はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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KITTE、馴染みの空間が作る魔法

東京でよくランチする友人と、いつもKITTEで待ち合わせる。
東京駅の真ん前にある、旧東京中央郵便局があった場所だ。
どちらからともなく誘い合い、年に2~3回、お昼を食べて近況報告などするのだが、最近は「じゃあ、KITTEで」ということになる。1階のフロアは室内にしては広く、吹き抜けで明るく見通しがいいし、椅子とテーブルも人でいっぱいにはならないほどの数が揃っている。レストランもいろいろあるし、ゆっくりできるカフェもある。いちばんの目的がおしゃべりであるならば、おススメの待ち合わせスポットと言えるだろう。
最初に待ち合わせたときには「郵便局だからKITTEなんだね」
「ローマ字にしたところがお洒落だねえ」などとしゃべったのを思い出しつつ、4か月ぶりにランチをした。

ガールズトークという定義に、たぶん年齢は関係ない。しゃべることの多さは、逆に歳を重ねた方が増すような気もする。親のこと。子どものこと。夫のこと。自分のこと。共通の友人のこと。最近感じたこと。いいことも、いいとは言えないことも、たっぷりある。
「いろいろあるけど、自分がムリしない範囲でやろうね」
などと掛け合う言葉も、少しずつ変わってきた。

カフェでたがいの飲み物がすっかり乾いているのを見て、彼女が言った。
「あれ? 今、何時?」「えー? もう3時間経ってる!」
二人、笑い出した。
「時間、飛んだねえ」「さっきは、1時間くらいだと思ってたのに」
KITTEで過ごすことに、たぶん二人ともすっかり馴染み、油断し、時間そのものの存在を忘れてしまったのだろう。馴染みの空間というものは、小さな魔法をかけたりするもの。そんないつにも増して、楽しいランチだった。

ちょうど写真を撮ったときに、郵便局の車が通りました。
KITTEは、日本郵便初の商業施設だそうです。

いつも待ち合わせする1階のフロアは吹き抜けになっていて、
ガラス張りの天井から明るく陽が射していました。

思う存分しゃべって外に出るともう夕方。丸の内南口側の東京駅。
しゃべるのに夢中で、ランチも珈琲も写真撮ってなかった(笑)

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ウエッジウッドへの憧れ

娘の芝居を観に行く途中、早く着き過ぎたので新宿で珈琲を飲んだ。
飛び込みで入ったのだが、豆を厳選したきちんとドリップしてくれる店で、思いがけず美味しい珈琲を味わうことができた。
大江戸線の改札近く、京王モールにある『亜麻亜亭』だ。
夫は、コロンビア。わたしは、モカハラーをオーダーした。そこで、もう一つ思いがけないことがあった。その珈琲カップが、ウエッジウッドのワイルドストロベリーだったのだ。十代の頃、憧れたカップ。食器好きなら、同じように憧れた人も多いのではないだろうか。憧れはしても、高価なカップを購入するには至らなかった、というところまで同じだという人も。

そのワイルドストロベリーで酸味の効いた珈琲を飲みながら、考えた。
いったいあの憧れは、何処に行ってしまったのだろうと。まるで不思議の国のうさぎ穴にでも落としてきたように、ウエッジウッドへの憧れは、いつの間にか消えてしまった。嫌いになったというのではない。確かに今は、土をこねたような人の手を感じる温かみのある器を好んで使うが、好みが変わる以前の空白があったように思う。

考えるにそれは、仕事でいっぱいいっぱいだったり、子育てで余裕がなかったり、そんな時間が作った空白だったのかも知れない。憧れとか、夢とか、そういうものを思い出すこともなく、精一杯の一日一日を過ごしてきた頃。
そこに落としてきたものは、きっと他にもたくさんあるのだろう。そして、今気に入って使っている作り手が見える珈琲カップの温かみのように、たぶん拾ったものもまた多々あるのだろう。

今読んでいる小川洋子の短編集『いつも彼らはどこかに』と一緒に。
憧れていたのは、正しくは紅茶茶碗の方でした。
どうしても欲しかったなら、買えるであろう値段。
あの頃は、一生手に入らない高価なものだと思っていました。

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『おやすまなさい』

21歳、芝居に夢中の末娘演じるふたり芝居を観に、東京に行った。
劇団ゆるふ酒演出の『おやすまなさい』(脚本 / 前田司郎)だ。
小さなイベントスペースで、観客は十人ほど。

舞台は、ふたり暮らしの女の子の部屋で、たぶん真夜中。片方は眠くてしょうがないのだけれど、もう片方は眠れなくて、何とかおしゃべりにつきあわせようとする。そして眠い方も眠い方で、何とかもうひとりを眠らせようと、羊を数えさせたり四苦八苦。
おもしろかったのは、リアルに無意味なガールズトークを繰り広げているんだけど、そのなかに夢の世界がそこ此処に見え隠れしているところ。例えばここが海だとしてと、仮定の話しをしながらも、風呂場で見つかったサザエが本当にそこにあったり、何種類もの貝が部屋じゅうで見つかったり。現実と空想の境い目が霧に包まれているかのように曖昧で、それが魅力になっている。

魅かれたセリフは、眠れない方が言った。
「人にはどうして、淋しいなんていう機能がついてるのかなあ」
眠い方は「群れることで、身を守るためじゃない?」
などと適当に答える訳なんだけど「淋しい」って、人間特有の「機能」だったんだ。なるほどねえ、と納得したりした。

「淋しいからさあ、先に寝ないでよ」
もちろん、彼女はそんなふうにはひと言も言わず、ただただもうひとりの気をひくために懸命になっている。その姿が何とも微笑ましかった。
何かに懸命になっている人の姿。それって何とも滑稽なものなのだなと、腹の底からこみ上げる笑いを心地よく迎え入れた。

新江古田からプラプラ歩いていくと、濃いピンクの桜が咲いていました。
東京は、昨日開花を迎えたそうですね。

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炬燵と薪と

おこたでまったりしていると、ホッとする。暑さ寒さも彼岸まで。だいぶ暖かくなってきたが、冷え込んだ朝などには、まだまだ炬燵っていいなあと思う。
その炬燵の好さの一つに、電気だから、というのがある。まったりするために必要なのは、コンセントを刺し込んでスイッチを入れるだけ。何とも楽ちんだ。その上、電気は補充しなくてもいい。使えば使うだけ、電力会社が送ってくれる。これって、本当にすごいなあと思う。

そんなふうに思うようになったのも、薪ストーブを燃やす生活にすっかり慣れたからなのだろう。薪は、電気のようにはいかない。まず火をつけるのに時間がかかるしコツも必要だ。薪によっては、摑んだと思っていたコツも何処へやら。いまだ悪戦苦闘することもある。そして、燃やすためには運ばなくてはならない。その前には、割って積んでの作業。乾燥させるために2年ほど置く。夫は、チェーンソーを持って山に切り出しにも行く。
割って、運んで、燃やして。薪は三度温まると、昔から言われている所以だ。

このあいだNHKの大河ドラマ『真田丸』を観ていて、笑ってしまった。
信繁が梅に「薪は三度温まると言ってね」とストーリーとは関係のないうんちくを聞かせているシーンがあったのだ。戦国の時代から、いやたぶんもっと以前から、そう言いながら薪を燃やし暖を取り、食事を作っていたのだろう。あのセリフもまた、薪を燃やしているから聴こえたのだと思う。

電気は、無限にあるわけじゃない。
おこたでまったりしながらも、薪を燃やしていることで、そのありがたみを思い知らされる。取り返しのつかない危険を伴う原発再稼働には反対だ。泉のように湧いてくることのない電気を大切に使おうと、日々節電に励んでいる。

これは今年、夫が山で切ってきた薪です。薪割りは、これから。

家の軒下、北側には薪がいっぱい。ここで2年ほど乾燥させます。

庭の東側にも、薪小屋があります。

その庭では、ようやく水仙が咲き始めました。

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『高校入試』

湊かなえのミステリー『高校入試』(角川文庫)を、読んだ。
舞台は、地方都市で県下有数の進学校とうたわれた公立高校、一高。その地域では一高ブランドは、滑稽なほどに絶対だった。その入試の裏で、匿名のネット掲示板が立ち上げられる。「入試をぶっつぶす!」
そのかき込みと同時進行で、23人の視点から、それぞれの思惑や学校の様子などが語られていく。試験中に違反とされていたケータイが生徒のポケットで鳴り、答案用紙が足りなくなったと思ったら、見つかったのは他の受験番号のもの。同窓会長や議員の妻などモンスターペアレンツも登場し、教師達の保身も見え隠れする。
主人公は教師1年目の帰国子女、春山杏子。一高ブランドなど到底理解できない熱血教師だ。以下本文から。

「一高の合格発表後には、学区内の粗大ゴミ置き場に学習机が山積みにされる、っていう伝説だよ」「まさか、落ちた腹いせに?」
「逆だよ。一高に合格すれば、もう勉強する必要なし、ってこと」
「俺も、親が親戚の家から軽トラ借りてきて、一緒に捨てに行きましたよ」
気のいい後輩、相田っちがフォローしてくれる。
「じゃあ、入学後はどうやって自宅学習するんですか?」
「まあ、今はあんまり見ないかな。昔は偏差値高くても、進学する人間は限られていたから、地元の名門校、一高合格が最終目的で、そういうことをやっていたんだろうけど」

小説は、異様に思えるほどの一高ブランドへのこだわりから起こるそれぞれに巣食うどろどろとしたものをあぶりだすと同時に、匿名のかき込みによって拡散していく目に見えぬ敵への恐怖を鮮明に描いていく。

通過点。高校入試もその一つだろう。だが、通過点をただ通過点と捉えられずに、立ち戻り、引っかかり、つまずき、負のスパイラスに陥ることさえある。主役であるはずの子ども達ではなく、高校入試を通過してきた大人達の物語。同じ高校入試でも、それを見つめるアングルは一人一人全く違っていた。

フジテレビでドラマ化された同じ著者による脚本をもとに、
小説として、かき直されたものだそうです。
解説は、フジテレビのプロデューサー 羽鳥健一。

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朝焼けとスノーフレーク

「わ、朝焼けの八ヶ岳。綺麗だなあ」
早朝6時。新聞を取りに郵便受けまで行くと、八ヶ岳が赤く染まっていた。
「久しぶりに、定点観測地点から、八ヶ岳を撮ろうかな」
たぶん、この赤く染まった姿は撮れないだろうけれど、冬の八ヶ岳を観られるのももうあと少しだと気づいたのだ。

夫を駅まで送った帰りに、定点観測地点に着いたのは、7時20分。八ヶ岳は青く白く清閑な、いつもの冬の顔に戻っていた。
と、ふと見ると、足もとにスノーフレークが咲いている。
「咲き始めたばかリなの」
そう言って、うれしそうに揺れている。何とも可愛らしい。こうなるともう、八ヶ岳よりも、スノーフレークにばかり目がいってしまう。

朝焼けは、きっとこのことを教えてくれたのだなと思った。定点観測地点に行ってごらん、いいものが見られるよ、と。そろそろ春だからね、と。

清楚な白に、グリーンの模様が可愛らしい花です。

田んぼの畔に、無造作に咲いていました。

肩よせあって、内緒話でもしているかのよう。

八ヶ岳は、それを静かに見下ろしているような顔をしていました。

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ちびちんのクリーム煮

春を待ち、三寒四温を繰り返すこの頃。急に冷え込んだ一昨日、青梗菜のクリーム煮が食べたくなった。
我が家では定番となった栗原はるみレシピで、生姜を炒めて香りを出し、青梗菜を炒めてから帆立の缶詰と牛乳、鶏がらスープと粗挽き胡椒でやわらかく煮て、最後にとろみをつけるだけ。簡単なうえに、洋風なシチューなどよりさっぱりしていて、思いっきり青梗菜を食べられる。
「冷えたなあ。何かホッとするものが食べたいなあ」
そう思ったときに食べたくなるのが、これなのだ。

そのいつものレシピで、新しい発見があった。出先で寄った普段はいかないスーパーで「ちびちん」とかかれたミニサイズの青梗菜を見つけたのである。
まず名前に魅かれた。「ちびちん」ちび青梗菜を縮めただけだが、可愛い。ぴったりくるネーミングだ。そしてそのミニサイズの青梗菜もまた、可愛い。何より魅かれたのは、やわらかそうに見えたこと。実際料理してみると、普通サイズのものより筋が少なくやわらかかった。

音楽でも、絵でも、小説でも、何か無性にホッとするものを欲するときがある。食で言えば、たぶんそれが青梗菜のクリーム煮。
生姜で温まるし、胃にもやさしいから、身体がホッとするんじゃないかな。もしも、スーパーでちびちんを見かけたら、どうぞお試しあれ。

小さいだけに、エネルギーが凝縮しているように感じます。
調べたらここで作られたものでした → fresh vegetable ZUCCA

器も大切ですよね。ホッとする雰囲気のものに盛りつけて。

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坂の途中

運転中、久しぶりに聴きたくなって、スガシカオを聴いた。
『sugarless』というアルバムだ。そのなかの『坂の途中』という曲がかかったとき、ちょうど坂道を下っていた。
「そのまんまだなあ」
独りごちるが、曲の歌詞では、坂を上っている。
「真逆とも言えるなあ」
ソロドライブでは、独り言が多くなる。
「同じ場所に立っていても、振り向けば、下り坂が上り坂。風景も何もかも、全く違うものになるんだよなあ」
くねくねと長い長い坂道を下りながら、ふと、神話などで「坂の途中、絶対に振り向かない」という約束をさせられる話があったと思い出した。誰かを助けるためにとか、この先の道へ進むためにとか、いろいろなケースがあったように思うが、ラストはたいてい誰もが振り向いてしまう。好奇心や不安や欲や、はたまた愛などが、彼らを振り向かせてしまうのだ。

絶対に振り向いてはいけない坂の途中で、振り返って見た風景は、どんなものだったのだろうか。神話のなかでは 360℃ の視野を相手に与えることが、ただ怖かっただけなのかも知れない、と考えてみる。
少なくともわたしは今、坂の途中で、振り向いて後ろを見渡す自由を持っている。そう考えてから眺めるいつもの坂道は、また少し違って見えた。

帰って来て、見たら、うちの前も坂でした。坂の途中でした。
こちらは、西側に下る坂。右手が、我が家です。

こちらは、東側、赤松林沿いを抜ける上り坂です。
結婚後ずっと、東京でも川崎でも、坂のある町に住んでいました。

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運を転がす

運気が落ちている。自ら、そう感じることがある。
運気の何たるかも、よくは判っていないのだが、心や身体のリズムの波から発生するバイオリズムと似たようなものなのかな、と捉えてはいる。

そんなときに、さらに落ち込んだりしないようにする効果があるのは、片づけ。とはよく言われる。すっきりすることで、低迷の波から抜け出すきっかけを作るらしい。残念ながら、これ最悪に苦手分野である。片づけられない女オリンピックのメダリスト有力候補とうたわれた(?)実力の持ち主なのだ。

だが、片づけ以外にできそうなことがあると聞いた。
運気が落ちていると感じるときには、運を転がすのが大切。運転。移動すること。広い意味で外に出ることだそうだ。おお! 運転大好き! 片づけられない女は、得てして、移動好きなのである。

ということで甲府まで1時間、車を転がし、ネイルを新しくしてもらった。
伸びた爪が綺麗になると、気分もすっきり。苦手な片づけを、さて、やろうかな。という気持ちにもなったのだった。

ベージュ一色に、ラメやストーン、シルバーを散らしてもらいました。
来週は、結婚式に出席する予定なので、シック + 華やかに。

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山葵(わさび)尽くしの宴

神戸では、義母が入院する病院にほど近い三宮に泊まった。
飲み屋には困らない街である。以前から行ってみようと話していた居酒屋『和さびや』に夕飯代わりに飲みに行った。その『和さびや』さん。名前だけではなく、山葵の店だった。最初に生の山葵が1本、鮫皮のおろし器を添えて出され、どの料理にも使えるようになっているのだ。

ふたり生ビールで乾杯すると、疲れも吹き飛ぶ。
「山葵が1本出てくるのって、うれしいものだねえ」
最近、家でも山葵をおろすようになったわたしが、言う。
「本物の山葵って、チューブのより辛くないけど、旨味が濃いよね」
夫も、蛸の刺身をほおばりながら、うなずく。

山葵の効能は、たくさんあるそうだ。抗菌作用、抗がん作用、食欲増進、シミ・ソバカスをなくす、血栓予防や骨増強、防カビ防虫などなど。
しかし、山葵を食べているとき、そんなことは考えない。
「美味しい」
ため息とともに発せられる心からの声が、既に効能だと思える。

料理に山葵を添え、また、山葵だけをつまみつつ考える。うん。「美味しい」っていうのは、実際に「効能」の一つなのかも知れないなと。

最初は少しおろしたものと刻み山葵を出してくれました。
もちろん、お刺身にはぴったり。

牛タンも半生で、 山葵をたっぷりのせて。

野菜にも合います。揚げ茄子のとろろに山葵を混ぜて。
写真は撮りそこねたけど、アボカドと揚げじゃが芋のサラダには、
山葵ドレッシングがかかっていて、とっても美味でした。

日本酒にも。もう山葵だけで、じゅうぶん肴になります。
ビールを飲んでいたのですが、夫がぐい飲みを選んでいるのを見て、
「わたしも、選びたーい!」と(笑)一口もらいました。

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『猫を抱いて象と泳ぐ』

小川洋子の長編『猫を抱いて象と泳ぐ』(文春文庫)を、読んだ。小川洋子の小説は何冊か読んでいるが、こんなに美しいと感じた小説は初めてだ。

主人公は、チェステーブルの下に潜り人形の身体を借りてチェスを指す、リトル・アリョーヒン。彼は、11の歳に大きくなることをやめた。それは、チェステーブルに潜り込むためであり、いくつかの出来事から深く胸に刻み込まれた言葉「大きくなること、それは悲劇である」からくる恐怖によるものでもあった。その出来事の一つに、デパートの屋上で大きくなりすぎて生涯そこから降りることができなかった象のインディラの存在がある。リトル・アリョーヒンは、チェスの駒の一つ、象を祖先に戴く斜め移動の孤独な賢者、ビショップにインディラを重ね、チェスを愛し、小さな身体のままで生きていく。
この小説の魅力の一つは、駒の動きの描写の美しさにある。以下本文から。

ビショップが対角線を鋭くにらんだり、ナイトが気紛れな妖精の舞を踊ったりするたびに拍手を送った。孫の指した手でも老婆令嬢の手でも同じだった。祖母は両方の駒を平等に褒め称えた。
そんななか、リトル・アリョーヒンは12手め、c6と指した。今度はどんな様相が現れるかと胸を膨らませて待っていた祖母は、ポーンが思慮深く、慎ましやかに一歩だけ前進したのを見て、緊張感のこもった吐息を漏らした。まさに祖母の感じた緊張感は正しかった。それは彼にとっての特別な駒、d6のビショップにc7の退路を用意し、対角線のにらみを保持するための手だった。

チェスを深く深く愛したリトル・アリョーヒン。彼はチェスの駒を動かすのと同じように、人に対しても、投げやりだったり考えなしな手を打つことは決してなかった。そして彼は常に寡黙で、じっくりと一手一手考えるようなその丁寧な生き方を雄弁に語るのは、彼が残したチェスの棋譜(きふ)だけだった。

チェスというよりサーカスを連想させる、シックな表紙。
解説は、俳優の山崎努さんがかいています。
感化され、ネットでチェス指してみましたが、むむむ難しすぎる・・・。

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「ありがとう」という言葉について

夫とふたり神戸に帰省すると、たがいに掛け合う言葉が一つ増えるのが判る。「ありがとう」だ。
電車に乗るときに、切符を買ってもらって「ありがとう」
荷物を持ってもらって「ありがとう」
モーニングの珈琲を、片づけてもらって「ありがとう」
お弁当を買ってもらって「ありがとう」
家にいると、役割分担が自然にできていて、たがいに「ありがとう」と声を掛け合うことも少なくなる。それが家を離れ、役割の分担が不安定になったことで、その言葉を使う頻度が顕著に増えるのだ。

義母の病院の手続きや雑用などをこなし、長旅の疲れもあって夜にはふたりともがくたくたになっているが、ぎすぎすした雰囲気にならないのは、「ありがとう」と声を掛け合うことが増えるからなのかも、とわたしは思っている。

ハワイには「ホ・オ・ポノポノ」という精神療法みたいなものがあって、つらいことがあったときにそれを心の中心に据えてから「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛してる」と繰り返し唱えると、それら4つの言葉が持つ力で、つらいことや我慢できないような理不尽なことが、浄化されると言われているそうだ。
「ありがとう」一つだけでも、きっと何かを浄化する作用があるのではないか。うん、きっとある。と、わたしは思う。
そうそう。「ホ・オ・ポノポノ」の4つの言葉は、心から発する言葉じゃないと効果はないそうだ。いつも隣りにいる誰かに、感謝の気持ちを込めて「ありがとう」って言ってみませんか。もちろん「愛してる」でも、いいし。

新神戸駅の時計は、風見鶏のデザイン。お洒落ですね。

カモノハシ型の、のぞみを見るのにも慣れてきました。

夫が食べた『牛肉炙り焼き弁当』味見しました。美味しかった!

わたしは贅沢に『海の贅沢にぎわい飯』弁当をいただきました。
味見と言って、夫に3分の1くらい食べられたような気が・・・。
夫曰く「牛炙り焼き、ずいぶん食べたやん」おたがいさまか。

蟹型の入れ物に、入っていました。こういう小さなことが楽しい。

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明るい色合いを大切にして

今年に入り、義母が体調を崩してからというもの、いつもバタバタと帰省することになる。予定を立てている暇がないといった感じなのだ。だがそれでも、そのときどきに何か小さなものを義母に持っていきたいと思っている。
手術入院の前には、パステルカラーのお雛様の落雁を持っていき、とても喜ばれた。入院してからは、食事制限もあるようだったので、夫が撮った昨年旅したパリの写真などを持っていったりした。
一昨日もまたバタバタと帰省したのだが、病院の外に出た際に花束を買うことができた。黄色いチューリップとかすみ草。お花屋さんが、黄色いリボンを結んでくれた。病室に飾ると空気が変わったように華やかになった。

義母のベッドには、薄いピンク色のバスタオルが敷かれ、枕カバー代わりに、少し濃い目のピンク色のタオルが巻いてある。
入院している間のこととは言え、心地よく過ごせる空間を作ることには余念がない。特に明るい色のものを置くことを大切にしているのが判る。明るい黄色のチューリップを見て、とてもうれしそうに微笑んでくれた。
「うわあ、綺麗ねえ」
その義母。ICUで看護士さんに代筆を頼み、短歌を8首かきあげたそうだ。
「集中治療室って題をつけて、短歌の会に送ったのよ」
明るい色合いを大切にする義母ならではの、生きる力を感じた。

これも小さなプレゼントとして持っていった、手紙にしのばせる文香。
優しい香りです。ご祝儀袋などにそっとしのばせるのも、素敵ですね。

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春の道で

いつもの道をいつものように車で走り、あ、と気づく。すれ違う車が多い。それも、軽トラと耕運機だ。
すれ違うと言っても、すれ違えないほどの細い田舎道。前から耕運機が走ってくると、しょうがない曲がろうか、といつもは通らぬ抜け道に入ったりする。
いつもから、少しだけ逸れた道を走り、春なのだな、と思う。
農作業の車が、始動しているのだ。

今日は、3月11日。5年前、東日本大震災が起こった日だ。
あの日も、東北でも、きっと農作業の車が始動していたことだろう。
いつもの道をいつものように走り、春なのだなと思える幸せをかみしめる。
こういう何でもない小さな幸せが、震災で傷ついた心を抱えがんばっている方々にも届きますように。いまだ苦しんでいる人の心の片隅にでも、春が届きますように。そう、祈らずにはいられない。

我が家を下った村道近く、石碑と石仏さんの並んだ道にも緑がちらほら。

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30分のタイムラグ

急ぐのが、苦手だ。
走ったり、早足で歩くのが苦手、という訳ではない。ゆっくりじっくりやりたいのだ。買い物も、料理も、洗濯物をたたむのも。だから、逆に移動時間を節約するために、早足で歩くことが多い。

仕事も、同じ。
何日までに、これをやらなければならないという期限が毎月きっちり決まっているのが、経理事務の一つの特徴だ。自宅勤務だから、朝でも夜中でも仕事はできる。じっくり取り組むために、期限をいつも前倒しに設定している。

待ち合わせの時間にも、遅れる遅れると焦ったりするのが嫌だから、早く着くようにする。30分待つことになっても、本を開けばいい。

性質(たち)というものなのだろう。
だが、もちろんいつもいつでも時間に余裕がある訳ではない。休日、夕食の支度は大抵7時までに調うようにしているが、間に合わないこともある。間に合わないと思うと、気持ちが焦る。料理も楽しくなくなる。

そういうときには30分のタイムラグを使うことにしている。夕食前に入る習慣となっている風呂を、きっぱりやめるのだ。
たったそれだけのことだが気持ちはすっきりと楽になり、料理を楽しめる。夕食後、あまり酔っぱらっていなければ(笑)風呂に入ってもいい。
「気にせずに風呂、入れば?」と、夫に言われることもある。
「腹減った」と、夫がタイムラグを歓迎するときもある。
だが、わたしが気にしているのは、たぶん夫のことではない。時間というものが左右する自分のなかの何かが、気になってしょうがないのだ。

ある休日の夕食です。赤ワインが飲みたいという夫のリクエストで、
セロリとささみのサラダと、鮪のカルパッチョにしました。

こちらは最近ヒットした栗原はるみレシピ、蛸の香味サラダ。
セロリやクレソン、大葉、白髪葱などをたっぷりのせて、柚子ぽんをかけ、
最後に熱々に熱した胡麻油を、ジューッと音を立てて回しかけます。

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『僕らのごはんは明日で待ってる』

瀬尾まいこの恋愛小説を、とても久しぶりに読んだ。ちょっと不思議なタイトルの『僕らのごはんは明日で待ってる』(幻冬舎文庫)だ。
17歳の兄を病気で亡くした葉山亮太(仇名はイエス)は、落ち込んだまま人と関わろうとせずに十代を過ごしていた。そこに現れたのが同級生、上村小春。紆余曲折の末、結婚した二人を待ち受けていたのは小春の病気だった。
以下本文から。

「いろんなこと話してみればよかったのに」
小春はほんの少し顔を上げた。
「そうだよなあ。だけど、いつ何が兄貴の痛みを呼びおこしてしまうかわからなかったし。もし言葉がうまく響かないで兄貴をぐらつかせてしまったらと思うと、不安だった。本当はもっと言いたいことも話すべきこともあったのにな。まあ、今こんなこと言ってもどうしようもないんだけど」
「ちょっと、悲しいこと言わないでよ」「そうだな」
「そうだなって、イエスのせいですごく重い雰囲気になっちゃったじゃない」
小春は両手で涙をぬぐった。たぶんこういうところが小春のいいところなんだと思う。
「だからさ、小春には思いついたことは口にしてみる。もし、それがうまく伝わらなくて傷つけたりしても、俺、悪気はないから。どんな言葉でも、小春のこと考えてかけてる言葉だから。それは知っておいて」
「何、そのずるいルールは」「便利だろ?」
「じゃあ私も。たぶんこれからひどいことたくさん言うけどそれって病気のせいだから。本当は私はちゃんとイエスのこと愛してて、すごくいい人だから」
小春は目を赤くしたままで笑った。

二人の恋は、マック&ケンタッキーから始まり、ガストor ココスを経て、小さなテーブルの食卓へと移行していく。
ご飯を、一緒に食べる。昨日も一緒に食べたし、今日も一緒に食べた。そして明日も、たぶん一緒に食べるだろう。そんな「ご飯を食べる」ことって、じつは甘い言葉やキラキラ光るエンゲージリングなどよりも、恋する二人にとってもっともっと大切なことなのかも知れない。

来春、映画『僕らのごはんは明日で待ってる』公開予定だそうです。

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キイロスズメバチの巣の最期

我が家の北側の軒下に、キイロスズメバチが作った巣が最期を迎えた。
3年半ほど前の夏。キイロスズメバチは、そこに巣を作った。彼らはそのとても労力のかかる作業を毎年行うのだそうだ。その巣で生まれた出身者でも、同じ巣を 2度使うことはないという。

1年目は、夫がおもしろがって観察するのを、呆れて見ていた。幸い誰かが刺されることはなく、キイロスズメバチの季節は終わった。
2年目以降は、鳥達が巣として利用していた。それもまた傍観していたのだが、昨年とうとう巣の近くの外板にアオゲラが穴をあけた。そのまま雪の季節に突入し、先週末、頼んでいた大工さんにようやくその穴をふさいでもらい、ついでに巣も落としてもらったのだ。

遠目には何度も眺めた巣だったが、目の前で手にとってみると、その精巧さに驚かされた。こんなに手の込んだものを、今年も来年も、それからもずっとキイロスズメバチ達は作っていくのだ。時代は巡っていくのだと、落とされ崩れた巣は言っているかのようだ。日々、何かが終わり、何かが始まっていく。

粉々になってしまいましたが、キイロスズメバチが生活したあと、
鳥の巣として使われたときの藁も、残っていました。

美しい模様の名残りが、まだ見られます。
どうしてこんなに、美しい模様を作っていくのでしょう。
現役で活躍していた頃のキイロスズメバチの巣は、こちら

ここに、ありました。高さ7mほど。
梯子を掛けて、登ってくださった大工さん、ありがとうございました。

そのすぐ足もとには、ふきのとう。新しい命の息吹き、感じます。

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プランナーと料理人

何も予定が入っていない休日。久しぶりに、夫とのんびり散歩した。
貯水池で鴨を見て、アカマツが枯れていく林を憂い、梅の花を愛で、暖かさにかすむ山々を眺めて歩いた。
「ふきのとう、出てるかな?」と、夫。
「あ、あった!」と、わたし。
散歩終盤は、ふきのとう狩りとなる。
「あの辺の石の隙間に、去年出てたよね?」
「うーん。先客がいたようだね。だいぶ採られてる」
それでも、たった二人の食卓。十個も採れば、じゅうぶんだ。
「天麩羅にする?」わたしの問いに、夫はちょっと考えていった。
「パスタはどう?」「いいかも! ワインに合いそう」
帰宅して、さっそくネットレシピを検索し、冷蔵庫にあるベーコンとニンニクでペペロンチーノにすることにした。

春の苦みが、口いっぱいに広がる。予想通り、ワインにもぴったりだ。
「うーん。美味い。さすがだ」
夫が、褒めちぎる。ただのペペロンチーノなんだけどなあ、ふきのとうが活躍してくれてるだけで。そう思いながらも、こちらも返す。
「きみの企画のおかげで、春らしい晩餐になったねえ」
休日の夫とわたしの関係は、夫婦というより、プランナーと料理人。そして、飲み友達といった方が近いのだ。

収穫したふきのとう達。蕾も咲いている花も、美味しそう。

二人分パスタ150g分を、大皿に盛りつけました。
ネットには、クリームパスタのレシピもありましたが、
シンプル&さっぱり風味のペペロンチーノがおススメです。

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下から見上げて

庭のクリスマスローズが、咲いている。
可愛い。可愛いが、うつむいて咲くので、咲いた花を正面から見ることができない。まるで地面と何やら親密に話し込んでいるかのように、顔を上げようとしないのだ。顔を上げるのは、花も終わりに近づいた頃。うつむいた姿がまた可愛いのだが、美しい姿をしっかり見ておきたいとも思う。しかし、例え地面に頭をくっつけたとしても、その姿を正面からは見られない。しょうがないので、カメラに地面に頭をくっつけてもらった。

撮った写真を見て、ああ、と思う。
クリスマスローズを地面から見上げると、空が見えるんだ、と。
その瞬間、クリスマスローズの下にたたずむ小人になったような気がした。

昨年植えた白い花。空の薄いブルーが似合います。

何年か前にいただいて、たくさん花をつけるようになったピンクさん。

黄緑と濃いピンクを組み合わせた種類もあります。

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『羊と鋼の森』

宮下奈都の小説『羊と鋼の森』(文芸春秋)を、読んだ。
ピアノの調律師を目指す、青年の物語だ。タイトルの羊は、ピアノのなかの部品であるハンマーが、羊毛から作られているところから来ている。ピアノは、木や羊、そして鋼を使って作られた楽器なのだ。
主人公、外村(とむら)は、高校の体育館で、ピアノを調律する板鳥(いたどり)と出会う。ピアノを弾いたこともない彼だったが、そのたった一度の出会いに、迷うことなく調律師を目指そうと決意した。板鳥を始めとする3人の先輩や、調律する先で待っている様々なお客さんとピアノ達に触れ、外村は、かみしめるように一つずつ調律というものを理解していくのだった。
魅力の一つは「森の匂いがした」から始まる冒頭もそうだが、外村の内にある森や山々の風景とピアノを結んでいく描写だ。そしてもう一つは、北海道の山で育った外村の天然とも純粋とも言える、しかしそれともちょっとずれているようなキャラクターにある。以下本文から。

「外村ががんばってるのは無駄じゃない」
「えっ・・・?」
思わず聞き返すと、柳さんも驚いたように、えっ、と小さく声を上げた。僕たちは立ち止まって顔を見合わせた。
「無駄かどうかは、考えたことがありませんでした」
正直に言うと、柳さんは、ふふふと笑って、
「いいよなあ、外村は。そうか、無駄だと思ってないか」
ふふふがそのうちはははになり、柳さんは車のドアに手をかけたまま、あははははと笑った。それから不思議そうに聞いた。
「無駄だったんじゃないかと後悔したり反省したりすることもないの? つまりさ、無駄っていう概念がないの?」
「いえ、言葉は知っています」慌てて答える。
「そりゃそうだろうけど」
「よくわかりません。無駄ってどういうことを言うのか」
何ひとつ無駄なことなどないような気がすることもあれば何もかもが壮大な無駄のような気もするのだ。ピアノに向かうことも。今僕がここにいることも。

聴いているようで、聴いていない。見つめているようで、じつは見ていない。雑多な日々のなかでは、そういうことの方が多いのではないだろうか。
心の扉を開けて、耳を澄ませてみよう。今目の前にあるものを、じっと見つめてみよう。きっと違う音が聴こえ、違うものが見えてくるはずだ。読み終えて、そんなことを考えた。

楽譜の上で草を食んでいるかのようにのんびりたたずむ羊達の表紙。

カバーを外すと、栞と同じ色合いの深い緑色の本でした。

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カレンダーに春を感じて

カレンダーが 3月になり、おっ、と思うことがあった。
トイレで、てんとう虫が 2匹、会話していたのだ。
「久しぶりに、仲間に会えたよ」
「この辺じゃあ、まだみんな何処かの隙間に固まって眠ってるんだろうねえ」
何のことはない。お香立ての陶器のてんとう虫と、カレンダーのクローバーの葉と描かれたてんとう虫が、出会っただけのことである。その偶然に、2匹はとてもうれしそうで、トイレに入るたびに微笑ましく見つめてしまうのだ。
「春なんだなあ」
他の場所にかけてあるカレンダーも、桃の花やスズランを咲かせている。スズランはまだ早いだろうと思いつつも、見れば優しい気持ちになる。
「もしかしたら、クローバー、顔出してるかも」
庭に出ると、赤茶色のクローバー・ティントブロンズが、遠慮がちに葉を開いていた。寒さに硬く握っていたこぶしを恐る恐る開いてみた、という感じだ。

カレンダーを見て、春を感じ、庭に出て、また春を感じる。そこ此処に春は、やって来ているのだ。

てんとう虫のお香立て、とっても気に入っています。
サボテンくんの蝋燭は、もったいなくて使えません。非常用?

落ち葉の隙間から顔をのぞかせていたクローバー・ティントブロンズ。

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カメラが壊れて

カメラが、壊れた。
愛用していた、ニコンのコンパクトデジタルカメラだ。
何かが壊れかけているときに、電化製品が壊れる。むかし、そんな話を聞いた。例えば、夫婦。結婚し、何かうまくいかないなあと思っていると、炊飯器が、冷蔵庫が、洗濯機が、電子レンジが次々と壊れていく。そして、炊飯器が壊れ、ご飯が炊けなかったというようなちっぽけなことでケンカになり、夫婦も破局を迎えるということがままあるのだと。
考えれば、7~8年も経てば、家電はガタが来るものが多いのは当然のこと。夫婦というものも、そのくらいの年数が経った頃、ネジを締めなおさなくてはならないということなのだろう。

そんな話を聞いてからか、電化製品が壊れると、胸がひやりとする。
夫婦といわずとも、何かが、壊れていく前触れなのではないかと。
そう言えば、最近疲れている。身体も心も壊れないうちに、じっくりゆっくり休もうか。50代。電化製品一つ壊れるたびに、休養をとることを心がけるくらいが、ちょうどいいのかも知れない。

「八ヶ岳、ますます白くなったなあ」と、カメラを向けると、
あれ? うーん。レンズ部分が全開にならないだけじゃなく・・・。
修理に出すことにして、さらにコンパクトなものを1台購入しました。

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駅弁と小さな楽しみ

山梨から神戸に帰省するのに、往復10時間ちょっと。その楽しみの一つに、駅弁がある。先週は、東京駅で売っていた広島駅の駅弁『かきの土手わっぱ』と、東海道新幹線内やその駅で発売している『春らんまん』を楽しんだ。

どちらも初めて食べる駅弁で、牡蠣にしみた味噌味に唸ったり、思いがけず入っていたタラの芽の天麩羅をじっくり味わったりした。
駅弁それぞれの名もまた、工夫されていて、おもしろい。
『かきの土手わっぱ』は、牡蠣の土手鍋からつけられた名だと思うが、土手鍋ではもちろんない。土手を作り上げるかのように鍋に味噌を塗り、ほんのり焦がして風味を味わうことから、味噌味の牡蠣鍋をそう呼ぶようになったらしいが、そこからさらに「土手」がひとり歩きし、味噌味の牡蠣だから鍋ではなくても「土手」でよしとしたのだろう。
『春らんまん』は、素材の名ではなく、しかし、春先に花が咲き乱れるような華やかな弁当のイメージが持てる。桜の花の塩漬けや桜色の蒟蒻、卵の黄色といくつかの緑。小ぶりの大きさにしたのは、ターゲットを女性に絞ってのことだろう。鯛めしも入っていて、春ならではの進学などを祝う席でもOKだ。
車中で駅弁を食べながら、そんなことをつらつらと考えるのもまた楽し。

往復10時間かけての帰省は、しんどいことも多いけれど、小さな楽しみは何処にでもあるもの。手術を終えてICUで過ごす義母が言っていた。
「本を読んだりはできないけど、退屈しないのよ。いろんな機械があって、看護士さん達のお仕事も様々で、興味深いの」
どんなときにも楽しみを見つけられる義母。見習わせてもらっている。

行きの新幹線で食べた、広島産牡蠣の『かきの土手わっぱ』弁当。

帰りの新幹線で食べた『春らんまん』弁当。
春に獲れるイサダ(ツノナシオキアミ)や、わらびも入っています。
夫は隣りで、もりもりと牛タン弁当を、ほおばっていました。

乗換の塩尻駅で、夫が食べた『鴨そば』生卵入り。
さっき、牛タン弁当たべたでしょ(笑)
東京周りと長野の塩尻周り、時間的にはどっこいどっこいです。
時刻表に合わせて、乗り継ぎのいい方を使うことにしています。

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『ことり』

小川洋子の小説『ことり』(朝日文庫)を、読んだ。
帯には「世の片隅で、小鳥のさえずりにじっと耳を澄ます兄弟の一生」とあるが、弟の方、幼稚園の鳥小屋の掃除をしていることから「小鳥の小父さん」と呼ばれた彼の一生を描いた小説、と言った方が正しいように思う。

物語は、小鳥の小父さんが、鳥籠を抱いたまま死んでいるのを発見されるところから始まる。そして、鳥の言葉を理解し、小鳥のさえずりのような言語を確立していく7つ年上の兄との子ども時代へと静かに戻り、スタートしていく。
彼の兄は11歳を過ぎたあたりから人の言葉を一切しゃべらなくなり、後に小父さんが「ポーポー語」と呼ぶ言葉を使い始めた。その言葉を理解できるのは、弟である小父さんだけだった。
生涯仕事を持たず、ポーポー語しかしゃべらず、変化に順応できず昨日と同じであることに安心する。そんな兄は、世間で言うところの障害を持った人ということになるだろう。だが小父さんは、その兄を誰よりも尊敬していた。
以下本文から。

夜は二人で一緒にラジオを聴いた。番組の種類にこだわりはなく、小説の朗読もあれば、オペラ公演の中継もあった。ラジオは居間の片隅にある。古びたチェストの上、母親の写真の隣に置かれていた。耳を澄ませることに関して、お兄さんは特別な才能を持っていた。感想など述べなくても、その姿を見ていれば、ラジオから流れてくる一語一語、一音一音をどれほど深く味わっているか、よく分かった。彼の中身は透明で、空っぽで、ただ耳だけが小鳥や朗読やオペラに向かって捧げられる。だからこそ音たちは余計なものに邪魔されず、意味さえも脱ぎ捨て、ありのままの姿でお兄さんの中に染み込んでいった。

小父さんも、その兄も、変わり者として世間には扱われる。
小父さんは、幼稚園に出入りしていることから、ある日を境に、幼女が好きな変質者なのではないかと疑われることにもなる。小父さんを理解しようとした人はほんのわずかだったし、彼の心根の優しさや純粋さ、善良さを理解できたのは、兄と、園長先生と、巣から落ちたメジロの雛だけだった。
著者小川洋子は、彼らのことを「取り繕えない人たち」と呼んでいると解説にあったが、澄んだ善良な心を持ち続けること。それは、理解者を得ようと取り繕うよりも、ずっと難しく、尊いことなのではないだろうか。
例え多くの人に理解されることはなくとも、自分が信じる正しいと思う生き方ができれば、きっと、生きていて幸せだったと思える瞬間が訪れるはずだ。
などと、取り繕うことにも、善良であることにも中途半端なわたしは、この小説を読み、しんとした心持ちで考えたのだった。

タイトルをじっと見つめていると、不思議な言葉に思えてきます。
文中では「小鳥の小父さん」とかかれていたのに何故平仮名なのか。
「小父さん」も「おじさん」では、雰囲気ががらりと変わってくるし、
きっと考え抜いた末に、平仮名のタイトルにしたのでしょう。

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やわらかな関西弁の空間

神戸で暮らす義母の心臓弁膜症の手術が、ぶじ終わった。
手術室の待合室で待つ10時間。役所での手続きや、入院中の衣類の洗濯や、わたしにはやることも多かったから時間は思ったより長くなかったけれど、夫はずっとそこで待っていたのだから、ずいぶんと長く感じたことだろう。

そこには何組かの家族がいて、小さな子どもからお年寄りまで、静かに座っていた。ふと、前日義母が、看護士さんに話していたことを思い出す。
「息子もねえ、この病院で生まれたんですよ」
向かい側の椅子に座る身体の大きな男性、その隣には、男性の半分くらいの小さなおばあちゃん。たぶん母息子なのだろう。
「このおばあちゃんから、この大きな男性が生まれたってことだよなあ」
人間の命って、そのつながりって、本当に不思議だ。

翌日、ICUに顔を見に行くと、
「あっちこっちに機械つけられて、えらいわあ」
と言いながらも、義母はしっかりICUの看護士さんにしゃべり始める。
「この子ねえ、この病院で生まれたんですよ」
夫と顔を見合わせ、苦笑する。思っていたよりずっと、元気そうだ。

どやろなあ そら、えらいわあ かまへんかまへん ちゃうねんで
まあ、ええやろ どないですか ようしませんわ いややわあ

病院で聞く神戸言葉の関西弁は、静かでやわらかい。それが穏やかな空間を作り上げているかのように感じた。
病院の先生方はじめ、かかわってくださったすべての方に感謝します。

病院に向かうポートライナーから見た、朝日と港です。

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HN:
水月さえ
性別:
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自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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