はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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数字達の表情に思う

数字の並びに、ふと目を留めることがある。
例えば時計を見て「2:01」と並んだ時間に、2月1日生まれのわたしは、自然と親近感が湧く。それは夫の誕生日であっても、子ども達の誕生日であっても、果ては両親や妹、弟の誕生日などでも同じことだ。意味のない時間や車のナンバーが、親しみを込めたウインクを送ってきたかのように感じる。さっきまで見ず知らずだと思っていた後ろ姿が、じつは親しい人だと判った時のような感覚、とでも言うのだろうか。
なのでホテルの部屋など、狭い場所では、デジタル時計の数字が変わるだけで、部屋の雰囲気も変わったように感じることがある。わたしのなかでは、親しい数字と、そうではない数字があるようだ。

数字占いのようなものはよく判らないが、ただ、その数字が持つ雰囲気もまた、影響しているのかも知れない。例えば、1は始まりだとか、5は半分、または真ん中に位置しているとか、7はラッキーナンバーだとか。そういう一つ一つの数字の表情が、並んだ数字にも表情を与えていくのだろう。そうやって、数字に限らず小さなモノの表情を感じる瞬間が、わたしは好きだ。

それでも先月、年末調整の書類に書き写したマイナンバーに、心魅かれることはなかった。わたしの理解できる範囲は4桁くらいが精一杯なのかも知れないが、デジタル時計の表情に目を留めつつも、果てしないデジタル化の波にのまれていく不安を消し去ることはできないのだと感じたこともまた、事実だ。

とは言っても、我が家にあるのはアナログな時計さんばかり。
ウイスキーの樽をリサイクルした、秒針までついた時計です。

友人かよちゃんの雑貨屋さん『マッシュノート』の掛け時計。
ナタリー・レテのふくろうの絵が、とっても気に入っています。

アンティークな時計の隣にいるのは、鉄細工のお香立てです。
芽吹いた双葉がモチーフの、可愛いやつです。

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を読んだ。主人公、多崎つくるの高校時代の親友達4人は、それぞれ苗字に色を持っていた。アカ、アオ(男子)、シロ、クロ(女子)と呼び合っていて、つくるだけ色を持っていなかったが、その5人組を「乱れなく調和する共同体」であると確信するのに、色は必要なかった。しかし二十歳の夏、つくるは4人から一方的に絶交を言い渡される。それはつくるにとって、何もかもを変えてしまう大きな出来事だった。つくるは、色彩を持たない自分をつまらない人間だと考えるようになり、36歳になった今も、人と深くかかわることに対し臆病になっていた。それが、年上のガールフレンド沙羅に出会い、何かが動き始める。以下本文から。

「あなたの頭には、あるいは心には、それともその両方には、まだそのときの傷が残っている。多分かなりはっきりと。なのに自分がなぜそんな目にあわされたのかこの十五年か十六年のその間その理由を追及しようともしなかった」
「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」
沙羅は薄い唇をいったんまっすぐ結び、それから言った。
「それはきっと危険なことよ」
「危険なこと」つくるは言った。「どんな風に?」
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」
沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。
「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」

つくるは、沙羅に促されるまま、4人に会いに行く。そのうちのひとりクロは結婚し、遠くフィンランドにいた。
村上春樹の長編のなかでは、読後、明るい気持ちになれる小説だった。
それはたぶん、つくるの心と身体の健康さにあるのだと思った。過去をありのままに肯定し、受け入れられるだけの健康さを彼は持っていた。そして一つ受け入れるたびに、沙羅への思いが変化していくさまに温かな心持ちになった。
ニューヨークタイムズでベストセラー第1位に輝いたという、この小説。
誰もが深いところに沈め、もてあましている記憶を少なからず持っているということかな。それが、共感を呼んだのかも知れない。

個人的に、新刊よりも文庫の装幀の方が好きです。
色が混ざり合う雰囲気に、心の混沌を連想させられるからかな。
レビューを読んでみたら酷評が多くてびっくりしましたが、
読み方いろいろ ~ 楽しんで読むことをおススメします。

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春に向かっている

一年でいちばん日が短いとされる冬至から、半月ほどが経った。
きのうの北杜市明野町の日の出は、午前6時56分。日の入りは午後4時46分。わずか10分ほどだが、冬至の頃と比べると日が長くなっている。
12月の朝5時半に起きるとき、外は真っ暗だった。それが今では、窓から射し込む日の出近くの明るさを感じられ、ホッとする。
ああ、春に向かっているんだな、と感じるのだ。

これから、朝が少しずつ明るくなっていく。そう思うと気持ちも明るくなる。
冬本番の厳しい寒さはこれからなのだが、春は確実に近づいてきている。
玄関の雪柳の蕾が膨らむさまを見て、やはり思うのだ。
ああ、春に向かっているんだ、と。

仕事初めの5日、日の出時刻の富士山。韮崎に向かう農道で。

ちょっと富士山寄りにして撮ると、こんな感じです。

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パクチーニュース

正月休み最終日の4日、海老団子鍋をしようということになった。和風の味は、御節で堪能したということで、アジアンな鍋が食べたくなったのだ。

粗く刻んだプリプリの食感の海老と豚挽肉をよく練り混ぜた団子を、ナンプラーだけで味つけした汁に落としていく。他の具材は、舞茸のみ。食べるときに、たっぷりのパクチーをのせ、レモンを絞る。シンプル料理だ。
シンプル料理だけに欠かせないのが、パクチーやレモン。
ここ山梨の田舎では、これまでパクチーがなかなか手に入らなかった。いつも行く隣町のスーパーで目にすることはなく、本気で買おうと思ったら隣の隣の市にあるショッピングモールまで行かなくてはならなかった。ところが最近うれしいことに、いつものスーパーでパクチーを見かけるようになった。「これさえあればエスニック」とかかれた袋に入っている。需要が増えたのだろう。スーパーの陳列棚にパクチーの居場所ができたのだ。

都会では、パクチー人気が高まっていると聞く。パクチー食べ放題のエスニックカフェができたり、話題となったパクチードレッシングが売り切れになったり。そんな世のニュースになるようなことではないが、隣町のスーパーの棚にいつもパクチーが置いてある。これは田舎で暮らすわたしにとって、新聞の一面を飾ってもいいほどの大ニュース。うれしい一大事なのである。
こうして、隣町のスーパーと流通とパクチーを作っている農家さんに感謝しつつ、明日からまたがんばるぞ、とパクチー鍋、いや違った。海老団子鍋を美味しくいただいたのだった。

タイ語でパクチー、英語でコリアンダー、和名ではコエンドロ、
中国語で香菜(シャンツァイ)と呼ばれているそうです。

レモンをたっぷり絞って。ライムでも合いますね。
海老団子は、塩、粗挽き黒胡椒、酒と水を少々プラスして練ります。

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落としたものは、拾えばいい

とんがりビーニーが、完成した。しつこいようだが、上の娘が参加するというミニオンズランのために編んでいたものだ。
こういうシンプルなニット帽を「ビーニー」と呼ぶことすら知らなかったが、去年の秋発行の編み物本に載っていたのだから、最近はそう呼ぶ方が洒落ているのだろうか。
「トップを長めに編んだビーニーは、とんがらせてかぶるのがお洒落」
編み物本にかいてあるまま、帰省していた娘に言うと、
「なんで、とんがり?」と怪訝な顔をしたが、
「かぶってね!」と、語気強く言うと、あきらめたようにうなずいた。

久しぶりに編み物をして思ったのは、目を落とすことが多くなったということだ。十年以上のブランクがあったとはいえ、これは落としすぎでしょう、と自分でも呆れるくらい落としていた。しかし、編み物のいいところは、次の段で落とした目を拾うことができるところだ。まあ、そのせいで編み目が不揃いにもなる訳だが、そのくらいの方が手編みらしくていいかと気にせず編んでいったのは、20代の頃と変わらない。

落とした目を拾いながら、その多さに、最近、物忘れがひどすぎると気にしていた自分の記憶と、比例しているようにも感じた。そして、なあんだ、と思った。落とした記憶も、一つ一つ丁寧に拾っていけばいいんだと。いくら目を落としても、ちゃんと拾っていけば、ビーニーだってできあがる。毎日の生活も仕事も、落とした分だけ拾っていけばいいと思ったのだ。
さて。次は、何を編もうかな。

よく見ると、ほんと編み目、不揃い(笑)明るい色っていいですね。
鍵針セットは、20代の頃に買ったものです。物持ちいいなあ。

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新しく始まっていく

帰省していた娘達が東京に戻った3日、夫と初詣でに行った。
お隣は韮崎市の『武田八幡宮』人出は多くないが、古く歴史ある神社だ。山になった森を背負う雰囲気も好きで、毎年詣でている。
「あったかいねえ」と、夫。
「ここに初詣でして、こんなに暖かかったの、初めてだよね」と、わたし。
穏やかな正月である。暖かな陽射しに、森のなかを歩く足どりも軽くなる。いつもなら目にも留めない石段や枯葉の上に散らばったどんぐりさえ、やわらかな気持ちで見つめたくなる。

この無数のどんぐり達のなかで、芽吹き、木となり育っていくものはあるのだろうか。ぼんやりと考えた。考えた途端、大きな杉の大木や、細いクヌギの木や、花をつけた椿や、様々な木々のささやきが聴こえた気がした。
そうか。この森の木、一本一本が、何年か前、何十年か前に、芽吹き、枝葉を伸ばし、年輪を重ねてきたのだ。そしてその時の流れのなかに、これから芽吹く木々も混ざりあっていくのだろう。

暖かな正月。森の息吹きを感じ、ああ、今この瞬間からも、きっと何かが新しく始まっていくのだなあと、木々のささやきに耳を傾けた。

『武田八幡宮』入口。「祝ノーベル賞・大村智博士」の看板も。

足もとに落ちていた、数えきれないほどのどんぐり達です。

大きな杉の木が中心となった森のなかの、雰囲気のある神社です。

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まわるものになって

まだ三日坊主にも満たないが、年が明けてから毎日体操をしている。去年覚えた肩ポン体操だ。右手で左肩をポンとたたき、左手で右肩をポンとたたく。それを繰り返すだけの簡単な体操だが、遠心力も手伝ってくれるので、汗もかくし、気持ちがいい。肩凝りも、少し楽になる。

リビングで体操をしているのだが、身体を動かしながら目に留まるものがある。薪ストーブの上で回るエコファンだ。ストーブが温まるとその熱で回るようになっていて、温風を部屋に送ってくれる優れもの。そして、こちらは電気で回っているのだが、天井に取りつけたファンも、見える。肩ポン体操は、正面を向くパターンと上を仰ぎスピードを増すパターンがあり、二つのファンが回っているさまが、パターンごとに見えるのだ。

何故、目を留めたのかと言えば、なんと親近感を覚えてのこと。
自分が遠心力に任せ回っているものだから、ファン達が回っているのが、ああ、彼らもがんばっていると思えるのだ。
「ピポピポ、ポポ、ピピピ」
暮れに観た映画『スターウォーズ/フォースの覚醒』のボール型ドロイドBB-8の声ともつかない声を真似てみる。思えば映画を観て、くるくる回るBB-8に一目惚れしていた。まわるものに対する親近感は、すでにその時点で生まれていたのかも知れない。なかなか体操習慣が身につかないわたしだが、そうだ。BB-8になったつもりで、今年は肩ポン体操、続けるぞ!
「それにしても、BB-8、可愛かったなあ」
『スターウォーズ』の感想は、どうかいたところでネタバレになりそうなので、かかないけれど。

薪ストーブの上で回っているのが、エコファン。可愛い奴です。

その上で、温まった空気を下してくれているファンが回っています。

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パノラマの視点で

元旦は、雲一つない快晴で、澄み渡った空気に山々がくっきりと見えていた。夫婦ふたり、雪化粧した八ヶ岳に向かうように、散歩に出かけた。
「赤松、ずいぶん減ったなあ」と、夫。
「ほんと、しばらく見ないうちに、何本も倒れてるね」と、わたし。
車で走るのとは違い、ゆっくり歩くと、いつもは見えないものが見えてくる。あちらこちらの林では赤松が病んで倒れ、少しずつ姿を変えていた。
林のなかとはいえ、家のなかにいては見えない自然の厳しさを、冷たい風に吹かれながら感じた。

15分ほど歩くと、八ヶ岳と南アルプスが見渡せる気持ちのいい場所に着き、思わず深呼吸をする。カメラを構えると、夫が言った。
「それ、パノラマ撮影できないの?」
操作が簡単なコンパクトデジカメであるが、メニューを開くと「かんたんパノラマ180度」がすぐに見つかった。
「お、できるみたい。知らなかった」
シャッターを切りながら、ゆっくりと横へスライドさせていく。やってみると、何度か失敗したが、なんとか1枚撮れた。
カメラと一緒に身体を動かしながら、不思議な感じがした。
一度に見ることのない南アルプスは鳳凰三山と八ヶ岳。すぐ横を向けば見える風景は、じつは一度には見えていない。今、見えていない部分というのは案外多いものなのだなあと思ったのだ。
パノラマ写真を撮るときのように、じっくりゆっくり視点をスライドさせながら、周りを見つめるのもまたいいものだ。小さなカメラに、教わった。

かんたんパノラマで撮った写真が、これです。

八ヶ岳は、最高峰の赤岳がずいぶんと白くなってきました。

こちらは、パノラマ左側、南アルプスは鳳凰三山と甲斐駒ケ岳。

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同じ時代を生きている

このところ車で走るたびに、シェリル・クロウのCD『Very Best of Sheryl Crow 』ばかり聴いていた。末娘に貸していたCDが却ってきて、久しぶりに聞いたら止められなくなったのだ。
特別、シェリル・クロウのファンという訳ではない。もう十年以上前になるが40歳の誕生祝いにと、妹に貰ったCDがこれだった。
「同じ40歳のシェリルにしたよ」
永遠に同い年である女性、シェリル・クロウの歌は、すっとわたしのなかに入り込み、けっこう辛いときなんかによく聴いた気がする。

久しぶりにシェリルを聴き、同い年という不思議に思いを馳せた。
同じ時代に生きているのだなあ、と。
末娘は、もちろんシェリルと同い年ではないが、助手席で彼女の歌を聴き、気に入ったのだろう。突然、聴きたくなったのか、CDを貸してとメールが来た。娘が聴くシェリルは、わたしが聴くシェリルとは違うのかも知れないが、同じ時代に生きているってことに変わりはない。

今、この時代に生きているからこそ、聴ける音楽があり、読める本がある。そして、出会うことができる人がいる。そう考えると、この時代に生きていることをもっと楽しみたい、と思えてくる。そして、今この同じ時代に生きている人に、幸あれとも。

御節のお煮しめを一つ一つ煮ながら、この蓮根も、この牛蒡も、
今、同じ時代を生きる人が作ったものなのだなあと考えました。
ひとりが生きる一生のうち、いったい何人の人が関わり、
支えられているのだろうと、気の遠くなる思いがしました。
☆ あけましておめでとうございます。
  今年も、一日一日大切にかいていきますので、
          よろしくお願いいたします ☆

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師走に届いた『佐久の花』

新年を迎えるにあたり、日本酒の一升瓶を取り寄せた。
佐久に何度足を運んでも見つけられなかった『佐久の花』だ。
夏に氷見までドライブした際、休憩がてら立ち寄った酒屋『深澤酒店』で見つけたのだ。そのときにも、喜び勇んで2本買って帰ったのだが、それからまた『佐久の花』切れ状態が続いていた。
「あのお店、調べて頼んでみようよ」
ふたりパソコンで検索すると、あっけなく見つかり、電話をすると2日後には届いていた。ネット社会に感謝である。

酒には、夏に会ったであろう女店主の手紙が添えてあった。
忙しい師走、ご自愛あれとの内容だったが、その師走について、興味深いことがかかれていた。
師走とは、本来「十二月」をそう読んだところから「師走」と当て字をしたらしいということ。また「し」は「仕事」「四季」「年」の意味があり、それが「果す」終わるのだとも言われていること。師が走るほど忙しい月と意味づけられたのは、後づけらしいということ。
「ほう」と、感心しながら、手紙を読んだ。
酒にこだわる人は、言葉にもこだわるものなのだなあと思ったのだ。
今年も、その師走が、足早に過ぎていく。

文字が逆さになっているのは「裏佐久」と呼ばれているお酒です。
裏から見ると、正しく読めるラベルが見えるようになっています。
☆ 今年も1年、読んでくださってありがとうございました ☆

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小間切れの時間を紡いで

上の娘のミニオンズランに向けて編み始めた帽子が、帽子の形を成してきた。うれしい。少しずつ編み上がっていくさまが、こんなにも楽しいことだとは、はたと忘れていた。
暮れの忙しいときに、何と呑気なと言われそうであるが、編んでいる時間は、小間切れだ。夫を車で待つ時間や、夜、夫婦ふたり酒を呑みながらしゃべったりしているときに、手を動かしている。

そうだった、と思い出す。小間切れの時間にできるのが編み物なのだ。すぐに持って編み始められるし、すっと止められる。だから子ども達が幼かった、今よりもっと時間が小間切れになってしまうことが多かった頃にも、編むことができたのだ。読書も同じ。電車のなかや待ち時間に本を開けば、その世界に入って行けるし、閉じれば現実にすぐに戻れる。映画は、一気に最後まで観る方が楽しめるだろうが、本は、自分のぺースで読めばいいのだと思っている。

そう考えると、読書や編み物が好きになったのは、そんな小間切れ時間を長く過ごしたせいもあるのかも知れない。
何をしていたって「お母さーん」と呼ばれれば、手を止めなくてはならなかった頃。時間が小間切れにされるストレスは、母親なら、いや、お父さんもかな。子育て中にみな抱えることだろう。読書や編み物は、そんなストレスを、少しは緩和してくれていたのかな。
ミニオンズ色の帽子を編みながら、もう遠くなった昔を思いだしていた。

炬燵に入ってしまうと、出るのが億劫になりますよね。冬の魔法(笑)
紙袋にまとめて入れておくと、何処でも編めます。

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凍った白い月

「全国的に、この冬一番の冷え込みとなりました」
朝のニュースでそう聞いた昨日の午前6時半。車のドアを開けるとき、ばりっと音がした。凍っていたのだ。
「うわ、マイナス3℃だよ」と、車の表示を見て、夫。
「車も凍る訳だねえ」と、わたし。
今年の冬は、スタートが暖かかったので、まだ床暖房も入れていない。リビングは薪ストーブと炬燵だけでじゅうぶんに暖かいが、正月にかけて娘達が帰ってくるし、そろそろ試運転しておいた方がいいだろう。

凍った朝は、山が綺麗だ。
南アルプスがそびえる東側の空には、白い月が浮かんでいる。手にとってパリンと割れそうな薄氷のようだ。
眺めながら、月も凍るのだろうか、と考えてみる。
実際の月は、表面温度がプラス100℃以上にも、マイナス100℃以下にもなるそうだ。手にとってパリンと割れそうな月とは、異なるものである。
想像の域を超えたものを捉えようとするときにも、人は自分の領域内で賄おうとしてしまうものなのだろう。
そう考えると、実際の月よりも「お月さま」と呼ぶ、うさぎが餅つきをする月の方が、わたしのなかでは近しいもののようにも思えてくる。
知識ではなく、今、目に見えているものを捉えたい。凍った朝の山々に、薄氷のような月に、思った。

富士山にも雲一つかかっていませんでした。陽が昇ったばかりの顔です。

最低気温の表示はマイナス4℃でした。車も凍るはずですね。

帰り道に撮った南アルプスは甲斐駒ケ岳。凍った白い月と一緒に。

八ヶ岳です。定点観測の場所ではなく、村道から撮ってみました。
明野町になってからも、村だった頃の名残で村道と呼んでしまいます。

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おしぼりと気づかい

忘年会。クリスマス。新年会。酒の席が重なる季節である。
そんな席で、最近うれしいと思うことがある。
最初に熱いおしぼりを出してくれるところは多いが、そのおしぼりにうっすらと香りがついていることがあるのだ。どのくらいの香りかといえば、香りつきのハンドクリームを塗った手を拭ったとき、自分の手が香ったのか、おしぼりが香ったのか、戸惑うほどのやわらかい香りだ。
小さな気づかいだが、思いがけずうれしく、気持ちまですっきりとする。
「これ、いい香りですね」
「レモングラスなんですよ」
そんな会話を交わせるようなお店は、食事も酒も器も雰囲気も、こだわりや気づかいを感じさせるものにあふれているように感じるのは、気のせいではないだろう。日々の生活のなかでも、そんな小さな気づかい、大切にしたいな。

クリスマスは麹町にあるイタリアン『DiVino』で夫と食事しました。
真っ白なテーブルクロスにお皿、白いカーネーションが、シンプルお洒落。
おしぼりは、ペパーミントのような爽やかな香りがしました。

前菜は、穴子のロートロと香味野菜のスカペーチェ。

メインのビステッカは、レアでさっぱりと焼き上げられていました。
『DiVino』のお料理には、素材、調理法一つ一つにこだわり抜き、
工夫や挑戦、そして気づかいも忘れない美味しさと心地よさがあります。

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『ワン・モア』

桜木紫乃の短編連作『ワン・モア』(角川文庫)を、読んだ。
帯には「人生っていいね。って言いたくなる・・・。みんなつらいことはあるけれど立ち直れる」とある。タイトルの「もう一度」の意味合いそのままに、登場人物達はあきらめてしまいそうになるぎりぎりのところで、その先へと行ってみようとする。もう一度だけ、やってみようと。

余命を宣告された開業内科医の鈴音は、別れた夫とよりを戻そうとし、安楽死事件を起こし失墜した元同僚の美和は、鈴音を生かすために鈴音のあとを継ぐ決意をする。患者、赤沢への思いを最後の恋だと感じ戸惑う看護婦、浦田寿美子。鈴音を思い続ける放射線技師、八木。病院にDV患者を担ぎ込んだ本屋の店長、佐藤などが短編の主役として脇役を固める。
鈴音は、自分の分身のように可愛がっているミニチュアシュナウザー犬、リンに子どもを産ませることにした。5匹のうちの1匹は自分が、あとの4匹は幸せな人に里親となってもらおうと決めて。以下本文から。

だいたい一週間あれば、と泣きながら思っていた。そのくらいの時間があれば浮上できる。経験則だ。赤沢はどうだろうか。似たようなものだろうと思えば間違いはなさそうだ。みんな、通り過ぎていく。リンが今抱えているお産の痛みも同じなのだろう。
居間がしんと凪いだ気配に包まれた。短く荒い呼吸を繰り返し、リンは一匹目の子犬を産んだ。深い息をひとつ吐いて舌先で胎盤を破る。みな、新しい命に釘付けだった。
「あぁ、男の子だ」
母となったリンに舐められながら、ころりとした黒い塊がちいさくあくびをした。どれどれと美和が産箱に近づいてきた。居間全体が、言葉にならない温かいもので包まれていた。リンは「くぅん」と細く鳴いたあと、十分ほどかかって二匹目の子犬を産み落とした。今度はプラチナホワイトのメスだった。
鈴音が「わぁ」と言って喜んでいる。
「白衣の天使みたいだ。浦田さん、この子どう?」
「ありがとうございます。この子にします」
寿美子は産箱の中でリンに舐められている白い子犬を見た。

長く生きていると、あきらめてしまった方が楽だと思えることが、ことのほか多いと気づく。だけど、もう一度だけ。そんな思いが詰まった小説だった。

『ホテルローヤル』で直木賞を受賞する2年前にかかれた小説です。
解説、北上次郎は、
「ここから桜木紫乃の第2ステージが始まっていく」と絶賛していました。

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黒曜石のなかの光と影

先日、所用で長野県は茅野駅に行った際、ホームの大きなオブジェに目を魅かれた。八ヶ岳で採石された黒曜石だという。
遠目に見ると、ただの黒っぽい石なのだが、近づいて見ると、町内の埋蔵文化センターで見たものと同様、輝きがある部分を持っている。黒く光る石には、見るものを惹きつける魅力があるようだ。明るく透き通ったものに感じるまっすぐな美しさとは違い、見通せないものに対する恐れや怪しさが漂っている。そういうところに惹かれるのかも知れない。

石には、石言葉なるものがあるという。
黒曜石の石言葉の一つは「潜在能力の開花」
人の心の光と影を映し出す鏡、とも言われているそうだ。心を守るように包んでいる弱さをとり払い、その奥にある真の自分を引き出す力があるのだとか。
パワーストーンの効果のほどは、よく判らない。
だが、黒曜石の怪しい黒を見ていると、何かしらエネルギーを持っているようにも感じる。掌でそっと触れてみると、その冷たさに一瞬、バランスを失ったような何処に立っているのか判らなくなったような、危うい感覚に囚われた。

信州産黒曜石は、和田峠や八ヶ岳冷山などで産出し、旧石器時代から
縄文時代まで、狩猟用の矢尻、調理用ナイフなどに重用されたそうです。

光っているところと濁っているところの違いは何なのでしょうか。

石の裏に回ると、茅野駅の標高がかかれていました。790メートル。
標高約600メートルの我が家より、冬はずいぶんと厳しいのでしょう。

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ジェルネイルな日々

先週、クリスマスを前にジェルネイルをしてもらった。
明るいピンクと薄く落ち着いたピンクのツートンで、わたしの指には少し明るすぎるようにも感じるが、例えば毎朝、洗面所の鏡を見ながら、頬に化粧水をつける指を見るたびに華やいだ気持ちになり、ああ、ネイルっていいものだなあと実感している。

ジェルネイルは、聞いていた以上に丈夫で、マニュキアを塗ったのとは大違い。簡単にはがれたりせず、逆に爪を守ってくれている。マニュキアとの違いは、通気性にもある。爪の呼吸を妨げず、劣化を防いでもくれるらしい。

しかし、それでも大切にしようという気持ちが働くのか、ぶつけないように、ひっかけたりしないように注意するようになった。缶詰のプルトップをムリムリ爪で開けたりしなくなったし、軍手をするのを面倒がり素手で薪を運ぶこともなくなった。ハンドクリームも頻繁に塗るようになった。これまで如何に手や爪を大切にしようという気持ちを持たず生活していたのかが、よく判る。なにしろ、がさつなのだ。これでは、例え世界一美しい手の持ち主であったとしても、手のモデルにはなれまい。無論、世界一美しい手である訳もなく、捕らぬ狸の皮算用にもならないのだが。

そんなジェルネイルな日々を送るなか、夫との会話によく使うギャグがひとつ、追加された。
「年賀状の宛名ラベル、貼っておいてくれないかなあ。ほら、俺、薪の切り出しで、右手傷めちゃったから」と、夫。
「うーん、できるかなあ。ほら、わたし、爪綺麗だから」
そう言うたび、彼は苦笑するのみである。いや、もちろん賀状のラベル貼りはわたしの右手くんと左手くんがやった訳なんだけど。

photo by my husband
手を撮るのって、意外と難しいものなんですね。
夫婦ふたり、何やってんだかと思うほど、四苦八苦しました。
「左手くんが、主役っぽいなあ」と、右手くん。
「いやいや。後ろの右手くんあってこその僕だよ」と、左手くん。
そう言いつつも、左手くん、ちょっと得意げでした。

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サッカーボールは丸く

サンフレッチェ広島と広州のサッカー中継をテレビで観ていて、解説の岡田武史の言葉に、目から鱗が落ちた。
「ゴールを決めるときには、3種類のやり方しかない。キーパーがいない隙を狙うか、キーパーが取れないコースを突くか、力で押し込むか。ゴールゲッターは、このシュートはそのうちのどれか、ということを迷いなく判断し、シュートを打たねばならない。コースを突くか、力で決めるかが曖昧なまま打ったシュートは中途半端なボールとなり、ネットを揺らすことはできない」
だいたい、こんなようなことを言っていたと思う。サッカーに詳しくないということもあるが、そこまで考えるのかと驚いた。

何をするにも、自分自身が目指すところをしっかり把握していなければ、そこには到達しないということか。奇しくも、尊敬する年上の友人に、同じようなことを言われたばかりだった。
「毎日、なんとなく、生きてるよなあ」
だから余計に、岡田の言葉が、胸に残ったのかも知れない。

リビングに転がったサッカーボールを見るともなく眺めると、上も下も、右も左もなく、丸い。その果てしない丸さに、何処へ転がっていってもおかしくない、自由さと頼りなさを感じた。

これは、夫の部屋用のボール。何故に部屋用が必要なのか不明です。
☆ メリークリスマス! どうぞ楽しいクリスマスを ☆



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手は覚えてはいたのだけれど

何年ぶりになるのだろうか。編み物をしている。
先日、上の娘と会った際に、酔っぱらって安請け合いした結果なのだが、けっこう楽しんでいる自分に驚いてもいる。
「今度、職場の人とミニオンズランに出るんだ」と、娘。
「あの黄色い奴らね」と、わたし。
「黄色いシャツとオーバーオールで走るんだよ。顔も黄色く塗ろうかな」
「それって、オーストラリアでやったゾンビウォークっぽいね」
「う・・・ん。まあ、似てるかもね」
ゾンビウォークでは、ゾンビになりきっていた彼女である。ミニオンズになりきり、楽しむのだろうと想像はついた。楽しむべきことはとことん楽しむ。それが彼女の生きる道なのだ。
「じゃあ、黄色い帽子編んであげるよ」
そう言ったわたしは、酔っている自覚はあったものの、それが安請け合いだとは、まあ思っていなかった。後始末は、常にしらふのときである。

「子ども達が小さい頃、子ども部屋で寝かしつけながら、よく編んだなあ」
記憶は、毛糸玉から出てくる糸のようにするするとよみがえる。
不思議なことに手は編み方を覚えていて、作り目も最初さえ本を見れば、右手くんと左手くんが器用に動いてくれた。
「一本の糸から、何かが出来上がるのって、考えてみればすごいなあ」
今着ている服も、日々使っているタオルも、すべては一本の糸から生っている。そんなことを考えつつ、右手くんと左手くんに任せていると、
「あのさ、ここまで編んで言うのもなんだけど」と、右手くん。
「これ、頭にかぶるには、小さくない?」と、左手くん。
言われてみれば、確かに小さい。編み物は、こういうところが難しい。いくら手が覚えている部分があったとしても、ブランクはブランクとしてきちんと存在していたのだ。そして右手くんと左手くんは、途中まで編んできたものを無言で解いていったのだった。

写真撮影後、泣く泣くほどいて、編みなおしています。
目が不揃いなのはご愛敬。果てさて、できあがるのでしょうか(笑)

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柑橘系な日々

今年も、東京でご夫婦ふたり農家を営む友人から、柚子が届いた。
「おお!」と歓声を上げてしまうほどに、いっぱい入っている。
荷をほどくや否や、夫が「ひとつ、もらうよ」と、寝室の枕元に置いていた。冬至を前に、すでに柚子湯にもつかった。白菜の煮びたしには、いつも入れる量の倍、小ぶりなので1個分の皮を刻んでたっぷりと香りを楽しんだ。
「納豆に入れても、美味しいかも」と、わたし。
「夕べの残りの水菜のはりはりにも、合うんじゃない?」と、夫。
「おお! 柚子の味」「うん。香りが効いてる」
もう、何にでもかんにでも柚子を入れて、香りと味を楽しんでいる。

荷物には、レモンも3つ入っていた。
「そうか。レモンも生るのか」
自然と、何度か訪ねたことがある、柚子やレモンが生る友人の庭や畑を思い浮かべてしまう。そのレモンを炭酸水に絞って入れると、口の中には爽やかな酸味が、そして絞った手からは、新鮮なレモンの強い香りがした。買ったものとは違う、ああ、木に生った果実なのだと実感するような匂いだった。

しばらくの間、わたしのなかの60%の水分は、柑橘系になりそうである。

こんなふうに綺麗にラッピングしてあって、心遣いを感じました。
緑美しい南天の葉や真っ赤に染まった葉っぱを入れてあるところにも。

袋を開けると、うん。いい匂い! とり出してみると、
思ったよりたくさん入っていて、びっくりしました。

まだ少し青いレモンは、ローズマリーと一緒に入っていました。
柚子とレモンの黄色い色に、陽だまりの温かさを感じました。

この時期よく作る白菜の煮びたし。蟹缶とたっぷりの柚子を入れて。
酒と醤油を回しかけ、弱火で十分煮るだけの簡単料理です。

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ざくろバーモント

最近『ざくろバーモント』を、飲み始めた。
希釈するタイプで、ざくろ果汁の他、りんご果汁や蜂蜜、ブドウ酢などが入っている。甘みもあるが酸味が効いていて、ホットでも炭酸割りでも美味しく飲めるところがいい。
「ざくろは、女性の身体にとってもいいんですよ。そのうえ、美味しい!」
年下の友人が、すすめてくれたのだ。
身体を温めるために、毎朝キッチンに立ちながら飲むようにしている。
「ところで、バーモントって、何?」と、わたし。
「さあ。何でしょうねえ」と、彼女。
「バーモントカレー、ではないよね」「ですね」

家に帰り、さっそく調べてみた。
アメリカのバーモント州では、昔からりんご酢に蜂蜜を入れたドリンクが飲まれていて、それゆえ健康な人が多いと言われているらしい。そこから、りんごと蜂蜜健康法をバーモントと呼ぶようになったのだとか。
♪ りんごと蜂蜜とろーりとけてる ♪
懐かしい CMソングを思い出し、膝を叩いた。
「それで、バーモントカレーだったのか!」
いやいや、そこは「それで、ざくろバーモントだったのか!」でしょう。

商品名だからということもあるが、深く考えずただ聞き知っていた「バーモント」という言葉。知ってるようで知らない言葉って、けっこう多いのかも知れないな。そんな言葉をひとつ調べられたのも、ざくろバーモントのおかげ。
健康にいいという飲料を飲むのも大切だと思うけど、ただ美味しくて飲みたくなる、それが続けられる秘訣かも知れない。喉を通る酸味と温かさに、朝の冷たいキッチンの温度が2℃ほど上がったように感じるのは気のせいだろうか。

お洒落とは言えない紙パックに入っていますが、
ガラスのコップにホットで入れると、やわらかく曇っていい感じ。

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『椿山課長の七日間』

浅田次郎の長編小説『椿山課長の七日間』(朝日新聞社)を、読んだ。
2002年に出版されたときに新刊で購入したものだから、13年ぶりに再読したことになる。本屋で文庫が出ているのを見て、読みたくなったのだ。
覚えていたのは、デパートの中年課長が突然死に、初七日までの七日間、やり残したことを片づけるために現世に戻る。生きている人達に気づかれてはならないため、仮の姿となる肉体を与えられるのだが、生き返ってみて驚く。キャリアウーマン然とした美女になっていたというところまでだ。以下本文から。

父も息子も妻も、そして最も信頼していた部下までもが、自分に対して大きな秘密を隠し持っていた。
(ちょっと待ってよ・・・まさか・・・)
歩きながら頭の中のパズルが、ひとつの形になった。
(うそ・・・うそよね)
仮の肉体が持っている脳ミソは、どうやら椿山課長よりは上等であるらしい。いや、女性の思考力はこうした問題を解くのに適しているのだろう。
嘘は誰にとってもつらい。秘密は苦痛である。ならばなぜ、彼らはみな秘密を持ったのだろう。それぞれの秘密が緊密に結びついているとしたら ――。

椿山課長は、生きている間知らなかった事実を次々と知ってしまう。
そして、そんな彼の物語に、同時期に現世に舞い戻った二人、人違いで殺されたやくざの親分、武田と、交通事故死した小学2年男子蓮ちゃんが、複雑に絡んでいくのだった。現世にいる間に正体がばれてしまうと、地獄送りになるらしい。果たして彼らはぶじ成仏できるのだろうか。

本文中にあるように、秘密を持つことは苦痛だ。正直な人ほど、辛いことだろう。現世に戻った3人も「自分だ」と言えない辛さを味わう。それでも人は嘘をつき、秘密を持つ。そんな人の心根の深い部分を描いた小説だった。

スタバでスペアミントグリーン(緑茶 + スペアミント)を飲みながら。
この小説は、朝日新聞の夕刊に連載されたものだそうです。

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イライラの連鎖を断ち切る

師走である。道を走ればいつもより車が多い。師走だからと言って、何故そんなにもわらわらと車が増えているのかよく判らない気もするが、そういう自分も、年末年始に珈琲を切らさないようにと甲府に出た際『珈琲問屋』に寄ろうと走っている訳だから、山梨じゅうの人が「今のうちに」「あのついでに」などと考えたとすれば、それは車も増えるだろうと合点がいく。

しかし、車が増えることで承知する訳にいかないこともある。イライラの連鎖だ。山梨も田舎の我が市は、渋滞などとは縁のない場所。なので、少し車が増えただけでもイライラする人が出てくる。割り込み。ムリな追い越し。それに加え、ウインカーを出さずに曲がる車や、我が物顔で道路の真ん中を走る車。
「何なんだよ、いったい」
普通に運転しているこちらまで、イライラの連鎖に巻き込まれる。

ムリムリに割り込んできた車に、いつもは鳴らさないクラクションを鳴らそうかと思ったときだった。CDが変わり、軽快なメロディが流れた。
 ♪ Karma karma karma karma karma chameleon ♪
カルチャー・クラブの『カーマは気まぐれ』二十代の頃に流行った曲だ。
その底抜けに明るいメロディに、一瞬にして気分は変わった。そう。トンネルを抜けたら、そこはハワイだった、というほどに。
苦笑し、クラクションを鳴らそうとした手をハンドルに戻し、思った。
「人間って、単純だよなあ」
その単純さを喜び、気持ち明るく運転することにした。
そうして立ち寄った『珈琲問屋』で豆を選んでいたら、有線だろうか。ふたたび『カーマは気まぐれ』が流れてきたのだった。

初めて選んだ豆、エチオピアのイルガチェフェです。
「バランスのとれた酸味とモカフレーバーが特徴」とあります。
カルチャークラブのCDジャケットはやっぱ、レトロですねえ。
これからは「イライラする」を「カーマカーマする」って言い替えるのは、
どうでしょう? イライラ、いや、カーマカーマしないかも~?

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意味はあったか、なかったか

上京した際、上の娘に会った。銀行からの書類が届いていて、それを渡すためだ。データにして送ればいい、または郵送すれば。しかし、それが面倒なときもある。海外にいるのなら、会う機会もない。面倒も、面倒なりにこなすしかない。だが会う機会があると思えば億劫という言葉が顔を出す。なので、夕飯でも食べない? と誘った。親の驕りとあらば、遠慮もなく馳せ参じるのが子どもというもの。果たして彼女もやってきた。パエリアとサラダを食べ、しゃべって食べ、食べてはしゃべり。彼女は飲まなかったので、わたしはひとり気持ちよくビールを飲んで。

知らない言葉も教わった。
「トランスジェンダー」性同一障害と日本では言われているが、カナダでは「障害」という言葉は使わないのだそうだ。少数派、というくらいの意識なのだろうか。ジェンダーについて日本という国の意識の低さに気づかされた。

楽しく美味しく濃い時間を過ごし、さて帰ろうかと書類を渡した。
「あれっ?」「んんっ?」
よくよく見れば、宛名が違う。手渡したそれは、同時期に夫宛に来ていた書類であった。ふたり呆然とし、そして同時に笑い出した。
「わざわざ会った意味、ないじゃん!」と、わたし。
「わたしは、美味しいご飯が食べられて意味あったけどね。それにその書類、急がないからお正月に帰った時でいいし」と、笑いながら娘。
さて、ここで問題です。娘と会った意味はあったのでしょうか?
全く。いったい何をやっているのやらである。

待ち合わせの待ち時間に見つけた、はりねずみのマスコットと手拭い。
これをゲットしただけでも、意味はあった! と、思いたいです。

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ラーメンの海苔と海のもの山のもの

所用で甲府に出た際、もしや今年の食べ収めになるやも知れぬと思い立ち、よく行くラーメン屋に立ち寄った。いつも貰っておきながら忘れがちなサービス券も手もとにある。迷うことは何もなかった。
しかし、迷ったのは券売機の前に立ったときだった。新しい味をとの思いもあり、だがここはいつものやつをとの思いもあり、迷いに迷った挙句、いつもの辛葱ばんからにした。挑戦は、麺の硬さにし、やわらかめ、普通、硬め、バリガタ、ハリガネ、粉落としと6種類選べるなかのハリガネにしてみた。硬めの麺が大好きなのである。そしてサービス券で海苔を増やしてもらった。海苔1枚増えるだけかと思っていたら、思いもかけず4枚ものっていて、ひとりうれしくガッツポーズをした。
ラーメンの海苔については、賛否両論あるようだが、わたしは海苔大好き派だ。海苔で麺を巻いて食べるのは本当に美味い。
「海のもの、山のもの」
海苔はもちろん、海で採れる海のものだ。小麦で作られたラーメンは山のもの。チャーシューも野で育つ豚なので山のもの。シナチクも葱も山のもの。
一つのどんぶりのなかに、山のものだけが盛られているよりも、海のものと山のものが盛られている。それが好きなのだ。

意識し始めたのは『窓ぎわのトットちゃん』(講談社)を読んでからだった。
トットちゃんが通っていた学校は、お弁当には何を入れてもいいけれど「海のものと山のもの」をおかずに入れることが決まりだったという。
一つの器のなかに、海のものと山のものがある。その妙に簡単なバランスが、トットちゃんを読んだときからわたしのなかに住み着いた。
子育て中、身体にいいものをと考えるがあまり、栄養素の数値だとか、覚えられないようなカタカナのビタミンだとか、無農薬だとか、有機野菜だとか、思い詰めるようにそっちに向かっていった頃があった。そういうものに疲れた果てたときに、ただ「海のものと山のもの」を食べればいいんだと思うことで、気持ちが安らいだのを思い出す。
ラーメン、チャーシュー、葱と海苔。たまには、いいんじゃない。若かった頃の自分に言ってあげたくなる。そのくらいのバランスがちょうどいいかもと。

国道20号沿いにある『東京豚骨拉麺ばんから』で。
ニンニクもサービスでついています。ぎゅっと絞って、こくプラス。

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きっかけが大事

最近、夫の車を運転する機会が増えた。
2年前に買い替えたマツダのCX-5で、ディーゼルなので燃費もよく、かといってエンジン音がうるさい訳でもなく、乗り心地がいい。マイカー、フィットも小回りが利き乗りやすいが、CX-5に乗ると地に足がついたような感じがする。運転していて、とても落ち着くのだ。

そのCX-5。最近の車にはよくある機能らしいが、明るさをセンサーで感知し自動でライトがつくようになっている。夏に富山は氷見までドライブしたときには山道を走り、トンネルのたびにライトをつけたり消したり、または消し忘れたりということがなく、とても快適だった。
さてそのライト。夕暮れ時の感知し方が人間っぽくて笑いの種となっている。
「あれ? ライトまだつかないね」と、わたし。
「まだそれほど暗くないってことかな」と、夫。
直後に高速の高架下を通ると当然の如くライトが点灯。しかし、すぐに消えるかと思えば、そのままスモールライトを点灯したまま走っている。
「やっべ。ライトつけるの忘れてたぜ」と、CX-5・・・はもちろん言わないが、まさにそう言ったかのように思え、そんなことが何度となく続いた。

「きっかけって、大事だよなあ」
もしも、CX-5が軽油以外の酒でも飲めるなら、そんなふうに語り合いたいなあと思う。じつは飲み会が延期になった週末、ぽっかり空いた時間をきっかけに、年賀状の印刷をした。やらなくっちゃとけっこう負担にも感じていたのだが、やり始めたら何のことはなくするすると終わってしまった。
うん。何ごともきっかけが大事なんだよ。ねえ、CX-5くん。軽油しか飲めないなんて、じつに惜しい。じっくりと失敗談などを語り合いたい友である。

ナンバーが写らないように写真を編集したら、CX-5くん、
ちょっと上目遣いのお茶目な表情になりました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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