はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
[10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20

ノーベル賞の余波

最近、家は、韮崎と近いのかと聞かれることが増えた。韮崎市出身の大村智さんがノーベル賞を受賞した、その小さな小さな余波である。
「韮崎駅までは、車で20分くらいかな」
話の流れで、最寄り駅なのかとまた、聞かれる。
「最寄りは、無人駅の穴山。そこまでは、車で13、4分かな? 歩くと、うーん、1時間ちょっと? いや、1時間半くらい?」
歩いたことがないので、話は曖昧になっていく。
「ハイジの村? 近いよ。車で2分くらい。歩いて行ける距離だね」
町内のテーマパーク『ハイジの村』に行くことはまずないが、前の道はよく通るし、明野でも標高の高いその付近は、富士山、南アルプスの山々、八ヶ岳が三方に見渡せるパノラマスポットでもあり、友人が来た時などには、遠まわりして山を眺める場所でもある。

そんなふうに話す機会が増え「歩ける距離」「歩けない距離」と、口にすることも自然と増えた。そのたび、違和感を覚える。
「歩けない距離」と言っても、1時間や2時間、本当に歩けない訳ではない。
息子は中学時代よく、バス代往復千円で本を買うために、韮崎駅までの往復4時間を歩いていた。しかし、それは歩ける距離であるとは言い難い。
だがしかし、とも思うのだ。海の向こうまでは歩いて行くことはできないが、地面がつながっていれば、何処までも歩いては行けるのではないだろうかと。

そんな流れで、行ったことのない遠く知らない数々の土地を、思い浮かべるようになった。歩いて行けるかもしれない、こことつながっている場所に思いを馳せるのは、思いのほか楽しいことだ。
「韮崎の隣町に住んでいるだけのわたしにも、小さな波が打ち寄せたんだな」
そう思わずにはいられない。同じ時代に生きている人と人とは、歩いて行ける場所のように、つながっているのだ。たぶん。
ノーベル賞の余波による影響は、多種多様。きっと数えきれないところで、様々小さな変化が巻き起こっているんだろうな。

肉眼で見た感じにもっとも近い明野から眺めた八ヶ岳の写真です。
毎日のように眺めていると、近いような気がしますが、
歩いて行くことも、登ることも、たぶんないんだろうな。
大村智さんも、韮崎から八ヶ岳を眺めたんでしょね、きっと。

コンパクトデジカメですが、望遠で撮るとこんな感じになります。
権現岳は、形がかっこよくて大好きな山です。

八ヶ岳の中では一番高い山、赤岳。2899mあります。

拍手

娘の靴下

今月から共に暮らし始めた上の娘25歳は、よく左右違う靴下を履いている。
「靴下、違ってるよ」
うっかり屋の彼女のこと。間違えたのだと思い指摘した。
「あ、これ? わざとだよ。お洒落でしょ?」
そう笑いつつも「片方失くしたんだー」とつけ加える。
洗濯していると否が応でも判るのだが、片方になった靴下は、そのワンセットだけではない。黒とピンクを合わせたり、シンプルチェックとにぎやかな柄を合わせたり、彼女なりのこだわりはあるらしい。

靴下くらい、買えばいいのに。そう思いながら、しかし、言うことはしない。
彼女はお金がない訳ではなく、お金を使いたいものを選んでいるだけなのだ。
自分のやりたいことのためには、靴下が左右違っていることくらい、些細なことだと考えている。それを知っていて、言えることは何もない。
洗濯物をたたみながら、考えた。
彼女の靴下達は、とても幸せな生涯を送っているのではないか、と。相方に穴が空いたり、行方不明になったりとの不幸な出来事が起きたその後も、新しいパートナーと出会い「黒くん」「ピンクちゃん」などと呼びあいながら、歩き続けている。娘の足をサポートするという仕事を、こなし続けているのだ。

左右違う靴下を履いてまで、やりたいと思えることが、わたしにはあるだろうか。かつて、風呂のないアパートでひとり暮らしをしていた頃は、食べるものがなくなるとよく、小麦粉を薄く溶いてフライパンで焼いて食べたっけ。そう。彼女と同じような頃が自分にもあったのだと思い出すが、そういう季節は通り過ぎたのだと思わざるを得ない。今はただ、新しいパートナーと暮らす靴下達を応援している。無論、娘もだが。

これは、わたしの靴下達です。こんなふうに組み合わせたら楽しいかな?
えっ? 冒険がない? いやいや、これでも履いて出かける勇気は・・・。

拍手

もやしナムルフィーバー

主役になることはまずないが、脇役として活躍することはけっこう多い。
もやし、である。
朝食の目玉焼きに添えるランキングは、何と言っても、もやし炒めがトップだし、チャンプルー、チゲ鍋などでは、主役のよさをひきたててきちんとサポートしてくれる名脇役ぶり。ビタミンCや食物繊維、血圧を下げる効果があるというカリウムが豊富で、カロリーは低いという優れものだ。

最近、そのもやしを主役に置くことが増えた。ナムルだ。
これまで好んで作ることをしなかったナムルを、たびたび作るようになったのは、美味しいもやしナムルを食べたからに他ならない。
パリでランチした『餃子バー』で、お通しとして出てきたものだった。
全員日本人スタッフだったが、フランス人向けの味になっていたのか、胡麻油も効きすぎず、胡麻もかかっていなくて、シンプル美味いナムルだったのだ。
「再現するぞ!」
シンプルナムル味を思い出しつつ、まずはレシピを検索。胡麻油と塩と鶏がらスープの素のみのものが近そうだと作ってみた。白胡麻も常備してあるが、あえて使わない。胡麻油は癖のない太白の生搾りにする。
結果は、大成功。『餃子バー』のナムルは、我が家の味となったのだった。

その後ナムルにハマり、居酒屋で小松菜のナムルをオーダーしてみたり、にんにくをすり下ろしたものや唐辛子も入れた濃い味ナムルにも挑戦してみたりしている。もやしのいいところは、安価なところ。失敗しても痛手は小さい。
スーパーには山梨産のもやしが種類豊富に売られているし、もやしナムルフィーバーは、しばらく続きそうである。

上の娘が、全部食べていい? という勢いで食べていました(笑)
もやし一袋に、胡麻油大さじ1、塩とスープの素小さじ1/3くらい。

拍手

黒大豆枝豆ご飯の謎

今年も、丹波篠山の黒大豆枝豆が届いた。夫方の叔父が、このところ毎年送ってくださるのだ。年に一度しか味わえない季節の味。ありがたいことである。

その日のうちに半分茹で、夕方、おやつ代わりに夫とつまんだ。
ひと口つまんで「美味い!」と、顔を見合わせる。
「やめられないとまらない、だね」と、わたし。
「お腹こわすから、そろそろやめなさい」
夫はそう言いつつ、自分はまだつまんでいる。
「夕飯食べられないかも」「ほんとに、そろそろやめないと」
そんな掛け合いも、毎年のこととなった。

そして、去年から黒大豆枝豆ご飯も楽しむようになった。
これがまた、美味い。
「茹でた枝豆とは、違うホクホク感だね」と、夫。
「ご飯と炊くと、何かが変わるのかな?」
夫の言うように、確かに豆自体のホクホク感が違う。時間をかけて炊飯器で炊くからか。豆が米ぬか成分を吸うからか。
検索すれば判るだろうと、パソコンを開いた。黒大豆枝豆や、炊きこみご飯のページを見ていく。だが、みつからない。
検索しても何も判らなかったのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
「たまには検索するんじゃなくって、誰かに聞いてみようかな」
そんなふうに思ったのも、ホクホク黒大豆枝豆ご飯の温もりのせいかも知れない。キッチンを、台所と呼びたくなるような、なつかしい味がしたのだ。

細長い段ボール箱に、寝そべるようにして入っています。

半分茹でて、この量! 茹でたてほかほか。

黒大豆枝豆ご飯。ご飯が豆の色にほんのり染まっています。
ほっくほくの味わいに、夫も娘も、舌鼓を打っていました。

丸々太った丹波の栗も、一緒に入っていました。
つやつやです。茹で栗も味が濃かったです。

拍手

陽気なギャング達の教え

特急あずさを待つ時間、甲府駅で乗った上りのエスカレーターでのこと。
降り際に後方で大きな音がしたのに驚き、振り返ると男性が倒れていた。
後ろの女性がひとり、エスカレーターから降ろそうとしているのが見え、あわてて一緒に男性を抱き起そうとしたが、ずしりと重く動かない。中肉中背に見えるその身体は、見た感じの倍はあるんじゃないかと思うような重さだった。眼はあいていたが、話しかけても答えない。意識がもうろうとしているのか身体じゅうの力が抜けているようだ。
エスカレーターに乗った後方の人達は、わたしともう一人の女性とその男性をまたいで歩いていく。そうしないと通れないのは判っていたが、見たくないものを見てしまったような気持ちになる。ふたりで何とかして男性をエスカレーターから降ろし、女性にその場を任せ、わたしは駅員を呼びに走った。すぐに駆けつけた駅員が、テキパキと車椅子を手配する。わたしともう一人の女性は、ホッとして会釈を交わし、それぞれの行く先へと向かった。

それだけの出来事だったが、伊坂幸太郎『陽気なギャングは三つ数えろ』(祥伝社)の、ワンシーンを連想するのにはじゅうぶんだった。以下本文から。

久遠が言う。
「たとえば、目の前でおばあちゃんが転んだとするでしょ。その時、急ぎの用があって、やむを得ず、通り過ぎちゃうことがあったとすると、だいたいの人は、こう思うんだ。『私はそんなに悪人じゃないんだ。今はたまたま急いでいるだけで仕方がなかったんだ』って」
「まあ、嘘じゃないだろうな」響野がうなずく。
「でも、それが他人の場合、誰かが転んだおばあちゃんを無視して、先に行っちゃったのを見るとね『あの人は冷たいんだ』と決めつける。ようするに、他人に関しては、一場面の行動を見ただけで、性格や人間性まで決めつけちゃうってことだよ。裏の事情までは考えない」
「確かにそうね。相手の事情をもっと想像してあげるべきね」
雪子もうなずく。

わたしは、あずさの待ち時間まで、間があった。もしかしたらとっさの行動にも、そんな計算が働いていたのかも知れないと、一人になった車中、ぼんやりと考えたのだった。どうか元気になっていますように。

最近の甲府駅、自販機事情。
何故かいつも準備中であきらめていたホットのほうじ茶が、昨日は
買えました。こういう小さなことに感じる幸せ、大切にしたいです。

拍手

『とにかくうちに帰ります』

津村記久子の短編集『とにかくうちに帰ります』(新潮文庫)を、読んだ。
6編ある短編のうちの4編 + 1編は登場人物が同じ連作短編の『職場の作法』『バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ』だ。タイトルの通り、そのどれもが会社内の様子を描いている。主人公で事務職20代の女性、鳥飼の目線がおもしろく、職場のひとりひとりが、クローズアップされていく。

依頼する人の態度によって書類作成の速度を決める女性社員。大らかな性格はいいのだが、誰のデスクにある文房具でも勝手に使い失くすおじさん社員。(プラスチック製の安物だが大切にしていたペン、ペリカーノジュニアを鳥飼は失くされてしまう)マイナーなスポーツ選手や海外の地名にやたら詳しい先輩OLや、咳をしつつもがんばりをアピールするのに必死になり社内にインフルエンザをまき散らす男子社員、自分の自慢をしたいがために女子社員に絡んできて最後には総好かんを食らう部長など。鳥飼のシュールな感覚に驚かされるシーンも多く、読んでいて楽しいOL小説だ。

表題作は、豪雨のなか家路を急ぐ会社員やOL、小学生を描く。以下本文から

わかります! とオニキリが叫んだ。橋の下で波がそれをかき消すように、ひときわ激しく互いを打ち合うのが聞こえた。
「給料も今のままでいいし、彼女もできなくていいから、部屋でくつろぎたいんです!」オニキリの、ある種の暴露に対して、ハラの反応は鈍かった。
そうか、とすら思わなかった。
「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」「そうだな」ハラは深くうなずく。
「べつに愛は欲しくないから、家に帰りたい」

読み終えて、人は、些細なことに必死になったり、小さなことを大切にしたりしているのだと再確認した。大切なことは、そう。たとえば牛丼を、肉とご飯の比率をきちんと計算しながら食べることだったり、またたとえば、ペットボトルの蜂蜜レモンを冷めないうちに味わうことだったりするのだ。

OL小説ということで、いつも仕事に使っているお気に入りの電卓と、
ペリカーノジュニアではないけれど、使いやすい普通のペン達と。
新潮文庫の文字まで、雨粒に入っているのが素敵な表紙です。

拍手

ベトナム珈琲の苦さを味わって

郷に入らば郷に従え。しかし、なかなか従えないこともある。
珈琲大好きなわたしだが、ベトナム珈琲は苦手なのだ。
朝食ビュッフェでは飲みきれずに、ごめんなさいと残して席を立った。焙煎方法やその後の香りづけなどで独特の風味をだすというベトナム珈琲は、濃く苦い。だからこそ、練乳や砂糖を入れて飲むのがスタンダードなのだが、甘いものはベトナム珈琲よりも苦手ときている。
「ブラックで、ベトナム珈琲が美味しく飲めたら、かっこいいのになあ」
憧れる分だけ、ままならぬ思いは強くなる。だが、考えていてもアイディアは浮かばない。当たって砕けろの精神で、珈琲屋のドアを開けた。すると、珈琲豆の香ばしい匂い。店頭には、焙煎前の豆が袋に入って売っている。
ちゃんとした珈琲屋で、アイスで飲めば、ブラックでも美味しく飲めるのではないか。期待に胸を膨らませ、オーダーした。
陶器に入ったそのアイス珈琲は、一口飲んで「おっ、違う」と思った。今までに飲んだどのベトナム珈琲よりもすっきりしている。これならと、少しずつ氷を溶かしながら、ゆっくりと味わった。飲み終わったときには達成感を覚えた。この珈琲なら飲める、と。だがそこには「とても美味しく」という形容はつかない。口のなかには、あきらめに似た苦さもまた広がっていったのだ。

その後も、ベトナム珈琲への苦手意識は変わることなく、軟弱にも、アメリカンなどを注文する自分にため息をついたりした、という結末だ。
いつかまたホーチミンを訪ねることがあったら、あの珈琲屋でもう一度、ベトナム珈琲のアイスをブラックで飲んでみよう。今よりもう少し、ベトナムの珈琲に近づけるかも知れない。
*3泊3日ベトナム旅日記は、今日でおしまいです*

この雰囲気、いい感じ。コップには、冷茶が入っています。
アイスでも泡が立っています。ベトナム珈琲の特徴の一つです。

カウンターの下には、こんなディスプレイがありました。

入ったお店は、本格ベトナムコーヒーの製造販売会社が経営する
珈琲店『Trung Nguyen Coffee(チュングエンコーヒー)』でした。

変わってこちらは、ベトナム式ではない珈琲が普通に飲めるお店
『The Coffee Bean & Tea Leaf』珈琲豆と紅茶の葉という英語の店名。

壁には、お洒落な時計が飾ってありました。
「 ANYTIME IS COFFEE TIME 」

ファーストフード的プラスチックのカップでしたが、暑いなか
歩いた後に飲むアメリカンなアイス珈琲はやっぱり美味しかった。

拍手

ポーチミン日本語事情

ホーチミンのメインストリート、ドンコイ通りには様々な店が並ぶ。
オーダーメイドでワンピースやブラウスなどが作れる服飾雑貨の店。民族刺繍の雑貨が並ぶ店。陶器やカラフルな漆器を並べた店。民族衣装アオザイの店。マッサージやエステ、ネイルの店も多い。その他にスーパーやデパートもあるし、飲食店は、ベトナム料理の店、珈琲屋は数知れず。イタリアンやハンバーガー屋、寿司屋もある。

わたしが行きたいところは、まず雑貨屋。洋服もみたい。食器も大好き。上の娘に頼まれたインスタント麺を買いにスーパーにも行きたい。
ベトナム語はもちろん、英語さえままならないが、買い物くらいはできるだろうと、まずは洒落たディスプレイに魅かれ、服飾雑貨の店に入った。
「シンチャオ」ベトナム語で、こんにちはと挨拶する。
すると若い女性の店員が、感じのいい笑顔で「いらっしゃいませ」と言う。
あ、日本人だって判ったんだ。日本語の挨拶、覚えているんだな、と思っていると、今度は「試着できます」と言う。
「ありがとう」つい日本語で返してしまった。「日本語、上手ですね」
そう褒めるとテレた感じに笑って「ちょっとだけ」と言う。
「すごいな。日本語勉強してるんだな」
感心しつつしばらく歩き他の雑貨屋に入ると、ふたたび「いらっしゃいませ」
との挨拶。そして「これは漆です。卵の殻も使っています」「三個一組です」
挨拶だけではなく、商品の説明も値段も、ちゃんと日本語で覚えているのだ。
十軒近くの雑貨屋に入ったが、ほとんど日本語が通じたのには驚いた。
無論、仕事だからということは多分にあるのだろうが、日本語が上手くなりたいという意欲がひしひしと伝わってくる。
ベトナム料理の店で『るるぶ』の付録を見せて料理を頼むと、若い男性店員に
「この料理は、日本語で、何と言いますか?」と逆に聞かれたこともあった。
耳に新しい日本語があると、その都度お客さんに訪ね、彼ら、彼女達は、貪欲に吸収しようとしていく。その姿には、もうずいぶんと長い間、思いだすことすらなかった「向上心」というものが、眩しく輝いて見えた。

サイゴン川の前から北西に伸びた、ドンコイ通りを歩きました。
徒歩2分くらいのところにある服飾雑貨屋さんは、
手づくりのチュニックやワンピースが並ぶ『unique』

3階建てのスーパー『ラッキープラザ』スパイスやインスタント麺、
ベトナムコーヒー、ビールなど、気軽に買い物を楽しめます。
万引き防止のためか、入口で鞄はロッカーに入れなければなりません。

『emem』手作り小物はデザインもお洒落で丁寧に作られていました。

右に曲がってマックティブーイ通り右側にある雑貨屋さん『coco』

ずっと歩いて行くと「え? なにこれ?」と思ったら

『市民劇場』で行われるイベントの客寄せのために置かれたものでした。
ここでは、オペラも上演されるそうです。

拍手

ベトナムの金魚

知っている言葉なのに、久しぶりに聞くと、すっかり忘れてしまっていることがある。まるでリセットされたかのように、意味を知り、ふたたび驚くのだ。

「ゴールドフィッシュ」がその一つ。どうしても金の魚を思い浮かべてしまう。漢字を並べれば「金」「魚」何処からどう読んでも「金魚」だ。だが、「ゴールドフィッシュ」は輝く金色で「金魚」は縁日が似合う赤。色のイメージの方が、言葉よりも強く残ってしまうのだろう。

ホーチミンはドンコイ通り付近でひとりランチをした店が『ゴールドフィッシュ』という名だった。ベトナミーな雰囲気と金の魚は何となくマッチしたようにも思え、やはり金色に輝く魚を思ったのだが、店に入るとなかは金魚のロゴだらけだったのだ。
テーブルクロスには刺繍の金魚。皿や花瓶も金魚模様。コースターにも箸入れにも笠をかぶった金魚のロゴが入っている。それがまた、愛嬌があり可愛い。
「ああ、ゴールドフィッシュって金の魚じゃなくって、金魚だったっけ」
思い出すには十分すぎるほどのアピールだ。そして、こうも思う。
「金魚って、純日本風な縁日浴衣に似合うように感じるけど、外国でも可愛がられているんだな」
そんなふうに親しみを感じたその店は、日本語メニューもあり、日本人を歓迎してくれている空気がいっぱいだった。

日本人好みの味にしていると批判する人もいるらしいが、ランチに食べた蟹春雨炒めは、驚くべき美味さだった。「近しい存在になるには、少しずつ歩み寄ることも大切さ」と金魚達は言っているのかも。ベトナム料理なら何でも食べられるという豊富なメニュー。感じのいい店員さん。おススメのお店です。

お店に入ってまず目についたのは、テーブルクロスの可愛い金魚。

お皿やコースターの他に、花瓶にも。爪楊枝が細い!

箸の袋にも、ちゃんと笠を被った金魚がいました。

蟹入り春雨炒めゴールドフィッシュスタイル。やっぱり優しい味でした。
少しだけ唐辛子が効いたタレも、野菜をつけると味をひきたててくれて。
他のメニューも試したいくらい美味しかった。でも、お腹いっぱい。
料理を盛ったこのお皿も、食べ終わると金魚の模様が(笑)

お店の看板はシンプルお洒落。ドンコイ通りから少し脇に入ります。

拍手

ベトナムに入らば

「道路は渡れないところが多いと思うから、ムリしないで」
夫に、言われていた。
ベトナムには信号が少なく、横断歩道で人が待っていても車やバイクが止まることはないし、バイク天国と言われるだけあり、とにかくバイクが多いのだ。
「渡れなくて帰れないと思ったら、タクシーに乗ってもいいから」
物価は安いし、金銭的なことを気にするより、まずは安全を考えてということだ。ホーチミンのそんな道路事情はガイドブックにもかいてあるほど。『るるぶ』に載っていた「道路の渡り方」には、ゆっくり歩くのがコツとある。走って渡ると、バイクの運転手に動きが読めないから、逆にゆっくり歩いた方が危なくないのだそうだ。
「ひったくりにも、気をつけて」
バイクによるひったくりも多いらしい。バッグは車道側には持たないというのは最近日本でも夜道を歩く時などには気をつけるべしと言われていることだ。

ドンコイ通りを歩き始めてすぐに、日本語で声をかけられた。
「おねえさん、どこいくの? のっていかない?」
何故に歩道をバイクが走ってる? との疑問はすぐに解消されることとなる。バイクの運転手達は、歩道を走るのがルール違反だとは思っていないのだ。
声に答えずすたすたと歩くが、歩道をバイクで走りながら追ってくる。いったい何なのだろうと考えて、気づいた。道を歩けば、バイクタクシーに勧誘されると聞いていたのだ。ゆっくり歩く観光客は格好のターゲットなのだろう。
「ノーサンキュー」と言うと、素直に離れていく。
だが、歩き出せばまた別のバイクが「おねえさん」と声をかけてくる。その繰り返しには閉口した。なので、ちょっと早足で、まるでこの辺りのことなら何でも知ってるのだと言わんばかりに堂々と胸を張り、歩いてみた。
すると不思議なほど、声をかけられなくなった。その後の散策は快適だった。郷に入らば郷に従えとは、よく言ったもの。ベトナムに入らば、車道はゆっくりと、歩道はちょっと早足で堂々と胸を張り歩くものなのだ。

ドンコイ通りは、バイクが途切れるのを待っていれば渡れました。
ひったくりにあうことがなかったのも、堂々と歩いていたからかな?

聖母マリア教会前の通り。この幅を渡れる人はジモティですね。
観光客は、横断歩道の方がまだ安全です。

どうしてバイクが横断歩道渡ってるの? と思ったらそのまま歩道に。
歩道を歩いているのにクラクションを鳴らされるのも日常茶飯事です。

ドンコイ通りの突き当り、黄色い建物、中央郵便局前もこんな感じ。

パリと同じくポストも黄色でした。郵便局カラーが黄色なんですね。

拍手

ベトナムの味は、優しくスパイシー

夫の出張に同行し、ベトナムはホーチミンに来ている。
彼は何度も仕事で訪れていて、土産話を聞くたびに一度行ってみたいと思っていた。何と言っても、ベトナム料理に魅力を感じる。スパイシー料理は大好きなのだ。ベトナムではスタンダードな温かい麺、フォーも、その一つ。
真夜中に到着し、翌朝ホテルの朝食ビュッフェにも茹でたてのフォーを出してくれるコーナーがあり、うれしくなった。
「美味しい! 朝ご飯、もうこれだけでいい感じ」
ビュッフェには、オムレツやベーコンもあったが、フォーに夢中だ。
優しい味なのにスパイシー。薄めの塩分を補うために香草やスパイスを上手に使っている。米粉の麺もやわらかく癖がない。夫は言う。
「そういうところが、日本の女性にも人気があるんだろうな」
わたしのなかでは、ベトナム料理といえば、スパイシーというイメージをいちばんに持っていた。だが、スパイスを効かせ美味しく仕上げる基本となるのは、優しい味だったのだ。

優しい味を好みつつも、スパイス効かせたお国柄。
「気をつけて、歩いてね」
夫の心配をよそに、ひとり浮き浮きとホーチミンのメインストリート、ドンコイ通りを散策したのだった。

1日目の朝は、シーフード&ポーク。夫はビーフを食べていました。
こわごわ調味料を下のお皿に盛って、ちょっとずつ入れました。

2日目の朝は、チキンにしました。フォー・ガーというそうです。
スパイシーなソースも調味料も、もう怖くない(笑)
赤いジュースはスイカです。これが、さっぱりして美味しかった。

拍手

『陽気なギャングは三つ数えろ』

ギャングが、出た!
と言っても強盗にあった訳ではない。出たのは、伊坂幸太郎の陽気なギャングシリーズの3作目だ。2作目出版は9年前になるので、ファンでさえもが青天の霹靂と、うれしい驚きが広がっている。
「どうしよう!」
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間は、苦悩していた。
「久遠に、歳を抜かれたら、もう生きていけない!」
前作では二十歳だったギャングキャラ最年少の久遠に、並々ならぬ思いを抱いているのだ。あれから9年経ち、彼女は今二十一歳の誕生日を迎えようとしている。苦悩する彼女の代わりに、先に本を開き、久遠の年齢をメールした。
「たぶん29歳。現実社会と同じだけ、年月は流れてるっぽい」
そう。ギャング達もあれから歳を重ねたのだ。

だがしかし、彼らは変わっていなかった。変わってはいなかったのだ。
久遠は、相変わらずの天才掏摸。以下本文から。

「だからといって、反射的に財布を掏ってくるのはいかがなものか」
成瀬の言葉に久遠ははっとし、少し照れる。「気づいてた?」
「何だよ、おまえ、よそ様の財布をそんなふうに盗ってきたら駄目だろうが」
「だって、僕たちの慎一くんをガミガミ叱っているのが腹立っちゃって」

成瀬も変わらず、他人の嘘が読める。以下本文から。

「六より上か?」成瀬は直截的な問いをぶつける。
「はい」と大桑が即答した。
表情からは何も読み取れない。成瀬は別段、相手の顔を凝視するでもなく、どちらかといえば、一瞥する程度だった。が、特に悩むでもなく「六より上だ」と断定口調で言った。
「約束通り、俺のお願いを」「どうして当たりだと分かるんですか」

雪子の体内時計も、運転技術も、変わりない。以下本文から。

「あ、成瀬さんから電話」久遠は言うが早いか、電話に出ていた。
「今、ちょうど向かっているところ。道はそんなに混んでいないから。ええと、雪子さん、あと」
「千三百秒くらい」「それって、何分?」

響野は、変わりようもなくお喋り。いや、演説の天才。以下本文から。

「みなさんのお時間を四分いただきます」
口をマスクで覆っているにもかかわらず響野の声はよく通る。
「それまでその場から動かないでください。この手にある拳銃は本物ですが、私はこれを使いたくありません。みなさんも、使ってほしくないわけです。意見は一致しています」

9年経っても、彼らは彼らのまま、変わらず銀行強盗をやっていた。そして変わらず、トラブルに巻き込まれていった。それが、とてもうれしい。変わらぬ方がいいものも、ある。いや、変わってほしくないものと言うべきか。

「銀行強盗を行う犯罪者を楽しそうに描いていいのだろうか」
伊坂は、そう迷いながら「どこからどう見ても現実な物語ではない」
ギャングシリーズはお伽噺のようなものなのだと、気づいたそうです。

拍手

こだわりの蕎麦屋

3連休最終日。夫とふたり、同じ北杜市は高根町にある蕎麦屋に行った。
3か月ほど前に食べに行き、蕎麦の美味さに驚いた『やつこま』という店だ。
手打ちの蕎麦は平打ちで、まず蕎麦つゆをつけずに蕎麦の味そのものを味わうことを薦めるとの記述が店内にある。蕎麦を打ち続けてきた自信とこだわりが、そこ此処に見える店なのだ。辛い物好きのわたし的には、普通ならありえないのだが、山葵(わさび)を添えずに蕎麦を出すこともその一つ。本来の蕎麦の味にこだわってこそ、山葵の辛さ、風味に頼ることなく蕎麦を味わう、というところまで辿り着いたのだろう。
しかし、そこは蕎麦屋である。きちんと山葵も用意してある。どうしても欲しい人には、生山葵を1本出し、鮫皮の山葵おろしで自分でおろしてもらうという。余った山葵は持ち帰れるというから、山葵おろしを楽しみ、更に値段的にもお得感がある。考えているなあと思う。

前回、山葵は頼まなかったが、山葵おろしを購入し自分でおろす楽しさを覚えたこともあり、オーダーしてみた。ところが店主が、申し訳なさそうに言う。
「今、いい山葵が入っていなくて、おろしたものでもいいでしょうか?」
そのおろしたものというは掛け値なしにいい山葵で、美味しいことに間違いはないとのことなので、もちろんそれを出してもらうことにした。
その山葵が、本当に美味かったのだ。
「冷凍というと、味が落ちるように思われるかもしれませんが」
店主は、そう前置き、教えてくれた。
生の山葵は、おろしてみるまでその良し悪しは、生産者でさえ判らないのだそうだ。だから何本かおろしてみて納得いかない場合には返却する。いい山葵が入らなかった時のために、特別いいものをおろし、冷凍しておくのだという。おろさずに冷凍するとダメになる山葵だが、おろして冷凍する分には味が落ちることはないのだとか。
「本当にいい山葵は、おろしたばかりと冷凍したもの、食べ比べてもどちらか判らないくらい、変わらないんです」
自信たっぷりに言う店主に、これぞこだわりと思わず顔がほころんだ。
蕎麦にこだわり、山葵は必要ないと思いつつも、山葵にもさらにこだわっている。美味いはずだよ、やつこま蕎麦。
ちらりと見ると、夫もやはり顔をほころばせていた。

夫は大盛りせいろ。わたしは天せいろ。天麩羅は半分こしました。
この平打ちの蕎麦が、何とも味わい深いんです。
余った山葵は、もちろんいただいて帰りました。

拍手

その土地が近しくなっていく過程

ふるさと納税をして、石巻市が近しい存在になったかと言えば、そうでもない。だが特産品の牡蠣を送ってもらい、石巻の牡蠣とはずいぶんと仲良くなった。なにせ13個もあの堅い殻を剥いた仲である。
という訳で、埼玉に住む娘を訪ねた帰り、新宿で駅弁を買う時にも「あ、石巻の牡蠣がある!」と迷わず手に取った。弁当の表側には「宮城県産」とあるが、裏側の食材詳細を見ると、ちゃんと「石巻」とある。
「2度目だね。石巻の牡蠣さん」
初めて会ったときに意気投合した相手にふたたび会えた。そんな気分だった。

だが口にして驚いたのは、2度目の牡蠣の味ではなかった。
「なにこれ、新米?」つい口癖の、なにこれが出てしまう。
もっちりとしたご飯が、何とも美味いのである。
食材詳細を見てみると「宮城県産うるち米ひとめぼれ」とある。ひと口目も美味かったが、ふた口目も美味い。更に食べてもまだまだ美味い。とれたての新米を食べなれているこの時期に、ご飯がこれほど美味しいとは。

石巻の牡蠣に魅かれて買った駅弁は、宮城のひとめぼれの美味しさを教えてくれた。今度宮城のひとめぼれに出会うことがあれば、やはり迷わず手に取るだろう。こうして少しずつ、わたしは宮城県や石巻市に近づいていくのかも知れない。うん。ふるさと納税も悪くない。

牡蠣もご飯も美味しかったけど、もちろん炙り煮穴子も!

こんな感じで売ってました。筆書きの文字に魅かれますね。

拍手

キーと鍵の違い

週末、夫婦それぞれ、所用で出かけることとなった。
夫は、彼の実家がある神戸に。わたしは、末娘がいる埼玉に。
駅までは一緒に車で行き、韮崎に借りてある駐車場に車を停め、逆方向の電車に乗る。その道すがらの会話である。
「きみは、あれで帰るんだよね。鍵は持った?」
会話のなかに「あれ」や「これ」が増えたのは、五十代になってからだったか。わたしは「あれ」を聞き流し、答えた。
「鍵持ってるよ。わたしが閉めたじゃない」
「えっ? 俺も閉めちゃったよ。2回閉めたら開いちゃうじゃん」
そこでハタと、会話の食い違いに気づいた。
「ああ、車のキーのこと? 家の鍵のことかと思った」
夫が「あれ」と言ったのは、2台ある車のうちのさっきまで夫が運転していた赤い車の方だったのだ。だから、先に帰るわたしが、キーを持っているのかどうか確認したのだった。

わたしのなかでは、家は鍵、車はキーと使い分けている。
だが当たり前のことだが、長く一緒に暮らしていても、言葉の使い方はそれぞれだ。夫は両方とも鍵と言ったり、車はたまにキーと言ったりする。昔は気づかなかったそんな言葉の違いも「あれ」や「これ」が増えてきたことで、表面化するようになったのかも知れない。

似た者夫婦という言葉がある。もともと趣味や性格が似ている夫婦のことを言うそうだが、ずっと一緒に暮らしていると、価値観や考え方は似てくる方が自然だとも思える。そういう意味では、わたし達も似た者夫婦だと言えるだろう。だがいくら似た者夫婦でも、言葉の選び方など小さなこと一つ一つをとって考えてみれば、それぞれに違ったルールを持つ人と人だ。
そんなことを考えつつ、同じ駅のホームから逆方向の電車に乗り、それぞれの目的地へと向かったのだった。

夫が2年前から乗っている、マツダのディーゼル車です。

駐車場には、毎年この時期、ピンクの千日紅が咲きます。
砂利のなかに、根がはっているのでしょうか。

その、お隣りの韮崎市は、ノーベル賞で大盛り上がり。韮崎駅前です。
大村智さん、ノーベル医学・生理学賞受賞おめでとうございます!

拍手

わたしにとっては自分の子

「きみの友達、でかけろじが、いるよ」
夫が庭で呼んだ。庭のアマガエルを、我が家では「けろじ」と呼んでいる。
わたしが、けろじ達をとても可愛がっていることを知っているので、彼はわざわざ呼んでくれたのだ。秋になり、けろじ達はますます太り、大きくなった。
「どれどれ。どのくらい太ったかな?」
ヘンゼルとグレーテルに登場する人食い魔女のように、わくわくしながら庭に出たが「でか」と呼ぶほどには大きくない。
「そんなに大きくないじゃん」と言うと、夫は怪訝な顔をした。

いや、しかしと考える。夏に見たけろじ達は、本当に小さかった。小指の先くらいの小ささだった。それと比べると、秋の庭にいるけろじは大きかった。4倍、いや5倍はあるだろうか。もしも隣りに並んでいたなら、確かに「ちびけろじ」「でかけろじ」と呼び分けすることだろう。

けろじも、子ども達と一緒なのだと思った。大きくなるさまを近くで見ていれば、だんだんに大きくなっていくから、突然大きくなったような気がしたり、驚いたりすることもない。「人の子は、大きくなるのが早い」とよく言うが、久しぶりに会う友人の子が五歳から十歳になっていたら「大きくなったねえ」と年月の流れを知ってはいても驚いてしまう。それと同じことなのだ。
「夫にとって、けろじは友達の子で、わたしにとっては、自分の子なんだ」
納得し、うんうんとうなずきつつ見つめたけろじは、大きくなってはいたが、じつに可愛かった。もうほんとうに、ただただ可愛かった。

綺麗な緑色。アップにすると、大きい感あります。迫力!
雄か雌か見分けようと、鳴き真似していたら娘に笑われました。
お返事しなかったから、女の子かな?

立ち上がって見下ろすと、やっぱり小さいなあ。背中も可愛い。

ここからは、これまでのけろじの写真です。雨上がりの夏の朝。

こんなところに入りこめるほど、ちっちゃかったんだよねぇ。

脱皮中のけろじ。大きく口を開けて、閉じて。

手を振って皮を脱いでいきます。その皮は口を開けた時に、
少しずつ食べていくんだそうです。そうして大きくなるんだね。

果敢に草をかき分けるけろじも、何とも可愛い。

がんばって登ったね! いつも触りたいのを我慢しています。

ダンゴムシを大切に抱えてる、けろじ。お弁当にするのかな?
いっぱい食べて、少しずつ大きくなっていったんだよね。

拍手

自分のなかの先入観に気づいて

「それ、日本にはないような柄だねえ。さすが、カナダ帰り」
上の娘のシャツを褒めると、彼女は笑って言った。
「これ、カナダに行く前に、東京のお婆ちゃんに貰ったんだよ」
「うそ。じゃ、あそこで買ったやつ?」
「とげぬき地蔵のこと?」
大笑いである。
東京のお婆ちゃんというのは、わたしの母のこと。母は、お婆ちゃんの原宿と呼ばれる巣鴨のとげぬき地蔵が好きで、よく行くのだ。娘が貰ったというシャツも、そこで買ったものだということは容易に想像がついた。外国で作られたモノなどではなかったのだ。

考えるに、いや、考えずとも判ることだが、カナダから帰ったばかりの彼女が着ていたから、そう見えたのだろう。気がつかないうちに、先入観で見ていたのだ。日頃から、先入観などに支配されずに物事を見渡せる眼を持ちたいと思っているというのに、普段の何気ないところに落とし穴はあるものだ。

夜、寒くなってきたと思っていると、娘がフリースを着てきた。今度こそ、間違いないだろうと思い、声をかけた。
「それは、さすがにカナダでしょう。うん。カナダっぽい」
しかし、娘は苦笑して言った。
「これも、カナダに行く前に、神戸のお婆ちゃんに貰ったんだよ」
外国と日本の違いが判ると思うこと自体が、おごりなのだと知ったのだった。

このさくらんぼ柄が、とげ抜き地蔵産(?)のシャツです。
これで、母がカナダから取り寄せたシャツだったりしたらすごいな。

こちらが、義母に貰ったというフリースです。

拍手

『ふくわらい』

西加奈子の小説『ふくわらい』(朝日文庫)を、読んだ。
主人公、鳴木戸定(なるきどさだ)25歳は、編集者。4歳のとき、ふくわらいに心を奪われて以来、目にする人の顔のパーツを自在に動かし、様々な顔につくり変えることができる。もちろん、想像の上でだが。以下本文から。

店員の胸には『店長・外山』という名札がついている。
頭がはげあがり、その輪郭が広い。ああいう形をしていると、眉毛や目を、際限なく上に置くことが出来るから、面白いのだ。定は早速『外山』の眉毛を、頭頂部ぎりぎりに置いてみた。亀の裏側のようで、やはり面白かった。

ユーモアのセンスに満ちたこの小説は、しかし、人の生きる様の根となる部分を深く見つめた物語でもある。
定は、人の感情というものが理解できず、友達も恋人もいないままに25年を過ごして来た。たとえば「顔」というものを捉えるときに、目、鼻、口、耳などのパーツ一つ一つを理解して吟味せずにはいられないのと同じく、人を人として捉えることも、自分を捉えることでさえ、難しかったのだ。
だが定は、人に触れ、少しずつ変わっていく。
破天荒なプロレスラー、守口廃尊。定に恋する目が不自由なイタリア男、武智次郎。1年後輩で社内一の美人編集者、小暮しずく。こと、小暮しずくと心が通い合っていく様は、読んでいてわくわくした。以下本文、ふたりで16本のビール、バーバーバーを空けながら、あふれでたしずくの台詞。

「私も定ちゃんも、今、先っちょですべてじゃない? 分かる? 分かるでしょぉ? 今までの歴史みたいなもんあるじゃん、お互い。今日、定ちゃんが話してくれた、定ちゃんの過去、お父さんの肉を食べたこととか、悦子さんに雨乞いを手伝ってもらったとか、お母さんのおっぱいを、ずっと吸ってたこととか、あれ、なんか泣けてきた。泣けてきたよ、はは、それ、そういうのがすべて積み重なって、その先端に、今の定ちゃんがいるわけじゃない? 私にとって、今の定ちゃんはすべてだよ、そんで、それは先っちょだよ!」

かかわっている目の前の人みんなに過去があり、その過去をその人のすべてと呼ぶなら、今は先っちょだと、これからもその先っちょの後ろに、どんどんすべてが大きくなっていくのだと、だから長生きしてたがいのすべてと先っちょをこれからも見ていこうと、しずくは定に語るのだった。

自分の皮膚と折り合いをつけるために、定が様々な国で身体じゅうに彫った
タトゥーが(カバ以外)表紙の絵になっています。装画も西加奈子のもの。
「腹には大きな白鯨を、胸と胸の間には羽を広げたオニヤンマを。
 左太ももには跳ねあがるアフリカツメガエルを」
タトゥーは墨で彫られたものでしたが、カラフルに描かれています。

拍手

とろろとうどんのマリアージュ

とろろが、好きだ。
山芋のとろろかけご飯。とろろ昆布のおすまし。全く違うものだが、名は同じ。とろろ。では、どちらが好きなのかと言えば、どちらも好きだ。食べ物としての魅力も去ることながら、とろろ。その名が好きだ。とろっとろだから、とろろ。その響きが好きなのだ。語源も調べてはみたが、判らなかった。その判らない感じも、じつにとろろらしい。とろろ。と言っただけで肩の力が抜ける気さえする。

先日、所用で出かけた汐留で、行きつけのうどん屋『つるつる』に立ち寄った。複数の魚の削り節を使った関西風の出汁の深みと細麺のコシが魅力の店だ。そこで目に留まったメニューが紀州の梅干しととろろ昆布のうどんだった。うどん屋だ。もちろん、山芋のとろろもある。だが、うどんにとろろ昆布と梅干しという意外さに、これは食べずにはいられまいと注文した。削り節の出汁と昆布は、もともと相性のいい組み合わせ。出汁が効いたうどんの旨味がさらに増した気がした。美味かった。

それから、家でのひとりランチでも、うどんにとろろ昆布を入れるようになった。フランスには「チーズとワインのマリアージュ」という言葉があるという。マリアージュは結婚の意味だ。相性ぴったりの組み合わせをすることで、食を楽しむ。そんな意識から生まれた言葉だそうだ。
「とろろとうどんのマリアージュ。いいかも」
チーズとワインに限らず、うどんに限らず、組み合わせの妙を意識して料理するのも、楽しそうだ。まあ、洒落た言葉を使ったところで、うどんはうどん。音を立てて行儀など気にせずすすることに変わりはないのだが。

葱たっぷりは、お家ランチ麺類の基本ですね。

これが『つるつる』の梅干しとろろ昆布うどんです。
梅干しとうどんは、わたし的にはマリアージュとは呼べないかな。

拍手

ウッドデッキの補修に思う

週末、夫がウッドデッキの補修をした。
今年の夏も客人を招き、何度かウッドデッキでバーベキューをしたが、その際、とうとう板を踏み抜いてしまったのだ。踏み抜いたのが夫本人だったので笑い話で済んだが、まじめに何とかしなくてはならないということになった。ここ何年か、何枚も板を張り替えてはいたが、踏み抜いてしまうまでそのままにしておくことはなかった。様々なことが重なり手をつけられず、夫はずっと気にしていたようだ。

ようやく木材を入手したのが先週。15年前に、建てた家の余りの木材を使ったこともあり、ホームセンターなどで売っているものではサイズが合わず、手配にも時間がかかってしまった。この週末で、かたをつけるぞと、夫は強い意志で臨んだようだ。日曜大工という言葉に漂うのんびりとしたものはそこにはなく、あるのは、家の修理と言った方がぴったりくる切実さだ。

家を建てて15年。補修が必要なのはウッドデッキだけではない。特に外板は、雨風にさらされ陽に当たる。ウッドデッキと同じくメンテナンスが重要になってくる。この機会にと、木材をお願いした大工さんに家を見てもらった。夫と同じく50代半ばのその大工さんが言った言葉が、印象的だった。
「家は、あとどのくらい暮らすか、生きるかって考えながら補修していく」
ものなのだそうだ。歳をとってから、大がかりな補修をしなくてはならなくなっても、経済的に無理が出てしまうことも多く、その辺りのバランスを考えながら見通しを立てていくべき、だということだ。
「あとどのくらい生きるのか、見通しを立てる歳になったってことかな」
先のことは、判らないことだらけだ。だが、気持ちよく暮らしていけるように考えていかなくてはならない時期に入ったのかも知れないと、夫が張ったウッドデッキの真新しい板を見て思ったのだった。

まずはサンダーをかけて、表面をなめらかにして。

ペンキは2度塗り。根気のいる作業ですね。頭が下がります。
「ペンキ塗り、手伝うよ」という申し出は、丁重にお断りされました。
以前わたしがペンキを塗って、体調を崩し寝込んだ前科を覚えてるのかも。

まるでピアノの鍵盤のように、色の違いがくっきり。
100本以上ある板のうちの15本が、新しくなりました。

隣りの林には、コゲラが来てクヌギの木をコツコツやっていました。
日曜大工? いえいえ。彼らはこれが本業なんですよね。

拍手

山葵(わさび)は、笑いながらすれ

ずっと欲しいと思っていた、山葵おろし器を買った。
家庭用の小さなものが、ホームセンターで売っていたのだ。小さなものだが、きちんと鮫皮が貼ってある。生の山葵は、そのままかじっても辛くないという。細かく細かくすりおろすことで、辛み成分が出るのだとか。きめ細かくすりおろすのに最適なのが鮫皮なのだそうだ。

スーパーで、長野産の山葵を購入。刺身も買い、うきうきと山葵をおろす。
おろし方を調べてみたら「山葵は笑いながらすれ」という言葉を見つけた。不機嫌な人にガシガシおろされると、辛み成分が壊れてしまうらしい。のの字を描くように、ゆったりと練るようにおろすことで、辛みが増すそうだ。辛いの大好きなわたしは、もちろん素直に笑っておろした。というより、生山葵おろし初体験ゆえに、うれしくて笑わずにはいられなかったと言った方が正しい。
「辛くなれ、ふふふふふ。辛くなれ、ふふふふふ」
おろしながらひっそり笑い、ツンとした匂いを嗅いではまたひっそり笑った。ショキショキ音をたてておろせば、気分は妖怪アズキトギ。料理って楽しい。

だが、お味のほどは、というと「あんまり辛くないね」と、夫。
もっとしっかりと声高らかに笑うべきだったのだろうか。技を習得するには、修行が必要なようだ。

生山葵のパックには、湿らせたペーパーが入っていました。
山葵田で育つ植物だけあって、水分が鮮度を保ってくれるんですね。

お刺身盛り合わせ。娘が、刺し身は久しぶりだと思って奮発したけれど、
「カナダにも、刺し身食べ放題があったよ。鮪とかサーモンとか蛸とか」
だそうです。外国の食事情は、よく判りません。

我が家の定番、セロリと鶏肉のサラダにも、入れてみました。
山葵マヨネーズ味のサラダなんです。香りが違いました!

拍手

ケータイのない時代には戻れない

上の娘が、帰ってきた。
ヨーロッパを何か国か周り、カナダでワーキングホリデーをして、1年3カ月ぶりの帰国である。
帰路、家に帰るまでの間、WiFiが使えるところでは連絡がとれたが、WiFiが使えない場所では連絡がとれない。日本では使えないケータイらしい。
「昔は、待ち合わせしてすれ違ったりって、よくあることだったよね」
迎えに行く道すがら、ケータイがなかった頃の話を、夫とした。
到着は真夜中の0時半。JR竜王駅前の高速バスの停留所だ。もちろん、その付近でWiFiが使える場所はない。
「そうそう。よく待たされたよなあ」「それ、逆でしょ!」
などと、笑いながら話す。しかし、今回はバスの停留所で待つわけだから、すれ違いはないだろうと心配もしていない。ただ、高速バスは高速の混みぐあいで時間が読めないから、早めに行って待っているとだけ伝えておいた。
案の定、バス停には人の気配はなく、静まり返っていた。待つのみである。

30分待ち、バス到着の定刻となる。だがバスどころか、迎えの人も誰も来ない。心配しつつも、渋滞がひどかったのかとも考える。
「早く迎えに来過ぎたね」「だと思ったんだよ」
夫は助手席で、本を読んでいる。わたしも雑誌を持ってきたが、集中できない。さらにしばらく待った後、気晴らしに散歩することにした。
「ちょっと、行ってくる」と夫に声をかけ、車のドアを開けた途端、20メートルほど先に誰かの姿が見えた。のんびりとした感じで歩くその姿は遠目に見ても我が娘。のちに「幻かと思った」と夫に言わせたその姿は、まぎれもなく本物だった。のんびりモードだったのは、疲れと重すぎた荷物のせいらしい。
「バスは?」「一時間も早く着いちゃって、駅で待ってた」
「ずっと駅にいたの?」「駅に来るかと思ったんだもん」
「どうしてバスで帰ってくるのに、駅に行くんだよ?」
双方ともが、すぐ近くで待っていたとは、大笑いである。
「やっぱり、ケータイは必要だね」と、娘。
「まあいいさ。1時間後でも会えたんだから」と、わたし。
「じゃあ、1か月くらいケータイなしでも、いいかな?」と、娘。
「それは、やめてください」と、夫。
すれ違いをしつつ待ち合わせした時代をなつかしく思いながら、そのなつかしい時代に後戻りすることはできないのだと、あらためて感じる出来事だった。
さて。これから、娘との生活が始まる。

JR竜王駅近くの高速バスのバス停です。新しく作り直したばかりの
大型駐車場があります。トイレには、ウォシュレットもついていました。

スーパームーンからは何日か経ち、すっかり欠けていたお月さま。
それでも、娘が待つ夜の街を、明るく照らしてくれていました。

拍手

『我が家のヒミツ』

本屋で見つけ、ぱっと笑顔になる本、というのがある。
最近ハマっている作家の新刊だったり、好きなシリーズの続編だったり。その「本屋でぱっ」を見つけた。奥田英朗の『我が家のヒミツ』(集英社)だ。
『我が家の問題』『家日和』と続いた家族を描いた短編シリーズ。帯には「家の中には秘密がいっぱい」とあり、その秘密に〈 ドラマ 〉とルビがふってある。秘密というほど秘密じゃない、どこにでもいそうな家族のストーリーだ。今回は、何かが起こったことで、知らなかった家族の一面を垣間見る。といった感じのテーマで統一された6編だった。

1話目『虫歯とピアニスト』は、歯科医の事務員、敦美、31歳が主人公。
急患で来た男性は、大好きなピアニストだった。秘かにドキドキしながら過ごす日々は、敦美にとっては思いがけぬプレゼントをもらったような気分。結婚して何年か経つが子どもができず、そのプレッシャーにまいっていたのだ。
以下本文から。

「ぼくの三十代は、寝てたけどね」
でも大西さんは答えてくれた。
「寝てたんですか」
「それはたとえだけど、少し蓄えがあったから、出来るだけ無為に時を過ごしていたことは事実」
「どうしてそうしようと思ったんですか?」
「そうねえ・・・、大袈裟な二十代を過ごしたから、その反動かなあ」
大西さんが遠い目をして言った。
「大袈裟な二十代?」
「そう。みんな若いときは自分の人生を大袈裟に考えるじゃない。過大評価もいいところなんだけどさ。ぼくもそうだった。自分の人生は有意義で輝いていないといけないと思い込んでた。でも実は地味な性格で、そのギャップに少し苦しんでた。そういう考え方が、十年間ブラブラしてたら変わった」
「どんなふうにですか?」
「人間なんて、呼吸してるだけで奇跡だろうって。ましてや服を着て、食事して、恋をして、ピアノを弾いて」

敦美は、夫にもピアニストの大西さんのことは、うきうきとしゃべっていたが、こと子どものことになると、悩んでいることさえ話す気持ちになれず、夫がどう考えているのかも判らずにいたが・・・。

何かが起こった時に、誰かの知らなかった一面を見て驚く。そういうことは、ままある。それが家族だとしても、知らない面を垣間見ることも、たぶん珍しくないのだろう。よく知っているつもりでも、たがいの胸のうちまでは判るはずもないことなのだ。だから人間って面白い。そんな短編集だった。

ところで、我が家のヒミツは? ふふふ。何でしょう。

シリーズ3作通して、同じ家族が描かれている短編もあります。
前作、前々作でマラソンやロハスにハマった妻が、市議会議員に立候補。
『妻と選挙』は、奥田と同じく直木賞作家の夫が主人公です。

拍手

潮の香り、石巻の夢牡蠣

初めて「ふるさと納税」をした。
場所は、やはり東北復興支援だろうと考え、宮城県石巻市に決めた。その石巻から、特産品の「夢牡蠣」が届いた。お礼を貰うのを前提に納税するなんて、とも思ったが、その町の特産品を貰うのは、うれしい。その土地が、近しく思えてくるような気がする。

ということで、その「夢牡蠣」を、うれしくいただいた。
届いたのは、殻つきの牡蠣、13個。夫の所望は、牡蠣フライだったので、一緒に入っていたナイフで殻を剥いた。剥き始めると楽しくなり、あっという間に剥いてしまった。殻は、梱包してあった発泡の箱に入れ、剥き身を冷蔵庫に入れた後、夫を迎えに行った。そして帰ってきた時に、驚いた。
「わ、潮の香り!」
キッチンに、まるで海岸にでもいるかのような匂いが、広がっていたのだ。
「石巻の匂いなんだろうな、これ」
深呼吸をし、その匂いを思いっきり吸い込んでみる。
「いつか、行ってみなくちゃね。石巻」夫が、言った。
わたしも、この牡蠣が採れた海を見て、この匂いを含んだ風を感じてみたいと想像をふくらませた。「ふるさと納税」も悪くない。

13個ありました。軍手と殻剥き用のナイフも入っていました。

ぷるんぷるんです。ナイフを入れると水がサーッと出てきます。

牡蠣フライ。半生でもOKなので、揚げすぎることもなく、やわらかい!
フライを揚げるのも、タルタルソースを作るのも、久しぶりでした。

牡蠣の殻を使ったグラタン。オーブンの中で、バチバチ跳ねて、
グラタンのなかにも、殻の欠片が入ってしまいました。
でもでも! オーブンから出した時にも、うーん。潮の香り!
シンプルに牡蠣の味を楽しむために手作りホワイトソースと
モツァレラチーズのみで焼きました。それが、大正解!
口のなかにも、潮の香りが広がっていきました。

拍手

新米の定義

先週末、新米が届いた。毎年お願いしている近所のおばあちゃんの田んぼで収穫されたお米だ。子ども達が巣立っていき消費量は減ったが、1年分の米袋4つひとつ30㎏だから1200㎏を玄米で届けてもらった。

新米は、本当に美味しい。格別の美味さ。「格別」という言葉は、新米を表現するのにぴったりだ。明野に越して来てから、その田舎ならではの「格別」を毎年、味わわせてもらっている。川崎で暮らしていた頃には、新米とシールを貼ったお米を買うことはあっても、その味の違いに感動したことはなかった。大げさに聞こえるかもしれないが、幸せを感じる出会いだと思っている。

ところで、新米と言えるのは、いったいいつまでなのか。
ウィキペディアによると、なんと翌年の10月31日までは新米と呼べるのだそうだ。古米、新米との呼び分けで、そう決められているらしいが、去年のお米は、やはり新米と呼ぶには相応しくない。と、わたしは思う。
「美味しい~~~」と、うっとりしつつ口に運べるご飯を、新米と呼びたい。
それは、収穫後一、二週間ほどだろうか。
もちろん、そのあとも美味しいのだけれど「格別」と表現できるのは、と考えると、そのくらいにしておきたい。お米だって植物だ。鮮度で味が全然違うのだとは、田舎で暮らして初めて知ったことだった。「定義」とされることだって、人間が決めたことなのだ。自分の感覚で、ひとつひとつの言葉を使っていけたら、その言葉の持つ意味も深まるのではないだろうか。

何でもない朝ご飯も、ご馳走気分。

一人のお昼ご飯は、塩むすびにして。

おむすびのアップです。透き通ったお米の一粒一粒が美しい!

拍手

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
Template by repe