はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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黒大豆枝豆ご飯の謎

今年も、丹波篠山の黒大豆枝豆が届いた。夫方の叔父が、このところ毎年送ってくださるのだ。年に一度しか味わえない季節の味。ありがたいことである。

その日のうちに半分茹で、夕方、おやつ代わりに夫とつまんだ。
ひと口つまんで「美味い!」と、顔を見合わせる。
「やめられないとまらない、だね」と、わたし。
「お腹こわすから、そろそろやめなさい」
夫はそう言いつつ、自分はまだつまんでいる。
「夕飯食べられないかも」「ほんとに、そろそろやめないと」
そんな掛け合いも、毎年のこととなった。

そして、去年から黒大豆枝豆ご飯も楽しむようになった。
これがまた、美味い。
「茹でた枝豆とは、違うホクホク感だね」と、夫。
「ご飯と炊くと、何かが変わるのかな?」
夫の言うように、確かに豆自体のホクホク感が違う。時間をかけて炊飯器で炊くからか。豆が米ぬか成分を吸うからか。
検索すれば判るだろうと、パソコンを開いた。黒大豆枝豆や、炊きこみご飯のページを見ていく。だが、みつからない。
検索しても何も判らなかったのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
「たまには検索するんじゃなくって、誰かに聞いてみようかな」
そんなふうに思ったのも、ホクホク黒大豆枝豆ご飯の温もりのせいかも知れない。キッチンを、台所と呼びたくなるような、なつかしい味がしたのだ。

細長い段ボール箱に、寝そべるようにして入っています。

半分茹でて、この量! 茹でたてほかほか。

黒大豆枝豆ご飯。ご飯が豆の色にほんのり染まっています。
ほっくほくの味わいに、夫も娘も、舌鼓を打っていました。

丸々太った丹波の栗も、一緒に入っていました。
つやつやです。茹で栗も味が濃かったです。

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こだわりの蕎麦屋

3連休最終日。夫とふたり、同じ北杜市は高根町にある蕎麦屋に行った。
3か月ほど前に食べに行き、蕎麦の美味さに驚いた『やつこま』という店だ。
手打ちの蕎麦は平打ちで、まず蕎麦つゆをつけずに蕎麦の味そのものを味わうことを薦めるとの記述が店内にある。蕎麦を打ち続けてきた自信とこだわりが、そこ此処に見える店なのだ。辛い物好きのわたし的には、普通ならありえないのだが、山葵(わさび)を添えずに蕎麦を出すこともその一つ。本来の蕎麦の味にこだわってこそ、山葵の辛さ、風味に頼ることなく蕎麦を味わう、というところまで辿り着いたのだろう。
しかし、そこは蕎麦屋である。きちんと山葵も用意してある。どうしても欲しい人には、生山葵を1本出し、鮫皮の山葵おろしで自分でおろしてもらうという。余った山葵は持ち帰れるというから、山葵おろしを楽しみ、更に値段的にもお得感がある。考えているなあと思う。

前回、山葵は頼まなかったが、山葵おろしを購入し自分でおろす楽しさを覚えたこともあり、オーダーしてみた。ところが店主が、申し訳なさそうに言う。
「今、いい山葵が入っていなくて、おろしたものでもいいでしょうか?」
そのおろしたものというは掛け値なしにいい山葵で、美味しいことに間違いはないとのことなので、もちろんそれを出してもらうことにした。
その山葵が、本当に美味かったのだ。
「冷凍というと、味が落ちるように思われるかもしれませんが」
店主は、そう前置き、教えてくれた。
生の山葵は、おろしてみるまでその良し悪しは、生産者でさえ判らないのだそうだ。だから何本かおろしてみて納得いかない場合には返却する。いい山葵が入らなかった時のために、特別いいものをおろし、冷凍しておくのだという。おろさずに冷凍するとダメになる山葵だが、おろして冷凍する分には味が落ちることはないのだとか。
「本当にいい山葵は、おろしたばかりと冷凍したもの、食べ比べてもどちらか判らないくらい、変わらないんです」
自信たっぷりに言う店主に、これぞこだわりと思わず顔がほころんだ。
蕎麦にこだわり、山葵は必要ないと思いつつも、山葵にもさらにこだわっている。美味いはずだよ、やつこま蕎麦。
ちらりと見ると、夫もやはり顔をほころばせていた。

夫は大盛りせいろ。わたしは天せいろ。天麩羅は半分こしました。
この平打ちの蕎麦が、何とも味わい深いんです。
余った山葵は、もちろんいただいて帰りました。

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その土地が近しくなっていく過程

ふるさと納税をして、石巻市が近しい存在になったかと言えば、そうでもない。だが特産品の牡蠣を送ってもらい、石巻の牡蠣とはずいぶんと仲良くなった。なにせ13個もあの堅い殻を剥いた仲である。
という訳で、埼玉に住む娘を訪ねた帰り、新宿で駅弁を買う時にも「あ、石巻の牡蠣がある!」と迷わず手に取った。弁当の表側には「宮城県産」とあるが、裏側の食材詳細を見ると、ちゃんと「石巻」とある。
「2度目だね。石巻の牡蠣さん」
初めて会ったときに意気投合した相手にふたたび会えた。そんな気分だった。

だが口にして驚いたのは、2度目の牡蠣の味ではなかった。
「なにこれ、新米?」つい口癖の、なにこれが出てしまう。
もっちりとしたご飯が、何とも美味いのである。
食材詳細を見てみると「宮城県産うるち米ひとめぼれ」とある。ひと口目も美味かったが、ふた口目も美味い。更に食べてもまだまだ美味い。とれたての新米を食べなれているこの時期に、ご飯がこれほど美味しいとは。

石巻の牡蠣に魅かれて買った駅弁は、宮城のひとめぼれの美味しさを教えてくれた。今度宮城のひとめぼれに出会うことがあれば、やはり迷わず手に取るだろう。こうして少しずつ、わたしは宮城県や石巻市に近づいていくのかも知れない。うん。ふるさと納税も悪くない。

牡蠣もご飯も美味しかったけど、もちろん炙り煮穴子も!

こんな感じで売ってました。筆書きの文字に魅かれますね。

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とろろとうどんのマリアージュ

とろろが、好きだ。
山芋のとろろかけご飯。とろろ昆布のおすまし。全く違うものだが、名は同じ。とろろ。では、どちらが好きなのかと言えば、どちらも好きだ。食べ物としての魅力も去ることながら、とろろ。その名が好きだ。とろっとろだから、とろろ。その響きが好きなのだ。語源も調べてはみたが、判らなかった。その判らない感じも、じつにとろろらしい。とろろ。と言っただけで肩の力が抜ける気さえする。

先日、所用で出かけた汐留で、行きつけのうどん屋『つるつる』に立ち寄った。複数の魚の削り節を使った関西風の出汁の深みと細麺のコシが魅力の店だ。そこで目に留まったメニューが紀州の梅干しととろろ昆布のうどんだった。うどん屋だ。もちろん、山芋のとろろもある。だが、うどんにとろろ昆布と梅干しという意外さに、これは食べずにはいられまいと注文した。削り節の出汁と昆布は、もともと相性のいい組み合わせ。出汁が効いたうどんの旨味がさらに増した気がした。美味かった。

それから、家でのひとりランチでも、うどんにとろろ昆布を入れるようになった。フランスには「チーズとワインのマリアージュ」という言葉があるという。マリアージュは結婚の意味だ。相性ぴったりの組み合わせをすることで、食を楽しむ。そんな意識から生まれた言葉だそうだ。
「とろろとうどんのマリアージュ。いいかも」
チーズとワインに限らず、うどんに限らず、組み合わせの妙を意識して料理するのも、楽しそうだ。まあ、洒落た言葉を使ったところで、うどんはうどん。音を立てて行儀など気にせずすすることに変わりはないのだが。

葱たっぷりは、お家ランチ麺類の基本ですね。

これが『つるつる』の梅干しとろろ昆布うどんです。
梅干しとうどんは、わたし的にはマリアージュとは呼べないかな。

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山葵(わさび)は、笑いながらすれ

ずっと欲しいと思っていた、山葵おろし器を買った。
家庭用の小さなものが、ホームセンターで売っていたのだ。小さなものだが、きちんと鮫皮が貼ってある。生の山葵は、そのままかじっても辛くないという。細かく細かくすりおろすことで、辛み成分が出るのだとか。きめ細かくすりおろすのに最適なのが鮫皮なのだそうだ。

スーパーで、長野産の山葵を購入。刺身も買い、うきうきと山葵をおろす。
おろし方を調べてみたら「山葵は笑いながらすれ」という言葉を見つけた。不機嫌な人にガシガシおろされると、辛み成分が壊れてしまうらしい。のの字を描くように、ゆったりと練るようにおろすことで、辛みが増すそうだ。辛いの大好きなわたしは、もちろん素直に笑っておろした。というより、生山葵おろし初体験ゆえに、うれしくて笑わずにはいられなかったと言った方が正しい。
「辛くなれ、ふふふふふ。辛くなれ、ふふふふふ」
おろしながらひっそり笑い、ツンとした匂いを嗅いではまたひっそり笑った。ショキショキ音をたてておろせば、気分は妖怪アズキトギ。料理って楽しい。

だが、お味のほどは、というと「あんまり辛くないね」と、夫。
もっとしっかりと声高らかに笑うべきだったのだろうか。技を習得するには、修行が必要なようだ。

生山葵のパックには、湿らせたペーパーが入っていました。
山葵田で育つ植物だけあって、水分が鮮度を保ってくれるんですね。

お刺身盛り合わせ。娘が、刺し身は久しぶりだと思って奮発したけれど、
「カナダにも、刺し身食べ放題があったよ。鮪とかサーモンとか蛸とか」
だそうです。外国の食事情は、よく判りません。

我が家の定番、セロリと鶏肉のサラダにも、入れてみました。
山葵マヨネーズ味のサラダなんです。香りが違いました!

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潮の香り、石巻の夢牡蠣

初めて「ふるさと納税」をした。
場所は、やはり東北復興支援だろうと考え、宮城県石巻市に決めた。その石巻から、特産品の「夢牡蠣」が届いた。お礼を貰うのを前提に納税するなんて、とも思ったが、その町の特産品を貰うのは、うれしい。その土地が、近しく思えてくるような気がする。

ということで、その「夢牡蠣」を、うれしくいただいた。
届いたのは、殻つきの牡蠣、13個。夫の所望は、牡蠣フライだったので、一緒に入っていたナイフで殻を剥いた。剥き始めると楽しくなり、あっという間に剥いてしまった。殻は、梱包してあった発泡の箱に入れ、剥き身を冷蔵庫に入れた後、夫を迎えに行った。そして帰ってきた時に、驚いた。
「わ、潮の香り!」
キッチンに、まるで海岸にでもいるかのような匂いが、広がっていたのだ。
「石巻の匂いなんだろうな、これ」
深呼吸をし、その匂いを思いっきり吸い込んでみる。
「いつか、行ってみなくちゃね。石巻」夫が、言った。
わたしも、この牡蠣が採れた海を見て、この匂いを含んだ風を感じてみたいと想像をふくらませた。「ふるさと納税」も悪くない。

13個ありました。軍手と殻剥き用のナイフも入っていました。

ぷるんぷるんです。ナイフを入れると水がサーッと出てきます。

牡蠣フライ。半生でもOKなので、揚げすぎることもなく、やわらかい!
フライを揚げるのも、タルタルソースを作るのも、久しぶりでした。

牡蠣の殻を使ったグラタン。オーブンの中で、バチバチ跳ねて、
グラタンのなかにも、殻の欠片が入ってしまいました。
でもでも! オーブンから出した時にも、うーん。潮の香り!
シンプルに牡蠣の味を楽しむために手作りホワイトソースと
モツァレラチーズのみで焼きました。それが、大正解!
口のなかにも、潮の香りが広がっていきました。

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新米の定義

先週末、新米が届いた。毎年お願いしている近所のおばあちゃんの田んぼで収穫されたお米だ。子ども達が巣立っていき消費量は減ったが、1年分の米袋4つひとつ30㎏だから1200㎏を玄米で届けてもらった。

新米は、本当に美味しい。格別の美味さ。「格別」という言葉は、新米を表現するのにぴったりだ。明野に越して来てから、その田舎ならではの「格別」を毎年、味わわせてもらっている。川崎で暮らしていた頃には、新米とシールを貼ったお米を買うことはあっても、その味の違いに感動したことはなかった。大げさに聞こえるかもしれないが、幸せを感じる出会いだと思っている。

ところで、新米と言えるのは、いったいいつまでなのか。
ウィキペディアによると、なんと翌年の10月31日までは新米と呼べるのだそうだ。古米、新米との呼び分けで、そう決められているらしいが、去年のお米は、やはり新米と呼ぶには相応しくない。と、わたしは思う。
「美味しい~~~」と、うっとりしつつ口に運べるご飯を、新米と呼びたい。
それは、収穫後一、二週間ほどだろうか。
もちろん、そのあとも美味しいのだけれど「格別」と表現できるのは、と考えると、そのくらいにしておきたい。お米だって植物だ。鮮度で味が全然違うのだとは、田舎で暮らして初めて知ったことだった。「定義」とされることだって、人間が決めたことなのだ。自分の感覚で、ひとつひとつの言葉を使っていけたら、その言葉の持つ意味も深まるのではないだろうか。

何でもない朝ご飯も、ご馳走気分。

一人のお昼ご飯は、塩むすびにして。

おむすびのアップです。透き通ったお米の一粒一粒が美しい!

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米茄子の記憶

スーパーで米茄子を見かけた。同じ北杜市は白州町の産直野菜だ。ついなつかしくなって購入した。米茄子(べいなす)の記憶は、遠い昔にさかのぼる。

ちょうど30年ほど前のことだ。出会って間もない頃、夫が連れて行ってくれた一杯呑み屋の看板料理が、米茄子のそぼろあんかけだったのだ。夫の行きつけの店だったので、彼も、米茄子と言えば、と思い出すのはその店となる。
「なつかしいねえ」と言いつつ、しかし店の名が思い出せない。
「高田馬場だよね? 『轍(わだち)』じゃなかったっけ?』と、わたし。
「『轍』は、新宿だよ。うーん。何て店だったかな?」
結局、検索し見つけるまで、ふたりとも思い出せなかった。おやじさん一人で切り盛りしていたその一杯飲み屋は『一合目』という名だった。
「よく食べたなあ、米茄子」
購入した米茄子はオリーブオイル焼きにしたが、今度は『一合目』のそぼろあんかけを再現してみようかという話になる。
「少し、甘味があるそぼろあんなんだよね」
「うん。甘くて生姜が効いてたかな」
「そう言えば、銀杏が入ってた。そろそろ、銀杏の季節だね」
夫は、いく度も食べた味。記憶もわたしよりも深くはっきりとしたものなのだろう。わたしには、その時に初めて知った米茄子という種類の大きな茄子のインパクトの方が強かったせいもあるのか、美味しかったという曖昧な記憶のみがただうすぼんやりと残っている。
そして、米茄子の味と同じく、その頃何を考えていたのかなどは、あまり思い出せない。記憶はいくつかのシーンをちぎり絵にしたかのようにきれぎれになっていて、その一つ一つは、車窓からぼんやりと眺めた、過ぎ去っていった風景のようだ。
そのなかで、ただひとつ覚えているのは、あの頃、夫に恋をしていたということだ。それにしても、あの頃のわたしは、思いもよらなかっただろう。30年後も、その米茄子の彼と共に暮らし、ふたたび三たび、米茄子をつつきつつ、変わらず酒を酌み交わしているなどということは。

この丸っこさがまた、可愛いんですよね。アメリカの(だから米茄子)
ブラックビューティーという品種を日本で改良したものだそうです。

オリーブオイルとニンニクが沁みて、ワインにぴったり。
とろけるやわらかさには、米茄子、ただ者じゃない!と思いました。

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エノキの卵とじ、そして納豆

一人の朝ご飯。久しぶりに味噌汁は、エノキの卵とじにした。
夫との朝食は、大抵目玉焼きを焼くので、味噌汁に卵を落とすことはない。卵を焼かず、納豆にする朝もあるが、彼は納豆には生卵派なので、やはり卵とじをすることはないのだ。わたしは納豆には卵なし派で、二人の食卓の朝も、それぞれの食べ方で食べるのだけれど。

久しぶりに口にするものは、なつかしい味がする。小さな記憶が甦る。
「あ、これ、末娘が好きだったな」
そう思って、ん? と首をかしげた。あれ? 上の娘だったかも。いや、息子が好きだったのかも知れないと。
空気がひんやりとしてきた朝、熱い卵とじは、身体だけではなく心まで温めてくれる。じつは、わたし自身が好きな味なのだ。

そんなことを考えて、不意に思い出した。
小さな子どもはよく擦り傷を作る。ちょっとひどいときには、軟膏を塗ってやった。風呂上りに軟膏を塗ろうとして、3人のうち、誰の膝小僧の傷だったかと混乱してしまうことが、よくあった。さらには、そこに自分さえも混ざり、子どもの膝に軟膏を塗ろうとして、実際の傷はわたしの膝だった、ということすらもあった。忙しい毎日だったということはあるが、たぶんそれだけではない。子ども達がまだ、母親である自分に本当に近い存在だったのだろう。

今では彼らも、ずいぶんと遠い場所にいる。逆に遠い場所にいるから記憶が混乱しているのだ。納豆に生卵を落とすのが好きだったのは、誰だったか。そんなことすら、もう思い出すこともできないほどに。

どちらも葱たっぷり。九条葱を使いしました。
納豆も味噌汁も、葱の量で味そのものが変わりますね。

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茄子を探して

「茄子、買い忘れた!」
隣りの市のスーパー。レジで会計を済ませてから、気がついた。何ということであろう。夫のリクエストは、茄子と挽肉のカレーだというのに。
しかし、振り返るとレジの向こうには長蛇の列。茄子一つで、ふたたびここに並ぶというのは、考えられない。シルバーウィークの弊害だ。
「帰りに、コンビニに寄ろう」
帰路にあるいくつかのコンビニには、野菜も置いてある。ただ、茄子があるかどうかは確実ではない。やはり1件目のコンビニには、茄子はなかった。
「そういえば、この先に『よってけし』があったはず」
産直野菜を置いてある販売所だ。町内の野菜直販所は夕方早く閉まるので、もう閉まっているかと恐る恐る車を停めると、まだ開いていた。『よってけし』というのは甲州弁で「よっていきなよ」という意味だ。
だが、探せど探せど茄子がない。秋もまだ早いのに茄子がないってどういうこと? 売り切れなの? と絶望的な気持ちになっていると、一つの袋に目が留まった。はっきりと黄緑色だし形も違う。ずいぶんと細長い。だが、それは茄子だった。袋には「マーボナス」とかいてある。
「麻婆茄子? カレーに入れるんだけどな」
そう思いつつも、誰も並んでいない『よってけし』のレジで、ぶじ茄子を買うことができ、心のなかでガッツポーズをしたのだった。

偶然買った「マーボナス」は「麻婆茄子」ではなく「マー坊」という種類の茄子だった。もちろん麻婆にも合うが、油との相性が良く、炒めて美味しい茄子だそうだ。我が家の茄子カレーは、茄子をオリーブオイルで焼いてから仕上げ時に入れるタイプ。これからも「マー坊」にしようと思ってしまうほどにぴたりとハマり美味かった。茄子を探して走り回った甲斐もあったというものだ。

ところで翌朝、夢を見た。カレー鍋のフタをとると、茄子だけがなくなっているという夢だ。おのれ、夫め! 茄子ばかり食べたな! と夢のなかで疑ったわたしの意地汚さよ。リクエストしたのは夫だったが、いちばん茄子に執着していたのは、どうやら自分の方だったようだ。

『よってけし』で購入した「マー坊」です。

『よってけし』のおかげで、茄子たっぷりカレーになりました。
グリーンカレーやキーマカレーも美味しいけれど、
ルーでつくる家庭のカレーも大好き。ジャワカレー辛口とこくまろ辛口を
ブレンドして、チリペッパーやガラムマサラなどを入れています。

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栗の美しさ

毎年お米を分けてもらっている田んぼのお婆ちゃんより一足早く、近所の農家さんに新米をいただいた。
朝ご飯に白米を炊くと、やはり全く味が違う。もちもちだし、新鮮な米の甘みが口のなかに広がる。獲れたての新米は、本当に美味しい。収穫して一年経ったお米も、毎日美味しいと食べていたが、違う植物の実なのではないかと思うほどに違うのだ。

その新米で、お昼に栗ご飯を炊いた。ちょうど庭の栗を収穫したのだ。
収穫したての栗は美しい。つやつやと光っている。
収穫したと言っても、木の下に落ちた栗のいがを夫が底の厚い靴で抑えて割り、拾うのだ。考えてみれば、栗は頑丈な棘を持ったいがに護られ、鳥に実を突かれることはない。枝を離れ落ちるまでゆったりと熟していく。そこにこの艶やかな美しさが生まれるのかも知れない。そうか。美しいものには棘があるって、栗のことだったのか。そして、美味しいものにも。

毎年、収穫の量が増えている、まだ細い幹に生った庭の栗です。

夫が菓子箱に拾い集めた、栗達です。

もちもちの新米とほっくほくの栗。まさに秋の恵みですね。

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いちばん、最初に?

旅から帰ってきた翌日、埼玉の大学に通う末娘が帰ってきた。夏休みだ。
彼女が帰省してしたいことは、まず、家のご飯を食べる。そして、しゃべる。それから、洋服を買いにいく。(母に買ってもらうのが目的)
「オムライスとハヤシライスとミートソースとハンバーグとポテトサラダと山芋のソテーと里芋の煮物と寿司と、いろいろ食べたい!」
帰省してきた日は、太った北海道新秋刀魚を塩焼きにし、夫と3人食卓を囲んだ。少しやせた彼女を心配していたが、心配はない。食欲の秋のようだ。

翌日はハンバーグやらポテトサラダやら煮物などを作り、ふたりでの夕飯。我が家のハンバーグは、玉葱を炒めないサクサク玉葱の食感を楽しむタイプだが、ソースは特に作らず、それぞれ好きなように食べる。ケチャップでもよし、大根おろしに醤油をかけてもよし。
「はて? 末娘は何をかけて食べていたっけ?」
疑問は解けぬまま、食卓に着くと、彼女は冷蔵庫からお好みソースを出して来た。お好み焼き用の「おたふく」の甘めのソースだ。
「お好みソースだったか!」思い出し、ぽんと膝を打つわたし。
娘はというと、お好みソースに語りかけている。「きみ、やせたね」
夫婦二人の暮らしとなり、お好み焼きをする機会も減った。当然、お好みソースを使う回数も減り、コンパクトサイズを買うようになったのだ。
こうして暮らしは変わっていくが、好みはそうそう変わらないようだ。

そんな娘の変わらないところをいくつか目にして、微笑ましく思った。
しゃべっている途中「いちばん最初に」と言ってしまい、彼女は「ああ、言っちゃった!」と苦悩する。「最初」という言葉は「いちばん」をつけなくとも「いちばん」の意味を持つ。「頭痛が痛い」という日本語を許せないのと同じく彼女には許せない日本語なのだ。美しい日本語を愛する彼女は変わらない。
わたしが「やばい」と言ったときなど、しらっとした顔をし「それは野の梅のことでしょうか?」などと言う。
彼女も、大学に通い、ひとり暮らしをし、ずいぶんと変わっているのだろうが、そんな変わらない彼女との時間をつかの間楽しんだのだった。

小さ目のハンバーグを、3個でも4個でも好きなだけ食べるのが我が家流。
お好みソースで、ハンバーグ。食べてみてはいかが?

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胡麻たっぷりレシピ

農家さんに茄子をいただいて、何を作ろうかなと考えた。
焼き茄子も揚げ茄子の煮びたしも、オリーブオイル焼きもラタトゥイユも食べた。何か違う料理をしたいと、ネットで検索した。そして、特別新しい感じはしなかったのだが、胡麻たっぷりレシピに目を留めた。
「そういえば最近、胡麻、食べてないな」
胡麻油は、毎日のように使っているが、買い置きしてある煎り胡麻の袋を開けたのはいつだったか。食べるときにはけっこう食べるのに、使うのを忘れてしまうと時はすぐに経つ。
「久しぶりに、胡麻たっぷりもいいかも」

じつを言うと、末娘が胡麻が嫌いなのである。何が嫌いかと問われれば、まず胡麻と答えるくらいの嫌いようだ。そこまで嫌わなくてもいいのにと思うが、食の好き嫌いは他人には判らないというし、苦手なものもなく何でも美味しく食べられるわたしなら、余計に判るまい。だから、そうかとただ受け入れてきた。我が家の食卓に胡麻登場頻度が低いのは、たぶんそのせいもあるだろう。
料理するのはわたしだが、家族の好みは食卓に影響する。今はもう別々に暮らす家族の好みさえもが、今なお影響し続けている。不思議なことである。

そんなことを思い出すつつ、炒めた胡麻たっぷりレシピの茄子炒めは、思いのほか美味しかった。胡麻の香りがこうばしい。久しぶりの食感も新鮮に感じた。これはこの先、我が家の定番になるやも知れない。

茄子と胡瓜、この夏もたくさんいただきました。感謝です。

もちろん、胡麻油で炒めました。新鮮だと火も通りやすい気がします。

熱々をいただきました。胡麻はプチプチ、茄子やわらかく。

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ゴーヤチャンプルー・スタンダード

立派なゴーヤをいただいて、この夏何度目かのゴーヤチャンプルーにした。
新鮮なゴーヤの苦みが、口のなかに広がる。大好きな料理の一つだ。
我が家のスタンダードなゴーヤチャンプルーは、ゴーヤ、豚バラ肉、もやし、キクラゲ、豆腐、卵を炒め合わせ、オイスターソースと胡椒で味つけしたものだ。下ごしらえ時、煎り卵には少し塩も入れる。材料は、どれもないと物足りなくて、大抵きちんと揃えて料理する。しかし、新しい味をとネット検索していて気がついた。このすべてが入っているチャンプルーのレシピが見当たらなかったのだ。もやしが入っていなかったり、キクラゲがなかったり。
「我が家のチャンプルー、ちょっと贅沢な一品なのかも」

いつも食べているからと、スタンダードだと思っていた料理が、じつはそうではなかったという例も多い。特にいろいろ炒め合わせるチャンプルーなのだから、スタンダードなどないのかも知れない。
「我が家の味」も同じことで、何処かで食べて美味しいと思って作り続けていたり、子どもの頃の記憶からアレンジしたものが気に入ったり、たまたま料理本を見て作ったものにハマったりして、多くの偶然がチャンプルーされて、きっとできていくのだろう。

うれしくなるほどに、まるまる太っていました。

フライパンいっぱい作っても、夫婦ふたり、ぺろりと食べてしまいます。

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16年目の煮貝

山梨に住み15年以上が過ぎたが、甲州名物、煮貝を初めて食べた。
煮貝は、鮑を醤油味で煮たもので、海のない山梨で何とか海の幸にあやかりたいと港で煮た鮑を醤油樽に漬け込んで馬の背に乗せ運んだのが始まりだそうだ。馬にゆらりゆらりと揺られ醤油の味が馴染み、やわらかく熟成した鮑の煮貝ができたのだという。
高価なものなので、あると知ってはいたがこれまで口にすることはなかった。16年目にして初めてのいただきものである。嬉しくいただくことにした。
武田信玄も激戦の栄養補給や、客人のもてなしに煮貝を使ったという。知る由もないそんな時代を想像しつつ楽しんだ。
想像していたよりもやわらかく、しっかり煮込んであるのに塩分が勝っていない。旨味が豊かだ。夫とふたり、日本酒を呑みながらの夕餉となった。

煮貝を食べ思い出したが、普段はここ山梨に海がないことなど忘れていることが多い。米も野菜も美味しいし、山や森が綺麗だ。その上、生で食べられる魚だって売っている。忘れてしまうのも、ムリはない。煮貝を作った人は、今の時代より切実に海の幸のありがたみを感じていたのだろう。便利な世の中に生きていても、ときには思い出し、海の恵み、山の恵みにありがたみを感じることも大切だ。16年目の煮貝に、大切なことを思い出させてもらった。

握りこぶし大です。封を切ると、ぷーんと磯の香りがしました。

いただいた方に教えていただいた通りに、胡瓜サンドな盛り付けで。

煮汁が美味しいとの説明書きを読み、久しぶりにうどんを作りました。
確かに旨味が濃い。薄味でも、しっかり海の味がしました。
ちょうどあった、青さ海苔をのせて、海の幸うどんの出来上がり。

煮汁で炊き込みご飯も炊きました。具は針生姜のみ。茗荷を散らして。
炊き上がる時が、何とも言えずいい匂い!

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冷やし中華考

久しぶりに冷やし中華を食べ、子どもの頃から漠然と持っていた疑問がにわかに浮上した。冷やし中華って、何故に冷やし中華って呼ぶんだろう。冷やしたラーメンなのに。冷やした中華料理すべての名前みたいじゃん、という疑問だ。いい機会なので調べてみることにした。

発祥の地は仙台で、北海道では「冷やしラーメン」関西では「冷麺」と呼ぶ人が多いことが判ったが、語源は判らなかった。
マヨネーズをかける地域もあるらしい。昔ラジオ番組でサザンオールスターズが「メンバー全員、冷やし中華にはマヨネーズをかける」と言っているのを聞いて驚いたことを思い出した。
ウィキペディアによると「冬でも冷やし中華を!」と立ち上げた『全日本冷やし中華愛好会』なるものまであるそうだ。こういうことを真面目にやれる人って素敵だ。一つの料理でも、調べれば奥深いものだ。

最近では、具も盛り付けも多種多様だ。
ネットレシピで、さらに幅が広がっているように思う。生ハムやアボカドを入れたものまである。美味しく食べられればなんでもありでいい、という感覚なのだろう。基本形を残しつつ、様々なアイディアが出るのはいいことだと思う。あくまで基本形を大切にしつつ、というのがポイントなのだが。

我が家の冷やし中華は、基本形です。辛子と紅生姜はたっぷりめで。

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ペナンホワイトカリーヌードル

お盆に夫の友人が遊びに来て、マレーシア土産をもらった。ペナンホワイトカリーヌードルである。
「マレーシアで、いちばん美味いインスタント麺なんだ」
自信を持ってオススメしてくれた彼は、もう何年もマレーシアで働いている。インスタントラーメンと同様に作り、器に盛りつけてから最後に辛い調味料を入れて混ぜるのだと、何度も食べたことがあるらしく堂に入った感じで教えてくれた。

さっそく作り、夫と昼ご飯に食べた。
「辛い!」ひと口食べ、夫。そしてふた口目「美味い!」
わたしも同じことを言いつつ、食べた。かなりの辛さだ。しかし、辛いもの好きなわたし的には、ちょうどいい辛さだとも言える、美味しい辛さだった。
「ココナッツミルクカレーの味だね。暑い国の食べ物って感じ」と、わたし。
「でも、日本の夏の方がよっぽど暑いって言ってたよ」と、夫。
日本の夏は、赤道にほど近いマレーシアよりも暑いらしい。今年は猛暑日が2週間続いたとニュースになっていたが、マレーシアでは1年じゅう30℃は越えていても35℃にはならないのだという。やはり日本のこの異常なほどの暑さは、エアコンの室外機や、わたしも日々乗っている車の排気ガスその他人工的なモノが大きいのだろうかと考えさせられた。

知らない国、行ったことのない国の食べ物を食べると、その国に興味が湧く。そして、自分の生活を見直すきっかけになることもある。温暖化はしょうがないと、あきらめてばかりではいけないとあらためて考えたのだった。
*一人一人にできることをまとめてあるページです*
4袋入り。裏面には判りやすく、380ml水、煮3分との表示が。
Penangを一瞬「ぺヤング」と読んでしまい、一人静かに笑いました。
ネット検索するとインスタントラーメンランキングで世界一になったとか。
この美味しさは、世界中で好まれるものなんですね。

こうして見ると、日本のインスタントラーメンと変わらない感じ。
インスタントラーメンって日本発祥のものだから、世界共通なのかな。

粉末調味料2つを入れた状態は白。透明な袋が辛さと赤い色の素です。
具には、玉葱と小松菜、フランクフルトを炒めて入れました。

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正しい朝ご飯って?

夫の所望で、朝食にめざしを焼いた。
「なんか、めざしがあると正しい朝ごはんって感じがするね」
食卓に着いて、わたしが言うと、夫も満足げだ。
小松菜とシメジと油揚げの味噌汁には、朝、庭に出て摘んだ茗荷を刻み、ひとり1本分ずつ贅沢にのせている。それだけでも十分にしっかりとした朝食だが、いただきものの夏野菜や桃などもあり、ゆっくり食べられる夏休みならではの朝食タイムを満喫した。そして、めざし。栄養満点だし、適度に塩辛く、ご飯が美味しく食べられるのがいい。

ところで、自分で言っておきながらだが、ふと「正しい朝ごはん」って何だろうと考えた。朝食を抜く人も多いとか、朝ご飯をきちんと食べる子は成績がいいという統計があるとか、何年も前から聞く話だが、常識的な朝ご飯も変わってきているんだろうな。

我が家は基本ご飯派だが、たまにパンを食べると美味しいなとも思う。ご飯と味噌汁の朝ご飯が正しい、という訳ではもちろんないのだ。
自分が正しいと思える朝ご飯、自分と、そして家族が美味しく食べられる朝ご飯が、きっと「正しい朝ご飯」なんだろう。
かく言うわたしも、ひとりで朝ご飯のときには、冷凍しておいたおむすびをチンして食べてそれだけ、なんてこともある。そのときには無論、これは「正しくない朝ご飯」だと判ってやっているのだが。

採れたてのオクラをいただいて、柚子ポンかけていっぱい食べました。
食卓に緑があると、色味の鮮やかさに食欲も湧きますね。

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久しぶりの餃子

久しぶりに餃子を焼いた。
子ども達がいた頃には、よく大量に餃子を包み、ホットプレートで焼いたものだったが、夫婦ふたりになり、餃子を作ることもしなくなっていたのだ。ラーメン屋で食べるか、生協で注文した冷凍のものを焼くか茹でるか、というのが通常になっていた。
だが、お盆休みということもあり、イベント気分で餃子を焼こうという話になった。40個分の材料を仕入れ、夕方夫が草刈りをしている間に、ひとりのんびりと餃子を作る。刻んだ具材を混ぜていて、料理のなかでも混ぜることが何故か好きで、ああだからお菓子などをよく作っていたのだと思い出したりした。包むのは子ども達も大好きで、三人三様に奇抜な形にしようと四苦八苦していたのをまた思い出す。
「子ども達はいろんな形にしようとがんばっていたけど、餃子の形って、やっぱりこれがいちばん美味しい形なんだよね」と、わたし。
「中国三千年の歴史だね」と、夫。
包む作業もまた楽しい。淡々と単純作業をするしんとした時間が好きなのだ。

子ども達がいた頃のように、ホットプレートを出して焼いた。
「思いっきりたくさん食べたいね」と、夫。
「20個焼いちゃおうか」と、わたし。
四川風味のラー油の味は新しかったが、久しぶりに我が家の餃子を味わった。美味かった。キャベツを多めに入れたからか、優しい味だ。ふたりなのに、わいわいにぎやかな食卓にいるような気分を味わっているような気がした。
食卓には、様々な記憶がつきまとう。餃子は、思いもよらずたくさんのことを思い出させてくれた。とても楽しい夕餉になった。

残りの20個は、バラバラになるように冷凍した。もう1回分楽しめそうだ。
「ひとりのときに、食べようと思ってるでしょ?」
夫は、しっかりと牽制するのを忘れなかった。どうしようかな。

具は、豚挽肉とキャベツと葱、ニンニク、生姜、庭のニラも入れました。

太白の胡麻油をしいて、水を入れてフタをして蒸し焼きに。

5分後、フタを取って。かりっとさせるためには、もうちょっとかな。

かりっと焼けた! うれしい。美味しい。食べすぎた(笑)

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「まあいいか」で、いこう

東京駅の前、KITTEで友人とランチした。
夏休みだし、ちょっと贅沢してフレンチでも食べようかという話になり、軽いランチのコースを選び、ふたりのんびりとした気分での食事会となった。
彼女とは年に何度か会って、とりとめもなく近況を語り合う仲だ。彼女がご主人の転勤先のロサンジェルスにいる頃、娘を連れて遊びに行ったのは、もう5年ほど前になるだろうか。おたがい子ども達の年齢が変わらないこともあり、また何日かお世話になり、ご主人やお嬢さんともわいわいと過ごさせてもらったこともあり、しばらく会っていなくとも話ははずむ。楽しい時間だった。

いつもまじめで、何事も誠実に取り組む彼女を、わたしはとても尊敬している。何かを選択しなくてはならないとき、彼女だったらどうするだろうかと考え、決めることもある。だから、ごく普通であるその言葉は、意外な輝きを放って、わたしの胸に届いた。
「最近、まあいいか、って思うことも大切だって思うようになったのよ」
その言葉を聞き、精一杯やっている人の「まあいいか」は、眩しいんだなと思った。わたしの口癖であるその言葉は、しかし口癖であってもなかなかそうは思えない場合も多く、わたしとてつまらないことで悩んだりもするのだ。
「まあいいかで、いこうね」
彼女は、別れ際、再びそう言って手を振った。そのとき、わたしのなかで使い古された「まあいいか」は、新しい意味を持つものとして生まれ変わった。
「まあいいか」
ゆっくり噛みしめると、思い悩んでいたことすべてが解けていく気がした。

前菜は3種類。赤紫蘇のグラニテ。マスカルポーネチーズをのせて。

スモークサーモンと何種類かのトマト。ベースはガスパチョです。

栗と南瓜のスープ仕立て。フォアグラとアーモンドも入っていました。

メインは、穴子のフリットと茄子ととうもろこし。カレー風味でした。

デザートのブランマンジェと、フランボワーズのシャーベット。
甘いモノが苦手なわたしにも、美味しく食べられました。
たぶんルバーブの酸味が、しっかりと効いていたからです。

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油を拭くぼろきれ

調理後のフライパンの油を拭くのに、ぼろきれを使っている。
今、使っているのは、わたし用の古いバスタオルを小さく切ったものだ。そろそろそれがなくなるので新しいものを作ろうと、ぼろきれを集めたかごを探すと、娘が使っていた古いバスタオルが出てきた。
カナダにいる上の娘のものである。

あまりゲンを担いだりする方ではないが、なんとなく彼女が使っていたと思うと、そのすり切れたバスタオルを切ろうという気持ちにはなれなかった。べつにそのタオルを切って油を拭いたからと言って、娘に何が起こるという訳でもないのだと判ってはいるが、ただ切る気になれなかったのだ。

ぼろきれは他にもある。古いシャツなどで新しい小布を作りつつ、親というものは、と半ば呆れながらも胸に温かいものが流れるのを感じた。

「10月の初旬に、日本に帰るチケットをとったよ」
その娘からメールが来た。彼女の1年3か月の旅も、もうすぐ終わる。そしてまた何処かへ出かけて行くのだろう。彼女のバスタオルで小布を作るのは、帰って来てから、そして何処かへ旅立つ前にしようと、メールを読み考えた。

フライパンの油を吸い取ってくれる、古いタオル達に感謝です。

夕べは、お好み焼きを焼きました。ホットプレートの油も、
ぼろきれで作った小布が、綺麗に拭いてくれます。

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京野菜、万願寺とうがらし

夏になると毎年、生協で万願寺とうがらしを注文する。
とうがらしの形をそのまま大きくしたような緑の美しい野菜だが、全く辛くない。シシトウなどは、たまにものすごく辛いものが混じっていたりするが、そういう心配は皆無だ。ピーマンなどより余程甘く種も少ないので、大きいまま素揚げにして、かぶりついて楽しんでいる。塩味も合うし、出汁つゆに浸けても美味い。京都府が認定している「ブランド京野菜」のひとつだそうだ。

京都という土地は、不思議な場所である。修学旅行で、または個人で訪ねたことがある、という人がほとんどだろう。わたし自身、やはり何度も行っている。夫の実家である神戸に帰省した際に、ちょっと立ち寄ることができることが大きいかとは思うのだが。
旅行として行ったのは、上の娘が中学を卒業したときだった。末娘は小学6年になる春で、神戸の義母を誘い、女ばかり4人で哲学の道を歩いたことを思い出す。上の娘は中学卒業と同時に、思春期の反抗期も卒業していて、義母も一緒に楽しんでもらい、とても気持ちのいい旅だった。十年も前のことになる。

京野菜が、特別なものであるような気がするのは、多くの人のなかにある旅の記憶が生むものなのだろうか。それとも、特別な土地であるという京都の人々の意識が生むものなのだろうか。どちらにしろ、京野菜である万願寺とうがらしを思いっきりかぶりつくのが、夏の楽しみのひとつになっている。

農家さんにいただいた茄子と。万願寺とうがらし、立派です。

素揚げにして、出汁つゆに浸けました。本物の唐辛子も1本入れて。

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ラーメン、ラララ

所用で甲府に出た際、久しぶりにラーメンを食べた。
このところの暑さで、夫との昼食でラーメンを食べようという話にならない。わたしとしては、ラーメン食べたいなあと思っていても、夫の「この暑いのにラーメン?」のひと言であきらめていたのだ。だから、久々に食べようと、朝から決めて、わくわくしていた。
がんがんに冷房が効いたラーメン屋で、熱々の辛葱ラーメンを食べる。幸せだ。何が幸せかって、葱がさらし過ぎていないのが、いい。ラーメン屋のさらし過ぎた葱ほど許せないものはない。自然な葱の辛さを味わいつつ、すするラーメン。ラーメン、ラララと歌いたくなるほど美味かった。

さて。その帰り、スーパーで買い物をした。誰も並んでいないレジにカゴを置くと、何かのトラブルか、商品を替えに行っていた客が戻って来た。レジの女性が申し訳なさそうに「お先に、この方、いいですか?」と聞く。「どうぞ」と先を譲ると、その客も「すみません」と頭を下げた。普段なら、そこで笑顔で会釈するくらいだったと思うが、ラーメン、ラララだったわたしは、機嫌よくはきはきと言った。「いいですよ。だいじょうぶです」ふたりとも、ぱっと笑顔になる。それを見て、わたしも笑顔になった。
その後わたしの番になると、レジの女性は、本当はダメなんだけどという顔で「それ、マイバックですか? 入れましょうか」と言った。そこのスーパーのルールでは、カゴ相当の大きさのマイバッグにしか、レジ担当者は商品を入れないことになっている。レジをスムーズにという理由からだ。わたしは後ろに誰も並んでいないことを確認し「じゃ、お願いします」と甘えることにした。
なんだかすごくいい気分だった。たぶん、前の客も、レジにいた女性も、同じようにいい気分だったと思うから余計に。
これからは、ラーメン、ラララじゃなくっても、きちんと言葉で伝えよう。
なあんて思ったのも、ラーメンの美味しさによるご機嫌な連鎖かな。うーん。ラーメンは偉大だ。

辛葱ラーメンの麺かため、醤油うすめ、脂少なめにしました。

東京豚骨拉麺ばんからラーメンのモットーは『胸はって、見栄はらず』

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夢の歪み

夢を見た。おむすびを食べようと、海苔を出したのだが、その海苔が変に細長いのだ。どうして? と戸惑っている自分が、夢のなかにいた。

このところ、よくおむすびを食べる。朝食に炊いたご飯の残りをむすび、冷蔵庫に入れておき、昼食に、ひとりの夕食にレンジでチンして海苔を巻く。お茶碗によそったご飯よりも食欲が湧くのだ。そんな日々のなか、見た夢だった。
考えるに、海苔って微妙に長方形だよなあという疑問が、わたしのなかにはあったのだと思う。どうして正方形じゃあ駄目なんだろう、という疑問が。
それが夢のなかで誇張され、はっきりとした長方形の海苔が出来上がったというのが推測だ。

そんな小さな日常の歪みが、夢に出てくることがよくある。
庭仕事をした夫のポロシャツの汚れが取れず、洗い直そうと洗濯機の上に置いたまま忘れていた。ここまでは現実。ここからが夢なのだが、夫がそのポロシャツをタオルにして顔を洗っているのだ。
「あ、それ、ポロシャツだから」
戸惑うわたし。ただそれだけの夢だが、忘れていたポロシャツを何処かで覚えていた自分がいて、夢を見た訳だ。思考回路が単純だとも言える。

しかしまあ、気になることを夢に見るというのなら、まるで悩みがないようだな、わたし。と客観視し、冷静に考えたのだった。

玄米入りの少し茶色っぽい、おむすびです。熱中症予防に梅干し!
海苔の大きさは21㎝ × 19㎝ に、昭和40年代に統一されたそうです。
何故かは、わかりませんでした。

お米は、近所の田んぼのおばあちゃんから買っています。
今年も、稲がすくすく育っていく様子が見られて、うれしいです。

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茗荷と物忘れ

庭の茗荷が、花を咲かせた。嬉しい。待っていたのである。
茗荷達が、頭をのぞかせているのは知っていた。だが、収穫するにはまだやせっぽちだ。お菓子の家の人食い魔女よろしく、太れ太れと唱えながら、花が咲くのを今か今かと待ちわびていた。ようやくその時が来たのだ。
「茗荷の味が、濃いねえ」
朝食の味噌汁をすすり、夫がうなずきつつ言う。確かに、味が濃い。小松菜とシメジの味噌汁だったが、たっぷり入れた薬味である茗荷の主張が強く、茗荷汁と言ってもいいような味わいになってしまった。
春からこちら、毎朝の味噌汁の薬味は茗荷と決めて、収穫できずにいる間も買って来て入れていたが、やはり獲れたては違う。

茗荷を収穫し、そう言えば、と思い出した。「茗荷を食べると物忘れをする」という諺である。だが毎日、茗荷を食べていて、最近とみに物忘れがひどくなったかと言えば、そうでもない。というのは、もうずいぶんと前から、十年以上前だろうか、物忘れがひどいなあと感じてから、たいして変わらないような気がしていたのだ。しかし、茗荷の諺をすっかり忘れていたことには、ショックを受けた。物忘れを物忘れとも思わぬほど、進行していたのだろうか。いやしかし「灯台下暗し」という諺もある。それだけ茗荷が生活のなかで身近な存在になったという証かも知れない。
ということで、茗荷を食べすぎたがために物忘れが進行したという説は忘れることにして、これからしばらく庭の茗荷を美味しく楽しくいただこうと思う。

花を咲かせた茗荷達。順番に収穫するから、待っててね。

収穫した茗荷です。美しいです。

茗荷の味噌汁には、花も入れました。
家庭菜園で作ったといただいた野菜や、もずく、納豆と一緒に、朝ご飯。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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