はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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きのうのお好み焼き

「きのうのお好み焼きって、美味しいよね」
お好み焼きを焼いた次の朝は、たいてい残ったお好み焼きを食べることになる。豚バラ肉をかりかりに焼いた焼きたても美味しいが、しっとりとした翌朝のお好み焼きもまた美味い。きのうの煮物も、きのうのカレーも、具に味が染みて味わい深くなっているが、きのうのお好み焼きも捨てたもんじゃない。

しかし翌朝食べるとなると、ご飯とみそ汁、漬物などと合わせてお好み焼きを食べることになる。わたし的には、お好み焼きにご飯という組み合わせは、どうにも許容しがたいのだ。神戸出身の夫は、焼きそばにもご飯を組み合わせる。関西では、お好み焼き定食などもあるという。お好み焼きにご飯の組み合わせは、普通というより当然なのだそうだ。わたしは、お好み焼きはお好み焼き、焼きそばは焼きそばだけで食べたい。炭水化物に炭水化物はないでしょう、と身体が言っているこの感じ、自分でもどうしようのない罪悪感にも似たこの違和感は、やはり東京出身だからこそのものなのだろうか。(あるリサーチによると「お好み焼きはおかずだと思わない」という東京人92%)

だが今の季節、新米が美味い。我が家では晩は晩酌をするのでご飯は食べない。炊き立ての白いご飯を食べるのは、朝だけだ。きのうのお好み焼きも捨てがたいが、新米も捨てがたい。という訳で初めて「お好み焼きにご飯」を体験した。美味だった。ソースとご飯が意外にもマッチしていた。
けど、いったい何なのだろう。抗えない強い波を、かき分けてもかき分けても前に進めないような、もがき苦しむがごときこの感覚は。
東京に生まれ育ったことは確かだが、両親ともに北海道育ちだし、いちばん長く暮らしている家は今、山梨のこの家だし、夫は神戸育ちだし、東京に固執しているところなど、これっぽっちもないと思っていたのに。

「美味しければ、どうやって食べたっていいじゃない。ふふん」
そう思って生きてきたはずだった。だけど、わたしってけっこう、杓子定規で融通の利かないカタブツだったのかな。とほほ。

ご飯は、少な目。遠慮がちにそっとよそいました。
豆腐と油揚げの味噌汁も大豆大豆そのうえ味噌も大豆だけど違和感なし。

ラーメン大好きなのに、食べると罪悪感を覚えるという友人がいます。
わたしはラーメンはだいじょうぶ。でもラーメンと餃子は炭水化物だよね。
夫とラーメン屋に行くと、たいてい餃子もオーダーします。
ひとつかふたつ分けてもらいますが、これはちょっと慣れたかな。
でもラーメンライス or 炒飯は、あり得ない。

こちらは、きのうのグリーンカレーに茄子をプラスしたもの。
カレーライスにナンは、やっぱ食べられないなあ。
米なら米、ナンならナン。なんか損してる気がしてきた(笑)

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気楽にビネグレットソース

夫からリクエストされる定番メニューのなかに、ポークソテーonビネグレットソースがある。そのリクエストの際、彼はいつも言ってくれる。
「たいへんだったら、ただのポークソテーでもいいよ」
いく種類もの野菜をみじん切りにして作るソースは、見るからに手間がかかりそうだと思うのだろう。しかし、わたしはいつも笑って請け合う。
「だいじょうぶだよ。ビネグレットソースにするね」
この手間がかかりそうに見えるソース。じつはけっこう気楽に作れるのだ。

トマト、パプリカ、玉葱、ピーマン、ニンニクを入れるのが我が家ではスタンダードなのだが、みじん切りにするのはニンニクひとかけらのみ。あとはすべて粗みじんでOKだ。この粗みじんというのが、気楽さの素。何だってそうだと思うが、完璧にやろうと思うと緊張する。しっかりみじん切りにしなくてはならない料理と粗みじんの「まっこのくらいでいっか」という料理では、緊張の度合いが違うのだ。
「美味しいね」と言い合って食べるときに思う。
突き詰めて完璧を求めるだけが、いいって訳じゃない。特に家庭のなかの仕事は、粗みじんくらいがちょうどいいのかもって。

帆立のカルパッチョ、ブロッコリーのサラダとワインの食卓。

添えてある茄子は、町内の産直野菜売り場で買った茄子。
手がきのレシピに、ロッサビヤンコとカプリスという名が。

次の日の朝食にも、余ったロッサビヤンコにソースをかけました。
目玉焼き、失敗したあ! でも胡麻油が香ばしく美味でした。

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新米の力、種の力

今年も、新米が届いた。毎年、近所の田んぼのお婆ちゃんから買っているお米。モミを突いてその日のうちに届けてくれる、ほんまもんの新米だ。
さっそく精米し、炊いて食べた。
「今年は、美味しくできたよ」とおばあちゃんが言う通り、例年にも増して甘くもっちりとしたご飯が炊きあがった。それを噛みしめるとき、至福の時というのはこういう瞬間を言うのだなとしみじみ思う。

そして、瑞々しい新米を食べると、不思議と力が湧いてくる。
以前、初めて種まきから米作りをしたという人が、言っていた。
「米って、米粒を撒いてできるんだよ。すごいよね」
一粒のお米も、種なのだ。
モミを突く前の米を土に撒けば、そこから芽が出て稲穂を揺らし米ができる。
「そりゃあ、力も湧いてくるはずだ」
生まれてこの方、いったいいく粒の米を食べたのだろう。その米がもし芽を出していたら、どのくらいの広さの田んぼになるのだろう。
身体のなかで、一粒の米が芽を出す様子を思い浮かべる。
陽の光を浴び、土の栄養とたっぷりの水を吸い、ぐんぐんと伸びていく。そして重そうに稲穂を垂らす。
「命の起源って、いまだ科学でも解明できてないんだよな」
不意に、何が不思議で何が正しくて何があり得ないのか、判らなくなった。

新米、炊き立て、つやつや、もちもちです。

夜は晩酌をするのでご飯を食べないのですが、特別に炊きました。
根菜たっぷりの豚汁と、大根と鶏肉の煮物、小松菜と鶏の辛し和え。

炊いた残りは、おむすびにして一人ランチに。

玄米で1年分、田んぼのお婆ちゃんから買っています。
よく見ると、まだ緑がかった色をした米粒もあります。

自動精米機に、精米しに行きました。30kg300円です。

町内の田んぼは今、稲刈りを済ませた田んぼとこれからの田んぼが、
入り混じっている風景です。

稲刈りを済ませ、天日干しをしている田んぼもあります。
干してからも米は稲の栄養を吸い、成長していくそうです。
お米を干すために、木製や竹、金属で組み立てたものを、
山梨では「牛」と呼ぶそうですが「馬」と呼ぶ地方もあるとか。

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クレソンを買いに

車で30分ほどの市内は大泉町のスーパー『ひまわり市場』に、たまに足を伸ばすようになった。クレソンを買いに行くときに限り、である。
いつも行くスーパーで売っているクレソンは、少量で高価、鮮度もすごく新鮮とは言えない。それが偶然立ち寄ったときに『ひまわり市場』の売り場に並んでいたクレソンが、瑞々しく束も大きかったのだ。それ以来、クレソンが重要な脇役となる蛸の香味サラダを作るときにのみ、ちょっとだけ遠い『ひまわり市場』に出かけるようになった。

『ひまわり市場』には、市内の野菜が数多く直販されているほか、山梨県産の肉や魚まで並んでいた。建物の外見が地味で、チェーン店でもないのに流通が充実していることに驚く。クレジットカードは使えないし値段が高いものも多いが、直販野菜などは新鮮で安価だ。買いだめなどではなく、必要なものを少しだけ買い、散策するように歩くのが楽しい。

「クレソン買いに、行ってくるね」
夫にそう言い置き、車を走らせるとき、いつもとは違う気分になる。「買い出し」というより「おつかい」に行く感じ。バスケットを持って森を歩く赤ずきんのような気分、というのは大袈裟だろうか。
たまに違う店に行くと、新しい発見もあるし気分転換にもなる。「いつもの」に慣れ過ぎて「いつもと違うもの」に手を伸ばすことが億劫になっていた自分に気づく。そういうときに限って、ふと手にした「いつもと違うもの」に小さな輝きを見つけられたりするものだ。最初に出会ったクレソンの瑞々しさは、そんな小さな輝きを放っていた。
クレソンをたっぷりと籠に入れ散策する『ひまわり市場』では、赤い頭巾を被っていったところで狼に食べられる心配もないしね。

外見から、産直野菜の店くらいの規模かと思いきや、
しっかりお酒も売っている品揃えのいいスーパーでした。

大皿に、3束分のクレソンをたっぷりと載せた蛸の香味サラダ。
なかには白髪葱、セロリ、大葉、生姜の千切りも入っています。
柚子ポンで味つけし食卓に出してから、熱い胡麻油をジュッとかけます。

ふるさと納税でいただいた陸前高田の炙り蛸のお刺身で作りました。
わたしも夫も、このサラダが大好き。ふたりで完食です。

一緒に買った、市内の白州町で作ったという素朴な味わいの
ウインナーを入れて、スペイン風オムレツも焼きました。

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キャベツのバター炒め考

キャベツのバター炒めを作るたび、思い出すことがある。
以前住んでいた川崎で、ママ友が言っていた話だ。
「今日は、キャベツのバター炒めだから、楽ちんなんだ」
夕飯のおかずのことである。
彼女の旦那様はキャベツのバター炒めが大好きで、それを食べるときには他のおかずは食べたくないのだそうだ。子どもが小さいうちは、子ども用の食事と夫用の酒の肴を別々に用意することも多く、ひと手間もふた手間も省けると、彼女は喜んでいた。
家庭での食卓模様はそれぞれで、何が正解ということはない。ただ、我が家ではキャベツのバター炒めが主菜になることはなく、その話は驚きとともに記憶され、頭の片隅に居座ることとなった。

さて。その記憶には、思いがけない効能があった。
忙しいなかキッチンに立つとき、キャベツを炒めるとホッとするのだ。
「これだけだっていいんだよ」
キャベツのバター炒めは、いつもそう言ってくれる。
そして、わたしは思う。
「これだけだっていいんだけれど、他にもおかずを作ろうかな」と。
子育てで忙しい日々、キャベツのバター炒めに何度救われたことかと、今もフライパンでしんなりしていくキャベツにホッとした心持ちになる。
こうしなくちゃと思い込み過ぎて自分自身をがんじがらめにしていた頃を、なつかしく思い出しつつ。

キャベツのうっすら緑が、食卓に彩りを添えます。

あり合わせですが、ちょっと豪華になった日曜のランチ。
冷凍しておいた栗ご飯と、茄子の胡麻油炒めと茗荷の味噌汁、
カマスと鯵の干物を半分こして、バーベキューの残りの帆立を焼き、
前日の南瓜の煮物と、いただき物のゴーヤの佃煮も出しました。

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おばんざいの木の芽

東京で、友人とランチした。ゆったり和食だ。
野菜がいっぱい食べられそうだと「おばんざい膳」を選んだ。イメージ通り、里芋の煮物やセリのお浸し、オクラ味噌、切り干し大根の煮物、牛蒡と白滝のきんぴらなど、いく種類もの野菜を楽しめた。
シルバーウィーク前半、バーベキューをし、自分でも信じられないほど肉を食べた。身体じゅうにパワーがみなぎり、やっぱり肉を食べなくっちゃと思った。しかしそれから、野菜が恋しい季節となったのだ。身体は、自然と必要なものを欲するものなのである。

そのおばんざいの里芋の煮物に、木の芽が載せてあった。木の芽は新芽でやわらかく香りがよかった。
「庭の木の芽、山椒の葉っぱは、もうすっかり硬くなっちゃったのに」
こうして季節を問わず、作っている人がいるんだなと、つんとした香りを楽しみつつ感心した。
普段は野菜売り場を歩き、冬でもトマトや胡瓜が買えることに違和感さえ持たない。だが、庭の木となるとぐんと身近で、旬の季節もはっきりと判り、こうして驚かされたのだ。知っていながら忘れていることの多いこと。
そう考えてやっと、里芋も、大根も、牛蒡も、オクラも、セリも、いいものを作ろうと丹精込めている作り手がいるのだと思い出す。

京都のおばんざいは、お番菜とかくのが一般的で、番の字には「常用、粗品を示す」意味があるらしい。普段のおかずということなのだろう。
久しぶりに目にした「おばんざい」という言葉に、その味に、普段のおかずにも、もっと心を配ろうと思った。素材ひとつひとつにも、心を寄せつつ。

冷奴が最初に出てきました。粗塩でいただきました。

お漬物3種類とちりめん雑魚は、おかわり自由。

「おばんざい」という名の通りのおかず。厚焼き卵はちょっと甘め。

赤出汁の具、大根や牛蒡が大きい! 煮ものくらいの大きさでした。
今度やってみよう。と新しい風を食卓に吹かせるのも外食のいいところ。

ご飯はもちもち。もう新米だったのかなあ。

丸の内オアゾ6階『蔵人厨ねのひ』でのランチでした。

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ほおずき、鬼灯、フルーツホオズキ

いつもは行かないスーパーで、フルーツホオズキが売っているのを見かけた。以前、寿司屋でデザートにと出され口にしたことがあり、不思議な美味しさという印象だったので目を留めたのだ。見れば、血中コレステロールを下げ動脈硬化や脂肪肝の予防効果大のスーパーフードとある。試しに買ってみた。

「珍しいでしょ。身体にいいらしいよ」
シルバーウィークに遊びに来た夫の友人と夫に出す。ふたりとも、お酒は好きだけれど身体のあれこれが気になるお歳頃。味も珍しいが効能の方に魅かれているようにも見えた。トロピカルな甘さという表現が、曖昧なようで的を得ている。瑞々しいがトマトほどの水分はなく、実はしっかりして甘酸っぱい。香りにはパパイヤやパイナップルを連想した。

調べてみると、最近注目のフルーツらしい。名前がたくさんある。
フルーツホオズキのほか「ストロベリートマト」「ほおずきトマト」「オレンジチェリー」など。「恋どろぼう」「太陽の子」と名づけ販売している生産者さんもいるようだ。英語でほおずきは 「ground cherry」畑のサクランボ 「Chinese lantern」中国のランタン「husk tomato」殻つきトマトなど、やはり似たような呼ばれ方をしている。ほおずきの漢字は「鬼灯」赤く怪しげな提灯の意味。中国のランタンとイメージは同じだ。そのほか「summer cherry」「golden berry」などと呼ぶ国もあるそうだ。

新しく生まれたフルーツ。あちらこちらで名づけ親がいて、様々な呼ばれ方をしているのがおもしろい。子どもが生まれれば家族が名前をつけるけれど、フルーツホオズキに名前をつけた生産者さんも、大切に育てた子どもの名前を考えるような気持ちだったのかなと想像する。どっちかというと、箒星を見つけた人が名前を考えるのと近いものがあるかも知れない。
個人的には、鬼灯という漢字が趣があって好きだな。わたしだったら、何て名前をつけるだろう。そんなことを考えつつ、黄色くまあるい実を味わった。

市内は大泉町の農場チュトワで作ったという、フルーツホオズキ。
もっと入ってたんだけど、味見後に写真を撮りました。

実を包んだ殻の形に、味がありますね。

まん丸の実は、薄い黄色をしています。

トロピカルサラダということで、アボカド&トマトサラダにしました。
これ、すごく美味しかった! いくつでも食べられそう。

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熱い珈琲が美味しい季節

夏の間、珈琲をドリップすることはなかった。
アイス珈琲は、インスタントで済ませている。ネスカフェのゴールドブレンドが、インスタント珈琲のなかでいちばん好きだ。簡単で喉を潤してくれるアイス珈琲に、汗にまみれた夏の日、癒されたことは数知れない。
久しぶりに淹れた、夏を茶筒(珈琲豆用)で過ごした豆の珈琲は、確実に新鮮さを失っている許容しがたい味がした。珈琲は、生物なのである。酸化してしまったことは明らかで、残念だけれど新しい豆を買うことにした。

焙煎したての豆を購入し、ミルで挽く。挽く手に伝わってくる感触も、古い豆とは違っている。湯を落とした瞬間に広がる香りも、全く違う。カップを鼻先に近づけたときにくすぐられるような香ばしさも、口に含んだときのやわらかい酸味と苦みも、新鮮さに満ち満ちている。
ひと口飲んで、ほーっとため息をついたと思ったら、
「美味しい」
ため息と一緒に、言葉がこぼれ落ちた。いつになく、ホッとした気持ちになったのだ。そんなとき、言葉というものは自然にこぼれるものなのだろう。
熱い珈琲が美味しい季節が、ふたたび巡ってきた。
秋。読書の秋。芸術の秋。物思いにふける秋。珈琲の香りが、もっとも似合う季節かも知れない。

封を切ったばかりは、キッチンいっぱいにコーヒーの香りが広がります。
いつもの珈琲問屋で、目の前で焙煎してもらって購入しました。

たまには違うカップにしようかな。右のカップは、何年か前の誕生日に、
夫に貰ったものです。森下慎吾ちゃん作。

欠けてしまったところも、慎吾ちゃんに金継ぎしてもらいました。

煎りたて挽きたての珈琲は、膨らむなあ。いい香り。

やっぱり焙煎したての珈琲へのこだわりは、捨てられないなあ。
さて。珈琲を入れてから、まず最初にすることは何でしょう?
答 → キッチンの電気を消す。ここまでが一つの作業になっています。

トイレの写真で失礼します。消臭剤代わりに古い珈琲豆を置きました。

庭のアップルミントも、消臭剤代わりによく飾ります。

気が向いたときにお香を焚きます。それだけで消臭剤はいりません。

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庭の栗の栗ご飯

週末の土曜、庭の栗を収穫した。豊作である。
日曜の朝食に、栗ご飯を炊こうということになった。仕込みをするのは夜だ。
「一緒に剥くよ」と言ってくれた夫だが、夕方ご近所さん宅で飲み、酔っぱらって帰ってきた。鬼皮は栗剥き器で剥いてあったので、あとは渋皮を包丁で剥くのみ。
「酔ってるんでしょ。包丁持つのは危ないよ」
そう言って、彼の申し出を退けた。
夕食後、テレビを観ながらのんびりと栗を剥く。大粒の栗だったので、ふたり分の2合なら12個もあればいい。手を傷めることもなく、特に負担に感じもせずに剥けた。

だが翌朝炊きあがった栗ご飯を見て、ある疑問が浮かんだ。
夕べは、彼がビール持参でご近所さん宅に行ったので、わたしもキッチンドリンカーよろしくビールを空けて料理していた。そして風呂上りにまた1杯。夕食時にまた1杯。夫が開けたワインまでともに美味しく飲んだ。
「自分だって、じゅうぶん酔っぱらってたじゃん」
包丁を使い慣れているという自負もあったかと思うが、夫には危ないと言っておきながら、自分の状況は見えていなかったのだろう。

しかしそれ以上に、自分のことならなんとかできるという気持ちがあったのだと思う。夫が怪我をした場合、自分には判らない痛みや感情やそれに付随する諸々のことが発生し、わたしにはそれを把握することができない。そのことへの不安の方が大きかったのだ。
幽霊だって、どんなものであるか判らないからこそ、怖いのだ。
「わたしって、案外、臆病なのかも知れないな」
ほっくり炊けた栗ご飯に、自分自身の知らなかった側面を見た気がした。

ドングリが小さい訳じゃなくて、栗が大粒なんです。

炊けたー。お釜のなかでも、栗が粒の大きさを主張しています。

なめこ、若芽、油揚げ、大根に茗荷の味噌汁、塩鮭、モヤシとニラのナムル。
そして栗ご飯。ちょっと贅沢な日曜の朝食です。

甘い! ほっくほく。←ありきたりな表現だなあ。でもそうなんだもん。

ご近所さんに栗ご飯を持っていくと、カボスに変身しました。

夫が、薪ストーブ作業用の分厚い手袋で剥いたイガ残骸。

栗の木には、収穫後もまだ青い実が残っています。

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10分どん兵衛と無花果のお吸い物

10分どん兵衛が話題になっているという記事を読み、なるほどと納得した。
お湯を注いで5分待つのが定番のカップうどんだが、10分置くことで麺が汁を吸い、ほどよく柔らかくなるという。冷めることはないが、猫舌にはちょうどいい熱さで食べられるということだ。
製造元の日清は謝罪文を発表した。そこには世の中の多様性を見抜けなかったことを深く反省とある。5分にこだわり過ぎていたと。こうして食べるべき、という縛りからどん兵衛は抜け出したのだ。売り上げもアップしたという。
わたしも見習って、最近ハマっているカップ麺のフォーの食べ方を変えてみた。時間を長くするのではない。3分はフォーにはちょうどいいと思う。しかし食べるたびに口のなかを火傷するのだ。変えたのは、出来上がってからカップのまま食べるのではなく、器に移す。ザッツオール。それだけで、火傷せずに美味しく食べられるようになった。固定観念に縛られていては、自らがもっとも楽しめるカップ麺の食べ方にもたどり着けないのだ。
毎日の食卓のなかにもそういう縛り、けっこうあるんじゃないかな。

そんなことを考えていた折り、無花果をいただいた。
無花果といえば、冷やして生で食べるほか、コンポートやジャム、ヨーグルトに混ぜるのもスタンダードだ。しかし、いただいたその日にとんぼちゃんの日記でとても斬新な食べ方を知った。無花果のお吸い物。作り方も簡単だ。お吸い物の出汁に無花果を入れるだけ。さっそく作ってみたら、これが美味い。味噌汁にプチトマトを入れて食べることを知ったとき以来の感動だった。

こうしなくちゃ、こうすべき、これはない。そう決めつけていたら、見逃しちゃうものもあるだろうし、出会えないものも、たぶんある。
「10分どん兵衛と無花果のお吸い物」
なんとなく口にすると、そんな縛りを解く呪文のような気がした。

無花果の甘さはやわらかい。甘いものが苦手でも楽しめます。

無花果の木、初めて見ました。木が次々風船を膨らましているみたい。

白だしと昆布を入れて温めただけの汁に少し浸けて温めて。
やってみたら、癖になる美味しさ。

無花果と同じ方にいただいたミニというには大きいトマトを、
味噌汁に入れて。酸っぱさと味噌と出汁のマッチング。

最近ハマってるフォー。猫舌のわたしには、ちょうどいい熱さに。
カップのまま食べなくっても、いいんだよ。

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素材の旨みを味わうために

ご近所から野菜をいただくときには、これでもかというほどの量をいただく。トマト、トマト、トマト。胡瓜、胡瓜、胡瓜。ゴーヤ、ゴーヤ、ゴーヤ。ズッキーニ、茄子、茄子、茄子、ピーマン、ピーマンだ。
生で食べるほか、トマトはお浸しやピクルス、胡瓜は浅漬けにする。
ゴーヤはチャンプルーで食べることが多いが、食べるのが追いつかないほどいただく。他の素材で量を増やすとますます食べられない。なので、ゴーヤだけ消費するためにナムルを作った。これが美味い。ゴーヤを思う存分味わえる。初めて食べたときには抵抗があったゴーヤの苦みも、今ではそれを旨みと捉えられるほどに、すっかり馴染みの味となっていた。
家庭菜園で採れた無農薬のゴーヤ。素材がいいのだから、シンプルに味わうのがいちばん。凝った料理もいいけれど、素材そのものの旨みを味わうのもいいなと再認識。朝に夕にナムルを楽しんでいる。

素材そのものを味わう料理って、けっこうある。刺身。魚の塩焼き。焼き鳥。青菜のお浸し。じゃがバター。そう言えば、新米はそのままでも美味しくて、古米をおかずに新米を食べるなんて話も聞いたことがある。冷奴も、豆腐料理のなかではシンプルに素材を味わえる料理だろう。
先日、豆腐売り場でおもしろいものを見つけた。『マスカルポーネのようなナチュラルとうふ』エクストラバージンオリーブオイルがついていて、それをかけて食べるという。食べてみると、これがまた美味かった。キメの細かい木綿寄りのしっかりした豆腐に、フルーティなバージンオイルがぴったり合う。旨みの濃い豆腐と新鮮なオイルだからこそ実現する味だ。

素材の旨みを引き出すためには、素材自体の新鮮さ、美味しさだけではなく、調味料の良しあしも大切なのだなと、これもまた再認識したのだった。

おすそわけもしたんだけど、まだこんなに。2本分ナムルにしました。

緑鮮やかなシャキシャキした茹で加減が、好きです。茹で時間15秒。
すりおろしニンニク、塩、砂糖、酢、胡麻油、粗挽き黒胡椒で味つけして。
ここでも、新鮮な生ニンニクと太香胡麻油の旨みがキーになっています。

スイーツみたいな包装。相模屋さん、いろいろ出しています。

中には、エクストラバージンオリーブオイルとスプーンも。

オリーブオイルの旨みだけで、醤油も塩もいりません。

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ビールは、ゆっくり味わって

東京本社近くの神田の地ビールハウス『蔵くら』で、樽生ビールを楽しんだ。
樽生ビールは12種類もあり、メニューには、ライトなものから重みのあるものへと順番に並んでいる。ビールの絵に色がついていて、薄い黄色から、琥珀色へと進み、レッドビールは赤っぽく、黒に近い色のものもあった。
わたしはライトビール派で、一番上にある薄い黄色の伊予柑ホワイトから、夫は重みのある方が好きなようで、真ん中より重めなペールエールをオーダーした。地ビール屋さんだけあって、肴もビールにぴったりで、そのうえお洒落で凝っている。一味違うとはこのことである。

時間もビールの種類も、ゆっくりと重いほうへと流れていく。
「ビールは、ゆっくり味わって」
これが、最近のわたしの標語なのだ。

ひと月前ほどだろうか。たまに飲みに行く友人達5人とベルギービールの店で飲んでいた。やはりビールがいく種類もあり、うれしくなってばんばん飲んだ。そのとき、気の知れた友人の一人に言われたのだ。
「弱いんだから、もういい加減やめときな」
ハッとした。そうか。自分は酒に強いと思っていたのだが、その時代はもう過ぎ去っていたのだ。歳をとったと実感することが日々増えているくせに、酒に関してはすっかり自分を過信していた。昨日まですいすい歩いていた場所で突然つまづいたようなショックが、ベルギービールの酔いとともに身体を駆け巡る。そう言えば最近富に、彼女達には酔っぱらい過ぎて迷惑をかけることが多くなったと思い至り、さらに酔っていったのだった。

それから、ビールの飲み方を考えるようになった。
「ビールは、ゆっくり味わって」
ビールに限らず、何事もゆっくりと味わうべき年齢になっていたのである。
えっ? 気づくのが遅すぎるって? ほんと、これまでご迷惑をかけた方々、すみません。懲りずに一緒に飲みに行きましょう。ぜひ。

フルーティライトな伊予柑ホワイト(愛媛 梅錦ビール)

わーい! 生ビールがこんなにいっぱいあるー。樽生12種類。

夫は、重めのペールエール(長野 志賀高原ビール)
わたしは、ライトなベイビーブロンドミヤマ(長野 志賀高原ビール)
茹で鶏は、山葵、ポン酢、塩の三種類で楽しみました。

ゴールデンエール(神奈川 湘南ビール)グラスが違うと雰囲気もがらり。
肴は、鴨のハム。粗挽き黒胡椒が効いていました。

脱皮したての海老唐揚げ。ビールにぴったりです。

「〆にポテトフライはないんじゃない?」と、夫に呆れられました。
「だって、食べたくなったんだもん」スイートチリソースいけるー。

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重なるときは重なる 山椒編

山椒が手をつないで、仲良くやってきた。というのは、もちろん比喩だ。
福井のお土産にと、天日干し粉山椒をいただいた。次に有馬温泉土産にと、ちりめん山椒をいただいた。そして久しぶりに行った店で、欲しかったガンラー(山椒入りの唐辛子調味料)を見つけて購入した。
わーい! 山椒三昧だ。山椒が重なる分には、文句はない。

重なるときは重なるとはよく言うが、悪いことは重なって起きるという意味で使われることが多いように思う。
我が家でも何年か前に、事故や怪我が続いたことがあった。そのときには、どうしてこうも悪いことばっかりと思ったが、今落ち着いて考えるとひとくくりにするような出来事ではなかったのだと判る。ひとつひとつの出来事に向き合い、対処していくほかないのだ。
何かが続く不思議は、人間が解明できない場所にある波のようなものが起こすことなのかも知れないが、それを受け止めていくのは人間なのだから。

ということで、それぞれの山椒をひとくくりにすることなく楽しもうと思う。粉山椒も、ちりめん山椒も、ガンラーも、風味も旨みもそれぞれなのだ。

鰈の煮つけにぴったりだった、天日干し粉山椒。
ちっとも辛くなく、ほんのりした香りを楽しめます。

有馬温泉の山椒屋さん『山椒彩家』のちりめん山椒。
神戸といえば小女子の釘煮だと思っていましたが、ちりめんも美味し。

『雲吞好』で購入したガンラーです。中華に重宝しそう。

我が家に常備している四川赤山椒のミルと『一休堂』の京七味。
京七味、山椒の味がほかの七味に比べて強いところが好きなんです。

庭では、山椒の実が真っ赤に染まっていました。

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トマトが赤くなると

トマトが赤くなると、医者が青くなる。
そんな諺が、ヨーロッパにはあるそうだ。
夏にトマトを食べれば、医者いらずという意味だろう。それだけ栄養価が高いということか。まさに栄養満点と、自らアピールしているようなトマトをいただいた。プチプチトマトだが、枝に鈴生りになっている。捥ぐと、まだまだ枝にくっついていたかったんですとでも言うかのように、ぷちっとはじける。そのまま口に入れると。甘い。甘いが、青臭いような野菜の味がしっかり残っている。つんと葉の、茎の匂いもする。その匂いは土の匂いとも通じている。

小学校のときの仲良しが、八百屋の娘だった。
東京でも畑や林の多い不便な地区で、彼女のお父さんは、軽トラックで野菜を売って回っていた。今でも覚えているのは、近所の意地悪婆さん(笑)と八百屋さんが口論していたシーンだ。
「トマトはね、青い方が美味しいんだよ」とお婆さん。
「いや、赤く熟れたトマトの方が、そりゃあ美味いでしょう」と八百屋さん。
「あんたは赤い方を売りたいだろうよ。売れ残ったら腐っちまうからね」
「いやいや、そういうことを言っているんじゃあなくって」
「そういうことだろうよ」

お婆さん、どうして八百屋さんに意地悪するんだろう。
子ども心に思ったのは、そんな当たり前のことで、トマトが歩いて行く先の道は見えなかった。
今は思う。青いトマトを買い、熟れるまで常温で置いておくもよし、すぐにかぶりつくなら、真っ赤に熟れたトマトを買うもよし。
ただ、もう子どもじゃない、いい大人になったわたしが、あのときの二人の前に立ったとしても、果たしてそんなことが言えるのだろうか。
思い出すうちに、あのときには判らなかったが、お婆さんと八百屋さんが、半ば楽しみまじりに口論していたようにも思えてくる。
お二人とも、わたしの親ほどのお歳だと思うけれど、お元気なのかな。

枝についているだけなのに、趣きがありますね〜。

たらふく食べてからピクルスにしました。来週も楽しめそうです。

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グリーンカレーと生姜の皮

日曜のランチに、タイ風グリーンカレーを作った。
ルーからすべて作ったのは初めてだ。こぶみかんの葉っぱは手に入らなかったし、レモングラスの代用にレモンバームを使ったが、なかなかに美味しくできたので、定番メニューに組み込みたいと思っている。

さて。普段あまり使わない食材もあったが、そのなかでいちばん違和感を覚えたのが、生姜の皮だった。レシピに「皮つき生姜」とはっきりあったので、皮を剥かずに入れたのだが、わたしは普段、生姜の皮は必ず剥いている。
若い頃読んだエッセイ本に「大根の皮剥くバカ、生姜の皮剥かぬバカ」と八百屋さんに教えてもらったとあるのを読んでからだ。根拠の記載はなかったが、そして大根の皮はその後も相変わらず剥いていたのだが、生姜の皮だけは剥かなくてはならないものだと一生懸命剥いていた。
「皮、剥かないんだー」
違和感があったので、調べてみた。するとなんと、こんな諺が出てきた。
「大根の皮とらぬ阿呆、生姜の皮とる阿呆」
大根は皮を剥かないと味がしみにくいし、生姜は皮をむいてしまうと香りや栄養が一番多く含まれる部分を捨てることになる。状況に応じて適切な行動ができなければだめだということ、とある。
「逆じゃん! 全くもう、わたしったら」
呆れ果て、これまで剥いて捨ててきた生姜の皮達への罪の意識で、胸がいっぱいになった。まさに生姜の皮とる阿呆である。
かかれたことをそのまま鵜呑みにしたから、こういうことになったのだ。ひとつひとつの言葉の意味を考え、調べ、理解しなくては。

初めてのグリーンカレーは、美味しかったが辛さがイマイチだった。
青唐辛子に「激辛」とかかれていたので控えめにしたのだ。激辛青唐辛子についても、調べてみよう。

パクチーたっぷり、青唐辛子、レモンバーム、ライムの皮、ニンニク、
皮つきの生姜と、ナンプラー、オリーブオイル、酒を混ぜ合わせて、
グリーンペーストを、作りました。

ほぼ完成図。右上に写っているのが、レモンバームの茎です。
ライムの皮で代用したこぶみかんの葉の香り代わりにレモンも搾って。

器によそってから、粗挽き黒胡椒をかけました。
うーん、クリーミー!

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小人さんが作ったトマトのお浸し

我が家には、たまに小人さんがやってくる。
正直者の靴屋を助けたことで知られる小人達である。
「あ、洗い物してくれたんだ?」
朝起きて夫に言うと、俺、やってないよと言う。小人さんである。
「あれ? いつの間にか、編みかけのバッグ、こんなに編めてる」
夫婦ふたり暮らし。もちろん夫ではない。小人さんである。
「うそ! メール打った覚えないのに、返事してある」
小人さんである。

昨日の朝も、小人さんが作ったトマトのお浸しが、冷蔵庫に入っていた。
いただいたトマトの皮が硬く、どう料理しようかと考えていたのだが、綺麗に湯剥きした大小のトマトが、丼ぶり鉢のなかで出汁つゆに浸かっている。なかなかに美味だった。

料理や洗い物はいいのだが、小人さん達には、パソコンやケータイを触らないように言ってある。しかし、いたずらしたくなる夜があるらしい。これにはほとほと困っている。
グリム童話に登場する正直者の靴屋は、ラストその正体を知り、小人達にお礼をする。裸の彼らに、洋服と靴をプレゼントしたのだ。裸じゃなくなった小人達は、喜んで出ていき二度と帰ってくることはなかった。
「小人さん達に、服、プレゼントしようかな」
いたずらがひどくなったら、考えなくては。
あなたのお家には、小人さん、来たことありませんか?

トマトのやわらかい赤に、和みます。よーく冷えていました。

昨日の朝ご飯です。胡瓜もいっぱいいただいたので毎日食べています。
お味噌汁の茗荷は、庭で収穫しました。いい季節ですね。

居間から、2階と吹き抜けの天井を見上げて。
誰もいないはずの2階から音がする、なーんてことがよくあります。

わたしにだけ聞こえる訳じゃ、ありません。
子ども達も、同じことをよく言っていました。
小人さんの姿は見たことありませんが、音がした時に声をかけています。
「パソコン、いたずらしないでね~!」

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いただきもの

川釣りが趣味のご近所さんに、鮎をいただいた。
ついさっきまで、川を泳いでいた鮎だ。イタリアンでワインの食卓に、鮎の塩焼きが加わり豪華な夕食となった。

野菜をいただくことが多いこの季節、植物の生命力というモノを身近に感じる季節でもある。
「どんどん大きくなっちゃって、困ってるんだ」
そう言ってゴーヤや、胡瓜、ズッキーニなどが届く。
しかし頭のついた魚には、さらに「命」というモノを強く感じる。
鮎は、友釣りという独特の方法で釣るのだそうだ。おとりの鮎を泳がせ、そこにテリトリーを守ろうとする鮎が攻撃してきたところを、引っ掛けて釣るらしい。鮎の性質を利用した釣りだ。そこには鮎の、生活の場所を守り生きていこうという強い意志が感じられる。その命を、鮎の意志や、生命のパワーまでもを、人がいただいているのだ。

普段は考えることなく肉や魚を口にしているけれど、鮎を食べ「命」をいただいているのだということを思い出した。ご近所さんからのいただきもの。そして川から、地球からのいただきものに感謝しつつ、残さず美味しく味わった。

ゴーヤにズッキーニにトマト。いっぱいいただきました。

これが、鮎です。綺麗です。

さばかずに、ただ塩を振って焼いただけだけど、風味が濃い!

ズッキーニは、オリーブオイルで焼いて塩胡椒しました。
生姜を入れて浅漬けにしても、美味しいんですよ。

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知ることでさらに知る

久しぶりに行ったヨガ教室で、歳若い先生と話した。
「最近スポーツ選手とか見ると、顔よりもまず姿勢に目がいくようになったんですよね」と、わたし。
「あ、それ判ります。わたしも、街歩いてても、よくすれ違う人の姿勢チェックしちゃうんですよ」と、先生。
姿勢矯正に重点を置いたヨガ「ひめトレ」に通い始めて3カ月。ほんの少しだが姿勢もよくなり、正しい姿勢がどういうものなのかも教わった。背骨と肩甲骨の間が、指3本分が理想なのだそうだ。そんなこともあり、鏡を見ても姿勢、道行く人を見ても姿勢に目がいくようになっているらしい。人を見ると、まず顔に目がいくのが自然だと思うから、余計におもしろく感じる。正しい姿勢を知り、興味を持つことで、自分自身の視点が変わっていたのだ。

また、台北の旅から帰って来て。
「あ、このいつも飲んでる烏龍茶、台湾産だった!」
夫に言うと、呆れられた。
「台湾銘茶って、しっかりかいてあるじゃん。知らなかったの?」
この夏、愛飲してる水出し烏龍茶。いつものスーパーに売っているものなのだが、美味しく、そして体調もよくなるような気がして、続けていた。
しかしこれまでは、烏龍茶なのだから中国の何処か産なのだろう、くらいにしか考えていなかった。興味がなかったのだろう。だが、台湾茶を知り、お茶の産地や味などにも興味が湧いたのだ。

知ることで、興味が湧き、さらに深く知ろうとする。
そんな知ることの大切さを、知った2つの出来事だった。

愛飲している、台湾は凍頂山の茶葉使用の水出し烏龍茶です。

台湾銘茶ジャスミンバージョンも、購入してみました。
緑茶に、ジャスミンの花で香りをつけたタイプのようです。

ずっと前から持っていた栗原はるみの料理本『私のおもてなしレシピ』
これまで、中国茶のページを読んだことはありませんでした。
烏龍は、半発酵茶なんだね。ジャスミンは、花の香を移すお茶なんだ。

こちらは、台北で買ってきた東方美人茶のティーバッグ。

東方美人茶は、紅茶に近い味わいと色味をしています。

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茗荷の花

5日ほど留守にして帰ってくると、庭の茗荷がたくさん花を咲かせていた。薄い黄色の控えめな雰囲気の花だ。庭を歩くと、ヤマボウシは赤い実を落としているし、花を咲かせたワレモコウには夏トンボがとまっている。テッポウユリは蕾を膨らませ、重そうにうつむいている。

「季節は、流れているんだな」
そう思った瞬間、不意に、今がいつなのか判らなくなった。頭が真っ白になり、何月なのかも考えられなくなる。脳内フリーズ。たまにこういうことがあるのだ。日々、茗荷を食べ続け、こういうことになった訳ではない。子どもの頃から思考が飛ぶ瞬間は、たまに経験してきた。それが授業中だったりすると、ひどく叱られた。今わたし自身があのときのわたしを前にしたとしても、しょうがないぼんやりさんだなあと呆れることだろう。
こういうことは、誰にでもあることなのだろうか。それとも。上手く訊くことができず、いまだ誰にも訊いたことがない。

居間のカレンダーの前に立ち、記憶を取り戻すべく、今日の日づけを探す。
「ああ、8月に入ったんだ」
声に出して言い、記憶も思考も戻ったことを確認する。
こうして真っ白になった瞬間、いつも考える。もし戻ってこなかったら、と。鍵をかけてしまっておけないものって、けっこう多いのかも知れないと。

茗荷畑の葉っぱの下でひっそり咲いています。綺麗です。

収穫した茗荷は、泥だらけ。植物は、土のなかから芽を出し、
花を咲かせるんだよなあと、実感する瞬間です。

洗うと、輝いて見えます。実を刻むのも楽しくなります。

鯵の茗荷酢味噌和え。白髪葱もたっぷり入れました。
花はあまり味がしませんが、もったいなくて、いつも食べちゃいます。

もちろん冷ややっこにも。京都は男前豆腐。しっかりとした旨味です。

茗荷の葉っぱには、大きな蝉の抜け殻が。

ウッドデッキの陽影では、けろじが涼んでいました。

ヤマボウシの赤い実が、レンガの上に落ちていました。

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風鈴蕎麦

甲府の駅ナカにある立ち食い蕎麦が、リニューアルした。
JR系列の『いろり庵きらく』が入り、内装も一変。当然だがメニューも蕎麦も変わった。うれしいのは、かき揚げを店内で揚げていてかりかりなこと。べたっとしたかき揚げを口にするのは、立ち食い蕎麦屋とて悲しいことである。

初めて暖簾をくぐったとき(実際には暖簾はないのだが)店内の壁に設置された「風鈴蕎麦」の由来などがかかれたボードに目を留めた。
江戸の町を風鈴を鳴らしながら夜食の蕎麦を売る屋台のことを「風鈴蕎麦」と言ったそうだ。それまでは「夜鷹蕎麦」と呼ばれていたそうだが、一線を画す意味もあり、かけ蕎麦一辺倒の夜鷹蕎麦にはなかった薬味をつけ、器にも凝って、風鈴を鳴らして清潔感をアピールしたらしい。

夜鳴き蕎麦と言えばチャルメラのイメージだったのだが、一瞬にしてチャルメラは消え去り、江戸の町並みがぱっと目に浮かんだ。そして、粋な風鈴蕎麦の屋台がゆるりと通り過ぎていくさまが。
「故きを温ねて新しきを知る」というが、新しくなった蕎麦屋を訪ねて、江戸の昔に思いを馳せるのもまたよし。故きも新しきも、知らない場所へ足を運ぶということで何かしらを得ることは、ままあるのだろう。

ちなみに「親ばかちゃんりん、蕎麦屋の風鈴」とは、盲目的に子を可愛がる親と、冬にも風鈴を鳴らす蕎麦屋のとんちんかんな様子をかけている言葉だそうだ。こういう言葉遊びもまた、粋なんだよなあ。

かき揚げ蕎麦です。冷房のなかで温かいお蕎麦をすする幸せよ。
最近は立ち食い蕎麦といっても、ちゃんとテーブルと椅子がありますよね。

家紋のようなロゴ? 風鈴をデザインしたものです。

壁面ボードに大きく、風鈴蕎麦のあれこれがかかれていました。

こちらは東京を歩いたときにディスプレイしてあった風鈴達。
涼しげな音色。うーん。それだけで涼しくなるから不思議です。

風鈴は、やっぱり夏の風物詩ですなあ。

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パエリア鍋?

週末、毎年恒例になっている会社のバーベキューをした。
我が家のウッドデッキでの開催。家族連れで、小さな子ども達なども参加するアットホームな会だ。
これまでは多少準備に心を砕いていただが、今年はパエリアを作りたいと言うアメリカ男子にすべてお任せで、わたしは胡瓜の浅漬けを出しただけ。ゆっくりと食べて飲んで、おしゃべりをさせてもらった。

そのパエリアの鍋だが、市内のホームセンターでワンサイズのみ置いてあった直径40㎝のものを購入した。
「パエリア鍋、買ったよ」
夫が、彼にメールすると、返事にこうかかれていたそうだ。
「パエリアという言葉は、鍋という意味です。だからパエリア鍋というのは、ちょっと変ですね」
それを聞き、ほう、と思った。
チゲ鍋の「チゲ」も「鍋料理」の意味を持つ言葉で、チゲ鍋 = 鍋料理鍋というおかしなことになってしまう。本来なら、キムチ鍋 = キムチチゲが正しいのだろう。

日本でも、鍋料理のことを「お鍋」と呼ぶ。
韓国でも同じような感覚で使われているのだろうと、ちょっとうれしく思っていたので、スペイン、おまえもか、とわくわくした。おんなじ人間なんだよなあ、と遠い国の知らない人達に、強く親しみを覚えたのだ。違うところがあって、あたりまえ。そして似ているところもあって、あたりまえなのだ。
アメリカからやって来てうちの会社で働いている彼が作ったパエリアは、グレイトだった。最高に美味しかった。

見事なできあがり!お米がアルデンテで、肉と魚介の旨味たっぷり。

シェフがサーブしてくれました。至れり尽くせりです。

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集まってくる好きなもの

東京で、急いで食べた昼食でのこと。
会社近くの大手町から、地下道を東京駅まで歩いた。正午より少し前だったのだが、ランチを食べられる店はどこも行列ができていて、新オフィス周辺の会社&会社員の多さを目の当たりにした。
「通り道で済ませるのはムリみたいだね」と、わたし。
「オアゾの5階か6階なら、だいじょうぶかも」と、夫。
エレベーターで上がると、寿司屋と沖縄料理屋の先に、博多水炊きの店があった。「鶏そば」「親子丼」など写真入りのランチメニューがある。人も並んでいない。夫は鶏肉大好きだし、わたしも「鶏そば」の写真に魅力を感じた。

夫は親子丼。わたしは鶏そばを注文。ぶじお昼ご飯にありつけた。
しかし、鶏そばが目の前に置かれ、頭のなかを疑問符が飛び交った。
「あれ? これって、ラーメンじゃん」
つい口に出して言うと、夫が呆れたように言った。
「きみってすごいね。ラーメン食べるつもりなんかまったくなくても、ラーメン頼んじゃうんだから」
水炊き屋さんの鶏そばだから、鴨南蛮のこってりスープバージョンかなと漠然と思い描いていたのだが、まさかラーメンだったとは。
「なんか、うれしい」
思わぬところで、旧知の友に逢ったような感覚だ。手を取り合って握手したいような、あるいは思いっきりハグしあいたいような旧友。
好きなものって、こうして引き寄せられるようにして集まってくるんだよ、うんうんと感動しつつ、こってり塩味の鶏スープラーメンをすすった。

上の娘が、むかしリラックマを集めていたのを、なつかしく思いだす。
「リラックマ、大好きなんだ」
そう吹聴して回るものだから、友達からのプレゼントもお土産も、みなリラックマになった。もちろん本人は欲しいと言っているつもりはさらさらない。ただちょっとしたプレゼントには、ちょうどよかったというだけなのだろう。
「もういらないって思ってるのに、どんどん来るんだよね」
リラックマを卒業した彼女のもとにも、しばらくの間リラックマは、行列を成してやって来たっけ。

ラーメンがわたしのもとへやって来たのは、果たして偶然なのだろうか。それとも、ラーメン好きの第六感が働いて、鶏そばに心が動いたのだろうか。
いずれにせよ、好きなものは、その人のもとへ集まってくるものなのだ。

味噌、醤油、塩のなかから選べました。塩です。美味しかった!
考えればこの時点で、ラーメンだって気づいてもよかったのに。

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うちの子を見つけて

所用で東京に出た際、何年かぶりに武道館近くの『暮らしのうつわ花田』を訪ねた。千鳥ヶ渕には蓮が咲いていて、ああ、東京もそう遠い場所ではないのだなあとあらためて思う。徒歩3分のご近所さんの家と我が家でも、花の咲き具合は違う。標高と陽当たり。しかし東京と山梨で、同じ時期に咲く花もある。遠いようで近い、近いようで遠いのが、東京だ。

しかし店内に入ってすぐ、既視感に似たものが広がった。久しぶりであるその店のなかに、よく知った顔を見つけたのだ。
「あっ」声にならない声を出し、思わず微笑んだ。
前回買い求め、毎日のように朝食に使っているのと同じ皿がまだ置いてある。
「うちの子、まだがんばってるんだ」
胸に、温かなものが広がっていく。

ゆっくりと店内を歩き、小鉢を2つ買い求めた。
レジで写真を撮ってもいいかと訊ね、朝食皿の話をすると、女の子と言ってもいいほどの若い店員さんが、顔をほころばせた。
「その商品は、ほんとうに息が長いんですよ。創業以来40年扱わせていただいているんです」「40年ですか」
こちらも、笑顔になる。
40年間ここで売り続けられている皿。うちの子達の兄弟は、様々な家の様々なシーンで活躍しているのだ。高価ではない、食器洗い機に入れてもいい器。そういうモノが暮らしのなかでは、意外と重宝されるのだろう。

再会した皿に別れを告げ、夕刻の、少し涼しくなった靖国通りを気持ちよく歩いた。明日からまた、うちの子達を大切に使おう。

真ん中の白地に藍の水玉の楕円のお皿が、うちの子です。

我が家の朝ご飯でも、いつも真ん中にいます。

店内です。ぐい飲み、徳利、杯。手にとって眺めずにはいられません。

お茶椀もいろいろ。ヨーグルト用のお皿も、探したりしました。

小皿や小鉢の他、レンゲ、箸置きなどもたくさん並んでいました。

『暮らしのうつわ花田』の外観です。靖国通り沿いにあります。
2階では個展が開催されていて、1階奥は喫茶になっています。

千鳥ヶ渕のお堀は、蓮の葉がいっぱいに広がっていました。
ピンク色の花が咲いているのも、遠目にちらほら見えました。

購入したのは、この器です。黒釉。見た目より軽いです。
鍋のとり皿の他、お浸しなどの小鉢に重宝しそうです。

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我が家の味ができるまで

庭の茗荷が、収穫の時期を迎えた。
ぷっくり太った茗荷が、土の中から顔を見せるさまは、とても可愛らしい。
草とりをしながら、ここにも、あ、ここにもと見つけるが、小さなモノは掘り起こしたりせず土をかぶせたままにする。茗荷は香りが強いせいか虫に食われることもなく、土のなかがいちばんいい保存場所になるのだ。毎年、夏の間ゆっくりと楽しむことができる。

庭で茗荷を収穫するようになってから、毎朝の味噌汁の薬味が、葱から茗荷へと変わった。うちの味噌汁といえば茗荷をたっぷりと載せたモノで、それが我が家の味となりもう何年も経つ。

栗原はるみの料理本『ごちそうさまが、ききたくて』のなかのエッセイに、美味しい野菜を揃えた八百屋さんの近くに越してきてから野菜をたくさん食べるようになり、野菜料理のレパートリーが増えたとかかれていた。それを読み、素材ありきで作る料理の方向性みたいなモノが変わっていったりするものなのだなあと思ったのだが、我が家の味噌汁の薬味は、まさにそれ。庭で収穫できないときにも買い求め、茗荷を載せるようになっていったのだ。

今では季節を問わず野菜が買えるが、昔はこうして季節の野菜を味わい、野菜ありき、素材ありきで料理をしていたのだろう。そんな旬の採りたて野菜を料理することも、今の時代、贅沢のひとつとなった。そんな贅沢を、庭の茗荷に味わわせてもらっている。

太った茗荷さん、発見。うれしいな。

ここ庭の一角が、茗荷畑になっています。

収穫仕立ては、泥だらけ。粘土質の土です。

切ると、買ったものとの違い歴然。身がしまっています。

朝、庭に出て採った茗荷を、味噌汁にたっぷりと載せて。

白髪葱と茗荷の千切りで、鰯の酢味噌和え。ワインにも合います。

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夏の簡単さっぱり丼 3種

「夏の、簡単、さっぱり、丼」
さて、このなかでいちばん重要となるワードは、どれでしょう。
などと言っても、国語の試験的観点からの問題ではない。
食欲が落ちやすい夏、お家ひとり飯で、美味しく栄養をたっぷり摂るには?
という質問だ。
暑い夏、さっぱりしたモノが食べたくなる。
簡単に、どんぶりモノにしたい。
って、全部、重要なの?
いえいえ。わたしの一押しワードは「簡単」だ。

夏は暑い。キッチンに立ち、火を使うのは苦痛となる。
料理番にはありがちだが、作っただけでお腹がいっぱい。
作りたくない。食べたくない。めんどうくさい。
だけどまあ、こんなに簡単に? それも外食でも味わえないほど美味しく食べられるんなら? 作ろうじゃないか、ぜひ作ろうってことになる。
発端はサボり精神だったが、あらためて知ることとなった。「簡単」「シンプル」の方が美味しく食べられる素材って、けっこう多いのだと。

雑誌やネットレシピでピンときて、楽しんでいる丼 3種。ひと味違うよ。

胡麻油でにんにくのみじん切りを炒め、トマトの輪切りを投入。
さっと焼いたら醤油をたらし、汁ごとご飯にかけて大葉を散らします。
トマトと胡麻油、にんにく、醤油の汁を吸ったご飯が、絶品!

鮪のぶつ切りを胡麻油、にんにくみじん切り、醤油で和えます。
あとはアボカドと葱の小口切りと一緒に、ご飯に載せるだけ。
安い赤身の鮪も、にんにく胡麻油醤油で美味しく変身します。

パクチーと粗挽き胡椒をたっぷり、がコツです。
ご飯に、粗挽き胡椒たっぷりと少々の塩をかけて、
納豆はナンプラーと胡麻油で味つけし、よく混ぜてどんぶりに。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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