はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『サファイア』

軽いミステリーが読みたくなり、湊かなえの短編集を手にとった。7つの短編それぞれに宝石の名をタイトルにつけた『サファイア』(ハルキ文庫)だ。
『真珠』は、しつけの厳しい母親に反発して生きてきた女性を。
『ルビー』は、施設で暮らす老人と交流する家族を。
『ダイヤモンド』は、結婚詐欺にひっかかった男性を。
(ラスト、ぞくぞくっと怖くなったのはこれでした)
『猫目石』は、猫を助けた家族の秘密を。
『ムーンストーン』は、一対のピアスを分けた女子中学生たちのその後を。
(じわりと泣けたのは、これです)
表題作『サファイア』は『ガーネット』と対になっていて、二十歳の誕生日に恋人を亡くした女性を。どれもミステリー色濃く、描いている。
以下『ガーネット』本文から。

彼女のことを悪く言われたのが気に入らなかったのか、その人は、自分が彼女を好きになったのに外見は関係ない、とはっきり言い切ったのです。ならばどういうところだ、と訊き返しました。その人はこんなふうに言いました。
自分は、彼女を通して見える世界が好きなのだ。同じ景色を見ているのに、彼女の語るその景色には自分には見えない色があり、匂いがあり、空気がある。それは自分一人では気づくことができないけれど、彼女を通して見えたとき、ずっと自分が探していた世界のように感じることができる。だから一緒にいたいのだ。視力の悪い人にとってのメガネのような存在なのか、と訊ねました。そんな気もするけれどちょっと違う、と言われました。
自分の目に映る世界にまだ向こう側があることを教えてくれる、映画監督や作家のような存在かな、と。

宝石と言えば、美しい。そして、高価なものである。だからなのだろう。愛の証として贈られることが多い。「美」「金」「愛」の象徴のように思える。
しかしその3つの裏には、妬み、憎しみ、裏切り、企て、別れ、そして詐欺や殺人までもが、うごめいている。人の心の深い闇の恐ろしさと、そのなかで無垢な宝石のように光る人の思いの温かさを、光と影を交互に見せていくかのように描いた短編集だった。

モノクロの裸体に色とりどりの宝石達。ハッとする表紙です。
わたしの誕生石(2月)は、アメジスト。
透き通った薄紫色の宝石には、どんな物語があるのかな。

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切手、その名の由来

「切手って、ちょっと親近感湧く言葉だよね」と、右手くん。
「なにしろ、手がつくもんね」と、左手くん。
最近、痛みもあまり感じない様子の左手くんと右手くん。右手くんが frozen shoulder (五十肩)だった頃の切羽詰まった雰囲気は、もうない。
「そのお仲間の切手さん、最近ずいぶんお洒落なものが増えたよね。記念切手っていうの?」
「何かの記念で記念切手を発売したのは、昔の話らしいよ。今は、特殊切手って言うんだって。他にもふるさと切手とか、グリーティング切手とか」
「ふうん。でもなんでさあ、切手って手がつく言葉になったんだろう?」
「ああ、それね。切符手形の略なんだって。で、その手形は、むかーし大切な書類には、手に墨や朱肉なんかを塗って捺したところからきてるらしいよ。」
「そうかあ。手の形って、大切なものとして扱われていたんだね」
「一人一人、違うもんなあ。きみと僕でさえ、違うもんね」
「違うって、大切なことなんだね」
「だよね。違うって、すごいことなんだよねえ」
「で、お仲間の切手さんは、大切な書類の仲間って訳だね」
「そうそう。なんか、そういう仲間がいるって誇らしいねえ」

お年玉付き年賀はがきが1枚当たり、切手シートを受け取りに行った際、その特殊切手を買ってきた。切手収集をしている訳ではなく、ただ使うためだ。
楽しんで使うために買ってきたのだが、大切な書類の仲間なのだという左手くんと右手くんの会話を聞き、小さな薄っぺらい切手というものにその存在の大きさを感じた。まあ、手の仲間かどうかは・・・大きな疑問ではあるが。

左にある白とグリーンのシンプルな切手は、パリの郵便局で買いました。
右の蓮の花の切手は、ベトナムの郵便局で。これは使った後の古切手です。
外国で、郵便局に行くのも、また楽し。
日本の綺麗な切手達、外国の人からはどんなふうに見えるのかな?

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八ヶ岳と一体になった雲

八ヶ岳の真上に、雲がかかっていた。
「天使のわっかみたい」
運転しながら、つぶやく。ちょうど天使の頭とわっかくらいの間隔を空けて、雲が浮いていたのだ。
「天使のわっかは天使とセットだけど、あの雲も八ヶ岳とセットなのかな?」
天使が飛んでも歩いても、わっかはついて回る。じゃあ八ヶ岳が歩いたら、あの雲もついてくるのかと、うっかり想像してしまう。そんな想像をしたのも、雲がなんとも居心地よさそうに山の上に浮いていたからだ。まるで自分の意思で、そこに居るみたいに。

雲だけではなく、八ヶ岳に居るモノ達を思い浮かべる。棲んでいる動物達。根を張った木々、花々。そして雲のように、ときに現れ、自分の意思で八ヶ岳を歩き、登る人達。
「八ヶ岳は、そんなものものと一体なんだな」
その雲は、どうやら雪を降らせていたらしい。日が暮れてから、夫を迎えに出ると、静かに雪が舞っていた。

一昨日の八ヶ岳。天使のわっかのように丸くはありませんが、
八ヶ岳の真上に、ふわふわの雲がかかっていました。

雲一つない翌朝の八ヶ岳です。赤岳が白く凍っています。

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ひとりランチの親子丼

出先で、ひとりランチに親子丼を食べた。
娘達が、東京で暮らすようになってから、そう言えば、親子丼を作っていない。帰省してきたときに親子丼をリクエストするのは、決まって息子と末娘だ。上の娘は、スパイシーな味を好むようになったせいか、チゲ鍋などを食べたがる。そして息子は、もう5年ほど帰ってきていない。
我が家の親子丼は、親子丼鍋などは使わず、大鍋でたくさん作る。テーブルの真ん中にどんと置き、それぞれがご飯をよそった茶碗やらどんぶりなどにかけるのだ。半熟、というよりももう少しやわらかめにするのが、我が家の味。三つ葉は一束分豪快に散らす。
その親子丼を、スプーンで食べるか、箸で食べるかで、夫とは意見が分かれた。わたしは、スプーン派。食べやすいから、というのが理由だ。夫は、箸派。蕎麦屋にスプーンはない、という理屈だ。もちろん、それぞれ好きな方で食べる訳だが。
ランチをした店は、蕎麦屋ではなく和カフェだったこともあり、木製のスプーンがついていた。ちょっとうれしくなる。

親子丼には、スプーン vs 箸だけではなく、様々なことを思い出す。夫の帰りが遅い日には、子ども達が食べた親子丼の残りに卵を落としなおし、酒の肴として出していた。だがある日、昼食に家族そろって出来立てを食べたときに、彼はひどく驚いた。
「出来立てって、こんなに美味しいの? 違う食べ物じゃん」
それから彼は、親子丼を作るたびに言うのだ。
「出来立て食べさせてもらったことないから、うれしいねえ」
わたしは呆れ顔をする。いったい何回食べて言ってるの? と。

末娘とは、二人して読んだ中村航の小説『あのとき始まったことのすべて』(角川文庫)にでてきた「親子丼できたどーん」と言って笑うのが常になっていたし、家族のなかで、翌朝残りの親子丼は早い者勝ちというルールまででき、けっこう緊迫感をみなが感じていた。親子丼にはあまり興味を示さない上の娘が一人勝ちしたときには、夫がけっこう本気でムッとしていたっけ。
「ひとりで食べていても、家族がいるってことだよなあ」
ひとりランチの半熟親子丼に、ほっこり胸が温かくなった。

和カフェの親子丼は、少し甘めでしたが、半熟に満たない卵がgood!
少しの三つ葉と、海苔がのせてありました。

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『はだかんぼうたち』

江國香織の「著者が初めて結婚をテーマにすえた群像劇」と帯にある長編小説『はだかんぼうたち』(角川文庫)を、読んだ。
群像劇と呼ばれるだけあって、様々な人の視点で語られていく。だが、そのなかで核となるのは、桃とヒビキだ。35歳の女達。
桃には、まだ恋人とは呼べない9歳年下の鯖崎がいて、ヒビキには、性欲が強すぎる夫と4人の子ども達がいる。そして桃には、夫と過ごす時間や家庭というものに固執している母親がいて、ヒビキには、夫を亡くした後、ネットで知り合った恋人と同棲中に亡くなった母親がいる。(あるいは、もういない)
桃の母親は、幸せの定義から「結婚」を外すことが考えられない女で、桃が結婚をなるべく視野に入れないように生きているのは、たぶんそのせいもある。鯖崎を「恋人」と定義できないことも。そんな桃を知っていてヒビキは言う。「でも別れたんでしょう? その色男のために、石羽さんと」
鯖崎は、そのヒビキにも魅かれていくのだった。以下本文から。

「でも、結婚は解放にはならないのね」桃は言った。
「解放?」
「だってほら、奈良橋さんは結婚しているし、ヒビキだってそうだわ。でも二人とも、べつな相手とべつなことが起きてる」鯖崎は苦笑する。
「奈良橋さんはともかく、ヒビキちゃんは何事も起こさないようにしてるよ」
運ばれたグラス二つに氷を入れた。
「おなじことだわ」
桃は断じる。紹興酒のグラスを手渡すと、そのままカランと氷の音を立てて一口飲み ― 桃の白い細い喉に鯖崎は見とれた ― 、
「みんな、いつまでこんなことをするのかしら」
と言って目元をほころばせて笑った。口元ではなく目元をほころばせる、桃の笑い方が鯖崎は好きだ。
「こんなことって、デート? セックス? 男女交際?」
土曜日だし、場所も近いので、このあとはたぶん桃の部屋に行くことになるのだろうと思いながら言うと、
「その全部」というこたえが返った。
「考えこんじゃうこととか、突然淋しくなることとか、不安になることとか」

普段は考えることもないが、考えてみれば、結婚って不思議な形だ。
そのなかに身を置いているわたしは、必要な制度だとは思うし、今の生活は幸せでもあるのだが、こうも思う。それぞれの生き方が認められ始めている今の時代、3人の子ども達は、好きにすればいいと。
小説のなかでは、桃の母親が、いちばん近い環境にある人物だったが、もっとも相容れないと感じる考え方をする女性でもあった。幸せの定義は、人それぞれでいいと、わたしは思う。そのなかに「結婚」が入っていようと、いまいと。結婚しているから、逆にそう思えるのかも知れないけれど。

読んでいた喫茶店に入ってきたカップルが、夫婦なのか恋人なのか。
やけに盛り上がっている二人を、見るともなしに読んでいました。
「結婚と恋愛、どちらがいいのだろう」という帯の文句に、
「いや、そういう問題か?」と、ちょっと笑いながら。

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居心地のよさは違うということ

最近、家族というモノについてよく考える。
夫の実家に頻繁に帰省するようになり、夫婦でも親子でも、個なのだなあと感じる機会が増えたのだ。家では、誰もが居心地よく過ごしたいものだろう。だが、その居心地のよさは、一人一人違うのだと。

例えば、天井に吊したペンダントライト。義母は、すべてつけて明るい部屋で過ごす方が好きだが、義父は、半分だけ灯すのが好みらしい。同じ場所で過ごすためにはどちらかが譲らなくてはならない。
また、家族であれば、あるいは夫婦であれば、相手にも、自分の好みを判ってもらいたいと思う気持ちもあるだろう。明るくした方がいいのに。または、明る過ぎない方がいいのに。そんなふうに、相手が自分とは別の部屋にいるときにさえ、気になってしまうということも、ままあることだ。
小さなことだが、譲れないことは、家じゅうに転がっている。家族と言えど、自分ではない誰かと共に暮らすということは、本当に大変なことなのだ。

かくいうわたしたち夫婦にも、もちろん違うことがいっぱいある。
夫はキッチンカウンターのライトをつけるのが好きだが、わたしはキッチンのライトでじゅうぶんだからと、わざわざカウンターのライトまでつけることはなかった。彼がそのライトをつけるのが好きだと判ってはいても、キッチンで立ち働くときには気にかけなくてはならないことが山ほどあり、ライトにまで心配りができずにいたのだ。だがある日、彼が言った。
「ああ、そうか。俺はキッチンの外側の人間だから、このライトがついていた方がいいと思うんだ」
「なるほど。わたしは、なか側の人間だから、そこは気にならないんだね」
そんな会話をしてから、わたしはキッチンカウンターのライトを、毎晩つけるようになった。食卓に料理を運び、キッチンのライトを消すときに。

立っている場所も、見えているものも、同じ家で暮らしていても違うのだ。
もちろん、思うことも、感じる心も。
体調を崩した義母の代わりに夫の実家のキッチンに立ち、彼の両親と過ごす時間に、家族のなかの個が浮き上がるかのように見えてきたのだった。

滅多にスポットライトが当たることのないカウンターのライトです。
キッチンカウンターは栗の木。栗は、水に強いそうです。

薪ストーブのある西側の窓についても、夫にはこだわりがあり、
暮れなずむ林を見ていたいからと、真っ暗になるまでカーテンを閉めません。
でも、ある冷え込んだ夕暮れ、カーテンを閉めずにいたら言われました。
「寒いじゃん」わたし的には「!」そりゃ臨機応変って言葉は知ってるけど。

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後ろ髪という記憶の糸

後ろ髪を引かれる、という表現がある。
ことわざ辞典などによれば、未練が残り、なかなか思い切れないさまとある。
最近そんな気持ちになることがよくあるのだが、未練などというたいそうなものではない。例えば、スーパーに買い物に行った帰り、なんとなくホームセンターが気にかかる。後ろ髪を引かれるのである。しかし、どうして後ろ髪を引かれるのかが判らない。なので、そのまま後ろ髪を引かれる思いを振り切って帰ってくる。そして自宅のリビングで窓際を見た途端、思い出す訳だ。
「ああ、夫に、野鳥達の餌を買ってきてって頼まれていたんだっけ」と。

仕事部屋が気にかかり、訳もなくドアを開けることもある。しかし、やはり何が気にかかっているのか判らない。仕事部屋をぐるりと見まわして、それでハッと気づけばまだいい方だ。判らないままに、キッチンで野菜を刻みながら、不意に思い出す。
「そうだ。通帳を取りに行ったんだった」

また、パソコンを開かなくてはならないと開いたのだが、何をしようとしていたのか思い出せず、後ろ髪を引かれる思いでシャットダウン。立ち上がった途端、思い出す。
「あーっ、閉じちゃったけど、生協のオーダーするんだった!」

そんな日々である。全く、嫌になる。しかし、とも考える。ときどき、この後ろ髪さえも引かれず、しっかり忘れていることがある。ひどいときには、思い出したはずなのに、忘れていたという意識さえ飛んでいることも。
今は繋がっている、この後ろ髪という細く頼りない記憶の糸。大切にしていかなくては、としみじみ考える。大切にするためには、思い出せないことでも、思い出そうとがんばってみるのが効果的らしい。50代。記憶というものが崩壊していくさまを目の当たりにしつつ、日々がんばっているのである。

庭のヤマボウシにとまる、カワラヒワ達です。
「鳥さん達のために、向日葵の種、忘れないでね~」と、夫。
「判っては、いるんだけどなあ」と、わたし。

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エスカレーターに乗るときに

「あれ? どっちやったっけ?」と、わたし。
「わからんように、なってまうなあ」と、夫。
今年に入って義母が体調を崩し、頻繁に神戸に帰省している。
山梨と、会社のある東京、そして神戸を行ったり来たりしているものだから、夫は、もともとの関西弁と二十歳の頃に習得した東京弁とが入り交じり、わたしにも移ったりしている。だが、わからんようになったのは言葉ではない。エスカレーターの話だ。

東京でエスカレーターに乗るときには、左側に立ち、右側は歩く人用に空けるのが常識になっている。それが神戸では逆。右側に立ち、左を開けるのだ。
帰省中は、荷物を入れたキャリーバッグを引くことが多く、反対側に並んでしまうと人の波に乗れずに困ることになる。
その右立ち、左立ち。関西では、阪急電鉄が梅田駅で右立ちを推奨したのがきっかけらしく、右利きの人が多いことから右手の方が手すりが摑みやすいと考えたからだとか。関東では、自動車の左側通行に倣ってのことだそう。なので右側通行の外国では、関西と同じく右立ちが一般的らしい。
もともと歩くものではないエスカレーター。安全のために歩行禁止にした方がいいのではないかと最近言われ始めたが、ラッシュ時に人がはけなかった場合ホームからの転落事故などの危険性が危惧され、解決策は霧のなかだそうだ。

義母の病院に付き添った帰り、JRの駅についたのが、夕方のラッシュ時間になってしまった。エスカレーターを見ると、なんと左右両側を速足で歩く人達の姿があった。杖を突いた義母は、人の波に乗って歩くことはできない。義母に腕を摑んでもらいながら、ゆっくりとエレベーターまで歩く。
「そんなに急いで、何処へ行くのやら」
昔流行った交通標語が、ふと、こぼれた。

東海道新幹線から見えた、いつもとは反対側からの富士山。
悠々としているなあ。人間は、小さいよなあ。

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『怒り』

吉田修一の長編小説『怒り』(中公文庫)を、読んだ。
表紙に殴るように描かれたタイトルの真っ赤な「怒」の文字に目を魅かれたのだ。読み始めるとそれは、若い夫婦が惨殺された現場に残された血文字だった。犯人は、被害者とは面識のない、山神一也(27歳)と断定。全国に指名手配されるが、目撃証言もなく1年が過ぎていた。

この小説のテーマの一つは、他人を信頼するために、その人物の生い立ちや過去が必要なのかということだ。つまりは、素性の知れない人間と親しくなったときに、自分の知っているその人というだけで、彼は殺人を犯すような人間ではないと言い切れるのか、というところにある。そのために、殺人犯を追う刑事達と並行して、3人の男を追っていく。浜崎の漁村で働く、洋平、愛子の父娘のもとに現れた、田代。東京の大手企業に勤めるゲイの優馬と暮らし始めた、直人。沖縄、波留間の無人島で女子高生、泉と出会った、田中。3人とも、過去は一切語ろうとせず、それでも周囲の人達に少しずつ溶け込んでいくのだった。そして、殺人犯を追う刑事、北見もまた、素性を明かそうとしない恋人との関係に、行き場のない気持ちを抱えていた。以下本文から。

美佳が開かない窓から逃れるように浴室へ向かおうとする。しかし北見は摑んだ手首を放さなかった。
「こういう付き合いがずっと続くのか」
と北見は言った。美佳は何も答えない。
「・・・こうやってたまに会って、こうやって同じラブホテルの部屋に入って、こうやってただ・・・。つらくなるんだ。会うたびに、つらくなる。相手がどんな人間なのか、知らずに付き合うのはつらい」
「それでいいって言ってくれたじゃない。それでいいって約束してくれたじゃない」「うん。分かってる」
北見の手から美佳が逃れようとする。
「ごめん。これでいい。これでいいんだ」
北見は美佳の手を放した。

もう一つのテーマはタイトルの『怒り』だ。怒りは、上流から下流に川が流れていくかの如く、力の強い者、立場が勝る者から、弱者へと向かっていく。
コンビニで対応が遅いと店員を怒鳴る人や、電車が遅れたイライラを駅員にぶつける人を見るにつけ、彼らは、何処かで感じた怒りを晴らす場所を求め、ここにいるのではないかと思ってしまう。そんな光景を目にすることが多い昨今だからこそ、読み終えて、怒りの流れを感じたのだろう。
そんな人ばかりじゃない。そんなふうにはなりたくない。そうは思うが、誰のなかにも、自分のなかにさえ、弱い者へ怒りを向けるような弱さがないとは断言できない。イライラしたときに、子どもに八つ当たりしたことだって、たぶんあっただろう。人間だもの、と言える程度のことだったかも知れないが、知っておこうと思った。怒りと、そして暴力は川が流れるように、自分よりも立場の弱い者、力の弱い者へと向かっていきやすいのだと。

映画化が決まっているそうです → 映画『怒り』公式サイト
誰がどの役をやるのかな~? 楽しみです。

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これから視野を広げていくであろう彼

クリスマスにして以来伸びるままに放っておいたネイルを、ようやく新しくしてもらった。ミルキーホワイト&ラメのシンプルなネイルだ。とても気に入っている。そのネイルをしてもらっているときに、ハッとする出来事があった。

前日、自宅でネイルをしてくれる彼女からメールがあり、子どもの幼稚園がインフルエンザの流行で休園になってしまって、家にいるんですがいいでしょうか? という内容だった。だいじょうぶですよ、と返信したが、だいじょうぶなのかな? とちょっと心配もしていた。2歳の息子くん。いたずら盛りの反抗期だよねえ、と。
実際、彼はとてもおとなしくしていて、こんなにおとなしいのは珍しいと彼女も言っていたが、少ししてテレビにも飽きると、ネイルに使うラメやビーズが入った小さなケースで積み木を始めた。
叱ったりせず、中身が出ないようにしてねとだけ優しく言う彼女に、こちらもゆったりした気分のまま、爪を塗ってもらう。
「ああっ!」
しかし一瞬、息子くんの気配が消えたような静けさのあと、彼女が呆れたように笑い出した。金色の小さなラメの粒が、キラキラと床に散らばっていた。
彼は、と見ると、ラメが入っていたケースを目の前に持ってきて目を隠し、目をつぶったり、お母さんの顔を覗いたりしている。
「それ、隠れてるつもりなの?」と、笑いながら彼女。
「隠れてるんだねえ」と、笑いながらわたし。
そうかあ、と遠い記憶を手繰り寄せる。まだ、自分に見えていないものは、相手にも見えないと思ってしまうような視野自体も曖昧な世界を生きているのだなあと。これから彼は、自分に見えているものと他の誰かに見えているものを、しっかりと捉えていくようになるのだろうなと。
大人になったって、視野の広さは人それぞれだ。視野を広く持ちたいと常々考えてはいるが、考えるだけで広がるものでもない。
彼は、これからスタートしていくんだ。そう考えると応援したくなる。
がんばれ! 息子くん。そして、お母さんも。

「今回は、ぼくが主役だね」と、右手くん。
「右手くん、シャッター押すの慣れてると思ったら、意外と不器用」
と、左手くん。自撮りしてみました(笑)
左手くんと右手くんの会話はこちら → frozen shoulder 徒然
☆ ネイルとリンパマッサージのサロン『ル・ブラン』は甲府にあります。
  ネイルはラメやストーンを使っても5000円。女性限定サロンです。
  興味のある方は、プロフィールにあるアドレスにメールください。

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神戸『うまみや』の元気玉コロッケ

神戸でお弁当屋さんを営む夫の友人から、コロッケが送られてきた。丸く厚みのある、じゃが芋の旨味たっぷりのコロッケだ。店の名は『うまみや』という。名前の通り、旨味の濃いコロッケだ。

山梨は明野に越してきて16年になるが、越してきたばかりの頃にも、こんなふうにコロッケを送ってくれた。
4月に越してきたときには、玄関のドアさえもなく、風呂もひと月銭湯に通った。まだ未完成の家を、とんとんカンカンやってもらいながら夏を迎えたのだ。作りつけの食器棚ができあがったのもゴールデンウィーク。食器は段ボールから出し入れしていた。
そんなときに届いたコロッケは、本当にうれしかった。今はもう大人になり、それぞれ暮らす3人の子ども達も食べ盛りだったのだ。

そのときにも、揚げたてのコロッケをほおばって思ったけれど、コロッケって、元気の素が詰まった元気玉みたいだ。熱々をほおばると、たちまち元気が出る。部活の帰りに肉屋のコロッケを買い食いする子ども達は、今でも存在するのだろうか。あれも彼らの元気玉だったのだろう。などと、昭和の時代に思いを馳せるのも『うまみや』のコロッケの奇をてらわない味に、何とも言えないなつかしさを感じるから。神戸にいらっしゃる方は、どうぞお試しあれ。
☆ お持ち帰りレストラン『うまみや』食べログはこちら

一人ランチに揚げました。ホックホクです。はふはふです。

たっぷりの長芋キムチも、送ってくれました。食べ始めたらとまらない~。
季節のキムチなど、何種類か置いてあるそうです。

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大河ドラマがひき起こす時差

今年はNHK大河ドラマ『真田丸』を、楽しみに観ている。
大抵、日曜の晩酌を楽しみつつ8時から観るのだが、先週は夕飯が早かった。サッカーの試合で走りまわった夫が、夕方にはお腹が空いたというので、6時前に食卓についた。
「大河ドラマ、BSで先行して6時からやってるんだって」と、夫。
「そうなの? 知らなかった。じゃ、観ようか」と、わたし。
時間は早かったが、毎日曜の通りだ。夕飯を食べながら、
「カノちゃん、もう死んじゃうんだあ。いいキャラだったのになあ」
「歴史は、変えられないからなあ」
「わ、生きてた」「大河ドラマは、歴史を変えられるんだ」
などと談笑しつつ、くいくいとワインを飲む。

ドラマが終わった頃、夫が言った。
「9時のような気がするけど、まだ7時なんだね」
「ほんとだ。大河ドラマ観たら、すっかり9時になった気分」
まだゆっくり飲めるねと、その後もう1本録画しておいたドラマを観て、WOWWOWでやっていた映画もさらに観た。
夜と酒は、2時間の時差など綺麗に飲み込んでいく。と思いきや、朝目覚めたときには、しっかり2時間分呑みすぎたことが身体に現れていたのだった。うーむ。大河ドラマがひき起こす時差、侮るなかれ。

アボカドの緑が、まったり綺麗。
ちょうどいい硬さのアボカドに当たると、それだけで幸せ感じます。

大きめの鮪の塊だったけど完食しました。ワイン、何本空けてんの~。
翌朝、酔ってくだをまくなと、ワイン禁止令を言い渡されました。とほほ。

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久しぶりの雨上がり

「雨上がり」という言葉が好きだ。
それだけで、もう詩のような響きがある。明るいの「あ」から始まり、リンとなる鈴の音のような「り」で終わる綺麗な言葉だ。

雨も嫌いではないが、雨が上がって空が晴れていくのと同様に、気持ちもスッと晴れていくような気がする。などということも「雨上がり」という言葉をイメージアップしている理由の一つなのかも知れない。
雨の日には、雨音が子守歌代わりになるからか、湿度が丁度いいのか、よく眠れる。そんなこともあり、雨上がりには身体の疲れがとれている。だから余計に、穏やかなホッとするような言葉として捉えられるのかも知れない。

週末、しとしとではなく、ザーッと雨が降った。ずいぶんと久しぶりに、雨の音を聴いた気がした。なので当然、雨上がりも久しぶりということになる。

雨のいいところの一つに、バイオリズムの低下を「雨のせい」にできる、というのがある。他のことで悩んでいたり落ち込んだりしていても、すべて「雨のせい」にしてしまえる。そして、雨上がりは、そろそろバイオリズムの波を上に向けていかなくっちゃと思う、きっかけになる。
落ち込むことがあったって、雨だから、雨上がりだからと言いつつ自らバイオリズムを調節し、長い人生なんとか元気にやっていけるのである。

韮崎方面に向かう村道で。西側に広がる山々と逃げていく雨雲達。
帰りには、すっかり明るくなっていました。

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クリスマスローズが咲いて

雪もだいぶ解け、穏やかに晴れた土曜日、久しぶりに庭仕事をした。
伸びすぎたツルニチニチソウを切り、落ち葉をどけてあげないと、そろそろクリスマスローズの蕾が顔を出す頃だ。昨年の記録を見てみると、やはり蕾が恐る恐るといった感じで土から顔をのぞかせたのがバレンタインの時期だった。
しかし、すぐに驚いて声を出すこととなった。
「あ、もう咲いてるのがある! こっちも蕾が膨らんでる。早い!」
例年2月末頃に顔を出すふきのとうも、すましてちょこんと座っている。
「わ、 ふきのとうも、出てる!」
「こりゃあ、今夜は天麩羅かな」夫が落ち葉を集めながら、言った。

暖冬、暖冬と来て、50cm の積雪があり、寒波がやってきてマイナス10度の朝があり、また暖かな日が続いて。これじゃあ植物だって、いつ顔を出していいやら迷うよね。2年前には、バレンタインに1m を超える大雪が降った。今年もまだまだ安心はできない。
「だいじょうぶかな、クリスマスローズ。こんなに早く咲いちゃって」
もみじの枝には、地面から2m のところにカマキリの卵がある。カマキリの卵の高さで、その年の積雪量を予測できるとも言われているのだが、大雪だった年には、いつになく高い70cm ほどの高さの枝に産んだにもかかわらず、生まれてこられなかった命が多かったらしい。その夏、庭で闊歩する姿が見られず、淋しかったのを覚えている。
「だけど、カマキリさん。2m は大袈裟だよね?」
大袈裟であってほしい、大雪はもうたくさん、というのが正直なところ。
「命を懸けてるカマキリには、正常性バイアスはないのかも知れないけど」
クリスマスローズの蕾達を愛でながら、大きなお腹で2m の高さまで登って行ったカマキリ母さんの凛々しい姿を想像した。

去年植えた、真っ白な花。吸い込まれそうな白です。

これも去年植えた、小さめの濃いピンクの花。

薄いグリーンの花をつける種類もあります。

こちらは植えてから4年ほど経つ、大きめの薄いピンクの花です。

ふきのとうです。雪の下で縮こまっていたんだね。
陽の光を浴びて、ゆったり伸びをしてる。

こっちには、まるまる太ったのが3つも。

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レンズ雲の層の隙間に

一昨日、スーパーで買い物した帰り、北の空にレンズ雲を見つけた。
横長のレンズ雲の塊が4つ、縦に並んでいる。レンズ雲はシャープな雰囲気で、綿菓子のようなふわふわしたイメージの雲達とは一線を画している。空にペタッと貼りついているかのようにも見える。それが4つも重なっているのは、不思議な光景だった。
それ一つでも何層もの雲が重なってできているというレンズ雲を眺めつつ、車を走らせながら重なってできたものを思い浮かべてみた。
「ミルフィーユ。十二単(じゅうにひとえ)。地層。太い幹の年輪」

年輪と言えば、人も様々なモノを積み重ねて生きているのだよなあと思う。
小さな出来事の一つ一つ。人との出会い。読んだ本。目にした風景。心を動かされた音楽。そして幾重にも重なっていくモノの間には、そのときに感じたこと、考えたことなんかが挟まっているのかも知れない。
ドーナッツの穴のように、ないけれどあるモノが、層と層の間には在るのだと思う。レンズ雲の層の隙間にも、きっと何かが存在するのだろう。それは、人に例えれば、心のようなモノなのだろうか。

一昨日の北の空。最初はもっとくっきり4つに分かれていました。

上空には、アラジンの魔法のランプを連想するような雲が流れていました。

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下品でかっこ悪い行動をとらない日常

朝、夫を駅まで送る途中の信号待ち。
前を走っていた軽が、突然右折した。開店前のホームセンターの駐車場を通り抜ける。信号を避けての近道だ。交通法には引っかからないだろうが、他人の所有地を勝手に通り抜けるのはルール違反だろう。
「わ、お下品」夫が、お道化て言う。
「あーゆーの、かっこ悪いよね」わたしも、苦笑する。
忙しい朝に、時間通りに出られないこともあるだろうが、そういうお下品でかっこ悪いことはしたくない。だから、眠くても早起きするのだ。

やはり朝、宿泊したホテルのビュッフェで。
食べ放題だろうと、自分の皿にとったものは食べる。それが我が家の流儀だ。まあ、お腹いっぱいになっちゃって残すのは致し方ないだろう。だが、そのビュッフェで、紅茶のティーバッグやジャムなどをポケットに入れる人を目にすることがある。
「わ、お下品」夫が、お道化て言う。
「あーゆーの、かっこ悪いよね」わたしも、苦笑する。
その場で、いくらでも食べても飲んでもいいって言うんだから、せめてそこで食べようよ。

道にごみを捨てたり、荷物で場所取りをしたり、後ろに並んでいる人がいるのを知っていて大量に買い占めたり。そういうのって、下品だしかっこ悪い。

価値観とか、まあそんな偉そうなことではないのかも知れないが、わたし達夫婦はけっこう大切にしている。下品でかっこ悪い行動をとらない日常を。
もちろん、上品でもかっこよくもないことは重々承知してるんだけどね。

ビュッフェでもらってきたものではありません(笑)
ルピシアで買い物したおまけにいただいた試供品です。
キャラメル&ラムと信楽熟成ほうじ茶と3種類入っていたうちの、
焙煎豆々茶を開けてみました。

豆々茶って言うだけのことはあって、わ、いろいろ入ってる。

うーん、すっごく香ばしい! 身体にもよさそう。

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『ナオミとカナコ』

奥田英朗の話題作『ナオミとカナコ』(幻冬舎)を、読んだ。
読んだばかりの『沈黙の町で』に、奥田の俯瞰力とも言えるような力に魅了され、あえて分厚い新刊を購入したのだ。
帯には「わたしたちは親友で、共犯者」とある。
28歳の二人は、大学時代から親友。仕切り屋で気の強い直美と、線の細い穏やかな加奈子は、性格は違えど価値観がとても似ていて、気が合うだけではなく、たがいに尊敬しあえる無二の友だった。
ある日直美は、加奈子が夫に日常的に暴力を振るわれていることに気づく。
子ども時代、父親の母親への暴力を目の当たりにしてきた直美は、事態を深刻に受け止め自分のことのように思い悩むのだった。以下本文から。

朱美が表情を険しくし「殺しなさい」と言い放った。
「そんな男に生きている価値はないのことですね。殺されても文句は言えません」「それはちょっと・・・」さすがに直美は絶句した。
「殺したら刑務所行きじゃないですか。割に合わないでしょう」
「じゃあ捕まらなくてもいい方法を考えなさい。わたしなら上海旅行に連れ出して、そこでギャングに頼んで殺します。中国のギャングだから、日本の警察は手を出せません。中国の警察は日本人旅行者が一人死んだくらいではろくな捜査をしません。それで終わります」
朱美が事もなげに言う。直美はこの女社長ならやりかねないなと思った。きっと中国人にとって生きるということは戦いなのだ。だから己の生活を守るためのうそや策略は、すべて正当防衛なのである。
「わたしもそれくらい強くなりたいです」
直美がため息まじりに言った。
「あなたは充分強いです。わたしが会った日本人の女の人でいちばん強いのことですね」

二人は、とめどなく暴力を振るい続ける加奈子の夫を、殺害する。
直美にも加奈子にも、後悔はなかった。捕まらず、死ぬこともせず、生きていく。彼女達の選択肢はそれだけだ。
この小説の魅力は、二人の女性が、強く変わっていく姿にある。
特に、線が細かった加奈子のなかに、しっかりとした芯のようなものが確立していくさまには、心を打たれた。
人を、殺してはいけない。人を、殴ってはいけない。人を、傷つけてはいけない。誰もが判っていることだ。それをあらためて、深く考えさせられる。

左がカナコで、右がナオミかな。フジテレビ系列でドラマも放映中。
ナオミを広末涼子が、カナコを内田有紀が演じています。
で、中国人の女社長は? とキャストを見ると、高畑淳子。
オンデマンドで観てみたら、はまり役でした。

カバーをとると心の影を表すような、ふたりのモノクロ肖像が。
人の心の光と影を、あらためて思ってしまいます。

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思い込みを和らげる鍵②

思い込みのなかには「こうしなければならない」というタイプのものがある。
例えば、料理は手作りにこだわっていた若い頃、出汁も煮干しや昆布、鰹でとっていた。子育て中の忙しい毎日。できないことが山積みになっていくなかで、出汁など粉末のものを使えばいいのにと今なら思えるのだが、その頃のわたしは、きちんと料理しなければならないと思い込んでいたのだ。子どもが生まれたばかりの頃は、朝から小間切れの時間を使ってキッチンに立ち、夕食の支度をしていた。だが子どもも3人になると、そんな時間もなくなった。子どもは外で遊ばせなくてはならないし、テレビやゲームに子守させてはならないから、興味が湧く遊びに誘い出さなくてはならない。嫌いなものも食べさせなくてはならない。熱を出したら病院に連れて行かなくてはならない。泣いたら抱いて寝かしつけなくてはならない。こうしなければならない、という思い込みに自分自身が縛られ、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。

あの頃の自分に、言ってあげたい。そのしなければならないこと一つ一つに、本当にそうなの? と問うてごらん、と。

子育ての時期は終えたが、味噌汁の出汁は創健社の粉末『和風だし』を使っている。しなければならないけれどできなくなったあの頃に見つけた無添加の美味しい出汁だ。自然食品を扱う宅配の『地球人倶楽部』で買っていた。
「今日、地球人が来るよ」
宅配の日にそう言うと、息子はうれしそうに笑ったっけ。
「宇宙人は、来ないの?」と。

ひとりランチのあるものでうどん。なめこと卵とたっぷりの葱と柚子。
うどんの出汁は、和風だし1袋に薄口醤油大さじ2とみりん大さじ1で。

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思い込みを和らげる鍵

自分の思い込みの強さに、嫌になることがよくある。
例えば、美容室で聞いた、こんな会話。
「予約の時間に遅れちゃって、ごめんなさい。前の車がのろくって。枯れ葉マークつけてる軽トラで」と、お客の女性。
「だいじょうぶですよ。お疲れさまです」
わたしは、笑いをこらえながら聞いていた。
枯れ葉マークじゃなくって、もみじマークでしょ。いくらなんでも枯れ葉マークは、お年寄りに失礼でしょ、と。
だが、調べると使用され始めた当初「枯れ葉マーク」と呼ばれていたことが判った。わたしと同じく、いくらなんでも失礼と感じる人がいて「もみじマーク」と改名されたそうだ。その後、枯れ葉のイメージを拭い去るため、デザインも緑、黄緑、オレンジ、黄色の四つ葉の形に変わったのだとか。
ここでさらにまた、わたしは思い込んでいた。運転に自信がない初心者と高齢者を合わせたマークなんだな、どっちをつけてもよくなったんだ、と。初心者は若葉マークをつけなければならないことに、変わりはなかったのだが。

なので、常日頃から気をつけている。どうやって気をつけるかと言えば、当然そうだと思っていることに対して、本当にそうなのか? と問うてみるのだ。そうすることで思い込みでの失敗の半分くらいは減っている。(と思いたい)
自分を疑ってみる。これってけっこう大切なことなのだと、若葉マークの若さゆえとは言えない歳に達し、実感しているのである。

最近、駅弁を食べる機会が多いわたし。あ~、なすび亭のお弁当!
大好きな茄子三昧かな~、と思いきや・・・。

「鶏つくね入り親子丼」って、かいてあるやん!
なすび亭のお弁当であって、なすび弁当じゃないっつーの。
こんなんばっかりのわたしです(笑)

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ヤマネが消えた穴

レースのような透かし模様のベストを、編み始めた。
ラズベリーの明るく濃い色で、手にとるたびに楽しくなる。上手にできたら、ある女性に着ていただこうと思っている。上手に、というのは、家で着ていて、宅配便が届いたときに恥ずかしくなく玄関を開けられるくらい、ということだが。いやいや。上手にどころか、できあがるのか? というところに問題はあるのかも知れず、すべての段ごとに目を減らし増やしていく模様編みは、わたしにとっては難解で、編み始め、弱音ばかり吐いていた。
「だめだ。こんなに不器用だったとは」
「あー、もう。わたしって頭、悪い!」
その弱音を聞く家族も、今や夫のみである。
「まあ、のんびりやりなよ」

夫に弱音を吐いていると、口から転がり出るモノが、ヤマネであるような気分になる。ヤマネ。人目につく場所にはほとんど姿を見せず、凍ったように冬眠することからコオリネズミとも呼ばれる10㎝に満たない小動物。
ヤマネは口から転がり出たかと思ったら、すぐに小さな穴に消えていく。透かし模様だけに、穴はいくらでもあるのだ。そうやってヤマネが消えていくと、吐いた弱音も共に消え、また編み始められる。
「穴があるって、いいかも」
毛糸と毛糸の間に空いた穴をじっと見つめていると、ヤマネが消えていった向こう側へ吸い込まれそうな気がしてくる。その穴のこちら側には、それを恐ろしいと感じることもなく、吸い込まれていくのもまたよしと、思っている自分がいた。

右前身頃が、もうすぐ編み上がります。
ラズベリーの色、写真ではうまく出なかったけど、気に入っています。

木がのびのびと枝を伸ばしているような模様を、繰り返していきます。
春の終わりに間に、合うかなあ。

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やげんナンコツと記憶の区分け

「ナンコツにもいろいろあるんだよ。やげんナンコツとかひざナンコツとか」
ふたり、ビールを飲み、焼き鳥をつまみながら、夫に教えてもらった。
夫の実家、神戸に帰省する新幹線のなかでのことだ。
「やげん、って初めて聞いた。よく知ってたね」
「よく行く焼き鳥屋に、あるからさ」
その場でスマホを操り、夫が調べる。胸下にある船形をした軟骨で、漢方薬をすりつぶす道具、薬研に似た形をしていることから、名がついたという。

「しかし、よく覚えてたね」
わたし達の年代なら、みなそうだと思うが「あそこのあれがさあ」とか「なんたらとなんたらが」などという訳の判らない会話が増えてきている。
それなのに彼は、サッカーチームや選手の名前や、何年にあった何処チーム対何処チームのなんたら戦のあのシュートなどという、わたしにはさっぱり覚えられないことをはっきりと記憶しているのだ。
彼の脳には、サッカーコーナーとその他という区分けができているのだと、これまでわたしは考えていた。
だが、やげんナンコツの話を聞き、それは彼の脳の特異性でも何でもなく、すべての人に共通する、興味があることと、どうでもいいことの区分けだったのだなとあらためて考えたのだった。
ということは、覚えられないことは、意識下でどうでもいいこととして区分しているってことなのだろうか。本当にそうなのだろうか。
新幹線が新神戸に着くまでの間、わたしは待っていた。
「じつは、やげんっていう名前のサッカー選手がいてさ」
夫がそんなふうに種明かしすることを。だが、その瞬間は訪れなかった。
うーむ。それにつけても、やげんナンコツは美味かった。これは単に、美味しいモノの名前は、忘れないってだけかも知れないな。

いちばん上のこの形が、やげんナンコツです。

ナンコツやももには七味をかけて、たれのレバーには山椒をかけて。
我が家でもネットで注文して使っている京七味。美味しいんです。

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『異類婚姻譚』

芥川賞を受賞したばかりの本谷有希子『異類婚姻譚』(講談社)を、読んだ。本谷作品はまだ『嵐のピクニック』一冊しか読んでいないが、その奇抜な着想に思う存分楽しませてもらい、また読みたい! と思っていた。そして、受賞作のこの小説にもまた、思う存分楽しませてもらったのだった。今回は「奇抜さ」もさて置きながら「気味悪さ」にぞくぞくさせられた。文章は小気味好く読みやすいのにもかかわらず、気味が悪い。「小気味好い気味悪さ」とでも言おうか。夫婦が、共に生活することにより、自分と相手の境目が曖昧になっていく。というようなストーリーだ。
弟の恋人、ハコネちゃんと結婚観について話していた主人公、サンちゃんは、蛇ボールの話を聞く。たがいの尻尾を共食いしていき、やがて頭と頭だけのボールのような形になり、ついには両方ともが食べられて消えてなくなるのだという話だった。以下、本文から。

ハコネちゃんの話には、ひそかに感心させられた。
というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれにとって代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。やめようとしても、やめられなかった。おそらく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私の根を通して、深いところに入り込んできた。新しい誰かと付き合うたび、私は植え替えられ、以前の土の養分はすっかり消えた。それを証明するかのように、私は過去に付き合ってきた男たちと過ごした日々を、ほとんど思い出せないのである。

サンちゃんは、夫の顔が自分に、自分の顔が夫に似ていくさまを、恐怖と諦めの狭間で見つめていくのだが。

毎日同じご飯を食べ、同じテレビを観て、セックスをし、子どもを産み育てていく夫婦というモノ。自分と相手の境い目が判らなくなってしまったとしても、全く可笑しなこととは言えないよなあ、確かに。
読み進めていくうちに、この小気味好い気味悪さを、するりと受け入れてしまっている自分にもまた、驚かされたのだった。

風変わりな、おかめとひょっとこの表紙です。
表題作のほか、3つの短編が収録されていました。

リスさん達、可愛いけど、怖いよ~。それ、化かし合いしてるの?

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醤油の鳴き声

醤油の鳴き声、というものを初めて耳にした。
食卓で納豆に、また、大根おろしなどにかけたあと「きゅー」とひらかな的なやわらかい音を出すのだ。
キッコーマンの密閉ボトルに入った『しぼりたて生しょうゆ』が、空気を吸う音である。いや、密封なのだから空気を吸ってはいないのかも知れないが、ボトルをぎゅっと押して醤油を出した分のふくらみを取り戻すべく、がんばっている音だ。正確に言うと「醤油の鳴き声」ではなく「醤油が入ったボトルの鳴き声」なのだが、初めて聞いたときの「醤油が鳴いた!」との驚きとともに、わたしのなかでは「醤油の鳴き声」としてすっかり定着している。

醤油の鳴き声を意識するようになってから、様々なものの出す声が気になるようになった。例えば、ワイン。コルクを抜くときの「ポンッ」グラスに注ぐときの「とく、とく、とく」炊飯器ではお米が「シューッ」フライパンと豚肉のコーラス「ジュ、ジューッ」煮物の鍋の蓋が浮いては落ちる控えめな「かん、かん、こん」そして、ピーピーやかんは、親近感だろうか。醤油のボトルを優しい目で見つめている気がする。
そんなキッチンの小さなモノ達の声に耳を澄ますのもまた、楽しい。不思議なことに、醤油の鳴き声を聞いてから、何も変わらないキッチンが色を変えたようにくっきりと見えてきたのだった。

しぼりたて生しょうゆ。ラベルも醤油にしては新鮮な雰囲気です。

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雪は、硬く硬く凍る

日中の温かな陽射しで、路肩や田んぼに残る雪もだいぶ解けた。だが、雪掻きで積まれた山や陽当たりの悪い場所では、まだまだ残っている。
少しでも陽が当たる場所は、残ってはいても踏むとずぼっと靴が沈むが、まったく陽の当たらないところなどは、カチカチに凍っていて、わたしの体重などではビクともしない。
「雪だって顔して、完全に氷だな」
路肩の雪の塊や、我が家の北側斜面を真っ白に染めたままにしている雪を見ていると、苦い思いがよみがえる。

何年前だろうか。やはり雪が路肩に解け残っていた。
マイカーフィットは4輪駆動ではないため、わたしは、雪が解けるまでと夫がその頃使っていた車、ランド・ローバーに乗っていた。気に入って10年以上乗った、頑丈なRV車だ。その頑丈なローバーのバンパーを路肩の雪に当て、凹ませてしまったのだ。対向車とすれ違うためだった。
「うそ。雪で、車が凹むの?」
その路肩の雪は、雪の顔した氷だったのだ。
雪は、硬く硬く凍る。車のバンパーなどよりも、ずっと硬く。
「だったら、氷らしく少しは透明になってよ。雪のフリしないでよ!」
そのときのことを根に持っているわたしは、雪の顔をした氷が嫌いだ。だから、この時期、雪に、もとい。氷に当てないよう、ゆったりと時間に余裕をもって走る。ああ、走りながら目に入ってくる八ヶ岳が、日に日に白くなっていく。あれもきっと、氷なんだろうな。嫌いだ。


在りし日のランド・ローバーくん。今は何処にいるのやら。
折しも、今日から札幌では雪まつりですね。凍ってるんだろうな、雪。



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『しずく』

西加奈子の短編集『しずく』(光文社文庫)を、読んだ。
「女ふたり」の物語が、6編収められている。
『ランドセル』は、大人になって偶然再会した小学校の同級生ふたり。『灰皿』は、年老いた大家と若く破天荒な借主。『木蓮』は、恋人の娘と彼女を預かる女性。『影』は、失恋旅行をする女と地元に住む嘘つき少女。『しずく』は、恋人がそれぞれ飼っていた雌猫二匹。『シャワーキャップ』は、これから同棲を始める娘とその母親。噛み合わない「女ふたり」が噛み合わないまま、たがいを受け入れていくさまを描いている。以下『シャワーキャップ』より。

母が、歌を歌っている。「のんちゃん」そう私を呼び、私のために泣き、私を、恐ろしいほどに愛している、母がいる。どれほど頼りなくても、情けなくても、母は、全力で、私の「母」だった。母のことを子供のようだと思っていた私は、誰あろう、その母から生まれてきたのだ。その事実が、どれほど私を慰め、そして勇気づけたか。
大丈夫、間違えても、山手線はぐるっと一周するんやろ?
いつもそうだ。母は、思いもかけない言葉で、私を安心させる。彼のことは、何も解決していないし、三十の私の行く末も、分からない。でも、母の「大丈夫」を聞くと、結局私は、いつだって大丈夫なのだ。山手線が一周するように、はは、私は、大丈夫だ。

苦手だけれど、何処か魅かれる。そういう相手っているよね。それで、苦手とも何とも感じない人よりも、何故か仲良くなったりするんだよね。

シンプルな猫の線画は、作者、西加奈子によるものです。
2話目を読んで、以前読んだことがあることに気づきました。
たぶん図書館で借りたんでしょう。それでも、じゅうぶん楽しめました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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