はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『ベーコン』

井上荒野の短編集『ベーコン』(集英社文庫)を、読んだ。
読んだばかりの『キャベツ炒めに捧ぐ』と同じく、食べることが鍵になる短編ばかりを集めている。しかし雰囲気はまるで違う。登場人物の孤独が『キャベツ』より、はるかに色濃く描かれている。裏表紙の言葉を借りると「人の心の奥にひそむ濃密な愛と官能を、食べることに絡めて描いた短編集」だ。
以下表題作、死んだ母の恋人を訪ねる『ベーコン』より。

私と沖さんは、炉を囲み、向かい合って座った。炉の縁には、脂やソースの染みが点々と付いていた。沖さんと母は、幾度もこうして食事をしたのだろうか。私の想像はなぜか上空を駆け抜けて、沖さんがこの炉を作っているところや、そのそばでしゃがみ込み、膝の上に顎をのせて、幸福そうに作業を眺めている母の姿までが浮かんできた。私はそれを振り払うように、
「沖さんは、最初からそんなふうに逞しかったの」と聞いた。
「いや。べつに」沖さんは炉の上のベーコンに向かって呟いた。
「沖さんは、床上手だったの」
沖さんは、ゆっくり顔を上げて、私を睨んだ。
「よく、そういうことが言えるもんだな」
「母のことなんか、何も覚えていないもの。私には他人なのよ」
私は言い返した。
「あなたはお母さんによく似ているよ」
ベーコンはゆっくり炙られていった。脂身がぷっくりと膨らみ、次第に透明になって、端のほうから少しずつ、ちりちりと焦げていく。脂が炭の上に落ちて、香ばしい細い煙になった。匂いにつられたのか、他の理由でか、豚が二頭、そばに寄ってきた。「ほい、ほい」と沖さんは豚の尻を叩いて追い返し、ベーコンを裏返した。

食べることなく、生きていくことはできない。では、人を愛することなく、生きていくことはできるのだろうか。9編目の『目玉焼き、トーストにのっけて』から引用すると「ビッグマックに今ならポテトがついてくる、みたいに」そのふたつはセットになっているのかも知れない。

表紙は、レースとフォークのお洒落なデザインです。
単行本の表紙とは、全く違うものになっています。
文庫化の際『トナカイサラミ』を追加収録したそうです。

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研ぎ澄まされた朝に

乾いた砂が水を吸うように、様々なモノがすんなりと入ってくる朝がある。
空気抵抗を感じることなく、見るモノすべてが目に焼きつき、耳に入る音すべてを身体じゅうに感じるような、そんな研ぎ澄まされた朝。

例えば、農道の脇に落ちていた片方だけのビーチサンダル。黒地にショッキングピンクの鼻緒。細身の女性の足が似合いそうだ。
田んぼの杭にひっかかったスーパーのビニール袋。風を含み、膨らむ。車で通り過ぎる一瞬の間にも、形を変える。
いつもは目に留めることのない道路標識の文字が、頭にすっと入って来ては消える。それを繰り返していく。
オートバックスの「車検予約承ります」の旗は、9本。同じ間隔で並んでいるが、風に揺られる姿は、同じではない。
床屋のトリコロールカラーのポールは、営業時間外だからか回転していない。止まっていることに違和感を覚え、目が吸いよせられる。
駐車場では、セキレイが尾を振り、道標の上で、カワラヒワがきょろきょろと首を動かす。
神社の石造りの鳥居に彫られた狐の顔が、こちらをじっと見つめている。

そんな研ぎ澄まされた朝だから、そうだ、向日葵を見に行こうと思い立った。夫を駅まで送った帰り道、少し遠回りをするだけでいくつかの向日葵畑を見て回れる。週末から『サンフラワーフェス』が始まった。明野町がまだ村だった頃、村おこしで始められた向日葵畑は、20もの場所で順番に咲いていくように植えられているのだ。
思った通り、向日葵一輪一輪が、くっきりと見えた。いつもなら目を向けない蕾や、ハート形のような葉や、後ろ姿も楽しく眺めた。上を向いて咲く花あり、うつむいた様子の花もあり、蜜を吸う蜂やアブのかすかな重みにふっと揺れる花もあり。そんな何でもない風景がそのままの姿ですっと胸に収まった。
向日葵咲く明野で夏を迎えるのも、17回目だ。

上を向いて咲いてるなあ。でも、みんながみんなって訳じゃない。

ここの畑は、まだ五分咲きでした。

花が開く前の姿って、すっぱそうな顔(笑)と笑ったり。

蕾、個性的な形だなあ、とじっと見つめてみたり。

我が家からほど近いこちらの畑は、けっこう咲いていました。

後ろ姿の向日葵達です。
よく見ると、顔を見合わせて微笑み合ってる子がふたり。
こういう姿に気づくのも、研ぎ澄まされた朝、限定です。

後ろ姿も、意外と絵になるなあ。

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パエリア鍋?

週末、毎年恒例になっている会社のバーベキューをした。
我が家のウッドデッキでの開催。家族連れで、小さな子ども達なども参加するアットホームな会だ。
これまでは多少準備に心を砕いていただが、今年はパエリアを作りたいと言うアメリカ男子にすべてお任せで、わたしは胡瓜の浅漬けを出しただけ。ゆっくりと食べて飲んで、おしゃべりをさせてもらった。

そのパエリアの鍋だが、市内のホームセンターでワンサイズのみ置いてあった直径40㎝のものを購入した。
「パエリア鍋、買ったよ」
夫が、彼にメールすると、返事にこうかかれていたそうだ。
「パエリアという言葉は、鍋という意味です。だからパエリア鍋というのは、ちょっと変ですね」
それを聞き、ほう、と思った。
チゲ鍋の「チゲ」も「鍋料理」の意味を持つ言葉で、チゲ鍋 = 鍋料理鍋というおかしなことになってしまう。本来なら、キムチ鍋 = キムチチゲが正しいのだろう。

日本でも、鍋料理のことを「お鍋」と呼ぶ。
韓国でも同じような感覚で使われているのだろうと、ちょっとうれしく思っていたので、スペイン、おまえもか、とわくわくした。おんなじ人間なんだよなあ、と遠い国の知らない人達に、強く親しみを覚えたのだ。違うところがあって、あたりまえ。そして似ているところもあって、あたりまえなのだ。
アメリカからやって来てうちの会社で働いている彼が作ったパエリアは、グレイトだった。最高に美味しかった。

見事なできあがり!お米がアルデンテで、肉と魚介の旨味たっぷり。

シェフがサーブしてくれました。至れり尽くせりです。

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我慢でもがんばりでもなく

何年かぶりに、サウナに入った。じつは、苦手である。
温泉に行っても、自分から入ろうという気にはならない。暑いのを我慢して何が気持ちいいんだろうとまで思っていた。我慢がない性質なのかも知れない。
それがふとした気まぐれでサウナの蒸気に当たると、気持ちよかったのだ。
「あ、あったかい」
暑いではなく、そう感じた。
「わたしの身体、けっこう冷えてるんだ」と。
そう感じて、サウナは暑さを我慢するモノから、冷えた身体を温めるモノへと変わった。温まったら出ればいい。歳とともに夏でも冷えやすくなった身体には、サウナで少し温まるのも有効なのだろう。わたしの苦手意識は、サウナ室の蒸気と一緒に消えていった。

ところで、先月から始めた、姿勢矯正中心の軽いタイプのヨガ「ひめトレ」だが、続けているだけではなく、ストレッチポールを購入した。
「買っても、どうせやらないんでしょう?」
夫の言うことは、もっともだ。以前やっていたヨガのマットは押し入れで眠っている。言われなくとも、自分でも不安はあった。
「買っても、どうせやらないんじゃないだろうか」
しかし約2名の予想に反し、ストレッチポールは毎日活躍している。
サウナと同じく、ひめトレポールによるストレッチは、我慢してがんばるモノから、身体が伸びて矯正されていくのを体感するモノへと変化を遂げたのだ。
ひと言で言えば「気持ちいいから、乗る」ザッツオール。
身体が求めているものが、変わって来ているのか。身体が求めるものが、顕著に表れるようになってきたのか。その両方か。

「お昼食べ過ぎた。背中痛いから、乗ろうっと」
休日の昼間、居間でポールに乗っていると眠くなる。さすがに落ちると痛いから、寝ないけど。
「ねえねえ、わたし、ストレッチがんばってるでしょ」
日々ストレッチに励んでいる夫に言うと、即答された。
「それは、がんばっているのとは違う」

これが、ストレッチポールです。軽くてちょっと硬め。
この上に、仰向けに寝るように乗ります。

長さは、こんなふうに頭から腰が乗るくらいです。
「ひめトレ」ではポールに乗って手足を動かす体操をします。
ただ乗るだけでも、身体が伸びて正しい状態に戻っていくそうです。
「これは、いいわあ」と、夫も使っています。

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集まってくる好きなもの

東京で、急いで食べた昼食でのこと。
会社近くの大手町から、地下道を東京駅まで歩いた。正午より少し前だったのだが、ランチを食べられる店はどこも行列ができていて、新オフィス周辺の会社&会社員の多さを目の当たりにした。
「通り道で済ませるのはムリみたいだね」と、わたし。
「オアゾの5階か6階なら、だいじょうぶかも」と、夫。
エレベーターで上がると、寿司屋と沖縄料理屋の先に、博多水炊きの店があった。「鶏そば」「親子丼」など写真入りのランチメニューがある。人も並んでいない。夫は鶏肉大好きだし、わたしも「鶏そば」の写真に魅力を感じた。

夫は親子丼。わたしは鶏そばを注文。ぶじお昼ご飯にありつけた。
しかし、鶏そばが目の前に置かれ、頭のなかを疑問符が飛び交った。
「あれ? これって、ラーメンじゃん」
つい口に出して言うと、夫が呆れたように言った。
「きみってすごいね。ラーメン食べるつもりなんかまったくなくても、ラーメン頼んじゃうんだから」
水炊き屋さんの鶏そばだから、鴨南蛮のこってりスープバージョンかなと漠然と思い描いていたのだが、まさかラーメンだったとは。
「なんか、うれしい」
思わぬところで、旧知の友に逢ったような感覚だ。手を取り合って握手したいような、あるいは思いっきりハグしあいたいような旧友。
好きなものって、こうして引き寄せられるようにして集まってくるんだよ、うんうんと感動しつつ、こってり塩味の鶏スープラーメンをすすった。

上の娘が、むかしリラックマを集めていたのを、なつかしく思いだす。
「リラックマ、大好きなんだ」
そう吹聴して回るものだから、友達からのプレゼントもお土産も、みなリラックマになった。もちろん本人は欲しいと言っているつもりはさらさらない。ただちょっとしたプレゼントには、ちょうどよかったというだけなのだろう。
「もういらないって思ってるのに、どんどん来るんだよね」
リラックマを卒業した彼女のもとにも、しばらくの間リラックマは、行列を成してやって来たっけ。

ラーメンがわたしのもとへやって来たのは、果たして偶然なのだろうか。それとも、ラーメン好きの第六感が働いて、鶏そばに心が動いたのだろうか。
いずれにせよ、好きなものは、その人のもとへ集まってくるものなのだ。

味噌、醤油、塩のなかから選べました。塩です。美味しかった!
考えればこの時点で、ラーメンだって気づいてもよかったのに。

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うちの子を見つけて

所用で東京に出た際、何年かぶりに武道館近くの『暮らしのうつわ花田』を訪ねた。千鳥ヶ渕には蓮が咲いていて、ああ、東京もそう遠い場所ではないのだなあとあらためて思う。徒歩3分のご近所さんの家と我が家でも、花の咲き具合は違う。標高と陽当たり。しかし東京と山梨で、同じ時期に咲く花もある。遠いようで近い、近いようで遠いのが、東京だ。

しかし店内に入ってすぐ、既視感に似たものが広がった。久しぶりであるその店のなかに、よく知った顔を見つけたのだ。
「あっ」声にならない声を出し、思わず微笑んだ。
前回買い求め、毎日のように朝食に使っているのと同じ皿がまだ置いてある。
「うちの子、まだがんばってるんだ」
胸に、温かなものが広がっていく。

ゆっくりと店内を歩き、小鉢を2つ買い求めた。
レジで写真を撮ってもいいかと訊ね、朝食皿の話をすると、女の子と言ってもいいほどの若い店員さんが、顔をほころばせた。
「その商品は、ほんとうに息が長いんですよ。創業以来40年扱わせていただいているんです」「40年ですか」
こちらも、笑顔になる。
40年間ここで売り続けられている皿。うちの子達の兄弟は、様々な家の様々なシーンで活躍しているのだ。高価ではない、食器洗い機に入れてもいい器。そういうモノが暮らしのなかでは、意外と重宝されるのだろう。

再会した皿に別れを告げ、夕刻の、少し涼しくなった靖国通りを気持ちよく歩いた。明日からまた、うちの子達を大切に使おう。

真ん中の白地に藍の水玉の楕円のお皿が、うちの子です。

我が家の朝ご飯でも、いつも真ん中にいます。

店内です。ぐい飲み、徳利、杯。手にとって眺めずにはいられません。

お茶椀もいろいろ。ヨーグルト用のお皿も、探したりしました。

小皿や小鉢の他、レンゲ、箸置きなどもたくさん並んでいました。

『暮らしのうつわ花田』の外観です。靖国通り沿いにあります。
2階では個展が開催されていて、1階奥は喫茶になっています。

千鳥ヶ渕のお堀は、蓮の葉がいっぱいに広がっていました。
ピンク色の花が咲いているのも、遠目にちらほら見えました。

購入したのは、この器です。黒釉。見た目より軽いです。
鍋のとり皿の他、お浸しなどの小鉢に重宝しそうです。

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『キャベツ炒めに捧ぐ』

井上荒野の連作短編集『キャベツ炒めに捧ぐ』(ハルキ文庫)を、読んだ。
肝っ玉おっかさんたちの家庭の味と地元タウン誌にかかれる「ここ家」のお惣菜は、とびきり美味い。東京は私鉄沿線の小さな商店街。店を切り盛りするのは、にぎやかなオーナー江子(こうこ)、口の悪い古参の麻津子、物静かな新入りの郁子。ともにアラ還で、独り者。そして、それぞれに別れた男への忘れえぬ思いを抱えていることが共通していた。以下『あさりフライ』より。

まずはビールを一口。それから熱々のフライを、最初はそのままひとつ食べる。はふはふはふ。ほいひー、と江子は声に出して感嘆した。二つ目はレモンを搾って。串三本目でいちどソースをかけてみよう、と計画を立てる。
春は貝だ。
三月はじめ、夜はまだ少し肌寒いけれど、空気はねっとりやわらかくなってきて、ちゃんと春めいている。春の空気には貝の味がしっくり合う。白山もよくそう言っていた。江子は三本目のあさりをぱくりと食べ、あ、そうだわそろそろソースだわと思い出して、串に残ったひとつにウスターソースをほんの少しかけた。きつね色の衣に染みこんでいくソースの焦げ茶色をじっと見つめる。
あの日もあさりフライを食べていた。白山から別れを切り出された夜。
江子、すまない。白山は突然そう言った。恵海と別れられなくなった、と。江子はあさりフライを食べ続けた。それはちゃんとおいしかった。おいしいのに、白山は別れ話を続けようとしていた。

それを食べるたびによみがえる、苦い思い出。誰にでも、そんな料理や素材があるだろう。ともに暮らした誰かと思いを残したまま別れることになったとしたら、美味しく食べたはずの料理も、たぶん苦い味に変わってしまう。
物語は入れ代わり立ち代わり、そんな3人の視点で紡がれていく。
60歳。まだまだ立派に恋をする年齢なのだ。

連作短編11編のタイトルになっているのは、料理や素材です。
『新米』『ひろうす』『桃素麺』『芋版のあとに』『あさりフライ』
『豆ごはん』『ふきのとう』『キャベツ炒め』『トウモロコシ』
『キュウリいろいろ』『穴子と鰻』季節感がふんだんに盛り込まれています。

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潜在意識の誘導に従うか否か

連休。夫とふたり朝食まえに散歩を楽しんだ。
わたしのスピードに合わせて歩くことになるので、30分くらいの道程も1時間弱かかる。びっきーとよく歩いたコースだが、遠回りすればできるし、南に回るか北に回るかも選べる。最初の分岐で、夫が言った。
「どっちにいく?」
「気持ち的には、こっちに行きたいよね」
わたしは、下り坂を指さした。
「そこを、あえて登るのがいいんだよね」と、夫。
急ぐ旅じゃなし、どちらへ行ってもかまわない。
「人の心理って不思議だよね。楽な方へつい足が向く」
そう答えて、あえて登る夫の後ろを歩きながら思い浮かべていたのは、サッカー観戦で見たPKのシーンだった。

キッカーが準備する間、キーパーがゴールの左半分をゆっくりとストレッチしながら歩いている。右が空いてるよとキッカーの潜在意識に訴えているのだそうだ。もちろん、キッカーもそれを知っているから、キーパーの思惑通りにはいかない。それを見て、人の潜在意識の不思議と、それを利用しようとするスポーツマンのしたたかさを、おもしろく思った。
人は自然と楽な方へ流される。大切なのは、それに気づいたときに潜在意識の誘導に従うか否かをきちんと選ぶということだ。そうは言っても、楽な方へ流されるのもまたよしと、どこかで思っているわたしがいる。

「びっきーも、いつもここで下りに行きたがったよね」
歩きながらそう言って、ふたり笑った。

上り坂です。少し登ると、陽が当たる道に出ます。

下り坂です。両側に林があって、見るからに涼しそう。

今年は漆の当たり年。綺麗な葉っぱだけど、危険! かぶれます。

ヘクソカズラも、この季節、あちらこちらに咲いています。

オニグルミが、大きな実をつけていました。

山栗も、いっぱい生っています。

足もとには、つゆ草の青。目を魅かれます。

道端に咲いていた花。野生のハナトラノオかな。

林のなかに居たアマガエルくん。きみは、何処へ行くのかな?

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我が家の味ができるまで

庭の茗荷が、収穫の時期を迎えた。
ぷっくり太った茗荷が、土の中から顔を見せるさまは、とても可愛らしい。
草とりをしながら、ここにも、あ、ここにもと見つけるが、小さなモノは掘り起こしたりせず土をかぶせたままにする。茗荷は香りが強いせいか虫に食われることもなく、土のなかがいちばんいい保存場所になるのだ。毎年、夏の間ゆっくりと楽しむことができる。

庭で茗荷を収穫するようになってから、毎朝の味噌汁の薬味が、葱から茗荷へと変わった。うちの味噌汁といえば茗荷をたっぷりと載せたモノで、それが我が家の味となりもう何年も経つ。

栗原はるみの料理本『ごちそうさまが、ききたくて』のなかのエッセイに、美味しい野菜を揃えた八百屋さんの近くに越してきてから野菜をたくさん食べるようになり、野菜料理のレパートリーが増えたとかかれていた。それを読み、素材ありきで作る料理の方向性みたいなモノが変わっていったりするものなのだなあと思ったのだが、我が家の味噌汁の薬味は、まさにそれ。庭で収穫できないときにも買い求め、茗荷を載せるようになっていったのだ。

今では季節を問わず野菜が買えるが、昔はこうして季節の野菜を味わい、野菜ありき、素材ありきで料理をしていたのだろう。そんな旬の採りたて野菜を料理することも、今の時代、贅沢のひとつとなった。そんな贅沢を、庭の茗荷に味わわせてもらっている。

太った茗荷さん、発見。うれしいな。

ここ庭の一角が、茗荷畑になっています。

収穫仕立ては、泥だらけ。粘土質の土です。

切ると、買ったものとの違い歴然。身がしまっています。

朝、庭に出て採った茗荷を、味噌汁にたっぷりと載せて。

白髪葱と茗荷の千切りで、鰯の酢味噌和え。ワインにも合います。

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障子張り

3連休。夫婦で、障子の張り替えをした。
我が家は、和と洋が点在する造りになっていて、和室以外にもいくつか障子がある。張り替えたのは、穴が空いたまま放っておいた末娘の部屋の障子だ。吹き抜けになっている1階の居間からも見える場所なので、いい加減格好悪いよねと、重い腰を上げたのだ。

案ずるより産むがやすし。張替えは、ことのほかスムーズに終わった。
一つ実感したのは、障子ってコワレモノなんだよなあ、ということ。ちょっとぶつけただけで、あっさり穴が空いてしまう。
そういうモノを触ること自体、最近なかったと思い至った。
「ここに置いたまま作業したら、絶対、穴空ける」と、わたし。
「そこも、風が吹いたら、倒れそうじゃない?」と、夫。
張り替え自体よりも、張ってからの作業の方に気を使う。

だが若い頃なら、もっと緊張感を持って臨んだだろう。今やっている自分の仕事が無駄にならないよう、細心の注意を払ったことだろう。しかし、歳をとるのもまたいい。もし穴を空けてしまったらやり直せばいいさという開き直りが、胸の奥の芯となるところにあるのを感じる。歳をとり、失敗が多くなったことをきちんと自覚している、ということなのかも知れない。軽々またげると思っていたところでつまづくことにも知らず知らず慣れてきたのだ。
それが、たかが障子張りであるが、そこに楽しさを見出せる鍵となる。
50代を生きててよかった。そう思えるささやかなひとときである。

けっこう簡単にできるものなんですね。精度を追及しなければ(笑)

完成図。この3枚を張り替えました。
子ども部屋ですが、築16年の現在、いまだ壁を塗っていません。
障子を張りながら、今年は塗ろうかと話しました。

昔はこういう普通の障子を「明かり障子」と呼んだそうです。
ガラスがなかった時代の知恵から生まれた彩光を取り込む建具なのだとか。
ここの障子は、確かに陽の光が入ってきますね。
夏は開け放って風を通しますが、冬の光はまたやわらかそう。

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『陸王』

池井戸潤の新刊『陸王』(集英社)を、読んだ。
「こはぜ屋」は、創業百年の老舗足袋屋。時代の流れには逆らえず、従業員20人の零細企業をやっとのことで切り盛りしている。銀行からの融資を引き出そうと四苦八苦していた社長の宮沢は、思いつきから新規事業を立ち上げる。老舗足袋屋のノウハウを活かした、足に優しいランニングシューズを開発しようというものだ。シューズの名前は「陸王」。「こはぜ屋」で、昔々に作っていたマラソン足袋の名からとったものだ。
資金難にあえぎながらも、ソール(靴底)素材開発まで漕ぎ付けた「こはぜ屋」だが、新規参入の難しさに加え、大手シューズメーカーの悪質な妨害に悩まされる。以下本文から。

「もし君が今回他社のシューズを選んだとしても、私やうちの社員たちが、君を応援し続けるということは変わらない。みんなそれを承知で、君にメッセージを届けたいと思ったんだ。それだけは忘れないでくれ」
「宮沢さん・・・」
茂木の胸を温かなものが満たしていく。
「たまにはいいじゃないか、こういうのも」
宮沢はいった。
「私は『陸王』というシューズを企画して、試行錯誤しながらここまで来た。その過程でいろんなことを学ばせてもらったけど、中でも特に、教えられたのは人の結びつきだ」
意外なひと言だった。
「金儲けだけじゃなくてさ、その人が気に入ったから、その人のために何かをしてやる。喜んでもらうために何かをする。ギャラがこれだけだから、これだけしかしないという人もいるけど、そうじゃないんだな。カネのことなんかさておき、納得できるものを納得できるまで作る」
宮沢は澄んだ目をしていた。
「社長がそんなこといってちゃいけないかもしれないけど、損得勘定なんて、所詮カネの話なんだ。それよりも、もっと楽しくて、苦しいかもしれないけど面白くて、素晴らしいことってあるんだな。それを『陸王』が教えてくれた」

人のために、何かをしたい。それは果たして、生き方として正しいのかと言う人もいる。「人の為」とかいて「偽り」だ、自分の人生なのだからと。
それでも人は人とのつながりがなければ、生きてはいけない。そんなあたりまえのことが、ページをめくるたびに心にしみていく小説だった。

大好きな友人の口癖を、思いだした。
人間は自分のためだけじゃなく人のために生きるようにデザインされている。

新聞広告を見て、夫がすぐさま購入し、読み始めました。
Kindleの、それが大きな利点の一つ。彼が読み終えてから借りました。

店名の「こはぜ」は、足袋のかかと上部についた金具のことでした。
ソール、アッパーも、小説のなかで頻繁に登場するシューズ用語です。

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蓮の雫

食材の買いだしの帰り、蓮池に寄った。
そろそろ咲いてるかな、と思いながらも、時を過ごしていたのだ。
気づいたときには、その季節が終わっているということが、ままある。気がつけば7月。今年も蛍を見に行くことなく、過ごしてしまった。

果たして、蓮は咲いていた。思い立ったが吉日とは、このことである。
蓮池がある庭園にはベンチが置いてあり、誰でも自由に楽しめるようになっている。先客は、散策するご夫婦らしきおふたり、ベンチでのんびりとおしゃべりを楽しむ女性がふたり、そして、三脚を立て、一眼レフを構える70代くらいの男性がひとり、いた。
わたしは、池の周りをゆっくりと歩き、心にとまるたびにシャッターを切った。そして、カメラのおじさんとすれちがうとき、会釈を交わした。
「綺麗ですね」と、蓮の花を愛でつつ、言い合う。
「少し、遅かったかもしれないねえ。蕾はもうほとんどない。でも」
そう言いながら、おじさんは、蓮の葉を指さした。
「こういうのを撮るのも、おもしろいんだ」
蓮の葉の上には、雫が載っている。見れば、雫を載せた葉が多い。
「太陽の光が綺麗に反射したり、風に揺れて形を変えたりとね」
「なるほど」
わたしはその場で、ススメられるままにシャッターを切った。おもしろい写真を撮れるほどの腕がないことは判っていたが、確かに風に揺れ形を変え、陽を浴びて光る雫を眺めるのもまた、楽しかった。

「蓮は泥より出でて泥に染まらず」とは、蓮が水のなかに居ながらも、こうして水をはじく性質を持っているところから出た言葉らしい。
水をはじく葉の上に載った小さな雫が、きらきら、ゆらゆらと光る。
周囲に染まり、様々なことを吸収していくのも大切だが、染まらずに置いておきたい部分を誰しもが持っているはず。じっと見つめていると、自分のなかのそういう部分が、雫に共振したかのように静かに揺れるのを感じた。

明るいピンク色の花に、気持ちも明るくなります。

水面近くで、ひっそり咲く花もあり。

凛と首を伸ばすように、一輪咲く花もあり。

寄り添うように、咲く花もあり。

蕾には、蕾の趣きがあり。

散った後の花びらもまた、美しく。

開き切る手前のさまにも、とても魅かれます。

花が散った後の姿は、愛嬌がありますね。まるでレンコン。

おじさんおススメのショットです。

雫のなかの虹や空が撮れたら、かっこいいんだけどなあ。

大中小と池がありますが、いちばん大きなこの池だけが満開でした。

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夏の簡単さっぱり丼 3種

「夏の、簡単、さっぱり、丼」
さて、このなかでいちばん重要となるワードは、どれでしょう。
などと言っても、国語の試験的観点からの問題ではない。
食欲が落ちやすい夏、お家ひとり飯で、美味しく栄養をたっぷり摂るには?
という質問だ。
暑い夏、さっぱりしたモノが食べたくなる。
簡単に、どんぶりモノにしたい。
って、全部、重要なの?
いえいえ。わたしの一押しワードは「簡単」だ。

夏は暑い。キッチンに立ち、火を使うのは苦痛となる。
料理番にはありがちだが、作っただけでお腹がいっぱい。
作りたくない。食べたくない。めんどうくさい。
だけどまあ、こんなに簡単に? それも外食でも味わえないほど美味しく食べられるんなら? 作ろうじゃないか、ぜひ作ろうってことになる。
発端はサボり精神だったが、あらためて知ることとなった。「簡単」「シンプル」の方が美味しく食べられる素材って、けっこう多いのだと。

雑誌やネットレシピでピンときて、楽しんでいる丼 3種。ひと味違うよ。

胡麻油でにんにくのみじん切りを炒め、トマトの輪切りを投入。
さっと焼いたら醤油をたらし、汁ごとご飯にかけて大葉を散らします。
トマトと胡麻油、にんにく、醤油の汁を吸ったご飯が、絶品!

鮪のぶつ切りを胡麻油、にんにくみじん切り、醤油で和えます。
あとはアボカドと葱の小口切りと一緒に、ご飯に載せるだけ。
安い赤身の鮪も、にんにく胡麻油醤油で美味しく変身します。

パクチーと粗挽き胡椒をたっぷり、がコツです。
ご飯に、粗挽き胡椒たっぷりと少々の塩をかけて、
納豆はナンプラーと胡麻油で味つけし、よく混ぜてどんぶりに。

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風の廊下

暑くなってきた。
標高600mの我が家では、まだエアコンが欲しいほどの暑さにはならないが、欲しいほどの暑さになったとてエアコンは設置していない。年々暑さが厳しくなるなか、暑さをしのぐ術を考えるのも夏の行事だ。

居間にはゴザを敷き、すだれを掛け、寝室回りも寒色のカバーリングに替えた。小さなことだが、それだけでずいぶんと過ごしやすくなる。昔ながらの知恵の大切さを感じる。
廊下の天井近くと足もとには小窓がたくさんついていて、すべて開けるとかなり風通しがよくなる。家を建てたとき、設計士さんは『風の廊下』と名づけた。わたし達もそれに習い、そう呼ぶ。
「そろそろ、風の廊下の窓、開けようか」という具合いに。
それも、夏を迎える行事だ。

設計士さんに、どんな家を建てたいかと問われ「風通しのいい家」と答えた。それは、家の機能として実際に風が通るということとは、違う。3人の子ども達が大人になっていく過程で、家族のなかに空気が滞らないようにという意味だった。設計士さんは、子ども部屋は2階だけれど、トイレは1階にしましょうと言い、階段を下りてすぐの場所に置いた。成長期の子ども達は嫌な顔もしていたけれど、吹き抜け上部の子ども部屋で話す声は居間に筒抜けだったし、居間で話す大人の声もまた子ども部屋に筒抜けだった。機能としての風通しも、過ごす家族の風通しも、悪くない家となった。

だからと言って、それで子ども達がすんなりと大人になったかといえば、そんなことはない。悩み多き子育ての時期を過ごしたことには変わりないし、まだまだ悩みも尽きない。
でももし、密閉された場所でそれぞれの時間を過ごすような家だったら?
それは住む人次第なのだろうが、家族間の風通しも、今とはまた違うものになっていただろうことは想像できる。

廊下を通る風を感じ、都会で暮らす子ども達を思う。息子は5年も帰って来ないけれど、どうしているのだろうかと。

天井近くの窓です。開け閉めは、専用の棒があります。

こちらが足もとの窓。一度、蛇が入って来てしまい往生しました。

反対側から見たところ。ライトをつけてみました。
廊下は16年間も壁を塗らずにいましたが、冬にようやく完成しました。
収納が大きく助かっています。扇風機を出し、カーペットを仕舞いました。

足もとです。ルンバは、ここを走るのが好きなようです(笑)
突き当り右が玄関、左が居間、階段を上ると子ども部屋です。

廊下には、ギャラリーがあります。夫、お気に入りの場所です。
もうちょっと、置くものを充実したいです。



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たゆたう帆の光

真珠婚の結婚記念日から、半年と少し過ぎた休日。夫が、ペンダントをプレゼントしてくれた。
友人の友人で漆のアクセサリーを作るアーティスト『月ノ聖』さんの作品で『帆』と名のつく帆船の形をしたものだ。
わたしがブランド品や宝石などに興味がないことを知っている夫は、彼なりに試行錯誤し、探してくれていたらしい。
漆でできた帆船の中央にはいくつかの石がはめ込んであり、それがきらきら光っている。ラブラドライトかラピスラズリだろうか。まるで帆船から見た波のように、光たゆたう。見る方向や洋服の色などによって光の色を変え、とても綺麗だ。うれしい。

ペンダントをつけていて、ふっと「今、何色に見えるのかな」などと考えるのも楽しい。それがまた、自分に見えないというのがおもしろい。
「自分は、自分には見えないもんなあ」
たぶん人から見たわたしも、たゆたう『帆』の光と同じく、見る方向によって見え方によって、違うように光り、あるいはくすみ、まるで違って映るのだろう。友人から見たわたし。両親から見たわたし。子ども達から見たわたし。
夫からは、じつはどんなふうに見えているのだろうか。少なくとも、このペンダントが似合うとは思ってくれているのだろうけれど。

全く色を見せない、光っていない状態です。

真ん中だけ、ピンクっぽく光っています。

それが、違う角度から見ると、同じところが緑に。

今度は、帆船の甲板部分がグリーンに光っています。

全体が淡いブルーと白い光を放っていたかと思えば、

こんなふうに、緑、青、紫といろいろな色に光ったりもします。
楽しんで、使いたいです。大切にします。

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帆立とジャック・スプラット

日曜日。この夏初めて、バーベキューをした。
と言っても、夫婦でスーパーに買い出しに出かけ、
「夕飯どうする?」「バーベキューでもするか」
と相談がまとまり、夫婦ふたり夕方からウッドデッキでいろいろ焼いて、ビールと白ワインを空けただけのことである。
たまにしか足を運ばない北杜市内のスーパーは、別荘客向けの素材がけっこう充実していて、夏はバーベキュー食材にこと欠かない。
「サザエ、焼く?」「帆立の方が、美味そうじゃない?」
ふたりバーベキューでは、海鮮が主役。殻付きの帆立と、刺身にもできるイカ、大きめの赤海老を買い、明るいうちから飲み始めた。
食材をさばくのがわたしの役目で、夫は焼く人。準備してしまえば、わたしは焼いてもらって食べる人になる。
夫が「帆立、焼けたよ」と、わたしの前に置いてくれる贅沢な時間だ。

ところで、夫は帆立のヒモが好物である。わたしは、ヒモが嫌いという訳ではないが、どちらかと言えばウロ(黒い部分)の方が好きだ。なので、
「どうぞ。ヒモ、残しといたよ」
などと半分こしつつ、彼はヒモをふたり分食べ、わたしはウロ(黒い部分)を余計にいただく。
「『ジャック・スプラット あぶらがきらい』みたいだな」
と、こっそり思う。マザーグースの歌にあるのだ。

ジャック・スプラット あぶらがきらい
  そのおくさんは あかみがきらい
 だからごらんよ なかよくなめて
  ふたりのおさらは ぴかぴかきれい(谷川俊太郎 訳)

この歌に魅かれるのは、夫婦は違ってあたりまえ。そして、違うからこそいいこともあるんだよ、って言っているような気がするから。
今年も、バーベキューの季節が始まったなあ。                     

帆立がひとつ、ぱかっと開いたところです。いい匂いでした。
葱間と砂肝も焼きました。夫婦そろって塩味が好みです。

食べる寸前の帆立さん。白ワインにあうんだな、これが。

第2弾は、イカの丸焼き、赤海老、トウモロコシ。
トウモロコシは、皮付きのまま焼くと旨味が逃げないんですよ。

この夏お初のトウモロコシです。甘かった!

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根強い感性の違い

「あれ? ほんとに痩せたんじゃない?」
珍しく身体にぴったりしたシャツを着ていると、夫が言った。
「だから言ってるじゃん。1kg痩せたって」と、わたし。
だが、その後に夫が言った言葉の方に、ほう、と思った。
「やっぱり、ひめトレの効果かな」

ヨガ教室で、姿勢矯正ができる軽いタイプのヨガ「ひめトレ」を始めて、ひと月になった。インドア派で身体を動かすのが苦手なわたしが「トレーニング」と名のつくことを続けているのが、夫としては驚きであるらしい。
彼は、いまだ社会人サッカーを続けるスポーツマンである。
わたしがダイエットと称し様々取り組んでいることを知ってはいても彼のなかで「痩せた訳」 = 「トレーニング効果」なのだ。そこに、ほう、と思った。わたしはスポーツは苦手だし、元保育士で栄養学をかじっていることもあり =「食事のカロリー制限効果」と思いがち。ひとつの出来事に対する捉え方も、それぞれ。根強い感性の違いがあるのだなあと思ったのだ。

しかしまあ、5年もだらだらとダイエットをしていて効果を得られず5年目にしてようやくの1kg減。何がよかったのかなど特定できるものではないだろう。夫曰く。「1kgぐらいは誤差のうち」誤差でも何でも痩せれば女性はうれしいのだが、まあ彼のいうことも正論だとは知っている。

さて。だらだらダイエットを続けるなかで、最近注目しているのは「デトックス」だ。デトックス効果が期待できる冷えとり靴下も続けているし、オイルマッサージを楽しんでもいる。カロリー摂取やカロリー消費とはまた違った身体の不思議を感じるのがおもしろくもあるし、老廃物をすっきり追いだして健康な身体になれば、なおいい。
ここまでくると、もう何がダイエットなのかさえ忘れてしまいそうだけど、忘れるくらいがちょうどいいのかも、と性懲りもなくだらだらと続けている。

蝋燭の形をした、固まったタイプのマッサージオイルです。
デトックス効果があるという香りを選びました。なので「DTO」

火を灯し、オイルを温めて溶かします。

火を点けて5分ほど経った状態。だいぶ溶けてきました。
10分ほど溶かしてから使います。塊のまま掌で温めても使えます。
坐骨神経が痛いという夫に、マッサージしてあげました。
「すごく楽になったわ。毎晩やってくれる?」と、夫。
「うーん。酔っぱらって寝ちゃった日以外はね」と、わたし。
「・・・」vs「・・・」

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『蛇行する月』

桜木紫乃の連作短編集『蛇行する月』(双葉文庫)を、読んだ。
6章ある章タイトルは『1984 清美』などと、西暦と女性の名で構成されている。1984年。小説の始まりは、北海道は釧路。高校の図書部で仲の良かった清美、桃子、美菜恵、直子、順子の5人が卒業した年だ。清美は、セクハラとパワハラが横行する割烹ホテルで働く日々。ある日、順子からの電話が鳴った。働いていた和菓子屋の職人と駆け落ちするという。20歳も年の離れた彼との間に子どもができ、東京に逃げるのだと。
『1990 桃子』桃子は、職場での不倫に疲れ、東京の順子に会いに行く。順子から来た年賀状の「わたし今、すごくしあわせ」の一行が気になってしょうがなかった。籍も入れられず、貧しい暮らしの何処に「しあわせ」があるのか、見てみたかった。その後1993、2000、2005、2009と和菓子屋の女将と順子の母を挟み、それぞれの女達の視点で物語は紡がれていく。以下『2000 美菜恵』より。

同封されていた写真には、はにかむ青白い顔の少年と、エプロン姿の順子が写っていた。背後にラーメン屋のカウンターがある。肩を寄せ合う母と息子の姿だ。美菜恵は化粧気のない顔とお下げにした長い髪に釘付けになった。高校時代の調理実習時間とほとんど変わらない格好だ。シミだらけの頬と目尻や口元の皺が、順子のこれまでを物語っている。肌の手入れも流行の服もなかった十数年が、すべて写真に写っていた。これが今の須賀順子だ。
長く見ていると、この笑顔に自分のすべてを否定されているような気がしてくる。全身から、立ち上がる力が抜けてゆきそうだ。谷川がこの写真を見たらどう思うだろう。見栄ばかり張っている美菜恵と比較して、後悔したりしないだろうか。急激に酔いがまわった。直子がトイレから戻ってきた。
「ねぇ、これが今の順子なの」
「そうだよ。ただのオッカさん。いつも前しか見てないし、次のことなんかちっとも考えてない。打算も予算もない、須賀順子のまんまだよ」

順子の「しあわせ」を垣間見た女達は、自分と比べずにはいられなくなる。何がしあわせなのか判らなくなる。自分の立っている場所がぐらつくような感覚に陥る。そうして、自分なりの答えを出していく。
読みながら、女達と一緒に、そんなぐらつくような感覚に陥った。
「しあわせ」って、なんだっけ。

表紙の親子は、順子の家庭を描いたものでしょうか。
だとすると東京かな。温かな気持ちになるような絵です。

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山百合の意志

「山百合が、咲いてるよ」
いつも通る道で、助手席の夫に声をかけた。
「百合って、夏に咲くんだっけ」
「そうだねえ。今咲いてるってことは、夏の花なんだよね」
いつ咲くのかは覚えていなかったが、去年も同じ場所で山百合を愛でたことは記憶にある。道端に咲いた百合だが、支柱が添えてあり、どなたかが大切にお世話しているのだと心に留まったのだ。
そのときに調べ、山に自生するから山百合と名づけられたことや、1年にひとつ花を増やすといわれていることなどを知った。

大輪のあでやかな花は美しいが、その印象とは違い、山に自生し、こつこつと年にひとつずつ花を増やしていくというところにも、また魅かれる。
1年経ってふたたび眺めた山百合が、花の数を増やしているのかどうかは判らない。けれど香りを放ち、まるで胸をはるかのように花びらをそらせている花ひとつひとつを見ていると、その意志が伝わってくるような気がした。
「生きていく。またひとつ花を増やす。昨日よりも今日、今日よりも明日」
そんな意志がなければ、ここまで花を増やし続けることなどできないんじゃないかと思ったのだ。小さな種から芽を出し葉を広げ、蕾を生む。その蕾は、花を咲かせたいという強い意志から生まれるに違いない。きっと、そうだと。

百合って、ぱっと目を引くような華やかさがありますね。

アップにしてみました。見事です。

こんなふうに道端に咲いています。まだまだ蕾がいっぱい。

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サンクスコストバイアスに引っ張られずに

夏糸で、ポーチを編んだ。
ネット動画で編み方をアップしていたのを参考にして編み図もなしに編んだからか、何度も失敗し、編みなおした。

これまでだったら「編みなおし」すなわち「編んだ部分を解く作業」に抵抗を感じただろう。だが、ある言葉を知り、するするとほどけていく夏糸のように、その抵抗を感じなくなった。その言葉とは「サンクスコストバイアス」
『エッセンシャル思考』に、かかれていた言葉だ。
「サンクスコスト」は、日本語にすると「埋没費用」。投資したがうまくいかず、利益になる見込みのない費用をいうらしい。「サンクスコストバイアス」とは、既にお金や時間や労力を費やしてしまった、という理由だけで、無為な行為をし続ける心理をいうそうだ。

編んでいて「何か違う」と思ったときに「ここまで編んだのだから」と思い、編み続ける。「サンクスコストバイアス」を知るまでは、そういう心理に引っ張られることの方が多かった。だが、この言葉を知ってから考えるようになった。「このまま編んで、イメージの違うものを編みあげるのか?」あるいは「さらに編んでいったところで、さらに多くを解くことになるのでは?」と。

きちんと考えて、きちんと出した答えには無駄も少ない。後戻りする足どりさえ、軽くなる。それは無論、編み物だけに言えることではない。知っていれば、生きていくのが少しだけ楽になる言葉のひとつだと思った。

ちっちゃなポーチです。足首ウォーマーの残り糸で編みました。

開くとこんな感じ。リップとかファンデーション、入れようかな。

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空気に触れる場所を増やす

歳をとると早起きになるとは、よく耳にするが、50歳を過ぎたころから、本当に早起きになった。早起きというにも早すぎる夜中の午前3時に目が覚めることが多い。そして、それから眠れないのだ。5時半起床の際に、二度寝したーいと思ったのは、いつのことやら。
読みたい本があれば、起き出して読むこともあるが、大抵は、ベッドでごろごろ考えごとをする。昨日考えたのは、ワインを寝かせて保存するのは、何故か、ということ。寝かせた方が、瓶の中で空気に触れる面積が広くなるからかな、と漠然と考えていた。

そして、考えているうちに、自分がワインになったような気がしてきた。
身体は、ワインの瓶である。瓶の外側を、空気に触れさせてもしょうがない。身体の内側の空気に触れる部分を増やすにはどうしたらいいか。呼吸をする、しかない。深く深く、たくさん空気を吸うのだ。仰向けのリラックスした姿勢で、ゆっくりと深呼吸をした。身体のなかの約60%の水分が、空気に触れ、喜んでいるのを感じる。自分というワインが、どんどん美味しくなっていくような気持ちになる。ベッドというワインセラーのなかで、上等のワインになっていく。そうしているうちに、ことりと眠っていた。

「深呼吸、いいかも」
すっきりと起きて、調べれば、ワインの瓶の中は真空になっていて、寝かせたところで空気には触れないということが判った。寝かせて保存するのは、逆にコルクが渇いて劣化し空気が入ってこないようにするためだったのだ。確かに寝かせておけば、コルクは湿ったままだ。ワインには深呼吸は必要なかったのだ。よくよく考えてみれば、コルクを空けてからワインは酸素に触れ、まろやかに「開いて」いくのだから当然だ。

ワインになり切るのは、いろいろ違っていたけれど、眠れないときにゆっくりと深呼吸するのは、効果的らしい。リラックス効果と血行促進が期待できるそうな。眠れない夜や朝に、どうぞ、お試しあれ。

夫のワインセラーは12本入り。湿度まで調節できるものをセラー。
温度だけを保てるものは、ワインクーラーというそうです。
ワイン達、よく寝てるなあ。夢見てるのかなあ。

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灰とじゃが芋とギブ&テイク

家庭菜園を楽しんでいるご近所さんに、じゃが芋をいただいた。
「灰のおかげで、美味しいじゃが芋ができたよ」
そう言われると、こちらもうれしくなる。
ストーブで薪を燃やした際に出る灰を、いつも差し上げているのだ。もらってもらっている、という方が近いかも知れないが、畑に撒くといい肥料になるらしく喜ばれてもいる。お礼にと野菜をいただくほか、庭木を剪定したときの枝を焚きつけ用に下さったりもする。何をするにもていねいできちんとしている父ほどの年齢のご近所さんは、焚きつけもしっかり束ねて運びやすいように準備してくれているし、こちらも彼に渡す灰用のマイバケツを預かっている。

ご近所さんは、野菜をいただいたからと東京土産などを持っていくと、渋い顔をする。「いらないよ。気を使わないでよ」と、はっきりと口にもする。
だからという訳ではないが、わたしも余計な気は使わず、ただ野菜を美味しくいただく。

ただ、これっていわゆる「ギブ&テイク」なんだろうけれど、いただくことの方がずっと多いんだよなあと気にかかってもいる。だから、ここぞというときにしっかりお礼をするぞという気、満々だ。
ふと考えた。貰ったからお返しをしなくちゃというのではなく、いただいてうれしくて心からお返しをしたくなるような、じつはこういう関係こそが本当の「ギブ&テイク」と言うのだと教わっているのかも知れないと。

「うちの灰が、美味しいじゃが芋になったか」
ホックホクのじゃが芋を食べ、夫が感慨深げに言った。

とても綺麗なメークインでした。じゃが芋然としています。

皮ごと茹でて、バター焼きにしました。ザ・シンプルイズベスト!

夫が一眼レフで撮った、赤ワイン越しのスペイン風オムレツです。
じゃが芋たっぷりで、さっくりとした味わいになりました。

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『希望荘』

宮部みゆきの杉村三郎シリーズ最新刊『希望荘』(小学館)を、読んだ。
4編の推理小説から生る、連作短編集だ。杉村三郎は、菜穂子と離婚し、今多コンツェルンを退職して2年後、東京で私立探偵をしていた。

『聖域』では、死んだはずの老婦人を見かけたと近所の女性から相談される。
『希望荘』は、「人を殺めたことがある」と匂わせる告白を残し亡くなった老人。父の真意を確かめたいという男性から依頼される。
『砂男』では、杉村が、離婚後しばらく身を寄せていた故郷(なんと、どう考えてもここ山梨県北杜市らしい!)で事件に巻き込まれる。
『二重身(ドッペルゲンガー)』では、東日本大震災のとき行方不明となった母の恋人を探してほしいと女子高生に依頼される。以下『二重身』より。

「不吉だというのは、ドッペルゲンガーを見ると間もなく死ぬという謂れがあるからでしょう」
昭見社長は面食らったらしい。
「貴方も詳しいんですね」
「僕はこの稼業に入る前に、編集者をしていたことがあるんです」
「それはまた、畑違いな転職をしたものですな」
「はい、いろいろありまして」
実は、と指で鼻筋を掻きながら、昭見社長は言い出した。
「私どもの親父が、その体験をしているんです。会社から帰宅したら、玄関先に自分がいて、座って靴を脱いでいたと」
驚いて立ちすくんでいると、その分身は悠々と家の奥へ入っていったそうだ。
「慌てて後を追いかけても、姿は消えていた。親父があんまり騒ぐので、母は救急車を呼びそうになった」
それから三日後、昭見兄弟の父親当時の昭見電工の社長は脳出血で急死した。
「葬儀のとき、母からその話を聞いた豊が言い出したんです」
親父は、ドッペルゲンガーを見たんだ。

読み終えて思うのは、やっぱり杉村三郎はいいな、ということだ。
何がいいって、人と対峙するときの姿勢がいい。例え相手が子どもだとしても、決してばかにしたり大人ぶったり、あるいは媚びたりもしない。どんな相手に対しても尊敬できるところは尊敬し、受け入れられない部分は受け入れない。常にフラットでいる、という感じ。それは、相手に対する先入観に左右されないということだ。彼の根底にある人間を尊重する気持ちが、そうさせているのだろう。探偵としても、たぶんそこが武器となっているのだと思う。
左足の不自由な若き調査事務所所長、蛎殻昴という魅力あふれる新キャラも登場した。私立探偵杉村三郎シリーズのこれからに、ますます期待したい。

『誰か』と『名もなき毒』では、仲睦まじい三郎、菜穂子夫婦のファンでしたが、『ペテロの葬列』でふたりが離別し、驚かされました。

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ブルーベリーは恋の味

庭のブルーベリーを収穫し、口に入れるなり夫が言った。
「甘い!」
わたしも、一粒ゆっくりと噛みしめた。
「ん? 甘いって言うより、けっこう酸っぱくて、わたし好みかな」
口に入れ、嚙んだ瞬間には「甘さ」の方をまず感じ、そのあと口のなかに「酸味」が広がる。まさに「甘酸っぱい」という表現がぴったりの味だ。

その甘酸っぱいブルーベリーを味わいながら「甘酸っぱい」って、もう一つ意味があったよなあと思いだした。大辞林によると「こころよさに少し悲しみを伴った、やるせない気持ちである」例文には「甘酸っぱい初恋の思い出」とある。なるほど、ブルーベリーは、恋の味だったのか。

ブルーベリーをつまみつつ、初恋の甘酸っぱさに思いを馳せるのもいいかも知れない。ブルーベリーを口に放り込みふと思いだす人、いらっしゃいますか?

ついこのあいだ、まだまだ青いと思っていたのに、

あっという間に、熟していました。

いっぱい収穫できました。うれしい。

下の2枚は、夫が一眼レフで撮った写真です。

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木のまな板を削って

休日の朝、夫がサンダーでまな板を削ってくれた。
家を建てたときに、大工さんがお祝いにとくださった思い出の品だ。

普段、じっと見つめることのないまな板。見つめることはあっても、主役は野菜や肉や魚で、あくまでサポート役の道具である。そのまな板を久しぶりにじっと見つめ、木の切断部分である木目を見つめ、ああ、木なのだなとあらためて思った。知ってはいても、意識の外にいってしまっていたのだ。まな板だけではなく、そういうものってたくさんある。

この土地に生えていた赤松を、大黒柱や梁、2階の床板などに使って建てた家に住んでいるというのに、それさえも日々の暮らしのなかで意識することは少ない。カウンターは栗、床板は檜(ひのき)、外板は杉、テーブルは米松、欅(けやき)の座卓もある。それらもみな、どこかの土地に根を張り、空に向かって伸び、葉を広げ、光合成をして酸素を作り生きていた木だったのだ。
意識し始めればきりがなく、食器一つにも、土を掘った土地、焼いた窯、売った店など、様々なふるさと的場所を持つのだろうと想像できる。プラスティックも金属も布も、たぶんそれは同じだ。それが、家というひとところに集まってきた不思議を思った。

まな板は、何処で育った何の木だったのだろう。数年前にお世話になった大工さんも亡くなり、それを知ることは、もうない。
削り終えたあとのすべすべになった木目を撫で、大切に使おうと思った。

ウッドデッキの張り替えなどで使う、作業台。久々の登場です。

削る前のまな板は、だいぶ汚れや傷が目立ってきていました。

削った部分が、白くなっていきます。

ていねいに根気強く、削っていきます。

削り屑がいっぱい。けっこう削れているようです。

仕上げに、きめの細かいやすりで削っていきます。
ダーリン、根気強いなあ。ありがとう。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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