はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『いつか陽のあたる場所で』

乃南アサは、すれ違ってきた作家だ。
背表紙を見て、ふと立ち止まったまま手にとらなかったり、平積みになった文庫を手にとってパラパラめくり、戻したり。だが、いつか読むのだろうとの予感はあった。その予感は的中し、ようやく会えたねと読み始めたのが『いつか陽のあたる場所で』(新潮文庫)だ。読み始めたらノンストップ。展開の面白さというよりは、人物描写に魅かれるタイプの小説だ。

芭子(はこ)は29歳。下町は、亡き祖母の古い家に越して来て1年ほど。それまでは、刑務所にいた。ホストに入れあげ、貢ぐ金欲しさに男達を騙しては薬を飲ませ眠らせて金を盗む常習犯だった。友人は一人だけ。ムショ仲間だった綾香、41歳だ。彼女はDVを受け続けた末、子どもを助けるために夫を殺した殺人犯。ふたりとも、周囲には前科持ちだということを隠して暮らしている。無論、繰り返し犯罪を犯そうなどというつもりはない。逆に真面目に必死に生きようとしているからこそ、人の目が恐いのである。以下、本文から。

私のこれから。これからの、私。来年の私。再来年の私。十年後の私 ― 。
しばらくの間ぼんやりと考えていたが、それから大した時間もたたない間に、芭子は、頭を殴られたような衝撃を感じた。まるで、分からないのだ。先の自分が見えてこないというだけでなく、自分の未来に思いを馳せる、その方法そのものが、まったく分からない。夢を思い描く方法を忘れてしまった。たとえば誰かと笑っている自分、幸福に包まれている、または華やかさをまとう自分 ― 、そういった情景が、まるで浮かんでこない。ただ虚ろな、白々とした空間ばかりが広がっている様子しか思い描くことができない。

芭子の視点で、語られていくのは、未来が見えないなかで過ごす「今」である。「今」をひとつ「今」をふたつと、人は、積み木のように「今」を積み重ねて生きていくのかも知れない。過去も、環境も、心持ちも違う芭子と綾香に心を重ねる時、ふと、そう思った。

シリーズは全3冊。『すれ違う背中を』『いちばん長い夜に』と続きます。
NHKでドラマ化されました。芭子は上戸彩、綾香は飯島直子です。
2冊目の解説の堀井憲一郎は、かいています。「乃南アサが描いているのは、前科者という表面的な部分を超え『人として生きている姿』を見せてくれるばかりだ。静かに暮らす日常が描かれているだけである」

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『やぶへび』

いやー、面白かった。さすが、大沢在昌。ハードボイルドならこの人、という作家だが、小説『やぶへび』(講談社文庫)は、強くもなければかっこよくもない四十男が主人公のエンターテイメントだ。以下、本文から。

「ノーマネー、ノーハニー」とはよくいったものだ。懐がここまで寒ければ、女など作れる筈がない。
もっとも考えてみれば、人生の曲がり角にはたいてい女がからんでいて、結果必ずといってもいいほど悪いほうに向かっていったような気がする。
それはつまり、甲賀悟朗(こうがごろう)が女好きだからに他ならない。

甲賀は、金のために中国人の女と偽装結婚していた。その会ったこともない妻、青珠(ちんじゅ)が警察に保護され迎えに行くと、なんと記憶を失っていた。とりあえずのつもりで一緒に帰ったのだが、彼女には追手がいて、ふたり追われる羽目に陥る。

この小説のキーになるのは、記憶をなくした青珠のキャラクターだ。甲賀は元刑事だが、特別腕がたつ方じゃない。ピンチを切り抜ける際、発覚したのは、彼女が武術の達人だということだった。美しく優しく、強い女性。これで、俄然面白くなっていく。そして、甲賀は自分が助かる算段をしつつも、結局は青珠を見捨てられないのだ。

「オオサワアリマサは、いいな」ひとりごちる。
彼の小説に登場する主人公達は、強く賢くかっこいい人物であろうと、甲賀のようにその真逆をいく人物であろうと、決して仲間を裏切らない真っ直ぐさを持っている。数字で言うと1のような真っ直ぐさ。だからわたしは、心が数字の2や3やメビウスの輪のようにねじれてしまった時に、大抵、彼の小説を読む。読めない時には「オオサワアリマサ」と唱えたりもする。世界中で彼の小説が読まれれば、世界平和も夢じゃないような気がするけど、ハードボイルド小説を読んでそんな風に考えるのは、わたしだけなんだろうな。多分。

お洒落なタイトルも多い大沢小説。『やぶへび』は異質かも。でも、
このタイトルは、中身に深くかかわっていて、ピタリとハマっています。

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『平成大家族』

中島京子『平成大家族』(集英社文庫)を、読んだ。
タイトルから判る通り、大人数の家族の物語である。龍太郎(72歳)は、穏やかな生活が何より好ましいと思っていた。問題がないとは言えないが、それでも穏やかに暮らしていたのだ。妻、春子と、ひきこもり歴十年の長男(30歳)と、認知症が進む義母(92歳)と。なのに様々な問題が、まるで鴨が葱じゃなく雷雲でも背負ってやってきたみたいに訪れた。破産した長女夫婦が、中学生の孫を連れて戻ってきただけではなく、次女は離婚し、お腹に赤ん坊のいる身体で戻ってきた。季節を経て順々に膨らんでいく家族の形とはまるで違う、いきなり倍以上の人数になった「予期せぬ大家族」の物語なのだ。

面白かった。ひきこもりの息子、親の介護、中学生のいじめ、会社の倒産、不妊治療や離婚、深刻な問題に深く切り込んでいるのに、読後感がいい。何故なら、問題山積みの家族だが、一人ひとりの目線で語られた人物は、それぞれ「いい人」なのである。人を思いやり、正しく生きようとし、自分に正直にいようとする。だがそれが、家族からしたら「いい人」で済まされない。そういう問題ではない。「いい人」なら十年間ひきこもっていていいのかという問題になってしまうのだ。以下本文、春子が、娘が作った味噌汁の嫌いなはずの椎茸を、夫が食べたところを目にしたシーンから。

自分は四十年間、好きな椎茸も我慢して、夫の好物を、作り続けてきた。椎茸は、夫の、不在の、ときにしか、料理しなかった。食べられるなんて、知らなかった。四十年も私は、騙されていたのよ!
ここよ、ここがキモなのよ、と、春子は銀座線の優先席で二つの拳をぎゅっと握り締めた。もちろん、些細なことである。つまらないことである。しかし、日常は、些細なことでできている。今まで別々暮らしていた人間がいっしょにいるとなると、いろんなところで調子が狂うのだ。

判る、判るよ。ずいぶんと年上である春子の、肩を抱いてあげたい気持ちに駆られた。生きていく上で大切なことは、実際、実に些細なことなのだ。つまらないことに、人は右往左往されるのが常なのだ。

「核家族小説が増える中で生まれた、現代の家族小説」であると、解説、
北上次郎はかいています。日本茶が似合いそうでいて、そうでもないのかな。

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『あなたに贈るⅩ(キス)』

本を衝動買いする時、多くの人がそうかと思うが、作家で選ぶ。
そして大抵は、出先で読んでいた本を読み終えてしまったり、持っている本を読む気分じゃなかったり、といった時に購入することになるので、基本、荷物にならず、電車での移動中で読みやすい文庫本だ。ミステリーが多いのは、気軽に楽しめるからだろう。
そんな状況で手にとったのが、近藤史恵『あなたに贈るⅩ(キス)』(PHP文芸文庫)だったが、当たりといえた。洗練された文章で、さらりと描かれた切なく純粋な思い。そして秀逸な謎解き。帯には「青春ミステリー」とある。

近未来。唇と唇を合わせることは、国際的に禁じられていた。感染から数週間で100%死に至る新種ウィルスの感染ルートが「キス」だけだと判明したのだ。主人公である高校1年の美詩(みうた)の世代では、頬やおでこにするのは「キス」と呼ぶが、唇と唇を合わせることは考えるだけでも淫らで恐ろしい行動であり、愛を確かめ合うものではなくなっていた。
物語は、美詩が慕っていた先輩、織恵が、そのウィルスで死んだところから始まる。ウィルス研究者の父を持つ梢に犯人を捜そうと持ちかけられ、美詩は、織恵を殺した発症しないウィルス保持者、キャリアを探し始めた。

近藤史恵のあとがきが、素敵だった。以下、あとがきから。

もちろん、この本が誰かを救うなんて大それたことは考えていない。それでも十代の頃のわたしはきっとこの本を気に入るだろうし、ポケットに詰め込んだ小石のうちの、小さな一粒になったかもしれないとは思う。
本という鎮痛剤が効くのは、一日か、せいぜい数日かもしれない。だが、人生なんてその一日の繰り返しなのだ。

「鎮痛剤」という表現に共感した。
個人的には、本に娯楽以外のものは求めず、という姿勢で趣味である読書に臨んでいるのだが、そうか、鎮痛剤だったのかと思えば、腑に落ちる。本を読んでいると、求めずとも向こうからやってくるモノは、大きい。つかの間効く色とりどりの鎮痛剤達は、わたしに日常を忘れさせてくれるのだ。

駅ナカの本屋さんで買い、駅ナカの喫茶店で檸檬ミントティーを
飲みつつ、電車待ち。便利な世の中になったなぁ。

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『糸杉』(短編集『A』収録)

ぞくり、とした。中村文則の短編集『A』(河出書房新社)を、読んでいる。
図書館で手にとった時から、見かけよりもずしりと重たいような、持っているのを忘れるほど軽いような、不安定な感覚に陥り、カウンターに出さずにはいられなかった。彼の本はベストセラーとなった『掏摸』とデビュー作『拳銃』を読んだが、内容がけっこう重かったので、短編ならと借りたことに起因しているのかも知れない。

13編あるなかの冒頭の短編『糸杉』は、風俗嬢の後をつける男の話だ。後をつけることに、衝動以外のものはなく、特に何をしようという気持ちもない。ただ「この女」と思った女性の後をつけると、何故か風俗店で働いていることが判明する。服装が地味でも、何処で見かけても、いつも終着地点は風俗店なのだ。以下、本文から。

僕の想像は終わり、僕の内面が急速に消えていく。初めからわかっている。その領域に行くには、僕にはまだ孤独が足りない。糸杉は消えている。糸杉に類似した何かも。僕の内面はまだ日常の粋を出ない。日常の輪郭の中で、閉じている。だからこそ、フライングをしている。僕は周囲を気にし始めている。恐怖すらも感じている。卑俗な日常に対して。

「糸杉」は、ゴッホが自殺する1年前に描いた絵だ。「僕」は理由も判らず「糸杉」に魅かれる自分に戸惑っている。女をつけるのと同じように、いや、それ以上に「糸杉」を観に行かずにはいられない衝動に駆られるのだ。

「孤独が足りない」というフレーズが、読んだ途端に、すっと胸の奥に収まった。まるでずっと、そこに居たみたいに。足りない孤独と、狂気を、わたしは自分のなかに見た。

ひとり、バーボンソーダを飲みながら、読んでは閉じ、読んでは閉じ。
栞と見返しは濃紺でした。夜の闇を思わせるような。

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『夕子ちゃんの近道』再考

昨日、音にまつわる記憶の不思議をかいたが、最近読んだ本で、主人公が、何だか判らない音「海猫の鳴き声」に思いを馳せるシーンが効果的に使われていたのを思い出した。長嶋有の連作短編『夕子ちゃんの近道』だ。
この小説は、最近読んだ小説のなかでは自分的に久々の大ヒットだった訳だが、大ヒットだと気づかぬうちに読み終えてしまうような、ぼんやりとした雰囲気を持っている。しかし読み終えてからじわりじわりと、そのよさが押し寄せてくるのを感じ、ページをめくっては、ほーっとため息をつくような大切な一冊となった。
その素敵さの一つに、日々の生活に散りばめられた謎解きがある。主人公が毎朝聞く、その音も、ラスト近くになってようやく明かされる小さな謎だ。

それは、ミステリーという言葉が似合わぬ謎で、明かされずともぼんやりとした雰囲気のなかに馴染んでしまうような類のものだった。「この音、何だろう?」と思いつつも、無論推理したりせず、読み進めていくうちに忘れてしまうくらいのものなのだ。だが、書き手が意識して謎を散りばめたのは、明確だ。その音についても、忘れた頃に繰り返し登場する。どんでん返しのミステリーの「やられた!」感とはまた別の「やられた!」が、これもやはりじわりじわりと押し寄せてきた。

日常に散りばめられた「あれ?」や「これ、何だろう?」は現実にも多々あるのだろうが、気づかぬうちに通り過ぎてしまうことが多いのだと思う。そんな「あれ?」を見過ごさずに暮らしていけたら、同じ時間を過ごしていても、全く違ったものになるに違いない。そんな風に暮らしていけたらと、思うのだ。

再読しながら、飲みたくなるのはワインかな。以下本文から。
「じゃあ君、わたしの子供つくってくれる」えっと言った後で、あーはいと言ってしまう。「本当かなあ」瑞枝さんは首を動かして僕の方を向いて笑った。いつもはもっと大げさに笑うから、やはり熱があるのだ。「でもありがとう。君はつくづく背景みたいに透明な人だね」意味が分からなかったが、そう言われて後ろを振り向いてみた。バンカーズランプの明かりが僕の影も大きく襖障子に映している。

アップにしないと見えないほど控えめにタイトルを置いた文庫の装幀です。

これはイタリア産のゴルゴンゾーラチーズですが、
小説のなかには、フランス人、フランソワーズとパリも登場します。

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『繕い裁つ人』

映画『繕い裁つ人』を、観た。
監督は『しあわせのパン』を撮った三島有紀子。脚本は『ゴールデンスランバー』の林民夫である。神戸の坂道や階段が、美しく撮られた映画だった。

舞台は、ポートタワーを見下ろせる坂の上にある「南洋裁店」そこでは二代目、南市江(中谷美紀)がひとり、先代である祖母から受け継いだ足踏みミシンを踏み、一枚一枚丁寧に洋服を仕立てていた。
そこに足しげく通うのは大手デパート服飾に務める藤井(三浦貴大)。彼は、市江の服をブランド化し、多くの人にその良さを判ってもらおうと営業に来ていた。市江は何度も断るが、藤井は毎日のように足を運ぶ。いつしか、市江の仕事ぶりに魅了されていたのだ。
南洋裁店の仕事は、洋服を仕立てるよりも、作った服を仕立て直すことの方が多かった。市江の祖母が仕立てた服を大切に着ていて、体型の変化や、破れた時、また母が着ていた服を着たいなどと持ち込んでくる近所の人が、ひっきりなしにやってくる。市江が仕立てる洋服もまた、祖母のデザインしたものに限られていた。
そんな市江を理解していきながらも、藤井は「市江さんは、自分がデザインした洋服を作り、先代を越えたいと思っているはず」と説得するのだった。

印象に残ったのは、チーズケーキのシーンだ。市江は、行きつけの喫茶店でひとり、ホールのチーズケーキを食べる習慣があった。その味が、いつもと違うと感じたその時、自分の心の変化に気づく。創業以来変わらぬ食べなれた味も、食べる自分の心持ちが変われば違って感じるのだ。人は変わっていく。変わらぬ部分を大切にしながらも、否応なしに変わっていくものなのだと。

あなたの、「人生を変える一着」を仕立てます。
プログラムの最初のページには、この言葉が。映画のテーマにも通じます。

仕事服姿でミシンを踏む、市江。頑固じじいとも言われる職人肌の彼女は、
中谷美紀以外にはできないと思うほど、ぴたりとハマっていました。

映画では片桐はいりがやっている雑貨屋さん。実在するそうです。
今度神戸に帰省した際に、ぜひ行ってみようと思います。

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少年ジャンプのページの合間に

子どもの頃、家の軒下に、古いソファが置いてあった。
ところどころ、スプリングが飛び出たそのソファは、父が何処からか拾ってきたのだろうか。借家なのに、トタン屋根を打ちつけた軒下を作ったのも、父だった。そこには、近所の子ども達がたまり、じめじめした雨の日には、湿ったソファで、誰かが置いていった少年ジャンプや少年マガジンを読んでは、笑ったり真剣な顔つきをしたりしていた。弟も含め、男子率が高かったのだ。
縁日で買ったヒヨコが育ち、雌と言われて買ったのに立派なトサカを揺らす雄に育ったニワトリの小屋も、そこに父が作った。「ココ、ココ」と鳴くニワトリの声と、とうもろこしが混ざった餌の匂いを、今も思い出す。

六畳間に5人家族が川の字になって寝ていたことにも、風呂がなく銭湯に通っていたことにも、玄関の引き戸には鍵がなくつっかえ棒を鍵の代わりにしていたことにも、何ら疑問を持たず生きていたあの頃。裕福だと思ったことはなかったが、自分の家が世界の中心にあり、何処の家もそんな風なのだろうと考えていたのだと思う。

あの軒下の湿ったソファは、コージーコーナー(居心地のいい場所)だったなと、最近になって思う。「自由」なんてものが、見え隠れしていたのかも知れない。たぶん、雨に濡れてくっついた少年ジャンプのページの合間とかに。

長嶋有『サイドカーに犬』を読みました。『猛スピードで母は』(文春文庫)に収録されています。竹内結子主演で、映画化された小説です。
小4の頃を思い出す女性が主人公。時代設定もなつかしい感じがしました。
だからかな、子どもの頃を思い出したのは。単純(笑)
芥川賞受賞作『猛スピードで母は』は、これから。楽しみです。
最近カモミール&アップルティーに、ハマっています。

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『夕子ちゃんの近道』

空気に種類があるのなら、そこには「不可思議」と呼ぶのにふさわしい空気が流れていた。『夕子ちゃんの近道』(講談社文庫)を、読んだ。長嶋有の連作短編集だ。すっと吸い寄せられるように魅きつけられ、購入した文庫である。

物語は、主人公が、アンティークショップ『フラココ屋』の2階に間借りし、その店で働き始めるところから始まる。以下、フラココ屋の商品を買わない常連、瑞枝さんの章『瑞枝さんの原付』から。

瑞枝さんはここを「若くて貧乏なものの止まり木」ともいった。瑞枝さんをふくめた四代目までの住人はそうだったのかもしれない。だが僕は若者というほど若くもないし、実は貧乏でもない。貯金もまだ十分ある。働くのが嫌になってしまっただけだ。働くのだけではない。たとえば広くて暮らしやすい新居を探すことや、部屋を暖めるものを買いにいくことすら。布団に地雷のように埋め込んだアンカに囲まれて、底冷えをやり過ごしながら生きている。(やり過ごそうとしているのは、底冷えだけなのか)

「僕」は、人生の春休みを過ごそうと流れてきたのだ。タイトルの夕子ちゃんは、隣りに住む大家の孫娘で、定時制高校に通っている。フラココ屋で「僕」の淹れる珈琲を飲んでから、学校に行く。美大に通う姉、朝子さんは、卒業制作に箱を作り続けている。漂々とした店長は、家庭を持っているが、前カノ(元カノって言うんじゃないの? と本文にもあるが)フランソワーズという上顧客と親しくもしている。瑞枝さんは、離婚できずにいながら子どもは欲しいなどと複雑なことを平気で言う。以下、やはり『瑞枝さんの原付』から。

「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」
私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。
いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。失恋でもしたの、という初めの質問からして、なんだかもう羨ましそうな口調だった。

人生の春休み。こんな場所で過ごせたらなぁと思える、ユートピアがそこにはあった。ユートピアって、場所じゃない。人なんだと、思えるような世界が。

第1回大江健三郎賞受賞作です。巻末には、大江さんの選評がありました。
「長嶋有は、意味のあいまいな文章は決して書かない。しかも背負わされた意味によって言葉が重くなったり、文節が嵩ばったりしないよう細心な注意をはらう。つまりは、すべて具体的な事物にそくして、スッキリと書く努力をおこたりません」選評の一部より

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『旅屋おかえり』

原田マハの小説『旅屋おかえり』(集英社文庫)を、読んだ。

「おかえり」というのは、主人公、丘えりかの愛称だ。旅とご当地グルメの番組「ちょびっ旅」を1本だけ持つ、鳴かず飛ばずのタレントで、32歳にもなって「おかえり、超、気になる!」なんて若い子ぶってもなぁと、自分でも思い始めていた。そこへ来て、まさかの番組打ち切り。旅に出なくなり、彼女は、タレント業よりも、自分は旅が好きなのだと気づく。そこへ依頼が来た。病気の娘の代わりに、旅をして来て欲しいと。
旅って、自分でしてナンボのものなんじゃないの?おかえりは、疑問を胸に抱えつつ、旅に出た。そして、旅屋を始めることになった。以下、本文から。

和紙を作ること、それは、真理子さんにとっては「心の旅」だったに違いない。和紙に向き合うことで、自分の心のなかへ、深く、ゆっくりと旅してきたのだ。愛する人たちに、思い出たちに手を振って、どうにか帰ってきたのだ。ひとりで生きていかなければならない現実へと。
紙の繊維はね、こうして、叩かれて叩かれて、強く、美しくなるんだよ。
作業をしながら、ヤンさんが教えてくれた。すると真理子さんが、微笑みながら言い添えた。まるで人間みたいね。
すんなりとすなおなその言葉が、やけに胸に響いた。

「おかえり」って、あったかい言葉だよなぁとあらためて考えた。そして、そう感じるのは、これまで自分が使ってきたシーンの記憶にあるんだろうなぁ、と。「おかえり」と迎えてもらうより「おかえり」と迎える方が、たぶん遥かに多かった。末娘は、小学生の頃「ただいマンモス―!」と元気に帰って来たものだったと、ふと思い出した。

帯に「感動の物語」とあるだけで引いてしまう、へそ曲がりなわたし。
それでも魅かれたのは「旅」という言葉の魔法かな。

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『さいごの毛布』

近藤史恵『さいごの毛布』(角川書店)を、読んだ。
小説の舞台は、老犬ホーム「ブランケット」年老いた犬達の世話をし、飼い主の代わりに最期を看取る施設だ。
様々な事情で、飼っていた犬の世話をすることができなくなった人々が、料金を払い、犬達を預けている。

主人公は、「ブランケット」で働き始めることになった智美。彼女は、犬を飼ったこともなければ、特別に興味を持っている訳でもなかった。就職試験にことごとく落ち、ダメもとで面接を受けたのだ。そんな智美は、自分を、こう分析する。以下本文から。

昔から、いつもと違う出来事が苦手だった。はじめから決まっていることならば、それなりにきちんとやることができた。毎日学校へ遅刻をしないように行き、授業を聞いて覚える。出題範囲の決まったテストでいい点を取るのはそれほど難しくない。だが、社会に出てみれば、生きることは体育の授業でやらされたドッジボールのようなものだった。どこからボールが飛んでくるかわからないのに、ボールが当たればやたらに痛い。ようやく受け止めて投げ返したかと思えば、すかさず次のボールが飛んでくる。それらをすべて受け止めて投げ返すことなんて、智美にはとてもできない。

そんな智美だが「ブランケット」の仕事だって、予期せぬことは多かった。智美には、理不尽に思えることも。
お金を払わず、施設の前に犬を捨てていく飼い主。犬との撮影時にだけ、迎えに来る女優。子どもに死ぬところを見せたくないからと老犬を預けていく若い夫婦。それでも犬達は、飼い主を恋しがる。
「ブランケット」のオーナー麻耶子は言う。
「犬は昨日を愛する生き物ね。今日も昨日と一緒であればいいと思ってる」
昨日と一緒の家族、昨日と一緒のごはん、昨日と一緒の散歩。そんなささやかな望みを絶たれた傷を、心のの真ん中に抱える犬達の施設なのだと。

読んでいて、古傷がうずくような気分を味わった。智美に、いつもと違う出来事が苦手だった自分を重ねたのだ。それでも、こうしてなんとか生きている。けっこう楽しくやっている。人間だって、犬だって、苦手なことや、触れられたくない傷を、誰もが持っているのだと、智美が気づいて顔をあげたように。

図書館で、ふと手にとった本です。昨年春に刊行されたもの。
びっきーを、思い出さずにはいられない小説でした。

お久しぶりです。僕が空にのぼって1年と2か月。お元気でしたか?
最近、おかーさんは、ちっとも散歩をしていないようですねぇ。
えっ? 春になったらするって? またそんなこと言って、春は忙しいとか、
夏は暑いとか、秋は何かととか言って、また冬になっちゃうんですよね。
まったくサボることにかけては天才的なんだから。ぶつぶつ。

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凍った朝に浮かぶ三日月

昨日の朝、野鳥達のために水を替えに行った夫が、氷の輪っかをヤマボウシの枝にかけた。清里の清泉寮などで、冬の間飾っている、氷のリースだ。
もちろん、清泉寮のように、マツボックリや赤い実を入れ、わざわざ作って飾った訳ではなく、鳥の水場にはった薄氷を枝にひっかけただけだ。
それだけなのだが、美しい。自然が創った三日月に、しばし見とれ、観たばかりの映画を思い出した。

映画『しあわせのパン』は、架空の絵本『月とマーニ』が大きなモチーフとなっていた。まぶしすぎる太陽をとってしまって欲しいという月に、少年マーニは話す。「きみは照らされて、そして照らしている」と。太陽に照らされて、夜の街の人々を照らしている。それは、とても大切なことなのだと。

「照らされて、照らしていることが、大切」
人と人も、そんな風にして生きているのかも知れないなぁと、すっと腑に落ち、ヤマボウシにひっかかった氷の月を、眺めた。

ヤマボウシの枝、重い? 冷たい? 飾りをつけて、ちょっと得意げ?

しずくが落ちる瞬間を、偶然カメラが捉えていました。

野鳥の水場にしている、古いお皿。このあと、雪が降り始めました。

雪が降るなか、薪割り仲間共同所有の薪割り機も登場。

お月さまにも、雪が積もっていきました。

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『しあわせのパン』

映画『しあわせのパン』をDVDで、観た。
北海道の田舎町で、カフェ「マーニ」を営む、水縞くん(大泉洋)と、りえさん(原田知世)夫婦のストーリーだ。
水縞くんがパンを焼き、りえさんが美味しい珈琲を淹れ、地元の野菜で料理を作る。滞在できる部屋も少しあり、映画は、夏、秋、冬に「マーニ」を訪れた3組の人々と、水縞夫妻の心模様を優しい目線で描いている。ナレーションが少女の声だというのも、その雰囲気作りに大きく影響していると思う。
観ていると、胸のなかに渦巻いている波紋がしんと静まり、落ち着いた心持ちになっていくような映画だった。

キーになる言葉は「カンパーニュ」
それが、パンの名だということは知っていた。田舎パンと呼ばれることがあることも。だが、映画のなかでは、その語源カンパニオに触れていて、それは知らない言葉だった。「パンを分け合う人々」のことであり「仲間」であるその言葉は「家族の原点」なのではないかと、水縞くんは、思っている。

パンを半分に割って、ふたりで食べるシーンが、いく度となく繰り返され、ひとりでいることと、ふたりを感じることが、描かれている。
「こんなに美味しい珈琲を、毎日飲めるなんて、いいですね」
お客さんにそう言われ、水縞くんが、それはそれは満ち足りた顔で「はい。いいです」と答えるのが、印象的だった。
普段は忘れがちだが、パンを分け合える家族がいることは、多分とても幸せなことなのだと、波紋が静まった胸のなかで静かに考えた。

お隣りは韮崎市のパン屋さん『cornerpocket』で購入しました。
「地粉を使ったもちもちカンパーニュ」だそうです。

これはテレビの画像を写したもの。こちらの形の方がスタンダードですね。
原田知世はいい女優になったなぁと、あらためて感じた映画でもありました。

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『クリスマスの思い出』

トルーマン・カポーティ『クリスマスの思い出』(文藝春秋)を、読んだ。
短編ながら、村上春樹が訳し、山本容子描くカラーの銅版画が20もついている、とても贅沢な洒落た装丁の本である。
友人の強いすすめで、手にとった。

主人公は、七歳の少年。彼には、共に暮らす無二の親友がいる。彼女は、60歳を超えたいとこで、物語は、初冬の朝に始まる。以下冒頭文。

十一月も終わりに近い朝を思い浮かべてほしい。今から、二十年以上昔の、冬の到来を告げる朝のことだ。広々とした古い田舎家の、台所のことを考えてみてほしい。黒々とした料理用ストーブがまず目につく。大きな丸いテーブルと暖炉の姿も見える。暖炉の前には、揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はまさに今日から、この季節お馴染みの轟音を勢いよく轟かせ始めたばかりだ。

かっこいい。できれば、全文転記したいほど、厭味のない洗練された文章と、瞼の裏に焼きつくような描写だ。冒頭文でガツンとやられ、それを70頁も読めば、もう酔いしれてしまっても、わたしには一切、非はない。
以下、モミの木を伐りに行く朝の描写。

翌朝、凍った霜が草の葉を光らせている。太陽はオレンジのように真ん丸で、暑い季節の月のようにオレンジ色である。それは地平線にひらりと浮かび、銀白色に染まった冬の林に磨きをかけている。野生の七面鳥が啼く。群れをはぐれた野豚が下生えを鼻で漁っている。やがて、膝までの深さのある急な流れにでくわして、僕らは荷車をそこに残していかなくてはならなかった。

小説には、クリスマスを生活の真ん中に置き1年を過ごす、少年と、無二の親友と、ちび犬クイーニーの様子が描かれている。彼らは貧しく、同じ家で暮らす親戚達からも孤立した存在だったが、心はいつも満たされていた。
この小説を読んでしまうと、もう「思い出」という言葉を軽々しく使ってはいけないような気持ちになる。こんなに「思い出」という言葉に相応しいものが、他にはあるはずがないと思えてくるのだ。
だが、それはたぶん違う。すべての人が持っているべきものなのだと、読み終えて、いてもたってもいられなくなった。見ようとすれば見えるものを、見ようともせずに生きてきたんじゃないか、今もそうして生きているんじゃないのかと、呆然と目を閉じずにはいられなくなるのだ。

カバーをとると、中身は銀色に白い文字で英文のタイトルのみ。
真っ白く光る栞を、久しぶりに見ました。
 
ふたりは、親友のベッドに下にクリスマス資金を隠しています。
右の絵は、11月の紅葉した庭の様子です。

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『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』

本というものは、おもしろいもので、作者の意図とは無関係に、読み手のその時の状況や心持ちなどが、知らず知らず映されてしまうものである。
江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日新聞出版)を、読んでいて、久しぶりに新しい江國作品を読んだ訳なのだが、読み始めた時には感じなかったものが、ある瞬間から文章や行間に、強く感じられるようになった。

このところ、失敗続きで落ち込んでいた。切り立った崖の淵を歩いているかの如く、あと一歩踏み外してしまえば落ちるところまで落ちるのだろうと、自分を傍観する日々に疲弊し、そうなると、もう何もかもが上手くいかなくなる。

そんな気分でページを開くと、やはりバランスを崩し、もう立っていることだけで精いっぱいであろう登場人物達の不安が、さらに自分のもののように思えてくるのだろうと思っていた。だが、予想は、全く外れた。
結婚後、他の女と恋愛を続ける耕作も、それを知りつつ別れることができない奈緒も、テレビに大声で話しかける燐家の住人、倫子も、耕作の恋人、真雪も、みな、あふれるほどの不安を抱えているにもかかわらず、常に「確信」に満ちているのだ。バランスなど崩しようもなく、しっかりと自分を見つめて立っている。その強さが、自分の心の在り方によってか、突然、際立って見えるようになった。それは、登場人物達のと言うより、作者の強さだと感じる。
「悩み苦しむことさえ、確信に満ちているんだよなぁ。江國香織は」
そうつぶやきつつも、もちろん、読み進めるのをやめることはできない。

主人公の姉弟は、7歳と5歳。育美と拓人だ。拓人は言葉こそ遅れていたが、小さな生き物達の声を聴くことができた。大人達の不穏な空気を感じることも、時には心の声を聴いてしまうこともあった。以下本文から。

たくとはただうけとめる。めやみみやはなよりもむしろ、はだのけあなやかみのけをつかって。するといっぺんにいろいろなことがわかる。あついとか、たのしい(たくとがなのか、むしたちがなのか、にわがなのかは、くべつがつかないが)とか、たのしくない(だれがかは、やはりはんだんができない)とか、いたいとか、いたくないとか、ねむいとか、ねむくないとか、どこへいくとちゅうとか、ここにいるとか、あちこちでなにかがゆれたりおちたりうごいたりせいししたりしていて、たくとはそのぜんぶがいっぺんにわかるのに、わかるのはあたりまえだからわかるというかんじがしない。わかるのではなく、あるとかんじる。いろいろなものがただある、あるいはいる、というふうに。

拓人視点の文章は、ひらかなで綴られている。視点はくるくる変わる。奈緒。育美。耕作。倫子。真雪。ピアノ教師の千波。その母、志乃。墓地で働く男、児島。そして、最後にほんの少しだけ、育美と拓人が成人した後のことが、かかれている。
小さな生き物達が大好きなわたしには、拓人と話すヤモリや蛙(葉っぱ、という名を育美がつけた)や蝶が、ことさら可愛らしく思えた。

美しい装幀の本です。春を感じます。カバーをとった中身も味があります。
そして、何と言っても栞の淡い色に、魅かれました。

蛙の「葉っぱ」金箔押しになっていました。

ヤモリの「やもりん」やもりは性格がいい、とは、育美と拓人。

シジミチョウは、ひとりで行動しないのか、とは、拓人。

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『オリエント急行殺人事件』

アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』は読んだことがないが、フジテレビ開局55周年記念、三谷幸喜脚本ドラマを観た。
(フジテレビは、我が家に届かぬため、オンデマンドで)
佐藤浩市が悪役を好演し、野村萬斎の大げさな演技と、13人の魅力あふれる乗客とで、喜劇仕立てのテンポよいミステリーに仕上がっている。
昭和初期という時代設定では、女性陣のひらひら華やかな服装や、派手にカールさせ整え過ぎた髪形なども楽しめた。
情報社会の現代では起こり得ない、寝台特急という密室での事件だ。

雪で立ち往生した寝台特急の自室で、乗客の男、藤堂が殺された。胸や腹に、刺し傷が12か所。一見すると、残虐な殺人犯を思い浮かべるが、思慮深い瞳で、その傷を見つめる男がいる。その寝台車両には、名探偵、勝呂武尊(すぐろたける)が乗っていたのだ。彼は言う。
「犯人は、力の強い男であり、かよわい女であり、右利きであり、左利きの人物です」
勝呂は、12人の乗客から、個別に事情聴取を始めた。そして、意外な真実にたどり着いたのだった。

三谷幸喜の映画やドラマを観ると、いつも感じることがある。
「人間って、一所懸命やっている姿ほど、滑稽に見えるものなんだよなぁ」
殺人計画さえ、真面目に取り組む、真面目な人達。登場人物、ひとりひとりを見つめることで、その滑稽さが際立ち、更に可笑しさが倍増する。
そして観終った後、すっきりとした気持ちで、考える。もし、観客がいたとしたら、わたし達の日常は、さぞ滑稽なんだろうな、と。そしてこうも思う。滑稽でけっこう。どうせなら思いっきり笑ってくれ、と。だって、ここまで生きてきたら、もう何はともあれ、生きていくしかないんだから。

アガサ・クリスティに挑戦してみようかなと、読んでみたかった
『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ文庫)を購入しました。
息子が高校時代ハマって、彼の本棚はクリスティで、いっぱいだったなぁ。

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『破門』

「なんや、これ。むちゃ、おもろいやん」
東京生まれ東京育ちのわたしが、えせ関西弁で、言ってしまうほど『破門』(角川書店)は、おもしろかった。黒川博行の直木賞受賞作だ。
何故に関西弁? 週末1泊、夫の実家である神戸に帰省したこともあるが、それとは関係ない。主役二人のぽんぽんとやり取りされる鮮やかな会話のキャッチボールが、どっぷりと関西弁なのだ。以下本文から。

「たいそうな荷物ですね」
「おまえはなんや、そんなリュックサックひとつで足りるんかい」
「これはね、デイパックといいますねん」
「貧乏臭いのう」
「そのシャツ、アロハですか」
「留袖や。仕立て直した」
「いつでも、葬式できますね」
「ばかたれ。留袖は結婚式に着るもんや」
「男は留袖着んでしょ」
「二宮くん、講釈はええからチケットを買うてこいや」
「二人分で三十万。十万足りませんねん」
「高いチケット、とりくさって」
桑原は札入れから十万円を出した「エコノミーはなかったんか」
「当日は無理ですわ」
「ホテルは」
「向こうでとったらええやないですか」
「行きあたりばったりやの」
「おれの流儀ですわ。臨機応変、変幻自在の出たとこ勝負」

ヤクザの桑原と、ヤクザがらみの仕事で食べている二宮は、腐れ縁。二宮は桑原を疫病神と呼び嫌っているが、何故かいつも巻き込まれてしまう。
『破門』では、映画製作の出資金を持ち逃げされた桑原が、二宮と詐欺師を追うが、本家筋の構成員とやりあったことから、組同士のいざこざに発展する。
息つく暇なく楽しめる、エンターテイメント小説だ。
魅力の一つは、二宮のキャラクターにある。よくある設定で、いい人が犯罪に巻き込まれるのとは違い、喧嘩に弱いだけじゃなく、博打を始めたらすっからかんになるまでやめられず、母親への借金も踏み倒したままで、綺麗な女に目がないがフラれてばかり。桑原にくっついているのも金目当て半分だ。お人好しとさえも言えないキャラが新しい。それなのに何処か魅力を感じるのは、生きることに貪欲だからか。
「おまえの粘りは欲と道連れや。おまえは大阪一、欲が深い」
金に貪欲なんは、生きることに貪欲っちゅうことかも知れへんなぁ。

『破門』は『疫病神』シリーズの第五弾。文庫になってる4冊も面白そう。

真っ赤に熟れたザクロが綺麗。印象的な、表紙です。
このところ、夫が正月休み用に買った本を読んでいます。
ネタバレ関係なく、夫婦で本の話ができるのは、楽しいですね。
夫も関西弁率、上がってます。ほんまもんの関西弁です。

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『そして、星の輝く夜がくる』

阪神・淡路大震災から、20年が経った。
夫の両親が東灘区で被災し、家は半壊したが、怪我はなかった。
わたしは、当時末娘が生まれて3か月。夜中に起きて授乳させる日々で、神戸に行くこともできず、身近に起こった出来事だとは言えないとは思うが、あの時に感じたショックは、忘れていない。

この日にあわせてという訳ではないが、東日本大震災で被災した小学校を舞台に描かれた真山仁の小説『そして、星の輝く夜がくる』(講談社)を読んだ。
フィクションだが、時間をかけて取材し、現実に起こったことをもとにして、かかれたものだと判る小説だ。6編の連作短編になっていて、テーマを絞って描かれている。

主人公は、阪神・淡路大震災で被災した教師20年目の小野寺徹平。
小野寺は、津波で31人の児童を亡くした東北の小学校に、その年の5月から赴任し、6年生を担任する。
1話目『わがんね新聞』で小野寺は、東北弁で「やってらんねぇ」という意味の「わがんね」と名づけた学級新聞に「やってられへんという怒りだけをかこう」と、提案する。子ども達のがまんしている姿に「ガス抜き」が必要だと思ったのだ。
『ゲンパツが来た!』では、東電社員の子どもと同級生との確執を。
『さくら』では、児童を助けられなかった教師が、マスコミにしつこく追われる姿を。
『小さな親切、大きな……』では、ボランティアとの共存の難しさを。
『忘れないで』では、時と共に薄れていく震災の記憶についてを。
『てんでんこ』では、津波から逃げる人々の姿を卒業制作に選んだ子ども達を描いている。以下本文から。

自然現象というのは凄いものだといつも感心する。
なおも残る瓦礫や荒れ果てた大地を、雪だけで覆い隠してしまう。夜だってそうだ。暗闇は何もかも包み込んでしまう。そして、ぽつぽつと灯り始める明かりがぬくもりを感じさせて、気持ちが和む。
しかし、そんな自然現象でも覆い隠せないものがある。人の心が抱える悲しみや後悔、そして楽しかった日々……。それは不意にフラッシュバックしてくる。忘れようとしても拭えない。前に進もうと一生懸命生きていても突然襲ってくる。

小野寺もまた、神戸で、大切な人々を亡くしていた。
当事者ではないわたしには、判ろうとしても判らないことがある。それを知りつつも、理解していこうという思いは変わらず持ち続けたいと、この本を読みあらためて思った。

夫が買って、お正月に読んでいた本です。
『ハゲタカ』の作者にしては、異例な感じの小説でした。
友人にプレゼントしてもらった、フェルトの手作り人形と一緒に。
昨夜から、神戸に来ています。

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『空の名前』

昨日見た雲は、雲の類として分類した10のうちの名で言うと「高積雲(こうせきうん)」というらしい。『空の名前』(光琳社出版)で、調べた。
よく表れる高さは、二千から七千メートルだそうだ。と言われても、想像もつかない。二千と七千って、全然違うじゃないと、思ったりもする。
空の上のことなど、まるで判らないことだらけ。それでも、この本は写真が美しく、ただ眺めているだけでホッとする大好きな一冊だ。タイトルの通り、本のなかに、様々な空が広がっているのである。

運転していて、前の車の運転手が、窓から火のついた煙草を投げ捨てたのを見てしまった。ひどく嫌な気分になった。わたしがイライラしても、何もいいことはないと知りつつ、胸のなかに嫌なものが広がっていく。

「通勤電車のなかは、一触即発状態だよ。みんなが、イラついてる」
ついこのあいだ、夫が言っていた。
「イライラの連鎖が、広がっているのかな」わたしも、想像してみる。
小さな感覚のズレが、イライラの種を撒き、諍いを巻き起こす様。

煙草を道に投げ捨てる人とのズレは、小さいとは思わないが、イライラの連鎖に巻き込まれそうになっている自分に気づき、空を見上げた。
そんなわたしを見下ろして、高積雲が、笑っていた。二千だか、七千メートルだかの遥か上の方から、小さな人間達を見下ろして、決して嘲笑するのではなく、わたし達が空を見上げて眩しさに笑うように、やさしく笑っていた。

甲府に向かう国道20号線の信号待ちで、撮りました。

雲、水、氷、光、風、季節の6章で構成された写真集のような本です。

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中途半端な大きさの

川上弘美の短編集『猫を拾いに』の表題作を読んでいて、不意に気持ちが、ぐらりと揺らいだ。
「人間って、なんて、中途半端な大きさなんだろう」と、思ったのだ。

特別に、大きさのことをかいてあった訳ではない。
人間が「じき、ほろびる」時の人々の様を、SFチックでもなく、淡々と描かれているのを読み、胸のなかの何かが動いた。

庭の石ころよりは大きく、八ヶ岳よりは小さな、自分。微生物よりは、ずいぶんと大きく、宇宙の広がりよりは、想像もつかないほど小さな、自分。
そんな風に考えると、自分の大きさが、伸びたり縮んだりするのを、客観視しているような捉えどころのない感覚に陥る。

そして、いつもは気にも留めない、考えないことを、考える。
地球という星に生まれたんだなぁ、とか。地球のなかで人間がちょうどいい大きさだとは限らない、とか。人の心のなかには、宇宙のような広がりがあるのだ、とか。果たして、そこには果てというものがあるのか、とか。

つまりは、川上弘美の小説は、わたしにとって、そういうことを延々と思い巡らせてしまうような存在なのだと、再確認した。

3日前、八ヶ岳がくっきり見えた日の写真です。

ごつごつした山肌に、凍った雪。澄んだ空気が見せてくれるアート。
大きいなぁ、やっぱり。

権現岳。螺旋のような形に見えるところに魅かれます。

赤岳の上には、少し雲がかかっていて、影が動いていました。

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『猫を拾いに』

今年初めての、新刊本を買った。
川上弘美『猫を拾いに』(マガジンハウス)雑誌クウネルに連載していた短編をまとめた短編集だ。短編と呼ぶには、短く、掌編と呼んだ方が、ぴったりくるかもしれない。
帯にかかれた「恋をすると、誰でもちょっぴりずつ不幸になるよ」という言葉に魅かれたのもあり、川上弘美は、自分のなかで新刊を買ってもいいと決めている作家でもあったから、迷うことなくレジに進んだ。
「恋、かぁ。不幸に、なるんだぁ」と、ふふっと笑いつつ。

読み始めて、しばらくしてから、全部で何編あるのかと、目次を数えてみた。21編あった。数えてから、帯の「心ふるえる傑作が21篇」に気づいた。
「中途半端な、数だなぁ」
何故か、落ち着かない気持ちになった。20編なら、半分に割れる。10編読めば、丁度半分読んだと、すぐに判る。
だが、その落ち着かない数がまた、川上弘美らしくも思え、浮き浮きと、1編読んでは本を閉じ、また開いた。
7編目の『トンボ玉』を読み終えて「あ、21が割れる。今、3分の1だ」と、ものすごく落ち着いた気分になった。21編。中途半端じゃないじゃない。その『トンボ玉』のなかに、すっと心に入ってくる一文があった。

どうしても欲しいものは、いつだって、僕の手に入らない。それがでも、僕は決していやではない。あのトンボ玉は、どこに行ってしまったのだろう。

「僕」の場合、それは、亡くした叔母が持っていたトンボ玉であったり、好きになった女であったりする。
「どうしても欲しいものは、いつだって手に入らない」
声に出してつぶやいて、中途半端な数の世界へと、ふたたび入っていく。
ざわざわと落ち着かない気持ちになったり、いきなりすぱっと割り切れたりする、川上弘美の世界へ。

カバーを開くと、こんな絵が。楽しい!

裏にも、また違う絵がありました。『猫を拾いに』は、10編目です。

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『探偵の探偵』

松岡圭祐『探偵の探偵』(講談社文庫)を、読んだ。以下冒頭文から。

「探偵」を辞書でひけば、明確な定義が見つかる。他人の行動や秘密をひそかにさぐること。また、それを職業とする人。
小説の世界に生きる探偵とは体臭を異にする。民間人ながら警察から一目置かれ、捜査に介入し、関係者が集う場で論理的な推理を披露、容疑者を特定する。そんな記述は辞書にない。

この本に描かれている「探偵」は、アニメや小説で登場する「探偵」とは違う、との注釈とも言える始まり方だ。
主人公、紗崎玲奈(ささきれな)は「探偵のすべてを知りたい」と、探偵養成所に入校する。その理由は、妹、咲良(さくら)の死にあった。ストーカーに殺された妹の、行動を探り犯人に売っていたのが「探偵」だったからだ。
玲奈は、卒業後、中堅探偵事務所の「対探偵課」で、働き始める。他の探偵事務所の悪事を暴き、悪行をやめさせていく仕事だ。
「よくいえば業界の自浄、悪くいえば同業者潰し」とかかれているだけあり、同業者の目は冷たく、命を狙われることも、日常となる。
それでも、玲奈は淡々と仕事を、こなしていく。
咲良への愛なのか。名も知らぬ探偵への復讐なのか。決して負けないという気持ちだけが、笑顔を持たぬ彼女の光だった。

ストーカーの依頼で咲良の行動を探っていた探偵は、もし逮捕されても共犯にはならず、罪には問われないだろう、とある。
人を殺してはいけない。それを手伝ってはいけない。そんなことはみな判っている。だが、これくらいならと起こした行動が、殺人に繋がっていくことだってあるのだ。わたしが、探偵になることはまずないだろう。だが、如何なる時にも自分の行動の先を見つめなければと、考えさせられる小説だった。

パッと見、ホラーっぽい表紙ですが、ホラーな要素はありません。
玲奈を含め、様々な探偵にスポットを当てた、人間ドラマと言えます。
帯の「リーダビリティ」という言葉に注目。知らない言葉でした。
広告用語で「読みやすさ」だそうです。この言葉が、読みにくーい!
と思いましたが、小説は、一気読みでした。

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『村上ソングズ』×『死ぬまでにしたい10のこと』

帰省していた末娘を送り出した、正月3日。
久しぶりに『村上ソングズ』を、開いた。村上春樹が自らのレコードコレクションから厳選した曲の歌詞を翻訳し、エッセイと共に紹介する。そして、それに和田誠がカラーの絵をいく枚もつけたという贅沢極まりない本である。

すでに最初の1曲で、読み留まり、思いを馳せた。
ビーチボーイズの『God Oniy Knows』(神様しか知らない)
目を留めたのは、映画『死ぬまでにしたい10のこと』のなかで、ヒロインがこの歌を口ずさむシーンがあったとかかれていたところだ。以下本文から。

この映画のそのシーンが、僕はとりわけ好きだった。その選曲の以外さにどきっとさせられたし、映画が終わったあとでも、そのなんでもないシーンが不思議に深く心に残った。そのように、登場人物が劇中さりげなく口ずさむ音楽ひとつで、映画の持つ味わいががらりと変わってしまうこともある。

ひとつのシーンが映画の持つ味わいを変えるというところに、共感した。だが、わたしのなかに残っている、この映画のシーンは、別のところにある。

今は二十歳になった末娘だが、幼い頃よく彼女を膝に抱き「イカダごっこ」をした。座ったわたしがイカダになり娘はしっかりしがみつく。そして「大波が来た!」と叫び、娘を大きく左右に揺らすのだ。彼女はそれが大好きだった。
その娘が中学生になった頃、わたしは『死ぬまでにしたい10のこと』を、DVDで観ていた。以前観たことはあったが、記憶もあいまいになり、もう一度観たくなったのだ。そして、驚いた。映画を観ていたら、不意に「イカダごっこ」のシーンになったからだ。
それはほんの1分に満たない、あるかなしかのシーンで、この映画だったということすら、すっかり忘れ去っていた。だが、わたしと娘の「イカダごっこ」が、この映画から来ているということは、はっきりと判った。「イカダごっこ」だけが映画から独り歩きをし、わたし達のなかに残っていたのだ。

「ねぇ、イカダごっこ、覚えてる?」
そう訪ねるわたしに、中学生になった彼女は笑ってうなずいたものだった。
いつか彼女は『死ぬまでにしたい10のこと』を観るだろうか。今もまだ、イカダごっこを覚えているだろうか。

真っ赤なアンティーク・ラジオの表紙が、素敵です。
左側は、カバーの箱。中央公論新社刊。

アビー・リンカーン作詞『Blue Monk (Monkery's The Blues)』
訳は『ブルー・モンク(修業はつらい)』

ランディ・ニューマン作詞作曲『Mr. Sheep』
訳は『羊くん(ミスター・シープ)』

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新しい年、冬椿

火のけなき 家つんとして 冬椿

小林一茶の俳句である。
新しい年を迎えるに当たり、その句を思い浮かべるような暖簾を、新調した。
冬の間は、冷蔵庫代わりにもなる玄関に、冬椿は今、美しく咲いている。

忙しく煮しめを煮た、大晦日。ふと、嬉しくなる。
この暖簾。来客などを考慮して選んだものだが、実際には、玄関とリビングの間にかかるこの暖簾を、最も数多くくぐるのは、わたしだ。
野菜をとりに、また餅を、また白菜の漬物を、卵を。その度に暖簾をくぐる。美しい赤。美しい黒。その暖簾を何度となくくぐるのは、わたしなのだ。

新しい年を迎えるというのは、いいものだ。そして、その時に感じた喜びというのもまた、いいものだ。
冬椿に、喜びを感じた年初め。さて。どんな年に、なるのだろうか。

越してきた時から飾ってある、北アルプスは涸沢の絵と一緒に。

玄関には、朝日が長く伸びています。冬椿も、笑っているよう。
☆あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく☆

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来年の手帳

本屋で、新刊を衝動買いをし、来年のカレンダーをもらった。
いや「カレンダー」と堂々とかいてあるが、これは「手帳」ではないのか? との疑念が湧く。そう。もらったのは、来年の手帳だ。
中身は、週めくりカレンダーになっていて、そのページごとに俳句が載せてあるところが、如何にも本屋っぽい。
春夏秋冬の俳句を、読むともなくめくっていき、来年の今週のページを見てみた。そこには、久保田万太郎の冬らしい俳句が、あった。

さびしさは 木をつむあそび つもる雪

積んでいく淋しさが、積もっていく淋しさが、しんと胸に伝わってくる。
このところ、多くのモノを持たずに生活していきたいと、考えるようになっていた。捨てられなかったものも捨てようと、抽斗の整理をしたりもした。少しばかりのモノを捨て、すっきりした気持ちにもなっていた。
しかしこうしてまた、新たにモノをもらい手元に置こうとしていることに、少し笑い、多くのモノを、淋しさのように積んでいく自分を連想する。

何度挑戦しても、手帳をつけられないわたしだ。手帳として使うのは難しい。だが、思い出した時に好きな本のページをめくるように、気が向いた時に俳句を読んでいくのもいいかも知れないと掃除を終えたトイレに置くことにした。
ちなみに年の初めの句は、高浜虚子の句。

一月や 去年の日記 尚机辺

デザインがお洒落だと、栞を気に入って使っていた戸田書店。さすがだ。なかなかに、洒落が効いている。

太い線画が魅力的。栞は、他の色もあります。

来年のカレンダー、トイレ用。動物と花? いえ、季節の風景と植物です。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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