしれない。
「びっきーも13歳過ぎましたけど、大きな病気もせず健康ですね」
動物病院で言われ、ちょっと自慢する。
「ええ。朝夕、散歩しています」すると、驚きのリアクション。
「ええっ! 13歳で散歩できるんですか?」「えっ、ええ。普通に」
夫は長いと1時間。娘とわたしは、20分くらいだろうか。
「上り坂になると、びっきー、バテてぜいぜい言うんだよ」
夫は言うが、それも当然のことだったのである。

しかし娘に話すと、彼女は異論を唱えた。
「びっきーは散歩したいんだよ。散歩、散歩! って、毎朝催促するもん」
確かに、と思い嬉しくなった。娘が寝坊した時に「クウン、ワン! クウン」と甘えて吠えて散歩を催促するびっきーは、歳に似合わず元気なのだ。
それにしても彼女はよく、毛の根元に着いた小さな虫を見つけたなと思う。撫でたり散歩したりしていても、わたしには見つけられなかった。それだけで留守中、びっきーは飼い主である娘との蜜月を楽しんだのだろうと想像できた。
「びっきー、家のなかの様子がわかるのかな? わたしが起きたのがわかるみたいに、目が覚めると余計うるさく鳴くもん」
眠たそうに目をこすりながら、それでも朝食も食べず彼女は散歩に行くのだ。

今年も国蝶オオムラサキが舞う季節になりました。

すみませんが、国蝶さん。そこをどいていただけませんか?
昼寝も終わって、ちょっと外の空気を吸いに行きたいんですよ。
ほらほら、おかーさんも、写真撮ってないで何とか言ってくださいよ。
☆カテゴリーに「びっきー徒然」まとめました☆

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彼らの至福

びっきーの毛が抜けている。夏毛に生え変わるのだ。
夫はさっそくブラッシングし、抜けていく冬毛を落としてやっている。びっきーも気持ちいいのか、うっとりした表情。北海道犬の血が入っているらしい彼は、寒さには強いが暑さは苦手。今年もまたやってくるであろう猛暑は、彼にとっては受難である。
「全く、家族が3人いるのに、ブラッシングしようって人が他にいないとは」と、夫が嘆く。
「3分の2だから、66%ブラッシングなしだね」と、分析すると、夫に無言で睨まれた。しかし娘に聞くと、
「えーっ、わたしブラッシングしたよ」
そう言えばお腹の部分のみ毛が抜けて、まだらな感じになっていたが、あれは自然に抜けた訳ではなかったのか?
「お腹だけ、ブラッシングしたの?」と、恐る恐る聞いてみた。
「まさか。そんな訳ないでしょ。お腹はもともと抜けてたんだよ」
(50%ブラッシングあり、50%なしってことで)と、心の中でわたし。

ここで断りを入れておくが、わたしがブラッシングしないのは、夫のためである。彼はこういう作業が大好きなのだ。たとえば「風呂釜洗いのジャバ」であるとか「日焼けした肌の皮をむく」であるとか「子どもの耳掃除」であるとか。(末娘は、耳を押さえつつ、よく逃げまわっていた)
夏毛に生え変わる際のブラッシングは、彼らにとっての至福の時なのだ。

「お母さんは、絶対面倒くさいだけだと思うよ」と、夫。
「もちろんわかっていますよ、お父さん」と、びっきー。
「男同士だもんねー」「ですよねー」

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春の散歩道

JUDY AND MARYの『散歩道』が好きで一時期よく聴いた。アップテンポのメロディも好きだが、歌詞もいい。
びっきーとゆっくり歩いていると、スローバージョンで覚えているところだけ口ずさんでいたりする。
♪  シアワセの形は変わってく 気づかずにのんびりと
あたしが思うよりずっと あたしの空は広がってるんだわ ♪

いつからなのか、何処からなのかわからないけれど、わたしの空も、知らないうちにずいぶんと広がっているような気がする。
森の木を眺め、山桜のさくらんぼに微笑み、足元の草花に目を留め、ゆっくりと歩く。カッコウが鳴き、今年初めて蝉の声を聴いた。
思い描いていた幸せの形も、ずいぶんと変わっているんだろうな。そしてたぶん、これからも変わっていくのだろう。

春の散歩道。ふいに感じる。ひとりで森に立っていても全く淋しく感じない不思議を。心がつながっている人達がいるという幸せを。

つい先週まで、新緑が透き通って柔らかい光が降り注いでいた森も、
すでにジャングルのように、うっそうとしています。

山桜のさくらんぼが色づいていました。可愛い!

マムシが首をたれた感じに似ていると名付けられたマムシ草。
その名に負けず、怪しい雰囲気をかもし出していますね。

「僕は、ひとりには数えられないってことですかね」と、びっきー。
「い、いや。もちろん人達の中心に入ってます」と、わたし。

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見たくないものは見えないのか?

夫は運転しながら様々なものを見ることができる。薪になりそうな木はもちろんのこと、鳥の巣や新しい看板などもよく見つける。その彼に見えないものが、たったひとつある。蛇だ。
「あ、蛇!」わたしが言っても「何処? えっ、いないじゃん」
「今、通り過ぎたじゃん」「いないよ。目の錯覚じゃないの?」
同じ車に乗っていながら、わたしにだけしか蛇は見えない。常に。

「見たくないと思っている人の前には、姿を見せないんだよ」
蛇嫌いの夫は勝手なことを言うが、わたしだって蛇が見たい訳ではない。それなのに蛇はわたしの前に姿を現す。運転中ならまだしも、びっきーとの散歩中、細い道でネックに黄色いラインが印象的な蛇にばったり出会ったこともある。(多分、毒を持つヤマカガシの子ども)極めつけは、家の廊下で、にょろりにょろりとゆっくりと進んでいる縞模様も綺麗な蛇に出くわしたことだ。夫は東京に行っていて留守だった。家の外に出て行ってもらうのに苦労した。
「これって、なんか酷くない?」
だんだんと、夫が蛇全般をわたしに押し付けて逃げているように思えてくる。
わたしも蛇は見たくない。これをどう蛇達に伝えればいいのか。今後も此処で暮らす以上、大切な課題である。

今年初めての、蛇です。
シャッター音を聞くなり、頭をぐいっと上げて威嚇してきました。
その後、素早く森に入って行きました。びっきーとの散歩道で。
「多分、青大将でしょう」とは、
キイロスズメバチに一時に8か所刺された経験を持ち、珈琲の焙煎もする
多趣味で日本野鳥の会所属、山菜にも蛇にも詳しい陶芸家のご近所さん。

昨年の写真です。びっきーvs蛇。勝敗は!?
蛇の威嚇におびえ、後退りしたびっきーの鎖に蛇が叩かれ逃げたという、
引き分けですかね、という結果でした。
(メンタルでは、びっきーの負けかな?)

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<訂正>びっきーの歳

間違えていた。びっきーの歳を、だ。
ずっと13歳とかいてきたが、彼はまだ12歳だった。22歳の娘が10歳の時のバースディプレゼントだったのだから、間違いない。何故そんな間違いをしていたのかというのは、簡単に推理できる。
「もうすぐ13歳」と言っていたのだが、その「もうすぐ」がいつの間にか省略されてしまっていたのだ。わたし的には、もう何度も落ちてきた陥りやすい落とし穴だ。
「お昼の時間以外に」と言われ「以外」が抜け落ちて逆さまの意味に捉えていたり、「遅くなるかもしれない」の「かもしれない」がなくなり「遅くなる」と言われたものだとばかり思い込んだり。自分でも呆れつつ、そのそそっかしさを反省するまえに、いつも忘れてしまうのだ。

という訳で、びっきーは12歳だ。捨て犬だったのではっきりした誕生日はわからないが、娘が23歳になる5月には、彼も13歳になる。黒かった顔の毛はだいぶ白くなり、昼寝の時間も長くなったが、健康で元気だ。
フィラリアの薬をもらいに行く以外は、病院にも、もう2年行っていない。2年前行った時にも、前足の、寝ている時に床についている部分の毛が抜けて赤くなっていたので、心配して連れて行ったのだが、
「とこずれ、でしょうか?」と、わたし。
「これは、ひじです」と、お医者様。
何処にも異常は、みられなかった。

散歩が気持ちのいい季節ですね~。
でも先週、姫がいつもは行かない道をあるくので、嫌な予感はしたのですが、
やっぱり注射でした。注射は嫌いです。注射がなければ春が一番好きなのに。
ところで、犬にとって1歳の違いは、人にしたら6歳くらいは違うんですよ。
間違えたでは済みませんよ、全く。ジャーキーの1本や2本や30本は、
お詫びに差し入れしてくれても、良さそうなものだと思いますがね。

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アクティブ娘とオーストラリア男子

上の娘が東京から帰ってきた。
2月に、1年間過ごしたオーストラリアでのワーキングホリデーを終えて帰ってきた娘だが、またも出かけていてずっといなかったのだ。
ワーキングホリデーの初期費用に立て替えたお金は、オーストラリアで稼ぎ、返してもらうことになっている。帰ってきて少し落ち着いた頃、話をした。
「お金、返してね」と、わたし。
「うん。返すよ。でも、ちょっと待って」と、娘。
「ないの?」「あるよ。でも東京でバイトしてくるから、びっきーよろしく」
わたしの実家に泊めてもらう約束を取り付け、派遣でいろいろバイトすると、そのまま東京に行ってしまった。
「びっきー、どう思うよ?」と、わたし。
「いや、姫には姫のお考えが……」と、びっきー。
「何を考えてるんだかねぇ」「いやいや、姫には姫のお考えが……」
「旅立つ妹に別れも告げず、さぁ」「いやいやいや、姫には姫の……」

それから3週間経った一昨日、ようやく彼女は帰ってきた。ふたりでサムを迎えるために一通り家を掃除し、昨日サムがやって来た。
「ハーイ、サム。Nice to meet you」と、わたし。
「秋(しゅう)と呼んでください。よろしく!」と、サム。
娘は、上手くサムと言えないわたしのためか、サムに日本名を付けていた。
(サムのムを発音するときに、唇を閉じるタイミングがなかなか合わない)
「please call me さは」と、わたしも家でのニックネームを名乗る。
これから半月。オーストラリア男子、サムがステイする。ホスト役は娘なのでわたしはのん気にしているが、どんな日々になることやらである。

久しぶりに、姫とふたり水入らずで散歩しました。
草木も芽吹き、風も柔らかく吹き、春本番。いい季節ですねぇ。
春眠暁を覚えず。人も犬も眠たくなるのはおんなじです。
ちい姫も、はや大学生ですか。あんなにちっちゃかったのに。うとうと。

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スキップ・びっきー

びっきーは、すねていた。オーストラリアから娘が帰ってきた時にだ。
「僕を放って、何処に行ってたんですか!?」
1年ぶりに会ったびっきーに言われたと、彼女はfacebookにかいていた。
びっきーは、千切れんばかりに尻尾を振って彼女を迎えた訳ではなかった。
「もう帰ってこないと、思ったじゃないですか」
びっきーは、そっぽを向いていた。ちょっとくらい怒ったって当然ですよと、むくれていた。

しかしそんな態度とは裏腹に彼は散歩の時、スキップするようになった。
「ラン・ラララ・ラン・ラララ。春だなぁ」
びっきーの尻尾から、聞こえてきた。そして、穏やかに2週間が過ぎた。

昨日、早朝。娘はふたたび旅立った。
「春休みだし、中学の仲良し4人組で韓国に行ってくるね」
びっきーには、ことわりを入れて行ったのだろうか。全く。

嬉しい気持ちを素直に表せなかったのは、初めてです。
人の(犬の)気持ちは、こんな風にもねじくれるものなんですね。
どんな時であれ、気持ちをもてあそぶのはよくないと思いますよ、お父さん。
待ての後「よし、こさん」とか「吉、永小百合」とか言ったり。人として。

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いつものペースで、いつもの道を

散歩拒否だ。びっきーが小屋から出て来ないのだ。狐のように丸まり、尻尾に顔を埋めている。
「びっきー、散歩行こうよ」
声をかけると、怠そうに顔を上げるが、動こうとはしない。いつもは声などかけずとも、「わおっ、散歩ですか? 散歩ですよね、GO!」といったフットワークの軽さで飛び出して、それでまあ、わたしの左手の甲には骨折した骨を留めるチタンのネジが2本入っている訳なんだけれども。
「どうしても、行きます?」と言うようにのろのろと小屋から出て「嫌だなぁ」と恨めしそうに振り返りつつ、それでも何とか散歩に出かけた。しかし、すぐにびっきーは立ち止まった。歩きたくないのだとわかる。
「わかった。帰ろう」わたしの言葉に着いてくるも、短い距離を立ち止まりつつ、時間をかけ、何とか縮めていく。
ご飯をあげると吐き、下痢もした。
「明日、病院に連れて行った方がいいな」と夫。
「うん。今の状態が明日も続くようなら、そうする」と、わたし。
満月の夜、何度となく目覚め、夢を大量に見ながら、寝汗をかき朝を迎えた。
「おはよう。びっきー」
しかし翌日は、元気に散歩に出かけた。いつものペースでいつもの道を歩く。枯れた笹の匂いを十分に確かめ、考え、思い巡らすびっきー。急かすことなく、びっきーの調子に合わせ、それでもタイムログはそんなになかった。
いつものペースで、いつもの道を。それがどんなに大切なことなのか考えつつ、わたしは歩く。びっきーは、何を思っているのやらだが。

僕だって、ご飯を食べたくない時も、散歩に行きたくない時も、ありますよ。
これでも日々、懸命に生きているんですから。それをすぐに病院って。
だいたい、おかーさん、僕が小屋で丸まっているからと言って「狐くん」と呼ぶのは止めてください。ビキオとかビキスケとか呼ぶのも。失礼極まりない。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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