はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『椿山課長の七日間』

浅田次郎の長編小説『椿山課長の七日間』(朝日新聞社)を、読んだ。
2002年に出版されたときに新刊で購入したものだから、13年ぶりに再読したことになる。本屋で文庫が出ているのを見て、読みたくなったのだ。
覚えていたのは、デパートの中年課長が突然死に、初七日までの七日間、やり残したことを片づけるために現世に戻る。生きている人達に気づかれてはならないため、仮の姿となる肉体を与えられるのだが、生き返ってみて驚く。キャリアウーマン然とした美女になっていたというところまでだ。以下本文から。

父も息子も妻も、そして最も信頼していた部下までもが、自分に対して大きな秘密を隠し持っていた。
(ちょっと待ってよ・・・まさか・・・)
歩きながら頭の中のパズルが、ひとつの形になった。
(うそ・・・うそよね)
仮の肉体が持っている脳ミソは、どうやら椿山課長よりは上等であるらしい。いや、女性の思考力はこうした問題を解くのに適しているのだろう。
嘘は誰にとってもつらい。秘密は苦痛である。ならばなぜ、彼らはみな秘密を持ったのだろう。それぞれの秘密が緊密に結びついているとしたら ――。

椿山課長は、生きている間知らなかった事実を次々と知ってしまう。
そして、そんな彼の物語に、同時期に現世に舞い戻った二人、人違いで殺されたやくざの親分、武田と、交通事故死した小学2年男子蓮ちゃんが、複雑に絡んでいくのだった。現世にいる間に正体がばれてしまうと、地獄送りになるらしい。果たして彼らはぶじ成仏できるのだろうか。

本文中にあるように、秘密を持つことは苦痛だ。正直な人ほど、辛いことだろう。現世に戻った3人も「自分だ」と言えない辛さを味わう。それでも人は嘘をつき、秘密を持つ。そんな人の心根の深い部分を描いた小説だった。

スタバでスペアミントグリーン(緑茶 + スペアミント)を飲みながら。
この小説は、朝日新聞の夕刊に連載されたものだそうです。

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『最後の忠臣蔵』

日にちに合わせたわけではないがWOWOWで録画した映画『最後の忠臣蔵』を観た。討ち入りの日を描いたものではなく、その後を生きた人達の物語だ。

仇討ちを果たし死した者達が美談とされればされるほどに、討ち入りに加わらなかった者達への風当たりは強かったという。今でこそ、死に対する考え方の違いや選択肢もあったようにも思われるが、その時代を生きた人達は、そうではなかったのだろう。映画は、仇討ちに加わらなかった者として非難されつつも、忠義をつくすために生きなくてはならなかった男を描いていた。ある人の子を育てなければならなかったのだ。

映画を観ながら思い出していたのは、友人に教えてもらった聖書の言葉。
「人間は、自分のためだけじゃなく、
 人のために生きるようにデザインされている」
宗教を持たないわたしだが、そういうものを超え自分のなかに留まっている言葉だ。忠臣蔵の時代には死に対する考え方も違っていたかも知れないが、誰かのために生きるということがあたりまえだったのだろうとも考えたのだった。

さて。
「彼女、大石内蔵助の子どもってことかな?」
映画を観ながらわたしが言うと、夫は怪訝な顔をした。
「どうしてきみは、そうやって先を読もうとするの?」
わたしとしては、先を読もうとせず映画を見ることの方が驚きだった。
映画の見方一つとっても一人一人違うのだ。テレビの前のぬくぬくとしたリビングに居ながらも、仇討ちを果たし死した人、後の世を生きた人、一人一人の思いもまた違っていたのだろうと、それぞれのドラマを思った。

討ち入りがあったというこの季節、赤穂浪士達の家の庭先にも、
南天が実をつけていたのでしょうか。
南天の赤い実と凛とした緑が好きで、飾って楽しんでいます。

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『姫椿』

浅田次郎の短編集『姫椿』(文春文庫)を、読んだ。
ずいぶん前に何冊か読んだだけの作家だが、最近読んだ『見知らぬ妻へ』に魅せられて、短編集を選んで読んでいる。
裏表紙の紹介文には「凍てついた心を抱えながら日々を暮す人々に、冬の日溜りにも似た微かなぬくもりが、舞い降りる」とある。
1話目の『獬(xie)』は、シエと読むのだが、善悪を見分けるという幻の動物が登場するファンタジー。そこから順番に読み始めたから余計にそう感じたのかも知れないが、どの話にも不思議テイストを感じた。
表題作『姫椿』は、倒産寸前の不動産屋の社長、高木が、家族に保険金を残すために死に場所を探して若い頃住んでいた街を歩く。そこにあったのは、昔通った銭湯「椿湯」だった。以下本文から。

「山茶花なのに、椿湯ですか」
「そう。いつだったか私も同じことをおやじさんに訊いたのですがね。これは山茶花なんぞじゃねえ、姫椿ってえんだ、と言い張るのですよ。姫椿も山茶花も同じだと思うのですがね、私は」
厚い垣根に、たわわな紅を灯す花を見るうちに、わけもなく高木の胸は詰まった。すべてを忘れてしまった。生きるために記憶を淘汰したのではない。金と欲にまみれた時代の向こう側に、すべての記憶を置き去りにしてきた。
「貧乏はしていましたが、辛くはなかったんです。どうして楽しかったことまで忘れたんだろう」
さあ、と長寿の老人は縁先の椅子から立ち上がり、小さな星空を摑むような背伸びをした。
「楽しいことが多すぎるのではありませんか。今の若い人の悩みはたいがいそんなところです。贅沢ですな」

高木は、まだ恋人だった妻と昔「椿湯」に通ったことを思い出す。姫椿の花を手折り、濡れ髪に挿してあげたことを。取り戻したそのひとひらの記憶が、たぶん彼を救うことになる。現実は、厳しく続いていくのだろうが。

読み終えて、誰かを思う気持ちが希望の光を手繰り寄せるのかも知れないなあと、不思議テイストの世界に落ちたように考えてしまうような短編集だった。

『姫椿』の高木の妻でしょうか。それとも『永遠の緑』のみどりかな。
山茶花には別名が3つあるそうです。ひとつは、姫椿(ヒメツバキ)
そして、岩花火(イワハナビ)、藪山茶花(ヤブサザンカ)
凍える季節に咲く花に、希望を見出そうとするのが人、なのかも。

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『ふる』

西加奈子の小説『ふる』(河出文庫)を、読んだ。ピンクと白の淡い色合いの表紙に魅かれ、買った文庫だ。
池井戸花しす(いけいどかしす)は、28歳。仕事は、アダルトビデオのモザイク掛け。趣味は、ICレコーダーでの隠し録り。寝る前に、その日一日の録音を聴くのを楽しみにしている。同居人は、年上の友人さなえちゃんと猫2匹。そんな花しすの現在と過去を描いた小説だ。過去には、いつも「新田人生」という名の男が登場し、それは、タクシー運転手であったり、小学児童であったり、倫理のおじいちゃん教師であったり、合コンで出会った綺麗な顔の男子であったりする。そして、そんな過去にはいつも『ふる』のだ。言葉が空から降ってくるように、花しすの前に現れるのだ。例えば、こんなふうに。

 わ       !
     っ て
   ら

花しすは、誰の感情をも害さないことに全力を注ぎ、皆に優しく軽んじられる存在でありたいと望んで生きてきた。だが。以下本文から。

池ちゃんは優しいから。
でも花しすは、自分のことを優しいと思ったことなど、一度もなかった。自分は誰かを傷つけるのが怖いだけだ。それを優しさだと、ある人は言うかもしれないが、傷つけないことと、優しいことは違う。
花しすは、人が傷ついたとき、顔が歪むのを見るのや、流れている時間が止まることが嫌なのだった。そしてそのことに関与しているのが自分であるということが、一番怖いのだった。花しすはもっと言えば、能動的に誰かと関わることが、怖かった。いつでも受け身でいたかった。自分が選ぶのではなく、選ばれる側でい続けることで、関係性においての責任を負うことを、避けた。
卑怯なことだと、自分でも思う。そしてそうしている自分を誰も責めず、あまつさえ「優しい」などと言われるのだ。

花しすは、今と過去と未来を見つめることで変わっていこうとする。
「そのままの花しすで、じゅうぶん優しいのに」
どちらかと言えばわたしは、変わる前の花しすのように生きられたら、と思った。誰も傷つけずに生きていくことができるのなら。無論誰だって、誰かのようになど生きられはずもないのだが。

表紙の猫たちの絵も、西加奈子によるものです。帯には顔写真も。
猫は、さなえちゃんが飼っていたベンツとジャグジーかな。

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ブックカフェで

流行っていることは知っていたが、ブックカフェに行ったのは初めてだ。
テーブルについて珈琲などを飲みながら、併設された書店の本を購入せずにゆっくり読めるというカフェ。さっそくおもしろそうな本を物色し、テーブルにつく。アイスティーを飲みながらゆったりと読書した。と言いたいところだったが、何故か落ち着かない。
「もし、本汚しちゃったらどうするんだろう」
自分の本ではないのだからいつもより気をつけてはいるが、綱渡りをしているような緊張感がページをめくる指の先に走る。そわそわする。おへその辺りがくすぐったくなる。本のなかの文章が、読めども読めども頭に入ってこない。
「だ、だめだ」
がっくりと首を垂れ、あっさり引き下がることにした。

帰りたくなくなるようなくつろぎの空間などと、ネットで読んだことがあるが、わたしはどうやらブックカフェ向きの人間ではないらしい。書棚の前で立って読んだ方が、よほど落ち着く。
これだけ本が大好きだというのに、情けない。いや、この感覚は無類の本好き故のものなのかも知れないぞ、と自分をなぐさめたりした。

新宿小田急百貨店、有隣堂のブックカフェ『ストーリーストーリー』

アイスティーの向こうに見える書棚には、癒されます。
なのに、手もとに本があると落ち着かない。小心者なんですね。

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『中野のお父さん』

北村薫の新刊『中野のお父さん』(文芸春秋)を、読んだ。
大手出版社で編集の仕事をする美希には、百科事典のような父がいる。ネット検索で判らなかった疑問をあっさり解いてくれたりするものだから、相談役としては適任だ。一人暮らしをしてはいるが、何かあるたびに美希は、中野に住むお父さんに会いに行く。そして中野のお父さんは、編集者の日常に潜む謎を、たちどころに解決してしまうのだ。以下本文から。

「あの、おかしなこと、いい出すとお思いでしょうけど、わたしには、父がいるんです。定年間際のお腹の出たおじさんで、家にいるのを見ると、そりゃあもうパンダみたいにごろごろしている、ただの〈オヤジ〉なんですけど」
「・・・はあ?」
美希は『夢の風車』の原稿を巡る顛末を、簡単に語った。
「謎をレンジに入れてボタンを押したら、たちまち答えが出たみたいで、本当にびっくりしたんです。この手紙、門外不出だってこと、よく分かりました。うちの社の誰にも、編集長にも話しません。ですけど今、とってもとっても聞きたくなったんです。父が何ていうか。お願いです。このこと、父にだけ、話してみてもいいでしょうか。そうさせていただけないでしょうか?」

『幻の追伸』の章では、そんなふうにして古本屋で美希は、とうに亡くなっている作家同士の書簡を預かり、中野のお父さんに見せるのだった。

おもしろかったのは、感覚の妙がいくつも描かれていたところだ。
『鏡の世界』の章では、女性誌の編集をしていた頃、女優が自分の写真にダメ出しをしてきて困り果てていると、カメラマンが反転した写真を混ぜて再送し、それがあっさり通ったのだと美希は思い出す。鏡のなかの自分を見慣れていると、まま起こることなのだとか。
他にも『闇の吉原』では、言葉を区切る場所を変えただけで、真逆の意味になる句〈闇の夜は吉原ばかり月夜かな〉に潜んだものや、『数の魔術』では、ゼッケンばかりを見ていると、人がすり替わっていることに気づかないこともあると、見方を変えたら見えてくるものが、描かれていた。
どうやら中野のお父さんは、物知りなだけではなく、ものごとを様々な角度から切り取って見られる人らしい。というのは読み終えてのわたしの推察だが。

明るい色のカバーを取ると、なかは原稿用紙のデザインでした。
本好きで知られる北村薫らしいです。その北村薫さん、
今年の日本ミステリー文学大賞を、受賞されたそうです。

裏表紙には、美希が回想するお父さんとの思い出のシーンの絵。
お父さんと美希との関係にホッとする、コージーミステリーでした。

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『何もかも憂鬱な夜に』

中村文則の小説『何もかも憂鬱な夜に』(集英社文庫)を、読んだ。
中村文則を読むのは3冊目だが『銃』よりも『掏摸』よりも読みやすかった。
刑務所の刑務官を務める「僕」は、二十歳の殺人犯、山井を担当している。マンションに押し入り見知らぬ女を殺害し、帰宅した夫も殺した山井は、控訴期限が迫り死刑が確定しようとしていたが、控訴を拒んでいた。
「僕」が山井の担当に据えられたのは、年齢が近い(十歳ほどの差)ことと、捨てられて施設で育った生い立ちが似通っていたからだという。
施設で育った人間が、罪を犯しやすいなどということはない。きっぱりとそう思いつつも、山井と自分には共通した何かがあると感じることに戸惑いながら、接していく日々。
鍵になるのは、回想シーンでしか登場しない施設長だ。「僕」は、たびたび施設長を「あの人」と呼び回想する。子どもの頃、施設で過ごした「僕」のすべてに割り込もうと心を砕いてくれた大人がいた。それが「僕」の拠り所になっていた。以下本文から。

「お前は・・・、アメーバみたいだったんだ。わかりやすく言えば」
施設の外で、踏切の音が鳴り始めた。あの人の声は、響かないつくりの薄い壁の中で、内に籠もり、掠れていた。
「温度と水と、光とか・・・他にもいろいろなものが合わさって、何か、妙なものができた。生き物だ。でもこれは、途方もない確率で成り立っている。奇跡と言っていい。何億年も前の」
僕は、ただ彼の大きい身体を見ていた。
「その命が分裂して、何かを生むようになって、魚、動物・・・わかるか? そして、人間になった。何々時代、何々時代、を経て、今のお前に繋がったんだ。お前とその最初のアメーバは、一本の長い長い線で繋がっているんだ」
あの人はどこかにもたれることもなく、足を微かに広げたまま、いつまでも僕を見下ろしていた。
「これは凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線。その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」
そういうと、小さく息を吸った。
「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? すべて今のお前にためだけにあった、と考えていい」

結婚を決めたもと恋人。自ら命を絶った親友。行方知れずの会ったことのない弟。そして、死刑が確定しようとしている山井。この小説には「僕」のなかに広がる混沌が、まるで宇宙のように限りなく、暗く、そしてそのなかで何かが光っているかのように描かれていた。

死刑制度が必要か否か。簡単に答えが出せることではない。中村は、命について、深く深く何処までも考えていくことをやめなかったのだろう。本を閉じて呆然と、命って、生って何なのだろうと考え込んでしまうような小説だった。

夜のようなブラック珈琲を飲みつつ、読みました。
解説は、デビュー作から読んでいたという同じ芥川賞作家の又吉直樹。

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『ホテルローヤル』

桜木紫乃の直木賞受賞作『ホテルローヤル』(集英社文庫)を、読んだ。
時間が逆に流れていくという風変わりな構成に挑戦した、7つの連作短編集だ。舞台は北海道釧路。湿原を背にするラブホテル『ホテルローヤル』。

1話目は、廃墟と化した現在。恋人にせがまれ埃だらけのホテルのベッドでヌード写真のモデルをする女は、自分の中の空洞を見つめる。
2話目は『ホテルローヤル』の社長の遺骨を預かった住職の妻。彼女は、お布施をもらうためにすべての檀家とベッドを共にする。
3話目は、ホテル廃業を決めた一人娘。アダルトグッズを扱うえっち屋の生真面目な男を、最後にホテルへの復讐の意味を込め部屋を使おうと誘う。
4話目。狭いアパートで暮らす主婦は、夫に言う。
「いっぺん、思いっきり声を出せるところでやりたいの」
5話目。心中し、ホテルが傾く原因となった高校教師と女子高生。彼らが『ホテルローヤル』へ向かうまで。
6話目。ホテルで働く女は、仕事を持たない夫に夜ごと抱かれる。
7話目。ホテル創業までの社長と妻と、愛人。愛人のお腹には子どもがいる。

これから心中するふたりを描いた5話目『せんせぇ』には驚いた。そこまでの話で噂されていたふたりとは全く違ったのだ。恋人同士でもなんでもない、それぞれ絶望の淵に立った、たまたま居合わせた男女だった。以下本文から。

数えきれないくらいの人間が、改札に吸い込まれては吐き出されている。野島にはそれが、連休が終われば何ごともなかった顔で日常に戻って行ける資格を持った人々に見えた。自分はその流れに足を踏み出すことができない。次第に日常がどこにあったのかもわからなくなってきた。
「せんせぇに見えちゃってる将来と、あたしが昨日今日で見ちゃった将来って、絶対的に違うものだと思う」
昨夜のまりあの言葉が胸奥の深い場所から一気に喉元までせりあがってきた。
「佐倉、それはもしかしたら同じものかもしれない」
言葉にしたら、そのまま彼女の持つ暗がりに引きずり込まれそうだ。野島は首を横に振った。自分はもう既に、この女に右手を取られている。昨夜見た校長のように。日常から引きずり下されている。ひどく喉が渇いていた。
掲示板の行く先がおおかた変わったころ、まりあが口を開いた。
「せんせぇ、どうしたの。具合でも悪い?」「いや、大丈夫」
「三連休初日だね」「うん」「どっか行こうよ」
「どこ行くんだよ、お前とふたりで」「あたしたち、行くとこないのかぁ」

夜逃げした親に捨てられた佐倉まりあと、妻が仲人である校長と結婚前から浮気していたことを知った野島。ふたりの道は交わることなく、しかしまっすぐに『ホテルローヤル』へと続いていた。
人の噂の無責任さと安直さを、思う。噂とは、想像しやすい方へ納得しやすい方へと作り上げられていくものなのだ。高校教師と女子高生は、禁断の恋とやらに囚われたのだと言えば誰もが納得する話で終わる。だが、桜木は判りやすい噂で終わらせなかった。シチュエーションが同じでも、ケースバイケース。だからなのかも知れない。小説のなかの人々は、生きているかのようだった。

読み終えて、秀逸な表紙だと思いました。1話目の『シャッターチャンス』
の主人公を描いたものだとばかり思っていましたが、小説に登場した
どの女性だと言われても納得してしまうような雰囲気を持っています。

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『人質の朗読会』

小川洋子の連作短編小説『人質の朗読会』(中公文庫)を、読んだ。
遠い国で反政府ゲリラの攻撃にあい、人質に取られた8人の日本人旅行者達。その後爆破され亡くなった彼らがそこで行った8つの朗読と、人質救出作戦を実行した政府軍兵士の朗読ひとつが収められている。以下プロローグから。

今自分たちに必要なのはじっと考えることと、耳を澄ませることだ。それも考えるのは、いつになったら解放されるのかという未来じゃない。自分のなかにしまわれている過去、未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ。それをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟にのせる。その舟が立てる水音に耳を澄ませる。なじみ深い場所からあまりにも遠く隔てられた、冷たい石造りの、ろうそくの灯りしかない廃屋に、自分たちの声を響かせる。そういう自分たちを、犯人でさえも邪魔はできないはずだ。

たとえば、偏屈な大家さんとアルファベットビスケットを並べて食べた女性の記憶。『やまびこビスケット』から。

大家さんは上棒がとれたFを食べ、真っ二つに割れたVの片割れを食べ、生焼けのeを口に運び、それらが上顎に張り付いてくると、牛乳を飲んだ。食欲がないという割には、入れ歯を軽快に鳴らして美味しそうに食べた。
「私は子どもの頃、このアルファベットシリーズを並べて、いろいろ言葉を作って遊んでいました」「ほう」
顔を上げた大家さんの口元には、牛乳の膜がくっついていた。
「例えば、自分の名前とか、好きな男の子のあだ名とか・・・。大家さんの名前も並べてあげますよ」「やめてよ、恥ずかしいから」
意外にも本気で恥ずかしがった大家さんは、Rの輪に小指の先を突っ込んだり引っ込めたりした。
「では、一番お好きな言葉を」「それならもちろん」
ぐいと顎を持ち上げ、誰かに向かって自慢するように大家さんは言った。
「整理整頓だよ」

8人が人生のなかでとどめていた記憶は、他人から見たら大事件と言えるようなことではなくささやかなと形容しても可笑しくない、しかし彼ら自身のなかでは決して色あせることのない一場面だった。今日を生きるための記憶、そういうものが人のなかにはあるのだと、この小説から教えられた。

年下の友人にいただいたマッシュノートのペンと一緒に。
解説は、ドラマ化でナビゲーター役を演じた佐藤隆太です。

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『最果てアーケード』

小川洋子の連作短編『最果てアーケード』(講談社文庫)を、読んだ。
舞台は、世界で一番小さなアーケード。ステンドグラス風のガラス屋根から優しい陽が射すその商店街は、何処の国とは特定できない雰囲気を持つ。
舞台女優達の服を縫う「衣装係さん」剥製の目を作る「義眼屋」一種類のドーナツを揚げ続ける「輪っか屋」文具の他に投函後の絵葉書きなども扱う「紙店シスター」ノブさんの「ドアノブ専門店」未亡人が夫の後を継いだ「勲章店」遺髪を使ったレースも扱う「レース屋」などがある。

主人公の少女は、アーケードの亡くなった大家の娘で、それぞれの店から客先への配達をしている。彼女が生まれ育ったアーケードには、彼女の大切なものが数えきれないほどある。それをひとつひとつ、見せてもらっているような気持ちになる短編集だった。以下本文から。

若者はボックスから絵葉書を抜き取る。一枚読み、それを戻してまた次の一枚に目を通す。文字に触れないよう、葉書きの両端を指先で慎重に支える。雑用係さんと同じ手つきだ。しばらくのち彼は、まるで自分に宛てて書かれたかのような、特別に愛着を感じる一枚と出会う。
「さあ、目を開けて。何も怖くないよ」
誰が誰のために書き送ったのか、絵葉書きにはたった一行そう書かれている。
「これも、お願いします」
若者はカウンターにそれを滑らせる。
「はい、ありがとうございます」
お姉さんはもう一度カードを揃え直す。
若者は生まれ持った優しさと若さと賢さによって、たくさんの便りを出し、それ以上にたくさんの便りを受け取る人生を送る。もしかしたら中には、雑用係さんや私の母や、もっと多くの人々がちょっとした不運のために受け取れなかった便りさえ、含まれているのかもしれない。「紙店シスター」の決まりに則れば、それはよき人生ということになる。

紙店シスターにも行ってみたいが、なかでも心魅かれたのはドアノブ専門店だった。開け閉めできるようになった板に付けられたドアノブが壁いっぱいに並び、一番大きな板の向こうは空洞になっている。人が一人、ぎりぎり入れる程度の大きさの穴があるのだ。部屋でも納戸でもない、ただドアノブのためだけに存在する暗がり。少女は、そこに入るのが好きだった。世界の窪みのようなアーケードに隠された、もう一つの窪みだと感じていた。

最果てアーケードの紙店シスターで売っていた切手と。(嘘です)
三つ編みに結んだリボンとタイトルの色を揃えてある、素敵な表紙です。

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『この世にたやすい仕事はない』

津村記久子の新刊『この世にたやすい仕事はない』(日本経済新聞出版社)を、読んだ。『とにかくうちに帰ります』がおもしろかったので、衝動買いしたのだ。帯には「お仕事ファンタジー小説」とある。
14年間働いた職場を辞めた36歳の女性が、やりたい仕事じゃなくてもいいから、できる仕事をしようと、5つの仕事を転々とする話だ。
最初は、危険物を持っている可能性がある対象者を、室内に設置したカメラで監視する仕事だった。そこで、対象者が見ていたスーパーのチラシを覗き見て、特売輸入ソーセージを買いに走ったところ買い損ね、自分は何をしているのだろうとすっかり落ち込む。そのうえダメ押しのように、そのソーセージを美味しそうに食べる対象者を見てしまう。それも、やはり見損ねたお笑い番組を、大笑いしながら観るところを。以下本文から。

私はいったん、おとといの映像を一時停止して、事務椅子の肘掛に全体重を預けて、がっくりと頭を垂れた。自分は不幸だと思った。いやわかっている。世界には、こんなもの屁でもないようなつらいこと、大変なことがたくさんある。それでも、この瞬間だけは不幸ゲージを最大まで上げさせて欲しい、と思う。すぐ下げるから。あさってくらいには。
やりがいはあったが、質量ともに慢性的に仕事に裏切られているような感じに耐えられず前職を辞め、実家に帰って、失業保険が切れた。しかし、生活を覗かれるよりはましだよなあ、とどこかで思いながら、私は山本山江を監視していた。なのに、そんなことはないということを思い知らされたのだった。

くすくす笑いながら読めるこの小説は、しかし、ラストにはすとんと腑に落ちるものがあった。そう。働くって、生きることなんだよなあ、と。
わたしの仕事は、主な業務は経理事務だが、そのなかには社長である夫のサポート全般という業務がある。もしかしたらこの仕事って、生きることにいちばん近い仕事なのかも知れないなあと、本を閉じ、思ったのだった。

タイトルは、もっと綺麗なショッキングピンクなんですが、
写真には写りませんでした。栞の黄色がぴたりと合っています。
バスでアナウンスされる広告コピーを作る仕事、
おかきの袋の裏にある豆知識を考える仕事、
環境ポスターの貼り替えをする仕事、森林公園の小屋での仕事など、
主人公は、どの仕事にもまじめに取り組んでいきます。

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『見知らぬ妻へ』

浅田次郎の短編集『見知らぬ妻へ』(光文社文庫)を、読んだ。
久しぶりに読んだ、浅田次郎の文章は、ため息が出るほど綺麗だった。
以下、コーとナオミのひと夏の恋『踊り子』から。

いつも花をくわえたように引き締まっていたナオミの唇が帯のゆるむようにしてしどけなく壊れた。素顔の瞼のふちに涙をたたえてナオミは小さく叫んだ。
「コー」
ベルが鳴りおえ、ほんの一瞬の静寂の間に、僕はナオミの白い頬を両手で被って口づけをした。心から愛した踊り子の唇は、甘いミントの味がした。ホームの廂間(ひあわい)から大粒の滴が流れて、僕らの額を濡らした。
愛らしい舌先が僕の口にチューインガムを送り届け、僕はそれをいちど舌で転がしてから、また彼女の口に返した。
それが僕とナオミの最後の会話だった。
ドアが閉まり、列車は雨を吹き散らしながら動き出した。ほんの何歩か後を追って、僕は歩くのをやめた。ガラスの中で白い花のように翻っていたナオミの掌は、すぐに見えなくなった。

うん。美しい。いいなあ。
8編の小説は、どれを読んでも涙をこぼすことはなかったが、なつかしいメロディを聴いたときのように泣きたくなるものばかりだった。
なかでも『スターダスト・レビュー』の主人公、元チェリストの圭二の頭によぎった考えが、強く胸に残った。
それぞれ関係のないところで一度にいくつもの問題が起こり、頭を悩ませていた彼は、ふと考えるのだ。これは、オーケストラのパート・スコアのようなもので、意を決して指揮台に上がりタクトを一振りすれば、何ごともなかったかのようにシンフォニーが始まるのではないかと。

人は、いくつもの問題が重なればどうしてこうも重なるのだと嘆き、順番に問題が起これば誰かが見ていたかのように順々に起こるとため息をつく。そしてたぶん、意を決してタクトを振ることは、なかなかできないことなのだろう。わたしも煩雑な問題に、やはりタクトを振ることはせず、目をつぶって肩をすくめシンフォニーにはならないいくつものパートに耳を澄ませることにした。

なかに挟んであった栞の色が、タイトルと同系色だったのは、
意識してのことでしょうか。だとしたら、すごいな。光文社。
絵の帽子にタイトルがかぶってしまっているのが、ちょっと惜しい。

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『とにかくうちに帰ります』

津村記久子の短編集『とにかくうちに帰ります』(新潮文庫)を、読んだ。
6編ある短編のうちの4編 + 1編は登場人物が同じ連作短編の『職場の作法』『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』だ。タイトルの通り、そのどれもが会社内の様子を描いている。主人公で事務職20代の女性、鳥飼の目線がおもしろく、職場のひとりひとりが、クローズアップされていく。

依頼する人の態度によって書類作成の速度を決める女性社員。大らかな性格はいいのだが、誰のデスクにある文房具でも勝手に使い失くすおじさん社員。(プラスチック製の安物だが大切にしていたペン、ペリカーノジュニアを鳥飼は失くされてしまう)マイナーなスポーツ選手や海外の地名にやたら詳しい先輩OLや、咳をしつつもがんばりをアピールするのに必死になり社内にインフルエンザをまき散らす男子社員、自分の自慢をしたいがために女子社員に絡んできて最後には総好かんを食らう部長など。鳥飼のシュールな感覚に驚かされるシーンも多く、読んでいて楽しいOL小説だ。

表題作は、豪雨のなか家路を急ぐ会社員やOL、小学生を描く。以下本文から

わかります! とオニキリが叫んだ。橋の下で波がそれをかき消すように、ひときわ激しく互いを打ち合うのが聞こえた。
「給料も今のままでいいし、彼女もできなくていいから、部屋でくつろぎたいんです!」オニキリの、ある種の暴露に対して、ハラの反応は鈍かった。
そうか、とすら思わなかった。
「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」「そうだな」ハラは深くうなずく。
「べつに愛は欲しくないから、家に帰りたい」

読み終えて、人は、些細なことに必死になったり、小さなことを大切にしたりしているのだと再確認した。大切なことは、そう。たとえば牛丼を、肉とご飯の比率をきちんと計算しながら食べることだったり、またたとえば、ペットボトルの蜂蜜レモンを冷めないうちに味わうことだったりするのだ。

OL小説ということで、いつも仕事に使っているお気に入りの電卓と、
ペリカーノジュニアではないけれど、使いやすい普通のペン達と。
新潮文庫の文字まで、雨粒に入っているのが素敵な表紙です。

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『ふくわらい』

西加奈子の小説『ふくわらい』(朝日文庫)を、読んだ。
主人公、鳴木戸定(なるきどさだ)25歳は、編集者。4歳のとき、ふくわらいに心を奪われて以来、目にする人の顔のパーツを自在に動かし、様々な顔につくり変えることができる。もちろん、想像の上でだが。以下本文から。

店員の胸には『店長・外山』という名札がついている。
頭がはげあがり、その輪郭が広い。ああいう形をしていると、眉毛や目を、際限なく上に置くことが出来るから、面白いのだ。定は早速『外山』の眉毛を、頭頂部ぎりぎりに置いてみた。亀の裏側のようで、やはり面白かった。

ユーモアのセンスに満ちたこの小説は、しかし、人の生きる様の根となる部分を深く見つめた物語でもある。
定は、人の感情というものが理解できず、友達も恋人もいないままに25年を過ごして来た。たとえば「顔」というものを捉えるときに、目、鼻、口、耳などのパーツ一つ一つを理解して吟味せずにはいられないのと同じく、人を人として捉えることも、自分を捉えることでさえ、難しかったのだ。
だが定は、人に触れ、少しずつ変わっていく。
破天荒なプロレスラー、守口廃尊。定に恋する目が不自由なイタリア男、武智次郎。1年後輩で社内一の美人編集者、小暮しずく。こと、小暮しずくと心が通い合っていく様は、読んでいてわくわくした。以下本文、ふたりで16本のビール、バーバーバーを空けながら、あふれでたしずくの台詞。

「私も定ちゃんも、今、先っちょですべてじゃない? 分かる? 分かるでしょぉ? 今までの歴史みたいなもんあるじゃん、お互い。今日、定ちゃんが話してくれた、定ちゃんの過去、お父さんの肉を食べたこととか、悦子さんに雨乞いを手伝ってもらったとか、お母さんのおっぱいを、ずっと吸ってたこととか、あれ、なんか泣けてきた。泣けてきたよ、はは、それ、そういうのがすべて積み重なって、その先端に、今の定ちゃんがいるわけじゃない? 私にとって、今の定ちゃんはすべてだよ、そんで、それは先っちょだよ!」

かかわっている目の前の人みんなに過去があり、その過去をその人のすべてと呼ぶなら、今は先っちょだと、これからもその先っちょの後ろに、どんどんすべてが大きくなっていくのだと、だから長生きしてたがいのすべてと先っちょをこれからも見ていこうと、しずくは定に語るのだった。

自分の皮膚と折り合いをつけるために、定が様々な国で身体じゅうに彫った
タトゥーが(カバ以外)表紙の絵になっています。装画も西加奈子のもの。
「腹には大きな白鯨を、胸と胸の間には羽を広げたオニヤンマを。
 左太ももには跳ねあがるアフリカツメガエルを」
タトゥーは墨で彫られたものでしたが、カラフルに描かれています。

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『我が家のヒミツ』

本屋で見つけ、ぱっと笑顔になる本、というのがある。
最近ハマっている作家の新刊だったり、好きなシリーズの続編だったり。その「本屋でぱっ」を見つけた。奥田英朗の『我が家のヒミツ』(集英社)だ。
『我が家の問題』『家日和』と続いた家族を描いた短編シリーズ。帯には「家の中には秘密がいっぱい」とあり、その秘密に〈 ドラマ 〉とルビがふってある。秘密というほど秘密じゃない、どこにでもいそうな家族のストーリーだ。今回は、何かが起こったことで、知らなかった家族の一面を垣間見る。といった感じのテーマで統一された6編だった。

1話目『虫歯とピアニスト』は、歯科医の事務員、敦美、31歳が主人公。
急患で来た男性は、大好きなピアニストだった。秘かにドキドキしながら過ごす日々は、敦美にとっては思いがけぬプレゼントをもらったような気分。結婚して何年か経つが子どもができず、そのプレッシャーにまいっていたのだ。
以下本文から。

「ぼくの三十代は、寝てたけどね」
でも大西さんは答えてくれた。
「寝てたんですか」
「それはたとえだけど、少し蓄えがあったから、出来るだけ無為に時を過ごしていたことは事実」
「どうしてそうしようと思ったんですか?」
「そうねえ・・・、大袈裟な二十代を過ごしたから、その反動かなあ」
大西さんが遠い目をして言った。
「大袈裟な二十代?」
「そう。みんな若いときは自分の人生を大袈裟に考えるじゃない。過大評価もいいところなんだけどさ。ぼくもそうだった。自分の人生は有意義で輝いていないといけないと思い込んでた。でも実は地味な性格で、そのギャップに少し苦しんでた。そういう考え方が、十年間ブラブラしてたら変わった」
「どんなふうにですか?」
「人間なんて、呼吸してるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事して、恋をして、ピアノを弾いて」

敦美は、夫にもピアニストの大西さんのことは、うきうきとしゃべっていたが、こと子どものことになると、悩んでいることさえ話す気持ちになれず、夫がどう考えているのかも判らずにいたが・・・。

何かが起こった時に、誰かの知らなかった一面を見て驚く。そういうことは、ままある。それが家族だとしても、知らない面を垣間見ることも、たぶん珍しくないのだろう。よく知っているつもりでも、たがいの胸のうちまでは判るはずもないことなのだ。だから人間って面白い。そんな短編集だった。

ところで、我が家のヒミツは? ふふふ。何でしょう。

シリーズ3作通して、同じ家族が描かれている短編もあります。
前作、前々作でマラソンやロハスにハマった妻が、市議会議員に立候補。
『妻と選挙』は、奥田と同じく直木賞作家の夫が主人公です。

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『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』

山田詠美『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』(幻冬舎文庫)を読んだ。ファンタジックな表紙絵からは想像もつかない、家族の死がもたらす混乱と喪失をリアルに描いた小説だ。そして、再生を。

二つの家族は、共に暮らし始めることとなった。11歳の長男澄生と9歳の長女真澄を連れた美加と、4歳の創太を連れた誠が結婚したのだ。すぐに生まれたのは女の子で千恵と名づけられた。子ども達も含め、それぞれが幸せになるための努力を惜しまず、努力した分だけきちんと幸せになっていくような、そんな家族になっていった。
3人の兄となった澄生が、17歳で突然雷に打たれ死ぬまでは。
小説は、その15年後、大人になった子ども達の視点で語られる。
真澄は30歳。大切な人を失う怖さに人を愛することの難しさを感じていた。
創太は25歳。兄の死から立ち直れない義母である母を誰よりも力づけてきたが、兄を越えられないことに傷ついてもいた。母と同じ年頃の女性と恋愛中。
千絵は20歳。大学生。兄の死後の幸せとは対極にある家族の記憶しか持たず、中学高校と、その兄が原因でいじめにあう。兄の死が変えていく家族というものを目の当たりにし、自分が今できることを考えようとする。

震災でたくさんの人が亡くなったときに、ビートたけしが言ったそうだ。
「あれを二万人が死んだ一つの事件として考えてはいけない。ひとりが死んだ事件が二万件あったと考えるべきだ」
解説の長嶋有は、この小説は、その一人の死に対してさえ、受け止め方もそれぞれ、悲しみも多様だということを、3人の兄弟達に寄り添うことによって描いているのだと言う。

人はいつか死ぬ。健康な人でも、明日、突然死んでしまうかも知れない。普段は忘れているが、頭の隅ではみな理解していることだ。小説の家族は、普段からそれを忘れることができずにいるのだろう。
死ぬまでに心の準備ができるような死に方をしたいという言葉を、同年代の人からも聞くようになった。明日自分が、または大切な人が死ぬかもしれないとは、実際には、なかなか考えられないものだ。

表紙の音楽隊は、6人家族かな。赤い屋根の家とピンク色の薔薇。
幸せを絵に描くと、こんな感じなのでしょうか。

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『はぶらし』

近藤史恵の『はぶらし』(幻冬舎文庫)を、読んだ。
解説の書評家、藤田香織はかいている。「極めて切実な女子小説でもある」と。また、帯には「心理サスペンスの大傑作!」とある。サスペンスの色濃い女子小説ということか。
十年以上会っていない、高校時代、親友というほどではないにしろ、まあまあ仲が良かった同級生から突然電話が鳴った。「今すぐに相談したいことがある」真夜中である。近くまで来ているという彼女の言葉に、ファミレスで待ち合わせることにしたが、そこには、行くあても金もない7歳の子どもを連れた、やつれた友がいた。
「あなたなら、どうしますか?」と言外に言っているのが、この小説だ。

「一週間だけ泊めて」と拝み倒され承知した主人公、鈴音は36歳、独身の脚本家。子どももいない。居候することになった水絵は、甘い顔を見せれば見せるほど頼ってくる。以下本文から。

「鈴音は・・・うまくいってるもの」「え?」
「鈴音は、ラッキーで恵まれてるもの。仕事もうまくいっているし、旦那や子供に時間を取られることがないし・・・そんな人は滅多にいない」
はっとして、鈴音は彼女を見た。
「鈴音が脚本書いた映画、いっぱい見たわ。売れてる役者さんがいつも出てて、わたしとは違う世界で仕事しているようでまぶしかった」
「裏方だわ。役者さんたちと直接会うことだってほとんどないし」
もちろん、どうしても会いたいと主張すれば会えることもあるだろうが、鈴音はあまりそういうことに興味がない。役者は役者で、華やかそうに見えても現場は過酷な仕事だ。お互いの持ち場でちゃんとやれてればいいと思っている。
「でも、収入だって普通よりずっと多いんでしょ。ほかの人とは違う」
水絵はもう一度繰り返した。
「恵まれてるわ・・・鈴音は」
ようやく、なぜ水絵が鈴音を頼ろうと考えたのかが理解できた。一見派手に見える職業で、独身で、子供もいない。だから頼ってもいいと考えたのだ。

「人」という字は、支え合い成り立っているとは、よく言うことだが、支え合うことと、寄りかかることは違う。人と人とは助け合うべきものだということは判るけど、と 鈴音は思う。いったい何処まで助けるべきなのだろうかと。

買って返すからと、鈴音に歯ブラシを借りた水絵。返し方が微妙でした。
人と人との歪みはいつも、小さなところから始まるのかも知れません。

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『薔薇を拒む』

近藤史恵のミステリー『薔薇を拒む』(講談社文庫)を、読んだ。
両親を事故で亡くし施設で育った博人は、大学進学の援助を条件に高校を中退し、山奥の洋館に住み込みで働き始める。住人は40代の美しい母親と博人と同い年の美少女、小夜。働くのは執事役、家庭教師、家政婦2人、そして博人と同条件で雇われた同い年の樋野の合わせて6人。そこは隔離されたと言っていいほど田舎にある洋館で、しかし世の中から冷たい扱いを受けてきた博人にとっては、心安らかに過ごせる居心地のいい場所となっていく。そんななか、静けさを破るようにひとりが殺された。

小説のタイトルは、シャンソンの歌詞である『澄んだ泉にて(A la claire fontaine)』からつけられている。
「わたしは恋人を失った。わたしが彼にふさわしくなかったから、あの人がくれた薔薇の花束、それさえもわたしは拒んだ」
小夜が、作中でくちずさむフランス語の歌だ。
そして薔薇は、博人から見た小夜のことである。閉じ込められたかのような空間と穏やかな時間は、博人と、そして樋野を恋に落とすにはパーフェクトな環境だった。たとえそれが、仕掛けられた罠だったとしても。以下、本文から。

樋野は前髪をかき上げた。
「こんな罠があったとはな・・・飯と住むところに困らなきゃなんでもいいと思ったのに」
罠。小夜はまさに罠だった。心まで搦め捕られて動けなくなる。
樋野はつぶやいた。
「怖いんだ」「怖い?」
彼は下を向いて、何度も指を組み替える。
「俺には親父の血が流れている。自分がなにをするのかわからなくて怖い」

本を閉じ思ったのは、ミステリーっていいな、ということだ。
読んでいる間は夢中にさせてくれるし、最後にはきちんと裏切ってくれる。この小説には特に、ラストに驚かせてくれてありがとうと言いたい。ラスト、それまで読んできた世界が一変するミステリーの醍醐味を味わわせてもらった。

途中、栞が挟んである場所まで読み進めて、ああ、講談社文庫! と
うれしくなるのは、マザーグースの歌の栞がシンプルで素敵だからです。

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『サクリファイス』

近藤史恵『サクリファイス』(新潮文庫)を、読んだ。プロの自転車競技、ロードレースの物語。と言っても、スポ根とは色合いが違う。サスペンスとして楽しめる、ミステリー上手な近藤史恵ならではの小説だ。

「青春小説とサスペンスが奇跡的な融合を遂げた」とうたわれるこの小説は、近藤史恵の代表作と言える。近藤史恵の小説は、すでに十冊以上読んでいる。どの本を読んでも楽しめること受け合いと熱く信頼している作家の一人である。その代表作をここまで避けてきたのは、やはりスポ根モノへの偏見としか言えないだろう。個人的にただ「根性」という言葉が苦手なだけなのだが。でもねこれ、スポ根じゃない。だってわたしが大好きになった小説なんだから。

主人公、白石誓(しらいしちかう)通称チカは、チーム・オッジに所属している23歳の新人ロードレーサー。サイクルロードレースは、個人競技のように見えてじつは、団体競技の要素が強い。表彰台に上るには一人だが、チーム全体でそれを支えていく競技なのだ。チカはロードレースのそんなところに魅かれ、陸上から転身した。勝利のためにエースに尽くす。アシストとして走ることが本当に好きだったのだ。だが、チームメイトがみな同じ考えだとは限らない。いや、自分がトップに立ちたいと思う方が自然なのかも知れない。
ある日、チームのエース石尾が昔、期待された新人を故意の事故で再起不能にしたという話を聞かされる。石尾の勝利を願い走るチカだが心は揺れていく。
そんななか、ベルギー遠征で大きな事故が起こった。
「非情にアシストを使い捨て、彼らの思いや勝利への夢を喰らいながら、俺たちは走っているんだ」石尾のその言葉に込められた決意とは。

共感する。思えばアシスト人生だ。
夫の会社を手伝って二十年と少し経つ。仕事は経理だけではない。彼のアシスト全般が、わたしの仕事だと、そう思ってやって来た。主役になるより、その方が性に合っていると知っている。だから、チカの気持ちがよく判る。
そしてチカは、エースをアシストすることに懸命になりながらも、もちろん自分のために走っている。共感するからこそ実感することだ。

『サクリファイス』とは、犠牲の意味。大藪春彦賞受賞作品。
『エデン』は続編。チカがツール・ド・フランスに挑みます。
『サヴァイヴ』は、シリーズ秘話6編を収録した短編集です。
*今、ツール・ド・フランスのゴール地点、パリを旅行中です。
 明日から、パリ徒然、発信していきます*

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『カウント・プラン』

黒川博行の短編集『カウント・プラン』(文春文庫)を、読んだ。
裏表紙の紹介文を借りれば「現代社会が生み出しつづけるアブナイ性癖の人達。その密かな執着がいつしか妄想に変わる時、事件は起きる・・・」とある。表題作は、眼に入った物を数えずにはいられない強迫神経症の一種、計算症の男を描いている。以下本文から。

この日十三本目の煙草をくわえてライターをすったが、ガスが切れていた。カウンターの徳用マッチを引き寄せたら、箱の中にジクがぎっしり詰まっている。一本、二本、と眼で数えはじめた。赤い頭をめやすに五十五本まで数えたが、あとは中身を移し替えないと数えられない。眼の奥がじんじんして首筋が硬くなる。髪の中を毛虫が這いまわっているような焦燥感。
やめろ、これは店のマッチや。 ― 引き剥がすように視線を逸らして目をつむった。きな臭いにおいが鼻孔の奥に広がりだす。
「おあいそや。勘定して」
燗酒を残したまま、福島は逃げるように店を出た。

ストーリーは福島の生活描写と並行し、大型スーパーに脅迫状が届く事件を追っていく。商品に毒物を混入するとの脅しに対し、刑事達が未然に防ごうと動くが、テナントの一つペットショップの水槽に青酸ソーダを入れられ、公開捜査へと踏み切る。その脅迫状の切手から、福島の指紋が検出された。

登場する科捜研の心理鑑定官は、言う。
「人は誰でも、強迫と恐怖に囚われる傾向を持っている」
玄関の鍵を閉めたか、ガスの火を消したか、確認しても確認しても不安になるタイプの強迫神経症もあるという。わたしは普段、異常なほどに不安になったりはしないが、心配し始めると止まらなくなることもある。そういうときにはわたし自身も、狂気と正気の中間にいるのかも知れない。自分のなかにあるものが、いつしか狂気の粋に達してしまったら。そう思ったら寒気がした。
黒川は、決してそうした神経症なる状況にいる人を、犯罪予備軍として決めつけたりはしてはない。ただその特性により起こりうるであろう物語を、淡々と紡いでいた。

愛想のない表紙だったので、数字の小人くん達に手伝ってもらいました。
表紙の装幀は、脅迫状。郵便番号のような定規でかかれた字のものでした。
『カウント・プラン』は、日本推理作家協会賞受賞の短編です。

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秀逸なビールの描写

西加奈子の小説『窓の魚』(新潮文庫)の描写の素敵さは何度読んでもしびれるが、なかでも好きだったものの一つにビールの描写がある。以下本文から。

ビールの最初の一口! その苦味は、舌の上で、次に入ってくるものと交わるために、身構えしている。でも次から次へとビールばかり流し入れると、あきらめて、ただ舌の上に残ることだけを考え始める。時折食べ物を入れると、驚いたように喉の奥へ消え、でも新しいビールを注ぎこむと、口の中はまた、その味だけになる。コクがあって、キレがあって、なんて誰かは言うが、本当はとてもだらしがなくて、あきらめが悪い。だから私は、ビールが好きだ。平気だよ、なんて顔をしておいて、私をすぐに酔わせてくれるのもいい。

「そうなのよ」
読んで、ひとりごちた。コクがあるとか、キレがあるとか、何か違うと思ってたのよ、と。だらしがなくて、あきらめが悪い、か。なるほど。

ビールを愛するわたしとて、ビールが美味しくない夜もある。そんな時にこの文章を読むと、ビールって苦いよなあと思うのだが、いくらでも美味しく飲める夜に読むと、ビールの魅力を再確認できるように思う。
そう考えると、小説ってお酒と似ている。同じ文章を読んでも、美味しく読める時とそうでない時があるのだ。

娘の芝居を観る前に、夫とキリンシティで一杯やりました。
王子はにぎやかな呑み屋街でしたが、ここは落ち着いた雰囲気。
そして、キリンシティの生ビールは美味い!

夫を待つ間、駅前の飛鳥山公園を少し歩きました。
桜並木です。桜の頃は、きっと綺麗なんだろうな。

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『噂の女』

奥田英朗の連作短編集『噂の女』(新潮文庫)を、読んだ。
糸井美幸というひとりの女を軸に、様々な場所でのドラマが時系列に沿って展開していく。25歳で高級クラブのママになるまでに、彼女に何があったのか。田舎の町を舞台に、一つ一つの短編で繰り広げられるのは、何処にでもあるような人間模様。そこには、常に糸井美幸の影が見える。男達は、彼女の魅力に翻弄され、女達は、彼女に羨望の眼差しを向ける。女の魅力、そして人としての魅力を武器にしているのだ。以下本文から。

「こんなときになんやけど、わたし、糸井さんを尊敬するわ」
佳代子が妙なことを言った。
「なんで」
「だって、田舎の普通の女がやれることで一番どデカイことって保険金殺人やろ。それを糸井さんがやったんだもん。まだ仮定の話やけど」
「ああ、そうかもしれんね」
美里が感心する。なにやら妙な説得力があった。
「平凡な結婚をして、子供を二人産んで、小さな建売住宅を買って、家事と育児とローンに追われて、田舎の女はそういう人生の船にしか乗れんやん。でも、糸井さんは、女の細腕で自分の船を漕ぎ出し、大海原を航行しとるんやもん。金持ちの愛人を一人殺すぐらい、女には正当防衛やと思う」
「うん、そうやね」
美里も同意した。あの夜、柳ヶ瀬のクラブで見かけた糸井美幸は、妖艶なカマキリに見えた。ならば安易に近寄って殺されるオスが悪い。

この小説の魅力は、糸井美幸の周りで普通に生きる人達の、微妙な力関係を描いたところにある。気の弱い人間は、可笑しいと思いながらも強く言う人間に説き伏せられてしまう。強い方は、つけ入る隙あらば限りなくつけ入り、弱い方は、嫌なことを押しつけられたり、頼まれてやっていることに文句を言われたりしながらも我慢をする。糸井美幸は、そんな力関係のいちばん上にいて普通に生きる人達を微笑みを浮かべながら空から眺めているようなイメージだ。

わたしは、いや、すべての女達は、良くも悪くも糸井美幸にはなれないだろう。普通に生きていくだけだって、背負った荷物もしんどいことも、けっこう多いのだ。

新潮文庫の栞、最近黄色になりましたね。文庫に栞、うれしいです。

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『漁港の肉子ちゃん』

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』(幻冬舎文庫)を、読んだ。
丸々太った肉子ちゃん(38歳)と、母娘とは思えぬ可愛らしいキクりん(5年生)は、流れ着いた北国の漁港で暮らしている。新鮮な魚が美味しい港で、地元住民が食べにくる焼肉屋「うをがし」に住み込みで雇ってもらったのだ。店主は70歳過ぎのおじいちゃん、サッサン。店は、そこそこ繁盛している。
語り手であるキクりんは、母、肉子ちゃんのありのままの姿をさらけ出す様を見つめながらも、周囲に気を使う、空気を読む子どもに育っていた。
以下本文から。

「肉子ちゃん、外人って言ったらあかんねんで」
「外人? なんでっ?」「差別用語なんやって」
「嘘やんっ! ほんならなんて言うたらええのんなっ!」「外国人」
「・・・がい・・・。一緒やんっ! どう違うんっ!」
「外人って、どっか蔑んでるような・・・感じ?」「蔑んでる・・・っ!」
「馬鹿にしてるみたいに取られるねん」
「そんなんデブと肥満と一緒やんっ! 言われてる方の気持ちは一緒やっ!」

肉子ちゃんは、太ってて不細工で、着る服もセンスなどまるでなくて、男に騙されて金を貢がされてばかり。だけど、キクりんを愛する気持ちだけは限りなく大きい。キクりんは、肉子ちゃんみたいにださい大人はなるまいと思いつつも、客観的にすべてを見つめる賢さを持っていた。しかし、賢いといっても5年生。大人に教えられることもある。
「みんな、それぞれでいい」「ちゃんとした子どもも、ちゃんとした大人もいない」というサッサンの言葉は、キクりんの胸に沁みていった。

わたしは、自分が大人と呼ばれる年齢になってから、ずっと違和感を抱えていた。大人って、こういうものなの? 今の自分が大人なの? という感覚だ。サッサンの言葉は「大人」という認識を打ち砕き、長年の違和感を取り除いてくれた。わたしは大人じゃない。わたしはわたしなのだ。

漁港は架空の町ですが、宮城県石巻の漁港を旅した時に見かけた焼肉屋が
モデルになっていると、あとがきにありました。旅したのは東日本大震災の
前で、地震のあとに、ふたたび訪ねたとかかれていました。

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『火花』

今一番の話題作と言えるだろう。又吉直樹『火花』(文藝春秋)を、読んだ。
熱海で花火大会の夜、芸人、徳永は、師匠と慕うことになる神谷と出会った。徳永は二十歳、神谷は二十四歳。ふたりは、それぞれ芸人として活動しながら、飲んでは語り合った。以下本文、いくつかのシーンの神谷のセリフから。

「お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

「自分が漫才師であることに気づかずに生まれてきて大人しく良質な野菜を売っている人間がいて、これがまず本物のボケやねん。ほんで、それに全部気づいている人間が一人で舞台に上がって、僕の相方ね自分が漫才師やいうこと忘れて生まれて来ましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜売ってまんねん。なに野菜売ってんねん。っていうのが本物のツッコミやねん」

「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」

抜粋していて感じたのは、熱い芸人の物語なのだなあということだ。読んでいるときには、その熱さよりも、文章の新鮮さの方が勝ってしまっていた。

いちばん好きだったのは、神谷が失恋したと徳永に打ち明けたシーンだ。歩きながら、そして徳永は泣きながら、それでもふたりが話す言葉は、吹きだして笑ってしまうほどに漫才なのだ。「行動の全ては既に漫才の一部」との神谷の言葉を体現していて、ひどく切なくなった。笑うことと泣くことは、きっと何処かで繋がっているのだと感じる、とても素敵なシーンだった。

主人公、徳永と又吉を重ねてしまうことを、最後までやめられなかったが、今後も知ることのないだろう芸人の世界をのぞかせてもらったのだ。そこは、それもまたよしと納得するしかないだろう。いや、これ、駄洒落ではなく。

赤が印象的なカバーを外すと、黒地に金の模様が入っていました。
飛び散る火花のイメージかな。栞はエンジに近い色味の赤です。
タイトルは、漫才師達が競い合う世界の激しさを表したものでしょうか。
徳永が相方、山下と組むコンビ名は「スパークス」でした。

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『うつくしい人』

西加奈子『うつくしい人』(幻冬舎文庫)を、読んだ。
自己顕示に苛まれ、常に他人の目を気にして生きてきた百合は、29歳。つまらないミスから会社を辞めてしまい、焦燥感にいてもたってもいられなくなり、浮世離れした離島のホテルで数日過ごそうと旅に出る。
百合の背後に、幼い頃からあったもの。それは、優等生で美しい姉の存在だった。しかし、その姉も高校時代にいじめにあってから家に引きこもっている。姉のようにはならず、社会に出てきちんと生活している自分を心の支えにしてきた百合だが、仕事を失くし、いとも簡単に心のバランスは崩れていった。
そんな気持ちを抱えた百合は、旅先の離島のホテルで、そこで働くバーテン坂崎と、ひとり旅するドイツ人マティアスに出会う。彼らも彼らの悩みを抱えていて、百合はそれを自分のものとは交わることのない平行なものだと知りながらも、彼らと過ごす時間に、心が解き放たれていくのを感じていた。
以下、客が置いていった本を貯蔵してある図書館で、3人が本に挟まった写真を探すシーンから。

「うーん。でも、本を置きに来るんです。吸収するだけじゃなくて、置いていくことも必要なのかもしれない、と思います」
坂崎は、しみじみとそう言った。何故かその言葉は、私の頭に素直に入ってきた。吸収すること、身につけることだけが、人間にとって尊い行為なのではない。なにかをかなぐり捨て、忘れていくことも、大切なのだ。

百合には、この図書館が、本だけではなく心の錘を置いていく場所だと思えた。もしかしたら人は、そういう場所を求めて旅をするのかも知れない。そしてそれは、たぶん場所ではない。錘を置いていける時かどうかは、その人にしか判らなくて、その時を探して旅をするのだと、読み終えてしみじみ考えた。

「うつくしい」とは言えないような、顔をしかめた表情のふたり。
なのに何故だか、とても魅力的に映る女性達の絵です。
読み終えてから見ると、読む前とは違った印象を受けました。

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水月さえ
性別:
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本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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