はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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縦野菜アスパラガス

薪ストーブを燃やしていると、当然のことだが、灰が出る。肥料になるので庭に撒いたりもするが、撒ききれない分は、家庭菜園をしているご近所さんなどに貰っていただいている。今シーズン最後の灰は、農家さんが分けてほしいと申し出てくれたので、バケツ一杯差し上げた。
「バケツは、ついでのときに玄関にでも置いておいてください」
そう言って渡したのだが、留守中に返ってきたそのバケツには、採りたてのアスパラガスがいっぱい立っていた。よく太ったアスパラだ。
「おーっ」と、夫とふたり、思わず歓声をあげる。
わらしべ長者ならぬ、灰でアスパラ長者。嬉しいお返しだ。
我が家の庭でもアスパラは採れるが、1本採っては食べるくらいの量。今夜は思いっきりアスパラを食べようと、きっかり1分硬めに茹で、味見した。うーん。口に広がる春の味。複雑な味つけは不要と、アスパラが言っている。マヨネーズと共に食卓に出し堪能した。

ところでアスパラガスは「縦野菜」なのだと最近知った。
縦に伸びるものだけに、横に寝かせて保存すると起き上がろうと消耗し、味が落ちるらしい。それがアスパラの性(さが)なのだとしても、冷蔵庫のなかで必死に起き上がろうと消耗しているアスパラを思うと、不憫である。今回は保存する暇もなく食べてしまったが、これからは冷蔵庫に入れるときにも縦にして入れようと誓った。
そして、もしかすると人にも、縦人間、横人間があるのだろうかと考えた。
あるとすればわたしは・・・と考えて、それ以上考えるのはやめた。消耗するだけだというのが目に見えていることは、しない性質なのだ。
そう考えるとアスパラは、ずいぶんと偉い野菜のように思えてきた。

これは、我が家の庭で少しだけ収穫しているアスパラガス。
にょきっと出てくる様子に、生命力の強さを感じます。

ぽりっというくらい硬めに茹でて、素材の味を楽しみました。

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箸と「断捨離」

最近、夫と顔を合わせる度に口にする言葉がある。「断捨離」だ。
先日も、十年使ったマットを捨てようと、予備のマットを入れてある棚を奥まで見たら、更に十年以上前に使っていたマットが仕舞いこんであったので、捨てた。着ない服、履かない靴、使わない調理器具。家のなかは、いらないものであふれている。
「けど、必要なモノは買ってもいいよね。消耗品とか」と、わたし。
「そりゃ、そうだね」と、夫。
買った時に、捨てることが大切なのだろうか。わたしのなかの「断捨離」は、まだまだ確定していない。

そんななか、新しい箸を買った。いくつかある夫婦箸のなかの一つの塗りが剥がれてきたのを気になりつつも使っていたのだ。
購入したのはごつごつした雰囲気の箸で「本うるし」とかかれていた。帰宅して袋を開けると、紙が入っている。「和へのこだわり」そこには、漆器作りをする会社のコンセプトがかかれていた。
「毎日使うお箸・お椀だからこそ、こだわってください。そして、使い込んでください。いずれ、艶もなくなり、漆も剥がれてくることもあります。でもそれも、生活の一部として使い込んでいただいたからこそ。お箸ならつかめなくなるまで、お椀なら汁が漏れるまでお使いください」

もちろん、すぐに塗りが剥げた箸を捨てるつもりはなかった。なかったが、新しい箸を使い、古い箸を使う機会は減るだろう。
「贅沢な、暮らしをしているのかも知れないな」
確定していない「断捨離」は、更に入り組んだ迷路のなかへ。そのうえ「着ない服」は「着ない福」に、「履かない靴」は「儚い靴」に変換されるし、ああ「断捨離」への道、シンプルライフへの道は、遥か遠い。

手に持った感じが、しっくりきました。とても軽いです。

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新大阪駅のけつねうろん

先週末、夫の両親の顔を見に、ばたばたと神戸に帰省した。
ここ、山梨の田舎から神戸の家まで、約5時間かかる。長野県の塩尻経由で電車を乗り継ぎ、名古屋へ出て新幹線、そして新大阪から在来線に乗る。東京周りで行っても、はたまた飛行機に乗ったところで、または車を走らせても、かかる時間は大差ない。
そのゴール地点に近い新大阪駅での楽しみが「けつねうろん」である。
「ビールと駅弁、買う?」「いや、けつねうろん、でしょう」
「だね。新大阪のけつねうろん、まで我慢しよう」
「けつねうろん」とは、無論「きつねうどん」のことである。大阪弁ではそう発音するのだそうだ。出汁の旨味が濃く、醤油の味も色も薄めのうどんで、細麺讃岐うどんにこだわるわたしも、新大阪の駅ナカにあるうどん屋さんの「けつねうろん」は大好きなのだ。お揚げの味も、あっさりしていながらコクを感じさせる。たぬき派のわたしも、ここではきつねを注文する。これを食べると「あ、神戸に近づいたな」と思うほど。変わらぬ味って、大切だ。それが、その土地でしか食べられない味なら、尚更だ。

以前かいた、汐留のうどん屋さんのことを読んで、義母は驚いていた。
「最近じゃ、東京にも、美味しいうどん屋さんが、あるのねぇ」
昔、東京に出てうどんを食べた時、出汁つゆの醤油が濃く、同じうどんとは思えなかったそうだ。
今では、様々な地域で関西風の出汁が効いた薄味のうどんが楽しめるようにはなっているが、山梨では、いまだお目にかかったことがない。「ほうとう」があり「吉田のうどん」があり、好まれる味もそちら寄りなのかも知れない。
帰りには「いかなごの釘煮」を買って来た。「新物」とシールを貼られたそれは、ご飯にぴったりの山椒が効いた神戸名物の佃煮だ。
「やっぱり、その土地でしか味わえないモノって、いいな」
新大阪駅の「けつねうろん」は、汐留で食べるうどんとももちろん違い、きちんと浪速の「けつねうろん」の味がした。鰹や昆布の旨味が詰まった何とも言えない、いい匂いがした。

食べログを見ていたら「出汁を味わうには、七味をかけすぎない」と
ありました。これでも少な目にかけて、じゅうぶん味わったつもりです。

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タラの芽伸びる春

庭のタラの芽を採って、天麩羅にした。山菜の王様ともいわれるタラの芽、さすがに美味い。春の楽しみのひとつだ。

収穫したのは3つのみ。まだそれしか収穫できるものはなく、迷い、夫とふたり相談した末、とりあえず食べてみようということになった。来週は、彼が週末まで帰れない。それまでに、食べごろが過ぎてしまうのではないかとの心配が大きかったからだ。先週のような寒さのままなら、来週末が食べごろになるだろうが「しばらく寒いままで」とリクエストしたところで、季節が足踏みしてくれるとは思えなかった。早く暖かくならないかなぁと、ずっと思っていたし、口にもしていたのに、人間というものは勝手なものである。そして、植物は日々気温だけではなく様々なことで判断し、芽吹いたり、伸びたり、咲いたりしていくのだから、全くもって不思議だ。タラの芽も然り。このところ、伸びゆく様をじっと観察していたから余計に感じるのだろうか。根づいたこの土地で、懸命に生きている姿は美しく輝いている。その命を分けてもらうのだから、美味しいはずだよ、と思ってると、夫がナイフで切り取った。

タラの芽3つを丁寧に揚げ、夫が2つ、わたしがひとつ、じっくりと味わう。「美味い!」と言わずにはいられない味に、笑顔になる。毎年食べているにもかかわらず、この山菜は、こうしてその年の春きちんと驚かせてくれるのだ。

芽を出したと思ったら、あっという間に伸びていました。

上のは、左側のタラの芽です。わたしがいただきました。

「うまっ!」「根元が何とも言えず、美味しいねぇ」
いただきものの五島列島のこだわり塩で、シンプルに味わいました。

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ポストに入っていた椎茸

郵便受けを開けると、ビニール袋に入った椎茸が入っていた。見るからに椎茸だが、わたしには判別できない。キノコは、判らないから恐いのだ。
郵便受けには、もちろん郵便も入っていた。スーパーからのポイント優待券やら、酒屋からのDMやら。そして、それと一緒に林を隔てたお隣のご主人の展覧会の案内が入っていた。ステンレスアートを創っているのだ。切手が貼られていないところを見ると、わざわざ来て投函していったのだと判る。だとすると、椎茸もお隣りからかと電話してみた。
「この季節、次から次へと出てくるんだよ」
やはり、お隣りからだった。

バター焼きがオススメということだったので、肉厚の味わいを損ねぬよう、どのくらいの大きさに切るかまな板の上に置き、しばし考えた。シンプルな料理だけに、大きさはポイントだ。以前、フランス料理店で、ジャンボマッシュルームのオーブン焼きを食べたことを思い出す。大きいままに焼けばいいってものじゃない。切らずに焼くのと、半分に切って焼くのとそのまた半分に切って焼くのでは、それぞれ味わいが違うはずだ。ジャンボマッシュルームの大きさをイメージして、細長く4つに切った。大正解だった。

新鮮な椎茸をいただいて、料理の奥の深さを、あらためて感じた。いや。じつのところ、本当にそうなのか? という疑問もある。どうやって焼いても、ため息が出るほどの美味しさは変わらなかったかも知れないのだ。

立派な椎茸です。美しいです。

大きさが判るように、檸檬と一緒に撮りました。大きいです。

この美味しさは、わたしの腕では、写真に撮れません!
☆お隣さん、小林泰彦さんのグループ展はこちら → カンヴァセーションズ
南青山のスパイラルガーデンで、4月13日から22日まで。

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「おじさん」のラーメン屋

美容室の帰りに、ラーメン屋に寄った。オススメの店を聞いたのだ。
「チェーン店なんだけど、アットホームな雰囲気なんですよ」
店主の、彼女が言うところの「おじさん」が、いい味出しているのだそうだ。ラーメンの味も、奇をてらったものではないが、普通に美味しいのだそうだ。なんとなく、よくいく店と聞き、それっていいかも、と寄ってみた。

昼時だったが平日のこと。「おじさん」と店員の女性とふたりで切り盛りしている小さな店だった。カウンターに座り、メニューをさっと見て「葱味噌ラーメン」を注文。店は、いっぱいというほどではなかったが、3つあるテーブル席は空くと、またすぐに客が入り、繁盛しているのだと判った。あとから来た常連らしき男性が、ぽんぽんと挨拶代わりのジョークを言い合ってから注文すると「じゃ、いきますか」とおじさんが言う。ラーメンをすすりながら、様子をうかがっていると、ふたりはじゃんけんを始めた。おじさん勝利の場合、ラーメンはチャーシュー抜き。常連客勝利の場合、チャーシューは倍になるらしい。結果、おじさんは勝利の雄叫びをあげ「チャーシュー抜きで」と店員の女性に支持した。男性は、がっくりと肩を落としていたが、多分ポーズだろう。チャーシューは入っていたに違いない。
一杯のラーメンを食べ終えるまでに、美容室の彼女が言っていた「雰囲気」は、十二分に味わうことができた。

ラジオからは、よく知っている昔の歌ばかりが流れている。あれ? と箸を持つ手を止めて聴き入ると、竹内まりやの『元気をだして』が流れていた。こういう偶然はよくあることなのだが、さっきまでカーステレオで繰り返しリピートし聞いていた曲だった。縁というものを感じる。
「また、来ちゃうかも。ここ」
ラーメンは、ニンニクが優しいコクを生み出していて、いつもスープは全部飲まないようにしているのだが、気がつくとすっかりたいらげていた。

「写真、撮っていいですか」と聞くと「あ、忘れた」とおじさん。
ぶつ切りチャーシューをカウンター越しに入れてくれました。
ざくっと切った白葱たっぷり、こまかく切った青葱たっぷり入っていました。

甲府の昭和通り沿いにある『ちりめん亭』です。

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財布を忘れて

♪ お魚くわえたドラ猫 追っかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん ♪
言うまでもないが、アニメ『サザエさん』の主題歌である。

「まったく、サザエさんじゃあるまいし」
自分で自分をチカラなく笑うわたしは、無論、裸足でドラ猫を追いかけた訳ではない。週末、夫と立ち寄った蕎麦屋で、会計を済ませようとしたレジで、財布を忘れたことに気づいたのだ。
「あ、お財布、忘れちゃった」
驚きと共に、苦笑するわたしに呆れた顔をし、夫は財布をとり出した。
「信じられないことするねぇ、きみは」
しょうがないので「ご馳走様です」と、笑うと、
「あ、それ、いいですねぇ。わたしもやろうっと」
レジに立つ若い女性が、笑って話にノッてくれた。
客商売だからというのはあるかも知れないが、こういうときに、すっと話にノッて笑いを共有できる人って、素敵だなと思う。

そんなこともあり、久々に『サザエさん』の歌をくちずさんでみた訳だが、あれ?ドラ猫だったっけ、野良猫だったっけ? と、記憶があいまいなことに気づき、調べてみた。正解は、ドラ猫。
興味が湧いて、ドラ猫の「ドラ」って何だろうかと、ふたたび調べる。お寺の鐘、銅鑼が語源で「鐘をつく」と「金を尽くす」を重ねて、遊び好きの金ばかりかかる息子をドラ息子と呼ぶようになり、盗み食いする野良猫をも、そう呼ぶようになったとかかれているものが多かった。
「パラサイト」とか「ニート」とか呼ぶ以前にも「ドラ息子」は居たのだなぁと考えた。昔はそれさえも、のどかな空気を漂わせる言葉で語られていたのだろう。それがカタカナ言葉になると、途端にピリピリとした空気に一変してしまうから不思議だ。東京でひとり暮らす我が息子は、フリーターではあるが、金のかかるドラ息子ではなく、経済的には自立している。それでも心配なのに、遊び呆けているドラ息子がいたら、親もさぞ心配だっただろうに。
深刻な雰囲気を持たないのは、ドラ息子という言葉に、愛情がこもっているように感じるからかも知れない。

♪ 買い物しようと町まで 出かけたが 財布を忘れて 愉快なサザエさん ♪
「ぜんぜん、愉快じゃないんだけどなぁ。財布忘れたら」
それを愉快と笑って済ませる時代は、終わりに近づいているのだと、財布のなかのクレジットカードや電子マネーを見て、しみじみ考えたのだった。

小淵沢の蕎麦屋『そばきり祥香』でのことでした。
蕎麦屋っぽくないピンクのペンション風の建物ですが、美味しかったです。

手びねりの焼き物に盛られた、自家製のお漬物に、温もりを感じました。

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林檎のように剥く日向夏

ご近所さんに、日向夏をいただいた。
宮崎産で、檸檬とグレープフルーツを合わせたよう、とも言われる瑞々しさが売りの蜜柑。「ひゅうがなつ」と読むそうだ。
「林檎を剥くみたいに、剥いてくださいね」とのこと。
蜜柑なのに、包丁でくるくると皮を剥くのだそうだ。

剥いていて、小説のワンシーンを思い出した。川上弘美の『センセイの鞄』。何度も読み返した大好きな恋愛小説だ。以下、本文から。

林檎を、かつての恋人に剥いたことがあった。もともと料理は得意ではないし、たとえ得意だったとしても、恋人に弁当を作ってあげたり部屋まで行ってこまめに料理を作ったり手料理の夕に招いたりするのは、趣味にあわなかった。そういうことをすると、ぬきさしならぬようになってしまうのではないかと、恐れた。ぬきさしならぬように運ばれていると相手が思うのも、いやだった。ぬきさしならなくなってもかまわないようなものだったが、かまわないとかんたんに思うことができなかった。
林檎を剥いたとき、恋人は驚いた。あなたも、林檎の皮なんか剥くんだね。そんなふうに言った。皮くらい剥くわよ。そりゃそうだね。そりゃそうよ。そんな会話を交わしてしばらくしてから、恋人とは疎遠になった。どちらからか言いだしたのではない。なんとなく電話をかけあわなくなった。嫌ったのでもない。会わなければ会わないなりに、日は過ぎていった。

日向夏をくるくると剥きつつ、考えた。
林檎の皮を剥く指先にだけではなく、毎日のなかにあるほんの些細なことの一つ一つに、人の心の小さな揺れは、見え隠れしているんだよなぁ、と。

檸檬よりも、もう少し優しい黄色をしています。

剥き方などがかかれた取扱説明書(?)を真似て、
むいた皮を飾って、そのなかに入れてみました。

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とりたての赤葱

日曜日。庭仕事をしていると、車が止まった。斜向かいのお隣りさんだ。
「葱、いっぱいもらったから、よかったらどうぞ」
どさりと30本ほどのお裾分けを置き、しばし世間話をしてからまた、走って行く。その車を見送りつつ、夫と顔を見合わせ「葱鍋」との方向で夕飯の献立を決めた。

買い物に行くのをやめ、冷凍庫にあった豚ばら肉と合わせることにする。このところハマっているナンプラーを使ったベトナム風鍋だ。レモンも青唐辛子もある。白ワインも冷えている。そして、何しろ新鮮な葱がたっぷりある。
葱は、根元の白い部分が綺麗な紫色で、調べると赤葱という種類らしく、加熱するととろりとした食感になり、鍋が定番とのこと。その通りに、とろとろ葱のベトナム風鍋ができた。
「生の葱も美味しいけど、とろっとろの葱は、また格別」
などど言いつつ、鍋をつついた翌朝。ふと、声が戻っていることに気づいた。風邪はいつのまにか、すっかり治っている。
「葱のおかげ、かも」
生でもよし、煮てもよし、焼いてまたよし。葱の万能さと、鍋の美味しい春浅い寒さに感謝しつつ、たっぷりと葱をいただく日々である。

とりたての葱は、つんとした匂いを、強く放っていました。

渇いた部分の皮をむいても、紫色が残っています。

でも、やわらかく煮た葱は、その紫が消えて白くなっていました。
豚ばら肉の脂と、ナンプラーがよく沁みていました。

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白い葱、白い時間

久しぶりに、思いっきり白髪葱を刻んだ。
夫が、薪割り仲間と持ち寄りで打上げをすると言う。ワインではなく、日本酒を好む年上の二人は70代だが、まだまだ薪ストーブ現役選手だ。チェーンソーで木を伐り倒し、丸太を運ぶ力仕事は、並大抵の労力ではないはずだが、淡々とこなす頼もしい老人達である。夫とふたり内緒でこっそり、尊敬の念を込め「年寄りの冷や水ペア」と呼ばせてもらっている。

「最近食べてないねぇ、葱鶏。味忘れちゃったよ」と、夫。
「最近作ってないもん、葱鶏。ワインには辛すぎて合わないかなって」
茹でた鶏肉の上に、たっぷりと白髪葱をのせて、醤油と酢、豆板醤のタレをかけて混ぜながら食べるこのレシピは、小林カツ代の料理本で覚え、アレンジしながら何度も作った味。何年か前に亡くなった我が家の設計士さんにも褒められ、レシピを聞かれたことを懐かしく思い出す。

太くしまった長葱を選び、白い部分を3本~4本千切りにする。切った先から水に放つと、水分を吸いくるんと丸まっていく。白い葱。白いまな板。トントンと刻む包丁の音。何も考えず湖の底にでもいるような白い時間。
久しぶりに白髪葱を刻み、思い出した。ああ、この白い時間が好きだったなぁ、と。白は無ではないけれど、無と似ている。そして、くるんと丸まった瑞々しい葱は、やはり無に似た透明な光を放っている。

わたしは、白い時間を欲しいていたのか。無を求めていたのかと、考えてみる。そして、子ども達と過ごした喧噪とも言える時間のなかに、しんと静まった時を求めていたのかも知れないと、思い当たる。
今はもう、時問わずキッチンはしんと静まっている。水に放ち、くるんと丸まった白い葱に問うてみても、もちろん何も言わない。

鶏が見えないくらいたっぷりの白髪葱。でも最後に残るのはいつも鶏です。

くるんと丸まっていく不思議。繊維と水分の戦いが見えます。

タレをかけると「美しい」から「美味しそう」に変身します。
*レシピメモ*
茹でた鶏もも肉を適当に刻み、胡麻油を絡めておく。
白髪葱をたっぷりとのせ、醤油大さじ2、酢大さじ1と豆板醤少々を混ぜて、
食卓に出す前にかける。混ぜ合わせながら、いただく。

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備えあれば、うれしい?

風邪をひいて、買い物に出るのも億劫なので、買い置きの根菜で野菜スープを煮た。と言っても、人参、玉葱、じゃが芋の皮をむき、ごろごろと鍋に入れ、コンソメスープとウインナーとを火にかけただけである。簡単だが、寒い季節に温かいものが食べられるのは、幸せだ。
人参と玉葱には、免疫力を高める効能があるそうだ。マスタードも然りで、優しい味のスープには、いつもマスタードを添えている。
風邪をひいてから免疫力を高めても遅い気もするが、普段きちんと食べていても、風邪をひく時は風邪をひくものなのだ。悔しい。「備えあれば憂いなし」というが、傘を持っていても濡れることだってあるのだ。

ところで、カナダでワーキングホリデー中の上の娘の部屋で、突然時計が鳴りだした。もう8ヶ月も留守にしているというのに、どうしたのだろうと連絡すると、何事もないらしい。何事もない日々のために様々備えていたところで、人知の及ばぬことだって多々ある。
ちなみに、彼女が好きなリラックマは、言っている。
「備えあれば、うれしい」
雨の日にお菓子などを買い置きしてあると、うれしいの意味。
「に、似てる。その、天然さ加減が」ひとり、娘を思い出し、爆笑した。

今年購入したスープ皿は、大活躍中。熱が逃げにくいんです。

娘の部屋で留守を守る、百匹のリラックマとコリラックマ達。

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おひとりさまランチのススメ

出先で、ひとり昼食をとる時には、圧倒的にラーメンが多い。
好きだということ以外に、リーズナブルで量的にも丁度よく、食べ切ることができるのがいい。待ち時間も少ないし、混んでいてもカウンター席に座れば、ひとりでテーブル席を占領してしまう気まずさもない。
ひとりで外食することに抵抗があるという人も、気軽に暖簾をくぐれる店の一つがラーメン屋だと思っている。

読んだことはないが『おひとりさまの老後』(文春文庫)がベストセラーになって以来「おひとりさま」という言葉が独り歩きし、ひとりで外食を楽しめる人が増えたように思う。「ひとりで食事 = わびしい」というイメージが逆転したのだ。もともと、一人で食事を楽しめるのって素敵なことだよなぁと思っていたので、嬉しい変化である。
「ひとりで外食は、できない」と、公言する人を、何度か目にしたことがある。理由はそれぞれあるのだろうが、その度にもったいないなぁと思っていた。何がもったいないって、楽しめる可能性を、自ら「できない」と決めてかかり、失くしてしまっていることが、もったいない。
たまに、ひとりでゆっくり好きなものを食べることは、食いしん坊のわたしにとってはリフレッシュできる瞬間でもある。料理の幅も、広がる。

大げさかもしれないが、ひとりを楽しむ時間が、誰かと一緒の時間を楽しむベースを作ってくれているとわたしは思うんだけど、どうでしょうか。

前回、東京に出た際に行った、新宿駅の南口方面にあるラーメン屋さんで。
券売機でチケットを買うタイプのお店でしたが、メニュー豊富。
鶏塩白湯麺は、優しい味で葱が効いていて美味でした。

素朴だけれど、何処かお洒落な店構えに魅かれて、暖簾をくぐりました。

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グーチー、パクチー

先月、ベトナム風海老団子鍋を作ってから、季節は早送りで春に近づいた。
その時に、ここ山梨は北杜市周辺のスーパーでは生のパクチーは見つからず、乾燥パクチーでの鍋となったのだが、いつか生パクチーでとの思いで『パクチー栽培キット』を購入した。水やりをするだけで育つというものだ。

「3日で発芽するんだって」と、わたし。
しかし夫は、一笑に付す。「そんな訳ないじゃん」
それを、水を含み目覚めたばかりのパクチーの種は聞いていたのだろうか、3日どころか10日経っても芽を出す気配さえ見せなかった。
「寒いのかな。発芽に必要な温度20℃ってかいてある」
「いくら薪ストーブ燃やしても、20℃は難しいもんな」
2階の一番温かい場所に置き、うんともすんとも言わない土に水やりをする日々。簡単栽培キットだというのに「苦労」という言葉さえ思い浮かぶ。野菜や米を作る苦労は、こんなに簡単な訳はないのだが。

そのパクチーが、3週間経ち、ようやく芽を出し双葉を開いた。可愛い。朝顔などの双葉とは違い、じゃんけんでいうとチョキのような細長い双葉だ。
「そういえば、パクチーって名前『グーチーパー』と似てる」
言葉遊びが好きなわたしは、こっそり考える。じゃんけんは、それぞれが勝つ相手と負ける相手を持っているメビウスの輪。音だけではなく、植物の形もそれに似ているかも、と。種(グー)から芽が出て双葉が開き(チー)花が咲く(パー)そしてまた種を落とす、メビウスの輪。永遠を表すメビウスの輪だ。
「グーチー、パクチー」とパクチーを応援しながら、毎朝水をあげている。

パクチーって、コリアンダーなんですね。

毎日、霧吹きして乾燥しないように、とかいてありますが、
とりあえずは、たっぷり水をあげました。

2本ずつ、4本芽を出しています。日に日に、葉が膨らんでいきます。

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甘いモノ苦手症候群

スーパーで「甘いキャベツ」というPOPを見つけた。静岡産のキャンディ・キャベツ、とある。278円と高価だが、美味しいのかなと興味が湧き、買ってみた。キャンディの名を持つが、もちろん砂糖のような甘みとは違う。だが、やわらかく野菜本来の甘みを感じるキャベツだった。

甘いモノが苦手だ。なので、甘いキャベツのPOPを見た時にも、一瞬ひいた。しかし、この甘いは、あの甘いとは違うと、自分に言い聞かせた。それほどまで甘さに拒否反応を起こしてしまうことに、今更ながら気づき、驚く。
十年前には、普通に食べられたケーキ、クッキー、チョコレートなどを拒むようになって何年経つのだろうか。無理をすれば、食べられないことはない。身体が拒否している訳ではないのだ。だが、無理をして食べる理由が見当たらないのである。そこに甘いモノ苦手症候群が加速する原因があったように思う。
子ども達に作る機会がなくなったことも、原因の一つかも知れない。高校時代にハマったお菓子作りは、母親になってからも続けた。娘達に教えたりもしていたのだ。何年か前までは。

最近では、コンプレックスにさえ感じている。自分の弱みのような感覚、といったらいいだろうか。好き嫌いなく何でも食べられ、家族や友人と共に食を楽しめる人でありたいとの目指す生き方に反している。実際、甘いモノ以外なら、何でもござれだ。いくら辛くとも、香料がきつくとも平気だし、お酒だって美味しく飲める。それなのに。

「甘いキャベツなら、食べられるでしょう?」
キャンディ・キャベツは、わたしのコンプレックスを刺激しつつも、やさしい甘みでささやいたのだった。

キャンディ・キャベツのロゴシールです。

芯に近い黄色い部分の甘みが、一番強いんだとか。

豚肉の生姜焼きをのせて、ばりばり食べました。やわらかい!

夜は、冷しゃぶに。柚子ポンやマヨネーズでキャベツを味わって。

翌朝は、バター炒めにしました。生より炒めた方が、甘かった!

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ふきのとう採りの極意

寒さが和らいだ日曜の夕方、夫と、ふきのとう採りに出かけた。
この春、二度目の挑戦。一度目は、十個ほどしか採れなかった。まだ、春が浅いのだと、夫とふたり、天麩羅にして楽しんだ。
だが、もうそろそろ頭を出す頃だろうと、出かけたのだ。今度はたくさん採って、酢味噌和えにと相談はまとまっていた。

前回、採った場所は覚えている。誰かに先を越されなければ、だいじょうぶだと浮き浮きと歩いた。
「ふきのとう、出てきたかな」
呑気なわたしの言葉に「しっ!」と、夫が声を潜める。
「大きな声で、ふきのとうって言っちゃだめだよ。誰が聞いてるか判らないからね。ビニール袋も、ポケットに隠して、隠して」
彼は、いつもの場所にふきのとうがあるということを、できるだけ内緒にしておこうと必死な様子だ。仕方なく無言で歩く。程なくして、ふきのとうスポットに到着。無言のまま、探し始める。花が咲いているのが、すぐに見つかったが、それから苦戦した。
「ないねぇ」「誰かが、枯れ葉を散らした後がある」
採れたふきのとうは、たったの5個。うつむいて歩く、帰り道も無言だ。しかし、ふきのとう採りの神様は、その時、微笑んだのだった。
「あ、これ、何? もしかしたら」と、わたし。
歩く足元に、ごく普通に蕾があったのだ。砂利道だが、硬い土だ。こんな場所に? と思うようなところで、蕾を膨らませていたのである。
その時、わたし達は気づいた。自分達が抱いているふきのとうのイメージが違っていたことに。やわらかい黄緑色は、背を伸ばし花を咲かせたもので、土に埋もれた蕾は、土の色に近い紫がかった茶色をしている。そして、人が歩いた道端にも、アスファルトの隙間にも、花を咲かせる強さを持っているのだ。

それからは、わたし達の勝ち試合だった。さっき見過ごして歩いた道に、そんなに無防備でいいの? と言いたくなるほど、呆気なく見つかっていく。
「あった!」「ここにも!」「あ、そこにも、ある」
「ふきのとう採りの極意は、会得したね」と、わたし。
「これだけ採れれば、酢味噌和えじゃなくて、蕗味噌作れるな」と、夫。
帰宅後、逆転サヨナラ大ホームランを飾った今年のふきのとう採りに、缶ビールで乾杯したことは言うまでもない。いやはや。あのまま惨敗していたら、夕食タイムまでもが無言となるところだった。

こういうのを見つけようと思っていては、見つからないんです。

これが本来の姿。もっと紫っぽく土に紛れているのもあります。

カンゾウは、見つけやすくあちこちに生えているのになぁ。

こんなに採れたのは、何年ぶりかのことでした。

胡麻油で炒めて煮詰めるタイプの蕗味噌。ほろ苦さが、たまりません。

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ポストに入っていた沢庵

東京に一泊して帰ると、郵便ポストのなかには、新聞と2日分の郵便の他に、包装紙の小さな包みが入っていた。
「けっこう重いな。何だろう?」
開けてみようと、包装紙をよくよく見ると、林を隔てたお隣に住むご主人の名前がかいてある。そしてその名の後には「作」と続いている。お、お隣りのご主人の作品、と期待しつつ包みを開くと、やわらかく黄色い沢庵が出てきた。糠がついたままのものをビニールに入れ、折り曲げて包んであったのだ。

さっそく糠を洗い、切ってみた。綺麗な黄色である。塩味もほどよく、食べた途端、夫と顔を見合わせ「美味しい!」と口に出さずにはいられなかった。
お礼の電話をすると、今年のは自信作とのこと。毎年、試行錯誤しつつ漬けている様子だ。出来上がりを楽しむばかりで申し訳ないが、毎朝切っては、嬉しくいただいている。手作りならではの優しい黄色が、朝食に花を添えてくれているかのようだ。

先日観たばかりの映画『繕い裁つ人』で、印象的だったシーンを思い出した。
「美味しいお茶を淹れるには、何が大切だと思う?」主人公、市江に高校時代の恩師が聞く。「真心、とか?」自信なさそうに答える市江は、裁縫以外のことは何もできない。「真心だけじゃ、だめ」恩師は言う。茶葉選びから、お湯の温度や茶葉の蒸らし時間、何度も繰り返し淹れてみる研究心、技術の会得。「そういうことに時間をかけて美味しく淹れられるようになるためには、真心が必要だってことなの」

お隣りのご主人が漬けた沢庵は、間違いなく真心にあふれている。毎朝、ぽりぽりとその真心を、炊き立てのご飯と共にいただいている。

春を思わせる淡い黄色が、美しいです。うーん、芸術品。
*映画のなかの台詞は、記憶にあるもので、映像通りではありません*

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東京駅のお抹茶

先週は、末娘の芝居を観ようと、神戸からも義母が上京した。
東京駅で待ち合わせ、翌日も東京駅は新幹線のホームで見送ったのだが、東京駅構内の早送りでもしたかのように変わっていく様に、驚いていた。
「構内で、お抹茶もいただけるのねぇ」と、義母。
待ち時間に、まろやかに泡だったお抹茶をいただいた。義母は、春色の桜餅と共に。甘いものが苦手なわたしは、お抹茶のみで。
義母は、長い間、茶道を教えていたので、こだわりもあるかとも思うが、カウンター席に椅子という何とも気軽な雰囲気に、微笑んで桜餅を頬張っていた。新しいモノ、変化を柔軟に受け入れ、面白がる性質(たち)なのである。82歳にして、Windows8だって使えちゃうのだ。

末娘の芝居も、若い人達の感性を感じられると楽しみにしていた。そしてもちろん、思う存分楽しんだ。観終ってから一緒に過ごした半日は、娘のことを褒めちぎっていた。母親のわたしが語る娘の姿と、義母が語る孫娘は、まるで別人のように聞こえるに違いないと、いつも思う。
「目に入れても痛くない」とは、こういうことを言うのだろう。

娘達は、義母をとても尊敬しているし、大好きだ。「憧れの女性」だと口にすることさえある。そこに理由などないのかも知れないが、手放しで愛し認めてくれるお婆ちゃんだと、そして、何事もまずは受け入れて面白がる魅力ある先輩だと、知っているのだと思う。
ちょっと妬けるが、そんな女性が娘達のお婆ちゃんでよかった。そして、わたしも義母に憧れを持つ自分を知っているのだ。

朱塗りのお盆も、カラフルなお茶碗も綺麗です。ゆったりした時間でした。
駅ナカにある『奈良 天平庵』渋谷はヒカリエにも、店舗があるようです。

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菜の花の季節に

生野菜を毎日摂取するのは、身体によくないとネットで読んだ。いくつかの記事に同様にかかれていたのは、生野菜を大量に食べると、胃腸から冷えがきて、体調を崩す原因になるということで、もちろん、少量であれば問題はないとの注意書きがあった。
過ぎたるは及ばざるがごとし、ということか。身体のためにと生野菜をバリバリ食べるのは、決していいとは言えないらしい。

3月に入り、春の声もあちらこちらから聞こえてくるが、まだまだ寒い。1日じゅう薪ストーブを燃やす日々である。自然と生野菜を食べる量も減っている。食卓には鍋や汁物が多く登場し、食べては温まっている。生野菜云々の記事から、我が家の食生活は、見直す必要はなさそうだ。
多分、身体が欲しいているものを、見分けられる年齢になったのではないかと思う。生野菜をバリバリ食べられるほど、もう若くはないのだ。

先日、県内産の菜の花が売っていたので、2束買って楽しんでいる。茹でて食べるので、安心だ。見直す必要はないと言いつつも、気にしている自分が可笑しくもある。待てよ。加熱することで失われるビタミンも多いと聞いたが、そこのところどうなんだろうか。まあ、いろいろ考えてみても、そのうちすっかり忘れて、関係なく献立を立てるんだろうけれど。
情報は情報として、食べたいものを食べることが身体にいいのだと、長くキッチンに立ち続け、確信しているところがある。経験からくる自信と確信。
酔っ払って食べ過ぎるのは「見分けられる年齢」からの指令が届かぬ遠くへと意識が遊泳しているからで、それは無論、いいとは思ってはいない訳だが。

紫玉葱とマスタードマリネにしました。洋風辛し和え、かな。
玉葱は生ですが、こうやって混ぜるのもシャキシャキ感が味わえていいかも。

茎の部分を集めて、胡麻油で炒めました。プレーンオムレツに添えて。

お味噌汁にもたっぷりと入れました。やわらかく煮すぎない方が好きです。

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ふきのとうの探し方

北風もやわらかかった一昨日の朝、久しぶりに散歩した。ふきのとうを採りに、でかけたのだ。
そこは、毎年、この季節になると歩く場所で、びっきーともよく散歩した。
庭のふきのとうは、まだまだ沈黙を守っているが、そろそろ陽当たりなどによっては、頭を出している場所もあるだろうと、歩いたみることにしたのだ。
堰(農業用水)沿いに、毎年採れる場所があるのは判っていたが、その年によって、少しずつ場所がずれたり、花の数も違ってくる。昨年は、誰かに先を越されてしまい、悔しい思いもした。

夫は、堰沿いの道にさしかかると、靴で枯れ葉を散らし、探し始めた。わたしは、ただ目を凝らしてゆっくりと歩いていく。その探し方の違いに、たがいの性格がよく表れているなぁと可笑しく思いつつ、それでも目的は同じであるので、たがいの探し方には文句をつけることもなく、探す。探す。探す。
「あ、モグラが通った痕がある」であるとか、
「びっきー、ここ、怖がって遠回りしてたよね」などと話す間も、探す。

「あった!」最初に見つけたのは、わたしだった。
ぽつんとひとつ、枯れ葉の間から顔を出していたのだ。ふたりでその周辺の枯れ葉を散らすと、次々と見つかった。
「ふたりで天麩羅だから、そんなにいっぱい、いらないよね」余裕である。
「あった!」次の場所を見つけたのは、夫だった。
枯れ葉散らし作戦が、功を奏し、美味しそうなかたい蕾を発見。ふきのとうは、花が咲く前の方が断然、美味いのだ。
「まだ、これからみたいだから、隠しておこう」
夫は、採った後、散らした枯れ葉をもと通りにしている。

何をするにも、やり方が違うわたし達だが、ふきのとうの天麩羅を美味しく食べたのは、一緒だ。週末も、ふきのとう、採れるといいな。

あった! 一番最初に見つけたふきのとう。見つけると、うれしい~。

堰の向こうは、陽当りがいいみたいで、すでに咲いていました。

枯れ葉のじゅうたんに穴をあけましたね、モグラくん。

収穫は9個のみ。ふたりで食べるには、じゅうぶんです。

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リースリングとベトナム風鍋

ここ2年ほど、夫がベトナムに出張することが、多くなった。
「食べ物が、美味しいんだ」との土産話ばかりで、想像を膨らませるのみだったが、ベトナム料理に挑戦してみることにした。
とは言っても、あくまでベトナム風。豚ひき肉と海老の団子鍋が、雑誌『dancyu(だんちゅう)』の「鍋とリースリング」特集に載っていたのだ。

「あれ? スープの味つけ、ナンプラーだけだよ。いいのかな」
「生パクチー、売ってなかった。乾燥パクチー、香りイマイチだよ」
「フォーって、茹でるの? それとも、戻すだけでいいのかな?」
などと言いつつ、わたしは食べたことのない料理なので、よく判らないままに、レシピに忠実に作った。ナンプラーは、いい匂いとは言えなかった。
だが、夫はナンプラーのスープが煮たってくるや否や「これだよ! この匂い」と、大きくうなずいた。

料理というのは不思議なもので「これが美味いんだ」と自信を持って言われると、美味しいような気がしてくる。ベトナム料理に慣れ親しんだ夫の「これだよ!」は、わたしにも魔法をかけた。さっきまでの疑念「何か変な匂いだな」との思いは払拭され、その匂いは、いつの間にやら、たまらなくいい匂いに変わっていた。そして、海老団子鍋は、何ともスパイシーで美味しかったのだ。

無論、前回の失敗を忘れず、たっぷりとリースリングを冷やしておいた。アジアな鍋にぴったりのその辛口の白ワインを、夫は嬉しそうにグラスに注いだ。
 
リースリングは、チリのコノスル(700円)辛口すっきりタイプです。
生パクチーの代わりに、イタリアンパセリを飾りました。

仕上げはフォーで。調味料ナンプラー、ハマりそうです。

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紅しぐれをおろして

紫色だが、紅しぐれという名だそうだ。大根である。
「おろして食べると、美味しいよ」
家庭菜園をしている近所の方に、いただいた。霜が降りる時期でも、収穫できるらしい。アドバイス通りに、おろしてみると、紫が綺麗だ。辛みはやわらかく、旨味が濃い。

「時雨(しぐれ)」を辞書でひくと「初冬の頃、一時風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨」とある。また「涙をこぼして泣く様」とも。風情のある言葉を名に持つ大根だ。

「時雨」という字からも、容易に連想できるが、雨とは気まぐれなものだ。
空から降る雨も然り、心のなかで降る雨も然り。ついこの間、乾燥した指の爪が欠けただけで、たったそれだけのことなのだが、突然ほろほろと涙がこぼれた。痛くもなければ、特別、悲しいことがあった訳でもないのに、バイオリズムなのだろうか。それが自分でも、全く判らない。
そんなことを思い出しつつ、紫色に染まっていく大根をおろした。大根をいくら切ってもおろしても、涙がこぼれることはなかった。

しっぽの方が、やわらかい紫。首の方が、濃い紫色です。

切ると、なかは白いんですね。

ですが、薄く皮もむいたのに、綺麗な紫色の大根おろしになりました。

昨日の朝食です。前日食べそびれた、ぶりを塩焼きにしました。
田舎汁も、前日の残りですが、大根が紫色なだけで、何か特別な感じ。

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珈琲のフィルター

買いそびれていた珈琲のフィルターを、ようやく購入した。
切らしていたのは、1人から2人用のもので、3人から5人用のものが手元にあり、大は小を兼ねる訳で、それを切っては使っていた。
だが、上手く切るのが難しく、ぴたりとドリッパーに合わず、ドリップしながら落ち着かない気持ちになっていたのだ。

♪ ひとり、ふたり、3人、のインディアン ♪
意味なく口ずさみつつ、考える。片づけられない女代表であるわたしには「3」より大きい数字は「たくさん」と数えるしかなく、さっき飲んだ珈琲のフィルターを片づける時にさえ、このなかにいくつの粒が、豆を挽いた粒があるのかとふと考えてしまい、眩暈を起こす。
経理事務をしている者が、みな数字に強いと思うのは、知らぬ者の錯覚である。苦手なことをやるときには、慎重になるもので、その慎重さが、経理事務にはもっとも必要なことなのだ。

しかし、購入したフィルターをドリッパーにセットして、笑った。ドリッパーよりもかなり大きい。なんだよ。わたしが不器用に切ったフィルターと何ら変わりないじゃん、と。
機械で作られたものの方が正しいと思い込んでいたが、だいたい正しいって何よ、と自分を笑い、淹れたての珈琲をすっきりした気持ちで味わった。

どうしてもいびつになってしまう、わたしの鋏技術。

O型にあるまじき行為ですが、スケールでグラムを量っています。
ひとり分10gですが、二人分飲むので20g。
21g、ま、いっか。って、量る意味あるのか?

煎りたては、膨らむなぁ。最近のお気に入りは、マサマキリマンジャロ。
タンザニアの酸味が勝った豆です。ガラムマサラではありません。

マイカップは、フリーカップとして売られていたもの。
なみなみと注いで、右手くんがあつっと言うのを聞きつつ、飲んでいます。

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リースリングと白い鍋

夫は、雑誌『dancyu(だんちゅう)』を愛読している。
東京からの帰り道々、あずさのなかで読むようだ。食を楽しむための雑誌で、諺「男子厨房に入るべからず」を逆手にとった「男の厨房」的な雰囲気。美味しい店や、珍しい食材、酒などの特集を組み、レシピもいくつか載っている。
そのなかに、リースリングというドイツで好んで飲まれている白ワインの特集があり、リースリングと鍋をマッチングさせたレシピが載っていた。

「これ、美味そうじゃない?」
夫が、目をつけたのは、白い鍋だった。骨付き鶏もも肉や、里芋、蓮根などを煮て、味噌と豆乳で味つけしたものだ。
「いいね。やってみようか」
リースリングなら、冷蔵庫に冷えている。しかし、そう言いつつも、白い鍋が実現するまで、しばらく経ってしまった。そして、先週末、ようやく白い鍋が食卓に上ることとなった。
「わ、美味そうにできた」と、わたし。
夫が、冷蔵庫から、よく冷えたリースリングを出してくる。
そこで彼は「あっ」と、声を上げた。リースリングの瓶には、グラス1杯分も残っていなかったのだ。
「・・・リースリングで、白い鍋、だったのにね」と、わたし。
夫は、リースリングの最後のひと口を味わいつつ、違う白ワインを開けた。

白い鍋は、鶏肉の出汁が存分に効いていて、コクがあり、確かに白ワインにぴったりだった。
「新しい鍋のレシピを、手に入れたね」
苦笑しながら、ふたり熱々の白い鍋をつつきつつ、次はリースリングで、と誓ったのだったが、所詮、家呑みだ。何かが足りないくらいが、丁度いいのかも。例えそれが、主役であっても。

コツは、塩を振ってしばらく置いた骨付きもも肉を、水から炊くこと。
人参を入れて、真っ白ではありませんでしたが、美味しかった。

リースリング特集のページです。鍋はイメージ通りにできたんだけどなぁ。

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ほかほかの届け物

日曜の午後、遅めの昼食に、うどんでも茹でようかと、鶏肉を解凍していると、チャイムが鳴った。玄関に出ると、同じ町内に住む友人が立っていた。
「ベーグル、焼いてみたんだけど」と、彼女。
受け取ると、まだほかほか温かいベーグルが3つ、袋のなかに入っていた。
「わ、美味しそう! すごい! ありがとう!」
大喜びで、いただいた。

リビングに戻り、炬燵で読書をしていた夫に、自分が焼いた訳でもないのに、自慢する。
「ほら、美味しそうだよ」
「あ、あったかい!」夫は、感嘆の声を上げ、迷わずちぎって口に放り込む。
「美味い!」わたしも、ちぎって食べてみる「美味しい!」
すでに、うどんを茹でる雰囲気は、消えてなくなっている。あったかいうちに届けてくれたんだから、あったかいうちに食べなくちゃ。こういうことができる彼女は、なんて素敵なんだろうとほっこりする。ほかほかの焼き立てを届けてくれた気持ちが、嬉しかった。そして、ふたり顔を見合わせた。
「赤ワイン、だな」と、夫。「ワイン、いっちゃおうか」と、わたし。

日曜の午後である。もう、日々車で送り迎えをしていた娘も、都会へ出て行った。車に乗らなくては何処にも行けない田舎だが、何処にも行けないのなら行かなければいい。
美味しい食べ物があると、ワインも進む。ほかほかもちもちベーグルに、夫のお手製のレバーペーストを塗って「陽が長くなったねぇ」などと、窓の外を見ながら、のんびりとワインを空けた。

まあるいなかに小さな穴。弾力があるのに、やわらかかった。
写真を撮る前に、夫はひとつ目を食べ始めていました。

前日に、夫が作ったレバーペーストを塗って、赤ワインをあけて。

アップにしてみました。ベーグルのもちもち感が伝わるかな~。

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マイブームは出汁巻き卵

最近のマイブームは、出汁巻き卵だ。
何年か前に、友人のお母さまに教えていただいたのだが、しばらく作らないでいたら、すっかり忘れてしまった。申し訳ないことである。
それが先日、買い物をせずに、夕飯をあるもので済ませようと、出汁巻き卵を焼くことにした。教えていただいたレシピはすっかり忘れていたので、初心に返る意味も含め、ネットレシピを検索した。砂糖が入っている甘めのものは夫もわたしも好まないので、関西風のスタンダードなものを選ぶ。
ご教授いただいたレシピには、帆立の缶詰が入っていたのは覚えていたが、まずは普通のものを焼こうと、アレンジせずに焼いてみた。

「これだよ! これ!」夫は、大げさに喜んでくれた。
神戸出身の彼には、関東風の甘い卵焼きは許せないらしく、出汁の味たっぷりの新しく検索したレシピが、お気に召したようだった。確かに、出汁がかなり多めで、しっとりふんわり焼き上がった。
それから、ひとりランチにも焼くようになった。ふんわり焼き上がるのが、快感になり、やめられないとまらない、のだ。

初心に返るとは、基本に戻ってみること。そして次は、ホップ、ステップし、帆立缶入りに挑戦してみよう。アレンジは、基本が出来てから楽しむべきものなのだと、プレーンな出汁巻き卵が、教えてくれた。

卵3個分です。お弁当に入れるには、出汁たっぷりで水分多いかも。
レシピメモ
*出汁100CC・酒大さじ1・味醂大さじ1・塩、醤油少々*

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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