はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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真逆なふたり旅の計画

スペイン旅行を計画している。夫とふたり、ツアーではなくのんびり旅だ。
末娘が高校を卒業し、彼女の送り迎えもようやく卒業した。同時にびっきーの飼い主である上の娘がワーキングホリデーから帰り、散歩も任せられるようになった。この機会を逃さず「サグラダ・ファミリアを観に行こう」と、話はすぐにまとまった。それも来月半ばと迫り、ようやく準備を始めている。

夫は地図大好きで、ガイドブックも隅から隅まで読むタイプ。
今回は、飛行機もホテルも一つ一つ選び、サグラダ・ファミリアやアルハンブラ宮殿の入場チケットもすべて、彼がネット予約した。
一方、わたしは地図は全く頭に入らず、食べたいものや行きたい雑貨屋などばかり見るタイプ。
「オイガ・ウナカーニャポルファボー」(すいませーん、生ビールください)など、使えもしなさそうな、あるいはそればかり使いそうなスペイン語を覚えたりしている。

わたしの年に一度の健康診断も無事終わり、オールA判定。(夫はこれから)
「それだけ毎日ビール飲んでて、どうしてまた。検査に疑惑ありだな」と夫。
「会社指定の健診センターですが」などと言い合いつつ、スペインバルで、楽しい旅行になりますようにと乾杯した。

友人からはアドバイスも。
「レンタカーはやめた方がいいよ。助手席にいてもナビできないでしょ?」
「うん。地図読めないからね、わたし」
「わかってても、イライラするんだよね、運転手は。ケンカの素だよ」
「わっ、それ、リアルにありそうでヤダねぇ」
真逆なタイプ、ふたりの旅。果てさて、どうなることやらである。

四谷のスペインバル。何故かイタリアワインが出てきました。

海老のアヒージョ。ふつふつと沸くオイルに海老が踊っています。
にんにくその他入りオイルにパンをつけると、それだけで美味しい一品に。


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おむすびと空っぽのお皿

夫からの要請があり、おむすびを握った。サッカーの試合だという。
握っていて、ずいぶん懐かしい感覚だなぁと驚いた。上の娘はお弁当が必要な時には自分で作って行くし、末娘も高校卒業まで自分で毎朝おむすびを握っていた。新米が届いた夜、自分のために握って以来かも知れない。大量に握ったのは、夏に大人数でのバーベキューで最後に焼きむすびをした時か。
おむすびって、つくづく不思議な食べ物だ。ただ握っただけなのに、茶碗によそったご飯とはまるで違う。ハンドパワーが作り出すものなのか、その塊には力の素が入っているように思える。

我が家の子ども達は、3人共に食が細かった。今思えば何のことはない。単に食が細いタイプだったのだ。それでも新米の母親は小さなことに胸を痛め、くよくよと思い悩むものだ。どうして他の子よりも食べないんだろう。何がいけないんだろう。手を変え品を変え料理に手間を掛けようとも、思うように食べてくれない彼らに、疲れてしまうことも多かった。
そんな時にはおむすびを握った。塩で握っただけの、子どもの手にすっぽり収まる小さなおむすびだ。それをただテーブルの上に置いておいた。すると、誰かが一つ食べ、また誰かが一つ食べ、終いには十ほどもあったおむすびがなくなっている。空っぽのお皿は、わたしを心底ホッとさせた。
今では3人ともスリムではあるが、極普通に育っている。好き嫌いも成長と共にあまりなくなった。何も思い悩むことなどなかったのだ。

おむすびに助けられたそんな記憶をたどりつつ、夫のために、力ではなくハンドパワーと気持ちを込め、おむすびを握った。

息子と末娘は鮭派でしたが、夫と上の娘は何でもあり派。
梅干しと、しじみ生姜昆布を入れて。

田植えが始まり、空が映った夕暮れの田んぼ。
おむすびパワーの素は、ここから生まれるんだよなぁ。

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静かな春の夜

絹さやをいただいた。採れすぎて困っていると、近所の家庭菜園をしているご夫婦。もちろん喜んで、たくさんいただいた。
買えば結構、値が張るものだ。味噌汁や肉じゃがの色味に使うのが一般的なのか、少量パックで売っている。せっかくたくさんいただいたので、いつもは食べない食べ方をしようと絹さやオンリーのサラダにした。これもまたいただきものの胡麻ドレッシングがあったので、絹さや胡麻風味の出来上がり。
夫も娘も帰らない夜。ひとり、絹さやでビールを飲んだ。

しんとした春の夜も、もうあとわずか。ちらほらと水が入った田んぼを見かけるようになった。すぐに田植えの季節になる。田植えが始まると一斉に鳴き出すのだ。木霊を繰り返すようにあちらからもこちらからも、夜そのものが振動しているかのようにわんわんと響き渡る、蛙達の歌。

絹さやの鮮やかな緑と静かな春の夜。ひとりほろほろと酔いながら満喫した。

胡麻ドレッシングは、酸味が爽やかで、絹さやとよく合いました。
きっかり1分、歯応えがしっかり残るように茹でました。

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少しだけ大きすぎる

瓶ビールには憧れがある。
日本の大びん中びんというやつではなく、アメリカのバドワイザーやデンマークのカールスバーグのようなスマートな瓶のビールのことだ。
アメリカ映画などでよく、バーやキッチンで瓶ビールを開け、そのまま口をつけて飲むシーンがあるが、ああいうのって素敵だなと、ずっと憧れていた。
週末、夫の友人達が遊びに来た際に、ライトなビール好きのわたしのためにと、ハートランドとバドワイザーを買って来てくれた。ハートランドはグリーンの瓶ではあるが500ミリリットル。日本語で「中びん」と明記されている。だが憧れるままに、瓶に口をつけて飲みたいという衝動に駆られていた。

「とりあえずビールで」と夫がサッポロ黒生のロング缶を出し、それぞれ適当にビアグラスに注ぐ。わたしはいただいたハートランドを開け、
「じゃ、わたしはこのままいこうかな」
その時、一斉に否定の声が上がった。
「い、いや、それは」「さすがに、ちょっと」「それは、ないでしょ」
「レギュラー缶より、多いからね」
ジョークではなかったのだが、笑って誤魔化し白ワイン用グラスに注いだ。
「レギュラー缶より多いって、360ミリくらい?」
わたしの飛ばしたジョークには、誰も答えなかった。憧れるままに、瓶から飲みたかったんだけどな。ハートランドは少しだけ大きすぎる。残念だ。

メキシコのコロナは、ライムを少し絞って飲むと美味しいと言われています。
オランダのハイネケンにも、しばらくハマったことがありました。
魚の形の栓抜きは木製で、持った感じも手に馴染んで気に入っています。
娘の友人、アメリカ男子マルコスは「この家の子どもになりたかった!」と。
厳しい家庭に育ち、成人してもアルコールはタブーだったそうです。
のどごし生で、缶のまま乾杯しました。「チアーズ!」

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何故に心魅かれるのか

じつは、セロリを千切りにするのが好きだ。
少しの間手を休め、セロリの匂いを嗅ぐ。夫の友人達が来て、ワインパーティをすると言うので、定番となったセロリの千切りサラダを作っていたのだ。

何故にセロリの千切りなどに、心魅かれるのか。言葉にできるかどうかもわからないような小さな感覚が、わたしを魅了する。
かじった時のようなシャキシャキ感が、千切りにする包丁から伝わり、セロリを切っていると感じるのだ。セロリの千切り以外では味わえない感覚を。
たとえば、気持ちがスッとほどけていくような、和らいでいくような感じ。
たとえば、まな板の裏側に隠れていて一瞬だけ顔を出してくる、あるやなしかもわからない何かが、ふっと形になって見えたような感じ。
またたとえば、目の前に大きく広がりすぎていていつもは気づかない何かに、はたと気づいた瞬間のような感じ。
さらにたとえば、キッチンの神様が、ビールを飲みつつ降りてきたような感じ。おたま片手に「料理ってさぁ、訳もなく心躍るよねぇ」とか言いながら。

肩の力を抜いて、ゆっくりと時間をかけ、一株のセロリを千切りにした。至福のときであったが、切り終えてまた、ホッともするのだった。

水にさらしてあく抜き後。綺麗ですね。見とれてしまいます。

鶏ささみを卸しにんにくと醤油で焼き、わさびマヨネーズで和えます。
アクセントに茗荷を。赤ワインにぴったりの料理です。
ビール党のわたしにと、ハートランドビールとバドワイザーを頂きました。
とっても嬉しいお土産でした。ライトなビールにもぴったりの料理です。

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胡椒が振りかけた魔法

胡椒をいただいた。カンボジア産だという。これがすごく美味しいのだ。
買ってあった生姜焼きにしようと思っていた豚肉をその胡椒と塩で焼くと、娘が驚くほど食べた。彼女いわく。
「香りが違うねぇ。このまえ蕎麦屋で卸した生わさびを初めて食べたけど、うん。チューブのわさびと生わさびくらい違う」
確かに香りがいい。
「胡椒って緑の粒が生るんだね」「乾燥させると、黒くなるんだって」
ふたりの食卓も、胡椒ひとつでいつになく盛り上がり、学校の話から、世界中から戦争を失くすにはどうすればいいのかなんてことまで、とりとめもなくしゃべった。美味しい食事には、家族の思いや言葉を引き出す魔法があると、わたしは信じている。魔法の粉でも振りかけたかのように、久しぶりに娘とゆっくりしゃべることができた。

いただいた人に聞くと、カンボジアで日本人が作っている胡椒『KURATA PEPPER』だという。内戦で栽培されなくなってしまった世界一美味しいと言われたカンボジアの胡椒。それをもう一度作りたいという日本人倉田さんの思いから作られた胡椒なのだそうだ。

久しぶりに出した胡椒ミルに鼻を近づけもう一度匂いを嗅いでみる。香りを吸い込んだ、その途端クシャミした。毎朝、目玉焼きを焼いて胡椒を振り、クシャミをするように。花粉症ではないが、胡椒には異様に敏感な鼻を持っているのだ。「うん。確かにこれは違う」
世界一のクシャミかどうかは謎だが、一味違うクシャミだった。
小さな粒をさらにミルで挽き、粉々になり宙に舞い、わたしの鼻をくすぐったミクロの胡椒。その中に込められた人の思いは、宇宙ほどの大きさを持つものだろうと、目をつぶり想像した。

ローリエは、お庭でとれた日本産だそうです。
久しぶりに出した胡椒ミルは、林檎のかたち。

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恵まれた才能

珈琲も好きだが、ビールも大好きだ。
こちらは求める気持ちが、すでにオーラになっているのか、求めなくともやってくる。友人に東京に行くから会おうと言うと「4時に恵比寿で」と返事をくれた。「恵比寿」と言えば「エビスビール」
会うなり彼女は「ビール記念館に行こうよ」と、歩き出した。遅れて駆け付けると言っていたもう一人の友人が来るまでの時間、とりあえずの一杯を飲もうと計画してくれていたらしい。扉を開けると、発酵した麦のアルコールを含んだ空気のお出迎え。見学もそこそこに、乾杯した。わたしは『琥珀エビス』友人は『スタウトクリーミートップ』
「あー、美味しい!」「久々の乾杯、嬉しいねぇ」
ビール党のふたりだ。近況を語る口調も、生ビールのお陰かなめらかになる。

ほどなくして到着した友人と、ビヤステーションに移動し、本格的に飲み始めた。もう一人の友人は、お酒は一杯をゆっくり飲むタイプ。対してビール党のふたりは、生ビールをおかわりし続ける。話はあっちに行き、こっちに行き、笑ったり、長いつきあいのなか初めて知る一面に驚いたり、共通の友人の仕事ぶりに感心したりした。
「秀でた能力を持った人は、いいよねぇ」とは、ビール党の友人。
「ほんと、羨ましいよねぇ」とは、わたし。
しかし、間髪を入れず、お酒ゆっくり派の友人が言った。
「何言ってんの。ふたりともビールを飲む能力に、恵まれまくってるじゃん」
「おお! ほんとだ」「確かに!」
とても大切な自分達の能力に気づかせてもらい、あらためて乾杯した。ふたりのビールを(いくらでも楽しんで)飲めるという(ちょっと高すぎるかもしれない)能力と、お酒ゆっくり派の友人に感謝して。

生ビールサーバーには、泡用の別の口が付いていました。
一口もらって飲んだ『クリーミー』は、黒ビールとは思えないまろやかさ。

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求める気持ちあればこそ

東京は半蔵門で、屋台の珈琲屋さんを見つけた。
注文してからドリップしてくれて、豆の産地もはっきりしている。見るからに真面目に珈琲を淹れていますという感じだ。嬉しくなって早速、酸味が勝った珈琲を選び、淹れてもらった。チェーンの珈琲屋がテイクアウト用に使っているような蓋付きの紙コップに入っていたが、美味かった。
美味しい珈琲が飲めるのは、幸せなことだ。ますます嬉しくなり、ふたたび足を運び、少し立ち話しをした。すると、
「酸味好きなら、これ飲んでみてください」
店長だという彼は、気前良くグァテマラ産の『エル・ソコロ』というストレート珈琲を1杯ご馳走してくれた。
「美味しい!」「酸味も強いけど、甘みが後味に残るんですよ」
珈琲が本当に好きで店を始めたと話していた通り、顔を見れば、根っからの珈琲好きなのだと判るような話し方だった。
「豆、自宅用に買えますか?」「明日までに用意しましょう」
という訳で、グァテマラの『エル・ソコロ』が今手元にある。

方向音痴のわたしだが、「豆が違います。」その看板の一文に、道を曲がってみたのは間違いじゃなかった。求める気持ちあればこそ、美味しい珈琲との出会いは待っていてくれたのだ。

珈琲屋さんのページはこちら→都市型コーヒースタンド Dripper'sCoffee

レギュラーサイズは、なんと200円でした。ホテルの部屋で珈琲タイム。

看板の15mにも目を留めました。これなら迷うこともないはず!と。


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チャーハンとチャーハンの狭間で

チャーハンの味付けが、いまだに夫の好みに合わせられない。
「チャーハンは、もっと濃い味の方が好きだな」
彼は、結婚当初からずっと言っているのだが、その味を出すことは難しい。もともとわたしが薄味派だということもある。彼がチャーハン好きで、外ランチで食べる機会が多いということもある。わたしが外食でチャーハンは食べないということもある。だが、めったにないことに、外でチャーハンを食べることがあると、考えてしまう。これは、違う。違う食べ物だ。だいたい、わたしが作ったチャーハンの方が断然美味いと。
しかし夫のなかでは、悔しいことに、外食の濃い味チャーハンの方が勝っているらしい。これでは、歩み寄りようがない。食の好みは結構合う方なのに、求める味が根本から違っているのだ。

一昨日、ホテルのブッフェで、ふたり朝食を食べた。夫はご飯、わたしはお粥。ふたりとも肉じゃがを取っていた。まあまあの肉じゃが。しかし末娘なら言うことだろう。白滝が入っていない肉じゃがなんて、肉とじゃが芋が入ってない肉じゃがのようなものだと。
「うちの味と、全然違うね」と、わたし。
「うん。これは、全く違う食べ物だね」と、夫。
肉じゃが的には、共に過ごした年月の中で、我が家の味が確立されているということかな。もしかすると夫はチャーハン好きなだけに、外で食べるチャーハンとわたしが作るチャーハンとの狭間で、迷子になっているのかもしれない。
はてさて、我が家のチャーハンが、肉じゃが化する日は訪れるのだろうか。

焼き豚と葱を入れたチャーハンが一番好評です。
味付けは塩、胡椒、鶏がらスープの素、最後に醤油を回しかけて焦がします。

ブッフェの朝食。野菜がたくさん食べられるのがいいですね。
「結婚した頃は、食べ物のことで、よく揉めたよね」と、夫。
「何処もみんな、そうかもね」と、わたし。

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小さな彼の大きな驚き

山椒の新芽が葉を広げたので、筍が食べたくなった。
春だなぁとうららかな気持ちで、柔らかい山椒の葉を摘む。指先に匂いが移り、それを嗅がなくとも風にのってつんと尖った匂いが届く。いい季節だ。

家に戻り、ネットで筍レシピを検索していたら、新たな発見があった。
「シナチクって、筍だったんだ!」発見を、娘に自慢しようと話すと、
「そうだよ。知らなかったの?」と、つれない返事。
「えーっ? 知ってたの?」「とーぜん」
「シナチク目、シナチク科、シナチク属のシナチクさんだと思ってたのに」
自分の知識の少なさは認識していたが、キャベツとレタスの区別がいまだできない彼女に負けるとはショックだった。しかし、人間知らないことの方が遥かに多いのだ。知らないということは、新たな発見や驚きに出会うチャンスが未知数にあるということでもある。

ふと、以前特急あずさで近くの席に座っていた「新たな発見」をした子のことを思い出した。確か4歳くらいの男の子だった。大人しくパンを食べていたのだが、発見した驚きを母親に伝えたくて、つい声が大きくなったようだ。
「お母さん!見て見て、すごいよ! このパン、クリーム入ってる!」
クリームパン初体験だったのだろう。母親は、恥ずかしかったのか「はいはい、そうね」と小声である。しかし母親の態度に、自分の大発見を理解してもらえていないと彼は思い、さらに声高に訴えた。
「すごいんだよ! だって、パンの中にクリームが入ってるんだよ!」
「わかったから」さらに声が小さくなるお母さん。
「ほんとだよ! ほんとに、パンにクリームが入ってるんだよ!」
彼が驚きを身体じゅうで感じているその瞬間に出会えたことは、わたしには、忘れていた何かを思い出させてくれた心に残る出来事となった。
果たして大人になった彼は、あの驚きを覚えているのだろうか。

山椒を摘んでいると、びっきーが犬小屋から出て不思議そうに見ていました。

筍の木の芽和え。木の芽はたっぷりあるので、おかわり自由です。

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甘やかして育てました

末娘が生まれた時に、わたしは宣言した。
「この子は、甘やかして育てます!」
宣言の通り、3人目の子どもである末娘は甘やかされて育った。母であるわたしにも、父である夫にも、7つ離れた兄にも、4つ離れた姉にも。
甘やかされて育った子どもが大抵そうであるように、小学生まではわがまま放題だった娘だが、ある時ふと気づいたようだ。
「自分は、甘やかされ過ぎている。このままではいけない」
娘がそう気づいたと、わたしはすぐに気づいた。そして、それからさらに甘やかすようになった。

高校に入り、彼女が初めてテストで百点を取った時のこと。
「えーっ! 百点!? すごい! すご過ぎる! 実は天才なんじゃないの?」
迎えに行った車中で、褒めちぎるわたし。
「がんばったね! すごいね! コンビニでアイス買う?」
物で釣るのは親としてどうかと思うが、甘やかすことに抵抗がなくなっているわたしには、すでに無関係である。
「もう、なぁんでも買ってあげる。何個でも買ってあげる。コンビニじゅうの物、ぜーんぶ買ってあげる」(ムリだろ!)
娘も、嬉しそうにノッてくる。「うん。ママ、アイス買って」
小学生の時のようにママと呼ぶその声は、子役演じる声優さながらに甘ったるくかん高く可愛らしく演出されたものだ。しかし、彼女はアイス1個以上のものはねだらない。
甘やかす母親と、自分との位置をしっかり見極め、必要以上のものは不要と判断し、そしてしっかりといつもは食べられないハーゲンダッツを選ぶのだ。

大学入学後、夫と共に、初めて娘と食事した。
「何でも好きなもの、食べていいよ」
夫の言葉に、彼女は好物のウニを好きなだけ食べた。これからは大人の付き合いになるのかな、それとも。生ビールを飲みつつ、考えるのだった。

新宿の美味しい日本酒を揃えた『頑固おやじ』で。

娘とよく寄ったコンビニ。国道141号沿いの気持ちのいい場所にあります。

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磨きがかかった彼女

オーストラリアで1年過ごし帰ってきた娘は何も変わらないように見えたが、日々共に過ごしていると、やはり微妙な変化を感じずにはいられない。帰って来たばかりの頃は、木の上の猿を見て「あ、コアラ!」などと言っていたが、これはまあ、変化と言うほどのこともないだろう。しかし、ある日の会話。
「なんでさぁ、レンゲでカレー食べてんの?」と、驚きを隠せずに夫。
「別にいいでしょう。何で食べたって」と、娘。
「カレーにレンゲは、ちょっと……」と、わたし。
「だって、そんなこと言ったら、レンゲ使う機会がないじゃん」と、娘。
「ら、ラーメンとか」と、遠慮がちに夫。
「うちでラーメン、食べないし」と、娘はぺろりとカレーをたいらげた。もちろんレンゲで。もともといろいろと気にしない派だったが、それにさらに磨きがかかっているのを感じる。

また、ある日の会話。
「あーっ! 冷凍庫のハーゲンダッツ、サムが『オトウサンに』って買ってくれたやつじゃん。なんでこんなになくなってるの?」
と、娘を責めるように、夫。
「お父さんとわたしにって、言ってたんじゃない?」
と、しれっとした顔で言い放つ、娘。
「いや。確かにお父さんにって、サム言ってた」と、わたし。
「そうだっけ?」と、すべてを知った者の微笑みをたずさえつつ、娘は言う。
その自信に満ちたとぼけようにも、やはり磨きがかかっている。そして。
「サムに、言いつけてやる」と、夫。
「言いつければ?」と勝ち誇ったように、娘。
開き直り方にも、ずいぶんと磨きがかかっているのだった。

我が家の茄子カレーは、フライパンで柔らかく焼いた茄子を最後に入れます。
煮崩れることもないし、茄子の旨味を逃さず食べられます。

ステイしていたサムが去り、1週間が経ちました。
あらためて、彼がいた2週間は濃い時間だったなぁと感じます。

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いいシャツと悪いシャツ

週末、小淵沢のアウトレットまでドライブした。古くなったワイシャツを何枚か処分したので、それを補充するため、夫とふたり買いに出かけたのだ。
標高が高い方に向かうので桜もまだ咲いていて、牛を放牧しているのを眺めたり、寄り道しつつのんびりと走った。
「いいシャツがなかったら、どうしようかな」と、夫。
「その時は、悪いシャツを買おうよ」と、運転手のわたし。
ふたりでドライブすると、こんなめちゃくちゃな禅問答にもならないジョークを言い合うことも多い。いいシャツの対義語は、悪いシャツではもちろんない。だが、どうしようかねぇと答えるのもつまらないではないか。
「いいシャツ?」「悪いシャツ?」などと笑いつつ、ネクタイを締めても締めなくても「どっちでもいい」シンプルなシャツを一枚選んだ。

帰り道は、スーパーに夕飯の食材を買いに寄った。野菜売り場には春の山菜が並んでいる。ふきのとう、タラの芽、こごみ、木の芽、そのなかに立派なウドを見つけた。
「美味そうなウドだねぇ」「ほんと。いいウド!」
「いい」という言葉は面白い。いいシャツは気に入ったシャツのことだし、いいウドは瑞々しくて食べたいなぁと思わせるようなウドだ。「どっちでもいい」も「いい」のうちだし、「よしよし、いい子だね」と子どもをあやせば「いい子にしてね」の意味合いが出てきたりする。
まあ「いい」。幸運にも「悪いシャツ」ではなく「いいシャツ」を選ぶことができ、「いいウド」をカルパッチョにして、夕飯はワインで乾杯した。「いい」という言葉通りの「いい」週末だった。

のんびりと草を食む牛達。

鰹とウドのカルパッチョ。庭に出てきたイタリアンパセリをのせました。
味付けは、柚子ポンとオリーブオイルと粗挽き黒胡椒で簡単に。

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朝ご飯食べてますか?

油断した。油ではなく味噌を切らしてしまった。
「なんで味噌がないの?」
普段あまり食事について文句を言わない夫が、不満を漏らす。
味噌は、ネットでまとめ買いをしている。すぐに届くと思っているその油断から、注文するのが遅れたのだ。

我が家のスタンダードな朝ご飯は「朝ご飯」と呼ぶに堪えうるものだと自負している。味噌汁(複数の野菜を入れたもの)、ベーコンエッグまたはウインナとスクランブルエッグまたは納豆、野菜(モヤシやキャベツやほうれん草炒め、またはトマトやレタスなどのサラダ)、在れば夕飯の残りの煮物や梅干しなど、それに炊き立てのご飯。といった風である。(こうかくと、普通だな)まあしかし、なるべく野菜をたくさん取れるよう心掛けている。だから味噌汁は、具だくさんになることが多い。味噌汁の具を何にするか迷う夢を見るほどに、気持ちも入れ込んでいる。山梨と東京。普段離れていることが多いわたし達夫婦には、共に食事をする時間が大切だと思うが故だ。
その味噌を切らしては、不満顔をされてもしょうがない。

東京でふたり一緒に泊まり、朝ご飯を食べることがある。
大抵チェーンの珈琲屋で、パンと珈琲の朝食だ。ふたりで食べればそれはそれで美味しいが、いつも彼はひとりで食べているのだろうと想像する。
想像したら、野菜たっぷりの湯気が立った味噌汁を作らずにはいられなくなる。炊き立てのご飯をよそわずにはいられなくなる。小さな朝の小さなワンシーンを、丁寧に過ごしたいと思わずにはいられなくなる。
明日は、届いたばかりの信州は山吹味噌で、彼の好きな豆腐と油揚げの味噌汁を作ろう。小松菜となめこも入れよう。葱もきざもう。
朝ご飯、食べていますか?

『プロント』の茹で卵つきモーニング。
余談ですが「プロント」はイタリア語で「準備OK」の意味。
電話に出る時の「もしもし」にも使います。今いいですよって感じかな。

半蔵門のホテル近くにあるバールで、トマトリゾット&珈琲。

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目的をはっきりさせることで見えてくるもの

東京、千鳥ヶ淵では、七分咲きのツツジが春風に揺れていた。
立ち寄ったのは『暮らしのうつわ、花田』その名の通り器を扱う店だ。1階には茶碗や平皿、小鉢、マグカップやお湯呑みなどが、2階には鍋や大皿など大きめの器が並べられている。
「わ、素敵!」と一目で気に入った幾何学模様のタジン鍋は、小さめにもかかわらず一万七千円。妥当な値段だとは思うが手が出ない。一通り見て歩いたが、ぼんやり眺めるだけに終始し、店を出ようと思った時にふと思い出した。
「そういえば来月、夫が高校時代の友人達を呼び、イタリアン&ワインパーティ(ただの飲み会とも言う)をしたいって言ってたな」
きびすを返し、もう一度店内を歩く。するとさっきまで目立たず大人しくしていた皿達が、一斉にアピールし始めた。
「パーティには大皿が必要ですよ。新調してはいかがですか?」
「取り皿がおしゃれだと、盛り上がりますよ」
「突き出し用の小さめの小鉢が、欲しかったんじゃありませんか?」
手に取った皿はもう、さっきまでとは違うものになっていた。「取り皿用」「カルパッチョ用」「ブルスケッタ用(並べ方まで思い浮かんだ)」など、はっきりした目的を持ってわたしに語りかけてくる。不思議なもので目的がはっきりしたとたん、同じ皿なのに、見えなかったものが見えてきたのだ。
結局、大皿1枚と、取り皿用の皿5枚を選び、迷った挙句購入した。
「新しい料理に、挑戦しようかな」
店を出ると、春の柔らかい風が頬をなでた。

いいなと思っても、値が張って手が出ないものもたくさんありました。

ごつごつ感と淡い色合いの優しさを合わせ持つ『粉引』の大皿。

写真を並べると大きく見えますが、取り皿に丁度いい大きさです。
ほたる窯という窯元さんの作品ですが、模様も蛍を連想させます。
いただきものの栃尾のあぶらげを、小松菜と煮て。



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高菜は語る

「あ、高菜」と思った瞬間にオーダーしていた。ランチのパスタ。高菜とチキンのピリ辛風味。たまに出会う高菜は懐かしさをまとい、わたしを誘惑する。

初めての高菜漬けとの出会いは、バイト先の喫茶店でランチに出していた、高菜チャーハンだった。高菜とさつま揚げを炒め、卵を入れる。高菜の塩味だけで味付けしたチャーハンは、十代のわたしにはまだ足を踏み入れたことのない樹海のように、まるで知らない味だった。こんなに美味しいものがあるんだと驚いた。若かったなぁと思う。

そのバイトで忘れられないワンシーンがある。ミスをした。ランチのご飯を電気釜に移した時に保温するのを忘れたのだ。ミスしたのはわたしだが店のみんなが冷めたご飯をお客様に出さなくてはならなかった。落ち込んだ。さらに落ち込んだのは上司であるフロアをまとめる男性チーフが、わたしを責めなかったことだ。「怒ってるんだろうな。嫌だなぁ」チーフとわたしの間には気まずい雰囲気が漂っている。
「お疲れさまでした」挨拶して帰る時にも、わたしは下を向いていた。
チーフは、ランチタイムの喧騒が去った誰もいない店で珈琲を飲んでいた。
その時ふと感じた。彼は傷ついていると。わたしのミスだが、それに気づかなかった自分を責めている。小さなことだと思うかもしれないが、温かいご飯を出すのと冷めたご飯を出すのとでは天と地程の差があると、チーフもわたしも思っていたのだ。彼はわたしを怒っているわけじゃないのかも。逆に彼も、落ち込んでいるわたしにかける言葉を、うまく見つけられないだけなのかも。そう感じた瞬間、笑顔でチーフに話しかけていた。
「『サイモン&ガーファンクル』で、おススメのアルバムありますか?」
彼は珈琲カップをソーサーに戻し、笑顔をわたしに向けた。そして、大好きなアーティストのことを語り始めた。

高菜はわたしに語る。人と人とをつなぐ見えない糸の不思議を。相手が怒っていると決めつけてはいけないのだ。ただ同じように傷ついていることだってあるし、まったく違うことを考えていることだってある。表情や雰囲気からそれを読み取ることは難しい。だからこそ笑顔で話すことが重要なんだ、それが気持ちを伝えることになるんだと、19歳のわたしは学んだのだった。
ピリ辛というには辛さが足りませんでした。残念!
ランチセットメニュー、+パンとスープだと900円。単品だと1000円。
でも食べきれないのにセットを頼むのは嫌なので、単品で頼みました。
これっておかしいよねぇ。しかし友人いわく。
「そんなことじゃあ、大阪のおばちゃんにはなれないよ!」
いや、目指してないから。

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食器達の戸惑い

食器達が戸惑っている。定位置に片づけられる穏やかな日常から、何処へ行くのかわからないスリリングな日々への突然の変化に、緊張が続いている。

「はじめまして。酒を注ぐのを生業としているものです」と、漆塗りの片口。
「僕らは朝ご飯に食卓に出るので、お会いするのも初めてですね」と、お椀。
「しかし、確かにわたし達、似ておりますね」「いや、確かに」
サムは漆塗りの片口を、食器棚のお椀の場所に片づけていた。彼はよく、皿洗いや食器の片づけをしてくれる。何を聞くわけでもなく、自分のスタイルでごく自然に片づけてくれるので、こちらもそういう時には、ありがとうと言い任せることにした。しかしその食器を片づける場所が、外国人ならではの感性で面白い。片口とお椀の他にも、ぐい飲みが醤油皿の上に重ねられていた。

「こうやって重ねられるのは、不思議な感じだよね」と、ぐい飲み。
「食卓に、一緒に並べられることはあってもねぇ」と、醤油皿。
「きみは小ぶりだから鯵の叩きの時とかに、活躍してるよね」
「そうそう。日本酒が美味しく飲めるみたいだよね」
ぐい飲みと醤油皿は知った仲だが、やはり戸惑いは隠せない。
他には、ご飯茶碗と小鉢も。
「なかなか緊張感のある日々でしたな」と、ご飯茶碗。
「それももう終わるのかと思うと、淋しい気持ちにもなりますね」と、小鉢。
そう。サムのステイは、今日までだ。

軽くて手ごろな大きさの漆塗りの片口は、いただきものです。
サムは時々、お椀でコーンフレークを食べていました。

確かに大きさも同じくらいですね。

右側のごっつい茶碗は夫用。少し欠けていますが、気に入って使っています。
上の娘が夫の茶碗を使っていたので注意したら、自由人の彼女いわく。
「誰のだっていいじゃん。食べたいお茶碗で、食べればいいじゃん」

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サムと娘の料理レポート

サムが夕食を作ってくれた。オーストラリアで、家族の誕生日などにお母さんがよく作ってくれた料理だという。ふたりのお兄さんと妹とサム。4人兄弟で取りあいし、楽しく食べたそうだ。
薄いパンに、肉や野菜をそれぞれ乗せて、巻くようにして食べるのだが、「ラップ」と呼ばれるナンを薄くしたようなパンは、山梨のスーパーでは見つからなかった。そこで肉と野菜をサムが、ラップパンを娘が作ることに。しかし、こねるまでは順調だったラップ作りが、薄く伸ばすところで難航した。
「このくらいでいっか」と、かなり分厚いままフライパンで焼こうとする娘を見て、サムが料理の手を止めた。スマホを手に取り動画を流し始める。
「あきらめんなよ! どうしてそこでやめるんだ、そこで!」
松岡修造がシジミ採りに挑戦している動画だ。
「もう少しがんばってみろよ!」
海に腰までつかりつつ、松岡は叫んでいる。
「never give up. がんばれー」と笑いながら歌うように、サム。
娘も肩をすくめ笑いつつ、ラップを再び伸ばし始める。

昨今「がんばれ」と言わない方がいいという風潮がある。昔は単なる挨拶だった「がんばってね」が、今では余計なプレッシャーを与える言葉として肩身の狭い思いをしている。「がんばらない」という言葉が持てはやされたりもする。だが彼らにはそんな風潮など何処吹く風だ。でもさ、それが自然なのかも。彼らと共に笑いつつ考えた。「がんばれ」って悪くない言葉だよなと。

娘はがんばってラップパンを伸ばしました。でもまだちょっと分厚いかな。
チキンは胸肉を照り焼きソースにつけて焼いたものでした。美味しかった!

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ほろ苦い山の春

ご近所さんの奥様が、山菜を持って来てくれた。初めて見る山菜だ。
「タラの芽と匂いが似てるの」と言うので、匂いを嗅いでみると確かに似ている。微かに苦みを感じられる独特の匂いだ。
レシピを聞き、ネットでも検索しようとパソコンを開いた。しかし途端に、聞いたばかりの山菜の名前を忘れた。
「まさか匂いを嗅ぐと、忘れる効果がある山菜だとか?」
彼女は、5回はその名前を言った。はっきりと発音して教えてもくれた。なのに何故。疑惑を抱きつつも、しかたがないのでメールして再び聞いた。
「うこぎ」メールはいい。忘れたら見直せばいいのだから。
混ぜご飯がオススメだそうだ。ネットで見ても、ご飯のレシピがほとんどだった。果敢にも「うこぎペペロンチーノ」に挑戦したご近所さんの奥様も、「やっぱ、混ぜご飯だね」と感想を聞かせてくれた。

米沢で藩主上杉鷹山が、敵の侵入を防ぐため、棘のあるうこぎを食用できる垣根として広めたそうだ。なので現在も、米沢がうこぎ生産地としては日本一だという記述はいくつかのページに載っていた。
だが、茗荷のように忘れっぽくなる効果は探せど探せど見つからなかった。
疑惑を消せぬまま「いやいや、何もかも忘れるのもじつはちょっと素敵かも」などと空想を展開しつつ、うこぎご飯を口に運ぶ。
ほろ苦い山の春が、口の中に広がった。

濃いきれいな緑色。タラの芽と形も似ていますが、小さな柔らかい芽です。
「キイロスズメバチに一時に8か所刺された経験を持ち、
珈琲の焙煎もできる多趣味で日本野鳥の会所属で陶芸家のご近所さん」の、
奥様は彫金作家。山菜にも詳しいおふたりです。

「うさぎのこ」と覚えました。まだ忘れるつもりかい! と突っ込まれそう。
忘れる云々は言わず、娘に出すと「美味しい!」とたくさん食べました。
残念ながらサムは朝寝坊。その間に彼女はすべて食べつくしました。
「これお腹に優しいの?」と娘。「ビタミン豊富だとは思うけど、お腹に?」
「七草粥と似てるじゃん」「いや似てるけど、あれはお粥だからだよ」
「でも似てるからさ、お腹に優しいのかなって」「だからお粥だからだって」
彼女で試したところで、うこぎ物忘れ説は図れないと判明しました。

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人生初?

最近、同じ言葉を何度となく聞く機会があった。『人生初○○』だ。

末娘が越した埼玉の浦和には、歩いて行ける場所に商店街がある。山梨でも電車も通らない我が町、明野町では、完全車社会なので、大型スーパーで買い物することがほとんど。彼女の目には何もかもが目新しく映るらしい。
「コロッケとか売ってるお肉屋さんって初めて見た! 『人生初肉屋』だよ」
感動し話してくれた。
アニメなどで、コロッケを肉屋で買い食いするシーンは見ていても、実際にコロッケを揚げて売っている肉屋を見るのは初めてなのだ。
「パン屋さんも、あるんですよ!」と、高校の先生に言い、
「それは、浦和に失礼でしょう」と、呆れられたそうだ。
コンビニもない田舎町に育てばこその感動だ。

一方、上の娘はわたしの実家で可愛い孫としてたいへんな歓迎を受けたようで、両親は帰る前日も焼肉屋に連れて行ってくれたと言う。
「おじいちゃんとふたりで、生ビール飲んだよ。楽しかった。おばあちゃんも、すごく喜んでた。『人生初焼肉屋』だって」
彼女はバイトしつつ、おじいちゃんおばあちゃん孝行もしたようだ。

そしてサムは昨日の朝食。『人生初納豆』&『人生初生卵』をダブルで体験。
「ノー」「うーん」「ノー」と食事中、言葉少なになっている。
娘はそれを笑って見ていた。美味しそうに納豆ご飯を頬張りつつ。

『人生初○○』わたしも何かに挑戦しようかな。

『人生初ブロッコリー入り焼きそば』作/サム&娘

「おばあちゃん、チョコレートが食べたいな」と娘が一言いうと、
実家の母は、山のようにチョコレートを買ってきてくれたそうです。
「チョコアイスも3つあった」とおばあちゃん孝行な彼女は笑っていました。
母も楽しかったようでよかったです。

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ハングリーロードムービー、再び

雨の高速を走っていた。22時。夕飯はまだ食べていない。夫が運転し助手席にはわたし。もうふたりとも疲れ切って食欲も何処かへ行ってしまっている。
「昔よく腹減らして、ふたりで中原街道を走ったよね」と、夫。
「なつかしいね。山梨に越してからもお腹空かせて走ったよね」と、わたし。
ハングリーロードムービー、再びである。何故こうなるのかというと、食べてから長時間運転するのは疲れるし眠くなる。なので、なるべく目的地に近い場所で食べたいし、できれば目的地に着いてからビールが飲みたい。故に走る。

末娘の引っ越しで、夫と埼玉に行った。宅配で頼んだ組み立て式ロフトベッドが時間に届かず、その上その組み立てが想像を絶する大変さで、時間はどんどん過ぎて行った。(鉄パイプでできていて重い上に、狭い部屋での組み立ては難解だった。もう二度と組み立てたくない)
ぶじベッドが完成した時には、20時半を回っていた。
「じゃあな」と、夫。「じゃあな」と真似して、わたし。
「ありがとう」と、娘。
3人とも疲れ切っていて、涙の旅立ちとはならなかった。

「軽井沢のコンビニは、23時までしか開いてない所が多いんだ」
「うそ。いまどき?」「ホテルのバーだって開いてるかどうか」「うーん」
少し遠まわりして軽井沢で一泊し、美味しいものを食べ温泉にでもつかって、のんびり翌日帰ろうという計画は、形を変えていた。軽井沢到着は23時だった。しかし、悪いことばかりではない。
「バーは何時までですか?」と、チェックインするなり夫。
「23時半ラストオーダーで24時までです」と、フロントの女性。
ふたり密かにガッツポーズした。
そして、バーのカウンターに座るなり夫は言った。
「生ビール二つ。それと、何か食べるものありますか? 夕飯食べてなくて」
バーテンダーはにっこり笑って「サンドイッチとソーセージなら」
程なくして、焼き立ての分厚いトーストにローストビーフと野菜をたっぷり挟んだサンドイッチと、熱々の何種類かのソーセージが出てきた。
「温かいものが食べられるって、幸せだよね」と、わたし。
「家に帰ったみたいだよ」と、夫。
(家では生ビールは飲めないけどね)と心のなかで、わたし。
それから日にちが変わるまで、ふたり祝杯を挙げた。娘のこれからに。

カウンターから木立が見える素敵なバーです。
サンドイッチとソーセージは、写真を撮る間もなく食べてしまいました。

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波紋が静まる時間

所用で東京に出た際、合羽橋の陶器屋『田窯』に立ち寄った。
所狭しと置かれた様々な陶器達を見ていると、胸がしんとする。

小さな出来事が、胸のなかの湖に小石となって投げ込まれ、水面にはいくつもの波紋が広がっていく。その波紋が静まる前に、また小石は投げ込まれる。毎日というものは、そうして繰り返されているように思う。
陶器を眺めていると、数々の収まりきれない波紋が静まっていく。そして、ただ穏やかな水面が何処までも広がり始める。
器は大好きだ。キッチンで器に料理を盛り付けるのも、食卓に並べるのも、誰かと共に食事をするのも、気に入った器達が居てくれるからこそ、より楽しめる。それだけではなくわたしは、こうして胸がしんとするまで眺めているだけでじゅうぶん楽しめるほど、器が好きなのだと再確認した。

しかし、穏やかな水面に映るのは、白い器に映える菜の花の辛し和えを盛り付け、夫に出すシーンだったり、友人を招いてわいわいと熱い珈琲を飲むシーンだったり、素焼きの深い皿にカレーを盛り、娘とビールを空けるシーンだったりする。卵が先か、鶏が先か。料理が好きで、器が好き。誰かと食べるのが好きで、ビールが好き。まあ、いいか。どちらが先だろうと、そんな食卓で流れる時間に、幸せ感じるということに変わりはない。

『田窯』の2階です。1階よりはゆったりと器が並べてあります。

お湯呑を2つ買いました。ひとつ1,260円也。

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ペアの紅茶茶碗

誰かと思えば、紅茶茶碗の声だった。ティーカップと呼ぶには彼らは和の雰囲気をにじませていて、紅茶茶碗と呼ぶのが相応しく思える。

「もうすぐ、お別れだね」蓮の花が描かれた方。
「うん。きみの門出だね」雪の結晶が描かれた方。
娘はペアの紅茶茶碗の片方を、ひとり暮らしのスタートに持って行きたいと言った。毎朝彼女が紅茶を飲む時に、気に入って使っていた蓮の花。
「彼女がきみをずいぶんと気に入っている訳を、知ってる?」と、雪の結晶。
「うん。なんとなくね」と、蓮の花。
「きみの花とステッチの甘さの中にある、凛としたところに魅かれたのさ」
「そうだと、嬉しいけど。きみはよく、お父さんが使ってるよね?」
「うん。お父さんはいつも、ミルクたっぷりアールグレイ」
「お母さんは、アールグレイでもストレート」
「そして彼女は?」と、歌うように雪の結晶。
「ミルクたっぷりダージリン。寒い朝には、ほんの少しだけ砂糖を入れて温まって出かけるんだ」蓮の花が、何処か淋しそうに答えた。
「なんか、しんみりしちゃったね」
「春だもの。訳もなく泣きたくなることだってあるさ」
「でも、元気で」「うん。おたがいに」

彼らの声は、そこで聞こえなくなった。
ペアの紅茶茶碗達は、たぶんこれからも、たくさんのティータイムを演出してくれることだろう。雪の結晶は、我が家で。蓮の花は、娘の部屋で。

和物の雑貨屋で、何年か前に見つけたことを、なつかしく思い出します。
ペアカップとしてではなく、ひとつずつ売られていました。
ペアカップだったとしても、一つ一つは個と個なのかもしれません。

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道ならぬ道を歩く

久しぶりに道ならぬ道を歩いた。ふきのとう採りだ。
と言っても「ショートカットしよう」という夫の言葉のまま、我が家の下の笹が育つ急な傾斜を降りただけだ。
しかし、笹の根に足を取られバランスを崩した。すぐ下には、はば1m程の堰(農業用水)がゆったりと流れている。
「うわぁ!」夫が悲鳴を上げる。
彼の期待には応えず、わたしはバランスを取り戻した。
「だいじょうぶだよ。大げさだな」と、わたし。
「いや。今のは紙一重だった。また骨折すると思った」と、夫。
道ならぬ道を歩くのは、昔取った杵柄で慣れているはずだと思ったが、子どもの頃のようにいくはずもないなと、わたしも肩をすくめた。

東京でも、森や畑が広がる板橋で生まれ育ったわたしは、子どもの頃は男の子と遊ぶことが多く、真っ黒になって森を探検したり、基地を作ったり、ドッジボールしたり、外でばかり遊んでいた。その頃、道ならぬ道を歩き探検した森の名前を思い起こし、可笑しくなった。
お化けが出るという「お化け山」鬼ばばが住むという「鬼ばば山」アベックが追いかけてくるという「アベック山」今やアベックなんて言葉自体、死語に近い。だが「カップル山」じゃ感じが出ない。子どもだったわたしがイメージしていたのは、のっぺらぼうの男女が手をつなぎ追いかけてくるシーンだった。「お化け山」のお化けを見ようと、夜子どもだけで出かけて、こっぴどく叱られたこともあったっけ。それにしても何ともストレートなネーミング。誰がつけたんだか、漫画の世界だ。その後「鬼ばば山」には団地が建ち、「アベック山」は木々を倒して明るい公園になった。「お化け山」のその後は知らない。

そんなことを考えつつ、ふきのとうを収穫し、夫に聞いた。
「帰りも、ショートカットする?」答えはもちろんノーだった。
 
太陽を浴びて、気持ちよさそうに花開くふきのとう。

収穫は14個。もちろん、天麩羅にしました。
苦味も程よく、食べ頃でした。

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ベジタリアンも十人十色

「ヴィーガン」という言葉を初めて聞いた。
「オーストラリアで会った人のなかには、ベジタリアンとかヴィーガンだって言う人も多かったけど、サムは違うよ」
4月にステイするオーストラリア男子、サムの話を、上の娘としていた。
「ベジタリアンは、卵とか乳製品とかは食べるけど、ヴィーガンは、バターで焼くのもダメなんだって」
菜食主義にもいろいろあり、ヴィーガンは卵も乳製品も摂取しないらしい。
「ふうん」わたしは、ただ思う。「ふうん」と。
主義という程のものは何も持たず、好きなものを食べてきた。野菜は大好きだし、年齢的にも肉を食べることは少なくなってきた。でも魚は大好き。刺身も、焼き魚も、煮魚も。
「なんか、もったいないよね」と、娘。
「どうせなら、美味しいもの食べて生きていきたいよね」と、わたし。
「それがさ」と娘が言う。「どうして菜食主義? って聞くと、主義って言う程の強いものを持ってるっていうよりは、身体によさそうだからとか、野菜だけにしたら体調がいい気がするとか、曖昧な答えが多かったんだよね」
「うーん。それは確かに、もったいないかも」と、わたし。
でもまあ、信念を持ってそうしてる人も多いんだろう。
金子みすずの詩 『わたしと小鳥と鈴と』じゃないけれど「みんな違って、みんないい」訳だし。もったいないの定義だって、それぞれ違うわけだし。
ふたり肩をすくめ話しつつ、娘もそう受け止めていることがわかる。
小学校卒業時、好きな四字熟語に『十人十色』を選んだ彼女は、オーストラリアで様々な人に出会い、さらに「ひとりひとり違っていいんだ、それが当たり前なんだ」という思いに磨きがかかったようだ。

そんな話をしていたせいだろうか。夕飯は、ヴィーガンよろしく野菜のオリーブオイル焼きになった。
トマトを焼きつつ「あー、水道橋『鳥元』のトマトの肉巻き、食べたいなぁ。もちろん、よく冷えた生ビール共に」と思ったわたしは、到底ヴィーガンどころかベジタリアンにも成りえないが。

最初に、にんにくをカリカリに焼いて、フライパンから取り出します。
にんにくの匂いがついたオリーブオイルで野菜を焼き、塩胡椒。
にんにくを最後に散らすと、その香ばしさが野菜の味を引き立てます。

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水月さえ
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自己紹介:
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