はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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世界ビール紀行

夫が5日間のベトナム出張から帰ってきた。
「お土産」と手渡してくれたのは、これからの季節にぴったりの薄手のショールだ。娘達の分と3枚ある中で、わたしは一番明るいオレンジ色を選んだ。アジアの布が好きなわたしは、さっそく巻いてみる。嬉しい。

そして、翌日ゆっくりと写真を見せてもらった。パソコンでスライドショーで見られるので、気軽だし便利。お世話になった方や、向こうにたまたま来ていた知り合いと会ったこと、数々の出会いなど、写真で顔や料理や街の様子などを見ながらだと聞いていても倍楽しい。
「ビールはね、サイゴンビールと333(バーバーバー)を飲んだよ」
聞くまでもなく、夫は報告してくれた。
「美味しかった?」「美味かったよ。ベトナムでは氷を入れて出すのが通常らしいんだけど、水が合わないかもしれないからって、氷抜きで頼んでくれた」
ビールひとつにも、ベトナムを案内してもらった方の気遣いを感じたそうだ。
「いいなー。飲みたいなぁ」羨ましがるわたし。
「今度一緒に行こうね」と、夫。

ネットで検索すると、ベトナムの代表的なビールは6種類。
夫が飲んだのは、彼が行ったホーチミンのビール。首都ハノイのハノイビールや、中部フェやダナンのビールもある。うーん、美味しそう。
写真で見た、いく種類ものフォーにも魅かれたし、ビール飲みに行くか。ベトナム。家族や友人の「世界ビール紀行」を聞く度に、思うわたしなのだ。

ショールは中央が紫色だというところにも魅かれました。
地図マニアの夫は、自分用の地図も忘れていませんでした。
グリーンのチューブはハンドクリーム。何とも言えない異国の香り。
「上の娘にあげる?」と、夫。「あげない」と、わたし。

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記憶改ざんの不思議

記憶というのは不思議なものだ。
幼い頃の記憶が、確かに覚えているものなのか、写真を見たり親兄弟の話を聞いたりして作られた記憶なのか、わからないということは、誰にでもあることだと思う。それはしかし、大人になってもあることなのだろうか。
オーストラリアから娘が帰ってきて、ようやく家族4人が揃いすき焼きをした。すき焼きの時まず話題に上がるのは、前回いつすき焼きをしたかということである。
「イザベルが帰る時に、すき焼きしたよね」と、上の娘。
昨年2月に2週間ステイして行ったパリジェンヌ、イザベル。
「うん。それからしたっけ?」と、わたし。
「した気がする」と、末娘。「したね」と、夫。
しかし、誰もそれがいつなのか、誰を招いてすき焼きをしたのかなど、思い出せぬままだった。
「ん?」と、夫が疑問の声を上げた。
「お母さん、イザベルとのすき焼き、いなかったよね?」
「おー、確かにいなかった」
そうなのだ。わたしはその夜、骨折手術で入院していて、イザベルすき焼きさよならパーティに参加できなかったのだ。折しもわたしの誕生日の夜だった。
しかし1年が過ぎ、わたしの記憶は改ざんされていた。去年の誕生日、イザベルとの別れを惜しんですき焼きをしたシーンが、ありありと思いだせる。あとからいろいろ聞き、イザベルはこう言ったとか、こういう表情をしたとか、そのすべてがわたしの記憶となったのだ。事実だけが本当じゃなくてもいいんじゃないか。イザベルとのすき焼きの記憶はわたしに問いかける。笑顔のイザベルの記憶と共に。

神戸出身の夫が味付けするすき焼きは、割りしたは使いません。
肉をじゅうっと焼き、砂糖や醤油を回しかけます。
ダイナミックさが命のすき焼き。焼きって言うくらいだから焼かなくちゃね。

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新芽の柔らかさに春を味わう

新芽は柔らかい。庭のイタリアンパセリやアップルミント、山椒の葉先を千切って料理に使うと、売っている物などとは違い、柔らかさと癖のなさに驚く。
そんな春の楽しみはまだ遠いが、家の中で育てた豆苗の新芽に、春を感じた。

豆苗は、えんどう豆の若菜だそうだ。最近スーパーでよく見かけるとは思っていたが、じつは食べたことがなかった。しかし夫から意外な情報を得た。我が町、明野町が、豆苗の生産日本一だというのだ。
「朝のニュースで見て、びっくりしたよ。明野で作ってるなんて。中華料理屋ではよく食べるんだ、豆苗のにんにく炒め」
さっそくふたり、町内の野菜直販所に行ってみたが、豆苗はなかった。流通経路が別の場所にあるのだろう。町内産の野菜だって、町内で買えないことも多いのだ。夫がテレビで見たという、いく枚もの太陽光パネルを乗せた豆苗工場は、直販所の通りから見えるところにあるというのに。残念ながら、スーパーにも明野産のものはなく、同じ山梨だが甲府の豆苗を買って帰った。
「簡単で美味しいね、にんにく炒め」と、わたし。
「ビタミン・ミネラル豊富なんだって」と、夫。
「水栽培でもう一回食べられるって、袋にかいてある」「やってみようか」
それから2週間。水だけ切らさぬようにし、陽のあたる居間にただ置いておいた。本当ならもう少し育ってから、今一度にんにく炒めにしてもよかったのだが、変なところでせっかちなわたしは、新芽を味噌汁に入れた。そのせっかちが功を奏し、新芽の柔らかさに春を味わうことができた。買ってくるだけでは味わえない新芽の味噌汁。その味噌汁食べたさに豆苗のにんにく炒めを作り、ふたたび水栽培をしようかと、春を味わいつつ本気で考えた。
2月18日
2月26日
3月4日
油揚げと豆苗のみのシンプルな味噌汁にしました。

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刺し身の盛り付けに思う

久しぶりに、夫と日本酒を飲みに行った。
と言っても、わたしはビール党なので生ビールに、彼の飲む日本酒をひと口ふた口分けてもらう程度だ。日本酒の種類も豊富な新宿のその店は、魚が美味いからと夫が予約してくれた。カウンター席だったが、ちっとも狭苦しくなく落ち着いていて、スローペースで出してくれる料理に舌鼓を打ち、のんびりと飲み、しゃべった。
魚は本当に美味かった。そしてまた、下ろしたわさびが山盛りにのっているのも嬉しかった。外食すると自分で作るのとは違い、いつも発見がある。料理法や味だけではなく、皿の大きさや色、盛り付けの配置や量。料理を出すタイミングなど、ひとつひとつに驚きがあったりする。
黒い四角い皿にゆったりと盛られたカンパチと赤貝、そして外を向けて置かれた山型のわさび。その一品だけとっても、気持ちが解放されていくのがわかった。本当にのんびりとした気分で酒が飲めた。
料理は、気遣いひとつで変わっていく。わかっているつもりだったが、忘れていた。忘れていたことを気持ちよく思い出し、スズの酒燗器でゆっくりつけた熱燗をさらに美味しく飲んだ。

手前の一品は、クリームチーズに鰹の酒盗をのせたもの。絶品でした。
「これ、家でも作れそうだね」と夫。「美味しい酒盗があればね」とわたし。

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ハングリーロードムービー

「ここにする?」「いや、もうちょっと先まで行ってみよう」
何度こんな会話を繰り返したことか。
川崎にいた頃は、母に娘をみてもらって、週一くらいで夫と車で会社に出勤した。その帰り道のいつもの会話だ。遅くまで仕事をし、帰りに何か食べようと車に乗る。しかし、なかなか思うような店に辿り着けない。車だし、ゆったり酒を飲もうという訳でもなく、ただ普通の食事がしたかっただけだ。
「ラーメンは昨日食べたからなぁ」「トンカツは重い」
など選り好みする。その間にも窓の外の景色は、後ろへ後ろへと、秒より素早いスピードで去って行く。時間と共に2度と戻らぬものとなる。
「ファミレスは、勘弁だな」「この店、如何にもまずそう」
など、性懲りもなく選り好みする。そのうちに、ふたりとも口数が少なくなる。空腹が頂点に近づいていく。
「ハマったな」と、夫。「いつものパターンだ」と、わたし。
そして、走り出した時には絶対に入らなかったような店で、伸びたラーメンなどをすすり、ふたりさらに無言になるのだ。

山梨に越してきてからも、このパターンに陥ることが、ままある。先週も美味しいと聞いた店にナビに誘導してもらって行ったが、タッチの差でランチタイムは終わっていた。そして、学習せずにハングリーロードを選り好みしつつ飛ばし、結局スーパーで夕飯の買い物と一緒に稲荷寿司を買い、ふたりぼそぼそと口数も少なく車で食べた。
しかし今週のわたし達は、一味違った。甲府に所用で出かけ、用事が済むともう3時。夫は頭の中を素早く検索し「来来亭(らいらいてい)に行こう」と、力強く言った。一番近くて美味いラーメン屋だ。
「おー、営業中!」「やった! ランチタイムなし」
ラーメン屋に、ランチタイムは在ってはいけないと思う。個人的意見として。
わたし達のハングリーロードムービーも、そろそろクライマックスなのかな?いやいや。まだまだ2度3度、どんでん返しがありそうだ。

来来亭のラーメンは、麺の硬さ、醤油の濃さ、背脂抜き・多め、唐辛子抜き、
葱抜き・多め、チャーシュー脂身・赤身など、細かく指定できます。
「あー、あー、あー、葱トッピングしようかな?」迷う優柔不断なわたし。
「葱多めにしただろ!」夫に一喝され思い留まりましたが、充分多めでした。

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ミート・ミート・ミートソース

料理を始めたばかり頃は、やたら手作りにこだわっていた。
基本に忠実に野菜の下ごしらえをしたり、時間をかけて煮込んだり。手間と時間をかけることと、心を込めて料理することを取り違えていた節がある。
料理に対する憧れもあった。モンゴメリの『赤毛のアン』を繰り返し読んだ高校の頃、マリラやアンのように、電子レンジもクック・ドゥもない場所で作る、大鍋で何時間も煮込んだシチューや、薪をくべるオーブンで焼いたパイなどに憧れていたのだ。
だからミートソースを作るんなら、自分の手で1から作りたい、生のトマトの皮をむくところからと試行錯誤を重ねた。しかし、今のようにネットでレシピが氾濫している訳もなく、試行錯誤の甲斐なく上手くいった試しがなかった。

今では、心は込めても、手間と時間は惜しみたい主婦である。
ミートソースにはカットトマトの缶を使う。玉ねぎのみじん切りも粗めに刻む。炒めるのもサッと。サボっている訳ではない。玉ねぎの食感が残っている方が美味しいからだ。そのうえ覚えやすいよう、すべてを1にした。トマト缶1缶、合挽き肉1パック、にんにく1かけら、玉葱1個、塩小さじ1、コンソメ、オリーブオイル、ケチャップ、すべて1。ほぼ煮込まないから、玉葱を刻むところから30分とかからずできる。それでも家族には、うちのミートソースは美味しいと評判だ。合挽き1パックというところが何とも曖昧で、わたしらしいレシピでもあり、合わせてそれも楽しんでいる。肉率が高いと娘が、
「今日のはミート・ミート・ミートソースだね」と嬉しそうに言ったりする。
1から作ることはあきらめたが、すべてを1にした。これは、あきらめの悪さの現れだろうか。しかし経験値を積んだ今なら、フレッシュトマトのミートソース、美味しく作れるかも。やってみようかな。

ディナーには、前菜の後に、赤ワインと。

残ったものは瓶入りのパスタソースと混ぜて、ランチに登場。
オーストラリアのイタリアンレストランで働いていた娘は、
毎日賄いがパスタとリゾットだったと言い、ひとりうどんを茹でていました。

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ピンクに染まった紫大根と赤紫のマフラー

いただいた紫大根で甘酢漬けを作った。
美味しい。さっぱりしていて後を引く美味さだ。ネット検索したレシピは、大根を切って調味料共に密封袋に入れて揉み1日置くだけ。簡単で美味しく、何よりピンク色に染まった大根が綺麗だ。
「これ、大根の色だけなの?」夫が驚いていた。
紫キャベツ、紫玉葱などは、時々料理の色付けに楽しんで使うが、こんな風に鮮やかなピンクに染まるのは紫大根ならでは。見とれる。目で見て楽しむ料理そのものだ。箸も進む。皮を刻んで入れた柚子も効いている。

しかし、これがスーパーで袋入りで売っていたら思うだろう。着色料が入っているのだろうと。蜜柑をオレンジ色のネットに入れて売るように、売る方も美味しく見せる工夫をする。買う方も買う方で、疑う。偽物の色に騙されているんじゃないかと。残念ながらそれが当たり前の世の中だ。消費者は自分の目でしっかりと見極めなければならない。
人の目は不思議だ。光の加減や、体調や、気持ちのあり方で、たぶん見え方も変わってくる。何年か前に夫にプレゼントしたマフラーは、売り場では綺麗な紫のラインが入ったように見えた。その年の流行りが紫で、紫がポイントのマフラーをプレゼントしたかったのだ。
しかし、夫は手に取って言った。「エンジだ」
家に帰って見てみたら、確かにポイントのラインはエンジだった。
だがわたしは、頑固にも言い張った。「紫だ」と。
「紫だよね?」と、娘に同意を求めると、彼女は、夫とわたしの顔を見比べ、笑って言った。「赤紫だね」エンジでも紫でもなく、赤紫だ。
オーストラリアを出て、今フィリピンを1週間楽しんでいる上の娘である。エンジと紫の合い間を笑ってくぐり抜け、彼女は楽しい1年間を過ごしたのであろうと、紫大根の酢漬けを味わいつつ考えた。もうすぐに、そう、2日もすれば彼女は帰ってくる。

これは、ピンクか、紫か?

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鶏の照り焼きの思い出

鶏の照り焼きと言えば、新板橋のイトーヨーカドーだ。
小学生の頃「家族でお買い物」と言うと徒歩5分の商店街や、最寄駅、常盤台の東急ストアではなく、駅ひとつ隣、新板橋のヨーカドーだった。日用雑貨、普段着の洋服や文房具、本、家電などを、父の車で買いに出かけた。その買い物帰りに必ず立ち寄ったのが、肉屋で作って店頭販売していた鶏の照り焼きコーナーだった。当時のわたしには、それはそこでしか手に入らない特別なものだった。ヨーカドー= 照り焼きと、浮き浮きしたのを覚えている。

だから高校の頃、土井勝の料理本に出会い、自分で鶏の照り焼きを作った時の驚きは大きかった。まさか自分で、まさかフライパンで作れるものだなんて、想像だにしなかったのだ。
「人生って、驚きに満ちているんだ」
小さな小さなことだけれど、わたしにとっては衝撃ともいえる大きな出来事だった。しかし、我が子ども達はデリカコーナーで思っているかもしれない。
「へぇ、照り焼きって売ってるんだ」と。
それほどに鶏の照り焼きは高頻度で食卓に登場してきたのだ。

関係ないけれど、この家に引っ越して来た時にもずいぶんと驚いた。出来たと聞いていたはずの家の玄関にドアが付いてなかったのだ。しばらくはトタンを張ってもらい、窓から出入りした。やはり思った。
「人生って驚きに満ち満ちているんだ」4月に越してきて完成は7月だった。
しかし子ども達はいつか自分の家を建て、引っ越しの日に思うかもしれない。
「へぇ、もうドア付いてるんだ」と。

いつもはキャベツの千切りを添えますが、なかったのでトマトとルッコラに。
菜の花のお浸しは、これから美味しい季節ですね。

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ピンクペッパーのつぶやき

「ピンクペッパー」という名を持ってはいるが、じつは胡椒ではない。
胡椒の味を期待したそのスパイスには、全く辛みはなかった。料理の邪魔をしない柔らかな苦みを持ち、ピンクというには赤に近く、パッと目を引く鮮やかさで料理を彩ってくれる。
カルパッチョの飾りに使いたいと思い、ネットで購入した。
胡椒はつる性植物「こしょう」の実で、ピンクペッパーは「こしょうぼく」という木に生るそうだ。違う植物であるのに、木の名にまで「こしょう」と名付けられている。
それもこれも、胡椒の粒と同じ大きさの食用の実が生るというだけで。
ピンクペッパーに文句はないのだろうか。自分は胡椒じゃないと言い張ってみたりしたいんじゃないだろうか。誰かに似ているねと言われることも、その名で呼ばれることも、あまり嬉しいことじゃないと思うんだけどな。たとえそれが、大好きな美人女優だったりしても。(言われもしないけれど)

ピンクペッパーは、帆立とピンクグレープフルーツのカルパッチョの上で、「見て見て。あたし、胡椒なんかよりずっと綺麗でしょう?」と笑っているようにも見えた。そういえばグレープフルーツも、葡萄のような房で実をつけるからと名付けられた果実だ。彼らは一つの皿の中で出会い、意気投合していたかもしれない。

「ピンク」と「ペッパー」をシャッフルして、
ピンクレディーの『ペッパー警部』などと、変換しちゃうのはわたしだけ?

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夫が打った蕎麦

夫は、気が向くと蕎麦を打つ。
何処にも出かけずに、のんびり過ごした3連休のなか日。
「昼は、蕎麦にしようか」と言い、用意を始めた。
「いいね。葱もわさびもあるよ」わたしも、浮き浮きと返す。
ステンレスの直径40cmのボールに入れた蕎麦粉に、慎重に水を入れつつこねていく。蕎麦粉は、秋に収穫したという新蕎麦をネットで買ったものだ。米松(べいまつ)の丸太を半分に切って合わせた6人掛けの大きなテーブルに板を敷き、こねた蕎麦を伸ばす。こういう時、大きなテーブルはいい。蕎麦も、のびのびと何処までも平らに伸びていく。
「そろそろ、準備して」
夫から声がかかるのは、伸ばした蕎麦を切り始める頃だ。大鍋に湯を沸かし、葱を切り、麺つゆを作り、こまごまとしたものをテーブルに用意する。
1時間と待たずに、蕎麦は出来上がった。
「つやつやだね!」と、わたし。「今日のは美味いよ」と、夫。
「美味しい!」「茹で加減もばっちりだ」「最高の出来じゃん?」
夫が言うに、最近、湯の中で踊る蕎麦の表情が見えてきたらしい。手打ちの蕎麦は、切り方によってまたは伸ばした厚さによって、太さがまちまちになる。茹で時間も太さによって変えなくてはならない。1分か。1分10秒か。それだけで味も、歯ごたえも変わってくる。それを目で見て、今だという蕎麦の表情が見えてきたというのだ。確かに茹で加減にバラつきはなく、8回ほど茹でたどの蕎麦も美味かった。
繰り返しは感覚を育てる。50歳を過ぎたわたし達だが、その感覚はまだ育っているのだ。何故か、中学時代にテニス部で苦手なサーブ練習を繰り返したことを思い出した。あの頃は、下手くそでも練習だけは人一倍する子どもだったなぁと、振り返った。
夫が打ったつやつやの蕎麦を食べ、今の自分を少し反省した。

包丁は重い方がよく、ストンストンと重力で切っていくのがコツだとか。

このつやつや感は、打ち立てならではのものです。

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おしゃべりが過ぎそうな時に

「お母さんは、口が軽い」と娘に言われる。
自分では、口は堅い方だと思っているのだが、
「まあこのくらいは、しゃべってもいいだろう」の「このくらい」に温度差があるようだ。気を付けてはいるが、特に酒が入るとしゃべりすぎる傾向にある。「まあこのくらいは、ご愛嬌さ」と、わたしは思っているのだが。

さて、口が堅い植物と言えば?  正解は、クチナシ。
クチナシは、果実が熟しても割れない。なので口を割らない「口無し」と名付けられたという説がある。そのクチナシの実を友人にもらい、きんとんを作る時に楽しんで使っている。薩摩芋が、綺麗な黄色に染まる。それが不思議で楽しい。花は純白なのに、実は様々なものを染めるのに使われているというのも面白い。パエリアにサフランの代わりに使っても良しという記述を見つけたので、今度挑戦してみよう。

クチナシの実は、半分に切って使っているが、無理やり割ってもやはり無言である。黄色く染まった薩摩芋に、何かメッセージが隠されているのだろうか。
おしゃべりが過ぎそうな時には、クチナシの実をそっとポケットに忍ばせて出かけようか。効果のほどは如何に。

お正月に食べたきんとんが忘れられないと、娘が言うので作りました。
裏漉しはサボりました。それでも、じゅうぶん美味しく食べられます。

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食の記憶の不思議

「夕飯リクエストある?」休日は、よく夫に聞く。
これが食べたいと言ってもらった方が、作り甲斐もあるし外れも少ない。しかし食べる段になって「あ、これ昨日食べたんだった」と、夫が言うこともよくある。食の記憶というのだろうか。最近食べたものが頭の片隅にあり、それを食べたいと思ってしまうのだが、食べる段になって我に返る。昨日食べたじゃないかと。
このあいだ、山盛りのコールスローサラダを作った。キャベツは半分使った。それをふたりして食べきってしまった。なのに、翌日夫に聞くと、キャベツのサラダが食べたいと言う。
「夕べ食べたでしょ?」と言っても「キャベツが食べたい」と言うばかり。
何度か繰り返し説得する。そして彼は、ようやく山ほどのキャベツを食べたことを思い出した。そして夕飯のカレーに添えられたサラダは、レタス。シーザーサラダを平和に美味しく食べたのだった。

で、わたしの記憶には、色濃くトマトラーメンがあった。誕生日にひとり食べたトマトラーメン。
娘の私立受験の前日は、コンビニ夕飯のホテル泊まりだった。そこでわたしが買って来たのは、はるさめパスタ・トマトクリーム味。
「あれ? 何処かで食べた味?」「トマトラーメンだよ!」
娘とは別部屋で、シングル。ボケもツッコミも、ひとり演じる他なかった。
食の記憶の不思議。しかしインスタントのはるさめパスタは、想像を遥かに超える美味さだった。

ひとりなので、聞いてくれる相手もなく、静かに意味もなく歌いました。
「春雨さんから、お手紙着いた。春雨さんたら、読まずに食べた。
しーかたがないのでお手紙かーいた。さっきのトマトのご用事なあに?」

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ふふふ、ふきのとう

庭のふきのとうが、顔を出した。
まだ2月初め。早いかなと思いつつ、落ち葉を除けて土を浅く探ってみた。すぐに十ほどの小さいやつを見つけた。
「あった!」「わっ、こっちにも」
見つけると、胸の中に花が咲いたように嬉しくなる。ふふふ、ふきのとう。
「まだ、小さいね」と、夫。「来週が食べごろかな」と、わたし。
「でも、これ美味しそう。少しだけ天麩羅する?」
「散歩のついでに、堰沿いに行こうか」
ふきのとうスポットがあるのだ。びっきーを連れて熊手を持ち、ふたり繰り出した。スポットを2、3当たってみる。ふきのとうは、探し始めると止められない。不思議な魔力に取りつかれたように探し続けてしまう。楽しい。楽しくて止められない。まるで宝探しをする子どもそのものだ。しかし、うちの庭以外の何処にも、ふきのとうは顔を出していなかった。
「やっぱり来週だね」

そして、庭の大きめのものを4つだけ採って天麩羅にした。
「美味しい!」と、わたし。「にがっ!」と、夫。
確かに苦かった。しかし、美味かった。だがものすごく苦みが強い。
「まだ早いってことじゃないの?」と、夫。
そうかなぁと思いつつ、お初のふきのとうをじっくり味わった。節分、立春と暦はめくられ、これから、あちこちでふきのとうが顔を出す。楽しみだ。

左右に顔を出す、ふきのとう。
植物が芽を出す姿って素敵。命の息吹き、感じます。

天麩羅にすると緑濃く食欲がそそられます。ふきのとうには塩ですね。

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笑う門には

節分の3日。娘のリクエストを受け、恵方巻きを作った。
お弁当に持って行きたいと言うので、前日、椎茸を煮て、朝5時から出汁巻き卵を焼いた。日曜も学校へ行く彼女へのエールのつもりで海苔巻を巻く。
しかし海苔巻作りはほとんどしたことがないので、巻きすで巻く手つきも危うい。なんとか1本目が完成かと思ったが、思わぬアクシデント。
「できた。あれ? わー、海苔が2枚だったよー」と、わたし。
「まったくお母さんって、オチを付けなきゃ気が済まないの?」
娘が横で、朝食を食べながら笑っている。
「海苔のバカ」「海苔さんのせいではありません」
などと娘と笑いつつ、1枚はがし巻き直す。2本目、3本目も、きつく巻いたつもりでも端がゆるくなっていたり、会心の作はできなかった。
「端、切れば?」と、娘。「切ってもご利益あるの?」と、わたし。
「だって1本食べられないもん。南南東向いて黙って食べればだいじょうぶだよ。友達に邪魔されそうだけどねー」「黙って食べるんだ?」
「福が逃げないようにね」「淋しいね、それ」「絶対、邪魔されるよ」
早朝からにぎやかしくしゃべりつつ、小食の娘用特製ご飯少な目中太巻きの恵方巻きが完成した。
朝からふたりよく笑った。これだけ笑えば、福も来るというものだろう。
そして、娘が出かけてから気がついた。「あーっ! デンブ、入れ忘れた!」

出汁巻き卵は、友人のお母様に教わった特製。
帆立缶を入れるのが美味しさの秘けつです。
出汁巻きのまま食べる時には、中は半熟。お弁当用には中まで火を通します。

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ぴーすけの受難

ぴーすけは、調子が悪いんだと思い込んでいた。これまでクリアな高音を発していたのに、か細い声でまるで助けを求めているかのように鳴く。ぴーすけとは、沸騰すると音を鳴らすぴーぴーヤカンのことだ。
前任者が水漏れを起こし、買い換えたのは去年の春。壊れるには早いんじゃないかとは思ったが、何か詰まっているのか思いつつも、そのまま使っていた。形あるものは壊れる。頭にはその言葉が浮かび、早かれ遅かれ壊れるものを使っているんだなぁと儚い思いに浸っていたのだ。しかし何のことはない。蓋がきちんと閉まっていなかっただけだった。
「ぴーすけ、ごめん」
彼は出ない音を鳴らし、必死に訴えていたのだ。
「蓋を閉めてよー。もう沸騰してるったら!」と。
横着なわたしは、毎日洗うこともせず、更には蓋を開ける手間を惜しみ、注ぎ口から水を入れている。その上ぴーすけの悲痛な訴えにも耳を貸さず、形あるものは壊れるものよと感傷に浸っていた。ぴーすけ受難の1週間だった。
「あるがまま」を受け入れるこの性格は、いい時もあるが悪い時もある。こういったことも何度も経験済み。自分のことながら呆れ、呆れつつもまた忘れる。困ったものだ。

ヤカンにまつわる思い出に、ひとり暮らしを始めた時のことがある。友人が引っ越しの手伝いに花束持参で駆けつけてくれた。
「ありがとう」と、わたし。「花瓶ある?」と、彼女。
「残念ながらないけど、これでいいや」わたしはヤカンに花を活けた。
4つ年下の女の子だったが(その頃は。いや、今でも4つ年下なのは変わらないのだが……)その頃とても親しくしていて、ふたり無言で六畳一間のアパートを掃除していても息も詰まらず、小さな荷物はすぐに部屋に収まった。
「ありがとう。お茶でも飲もうか」
しかし、わたしの言葉に無言で答えたのは、テーブルの上の花を活けたヤカンだった。堂々としていて、いかにも花瓶らしく振舞っている。
「お湯は鍋で沸かすか」と、わたし。「そうだね」と、彼女。
わたし達は、掃除したばかりの新しい部屋で笑い、初めてのお茶を鍋で沸かし、ゆっくりと飲んだのだった。「あるがまま」を受け入れるわたしの性格は、若い頃とさして変わってはいないようだ。

22歳のわたしが使っていたヤカンも、白いヤカンでした。
でもあの頃は、ぴーぴーヤカンに何故か嫌悪感を持っていました。
家庭的過ぎる物に対する嫌悪だったのかも。
若さとは、いろいろな物を嫌悪することなのかもしれません。

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蕾、秘めたるパワー

最近、料理にケッパーを使うことを覚えた。
瓶詰になった酢漬けで、いつも行くスーパーでも手に入る。塩漬けも扱っている所では売っているみたいだが、まだ見たことはない。しかしその酢漬けの酸味と柔らかさが気に入っているので、困ってはいない。
この柔らかさは、木の実じゃないなとは思っていたが、やはり蕾だった。花が咲く前の蕾特有の歯触りが、ふきのとうと少し似ている。
花が咲く前に摘み取って、小さな蕾のうちに料理されちゃうのは、ちょっと可哀想な気もするが、蕾だからこそ、凝縮された旨味が秘められているのかもしれない。草冠に雷(かみなり)とかく蕾(つぼみ)という漢字にも、蕾が秘めるパワーが表わされている。漢字の由来は「ライ」という音から来ているみたいだが、ふきのとうに舌がしびれる感覚とか、かみなりと通づるものを感じる。ケッパーはふきのとうほど大きくないし、苦みも強くないが、蕾、秘めたるパワーは充分感じさせてくれる。

そのケッパーの酸味と合わせ、ワインビネガー、塩、オリーブオイルで味つけし、玉葱のみじん切りを混ぜたポテトサラダにハマっている。たくさん作って、朝な夕なに食卓に出し、たくさん食べている。夫の評判も上々だ。
パスタやマリネにも使えるし、ネットを検索したら、混ぜご飯に入れても美味しい、なんてレシピも見つかった。酸っぱいもの好きなわたしには、もう、なくてはならない食材だ。

混ぜご飯に挑戦もしてみますが、ケッパーはやっぱりワインに合いますね。
カルパッチョソースも研究中。

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発見する人と実験する人と美味しく食べる人

ハーブティーは『カルディ』に買いに行く。
様々な国から輸入した食材を置いているチェーン店だ。目当てはレモンジンジャーティーだけでも、いつも店内をゆっくり歩く。韓国海苔、サルサ、アボカドチップ、野菜スティックピクルスの瓶詰、甘そうなビスケットも種類豊富。袋や箱の絵柄も外国風でカラフル。それが楽しい。もともとは珈琲屋で、ここの珈琲が好きだと言う人もいる。店頭ではいつもオススメ珈琲を紙コップで無料配布していて、行列ができることもある。
「ランチの後は、ちょっと節約してカルディの珈琲、飲もうか」
なんて言いつつ、カルディに向かう人もいる。
『カルディ』その名の由来は、珈琲のいくつかの起源説のうちの一つ、「エチオピアのヤギ飼い少年カルディくんが、山で赤い実を食べたヤギが興奮することに気づいたことから発見」に基づくものだと言う。なので絵本に出てくるようなヤギの絵が、店にも紙袋にも描かれている。
カルディくんが珈琲を見つけてから(本当に見つけたのなら)、今のように珈琲を美味しく飲めるようになるまで、様々なドラマがあったことだろう。

映画『かもめ食堂』では、フィンランドで食堂を営む女店主が「コピ・ルアック」と唱えつつ珈琲を淹れるシーンがある。コピ・ルアックはインドネシア語。コピは珈琲、ルアックはジャコウネコ。アラミド珈琲の名で知られるジャコウネコの糞から取り出した珈琲豆のことだ。糞からわざわざ拾い集め洗浄焙煎した豆は、ジャコウネコの体内で消化されるまでに他の果実と混じりあい栄養などを吸収していて、何ともジューシーな珈琲になるらしい。
「人間って……」ここは呆れ返ってもいいところでしょう。
動物の糞から取り出した珈琲豆をわざわざ珈琲にして飲む。すごいなぁと思う。それが美味しいらしく希少価値があり、値段も高いとは。カルディくんが今の世にいたら、さぞやびっくりすることだろう。でもそういう思いもよらないようなことを試してみる人がいて、美味しく食べられるようになったものって、他にもけっこうあるのかもね。発見する人がいて、実験する人がいて、美味しく食べる人がいる。人間万歳?
お正月に「隣町で、かもめ食堂で有名なアラミド珈琲を飲んできた」と、
珈琲の焙煎もできる多趣味で日本野鳥の会所属のご近所さんから、
情報提供がありました。3000円のところを年始価格で1500円。
行こうかなと思っているうちに……もう、年始価格じゃないよね?


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悲しみを追い出すハーブ

ちょっと風邪っぽいなと思い、ハーブティーを入れた。
以前友人宅で出してもらって、とても美味しく身体が温まり、気持ちもすっとほどけたように感じた、レモンジンジャーティーだ。
ティーバッグでノンカロリーだが、生姜の甘みが檸檬の酸味と溶け合い、甘みの方を強く感じる。そして、ぴりっと生姜の辛さを舌に残すのが何とも言えずすっきりとする。酸味の強いローズヒップティーは常備してあるが、これからのお気に入りに加えられそうだ。
 
ハーブで思い出す物語は、イギリスの作家、アリソン・アトリーのタイムファンタジー『時の旅人』 主人公がタイムスリップした三百年前の農場のお屋敷にあるハーブガーデンが素敵なのだ。
なかでも印象的だったのは、若くして恋に落ち嫁いできた夫人が、他の女性に夢中になってしまった夫を待ち、毎夜ベッドの枕元にレモンバームを散らして眠っていたことだ。このハーブは沈静効果があると言われ、不安を取り除き、気持ちを落ち着かせてくれるらしい。そんな効用からか「悲しみを追い出すハーブ」と呼ばれている。しかし。
「そこまで我慢するなんて、悲し過ぎるよ」
夫人にそう言ってあげたい。でもまあ、言ったところで、
「だって、彼を愛してるんだもの」
と泣かれれば、三百年の時を超えて、恋する気持ちは変わらないのだと思うより他ないんだろうけれど。
 
残念ながら、レモンジンジャーティーには、レモングラス、レモンピールは入っていたがレモンバームの名はなかった。とりあえずは、風邪を追い出そう。

5分から10分、ゆっくり蒸らして、ハーブエキスを濃く出します。
原材料名を見ると、ペパーミント、ブラックペッパーなどもありました。

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チゲ鍋と心のかたち

チゲ鍋を食べつつ、心のかたちを思い浮かべた。
よく行くショッピングモールの中華料理屋で、ひとりランチをした。チゲ鍋が美味しそうだったのだ。
わたしには、チゲ鍋を食べると思い出すエピソードがある。
ある夜、チゲ鍋が原因で夫と喧嘩した。翌日、どうにも腹の虫がおさまらず、わたしは人目をはばからず思いっきり泣ける場所へと直行した。映画館だ。観たのは『おくりびと』いい映画だった。そのうえ、ぽろぽろ涙をこぼし泣いていても見咎める者もなく、泣くために観るには最適の映画だ。
その映画『おくりびと』のなかに、主人公が子ども時代、父親と過ごした時間を思い起こすシーンがある。川原で父に「石文」というものを教わったのだ。石のかたちや手触りが自分の心に近いものを相手にわたし、また相手も心に近いものを手渡してくれる。それで、おたがいの気持ちを理解しようとする。主人公は父親と心のかたちを交換した。そのシーンがとても好きだった。
「わたしの心も、この星の何処かにころがってるんだ」
そう思いながら、また泣いた。思う存分泣いた。そして、すっきりして家に帰った。それ以来、チゲ鍋を食べるたびに思い出す。心のかたちを。石文を。自分の心が今どんなかたちなのかを考え、手触りを考えるのだ。そんな風に食べ物や匂いで、連鎖反応のように何かを思い出すのって、よくあることなんじゃないかな。
 
ところで、いったいチゲ鍋の何処に夫婦喧嘩の種があるのかって? 夫婦喧嘩の種など、何処にだって埋まっているものだ。チゲ鍋にだって、ビーフストロガノフにだって、焼きそばパンにだって。うっかり水を注げば、勢いよく芽を出し大輪の花を咲かせ、大きな火花と共に散るものなのだ。
 
野菜たっぷりで身体じゅう温まりました。
もう一度雪が降ってもがんばれそうです。

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ことっとコーンスープ

最近よく食卓に登場するメニューにコーンスープがある。
缶詰のクリームコーンに同量の牛乳、味付けはバターとコンソメ少々。すべてを鍋に入れ、焦がさないようかき混ぜながら温め、沸騰寸前に火を止めて、出来上がり。簡単5分メニューだ。
「コーンスープって、じっくりことこと煮込みましたってイメージだったんだけど、簡単だよね」と娘。
「確かに自販機のコーンスープとかに、かいてあるね。じっくりことこと。でも美味しけりゃいいじゃん」と、わたし。
「うん。美味しくて簡単な方がいいよね。大学ひとり暮らし生活のために、覚えていかなくちゃ」
「伝授しましょう。ことっとコーンスープ」
実はこのレシピは母秘伝だ。子どもの頃、寒い冬によく作ってもらった。食事は、ただ手をかければ美味しくなるという訳じゃない。熱いものを熱く、冷たいものを冷たく食卓に出したり、新鮮な野菜を新鮮なうちに食べたりすることで、何でもないメニューが飛びきり美味しく感じられたりする。この簡単なコーンスープでさえ、缶詰にはこだわり、コーンの繊維が少なくなめらかなものを選び、これと決めて使っている。美味しく食べる工夫は、簡単料理にだって必要なのだ。
この冬は、流行りのスープ用魔法瓶に入れ、お弁当にも活躍中。缶詰は切らさないよう、たくさん買い置きしてある。

お好みで、胡椒を少々振っても美味しく食べられます。
こつは、焦がさないこと。
とっても焦げやすいので、火にかけたら混ぜ続けています。

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白く凍った冬

凍った畑から、白菜をいただいてきた。
「留守にする間、白菜が無くなったら、畑から持って行って」
年末、近所の農家さんに、嬉しい言葉をいただいていた。
仕事始めの前日、ふたたび生姜鍋で温まろうという話になり、
「白菜泥棒っぽいよね」とか言いながら、夫と畑に入った。
畑には、きちんと同じ間隔を空けて白菜が並んでいた。塔のようだ。冬の小人達が住む白い塔。たぶん、未明に小人達は挨拶を交わす。
「今朝も、気持ちよく凍っていますね」
「空には月も、白く凍って浮かんでますね。いい季節だ」
「いつまでも、この白い季節がつづいてくれるといいのにね」
「全くですね」
 
根に包丁を入れ、取った白菜をむくと、白い美味しそうな部分が顔を出した。むいた外側の葉っぱは畑に置いて行っていいとのことだったので、その場でむいて白菜を2つ袋に入れた。水分をたっぷり含んだ白菜は、外側のしおれた葉でさえ、根に近い部分はシャーベットのように凍っている。
中は凍らないのかと不思議だったが、キッチンで包丁を入れると、頭がちょっと凍っていたくらいでほとんどが無事だった。白菜たっぷりの生姜鍋で足の先まで温まり、小人達に礼を言った。
「ありがとう。凍った冬が鍋に溶け出して、いい味出してたよ」
いただいた白菜に住んでいた小人は、新しい住処を見つけただろうか。

夫の提案で生姜鍋に柚子の皮を刻んで入れてみたら、これがベストマッチ!
鶏がらスープのみの薄味なのでいろいろ試せて、アレンジが効きそうです。


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小さな余計なもの達

余計なものが好きだ。どうしても必要ではないけれど、あると楽しいもの。その一つに箸置きがある。陶器屋や雑貨屋で、いいなと思うと欲しくなり、予算が合えばつい買ってしまう。なので、不必要に増えていく。それを普段から使えばいいのだが、お客様をもてなす時に陽の目を見るくらいで、あとは引き出しの中。ちょっとかわいそうな扱いを受けている。
「今夜は使おうかな」箸置き、いろいろ。並べてみた。
 
ケータイのストラップだってアクセサリーだって、無くたって困りはしないが楽しむために付けている。写真や花を飾ることも、アジアン雑貨を置くことも、どうしても必要ではないけれど、無いと淋しい。そんな淋しがり屋のわたしの周りは、小さな余計なもの達であふれている。

大きめの箸置きは、ちょい取り皿にも活躍するお気に入りです。
シンプルな藍の棒型の箸置きは、家族5人が揃ったら使おうかな。

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今年初めて珈琲

元旦の朝。夫と娘と御節を囲んで新年の挨拶をした後、珈琲を淹れた。
珈琲豆は、浅煎りになるほどミルを回す力がいる。深く焙煎すればそれだけ水分も飛ぶということだろう。中煎りのケニアの豆はそれほどの力は必要なかったが、痛めた右手で回せるだろうかと考えつつも手回しのミルで豆を挽いた。
「あれ? 痛くないや」
拍子抜けするほど順調にガリガリ音を立て、ミルの取っ手は回った。3年前に左手をやはりびっきーに引っ張られて痛めた時には、このミルで豆を挽く作業が辛かったと記憶していたが、今回はそれほど酷くないのかなと思い、いやいやと考え直す。回す右手より、抑える左手の方に力はより必要なのだ。
去年左手の甲を骨折した際に、左手でやっていたことの多さに驚いたが、また違った意味で左手の重要さに気づいた。ミルを回す主役は右手だが、抑えるサポートの左手の方が大変な思いをしていたのだ。
「いつもサポート、ありがとう」
わたしは左手に言った。そして考えた。自分の気づかないところで、わたしはどれだけのサポートを受けているのだろうかと。
 
夫の会社の経理をし、夫をサポートするわたし。受験生の娘の送り迎えをし、娘をサポートするわたし。だがそのわたしは、夫にも娘にも心をしっかりと支えてもらっている。他の家族にも。友人達にも。
両手で熱い珈琲を持ち、右手と左手の不思議と、支え合うということを考えた。考えつつ、ゆっくりと今年初めての珈琲を味わった。

手回しのミルと、マグカップコレクション。右手、奥のものがマイカップ。
取っ手が付いていないので、両手でしっかり持って飲んでいます。
2杯分、たっぷりと入ります。

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煮しめの匂い

年越しはハワイにでも行ってのんびり過ごそうか。
もう10年以上前から持ち上がっている話だが、実現した試しがない。何もかも忘れて南の島でぼんやりする。素敵なプランだ。何も珍しいことではない。そうやって年越しする家族だって今やスタンダードだ。
毎年大晦日、何種類もの煮しめを煮たり、鰤を焼いたり、数の子の薄皮をむいたりと忙しくするわたしを見て、夫も言う。そんなにたいへんなら、御節作りはもう辞めたらと。買ったっていいじゃんと言ってくれる。しかし、大晦日に煮しめの匂いがして初めて年越し気分になる気がしてならない。
「お正月の匂いだね」とか「うん、うちの味だ」とか「今年は人参の味がちょっと濃いかな」とか言いながら煮しめの味見をしたり、鰤を焦がして慌てたり、つまみ食いの牽制をし合ったりしつつ大晦日を過ごす方が落ち着くのだ。
だが簡易化は確実に進んでいる。今年は息子も上の娘も帰ってこないばかりか、下の娘は受験生で2日から学校に行くと言う。5人分の御節を作る季節はもう去ったのだ。年末の大掃除も、結婚して初めて辞めた。手を痛めたわたしに夫が気を使ってくれたのか、ただ疲れただけなのか。それなりの年齢になったということなのかなとも思う。こだわりも少しは残しつつも、自分にできることを無理し過ぎずにやっていくしかないと、知るだけの年齢になったのだ。
でも来年はハワイ、行ってみるのもいいかも。などと性懲りもなく考えつつ、娘とふたり御節をお重に詰めた。
「御節って、幸せな家族の象徴っぽいよね」ぽつりと娘が言った。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
わたしは御節の中でも煮しめの蓮根が大好きです。
夫は「今年は牛蒡が秀逸」とのことでした。
娘は栗きんとんばかりつまみ食いしていました。

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白菜vs白菜

父から白菜の漬物が届いた。毎年年末に山ほど漬けて送ってくれる。妹の所には車で届けたと言っていたし、近所に住む弟には寄ったついでに持たせたりするんだろう。
忘年会続きだった夫は、ちょうど仕事納めで、胃も疲れているらしいから白菜鍋にしようと決めていた。図らずも白菜尽くしとなった。大根もそうだが、軟らかく煮たものと漬物と、まるで違う野菜のように楽しめて面白い。白菜尽くしというより、白菜vs白菜という感じだ。
 
父の漬ける白菜は、にんにくと唐辛子が程よく効いていてジューシーで塩辛くなく、たっぷりと食べられる。一方、韓国風白菜鍋は、ダッチオーブンをうちの倉庫に置いて行った夫の友人秘伝。干し椎茸の出汁と少しの鶏がらスープの素だけの味付けで、豚バラ肉と鶏もも肉をたっぷりと入れ、好みでコチュジャンや七味唐辛子、塩でそれぞれの取り皿で好みの味にする。
結局のところ食べ過ぎた。白菜vs白菜。敗者は夫とわたしかな。

鍋の味付けは、夫はコチュジャン派、わたしは七味唐辛子派。
七味にはこだわりがあり、京都は一休堂の京七味と決めています。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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