はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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トマトソースのなかの宇宙

十代の頃、パスタのトマトソースを生のトマトから作ることに憧れていた。
すべてを手作りするということに、こだわっていたのだ。だが満足のいく味に仕上がったことは、一度としてなかった。

今はそんな憧れもこだわりも落ち着き、トマトの水煮缶で簡単にトマトソースを作っている。オリーブオイルでニンニクを炒め、パスタの具材を炒めたあと、水煮缶を入れて煮詰め、塩と胡椒。塩は水煮缶1缶に対し、小さじ1入れている。この時点で味見をすると、何か物足りない。トマトソースのなかのトマトもニンニクも野菜も塩も胡椒も、バラバラでまとまりがないような印象。はっきりしない味だ。星ができあがる前の宇宙のよう、とでも言うのだろうか。混沌とした感じなのだ。
ハーブやスパイスを加えたり、塩を減らしてコンソメスープで煮てみたり、試行錯誤はしてみたが、トマトソースのなかの宇宙は混沌としたままだった。
そうして最後にたどり着いた技は、ケチャップだった。ほんの少しのケチャップを加えることで、全体の味が驚くほどまとまりを持つのだ。トマトソースのなかの混沌は、ケチャップ一つでしっかりまとまり、輝く星となった。それが、我が家のトマトソースの味である。

十代の頃のわたしに言ったら、ふんっと鼻で笑われそうだ。
まあ、笑いたければ、笑えばいいさ。若さとは、ケチャップやマヨネーズの偉大さを軽んじることなのだ。

海老を使ったペスカトーレ。ペスカトーレはイタリア語で「漁師」
漁師達が売れ残りの雑魚などをトマトソースで煮込んだ料理のことで、
日本の海辺で漁師さん達が煮る、あら汁のようなものだとか。

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原因を究明する言葉「なんでやねん!」

♪ 買い物しようと街まで 出かけたが 
  財布を忘れて 愉快なサザエさん ♪
サザエさんは、偉大だ。財布を忘れてさえも愉快で済ませられるのだから。それに比べてわたしときたら、なんと人間が小さいことか。ケータイを忘れて街(東京)まで出かけてしまい、がっくりと落ち込んだ。
「なんでやねん!」
ツッコんでくれる人もいないから、自分でツッコミを入れるが空しい。
夫にケータイでメールしようとして、そのケータイを忘れたのだと再確認し、さらに落ち込んだ。

常々考えていたのだが「なんでやねん!」という関西弁は、思いもよらぬ出来事が起こった際に、その原因を究明したいという人の根底にある願望から生まれた言葉だと思っている。
「どうして、こんなことに?」
サザエさんなら考えないようなことを、くよくよ考えるのが凡人というもの。凡人であるわたしは「どうしてまた、ケータイ忘れちゃったの? ほんとにもう!」と、くよくよと考えた。

一つは、雪のせいだ。朝から降り始めた雪に、電車トラブルが起こる前に出かけなくてはと気が急いていた。
もう一つも、雪のせいだ。我が家のリビングには雨漏りならぬ雪漏りする場所があり、雪が積もって凍って解けたときにだけ水が漏ってくる。そこがケータイ充電の定位置だったため、場所が変わったことにより充電するタイミングが遅れ(充電をさぼったとも言える)朝になってあわてて充電していたのだ。
もう一つは、歳をとったせい? 昨日は折しもわたしの誕生日だった。ひとつ歳をとるということは、こういうことなのかも知れない。
だが、判ってもいる。うっかりぼんやりな性格のせい、というのが50%以上の原因なのだろう。
原因究明は滞りなく行われたが、さらに「なんでやねん!」と言いたい気分だ。「なんでやねん!」は、怒りをぶつけるためにも使われる言葉なのだ。

さて。ケータイなしで、昨夜は夫と浅草で待ち合わせをした。時間と場所を決め、連絡を取り合わずに待ち合わせするのは、何年ぶりだろうか。こういうのも、いいな。そう思えたのは、すれ違いにならなかったから、かな。

雪が降りだした昨日の朝の庭の様子です。
ホワイトバースディをしっとりかこうと写真撮ったのに、とほほ。

隣りの林にも、薪にする丸太の上にも、しんしんと。

北側は、家の影になっているので、春まで解けないかなあ。

アイビーも、冷たそう。

ヒイラギの葉にも、積もって。雪が似合う常緑樹ですね。

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生みたて卵とプラシーボ効果

ニワトリを飼っている近所の方に、生みたての卵をいただいた。
卵かけご飯にして食べると、新鮮さがとてもよく判った。白身がしっかりとしていて流れず、黄身も箸で突いてもなかなか割れない。その黄身が溶けてからんだご飯は、何とも言えず美味だった。

生卵を食べるとパワーが湧くというが、本当に元気が出てくるような気がした。もちろん命のもととなる栄養価が高い食材だとは知っているが、食べてすぐに元気が出る訳もないだろうにと自分でも可笑しくなる。
「プラシーボ効果、かな」
薬でも何でもないものを「よく効く薬」だと言って病気の人に飲ませたところ、病気が治った、という事例がけっこうあるそうだ。「プラシーボ効果」といい、こうすれば治るのだと信じる気持ちに実際、効果があるのだという。

こんなふうに分析しているうちは効果があるとも思えないが、美味しいものを美味しく食べていれば元気でいられるだろうとは、信じている。信じる気持ちって、考えているよりずっと大切なものなのかも知れないな。

卵の殻は、濃い色をしています。茶色いニワトリさんだそうです。

シンプルな朝食。黄身の美しい黄色が、食欲をそそりますね。

かきまぜずに、そのままかけて食べました。白身も、ぷりんぷりん。

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『沈黙の町で』

奥田英朗の長編小説『沈黙の町で』(朝日文庫)を、読んだ。
地方都市の中学校で、男子生徒の死体が見つかった。死んだのは2年の名倉祐一。死因は、所属するテニス部の部室の屋根、2階の高さから転落し頭部を強打、即死だと思われる。小柄でおとなしい生徒だったという。その後、警察の調べで、祐一は4人の生徒からいじめを受けていたことが発覚。異例にもそのうちの14歳以上の生徒2人が逮捕されたのだが。

分厚い文庫の3分の1は、大人達の視点で語られていく。
死体を発見した2年生を受け持つ国語教師、飯島。飯島とはもと同級生の刑事、豊川。新人の女性新聞記者、高村。いじめの加害者である市川健太の母親。同じく坂井瑛介の母親。呉服屋を切り盛りする商売上手な、祐一の母親。二十代で正義感の強い検事、橋本。
そのなかで、何が起こったのかが、少しずつ明らかになっていく。
そして3分の1を過ぎ、子ども達の視点(健太。クラスメイトの安藤朋美)で事件以前の出来事が、進行中の現在と照らし合わせる形で語られていく。彼らには彼らの事情があり、簡単に大人に話せないことも、例え話したとしても理解しあえないだろうと思えることも多かった。
解説の池上冬樹はかいている。「人間の未熟さが引き起こす悪意や中傷や暴力といったものを、逃げずにしっかりと描ききっている」以下、本文から。

「子供は基本的に呑気だな。それが彼らの特権だよ」
飯島が唇に白い泡をつけたまま答える。豊川は同感だった。自分の少年時代を振り返ってみても、嫌なことがあっても一晩寝たら忘れた。
「別の言い方をすれば、動物的だってこともあるんだろうけど」
「ああ、そうだな。刹那的で、短絡的で、自分のことしか考えてないし」
「おれさあ、最近考えたんだけど、人間って、特に男子は、子供の頃平気で残酷なことをするじゃないか。豊川、おまえ小学生のとき、田圃でカエルを見つけたらどうしてた?」
「捕まえた。男子なら誰だってそうだろう」
「捕まえてどうした」
「殺した。空に向かって投げてアスファルトに叩きつけたり、尻にストローを突っ込んで風船にして破裂させたり、火あぶりの刑にしたり」
豊川は答えながら顔をしかめた。思い起こせば実にひどいことをした。
「子供にはそういう残虐性が誰しもあって、長じるにつれ、徐々に消えていくものじゃないか。中学生にはその性質が残っているんだよな。ひどいいじめは中学生が一番だ。高校生になると手加減するし、同情心も湧く」

いじめについて真っ向から挑み、淡々と丁寧に作り上げたという印象の群像劇だった。どの語り手にも寄り添い読んでしまう上手さがあり、一つの事柄にも、それにかかわる人の分だけ、違う視点、異なった見方があるのだと言われているような気がした。

夫が買って読んでいた文庫です。奥田英朗の小説は、夫婦で楽しめるかも。
『空中ブランコ』で直木賞をとった、夫と同い年の作家です。

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煮干しラーメンと、遠い記憶

噂の煮干しラーメンを、食べた。
「ラーメンのなかで、何が好き?」との質問には、
「味噌か、豚骨の辛葱ラーメン」と答える。
スタンダードな醤油味も悪くはないが、こってり感がラーメンらしさだと、個人的には思っている。

青森発祥の煮干しで出汁をとった津軽ラーメンが、人気上昇中だとは知っていた。魚の出汁だ。あっさりしているらしい。それはそれで美味しいのだろうが、個人的ラーメン観が邪魔をして、これまで煮干しラーメンの店の暖簾をくぐることはなかった。
それが、夫の実家である神戸に帰省した際、用事などを済ませながらバタバタと昼食に立ち寄ったラーメン屋が、煮干しラーメンの店だったのだ。
煮干しラーメンもいろいろで、澄んだ煮干しの出汁を使ったあっさりタイプ、豚骨や鶏がらを合わせて使ったこってりタイプがあるのだとか。そこは、こってりタイプの店。個人的ラーメン観も、そう邪魔にはならない。そのラーメンが、美味しかった。あっさりしているのに、コクがある。味わいが深い。

煮干しの香りに、息子が幼かった頃のことを、思い出した。
その頃、毎朝の味噌汁の出汁は煮干しでとっていた。彼は、3歳くらいだっただろうか。よく一緒に煮干しの頭と腹わたをとった。煮干しで出汁をとるときに、頭や腹わたがついていると灰汁が強く出てしまうのだ。彼はいつも、楽しそうにその作業をしてくれた。わたしも楽しかった。
煮干しという言葉に反応したのか、その香りに反応したのかは判らない。しかし、食べ物というものは、思いもよらぬ記憶を呼び覚ますものだ。
今は東京で一人暮らす28歳の息子。彼は煮干しの味に、その香りに、そのときのことを思い出すことがあるのだろうか。

『麺や六三六』摂津本山店の、本にぼし背脂醤油ラーメン。

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相手を思いやるために

「いやいやいや。久しぶりの登場ですね」と、右手くん。
「いやいやいや。まったくもって、久しぶり」と、左手くん。
右手くんが frozen shoulder(五十肩)を患い、完治してからもう2年半が経った。毎日のように何かをつぶやいていた右手くんと左手くんも、最近では穏やかな落ち着いた日々を送っている。
「ところで、左手くん。傷めた肘の具合はどう?」
「少しずつ回復に向かっているみたい。きみがいつも重い方の薪を運んでくれているおかげだよ。ありがとう」
「いやあ、もとはと言えば、年末きみにだけ重い荷物を運ばせたのが悪かった訳だしさ。おたがいさまだよ」
「あのときは、だいじょうぶだと思ったんだけどなあ」
「無理は禁物だね」
「きみの思いやりには、いつも感謝してる。それでちょっと無理しちゃって」
「うん。そうだと思ったよ。でもさ、相手を思いやるために、とっても大切なこと、知ってる?」
「何だろう?」
「それは、自分をいちばんに思いやることだよ」
「自分を? 思いやるの?」
「左手くんは、今回、僕を思いやって無理をして肘を傷めたんだよね。それはうれしいけど、僕にはきみが元気でいてくれることの方が大切なんだ」
「うれしいなあ。ありがとう、右手くん。もう無理はしないよ。それに、結果的にきみに負担をかけちゃうことになっちゃったし」
「まあ、それもあるけど、そういうことだけじゃなくってさ」
「もちろん、判ってる」
左手くんと右手くんは、相変わらず仲がいい。まあ、切っても切れない間柄だし、たがいの立ち位置も理解しやすいのだろう。

自分を思いやり、また相手を思いやる。これはなかなか難しい。「人」という字は支えあっているようにも見えるが、片方だけが支えていてもう片方は寄りかかっているだけというようにも見える。思いやりを持って接していた相手に頼られすぎて、ポキリと折れてしまう人も多かろうと考えてみる。人は弱い。頼れる相手には頼りたくなるし、甘えられる相手には甘えたくなる。そして自分が相手に寄りかかり支えられていることなど、すぐに忘れてしまう。
パソコンで打つゴシック体の「人」という字はいい。右も左もまったくたがわず、支えあっている。

人がまっすぐ前を向き歩く姿も「人」という字に似ているんですね。
パリはシャンゼリゼ通りにある、シャルル・ド・ゴールさんの像。

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冷たいキッチンに立つときに

今は大学生の末娘が小学校高学年だった頃、二人だけの夕飯というシーンが度々あった。子ども達が幼かった頃には食事時はテレビを観ないと決めていたが、それも3人目の子育てが落ち着いたその頃にはすっかり忘れてしまった。
彼女はNHKの子供向けバラエティ『天才てれびくん!』が大好きで、二人夕飯を食べながら観ては、楽しくおしゃべりして笑ったことを思い出す。
その『天才てれびくん!』どんなことをやっていたのかと聞かれてもほとんど霧の中だが、一つだけくっきりと記憶に残っていることがある。

質問に対して、同じチームのメンバーの答が同じだとポイントがもらえるというゲームだったと思う。冬だった。
「寒―い日に、温まりたい。家のなかだったら、どこへ行く?」
「ストーブの前」「炬燵」「布団のなか」「お風呂」
ありきたりの答が勝利を呼ぶ。だがそこで末娘と同じ年頃の女の子が言った。
「台所!」
その答えを、今でも思い出すのだ。朝、冷たいキッチンに立ちやかんをかけるときや、味噌汁がやわらかい湯気をあげたときなんかに、その上に冷たくなった手をかざして。
朝起きて、まだ部屋が温まらないうちに、彼女はお母さんが立つ台所へ真っ先に行ったのだろうなあ、などと考える。それとも、夕方冷たくなった頬を真っ赤にして帰ってきて、やはり真っ先に台所へ行き、その日あった出来事などをお母さんに話したのかも知れないと。

記憶というのは不思議なもので、今でも冷たいキッチンに立つときに、そのときの女の子の回答が、末娘と過ごした温かな時間と相まって、わたしを温めてくれている。人の思いというものの、温度を感じる瞬間である。
もちろん彼女の答は誰とも一致せず、1ポイントも貰えなかったのだが。

水菜と椎茸の味噌汁に、暮れにいただいた柚子をたっぷり入れて。
我が家では、味噌汁を作るのは朝ご飯だけ。冬は特に美味しいですね。

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『スーツケースの半分は』

近藤史恵の連作短編集『スーツケースの半分は』(祥伝社)を、読んだ。
30歳手前の真美は、フリーマーケットで青いスーツケースに一目惚れ。そのスーツケースのなかには一枚のメモが入っていた。
「あなたの旅に、幸多かれ」
真美は、心配する夫の反対を押し切り、ひとり憧れのニューヨークへと旅に出る。そしてそのスーツケースは、友人達の手から手へ。世界中を旅するうちに「幸運のスーツケース」と呼ばれるようになっていった。
以下、第2話『三泊四日のシンデレラ』より。

「建物の内装が豪華なのはもちろんだけど、サービスが素晴らしいの。何度か泊まったら、食べ物や枕の好みとかを覚えていてくれるし、まるでお姫様みたいに扱ってくれる」
そう口に出して、自分の少女趣味に恥ずかしくなった。だが、桂木は言った。
「丁寧に扱ってもらうことって大事ですよね」
はっとした。言われてからやっと気づいた。
自分は大切に、丁寧に扱ってもらいたかったのだ。たった三泊四日でもいいから、そのときだけは誰かに、丁寧に扱われたかったのだ。それが払ったお金の対価であり、時間切れになれば覚めてしまう魔法だったとしても。
花恵ははっきりと口に出した。
「うん。わたし、大事に扱われたかったの」
つかの間、そうしてもらえれば、また頑張れる。日常に戻って戦える。
思い切って言ってみた。
「でもさそれって少しわびしいよね。お金を払って大切にしてもらうなんて」
桂木は即答した。
「そんなことないですよ。誰にも親切にされず、お金も払わず、なのに大切にしてもらえないって愚痴ばっかり言う人は、世の中にたくさんいるでしょ。そっちの方がずっとわびしいし、自分以外の人に甘えてますよ」

スーツケースは、ニューヨーク、香港、中東アブダビ、パリ、ドイツはシュットゥットガルトと途中、行方不明になりながらも旅していく。ファンタジー要素がちらりと見える小説だが、そこはミステリー上手の近藤史恵。きちんと伏線を回収しているところがまた魅力の一つとなっていた。
いちばんの魅力はと言うと、それぞれの旅、そしてその時々の旅があるのだと再確認できるところかな。同じ場所を同じ人物が旅しても、そのときの心の持ちようで旅はがらりと色を変えるものなのだと。

帯の言葉「大丈夫。一歩踏み出せば、どこへだって行ける」
「いつも、今ここが出発点」にも、魅かれました。

カバーには、世界中のスナップ写真が描かれていました。
メンフクロウ(白いフクロウ)は、小説のなかにも登場します。

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ウォーキングにも似て

ふたたび、夫のネックウォーマーができあがった。
前作に失敗し、このままでは冬が終わってしまうと、焦りにも似た気持ちが芽生え始めたので、さくさく編めるメリヤス編みにした。
縄編みなどの模様編みをいくつか組み合わせると立体的な温かみのあるものに仕上がるが、編み目を間違えないように編み進めるのは、未熟なわたしには難しい。ゆっくりと確かめながら編んでいく。それは、ウォーキングで言えば、地図を片手に知らない道を歩くようなものである。それに比べてメリヤス編みのみで編み進めていくのは、簡単だ。表編みでずっと編み、裏返したらまた裏編みでずっと編むだけ。ウォーキングで言えば、整備されたトラックをただ黙々と歩く感じだ。トレーニングジムのウォーキングマシンで歩数を増やしていくのにも似ているかも知れない。
当然だが、トラックをただただ歩き続けるのは単調で退屈にもなる。郊外の風景を楽しみつつ、または地図を片手に知らない道を歩く方が、断然楽しい。それは、方向音痴オリンピックでメダリストとなれる資質を持つわたしでさえもが感じることだ。そんなところも含め編み物とウォーキングはよく似ている。

と言うことで、冬の間、夫のウォーキングの友として彼の首を温めてくれるものは何とかなった。さて次は、地図を片手に知らない道を歩きますか。
編み物本をめくり浮き浮きしていると、夫が言った。
「あのさ、言いにくいんだけど、これもちょっと大きいんだけど」

アクセントは、一列だけの模様編みと上下の色違いのこま編みで。
アジアン雑貨屋さん『チャイハネ』に置いてあるような雰囲気?

後ろをボタンで留めると、ぴったりになりました(笑)
やっぱり面倒がらずにゲージ編まないと、ダメですね。
でも、夫はこっちも気に入って前にしたりしています。
☆ ゲージ = 編地の密度を図るための試し編み。

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酒と雪掻き

年末に取り寄せた日本酒『佐久の花』2本を、呑み切った。
美味い酒だった。もう少しゆっくり楽しみたかったのだが、昨年お世話になった夫の友人を招いての新年会で、3人で一升以上空けたのではないだろうかというほどに呑んでしまった。そしてウイスキーまで。
「あれ? ウイスキー、もうこんなに呑んじゃったっけ?」
夫の言葉に、呆れて返した。
「彼が来たときに、〆で呑んだじゃん」
「いやいや。呑んでないでしょう」
夫はまるで覚えていなかった。わたしも覚えていなかったが、翌朝キッチンには、宴会の残骸と共に、ウイスキーのロックグラスが3つ置いてあったのだ。
酒を呑むとあとをひく性質(たち)なのだと、自分でも判っている。
これも覚えていなかったが、タクシーを呼ぶという彼に、泊まって行けとしつこく誘ったそうだ。誰でもない、このわたしが。

50センチの積雪のあと、そんなことをよく考えるのは、酒と雪掻きが似ているなあと思うにつけだ。雪掻きは、酒のようにあとをひく。
よく晴れた午後などに雪を掻いていると気持ちがいいのに加え、あと少し、いやもう少しと時間を過ごしていく。酒はいつも呑みきれないほどにあるし、雪だって50センチも積もれば掻き切れないほどにある。そして、そんな時間はいつも、時間というものの普遍性のなかに飲み込まれていくのだ。

薪運びのための道を雪掻きした庭には、野鳥達の足跡がありました。
夫が撒く向日葵の種を食べに、様々な鳥達がやってきます。

ウッドデッキまで来るシジュウカラ。小首かしげて考えごとかな?

冬鳥のツグミも、やってきます。

カワラヒワが、足で雪を掻いて飛沫を上げていました。

ホオジロって、その名の通りほっぺたが真っ白なんですね。

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紀文だから、ね

おでんを煮るときに、一つだけ決めていることがある。
練り物は、できる限り『紀文』のものを買う。
ネットで取り寄せたりするほどのこだわりではない。いつものスーパーで売っているちくわやら、つみれやらを選ぶ際に2種類あれば『紀文』にする、というくらいのものだ。だが、家族から、または客人から「美味しい」と言われるたびに思うのだ。
「紀文だから、ね」と。

きっかけは、もう20年以上前になるだろうか、友人宅でおでんをご馳走してもらった。鍋である。何人か友人が集まっていた。そのおでんが、何とも美味しかったのだ。そこで、繰り返された会話が、これだった。
「うわあ、美味しーい!」「うん。紀文だからね」
「なにこれ、ものすごく美味しい!」「紀文にしたからね」
「うーん。美味い!」「やっぱり紀文、美味しいよね」
そのときのわたしは、そのたった一度のおでん体験が、何十年という単位で自分のなかに残っていくとは思いもせず、ただ熱々のさつま揚げや大根などをふうふう言いながら味わったのだった。
心に残っていたのは、大勢で味わったその雰囲気だったのかも知れない。さらに言えば、もっと美味しいおでん種が、世の中にはたくさんあるのかも知れない。しかしもはや、我が家のおでんは紀文なくしては成り立たない。その味が、我が家の味となっているのだ。

豆腐 + 魚の『魚河岸揚げ』シリーズは大好きで、必ず入れます。

薪ストーブの上に、6時間置いておきました。
石を一枚置き、その上にかけているので、沸騰はしません。
最後にガスコンロにかけ、このあと、はんぺんを入れて温めて。

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今ここから見えるもの

里に雪が積もっているのだから、当然山にも積もっている。
「八ヶ岳、今年はなかなか白くならないね」
暖冬からゆっくりとスタートした今年の冬、よく夫と話していたのだが、その八ヶ岳もようやく白く美しい雪化粧を施した。
雪掻きをしていると、掻いたときに混ざった砂利や土の汚れを目の当たりにし、雪が美しいものだとばかりは思えない。溶ければぐちゃぐちゃにもなる。
眺めている分には美しいと感じるだけでいいが、実際手にしてみたら汚れた部分も見えてくるし、その重さも怖さも感じざるを得ない。雪は、そんな例えにするには最適と言えるアイテムかも知れない。

「田舎の暮らしも、都会の人から見たらそんなふうに素敵に思えるのかな?」
そう考えて、ハッとした。
それは、都会から田舎に越してきたわたしの視点だ。田舎の人から見たら、都会の暮らしの方がきらきら眩しく見えるってこともあるだろう。
「立っている場所で、見方が変わるんだ」
ほんの少し移動しただけでも、山は形を変える。遠かったり近かったりしても見えるものは変わるが、その時々に立つ位置によっても見え方は変わるのだ。
今、八ヶ岳の反対側、長野の何処かから見えるのは、どんな風景なのだろう。たぶんこちらより雪深いであろう土地に立つ人の視点を、想像する。
今ここから見えるものを、しっかりと見ていかなくては。遠く美しい八ヶ岳も、足もとの土にまみれた雪も。

雪化粧した八ヶ岳は、本当に綺麗。昨日の午後の風景です。
我が家から徒歩1分、夏には青々とした棚田が並ぶ道で撮影。

アップにしてみました。それでも、まだまだ遠く、美しい。

遠景にすると、こんな感じです。
足もとの道には、まだ誰の足跡もありませんでした。

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ひとつの仮説

夫が見たという夢の話を聞いた。
「きみが編んだネックウォーマーが、大きくってさ。1m以上あって、いくらなんでも大きすぎるでしょうって言うと、きみはさ、平気な顔で言うんだよね。だいじょうぶ。これ、こういうものだから」
彼の夢は、まさに正夢となった(笑)
って、笑いごとじゃなーい!
編み上げたネックウォーマーをしてもらうと、夢のなかほど大きすぎはしなかったが、冷静に描写しても、ぶかぶか、という擬音がぴったりくる。
「あ、これ、腹巻ならぴったりかも」
と言う夫を無言で睨むと「ありがと」と、しばらくネックウォーマーをしたままパソコンに向かっていた。「あったかいよ」と言う声も遠くで聞こえた。
もう、大ショックだ。「編み物、向いてないのかなあ」弱音もでる。

そう言えば編んでいる最中、ひとつの仮説を立てた。
わたしは胸をはって断言できるほどに、方向音痴だ。夫などは、地図を逆さにせずとも目的地を把握できるが、わたしの場合、逆さにしたり横にしたりしているうちに目的地どころか、今いる場所でさえも判らなくなってしまう。
編み物でも、同じ現象が起こるのだ。裏返すと表編みは裏編みになる訳で、それが時間をかけて考えないと判らない。
「えーと、えーと。今は裏だから、裏編みのところは表編みで」
頭が働かないときには、このえーとが十回くらいになる。
「地図が読める男性の方が、編み物に向いているのではないか」
これが、わたしの立てた仮説だ。

しかし、地図が読める夫は、決して編み物をしたいとは思わないだろう。
自分の帽子を編もうと思って買ってきた毛糸で、ふたたび夫のネックウォーマーを編み始め、このぼんやりと編み棒を動かしている時間が好きなんだよなあ、と考えた。好きこそものの上手なれ。上手かどうかは別にして、たぶん好きだから編んでいるのだ。

ゴム編みにした部分が思ったより縮まなかったのも、敗因の一つです。
編み棒細いのに変えたんだけどなあ。いや、それ以前の問題か。

半分に折ると、タートルネックのようにも見える予定だったのですが・・・。
とりあえず、大は小を兼ねるってことで、してもらいます(笑)
☆ カテゴリーに『編み物徒然』追加しました ☆

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『キアズマ』Kindle版

Kindleで読んでいた『キアズマ』(新潮社)を、読み終えた。
自転車ロードレースに挑む若者達の物語だ。たがいのホイールを交換するシーンで、魂や命といったものまでもをホイールに託し託され乗せていく、彼らのロードレースに対する熱い思いを描いている。「キアズマ」とは、相同染色体同士の接着点のうち、染色体の交換が起こった部位をいう。ホイールを交換する間に交わる形のないものを「キアズマ」と重ねたタイトルだ。

トモス(オランダ製の原動機付自転車)に乗る入学したての大学生、正樹は、自転車部の学生達のロードバイクに追いかけられ、転倒した拍子にトモスで怪我を負わせてしまう。全治十か月の怪我をしたのは自転車部の部長だった。彼は意外なことに、走れなくなった自分の代わりに、正樹に自転車部へ入部してくれと持ちかけてくる。エース櫻井のアシストが必要だというのだ。正樹は、2年生でヤンキーっぽい関西弁の櫻井に振り回されつつ、ロードレースの魅力にとりつかれていくのだった。

せっかくKindle版で読んだので、Kindleならではの紹介をしようと思う。
Kindleは栞も挟めるが、ハイライト(マーカー)を引くこともできる。そしてそのハイライトは、同じ本を読む人に共有される。いいな、と思った文章にハイライトが引かれることが多いと思うが、何人もがマーカーを引いた個所に、例えば5人なら「5人がハイライト」と表示される。こんな箇所だ。

半年後、もしくは一年後、必死に頑張り続けたら、いつか俺の手にきらきらしたなにかが引っかかってくることはないだろうか。
どこまで行けるか試してみたい。自分を追い込んでみたい。

遠くに見える櫻井の背中を見ながらペダルを踏む。追われる側よりも追う側のほうがアドレナリンが出る。決して悪い状況ではない。

「でもな、正樹。俺の好きな選手が言ってたよ。〈運がよくないと勝てない。だが、運がいいだけでは勝てない〉ってな」
俺は息をのんだ。
「お前は運がいいだけで、必死に勝利を狙ってきた百人以上の選手を蹴落として頂点に立てたと思うのか?」

自分が悲観的なのか、楽観的なのかわからない。
だが、どちらにせよ、思い描く未来は明るいほうがいい。あとで失望することになったとしても。このレースだってそうだ。きっと勝てる。俺はひとりで走っているのではないのだから。

などなどである。
『サクリファイス』シリーズのなかで唯一、ミステリー要素がなかったのが個人的には残念だが、ドラマとしてじゅうぶん楽しめる小説だった。
そうそう。Kindleで読んだことで、唖然としたことがあった。本ならあと何ページくらいかなというのが手に持った感触で判る。なので驚いた。
「うそ! ここで、終わり?」
特に唐突に幕を閉じた訳ではなかったが、まだまだ続くと思っていたのでショックだったのだ。ちなみに、残り何ページなどと確認もできるらしいが、わざわざしなかった。正常性バイアスが働き(?)情報を見ようともせず、まだまだ読みたーいという願望が受け入れられるものと信じてしまった。
そんなこんなでKindleはまだまだ使いこなせてはいないが、自転車ロードレース青春小説『キアズマ』は、読み終えるのが惜しいほどにおもしろかった。

やっぱり表紙は、本の装幀には勝てないでしょう。

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人の力、機械の力

空の色が薄い。腕も腰もだるく、身体はほてっている。
どうしたのかと言えば、雪掻きでへとへとになるとこうなるのだ。目は雪目で、空の色さえ、いつもと違って見えている。

「とにかく、車を出せるようにしよう」「おう!」
50センチの積雪があった一昨日の午後、雪がやんだ頃を見計らって、雪掻きを始めた。お隣が離れているので、雪掻きしている姿は遠く見えるが話はできない。なので、ご近所さん達とも電話で連絡をとり、除雪車が来るであろう道まで、なんとか車が通れる道を作ろうということになった。
我が家の前の道路は、まだ轍がなかった。新聞配達も、郵便も、宅配も来る様子はない。誰の足跡もない真っ白な道だ。美しい。美しいが、雪は重い。すぐに腱鞘炎になるわたしは、少しずつ掻くしかない。夫の半分にも満たない労力だが、それぞれできることをやるしかないのだ。それにしても雪掻きをするとなると、道は広く長く、なんと果てしなく見えることであろうか。

休憩を挟んで、3時間くらい掻いただろうか。
「なんとか、車、出せそうだね」
足もとのみを見て、ただ雪を掻いていたのだが、夫に声をかけられて顔を上げると、道はずいぶんと広がっていた。
「おーっ、すごい!」
人の力って、すごいんだなあと、感動した。うん、そうだよ。薪だって、一本ずつ運んでも、いつかは軽トラ1台分運び終わるんだから。何だかんだ言っても、やっぱり人の力って、ほんとすごいんだよ。
その直後だった。ユンボが、雪を掻きながら通り過ぎていった。除雪車はいつ来るか判らないと、同じ地区の人がユンボで回ってくれているらしい。
「おーっ、 すごい!」
機械の力って、やっぱりすごいんだなあと、ふたたび感動したのだった。

昨日の朝の風景。除雪車が通ったあとの道です。

田んぼも真っ白。四角い形だけが、くっきりと浮かんでいます。

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雪と正常性バイアス

朝起きて、窓の外を見て驚いた。30センチ以上、雪が積もっていたのだ。
テレビをつけると特急は午前中のすべてが運休を決めていたし、中央高速も通行止め。慌てて車の雪掻きをしたものの、夫は出勤できない状況だと判った。

何も驚くことではないのだ。前日から、明日は雪が積もるかも知れないとニュースなどで聞いていた。しかし、考えてもいた。まあ、そうは言っても、たいした積雪ではないだろうと。

自分は、だいじょうぶ。ここは、だいじょうぶ。
こういう心理を「正常性バイアス」と言うそうだ。
人は、自分にとって何らかの被害が予想されるシーンでも、都合が悪い情報を無視したり「自分はだいじょうぶ」「今回はだいじょうぶ」などと根拠なく考えたりするという。そういう心理が自然と働いてしまうらしい。そしてそれが、状況判断を狂わせることが多いと聞く。
「気をつけよう」
正常性バイアスが、知らず知らず自分にも働いているのだと今回、実感した。
大切なのは、自分自身の感覚を信じすぎないこと。一つ一つの情報を冷静に受け止めること。それらを含め、俯瞰する目を持つことだろうか。
しんしんと降り続ける雪を眺めつつ、そんなことを考えた。

ウッドデッキのテーブルです。
午前10時には、50センチ以上積もっていました。

夫が山で切り出してきた薪の上にも、ずっしり積もっていました。

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小さな棘を抜いていこう

よく、指に棘を指す。
薪運びをするときには軍手をはめるが、ストーブに薪一本を入れるために手袋をしたりはしない。単なる油断とずぼらからくる、小さな怪我だ。自業自得である。棘は本当に小さな怪我だが、これがけっこう痛い。そして、小さければ小さいほど、とれにくい。とれないと気にかかる。小さな棘に振り回されている気分になり、そのくだらなさに、余計イライラしたりする。
その分、棘が抜けたときには、思いもよらないほどすっきりとした気分になる。どのくらいすっきりした気分かと言えば、もとはと言えば、棘を刺したから棘が抜けた訳で、そのおかげで、こんなにもすっきりと晴れ渡った心持ちになったのだと勘違いしそうになるほどだ。

生きていれば、日々小さなことに振り回され、気になりながら放っておくことが増えていく。ありふれた毎日のなかにも、いつしか小さな棘がたまっていく。小さな棘は、放っておくこともできるかもしれないが、酷く膿んだりするかも知れない。小さな棘を一つ一つ抜きながら暮らしていくことが大切なのだろうと、棘を抜いたあとの傷を見つめた。
棘抜きのような軽い気持ちで、そして、棘を抜くときのように真剣に、断捨離、しようかな。
この期に及んで「しようかな」という曖昧さ(笑)
さて。暮らしのなかの棘はどれくらい抜けるだろうか。

軍手、とりあえず、します。忘れなければ、たぶん、おそらく(笑)

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キンドルの民

「あー、キンドルミンになっちゃったの?」
末娘が夫に責めるような声を上げたのは、昨夏のことだった。

一瞬、カタカナ変換をして何の事だか判らなかったのだが、それは「Kindleを使う民」の意味だった。検索してもヒットしないところをみると、彼女の造語なのだろう。こよなく本を愛し、今は大型書店でバイトする大学生の彼女にとって、Kindleで電子書籍を読む、などということは信じられない裏切りのように思えるらしい。彼女の本棚は、新刊と文庫それぞれ作家別五十音順に並べてあるし、本が日焼けしないよう本のためにカーテンを閉めている。食べたり飲んだりしながら本を読むなどもってのほか。ブックオフで高く買い取ってもらえるのもうなずける気の配りようだ。書店のバイトとして優秀であることは間違いない。何しろ、本を扱い慣れている。大きさ別十種類以上あるブックカバーも、レジに本を差し出された瞬間に判るし、すぐに忙しいレジに回されるようになったのだと言っていた。

ところで、そのKindleを夫が購入して、すぐのこと。
「きみにも貸してあげるよ。一冊買ってみたら?」
そう勧められ、近藤史恵の『キアズマ』(新潮社)を買ってみた。既に読んでいる『サクリファイス』(新潮社)など自転車ロードレースを舞台にかかれたミステリーの最新刊で、わくわくしながらポチッとしたのを覚えている。
だがその後、なかなかそれを読むことはできなかった。夫が常に携帯しているため、Kindleはわたしの手もとに落ち着いてくれないのだ。読んでいる途中で持っていかれるかと思うと、読み始めるのも気が進まない。そうこうしているうちに新しい年になってしまった。
それを考えると、やっぱり本はいいよなあと思ってしまう。そこにちゃんとある、ってことだけで落ち着く。

しかし、遅めの新年の挨拶にと出かけた夫の実家がある神戸への道のりで、ようやくKindleを開き『キアズマ』を読み始めた。これが、読みやすい。文字は老眼の目にちょうどいい大きさに調整できるし、片手で持っていても、勝手に閉じたりしない。ワンタッチでページをめくることができる。一度閉じても、開けばまたそのページ。栞だって幾枚でも挟める。
「いいじゃん、Kindle」
だったら自分用のものを購入すればいいって? うーむ。娘も言うところの「キンドル民」になるのはなあ、ともまた思うのだった。

赤いカバーの可愛いやつです。車窓が似合いますね。
塩尻から名古屋へ向かう、特急しなのにて。

開くとこんな感じ。セールやってます(笑)

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大切なのは、違和感を放置しないこと

夫のネックウォーマーを、編みなおしている(笑)
って、笑いごとじゃなーい! 編みなおすことを決めたときにはもう半分まで編んでいて、深く深く落ち込んだ。
ずっと違和感は、抱えていたのだ。
「あったかそうだけど、ちょっと分厚すぎないかな?」
わたしの編み方は、わりときつめなので、しっかりした感じに編み上がっていくのもしょうがないとも思っていた。しかし結局のところ、糸と編み棒の太さとわたしの編み方が合っていなのだとあきらめることにした。

編みなおしを決めたきっかけは、小さな一目に対する違和感だった。
模様編みで編んでいくと、表、裏を段によって変えたりするので、編みながらパッと見ただけでは編み違えが判りにくい。しかし編んでいると、きちんと違和感として訴えてくれるのだ。ほどいて編みなおしたり、2段下までその目だけ鍵針で直したり、それは編み物のおもしろさの一つでもある。
「違和感を覚えたら、それは編みなおすきっかけだよ」
そんな毛糸と編み棒の声が、聞こえた。
違和感を放置しない。それは、経理の仕事上でも大切で、日々実践していることなのに、編みあがっていくさまを見ていると、つい引き返すのはもったいないなあと思ってしまったのだ。

「編みなおすんなら、全く違うのにしよう」
新しく模様編みの初心者本を、購入した。仕事用の電卓を叩き、模様の目数を計算し、これまた仕事用の赤ペンで、編み物本にかきこんだ。
さて。今は違和感なく、編み進めているのだが。

模様がはっきりしてくると、楽しくなります。
新しい本買って思ったけど、こうやって編み物グッズ増えていくんだなあ。

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新しい加湿器

壊れたまま使っていなかった加湿器を、買い替えた。
薪ストーブ運転全開の季節。室内に洗濯物を干してはいるが、部屋じゅう乾燥しきっている。買ったばかりの加湿器の水蒸気が白く上がると、ホッとした。

以前使っていたものもそうだったが、タンクの水を入れる口は、下側についている。水を入れて栓をすると逆さにしてもこぼれないが、加湿器にセットすると栓が開くようになっている。これは、灯油ファンヒーターでも同じことなのだが、見るたびにすごいなあと思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

新しい加湿器で快適に暮らしながら、それも、こういう小さな栓を発明する人がいるから成り立っているんだよなあと思うのだ。
ノーベル賞をとることはない、小さな発明の数々に乾杯! と、加湿器の丸いカーブをそっと撫でた。

木製の丸いものを選びました。加湿器もデザイン豊富になりましたね。
何故か、リビングに木製のブーメランが(笑)

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『望郷』

湊かなえの短編集『望郷』(文春文庫)を、読んだ。
帯にあった北村薫の言葉「群を抜いていた。鮮やかな逆転、周到な伏線、ほとんど名人の技である」に魅かれ衝動買いした。日本推理作家協会賞を受賞した短編『海の星』に向けた選評の言葉だろうか。
湊かなえの故郷である瀬戸内海の島を舞台にかかれた短編集だということにも、興味をそそられた。ある意味で閉鎖された空間で、助け合い暮す島民達のなかで起こるドラマ。猟奇的な殺人などは登場しない、ドラマとして楽しめるミステリーだと確信したのだ。

舞台は瀬戸内海の白綱島(モデルは因島)。本土とを結ぶ大橋が架かったのは、30年ほど前という設定だ。『海の星』は、父親が失踪し、行方知れずのままになっている島育ちの洋平が主人公。都会で家族と共に暮らす彼のもとに一枚のハガキが届いた。「お父さんのことでお伝えしたいことがあります」
島の同級生、美咲からだった。以下本文から。

「橋、きれいだね」
橋を見ながらそう言うと、ネックレスみたい、と母は答えたが、お互い、足を止めることはなかった。母が何を思っていたのかはわからない。私は橋を見ているうちに、もしや父は橋の向こう側に行ってしまったのではないかという不安が込み上げ、じっと見ることが怖くなってしまった。
島内にいるのなら父は帰ってくる。しかし、父がもし橋を渡ってしまっていたら、もう二度と帰ってくることはない。今となれば、白綱島大橋など、単に隣の島とをつなぐだけのものでしかないし、当時だって、橋を渡って本土に行ったことは何度かあったのだが、夜の闇に浮かぶ東洋一の長さの吊り橋の向こうには、未知のとてつもなく魅力的な街があるように感じられた。

解説で光原百合が、かいている。
「何かが不可能であること自体は人間を苦しめません。可能であるのに何かに阻まれてできないことが人間を苦しめます。白綱島での暮らしに閉塞感を感じ外の世界に憧れる作中人物達にとって、白い美しい橋は外に通じる希望であると同時に、はかない夢を見せる残酷な存在でもあったのはないでしょうか」

生きていくのは、自由なことばかりじゃない。可能であるのに、何かに阻まれてでききないこと。たぶんそれは、多かれ少なかれ誰もが抱え、苦しんでいることでもあるだろう。
それを象徴する大橋が、小説のなかに白く美しく浮かび上がっていた。

『海の星』のイメージの表紙ですね。
夜の海では、夜光虫(プランクトン)が刺激を受けると青く光るのだとか。
それを「海の星」と呼ぶのだそうです。

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真珠婚レポート

きのう、結婚して30年を迎えた。
30年目の結婚記念日は、真珠婚というらしい。海のなかで時間をかけて形作られていく美しく丸い真珠に、30年という月日を例え名づけられたそうだ。

とは言え、何をする訳でもない。じつを言うと、たがいに忘れていたのだ。
週末、昨年お世話になった夫の友人を招き、日本酒『佐久の花』で新年会をした。その際、ふたりのなれ初めは? などと久しぶりに聞かれ、一通り話し終えて、ふたり一緒にはたと気づいた。
「あれ? もうすぐじゃない。結婚記念日」
「あ、ほんと。結婚記念日だ。29年目だっけ?」
ふたり指を折りながら数えてみると30年だったという具合だ。
だいたいわたしは、何かと記念日を忘れ、夫に呆れられることの方が多い。
女子力のなさ全開で、30年も経ったらもう、忘れてたって普通でしょ、と何処かで考えている節もある。

しかし、ふたりして忘れていた日を、酒の席で思い出したのも偶然という訳でもあるまい。思い出させてくれた夫の友人と酒の神バッカスに感謝しつつ、出勤前の夫に声をかけた。
「いつも、ありがとう」ぼそっとした感じの声になった。
彼も、ぼそぼそと言う。「こちらこそ、ありがとう」
「今年も、あと11か月と3週間だな」
「早いものだねえ」
そんなふうに、笑った。
「ねえ、すごい確率だよ。今年は12日のうち、もう1日休肝日作った」
「日にちじゃなくて、量の問題なの。すでに、飲みすぎてるんだからさ」
日本酒の好きな酒の強い夫の友人と手をつないだ酒の神バッカスは、30年目の結婚記念日だけではなく、休肝日をもプレゼントしてくれたのだった。

エンゲージリングが、真珠でした。
『赤毛のアン』で、アンが、真珠を涙の粒に例え、
「喜びの涙も悲しみの涙も、共に」と言うのに憧れて選びました。

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裏があるから表がある

夫のために、ネックウォーマーを編み始めた。
サッカーを続ける彼は、毎日のストレッチの他、ウォーキングにも力を入れている。凍った冬のウォーキングには、ネックウォーマーが欠かせない。彼は、2枚を交互に使っていたのだが、そのうちの1枚が破れてきたのだ。
上の娘の帽子を編むためにと買った編み物本に、ネックウォーマーも載っていたので、それを編むことにした。輪にしてぐるぐると編んでいく帽子と違い、今度は平面を編み、最後に綴じるタイプ。長方形を編んでいくだけだから、難しいことはない。簡単な模様編みも入っていて、それが楽しくもある。

しばらく編んでいき、ぐるぐる編みではないことに新鮮さを感じた。端まで編んでいき、引き返す。その際、裏返す。なので本の編み方図の記号も、裏が表になる訳で、裏側を編んでいるという意識が、否応なく生まれるのだ。
「帽子にも、ネックウォーマーにも、裏側があるんだな」
もちろん帽子だけではなく、今着ている服にも、鞄に入れたハンカチにも、部屋にかかったカーテンにだって裏側がある。裏表のある人というと、いい印象は持てない。だがネックウォーマーは、胸をはって言っている気がした。
「裏表、あります。裏があるからこそ表があるんです。そして、表があるからまた裏もあるんです」
表を編みながら裏を思い、裏を編みながら表を思う日々。物事には表と裏があり、あるということに反発を覚えずただ受け止められるようになったのは、いつの頃だっただろう、などと思いを巡らせつつ編み棒を動かしている。

前の方が表、後ろの方に見えるのが裏です。
分厚くしっかりと温かいネックウォーマーに、編み上がる予定。



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さむーい日のキムチうどん

ひとりのランチに、よくうどんを茹でる。
寒い季節には毎日でも飽きずに食べられるほど、うどんが好きだ。好きだということのなかには、その手軽さも含まれる。
茹でて、麺つゆを入れたどんぶりに、茹で汁ごと注ぐだけ。インスタントラーメンと変わらない手軽さだ。茹で時間6分の美味しい細麺に出会ったことも、うどん好きが加速していった一因になっている。6分の間に、葱をたっぷり刻む。それだけでご馳走だ。

寒さ本番のこれから、さらに温まるうどんが、ひとりランチに登場する。キムチと鶏がらスープ味におろしにんにくをのせた、キムチうどんだ。
これも簡単。5分茹でたらキムチと鶏がらスープ少々を投入し、仕上げにおろしにんにくをたっぷりのせる。身体の芯まで温まること、請け合いだ。夫と食べるなら豚肉を入れたりもするが、ひとりなら入れない。さっぱりヘルシーを優先する。誰かと一緒に食べるのも楽しいが、ひとり気楽に食べるのもいい。

そんなことを考えつつ、キムチの効能を調べてみた。キムチには、乳酸菌がヨーグルトの100倍入っているそうな。美容にいいそうな。
「美容?」そこで突然、美容という言葉がゲシュタルト崩壊した。
「美容って、いったい何ぞや?」
美容 = 容姿を美しく整えること。(日本大百科全書)

「美しく? 容姿? 何かが、あるいはすべてが、違うような気がする。うーん。まあ、いっか。キムチ美味しいんだから、心の美容によさそう」
なんて独りごち、キムチうどんで温まる冬である。心に容姿があるかどうかは、まあ置いといて。

おろしにんにくたっぷりが、美味しさの秘訣です。
パクチーがあれば、なおよしですが、ひとりランチには贅沢かな。

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吊るし雲の名前から吹いた風

八ヶ岳下ろしが、北側の外板を叩いている。
叩くだけならまだいいが、ときに、つかみかかり揺さぶったりもする。木の家は揺れる。風や地震に弱い訳ではない。揺れることで自らを守っているのだ。柔軟なのである。だから毎年の北風にもふっと怖くなるほどに揺れ、リビングでくつろぎながらも自然の力を、その恐ろしさを感じさせられるときがある。
「今夜は、吹くな」
昼間、低い場所に浮かぶ吊るし雲(つるしぐも)を見たときから、判っていた。空高い場所で吹き荒れた風が作るその雲は、人が暮らす里にも強い風を吹かせるのだ。

吊るし雲。不思議な名だ。
流れゆく気ままにも見える雲のなかでは、その場にじっとして動かないように見えることで、まるでそこに吊るされているかのようだと名づけられたという。名前というのは、その名を知った瞬間から、そのもののイメージとなる。
吊るされた雲からは、細い細いピアノ線が天まで伸びているかのように思えてくるし、そう思うと、その天上には誰かがいて、ピアノ線を垂らしているようにも思えてくる。そう考えた瞬間、他の雲達まで、さっきとは何やら違う顔をしているかのように思えてくる。一つの名から作られたイメージが、空全体を変えていく。それは、自分のなかで一瞬吹いた風のような感覚だ。

翌朝、木枯らしはやんでいた。吊るし雲も、もう吊るされてはいなかった。

8日の午後の空です。雲の形って、ほんとうに不思議ですね。

定点観測地点で少しずらして、八ヶ岳と並べて撮ってみました。
吊るし雲と八ヶ岳、なにかおしゃべりしているように見えますね。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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