はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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過ぎゆく茄子を惜しみつつ

「そろそろ、皮が硬くなってきちゃったんだけど、もらってくれる?」
家庭菜園に精を出すご近所さんから、声がかかった。茄子である。もちろん、喜んでいただいた。茄子なら、いくら食べても飽きない自信がある。

さっそく焼き茄子を、大量に作った。冷蔵庫に入れておけば、毎食楽しめる。一人ランチは、焼き茄子を胡麻油で炒めオイスターソースで味つけした茄子丼。ゴーヤをアクセントに加え、朝の具だくさん味噌汁と合せれば栄養満点。
このオイスターソースの味がまた、美味い。毎食食べたい味ではないが、たまに食べると、美味しくてびっくりする。魔法の調味料だ。過ぎゆく茄子、いや、夏を惜しみつつ、思いっきり食べよう。

ところで、もう何よりも、茄子が好きで好きでたまらない。そんなわたしのような人も多いと思うが、子どもが嫌う野菜の上位にも入っている。
何を隠そう、末娘も茄子が嫌いなひとりである。食は細いが、大抵の野菜は食べるのに、茄子だけはいまだ食べようとしない。もったいない限りだが、茄子を食べない人生を、否定しようとも思わない。彼女も日頃の野菜不足を自分なりに考えてはいて、帰省中、野菜中心の食事に、とても喜んでいた。その娘から、ちょっと許せない話を聞いた。
最近、茄子嫌いの友達と茄子の悪口で盛り上がるのだそうだ。そりゃ、誰かの悪口で盛り上がるより、茄子の悪口の方がいいとは思うけれど、それじゃあ、あまりにも茄子が可哀そうじゃないか。
まあ、大学生が集まって「茄子ってさぁ、食べる意味あんの?」「ないね。全くない」とか真剣に語り合う姿を想像すると、可愛くもあるんだけど。
「もっともっと精進して、アクが強い茄子になってやる」
冷蔵庫のなかから、つぶやく声が聞こえた気がした。

傷はあっても、味はよし。形も大きさもバラバラでしたが、
大きさを揃えて焼くと、当然ですが、火が通る時間も一緒です。

匂いと、この焼き色に、たまらなく食欲をそそられます。

見た目、肉のようにも見えますが、ゴーヤと茄子のみです。

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あっさり塩唐揚げ

久しぶりに、唐揚げを揚げた。
揚げ物自体が久しぶりで、天麩羅鍋に、新しい油を入れる。
「塩唐揚げに、してね」と、末娘。
塩胡椒して、片栗粉をまぶして揚げるだけの、シンプルな味つけの唐揚げ。色も白っぽく、あっさりした印象だ。

揚げながら、この味つけは義母の味だったと思い出した。
料理に興味を持ち始めた高校の頃、土井勝の料理本が師匠だった。唐揚げといえば醤油味。日本料理が専門の料理家だけに、和の色が濃い。その後、友人と飲みに行ったりするようになり、呑み屋で食べたのはキムチ味。辛いもの好きのわたしは、すぐにハマった。
そして、結婚して覚えたのが、この塩唐揚げだった。実家の母は、セーターなどを編んでくれたりはしたが、料理に対するこだわりが薄く、自分の味というものを持たない人だったので、新鮮に感じたことを覚えている。
「唐揚げは、塩味に、してね」
夫もよく言ったものだった。彼は、これにケチャップをたっぷりかけて食べるのが、多分、今でも好きだ。

だが、食卓でのリクエストに「唐揚げ」の名が出ることは、いつの間にかなくなった。魚や煮物、歳を重ねると共に、自然とあっさりしたものを好むようになったのだ。教えてくれた義母も、もう唐揚げは揚げないという。
しかし、その味は、子ども達に受け継がれている。思えば、義母は、どうやってこの味を知ったのだろうか。

自分で揚げておいて言うのも難だが、久しぶりに食べた揚げたての塩唐揚げは、とても美味しかった。やはり唐揚げは、揚げ立てが命だ。娘のおかげで、美味しいものが食べられて、感謝である。
すると夫が、遠慮がちに言った。
「唐揚げもだけど、茶碗蒸しなんか、ずっと作ってくれなかったよなぁ」
どうやら気づかずに1週間、久しく作っていなかった、娘が喜ぶものばかりを食卓に出していたらしい。

マヨネーズのベタなポテトサラダを作ったのも、久しぶりでした。

胡椒は粗挽きブラックペッパー。塩は天日塩を使っています。

ハンバーグも焼きました。ミニサイズをたくさん焼いて好きなだけ食べるのが
我が家風です。娘は10個中4個食べました。ソースは作らず、ケチャップや
お好みソース、大根おろしに醤油など、好きなように味つけて食べます。

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汗をかきかき熱いうどんをすする

リビングで仕事をしていたら、突然、身体が冷え切っていることに気づいた。
温度計を見ると、24℃。半袖でも、全く問題はないが、足が冷たくなっている。お昼は温かいものを食べようと、久しぶりにうどんを茹でた。
「庭の茗荷を入れたいし、生姜たっぷりうどんにして、温まろう」

冷蔵庫のなかをごそごそ探すと、半分使ったオクラと、しめじ、葱の切れ端が出てきた。卵もある。うどんは、6分茹でるだけの夏用の細麺が好きで、1年中常備している。蛋白質は卵のみだが、野菜たっぷり贅沢うどんの出来上がり。ひとりゆっくり食べて、汗をかきつつ、温まった。

まだ8月だというのに、昼間から、こんな風に感じること、あったっけ? と、考える。身体が冷えに対して敏感になっているのかな、と。
肩こり、腰痛、肌の荒れ。年齢を重ねていることは、否が応でも感じる毎日だが、冷房以外で、夏に身体が冷えやすくなったと感じるようになったのは、何年か前から。寒がりではあるが、冷え性という訳でもない。
変化しているのは、地球の方かも知れないが。

しかし、考え込むほどのことではない。温かいものが食べたくなったら食べればいい。そして身体のなかから、しっかり温まればいい。周囲や身体の変化に、あらがうほど、もう若くもないのだ。
身体のなかから、しっかり温まれば、夏の疲れも早くとれそうだ。8月に、汗をかきかき熱いうどんをすするのも、またよし、である。

オクラは、さっと火を通したくらいが好きです。卵はレアで。
茗荷は咲いていた花も一緒に飾って、いただきました。

夕飯は末娘のリクエストに応え、茶碗蒸しに。熱々美味しい ♪
夜は、いつにも増して、ゆったりお風呂につかりました。

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シャインマスカットと、ひと皮むけた父娘

頼んでいた葡萄が、届いた。夫が知人の葡萄農家さんに、毎年頼んでいるもので、両方の実家にも送っている。
山梨の良さを、少しだけお裾分けしたいという思いからの恒例行事だが、その味見として購入した我が家の分を食べるのが、また楽しみなのだ。

その名も『シャインマスカット』種なしで皮ごと食べられる品種だ。
実は硬くしまっていて、ガリッとかじる歯触りを楽しめるほど。程よい甘さと酸味は絶妙で、口に入れる度に、プロが創りだす味だよなぁと感嘆する。

その『シャインマスカット』の食べ方で、帰省中の末娘と夫が、もめた。
皮をむいて食べる娘に、夫は皮ごと食べる美味しさを味あわせたい。だが彼女は、一向に皮をむく手をとめようとはしないのだ。
「一回だけでいいから、食べてみなよ」と、夫が言えば、娘も負けていない。
「さっき、皮が残ってたとこ食べたら、むいた方が美味しいって判った」
「全く、頑固なんだから」「頑固は、そっちでしょう?」
そう言いながらも、何故か楽しそうなふたり。
夫は、久々に帰省し、以外にもよく食べる娘を見て、大いに喜んでいるのだ。もちろん、娘もそれを知っていて、楽しんでいる。
ぶつかっていた時代を超え、父として娘として、ようやくひと皮むけた感じかな、と微笑ましくふたりを見つめた。それをこんな風に感じられるのも、食卓で輝くシャインマスカットの成せる技かも、と。

そして「好きなように、食べればいいじゃん」と、わたしは皮ごと食べ、また、むいても食べてみた。どちらも、捨てがたい美味しさだった。

箱を開けてまず、美しさを目で味わいました。粒揃いで、綺麗な色~ ♪

洗って冷蔵庫に冷やしておくと、少しずつなくなっていきます。

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小さな仕掛け

最近、物忘れがひどい。何しろ、すぐに忘れる。
例えば、あずさの指定席券を取り、電車に乗る前に、確認する。
「えーっと、10号車の5番A席」
ところが乗ったら、すでに忘れている。目当ての席辺りで鞄を探り、ふたたび切符を出し確認するが、その間に「そこ、わたしの席なんですが」とか言われたりする。迷惑千万である。

お盆休みには、夫と庭に出ることが多く、熱中症対策抜かりなく、水分補給を何度もした。ポカリスエットが有効らしいが、日本人は、やはりお茶である。冷たいお茶を何度も飲むのだが、その度にコップを洗うのももったいないので、マイコップを何度も使う。違うコップを使えば問題ないのだが、ふたりで飲むのだからコップも揃えたい。
「こっちは夫の。こっちはわたしの」
リビングからキッチンに持っていき、お茶を入れた途端、これがまた判らなくなっている。そこまで注意を払い、がんばって覚えていたとしても、ウッドデッキのテーブルに運ぶ途中ですっかり忘れている。どっちでもいいって言えば、それまでなのだが。
しかし休み終盤には学習し、氷を変える様にした。冷蔵庫で作るのが追いつかず、ロックアイスを買ってあったのだ。夫のコップにはロックアイス。わたしのコップには、冷蔵庫で作った小さく四角い氷。小さな仕掛けに自分で嬉しくなりつつ、冷たいお茶を何度も美味しく飲んだ。

「最近、物忘れがひどくてさぁ」飲みに行き、友人にコップの話をした。
「えっ? もともと、何度も同じコップは使わないかなぁ」と、友人。
「えーっ、そこから違うの?」と、わたし。
ドイツビールの美味い店で、いく種類かのフランクフルトを公平に食べられるように切り分け、よく冷えた陶器入りのピルスナーをふたり美味しく飲んだ。
「あれ? どのフランク食べたか忘れた」「あーっ、わたしも!」
切り分けた時点で、すでに安心してしまうのだ。切符も然り。お茶も然り。もしかして、これ、最近ではなく、これまでもずっとこうだったのではないか。だが、そんなことを思い出せるような記憶力は、わたしにはないのだった。

左の夫のコップには、買ってきたロックアイスを入れました。
冷蔵庫で作った氷は、透明にならないから、すぐ判ります。

お盆休み最終日には、薪小屋の屋根の修理を終えた夫と、
夜、鮪のカマと目刺しに日本酒で、大人なバーベキューをしました。

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白いゴーヤ

心のなかにあるものが、消滅した時と似ている。
白いゴーヤを見て、そう感じた。
例えば、誰かを好きだった気持ち。例えば、何かに魅かれていた気持ち。
もともと抱えていた、その気持ちの色や形を思い出せぬほど、すっかり失くなっていることに気づいた時と、似ているように思った。

幸いわたしは、まだごく近しい人の死を、経験していない。だからそれは、誰かを失くすのとは違っているのだろうと思う。誰かを失くした後にも、気持ちは残るはずだ。それとは違い、気持ち自体が消えるのは、色を失うのと似ているのではないかと、ゴーヤを見て感じたのだ。

白いゴーヤは、反論するだろう。
「わたしは、もともと、こういうモノなのです」
だが、だからこそ、似ていると感じる。何かを失った心には、全く違うモノが存在していくように思うからだ。
白いゴーヤは、こうも言うだろう。
「色や形が違っていても、ゴーヤはゴーヤです」
いや、だからこそ、似ていると感じる。心は心のまま、色を失い、味も形も尖った部分を失くしていくように思うのだ。
それでも、白いゴーヤは納得しないだろう。
「わたしは、わたしです」微笑みつつ静かに、言うかも知れない。

いただいたゴーヤが、あまりに綺麗だったので、心の形を連想したのかも。

緑のゴーヤは、炒めものやチャーハンに、美味しくいただきました。
白いゴーヤは、これから。何にしようかな。

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童話なジョーク

庭の茗荷が花を咲かせ、ずいぶんと太ってきた。毎朝の味噌汁や、薬味、浅漬けのアクセントなどに大活躍だ。嬉しい。

嬉しいので、収穫時に、ついおどけてひとりジョークを飛ばす。
「ふふふ。ようやく太ってきたね、ヘンゼル」
ご存知、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』お菓子の家に住む魔女が、ヘンゼルを太らせてから食べようと食事を与え、毎日指を握り、太っているか確かめるシーンだ。魔女は目が悪く、ヘンゼルは牢屋から指だと偽り小枝を差し出していたので「太ってきたね」と彼女が言うシーンはない訳だが。

こんな風に、子どもの頃に読んだ童話や昔話を使って、ジョークを飛ばすことがよくある。例えば、ご近所総出で行う道作りの時など、箒や熊手などを持ち寄り、そこにあるもので作業するうちに、何処の家の物か判らなくなったりする。そこで、わたしが必ず言って失笑を買うのは「金の箒と銀の箒、どちらがあなたの箒?」ご存知、イソップ童話『金の斧、銀の斧』である。

蛙にキスすれば王子様になるとか、12時の鐘が鳴ったら帰らなくちゃとか、眠っている間に何か出来上がっていたら小人の仕業だとか、そんな童話のワンシーンが、生活のなかに根づいていることを感じる瞬間である。

ところで、最近の子ども達にも、こういったジョークは通じるのだろうか? 何しろ、知っていることが前提。知らなければ、何を言っているのか、判らないし、面白くもない。(実際に面白いかは、別にしても)
上の娘がテレビのバラエティで、淀川長治の物真似を観て笑っていたが「淀川長治知ってるの?」と聞くと「誰それ?」と答えたのを思い出した。

宝探しのようで楽しい、茗荷の収穫。太ってる ♪

花も咲いています。お盆休みだった夫も収穫を楽しんでいました。

お花ものせて、食べちゃいます。奴が美味しい季節だなぁ。

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カルパッチョさんに、敬意を表して

東京で、久しぶりにイタリアンを食べに行った。
イタリアは南、海の幸が豊富なシチリアの料理だ。海鮮イタリアンを楽しもうと、夫とふたり、浮き浮きとでかけた。
予期せず、大好きなカールスバーグの生ビールが置いてあり、嬉しくビールで喉を潤してから、夫が白ワインを注文した。シチリアでも火山のふもとでとれた葡萄を使ったという白ワインは、火山灰が含まれた土壌から、ほどよく酸味の効いたものができるという。
「美味しいねぇ」「シチリア、行ってみたいねぇ」
料理に舌鼓を打ちつつ、のんびりとした時間を楽しむ。

我が家でもよくカルパッチョにする真鯵のカルパッチョもオーダーした。
「これは、簡単カルパッチョじゃないねぇ」と、わたし。
「確かに。簡単じゃないね」と、夫もうなずく。
「オレンジ風味のソースに、刻んだ数種類の野菜。手がかけてある」
「たまには、簡単じゃないカルパッチョもいいよねぇ」
そんなことを話ながら、そう言えばカルパッチョって、人の名前だったよなぁと思い出した。ルネッサンス画家のヴィットーレ・カルパッチョ。画風が、ヴェネツィアで生まれた料理、牛肉の薄切りにマヨネーズソースをかけたものを連想させる赤と白に特徴があったことから、そう呼ばれるようになったらしい。ピッツァ・マルゲリータは、トマトの赤、モツァレラチーズの白、バジルの緑で国旗を表現してるし、さすがイタリア。料理と芸術が、自然な形で繋がっているんだなぁ。

カルパッチョさん、半世紀以上経ち、自分の名が簡単であるとか、簡単ではないだとかをくっつけて、呼ばれるようになるとは思いもよらなかったろうに。これからは、簡単カルパッチョさんと、敬意を表して呼ぼう。などなどと、ワインが回る頭のすみっこで考えたのである。

沼津朝取れシラスはオリーブオイルとレモン味。カリカリバゲットにのせて。
お皿にかいてあるのが店名です『カンティーナシチリアーナ』

真鯵の簡単じゃないカルパッチョ。刻んだ野菜が目にも綺麗です。

メイン料理は、魚と調理法を、選ばせてもらいました。
真鯛の香草焼きと迷いましたが、おススメは、ほうぼうでした。

ほうぼうの『アクア・ディ・マーレ』フレッシュトマトが爽やか ♪

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じゃが芋ソムリエになれずとも

いただいたじゃが芋を、着々と食べている。
今年は豊作だったようで、農家さん2軒と、家庭菜園をしているご近所さんからいただいた。農家さんからは男爵を、ご近所さんからは、最近話題の「インカの目覚め」や「シャドークイーン」「ノーザンルビー」など、試しに作ってみたという珍しい種類のものをいただいた。男爵は、ポテトサラダ、肉じゃが、味噌汁など、スタンダードメニューに最適。「インカの目覚め」他は、まずバター焼き。または、ふかしてバターをのせる。
色はそれぞれでも、味はじゃが芋、というところが面白い。もちろん、じゃが芋ソムリエなら、どんな調理法だとしても、目をつぶって食べて、一口で種類が判るのだろうが、わたしは「うん、美味しい!」で完結している。

まあ、そんなもんだろうと考えて、息子が中学生の頃に、宮部みゆき『ステップファザーステップ』(講談社)を薦めた時のことを、思い出した。
「直木賞をとった作家だよ」わたしのひと言に、彼は噛みついてきた。
「何の賞をとったとか、そういうの、興味ないから。本は面白いか、面白くないか、どっちかだよ」思えば、反抗期だったのか。
わたしはもちろん、本のソムリエでもない。ただ、面白い本を、息子に読んでほしかっただけなのだ。それから、彼は宮部みゆきのファンである。その時の彼の真剣な表情が、不意にじゃが芋のなかに見えて、ちょっと嬉しくなった。

いただいたじゃが芋は、どの種類も美味しくて、じゃが芋ソムリエではないわたしは、ただ「うん、美味しい!」と食べるのみである。

一番白いのが、男爵。黄色が、インカの目覚め。赤紫が、ノーザンルビー。
花豆を連想させる黒っぽいのが、シャドークイーンです。

黄色、赤、紫。茹でて切ってみると、はっきり!

炒めて、にぎやか~ ♪ バターと塩胡椒のみですが、simple is the best!

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付随する感情があるからこそ

記憶というのは、不思議なものだ。
例えば「誰々さんから電話があった」と、夫に伝えなくてはと考える。その考えた時点で、自分のなかの記憶上で、伝えたことにしてしまうことが、最近よくある。「考えた = 伝えた」と記憶してしまうのだ。
だから、なるべくその場でメールするようにしている。単純に伝えるだけで済むことならば、余計に忘れやすい。逆にメールで伝えるのが、ややこしいようなことは、忘れてもいいことが割合多いものなのだ。

そして、忘れてもいいようなことに限って、覚えているものでもある。
野菜スティックを作ると、思い出すことがある。

夫と末娘と3人で、イタリアを旅した時のこと。フィレンツェからバスに乗り、シエナという街に行った。中心広場が帆立貝の形をした美しい街で、その広場に建ったマンジャ塔から街を眺めようと、長い列に並んだ。国内外から訪れた観光客のなかには、小さい子どもを連れた家族も多く、3歳くらいの男の子とその両親が、わたし達の前に並んでいた。ドイツ人だったように記憶しているが、その子がぐずり出した。真夏で、暑い日だった。その時、母親が小さなクーラーバッグから取り出したのが、人参スティックだったのだ。子どもは機嫌を直し、人参をうさぎのようにカリカリかじった。その光景がなんとも微笑ましく、ありありと記憶に残っている。

バッグから出てきたものの意外性に加え、その時、感じたこと。
「子ども達が小さい頃、こんな風に野菜スティックを使えばよかったな」
その微かな後悔が、記憶の部屋に、そのワンシーンを残して消し去らない所以なのだと思う。出来事にプラスして、付随する感情があるからこそ、記憶に残るというものなのだろう。

胡瓜と大根と人参の野菜スティック。他に、セロリも美味しいですね。
バーベキューなどのときに、ばーんと置いておくと、ぺろりとなくなります。
 
マンジャ塔と、塔から眺めた風景です。

シエナの青く抜ける空。        photo by my husband

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新しい風は、サラダ屋で

新宿から、ひとりであずさに乗る時、気が向くとサラダ屋でサラダを買う。
出来合いのサラダは、マンネリ化した我が家の食卓に、新しい風を吹かせる扇風機的役割りを担っているのだ。
焼き野菜に、酢が効いた玉葱ドレッシングがかかっていたのが美味しくて、以前は使わなかった黒酢玉葱ドレッシングを使うようになったり、オクラや山芋を頻繁にサラダに入れるようになったり。

先日も、ひとりランチにと、3種類のサラダを食べて、気がついた。
すべてに人参が入っていたのだ。もちろん、主役ではなく脇役に。色合いも綺麗だし、栄養価の高い人参だが、野菜スティックでガリガリかじるか、気合いを入れて極細千切りのキャロットラぺにする以外は、サラダには入れない。
学校給食を、懐かしく思い出しもした。ほとんど毎日、人参が入ってたっけ。栄養のバランスをとるためには、欠かせない食材だったのだろう。
「いいかも、これ」
という訳で、今回の新しい風は、人参だった。

しかし新しい風が吹いても、一時的なもので終わり忘れ去られることのなんと多いことか。料理って、どうしてこう、すぐにマンネリ化しちゃうんだろう。
「キッチン担当の奥様だからこそ、いつもいつでも、お外で美味しいものを召し上がってくださいね」ってこと、なのかな?

焼き茄子のサラダには、カリカリのちりめんじゃこと砕いた胡桃が、
かかっていました。ゴーヤと豆腐のサラダも、美味しかった!
手前は、もずくと春雨の酢の物です。人参の自己主張強かったです。

キャロットラペ。オレンジは、買い置きの甘夏缶で代用しました。
人参のいいところは、大抵、買い置きしてあることです。

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目から涼しく

日曜日。夫と諏訪湖まで、ドライブした。
エアコンのない我が家から、一番暑い時間だけでも抜け出そうと、北へ向かったのだ。高速を走っていると、土砂降りの雨が降り出した。
干したままの洗濯物が心配にもなったが、久しぶりの雨に目が涼む。ついこの間まで、じめじめした梅雨に嫌気がさしていたのに、人間とは我儘なものだ。

諏訪湖に到着すると、雨は上がっていた。車が表示する気温は30℃。
「暑いじゃん」「暑いね」と言いつつ、湖畔を散歩する。
だが、柳の枝に緑が揺れていて、その影に入れば、わりと涼しく、すぐそこに水が広がっているというだけで、目も涼む。不思議なものである。

「せっかくだから、諏訪湖の酒が、買いたいな」と、夫。
諏訪湖の周りを一周ドライブし、酒蔵の直営店を探すと、『麗人』と『眞澄』が見つかった。運転手は夫で、試飲はわたし。辛口の純米酒や、夫のリクエストに応え、にごり酒を味見した。いくつか飲んで、辛口でも辛いだけではなく味わいの深いものを選んだ。
店は当然、冷房が効いていたが、並べられた酒のたたずまいと、酒蔵の「蔵」眞澄の「澄」麗人の「麗」という文字に再び目が涼む。思わぬところで涼しいと感じることができ、人の感覚ってなかなか上手くできてるなぁと感心した。
「この夏は、目から涼しくを、テーマにしようかな」
日ごと暑さが増していく日に、いいこと見つけたドライブとなった。

湖畔には、蝉ではなくヤゴの抜け殻が、ありました。

気温は30℃近くありましたが、風が吹いて、涼しかったです。

日本酒好きの夫も、知らなかったという『麗人』

有名な『眞澄』は、門構えからして立派で、人も多かったです。

夕飯は刺し身で『麗人』で購入した、にごり酒を傾けました。

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憧れのひとり呑み

呑み屋でひとり、ゆったりと呑むのが憧れだった。
川上弘美の小説『センセイの鞄』(平凡社)を読んで以来、主人公ツキコのように、ただ美味い肴をつまみ、静かに酒を飲む。そういうことができる女性になりたいと、ずっと思っていたのだ。
だが、独身OLのツキコと違い、家族がいるわたしには、機会が巡ってこなかった。そして今、ようやくその時を迎えた。
東京や末娘がいる埼玉に行くことが増え、用事を済ませた後は、夫や娘、友人などを誘って一杯やっていたのだが、機会が増えるにつれ、今夜はひとりでのんびり呑もうと思う夜が、向こうからそっと、歩み寄って来たのだ。
ひとりで呑んでいても、周囲の目が気になるような自意識過剰さも、年齢を重ねると共に消えていった。いつの間にか、静かな時間を、心から楽しめるようにもなっている。

しかし、ひとりで呑んで気がついた。
「あ、福島の酒だ。呑んでみよう」そう思ったのは、東日本大震災以来、夫が呑み屋では東北の日本酒を呑むようになったからだ。
「あ、穴子入り揚げ出し豆腐、美味しそう」そう思ったのも、穴子好きな義母を思い出したから。
そして、ぼんやり考えていることと言えば、子ども達や友人のことばかり。ひとりで呑んでいても、全くひとりという訳ではないのである。
こうして呑んでみて、判る。ひとりでカウンターに座っている人もみな、誰かを思い、酒を傾けているのだと。

旬の岩牡蠣と、焼き茄子の南蛮漬け。岩牡蠣、サムとも食べたなぁ。

穴子入り揚げ出し豆腐。揚げ茄子も入っていました。嬉しい。

福島の酒『壺中春(こちゅうしゅん)』美味しかったです。

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茗荷とお化け胡瓜の夏

いただいておいて、そう呼ぶのもなんだが、お化け胡瓜の季節になった。
「あっという間に大きくなっちゃって、食べきれないから食べて」
茄子もじゃが芋もいただくが、胡瓜もどんどんやってくる。家庭菜園ならではの無農薬野菜達。感謝して、ありがたくいただく。

しかし、サラダにしても、味噌をつけてかじっても美味しいが、巨大過ぎる胡瓜。なかなか食べきれない。
野菜を作っていないご近所に声をかけたところで、
「胡瓜」といった途端「たくさんあって困ってるの」と、逆に10本ほど増えてしまう可能性がある。口にはできない。
町内人口の需要数より、胡瓜数の方があきらかに上回っているのである。そして日々『ジャックと豆の木』の如く、目に見えてするすると伸び、大きく実っていくのだ。

そこで、浅漬けレシピの出番となる。塩、砂糖、酢などで浅漬けの素を作り、生姜と茗荷を刻んで漬ければ、簡単だが我が家の味だ。
庭での茗荷収穫も、始まった。
お化け胡瓜は水分が多く、じつはフルーティー。胡瓜ってメロンと同じ瓜なんだと、浅漬けを味わいつつ思い出す。料理するからこそ判る、素材の面白さが、そこにある。茗荷とお化け胡瓜の夏は、これからだ。

毎年拡大していく、茗荷畑。林の様相をおびてきて、嬉しいな ♪

まだ小さいけど、少しだけ収穫させてね。

茗荷は確かに小さいけど、胡瓜の巨大さには・・・。
だまし絵を観ているよう。錯覚を起こしたのかと、目をパチクリ。
南瓜も、いただきました。南瓜もおなじく、瓜でしたね。

こうしておけば、無駄にすることなく、びっくりするほど食べられます。

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茄子の花

あちらこちらから、茄子をいただく季節になった。
大好きなので、とても嬉しい。どのくらい好きかと言うと、イタリア語でメランザーネ、スペイン語ではベレンヘーナと、空で言えるほど大好きなのである。イタリアやスペインを旅した時に、メニューを見て茄子と一目で判るように、覚えたのだ。

もちろん日本料理の茄子も、大好き。焼き茄子、浅漬け、揚げ茄子の煮びたし。うーん、並べてかいただけで、よだれが出る。自分でも作るし、飲みに行っても、ついオーダーしてしまう。

新メニュー開拓も、楽しんでいる。昨日は、朝とったばかりだという農家さんの茄子をニンニクたっぷりオリーブオイルで柔らかく焼き、トマトとマリネにした。よく冷やして夕食に並べたら、ワインにぴったりの一品となった。

子どもの頃、茄子の花を初めて見た時のことを、時々思い出す。
「茄子の花って、如何にも茄子の花らしい紫色なんだなぁ」と、植物の成り立ちに驚いた。驚いて思った。茄子の苗には、茄子の花しか咲かないし、茄子しか生らないんだよなぁ、と。それが、自然なことなのだと。

濃紺に、見とれます。野菜はどれも綺麗だけれど、茄子って本当に綺麗。

トマトの優しい酸味も手伝って、まろやかな味のマリネになりました。
白ワインビネガーとオリーブオイルは同量。あとは、塩胡椒だけ。
庭のバジルも、活躍中です。

茄子をいただいた農家さんの畑で、撮影した茄子の花です。

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ミントソーダに、涼を求めて

エアコンのない我が家。在宅勤務が辛い季節に、突入した。
朝夕は涼しいとは言え、日中は、扇風機のぬるい風では、涼をとれない。そんな昼間に欠かせないのが、ミントソーダだ。

雑誌で見たのは、ミントと砂糖を煮詰めてシロップにしたレシピで、炭酸水やかき氷に使うとかかれていたが、甘いものが苦手なわたし。ミントだけでいいじゃん、と試してみた。
冷たい炭酸水に、庭のアップルミントを洗い、たっぷり浮かべる。浮かべる時に、茎を強くつまめば香りが広がり、ミントをじゅうぶんに味わえる。これが、けっこう甘い。植物の甘さなのだろう。シロップにしなくてよかった。
庭のアップルミントは、生命力が強すぎて、雑草扱いだ。こうして使えるものなら使ってあげたい。一石二鳥である。

子どもの頃読んだ漫画で、今も覚えているセリフがある。
「ソーダ水のなか、あの人がいる」初デートのシーン、だったと思う。
女の子が、うっとりと初恋の男の子を見ていた。
月日が経ち、甘いものを受けつけなくなったわたしがソーダ水のなかに見出だせるのは、請求書と電卓だ。淡々と自らの役目をこなす彼らには、砂糖抜きのクールなミントソーダがとてもよく似合っていて、仕事もはかどる気がする。
まだまだ夏はこれから。様々工夫をして、涼しく過ごしたいものである。

ミントは、節約無用。入れたいだけ入れています。
ミントには、眠気を覚まし、集中力を高める効用があるそうです。

最初は一株だったのに、いつのまにか広がって。

一応ここ、駐車場なんですが、歩くだけでミントの香りがします。

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心根にはびこる、きのこの魔力

夕方、林を挟んだ隣に住むご夫婦の、ご主人の方が嬉しそうに玄関に現れた。
「これが、見せたくてさ」
手に持っていたのは、40㎝ほどの大きな、きのこ。
「あー、それ!」「さっき、見たやつだ!」
夫とわたしは、散歩中、そのきのこを見ていた。
「どうせ毒があるよね」「堰の向こうだし、写真撮るのも難しいね」
そんな会話をして、通り過ぎていたのだ。
しかし、そのきのこは食べられると言う。

キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち、珈琲の焙煎もでき、日本野鳥の会所属の陶芸家であり、山菜にも蛇にも詳しいご近所さんを訪ね、聞いたというのだ。彼は、当然きのこにも詳しい。一つ進呈し、相談したところ三ツ星きのこである『オオイチョウタケ』または、中毒例がある『ムレオオイチョウタケ』である可能性が高いとのことだった。
「料理して、美味しかったら、持ってくるよ」
隣人は去り、その夜、連絡はなかった。
「だいじょうぶかな?」「奥さん、今夜いるのかな?」
心配しつつ朝を迎えると、メールがあった。
「生きています」ホッとした。
『ムレオオイチョウタケ』だったらしく、食べられたが匂いが鼻につき、美味しいとは言えなかったとの感想。中毒もなかったようだ。
ちなみに、ご近所さんの感想はこちら

しかしそこまでして、何故にきのこを食べるのか。そこに、きのこが在るからなのか。いや。きのこには、人を魅きつける何かがあるのかも知れない。多分、魔力のような何か。人の心根に、根づいてはびこる菌のような何かが。
「食べられるかも知れない」と思った途端「食べない」という目の前にある選択肢は無色透明無味無臭となり、すっかり見えなくなってしまうのだ。
それにしても、嬉しそうだったなぁ、お隣さん。巨大カブトムシを見つけた少年のような笑顔だった。

うちわより大きい! 強面ですが、とっても優しいお隣さんです。

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大人のポテトサラダ

わたしは、泣いていた。
何年か前のことである。居酒屋で生ビールと店長オススメ1品をオーダーして座ると、涙があふれてきたのだ。かっこ悪いし、店の人にも迷惑だろうと判ってはいたが、涙は止まらなかった。
幸いカウンター席が、窓に向けて設置してあり、窓からは公園が見えた。夕方で、客はもう一組しかいなかった。
「どうしたんですか?」と、聞いてくる人は、いない。
居酒屋で、泣きながら生ビールを飲む40代の女性に、声をかけるもの好きもいないだろうとは思うが。

生ビールを飲みながら、つまんだのは「大人のポテトサラダ」だった。
食べられなくても、ビールだけでは申し訳ないと思ったのだが、そのポテトサラダは妙に美味く、涙をこぼしつつも「おっ」と思ったのを覚えている。アンチョビとスモークの匂い豊かなベーコンが入っていた。塩味が効いていたのは、涙のせいか、アンチョビのせいか。

その後、涙の原因は、わたしのなかで浄化されていき「大人のポテトサラダ」だけが、残った。今やアンチョビとニンニクが効いたポテトサラダは、我が家の定番である。「大人の」と名づけられたポテトサラダを、居酒屋で見かけることも、最近多くなった。

ポテトサラダさえもが、大人になっていく。いくつになっても大人になりきれないわたしだって、少しずつまだもう少し、大人になれるかもしれない。そんなことを思い、旬のじゃが芋で作った「大人のポテトサラダ」を味わった。

種類は判りませんが、掘りたてのじゃが芋をごろごろいただきました。
数えたら、40個以上ありました。

アンチョビを刻んで入れて、ニンニクを炒めたオリーブオイルと、
白ワインビネガー、マヨネーズで和えた「大人のポテトサラダ」

こちらもいただいた、インカの目覚め。黄色い!

小粒なインカの目覚めですが、付け合せにしては、
大きな顔をしています。うーん。ホックホク!

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おにぎりの形

「うーん。美味しそう」
何度も前を通り過ぎ、気になりつつも機会に恵まれず、いつか食べたいなぁと思っていたおにぎり屋さんのおにぎり。ようやく食べることができた。
もちろん手作りで、スタンダードな鮭、梅、鰹節の他、玄米で握ったものや、炊きこみあさり飯、きのこご飯など、種類豊富である。
鮭玄米、あさり飯、葉わさびの3つを購入。帰って開いてみて、その形に好感を覚えた。三角でも丸でもない。つぶれた様にも見える。しかし、温かみと個性を感じる。それが戦略なのか、単なる握り手の癖なのかは、判らない。
「わたしだったら、もっと三角に握るよなぁ」
そう思って気づく。めったにおにぎりを、握らなくなったなぁと。

末娘が高2の冬に、わたしは左手の甲を骨折し、娘は自分でおにぎりを握って、学校に行くようになった。わたしの手が治っても、彼女はその習慣を変えなかった。自分で握った方が、食欲や授業の内容に合わせて、大きさ個数を調節しやすいから、というのが理由。お昼はおにぎりのみ、が彼女のポリシーだったので、わたしのお弁当作りは、左手骨折と共に呆気なく幕を閉じた。
まだまだ子どもだと思っていた末っ子が、突然大人びて見えた瞬間だった。
それからわたしは、おにぎりを握ることもなくなった。そして彼女は今も、おにぎりを握って大学に通っているらしい。彼女の握るおにぎりは、わたしが握ったものと少しだけ形が違っている。

おにぎり屋さんのおにぎりを食べながら、ひとり感傷にひたる。日本人なら、多分誰にでもあるだろう。おにぎりの思い出。

あさり飯は生姜が、玄米は胡麻が効いていました。
葉わさびは、辛くて嬉しかった! でも3つは、食べすぎでした。
 
娘が住む浦和にあります。『豊田』ネットの口コミでも人気でした。

値段も安い! 1個100円~140円。
採算とれるのかな? と、心配になってしまいます。

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懐かしの大衆食堂

「思い出の場所」という訳でもないのに、懐かしさを感じる場所がある。
その一つが、大衆食堂だ。お隣は韮崎市にある『青竹食堂』も「レトロな」という形容が似合わない、懐かしい雰囲気を持った店。

日曜日、夫とホームセンターに買い物に行った帰り、お昼を食べた。
「目玉の定食があるって、聞いた気がする」と、夫。
「ジンギスカン定食じゃない? 暖簾にもかいてあった」と、わたし。
などと会話しつつも、夫は葱味噌ラーメン。わたしは、のぼりが立っていた夏の定番、冷やし中華にした。
ラーメン屋に行こうかとも話し合ったのだが、駅前やショッピングモールは、週末の昼時、並んで待つほど混んでいるはず。一度暖簾をくぐったことのある『青竹食堂』にもラーメンはある、と相談がまとまっていたのだ。

冷やし中華は、具がたっぷりで美味かった。それ以上に、真っ赤な紅生姜に、刻んだナルトに、たっぷりのシナチクに、チューブで出てきた辛子に、何処で入手したのかと嬉しくなるような古臭い丼ぶりに、目を魅かれた。
そして、半分食べてお腹も落ち着いた頃、店の様子に目をとめた。半分以上が、小学生以下の子ども連れなのである。
お店の人も慣れた様子で、子ども連れの家族に座敷をすすめ、冷やし中華や焼きそばの紅生姜は抜きにするかと聞いている。
子ども達は座敷で寝転んで、母親に注意されつつ笑っている。よちよち歩きの女の子が、父親と母親の膝を行き来している。無口な小学男子が、立ち上がる際テーブルに膝をぶつけて、照れ笑いしている。
壁には「小・中高校生、学割50円引き」と、あった。

『青竹食堂』をネット検索してみると「おやじに、よく連れて来てもらった。それから、ずっと食べに来ている」とのコメント。ここは、ずっとこういう店だったんだと納得する。
時間の流れに左右されずに、そこに留まっているものを、垣間見た気がした。

辛子がチューブで出てきたのが、嬉しかった。いつも足りなくて(笑)
家では買わない真っ赤な紅生姜も、雰囲気作りに一役かっています。

前回食べた、肉野菜炒め定食。もやしたっぷり♪

入口には、タヌキの信楽焼きが、でーん!と「いらっしゃい!」
タヌキの向かい側には「車いすの方は、このボタンを押してください」
日曜大工で、後から付けた感じのインターホンがありました。

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珈琲豆の音

朝、洗面所で顔を洗っていると、キッチンから聞きなれない音がした。
カラカラカラ、と乾いた音。朝からスナック菓子でもあるまいし、何だろう、と思っていると、上の娘が洗面所に来て、聞いた。
「珈琲豆って、一人分、何gだっけ?」
ああ、珈琲豆を計る音だったのか。「10gだよ」と、答える。

一昨日から、娘が帰って来ている。
最近、ひとり、または夫とふたりの時間がほとんどだったからか、そんな音一つにも、違和感を覚えるのだろう。いつも自分で立てている音だが、それを離れた場所で聞くことはなく、知らない音に聞こえたのも新鮮に思え、家族が家にいるって、こういう風だったっけ、と思い出した。
その彼女も、明日から、予定では1年ほどの旅に出る。もっと長くなるかもしれないが、不思議と淋しいとは思わない。何処にいたって、元気でいてさえくれれば、それでいい。
そんなことを思いつつ、彼女が珈琲豆を挽く音を、洗面所で聞いていた。
わたしはブラックで飲みますが、娘はカフェオレに砂糖たっぷり。

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定番メニュー、簡単カルパッチョ

夫が新宿からあずさに乗って、帰宅するまでに2時間以上はかかる。
駅に迎えに行くことも多く、駅前のスーパーで足りないものは買い足せるし、帰宅後、夫が風呂に入っている間に夕食を完成させればいい。
ふたりだけの食卓だし、帰るメールが来てからメニューを相談することも、自然と多くなる。基本は、ワインか、日本酒か。ワインならサラダの野菜を刻んだり、和えたり。日本酒なら肉じゃがを煮たり、青菜を茹でたり。プラスして刺身やら豆腐やらが必要なら、スーパーに寄ればいいので気楽だ。

そこで最近よく登場するのが「簡単カルパッチョ」
その日安くて新鮮そうな刺身を買い、貝割れ大根を敷いた上にのせ、粗挽き黒胡椒と柚子ポン、エクストラバージンオリーブオイルをかけるだけ。あっという間に完成する。柚子ポンが、鯵やシメ鯖などの青魚だけでなく、鰹にも蛸にもよく合う。言葉の通り、簡単であるが、美味い。魚を変えれば味も変わるので、飽きも来ない。いいことずくめだ。

ここで問題となるのは、簡単のなかに存在する「手抜き」というイメージ。自分で名づけておきながら、そこが気になるところなのだ。他にいい呼び方はないものかと「簡単」をネットで調べると「簡単服」という言葉が出てきた。
「単純な形に仕立てた婦人用ワンピース。アッパッパ」とある。
アッパッパ。聞いたことはあるが、多分使ったことのない懐かしい言葉に微笑み、どうせならカタカナ繋がりで「アッパッパカルパッチョ」と呼ぶことにしようかと考えてみる。さらに連想。簡単、愉快「あっはっはカルパッチョ」は、どうか。しかしすぐにその考えは捨てた。だいたい「アッパッパカルパッチョ」と口にするだけで舌を噛みそうな難しさ。「あっはっは」も然り。
「簡単」という言葉は、発音するのも簡単だ。うん。案外奥深い、魅力的な言葉なのかも知れない。

尾鯵の簡単カルパッチョ。サラダとカレーで野菜もいっぱいです。

これは、ちょっと手をかけた「ウド」バージョン。鰹と相性ぴったり。

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夜と酒と、埋められないと思っていた距離

サムと、飲みに出かけた。
1年前に2週間、我が家にステイしたオーストラリア男子、サムに、日本滞在中に会いたいと誘われ、上の娘と夫と4人で会う約束をしていたのだ。サムは、娘がワーキングホリデーで知り合った友人で、日本語を勉強中。今、東京にステイしている。そのサムから、たどたどしい日本語で、しかし意味はちゃんと判るメールをもらった。
「とさんとかさんといちゃんと、のみほうだいたべほうだい、いきたい!」
何故「父さんと母さん」が「とさんとかさん」で「飲み放題食べ放題」は正確にかけるのかと聞きたくなったが「いーよ」とひらかなで返事した。

魚が美味しい居酒屋で、にぎやかな時を過ごした。
「日本酒を冷やで」と注文するとクールだと、わたしはサムに教えたが「それは、クールでも何でもない」と、夫がツッコミを入れた。
これから始める旅の予定を、娘に聴き、 ―中国、フランス、イタリア、ポーランド、チェコなどを回り、そしてカナダへ行くらしいのだが― 「チェコって、人形が有名だよね?」と言うと「なかからいっぱい出てくるやつ?」と娘が言い「それは、ロシアのマトリョーシカでしょ!」と、みんなで笑った。
サムは、末娘がひとり暮らしを始め、びっきーが死んだことで、山梨でのひとりの時間が増え、淋しくないのかと、わたしを心配してくれていた。

10時を回った頃。ステイ先のお宅に迷惑なのではと切り上げようとすると、笑顔だったサムが、急に真剣な表情になり、言う。
「日本でいちばん、山梨が楽しかった。いっちゃんのお父さんとお母さんがとても好きだし、せっかく会えたんだから、もっと一緒に居たい。この時間が自分にとっては、とても大切なものだから」
そこまで言われて、無下に帰すわけにもいかない。新たに酒をオーダーし、恋愛について、夫婦について、家族についてなどなど、真剣に話した。

不思議なことが起こったのは、それからだった。
酔い始めると、サムのしゃべる言葉が判るようになった気がしてきたのだ。そして、それが日本語なのか英語なのかが、逆に判らなくなるような錯覚を起こした。全く英語が判らないわたしだが、夫がサムに話す英語が、理解できた。さらには、夫が日本語で言った言葉を英語で通訳し、サムに大笑いされた。
「いちばん英語がしゃべれないお母さんが、通訳!」
「ほんとだ!」と、自分でも気づかずに取った行動に驚いて、わたし。
「通訳するなよ!」と、笑いながら夫。「サム、ウケてる~」と、娘。
英語と日本語とは溶け合い、混ざり合い、埋められないと思っていた距離を、驚くほど近く、縮めていた。
そして「日本酒を冷やで」酌み交わしつつ、夜は更けていったのだった。

今が旬の岩牡蠣。新鮮でした。でもサムは、うーん・・・。

アユの塩焼き。「腹も美味しい!」と食べていると、
「川魚だから、内臓はやめなさい」と夫に注意されました。

刺し盛り、4人前。夫の行きつけの店ですが、
「いつもより豪華」だそうです。お腹いっぱい食べました。

〆のお茶漬けを、みんなで食べ回しました。サムいわく。
「お父さん、一口食べて、どうぞ。お母さん、一口食べて、どうぞ。
でも、いっちゃん、ずっーとひとりで、食べてる!」うん。確かに。

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ストレス解消法は、何ですか?

幼稚園の保護者会での出来事だったと、記憶しているから、15年以上前、川崎に住んでいた頃のことだと思う。
自己紹介と言っても、名前を言って頭を下げるだけじゃつまらないと役員さんが企画したのだろう。自分と子どもの名前を言った後、配られた紙にかかれた質問を読み上げ、それに答えるという遊び的要素が取り入れられていた。
場は和み、企画は成功を収めた。だが、わたしの記憶に残っているのは、ある質問と、その答えだけだ。

「あなたのストレス解消法は?」「ほうれん草を、湯がくことです」
一瞬そこで沈黙が広がったが、司会者が次に進めたので、つつがなく全員の自己紹介は終わった。
入園してすぐ、知らない人だらけの会だった。
「どうして、ほうれん草を湯がくことが、ストレス解消になるの?」
気軽に聞ける雰囲気ではなかった。そして、その疑問だけが、15年の時を経ていまだ解消することなく、わたしのなかに残ることとなった。今では不思議なことに「ほうれん草」=「なんとなく、気持ちが明るくなる」という方程式が、自分のなかに確立している。もし疑問をぶつけ、その場で答えを聞いていたら、もうすっかり忘れ去っているかも知れない。そう思うと、日々ぼろぼろと落とし続けている記憶のなか、何が残されるのかなど、判らないものだ。

「花が咲いちゃって、困ってるのよ」
家庭菜園をしているご近所さんに、ほうれん草を持っていってと頼まれた。もちろん、喜んでいただいた。
ひとりの夜に缶ビールを空けながら、ほうれん草を湯がいた。新鮮だし、生でも食べられるが、なにしろ「湯がく」という行為が大切だ。
1分も経たずとも、緑が濃くなり、すぐザルにあげる。水で洗って、きゅっと絞る。一連の作業をしつつ、ほうれん草って、小松菜とも春菊とも、全く違うなぁと、当たり前のことに感心した。濃い緑の綺麗な色も、きゅっと絞った手触りも、食べるだけでは感じ得ないほうれん草を、感じることができた。
そして今なら思える。こうして野菜と向き合う時間に、ふっと気持ちの和らぎを感じたんだろうなぁと。
今では顔も名前も覚えていない彼女だが、おない年の子どもが巣立った今、こんな風にひとりの夜にゆったりと、ほうれん草を湯がいているのだろうかと、考えてみたりする。いや、今はもう、ストレスもなく暮らしているのだろうか。いやいや。ストレスがなくなるなど、生きていればある訳もないか。
あなたのストレス解消法は、何ですか?

ほうれん草の他にも、いろいろいただきました。野菜って綺麗だなぁ。

スタンダードなのはお浸しですかね。柚子ポンで、さっぱりと。

昨日の朝食です。ほうれん草はバター炒めにしました。
緑の野菜をたっぷり食べると、健康になった気がします。
濃く淹れたお茶は『ふるさと万年茶』です。

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持ち帰ること、できますか?

「勇気は、実家に忘れてきました」と言ったのは、伊坂幸太郎『モダンタイムス』の主人公、渡辺が小学3年の夏のことだが、それとは全く関係なく、勇気を振り絞って、わたしは聞いた。
「持ち帰ること、できますか?」
中華料理屋での、ひとりランチ。何度か行ったことのあるその店は、タンメンや担担麺なら麺は少な目で上品な感じだった。それで、油断していたのかも知れない。所用で出かけた帰りで2時半を回っており、空腹だったのもある。いつもはオーダーしない五目かた焼きそばなどを選んでしまった。

テーブルに置かれるや否や「嘘!」と、声を上げそうになる。
『誘拐』で、スーザンの魅力を目の当たりにしたスペンサーが言っていたように「長く培ってきた社交上の心得で、なんとか声は上げずに済んだ」が、それくらい量が多かったのである。大盛りとは、あきらかに違う。ひとりで食べるという設定を、実家に忘れてきたのだろうと、声を荒げて問いただしたくなるほど多かった。美味しかったが、途方に暮れた。自分で頼んだ料理は、残さない。その信念がガラガラと音を立てて崩れていく。
「ムリだ・・・。ムリだ、ムリだ、ムリだ」
がんばったが、やはり無理だった。そして、勇気を振り絞って聞いた。
「持ち帰ること、できますか?」
すると、女性スタッフは笑顔で言った。「はい」
よかった。本当によかった。夕飯に、冷蔵庫の野菜と炒めて食べた。カリカリのかた焼きそばもいいが、柔らかくなってもじゅうぶん美味しかった。

勇気は、やっぱ持ち歩かなくっちゃ。

写真では、伝わらない威圧感が、もう、そこ此処に漂っていました。

しっかりした容器に入れてくれて、紙袋まで。至れり尽くせりです。

ひとりの夕飯は、冷蔵庫にあった小松菜、人参、シメジを炒めて、
辛子とお酢をたっぷり。柔らかくなった麺も、またおつなもの。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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