はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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来てよ、ピーマン!わたしのところへ

ミニトマトならぬ、ミニピーマンをいただいた。可愛い。
種も好きなわたしは、洗ってそのままオリーブオイルで炒めた。写真の5倍ものピーマンをいただいたが、パスタに入れたりもして3日で食べ切った。
ピーマンは中身が空っぽというが、ミニピーマンは種がぎっしり詰まっていた。それがまた味わい深く、種も捨てるのはもったいない。苦味もスタンダードピーマンよりも軽い感じがする。

ピーマンは子ども達には、嫌われ者的存在だ。かく言うわたしも、幼少期ピーマンが嫌いだった。大きなことは言えない。苦いもの、辛い物を、食の初心者、子ども達が嫌うのも納得できることである。ムリに食べさせられた記憶はないが、大人になり、こんなにも好きになってしまうのだから、食の好みというものは計り知れない。

保育士時代、アニメ『パーマン』の替え歌をピーマンで歌ったのを思い出す。
 
♪ ピーマン ピーマン ピーマン 遠くで呼んでる声がするぅ
 来てよ ピーマン 僕のところへ
 来てよ ピーマン わたしのところへ
 心伝える合言葉 ピーマン ピーマン ピーマン ♪
長い年月が経ち、ピーマンはわたしのところへ、列をなしてやって来た。

ところで、食べ終えてからの、夫の言葉には笑った。
「美味しかったね、このシシトウ」

トマトや茄子が取り立てて大きい訳ではありません。
一緒にいただいた茄子は、炒めるとすぐに柔らかくなるタイプ。
オリーブオイル、塩胡椒のシンプル炒め、これもたくさん食べました。

フライパンで踊るミニピーマン達。

火が通ったところで、ミニトマトを入れました。
トマトの酸味が、ピーマンを引き立ててくれます。グッド!

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待ち時間に通った天使

何も予定がなかった休日。夫と買い物がてら、隣町に出来たティー・レストラン『spoon』にランチを食べに行った。午後2時前だったが人が並んでいる。
「どうする? 並んでまで食べる?」「うーん」
しぶしぶだったが、新しい場所への興味もありドアを開けた。ドアを開け案内されると、まあいいかという気持ちになる。
しかし座ったはいいが、オーダーを取りに来るまで何もないテーブルで10分以上は待たされた。待つのはいい。先に予定が詰まっている訳ではないのだ。

夫は撮ったばかりの風景などを、カメラのモニターで見ている。周りを見回すとほとんどが女性客で、にぎやかにおしゃべりしている様子だ。わたし達のテーブルのみ、ぽつりぽつりと写真の話をするだけ。
突然焦りを感じた。沈黙した一瞬、天使が通っているのが見えてしまったのだ。何かしゃべらなくてはいけないという焦燥感に、話題を探した。そうだ、彼が好きなサッカーの話題がある。
「ら、来年のワールドカップは観に行くの?」「うーん、考え中」
夫はカメラを見ながら、上の空だ。
「遠いからね、ブラジル」「遠いねぇ」
「観光名所とか、あるの?」と、わたし。すると夫は、
「急に話フラれても、わかんないよ」会話を終わらせてしまった。
そこでようやく、女の子がオーダーを取りに来た。料理は美味しく、様々な味の紅茶がポットに用意されるたび、何杯でも注いでくれる。
ゆったりとした、気持ちのいいランチとなった。

さて。車に乗ってからわたしは、文句を言うのも忘れなかった。
「何かしゃべらなくちゃって、緊張して話題探したのにさ」
「えっ? 緊張してたの?」と、助手席で笑いながら夫。
そう言われて、ふたりで旅行した時など、何時間も飛行機や電車に揺られ、おたがい本を読んだり眠ったり好き勝手しているのにと、わたしも急に可笑しくなった。女性客ばかりのあの雰囲気に、やられた。わたしとしたことが、天使の幻影を見てしまうとは。

国道141号沿いですが、小さなガーデンがありました。

茄子とモツァレラチーズのトマトパスタ。
メニューはピザ、石焼丼、飲茶セットなど種類豊富でした。

淹れてくれたのは、メロン風味の紅茶。香りより味がしっかりメロン!
にぎやかな場で一瞬沈黙した時に「天使が通った」と表現するのは、
フランスの諺から来ているそうです。

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冷蔵庫の空っぽの皿

冷蔵庫を開けると、空っぽの皿が入っていた。
「葡萄だけ食べて、お皿置きっぱなし?」娘に文句を言うと、
「そんなの小さなことじゃん」と返ってきた。上の娘である。
その小さなことに、人は日々翻弄されているのだよとは言わず、娘を見る。

すると「洗い物もしたし、お風呂のお湯も替えたのに」と、不満げに娘。
見るとキッチンは綺麗になっている。
「あ、ほんとだ。ありがと」
わたしが整骨院に行っている間に、気遣って家事をしてくれたのだと判る。
失敗したなぁと思いつつ、笑いは抑えられない。
「しかし、きみのボケようは、全く見事だね」と、わたし。
「べつにボケてないし」と、娘。
「それ、かなりボケてるからね」と、わたし。
笑いつつも、彼女に感謝し反省した。出来ていないところは目立つけれど、出来ている部分は目立たない。子ども達と過ごした時間で学んだはずなのに。
冷蔵庫の空っぽの皿が目立ち過ぎたということもある。それで娘がしてくれたあれこれに目が行かなかったのだ。

午後、ふたり別々に銀行に行き、ふたり別々にすごすごと帰ってきた。
「判子が違った」と、娘。「判子、忘れた」と、わたし。
娘は勝ち誇ったように言った。
「わたしは、判子を忘れてないからね。一緒にしないでね。ボケてるのお母さんの方じゃない?」
「お母さんは、忘れっぽいだけです!」
全く親子である。

冷蔵庫から消えた『シャインマスカット』は、いただきもの。
種なしで皮ごと食べられます。その美味しさは、うーん。表現に困ります。
皮をぷちっと噛んだ食感と、その後に広がる味わい。月並みですが最高!

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珈琲を飲まない珈琲タイムがくれたもの

珈琲が好きになる前から、珈琲屋に憧れていた。
常連と呼ばれる人達がマスターまたは珈琲屋の親父と気軽にしゃべったり、知らない人同士が出会ったり、待ち合わせに使われたり、喧嘩するカップルがいたり、いつも同じ席で本を開く無口な人がいたり。今思えばだが、人と人との様々なドラマが生まれる場所としての独特の雰囲気に憧れていたのだろう。

10代の頃、いくつかの喫茶店でウエイトレスをした。立ちっぱなしの肉体労働ではあったが、楽しかった。珈琲カップを「カシャン」ではなく「コトン」と優しい音を立て置くことや、大きくもなく小さくもない声で「かしこまりました」と言うことにも、細心の注意を払い、自分が納得する仕事ができるようにベストを尽くした。そんな小さな一つ一つが楽しく、今、毎日の生活のなかの何でもない小さなことを楽しんでいる自分の原点が、その珈琲を飲まなかった珈琲タイムにあるようにも思える。

女は愛嬌で生きるタイプではないが、笑顔も珈琲屋で自然と覚えた。
母親に似ず、女は愛嬌で生きるタイプの上の娘が、『ヒッチハイク山梨!!』に参加した感想を facebook にかいていた。
「よく笑顔がいいねって褒められるけど、それは周りの人が笑顔にしてくれるからです」ドッグカフェでバイト中の彼女は、わたしが珈琲屋で過ごしたような時間を今、更にアクティブに過ごしているようだ。

ずいぶんと久しぶりに珈琲をドリップし、ひとり庭で熱い珈琲を飲んだ。
キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所『蜂乃屋』さんが焙煎した珈琲を、安価で譲ってもらったものだ。
コトンとも音がしないこんな静かな時間に流れ着くなどとは、あの頃の自分には、想像もつかなかっただろう。いや。まだ漂流の途中なのかもしれないが。

手書きの字もアートっぽい。さすが『蜂乃屋』さん。

煎りたては、やっぱりふくらむなぁ。気持ちもちょっとふくらみます。

「あー、酸味が効いてて美味しい」夏の間庭に出しているベンチで。
といっても、酒瓶のケース2つの上に板を渡しただけ。
  
夫がいない平日は洗濯物も少なく、昨日はワンピースだけ洗いました。
ゆらゆら揺れるワンピースを眺めつつの、のんびり珈琲タイムでした。

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祈りのポーズに思う

庭で見かける虫の種類が、変わってきている。
昆虫酒場と呼んでいるクヌギの木の下には、カブトムシの死骸がいくつも転がっているし、オオムラサキも少なくなった。
その庭で、大カマキリに会った。わたしを警戒しているのか、両手の鎌を閉じ揃え、祈るような恰好で構えている。
カマキリを「おがみ虫」と呼ぶ地方もあると聞いた。イギリスでも「祈り虫」との名だそうだ。捕食する時の構えだそうで、肉食のカマキリだからこそ、命をもらう時に祈るかのように見えるのかもしれない。

わたしも毎日のように肉や魚を食べているが、命をもらっているという感覚は薄れている。何も感ずることなく料理し食べていることの方が多い。
しかしそれを実感する機会が、夏にある。バーベキューをする際、ネットで注文する豚肉『みやじ豚』を食べる時だ。縁あって豚舎に取材に行き、可愛い子豚を見せてもらい、大切に育てているという話を聴いた。通常より広い豚舎で、同じ親から生まれた兄弟のみを一緒にし、何より可愛がって育てることでストレスフリーの美味しい豚肉になるのだそうだ。
それから毎年、大人数でバーベキューをする度に、食べさせてもらっている。それがもう、びっくりするほど美味しいのだ。
可愛がって育てた豚を、殺して食べる。そういうと残酷に聞こえるかもしれない。だが聞こえるだけじゃなく、人が残酷なことをしているのも事実だ。ときに事実に目を向け、考える機会があってもいい。
カマキリのように手を合わせることはしなくとも、命をもらって生きているのだということに感謝しつつ。

祈りのポーズ。威嚇してたんだよね。驚かせてごめんね。

バッタくんもたくさんいます。いっぱい葉っぱ食べたねぇ。

トノサマバッタ。殿っていう顔してますね。ナイスネーミング!

吾亦紅が咲きました。花に乗っているのは、コオロギの種類かな?

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福耳唐辛子

福耳をいただいた。もちろんお金持ちになるというあの耳のことではない。いただいたのは、福耳という名の唐辛子だ。
「万願寺?」「だと思うでしょ? 違うの。辛いんだよ」
一昨日、我が家のウッドデッキで、ご近所さん総勢20名で持ち寄りバーベキューをした。その際、持って来てくれたものだ。同じ北杜市に住むご両親が畑で作ったという。
「生の方が、まだ辛くない」というので、その場でそれぞれ千切って口に入れた。辛いという人あり、これはいけるという人もあり。わたしはもちろん、いける派。「火を入れるともっと辛くなる」という言葉に嬉しくなる。

福耳と聞くと、子どもの頃、父親譲りの大きな耳を見て、大人達に「福耳だね」と言われたことを思い出す。子どもと言っても女の子なのだ。お金持ちになる福耳だと言われても、耳が不格好なほど大きいと言われているのだと、子ども心に傷ついていた。同じく父親譲りの耳を持つ弟などは「サル」と呼ばれていたのだから、自分がそう呼ばれなくとも鏡を見ては、ため息をついた。今は髪を伸ばし耳は隠してはいるがコンプレックスと言うほどではない。ただ思ったのだ。大人ってどうして、そういうことを平気で言うのだろうかと。

また、唐辛子で思い出すのは、保育士時代のこと。区立の保育園だったので、観賞用の唐辛子が区から届いた。赤や緑、黄色。綺麗だった。その唐辛子の匂いを嗅ごうと、鼻に入れてみた女の子がいた。ちょうど鼻の穴にすっぽり入る、大きさのせいもあったかと思う。火がついたように泣き出したその子に駆け寄ると、鼻が赤く腫れ上がっていた。彼女の鼻はしばらく冷やすと腫れも痛みも治まった。そして観賞用の唐辛子はその日のうちに撤去されたが、わたしはただただ思った。子どもってどうして、こういうことをするんだろうかと。

大人はかつて自分が子どもだったことを忘れがちだ。だから子どもの気持ちを想像することなく無神経な言葉をかけたり、子どもの好奇心あふれる行動に驚いたりするのだ。だが子どもはいずれ大人になる。唐辛子を鼻に入れた彼女だって、大人になっているはずだ。大人になった彼女に聞いてみたい気もする。どうして唐辛子などを鼻に? と。もしかしたら「あれは、実はね」と、小さなドラマを秘めた回答が返ってくるかもしれない。

クローバーと並べると、大きさがよく判りますね。
ちょっと色っぽい背中に見えるのは、わたしだけ?

福耳アート。目はズッキーニ、鼻はトマトで前髪はトウモロコシ。

ごま油で豚肉ともやしと炒めて、オイスターソースで味付け。
辛さのほどは? 全く問題なし。美味しい!

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魔法のおまじない「自分に内緒で」

神戸の夫の実家に帰ると、義母が焼き茄子を冷やしてくれていた。他にもいろいろ用意してくれていて、義父と夫と4人、ビールを飲みつつおしゃべりし、焼き茄子などをつまんだ。
「お茄子は、焼き立ての熱いうちに皮をむいた方が美味しいんだけど、最近はそこまでこだわらなくてもいいか、と思うようになったのよ」
そう話す義母に、わたしは何年か前に茄子の焼き方を教わっている。

料理本を見て作ったことはあったのだが、義母が言うように焼き立ての茄子の皮をむくのはしんどい。指先の熱さを我慢しながらの作業になる。焼き茄子は好きでも、作る過程がしんどいと自然と作る回数も減り、レシピの中から忘れ去られていた。教わったのはそんな頃だ。
「熱いまま皮をむくの、たいへんじゃないですか?」
義母に聞くと肩をすくめ笑い、いたずらっ子が内緒話をするかのように言う。
「そういう時には、自分に内緒で、こうするのよ」
水を入れたボールに焼き立ての茄子を浸し、義母は見る間に熱々の茄子を冷やしてしまった。それから一緒にゆっくりと皮をむいた。
そうか、と納得した。多少水っぽくなったとしても、冷やした焼き茄子は美味しい。しんどいところは省いて自己流に作ればいいのだ。それから、我が家の食卓に焼き茄子が登場する機会が増えた。若い頃には杓子定規にやっていた料理も、ずいぶんと手抜きが上手くもなり、以前より料理が楽しくもなった。
この「自分に内緒で」という言葉には魔法の力があるとひとりうなずき、義母に感謝したものだ。

そんな話をすると、義母は「そうだったかしらねぇ」と首を傾げた。
もちろん覚えていなくとも当然だ。何しろ義母は、すっかり自分に内緒にしたままだったのだ。もともと知らなかったことを、覚えているはずもない。
これから茄子が美味しい季節。焼き茄子もたくさん焼いて楽しもう。

夕べ帰って来て、また茄子を焼きました。水につけてからむいても、

焼いた色はそのまま。香ばしさも残っています。

たっぷりの鰹節をかけて、さっぱり柚子ぽんで。
茄子ならいくら食べても飽きないわたしは、茄子ホリック?



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いつも寿司屋で、気になる木

夫と、麹町の寿司屋『てる也』に行った。
「今の季節が、一番いいネタを仕入れられるんです」
親方が自信を持って言うだけのことはあり「美味い」の一言で完結してしまう贅沢な時間を過ごした。

魚も大好きだが、夫婦で寿司屋に行くと必ず話題になるのは、木である。
(このカウンター、何の木だろう?)
白くすべすべの綺麗な木肌を矯めつ眇めつしていると、案の定、最初の生ビールを飲んでいた夫が口を開いた。
「このカウンター、綺麗ですね。何の木ですか?」
「ヒノキです。30年は経ってます」
店舗をそこに決める際、20年以上使われていたカウンターはそのまま使おうと、磨き直してもらったという。惚れ惚れするほど綺麗なのは、毎日の手入れが行き届いているからだろう。

そういう話題になるのも、赤松の林を開き、切った赤松を使って建てた木の家に住んでいるからだ。大黒柱や梁、二階の床は一階の天井でもあり、それらが赤松。床はヒノキ。中も外も壁は杉。カウンターと玄関の柱は栗。テーブルは米松。薪ストーブで燃やす際にも、桜、梅、林檎、クヌギ、楢と様々な木に触れる。歌にもあるが「この木、何の木?」といちいち気になってしまうのだ。
「木は動くから、カウンター選びには気を使うものなんですよ」と、親方。
「家を建てて5年ほどは、パキーンと割れる音がよく聞こえましたね」と夫。
そう、木は動くのだ。柱になってからも赤松は悲鳴を上げ、ねじれ、亀裂が入り、松やにを流した。他の木達も雨が降れば膨らみ、乾燥が続けば縮む。それが住んでいくうえでややこしい時もあり、また面白くもある。

美味い寿司を出す店は、カウンターの木が美しい。美しく保つための手入れにもこだわりがあるのだろう。そんな一つ一つにこだわりがあればこそ、その日にしか食べられない素材にこだわった料理を出せるのだと、ヒノキの木肌を楽しみつつ、ゆったりペースで出される新鮮な魚に舌鼓を打った。

コハダの稚魚、新子(しんこ)初めて食べました。

北海道のばふんうに。薄味の出汁で。

鰹には、茗荷、葱、浅葱、生姜、大葉を刻んだ薬味がたっぷり。
重たい鈴のぐい飲みで、日本酒を何種類か飲みました。

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我が家の味保守的思考

近所の農家さんに、とても綺麗なゴーヤをいただいた。さっそくチャンプルーにしようと、レシピ検索。我が家の味はオイスターソースと塩、白胡椒のみと決まってはいるが、いろいろ見てみた。
そのなかでレシピではなく「8月5日はゴーヤの日」というのが目についた。確か語呂合わせで5月8日がゴーヤの日だと、スーパーは野菜売り場でウタっていたような。

よくよく読んでみると、5月ではまだゴーヤが生っていない地域も多く、それでゴーヤの日はないんじゃないかと「美味い」を「まいうー」などという時代、ゴーヤも「ヤーゴ」と呼んじゃおう。8月5日もゴーヤの日にしちゃおう。旬のゴーヤを夏に楽しもうというゴーヤファンの意見だった。
「ほんと、日本人って何とかの日を作るのが好きだよなぁ」
呆れつつも自分こそ語呂合わせの面白さは大好き。運転中、前の車のナンバー「2525」を見てニコニコ笑ったりしている。(怪しい人だ!)

結局レシピはさらっと見て、いつもの通りオイスターソースで味付けした。
「わたしって、保守的なのかな?」
疑問を残しつつも「美味しい!」ともりもり食べる夫と娘を見ると嬉しくなる。沖縄居酒屋などで食べる機会があっても、我が家の味に勝るチャンプルーを食べたことがないのだから、挑戦する気持ちも湧いてこない。新しい味を開拓するには、まずは飽きるほどオイスターソース味のゴーヤチャンプルーを食べるしかないかも。それってやっぱ、ゴーヤだけに58日ぶっ続けかな。いやいや。その頃には、ゴーヤの季節も終わっちゃうって。
まあ、我が家の味なんてものは、得てして保守的なものなのかも。

美しいですね。見とれてしまいます。
ごつごつの理由は、繁殖していくためだとか。
熟れるとへこんでいる皮が薄い部分から裂け、赤くなった種をアピール。
鳥達に見つけてもらい、食べて運んでもらうのだという説があるそうです。

チャンプルーは、緑のゴーヤの方が色味がきれい。

白いゴーヤは、苦味も少し優しい感じです。
白いもやしや豆腐は入れず、緑に、にんにくの芽を入れました。

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茗荷が思い出させてくれた忘れていたこと

毎朝、茗荷を摘みに庭に出る。味噌汁の薬味に、大切に一つだけ摘んで、あとは明日にとっておく。まだ小さいものも多く、大きくなるのを待ちつつ、少しずつ楽しませてもらっている。嬉しく瑞々しい朝の収穫だ。
土から頭を出した茗荷には、無限に伸びていこうとする力強さが、パワーが感じられる。採りたての茗荷にもまだまだそのパワーが詰まっている気がする。そのパワーもありがたくいただく。毎朝一つずつ、茗荷に元気をもらう。

ずぼらなわたしだが、何もせずとも茗荷は強く伸びてくれる。その茗荷に毎朝土に触れ収穫する機会をもらい、野菜達に詰まったパワーや、土や水や太陽の恵みを感じることを、日々思い出すようになった。
野菜が育つ過程や、また、動物や魚に命を分けてもらっていることなどを思い出し、日々、美味しく食べられる幸せを感じられるようにもなった。

「食べると物忘れする」と言い伝えられてきた茗荷が、そんな多くを思い出させてくれることが、不思議であり面白くもある。
しかしわたしの忘れっぽさは、昨日も絶好調だった。買い物に出かけた際、反対車線が混んでいたので、帰りは別の道で帰ろうと思っていたのに、買い物を終えるとすっかり忘れ、渋滞に巻き込まれてしまった。
「あー、茗荷効果!」
などと言いがかりをつけつつ、始まったばかりの茗荷の季節を楽しんでいる。

収穫した茗荷と、花が咲きそうな茗荷。

庭のなかでも、ひときわ生命力に満ちているよう。葉もピンと伸びています。

茗荷をのせると、同じ味噌汁が倍美味しい!

夕方には蕾だった花がひらき、その茗荷を摘んで浅漬けに入れました。
真ん中にあるのが花です。柔らかい味でした。

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ラーメン食べたい

『ラーメン食べたい』という歌が好きだ。
ちょっとだけもの悲しいような、雰囲気のある矢野顕子の歌だ。

「ラーメンたべたい ひとりでたべたい 熱いのたべたい」
と始まって、サビと言えるのかわからないが失恋っぽい歌詞へと流れていく。
「男もつらいけど女もつらいのよ 友達になれたらいいのに
 あきらめたくないの 泣きたくなるけれど」

メロディや雰囲気も好きだけど、何と言っても「ラーメンたべたい」と始まる歌詞のインパクトにやられる。「ラーメン食べたい」というフレーズはそれひとつで詩として完結している。すごい。
プラスして、ラーメン屋でひとりラーメン食べてる人にだって、それぞれドラマがあるんだよなと再確認する歌でもある。
失恋した女だったり、ダイエットはもうやめた宣言だったり、ラーメン通の男だったり、一仕事終えたら丸一日何も食べていないことに気がついてだったり、または、そんなラーメン食べる人を観察しているわたしだったり。
もっと言えば、ふたりだって、5人だって、10人で食べてたって、ひとりひとりにドラマがあるのだ。

「あー、ラーメン食べたい」
失恋などしていなくとも、定期的にそう思うのは、わたしだけじゃないよね? 日本人の半数以上が「定期的にどうしようもなく、ラーメン食べたいとつぶやく」派だと、わたしは踏んでいるのだが。もちろん、夏でも。

甲府昭和『来来亭』迫力の葱たっぷりラーメン。1日30食限定!

韮崎『幸楽苑』の葱塩ラーメン。やっぱ白髪葱の方が辛さが増して好みです。

中央市開国橋近く『めん丸』の辛味噌葱ラーメン。わたし的には、M辛。
「チャーシューはいらない なるともいらない ぜいたくいわない
 いわない けどけど ねぎはいれてね にんにくもいれて」
 うーん、矢野顕子はすごいなぁ。名曲ですね。
(注)3杯たて続けに食べた訳ではありません!

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ハードルを越え、食したことがないものを作ってみる

木曜は、夫とランチすることが多い。東京は四ツ谷の会社に通う彼は、木曜は山梨支社、つまり自宅で仕事をすることにしているのだ。
「お昼、なんにするー?」と、わたし。「うーん」と、夫。
山梨も標高600mある我が家でさえこう暑くては、ない冷房が欲しくなる。昼食時、食欲がわかず、メニューを考えるのも億劫にもなる。

ところが昨日は、夫が食べたいものがあると所望した。先日会った知人から聞いたという。
「胡瓜とかさ、いろいろ刻んで冷やすんだよね」
「それって、山形のだしかな?」
「山形のだしなのかは知らないけど、ご飯にかけて食べるらしいよ。暑い時にも食がすすむんだって」
「わたしも食べたことはないけど、噂には聞いてる」

食したことがないものを作るのは、ハードルが高い。出来上がっても、その物の味に仕上がってるのかどうか確認しようがないからだ。なので、こういう勢いで作ってみようという機会でもないと、なかなか手が出せない。急なリクエストだしダメもとだという気楽さもある。とにかくあるものでやってみようとネットレシピをいくつか検索し、冷蔵庫の中の使えそうなものを並べてみた。胡瓜、茄子、オクラ、納豆、めかぶ、生姜、生きくらげ、茗荷の甘酢漬け。これだけあればできそうだ。胡瓜と茄子はあく抜きし、きくらげは茹で、とにかくすべて刻んで麺つゆ+α の調味料を入れ、粘りが出るまで混ぜた。あとは冷蔵庫で冷やせば出来上がりの簡単タイプだ。

「美味しい!」と、わたし。「これは、美味い」と、夫も大満足。
しかし、彼はその後に言葉を付け加えた。
「でも聞いたのはもっと薄味だったと思う。ほぼ素材の味的な」
「それって、もしかして冷やし汁のことかな?」
ふたりとも、だしも冷やし汁も食したことがない。考え込みつつも「まっ、これだけ美味けりゃいいじゃん」「だね」と、もりもりご飯を食べたのだ。

薄いピンク色は茗荷の甘酢漬けです。茄子の紫も綺麗なうちに食べました。
ねばねばするものを混ぜるのって、何故か楽しいんだよね。

ご飯がすすむなぁ。すすみすぎないよう、要注意!
夫ご所望の鶏のから揚げも、もりもり食べました。

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緑黄色のズッキーニ

町の産直野菜売り場で、綺麗なズッキーニを見つけた。
「味は、緑色のズッキーニと変わらないんですか?」
聞いてみると丁度、生産者の若者がいて、丁寧に教えてくれた。
「同じです。緑と黄色のズッキーニを作っているんですが、畑と畑との間で蜂が交配させてしまったらしく、マーブル模様のようなものが出来ました」
「綺麗ですねぇ」「綺麗ですよね」
味も値段も同じなら、いつもとは違った面白いものの方がいい。それに加え、彼の柔軟な対応が好ましくも思われた。変わり種のズッキーニを面白いと思うか、失敗作と思うかで、売り方も変わってくるだろう。彼の堂々と自分が作った野菜を薦める態度に、嬉しくなり是非買って帰ろうと思ったのだ。

我が家でのスタンダードな調理法は、オリーブオイルでスライスしたにんにくをカリッと炒めて取り出し、そこで輪切りのズッキーニを焼く。味付けは塩胡椒。大抵、肉の付けあわせに皿に盛り、カリカリにんにくを散らす。お好みでバルサミコ酢をかけて、召し上がれ。
「うーん。緑の野菜を食べてるって感じ」
とは、いつも、ズッキーニを食べて感じることだが、あえて言おう。
「うーん。緑黄色野菜を食べてるって感じ!」

ズッキーニは、正しくは淡色野菜ですね。中が白っぽいので。
判っていても、緑黄色野菜と呼びたくなる色です。

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ブルーベリーの柔らかい皮

所用で立川まで出たので、友人を訪ね、中央線は西国分寺駅に降り立った。
突然のメールにもかかわらず、彼女は、
「うちに来ない?」と、喜んで迎えてくれた。
(突然、家に呼べるというのが、わたし的には実に尊敬するところだ。常に家が片付いているということは、すごいの一言に尽きる)
待ち合わせた駅の改札を出ると、野菜が並べられた店が出ている。畑から抜いてきた泥付き大根を無造作に置いただけの我が町の産直野菜売り場とは違い、お洒落である。マルシェという名が似合う雰囲気だ。
面白いので写真を撮らせてもらい、彼女への手土産にブルーベリーを買った。

家に着くと「やっぱ、ビールだよね」と、友人。
「やっぱ、ビールだね」と遠慮もなく、わたし。
昼下がり、久しぶりに会う友人宅で飲むビールは格別だった。
子どものこと、家族のこと、とりとめもなく、おたがいに近況をしゃべり、楽しい時間を過ごした。おたがいに、笑いながらビールを空けつつも、それぞれに悩み事だって抱えている。
「外から見ると、毎日のいろいろは見えないから、悩み事なんかない家庭みたいに見えたりするんだよねぇ」と、わたし。
「そうそう。絵に描いたような幸せいっぱいの家庭に見えたり、しちゃうんだよねぇ」と、彼女。
「でも実はさ、絵に描いたような幸せな家庭なんて、ないのかも」
「うん。いつも笑顔の人だって、いろいろ抱えてるんだよねぇ」
ふたり、しみじみとビールを空けた。そして、ゼリーに添えて出してくれたマルシェのブルーベリーをスプーンですくって食べた。ブルーベリーは、よく熟れていて甘かった。友人とふたりゆっくりとしゃべると、ブルーベリーの柔らかい皮をひとつひとつ噛みつぶすかのように、胸のなかにたまった小さな泡がひとつずつ割れていくのを感じた。シャボン玉のように、いくつもの小さな泡が、飛んでは割れ、胸が軽くなっていった。

ロゴも可愛く、露店とは呼べない感じです。

茄子もいろいろ。トマトもいろいろ。

南瓜は、すでにハロウィンの雰囲気。と思いきや、コリンキー?
生で食べられる南瓜だそうです。

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夏野菜にとりとめもなく言葉の不思議を思う

家庭菜園をしている方々から、夏野菜をいただく季節になった。
胡瓜、茄子、モロッコインゲン。形は悪くとも、無農薬だし新鮮で野菜の味が濃い。なるべくそのままの味を生かして食べたい野菜達だ。
モロッコインゲンは、きっかり2分固めに茹で、マヨネーズで。
茄子と胡瓜に刻んだ茗荷と生姜を入れて浅漬けにし、茄子は焼き茄子にしたり、生姜焼きにしたり、胡瓜はサラダに入れたり、味噌をつけてかじったり。

そうそう。かじると言えば、山梨に越して来た頃、驚いたっけ。
「学校でさ、友達に『背中かじって』って言われてびっくりしちゃった」
小4で転入してきた娘の言葉だ。
甲州弁で、背中をかくことを「かじる」と言う。
わたしも、美容室で「背中かじったんですか?」と聞かれ、
「えっ? どうやってかじるんだ?」と考え込んだことがある。
今もわたしには馴染めないが、子ども達は、聞き取りはできるようだ。なにしろ、学校で騒いで叱られるのは、このセリフ。
「ちょびちょびしちょし!」(いい気になるな!or 調子に乗るな!)
先生も甲州弁なのだ。
しかし、この「ちょし」は曲者だ。甲州弁勘違いは、ほぼここから起こる。「するな」という意味なのだが「左いっちょし」などと言われると、つい左に行きたくなる。夫はサッカーの試合でこの言葉に何度も騙されていると言う。味方が「行くな」と言っているその方向に、つい向かってしまうのだとか。

言葉による勘違いと言えば、先日遊びに来たカナダ出身のクリスとマリーと一緒に、バーベキューをした時のこと。火起こしを頼み、肉や野菜を準備をしていると、「マリーが、ガソリン入れたいって」と、娘。
「ビールでいい?」と、わたしは3人分のビールをウッドデッキに運んだ。
ふうん。英語でもお酒が飲みたい時「ガソリン入れたい」って言うんだな、言葉って不思議だなと思いつつ。
だが数日後、娘に聞くとマリーは「火がなかなかつかないから、薪にガソリンをかけたい」と言ったのだそうだ。「thank you」とビールを受け取る表情に、何か違和感があったような気がしたのはそのせいだったのか。
そんな勘違いをする方が驚きだと、夫と娘は言うが、わたしは、洒落た(?)日本語を使いこなそうと努力しているだけなんだけどな。

茹でると緑が鮮やかになり、食卓が涼やかになるモロッコインゲン。

もぎたて胡瓜は、何もつけずにかじっても美味しい!

連休にも家族でバーベキューしました。椎茸には、庭のバジルを刻んで、
すりおろしたニンニクとオリーブオイル、塩で味付けしてみました。
ワインが似合う、大人のバーベキューでした。

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重要なのは、たっぷりとタレがあること

この夏、初の冷やし中華を食べた。
冷やし中華が美味しい季節。それもそのはず。七夕でもある7日は『冷やし中華の日』だそうだ。何でも「冷やし中華が美味しくなる季節」だからだとか。暦で小暑(しょうしょ)に当たる日は7月7日が多いらしく、暑気が強まるその辺りにと『冷やし中華の日』を決めたという。

最近の冷やし中華は、スーパーで売っているものも美味しく、たっぷりとタレも付いている。タレがたっぷり付いているのが、とてもいい。タレは多すぎるくらいが丁度いいのだ。「タレがたっぷりある」からこそ、錦糸卵を焼くのも鼻歌混じり。胡瓜を刻む包丁の音も軽やかになる。重要なのは、たっぷりとタレがあることなのだ。
20年以上前は、こうはいかなかった。タレの袋自体もっと小さく、具なしでようやく麺を浸せるくらいしか入っていなかった。初めて夫に冷やし中華を作った時に彼が発した言葉の衝撃は、今も胸の奥深く沈んでいる。
「タレは、もうないの?」
ショックだった。あるよ、と差し出せるものならよかったのだが、ないのである。まだネットでレシピを検索することもできず、わたしはただただ「ない」と答えるしかなかった。
世の中、いい方向にばかり進んでいる訳ではないが、昔よりも、冷やし中華のタレはたっぷりとある。それはとてもいいことだと思う。一つの希望である。

ところで「ストレートスープ付き」などとかかれたものもよく見かけるが、冷やし中華に「スープ」とは、わたし的には馴染めない。タレの方が断然ぴったりくる。そこは譲れない。
紅生姜と辛子がない冷やし中華なんて、紅生姜と辛子だけの冷やし中華みたいなものだと断言するのと同じくらいに、譲れないところだ。

夫と二人のランチですが、刺し身用の皿を2枚使いました。
それだけで、ちょっと豪華な気分。
具もタレも、麺が茹で上がるまですべて冷蔵庫に入れておき、
ひんやり冷たいのを食べました。「できたよー」と呼んでも、夫は仕事中。
なかなか来ないのは承知しているので、麺投入の際に呼びます。

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キックスクーターは、赤道を越えて

オーストラリアで娘と同じシェアハウスにいたカップルが、遊びに来た。
カナダはケベック出身のクリスとマリーだ。
バーベキューで歓迎した翌日、ふたりキッチンに立ち、ケベックの伝統料理だという『パテシノワ』を作ってくれた。
炒めた合挽き肉の上にコーンを敷き詰め、牛乳とバターでクリーミーに仕上げたマッシュポテト、チーズを乗せ、オーブンで焼く。肉、コーン、マッシュポテト、チーズの4層が綺麗で、それぞれが強くは主張せずにおたがいを尊重しているような優しい味に仕上がっている。夫と娘と5人、にぎやかにしゃべりながらおかわりし、お腹いっぱい食べた。

娘がオーストラリアで最後に住んでいた『バンブラ』と呼ばれるシェアハウスは、みんな仲がよくずいぶんと楽しかったらしい。
そこでシェアメイトだったふたりが「サプライズがある」と言い、出して来たものは、まさに驚きの品だった。バンブラ通りで、娘がバイト先まで毎日乗って通っていたというキックスクーターだったのだ。ハンドルには、シェアメイト達からのメッセージが、所狭しとかかれている。
「これ、分解して持ってきたの?」と、夫。
娘は「Oh! Great!」とか「thank you!」とか言っているが言葉少なだ。
クリスとマリーは、穏やかに微笑んでいる。
ふたりとも、登山用の大きなザックと小さなザックをそれぞれに持っていた。ずいぶん大荷物だなとは思ってはいたけれど、日本のまえにフィリピンにも寄って来たと言っていたし、京都にも行ったと言う。そんな長旅のザックのなかに、まさか娘のキックスクーターが入っていようとは。

浴衣を着て七夕祭りに行ったり、花火をしたりと、ふたりもずいぶん楽しんだとは思うが、なかでも娘が一番楽しそうな顔をしていた。

上手く描けなかったけど、スマイルのつもり。

アツアツ焼き立てを、マリーが取り分けてくれました。
「レディファースト」と、マリー。「イエス、レディファースト」と、娘。

玄関の前で。はい、ポーズ!
あんちょこを見ながら、なんとか着せられました。ふう。

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カマキリと庭の幸

時期を逸してしまった。それにめげず夫と摘み、調理した。大好きな山椒の実だ。少しくらい硬くても味わえるはずと長めに茹で、ちりめん山椒にした。
「これ、すごい!」「確かに、すごい!」
夫と顔を見合わせる。「山椒は小粒でもピリリと辛い」そのまんまである。山椒好きにはたまらないが、辛いもの苦手派にはオススメしない舌のしびれよう。中の種がもう黒くなっていて、簡単に噛みつぶせるのだが、かりっと音がする。やはりもう、時期が過ぎていたのだ。それも山椒好きのわたし達夫婦には無関係である。
ネットで検索したレシピには、冷蔵庫で2週間保存できるとかいてある。毎朝のご飯に楽しめそうだ。ひとりランチには、生姜と茗荷を刻み、酢飯に混ぜた。彩りにオクラを飾って「いただきます!」山椒の木の近くには、自然発生した木苺が生っている。山の幸ならぬ庭の幸? を楽しんだ。

ところで、木苺を摘む際に、今年生まれたであろうカマキリに出会った。もう生まれたての透明さはなく、如何にも成長中ですとアピールするかのように生命力にあふれていて、みるみる大きくなっているのだと判る。動きもしっかりしていた。
「誕生おめでとう! がんばれよ」
木苺を摘むと葉が揺れ、彼はバッタのようにぴょんと飛び跳ね、何処かへ行ってしまった。植物にも虫達にも生きる力が目に見えるほどにありありと感じられる。そのパワーを存分に分けてもらえる季節なのだと実感した。

14年目の夏を迎える、我が家の山椒の木です。

これくらいあれば、十分楽しめそう。

昨年は小女子でしたが、今年はなかったのでちりめんで。

生姜に茗荷。夏の味ですねー。木苺はすっぱくてわたし好みでした。

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トラウマからの脱出

最近よく迷う。方向音痴ではあるが、道にではない。
ラーメン屋で注文する際に、迷うのだ。タンメンにするか、はたまた葱味噌ラーメンにするかという究極の選択。メニューを見ていると、現実逃避なのか、生ビールの種類をちらちら見たりして、値段チェックをいつのまにかしている自分に気づき、ハッとしたりする。

2年ほど前は、担担麺にハマり何処へ行っても担担麺を食べていた。迷うことのない人生もそれはそれで素敵だ。しかし、そのマイブームも去った。自然と飽きるものなのだなと、淋しくも感じつつ担担麺に別れを告げた。ちょうどその頃だっただろうか。諏訪の一風堂で、『一風堂からか麺』を食べた。辛いものは大好きだし、多少辛過ぎても美味しく食べられる自信もあった。だが『一風堂からか麺』には負けた。5段階の4辛にしたにも関わらず、一口食べた途端その辛さに唇は痛くなり、思いっきりむせた。なんとか完食したが、しばらく辛いものはもういいやと、辛いもの大好きのわたしが思うほどだった。

それから塩味も優しく、野菜たっぷりで身体にも優しそうなタンメンに移行した。胡椒はたっぷりとかけ、辛さもプラスして食べている。だが最近になり、葱味噌ラーメンがわたしを誘うのだ。そろそろそんなトラウマは忘れて、ちょっと辛めのやつ、行きましょうよと。喉元過ぎても忘れなかった『一風堂からか麺』の辛さも、2年経ち、そう言えば思い出せなくなった。

甲斐市『NARU-TO』(なると)の葱味噌ラーメン。
辛さは優しく、何と言ってもとろけるチャーシューが美味い!

夫とよく行く韮崎市のチェーン店のタンメン。
野菜の出汁が効いた塩味も、捨てがたいです。


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壊れた目覚まし時計が鳴る朝に

「あーもう! まだ5時前だよ」
壊れた目覚まし時計が、鳴り続けている。
♪ テッペンカケタカ テッペンカケタカ ♪
リズミカルで、声も高らかである。ホトトギスだ。
「なんでまた、寝室の真上で鳴くんだよー」
ぶつぶつ言っても、テッペンカケタカは止まらない。キンキンと寝起きの頭に響いてくる。いくら朝寝坊で困っている人にだって、スイッチのない目覚まし時計は薦めはしない。気も狂わんばかりにありもしないスイッチを探すに決まっているからだ。それならもう起きようかとも思うのだが、あと30分は寝る気満々ですと身体の方は主張し、起きようとはしないのだ。
♪ テッペンカケタカ テッペンカケタカ ♪
頭の中に巣を作ったように、ホトトギスは鳴き続けている。

少し、うとうとした。その間にホトトギスの声は遠くなっている。ホッとしたその途端、鳴った。目覚まし時計がかって? いやいや。お腹の音。ホトトギスのおかげで早く目覚めたせいか、ベッドから起き出す前にお腹が空いていた。全くもって、健康的な朝である。

近所の方に、栃尾名物の油揚げをいただきました。

夫が起きる前にひとり、油揚げと新玉葱と小松菜の味噌汁をすすりました。

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上等な人間になるには

新玉葱で、スープを煮た。
友人とんぼちゃんの日記に写真がアップしてあって、とても美味しそうだったので真似てみた。
近所の友人にいただいたお庭のローリエの葉と、カンボジアの黒胡椒を粒のまま一緒に煮込んだ。優しい味にホッとする。
玉葱の甘さに、柔らかくなった黒胡椒を噛み潰した時の広がる辛さが嬉しい。コンソメだけの味付けなのに、人参も甘い。夜わたしがベッドに入った後、バイトから帰った娘も、美味しく食べたと言っていた。新玉葱効果抜群だ。

先日、浅草で一緒に食べた寿司が美味しかったと義母からメールがあり、
「美味しいものを食べると、まるで自分が上等な人間になったように思うのはわたしだけでしょうか?」とかかれていた。
魅力あふれる憧れの女性である義母は、わたしなどよりはずっと上等な人間だと思うが、甘くとろける旬の新玉葱を食べ、わたしも少しだけ上等な人間になれたかなと、背筋を伸ばし気取ってみる。
上品な人間にはほど遠くとも、一段一段、階段を上るように美味しいものを食べていけば、上等な人間に近づけるかもしれないと、勘違いでもいいから思うことに決めた。折りしも野菜が美味しくなる季節である。

「粒のまま煮込んでも美味しいよ」と友人。胡椒も柔らかくなりました。

びっきーとの散歩道にある農家さんの玉葱畑。収穫もすぐかな。

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バッカスに愛されて

義母と浅草で待ち合わせした。短歌の会があり、神戸から泊りがけで勉強に来て、1日半みっちりと勉強したというので、
「ランチは、お蕎麦に生ビールですね」と、提案すると、
「いいわねぇ、喉も渇いたし」
相談はすぐにまとまり、蕎麦屋に直行。メニューも見ずに「生ビールふたつ」と注文し、乾杯した。
「美味しい!」「やっぱ、生ですよね!」
子ども達のことや、短歌の会の話、神戸でのことなど話は尽きない。そのなかでローマ神話の神、バッカスの話を聞いた。
「バッカスに愛された幸せを、歌に詠んだ方がいるのよ」と、義母。
バッカスとは、酒の神だそうだ。
「おたがいバッカスに愛されていて、幸せよねぇ」
「本当に!」と、わたしも大きくうなずいた。
義父もバッカスに愛されたタイプなので、神戸の食卓も、毎晩、当たり前のように晩酌となるようだ。
「そこは、ものすごく気が合うのよ」と、義母。
我が家もそうだが、確かにバッカスに愛されたふたりの食卓は、にぎやかしく、酒での失敗やケンカモあれど、それはそれでまた楽しいものだ。
そんな話をしながら、気がつくと2時間、蕎麦屋で飲んでいた。

夜は合流した夫が、寿司屋に連れて行ってくれた。当然最初は生ビールから。
「なんか、生ビール久しぶりですよねぇ」と、わたし。
「ほんと。ずいぶん久しぶりでうれしいわねぇ」と、義母。
乾杯するわたし達を見て、夫はただ呆れるばかり。バッカスの愛を、陽の光の如く一身に受けた母と妻を持つのは楽じゃない? いやいや。それはもう幸せいっぱいでしょう。

浅草ビューホテル向かいの蕎麦屋『こう太』で。
腰のある、手打ちならではの美味しい蕎麦でした。

ホテルの部屋から眺めた夕暮れの浅草寺とスカイツリー。

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春の皿には

庭の蕗を茹でた。塩で揉み、何度もさらしたが、なかなかアクが抜けない。煮びたしにするのをあきらめ、最終的には辛子酢味噌で和えた。ほろ苦さが酢で緩和され、美味しく食べられた。
草冠に路とかく蕗は、今の季節本当に、路(みち)を歩いていると大きな葉をよく見かける。ふきのとうを探していた時には、通り過ぎていた場所にこれでもかというほど蕗が葉を広げていて、来年こそとチェックするのだが、これがまたよく似た場所だったり、勘違いもあり、覚えられないこともありで、毎年、見当違いのところを探っていたりする。そしてまた、今頃になって思うのだ。ここにも、ああ、あそこにも蕗の葉が、と。

「春の皿には苦味を盛れ」という言葉がある。苦味を摂取することで、冬に溜まった脂肪や毒素を身体の外に出し、身体を目覚めさせようということらしい。とにもかくにも自然の蕗のほろ苦さは、スーパーで買った蕗にはない味わいがあった。皮をむくのは手間だが、ぜひもう一度食べたい。いまだ春眠が抜けないわたしには、苦味がまだまだ必要なのかもしれない。ふきのとうと違い、採り放題の今、にわか山菜マニアになり山から蕗を採って来よう。

コロボックルが隠れていそうですね。葉が大きく風に揺れる様子から、
「葉吹き」(ハフキ)あるいは「風吹き」(フフキ)と呼ばれ、
「フキ」と呼ばれるようになったという説もあるそうです。

上の娘が中学の時に、陶芸教室で焼いた器に入れました。

夫が撮った写真です。ホースの上より、よほどよく似合いますね。

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暖色の大皿

庭に植えたローズマリーを使って、ポークソテーを焼いた。トマトにも一緒に摘んだバジルを散らす。ハーブを料理に活かせるいい季節だ。
大皿に盛り付けしていて、その皿を買った時のことを思い出した。
ひとり暮らしを始めた22歳の頃。年下の料理が上手い友人と食器を買いに行った。彼女は美術系の大学に行っていたと記憶している。
「食器を買いたい」と言うと、喜んで付き合ってくれた。

その頃のわたしはみずがめ座の色も濃く、手に取る食器も寒色系の物が多かった。歳を重ねてからのように、ピンクのケータイやハンカチを持ってはいなかった。今も藍の皿などは好きだが、こだわりも強すぎると縛りになってしまうということが、あの頃はまだ、わからなかったのだ。いいと思ったものはどんな色であれ試してみようという余裕も、歳を重ねてから生まれたものだ。
だから、よく覚えている。
「暖色系のお皿に、しよう」そう彼女が言ったこと。
それから30年近く、この大皿に何回料理を盛り付けたことだろう。この皿のオレンジと黄色は、いつも食卓を明るくしてくれる。彼女の選択は、少なからず我が家の食卓に柔らかく明るい色を添えてくれたのだ。

今や年賀状のみの付き合いになってしまった彼女に、連絡してみようかなと、最近ふと思う。たぶん彼女にとっては、覚えているはずもない些細なことだろうが、大皿を使う度に思い出し、何故に暖色系の大皿を選んだのか問いただしてみたい衝動に駆られるのだ。

にんにくをオリーブオイルでカリカリに炒め、そのオイルで焼きました。
豚肉も野菜も、塩胡椒し、ローズマリーを散らしただけですが、
バルサミコ酢をかけると、柔らかく優しい味になりました。

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デコポンとゲシュタルト崩壊

食後のフルーツで一番人気は、何と言っても「デコポン」だ。
何故か。わたしが好きだから。出会いから、その名に魅かれた。姿通りのネーミングは、拍手したいくらいにぴったりくる。
そして手でむけるところ、中の薄皮ごと食べられるところ。ここは重要なところだ。面倒くさがりのわたしでも、いつでも食べようという気持ちになる。ここで包丁やらまな板やが必要になってくると、それがハードルとなり食べないまま腐らせてしまったりもする。
さらに味。甘さが勝っていても柑橘類の酸っぱさがわたしを誘う。もちろんビタミンCも豊富だ。もう、言うことなし。

ということで毎朝の食後、夫に聞く。「デコポン食べる?」
「食べようかな」などと最初は答えていた彼だが、デコポンシーズンが3か月目にも入ってくると変化が現れた。飽きて食べたくないという訳ではない。
「デコポン」という名のリズミカルさも加わり、わたしの毎朝発する「デコポン食べる?」がゲシュタルト崩壊していったのだ。試しに10回言ってみて欲しい。「デコポンタベル?」「デコポンタベル?」「デコポンタベル?」と。言葉そのものが、ばらばらと崩れ、宇宙の果てへと散っていくはずだ。

ゲシュタルト崩壊と戦いつつも、わたし達は食後にデコポンを食べている。夫も戦っている。
「デコポン食べる?」と聞かれ「うるさいよ。食べるよ」と、言ったり、
「デコポン食べる?」と聞く前に「食べる」と早口で答えたりする。
わたしも負けていられず、彼が茶碗を置くや否や「デコポン食べる?」と畳み掛けるように聞いたりする。
「今日は食べない」と、夫がすねて言うこともあるが、わたしがひとり食べていると「少しだけ食べてやるよ」と、結局食べる。
そんなデコポンシーズンも、そろそろ終わり。淋しい限りだ。

デコボコな形が、何とも言えず魅力的。「デコポン食べる?」

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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