はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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不器用なりに

基本的に、不器用である。一時に並行していくつもの仕事をこなせる人も多いが、それが出来ない性質(たち)なのだ。
だが、そうせずにはいられない時もある。そして慌ただしく忙しく、並行していくつもの仕事をしていると、必ず失敗する。家事は完璧だ!(ありえないが) と思ったら、仕事でポカミスしたりする。仕事に夢中になっていると、食事の支度を忘れていたりする。そんなんだから、子ども達が幼かった頃は、失敗だらけの人生さと、笑って忘れるしかないような日々を過ごしていた。

今は、ひとつずつ丁寧に出来るように、時間を組んでいる。
昨日も、今シーズン初おでんを煮るに当たり、frozen shoulder(五十肩)な右手くんの注射に行くのを1日伸ばした。午前中から買い物に行き、煮始めたい。だが、病院は11時まで。初おでん失敗だけは、避けたかったし、夫が帰る水曜の夜に、畑から抜いてきたばかりだといういただきものの大根で、是が非でも、熱いおでんを煮たかった。

20年前に、または10年前に比べると、のんびりと生活しているなぁと実感する。それでも忘れたり、忘れたり、忘れたり、忘れたりと、やたら失敗するのだから、嫌になってしまうが、まあもともと失敗だらけの人生さ。出来ることと出来ないことを見極めつつ、不器用なりにやっていくしかないのである。

百姓という名は、百の仕事をこなすからだとも言われています。
農家さんは、すごいなぁ。近所の畑の様子です。

重たいのに、おばあちゃんがデッキまで持ってきてくれました。

末娘が県外の大学に行き、ちくわぶを入れなくなりました。
はんぺんは、煮上がりに入れて、温める程度が好きです。
もちろん、ツーンとするくらい、辛子たっぷりで!

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鍋のなかには

上の娘は「お腹減ったぁ」と帰って来るなり、台所の鍋のふたを開ける。

彼女の兄も、妹も、そんなことはしない。息子に関して言えば「お腹空いた」という言葉を聞いたのは、たぶん小学校に上がるくらいまで。お腹が空いても、気にせずいつも読書に夢中になっている本の虫だった。多分、今も。ただ今は、ご飯を作るのも自分なひとり暮らしなのだから、朝昼晩と規則正しくご飯が出てくる訳ではない。お腹が減ったら食べているのだろう。

下の娘は、脂っこいものを食べると調子をくずすことが多く、夜はほとんど野菜しか食べなかった。鍋の中身など、気にすることはなかった。最近会った彼女は、居酒屋で唐揚げを頬張っていたから、お腹も強くなったのだろう。ひとり暮らしで料理も楽しんでいるらしい。

で、今大学4年の共に暮らしている上の娘。彼女は、昔っからそうだった。特別好奇心が旺盛という風でもない。幼い頃、引き出しを開け、中の物を出す作業を繰り返したのは息子だった。しかし鍋のふたは、彼女のものだった。
早く帰ってくれば、まだ夕飯の支度もできていなくて、鍋は空っぽ。
「空です」と、何回言ったことか。
それでも、そこに鍋がある限り彼女はふたを開けずにはいられないのである。
そんな彼女に、わたしは特別な生命力の強さを感じる。大げさかも知れない。そして、鍋のふたを開けるのは行儀が悪いと叱るべきことなのかもしれない。だがわたしは、彼女が鍋のふたを開ける姿を見るのが好きだ。強く生きていくんだろうなと、思えるからだろうか。

さて。鍋のなかには、今日は何が入っているのやら。

いつもこんな風に、たっぷり入っていればいいんですけれど。

空っぽの鍋3兄弟。アムウェイのクイーンクックを長く愛用しています。

白菜のクリーム煮が、美味しい季節になりましたねぇ。

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空気に感謝する

同窓会に出席した。と言っても、学窓の友ではない。
19歳の頃にバイトしていた喫茶店のバイト仲間と、常連のお客さんというゆるーい同窓会。昨年声をかけてくれる友人がいて実現し、今回で2回目だ。
バイト仲間とは着かず離れず長く付き合って来たので、おたがい家族のことや近況もなんとなくは判っている。だが常連さんとは昨年30年ぶりに再会。懐かしい時間にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わった。

しかし今回は、昨年の続きの女子会という趣きの方が強かった。
銀座のカラオケもできるという個室飲み放題イタリアンで、とめどなく、とりとめもなく、しゃべることしゃべること。話は尽きず、その後デニーズでお茶していたら、わっ終電! という時間になっていた。1泊の予定で出て来た遠距離のわたしは、のんびりと時間を気にせず過ごせたのが嬉しかった。

その常連さんのひとりから、胸に残る言葉を聞かせてもらった。今春、亡くなられたお父様が話していたことだと言う。
「空気は、すごい。水道や電気のようにお金を取る訳でもなく、万人に平等に呼吸をさせてくれている。感謝の気持ちを忘れないようにしたいなぁ」と。

そんな話をしてくれた彼女の口から発せられる「ありがとう」は、他の誰とも違っている。それは、同席したみんなが感じたことだと思う。この父にしてこの娘ありと、それも多分みんなが思ったことだ。
料理が、飲み物が運ばれてくる度に、お店の人に「ありがとう」と笑顔で言う。しゃべっていても、何気なく栞のように「ありがとう」が挟まれる。
彼女の言葉は、心の奥深くから自然と発せられ、胸の奥に、柔らかな新緑の木々に囲まれた美しい湖を持っているんじゃないかと疑いたくなるほど、澄んだ空気のようだ。
「ああ、わたしって何て汚れてるんだろう」
彼女に会う度に思うのだと、わたしなどより余程、心、綺麗な友人が言った。
「全く、同感」と、友人達と一緒に呼吸していることに感謝しつつ、そっと空気を吸い込んだ。その空気が普段より微かに甘く、重たさを持たない、たとえば綿菓子のようなものだと感じたのは、気のせいではない。多分。

シャンパンで、乾杯☆ グラスに入った前菜がお洒落!

サラダも、一人前ずつ大皿に盛ってあって、ケンカになりません(笑)

鮭のソテー。添えられた野菜も優しい味。

女子会っぽく(?)花束のようなフルーツが出てきました。

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おうちで、マティーニ

「おうちで、マティーニ」に挑戦してみた。
一番安いジンと、ドライベルモット、それからオリーブも買った。
買ってから作るまで、間が空いた。買ったはいいが、上手く作れる自信など毛頭なく、作り方を吟味してと考えるうちに、時間は疾風(はやて)のように過ぎて行った。買ったことさえ忘れ去るのに、そう時間も要らなくなった今、冷蔵庫で軽い冬眠状態に入っているものも少なくない。
本で言えば、積読(つんどく)というやつだ。

それが、とても簡単なマティーニの作り方を聞き、よし! と冬眠していたジンやドライベルモットを揺り起こし、始めるよーと掛け声をかけた。
飲んだのはワインバーだったが、マティーニに対するこだわりようは、嬉しくなるほどだった。
「ドライ・マティーニで、いいですか?」「はい。ドライで」
少しだけ調べていたこともあり、すんなりドライ(辛口)でと言えたし、イタリアのベルモットは甘く、フランスのものはドライだというくらいの知識は持っていた。だが見せてくれたのは、スペインのドライベルモット。それも、氷に香りを付けるのみで、あとは流し、その香りのついた氷にジンを入れステアする。(混ぜることを、そういうのだと知った)そして、よりドライにするために、オリーブはあえて入れないそうだ。

末娘が好きだった漫画『王ドロボウJING』に出て来たセリフを思い出す。
 「オリーブが入っていないマティーニなんて、
            オリーブだけのマティーニみたいなものだ」
あったぜ! オリーブが入っていない飛びきり美味しいマティーニ。
とは、口にしなかったが、我がマティーニの世界観は、一気に180度変わることとなった。何に対しても、思い込みで判断してはいけない。何事にも違った側面が、必ずと言っていいほど、あるものなのだよなぁと、腑に落ちた。
「その上、簡単じゃーん」と、作ろうという気になったのだ。で、デキは?
もちろん上手くいく訳がない。しかし辛うじてマティーニらしき味がした。
「やっぱ、いい酒と道具、揃えなくっちゃダメか」
まあ、しばらくは百均でとりあえずステアする道具だけ揃えて、安い酒で腕を磨こうかと思っている。

だいたい、カクテルグラスすらないんですよ。これじゃあねぇ。

ワインバーで使っていたジンは、鍵のマークのロンドンのもの。
値段が5倍、違いました。置いてあるだけでお洒落だなぁ、このデザイン。

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誰かのレシピで

夫の高校時代の友人達が、ワインを持って泊りがけでやってくるのも、恒例になった。今回は2人。ひとりは、初めての訪問だ。スペイン旅行の際、何年か向こうに住んでいた経験を持つ彼に、美味しいリストランテやバルをいくつも教えてもらい、お世話になった。
もうひとりは、もう何度も来ていて、ワインに合うイタリアン的メニューも出し尽くした。今回は日本料理にしようと、夫と計画。煮物やサラダなど、和の食材でワインを楽しめるものをと考えた。

普段使いのレシピマンネリ化もあり、facebookで募ってみると、友人が『鯵と茗荷の酢味噌和え』レシピを送ってくれた。たっぷりの白髪葱と茗荷の千切りに酢味噌で、魚が驚くほど美味しくなり、箸も進んだ。
「これは、定番になる予感だね」「うん。じつは簡単だし」
ワイン会は、気の置けない友人達らしいだらだら感で、まったりしゃべりつつ、夜更けまで続いた。レシピを教えてくれた友人に感謝である。

そんな風にして、我が家の定番になった料理がいくつかある。肉じゃがは妹の味付けだし、ラタトウィーユは、もう何年も会っていない友人に教わった。焼き茄子は義母に、レタスの煮びたしは、ご近所の健康志向な女性に教わった。ゴーヤチャンプルーも、ゴーヤを作っている農家さんに教わったレシピだ。
今回急遽、パエリヤも作った。先日友人宅のパエリヤパーティで教わったのもあり、『パエリヤフェア』との食材揃えてまっせ的なスーパーの広告を見たのもあり、やってみようかという話になった。これも定番化の予感がする。

否が応でもその料理を作る度に、教わった誰かを思い出す。長く会っていなかったりするとどうしてるかなと思ったりもする。それだけじゃなく、一緒に食べた人や、場所、会話なども、料理のスパイスになっていく。たかが料理されど料理。その心くすぐる深さと面白さを、あらためて感じさせてもらった。

夫の友人達を迎えに行った、無人駅『穴山』の夕暮れ。

鯵と茗荷の酢味噌和えを教えてもらいましたが、
鯵が手に入らず、鰯で作りました。これが、大当たり!

大根と鶏肉の煮物は、我が家の味。
大根と帆立缶のマヨネーズ和えも、定番です。

友人宅でのパエリヤパーティで教えてもらったレシピに、
初挑戦してみるも、これまた大成功! 具、欲張り過ぎたかな?

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蒟蒻の表面積

中学くらいの年頃に、数学とか理科とか、社会に出て役立つのか疑問に感じると口にする友人が多くいた。苦手だと、余計に「やりたくなーい。意味ないし、こんな勉強しても」などと愚痴もこぼしたくなる。

だが、高校に入り料理にハマったわたしは、すとんと腑に落ちる。
「料理って、数学的、理科的要素が、ものすごく大きい」と。
そう感じさせてくれたのは、蒟蒻だった。
料理人、土井勝氏に傾倒していた高校生のわたしは、日本料理の基礎を、すべて彼の料理本から得た。そこにかかれていた蒟蒻の下ごしらえの仕方を読み、感心したのだ。

そこには蒟蒻を煮物にする場合、切らずにちぎると美味しいとかかれていた。さらにちぎる前に竹串のような細いもので全体に穴を開けるのだと。その理由が、表面積を増やすためだという。包丁できれいに切るより、ちぎることで凹凸がたくさん出来て、味がしみやすくなる。穴を開けることも然りである。
もう、表面積という言葉のみで、ああここに数学がある。理科もあると、高校生のわたしは、いたく感動したものだった。

久しぶりに、蒟蒻を煮た。
もちろんちぎって煮たが、料理の基礎もすでに自分流になっている。アムウェイの鍋を使い始めてからは、落し蓋も使わなくなった。食材も食べやすいものが多くなり、大根を米のとぎ汁で茹でることもしなくなった。蒟蒻をちぎり、これまで過ごしてきたキッチンでの歴史を、ふと振り返った。

これからの季節は、ちぎる蒟蒻の冷たさが指先を凍らせますね。

乱切りにするのって、何故か楽しい。

こっくり煮込んだ、煮物はいいなぁ。蒟蒻も味がよくしみていました。

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それぞれ、何処かで

「ちゃんと、ご飯食べた?」夜東京から、夫が、めずらしく電話してきた。
ひとりのわたしを、どうやら心配しているらしい。

先週、彼が1週間ベトナムに出張している間に「ヤセたんじゃない?」と言われ、食生活を問いただされた。上の娘が「健康」にハマっていることもあり、キャベツと人参のコンソメスープとか、鶏団子と春雨の白菜スープとかをたくさん煮て、それぞれ好き勝手に食べていた。朝食べずにブランチになることも多く、それでほんの1㎏ほど体重が落ちただけだ。末娘が住む浦和に遊びに行き、よく食べよく飲んだのだし。

だが、その末娘にも言われた。
「さは、ちゃんとご飯食べてる?」(末娘はわたしのことを『さは』と呼ぶ)
どうやら心配しているらしい。

今週は、わたしを心配することもなく上の娘が旅に出た。台湾に行っている。学祭の打ち上げで朝まで飲み、その足で成田に向かったようだ。
「ちょっとは、じっとしていられないのか?」
と、問わずにいられないほど、バタバタと何かしらしている娘である。

家族5人がバラバラに夕飯を食べることは、もう珍しくはない。だが、誰も帰ってこない家で食事の支度をする気にもなれず、所用で甲府に出た帰りに、スーパーで惣菜を買い込み、夕飯にした。
「ちゃんと、食べてるよ」と、夫にも娘にも言える。
東京や埼玉や台湾で、それぞれ夕飯を食べているんだなと、しみじみ考えつつ、味の濃い惣菜を口に運んだ。
ところで、わたしはダイエット中である。この夏、3㎏増えた体重を元に戻したい。家族にそれを言わないのは「なら、ビールやめなよ」と言われるのが目に見えているからだ。だからもう、わたしのことは、心配しないでください。と、言いたいところなのだけど。

山梨のなかでは、高級食材スーパーと呼べるかな。たぶん。

帰りに見た夕陽が沈むところ。車を停めて撮りました。

並べると豪華な感じです。食べきれなくても、
明日食べられるものを選ぶあたり、主婦ですよねー。
でも、自分で作ってお皿に盛った方が美味しそうに見えるよなぁ。

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ピンクなパエリヤパーティ

「ピンクだねぇ」「ほんと、ピンクで統一されてるねぇ」
テーブルクロス、お皿、おしぼり、紙ナプキン、割りばしの袋までピンク。いつもそこにいるだけで場が華やぐ彼女だが、そんなにピンクが好きだったっけ? とちょっと意外に思いつつ、テーブルに着く。

「パエリヤを美味しく炊く秘訣を会得したから、ぜひ食べに来て」と言う友人宅に、友人達3人と共にお邪魔した。その整然としたリビングが綺麗にピンクだったものだから、友人達と顔を見合わせ彼女に問うてみたのだ。すると、
「ピンクは癒しの色なんだよ。優しい気持ちになれる色なんだって」
本当は緑が好きなんだけど、と言う彼女。家族が過ごすリビングをピンク系のもので囲んだ優しさに、一同ホッとした気持ちになる。
「そう言えば、歳をとってから、身の回りの小物は自然とピンク系を選ぶようになった」と、わたし。
「歳をとってからって、それなによ」と、いらぬ茶々を入れる友人のひとり。
「はいはい。まだ歳とってないね。40歳過ぎてからってこと」と、わたし。
「自分が求めている色を、自然と選ぶものなんだよ」と、家主の彼女。
全員が50代。気ままなでにぎやかなホームパーティ。パエリヤは海鮮の旨味たっぷりでカリッと焼けていて最高に美味しかった。

帰りに、ピンクの靴下を買った。友人の優しさをいっぱいに感じて、自分には優しい気持ちが足りないと、これは自然にではなく請うて手にしたものだ。
「優しい気持ち、優しい気持ち」唱えつつ、足を延ばし本屋に立ち寄った。
そこで見つけた本は、綾辻行人『アナザー エピソードS』(角川書店)バリバリのホラーだ。
「ホラーは、 優しい気持ちと相容れないものか?」
頭のなかで、ふたつをとっさに並べ比べてみる。何か方向が違っている気もしたが、夢中で読んだ『アナザー』の続編。ぜひぜひ読みたい。
「いったい、わたしは何を求めているんだろうか」
本屋の天井を仰ぎ見て、友人のように心優しい女性にはなれないのだと、判りきっていることを再確認する。
秋の夜長。「優しい気持ち」と唱えつつ、ピンクの靴下を温かく履き、思いっきりホラーを楽しむ。しかなさそうだ。

魚貝類は、鍋セットを使うのだと友人。その柔軟性! そしてこの出来栄え!

ピンク色が、本当に優しい。あ、盛り付けの途中で撮りました。
たくさんの美味しくてお洒落な料理を、用意してくれました。

温かい靴下が必需品の季節になりますね。活躍してもらおうっと。

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激辛唐辛子を甘くみるな!

同じ失敗に、よく陥る。失敗することで学習し、2度は繰り返さないというのがベストではあるが、失敗のツボというものが、人それぞれに違っていて、誰にでも「あー、またやっちゃった!」ということがある。(と、思いたい)
苦手なところでよく失敗するのかと思えば、一概にそうとも言えない。苦手な数字が飛び交う経理の仕事での失敗もあるが、苦手だという前提に立ち、何度も、もう本当にしつこいくらいに何度も確認する。苦手が故に同じ間違いはしないし、失敗の数も少なくなるものなのだ。
ということで、失敗のツボは、得意なところにあるんじゃないかと、わたしはにらんでいる。得意分野ほど、やはりどうしても甘くみてしまうのだろう。ふん、これくらいだいじょうぶさ。というおごりが失敗を招くのだ。

わたしの場合、その陥りやすいツボは、辛さである。
辛いものが大好きだ。七味唐辛子は、京都は一休堂のものをネットで買えるようになる前から取り寄せていたし、わさびも辛子も生のにんにくも生姜も、キムチだって、とかいていると、うっとりしてくるほどに好きなのだ。

スーパーの野菜売り場で『コールラビ』なる野菜を発見した。綺麗な色と、角が生えた子鬼のような面白い形。調理法をかいた紙も付いている。
「きんぴらかぁ。簡単そう。ふむふむ、唐辛子、にんにく、生姜ね」
調理法をサッと読むと、隣に『激辛唐辛子』がある。まだ柔らかく新鮮な緑色。わたしは、コールラビと激辛唐辛子を買い物かごに入れた。その時すでに、甘くみていた。どうせ、なんちゃって激辛でしょと。
唐辛子を刻んだ時に、咳が出た。あれ、風邪ひいてないのになぁと疑問に思うが、ここでもまだ、甘くみていた。そしてにんにくと生姜と唐辛子2本(!)を炒めて、さらに咳が。
風邪のひき始めかなと、まだまだ呑気だ。しかし出来上がったコールラビのきんぴらをひと口味見した途端、思いっきりむせた。辛いなんてもんじゃない。水を飲むが咳は止まらない。3分ほど止まらない咳に苦しみ、ようやく気づいた。これは、なんちゃって激辛じゃない。ほんまもんの激辛唐辛子だと。

辛い物好きな人には在りがちだ。自分に限って、このくらいの辛さなどビクともしやしないとの無駄な自信と、いらないプライド。きんぴらから綺麗な赤と緑の激辛唐辛子を取り除きつつ、忘れた頃にまたやるんだろうと確信した。

この色と、この形に魅かれました。唐辛子もうっとりするほど綺麗。
コール(キャベツ)+ラビ(カブ)というドイツ語だとか。

でも、むいてみたら、なーんだ、ただのカブ?

唐辛子、綺麗なんだけど、入っていると危険です。
でも取り除いて味が落ち着くと、やめられない、とまらない!

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いつもと違う味を味わうことで得るもの

「お隣の県でも、やっぱ雰囲気、違うね」
高遠の町並みを、助手席で眺める。夫と『薪ストーブ祭』に行った後、城址公園近くのちょっと名の知れた蕎麦屋に行こうということになった。
蕎麦屋『壱刻(いっこく)』
「高遠蕎麦は、味噌で食べるんだよ」と夫からは聞いていた。
夫は先日、薪割り機の修理で高遠を訪れた際、高遠蕎麦は食べたからと、とろろ蕎麦を。わたしは、噂の高遠蕎麦を注文した。

蕎麦ちょこには、白い汁が入っていて、濃い色の味噌と大根おろしが添えてある。蕎麦つゆもある。
「大根おろしの汁に、味噌で味つけして、お召し上がりください」
店の女性は、お好みで蕎麦つゆでもと言い添えた。
「あ、美味しい」と、わたし。「不思議と美味しいよね」と、夫。
同じ蕎麦でも、地方によってはこんな食べ方もあったんだとの新たな発見に嬉しくなる。そして蕎麦つゆで食べてみて、また発見。
「鰹出汁の味が、濃いねぇ」
これは、高遠の味というよりは『壱刻』の味なのだろう。家で食べるいつも蕎麦つゆと違う味に、またも嬉しくなり舌鼓を打つ。

家で、と言っても、出汁をとったり手間を掛けて作る蕎麦つゆではない。生協のものを気に入って使っているだけだ。この春県外に出た末娘などは、スーパーで買った蕎麦つゆが美味しくないから送ってくれと頼んできた。それは本当に美味しくないのか、それとも慣れ親しんだ味を求めているのかと考えつつも、米を送るついでにつゆも送っている。

他の土地での味、違う人が美味しいと思って作った味を、味わうのは楽しい。料理の味付けを変えてみようかなと、考えるきっかけにもなる。長く守ってきた自分のやり方も、変えてみたらもっといいかもと疑うことだって必要なのだ。だが、そうして自分を疑ってみることは、意外と難しく忘れてしまいがちだ。だからこそ、機会在る度に思い出すようにしたい。
いつか末娘も、自分の蕎麦つゆを見つける日が来るのだろう。しみじみ考えつつ、熱い蕎麦湯をたっぷりとすすった。

手前にある蕎麦ちょこに入った白いのが、大根おろしの汁です。
蕎麦は3種類から選べます。二八のスタンダードなものにしました。

お洒落な入口は、田舎町では目を引きます。

でも隣の酒屋さんの年代物の看板には、もっと心魅かれるかも。

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『反省を忘れるな』

一文に、ハッとさせられることがある。
毎日読んでいる友人とんぼちゃんの日記には、カレンダーの言葉から感じたひと言が冒頭に載せてあって、それが面白い。
先日も『反省を忘れるな』から、
「今日一日はどうだった? 誰かのために何かできた?」とあり、
「誰かのためにかぁ」としばし、パソコンを前に考え込んだ。『反省を忘れるな』から連想するものとして、わたし的には思いがけない一文だったのだ。
とんぼちゃんの、懐広く温かい人柄を思わせる素敵な反省の仕方に、わたし自身反省した。自分のことばかりで、周りに目が行かなくなっていることがよくある。よくあるどころかほとんどだ。その「自分のこと」には、家族のことも含まれてはいるが、それより広がっていくことは、何かが在った時などに限られていて、普段から考えたりはしない。

わたし自身『パーソナルスペース』の取り方が大きいこともあり、これをしてあげたら逆に負担かも知れないとか、お節介かなとか、押し付けになっちゃうかもとか、先回りして考えすぎるのだ。しかし、その一文が頭から離れない。
「今日一日はどうだった? 誰かのために何かできた?」
小さなことでいい。無論、大きなことなどできはしない。

考えに考えて、実家と神戸の義母に電話をした。実家からは、先週北海道のメークインが送られてきたにもかかわらず、実家だという甘えもあり電話もせずにいたのだ。冷たい娘である。久しぶりの電話に父と母は途中で電話を変わり、身体の調子やメークインの食べ方などを双方ゆっくりしゃべった。
義母とも最近メールばかりだったので、ドイツリートを歌ったコンサートの話や聴きに来てくれた親戚のことなど、その後疲れが出てはいないかなどを、たっぷり聞くことができた。
「たまには、お電話もいいわねぇ、声が聞けるし」と、とても喜んでくれた。

これも家族のことで「自分のこと」の内だろうって? 身の回りの小さなことから始め、少しずつでいいから自分らしく懐を広げていけばいいさ。などと思いつつも大きな疑問という球ががストレートで投げられもした。両親も義母も「そちらは、だいじょうぶ?」と、逆にわたしのことや夫、子ども達のことを心配してくれていたのだ。誰かのためにと電話したわたしの意図は、立場逆転サヨナラ負けって感じで、宙に浮いた。 
誰かのために何かをするのは難しい。目を留めた一文のおかげで実感したのは、そんな当たり前だけど、とてもとても大切なことだった。

段ボールいっぱいの十勝産メークイン。ほそおもての美人じゃがさんです。
北海道生まれの両親。親戚から送ってきた物とは言え、
重たい思いをして、わたしのために送ってくれたんだよねぇ。

野菜スープに入れると全体にしっとりした風味が出て、ほかほか温まります。

オリーブオイルと白ワインビネガーと塩で味付けしたポテトサラダ。
ケッパーと紫玉葱、イタリアンパセリ。
オレンジ色のパプリカが入ると、ハロウィンっぽくなりますね。

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ジンクス追加事項

雨の土曜日。わたし達は迷っていた。
首位マリノスとの試合だということもあり、BSで全国放送する。甲府中銀スタジアムは、屋根はもちろんないのだが、傘をさすのは禁止。後ろの人の観戦の邪魔になるからだ。
「雨に濡れながらスタジアムで観るか、ワインでも飲みつつテレビで観るか」
それはもう、家で観る方が、断然魅力的である。

だが午後になると雨は上がり、どんよりとした雲は空を覆ってはいるが、明るくもなってきた。夫のチームメイト、サトリックからメールがある。
「行くんですか? 行かないんですか?」
「行くか」と、夫。「やっぱ、行くか」と、わたし。
サトリックを韮崎で拾い、高速を飛ばした。メインスタンドのアウェイ側に座ると、否が応でもマリノスの統率の取れた整然とした応援の声が、音が耳に入ってくる。首位争いをするチームは違うなと思わせる応援だ。

わたしはサトリックに生ビールを手渡し、ふたり深くうなずき乾杯した。わたしがスタジアムで生ビールを飲むと負けないという不敗神話は崩れたものの、新しく発見したジンクス「ヴァンフォーレの試合の日には、チキンは食べない」を守り続けて以来負けていなかったのだ。サトリックと観に行った鹿島戦は、ふたり生ビールを2杯ずつ飲み3-0で完勝。ここでわたし達がビールを飲まずに負けたら後悔も大きい。そんな思いを込めた乾杯だった。
しかし前節清水戦は、いいところなく負けている。その試合について、わたしは夫にも話していない、ある思いを抱いていた。

甲府は強かった。ニュースや新聞で、何と言われようとも、観た人にはマリノスを圧倒していたのがわかるはずだ。0-0で分けたが最後の最後まで目を離せない、ありきたりな表現を使えば手に汗握る試合だった。貴重な勝点1だ。
「新たな不敗神話だね」と、わたし。
「サトリックとふたりで、ビールを飲むと負けないってこと?」運転手の夫。
「清水戦は、前日に鶏たたき鍋を食べたのが敗因だよ。これからは金曜も、絶対チキンは食べない」
わたしの新たな誓いに苦笑するサトリックと、ひとりいつもビールなしで観戦する夫と共に、意気揚々と駐車場までの道のりを歩いたのだった。
(注)「サトリック」とは、わたしが勝手に付けたニックネームです。

鶏たたき鍋の作り方。濃いめに味付けした出汁に牛蒡を入れて煮ます。

鶏ひき肉には味付けせず、葱と卵を混ぜ、スプーンですくい落とします。
後の具材は、鍋に入れ煮えれば出来上がり。九条葱が美味でした。

日本酒が合いますね。これからの季節にピッタリの鍋始めでした。

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レタスを、破壊し創造する

この時期のレタスは、身が硬くしまっていて、春レタスとはまた違った味わいがある。生で食べるのももちろんいいが、一番好きな食べ方は、オイスターソースで作る煮びたし。1個丸々ひとりで食べられるほど、美味しいのだ。
最近、近くのスーパーで川上村のレタスが売っている。レタスでの村おこしでレタス長者がでたとかいう、一躍有名になったブランド・レタス。
その身がしまったレタスを、バリッと半分に割るのが好きだ。そして、ザルのなかでまた、バリバリバリッと千切っていく。爽快である。

人間には、破壊願望があるという。間違った願望の満たし方をすれば、非常に危険な願望だ。目をつぶり、ビルを踏みつぶすゴジラを思い浮かべ、わたしはレタスを破壊し、煮びたしを作る。定期的に食べたくなるのは、破壊願望のせいか、レタスの煮びたしが美味しいせいか。
そう言えば、料理って創るものだけど、まずは破壊から始まるのだと気づく。

人の持つ願望もその強さも人それぞれ。ストレス解消になるかどうかは疑問も在るかも知れないけれど、レタスの煮びたし、破壊し創造してみてはいかが?

店頭に並べられた川上村レタス達は、まだ破壊前。

破壊の始まり。いくぞっ! バリバリバリッ!

鍋に湯を沸騰させ、塩と胡麻油を入れます。そこに千切ったレタスを投入。
1分ほどでしんなりするので、ザルに上げ深めの皿に盛って、
白髪葱1本分、生姜千切り、オイスターソースをかけて、混ぜるだけ ♪
レタス1個分、ひとりで食べきる挑戦、してみてください。

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夜の『まるげ』に

「『まるげ』に行こうよ」
娘に誘われて、浮き浮きと『まるげ』に行った。
最寄りの無人駅「穴山」近くのイタリアンバール。娘から聞いてはいたが、わたしはいちげんさん。どんなところだろうかと、想像を膨らませていたのだ。
何しろ『まるげ』で、イタリアンだというのだ。時々道路沿いに見かける道しるべも、木の立札に墨で描いたような文字。〇のなかに「げ」とひらかなでかかれている。イタリアンだとは、思いもよらなかった。
そして、店もその道しるべの雰囲気そのまま。古民家を再利用したのだろうか。黒い梁には穴山駅の時刻表が貼ってあるが、その破れ具合なども年代物だと一目で判る。アンティークなものを家具に置き、落ち着き過ぎた感じは、隠れ家と呼ぶのに相応しい。
料理はピザやパスタ、生ハムのサラダ、イベリコ豚のソテーなど、しっかりイタリアンだったが、種類豊富なメニューのなかに「おこげの茶漬け」などばりばり日本風のものもがあったりして、それも色鉛筆で手書きのイラストメニューでもあり、眺めているだけで楽しくなる。

サラダやタコス、焼き野菜や帆立などを食べ、運転は娘に任せ、気兼ねなく美味しく生ビールを飲んだ。
ふたり何でもないことをしゃべり、娘がデザートのフォンダンショコラを食べるのを眺めつつ、ギムレットも飲んだ。ゆっくりと食べる彼女に合わせ、マティーニも飲んだ。いいお酒に、気持ちよく酔っぱらった。自分的には飲み過ぎた感じはなかったが、ギムレットにマティーニは飲み過ぎだろうと、夫に水を注されるのも癪なので、黙っていようと心に決め『まるげ』を後にした。

しかし翌朝パソコンを開き、「げっ」とは言わなかったものの愕然とした。
娘が「『まるげ』に行った。美味しかったし楽しかった」とfacebookにアップしていて、そこにはわたしが飲んだものすべてが、かかれていた。夫も娘とお友達なので、もちろん見ている。
facebook、恐るべし。そういえば、娘が眠れなかったとか、金縛りにあったとか、話を聞くより先にfacebookで知ることも多いこの頃だ。家族の形も変わってきたのかなぁと考えつつ、いや、変わらないそのままのものが基本にはあるのだと、マティーニに入ったオリーブの味を思い浮かべた。そう。いつの世になろうとも、マティーニにはオリーブが入っているように。

ゲ、ゲ、まるげのげ~ ♪ と歌いたくなるような看板。
でもじつは「ピッツァ・マルゲリータ」が美味しいから付けた名だとか。

店内も暗くて、料理は撮れませんでした。

どんな時も頭上注意? どんなことがあるのやらと思わせる入口。
帰りにしっかり、頭ぶつけました。

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新米を、鍋で炊く

「わたしは、プロだよ」
上の娘の言葉を、ふうんと聞き流す。わたしだってプロだ。
何が? 鍋でご飯を炊くことについてである。
娘は、1年間のオーストラリアワーキングホリデーで、炊飯器を使わずにご飯を炊く技術を習得したらしい。だがわたしだって彼女の年頃には、炊飯器を買うのを節約のため断念し、毎日米を鍋で炊いていた。年季が違うよと言いたい。それでも、鍋で炊いた米の美味さを知るきっかけが、ひとり暮らし&節約だったということに、彼女にもわたしにも変わりはない。

毎日念入りに化粧し、ひらひらした服ばかり着ていた娘が、1年のワーホリを終え帰ってきた時には驚いた。拾ったというツナギに、ボロボロのシャツ。髪はロングだったが、美容室に行かなかったせいだという。
「だってせっかくオーストラリアに行ったんだから、服買うより、旅行とかもしたかったし、友達と遊びにも行きたかったし」
やりたいことに、優先してお金を使おうというスタイルも、あの頃のわたしと変わらなくなっている。全く違う人になり帰ってきたようで、胸をくすぐられたかのように可笑しくなり、内心くすくす笑った。
その娘は、貸していたワーホリの初期費用を、すぐに満額返済した。飛行機での移動にかかったお金もすべて、向こうで働いて稼いだということだ。服も買わず食べ物も節約し、旅行し、遊び、英会話教室にも通い、シェアハウスをいくつか移り、何かがそぎ落とされ、それ以上に何かがプラスされたのだろう。
「風邪とか、ひかなかったの?」というわたしの問いに、大丈夫と笑う。
「ビョウは気からって言うじゃん」「それ、病(やまい)は気からでしょう」
国語が苦手なのは、相変わらず。天然な性格も、変わってはいなかったが。

久しぶりに鍋で炊いた新米を、夫は絶賛した。何度もおかわりし、たくさん食べた。たった1年半のひとり暮らしだったが、そこで得たものが今生かされている不思議。人生って計り知れない。娘もオーストラリアでの1年で、多くのことを得たのだろうと、炊きたての新米を味わいつつ、考えた。

1年分のお米は、玄関に保存。気温、湿度など一番適しているようです。

一袋30キロを精米するときには、コイン精米機で。

まずは鍋で、と炊きました。瑞々しい!あーん、新米だぁ。

右肩frozen中のわたしに代わり、夫がむいてくれた栗で栗ごはんも。

夫は、おむすびを持って、出勤しました。

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うどん、大好き

うどんが、大好きだ。ひとり家ランチのNO.1は、何と言ってもうどんだ。
夏でも熱いうどんが好きで、よく食べた。ひとりだから「こんなに暑いのに、熱々のうどん?」と文句を言われることもなく、堂々と食べた。七味を10回振り、大汗かきながらふうふう言って食べた。うどんなら毎日だっていい。保守的と言われてもいい。よく飽きないねと呆れられてもいい。バカの一つ覚えと言われたって気にしない。わたしの身体は、うどんとビールで出来ているといっても過言ではない。

そう考えてみると、麦だらけだ。そうか、わたしの身体は、麦で出来ていたのかとあらためて考える。風に吹かれる黄金色の麦を思いつつ、いい気分になる。麦わら帽子になって宙を舞う。気持ちいいー。
あ、これ、うどんじゃなくて、ビール効果かも。

そろそろ熱いうどんが、美味しい季節。
眠れない夜にも妖怪の如く、薄暗い台所でうどんを食べる。ひとりの朝ご飯にも食べてしまう。2食続けてだって、3食続けてだってかまわない。一人暮らしをしたら、たぶん毎日毎食、うどんだ。

家族がいて、よかった。こんなズボラなわたしが、美味しいものをいろいろ食べられるのは家族のおかげだ。妖怪うどんババアに変化(へんげ)を遂げず済んでいられるのもまた、家族のおかげだと深く感謝しよう。

いつもは京七味を、たっぷりかけていただきますが、
これからの季節、生姜で温まるのもまた、いいですよね。
茹で時間6分。讃岐ざるうどんの細さが、お気に入り。

お昼ご飯第2位は、チャーハンかな。焼き豚と小女子、葱2本分入れました。

第3位、トマトソースのパスタ。あれば茄子入りで。
粉チーズとタバスコを、好きなだけかけて。

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さんま苦いか、しょっぱいか

「週末は、秋刀魚だな」「いいねぇ」
先週から夫と話していた。我が家で「秋刀魚」と言えば、小型のバーベキューセットで焼く炭火焼と決まっている。娘は焼けたら食べに来るので、ウッドデッキで夜風に吹かれ、夫婦ふたりでのバーベキューとなるのが、最近の常だ。

「さんま、さんま、さんま苦いか、しょっぱいか」
どちらからともなしに、秋刀魚を焼きつつ口にするのは、佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』である。結婚して初めてふたりで秋刀魚を食べた時に、それはたぶんキッチンでグリルで焼いたのだと思うが、夫に教わった。友人谷崎潤一郎の妻、千代に恋した佐藤春夫の悲恋の歌だと。
大人の恋のほろ苦さを、秋刀魚に重ねた味わい深い詩だ。その後、佐藤春夫と千代は結ばれることとなったのだが。

何かを食べる度に思い出す詩や、本のワンシーンがある。それを家族で共有するのもまた楽しい。娘が聞いていたかはわからないが、たぶんこれまでにも秋刀魚を食べる度に、何度となく聞いてきたはずだ。いつか子ども達が何処かで秋刀魚を焼く時に思い出し、誰かに話すかも知れない。「さんま苦いか、しょっぱいか」と。

さて。わたしには、秋刀魚を焼くと思い出す、もう一つの詩(歌詞)がある。それは、夜風に気持ち良く吹かれ秋刀魚を焼きながら話すものではないと心得ている。佐藤春夫の大人の恋のほろ苦さとは対極に在りすぎるものだからだ。
♪ お魚食わえたドラ猫 追っかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん ♪

火の色は写真にすると変わってしまいますが、綺麗な秋刀魚でした。

大根おろしが似合います。胸を張っているかのよう。

御馳走様でした。何もかも綺麗に、いただきました。

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生きるために必要な針がある

栗をいただいた。生の栗と、渋皮煮である。うれしい。
栗のイガは、何故あるのか。春まで動物などに食べられず、芽を出すためだそうだ。生き残るためのイガ、針なのだ。

『はりねずみが眠るとき』というブログタイトルの意味をよく聞かれる。
寒空にいる二匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいのに、針が刺さるので近づけないという『ヤマアラシのジレンマ』
そのヤマアラシより、遥かに小さな「はりねずみ」の、小さな世界。そのなかで小さなことを喜んだりくよくよしたり、またヤマアラシのジレンマの如く傷つけたり傷ついたり。そうやって生きていくこと、普通に暮らしていくということをかきたいと名付けたタイトルだ。
そんなはりねずみが目覚める日を待ち、穏やかな心持ちで眠りにつけるのか。

甘く煮た栗を口に放り込み、味わいつつ考えた。
生きるために必要な針がある。その理不尽さを。

渋皮煮、アクを全く感じない美味しさでした。

2週間ほど前に撮った写真です。台風で落ちた栗も多かったようです。

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コロナを『お行儀よく』飲む

夫に、コロナの飲み方を教わった。
メキシコのビール、コロナ・エキストラ。ライムを入れて飲むのがスタンダードだということは、もちろん知っていた。
だが、グラスに注ごうとすると、夫にとめられた。
「コロナの飲み方、知らないの?」
「ライム絞って、飲むんでしょ?」と、わたし。だが夫は、首を振る。
「ライムを、瓶のなかに押し込むんだよ」「ほんとに?」
「呑み屋では、必ず瓶の口にライムを半分突っ込んで出てくるよ」
それを瓶に押し込んで、グラスは使わず瓶に口をつけて飲むんだそうだ。
「そう言えば、呑み屋でコロナ、飲んだことないや」
「今度、飲んでみれば?」「ぜひとも!」

ネットで調べてみると、夫が言う通りの飲み方をするとかいてある。塩を入れると美味しいと言う意見もあり、ライムを押し込んでから指で蓋をするようにして逆さにし、ライムを馴染ませてビールを泡立たせて飲むのが正しいと言う意見もあり、自分的には檸檬が好きだと言う意見もありで、面白かった。
広告で『このビールは、立って飲むのがお行儀です』とのコピーもあったらしい。それを見て、しまった! と舌打ちした。あー座って飲んじゃった、と。

呑み屋で飲むまえに、キッチンで料理しながら飲んでみよう。
塩も檸檬も、逆さにするのも、瓶に口をつけ『お行儀よく立ったまま』ぜひともトライしよう。ビールの飲み方ひとつで、こんなにわくわくする人は、まあ多数派ではないだろうとは知りつつも、思いっきりわくわくしている。

リサイクルが難しくなるので、この飲み方、推奨されていないそうですが、
金串で簡単に取れたので、しっかりリサイクルに出しました。

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シールドを突破して

ずっと行きたいと思っていたのに、足を踏み入れることのできない場所があった。同じ明野町内のカフェ『くじらぐも』だ。
友人とも夫とも話題にはなるが、行こうという話にはならない。ランチしやすい水・木が定休だということもあるが、他には理由などない。では、ひとりランチでとも思うのだが、何故か気が進まない。車でよく前は通るのだ。町から国道に出る3つの道の一つ。その裏道に面した場所にある。だがまるで、シールドで遮断されているかのように、敷地内に入れないのである。

「じゃあ、一緒に行こうよ」上の娘が言いだした。
彼女は最近「健康」にハマっていて、地元の野菜を使った煮物やサラダや玄米などをランチに出す『くじらぐも』には、すでに行ったことがあると言う。
「つ、連れてってください」と、わたし。
駐車場に車を停め、台風一過の空の下、歩く。
井戸がある。小学校にあるような遊具、太鼓橋がある。竹で作った丸いスペースがある。大きな釡や南瓜が置かれた物置のような場所がある。広い囲いのなかには山羊が草を食んでいる。苺畑やハーブがある。店の入口まで敷き詰めた石の道には、雑草が覆いかぶさっている。その太鼓橋も、『くじらぐも』とかかれた看板も、何十年も前からここにあるかのようにペンキが落ちている。ゆっくり歩きながら心のなかでつぶやく。「シールド突破!」

店内に入った時には、わたしのなかにあったシールドはすっかり解除されていた。骨董品とも言える足踏みミシン、ブリキの扇風機、持って帰りたいくらい素敵な珈琲ミル、天井には裸電球。ついたてを利用した手作りの棚。何度も足を運んだ店のようにくつろぎ、娘と他愛なくしゃべり美味しくご飯を食べた。

シールドを突破して判ったのは、店に入るまでのすべてが、土地に馴染みすぎているということだった。古いもの好きにはたまらなくお洒落な店内は、普段着のこの町とは確かに違っている。けれど、そこにたどり着くまでの短い通路や庭が、田舎町を凝縮した空気を見事に再現していて、わたしにとっては、それが分厚いシールドとなったのだ。
「明野の人は、あんまり来ないんだって」と、娘。
東京からわざわざ足を運ぶ人も多いという明野の観光スポットに、シールド突破を楽しむ派の娘のお陰で、ようやくたどり着けた。

井戸と「太鼓橋」のような遊具。

竹繭カフェ? なかでお茶して、落ち着くかなぁ?

入口には、小さすぎるほどに小さな看板と、野の花が。

野菜中心というより、ほぼ野菜のランチ。ハーブティー付き。
葡萄酵母のパンと玄米っぽいチャーハンは、娘と半分こ。
わたしのおごりなので、娘は遠慮なく、薩摩芋のチーズケーキも食べました。
  
飾ってあった、心魅かれた珈琲ミル。店内にはうさぎが1匹、
庭には3匹の山羊。山羊は、とても活発に動き回っていました。

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他愛なく、つまらなく、幸せこの上ない悩み

夜中に目覚めて、ふと思い出す。
「目玉焼きにしようか、納豆にするべきか。あれ? 葱あったっけ」
「あ、味噌汁の油揚げなかった。代わりに冷凍庫の鶏肉入れようかな」
「トマトはあるけど、炒めものも欲しいし、玉葱炒めるか」
朝食についての、あれこれである。

夜中に目覚めて、他の人が何を考えるのかはわからないが、特別な悩み事がない限り、わたしのなかでは朝食についてが、第1位を占める。
もちろん仕事のことや子どものこと、家族のことなども、考える。真夜中ひとりベッドで考えを巡らせることで、違った視点からものが見えることも多く「なーんだ、こうすればいいんじゃない」とあっさり答えが出ることもある。

しかし毎日の悩みの第1位を占めるのは、朝食についてだ。
スーパーで食材を買うときに、それは「夕食の買い物」であり、朝食については、ついつい忘れがちだ。だから、あれこれ足りない食材を駆使し、真夜中に朝食の献立を立てることとなる。朝は時間も限られているし、手の込んだことはできないし、でも野菜はたくさん食べたいし、あーどうしよう、となる訳である。他愛なく、つまらなく、幸せこの上ない悩みである。子ども達の弁当を作っていた時に比べたら、その悩みも激減したけれど。

台風が通り過ぎた昨日の夕方、視点を変えて「朝食の買い物」をした。
「朝ご飯、朝ご飯」と唱えつつスーパーを闊歩しつつも「これで夕飯の食材忘れたら嫌だな」との不安を拭いきれない弱気な自分が、ふと天上から見えた。

残り物のゴーヤチャンプルーと焼き茄子があったので、ちょっと豪華。
目刺しは、たまーに登場します。頭から、がぶり!

家庭菜園の人参をたくさんいただいて、毎朝の味噌汁に入れています。

台風が通り過ぎた直後の田んぼ。稲が倒れると稲刈りが大変だそうです。
まだまだ稲刈り前の田んぼが多く、農家さんの苦労を思います。
美味しい明野のお米を、毎朝食べられることに感謝しつつ。

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真吾ちゃんとのご縁

購入した納豆鉢は、やはり真吾ちゃんの作品だった。
決して彼のものを選んでいる訳ではない。値段が手ごろだということもあるが、迷いに迷って決めた結果が、やはり彼の焼いた器だったということの方が多いくらいだ。
陶芸作家の名前がかかれていなくとも、彼の作品かどうか判るくらいには、いくつもの展覧会や個展などを見てきている。簡単に言うとファンなのだ。ファンであるから、勝手気ままに「真吾ちゃん」などと呼ばせてもらっている。

だが今回もいくつもの鉢のなかから選んだものは、珈琲カップの奥にひっそりとたたずんでいた器だった。レジで確認する。
「森下真吾さんの作品ですか?」「はい」

真吾ちゃんは、もう忘れているだろうが、彼は一度我が家を訪れている。
とあるグループ展で展示されていた彼のお湯呑みを買ったのだが、展示物を持ち帰るのは忍びなく、最終日にふたたび会場に受け取りに行った。しかし手違いでお湯呑みは他の客に売却されており、がっかりして帰ったのだ。すると電話が鳴り、若者が訪れた。
「申し訳ありませんでした」真吾ちゃんである。
「ひとつひとつ味わいが違うので、同じものという訳にはいきませんが」
本人自らいくつものお湯呑みを持って訪ねてくれたのだ。10年前のことだ。

作風が変わっていくのも楽しみに見守り、様々な場所で見かけて、時には買い求め、使いつつ楽しませてもらっている。
そして、今回も。
縁があるのだ。一ファンの身だが、そう思わずにいられない。
「袖すりあうも多生の縁」とは、ちょっとした縁も、前世での因縁によるものだとの意味だそうだ。真吾ちゃんと、前世でどんな出会いをしたのだろうか。
  
黒織部に勝利した、納豆鉢。ブルーが効いています。

お湯呑。両側のふたつが、真吾ちゃんに届けてもらったもの。

左側は、甲斐市でやっていた個展で。右側は、珈琲屋『autumn』で、
わたしの誕生日に夫に買ってもらったものです。

夫の茶碗と大きめの鉢。小さいのは夫が『夢宇谷』で見つけたぐい飲み。

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納豆の器を探しに

しんとした心持ちを、強く求めていることに気づく時がある。
それは、何かが上手くいかなくて落ち込んだ時でもなく、体調を崩した時でもなく、バイオリズムの波が加速しつつ落下している時でもない。負の感情ではないのだ。わたしのなかで強く求めている、真っ直ぐに前を向いた感情だ。そんな時、何処でもいいから器を見に行く。小さな店でもいい。だが、たくさんの陶器と向き合うと、よりしんとした心持ちになる。

その「しんとした心持ち」を求め、ひとり『夢宇谷』(むうだに)に行った。
同じ北杜市内の大泉町にある、陶器屋だ。雑貨屋と言ってもいい。ガラスはもちろん、染め物や絨毯、蝋燭、お香、アジアン風のワンピースやお面などもある。店内は広く多くのものが置いてあるにもかかわらず、整然としている。その空間には、埃など存在しないかのように全く持って整然としているのだ。
敷地内に入るだけで、「しん」は、やって来る。時間の流れが変わり、胸のなかの瓶に張った水は波紋を鎮める。「無の境地」とまではいかないが、無心になれる気がしてくる。

無心になるためのコツは、心得ている。目当てを定めておくことだ。
「納豆を混ぜるための器を、ひとつ」
昨年割ってしまった器の後釜を探す気持ちになれず、ずっと在り合わせを使っていたのだが、朝食の納豆率が上がるにつれ、そろそろ、と考えていた。
珈琲用のマグやお湯呑みには、つい目が行ってしまうが、納豆、納豆とゆっくりと店内を歩く。3週し、ふたつの候補が上がった。黒織部と、青が効いているベージュの器だ。黒織部にはとても魅かれたが、長く使うには少し模様が欲しかった。青の器を手にして、もう1周店内を歩いた。
いつしか「しんとした心持ち」を強く求める気持ちは満たされ、『夢宇谷』の瓶のように胸のなかには晴れた青空が映っていた。

入口までの外通路には、たくさんの瓶に水がたっぷりありました。

鬼瓦の周りには小さな鉢植えが。苔玉などもありました。

エントランスから見える、外廊下の風景。木漏れ陽が綺麗。

外廊下を抜けて、ようやく入口に近づきました。

1階のアートコーナー。素敵な屏風がたくさんあったけど、手が出ない。

1階はひんやりした涼しい雰囲気ですが、2階には陽がさしています。

帰りに外廊下から見下ろした、エントランスの風景です。
写真では伝わらない店の広さ。器、雑貨の豊富さ。ぜひ足を運んでください。

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内面から美しくなる?

上の娘が「健康」にハマっている。
彼女が「健康」にハマるのは初めてのことではなく、昔の日記にも「娘が毎日オニオンスライスを食べたがる」「夕飯は豆腐にしたいと言い張る」「お肌にいいクッキーを検索し焼く」などと数えたらきりがない。
それが、ハマり始めたら一直線だ。睡眠をきちんと取り、キウイとヨーグルトを毎朝食べ、家でヨガを始めた。と、ここまではいい。
豆乳を買って来た。ここら辺で「おっ、来た来た」と観察する。
近所の農家さんにいただいた南瓜を四苦八苦して切り、南瓜豆乳冷製スープを作る。なかなか美味しい。

次は、図書館で『美人のレシピ』なる本を借りてきた。玄米ご飯を炊いていいかと、わたしに聞く。「おっ、来た来た来た」
「いきなり女子力、アップじゃん」と、からかうわたし。
娘は自ら、自分はオヤジ女子だと公言している。
「そういうことじゃなくて、内面から美しくなりたいの!」と、娘。
「内面ねぇ」内面というのは、身体のなかのことではないんじゃないかとの疑問を口に出さず、観察を続ける。
レシピ本にあった「キノコのスープパスタ」にも挑戦。なかなか続いている。

果たして10日ほど経ち、洗面所で遭遇した際、彼女は嬉しそうに言った。
「肌が、綺麗になった気がする」
「そ、そうだね」ほんとかいなと思いつつも、わたし。

いつまで続くのやらと観察しつつ、考える。バイトから夕方5時半に帰ってきて「お腹空いた―!」という彼女は、もともと健康そのものだ。
そろそろ誘ってみようかな。「焼き肉、食べに行かない?」

エリンギ、シメジ、玉葱、にんにく、生姜、梅干しが入っています。
隠し味はオリーブオイルかな。(ラーメンどんぶりに入れるかな、普通)

季節ごとの「美人の作り方」というページがありました。
秋は乾燥の季節。肺に疲れが出やすいとか。(秋の長雨ともいうけど)
「肺=悲しみの臓器」肺と悲しみの感情は、深くかかわっていて、
疲れてため息ばかりついくのも、肺が弱っているせいかも、と。
歌ったり笑ったり、深呼吸したりして、疲れをとるのがおススメだそうです。

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泣くことも笑うこともしっかりと受け止めて

雨の日曜日、同じく北杜市は高根町の蕎麦屋『森ぴか』にランチに行った。
安曇野に蕎麦でも食べ行きがてらドライブでもしようかと、夫とふたり話していたのだが、雨も降っているしと寝坊した上、だらだらと過ごしてしまった。
しばらく改装中だったため、なんとなく足が遠のいていた『森ぴか』だが、蕎麦の美味さとおばちゃんの威勢の良さは相変わらずで、雑然とした店内の雰囲気も、かなり広くなったにもかかわらず不思議なことに変わらない。
二人掛けの席に着くと、さっそくおばちゃんが声をかけてくれた。
「広いテーブル使いなよ。気にしなくていいから」
ふたりで、贅沢にも6人掛けのテーブルに座らせてもらった。

隣のテーブルには、若い夫婦と赤ちゃん、おじいちゃんおばあちゃんの5人。
「赤ちゃんがぐずって、お母さんはちょっと大変そう」
そう思った途端、おばちゃんが赤ちゃんに声をかけた。
「いい声出すねぇ! ほんとにいい声だ」
若い夫婦が礼を言い、その両親も笑顔になり、代わる代わる赤ちゃんをあやしている。おばちゃんも天ぷらを揚げながら、厨房の中から「いい声だねぇ。いい子だよ」と、本当に感心したという声で繰り返している。

3人の子ども達が幼かった頃、落ち着いて外食などできなかったことを思い出した。うるさくして迷惑をかけているんじゃないかと気をもみ、なかなか楽しめずにもいた。
『森ぴか』でも、わたしも夫も、たぶん他の客も、うるさいなどとは思ってはいなかったと思うが、親は気になるのだろうなとも考えていた。
だがそれは、おばちゃんの一言で逆転した。
赤ちゃんの声は決してうるさいものではなく「いい声」なのだ。

そしてどのテーブルにも蕎麦が揃った頃、赤ちゃんが楽しそうに笑い出した。
「よく笑える子は、頭がいいんだよ。動物は、笑ってるのかどうかよくわからないでしょう? 声を出して笑うのは人間だけなんだよ」
泣くことも笑うことも、あるいはすべてのことをしっかり受け止める大切さを、蕎麦一杯で、おばちゃんに教えてもらった。

天麩羅は紫蘇やつるむらさきの他、ズッキーニや大根もありました。

厨房に飾ってある大皿。天麩羅を揚げる音が、よく聞こえました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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