はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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小説「カフェ・ド・C」 28. スミレ揺れる春

「スミレの花言葉で、僕がぴったりくると思うのは『小さな幸せ』です」
カフェ・ド・Cの店先を掃除するバイトのジュンが言った。アスファルトの隙間に、スミレの花が咲いていたのだ。
彼は美大生で、暇さえあれば植物のスケッチをしている。花言葉にも詳しく、道端のスミレに水をやる優しさも持ち合わせている。
「春なんだな」小さな幸せ。スミレには、確かにそんな言葉が似合う。
「マスターは、小さな幸せっていうと何を思い浮かべますか?」
「小さな幸せかぁ」すぐに思い浮かぶのは、娘がハイハイする姿だった。
「シュウちゃんですか?」ジュンは、僕の顔を見て笑った。
「確かにちっちゃな幸せですね。でもそれって大きな幸せでもある」
僕はうなずいた。ジュンは言葉を続ける。
「実は昨日、小さな幸せに出会いました」
ジュンは、ここでバイトする年上のユウちゃんに恋をしている。片思いだ。はっきりとフラれもした。それでも想いは簡単に消すことはできないようだ。
「ユウちゃんと、まったく同じスニーカーを履いてたんです!」
「ほう」思わず笑みがこぼれた。
ようやく彼にも恋の神様が、降りてきたのだろうか。恋の神様は、結ばれるふたりに小さな偶然を用意する。たとえば同じスニーカーを同じ日に履いていたり、また、ばったりといつもは行かない場所で会ったり。
「それも、初めて行った映画館の出口でばったり。お茶して映画の話で盛り上がりました」うん。これは本格的に恋の神様が動き出したようだ。

そう思いつつ、通りを振り返り驚いた。通る人通る人、みんなが同じスニーカーを履いていたからだ。しかし目をこすり現実に戻ると、季節の変わり目に在りがちなごく当たり前の風景が見えた。革靴の人もいればブーツの人もいる。
「メールにかわいい顔文字が入っているだけで、小さな幸せ感じるし」
「それは、確かに小さな幸せかもしれない」
ジュンは、とめどなくしゃべっている。
春。そう。ジュンに限らず恋の種が芽を出す季節なのだ。
今聞いた偶然が恋の神様の気まぐれじゃないことを祈りつつ、小さく凛と咲くスミレを見た。スミレの花は水滴を落とし、微笑むようにふわりと揺れた。

スミレは他に『小さな愛』『誠実』などの花言葉を持つそうだ。


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小説「カフェ・ド・C」 27. 雨宿り

3月の冷たい雨が、街じゅうを濡らし始めた。予報では夜まで持つと言っていたから、慌てている人も多いだろう。
そんな夕刻、その人はカフェ・ド・Cのドアを開けた。
「急に降られちゃって。でも、ドアを開けたら珈琲のいい香り!」
杖を突き、傘をたたみながら笑顔で声をかけてきた女性は、80歳くらいだろうか。しかし声のハリは少女を思わせる。
「タオル、使ってください」
バイトのユウちゃんが、傘を受け取り傘立てに入れた。
「重そうなリュックですね」
女性は、悪戯っぽい笑顔で答える。「重いのよ。何が入ってると思う?」
「えっ? 何でしょう?」リュックの中からノートパソコンが出てきた。
「パソコン教室の帰りに、雨に降られちゃって」
「わっ、最新のWindows8ですよね? すごい。これ使ってるんですか?」「ええ。なんとかね」
「マスターなんか、何回教えても覚えてくれないんですよ」
「おいおい、ユウちゃん。劣等生扱いかい」
「だってー」ユウちゃんがふくれっ面を見せると、女性が笑う。
「パソコンも覚えればたのしいのにね」「ですよね」いきなり意気投合だ。
「いつ頃からパソコン、始められたんですか?」僕も興味が湧いて聞いた。
「70歳過ぎてからよ。膝の手術をしてね。しばらく歩けないし、よくなってからも外出するのが億劫になるだろうって息子が買ってくれたの」
「それは、たいへんでしたね」
「でもそれがね、、パソコンが楽しくなっちゃって。膝がよくなるかならないかってうちに杖をついて、リュックにパソコン入れて、パソコン教室に通って。メールも写真もネットサーフィンも、年賀状のデザインや印刷も、覚えたら楽しいったらないのよ」
女性は少女のような声で、少女のような笑顔で語った。そして、ケニアの中煎りを、思いっきり香りを吸い込んでから、嬉しそうに一口飲んだ。
「美味しい! こんな素敵な珈琲を飲めるなんて、雨に降られてよかったわ」
生きることを楽しんでいる。そんな息吹きが伝わってきた。負の要素に負けず、歩いてきた足跡を笑顔に感じる。
「ありがとうございます」
ほーっとため息をつかずにはいられなかった。パソコンに対しても何に対しても、苦手意識がある限り楽しいとは思えないし上達もしない。彼女の笑顔に教えられた気がした。僕も彼女を真似て、この雨がくれた出会いに感謝しよう。

しばらくすると雨はやみ、リュックにパソコンを入れ、杖をついて、彼女は帰って行った。傘立てに、濡れた傘を忘れて。

翌日、ユウちゃんが、彼女の傘を干していた。
空に鳥が舞う絵が描かれた、カラフルな傘だった。

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小説「カフェ・ド・C」 26. 何処までも広がる波紋

珈琲屋のカウンターに居ると、初対面のお客様から、個人的で深刻な話を突然聞かされる場合がある。知らない人だからこそ、ちょっとした愚痴を装い、しかし本当は切羽詰ったどうしようもない悩み事を誰かに聞いてもらいたくて、口にするということもあるのだ。
「死んじゃいたいなぁって思ったことありますか?」
突然切り出したのは、まだ若い女の子だった。二十代前半という雰囲気だ。
「うーん、そうですねぇ。うん。あるなぁ。中学の時にね」
こういう時に心がけているのは、誠実に相手の話を聞き、こちらも嘘偽りなく話をすることだ。
「2年の冬、急に背が伸びたんだ」「それで、死にたいなぁって?」
「いやいや。体操着の袖がつんつるてんになっちゃって、ジャージの裾も。それがかっこ悪くて。新しい体操着を買ってほしいって親に言ったんだけど、春に3年の子にお下がりをもらう約束だからって、買ってくれなかったんだ」
彼女は、ようやくカプチーノに口をつけた。
「それが体育委員だったもんだから、全校生徒の前でラジオ体操の見本やらされることになっちゃって」
「それで、どうしたんですか?」「どうしたと思う?」
「休んじゃったとか?」「いや。脱いだんだ」「脱いだ?」
「上着もジャージも脱いで、半袖半ズボンで体操した。折しも雪が舞う最低気温を記録した日だったよ」
「寒そう!」「もうね、寒いとか感じないんだよ。でも今考えると、それはそれで、かっこ悪いのに変わりはなかったよなぁって思うんだよね」
彼女は、ようやく笑顔を見せた。
「かっこ、優先なんですね」「あの頃はね。そんなことで何もかもから逃げたいって思うなんて、今じゃ考えられないけど」
カプチーノを飲み干して、彼女は話し始めた。勤め始めてもうすぐ1年になる会社で、役に立たない、ダメな奴だと言われ続けていること。家族に話すと、いい加減に慣れてもいい頃なのにと返って叱られること。友人達は、就職難に就職できただけでラッキーなんだから辞めるなと言うばかりだということ。
「それは、つらいね」
僕はそれ以上は何も言えず、あとはただ聞いていた。気持ちが八方ふさがりになっているんだなと思いつつ。
「わたしも、脱ごうかな」
会計の時に、彼女はちょっと笑って言った。

それからしばらくして、駅前のコンビニでバイトする彼女を見かけた。
「会社の制服……、脱いだんだ」
もしかしたら僕は、彼女の未来が広がる湖に、石を投げてしまったかもしれない。波紋は何処までも広がっていくかもしれない。その責任を取れるほど、僕は大きくはない。だが、自分に正直に話をすることが、今彼女のために自分ができる唯一のことだったと思いたいし、今も思っている。

カプチーノはソーサー付きで、シナモンスティックをつけて出しています。
温まりたい人がオーダーすることが多いようですね。

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小説「カフェ・ド・C」25. すっと馴染んだり、ようやく馴染んだり

すっと手に馴染む、ということがある。新しく仕入れたカップのことだ。しかしそれは、僕の手に馴染むだけかもしれず、万人の手に馴染むわけではないだろう。ひとりひとり違う手でカップを持ち、好みの珈琲を味わいたいと訪れてくれる。それがまだ、人間を相手にする商売の面白みでもある。常連さんの中には、そっと耳打ちするように、気に入ったカップでと注文する人もいる。今カウンターに座る常連のニシさんも、そのひとり。彼が以前言っていたのだ。
「このカップは、すっと手に馴染む。ちょうどぴったりくる。大きくもなく小さくもなく。丸過ぎずごつごつし過ぎず。まるでずっと前から知り合いだったかのように、初対面で意気投合したよ」
僕と歳の頃も変わらない彼が話すのが、以外でもあり、そういうものかと、感心もした。それで覚えている。そして僕もようやく出会った。初対面で意気投合できるカップに。

「美味いねぇ」
ニシさんは、両手でカップを抱えるようにしてマンデリンの深煎りを一口飲んだ。僕は一礼し、世間話のつもりで言った。
「珍しくスーツですね。今日は何かあるんですか?」
「送別会がね」「もう、そういう季節ですか」
「ああ。俺の送別会だがね。転勤だよ。金沢に行く。一応は栄転だ」
「そうなんですか。それは……、おめでとうございます。淋しくなります」
「向こうでも、いい珈琲屋を探すよ」
「初対面で、意気投合できるカップに出会えるといいですね」
「ああ。ほんとに。ご馳走様。美味しかったよ」
ニシさんは、静かにドアをくぐり、カフェ・ド・Cを後にした。
新しく仕入れたカップのことを話そうと思っていたが、話せなかった。もっと他のことも話せるかもしれないとも思っていた。僕はニシさんと、初対面で意気投合はできなかったが、もっともっと話を聞きたいと、何度か会ううちに思うようになっていたのだ。
今一番、好きなカップに、自分のために珈琲を淹れた。ケニアの中煎り。それは、新しく仕入れたカップでではなく、古参とも言える店を始めた頃から置いてあるものだ。すっと馴染むものもあり、時を経てようやく馴染むものもある。物も、人も。
いつかニシさんが帰ってきたら、そんな話をしたいと思いつつ、彼を真似て両手でカップを抱え、ケニアを飲んだ。
春待つ2月の柔らかな陽射しを思わせる味がした。

バレンタイン、いかがお過ごしでしたか?
洋菓子シエナの期間限定で置いたマカロンは、大好評でした。

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小説「カフェ・ド・C」 24. 必然から生まれた偶然

大学時代の友人にメールをした。一年ぶりくらいだろうか。特に用があるわけではなかったが、急にやつのことを思い出したのだ。
開店前の準備時間、ラジオから、地域の店を紹介する3分間コーナーで、聞いたことのある声が流れた。
「看板は親子丼。小さな店だけどランチにゃ五十食は出るね。そら美味いよ」
学生時代よく飲みに通った焼き鳥屋「ひなた」の親父の声だった。
「なつかしいなぁ」それで急に、やつのことを思い出し誘った。
「たまには、ひなたの親父の顔でも見に行かないか」と。

やつ、クサカは、閉店間際、メールの返事もなしにさっそくやってきた。
「おう、いらっしゃい。久しぶり」
「元気そうだな。年賀状見たよ。女の子が生まれたんだって? 可愛いだろ」
「可愛いなんてもんじゃないよ」
クサカには、すでに娘が3人いる。
「どんどん可愛くなるから、覚悟してろ」
一瞬で一年の時間は埋められていく。
「今夜、暇?」「ひなた、行くか?」「いいねぇ」
話しはすぐにまとまった。
「あ、俺さ、今日家にケータイ忘れて来ちゃって。電話貸してくれる?」
クサカは、カウンターに十円玉を置いた。店の電話を渡すと、奥さんに夕飯はいらない、へーすけと飲みに行くと簡単に伝え、切った。
僕は何かが引っ掛かり、やつに尋ねた。
「おまえさ、メール見て来てくれたんじゃないの?」「メール?」
「今朝、ケータイにメールしたんだよ」「なんて?」
「ひなたに飲みに行こうって」「なんだよ、それ。見てねーよ」
「偶然来たのか?」「その通り」「もしかして、ラジオ聞いて?」
「ああ。親父の声聞いたら、焼き鳥食いたくなった」
「まったく、単純なのも同じってことか」
僕らはひとしきり笑い、店を閉めて「ひなた」に向かった。

同じものを聞き、同じことを考える。これは偶然ではないのかもしれない。必然から生まれた偶然とでも言おうか。時間を飛び越え、急に懐かしく思ったり、誰かに会いたくなったり。「ひなた」は今夜、そういう客でにぎわっているんじゃないかな。タイムマシンで、突然未来に送り込まれたような親父の顔が目に浮かんだ。

いつも〆には親子丼を食べてしまう。これは親父の魔法なのだろうか。

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小説「カフェ・ド・C」 23. 誰にでもあるいいところ

言い訳をすれば、珈琲屋をしている僕だって人間だ。苦手な人だっている。たとえそれが常連のお客様だとしても。
「明けましておめでとうございまーす」
カフェ・ド・C年明けの5日。ミカミさんは元気よくドアを開けた。
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
もちろんお客様を誠心誠意おもてなししようという気持ちに変わりはない。
「こちらこそ、よろしくね!」
年の頃はマダムと変わらないくらいだろうか。明るく気さくなタイプなのだが、気になるのは、誰彼構わず一方的に話し始め、自分の意見を絶対に曲げないところだ。暮れにはこんなことがあった。
「お雑煮はおすましが一番よね」と誰かが言った。ミカミさんは、それが自分に向けられた言葉ではないにもかかわらず、身を乗り出し主張し始めた。
「京都の白味噌に小芋や人参を入れた、コクと旨味のお雑煮を知らないの?」
「まあ、それも美味しいけど、わたしはおすまし派なのよ」
この時点で相手はもう、ミカミさんに捕まったも同然。ミカミさんは白味噌雑煮の美味さをひとり語り続け、周囲の人さえ呆れ果てるほどに自分を押し通した。今年もまた幕を開けるであろうミカミ節。もう聞きたくないなと正直、僕は思っていた。
 
そんなところに、初めてのお客様がひとり、カウンターに座った。若い女性だ。彼女は、ひとつ席を空けた隣に座るミカミさんと笑顔だけの挨拶をかわし、ブラジルの中煎りを注文した。
「あなた、お雑煮は、白味噌派? おすまし派?」
始まった。僕はうんざりした。初めてのお客様に申し訳ない気持ちにもなる。しかし彼女はきっぱりと答えた。
「断然、白味噌ですね」「そうよね!」
どうも風向きが違うようだ。今度は彼女がミカミさんに話しかけた。
「そのフェルトアクセサリー、素敵ですね」
「ありがとう。趣味でね、作ってるのよ」
「色合いがセーターとマッチしてて、すごくおしゃれ」「うれしいわぁ」
ミカミさんは、ひとしきりアクセサリー作りについてしゃべり、機嫌よくカプチーノを飲み、帰っていった。何か不思議な感じだ。するとブラジルを味わいつつ、カウンターの女性が言った。
「不思議だと、思ってますね?」いったい何者なんだ?
するとまた答えるように「わたし、占い師なんです」
「占いで、好きな雑煮がわかるんですか?」僕は思わず聞いた。
「いえ。好きな方を先に口に出すタイプだと思ったから」
「なるほど。フェルトアクセサリーは?」
「誰にでも、素敵なところ、いいところってあるでしょう? まずそれを見つけるのがわたしのやり方なんです。外見でも、内面でも、何でもいいの。お世辞じゃないから、言葉にすると相手にはちゃんと伝わるし」
「誰にでもある、いいところ、ですか」
「マスターも、きっとそういう仕事の仕方してますよね。だから此処、すごく居心地がいいもの」それだけ言うと、彼女は代金を置き帰っていった。
反省することしきり。今度ミカミさんが来た時には、僕なりに、彼女の素敵なところを探してみようと思う。

妻が作る白味噌の雑煮は美味い。だが、白味噌と言っても山吹味噌の白。
隠し味に味醂を入れるのがこつだそうだ。
ミカミさんに話したら、叱られそうだな。

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小説「カフェ・ド・C」 22. 逡巡するサンタクロース

イブの朝一番に、友人が訪ねてきた。
「土産」と、カウンターにフランスワインを置く。
「お、サンキュ」一年ぶりに会うというのに、時間は一気に中学時代に戻っている。中学時代からやけに気が合って、十代の頃よくつるんでいたツカサだ。彼は今、フランス転勤になって4年目で、毎年この時期には帰ってくる。
「それから、遅れたけど」
出産祝いとかかれた小さな包みを置いた。
「へースケが、パパになったとはな。中煎りのタンザニアを」
彼はメニューを一瞥し、変わらぬ好みの珈琲を注文した。僕も変わらず丁寧にミルを挽き、沸かし立ての湯でドリップする。マドレーヌをおまけに付けた。
「ありがとう」と、包みを受け取る。
ツカサは珈琲をゆっくりと味わい、懐かしそうにシエナのマドレーヌを見た。
「新製品のベリー風味。タンザニアとの相性ばっちりだ」
そしてツカサは、珈琲を半分飲んだところで、いつものように聞いた。
「で、タエは、元気か?」
中学時代の同級生で、カフェ・ド・C常連のタエ。
「元気すぎるくらいだよ。元気でひとりだ」 「仕事は?」
「変わらず、フリーライターで食ってる。楽しそうだよ。大きな仕事も入ってくるようになったらしい」 「そうか」
ツカサは、軽くため息をついた。ホッとしたというようなため息。
好きなら、言ってやれよ。という言葉を、毎年のように僕は飲み込んだ。僕には言えない。中2の頃、僕はタエと付き合っていた。彼女は今と変わらず、明るく活発で気さくで、そして学年で1、2を争う美人だった。タエに告白され、僕は舞い上がった。そして特に彼女が好きだったわけでもないのに、恋をしていると勘違いした。結果、タエを傷つけた。彼女には僕のそんな気持ちはお見通しで、半年でフラれた。
「へーちゃんなんか、大っ嫌い!」
ぼろぼろ涙を流す14歳のタエの顔は、今でも忘れない。
紆余曲折あり、高校の頃も、ツカサとタエと3人でよく遊んだ。タエは恋多き十代を過ごしていたが、失恋するたびに僕らを呼び出しては遊びに行った。その間、何度かツカサがタエにフラれたのも知っている。タエはツカサと付き合おうとしなかった。それは、恐かったからなんじゃないかと今になって思う。無くしたくない場所だと、僕らを思っていてくれたからなんじゃないかって。
「そうか。変わらずひとりか」
「何度か恋に、破れながらもね」
「そうか」ツカサは、また軽くため息をつく。
「あいつ、まだヘースケのことが好きなんじゃないのか?」
「まさか!」ツカサのやつ、ずっとそんなことを思っていたのか。
「それは、ありえないだろ」
そのときドアが開き、タエが入ってきた。
「あれー? ツカサじゃん!」
僕は、ずっと言えなかった言葉を、ツカサに耳打ちした。
「好きなら、言ってやれよ」

サンタクロースは、いつだって逡巡している。きみの幸せを願って。
どうぞ楽しいクリスマスを!

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小説「カフェ・ド・C」21. ユウちゃんの鼻歌

バイトのユウちゃんが鼻歌を歌っている。一見楽しそうに見えるが、そうではない。彼女はつらい時に鼻歌を歌う。3年一緒に仕事をすると、おたがいいろいろなことがわかってくる。彼女のそんな癖も僕は知っている。
「失恋しちゃいました」
笑って報告してくれたのは、一週間前。2年ほど付き合っていた彼はミュージシャンの卵で、アメリカに渡って修行を積むという。
「ついて行くって、言えませんでした。わたし」
それからも、笑顔で休まずバイトに来てくれている。
ユウちゃんには、ネット販売の豆の発送全般を頼んでいるので、水曜と木曜、そして土日と顔を合わせる機会も多い。
店で流している音楽にかき消されるほどの小さな鼻歌は、仕事の邪魔にはならない。彼女の明るい性格を知っている常連さんも多いし、初めてのお客様にだって楽しそうに働いてるようにしか見えないだろう。
しかし見ているのがつらい。そして僕には何もできない。客足が途絶えた時に、パソコンを開いて仕事する彼女のリクエストを聞き、心をこめて珈琲を淹れる。できることはそれくらいだ。
「美味しい。マスターの淹れた珈琲、ほんと美味しいなぁ」
妻の口癖を真似て、ユウちゃんは笑った。だがすぐにふっと淋しそうな顔になる。2年前、お母さんを亡くした時にもこんな風だったと思い出す。何故歌を? と、あの時には思った。しかし大学で思うようにいかず留年が決まった時に、鼻歌を歌う彼女を見て、僕は腑に落ちた。つらい気持ちを追い払うために歌っているのだと。
 
「ちわー」その時、ドアを開けたのは土日のバイト、ジュンだった。
「平日に珍しいな」ジュンは、カウンターに座った。
「はい。たまにはマスターの珈琲をゆっくり味わおうと思って」
ジュンは手を上げて、ユウちゃんに挨拶した。彼女の方が確か2つ年上だが、歳など関係なく二人はけっこう仲良くやっている。
「ユウちゃんとおなじのを」
「酸味の効いた浅煎りのエチオピアだよ?」「はい。お願いします」
「苦みもしっかり味わえるのが、好きなんじゃなかったっけ?」
ユウちゃんが仕事の手を休め、ジュンに水を出した。その途端だった。ジュンは唐突に立ち上がり、ユウちゃんをまっすぐ見た。
「僕と、付き合ってください」
ユウちゃんは、驚いた顔で何故か僕を見た。そして笑顔になった。笑顔と言うより苦笑に近い。でも作ったわけじゃない本当の笑顔。
「ごめんなさい。付き合えない」ユウちゃんは、深く礼をした。
「でも、ありがとう。嬉しかった」
ジュンは、力が抜けたようにがっくりと座った。
「あー、やっぱりダメかぁ。じゃあ、僕の失恋記念に映画だけ、付き合ってください」
ユウちゃんは、また困ったように僕を見て笑う。苦笑と言うより、今度は少し嬉しそうにも見えた。
「いいよ。映画、観に行こう」「やった!」
その後、ふたりが付き合っている様子はないが、ユウちゃんは鼻歌を歌わなくなった。がんばれ! ジュン。

時にはゆったりした心持ちで過ごしたい。古いレコードでも聴きながら。
そんな時には「カフェ・ド・C」へどうぞ。

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小説「カフェ・ド・C」 20. いい夫婦の日に

11月22日は、いい夫婦の日だそうだ。その日、久しぶりにムッシュがカフェ・ド・Cのドアをくぐった。カウンターのいつもの席に座るが元気がない。そういえば母と結婚してからひとりで珈琲を飲みに来るのは初めてだ。

「お義父さん。何にしますか?」

「ああ。たまにはカプチーノにしようかな。温まりたい気分なんだ」

ムッシュは一言も口をきかずに、カプチーノを一口飲んではため息をついた。

「あの、」と僕が声をかけたのと、

「マスター」ムッシュが、深刻な顔で言ったのとが重なった。

「聞いてほしいことがあるんだ」「何でしょうか」その真剣さに緊張する。

「彼女が、その、ちょっとおかしいんだ」「おかしい、と言うと?」

「昨日からなんだが、その」言いあぐねるムッシュに促す。

「何でも相談してくださいよ」ムッシュがうなずく。

「キスをね、してくれないんだよ」「キス、ですか」

「おはようとおやすみの挨拶に、毎日キスするんだが、急に」

「そ、それは……。風邪でもひいたんじゃないですか?」

「いや。風邪はひいてない。彼女は風邪気味だと思ったら、いつも蜂蜜入りのレモネードを飲むんだよ。わたしにも予防だと言って入れてくれてね」

「今日は母は?」「何も言わずに出かけてしまって。もう何が何だか」

マスターから聞いてくれないかと頼まれたが、いくら親子でも聞きにくい。僕はタエに電話した。タエとは中学時代からの腐れ縁で、彼女はマダムとも仲がいい。ほどなくふたり連れだって店にやって来た。
マダムはカウンターに座り、ムッシュの方を向く。

「何も、へーすけに相談しなくても」怒ったような照れたような顔だ。

「いや、すまない。しかし、どうにも心配で」

「心配って?」「君の気持ちが離れてしまったんじゃないかと」

そこでマダムは、タエと顔を見合わせて笑った。

「笑うことじゃないだろ」僕はムッシュの気持ちになって言った。

「だって」とタエ。「ただの口内炎なのに」

「口内炎?」ムッシュがマダムの顔を見る。

「広がっちゃって、すごく痛くて、皮膚科に行ってたのよ」

「言ってくれればよかったのに」確かに、と僕も思う。
しかし、マダムも真剣だ。「唇の裏が腫れてるのが、恥ずかしかったの」

女心だねぇとタエが冷やかし、マダムに睨まれた。

「小春日和だし、散歩でもしながら帰るか」「いいわね」

女心。母にそんなものがあったとは。ふたりの背中を見送りながら考えた。いくら歳をとっても、いくら仲のいい夫婦でも、気持ちがすれ違い思い悩むことはあるのだ。それでも話をすればわかりあえることも多いのかもしれないと。

「まったく、素敵なふたりだねぇ」カウンターでタエがつぶやいた。

「暖かな日差しで、ゆりかもめも幸せそうに見えるね」とムッシュ

「わたし達ほどじゃないけどね」とマダム



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小説「カフェ・ド・C」 19. ふくらむ、ふくらむ

珈琲屋をやっていて何が楽しいのかと聞かれれば、一番に思い浮かぶのは、ふくらんでいく珈琲だ。挽いた豆をドリッパーにセットし、沸かした湯を注ぐ。最初に注いだ分は、珈琲全体に広がっていく。しばしの間、それを待つ。豆が新鮮であればあるほど、珈琲は水分を吸収しながらふくらんでいく。そのふくらんでいく珈琲を見るのが、好きなのだ。
「なんて言うか、わくわくするんだよね」
出会った頃に妻に話すと、不思議そうな顔をされた。
「うーん。なんて言うか、マスターって変わってるね」
変わっていようが何だろうが、わくわくするのは、今も変わらない。珈琲豆がふくらむ。だから毎日が楽しい。
蕾がふくらむ。風船がふくらむ。夢がふくらむ。ふくらむものを見て、わくわくするのは、ちっとも変ったことじゃないと僕は思うのだが。
 
閉店間際、洋菓子シエナのシエナがドアを開けた。マドレーヌを仕入れている洋菓子屋のレイさんは、娘と店と両方にイタリアの美しい街の名前をつけた。
「ふくらまなかったよー」
袋から出したシフォンケーキは、確かにつぶれたように見える。
「どれどれ」僕は一口ちぎって口に入れた。アールグレイの香りが広がる。失敗作とは言え美味い。
「美味いよ」「わかってるよ。ふくらまないのが問題なんだよ」
シエナは口を尖らせた。サッカーばかりしているシエナにも、最近ボーイフレンドができ、自分で焼いたケーキをプレゼントしようなどいう乙女心が芽生えたようだ。一つ年下の写真部の少年は、ボールを蹴るシエナを撮らせてほしいと言ってきたという。その失敗作と愚痴は、僕が引き受けているという訳だ。
「で、パティシエ・レイは、何て?」
「力任せに混ぜすぎだって。お菓子作りには力もいるけど、繊細さがポイントだってさ。あー、どうせガサツだよー」
「なるほど。きびしい先生だな」
くるくる変わるシエナの表情に、被写体としてもガールフレンドとしても魅力的なんだろうなと思う。
「そうだ、シエナ。珈琲淹れるの見てみない?」「どうしたの? 突然」
「いいから見てみなって。ケーキがふくらむおまじないだよ」
僕は、一番新しい豆を挽き、ドリーッパーにセットした。沸かした湯を注ぐ。注いで待つ。
「わっ、ふくらんだ!」シエナが声を上げた。
「なんかわくわくするね、へーちゃん」
「わくわくするよね?」僕もうれしくなる。
「うん。シフォンケーキもふくらむような気がしてきた」
ふくらむ、ふくらむ。しぼんでいたシエナの気持ちがふくらんでいくのを感じながら、僕はふくらんだ珈琲に丁寧に湯を注いでいった。

シエナはグァテマラの中煎りをブラックで美味しそうに飲んだ
17歳 いつの間にブラックの美味しさを知ったのだろう

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小説「カフェ・ド・C」 18. 女神への片思い

日曜日、妻が三か月になる娘を連れて店に来た。忘れてきたケータイを届けてもらったのだ。「ありがとう。珈琲淹れるよ」僕はケータイを受け取り、窓際のテーブル席に座るように勧めた。バイトのユウちゃんが娘を見て妻と話している。それを見ながらゆっくりと手挽きのミルで豆を挽いた。
「マスター、子煩悩ねぇ」
カウンターに座った常連さんが僕の視線の先を見て微笑む。
しかし違うのだ。確かに娘のシュウは可愛い。でも僕が見ていたのは妻の方だ。シュウを産んでから、妻は、なんていうかびっくりするほど綺麗になった。仕事も家事も子育ても精一杯やっているし、睡眠時間だって足りてないはずなのに、疲れた様子など見せず、以前にも増して生き生きとしている。
そんな妻の変化に、しばらく僕は戸惑っていた。そしてそのうち、家に帰ると、つい妻を目で追うようになっている自分に気づいた。気づいてドキドキした。これじゃあ恋してるみたいじゃないかって。妻のことは愛してる。でも結婚して四年もたって、こんな気持ちになるのはおかしいと考え込んでしまった。だが問題は何もない。恋する相手は自分の妻なのだから。
「お待たせしました」
僕はお客様にするように珈琲を出した。新しく入荷したブラジルの中煎り。妻が好む味だということは知っている。
「美味しい。やっぱりへーちゃんの淹れる珈琲は美味しいなぁ」
妻がホッと息をつくように言った。娘はベビーカーの中で眠っている。
「ごゆっくりどうぞ」僕はカウンターに戻った。
ブラジルをのんびりと味わい、妻はカップをカウンターに下げ、ご馳走様と微笑んだ。笑顔を返すと彼女はちょっとまじめな顔をした。
「マスター」普段呼ばない呼び方をする時は、何か言いたいことがある時だ。
「何でしょう」僕は、緊張してカップを洗う手を止めた。
「娘に会いたい気持ちはわかるけど、日曜ごとにわざとケータイ忘れるのやめてほしいの」「あ、バレてた?」「とーぜん」
「ごめん」違うんだけどなぁと思いつつ、素直に謝った。
「しょうがないパパだね」と妻は笑いながら睨む。
怒った顔がまた可愛いな。そう思ってしまう自分に呆れながらも、女神への片思いは当分続きそうだと覚悟を決めた。

妻がベビーカーを押して歩いてきた銀杏並木
ベビーカーの毛布には 黄色い銀杏の葉が一枚落ちていた

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小説「カフェ・ド・C」 17. 午前11時のカールスバーグ

ムッシュとマダムのように常連さん同士がカップルになることは、これまでにも何度かあった。それはうれしいことなのだが、そのふたりに別れが訪れた時、カフェ・ド・Cは大切なお客様をふたり一時になくすことになる。別れた相手に会わないようにするために、または苦い思い出を振り返りたくなくて、自然と足が遠のいていくようだ。
しかし、人間いろいろだ。一年付き合ってひと月前に別れたという学生のふたり、オダくんとミユキちゃんは平気でカフェ・ド・Cのドアを開ける。もともと来店する曜日や時間が合っていて知り合ったのだから、バッティングする命中率も高い。ふたりはおたがい知らない者同士のように振る舞い、時にはカウンターに席ひとつ開けて座ったりもする。そんな午前11時。
「シュウちゃん、そろそろ首が座った頃かな。かわいいでしょう」
ミユキちゃんが言えば、
「お母さんの所に子猫が5匹生まれたんですってね」
オダくんが話しかけてくる。どちらにもきちんと返事を返し、珈琲を淹れることに集中する。集中しつつも緊張の糸が張り詰め、音を立ててきしんでいるのがわかる。こういうのは苦手分野だ。
その時ドアが開き、タエが入ってきた。僕の中学の同級生で常連でもある彼女は、迷わずカウンターの端に座り「ビール」と注文した。そのとたん、僕の緊張の糸はプツリと切れた。
「まだ昼前だよ。また、フラれたの?」
決してこの3人に言ってはならない言葉を投げかけてしまった。時に人は触れてはいけないと思う方向に自ら傾いてしまう。自分の意志とは別の重力がかかるかのように。この時の僕がそうだった。
「へーちゃん、ひどい。またフラれて悪かったね」
タエはいつもの通りふてくされ、肩をすくめる。
その時、オダくんとミユキちゃんは、憤慨したような顔で同時に言った。
「そうだよ。マスターひどい!」
僕は凍らせたチタンのビアカップに冷えたカールスバーグを注ぎ、タエに出して謝った。「失言でした。ごめん」
それを見て、ふたりはふたたび声を重ねた。
「マスター、同じのください」
「えっ? ふたりともこれから授業があるんじゃないの?」
「休みます」三度声を重ね、ふたりはようやく顔を見合わせた。
「なんかやけに気が合うふたりだね。これを機会に付き合っちゃえば? あ、わたしもう一杯」3人はカールスバーグで乾杯した。
「あのさ。ほんとに、そうしようか」
オダくんがミユキちゃんに気まずそうに笑いかけた。
「うん。これを機会に? 付き合っちゃおうか」
ミユキちゃんもやっぱり気まずそうに笑った。
何のことはない。ふたりは別れてからも会いたくてここに来ていたのだ。
「おーっ、カップル誕生! もう一回乾杯しなくっちゃ」
何も知らないキューピッドは、3杯目のおかわりをした。

カフェ・ド・Cには生ビールはありませんが 
いつもカールスバーグが冷えています
キンキンに冷やしたライトなこのビールはタエのお気に入りです

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小説「カフェ・ド・C」 16. グニャグニャした夢

台風が桜の葉を落としていき、ぐっと秋らしくなった午後。常連のワキさんがカフェ・ド・Cのドアを開けた。
「今朝おかしな夢見て、ぐったりしてるんだ。目の覚める奴淹れてよ」
彼はイタリアンバールでソムリエ修行中のウエイター。夜の営業しかないので午後1時にモーニングコーヒーを飲みに来ることが多い。シェフに紹介してくれて、バールで出す珈琲の豆をうちから仕入れてくれているお得意様だ。年の頃は僕と同じくらいだろうか。
「どんな夢ですか?」
寝起きの疲れた顔でカウンターに座るのはいつものことだが、確かに疲れの色が濃く見えた。
「グニャグニャしてるんだよ」「グニャグニャ、ですか?」
コロンビアの中煎りをワキさんの前に置く。美味い! と言って彼は続けた。
「たとえばドアを開けて家に入ろうとするだろ? 取っ手もドアも、グニャグニャしてて開かないんだ」
「スライムみたいな感じですかね」「そうそう」「それで?」
「ハサミで切って入ろうとした。夢だからさ、都合よくハサミがあるんだよ」
「夢ですからね」ふたり笑った。
「でもそのハサミがまた、グニャグニャなんだよ」
「それはそれは、お疲れ様。しかし、めずらしくファンタジックな夢ですね」
「これが正夢ってことは、まあないだろうな」
そうなのだ。ワキさんの夢は正夢になることが多い。ひと月ほど前にも学生時代の友人に会った夢を見たら、その晩バールに友人が現れたという。そういうことがこれまでに何度もあった。
 
週末の午後、ふたたび寝起きの顔でカウンターに座り、ワキさんは夢の話の続きを聞かせてくれた。
「何のことはなかったよ。あの晩、バールの常連さんにプレゼントをもらったんだ。それがゴムの木だったってオチだ」
「グニャグニャした夢は、ゴムの木でしたか」
ふたりで笑っていたら、カウンターで洗い物をしていたジュンが口を挟んだ。
「その常連さんって、女性ですか?」
「ああ、若くてよく食べてよく飲む女性だけど?」
「ワキさん、ゴムの木の花言葉、ご存じですか?」
「花言葉? いや、知らない」
ジュンは間を置かず答えた。「永遠の愛です」
「えっ……永遠の愛?」ワキさんは一瞬珈琲をこぼしそうになる。
その驚いた顔がちょっとうれしそうな表情に変わるのを見て、僕はジュンと顔を見合わせた。彼が今度来るときには、もしかしたら若くてよく食べてよく飲む女性を連れて来るかもしれない。残念ながらカフェ・ド・Cは珈琲屋だが。

長かった夏が終わりを告げ 
カフェ・ド・Cのある街にも秋は足元から訪れました
グニャグニャした夢は夏の疲れでしょうか

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小説「カフェ・ド・C」 15. ヒポエステスの小さな花

「ヒポエステス、咲きましたね」
常連のキジマさんが目を細めた。彼女はノンフィクションライターで取材が落ち着いた午前中に資料を抱えて珈琲を飲みに来る。
「ヒポエステス、って言うんですか? それ。観葉植物だし鉢も小さいし、正直花が咲くとは思ってなかったんですよ」
窓際に置いていある観葉植物が花をつけたのだ。
「そうね。この直径5センチの鉢で花が咲くとは、わたしも思ってなかった」
キジマさんは中煎りのドミニカをゆっくり味わいながら、花を見つめた。
「あの子のおかげかな。ほら、土日のバイト君」ジュンのことだろうか。
「わたし曜日関係なく来るでしょう? 彼がいる日はヒポエステスが入口の陽が当たるところで水をいっぱいもらっていたの、知ってるのよ」
花は小さくピンク色だ。
「連絡してあげたら?」「ジュンに、ですか?」
週末にはまたジュンはバイトに来る。それからでも遅くはないんじゃないかと思った。
「午後には、しおれると思う」「そうなんですか?」「たぶん」
メールすると、15分後、ジュンは息を切らして店に入ってきた。
「ほんとだ! 咲いてる」「かわいいよね」キジマさんもうれしそうだ。
「ここで描いてもいいですか?」ジュンはスケッチブックを出した。
「もちろん!」
キジマさんは、広げた資料をテーブルの半分までかき寄せ、ジュンはすぐに鉛筆でスケッチを始めた。ジュンは近くの美大に通う学生で店のメニューもかいてもらっている。絵は見たことはないが字に味があるのだ。
「マスター、おかわりください」
ドミニカを飲みつつ、資料ではなくジュンを見つめるキジマさんがつぶやく。
「いつかさ、君をかきたいな」ジュンには聞こえていないようだ。
キジマさんが、何年後かにジュンを取材した一冊の本を作るようになるとは、ぼくにだって誰にだってわからなかった。
ヒポエステスは、キジマさんの言う通り午後には花の命を終わらせた。変化のない毎日のようでいて小さな驚きはそこここに落ちている。キジマさんとジュンを見ていて教わった。その驚きは見ようとしている者にだけ見えるのだと。

見逃していることの多さに気づかされます ふたつ花をつけたヒポエステス

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小説「カフェ・ド・C」 14. 狼少年

カフェ・ド・Cで初めて結婚式をすることになった。結婚式と言っても15人ほどのこじんまりとしたもので簡単なお祝いパーティだ。主役はムッシュとマダム。母は彼と共に暮らすことを決めた。
「ケータリングで美味しいパーティ料理を配達してくれるところがあるんだ」
ムッシュは以前イベント関係の仕事をしていたらしく、料理の手配をした。
「シエナのレイさんが、腕によりをかけてウエディングケーキを作ってくれるのよ」マダムもうれしそうだ。
招待客は二人の友人達が五、六人ずつ。季節もいいし晴れたら窓を開け放ち気持ちのいい風を入れよう。母の幸せそうな顔に僕もついウキウキしてしまう。
 
そんなとき、再婚し山梨の田舎に移り住んだ父が、新米を送ってきた。
「初めて田植えをし、収穫した米です。届いたらその日のうちに食べてみてください」メモ用紙に丁寧な字でかいてある。
「父も幸せに暮らしてるみたいだ」
炊き立ての甘い新米を口に運び妻に言うと、彼女は不思議なものを見たような顔をした。それで僕は「幸せ」と口にすることを恐いと思わなくなっている自分に気づいた。
「そろそろ封印を解いてもいいかな」
カフェ・ド・Cの本当の名の由来をお祝いの言葉にしようと、僕は決めた。

 
式当日は秋晴れだった。マダムは白いタイトなワンピースに友人達がプレゼントしてくれたというベールのついた髪飾りをつけている。ウクレレを弾く人あり、短歌を詠む人あり、手品を披露する人あり、歌声や笑い声が絶えず明るくにぎやかなお祝いの会になった。
ケーキカットの後、僕は心をこめて珈琲を淹れ、ムッシュとマダムの席にいちばんに運んだ。
「母さん、おめでとう。初めて言うけど、カフェ・ド・CのCはフランス語でコントン。幸せって意味なんだ。ここで出会ったお二人の幸せを祈ってます」
マダムはきょとんとした顔をしたかと思ったら、突然笑い出した。
「ありがとう。でもそんな取ってつけたような嘘までつかなくても、わたし達は充分幸せよ」
ムッシュもマダムの隣でうなずいた。
「苗字、茅野さんのCだって聞いてたけど、まあ、その気持ちがうれしいよ」
 僕は返す言葉もなく、カウンターに戻り珈琲を淹れる作業に没頭した。集を抱いた妻が耳元でささやいた。
「狼少年になった気分はどう?」

秋の空にはコスモスがよく似合う ムッシュ&マダム、おめでとう!

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小説「カフェ・ド・C」 13. 触れ合う肌で

北海道の義弟からじゃがいもと南瓜が届いた。
「今日はカレーと南瓜のサラダにするね」
妻は娘を抱いて「いってらっしゃい」と言った。土曜。彼女は休日で、久しぶりに娘とゆっくり過ごせるとうれしそうだった。娘の集も二か月になり親ばかだろうとは思うが日に日にかわいくなっていく。
仕事を終えて自宅のマンションに向かう道もつい早足になった。
「ただいま」
今夜のお姫様は大きな泣き声でお出迎えだ。しかし妻を見て驚いた。集と一緒に彼女も泣いているのだ。
「どうしたの?」
めったに泣き顔など見せない妻がしゃくりあげながら、答える。
「集が、泣き止まなくて。おむつも変えたし、ミルクもあげたし、ゲップもさせたし、熱もないし、ずっと抱っこしてるのに、ぜんぜん泣き止まなくて」
そして、大粒の涙をこぼし、言葉を続ける。
「こんなに小さいうちから保育園に入れて、ママのこと怒ってるのかな。母乳だってまだ出るのにミルクに変えちゃって、嫌だよって言ってるのかな」
「ミサト」僕は妻の名をゆっくりと呼び、集を抱っこする彼女を後ろからそっと抱きしめた。「だいじょうぶだよ」
妻がこんな風に考えていることなど気づきもしなかった。おおらかな彼女のことだから何も心配いらないと思い込んでいたのだ。僕は妻を抱きしめる手に力を入れた。
「君の気持ちは、ちゃんと集に伝わってる」
妻はさらに泣き続けた。涙があふれて止まらないようだった。僕は妻の肩を抱いたままソファへと移動し、娘を抱く妻を膝にのせて抱っこするようにし、頬にキスした。
どれだけそうしていただろう。さっきまで泣いていた集が泣き止んでいる。妻と目を合わせると彼女はばつが悪そうに言った。
「ごめん」
「びっくりしたよ。君がこんなに泣き虫だったなんて、新しい発見だ」
「へーちゃんのいじわる」
ようやく妻が笑い、僕も笑った。するともうひとりの笑い声が混じった。集の笑い声だった。
(集はママが不安なのがわかったんだな。僕よりよっぽどわかってる。触れ合う肌で敏感に気持ちを感じているんだ)
「泣いたら、お腹すいちゃった。へーちゃん、カレー温めて」
新米ママは、すっきりした顔で甘えるように言った。


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小説「カフェ・ド・C」 12. シエナのシエナ

シエナという同じ町のケーキ屋から、マドレーヌとクッキーを仕入れている。本当ならケーキも置きたいところだがリスクが大きい。売れ残れば処分しなくてはならない。その点、マドレーヌは五日、クッキーは一週間の賞味期限がついている。なにより大切なのは、シエナのマドレーヌがとても美味しいということだ。
「なにしろ世界一美味しいマドレーヌを焼く店にするって付けた名前だから」
マダムが今日は、女性四人でマドレーヌと珈琲とおしゃべりを楽しんでいる。
「シエナって、イタリアの街の名前よね」
「そう。そのシエナ! シエナの中心の広場がね、貝の形になってるのよ」
「マドレーヌの形ってわけね」
「何でも素晴らしく美しい街で、ヨーロッパでパティシエの修行中にシエナを旅して同じ名前の店を出そうって決めたそうなの」
「素敵ね」「美味しいはずだわ」
シエナはシングルマザーのレイさんがパティシエで、高校二年の娘さんがいる。彼女の名前もシエナだ。
「店と娘におんなじ名前付けるかよ」
さばさばと笑って言う彼女は、サッカー少女だ。少女は「へーちゃん、水ちょうだい」と、いまだに部活帰りに立ち寄ったりもする。小さい頃から僕になついてくれていた。
今そのシエナがカウンター席に座っていることをマダムは気づいていない。短髪と黒のジャージ上下。足元には四角いエナメルバッグ。後ろ姿は少年にしか見えないだろう。だいたいマダムが会ったのはたぶんシエナが小学生の時だ。
「最近ギャップがきついんだ」シエナは、ため息をついた。
「ケーキ屋さんの娘の上に、名前がシエナちゃんだよ。可愛らしい子だろうって思うじゃん」「だね」僕はうなずく。
「で、実物見たらこれだもん」「だね」僕はまたうなずく。
「そこでうなずくかな。へーちゃん」
シエナの言葉に笑って、僕はマダムを呼んだ。
「母さん、シエナが来てるんだ」
シエナが一瞬戸惑いを見せる。さっきのマダム達の話を聞いていたのだろう。
「シエナのシエナちゃん?」
マダムは、立ち上がったシエナを上から下まで点検するように見て言った。
「姿勢がいいね。ずいぶんカッコよくなったじゃない」
シエナの表情が変わった。
「まっすぐないい目してる。これだけ美味しいマドレーヌ焼くお母さんの子は、やっぱり違うね」マダムの友人達も眩しそうにシエナを見ていた。
「ありがとうございます」
シエナはサッカー場に礼をするように深く礼をして、小さな頃のように笑い「へーちゃん、水ちょうだい」と言った。

空も家並みも美しいシエナの街

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小説「カフェ・ド・C」 11. 午後2時、デートの前に

僕はあまりおしゃべりな方じゃない。無愛想ではないと思うが、積極的にお客様に話しかけたりはしない。軽口が叩けるほど付き合いの長い常連客ならいざ知らず、初めてのお客様には美味しい珈琲を淹れ、落ち着いた時間を過ごしてもらうことに細心の注意を払っているつもりだ。そんなカフェ・ド・Cでも、お客様同士の小さなやりとりを目にすることはある。
学生だろうか、女の子がひとりで窓際の席に座った。午後二時。店はすいていて、カウンターでは僕の中学時代のクラスメイト、タエがひとり、マダムから貰い受けた黒猫がどんなに素敵に育っているかをしゃべっていた。
女の子のテーブルでは一度だけ口をつけた珈琲が冷めているし、開いた文庫本のページも進んでいない。頬杖を付き窓の外をぼんやりと眺めながら、考え事をしているのだなとわかった。ようやくふた口目の珈琲を口に運ぼうとしたその時、店の電話が鳴った。考え事から現実に引き戻されたのだろうか。女の子は珈琲を取り落しそうになり危ういところでソーサーに戻した。ソーサーにこぼれた珈琲がテーブルに少し飛び散る。僕が電話を取り珈琲豆の注文をメモしている間に、タエが勝手におしぼりを持って行った。
「あら、チュニックにも着いちゃったわね」「あっ、どうしよう」
女の子はおしぼりで薄いピンク色のチュニックの胸のあたりを拭き始めた。
「ちょっと目立っちゃうね。クリーニングすれば落ちると思うけど」
「目立ちますか?」
女の子は泣きそうな顔になる。僕はもう一本おしぼりを出した。
「これからデート?」とタエが聞く。
またまた立ち入ったことを、と思うがもう遅い。タエは中学時代から、ずうずうしいと言ってもいいくらい誰とでもフレンドリーにしゃべり、その上おせっかい焼きなのだ。
「あ、はい。三時に駅で待ち合わせてて」女の子は素直に答えた。
もうあまり時間がない。その時、するりと女の子の胸元に薄紫のスカーフが巻かれ、珈琲のしみは一瞬で見えなくなった。タエが巻いていたものだ。
「貸してあげる。その方が、顔が明るく見えるよ」
タエはカウンターに置いてあった手鏡を差し出した。女の子がそれを覗き込んでぱっと笑顔になる。
「ありがとうございます。じつは彼とケンカしてて。どうやって仲直りしようか考えてて、精一杯おしゃれしてきたのにどうしようって思って」
「じゃ、遅刻しないように走って行った方がいいよ」
女の子は、時計を見てあわてて会計を済ませたが、店を出る前に深く一礼した。考え事をしていた顔とは別人のような明るい表情になっていた。
「で、君もこれからデートじゃなかったっけ?」
「またまた立ち入ったことを」
タエは、おつりは今度でと千円札をカウンターに置きそそくさと出て行った。

栗の木のカウンターに置かれた手鏡とタエのスカーフ

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小説「カフェ・ド・C」 10. 幸せについての不本意な敗北

店の片隅に小さな本棚を置いている。
カフェ・ド・Cを始めた頃には、珈琲読本など僕自身の参考書のようなものが多かったが、七年もたつと様変わりしたのがわかる。常連のお客さんオススメの読み終えた推理小説。時間がたった忘れ物の分厚い純文学。妻が一時期ハマったイタリアンレシピの料理本。そしてマダムが置いていく猫の写真集。
そこに最近、絵本が加わった。バイトのユウちゃんが小学校の美術教師志望で、気に入った絵本を置いていく。生まれたばかりの僕の娘のためだと、わかりやすすぎる素直さが彼女の取り柄でもある。
「読んでもらいたい誰かがいるってことが、絵本選びにはものすごく重要だってわかりました。もしかしたら、絵を描くことにも通じてるかも」
その言い方に迷いがあるように感じて、僕は言った。
「先生じゃない道も考えてるの?」
ユウちゃんは、うれしそうにため息をついた。
「わかりますか? シュウちゃん見たら、何も極めていない自分が絵を教えられるとは思えなくなって」
娘には「集」と言う名をつけた。集う、と言う意味だ。笑顔を見せるようになった集は、本当にかわいい。
「大抵の大人だって、何も極めちゃいないさ。僕だって珈琲を極められるかなんてわからない」
不安なのは、大人も子供も若者も、みんな同じなのだと今ならわかる。集が生まれ、もし妻が仕事を辞めなくてはならなくなったら、この店だけで暮らしていけるのか考えた。珈琲を極めるどころか、利益重視の商売をしなくちゃならない。しかし、産休明けに仕事に復帰した妻は言った。
「珈琲の味が落ちたら、別れるから。集はわたしが育てます」
脅迫だ。その脅迫にはマダムも加担している。
「集のことはわたしに任せて、二人とも今まで通り仕事に専念してね」
妻は去年大きなプロジェクトを任されて成功し、今年もまたそのクライアントからの仕事が来たそうだ。育休を取るという選択肢さえ彼女にはなかった。
「何、弱気なこと言ってるんですか。心強い女性陣がついてるのに」
ユウちゃんの言う通りだ。
「ほんと、幸せだと思ってる」
口をついて出た言葉に、ユウちゃんがぱっと笑顔になった。
「やった!」「何?」
「マスター、幸せな時には幸せだって言わなくちゃ。幸せは口に出しても逃げてなんかいきませんよ」
ユウちゃんはICレコーダーを見せた。妻がいつも仕事で使っているものだ。
「ほんと、幸せだと思ってる」
僕の声がリピートした。不本意ながら本当に幸せそうな声だった。
カフェ・ド・Cの本棚に飾られた(?)フォトフレーム
常連客がイタリア旅行で撮ったイタリアの風景

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小説「カフェ・ド・C」 9.空想の産物

 妻のお腹にいる赤ん坊は女の子だそうだ。予定日を三日過ぎたが、娘はまだ生まれてこない。
「最初の子は、のんびりしているものよ」
 ムッシュといらしたマダムが、カウンターでアイスコーヒーを召し上がっている。妹のところに去年二人目が生まれたので、彼女の孫は三人目になるが、女の子は初めてだ。それをとても喜んでいる。
「ミサトさんによく似た美人さんになるだろうねぇ」
 ムッシュも顔をほころばせた。
 妻は昼寝をしている。真夏の暑さとお腹の重さに疲れ、夜よく眠れないらしい。仕事をしていた頃は、ベッドに入った途端寝息を立てていた彼女が、だ。
「待ち遠しいですね、新人パパさん」
 妻への陣中見舞いにと、メロンを持って来てくれたユウちゃんとジュンも話に加わる。
「生まれる前から、あまりに美人でモテすぎたら困るとか心配してるんじゃないですか。マスター」
 バイトにもすっかり慣れたジュンが軽口をたたく。
「そんなわけないだろ」
 ジュンをこつんと小突いて、赤ん坊が生まれるってすごいな、とあらためて思う。生まれる前からこんなふうに、みんなを笑顔にしてくれている。
 
 そのとき店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」 振り向きながら声をかけて、僕は息をのんだ。
「こんにちは」 笑顔をこぼし立っていたのは、ピンクのワンピースを着た五歳くらいの女の子だ。それが妻のミサトそっくりなのだ。ありえないけれど、一瞬、娘かと錯覚した。今の今まで生まれてきたらこんな子に育つのかなと空想をふくらませていた映像がそのまま現れたのだ。僕だけじゃなく、ムッシュとマダムも、ユウちゃんとジュンも、言葉を失っていた。
「ちわー」 ほどなく店に入ってきたのは、妻の弟だった。
 二十歳の時にできちゃった結婚し、今は北海道の奥さんの実家で農業をやっている。女の子は姪だった。生まれたときに顔を見て以来だから、会っても分からないはずだ。
「姉ちゃん、そろそろだって聞いたんで、これ」
 彼は大きなメロンを差し出し、ユウちゃんとジュンは肩をすくめる。そこへちょうどやって来た妻が、弟を見るなり言った。
「あんたの顔見たら、急にお腹痛くなってきちゃった」
「ひでえな、それ。そりゃ昔は心配ばっかかけてたけどさ」
 彼のおかげかどうかはわからないが、その夜、妻はぶじ娘を出産した。

珈琲の焙煎も趣味の一つという多趣味で器用なご近所さんから
アイスコーヒー用の豆をいただきました

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小説「カフェ・ド・C」 8. 玉手箱

 店の奥の棚に、忘れ物ボックスがある。半年たっても持ち主が現れない時には処分することに決めてはいるが、なかなか思い切れず箱は満杯のままだ。
 妻が出産を控えて産休に入り、時々店の手伝いと称しやってくるが、手よりも口を出すことの方が多く、忘れ物ボックスは妻の格好の餌食となった。
「これも、これも、そろそろ、処分したほうがいいんじゃない?」
 そんな夏の夕方。
「ここよ、ここ。うん、思い出した!」「本当にここなのか?」
 そんな会話をしながら店に入ってきたのは、四十代の夫婦だろうか。男性は薄い色の藍染のアロハシャツ。女性は水色のワンピースを涼しげに着ている。
「ルリコの物忘れには、散々ひどい目に会ってるからな」
「コウちゃんたら。今頃言われなくたってわかってるよ」
 ため息をつく彼に相反し、彼女はゆったりと微笑んで僕に向かって言った。
「あの、忘れ物なんですけど、このくらいの箱で紙袋に入ってて」
 彼女は、パスタ皿くらいの大きさを示した。
「いつ頃ですか?」
 忘れ物ボックス担当になったつもりの妻が口を挟んできた。
「それが……、三年くらい前に」「三年?」
 聞き返す妻の声が大きくなった。
「取っておいたりなんかしませんよね。三年もたった忘れ物を」
 彼がすまなそうに言う。でも僕は、すっかり思い出していた。
(ほんとうだったんだ、あの時しゃべっていたこと)
 彼女は、声の大きな女友達としゃべっていた。聞こうとしなくとも印象に残ってしまう会話がある。
「ルリコってば、ほんとうに忘れん坊なんだから」
「でもね、三年くらいたって、そういえばあの時! ってふいに思い出した時のうれしさは、忘れん坊にしかわからない醍醐味があるの」
 僕は店の奥の棚から「玉手箱」を持ってきた。その中のパスタ皿大の箱を入れた紙袋には、日付と一緒に「三年間保存のこと」と僕の字でかいた付箋が貼ってある。
 彼女は満面の笑みを浮かべ、お礼を言うとすぐに箱を開けた。中には藍染の男物のハンチング帽が入っていた。
「プレゼント。きょう、コウちゃんの誕生日でしょ」
 彼女が、彼の頭に帽子をのせる。
「誕生日?……そうか、すっかり忘れてた」「意外と忘れん坊だね」
 彼女の言葉に、僕らは爆笑した。アロハより濃いめに藍で染めた帽子は、三年の月日を感じさせず彼に馴染んでいた。


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小説「カフェ・ド・C」 7.一点物の一日

 小さな個展の会場に店を使ってもらうことがある。
 あくまで六人掛けのテーブルに収まる範囲の小規模な個展だ。駆け出しの陶芸家や、ガラス細工作家、彫金のアクセサリーアーティストなど、物も小さくある程度の数を並べられるようなケースに限り、相談に応じている。というのも、代々店のバイトを頼んでいるのが近くの美大の学生だからだ。今来てくれているユウちゃんもジュンもそうだし、珈琲を飲みに来てくれる学生も多い。
 なのでだいたいにおいて、卒業生達の作品が並ぶというわけだ。
 今週は、彫金のアクセサリーが並んでいる。ペンダントも指輪もブレスレットも、どれも当然一点物で逆に同じものは作れないという。
「空の雲みたいだねぇ」
 彫金アーティストの学生時代の友人でもある妻は言う。最近彼女は空の写真を撮るのに凝っている。同じ形の雲が空に浮かんでいることは、まずない。
「珈琲みたいだ」
 僕は言う。同じ豆でも、まったく同じに焙煎することはできないし、淹れることもできない。気温や湿度にも左右される。そのときどきにいちばん美味しく淹れられるようベストを尽くすしかない。
「へーちゃんらしすぎる」
 妻はひとしきり笑ってから、言葉を加えた。
「一日一日、同じ日なんかないのと一緒だねぇ」
 閉店時間にやってきた妻は、友人の作ったアクセサリーをひとつひとつ丁寧に見ていく。そして普段は言わないことを言い、小さな指輪を小指にはめた。
「買ってもいいかな? 今日の記念に」
「いいけど、何か特別なことでもあった?」
 妻は、何もないよと首を振る。
「何も特別じゃない今日の記念に、欲しくなっただけ」
 いくつもの小さな花を細工したその指輪は値が張ったが、僕は希望通り妻にプレゼントした。妻の細い小指に指輪はとてもよく似合った。
 
 それから一週間後だった。妻が言った。
「へーちゃんの赤ちゃんができた」


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小説「カフェ・ド・C」 6.デキアイ

 自分も珈琲屋だが、よく行く珈琲屋がある。
 おやじが頑固で、出場所のはっきりした、一年以内の珈琲豆しか扱わず、もちろん自家焙煎している。そのおやじに教わって始めたカフェ・ド・Cも、この夏で七年目に入った。それでもふいに、おやじの淹れた珈琲が飲みたくなる時がある。悔しいが美味い。
「ヘーちゃんの淹れた珈琲は美味しいねぇ」
 妻は、心から言ってくれる。しかし、おやじの珈琲には、かなわない。豆の配達のついでに、つい立ち寄ってしまう。
「タンザニアの浅煎りを」
「いつまでたっても、浅煎りが好みだねぇ」
 おやじは、僕が苦い珈琲より浅煎りの酸味の効いたものが好きだと知っている。苦みもしっかりと味わえなくては真の珈琲通とは呼べないと、師匠としては嘆いているわけだ。しかし、今日のおやじは、あきらかに機嫌が悪かった。
「まったくどいつもこいつも、浅煎り好みじゃ、珈琲屋なんぞやっててもおもしろくもない」
 イライラした口調で、普段言わないことまで吐き捨てるように言う。さすがに、これにはムッとした。そんなタイミングで妻からの電話が鳴った。
「ごめん。今日急な残業が入っちゃって、夕飯作る時間なさそうなの。八時過ぎには帰れると思うけど何か出来合いのお惣菜でも買っておいてくれない?」
 いいよ、という言葉はかすれ、不機嫌な声になった。不機嫌は伝染する。電話を切って軽い後悔を覚えた。
 そのとき、カウベルを鳴らし、ドアが開いた。よくここで、仕事をしている関西弁の女性コピーライターだ。
「おやっさん。アッちゃん、結婚するんやて? おめでとうさん。あ、タンザニアの浅煎りで」
 後ろ姿でミルを挽くおやじが、舌打ちしたのがわかった。
「おやじさん、めでたい話じゃないか!」
 不機嫌の理由がわかり、僕は思わず笑いだしていた。アッちゃんというのは、言うまでもなくおやじの娘だ。短大を卒業するまで、ここの看板娘だった、おやじの溺愛するひとり娘。
「何笑ってんだよ。めでたくねぇよ。まだ二十五だぞ」
 真顔で言うおやじに、僕の笑いはとまらなくなり店じゅうに伝染していった。
 さて、夕飯は出来合いで。僕は溺愛という言葉を思い浮かべながら、七時に店を閉め、スーパーへと向った。カートを軽やかに押しながら、夕食を選ぶ。イタリア風チキンのあぶり焼き、おくらと山芋のサラダ、トマトとモツァレラチーズ、蛸の刺身。奮発して、いつもは買わない値段の赤ワインまで買った。
「どうしたの、これ?」
 帰宅した妻が目を丸くしたのは、言うまでもない。僕は、ワインのコルクをゆっくりと抜きながら言った。
「おつかれさま。デキアイにしたよ」


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小説「カフェ・ドC」 5. 窓に描かれたスマイル

 このところ、イライラしている。
 原因は、新しく入ったバイトの美大生、ジュンだ。まじめだが愛想がない。分厚いメガネに、長髪をひとつに束ねていて、いつも同じような洗いざらしのシャツとジーンズはいいけれど、おそろしく仕事が遅い上に、そそっかしい。
 五条坂を割ってくれた。形あるものは壊れるとはいえ、どうして店じゅうでいちばん安定したカップをひっくり返すのか、理解に苦しむ。しかし、怒ったところで五条坂は帰ってこない。失敗は、怒らず正すのが僕のやり方だ。
「そのうち慣れるわよ。ジュン君、不器用で頑固なところが、あなたにそっくりだし」
 妻は呑気に言う。どこがいいのか、ジュンを気にいっている様子だ。だいたい、不器用で頑固って、どっちも褒め言葉じゃない。
「京都旅行の計画も立てたくなったし」
 どこまでも、彼女は前向きで、僕は苦笑しつつもうなずく。珈琲屋の僕と、広告代理店に勤める彼女。異色の取り合わせといってもいいふたりが、これまでうまくやってこられたのは、彼女が吹かせる風に流されるのがいちばんいいと、僕が知っているからだ。
 しかし、十日立ち、僕のイライラは頂点に達した。
「ジュン!」
「すいません!」
「ぼーっとしてるからだろ!」
 グラスを割ったジュンを、ついに怒鳴ってしまった。僕は彼に窓ガラスを磨くように命じ、店の外に出した。これ以上、怒りたくなかったからだ。たしかに今日は忙しかった。七人の珈琲通らしき女性客が、それぞれ違う珈琲を注文し、それを一度にださなくてはならなかったし、途切れることがなく、お客はやってきた。やっと一息ついたと思えば、これだ。
「気つけの一杯に、深煎りのエチオピアでも、淹れるか」
 そのとき僕は、何か違和感を覚えた。今日は忙しかったが、とてもスムーズに店が回っていた。ジュンがのろのろと、珈琲を運んでいたにもかかわらず。
「深煎りのエチオピアです」
 ジュンは、ひとりひとりに、珈琲の名を告げカップを置いていた。「エチオピアの方?」ではなく、「エチオピアです」と。そういえばジュンは、注文を間違えたことがない。どのお客が何を注文したかを覚えている。十八種類ある珈琲の名も、全部?  いつのまに?
 そのとき窓に、ガラス磨きのスプレーが吹きつけられた。スプレーは、ゆっくりと絵を描いていった。なつかしいスマイルマークだ。僕に笑いかけたその顔が一瞬ジュンと重なったと思ったら、笑顔の目からスーッと涙が流れた。ジュンが、ガラスを不器用に拭き始める。不器用だがジュンは、隅から隅までピカピカになるまで磨くだろう。
 僕は、エチオピアの豆をふたり分スケールで量り、手挽きのミルに入れた。彼が窓を磨き終わるまで、気つけの一杯はおあずけだ。
 


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小説「カフェ・ド・C」 4. ブラックとミルク

 運転中、細い路地で轢かれた黒猫を見た。
 夫婦だろうか、ひとまわり大きなミルク色の猫が、隣に座り込んでいる。その猫達をゆっくりと避けて、次の信号まで行くと、長いつきあいの友人から電話が鳴った。
「チョコレート、買ってきてくれない? 二日酔いなの。二日酔いにはチョコレートが効くって、言うでしょ」
 僕は、生返事をして電話を切り、両方のできごとを飲みこめないまま、スーパーの駐車場に車を停めた。
 店の定休日。その友人の家に、荷物を届ける途中だった。
ブラックとミルク、二枚の板チョコを買い、車に戻る。二枚のチョコレートを見比べると、ふいに眼がしらが熱くなった。しかし涙をこぼすまいと決め、どうにか持ちこたえる。通りすぎただけの僕などに、彼らは、涙をこぼしてほしくなどないだろう。チョコレートを買ってきてと呑気に電話してきた友人と、僕はさして変わらないのだ。
 しかし、と考える。自分のかたわれを亡くしたあのミルク色の猫は、どうやって生きていくんだろう。動かなくなっている方は、きれいな黒猫だったと思い返す。一瞬見えた死に顔は、笑っているように見えた。
 気持ちがおさまらず、友人へのやつあたりだと知りつつ、板チョコのラベルを交換した。ブラックとミルク。気づかれないかもしれないほどの、小さなやつあたりだ。
「はいよ。お待ちかねの荷物と、お見舞い」
 僕は、渡すものだけ渡すと、お茶もことわって、車に戻った。
 荷物の中身は、先月母の家で生まれた真っ白い猫だ。彼女は猫を飼いなれているから、何も説明はいらない。顔を見ると自分の猫でもないのにわけもなく淋しくなるから、いつもこうして渡してしまう。
 帰り道、その彼女からまた、電話が鳴った。
「白い猫が欲しいって言ったのに、なんで黒猫なのよ。かわいいから、このままでいいけどさ」
「そんなはずは……、」
言いかけた瞬間、道を横切る、白い子猫が見えた。入れ替わった?  ブラックとミルクが? まさか。驚きは、すぐに笑いに変わった。なんだって、入れ替わったなんて思ったんだろう。母のいたずらに決まってるじゃないか。
「きみは、じつは黒猫がほしいんだって、知ってたのさ」
僕は、笑って電話を切った。そして、ひとりつぶやいた。
「知ってたのは、僕じゃなくて母の方だけどね」
彼女は僕の中学の同級生で、僕の母とも仲がいい。
小さな黒猫が穏やかに暮らせますようにと、祈るような気持ちでゆっくりとアクセルを踏みこんだ。


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水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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