はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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自分自身が幸せになる

週末、赤松の林を隔てたお隣に住むペーパーアート作家、小林さちこさんの個展を観に行った。会場「富士川町・切り絵の森美術館」は、車で1時間ほど走った場所にある、気持ちのよい公園のなかに建つガラス張りの建物だ。
さちこさんの個展は、何度か観に行ったことがある。その作品は、彼女と少しでも触れ合ったことのある者として言わせてもらえば、彼女と彼女の子ども達にとてもよく似ている。そう感じて、何とも言えない暖かい気持ちになったことを覚えている。決して主張ではない、湧き出るような自己肯定。それをできる人は実はなかなかいないんじゃないか。そう思ったのだ。

「周囲の人を幸せにしたいなら、まず自分自身が幸せになりましょう」
さちこさんの言葉として、今回展示されていたものだ。それを読み、これまで感じていたものは間違っていなかったのだと思った。
そして、展示された天使達の姿に、風や光に包まれたような穏やかな気持ちになっていく自分を感じながら、ゆっくりとギャラリーを歩いたのだった。

『小林さちこペーパーワーク展』は12月20日まで開催されています。

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『最後の忠臣蔵』

日にちに合わせたわけではないがWOWOWで録画した映画『最後の忠臣蔵』を観た。討ち入りの日を描いたものではなく、その後を生きた人達の物語だ。

仇討ちを果たし死した者達が美談とされればされるほどに、討ち入りに加わらなかった者達への風当たりは強かったという。今でこそ、死に対する考え方の違いや選択肢もあったようにも思われるが、その時代を生きた人達は、そうではなかったのだろう。映画は、仇討ちに加わらなかった者として非難されつつも、忠義をつくすために生きなくてはならなかった男を描いていた。ある人の子を育てなければならなかったのだ。

映画を観ながら思い出していたのは、友人に教えてもらった聖書の言葉。
「人間は、自分のためだけじゃなく、
 人のために生きるようにデザインされている」
宗教を持たないわたしだが、そういうものを超え自分のなかに留まっている言葉だ。忠臣蔵の時代には死に対する考え方も違っていたかも知れないが、誰かのために生きるということがあたりまえだったのだろうとも考えたのだった。

さて。
「彼女、大石内蔵助の子どもってことかな?」
映画を観ながらわたしが言うと、夫は怪訝な顔をした。
「どうしてきみは、そうやって先を読もうとするの?」
わたしとしては、先を読もうとせず映画を見ることの方が驚きだった。
映画の見方一つとっても一人一人違うのだ。テレビの前のぬくぬくとしたリビングに居ながらも、仇討ちを果たし死した人、後の世を生きた人、一人一人の思いもまた違っていたのだろうと、それぞれのドラマを思った。

討ち入りがあったというこの季節、赤穂浪士達の家の庭先にも、
南天が実をつけていたのでしょうか。
南天の赤い実と凛とした緑が好きで、飾って楽しんでいます。

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ぴりりと辛い失敗

失敗したことは判っていたが忘れていた。もうかれこれ半年前の失敗である。
Amazonでミルで挽ける山椒が買えると知り、喜び勇んで注文した。山椒はすぐに届き、中身の十倍ほどもある段ボール箱に入っていたことには閉口したが、うれしく開封した。しかし開封し、驚いた。入っていたのは山椒は山椒でも、さらにぴりりと辛い四川赤山椒だったのだ。またの名を花椒(ハナショウ)。主に麻婆豆腐などに使われるスパイスで、山椒とは似通った部分はあるものの、異なもの。はっきり言うと間違えたのだ。
だが使ってみると意外なことに慣れ親しんだ味。というのは、その味に魅せられて何度も通っているワンタンメンの店『雲呑好』の四川風に使われているスパイス。間違えたとはいえ、これはいいぞ、と一件落着と相成った。

しかし半年が経ち、ふたたびその失敗を省みることとなった。失敗したのは山椒違いというだけではなかったのだ。送料がかからないことに首をひねりつつ注文したそれは、半年ごとに届く「定期お届け便」だった。ああ、ネットでポチッの罠にハマったのだった。まあ、単なるうっかりだとも言えるが。

それならば、キャンセルすればいいって? そう簡単にはいかぬもの。山椒の辛さ、舌のしびれは癖になるんだよね。半年に一度、花椒が届くと思うと、胸の奥のざらざらした部分がいい感じにしびれるのである。
花椒が好きな人を招き、半年に一人の割合で花椒パーティを開催するっていうのもいいかも、なんて考え中。花椒、お好きですか?

存在感のあるブルーは、蓮根の器の藍と同じ色です。

韓国風大根の煮物にぴったり。味つけは鶏ガラスープと醤油、酒、酢。
最初に、ニンニクと生姜の薄切りを炒めて風味を出します。
仕上げには、胡麻油。そして花椒のぴりりが、味わいを深めてくれます。

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『姫椿』

浅田次郎の短編集『姫椿』(文春文庫)を、読んだ。
ずいぶん前に何冊か読んだだけの作家だが、最近読んだ『見知らぬ妻へ』に魅せられて、短編集を選んで読んでいる。
裏表紙の紹介文には「凍てついた心を抱えながら日々を暮す人々に、冬の日溜りにも似た微かなぬくもりが、舞い降りる」とある。
1話目の『獬(xie)』は、シエと読むのだが、善悪を見分けるという幻の動物が登場するファンタジー。そこから順番に読み始めたから余計にそう感じたのかも知れないが、どの話にも不思議テイストを感じた。
表題作『姫椿』は、倒産寸前の不動産屋の社長、高木が、家族に保険金を残すために死に場所を探して若い頃住んでいた街を歩く。そこにあったのは、昔通った銭湯「椿湯」だった。以下本文から。

「山茶花なのに、椿湯ですか」
「そう。いつだったか私も同じことをおやじさんに訊いたのですがね。これは山茶花なんぞじゃねえ、姫椿ってえんだ、と言い張るのですよ。姫椿も山茶花も同じだと思うのですがね、私は」
厚い垣根に、たわわな紅を灯す花を見るうちに、わけもなく高木の胸は詰まった。すべてを忘れてしまった。生きるために記憶を淘汰したのではない。金と欲にまみれた時代の向こう側に、すべての記憶を置き去りにしてきた。
「貧乏はしていましたが、辛くはなかったんです。どうして楽しかったことまで忘れたんだろう」
さあ、と長寿の老人は縁先の椅子から立ち上がり、小さな星空を摑むような背伸びをした。
「楽しいことが多すぎるのではありませんか。今の若い人の悩みはたいがいそんなところです。贅沢ですな」

高木は、まだ恋人だった妻と昔「椿湯」に通ったことを思い出す。姫椿の花を手折り、濡れ髪に挿してあげたことを。取り戻したそのひとひらの記憶が、たぶん彼を救うことになる。現実は、厳しく続いていくのだろうが。

読み終えて、誰かを思う気持ちが希望の光を手繰り寄せるのかも知れないなあと、不思議テイストの世界に落ちたように考えてしまうような短編集だった。

『姫椿』の高木の妻でしょうか。それとも『永遠の緑』のみどりかな。
山茶花には別名が3つあるそうです。ひとつは、姫椿(ヒメツバキ)
そして、岩花火(イワハナビ)、藪山茶花(ヤブサザンカ)
凍える季節に咲く花に、希望を見出そうとするのが人、なのかも。

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睡蓮の浮く水の底

上野は東京都美術館に『モネ展』を観に行った。
夏に旅したパリ、オランジェリー美術館で観られるとばかり思っていた『睡蓮』を、まさかの改装中で見逃し、思いは募っていたのだ。それを空の上で誰かが見ていたかのように、チケットが降ってきた。偶然にも泊まったホテルのパックに、チケットがついていたのだ。
「これはもう、行くしかないよね」
娘の引っ越しの翌日、久しぶりに上野を歩いた。不忍池を散歩するような感覚で、美術館に足を踏み入れた。しかし、散歩するかのようにのんびりとモネを観て歩くことはできなかった。ものすごい人だったのだ。人いきれに疲れ、絵を観る気持ちは、たぶんその場の雰囲気にずいぶん左右されることだろうと、冷めた気持ちになっていった。

だが、睡蓮を描いた一番大きな絵の前に立った途端、覚めていた気持ちなど、すっかり何処かへいってしまった。
一瞬にして、透き通った水の底を覗きこんだときのように、不意に吸い込まれてしまうかのような危うい感覚に襲われたのだ。
モネは連作『サン・ラザール駅』で、蒸気の向こうにある機関車の漆黒を描きたかったのだという。駅や機関車を描きたかった訳ではなく、蒸気や煙の向こうに見える世界を描き出したかったのだと。
睡蓮の浮く水の底には、何を見て、何を描こうとしていたのだろうか。

晩年、白内障をわずらい、色彩感覚のバランスを失いつつも描き続けたモネ。蒸気の向こうの、水の底の、見えない部分まで目を凝らし、心を傾けて描いていたからこそ、描き続けることができたのかも知れない。

上野は、初冬の透き通った陽射しがまぶしく暖かでした。

〈「睡蓮」、画家が最後まで手放さなかった一枚。〉
86歳で亡くなるまでモネの手もとにあった絵が、展示されています。
今週末、13日、日曜日までです。



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帰ってきたブーツ

修理に出していたブーツが、帰ってきた。
とても綺麗に仕上がっている。うれしい。
人の手をかけて修理してもらったのだと思うと、今までにも増して大切に履こうという気持ちになる。それは、新しい靴を買ったときよりも強い気持ちだ。しかし、そう考えて、気づいた。新しい靴だって、人の手をかけて作られたことに変わりはない。あたりまえすぎて、忘れているだけなのだ。

わたし達は、何処かの誰かが作った靴を履き、何処かの誰かが作った服を着て、日々過ごしている。物言わぬ帰ってきたブーツは、そんなあたりまえのことをそっと教えてくれた。
様々な人の手を、思い浮かべてみる。デザインした人、作った人、運んだ人、売り場に並べた人、修理した人。ブーツ一足だが、かかわった人は、それだけではあるまい。大切に履こうという気持ちは、さらに大きく膨らんだ。

足に馴染んだ、わたしだけのブーツ。これからもよろしく。足もとも暖かな冬になりそうでうれしいよ。

ジーンズにもスカートにも合わせやすく、カラフルなレッグウォーマーを、
合わせて楽しめるところも、気に入っています。

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ミニマムな彼女

娘達が、東京で二人暮らしを始めた。
家族で様々話し合った末、今はそうすることがベストだということになったのだ。場所は末娘の大学にも通学できる範囲内の十条だ。にぎやかな商店街が楽しい町である。

上の娘は、新生活のためにそろえなければならないものが多々あり、家から持っていくものは、夫の車で運んだ。
その際、わたしが食器など一通り用意したのだが、彼女はその半分も持っていかなかった。例えば、茶碗2つのうちの一つ。皿4枚のうちの2枚。コーヒーカップは使っていなかったソーサー付きの新しいものをと思ったのだが、マグカップ一つで事足りるそうだ。ミニマムなどと耳に新しい言葉を使わなくとも、彼女にはモノを持たない生活が身についているようだ。
換算すれば2年以上海外で暮らしているのだから、感覚が違ってあたりまえなのかも知れない。あたりまえなのかも知れないが、しかしそのことに、わたしはとても驚いたのだ。どんなふうに? と聞かれれば、たぶんこう答える。
「これは、本格的に大人になったってことだよなあ」
ミニマムがいいとか悪いとか、そういうことじゃない。彼女がライフスタイルを確立していることに驚いたのだった。

さて。娘達二人の生活は、どんな化学反応を起こすのだろうか。

引っ越しの手伝いに行き、パンを買いに行った近所のパン屋さん。
クリームパンが可愛かったので、購入後、写真を撮らせてもらいました。

大き目のマドレーヌ型。こういうの、憧れていた頃がありました。

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おニューのヒートテックでホッ

ユニクロで、ヒートテックのシャツとタートルネックを買った。
3年ほど着たものをリサイクルに出し、買い替えた新しいものを着ると、着心地がまるで違う。去年まで着ていた洗いざらして擦り切れたヒートテックとは、雲泥の差。ヒートテック然としている。比べ物にならないくらい暖かい。今年は薄手のフリース生地のタートルネックもヒートテックになったらしく、さらにまた暖かい。ダブルで着ていると、肩の凝りも少し楽になったような気がする。何と言うか、じわりじわりとホッとする感じだ。その「ホッ」が普段着には、必要不可欠なのだ。
もったいなくて毎年新しいものには買い替えられないが、今年の冬はいつもより暖かく過ごせそう。小さな幸せは、ヒートテックのなかにもあるようだ。

先週、八ヶ岳下ろしが吹き、青空の下、雪が舞ってきた。
冷たい木枯らしだが、舞う雪を眺めるのは悪くない。粉のように軽い雪を掌で受けとり、冬が来たんだなあと実感した。

ハリー「ヒートテック、あったかいなあ」
ネリー「ほっかほかねえ」
いやいや。ハリーとネリーもあったかくて、ほっかほかだから。

昨日の朝の八ヶ岳です。日中陽が照って夕方には雪は解けていました。
これからの季節、そんなふうに毎日表情を変えていくのが楽しみです。

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ヴァンくんとフォーレちゃん

週末、今季 J1の試合すべてが終わった。
この機会に(?)ヴァンフォーレ甲府のマスコットキャラクター、ヴァンくんとフォーレちゃんを紹介したいと思う。甲斐犬をモチーフにしたキャラクターで、「風林火山」からとったクラブ名のヴァン「風」とフォーレ「林」の名をそれぞれつけられたふたり。やんちゃなヴァンくんとおしゃまなフォーレちゃんは、スタジアムで見かけるだけで心が和む存在だ。Jリーグの他のマスコットと比べ特出すべき点は、大いなる普通さ。奇をてらうことのない安心する可愛らしさは、Jリーグいち、いや世界一だろう。
そして、ヴァンフォーレならではの近しさも、魅力の一つ。例えば、アウェイゲームを観戦に行ったサポーターからは、こんな声が聞かれる。
「きょう、ヴァンくん、来てないね」「お金、なかったのかな?」
まるでヴァンくんが新幹線のチケットを買おうと財布の中身を確認する姿が思い浮かべられるような会話だが、本当のところは、ヴァンくんを連れてこられるだけの余裕がチームになかったのかな? という会話だ。ヴァンフォーレサポーターは、常にクラブの懐を心配している。それゆえの会話なのだった。

プロビンチア(小規模都市に本拠地を置く経営予算の少ない地方クラブ)の代表であるヴァンフォーレは、専用練習場も去年出来たばかり。環境整備にも、選手獲得に割ける予算も、何処よりも少ないなかでがんばっている。近くで見ていたら、思わず応援したくなるようなクラブなのだ。そこでいつも笑顔で応援するヴァンくんとフォーレちゃん。会えた日は、いいことがあったような気持ちになる爽やかなマスコットキャラクター達である。

さて。今季優勝したサンフレッチェは、本当に強かった。その強いチームのなかで、ヴァンフォーレで育ち移籍した佐々木と柏が活躍した。それが、ヴァンくんとフォーレちゃんにとって、とてもうれしいことだった、らしい。
来季も、J1! がんばれ、ヴァンフォーレ甲府!

最終節の試合を終え、セレモニーに参加するヴァンくんとフォーレちゃん。
おそろいのTシャツは、今季前半勝てなかったヴァンフォーレの年間順位が
折れ線グラフになっています。残留まで苦しんだことがうかがえます。
とっても仲良さそうなツーショットですが、関係はお友達だそうです。

監督のご挨拶をまじめに聞く背中としっぽも、りりしいですね。

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『ふる』

西加奈子の小説『ふる』(河出文庫)を、読んだ。ピンクと白の淡い色合いの表紙に魅かれ、買った文庫だ。
池井戸花しす(いけいどかしす)は、28歳。仕事は、アダルトビデオのモザイク掛け。趣味は、ICレコーダーでの隠し録り。寝る前に、その日一日の録音を聴くのを楽しみにしている。同居人は、年上の友人さなえちゃんと猫2匹。そんな花しすの現在と過去を描いた小説だ。過去には、いつも「新田人生」という名の男が登場し、それは、タクシー運転手であったり、小学児童であったり、倫理のおじいちゃん教師であったり、合コンで出会った綺麗な顔の男子であったりする。そして、そんな過去にはいつも『ふる』のだ。言葉が空から降ってくるように、花しすの前に現れるのだ。例えば、こんなふうに。

 わ       !
     っ て
   ら

花しすは、誰の感情をも害さないことに全力を注ぎ、皆に優しく軽んじられる存在でありたいと望んで生きてきた。だが。以下本文から。

池ちゃんは優しいから。
でも花しすは、自分のことを優しいと思ったことなど、一度もなかった。自分は誰かを傷つけるのが怖いだけだ。それを優しさだと、ある人は言うかもしれないが、傷つけないことと、優しいことは違う。
花しすは、人が傷ついたとき、顔が歪むのを見るのや、流れている時間が止まることが嫌なのだった。そしてそのことに関与しているのが自分であるということが、一番怖いのだった。花しすはもっと言えば、能動的に誰かと関わることが、怖かった。いつでも受け身でいたかった。自分が選ぶのではなく、選ばれる側でい続けることで、関係性においての責任を負うことを、避けた。
卑怯なことだと、自分でも思う。そしてそうしている自分を誰も責めず、あまつさえ「優しい」などと言われるのだ。

花しすは、今と過去と未来を見つめることで変わっていこうとする。
「そのままの花しすで、じゅうぶん優しいのに」
どちらかと言えばわたしは、変わる前の花しすのように生きられたら、と思った。誰も傷つけずに生きていくことができるのなら。無論誰だって、誰かのようになど生きられはずもないのだが。

表紙の猫たちの絵も、西加奈子によるものです。帯には顔写真も。
猫は、さなえちゃんが飼っていたベンツとジャグジーかな。

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ペナンヌードルいろいろ

マレーシアで働く夫の友人に、土産をいただいた。
以前もいただいた、インスタントラーメンランキング世界一を誇る『ホワイトカリーヌードル』だ。その量に驚いた。
「こんなに?」
持ち帰ってきた夫に、思わず訊ねてしまう。もちろんその声は喜びに満ちたものだったが、「いいのかな? こんなにいただいちゃって」という思いだ。
前回いただいたときに、その美味しさに感動して、
「本当に美味しかった! 次からお土産はこれお願いします」
と言ったのが催促となってしまったようだ。催促していないとは言わないが。

さて今回は、他の味のヌードルやカップ焼きそばなどもある。順番にゆっくり楽しんでいる。食べるまで味が判らないというのも、また楽しい。
「このラベルの福建って、シンガポール料理屋さんで食べたホッケン・ミーの福建だよね? あっちは焼きそばだったけど」と、わたし。
「ああ、海鮮焼きそばね。これは福建蝦面ってかいてあるから、海老の味が効いたところが同じなのかな?」と、夫。
調べてみると、ホッケン・ミーには、シンガポール式、クアラルンプール式、ペナン式と3種類あり、以前食べたホッケン・ミーはシンガポール式の焼きそばで、クアラルンプール式は太麺、黒醤油、豚肉が特徴の焼きそば。ペナンでは海老がらで出汁を取ったピリ辛ラーメンをそう呼ぶそうだ。ペナンのインスタント麺だけに、ペナン式ホッケン・ミーなのだった。同じ名前なのに、ところ変われば、全く違う料理になっていったことに驚かされる。

そういえば、と深い意味はなく思い出した。小学校のとき、いつも髪をくるりとカールさせていた女の子と名前が同じだった。わたしはストレートの髪をただ一つに結わえた髪型とも言えないような髪型で、名が同じだということの違和感がつきまとい、それでいつもただ遠くから彼女を眺めていたことを。

味が判らないので、ラベルと同じような具をのせて作ってみました。
海鮮ならではの出汁が効いたさっぱり風味。夫曰く「こっちの方が好きかも」

こーんなにいっぱい、いただきました! うれしい~。

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浮遊する魂

最近よく、魂が浮遊する。
と言っても、何のことはない。くしゃみがよく出るだけだ。
家に一人でいるときに出ることが多く、魂を戻すおまじない「bless you」と言ってくれる人はいない。なので、くしゃみと同時に口から出た魂は、部屋のなかを浮遊し、天井にぶつかり、床をバウンドし、吹き抜けの一番高い天井の隅っこでうとうとしていたりする。
海外の迷信である「くしゃみをすると魂が抜ける」という話を聞いて以来、たびたびそんな空想をしてしまうのだ。くしゃみがよく出るようになったのも、案外そんなふうにふわふわと空想していたからかも知れない。

魂の抜けた身体は余計な力が入ることもなく、浮遊する魂と同等にふわふわと軽くなったような気がする。重力を、忘れる。記憶を、失くす。目を、閉じる。光を、感じる。そしてしばらく待って、自ら言うのだ。
「bless you」

天井にぶつかって、ふわりと落ちて、また飛んで、またぶつかって。

2階にある窓ガラスをスーッとすり抜けて、青い空へ。

雲と一緒に、ふわふわ遊ぶのも楽しいかも知れません。
リフレッシュ術、と言うほどのことでもありませんね。

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ぺたりとくっついている重要性

はりねずみは眠るとき仰向けになることは、まずないだろうが、わたしは仰向けで眠ることが多い。掌を上に向けて眠ると、身体じゅうで何かをキャッチしているような、パワーを溜めているような感覚になる。それはそれで好きなのだが、うつ伏せで眠るのも好きだ。抱いているのは布団だが、大地を抱いているような感覚になる。大地に溶けていくような、と言ってもいい。身体じゅうが何かにくっついている感覚は、うつ伏せ寝の方が強いかも知れない。

子ども達が赤ん坊のとき、息子は仰向けで寝かし、娘たち二人はうつ伏せ寝をさせた。どっちがいいとか、流行りだとか、若く経験のない母親はいつも試行錯誤のなかにいる。最近では、うつ伏せ寝は危険だという意見が多いと聞く。本当のところは判らないが、深く眠りすぎてそのまま目を覚まさないことがあるとの説も語られているらしい。
もぐらは、足の裏以外の身体の何処かが何かにくっついていないと死んでしまうという話を聞いたこともある。不安で不安でしょうがなくなるのだとか。
身体の何処かが何かにぺたりとくっついているということは、それだけ心落ち着くことなのだろう。子どもがお母さんの抱っこが好きなのも、暑くてもくっついてくるのも、そんなことも少し関係しているのかも知れない。

末娘が成人し、今はもう、子どもを抱くことはなくなった。しかし、しばらくぶりに会ったとき、ふざけた感じでハグをする。それはまあ、たいてい酔っぱらっているときなので「お母さん、うざい」などと呆れられる訳なのだが、酔った頭でも、意外にしっかり考えているのだ。
大人になってもきっと、誰かに抱きしめられると心落ち着くものなのだと。
いや、もう母は必要ないだろうって? それは、そうかも知れないけど。

「ハリーったら、何してるの?」
「アイピローだよ。お母さんが気持ちよさそうにしてるやつ」

「あ、ほんと。気持ちいい」「だろー、ネリー」
いつも枕元にいる、はりねずみの手袋達の会話でした。
読んでいる本が何冊か、常に置いてあります。

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ブックカフェで

流行っていることは知っていたが、ブックカフェに行ったのは初めてだ。
テーブルについて珈琲などを飲みながら、併設された書店の本を購入せずにゆっくり読めるというカフェ。さっそくおもしろそうな本を物色し、テーブルにつく。アイスティーを飲みながらゆったりと読書した。と言いたいところだったが、何故か落ち着かない。
「もし、本汚しちゃったらどうするんだろう」
自分の本ではないのだからいつもより気をつけてはいるが、綱渡りをしているような緊張感がページをめくる指の先に走る。そわそわする。おへその辺りがくすぐったくなる。本のなかの文章が、読めども読めども頭に入ってこない。
「だ、だめだ」
がっくりと首を垂れ、あっさり引き下がることにした。

帰りたくなくなるようなくつろぎの空間などと、ネットで読んだことがあるが、わたしはどうやらブックカフェ向きの人間ではないらしい。書棚の前で立って読んだ方が、よほど落ち着く。
これだけ本が大好きだというのに、情けない。いや、この感覚は無類の本好き故のものなのかも知れないぞ、と自分をなぐさめたりした。

新宿小田急百貨店、有隣堂のブックカフェ『ストーリーストーリー』

アイスティーの向こうに見える書棚には、癒されます。
なのに、手もとに本があると落ち着かない。小心者なんですね。

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ニョクマムとナンプラー

先週、汐留の『ベトナムフロッグ』で、ベトナム料理を食べた。
パクチーをザルで出してくれるのがうれしく、酒も進む。
そこで、テーブルに置いてあった調味料に目をとめた。「ニョクマム」とある。試しに生春巻きにつけてみると、ナンプラーのような味。ナンプラーのことかなと思いつつメニューを眺めていたら、山芋とアボカドのナンプラー炒めというのがある。同じ店で使い分けているのだから、違うものなのだろうと調べてみると、ニョクマムはベトナムの魚醬で、ナンプラーはタイの魚醬だそうだ。ニョクマムの方が魚の匂いが強く、ナンプラーの方が塩味強めらしいが、食べて違いが判るのは通。それほどの違いはないのだとか。
そこまで調べて、膝を打った。
「そうだったのか! 優しい味だと思ったら、あれはニョクマムだったんだ」

ベトナムで食べた料理には、よくナンプラーがついてきた。と思っていたのだが、あれはニョクマムだったのだと、今頃になり気づいた。塩味薄めで、食べやすいなと思っていたのだ。
初めて食べる外国の料理が口に合うとうれしいし、その国に少しだけ近づいたような気持ちになる。しかし、何度か食べていくうちに知ることもまた多いのだろう。日本にいて知るベトナムもある。これからもこうして、少しずつベトナムに近づいていくのかも知れない。

ニョクマムという字を撮ったはずなのに、何故かかくれんぼ。
蒸し鶏と香草のサラダ。入っていた香草はパクチーの他、ミントも。

ゴーヤと卵の炒め物には、パクチーをたっぷり入れて。

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『中野のお父さん』

北村薫の新刊『中野のお父さん』(文芸春秋)を、読んだ。
大手出版社で編集の仕事をする美希には、百科事典のような父がいる。ネット検索で判らなかった疑問をあっさり解いてくれたりするものだから、相談役としては適任だ。一人暮らしをしてはいるが、何かあるたびに美希は、中野に住むお父さんに会いに行く。そして中野のお父さんは、編集者の日常に潜む謎を、たちどころに解決してしまうのだ。以下本文から。

「あの、おかしなこと、いい出すとお思いでしょうけど、わたしには、父がいるんです。定年間際のお腹の出たおじさんで、家にいるのを見ると、そりゃあもうパンダみたいにごろごろしている、ただの〈オヤジ〉なんですけど」
「・・・はあ?」
美希は『夢の風車』の原稿を巡る顛末を、簡単に語った。
「謎をレンジに入れてボタンを押したら、たちまち答えが出たみたいで、本当にびっくりしたんです。この手紙、門外不出だってこと、よく分かりました。うちの社の誰にも、編集長にも話しません。ですけど今、とってもとっても聞きたくなったんです。父が何ていうか。お願いです。このこと、父にだけ、話してみてもいいでしょうか。そうさせていただけないでしょうか?」

『幻の追伸』の章では、そんなふうにして古本屋で美希は、とうに亡くなっている作家同士の書簡を預かり、中野のお父さんに見せるのだった。

おもしろかったのは、感覚の妙がいくつも描かれていたところだ。
『鏡の世界』の章では、女性誌の編集をしていた頃、女優が自分の写真にダメ出しをしてきて困り果てていると、カメラマンが反転した写真を混ぜて再送し、それがあっさり通ったのだと美希は思い出す。鏡のなかの自分を見慣れていると、まま起こることなのだとか。
他にも『闇の吉原』では、言葉を区切る場所を変えただけで、真逆の意味になる句〈闇の夜は吉原ばかり月夜かな〉に潜んだものや、『数の魔術』では、ゼッケンばかりを見ていると、人がすり替わっていることに気づかないこともあると、見方を変えたら見えてくるものが、描かれていた。
どうやら中野のお父さんは、物知りなだけではなく、ものごとを様々な角度から切り取って見られる人らしい。というのは読み終えてのわたしの推察だが。

明るい色のカバーを取ると、なかは原稿用紙のデザインでした。
本好きで知られる北村薫らしいです。その北村薫さん、
今年の日本ミステリー文学大賞を、受賞されたそうです。

裏表紙には、美希が回想するお父さんとの思い出のシーンの絵。
お父さんと美希との関係にホッとする、コージーミステリーでした。

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ラーメン屋を数えて

軽井沢まで、ドライブした。高速道路はなく、国道を2時間も走れば着く。
夫は忙しい日が続くと、何処かへ出かけたくなるらしい。わたしだったら、家でのんびり眠ろうと思うのみ。いまだに、疲れたときに欲するものの違いには、驚かされる。

軽井沢へ行くには、佐久を通る。何度か通っている道なので馴染みとなったが、佐久にはラーメン屋が多い。
「ここのラーメン、食べたよね」「ああ、ここも」
「この角曲がったところにも、隠れ家風のラーメン屋あったよね」
「全くいったい、佐久にはラーメン屋、何件あるんだろう?」
などという話になる。しかし今回、アウトレットで買い物し、夫おススメの蕎麦屋に行ったので、ラーメン屋に立ち寄ることはなかった。
その帰り道、夫が言った。
「佐久のラーメン屋、何件あるか、数えてみようか」
「40件くらいかな?」と、わたし。
「それは多いでしょう。28件かな」と、夫。
運転手はわたしだったので、夫が数え始める。5件ほどはすぐに通過したのだが、数え始めると意外に少ないものである。
「俺の勝ちだな」とほくそ笑む夫を無言で睨みつつ、アクセルを踏む。
ラーメン屋ばかりだと思っていたが、印象よりも、案外少ないものだった。10件くらいですでに佐久市内を通過しようとした頃、わたしは賭けに出た。
「あ、ほら、ラーメン少林寺!」
「11件目」夫は口にしてから、はたと気づく。
「少林寺拳法道場の看板だろ!」
嘘はあっけなく見抜かれた。結局、道々見かけたラーメン屋は14件。夫がナビで調べた数も32件と、彼の勝ちは見えていた。

家に近づき、隣町で小料理屋のラーメンという暖簾を見てしみじみと思った。
「不思議だね。小さな町にも小料理屋やラーメン屋をする人がいるんだよね」
「そうだね。どの町にもそういう役割を担う人がいるってことなのかな」
夫は、少し疲れがとれたようだった。ひとりだったら家で寝ていたかもしれない休日、わたしもいい気分転換になった。

お昼に食べたお蕎麦です。追分宿にある『ささくら』で。

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雪化粧した八ヶ岳

冷え込んだと思ったら、八ヶ岳が雪化粧をしていた。初冠雪だ。
「山の上は、凍える寒さなんだろうな」
雪を降らせた雲に覆われていたが、雪化粧した山肌は見るからに冷たく、鋭利な刃物を連想させる。
その姿を見て、毎年のことなのに、ああ、と再認識することがある。
「雲は冷たい」ということだ。

雪は手で触り、冷たさを知っている。だが、雲に触ったことはない。霧のなかにいるとき、雲のなかにいるようなものなのかも知れないが、雲に触ったという実感はない。そのうえ、あのふわふわとした外見。青空のなか、のんびりと流れるさま。その印象が、山を覆っているときにも頭から離れない。黒雲が雨を降らせることはきちんとイメージできるのに、真っ白い雲には、何か暖かなものを感じてしまうのだ。
だから、八ヶ岳が雲をかぶっていると、まるでダウンパーカーを着ているかのように暖かそうに思えてしまう。そして毎年、こんなふうに雲間から雪化粧をした八ヶ岳が顔を見せると、驚くのだ。ああ、雲は冷たいのだと。

「本格的な冬が、やってくるなあ」
夏とは違う顔を見せる八ヶ岳に、思うのだった。

初冠雪を祝っているような、しかし不穏さも感じる印象的な雲。
この冬、大雪になりませんように。

アップにすると、こんな感じ。ピークスという言葉が浮かびます。
八ヶ岳だから、エイトピークスってことになるのかな?

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東京時間とロクシタン

何年かぶりに、いや、何十年かぶりにぎゅうぎゅうの満員電車に乗った。新橋から赤坂見附に向かう銀座線は、乗る前からものすごい人だった。
「これって、日常の風景なんだよね?」
はるばる異国にやって来たかのように、自分が身を置いている人ごみのなかを俯瞰してしまう。だいたい、わたしにしたら次々と電車が来ること自体が、夢のなかの出来事のようなのだ。乗り遅れても、次の電車に乗ればいいなんて、びっくりだ。山梨では電車に乗り遅れてしまったら、次は1時間後に来ればましな方。東京という場所は、何とも便利にできているのだなあと感心する。
東京生まれ東京育ちのわたしだが、15年以上も住んでいれば田舎の人間になるのだろう。東京時間についていけず、足早に歩く人や満員の電車を、何処か遠くから眺めている気分になってしまうのだった。

先日も、ああ時間の流れ方が違うのだとハッとした出来事があった。
新宿小田急のロクシタンで、どうしても欲しかったルバーブのハンドクリームとリップバームのセットを予約したときのことだ。予約票に名前と電話番号をかきこみ、手続きがすべて終わったあとに店員さんが言った。
「明日発売なので、一週間以内にご来店ください」
「一週間?」
驚いて聞き直してしまった。一週間以内に東京に来る予定はなかった。
「すみません。山梨に住んでいるので、ムリそうです」
感覚の違いに呆然としつつ言うと、店員さんも、驚いた顔をしている。
「では、いつ頃ご来店できそうですか?」
「一か月以内、なら」
遠慮がちに言うと、彼女はすぐに予約票に一か月後の日にちを記入してくれた。その柔軟な対応に感謝しつつも、東京時間に馴染めなくなっている自分を再確認したのだった。どちらがいいとか悪いとかではなく。

昨日、予約したセットを取りに行った。
さっそくハンドクリームを塗ってみると、山梨のなかでも田舎時間の我が家のリビングにルバーブのいい香りが広がった。
 
お洒落な箱に入っていました。試供品のヘアオイルを使うのも楽しみです。

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小さなつまづきと熱いシャワー

小さなつまづきが続くとき、というのがある。
普段しないようなミスを繰り返し、時間や場所を間違え、だいじょうぶだと思っていたことが思わぬ方に転ぶ。そしてその重なったつまづきによって、押し出された時間や仕事が、また次のつまづきを呼ぶ。その繰り返しは、やがて大きな失敗につながっていく。そんな流れにハマってしまうと、何処かで感じていたはずの自分のなかにあった失敗の予感にさえも気づかない。小さなつまづきは、余裕という隙間をも埋めてしまうのだ。

ようやくその流れから逃れられたと思った瞬間もまた、小さなきっかけだった。仕事で出かけた東京で、疲れたなあとため息をつきながら、ホテルで熱いシャワーを浴びた。そのとき、いくつものつまづきによる疲れが流れていくのを、はっきりと感じたのだ。
何のことはない。我が家のシャワーより、ホテルのそれの方が水圧が強かっただけのこと。肩に強く当たる熱いシャワーが、思いのほか身体の芯の部分に届くかのようで、それは、いつの間にか心にたまった澱のようなものも、溶かして流してくれるように感じたのだった。

小さなつまづきは、自らのふとした不注意によって起こるが、次々重なっていくさまには、天から見ている誰かの悪戯のようにも思える。そして、その流れが終わる瞬間も、偶然によって起こることが多く、やはり誰かが悪戯していたのかと、空を見上げたりしてしまう。
そんなふうに考えるとこのところ続いたあれやこれやも、熱いシャワーを浴びられる幸せを忘れていたわたしに、それを教えようと誰かが企んだプログラムだったのかも知れない。などと、考え込んでしまったりもするのだった。

東京は汐留。クリスマス仕様にライトアップされていました。

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運命の土鍋

新しい土鍋を、買った。何年も使った土鍋が、焦げやすくなってしまったのだ。寿命だと思い、夫とふたりで選ぶことにした。
「わ、これ」
ぴったりくる食器に出会うことは、なかなかない。そして、わたしと夫の好みも微妙に違う。ところが売り場で見たその土鍋に、目は釘づけとなった。一瞬にして魅了されたのだ。先に見つけたのはわたしだが、夫の好みでもあることは一目瞭然だった。案の定、夫も一目で気に入った。土鍋はまるで、そこで静かに微笑みつつ、我が家の食卓へと連れられる日を、うきうきと待っていたかのようだった。時間をかけて好みの食器を発掘するのも楽しいが、こういうまたとない出会いには、わくわくさせられる。
「サプラーイズ!」
と叫びながら、運命の人が現れたような気持ち、と言っても大袈裟ではない。もしかしたら、小さな器一つにも運命というものがあるのかも知れないと、まあこれはずいぶんと大きな土鍋なのだが、土鍋の生い立ちや、店に並んでからの他の食器との確執などをつらつらと考えた。

記念すべき初めての料理は、韓国風白菜鍋。干しシイタケの戻し汁と薄めの鶏ガラスープに、豚バラ肉と鶏もも肉、胡麻油も少々加え、白菜をこっくり煮込む。食卓で塩と七味を入れた器によそって食べれば、心も身体もほっかほかだ。夫はいつも、コチュジャンを入れて2種類の味を楽しんでいる。

たっぷりいただいて、空っぽになった鍋をていねいに洗い、よく拭いて乾かしてから、箱にしまった。
「我が家の白菜鍋は、美味しかったかな?」
新しい土鍋は、これから様々な我が家の鍋を味わい、食卓に馴染んでいくことだろう。新しい土鍋さん、こんにちは。これから、よろしくね。

図らずして置いてあったコップの大きさと比べると、土鍋、大きい!

韓国風白菜鍋。卓上コンロは出さず、キッチンで煮て食卓に出します。

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大根デイズ

毎日、大根を食べている。
ここは「大根の村」と昔から言われてきた、明野町。町内で渋滞が起こるのは年に一度の『大根祭り』11月3日のみという、大根の産地なのだ。ちなみに『大根祭り』は、大根抜き体験ができ、都会から来てくれる人も多い。大根の形のアドバルーンが上がるのも、何とも田舎らしくのどかな風景だ。

農家さんや家庭菜園をするご近所さんに「大根、いる?」という問いには、常に「ほしいです」と答える。瑞々しい大根はおろしてもサラダにしても美味しいし、冬の間貯蔵庫と化す玄関でしなびた大根も煮たり炒めたりすれば、ひと月は美味しく食べられる。なので、畑から抜いたばかりの大根をあちらこちらからいただき、食べるにこと欠かない。大根を楽しむ日々だ。

週末には、おでんを煮た。
おでんに入っている大根も、またいい。他の具の味を吸収した大根は、断然主役だ。そして、その主役である大根の味は、すべての具の旨味となっている。大根役者などとは到底言えぬ、いい味を出した大物級の主役なのだ。
「大根、美味しいね」「うーん、美味い」
「ほんとうに、美味しいね」「ほんとうに、美味い」
美味しすぎて、言葉にならない。そんな大根デイズは、始まったばかりだ。

上の娘が東京に行き、また夫婦二人の生活が始まりました。
おでんも、ふたり仕様。練り物少な目、大根、じゃが芋、厚揚げ多めです。

最近ハマっているのは、薄切りにした大根とキノコと豚肉の炒め物。
味つけは醤油、砂糖、お酢で。ご飯にも、酒の肴にも。
パクチーがまた合うんです。ナンプラー味にも挑戦しようかな。

帆立とマヨネーズで和えたサラダは、煮物と同量、消費できます。

大根の葉っぱと小女子、生姜の炒め煮は、炊き立てご飯にぴったり!
薄味に仕上げて、たっぷりいただきます。

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『何もかも憂鬱な夜に』

中村文則の小説『何もかも憂鬱な夜に』(集英社文庫)を、読んだ。
中村文則を読むのは3冊目だが『銃』よりも『掏摸』よりも読みやすかった。
刑務所の刑務官を務める「僕」は、二十歳の殺人犯、山井を担当している。マンションに押し入り見知らぬ女を殺害し、帰宅した夫も殺した山井は、控訴期限が迫り死刑が確定しようとしていたが、控訴を拒んでいた。
「僕」が山井の担当に据えられたのは、年齢が近い(十歳ほどの差)ことと、捨てられて施設で育った生い立ちが似通っていたからだという。
施設で育った人間が、罪を犯しやすいなどということはない。きっぱりとそう思いつつも、山井と自分には共通した何かがあると感じることに戸惑いながら、接していく日々。
鍵になるのは、回想シーンでしか登場しない施設長だ。「僕」は、たびたび施設長を「あの人」と呼び回想する。子どもの頃、施設で過ごした「僕」のすべてに割り込もうと心を砕いてくれた大人がいた。それが「僕」の拠り所になっていた。以下本文から。

「お前は・・・、アメーバみたいだったんだ。わかりやすく言えば」
施設の外で、踏切の音が鳴り始めた。あの人の声は、響かないつくりの薄い壁の中で、内に籠もり、掠れていた。
「温度と水と、光とか・・・他にもいろいろなものが合わさって、何か、妙なものができた。生き物だ。でもこれは、途方もない確率で成り立っている。奇跡と言っていい。何億年も前の」
僕は、ただ彼の大きい身体を見ていた。
「その命が分裂して、何かを生むようになって、魚、動物・・・わかるか? そして、人間になった。何々時代、何々時代、を経て、今のお前に繋がったんだ。お前とその最初のアメーバは、一本の長い長い線で繋がっているんだ」
あの人はどこかにもたれることもなく、足を微かに広げたまま、いつまでも僕を見下ろしていた。
「これは凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線。その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」
そういうと、小さく息を吸った。
「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? すべて今のお前にためだけにあった、と考えていい」

結婚を決めたもと恋人。自ら命を絶った親友。行方知れずの会ったことのない弟。そして、死刑が確定しようとしている山井。この小説には「僕」のなかに広がる混沌が、まるで宇宙のように限りなく、暗く、そしてそのなかで何かが光っているかのように描かれていた。

死刑制度が必要か否か。簡単に答えが出せることではない。中村は、命について、深く深く何処までも考えていくことをやめなかったのだろう。本を閉じて呆然と、命って、生って何なのだろうと考え込んでしまうような小説だった。

夜のようなブラック珈琲を飲みつつ、読みました。
解説は、デビュー作から読んでいたという同じ芥川賞作家の又吉直樹。

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鴨の鴨南蛮蕎麦

蕎麦屋で、鴨南蛮蕎麦を注文したら、本当に鴨が入っていて驚いた。
鴨南蛮なのだから、何も驚くこともないのだが、てっきり鶏肉が入っていると思っていたのだ。名とは別のそれに似せたモノの方が、本物よりもスタンダードになってしまう、ということはままあることだ。

夏目漱石も『吾輩は猫である』で「鴨南蛮の材料が鳥である如く、下宿屋の牛鍋が馬肉である如く」とかいているから、鴨南蛮についてもずいぶん昔から似せた鶏バージョンについて、妙なことであると思う人がいたのだと判る。
時代の流れに乗り、人も急速に変化しているようで、人間というものは、そうそう変わるものではないのかも知れない。変わったとすれば、店側が、トラブル回避のために鶏肉を使ったものを「鶏南蛮」とか「かしわ南蛮」とメニューに記すようになったというところだろうか。

ふらりと入った蕎麦屋のカウンター席で、漱石が着物を粋に着こなし鴨南蛮蕎麦をすする姿を、ふと思い浮かべた。彼も驚くだろうか。
「おや、鴨南蛮に鴨が入っているとは」

鴨の出汁が効いたスープで、冷えた身体が温まりました。
南蛮は、葱のこと。よく煮えたとろける葱もいっぱい入っていました。
うどんもいいけど、あったかいお蕎麦も美味しいなあ。

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木っ端と、とるにたるるモノ達

「薪、運ばなくちゃ」「今夜の分は、持つんじゃない?」
そんな会話が交わされる季節となった。
まだ日中は薪を燃やすことはないが、夕方からは毎日薪ストーブに火を入れている。リビングは、薪の炎でやわらかく暖かい。寒いのは苦手だが、ゆらゆらと燃える薪の炎を眺められる季節になったかと思うとうれしくなる。
「木っ端も、運んでおいたよ」「ありがとう」
夫は、まめに薪割り後の木っ端を集め、きちんと焚きつけ用に乾燥させている。これがあると、火を入れるのがとても楽だ。小枝なども焚きつけに使うが、木っ端の方が断然よく燃える。木っ端達は、薪ストーブに火を入れる際とっても頼りになるやつらなのだ。

木っ端を燃やしながら、そう言えば「木っ端」って、あんまりいい意味で使われないよなあと考えた。「木っ端役人」と言えば、たいして役に立たない役人のことだし「ガラスが木っ端微塵」などと聞くと、ガラスなのに「木っ端」? と混乱する。「木っ端」を辞書で引くと、案の定「とるにたりない、つまらないもの」とあった。

いやいやいや。木っ端、役に立つし、とるにたるるよ。つまらなくなんかないよ。木っ端があってこそ、薪だって勢いよく燃えてくれるのだ。
うーん。とるにたりないものだと思っているもののなかにも、なくなったら困るものがたくさんあるのかも。輪ゴムとか、ビニール袋とか、鍋つかみとか。
揺らめくストーブの炎を眺めつつ、とるにたるるモノ達を数えてみた。

薪ストーブの周りは、いつも雑然としています。
今、ベランダ補修工事中で、足場が組んであるのが窓から見えています。
ストーブの上で回っているのは、熱伝導で回る温風機です。

噂の木っ端さん。よ~く乾いている優良の木っ端です。

火をつけると、ぱちぱちと音を立てて、すぐに燃え始めました。

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S M T W T F S
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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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