はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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100%迷子

100%迷子になる。自分の方向音痴度を、再確認する出来事があった。

渋谷のハチ公前、スクランブル交差点で信号待ちしているところ、推定55歳、中肉中背、眼鏡使用、髪はセミロングの女性に声をかけられた。
「東急百貨店本店って、こっちですよね?」
「ああ、はい。こっちだと思います」と、わたし。
「こっちでは、ないですよね?」と、公園通りを指差して女性。
「違うと思いますよ。あっちはNHKがある方向ですね」と、わたし。
「ですよね」と、不安げに女性が言うので、それならと提案した。
「わたしも、東急本店に行くところなんで、よかったらご一緒しませんか?」
「ありがとうございます」と、女性。
しかし彼女は、信号が青になるなり、わたしから逃げるように一目散に逃げ出した。人が親切で言ってるのにと、ムッとしつつも、知らない人に声をかけられたら逃げるようにと、お母さんに教わったクチかなと考える。だがしかし、そんなにわたし、怪しく見えたのかな?
「でもさ、でもさ、声かけてきたの彼女の方だよね?」
腑に落ちないまま、わたしも彼女とは別にずんずん歩く。だが、あれ? と思った瞬間には、あるはずの東急本店が見当たらないという状況に陥っていた。
10分とかからないはずの場所に着いたのは30分後。それも交番で道を聞きようやくたどり着いたのだった。

「彼女がわたしの方向音痴を一瞬で見抜いたんだとしたら、それはそれですごいなぁ。悔しいけど」と、ひとりごち、7階のジュンク堂に向かう。
待ち合わせの1時間前に到着時間を設定して出て来たので、40分ほど早く到着したのだ。方向音痴だが、本屋で新しい本を発見する能力には自信がある。山本文緒の15年ぶりになる長編小説『なぎさ』(角川書店)が出版されたことさえ知らなかったが、発掘するのに5分とかからなかった。
だが、その後が問題だった。「レジがないよー」
キャッシャーと矢印にかかれた方向へ進めど、一向にレジが見当たらない。
「もう疲れた(泣)」
その後、落ち合った夫に呆れられたのは言うまでもない。
「東急本店に来るのに、迷ったのぉ!? すごい。信じられん」

翌日も麹町を歩いていて、道を聞かれた。
「ニューオータニは、何処ですか?」何故にみな、わたしに道を聞く!?
マタニティーマークのように『方向音痴』マークが欲しいと、本気で思った。

この看板と同じくらいの大きさの「キャッシャー」の看板がありました。
これ、わかんないでしょう!? 後ろ振り向いてもレジないんだよ!

何故同じ過ちを繰り返すのだろうとは、わたしが問いたい。
ジュンク堂に併設された『荻原珈琲』で。迷子の後はアイス珈琲が美味しい。

海の美しさのみを表現した中表紙。小説は、美しさだけで終わらない予感。

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本の話題で、遊ぶ

末娘は『本の虫』である。わたしの十倍、いやそれ以上の本を日々読み続けている。空いた時間にボーっとするかの如く本を読む。ボーっとせずに生きていける人間がいるのだと、ボーっと眺めるわたしである。
そして、彼女は典型的な『おしゃべり』である。春からの大学に通うためのひとり暮らし、ひとりの部屋で、ひとりしゃべっているのではないかと、周囲に危惧されるほど、息継ぎはどうしてるのと心配になるほど、一緒にいる間じゅうしゃべり続けている。

そんな彼女との共通の話題は、本である。
読み終えたばかりの『アナザー エピソードS』を渡すと小躍りして喜び、
「この表紙は、ちょっとね」と渋い顔をするわたしに、
「アニメ化の影響でしょう。しょうがないね」と、受け入れる姿勢で笑う。

「映画『100回泣くこと』観たんだけど、あの映画化でハマった友達がいてさ。中村航ネタが通じるようになった」と彼女が言えば、
「なんか、きみ『円紫さんとわたし』シリーズ(『空飛ぶ馬』北村薫)の『わたし』(本好きな大学生)に、雰囲気似て来たね」とわたしが言う。
ふたりとも、同じ本を何冊も読んでいるので、ひと言で通じる話題があり、それが心地よく面白い。
思えば彼女が小学生の頃から、そうして来た。同じ本を読み、その本の話をする。決して感想を聞かないというのが、おたがいに楽しむコツだ。主人公が好んで食べる和菓子だったり、可笑しな癖だったり、印象的なセリフなどを、笑ったり、面白がったり、何かの際にふと思い出ししゃべったり。本の話題で、遊んできた。久しぶりに彼女と会い、それを体感した。

「ジンジャーエールって、男っぽい飲み物かな?」と、娘。
島本理生の小説『君が降る日』(幻冬舎文庫)に出て来たという。
「そう? そんなふうに思ったことないけど」と、ビールを飲みつつわたし。
「恋人を、事故で亡くした女の子の話」と、葡萄カルピスを飲みつつ、娘。
帰りに本屋で、娘に文庫を探してもらって、買った。旅の友、文庫本。
久しぶりに読む島本理生は、真っ直ぐ心に切り込んできた。胸にざくりと傷を作り、酒を注いだかのように痛く沁みた。

サンドイッチとジンジャーエールのランチ。
買ったばかりのカメラの設定を、トイカメラバージョンにしたものです。

モノクローム。バールのカウンターって雰囲気に変わりますね。

普通に撮ったものが、これ。カメラで遊んでいます。
型落ちで半額以下で買ったカメラだけど、こんなこともできるんですねぇ。

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答が出ない問いを読み解く

「もし、自分が、生きてはいない存在だったら?」
自分さえも疑わざるを得ない状況で、物語は進んでいく。そんな恐ろしさが『アナザー』(角川書店)にはあった。

26年前、事故死したクラスの人気者の死をクラスメイトは受け入れられず、まるで一緒に過ごしているかのように振る舞った。そして卒業を迎え、卒業写真に写った死んだ子の笑顔を見て愕然とする。その時から、夜見山中学3年3組は、死に近い場所となった。その翌年から、3年3組の生徒とその家族が事故や病気で何人も死ぬようになったのだ。
「災厄がある年」死が続けさまに起こる年は、最初のホームルームで机が一つ足りなくなるという。「アナザー」もう一人の誰か。生きてはいない誰かが、3組に入り込んでいる。それが誰なのか、記憶はすべて改ざんされ、誰にも判らない。紛れ込んだ本人にさえも。

読み終えたばかりの続編『アナザー エピソードS 』は、続編というよりは、エピローグまたは番外エピソードと言った方が似合う小説だった。
『アナザー』のように多数の死者が出る訳でもなく、ホラー的要素は薄い。
夜見山中学の災厄の生き残りのひとりが、垣間見た死をどう受け止めたのか、そこに焦点を当てて描かれている。綾辻行人、得意の『館シリーズ』の匂いや、どんでん返しは当たり前にあり、楽しんで読めたが。
エピソードS の「S」は、夏 summer、秘密 secret、海辺 seaside など、いくつもの S を散りばめた、とは作者。S を探しつつ読み進めていくのものもまた、面白いかもしれない。

『アナザー』はホラーといわれるが、悪者は誰一人いない。「死」を受け止めるってどういうことなのかと、答えが出ない問いを、漠然と投げかけている。

アニメっぽい表紙は、好みじゃないんだけど。
この少女がヒロイン『鳴(めい)』眼帯のなかは、死の色が見える義眼。

カバーをとると、装丁、凝ってるなーって感じの凝りよう。
『耳なし芳一』を思い出すのは、わたしだけ?

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読後感の悪さを求めて

読み終えて、拍子抜けした。
「なんだよー。読後感、全然悪くないじゃん」
真夜中、ベッドの上で誰にともなく文句を言う。
完全にやられた。帯の文句に魅かれ買った新刊だ。
最近、書店員さんの推薦文を帯や広告に使われることが多くなった。
『本屋大賞』が、全国の書店員が一番売りたい本に『賞』と名が付き注目を集めるようになったのが、きっかけか。昭和初期に刊行された『蟹工船』が一書店員のかいたPOPで、平成の世にベストセラーになったのがきっかけか。
兎にも角にも、わたしはその一書店員の推薦文を読み、長岡弘樹の『教場』(小学館)を購入した。
帯には6人の書店員さんの推薦文がかかれていた。そのトップがこれだった。
「こんな爽快な読後の悪さは初めてだ!」
その言葉に魅かれ、読み進めていた。
「悔しい! マジ読後感、いいじゃん! 期待してたのにぃ」
しかし文句を言えないことも判っている。何しろこれは、たった一人の意見なのだから。

『教場』は、文句なく面白かった。警察学校の日々を、6人の視点で描いている。人間ドラマとしても、推理小説としても読める面白さがある。

「あと二か月半、我慢できるか。それとも、もう辞めたくなったか」
「いいえ」ゆっくりと首を振った。「二度は落ちません」
「落ちない? 何からだ」「篩(ふるい)からです」

教官と、4話目の視点、もとボクサーで妻子持ちの日下部との会話だ。小説全体に一貫して流れる空気は、警察学校の理不尽とも言える厳しさだった。
読後感の悪さは、わたしには味わえなかった。
だが、帯に騙されてよかったと思える小説だ。残念ながら、個人的な感想を言えば読後感はいい。それでも読もうと思う方は、ぜひどうぞ。

帯の文章を読むのも、本の楽しみの一つですよね。
好みでいえば、シンプルなコピーの帯に、魅かれます。

青山七恵『わたしの彼氏』は、装丁の可愛さにジャケ買いしました。
カバーを外すと鮮やかなグリーン。空っぽの鳥かごと鳥が、またいい!

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どの家にも必ずある『流しの下の骨』

その家に住む家族にしか、わからないこと。些細なことだが、我が家にもあるし、多分どんな家族にもあるものだろう。
江國香織は小説『流しの下の骨』(新潮文庫)で「流しの下に骨がある」との比喩を使い表現している。台所の流しの下に骨が置いてあることは、その家の者しか知らない。つまり外から見ても判らないことが、家族にはあるのだと。

我が家の流しの下には、もちろん骨はない。骨どころか、変わったものも何もないと思う。ごく普通の家庭だと思っている。いくつか挙げるとしても、小さなことばかりだ。

たとえば、上の娘はオーストラリアのシェアハウスで、歯磨きについてよく驚かれたという。我が家ではみな10分くらいは磨くので、洗面所を出て好きなところで磨くのだ。テレビを観ながら、パソコンを開きながら、新聞を読みながら、ベッドに寝転びながら、庭でイタリアンパセリを眺めながら、という具合いだ。よその家の人がみな洗面所で歯磨きをするのかわたしは知らない。

またたとえば「9時45分予約ね」と夫が言う。それだけで意味が分かるのは家族だけである。夏に帰省した末娘はこれを聞き「なつかしい!」と言ったものだが、これは夫が夜サッカーの練習後帰宅してすぐに風呂に入りたい、なので娘達とバッティングしないように先に入っておいてねという意味なのだ。

またたとえば「サッカーの練習用に、ポカリ買っといて」と夫に言われ、わたしが買うのはアクエリアスである。何故か我が家では、アクエリアスの短縮形がポカリになってしまっている。
またたとえば、洗濯物のポケットに何かが入っていた場合、我が家では「ポケット大賞、おめでとうございます!」と讃えられる。
またたとえば、誰かが机に足をぶつけたとか、痛いけど笑っちゃうような時「可哀想だね」を「カワウソだね」と言う。またたとえば。またたとえば。

ごくごく普通の家族にも、その家でしか通じないルールや、知りえないこと、わからないことがある。小説『流しの下の骨』を思い出すたびに、よその家のそんな部分を覗いてみたい衝動に駆られるのだ。

「久しぶりに、今夜ユッケにしようか」と、わたし。
「いいね」と、夫。我が家のユッケは、アボカド鮪イタリアンです。
安い赤身でも卵の黄身を混ぜることで、トロっぽくなります。

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大人の『いつか』は、来ないのか?

「大人の『いつか』は、実現しない」
末娘が、小学校高学年の頃の言葉である。
「これ、買って!」「いつか、買ってあげるね」
「ディズニーランド行きたい!」「いつか、行こうね」
その『いつか』は、永遠にやって来ない、実現しないものだと、ある時ふと、腑に落ちたと言う。
それは彼女が、限りなく大人に近づいた瞬間だったのかもしれない。
わたしとて、誤魔化そうという気持ちなどなく、まあいつかその時が来たらと軽い気持ちで答えただけだったのだと思うが、子どもの感性というものは厳しく、真っ直ぐだ。

「いつやるの?」「今でしょ」が、今年の流行語大賞候補らしいが、今じゃなくとも、嘘はなくやって来る『いつか』があることも、信じたい。

機が熟したのだと、感じる出来事があった。
ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』(新潮文庫)短編小説集の表題作を読んだ。何度目かのリベンジだ。というのも、この小説の良さが何度読んでも判らなかったのだ。自分の感性に合わないだけだろうと、いつもなら思うのだが、島本理生が「すごくいいですよねぇ」と角田光代との対談で恍惚感をにじませ言っているのを読み、わたしも『いつか』「すごくいいですよねぇ」と言いたい。ただそれだけで、リベンジを続けてきたのだ。今、ようやく言える。
「ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』、すごくいいですよねぇ」
わたしのささやかな『いつか』はやって来た。嬉しい。

『いつか』
遠く未来を思わせる、胸のなかに空が広がっていくような言葉である。
大人になって末娘は、この言葉をどんな風に使っていくのだろうか。

PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、
ピューリッツァー・フィクション賞受賞の短編集です。
スタバで最近お気に入りのパッションアイスティーを、飲みながら。
停電の夜風の、写真にしてみました。

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イタリアンパセリを眺める日々

パセリの姿が見えなくなって、わたしが開いたのは『神様』(中公文庫)に収められた『離さない』川上弘美の短編小説だった。

庭のイタリアンパセリを食べるキアゲハの幼虫を、パセリと呼び、可愛がっていた。だが5日後、パセリは行方不明となった。
その5日間のわたしの様子が、『離さない』の主人公わたしと、同じマンションに住むエノモトさんのふたりと、重なったのだ。

画家兼高校教師で礼儀正しく美味しい珈琲を淹れるエノモトさんは、2か月前、海で人魚を拾い、浴槽に放していた。いにしえの昔から、人魚は人を惹きつけて離さないものだと言うエノモトさんは、人魚のいる浴室から離れられず仕事も休みがちだと言う。頼まれ、人魚を預かったわたしだったが。

「カーテンもろくにあけず、洗濯もめったにせず、ただ浴室の中にいつづけた。椅子や毛布や食事を持ち込んで、浴室で暮らした。外に出ているときの記憶があまりなかった。誰と喋っても面白くなくなかった。電話が鳴っても出なかった。ただ人魚だけを眺めて暮らした。これではいけないとときどき思ったが、すぐに思わなくなった」

わたしを惹きつけて離さなかったパセリ。キアゲハになって舞う姿を思いつつ、何度も庭に出て、イタリアンパセリを眺める日々である。

ただただ愛らしい、うつむくパセリ。

イタリアンパセリを、無心に食べるパセリ。
このくらいまで大きく育っていれば、
何処かでさなぎになっていても可笑しくないとも思いつつ。

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夏の疲れに、池井戸潤はいかが?

ドラマ『半沢直樹』で大ブレイクした直木賞作家、池井戸潤の小説を初めて読んだ。『ようこそ、わが家へ』(小学館文庫)わりとマイナーなところから入ったと思われるかもしれないが、直木賞を取った『下町ロケット』も、吉川英治文学新人賞『鉄の骨』も、『空飛ぶタイヤ』も、すでにドラマで観てしまっている。『半沢直樹』の原作本も然り。夫が買った文庫を気軽に開く程度がいいかなと読み始めたものだ。

真面目が取り柄の50代の会社員、倉田は、駅のホームで女性を押しのけ割り込む男を注意した。そこから執拗なストーカー行為が始まり、妻、大学生の息子、高校生の娘との穏やかな暮らしは一変する。争いを好まない性格の倉田だが、家族を守るべく敵に立ち向かっていく。偏執的なストーカーに対する恐怖だけではなく、他人が踏み入ることでこれまで見えなかった家族の違う一面が見えてくるのも興味深く、最後まで楽しんで読めた。

基本、池井戸潤の小説はハッピーエンドだ。ごく普通の人や、優秀であっても仕事に活かせずに生きてきた主人公が、何かトラブルに巻き込まれたり、窮地に陥った時に本当の力を発揮する。
数多くドラマ化されているのも、普通の真面目な人が、社会の汚れた部分、保身に走るこずるい敵などと戦い、そして最後には「正義は勝つ!」という痛快さがウケているのだろう。
生きていれば、そうそうハッピーエンドで終わることばかりではない。理不尽だとの思いをいくつも抱えて生きていく世の中だからこそのブレイクである。
夏の疲れに、池井戸潤はいかが?

『ルーズヴェルト・ゲーム』も夫が購入したものです。緑の栞が綺麗。
『七つの会議』は、明野図書館にありました。
人気作家の本が、無造作に置いてあったりするのも田舎ならではかな。

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サンドイッチに欠かせないもの

サンドイッチを食べていつも思い浮かべるのは、研いだばかりのよく切れる包丁だ。村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)で印象的なシーンがあったのだ。
何ということのない、読み飛ばしてもストーリーとは関係のないようなワンシーンだ。それも読んだのは20年以上も前になるというのに、その時わたしのなかに作られたイメージはいまだ変わることはない。

「私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価が辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過ごされがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ」

サンドイッチの、パンでもバターでもハムでも胡瓜でもなく、食卓に登場することのない包丁が大きな役割を担っているというところに焦点を当てた意外性。それ故なんでもないシーンがこうしていつまでも残っているのだろう。
変化したサンドイッチのイメージと共に、小説のワンシーンの面白さも感じる。たとえそのサンドイッチの(彼はサンドウィッチとかいているが)シーンが特別印象的だと感じる読み手がわたしひとり、もしもたったひとりだったとしても、人ひとりの小さな何かを変えたことに変わりはない。わたしにとって、そんな文章の魔法を感じるワンシーンだった。
「久しぶりに、包丁を研ごうかな」
村上春樹の世界へと思いを馳せつつ、ブランチのサンドイッチを口に運んだ。
 
サンドイッチ屋さんのBLTサンド。 
1985年出版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は箱入り。
その箱も、かなり日焼けしていますね。

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彼女が本を好きになるまで

大学1年の末娘は、帰省して3泊すると「サークルの合宿があるから」と早々に、大学のあるさいたまへ帰ってしまった。たったの3泊4日の帰省なのに、鞄のなかには分厚い文庫本が3冊。本が好きなのは、相変わらずだ。

今の彼女からは想像もつかないが、小学3年生までは全く本を読まない子どもだった。7つ上の息子と4つ上の娘には、幼い頃毎日のように絵本を読んでいたわたしも、3人目ということもあり忙しさもありで、彼女にはあまり本を読もうとしなかったのだ。
そしてようやく子育ても落ち着き、気がついた。末娘が本を読まないことに。このままではいけないと、重い腰、というか上げ忘れていた腰を上げたはいいが、何をしたらいいのかと考えあぐねた。上の子達は、読むペースや分野に違いはあれど、自然と本に馴染んでいたからだ。
わたし自身も、読書に対し考え方の違うお母さんの話を聞き、何か違うんじゃないかなと思うところもあった。本を読むと国語力がつくから、子どもに読ませたい。あるいは、知識が身につくから、また、情緒や想像力が豊かになるから。上の子達が高校生、中学生に育っているのだから、受験やなにやら勉強に絡め、読書について様々な考え方を持つ人がいるのだと知った。

だが目を閉じじっくりと考えるにつけ、何か違うという思いは深くなっていく。何かを身につけるため? そもそもそこが違う気がする。国語力がつくから本を読みなさいと言って、本を読みたいと思う子どもがいるだろうか。
「やっぱり本は面白いから読むんだ。他のあれこれは後からついてくるかも知れないけど、ついてこなくたって、まあいいだろう。まずは読まなきゃ始まらないんだから。大切なのは、本を読む楽しさを教えてあげられるかどうかだ」
気持ちはストンと落ち着き、わたしは「娘が面白く読める」ところにだけに焦点を当て図書館で本を借り「面白くない本は読まなくていい」と呪文のように唱えた。そしてほぼ1年間で彼女は本が好きな子どもへと変身を遂げたのだ。

今でも時々、口をついて出てしまう。「面白くない本は読まなくていいよ」
「うん、そうだね。読書は娯楽だからね」と、末娘。そう言いつつも、彼女は笑って言うのだ。「本がない人生なんて、絶対に考えられないけどね」

末娘が面白いと言っていた、中村文則の『銃』(河出書房新社)
「昨日、私は拳銃を拾った。あるいは盗んだのかもしれないが、
私にはわからない」この出だしに、ハートを撃ち抜かれました!

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日常に潜む心の闇

「『日常』というバランス、それがくずれるとき。誰かの心の暗がりが、そっと目の前に広がる」本の帯には、そう記されていた。
藤野千夜『彼女の部屋』(講談社)を読んだ。短編が、6編収められている。

どれも、大きな事件が起こる訳ではない。毎日のなか、流れていく心の欠片や、微かに感じる「ズレ」、判っている自分の足りないところを見つめてしまう瞬間。そういうものを静かに捉え淡々と描いた短編小説集だ。
たとえば『ハローウィーン』は、未婚の主人公、周子と、子育てを終えた60代の福田夫婦が、マンションのイベントであるハロウィンを迎えるまでのやり取りや、その後を描いている。
表題作『彼女の部屋』は、離婚して1年の主人公、恭子が、親しくもない女性、北原さんに、家に遊びに来ないかと誘われる。誰にでも嫌な顔ができず断れない恭子と、執拗に親しげに誘ってくる北原さん。そんな二人のズレと恭子の微妙な気持ちの揺れを描いている。

自分が持つ『パーソナルスペース』を、一歩踏み出した時、感じるものは人の温かさだとは限らない。隠している傷や、淋しさや、闇に出会うこともある。だが、そういう負の部分も含め、人と人とは関わり合っていくものなのだと、しみじみ感じる短編集だった。

涼をとりに行った明野図書館には「涼」が付く熟語を並べてありました。

帰り道、田んぼの稲がずいぶん頭をもたげて来たなぁと写真を撮りました。
もう、すぐに収穫の秋。今年も美味しいお米が食べられますように。

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倒れ続けていくドミノ

塩尻で帳尻が合った。言葉尻で遊び、目尻を下げて喜んでいる訳ではない。

お盆の帰省にトラブルは付き物だが、出発地点韮崎駅に着くと中央線は事故の影響で上下線共に運休状態。そうなると1か月前に取った指定は、すべてがオジャン。中央線の先、塩尻から乗るはずの特急しなのも、名古屋から乗るはずの新幹線も、ドミノ倒しのように予定は崩れ、すべて払い戻しした。
だが中央高速をフィットで飛ばし、塩尻に着いたのは予定していた特急しなの出発5分前。慌てて切符を買い直し、ホームに走った。運良く特急しなのも5分ほど遅れていたのだ。夫の実家には予定通りの時間に到着できた。

恩田陸の小説に『ドミノ』(角川書店)がある。
舞台は真夏の東京駅。27人と1匹の登場人物は、それぞれに自覚はなくとも、ひとりとして欠かすことはできない運命のドミノのピース。ドミノが倒れる瞬間を見ているような、スピード感あふれる痛快パニックコメディだ。

「もしもあの時、右ではなく左に曲がっていたら?」
そう思ったことは、ないだろうか。電車が遅れ、到着が遅れること自体はたいしたことじゃないかもしれない。だが、東京経由で行くか、塩尻まで車で行くか、それによってドミノが倒れる道筋が違ってきたら? 更にそれによって、誰かのドミノが倒れる方向まで違ってきたとしたら? ふと考える瞬間が、これまでにも何度もあった。しかし、行く手にいくつもの道が広がっていようと、歩くことのできる道はたったひとつだ。ときにこうして振り返り、分岐点で倒れたピースを眺めたりしつつ、前に進んでいくしかない。今この瞬間も、運命のドミノは倒れ続けていく。

帰りは東京経由。塩尻まで中央線に乗りフィットを取りに行きました。
鈍行に乗り換えた上諏訪駅には、ホームに足湯がありました。
時間がなくて浸かれなかったけど、電車遅延で知ったスポットです。

京都の友人に連れて行ってもらった『香本舗・松榮堂』の香り袋とお香。
「車に乗せてもいいのよ」と聞き、購入した香り袋は「上品」という名。
ふたりで同じものを買いました。わたし達にぴったり?
今、フィットは上品な香り。運転も上品に出来そう。
起こるかもしれない事故も、香り効果で、ドミノが違う方向に倒れ、
防げるかもと考えたりしました。

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幸せのバーバー・カモカモ

朝倉かすみ『とうへんぼくで、ばかったれ』(新潮社)を読んでいる。
23歳女子、吉田は、好きな男を追いかけて、札幌から東京に出た。問題は、男が吉田の存在すら知らないってこと。帯には大きく「恋はそもそも、ひとりずもう」とかかれている。ユーモラスな恋愛小説だ。
家を出るまでには吉田にも葛藤がある訳だが、その過程での彼女がもんもんと考えた言葉に共感した。
「もとより『ささやかなしあわせ』という言い回しがどうにも気に入らない質である。しあわせは大きいものだ。ささやかなものでは決してない。たとえ、はたのひとたちから見ればちっぽけでつまらぬものでも、当人にとっては巨大であるはずだ」だから、東京に行くのだ。行くべきだと。

ちっぽけでつまらなく、ささやかであり、また巨大でもある幸せ。
それを読み、連想したのは床屋の鴨だった。
肉じゃがや焼き魚で食卓を囲む家族団らんのひとときでもなければ、風呂上りに喉を潤すよく冷えた1杯のビールでもなく、鴨だ。

たまに買い物に行く道沿いの床屋に鴨がいる。庭で鴨4羽を飼っているのだ。夫とそこを通る度、鴨の話題になる。
「鴨、いるかな?」と、夫。「この暑さは、鴨にも応えるかも」と、わたし。
車で通るだけなので、見えるのは一瞬のこと。
「鴨、いたかも!」騒ぐのは、いつもわたしだ。
「水浴びしてたかも。涼しいかも。よかったかも」と、わたし。
「かもね」夫は、呆れモードの姿勢だが、しっかり鴨を見ている。
特別にわざわざその道を通ることはないが、通った時には、ふたりで鴨を見て鴨の話をする。車のなかでのそんな瞬間を、わたしは連想したのだ。
巨大な幸せとは、そんなちっぽけでつまらない瞬間にあるものかも、と。

床屋さんの鴨は勝手に撮影できないかも。池の鴨かも。

子鴨も、いるかも。可愛いかも。

種類もいろいろかも。
「他の夫婦もこんな風にしゃべってるかも」「ありえないかも」

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本の神様のプレゼント

息子は小さな頃から本の虫だったが、3つ年下の真ん中の娘は、友達と遊ぶことの方が好きで、小学生時代あまり読書はしなかった。本を薦めたことはあったかと思うが、彼女は読まなかった。わたしもそんな彼女に、無理やり読書を薦めることはしなかった。
漠然とだが、彼女は本が好きじゃないタイプなのだと思い込んでいた。読書好きな子も嫌いな子もいてもいい、ひとりひとり違うのだからと思ったのだ。

だが、そんなわたしの思い込みをくつがえす出来事が起きた。娘が中2の夏休み。家族で佐渡を旅した。わたしはフェリーのなかで読もうと佐藤多佳子の『黄色い目の魚』(新潮文庫)を鞄に入れていた。16歳という季節を切なくもリアルに描いた青春小説だ。ところが、その本を開いたのは娘だった。中2女子には家族旅行など退屈なだけだったようで、単なる暇つぶしにと娘はページをめくっていったのだ。そして物語世界のなかへと深く深く入っていった。

わたしは思い知らされた。自分が娘のために選んでいた本が、全く彼女が読みたいものと違っていたことを。彼女は、中学生向けにかかれたものを読む年齢を、本を読まずして通り過ぎ、ファンタジーにも興味を持てず、面白いと思える本を見つけられず、迷子になっていたのだ。
旅行から帰り、わくわくしながら娘のために本を選んだ。確か、森絵都の『宇宙のみなしご』(講談社)や、瀬尾まいこ『卵の緒』(マガジンハウス)、江國香織の『つめたいよるに』(新潮文庫)や、山本文緒の『絶対泣かない』(角川文庫)などだったと思う。大人になる過程の揺れる気持ちや、恋、友達との確執や、自分を理解してもらえない淋しさ、もどかしさ。そういうものが宝物のように散りばめられた本達。
彼女は、乾いたスポンジが水を吸い込むかのように、本を読んでいった。

本当に本を嫌いな子などいないんじゃないかな、と今は思う。読みたい時期に読みたい本に出会えさえすれば、みんな本を好きになるんじゃないかなと。
『黄色い目の魚』は本の神様が娘にくれたプレゼントだったのかもしれない。

庭に隣の林にと、野生のホソバウンランが咲き始めました。
海外ではトードフラックス(ヒキガエルに似た1年草)と呼ばれています。
でもよく見ると、黄色い目の花?

わたしも末娘も何度も読んだので、文庫本はぼろぼろ。
「16歳だった、すべての人へ」とかかれた帯も失くしてしまいました。
400ページ以上ある、けっこう分厚い文庫です。

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花火に思う親子逆転の瞬間

親子が逆転したと感じる瞬間を、何度となく経験した。
25歳の息子と23歳、18歳の娘の3人の子ども達を持つ母親ならば、当然のことではある。
なかでも印象的だったのは、息子が高校に入った頃のこと。本の虫である彼がホラー作家と言われる乙一(おついち)の『ZOO』(集英社)を買って来た。熱中して読んでいたので、さぞや面白いのだろうと声をかけた。
「それ、面白そうだね。お母さんにも貸してくれる?」
すると彼は、戸惑いの表情を見せ、遠慮がちに言った。
「うーん。お母さんには、ちょっと」「ちょっと何?」
「いやー、刺激が強すぎるかなって。残酷な場面が多いから」
まさに親子逆転の瞬間である。あたかも親が読む残虐なホラーを子どもに薦めるのはどうかと考え込むかのような表情に、驚かされたものだった。そして、彼の思いやりに満ちた忠告に従い『ZOO』は読まないことにした。

この話には続きがある。息子と7歳離れた末娘がやはり高校に入った頃、乙一を読み始めた。わたしは、同い年だった頃の息子より余程大人びた彼女に、息子とのその時の会話を話して聞かせた。すると彼女は、
「乙一のなかでも、綺麗な話もあるよ」と言い1冊の本を差し出した。
『夏と花火と私の死体』(集英社文庫)乙一デビュー作だ。
「確かに、綺麗なタイトルだね」
わたしは彼女のおかげで、7年経ち、ようやく乙一の世界に足を踏み入れることができた。『夏と花火と私の死体』は、主人公である9歳の私が、冒頭であっけなく殺される。その死体となった私が、その後周囲で起きた出来事を、まるで見ているかのように一人称で綴っていくという、設定からして斬新な小説だ。また推理小説の趣きもあり、悲しい夏が花火の美しさと共に情緒たっぷりに描かれていて、楽しんで読むことができた。

ふたりとも、高校生になった頃には、本を薦めるも薦めないも、相手を見て、相手を思いやり、考えることができるようになっていたのだ。
乙一は、子ども達から母親であるわたしに、そんなプレゼントをくれるきっかけを作ってくれた作家である。
  
先週遊びに来たクリス&マリーと娘とで、花火アートに挑戦していました。
カナダには打ち上げ花火しかないのだとか。ずいぶんと楽しんでいました。

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家族ってチームなんだね

出会ったことに幸せを感じる本が、いく冊かある。
北村薫の『月の砂漠をさばさばと』(新潮社)は、なかでも代表する一冊だ。
お母さんと、小学3年生のさきちゃん。ふたりの家族のお話。「お話」とかいたのは「物語」と表現するにはあまりに自然で、日々のなかに埋もれてしまいそうな小さな瞬間を切り取って、そっと本の上に乗せたような柔らかさが、そこ此処に感じられるからだ。

小学校の福島校長先生のファーストネームが思い出せなくて、ふたりで考えるシーンがある。「校長先生だから、豪華な名前じゃない?」と、さきちゃん。
考えに考えて「……福島……デラックスだ!」と、お母さん。
「じゃ、第一小の校長先生は、ゴージャスかな」と、さきちゃん。
さてでは、第三小の校長先生は?

また、さばの味噌煮を台所で煮るお母さんが、ひとり歌う。
♪ 月のー砂漠を さーばさばと さーばの味噌煮が ゆーきました ♪
さきちゃんは、月に照らされた砂漠をゆくさばの味噌煮を想像し「かわいい」と言った。そんなさきちゃんに、お母さんは思うのだ。「さきが大きくなって、台所で、さばの味噌煮を作る時、今日のことを思い出すかな」と。

3年生のさきちゃんだが、小さな頃の話をする場面もある。台風の時のことだ。窓を開けて、お母さんに叱られたことを覚えていると言う。
「あんまり風が強いから、心配になったの。それでね、ここで、うちの中に風を入れておけば少しは違うかなって思ったの。食い止められるかなって」
さきちゃんの話を聞いて、お母さんは考えた。
(子どものやることにも、理屈があるのね。でもあなたの理屈が見えないことは、これからだって、きっとある。そちらから、こちらが見えないことも)

くすくす笑ったり、ジーンとしたり、好きなシーンがたくさんあって、とてもじゃないがかききれない。最後に作者は「ふたりは生活のチームだ」とかいている。家族ってチームなんだと、繰り返し読むたびに思い出し胸が温かくなる。わたしの胸の片すみに温かく消えない灯りをくれた、とても大切な本だ。

読み返したら、空豆を食べたくなりました。
12のお話が、それぞれ季節感にあふれています。
おーなり由子のカラーの絵がところどころに入ってるのも素敵です。

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素敵なラブ・ストーリーを読みました

衝動買いした本を、一気読みした。ぽろぽろと涙がこぼれ止まらなかった。
読んだのは、島本理生『よだかの片思い』(集英社)
顔のアザに悩み、自分は恋愛などできないと思っていたアイコは、24歳にして初恋をする。その恋心が、甘く切ない。
久しぶりに本を読んで思いっきり泣き、考えた。何故これほどまでに泣けるのだろうか。たぶん、と考える。アイコが恋だけじゃなく、生きていくことにがんばっている、自分を肯定しようとがんばっている姿が切なく、涙があふれてしまうのだと。
顔にアザを持って生まれたアイコの気持ちを理解できるとは思わないが、がんばってもがんばっても自分を肯定できなくなるような時が、わたしにもある。「どうせわたしなんか」と思わず生きていくことは、ことのほか難しいのだ。
しかし小難しいことはさて置き、素敵なラブ・ストーリーだった。

交差点の真ん中で、彼はいきなりこちらを振り返ると
「アイコさん、キャッチボールしよう」と言い出した。
あっけに取られているうちに、彼がコートのポケットからなにか白い包みを取り出した。夜空に揚げて長い右腕を振り上げると、月をめがけたように大きく柔らかなアーチを描きながら、白い包みが飛んできた。
私は両手を伸ばして、なんとかそれを受け取った。

アイコが恋した彼が、これまで彼女が持つことをしなかった手鏡をプレゼントするシーンだ。恋ってこんな風に始まるんだよなぁと、文章をたどりつつ、淡々(あわあわ)としたものが胸に広がっていった。

タイトルからも判るように宮沢賢治の『よだかの星』がキーとなっています。
カバー表紙を取ると、
よだかが飛んで行ったような夜の闇と星空が、隠されていました。

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母の思惑

高橋亮子の漫画『坂道のぼれ!』(フラワーコミックス)を読み返した。
一度高校生活に失敗した主人公、亜砂子が、全寮制の高校でルームメート3人に囲まれ、再スタートをするというストーリーだ。大人になる過程の葛藤や、淡い恋がそこ此処に描かれたこの漫画は、十代の頃、何度も読み返したものだ。実家に置きっぱなしになっていたのを、何年か前に母が送ってくれた。
「もう読まないから、処分しちゃって」
はっきりと、そう伝えたにもかかわらず、わざわざ送ってきたというのが正しいいきさつだ。「全くもう。いらないって、言ったのに」とも言えないので「ありがとう」と電話した。
そんな母に呆れつつ、自分もまた捨てられずにこうして読み返しているのだから、母の思惑は満更外れた訳ではなかったのかもしれない。もし、思惑なるものが、母にあったとしたらだが。何故にいらないと言うものを送ってくるのか、わたしとしては理解に苦しむばかりだ。

しかしだ。埼玉で一人暮らしを始めたばかりの末娘から、メールが来た。頼まれていたいくつかの物を入れた荷物が届いたというメールだ。そこには「高校の制服、いらないって言わなかったっけ?」と遠慮がちにかかれていた。最初は持って行くと言っていたのだが、その後やっぱりいらないと言われたような。だがどっちかわからなくなり、何かの時のためにと送ったのだ。
(高校の制服が必要になる何かなど、余りないような気もするが)
そういえば、オーストラリアで上の娘もfacebookにかいていた。「お母さんからの荷物にいつもリラックマが入ってて困る」と。

母の思惑は深いところに眠っていて、気まぐれに目を覚ましたりするものなのだ。娘達よ。思う存分、理解に苦しんでくれ。

くらもちふさこの『おしゃべり階段』も一緒に入っていました。

「なんで、こんなの送ったの?」と、facebookを見て、夫。
「か、緩衝剤だよ」と、わたし。
「緩衝剤ねぇ」と、夫。「緩衝剤で悪い?」と、すでに自棄になったわたし。


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面倒くさがりの読書事情

基本、面倒くさがりである。
しかし、それも悪いことばかりではないのではないかと、最近気づいた。子ども達が揃って本好きなのは、わたしの面倒くさがりが微妙に影響しているのかもしれないと、思い至ったからだ。

単なる自己分析に過ぎないが、わたしが面倒くさがり性質を発揮するのは、だいたいがこういう場合だ。
スーパーまでは買い物に行ったのに、隣の薬局に寄るのがつい面倒で買い置き用風邪薬を切らしてしまう。毎日洗濯はしているのに、手洗いしなくてはならないものを洗うのは面倒でためてしまう。ひとりご飯の時に、納豆をパックのまま混ぜてご飯にかけてしまう。あるいはそれも面倒になり、食べるのをやめてしまう。どれも、どうしてそんなことが、というような小さなワンステップが、大きく作用している。考えると、今自分がやりたいことであっても、そのワンステップを踏むのが面倒で、しないままになってしまうことも多いのだ。

そんなこともあり、我が家のリビングには、読みかけの本を置くスペースがある。ちょっと読みたいなぁ、でも取りに行くのは面倒だな、のワンステップがこれで省けるという訳だ。
子ども達が小さい頃はよく、そこに図書館で借りた彼らが読みたそうな本を並べて置いておいた。リビングにごろごろ寝転がって読んでいたのは、3人のうちの誰だったか。しかし、わたしにしては面倒くさがらず、よく児童書を選んでは、借りて来ていたなぁと思う。やっぱり本が好きってことかな。

写真を撮って、気がつきました。
「あ、『ワイン食堂』買ったのに、あんまりレシピ活用してない!」
あまりに長く置いておかれていると、空気のごとく姿を隠す本もある?

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話すほどのことじゃない

川上弘美の小説を久しぶりに読んでいる。ガールズトーク小説と帯にかかれた『これでよろしくて?』(中公文庫)だ。その中に共感する言葉があった。

立木雛子は、一瞬黙る。それから頭をふるふると振り、
「いえ、話すほどのことじゃ、ないんです」と答えた。
(話すほどのことじゃ、ないのよね、たいがいのことは)
胸のなかで、わたしは立木雛子の言葉に頷く。
(でも話すほどのことじゃない、ことの方が、説明しやすい悲劇、よりも、むしろ後になってじわじわと効いてきちゃうのよね)

「うんうん、そうだよ。話すほどのことじゃないんだよ、たいがいのことは」
わたしも主人公にならい、うなずきつつ考えた。
だって、昨日1日だけだって、話すほどのことじゃないことだらけだよ、と。

たとえば、スーパーに買い物に行き、カートに弁慶の泣き所をぶつけて青たんができたこととか。また、たとえば、それを夫に話すと「どんくさい人のやることは」と呆れられたこととか。「えーっ、なにそれ。ちょっとくらい心配してくれてもいいんじゃないの?」と思いつつ言わなかったこととか。
夜、我が家でお隣のご主人と飲み、話してる途中で何を言おうと思ったのか忘れてしまったこととか。彼が漬けたという糠漬けがやたら美味しく、昔は糠漬け漬けたこともあったなぁと思い出したこととか。いろいろ思い出しつつ飲みすぎて、つぶれて先に寝ちゃったこととか。
また、たとえば、夜中に目が覚めしばらく眠れずにごろごろしていたら、隣のベッドから寝言が聞こえてきたこととか。それが「餃子」の一言のみだったこととか。しかしその「餃子」が幸せに満ち満ちた一言だったこととか。まるで「餃子」お、焼き立て! あるいは「餃子」わ、2個おまけついてる! といった感じだったこととか。それを聞いて、くつくつ笑いながら、安心して眠りについたこと。とかとか。

塩加減が絶妙でした。色もきれい。

打ち立ての蕎麦を、我が家で茹でてくれました。
蕎麦の味が濃く、つやつやしています。めちゃうまでした。

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キッシュと牛丼

久々に会う友人とランチした。娘達が大学に入学し、そのお祝い&お疲れさま会ということで、ふたりゆっくりとしゃべった。おたがい県外に末娘を出し、ひとり暮らしをさせることになり、受験もその後のバタバタも同じように経験しているので、否が応でも盛り上がる。
「まだ淋しいとか思えないよねぇ」「ただただホッとして、疲れたねぇ」
たがいの脱力感も似通っていて気持ちも通じ合い、穏やかなランチとなった。

ランチしたのは甲斐市の『モネの台所』パスタとキッシュの店だ。
キッシュのランチセットは、珈琲付き消費税込みで1200円ちょうど。手ごろな値段である。ふと考えた。400円の牛丼なら3杯分だなと。牛丼とキッシュを比べている訳ではない。思い浮かんだのは森絵都の小説『風に舞いあがるビニールシート』(文春文庫)に収められた『犬の散歩』という短編だ。

「牛丼ばかり食べてる先輩がいたんです。彼は本当に牛丼が大好きだったから、なにもかも、世界のすべてを牛丼に置きかえて考えるのがつねでした。当時は牛丼が一杯400円くらいだったかな。Tシャツ一枚買おうか迷ったときにも、彼の基準となるのはやっぱり牛丼でした。三千円のTシャツを買うお金があったら、牛丼が7杯食べられる。7杯分の牛丼を犠牲にするだけの価値がそのTシャツにあるかどうかって」
主人公の恵理子は、先輩がうらやましいと思っていた。いつでも真剣に牛丼を通して世界を捉えていく彼が、揺らぎないものを持っているように思えたから。しかし恵理子は考える。先輩の牛丼を、今わたしは持っていると。
お金よりも大切な何かのために生きていく人を描いた、6編からなるこの短編集は、直木賞受賞作だ。

果たしてキッシュ・ランチ1200円は、高かったのだろうか。
ノーだなと、自分のなかで答えを出す。わたし達は牛丼3杯分のお金で、お金では買えない穏やかで充実した時間を手に入れたのだから。

ほうれん草とベーコンのキッシュ&バジルチキンとポテトサラダのキッシュ。
友人と別れ、家に帰ってから、末娘の部屋の本棚を見てみました。
『風に舞いあがるビニールシート』を、娘は持って行ったようです。

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心に栞を挟みつつ

話すのは上手とは言えないが、聞くのは得意な方だと思う。
特別に知識が豊富なわけではないから、話を聞くことは面白い。要するに聞く方が好きなのだ。傾聴術などというものとは程遠いが、誰かと話をする時に、大きく影響を与えられ、いつも胸の片隅に留めている詩がある。
西村祐見子『せいざのなまえ』(JURA出版局)に収められた『あいづち』だ。

あいづち

はなしている人の こころに
きいている わたしの こころに
そっと はさんでいく
それは 小さな しおりです

久しぶりに開いた『せいざのなまえ』の紐栞は、やはり『あいづち』に挟んであった。だが、久しぶりに読み思うのだ。最近のわたしは、話している人の心にそっと栞を挟みながら、聞いていただろうかと。

お気に入りの栞達。真ん中の押し花の栞は、末娘が小学生の時の作品。
講談社文庫のマザーグースシリーズは、
シンプルで読書の邪魔にならないところが好き。

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穴があるが故の魅力

一目でその可愛らしさに魅かれ、ドーナッツ型のエコたわしを購入した。
ドーナッツって、不思議な魅力を持つ食べ物だ。なんせ形がいい。穴があいているところがいい。人差し指を穴に入れてくるくる回したくなったり、ひと口で穴に辿り着いちゃって喪失感を感じたり、穴を残そうと周りからかじってみたり。穴のなかには何にもないのに、しっかりドーナッツの一部になっている。穴があるが故に、ドーナッツなのだ。欠落したところだらけのわたしなどは、そう考えるとちょっとホッとする。

村上春樹も、ドーナッツの魅力に取りつかれたひとりだ。彼の小説には数えきれないほどのシーンに、ドーナッツが登場する。『羊男のクリスマス』(講談社文庫)は、ドーナッツが主役と言ってもいい。以下、羊博士と羊男の会話。
「去年のクリスマス・イブに、穴のあいたものを食べなかったかね?」
「ドーナツなら毎日昼ごはんに食べてますよ。クリスマス・イブに食べたのがどのドーナツだったかは覚えてないけど」
「穴のあいたドーナツかね?」
「ドーナツっていうと、だいたいみんな穴があいてますから」
「それだよ。そのおかげで君に呪いがかかっちまったんだ」

ドーナッツ型のたわしは、何の呪いか甘いものが食べられなくなってしまったわたしに、ドーナッツの魅力を思い出させてくれた。
(昔はオールドファッション・ドーナッツが好きだった)
そしてしっかりしていて使いやすくガラスのコップをピカピカにしてくれた。

宮城県のグループで、東日本大震災で被災した女性達が、編んだものです。
「これは、たわしです。たべられません」の注意書きと一緒に、
ひとつずつ編み手からのメッセージが手書きで添えられていました。
「気に入っていただけるとうれしいです」など。大切に使おうと思います。


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一番に優先しているものは、何ですか?

庭の水仙が花を咲かせた。可愛い。多年草は、何もせずともこうして季節が来れば花を咲かせ、春が来たよと教えてくれる。何年か前に植えたのはわたしだが、わたしがいてもいなくても来年も咲くだろう。

山本文緒の短編集に『ファースト・プライオリティー』(角川文庫)がある。
タイトルを日本語にすると『第一優先』 
趣向を凝らしていて、31歳の女性が主人公またはキーになる形でどの話にも登場し、それが31話収められている。それぞれの人生のなかで第一優先するものがテーマだ。他人から見ればその固執する姿は、不思議だったり笑えたり切なくもあったりして、人が生きることの滑稽さが見え隠れし、味わいのある短編集になっている。31歳にこだわったのは、それくらい生きていれば何かしら自分なりに優先するものが見えてくる年齢だということだろうか。
そのなかに『庭』という話がある。ガーデニングが趣味の母親が冬に亡くなった。四十九日も過ぎて落ち着いた頃、春が来た。庭にはこれでもかっていうほど多種多様な花々が咲き乱れ、31歳の主人公は父親と共に呆然と眺めるばかりだ。そんな時、亡くなる前に母親が申し込んだガーデニング講座イギリスツアーの封書が届く。外国嫌いの父親が、気まぐれに俺が行くと言い出したが。

その他『ジンクス』にこだわりすぎる女性の話、ニュースを見て『当事者』と同じ気持ちになってしまう女性の話、『カラオケ』好きと、嫌いなふたりの話、誰かとくっついていないといられない『うさぎ男』、『銭湯』に通い始めて働く気持ちを無くしてしまった女性の話、などなど何度読んでも面白い。
この本を開く度に、自分の『ファースト・プライオリティー』は何だろうかと考える。ビール以外のもので、これと言えるもの、あるかなぁ。
あなたの『ファースト・プライオリティー』は何ですか?

花の重みに耐えかねてすぐにうつむいてしまう水仙ですが、
咲き始めの今、太陽に顔を向けようと必死に上を向いているように見えます。

春蘭(しゅんらん)も咲きました。控えめで透明感のある野山に咲く蘭です。

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身近にある毒

じゃが芋は、放っておくとすぐに芽を出す。
その芽に毒があると知ったのは、中学の家庭科の授業だった。印象に残ったのは身近に毒があることと「ソラニン」という毒の名だった。音から「空」を思い浮かべ、さわやかな毒だというイメージを勝手に作り上げた。
その「ソラニン」に大人になって出会ったのは、江國香織の小説『スイートリトルライズ』(幻冬舎)。じゃが芋の芽を育て切り取って料理し、夫と二人、死のうと企む妻。夫婦の物話だ。タイトルは日本語にすると『甘く小さな嘘』

瑠璃子と聡は、結婚して3年。子どもはいない。仲が悪い訳ではない。波風が立っている訳でもない。子どもが欲しい訳でもない。しかし瑠璃子はふとした瞬間、考えずにはいられなくなる。じゃが芋の芽を料理して出したら、夫は食べるだろう。わたしと一緒に。これって無理心中ということになるのだろうかと。そんなことを瑠璃子が考えているなどと、聡は全く知らない。

「このうちには恋が足りないと思うの」聡は一瞬黙り込んでから、
「そんなことないよ」と言った。根拠も説得力もなかった。
「あるわ」瑠璃子が言うと、聡は困った顔をした。

好きな人とふたり、穏やかに暮らしていても、淋しくない訳じゃない。誰かと一緒にいても淋しさを抱えつつ、それでもひとりではいられない。切ない小説だった。ところでじゃが芋は、ソラニンがないと育たないそうだ。人と人との関係も、微かな毒と共生し傷つけたり傷ついたりしつつ、育っていくものかもしれないなぁ。

毒があると知ってはいても、小さな芽には命の息吹きを感じますね。

塩と粒マスタード、マヨネーズのみの味付けで、シンプルポテトサラダ。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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