はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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娘と唐辛子

上の娘に、カナダでよく作って食べていたという野菜スープのレシピを教えてもらった。と言っても何のことはない。煮る前に、ニンニクと唐辛子をオリーブオイルで炒め、ニンニクと唐辛子は取り除き、その油で野菜を炒めて煮るだけのこと。
「ペペロンチーノ味の野菜スープって訳だね」と、わたし。
「そうだね。どの料理もペペロンチーノ味だったかも」と、娘。
味見をしてみると、塩は薄めだが、唐辛子のほんのりとした辛味とニンニクとオリーブオイルの旨味が相まって、なかなか美味かった。
「あったまるね」「でしょう? そのうえヘルシー。唐辛子、いいよね」
彼女は最近ハマっているフォーにも、必ず唐辛子を入れている。

だが教わった通りにと作っていて、何かがもやもやとしていた。娘と唐辛子。そこでひっかかっているものがある。
「でもさ、あんまり辛くないかも。唐辛子の辛味、ほんのりだなあ」
その言葉に、「そう? あ、もしかして種とって炒めた?」と、娘。
「種とるよ、そりゃあ。種入れたままだと辛すぎるでしょう」
「とらないよ。そんな面倒くさいことしないよ」
そこで、もやもやと広がっていた霧はすっと晴れた。娘と、唐辛子の種を取るという面倒な作業はどうしても結びつかない。そこにひっかかっていたのだ。
「だよねぇ。そんなこと毎回する訳がないよね、きみが」
「そうだよ。する訳がないよ」わたしは、する訳なんだけどね。
カナダではフレッシュなものが売っていたらしく、彼女にとって日本の乾燥唐辛子は、あまり辛くないらしい。そのカナダでも種を取っていなかったというのだから、相当な辛い物好きだ。まあ、わたしに似て、ということになるが。

スープは、炒めた唐辛子を入れると、ほどよい辛さになった。
唐辛子は身体を温めるだけでなく、胃壁の保護にも効果があるそうだ。自分に合った辛さを知ってこそ楽しめる香辛料なのだとか。
「何ごとも、ほどほどが肝心ってことかな」
刺激は、求め始めるとどんどんエスカレートしていく。だが、と考えた。彼女には、そんな心配は無用だろう。辛さと面倒くささとを天秤にかけながら料理しているうちは、そこまでこだわりがある訳ではあるまい。

たっぷり煮た野菜スープ。見ているだけで心もほっかほかになります。

よそってからオレガノを振りかけました。食べてまたほっかほか。

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富士山の教え

最近、笠雲をかぶっている富士山をよく見る。
季節の風物詩なのだろうか。その姿もお馴染みとなり、へーベルハウスのCMのように、笠雲をシルクハットよろしく「はーい」と持ち上げ、挨拶する姿を思い浮かべたりもする。
「おはよう、富士山。おはよう、笠雲」
こちらも挨拶する。

富士山を見るのは、大抵、車で走っている時だ。我が家から八ヶ岳と南アルプスの端っこは見えるが、富士山は見えない。富士山をよく見るということは、それだけ車を走らせているということになる。ぼんやりと富士山の何層にも重なった雲を見ていて、不意に思った。
「足もとに広がる秋を、見ていないなあ」
このところ、運転中に山々を愛でる以外、じっと見つめているものは、文庫本の活字とパソコンのなかのあれこれが多いと気づいた。

そろそろ霜が降りる。庭の水道を凍結防止の冬仕様に切り替え、かさこそと落ち葉を踏んで歩いた。庭は今、隣りの林から落ちたクヌギの葉でいっぱいだ。もちろんどんぐりも。庭の紅葉も落ちている。ヤマボウシや姫シャラの葉も。
「もう少し、外に出なくちゃなあ」
インドア派のわたしにも、富士山は様々なことを教えてくれる。

一昨日の風景。韮崎へ向かう農道からは、富士山がよく見えます。

いくつもの層が重なってできた笠雲は、レンズ雲の一つだそうです。
富士さ~ん、その帽子、とっても似合ってるよ。

こちらは庭の様子です。南天の実は赤く、赤く。

雪柳の赤くなった葉に、季節を間違えた真っ白い花がちらほらと。

サザンクロスは、夏じゅう咲いていましたが、最後の蕾がふたつ。

ワイルドマジョラムは、霜を待っているかのような顔をしています。

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『ホテルローヤル』

桜木紫乃の直木賞受賞作『ホテルローヤル』(集英社文庫)を、読んだ。
時間が逆に流れていくという風変わりな構成に挑戦した、7つの連作短編集だ。舞台は北海道釧路。湿原を背にするラブホテル『ホテルローヤル』。

1話目は、廃墟と化した現在。恋人にせがまれ埃だらけのホテルのベッドでヌード写真のモデルをする女は、自分の中の空洞を見つめる。
2話目は『ホテルローヤル』の社長の遺骨を預かった住職の妻。彼女は、お布施をもらうためにすべての檀家とベッドを共にする。
3話目は、ホテル廃業を決めた一人娘。アダルトグッズを扱うえっち屋の生真面目な男を、最後にホテルへの復讐の意味を込め部屋を使おうと誘う。
4話目。狭いアパートで暮らす主婦は、夫に言う。
「いっぺん、思いっきり声を出せるところでやりたいの」
5話目。心中し、ホテルが傾く原因となった高校教師と女子高生。彼らが『ホテルローヤル』へ向かうまで。
6話目。ホテルで働く女は、仕事を持たない夫に夜ごと抱かれる。
7話目。ホテル創業までの社長と妻と、愛人。愛人のお腹には子どもがいる。

これから心中するふたりを描いた5話目『せんせぇ』には驚いた。そこまでの話で噂されていたふたりとは全く違ったのだ。恋人同士でもなんでもない、それぞれ絶望の淵に立った、たまたま居合わせた男女だった。以下本文から。

数えきれないくらいの人間が、改札に吸い込まれては吐き出されている。野島にはそれが、連休が終われば何ごともなかった顔で日常に戻って行ける資格を持った人々に見えた。自分はその流れに足を踏み出すことができない。次第に日常がどこにあったのかもわからなくなってきた。
「せんせぇに見えちゃってる将来と、あたしが昨日今日で見ちゃった将来って、絶対的に違うものだと思う」
昨夜のまりあの言葉が胸奥の深い場所から一気に喉元までせりあがってきた。
「佐倉、それはもしかしたら同じものかもしれない」
言葉にしたら、そのまま彼女の持つ暗がりに引きずり込まれそうだ。野島は首を横に振った。自分はもう既に、この女に右手を取られている。昨夜見た校長のように。日常から引きずり下されている。ひどく喉が渇いていた。
掲示板の行く先がおおかた変わったころ、まりあが口を開いた。
「せんせぇ、どうしたの。具合でも悪い?」「いや、大丈夫」
「三連休初日だね」「うん」「どっか行こうよ」
「どこ行くんだよ、お前とふたりで」「あたしたち、行くとこないのかぁ」

夜逃げした親に捨てられた佐倉まりあと、妻が仲人である校長と結婚前から浮気していたことを知った野島。ふたりの道は交わることなく、しかしまっすぐに『ホテルローヤル』へと続いていた。
人の噂の無責任さと安直さを、思う。噂とは、想像しやすい方へ納得しやすい方へと作り上げられていくものなのだ。高校教師と女子高生は、禁断の恋とやらに囚われたのだと言えば誰もが納得する話で終わる。だが、桜木は判りやすい噂で終わらせなかった。シチュエーションが同じでも、ケースバイケース。だからなのかも知れない。小説のなかの人々は、生きているかのようだった。

読み終えて、秀逸な表紙だと思いました。1話目の『シャッターチャンス』
の主人公を描いたものだとばかり思っていましたが、小説に登場した
どの女性だと言われても納得してしまうような雰囲気を持っています。

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大鍋料理な日々

上の娘と一緒に暮らすようになり、鍋やホットプレートを出す機会が増えた。この週末も、お好み焼きや豚好きをしたし、娘がカナダから帰ってきた翌日もチゲ鍋だった。やろうと言い出すのは、大抵お祭り好きの夫だ。

どちらかというと、干渉しあわない家族だと思う。男女の差では語れないことも多いが、わたしも娘も男っぽく、仲はいいとは思うが、べたべたした関係にはなりたくない方だ。友達の陰口話などに相槌を打つのを嫌い、学校で居心地の悪い思いをしたところも、たぶん似ている。
娘とふたりの夜は、それぞれ食事も別にし、リビングに居合わせたときにしゃべるくらいの間の取り方が自然となった。大鍋に煮た野菜スープや、フライパンいっぱいの八宝菜を作っておけば、勝手になくなっている。娘とて25歳にもなって、夕飯は食べるのか、何時に帰るのかとうるさく言われるよりも気が楽だろうし、わたしとて同じことだ。

それでも3人揃った夜に、共に食卓を囲むのは楽しい。ホットプレートでお好み焼きを焼くだけでも、盛り上がるし、酒も進む。
「カナダでも、くしゃみした人に bless youって言うの?」と、夫。
「言うよ。テスト中にくしゃみしたら、みんなに言われた」と、娘。
「テスト中に? しゃべっちゃいけないんじゃないの?」と、わたし。
「そうだけど、先生にも言われた。あと電車乗ってるときに知らない人にも」
「電車の中で? それで thank youって言うの?」
「テスト中も bless you. thank you.
 電車の中でも bless you. thank you.」
繰り返す娘に、夫とふたり笑った。
日本では、くしゃみをすると誰かが噂しているなどというが、海外では、くしゃみをした途端魂が抜け bless you または God bless you と言ってもらうと元に戻るという迷信があるらしい。

食べて飲んで笑いながらも、人と人との違いを思う。お国の違いで、くしゃみは噂だったり魂だったりするが、どこの国でも人は人。家族や友人との間の取り方は、ひとりひとり違うんだろうな。同じ日本の同じ家族のなかでも、それぞれなのだということが、食事を作っているだけで垣間見えるのだから。

豚バラ肉をあとからのせ、ひっくり返してカリカリに焼きます。
キャベツを、1㎝ 角の粗みじん切りにするのが美味しさの秘訣。

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柿と胡瓜とシャインマスカット

道端で、家庭菜園をしている近所のご夫婦に会った。
夏の間、胡瓜を分けていただいていたので、そのお礼を言うと、柿はいるかと聞く。この季節、他からも貰うだろうと、押し売りにならないよう気遣ってくださったのだ。いただいた柿がちょうど失くなったところ。よろこんでいただくことにした。

そのとき、胡瓜のお礼に持っていったシャインマスカットの話になった。
「あれ、初めて食べたんだけど、本当に美味しくって、あれからハマっちゃったのよ。何度も買って食べたのよ。皮ごと食べられるのがまた、面倒がなくていいのよねえ」
さしあげたのは知り合いの農家さんが作っているもので、本当に美味しく、毎年両方の実家にも送り、よろこばれている。
「よかった! あれ、ほんとに美味しいんですよねえ」
「本当に、美味しかったよ」ご主人も絶賛。
「ほんとに、ほんとに、美味しかった!」
奥さんも何度も繰り返し、褒めてくれた。わたしもうれしくなり、繰り返す。
「シャインマスカット。本当に、美味しいんですよねえ」

3人で、しばしシャインマスカットを褒めたたえ、笑った。
さしあげたものを自分で褒めるのは、なんだか可笑しい気もしたが、そんな気遣いより何より、同じ美味しさを味わった者同士の会話が心地よかったのだ。
胡瓜がシャインマスカットになり、シャインマスカットが柿になり。わたしの親と同年代のこのご夫婦とは、そんな繰り返しを何年もしている。

柿の実を見ると、太陽の下でこういう色になったんだなあと思います。
袋の中には、つやつやな柿の実が、全部で十個ありました。

夏の終わりに食べた、シャインマスカット。皮ごと食べられて種なしです。

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アイルランドの丸い石

アイルランドの土産をもらった。上の娘が旅してきたのだ。
丸い石にフクロウを描いたものだ。様々な絵が、様々な石に描かれていたという。人と同じく、石も、絵も、同じものはない。そのなかで「お母さん、こういうの好きだろうなと思って」と選んでくれたものだ。
「フクロウは、福が来る、幸せを呼ぶ鳥だって言われているらしいよ」
「そうなの?」
意味など考えてもいなかったというように、彼女は言った。ただ感覚のみで選んだのだろう。シンプルな絵も、色合いも、確かに好みだった。親子とは不思議なものである。

丸い石を手に取って、川を流れ角が削れ、丸くなったのだろうと、掌につややかな丸みを感じながら考えた。アイルランドにも川が流れ、それは海に続いている。ふと思い出したのは、映画『おくりびと』のワンシーンだった。
自分の心の形をした石を、いちばんぴったりとくるものを、幼い頃、主人公は、河原で父親と探した。丸いのかごつごつしているのか、大きいのか小さいのか、白っぽいのか黒ずんでいるのか、重いのか軽いのか。映画では、亡くなってから再会することとなった父親が、その手に丸い石を持っているのを大人になった主人公が見つける。

自分の心の形を思い描くとき、誰もが丸い石を思うのではなかろうか。それは、こうあってほしいというささやかな願いだ。思い描く形が丸だとしても、掌にのせてみたら、ささくれてがさがさした手触りかも知れない。決定的に欠けた部分が見つかるかも知れない。
しかし、丸くあってほしいと願う気持ちがあれば、欠けた部分もきっといつか、削れて角が取れ、丸くなっていくだろう。
娘がくれたフクロウが描かれた丸い石に、そんなことを思った。

ピンクストライプの薄紙の包装紙に、無造作に入っていました。
誰が描いたのかなあと、遠くアイルランドに思いを馳せます。

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新しいものと手をつなぐ瞬間

パソコンが、寿命が近づいたことを告げるメッセージを発し始めたのはしばらく前のことだ。突然画面が暗くなったり、エラーが多くなったり。
経理の仕事で使っているので、突然ダウンされると大ごとになる。早めに新しいパソコンを購入した。

以前はパソコンの設定など、自分ではできないものだと思いこんでいたが、子ども達が軽々とやっているのを見て、そんなに難しいものではないのだと自分でやるようになった。
案ずるより産むがやすしとはこのことだ。やってみれば、何とでもなるものだった。たぶん、以前より簡単にできるようにもなっているのだろう。
メール設定も済み、仕事用のいくつかの設定をし、やれやれと一息つく。
一息つくと、デスクトップの画像が気になって来た。綺麗な植物の写真だが、綺麗過ぎて落ち着かない。何にしようかと古いパソコンを起ち上げて探した。
「あ、これにしよう」
これまでは、夫が撮ったリビングにある雑貨の写真にしていたが、今年の夏に撮った、ちょうどいい写真があった。雨上がりのけろじだ。

デスクトップにけろじの画像がいっぱいに映ったとき、すっと胸に落ちた。
「あ、今わたしのパソコンになった」
新しいものと手をつなぐ瞬間というのは、こういう瞬間なんだろうな。

水遊び中のけろじ。何とも、気持ちよさそうなんです。

古い方のパソコンのデスクトップ画像です。これも気に入っています。

今、デスクトップはこんな感じ。設定、がんばります。

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来年のカレンダー

来年のカレンダーを買った。
トイレに置くのにちょうどいい、卓上の小さなものだ。予定をかき入れる訳でもないので、デザイン重視。新宿の雑貨屋で気に入ったのを見つけ、気が早いかとも思ったのだが、これも出会いだと購入した。

カレンダーを買うと、月ごとのデザインを見てみたくなる。日めくりなら、たぶん365枚をめくることはないのだろうが、たったの12枚。楽しみながらあっという間にめくり終えてしまう。
だが、いつだったか末娘に同じように新しいカレンダーを見せようとしたところ、怪訝な顔をされた。
「先に見ちゃったら、月の初めにめくる楽しみがなくなっちゃうじゃない」
ほう。そういう考え方もあるのかと、目から鱗だった。
それ以来、めくってみることはせず、月初めを楽しみにしている。
というのは、嘘。そうしてみたいなと思いつつ、我慢できずについ全部めくって見てしまうのだ。

刺しこんで立てるタイプです。来年の成人の日は11日なんですね。

2種類売っていました。これは、白地に赤と青バージョン。
藁半紙色(?)に緑とオレンジバージョンもありました。

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田舎のはりねずみ

山梨の田舎に移り住んで、15年が経つ。
東京生まれのわたしは都会に住む友人が多く、都会と田舎の違いを目の当たりにする機会もまた、多くある。友人達との何気ない会話のなかにも、いつもそれは潜んでいるのだ。
田舎で暮らすいいところはたくさんある。
山が綺麗に見えるとか、とれたて新鮮野菜を美味しく食べられるとか、静かだとか、野鳥がたくさん遊びに来るとか、時間がゆったり流れていて、のんびりした気持ちで生活できるとか。
だが、都会のいいところも当然ながら、多い。
歩いて行けるコンビニがあるとか、歩いて行ける毎日出せるゴミ集積所があるとか、電車が町に通っている(酒を飲んでもタクシーではなく電車で帰れる)とか、面白い店がたくさんあるとか、フジテレビが地上波で放映されているとか、友人達といつでも会えるとか。

ここで暮らし始めてから『田舎のねずみと都会のねずみ』というイソップの童話が、常に頭の片隅にある。2匹はたがいに行き来してみて実感する。田舎のねずみには田舎が暮らしやすく、都会のねずみには都会が暮らしやすい。どちらにもいいところも悪いところもあって、どちらがいいという訳ではない。
そして大人になれば、何処で暮らすかを選ぶのは自分で、だから今、ここで暮らしているのだが、それでもわたしは、もともとは都会のねずみだったのだとしみじみ考える夜もあるのだ。

家の補修のために大工さんが組んだ足場にとまるジョウビタキ。
こういう風景も、田舎ならではなんでしょうね。

家のなかをのぞいて、また周りを見まわして、きょろきょろ。

羽根の白がチャームポイントの雄くんです。
ばたばたと飛び回っては窓ガラスにわざとぶつかってるけど、
羽根が傷ついたりはしないのかな? ちょっと心配。

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『人質の朗読会』

小川洋子の連作短編小説『人質の朗読会』(中公文庫)を、読んだ。
遠い国で反政府ゲリラの攻撃にあい、人質に取られた8人の日本人旅行者達。その後爆破され亡くなった彼らがそこで行った8つの朗読と、人質救出作戦を実行した政府軍兵士の朗読ひとつが収められている。以下プロローグから。

今自分たちに必要なのはじっと考えることと、耳を澄ませることだ。それも考えるのは、いつになったら解放されるのかという未来じゃない。自分のなかにしまわれている過去、未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ。それをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟にのせる。その舟が立てる水音に耳を澄ませる。なじみ深い場所からあまりにも遠く隔てられた、冷たい石造りの、ろうそくの灯りしかない廃屋に、自分たちの声を響かせる。そういう自分たちを、犯人でさえも邪魔はできないはずだ。

たとえば、偏屈な大家さんとアルファベットビスケットを並べて食べた女性の記憶。『やまびこビスケット』から。

大家さんは上棒がとれたFを食べ、真っ二つに割れたVの片割れを食べ、生焼けのeを口に運び、それらが上顎に張り付いてくると、牛乳を飲んだ。食欲がないという割には、入れ歯を軽快に鳴らして美味しそうに食べた。
「私は子どもの頃、このアルファベットシリーズを並べて、いろいろ言葉を作って遊んでいました」「ほう」
顔を上げた大家さんの口元には、牛乳の膜がくっついていた。
「例えば、自分の名前とか、好きな男の子のあだ名とか・・・。大家さんの名前も並べてあげますよ」「やめてよ、恥ずかしいから」
意外にも本気で恥ずかしがった大家さんは、Rの輪に小指の先を突っ込んだり引っ込めたりした。
「では、一番お好きな言葉を」「それならもちろん」
ぐいと顎を持ち上げ、誰かに向かって自慢するように大家さんは言った。
「整理整頓だよ」

8人が人生のなかでとどめていた記憶は、他人から見たら大事件と言えるようなことではなくささやかなと形容しても可笑しくない、しかし彼ら自身のなかでは決して色あせることのない一場面だった。今日を生きるための記憶、そういうものが人のなかにはあるのだと、この小説から教えられた。

年下の友人にいただいたマッシュノートのペンと一緒に。
解説は、ドラマ化でナビゲーター役を演じた佐藤隆太です。

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「食べる」ゲシュタルト崩壊す

「食べる」が、ゲシュタルト崩壊した。
昨日は、年に一度の健康診断だった。バリウムを飲む予定だったので、朝食は食べられない。なので、夫の分だけ用意した。
キッチンに立ち、香ばしく焼き上がった子持ちししゃもを見て、不意に口に入れたくなる。朝起きたてで、時間も6時前。空腹を感じた訳ではない。ただ、禁じられていることをしてみたい気持ちに駆られたのだ。
食べたところで、バリウム検査ができないというだけのことで、たいしたことではない。触っちゃいけないと言われたアイロンに触ってみたくなり、小さな火傷をする子どもと変わらない程度の怪我で済むだろう。子どもとて、アイロンに触りたいという熱い思いを抱えていた訳ではない。「いけない」と言われたことには引力があり、それに引き寄せられ、ふらふらと近づいてしまっただけなのだ。非常ベルの赤い色を見て、不意に押したくなる、あれである。

食べてはいけない時に食べる、その引力はたいして強くはなかった。毎年のことだ。引力のかわし方も心得ている。
だが今年は、いつになく「食べる」が膨らみ始めた。
いつもとっている行動「食べる」が、いつもと違う顔を見せ始めたのだ。考えることもなく「食べて」いたが「食べる」ということは、咀嚼し飲み込み食道を通過し胃に到達し消化されるということなのだとあらためて考えてしまう。すると普段は「美味しい」というところで考えが止まっていたことに気づく。気づいたが「食べる」一連の作業と「美味しい」がどうにも結びつかない。
「食べるって、いったい何なんだろう。ああ!」
ゲシュタルト崩壊の罠に、まんまと落ちていったのだ。

香ばしく焼けた子持ちシシャモをかじることもなく、健康診断はぶじ終わった。何も問題はなかった。今日からまた、美味しく食べ、美味しく飲める。
「お腹減ったあ」
検査結果を手に、ラーメン屋に入ったときには、崩壊した「食べる」は、すっかりもと通り「美味しい」に戻っていた。

新宿ルミネエストの塩ラーメン屋『ひるがお』の塩ラーメン。
青さ海苔の上の柚子が効いていて、細くてかたい麺が好みでした。

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『最果てアーケード』

小川洋子の連作短編『最果てアーケード』(講談社文庫)を、読んだ。
舞台は、世界で一番小さなアーケード。ステンドグラス風のガラス屋根から優しい陽が射すその商店街は、何処の国とは特定できない雰囲気を持つ。
舞台女優達の服を縫う「衣装係さん」剥製の目を作る「義眼屋」一種類のドーナツを揚げ続ける「輪っか屋」文具の他に投函後の絵葉書きなども扱う「紙店シスター」ノブさんの「ドアノブ専門店」未亡人が夫の後を継いだ「勲章店」遺髪を使ったレースも扱う「レース屋」などがある。

主人公の少女は、アーケードの亡くなった大家の娘で、それぞれの店から客先への配達をしている。彼女が生まれ育ったアーケードには、彼女の大切なものが数えきれないほどある。それをひとつひとつ、見せてもらっているような気持ちになる短編集だった。以下本文から。

若者はボックスから絵葉書を抜き取る。一枚読み、それを戻してまた次の一枚に目を通す。文字に触れないよう、葉書きの両端を指先で慎重に支える。雑用係さんと同じ手つきだ。しばらくのち彼は、まるで自分に宛てて書かれたかのような、特別に愛着を感じる一枚と出会う。
「さあ、目を開けて。何も怖くないよ」
誰が誰のために書き送ったのか、絵葉書きにはたった一行そう書かれている。
「これも、お願いします」
若者はカウンターにそれを滑らせる。
「はい、ありがとうございます」
お姉さんはもう一度カードを揃え直す。
若者は生まれ持った優しさと若さと賢さによって、たくさんの便りを出し、それ以上にたくさんの便りを受け取る人生を送る。もしかしたら中には、雑用係さんや私の母や、もっと多くの人々がちょっとした不運のために受け取れなかった便りさえ、含まれているのかもしれない。「紙店シスター」の決まりに則れば、それはよき人生ということになる。

紙店シスターにも行ってみたいが、なかでも心魅かれたのはドアノブ専門店だった。開け閉めできるようになった板に付けられたドアノブが壁いっぱいに並び、一番大きな板の向こうは空洞になっている。人が一人、ぎりぎり入れる程度の大きさの穴があるのだ。部屋でも納戸でもない、ただドアノブのためだけに存在する暗がり。少女は、そこに入るのが好きだった。世界の窪みのようなアーケードに隠された、もう一つの窪みだと感じていた。

最果てアーケードの紙店シスターで売っていた切手と。(嘘です)
三つ編みに結んだリボンとタイトルの色を揃えてある、素敵な表紙です。

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千切りセロリと泣きたい気持ち

昨日の夕方、久しぶりにパニックに陥っていた。
来週初めに予定を入れたため、経理の仕事を週末にしなくてはならず、それを判っていながら、次々に予定を入れてしまったのだ。
片づけられない女代表のわたしは、部屋の片付けも苦手だが、やらなければならないことを頭のなかで整理整頓することも苦手なのだ。
あれもこれも、これもあれも、やらなくちゃ。そんなふうにパニックに陥ると、泣きたい気持ちになる。いい大人なのに、と自分でも思うが、いい大人だって泣きたい気持ちになることは、ままあるのだ。

ある程度仕事をやっつけて、だが泣きたい気持ちはボルテージを上げていく。
「だめだ。だめだ」
仕事は明朝に回し、とりあえずキッチンに立つことにした。メニューは決まっている。セロリと鶏肉のサラダだ。セロリを刻むのは好きだが時間がかかる。
「どうしてこんな日に、セロリなの?」
自分で決めたメニューに自分で追い詰められているなんて、なんてダメな奴なんだろうと、さらに落ち込んでいく。
しかし、セロリを刻むうち、マイナスな気持ちが次第に消えていった。
何故だろうかと考えて、セロリを刻むといつも思い出す言葉のせいだと思い当たった。お隣りのご主人を招いて酒盛りをしたときのことだ。
「これはまた、よく刻んだねえ」
セロリのサラダを見て、彼は言った。
「はい。刻みました」と、わたし。
「うん。ほんとうにまた、よく刻んだねえ」
ひと口つまんで、ふたたび彼は言った。
「はい。がんばりました」と、わたし。
何年前のことだったかも忘れたが、セロリを刻むたびにその「よく刻んだねえ」を思い出すのだ。

褒められたいと思って料理する訳ではない。仕事も然りだ。だが褒められれば嬉しい。その記憶は、何かの拍子に出てきてわたしを助けてくれる。ほんの小さなことだが、その小さなことで切り抜けられる時、というものがあるのだ。

セロリのサラダが出来上がる頃には、泣きたい気持ちは、まるで最初からなかったかのようにすっかり何処かへいってしまっていた。

我が家定番のセロリの千切りサラダ。にんにくと醬油で焼いた、
鶏ささみと一緒に山葵マヨネーズで和えて、茗荷をのせます。
山葵は、生のものをすりおろすと、いい香りが口のなかに広がります。

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近未来の街を眺めて

久しぶりに新宿に出ると、クリスマスの装いに驚かされた。
南口の改札を抜けると、花屋にはポインセチアが赤い葉を揺らし、クリスマスリースだのスノーマンだのが飾られている。雑貨屋『フランフラン』や東急ハンズでは、クリスマスツリーやリースなどの飾りが店内入口に眩しいほどの華やかさで売られている。
「ついこのあいだまでは、ハロウィン色だったのかな」
そう思うと、季節の先取りに人間の方が踊らされているようにも思えて、可笑しくなった。だが売る方は商売なのだ。真剣に取り組んでいる姿には敬意を払いたい。子ども達が巣立ち、クリスマス飾りと無縁になった今、それらを手に取ることはないのだが。

そんな都会の風に吹かれ、所用で一泊した朝、JR南口にあるお気に入りのパン屋で朝食をとった。焼き立てのパンと美味しい珈琲。1階に売り場があり、2階にはテーブルやカウンター席が並ぶ。朝の明るい陽射しが爽やかだった。
「いろいろだねえ」カウンターから通り行く人を眺め、夫が言った。
「ああ、服装のこと?」同じように感じていたので、すぐに判る。
コートを着てマフラーを巻いた人。薄手のパーカーを羽織る人。分厚いセーターを着た人。ジーンズに半袖シャツ1枚の人。ダウンジャケットをしっかり着込んだ人。本来の季節が判らなくなってくるほどに、まちまちだった。
会社員はスーツだから簡単だろうという訳でもない。かく言う夫も、毎朝のように迷っている。
「コーデュロイじゃ、暑苦しく見えるかな?」
「でも、さすがに夏物って訳にはいかないよねえ?」
11月なら、とっくに着ているような服装だが、今年は北風小僧がやってくるのを嫌がっているかのような暖かな日が続いている。まるで季節にからかわれているかのようだ。

熱い珈琲を飲みながら、近未来みたいだな、と思う。クリスマスの装いの街に半袖シャツの人。何処か遠くの星を旅しているような、地に足がつかないような不安定さを一瞬感じ、ふわりと立ちくらみがした。

JR南口改札前のお花屋さん。ポインセチアの赤が眩しかったです。

こちらがパン屋さん『GONTRAN CHERRIER(ゴントラン シェリエ)』

白が基調の店内は、何気なく赤と青が効いたトリコロールカラー。

焼きたてのイカ墨フォカッチャと珈琲の、朝ご飯です。

JR新宿駅南口が見える、明るいカウンターで食べました。

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ブーツの修理

迷いに迷って、決めた。ブーツの修理である。
以前、真冬の箱根に温泉で温まろうと出かけたとき、履いていたブーツのかかとが外れてしまい、慌てて入った靴屋で買ったブーツだ。壊れたのはかなり年季が入ったブーツだったのでショックは大きくなかったが、旅先で靴が壊れるというのは、何とも心許ないものだとすっかり落ち込んでいた。
だが、そこで入った靴屋で見つけたブーツを履いた途端、春の光が射しこんだかのような明るい気持ちになった。ぴっりだったのだ。こんなにぴったりの靴は履いたことがない、というほどだ。

そのブーツを履いて3年ほど。白っぽい色なので汚れが落ちず、爪先などはすり切れている。下駄箱から出してみて、これでは雪の日の長靴代わりにしか履けないと、顔をしかめた。
「何とか、ならないかなあ」
靴を修理できるところを探したが、けっこう値が張る。見積もりをしてもらうと、色を塗り直す必要があり、1万円弱かかるという。
「1万円出せば、新しいブーツ買えるよなあ」
お気に入りのブーツは、普段履きにして、新しいものを買おうかと考えていたら、夫が言った。
「気に入ってるんだったら、修理に出せば? 足に合う靴は、なかなか見つからないもんだよ」
迷いに迷っていたのは、箱根で出会ったときにわくわくしたあのブーツを、もう一度履きたいと思っていたからだったのだ。夫にアドバイスしてもらい、もやもやしていた自分の気持ちがはっきりと判った。
修理には2週間ほどかかるという。
「綺麗になって帰ってくるのを楽しみにしているよ」
修理屋さんで手渡すとき、心のなかでそっと声をかけた。

『旅靴屋』という何故か箱根にあった神戸のお店で購入したブーツ。
正面から撮ると、ほんとうにしみだらけなので斜め後ろから撮影しました。

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ジョウビタキの習性

ジョウビタキが来る季節になった。
だが、今年のジョウビタキは一味違う。これまでコンタクトをとってきた野鳥達は、渡り鳥ではなく常にこの辺りにいるシジュウカラやヤマガラが多かった。人懐っこいキジなどもたまにいるが、まあ、たまにである。

彼のコンタクトの取り方は、印象的だ。彼、雄と判るのは、ジョウビタキは雄、雌の外見がすぐに見分けられるほど違うからだ。
その彼は、2階のベランダに出るドアにやってくる。取っ手にとまって、首を傾げたり、伸ばしたり、きょろきょろしたり。そして、飛ぶ。ドアのガラスに向かう形で上に飛びあがり、ふたたび取っ手に着地する。それを何度も繰り返すのだ。そのさまは、首を伸ばしてもどうにも見えない家のなかが見たくてたまらないというように見える。
こつんこつんとドアに当る音を聞いて、夫が目を細める。
「また、やってるよ」
「何がしたいんだろうね。昨日はリビングの窓からのぞいてたよ」
首を傾げたりしながらこちらをのぞく様子は、何とも可愛らしい。
「我が家に、興味があるのかな?」
「好奇心旺盛な、子なのかもねえ」
ベランダのドアの下には、糞やら木の実やらが散らかっているが、ふたりとも気にしない。ジョウビタキの愛嬌ある仕草にただ微笑むばかりである。

調べれば、ジョウビタキはテリトリー意識の強い鳥らしく、車のミラーや窓などに映った自分の姿をほかの雄だと思い追い払おうとするらしい。イソップの橋の上から川に映った自分を吠えた犬を思い出す。しかし、うちの子に限って、ねえ。とも思うのだ。あどけない顔を見ていると、そんな対戦的な理由ではなく、家のなかをのぞく可愛らしい悪戯のようにしか思えない。
「どう見てもあれは、のぞいてる顔だよねえ」
すでに彼を「うちの子」は違うと、特別視している自分がいた。
  
家のなかはどうなってるのかな? と首を伸ばして覗いてるよう。

ドアの取っ手を、お気に入りの止まり木にしているのでしょうか。
イソップの橋の上の犬のようには思えないんですが。
photo by my husband

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『この世にたやすい仕事はない』

津村記久子の新刊『この世にたやすい仕事はない』(日本経済新聞出版社)を、読んだ。『とにかくうちに帰ります』がおもしろかったので、衝動買いしたのだ。帯には「お仕事ファンタジー小説」とある。
14年間働いた職場を辞めた36歳の女性が、やりたい仕事じゃなくてもいいから、できる仕事をしようと、5つの仕事を転々とする話だ。
最初は、危険物を持っている可能性がある対象者を、室内に設置したカメラで監視する仕事だった。そこで、対象者が見ていたスーパーのチラシを覗き見て、特売輸入ソーセージを買いに走ったところ買い損ね、自分は何をしているのだろうとすっかり落ち込む。そのうえダメ押しのように、そのソーセージを美味しそうに食べる対象者を見てしまう。それも、やはり見損ねたお笑い番組を、大笑いしながら観るところを。以下本文から。

私はいったん、おとといの映像を一時停止して、事務椅子の肘掛に全体重を預けて、がっくりと頭を垂れた。自分は不幸だと思った。いやわかっている。世界には、こんなもの屁でもないようなつらいこと、大変なことがたくさんある。それでも、この瞬間だけは不幸ゲージを最大まで上げさせて欲しい、と思う。すぐ下げるから。あさってくらいには。
やりがいはあったが、質量ともに慢性的に仕事に裏切られているような感じに耐えられず前職を辞め、実家に帰って、失業保険が切れた。しかし、生活を覗かれるよりはましだよなあ、とどこかで思いながら、私は山本山江を監視していた。なのに、そんなことはないということを思い知らされたのだった。

くすくす笑いながら読めるこの小説は、しかし、ラストにはすとんと腑に落ちるものがあった。そう。働くって、生きることなんだよなあ、と。
わたしの仕事は、主な業務は経理事務だが、そのなかには社長である夫のサポート全般という業務がある。もしかしたらこの仕事って、生きることにいちばん近い仕事なのかも知れないなあと、本を閉じ、思ったのだった。

タイトルは、もっと綺麗なショッキングピンクなんですが、
写真には写りませんでした。栞の黄色がぴたりと合っています。
バスでアナウンスされる広告コピーを作る仕事、
おかきの袋の裏にある豆知識を考える仕事、
環境ポスターの貼り替えをする仕事、森林公園の小屋での仕事など、
主人公は、どの仕事にもまじめに取り組んでいきます。

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電池が切れたスケール

騙し騙し使っていた。
毎日、珈琲豆を量るスケールの電池が、失くなりかけていたのだ。
ボタン電池なので買ってこなくてはならず、外して買いにいっても、小さなものだし忘れてしまうことが容易に予想できる。そのうえ、電池自体が小さいのでしょうがないことだが、電池の種類である数字の文字が小さい。十年以上になる老眼を、また騙し騙しコンタクトレンズを変えずに使っているわたしには、読みとることさえもが簡単ではないのだ。

スケールには「8888」の文字がスタート時点で表示される。そのあとすぐに「Lo」と表示されるのは「電池が失くなりかけていますよ」という意味。
「面倒くさいなあ」
真意はまあ、ただそれだけのことなのだが、何故に「8888」は表示できて、重さを量れないのかという意義を込めて、ふたたび三たび「ON」ボタンを押す。すると「しょうがないなあ」といった感じで「0」の表示が出る。
「最後の力を振り絞って、量りますよ」
「そうだ。よしよし。がんばれ!」
そんな会話をスケールと交わす日々だった。が、その電池もついに力尽き、何も表示することができなくなった。

そういえば、キッチンタイマーも表示をあきらめ、ちかちかと力なき光を発している。スケールと同じく、あれば便利だがなくてもなんとかなるものの類だ。そうそう、リビングに飾った陶器の時計も、針を止めたままだった。
それもこれも、わたしのズボラさゆえに、放置されているのだ。
「ごめんねえ」
スケールとキッチンタイマー、陶器の時計。すべて電池を入れ替えた。
やってしまえば、なんともないことなのだが、面倒だなと放っておいていることのなんと多いことか。
新しい数字や時間が表示されると、やはり気持ちがいい。まるで、珈琲豆や時間や今吸い込んだ空気までもが新しくなったようにすっきりとしたのだった。

このときばかりは、脇役ではなく中心にいるスケールさんです。
「最後まで電池を使い切るのは、エコとも言えるよねえ」と、わたし。
「エコのためにやってるとは、到底思えませんでしたよ」と、スケールさん。

夫と飲む二人分の珈琲は、だいたい32gくらい。
スケールでわざわざ量っておいて、くらいって。と自分でもちょっと呆れる。
タニタのこのスケールも、年季が入って来たなあ。

美味しい珈琲が飲めるのも、スケールやドリッパーやヤカンたちのおかげ。
新入りのはりねずみの布巾に、そう話してやりました。

リビング西側の窓に置いた、陶器の時計。イタリアの海だそうです。
キッチンタイマーさんは、またの機会に。

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湯のみに咲いた桜

このところ、毎朝キッチンに立ちながら、桜湯をいただいている。
いただいている、といっても、朝食を作りながら、自分で淹れて飲んでいるだけである。だが湯のみのなかに咲いていく桜の花の上品なたたずまいを見ていると、いただいている、というような気分になるのだ。

先日、所用でお隣りは長野の茅野に行ったとき、駅前のお土産屋さんで桜の塩漬けを見つけた。30gの小さな袋に入ったそれは325円と安価だったこともあり、ふっと桜湯が飲みたくなり、衝動買いした。長野の桜の名所、高遠に以前桜を見に出かけたことを思いだし、その風景が桜の塩漬けのなかに見えたような気持ちになったからかも知れない。

桜色というには、濃いピンクだ。梅酢と塩のみで漬けられているとの記載があるので、梅酢の色なのだろう。
まずは一輪だけ入れて、湯を注いだ。が、ほとんど味がしない。3つほど入れても、やわらかく優しい味だ。それならと、毎朝飲んでいる白湯代わりにいただくことにした。

桜が咲く頃には遠いこの季節に、毎朝、湯のみに咲く花を愛でられる。なんとも贅沢なことである。

原材料と記されているのは、桜花、塩、梅酢のみ。

濃い綺麗なピンク。桜色というよりはピンク色です。

花を3つ入れた桜湯。花がひらくと桜色という雰囲気になります。
結婚式の控室などで、お茶の代わりに出されるようになったのは、
「お茶を濁す」という言葉が縁起のいいものではないからだとか。
縁起など関係ないとしても、華やいだ場所に似合いますね。

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ウッドデッキのペンキ塗り

よく晴れた昨日の土曜日。ウッドデッキのペンキを塗り直した。
傷んだ場所を夫が張り替えてから、寒くなる前に塗らなくちゃと思いつつ、薪ストーブに火を入れる時期までずれ込んでしまったのだ。
しかし、これぞまさにペンキ塗り日和。暑くもなく寒くもなく、風も吹かず、翌日まできちんと晴れて、乾いてくれること請け合いという週末となった。

「考えて塗らないとね」と、夫。
ペンキ塗りは、目の前を見つめる作業。塗っているうちに全体が見えなくなり、自分の周りを塗り潰してしまって、閉じ込められる可能性がある。
「端から、塗っていこう。一応、すべての窓の鍵は開けておいたよ」
「まずは掃いてよ。竹箒でいいから」
「キノコもとるね」わたしの言葉に、夫が苦笑する。
「まったく、どうしてキノコが生えてるんだよ」
「子どもの頃住んでた家の木のお風呂に、キノコ生えてたなあ」
「それ、何回も聞いた」「えーっ、最近言ってないよ」
「じゃあ、たぶん、前にペンキ塗ったときだ」
「デッキにペンキ塗るたびに、思いだすのかなあ」
そんなふうにぽつりぽつりと話しながら、ふたりローラーでペンキを塗っていく。なんとか閉じこめられずに、塗り終わってから、夫が言った。
「我々は、たいへんな失敗をしてしまったかも知れない」
「えっ? なに?」「塗る前に、薪運ぶの忘れてた」
「あー! そうだった!」
薪ストーブに火を入れ始めて、一週間ほどになる。我が家のウッドデッキは西側にあり、いくつかある薪小屋も西にある。毎年のことで、ウッドデッキを上って薪を運ぶスタイルは、すっかり定着している。それなのに。
いつも歩いている場所が通行止めになるということの不便さに、あらためて気づかされたペンキ塗りだった。
薪はどうしたかって? ペンキ塗りに疲れてわたしが昼寝をしている間に、夫が遠回りになる玄関から運んでおいてくれました。感謝しております。

「おまえんとこじゃ、デッキでキノコ栽培してんのか」と夫の友人。
栽培はしていません! 勝手に生えてくるだけなんです!

使用前? 塗る前、の風景です。

使用後? 塗ったあとです。すごく綺麗になったんだけど、
写真には、なかなかそれが写りませんでした・・・。

いつもウッドデッキに野菜を置いていってくれる農家さんのために、
はり紙をしました。いや。すぐに忘れそうなわたしのために、かな?

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笠雲をかぶった富士山

朝7時過ぎ。夫を韮崎駅へと送る車中、少し霞んだ富士山が見えた。
笠をかぶっている。深まる秋の冷たい朝の空気に似合う、くすんだ空色の富士山のてっぺんに、そこから風に流され横に外れていったのだろう。三角が広がっていく途中、というような形の雲が見えた。
「綺麗だねえ」運転する夫と共に、眺める。
韮崎駅までは、富士山に向かって走るので、ゆっくりと眺められるのだ。
いつでも見られる場所に住んでいても、富士山が見えるといいことがあったような気分になるのは何故だろう。

帰宅して、空の図鑑とも言える『空の名前』光琳社出版を開いた。
山頂にかかる三角の山形の雲は「笠雲」
それが流れていくと「つるし雲」とも呼ばれるらしい。
そこで、ふと目を留めたのは「風の伯爵夫人」という名だった。
イタリアのシシリー島の人々は、エトナ山の山頂付近にできる笠雲やつるし雲を「風の伯爵夫人」と呼んでいます、とある。
江戸の頃、入道雲を「坂東太郎」と呼んだそうだが、お国が変わっても人に例えた名がつけられていたとは。

山にかかる笠雲やつるし雲は、強風を告げる。
『空の名前』には、そうかかれていた。昨日も例外ではなく、強い木枯らしが吹き、木々の葉をずいぶんと散らしていった。
イタリアでは「伯爵夫人」と言えば、風を吹き荒らし通り過ぎるような女性が多かったのだろうかと、揺れる林の木々を眺め、想像を膨らませたのだった。

東山魁夷の絵のような稜線。ファンタジックな雰囲気でした。
右上の足跡のような雲が、イメージを広げていきます。

韮崎駅方面へ向かう農道。稲刈りもすっかり終わりましたねえ。
帰り道、ちらりと見ると、雲はすっかり散らばっていました。

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柿の葉色のとんぼ

洗濯物を干していて、ウッドデッキにとまっていたとんぼに目を留めた。
季節柄よく見かけるようになった、赤とんぼとはまた違う面持ちだ。緑というかブルーというか、寒色系の眼をしている。しかし、同じ寒色であるシオカラトンボのすっきりスマートな水色とも違うやわらかな雰囲気を感じ、じっと見つめた。調べるとダビドサナエというらしい。

その色を見ていて、行きつけの美容室『ETT』での話を思い出した。
簡単にパーソナル・カラー診断をしてもらったのだ。わたしはフォーシーズン・カラーで言うと、オータム。イエローが肌のベースになっている、秋らしい落ち着いた色合いの服装が似合うタイプだとか。
それぞれの季節に合う色が図鑑のように載っているカラーの綺麗な本を見せてもらい、ふむふむとページをめくると、意外に思ったことがあった。
「オータムでも、一概に暖色系が似合うって訳じゃないんだねえ」
「そうなんです。ブルーや紫のなかにも、黄みがかった肌のオータムやスプリングの人にも合う色があるんですよ」
「そういえば、ターコイズは好きで、よく着るなあ」
「ターコイズ、オータムの肌の人には似合う色なんですよねえ」

緑がかったブルーの眼をしたダビドサナエは、道々見かける柿の木の様子と、色合いがとても似ているように思えた。紅葉し始め緑がくすんだ葉と日々色づいていく橙色の柿の実。ブルーなのにやわらかな感じがしたのはそのせいか。
「見慣れないとんぼがいるよ」
夫を呼んで、ウッドデッキに戻ると、もう飛び立ったあとだった。

ウッドデッキで休んでいた、ダビドサナエ。
早苗の頃、春に飛び始めるとんぼだそうですが、秋の色を感じました。

通り道にある柿の木です。たわわに実っています。
まさに、オータムカラ―ですね。

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野鳥達のリサイクル精神

野鳥達が、ウッドデッキに飛んでくる季節になった。
とは言っても、まだ餌となる向日葵の種を撒いている訳ではない。
「おまえら、甘えてんじゃないよ。まだまだ、食い物あるだろ」
夫は、目を細めながらも、野鳥達に言う。
野山には、虫も木の実も豊富なこの季節から餌を撒いてしまっては、彼らの自生能力が低下してしまうと心配しているのかも知れない。

それでも彼らが飛びまわり、ピィピィとかジィジィとかにぎやかな声が聞こえることに、気持ちが和む。
「北側の蜂の巣、鳥が使ってるよ」そんな折、夫が言った。
北側の外板にあるキイロスズメバチの巣の残骸を見にいくと、確かに、鳥が敷きつめたらしい藁のようなものが、蜂の巣のなかに見えた。
3年前に作られたものだが、キイロスズメバチは同じ巣をふたたび使うことはないらしく、今では鳥に穴をあけられ無残な姿になっている。片づけることも考えたが、高所の危険な作業になるので、いまだそのままになっているのだ。それを野鳥達が、今度は使っている。
「まったく、たくましいねえ。何でも利用するんだね、彼らは」

究極のリサイクルだな、と考えつつ眺めた。
人のように、リサイクルできるものはしなくちゃと環境を考えて行動している訳ではなかろう。使えるものは使う。いたってシンプルな考えをもとに、行動しているだけなのだ。考えれば、彼らの生活はすべてがリサイクルなのだ。
自然のなかで生活する生き物達に、教えられることは数知れない。

キイロスズメバチの巣です。下部に藁のようなものが見えます。
彼らの、いや巣の? 現役時代の写真はこちら → 『好奇心もほどほどに』

アップにすると、蜂の巣の形も、まだまだくっきりと見えます。

カメラをひくと、こんな感じ。逆光でよく見えませんが、
北側のいちばん高い場所に、位置しています。

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『見知らぬ妻へ』

浅田次郎の短編集『見知らぬ妻へ』(光文社文庫)を、読んだ。
久しぶりに読んだ、浅田次郎の文章は、ため息が出るほど綺麗だった。
以下、コーとナオミのひと夏の恋『踊り子』から。

いつも花をくわえたように引き締まっていたナオミの唇が帯のゆるむようにしてしどけなく壊れた。素顔の瞼のふちに涙をたたえてナオミは小さく叫んだ。
「コー」
ベルが鳴りおえ、ほんの一瞬の静寂の間に、僕はナオミの白い頬を両手で被って口づけをした。心から愛した踊り子の唇は、甘いミントの味がした。ホームの廂間(ひあわい)から大粒の滴が流れて、僕らの額を濡らした。
愛らしい舌先が僕の口にチューインガムを送り届け、僕はそれをいちど舌で転がしてから、また彼女の口に返した。
それが僕とナオミの最後の会話だった。
ドアが閉まり、列車は雨を吹き散らしながら動き出した。ほんの何歩か後を追って、僕は歩くのをやめた。ガラスの中で白い花のように翻っていたナオミの掌は、すぐに見えなくなった。

うん。美しい。いいなあ。
8編の小説は、どれを読んでも涙をこぼすことはなかったが、なつかしいメロディを聴いたときのように泣きたくなるものばかりだった。
なかでも『スターダスト・レビュー』の主人公、元チェリストの圭二の頭によぎった考えが、強く胸に残った。
それぞれ関係のないところで一度にいくつもの問題が起こり、頭を悩ませていた彼は、ふと考えるのだ。これは、オーケストラのパート・スコアのようなもので、意を決して指揮台に上がりタクトを一振りすれば、何ごともなかったかのようにシンフォニーが始まるのではないかと。

人は、いくつもの問題が重なればどうしてこうも重なるのだと嘆き、順番に問題が起これば誰かが見ていたかのように順々に起こるとため息をつく。そしてたぶん、意を決してタクトを振ることは、なかなかできないことなのだろう。わたしも煩雑な問題に、やはりタクトを振ることはせず、目をつぶって肩をすくめシンフォニーにはならないいくつものパートに耳を澄ませることにした。

なかに挟んであった栞の色が、タイトルと同系色だったのは、
意識してのことでしょうか。だとしたら、すごいな。光文社。
絵の帽子にタイトルがかぶってしまっているのが、ちょっと惜しい。

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大根サラダ効果

「買い物、どうする?」「面倒くさいね」
ヴァンフォーレ甲府が、J1残留を決めた土曜日。スタジアムまで足を運び、観戦した帰りの車での会話だ。
J1残留を決めたら、祝いの酒盛りだねと相談もしていたのだが、ここへ来てのまさかの夏日。汗をかいての観戦で身体に堪えていたし、対戦相手がトップを走るサンフレッチェだとはいえ0 – 2の完敗で残留が決まったことで、心に堪えてもいた。まあ、残留でホッとしたことも手伝って、心身ともに脱力状態だったのだろう。

「肉も魚もあるけど、野菜がないなあ。玉葱、じゃが芋、人参しかない」
そこで、夫が明るいニュースを口にした。
「そういえば、大根持って来てくれるって言ってた」
午前中に会った、はす向かいの家庭菜園をしているご近所さんに、大根はいるかと聞かれたのだそうだ。
「やったあ! じゃ、大根サラダにしよう。買い物は、もういいね」
「いいねえ。大根サラダ」すぐに相談は、まとまった。

帰宅すると、玄関の取っ手に、大根の葉がはみ出したビニール袋が掛けてあり、なかには白く美しい大根が2本入っていた。
すぐに、千切りにとりかかる。真っ白い大根を千切りにするのは、大好きな作業だ。ゆっくりと時間をかけて、丁寧に刻んだ。
瑞々しく白い大根のなかに包丁を入れていくと、心のなかまで瑞々しく白くなっていくような気がする。そして、フラットな心持ちに立ち戻る。白い色には、たぶんそういう効果があるのだろう。

ヴァンフォーレの残留を祝って乾杯し、大根サラダを食べる頃には、来年、新しいシーズンもがんばって応援しようという、真新しい気持ちになっていた。
いやいや。今シーズンも、まだあと2試合あるんだったっけ。
がんばれ! ヴァンフォーレ甲府!

短い大根って可愛いです。洗ったものをくださる気づかいにも感謝。
葉っぱも、炒め煮にして、美味しくいただきました。

大根の千切りって、白くて透明感があって、ほんと綺麗だなあ。

帆立缶と塩、粗挽き黒胡椒とマヨネーズで和えて。
ふたりで2本、完食しました。瑞々しかった!

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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