はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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料理の原点

久しぶりに、玉葱と人参の炒め物を作った。
作ったと言っても、胡麻油で炒めて塩胡椒しただけの簡単な一品だ。
簡単な一品だが、これがわたしの料理の原点。思い出の味だ。

小学校の頃、八百屋の子と仲が良かった。帰り道も同じ方向で、たがいの家にもよく遊びに行った。
あれは、何年生のときだったのだろう。彼女の家に昼ご飯を食べてから遊びに行くと「ご飯、まだなんだー」と言って、彼女が店にいる父親から玉葱1個と人参1本をもらってきた。そして、台所で皮を剥き、刻み、炒め始めた。
わたしはまだ、料理というものを知らなかった。作ったことがあるとすれば、インスタントラーメンくらいのものだったと思う。
「どうぞ」とすすめられるままに口にしたその炒め物はとてもおいしかった。
やわらかく甘く、塩味もちょうどよく胡椒が効いていた。献立は、その炒め物とご飯だけ。本当に簡単な昼食だった。そのとき、思ったのだ。
「ああ、料理って、こんなにもシンプルなモノなんだ」
それからわたしは、キッチンに立つようになった。

今では、シンプルな炒め物でさえ、こだわればキリがないことも知っている。
太白の胡麻油で炒め、粗塩と粗挽き黒胡椒で味つけしたものは、きっとあのときの味とは違うはずだ。
「でも、あれ、おいしかったなあ」と思い出す。
むかし体験した食の記憶って、なかなかに手ごわい。

油をしいたら、両方いっぺんに入れちゃいます。

すぐにしんなり。玉葱が人参色にうっすら染まるところも好き。

昨日の朝ご飯。豆腐とシメジとワカメのお味噌汁と、メザシ、
玉葱人参炒めは、目玉焼きと一緒にたっぷり盛りつけて。

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芽吹きの季節に

芽吹きの季節である。早々に花を咲かせたモノ達のあとを追い、眠っていた木々が次々と目を覚ましていく。
タラの芽も摘んで食べたし、すぐに木の芽も味わえそうだ。名も知らぬ林の木々達も、赤ん坊の手のように葉を開きあぐねている。その姿が、何とも可愛らしい。土のなかからは、ドクダミやワレモコウも芽を出している。山桜は待ちかねていたかのように咲き始め、スズランも蕾を抱え芽を伸ばしていく。
「新緑の季節も、すぐそこまで来ているね」と、わたし。
「ほんとに、すぐだね」夫も目を細め、林を眺めている。

何も考えずに過ごしていたら、芽吹きの季節も、新緑の頃も、足早に過ぎ去ってしまうだろう。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をし、もう一度目を開ける。
今しかないこの季節。その空気を味わおう。肌に感じよう。やわらかな緑を愛で、土や草の匂いを吸い込み、風や鳥達が木々と戯れる音に耳を澄まそう。

びっきーが眠っている上では、山桜が咲き始めました。

タラの芽も順番に芽吹き、順番にいただいています。

いつのまにか増えた木苺も、蕾をたくさんつけています。

木の芽、山椒の葉は、陽の光にぴかぴか光っていました。

もみじ。葉を開く前の頼りない様子が可愛い。

2年まえにいただいたドクダミさんも、顔を出しました。

スズランは、植えた場所からはみ出して石段で蕾を抱いています。

クリスマスローズは、ゆっくりゆっくり新しい花を咲かせて。

雑草代表で、オオイヌノフグリさん。

けろじは、おんなじような色の葉っぱのなかにかくれんぼかな。

☆熊本の方々へ、何かできることはないものかともどかしい気持ちです。
 わずかでも寄付することくらいしか、できません。
 義援金をすぐさま必要な物に替え、届けてくれるところはないか、
 届けられないものかと、探しています。

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『七つの会議』

誰かに感謝する気持ちは、力になる。

読み終えたばかりの池井戸潤の小説『七つの会議』(日本経済新聞出版社)に、そんな意味合いの言葉が出てきた。
小説は、中堅の電機メーカー東京建電で起こった不祥事を、立場の違う様々な社員達の目線から描いた群像劇。会議中に居眠りばかりしている万年係長を厳しく注意したやり手の営業課長が、パワハラで移動になった。そこから、隠された不祥事はほころびを出していく。謎解きミステリーのように、わくわくしながら読める小説だった。
そのストーリーとは関係なく、登場人物のひとり、親会社から出向してきた副社長村西が、父を亡くしたときを回想するシーンに魅かれたのだ。まるで引力を感じるみたいに。以下本文から。

そんな村西に、跡取り息子が会社を継がなかったからだと口にする者は誰ひとりとしていなかった。村西がソニックで成功していたこともあるだろうが、生前、周囲に後継問題をきちんと説明しておいてくれた父のおかげだ。
家族をはじめ、大勢の人たちに支えられてきた。
それを実感できることが、村西の力であった。もちろん仕事でも、誰が自分を支えてくれているかをよくわかっていた。それは先輩であり後輩であり、スタッフであり、そしてなにより顧客である。

そして村西は、父の言葉を思い出すのだった。
「客を大事にせん商売は滅びる」

本を読んでいると、こうして何気ないシーンや言葉に引力を感じるときがある。それは人によって違い、そして読んでいるときの気分によっても違ってくるのだろう。それに、誰かに感謝する気持ちは力になるというところに魅かれたからといって、感謝する気持ちを持とうと思うとかそういうことじゃない。
ただ引力を感じたものを、しばらく留めておこうと思うのだ。
それはたぶん、読んだ人のなかへと沈んでいき、何かを小さく変えていく。
だから、なのかも知れない。本を読むことをやめられないのは。

夫が買って先に読んだKindle版を借りて、読みました。
日本経済新聞電子版に連載した小説。8話の短編で構成されています。
群像劇と呼ばれるだけあって、村西だけじゃなく何人かの登場人物が、
生い立ちからプライベートな悩みまで、深く描かれていました。

☆熊本の地震に、胸を傷めています。
 今日また、大きな地震があったそうですが、
 どうかこれ以上、被害が大きくなりませんように。

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鏡のなかの自分

鏡を見て、びっくりする日が続いている。
久しぶりに、パーマをかけたのだ。緩いウエーブなのだが、ずっとストレートだったので、ぼわんと膨らんだ感じになった。こういうのは、かれこれ5年ぶりくらいの感覚。
そして5年まえには起こらなかったことだが、パーマをかけたと判っているはずなのに、それをすっかり忘れている自分がいる。鏡を見ていないときには、きれいさっぱり忘れてストレートのつもりでいるらしい。鏡のまえに立つたびに、驚いてしまうのだ。全くいったい何回見れば慣れるのやらと自分ながらに呆れるほど、毎回毎回びっくりしている。

パーマをかけて気づいた訳だが、自分自身、自分のイメージというものを作り上げているのだと知った。たぶん多少は美化して、ぼかして? だから写真を見て、何か変だなとか、写りが悪いとか(笑)思ったりするのだろう。鏡は左右逆さだということも、影響しているのだろうか。

「違う、ってことなんだろうな」
鏡のなかの自分を見て驚くたびに、漠然と思う。こうして見える自分の姿と、自分がイメージしているものとは、違うのだろう、と。髪型ではなく、顔かたちでもなく、「存在」みたいなもの、言い替えれば「魂」みたいなものが。
鏡に映った自分の顔。それは、何もかも知っているようでじつは、全く知らない顔なのかも知れない。そう考えると、何か空恐ろしいような気がした。

庭のスミレ達。雨上がり、水鏡を見て何を思っているのかな?

去年、いろいろな場所に散らばっていたのを石垣に移植しました。

玄関がある東側の石垣は、今、スミレ達が花盛りです。

蕾には、うつむいたフラミンゴを連想させられます。

雪柳の影にも、静かに咲いています。可愛いな~。

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色と色の間に広がる宇宙

「春色」といえば、桜色を思い浮かべる人が多いのだろうか。しかし、わたしがいちばんに連想するのは、菜の花の黄色だ。

薄い黄色のセーターに合わせて、黄色いバッグを買った。
軽くていろいろ簡単に入って、なかにはポケットも3つついている。使い勝手がいいところが気に入った。白と黄の組み合わせに取っ手がベージュ。ショルダーバッグ用の紐は、取り外しできる。うららかな春の日に、用がなくても出かけたくなるようなバッグだ。

ところでセーターと合わせてみて、コーディネートに違和感はないのだが、ふたつは異なる色なのだなと漠然と感じた。調べてみると、セーターは淡黄蘗色(うすきはだいろ)、バッグは淡黄色(たんこういろ)に近い。
ネットで色見本を見比べてみたのだが、見比べるほどに、その色の種類の多さに驚いた。黄色と呼ばれる色にも、たくさんの種類がある。それは、赤も青も緑も同じ。聞いたこともないような名の色が並んでいる。

セーターとバッグ。異なるふたつの色。
その名前がついた色と色の間にも、名前がついていない色があるのだろうか。円周率の小数点以下の数字のように永遠に続く宇宙が、色と色の間にもあるのだろうか。セーターの黄色とバッグの黄色の間に広がる宇宙。それは、何処までも何処までも、ずっとずっと続いていくのだろうか。

皇居のお堀をバックに。後ろ姿で失礼します。
太陽の光の下で見ると、バッグ、黄蘗色(きはだいろ)の方が近い?

セーターとバッグの色の違い、こんな感じ。判るかな?

東京から帰ってきたら、庭では山吹が咲いていました。
濃い黄色。山吹色。好きな色です。

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皇居東御苑を歩いて

夫の会社が四谷から、移転することになった。新天地は、神田錦町。窓から皇居のお堀が見えるビルだ。その新しい事務所を、見に行った。広々としたスペース。窓の面積も広く明るい。4年前よりも人数が増え、手狭になった会社の雰囲気にも、ここならゆとりが生まれるだろうと思えた。

事務所を見てから、夫とふたり皇居を歩いた。
東御苑は一般公開されていて、まだ桜も残っていた。気持ちよく晴れた午後。ふらふらと歩きながら、考えた。

人は誰しも、慣れ親しんだ場所、今いる場所に、居心地の良さを感じているものなんじゃないだろうか、と。そしてそれ以上に、何かを始めたり、新たな環境に飛び込んだりするのは、とてもパワーがいることだ。だから、そこから動くことをためらってしまうのだろう。だがそれゆえにいつまでも同じ場所にとどまっていたら、新しい場所へは行くことができない。
そこで動ける人は、たぶんこう考えてるんじゃないかな。新しい場所へ行ったら行ったで、さらに居心地のいい場所をこれから作っていけばいい、と。

春。新天地でスタートした人も多かろう。
息子と、上の娘も、それぞれ就職した。新しい場所、新たに出会った人、初めての仕事に、戸惑いを覚えつつもがんばっているのだろうと思う。

『大手門』から入りました。外国人観光客も、いっぱい。
皇居東御苑一般公開日は → こちら 参観案内図は → こちら

『百人番所』江戸城最大の検問所。昼夜百人で警護していたそうです。
後ろに見えるビルに、時代のギャップを感じます。

石垣は修復しながら、保存しているそうです。

日陰に咲いていたヒカゲツツジ。可憐です。

モミジの花も、静かに咲いていました。

見上げると、木漏れ日がまぶしい。
大都会東京に、こんなところがあるなんて。

あ、竹林。と思ったら、足もとには・・・。

大きな筍! モグラのように土を持ち上げていました。

『本丸』に近づくと、大きな木の向こうに芝生が広がっています。
のんびり昼寝をする人や、ぼんやり休憩する人も。

そして『本丸』から眺めた風景。緑の向こうにビル、ビル、ビル。

『本丸』を降りると、梅の実が青く生っていました。

帰りは『平川門』から、出ました。
死者や罪人を運び出したことから『不浄門』とも呼ばれたとか。



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小さな小さな花

キュウリグサをじっと見ていると、自分が巨大化したように思えてくる。
その花の、あまりの小ささに感覚が可笑しくなるのだ。

淡いブルーのその花びらは1mmほど。ほんとうに小さい。花の大きさはそれぞれだとは思っていたが、何年か前に存在を知るまで、こんなに小さな花が身近にあるとは思っていなかった。花とは、じっと見つめずとも目につくくらいの大きさだと知らず知らずのうちに考えるようになっていたのだ。

じっと見つめないと、目に入ってこない小さな小さなキュウリグサの花。朝な夕なにしゃがみ込み、じっと見つめている。自分が持つ大きさの概念だとかバランスだとかを失い、周りのモノが拡大したり縮小したりする危うさを感じながら。何にしろ、正しい大きさなんてないのかも知れないとか思いながら。

生えているのは駐車場だが、今年は去年の倍に増えている。抜かずにおけば、強く生き残る草なのだろう。若い葉や茎は、食用にもできるらしいが、今のところ、小さすぎて食べようという気持ちにはならない。

やさしいブルーに、ほっこりします。
アップにすると、葉は肉厚で裏に毛が生えているのが判ります。
胡瓜の匂いがするから、キュウリグサと名づけられたそうです。
もっと可愛い名前つけたいな~。

開いていく途中。かたまっている蕾が根元から咲いていきます。

あどけなさを感じるのは、小ささの魔法?

石の脇で強く伸びていく姿にもまた、魅かれます。

たくさん咲いてる~。蕾もいっぱい~。

巨大リップクリームではありません。小ささ判るかな?

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『ポテチ』

濱田岳主演の映画『ポテチ』を、観た。
公開されたときに東京まで行き観てきたので、2回目だ。何故にわざわざ?
それは、伊坂幸太郎原作作品だからに他ならない。

原作は『フィッシュストーリー』(新潮社)に収められた短編。小さなドラマだ。空き巣だが、悪人からしか金を盗まない今村忠司(濱田岳)は、困っている人を見ると放っておけない。同棲中の大西若葉(木村文乃)とも、自殺しようとしたのを助けたのがきっかけだった。そんな今村は、あることに気づき泥棒家業の傍ら探偵もする黒澤(大森南朋)に調査を依頼する。そして自分が生まれたときに病院で取り違えられたことを知った。地元のヒーロー、プロ野球選手の尾崎と。しかし彼は、それを自分の悲劇だとは捉えなかった。
以下小説本文から。

「でも、彼は、事実を知って、ショックを受けた」
「何にだと思う?」黒澤はその時だけ、自信がなさそうだった。
「俺には分からない」と口に出した。
黒澤が、人に意見を求めることなどないと思っていたから、大西は少し戸惑った。黒澤自身も戸惑っている。「たぶん」と大西は答える。一般の人たちのことは分からないが、たった一年の同棲生活の中でも、今村の性格についてはある程度、把握できているつもりだ。
「たぶん、自分の母親と血が繋がっていないことにショックを受けたんではないと思いますよ」「俺もそう思う」
「本当の母親に会いたいと思ったわけでもないと思います」
「じゃあ、何にショックを受けたんだ」
「お母さんを可哀想に思ったんじゃないですか? 『母ちゃん、本当だったら、もっと優秀な息子を持てたかもしれないのに』とか」
ああ、と黒澤が納得したように息を洩らす。「そうかもしれないな」

「つらいっす」「どうしたらいいのか分からねえよ」「訳分かんねえよ」
そう言いながら、今村がとった行動は、ひたすら、本当にただひたすら、尾崎を応援することだった。

それにしても、岳くん、売れちゃったなあ。CM出演数トップだって。
伊坂ファンにとっては、可愛がってきた子がブレイクしちゃって淋しい感がぬぐえない。『アヒルと鴨のコインロッカー』で主演したのが9年前。『ゴールデンスランバー』では、伊坂が濱田岳をモデルにしてかいた殺し屋キルオを演じるという逆輸入(?)そして『ポテチ』。岳くん、ずっと応援してるよ。

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雪解けの季節

雨が上がり、雲間から顔を出した八ヶ岳は、青かった。
冬の間は、雲から顔を出すたびに白く白くなっていった八ヶ岳だが、雪解けの季節を迎えたのである。最高峰の赤岳には、さすがにまだ白い部分が残っているが、もうしばらくすればすっかり解けてしまうだろう。

遠目に眺めていると、ただ白から青へと変化していくようにしか見えないが、雪という固体が水という液体に姿を変え、流れていくのだと知ってはいる。
川へ、そして土のなかへ。春、芽吹いていく木々や、花を咲かせる植物達へ。

もしかしたら八ヶ岳の、あの白かった雪は、ここに咲いている花達のなかにも小さく存在しているのかも知れない。白い花にも、青い花にも。

定点観測地点から。白い部分が少なくなった八ヶ岳。

定点観測地点には、スノーフレークが、まだ咲いていました。

ホトケノザも、群生していました。透明な紫が素敵。

ムスカリも咲いていました。この色、目を魅きます。

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葱坊主くん、こんにちは

焦りを、感じてきた。味噌汁に、納豆に、うどんに、炒め物にと毎日いただいた葱を食べているのだが、一向に減る様子がないのである。
ここらで大量消費する料理を考えなければと、料理本をめくってみた。やわらかく煮た葱ならいくらでも食べられそうだが、塩分が多くなるのも心配だ。そう考えて、韓国風大根の煮物を思い出した。鶏がらスープの素で手羽先をやわらかく煮てから大根を入れる薄味の煮物だ。後入れなら、短時間でやわらかくなる葱にもぴったり。たっぷり煮るぞと、6~7本の葱を切り始めた。

すると、玄関で育っていたのだろう。葱坊主の蕾がいくつも顔を出しているのに驚いた。可愛い。そして、美味しそうだ。
とりあえず、一緒に煮てみることにした。鶏がらスープの味と鶏の脂が、とてもよくしみていて、葱バージョンにしてみて、大正解。葱坊主くんも、甘くやわらかく煮えていた。

植物は、どんな場所でも育っていこうとする。そんな強さがとても眩しい。
葱坊主を見て、感じたことだ。無駄にしないように、しっかり食べよう。

植物の芽って、どうしてこんなに可愛いんでしょう。
天麩羅にするのが、一般的みたいです。

お鍋のなかでも、葱坊主くんの赤ちゃん、存在感あります。
韓国風の煮物は、ニンニクと生姜と鶏肉を炒めて鷹の爪を入れて、
鶏がらスープで煮ます。味つけは少しの醤油、酒、酢と胡麻油。

くたくたに煮えた葱坊主くん、よく見ると蕾の粒々が。
栄養いっぱい詰まってますって、言っているかのよう。
四川赤山椒をかけて、いっぱいいただきました。

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珈琲タイムに

珈琲豆がなくなったので、注文した。
いつもの『珈琲問屋』だ。ネット注文ではなく、甲府にある店から、豆を郵送で送ってもらっている。豆の種類も豊富で、豆の煎り方も8段階のうちから選べ、何より煎りたて新鮮なのがいい。
苦みが強くないすっきりした酸味を好むわたしは、このところイルガチェフェとグァテマラを頼むことが多かったが、今回は、夫が好きだと言っていた「ポピュラーなブレンド」も合わせて注文した。ブラジルとコロンビアを半々にブレンドした苦み、酸味、コクなどバランスのとれた豆だ。

夫は、わたしが淹れた珈琲をたいてい美味しいと飲んでくれるのだが、たぶん、わたしが好むものよりも、もう少し苦みがプラスされている方が好きなのだろうとは知っている。ただ、美味しいと飲んでくれるので、それをふと忘れ、だんだんと自分の好み寄りに傾いてしまっていた。

久しぶりに味わったポピュラーなブレンドは、思いのほか美味しかった。
もしかしたら、たがいの好みはこうして一緒に味わっていくうちに近づいていくモノなのかも知れない。
「新しい豆も、開拓してみようかな」
最近開いていなかった『珈琲問屋』のホームページを、眺めてみた。

豆はスケールで量っています。ふたりで3杯分淹れて32gぐらい。

「一般大衆向き」とかかれるとちょっと違和感。
普通とか一般的という言葉に反発を覚える自分は嫌いではありません。
でも、もちろん普通もいいんだよね、とも思います。

煎りたての豆は膨らむなあ。気持ちもゆっくり膨らんで。

お気に入りのカップはそれぞれ。ごっつい手つきのカップが夫のです。

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春の庭で

庭で、いろいろな花が咲き始めた。
花も可愛いが、咲いていく途中の姿がまた、可愛い。冬の間、こんなに可愛らしいものを隠していたんだなと、木の枝や土を眺め、感心する。そうして作り上げた蕾を、何日もかけて膨らませていき、ゆっくりゆっくり開いていく。

勝手に種が飛んできて芽を出したものや、いただいた苗などがほとんど。手のかからないツワモノばかりが生き残っているような庭だが、植物は律儀だ。
「約束通り、咲きましたよ」
そんなふうに、花を揺らしているかのように見える。
「冬の間も、約束、ずっと忘れていませんでしたよ」
春を夢見て、眠っていたのだろうか。
だからこそ、ゆっくりと時間をかけて咲くのだろう。

花の命は短くて、というが、それは人に例えた言葉。花は花の時間を、じっくりと生きているのだなあと庭に出て思うのだ。

収穫しそこねたふきのとう。苔に埋もれ花を咲かせました。

スミレも、あちこちに芽を出し花を咲かせています。

春蘭も、株が大きく育っていっぱい花をつけました。

雪柳は20株以上。夫が根気よく株を分けていった成果です。
満開になるのも楽しみだけど、一つ一つの蕾も可愛い。

芝桜は、白い雪柳の下で濃いピンクの花を咲かせています。

八重の水仙は遅咲きで、ようやく蕾を開きました。

ツルニチニチソウ。バッサリ切ったけれど強く咲いています。

プラムの花。少しずつ少しずつ、まさに咲いていく途中です。

何年か前にいただいた苗木の桜も、ちらほら花をつけています。

この春お初、お目にかかったけろじ。やさしい土色してるねえ。
野鳥達に捕まるなよ。綺麗な緑になるのを楽しみにしてるよ。

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『サブマリン』

伊坂幸太郎の新刊『サブマリン』(講談社)を、読んだ。
12年前に『チルドレン』を読んでから、この日を待っていた。続編である。伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間から情報を得て、うきうき発売日だと本屋に買いに行き「明日発売です」と呆れられた(笑)

家庭裁判所の調査官、武藤と、その破天荒な上司、陣内と、犯罪を犯した少年達の物語。武藤は、無免許の19歳の少年がジョギングしていた男性を撥ね死亡させた事件を担当する。ネットで脅迫文をあちこちに送った試験観察中の15歳の少年や、陣内が以前担当していた若者、前作で人気が高かった盲目の永瀬も登場。伊坂作品ならではの、はりめぐらせた伏線をていねいに回収する技も楽しめる。以下本文から。

「おまえ、麻雀知ってるか?」
陣内さんは組んでいた足を伸ばし、まっすぐ座り直す。
「知らなくてもいいけどな、麻雀は四人でやる。でな、俺たちはな、見えない相手にずっと麻雀の勝負をしているようなもんだ。最初に十三枚の牌を配られて、それがどんなに悪くても、そいつで上がりを目指すしかない。運がいい奴はどんどんいい牌が来るだろうし、悪けりゃ、クズみたいなツモばっかりだ。ついてない、だとか、やってられるか、だとか言ってもな、途中でやめるわけにはいかねえんだ。どう考えても高得点にはならない場合もある。けどな、できるかぎり悪くない手を目指すほかないんだよ」
サックスを吹く男の姿が、僕の頭に浮かんだ。彼のはじめの手牌は良くなかったかもしれない。ただ、その中で、できる限り最高の手を作ろうとした。悪くないどころか、素晴らしい上がりに到り着いた。
「何が言いたいんですか」
「一緒に作戦を考えてやるから、俺にもその手を見せてみろ」
陣内さんは言う。
「隠して一人で考えていても限界があるんだよ」

陣内は、12年経っても変わらず少年達のなかへとまっすぐに入っていく、かっこいい大人だった。けどまあ、陣内かっこ悪い語録も一応。
担当でもないのに現場に行ったんですかと、武藤に聞かれて。
「あれかよ、あの交差点はおまえのものなのか。おまえしか行っちゃいけねえのか? 俺が行ったっていいじゃねえか」
通り魔を捕まえたとき、小学生に。
「校庭に俺の銅像を作って、と校長先生に言っておけよ」
酔って眠って、目を覚ました若者に。
「本当に良かった。五年だよ。おまえ、五年寝たきりだったんだぞ」

タイトル『サブマリン』は、水面下に潜んでいる犯罪を見つけるため、
海中に潜っていく潜水艦と、家裁の調査官をダブらせているのかな?

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1日30品目食べてますか?

ふと思い立って、数えてみることにした。
1日30品目の食品をとろうと栄養学で勧められた時代は終わったらしいが、こうしてたまに数えてみたくなるのだ。

朝食 味噌汁(油揚げ、葱、小松菜、茗荷、味噌、和風だし)
   ほうれん草のバター炒め(ほうれん草、バター、塩、白胡椒)
   納豆(葱は味噌汁と同じ)めざし 奈良漬
   いかなごの佃煮(神戸の叔母のお手製)
   野沢菜のえごま油炒め(長野土産)
   ご飯 でこぽん ヨーグルト 緑茶 19品目
昼食 山菜蕎麦(蕎麦、山菜、茄子の天麩羅、葱、七味唐辛子)
   4品目
午後のお茶 レモンジャーティー + レモンバーム 2品目
夕食 セロリのきんぴら
  (セロリ、人参、鷹の爪、胡麻油、醤油、みりん)
   オムレツ&ケチャップ
  (卵、トマト、チーズ、ベーコン、イタリアンパセリ、バター、
                      塩、粗挽き黒胡椒)
   朝の味噌汁 + とろろ昆布
   ビール 14品目
合計 39品目(調味料を別にしたら28品目)

まあ、及第点かな。数えてみると、朝食でずいぶん稼いでいるのが判る。あ、この他にも毎朝起きがけにざくろバーモントのお湯割りを飲んでいる。夕食はひとりだとこんなものだが、夫と飲むならけっこう品目も増えるはずだ。
これでばっちり健康になるとか、そんなたいしたことじゃない。
ただ、1日30品目でも、和食推奨のま・ご・わ・や・さ・し・いでも、何でもいい。いろいろ覚えて、たまにでいいから意識することが大切かなと思っていることもあり、思い立ったが吉日とこうして数えてみた。

ところで、何故30品目の勧めが説かれなくなったのかというと、30という数字に捉われ、食べ過ぎて肥満になる人が増えたからだそうだ。ちょっと笑っちゃう話だけど、我が身に置き換え、気をつけよ。これでワイン赤白飲んだら30品目達成とかいうのは、とりあえずやめておこう。

我が家では、スタンダードな朝食の風景です。
今年はいかなごをたっぷりいただいて、毎朝食べています。

ヨーグルトは恵。ガセリ菌SP株が体脂肪を燃焼するんだとか。

お昼は夫と駅蕎麦を食べました。山菜蕎麦に茄子の天麩羅をのせて。
山菜は、いろいろ入っていましたが、カウントは1で。

寒い季節には欠かせないレモンジンジャーティー。
庭のレモンバームを摘んで入れたら、意外にも甘くなりました。

オムレツのイタリアンパセリは、毎春庭に芽を出すものです。
セロリのきんぴらは、定番千切りセロリサラダの残りで作りました。

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旅立ちの季節に

チャイムが鳴ったので出てみると、斜向かいの娘ちゃんが笑顔で立っていた。
斜向かいに住む 5人家族は、お父さん、お母さん、娘ちゃんとその弟くんがふたり。我が家より歳若い家族だ。
「明日、家を離れることになったので」
娘ちゃんは、隣りの県の大学に進学するのだと言った。希望、という言葉を感じさせる笑顔だ。
「父と母を、よろしくお願いします」
しっかりした口調で言う。
「まだ、弟くん達がいるじゃない」
「そうなんですけどね」
心配そうな顔を見て、やっぱり女の子がいなくなると花が一つ消えたみたいに家は淋しくなるんだろうなと思う。我が家は、3年前に末娘が同じように大学進学と同時に家を離れ、子ども達はみな県外に出た。気持ちは判るつもりだ。
「おめでとう。わざわざ、挨拶に来てくれて、うれしかった」
そう言うと、彼女はちょっと困ったように言う。
「父が挨拶して来いって。わたしは、こういうことするの返って迷惑なんじゃないかと思ったんですけど」
「そんなことないよ。来てくれて、ほんとにうれしかった。顔を見られてよかったよ。がんばってね。Let‘senjoy!」
「ありがとうございます」

本当は、何かお祝いを渡したいくらいの気持ちだった。でも何かを渡すより、今言葉を交わすことの方が大切なのだと思った。こういうときに何かあげたいなと思う気持ちって、ごく普通に湧いてくるものだと思うけれど、モノに替えたりせずに「おめでとう」のひと言に気持ちを込めることにした。こうして来てくれて、おめでとうと言わせてくれた。それでじゅうぶんだ。

帰り際に、プレゼントのつもりでひと言だけ言った。
「中学校の桜、半分くらい咲いてたよ。明日、出がけに寄ってもらったら?」
「ほんとですか? はい。そうします」
彼女が通う大学の辺りでも、桜は咲いているだろう。それでも、通った中学の桜を見るのもまた、よかろう。
春。旅立ちの季節なのだなあ。

明野中学校の桜です。入学式に合わせたように、咲きました。

何本あるんだろう。明野町の桜の名所は小中学校の通りです。

近づいて見ると、蕾のピンクが可愛らしいな。

濃いピンクの桜も、咲いていました。

中学校の向かいにある、学童保育所の桜です。

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テデスキ・トラックス・バンド in 武道館

夫に誘われ、日本武道館へライブを聴きに行った。
テデスキ・トラックス・バンドだ。
エリック・クラプトンのライブで、デレク・トラックスのギターは聴いたことがある。そのデレクと、彼の妻でブルースシンガー&ギタリストのスーザン・テデスキが組んだバンドで、その名の通りふたりが中心だが、バンドのメンバーは総勢12 人。ドラム、パーカッション、キーボード、フルート、サックス、トランペット、トロンボーン、ハーモニー・ヴォーカルとにぎやかだ。
始まるや否や、夫の顔を見てわたしは言った。
「かっこいい!」
12人の作り上げる音が一つになったと感じる瞬間がいくつもあって、それがたまらなくかっこよかった。今この瞬間が楽しくてたまらないというオーラが、ステージ全体から伝わってくる。多種多様な音が作り上げる音楽は、知らない国の民族音楽のようにも感じ、国境とか、そういう境とか壁みたいなものがほどけていき、自然に魅き込まれていった。

わたしのなかに、デレクとスーザンが夫婦だという意識があったからなのかも知れない。異なるものが発するそれぞれの音は、初めは不協和音しか奏でられないだろうけれど、そんな時間を経て一つになる瞬間を捉えていくものなんだよな。メロディに身体を預け、そんなふうに感じていた。人と人も、そうやって心を通わせていくものなのかも知れないと。LIVEって、いいな。

千鳥ヶ渕への花見客で込み合うなか、武道館へ。

夫が持っていたアルバム。右がLIVEアルバム。
左が、最新アルバム『LET ME GET BY』
最新アルバム収録曲『 Laugh About It 』の動画は → こちら

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葱を山ほどいただいて

近所の農家さんに、葱を山ほどいただいた。
太い部分が赤みがかった葱は、採れたて新鮮。生でも煮ても、美味しそうだ。
まずは、鮪とねぎま鍋にした。けっこうすぐにやわらかくなる。とろける。
白髪葱でも、たっぷりいただいた。豚肉の梅肉蒸しと軽く蒸して。それから、定番の鯵と茗荷の酢味噌和えにも混ぜて。生で食べるとやわらかい辛味。

和風味だったのに、どれも何故かワインにぴったり。煮れば煮たで甘いし、生は生でピリッとくるし、薄めの味つけで素材の旨味がたっぷり味わえるメニューは、特に白ワインに合う気がする。

ところで、いただいた葱だけど、新聞紙にくるんで玄関に置いてある。
1年分の玄米の保存場所である玄関は、我が家の貯蔵庫でもあるのだ。たぶん保存場所としては最適な環境だと思う。最適だとは思うが、匂いだけでも絶対に風邪ひかないだろうというほど、玄関を開けるたびに鼻を突く葱の匂い。採れたての葱の匂いって、本当にすごい。
宅配便屋さん、鼻がつんとするかも知れませんが、ご容赦ください。

採れたて、いっぱい。うれしいな。赤葱というらしいです。

生姜と葱、鮪のみのシンプルなねぎま鍋。生卵につけて食べます。
昆布のだし汁は、おすましより少し濃い目に味つけて。
食べるのに夢中で、鍋そのものの写真撮るの忘れました(笑)

鯵と茗荷の酢味噌和えです。栗原はるみレシピです。

豚肉の梅肉蒸し。梅肉は「ばいにく」と読むのか「うめにく」と読むのか。
夫と話していて「肉って訓読みだよねえ、それなら」という話になりましたが、梅肉は「ばいにく」と読むのが一般的らしいです。
肉「にく」は音読みだそうです。訓読みはないんだとか。

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夜桜と小さなツキ

夜10時。東京の会社から帰宅する夫を迎えに、駅まで車を走らせた。
信号は全部で7つ。すべて青で通り抜けられることはないが、赤待ちの長い信号を青で通り抜けられると、うん、今日はついてるな、と思う。
そういう日には、小さなことの一つ一つが、あ、ついてる、と思えてくる。

譲り合った車の挨拶代わりのクラクションは朗らかに聞こえるし、あと何km走れるか表示された数字が「117」だと「いいな」と思える。
そして5分早く着いた駅では、満開の桜がライトアップされていた。この季節、何も珍しいことではないのだけれど、それでも、ああ、やっぱりついてるなあ、と思ってしまう。

小さなツキは、心の隙間を伝染していくのかも知れない。これからもつかまえそこねないように、あ、ついてる、とそれぞれのツキをちゃんとつかまえて、心の温度を上げていこう。
「おかえり。おつかれさま」
夫にかけた言葉の温度も、もしかしたら1℃くらい温かいものになったかも。

こういうときに目にすると、24時間パーキングの看板でさえ、
「好きなだけ休んでいっていいんだよ」と語りかけているよう。
なーんて思ってしまうのも、夜桜の魔法かな。

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『母性』

湊かなえの『母性』(新潮文庫)を、読んだ。
帯には「事故か、自殺か、殺人か」とある。17歳の娘が倒れているのを、母親が発見したという新聞記事から始まるミステリーだ。
交互に語られる「母親の手記」と「娘の回想」から、母に愛され母を偏愛した女が、娘を愛する「母性」に欠けていたことが浮き彫りになっていく。
以下本文から。

からだが分裂してしまいそうな痛みに耐えたあと、かん高い声でギャーギャーと泣く赤紫色のかたまりを顔の横に近付けられ、「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と言われても、それがどうしたのだ、としか感じませんでした。上質な作品とは言い難い、しわくちゃで鼻の低いぶさいくな顔で、これでは母ががっかりしてしまうのではないかと涙がでそうになったくらいです。
「パパも今呼びますからね」
看護婦にそう言われて、「パパ」とは誰のことだろう、と一瞬考えました。田所は両親を「親父、おふくろ」と呼び、私は「お父さん、お母さん」と呼びます。子どもが生まれるからといって、互いを「パパ、ママ」だのと呼び合ったことはありません。子どもにどう呼ばせるかと、二人で相談したこともありませんでした。自分と同じように「お父さん、お母さん」と呼ばせるのだろうと漠然と考えていたのですが、ふと、それはイヤだ、と思いました。お母さん、などと呼ばれたくない。私にとって「お母さん」という言葉は、愛する母ただ一人のためにあるのだから。

母親になったすべての女性に「母性」が芽生える訳じゃない。
「母性」について調べていく中学校教師が登場するのだが、彼女はそう言い切っている。わたし自身「母性」なるものがあったのだろうかと考えると、判らない。子ども達を愛して育てたとは思っているが、それが「母性」から来たものなのかどうなのかは知りようもないし、ただでさえパーソナルスペースが広いわたしは、子ども達とも一定の距離を保ち暮らしてきたように思う。
人間の動物的な部分が退化し「母性」も失われつつあるのだろうか。
虐待されている疑いで通告された児童数が3万人を超えたと、数日前に報じられていた。そういうことを含め「母性」あるいは「無償の愛」とは何なのだろうと深く考えさせられた。

友人が、読み終わったからと回してくれた文庫本です。
友人と本の話ができるのも、本好きならではの楽しみです。

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ジューサラダで、野菜もりもり

世の中では、ジャーサラダなるものが流行っているらしいが、我が家で流行っているのは、ジューサラダだ。栗原はるみレシピの蛸の香味サラダのことなのだが、柚子ポンで味つけした仕上げに、熱々の胡麻油を食卓に運んでからジューッとかけ回す。その音にまた食欲をそそられるのである。

先週は一週間、東京と神戸で過ごした。外食の日々。それも、肉率の高い外食が続いた。だからなのか、もりもり野菜が食べたーい! という欲求が自然と沸き上がり、それならとジューサラダを作っては食べている。

夫と蛸サラダにした翌日も、山芋バージョンでひとりの夕食にもりもり食べた。もりもり食べて、落ち着いた。人の身体って不思議だ。身体は正直ってよく言われるが、肉を食べれば野菜が欲しくなるのって、健康な証拠なのかな。そしてひとりワインも、すすんじゃった訳なんだけど。

山芋スライスに、クレソン、白髪葱、セロリ、紫玉葱、大葉をさらして。
レシピでは、葱は小口切りでしたが白髪葱大好きなのでアレンジ。

ジューッと胡麻油をかけた、出来あがり図。
胡麻油は、熱し方が足りないとベタッとしてしまうそうです。
ん? いつもより葱が太い? ひとりご飯の油断かな(笑)

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神戸で美味い焼肉屋なら『松竹園』

神戸に帰省した際に、よく行く焼肉屋がある。
三宮にある『松竹園』だ。優しい顔の店主とは、夫は高校時代、サッカー部でチームメイトだった。なので気軽にLINEして席が空いているかと聞いては食べに行く。しかし何度も足を運んでしまう理由は、気軽さだけではない。それはもう「肉が美味い!」からのひと言に尽きる。

そんな訳で、先週もまた『松竹園』へと食べに行ったのだが、LINEで繋がった夫の高校時代の友人達が集まり、ぷち同窓会となった。
「この値段で、この肉は、ありえへん」
「なんぼでも、食えるわあ」
口々に絶賛しながら、食べて飲んだ。
そのなかで、大発見を発表するかのように一人が言った。
「この前気がついたんやけど、白飯(しろめし)と食うのがまた美味いんや」
それを合図に、みなご飯を注文し始める。
飲んで食べて、そのうえご飯を食べるんだな。男の子だなあ。50代も後半に突入した彼らに向かって男の子はないかもしれないが、いやあ、男の子だよ。

そんなことを考えながら生ビールを追加していくと、酔うほどに関西弁でしゃべる彼らの言葉は判らなくなっていく。まるで、知らない国の焼肉屋の暖簾をくぐったような不思議な気分になっていく。その空気にさらにまた酔っぱらっていく。そして思うのだ。ああ、こんなふうに気持ちよく酔えるのも、あるいはご飯を食べたくなるのも、何しろ肉が美味いからなんだよねえ、と。

『松竹園』は、JR三宮駅東口から、徒歩7~8分。

最初は塩で、タンやハラミを。レモン汁や甘辛味噌をお好みで。
夫と友人は、やかんに入ったマッコリを早々に飲み始めていました。

たれに移行して。このカルビがまた、とろける美味しさ。

めっちゃ美味かった!

もやしスープも、絶品。わたしは、さすがに白飯はもう・・・。

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ままならない気持ち

馴染みの道でさえ、見知らぬ道へと迷い込んでしまうほどの方向音痴。
昨日、そうかいて思い出したことがある。40年以上前、東京は板橋でのこと。わたしが小学校に入学したばかりの頃、下校した道でのことだ。

今とは違い、下校時に大人が付き添うこともなく、上級生達とも下校時間が合わず、ひとりで20分ほどの道程を歩いて帰っていた。その頃から、たぶん方向音痴ではあったが、生まれ育った辺りの道を間違えることもなく、迷うことはなかった。あの頃は、就学前であっても近所の子ども達とつるみ、けっこう遠くまで遊びに出かけていたのだ。
そんなこともあり、周辺のスポットは把握していた。川沿いの下校ルートを左に迂回したところには「アベック山」(!)があったし、右手の先へ行けば「お化け山」や「鬼ばば山」へと続いていた。

下校ルートは川沿いの道と決められていたが、わたしは入学後しばらくの間、決められたルートを歩くことができなかった。それがある日、大人達に知られてしまう。その後、大人の目が届かないルート以外の場所に潜む危険などを説かれ、何度も叱られることとなる。大人になった今では理解できる。しかし、その頃のわたしは「だいじょうぶなのに」と根拠なく思っただけだった。
逸れて歩いた道に魅力的なものがあった訳でもない。ましてや、決められたルートに不満があった訳ではない。いくつかの分かれ道で、どうしても足が違う方へと向いてしまうのだ。今考えても、謎である。ただふらっと歩きたい方へ歩く。そんな魅力に抗えなかった、としか言いようがない。
「どうして、言うことが聞けないの?」
大人は問いただし、子どもに言い聞かせる。だがそんなことを言われても、自分の気持ちでさえもままならず、原因など説明できるものではないのだ。
そのとき、初めて気づいた。
「そうかあ。自分の気持ちって、自分でも判らないことがあるんだ」

大人になった今でもふと、ふらりと道を逸れてしまいそうになると、あのとき下校した道を思い出す。蹴りながら歩いた石ころや、勝手にパンをあげた飼い犬や、急な坂のアスファルトのつんとした匂いなんかを。

明野小学校の桜は、まだ硬い蕾でした。
こちらは、いつも通る道で、少し早めに咲く枝垂れ桜です。

三分咲きくらいでしょうか。蕾の濃いピンクが可愛いです。

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新しい道を開拓する人と

人は、歩きなれた道を好んで歩くタイプと、歩いたことがない新しい道を好んで歩くタイプとに分かれるように思う。
夫は、明らかに後者である。常に新しい道を開拓することに余念がない。
義母の手術入院での帰省もまた、例外ではなかった。突然、リハビリ病院への転院日が決まり帰省することになったその前日、彼からメールが来た。
「飛行機で行こう!」
義母が入院する病院は、神戸空港からポートライナーで2駅。飛行機の方が乗り継ぎがいい時間帯に乗れたら、一度乗ってみようと話していたのだ。羽田まで行くことを考えると、どちらがいいとは言えないが、乗っている時間だけ考えれば、新幹線は東京から3時間。飛行機だと1時間。この違いは、気分的にとても楽だった。

歩きなれた道には、靴底から伝わる感触でさえ馴染みである安心があり、新しい道には、冒険心が満たされ、思いがけない発見があったり、見知らぬ風景を眺める心地よさがある。まあ、わたしは新しい道を開拓せずとも、馴染みの道でさえ見知らぬ道へ迷い込んでしまうほどの方向音痴。冒険は、右へ行こうが左へ向かおうが常に潜んでいるのだが。

病院に行くと、義母が言った。
「文字通り、飛んできてくれたのねえ」

羽田空港第一ターミナル、展望台から見た風景です。

展望台の柵向こうでは、人なつっこい雀が日向ぼっこをしていました。

乗ったのはスカイマークの飛行機。1日前でも早割値段で買えました。

翌夕刻の神戸港。夕焼けが綺麗でした。

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『いつも彼らはどこかに』

小川洋子の短編集『いつも彼らはどこかに』(新潮文庫)を、読んだ。
タイトルの「彼ら」というのは、動物のことだ。馬、ビーバー、兎、小鷺、犬、チーター、蝸牛、竜の落とし子。8つの短編は、それら人以外の生き物と、世の中から少し外れてしまった人々の物語。そのなかには、生きてはいない者もいる。例えば『愛犬ベネディクト』は、14歳の少女が制作中のドールハウスに住むブロンズ製の動かぬ犬だ。以下本文から。

この家をこしらえるのに忙しくて彼女は学校を休んでいるのだろうか。ならば工作が完成すればまた学校へ行くのだろうか。おじいちゃんと僕はひそひそ声で話し合ったが、結論は出なかった。
「デリケートな年回りだからな」
おじいちゃんはこの一言で、事態をまとめた。
いずれにしても妹はもう二度と学校へは行かなかったし、彼女の家は延々今でもまだ完成していない。
「これはたぶん、ドールハウスというものだよ」
僕はおじいちゃんに説明した。
「ままごとに使うのか?」「いや、もうちょっと大人向けかもしれない」
「世の中にはそういう家を作って楽しむ人がいるんだな?」「うん」
「そうか。あの子が自分で編み出したのかと思ったが・・・」
おじいちゃんはため息をついた。学校へ行かないことより、ドールハウスが孫娘の発明でないことの方が、残念であるかのような口振りだった。

読んでいて、胸がしんとした。どの短編にも、普通からはみ出してしまった人を、自然体で受け入れる人が登場する。
例えば、おじいちゃんは、学校へ行かずドールハウスを作り続ける孫娘を。スーパーのデモンストレーションガールは、試食だけをして決して買おうとしない老女を。美術館の女性は、一枚の絵だけを観るためにそこまで目をつぶって歩く老人を。
一人一人、大切なことは違っていて、それが奇異に映る場合もある。それを奇異だということに捉われず、何かを大切にするという心根を見つめることができる人々を、その自然体で受け入れていく姿を、描いた小説なのだと思った。

帯と、購入した戸田書店の栞が、同色でした。
こういう気配りができる本屋さんっていいなあ、と思います。
こうして写真を見ると、紐栞がうさぎの尻尾みたい。

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軍鶏鍋タイムスリップ

東京では、夫と思い出の店に行った。恵比寿にある『軍鶏丸(しゃもまる)』25年ほど前、夫が恵比寿にある会社に勤めていた頃に行った、軍鶏鍋や焼き鳥が美味しい鶏の店だ。
「このあいだ偶然『軍鶏丸』の前を通ったら、変わらなくってさ」
「『軍鶏丸』! なつかしいねえ」
それで、二人で上京する機会があれば、行ってみようという話になったのだ。

「なつかしいなあ。全く、変わらないですねえ」
夫は、店に着くなり連発する。店の女将に昔の話をしたら、ちょうど開店して間もない頃だったのだと判った。そのあと夫も、今の会社を立ち上げて22年。店の歴史と自分達の歴史が重なったような気がして、不思議な気持ちになる。女将もとても喜んで、あの頃は、という話に花を咲かせた。

焼き物と軍鶏鍋のコースを堪能しつつ呑みながら、自然と昔の話になる。
「あの頃は、子ども達が小さかったのもあって、きみの仕事をきちんと理解しようとしていなかったなあって、今思うと判るんだよねえ」と、わたし。
「そう? 協力的だったと思うけど?」と、夫。
「仕事人間で家庭をかえりみない夫と、それが不満でしょうがない妻っていうステレオタイプな図式には当てはまらなかったけどさ」
若かったというのは言い訳かも知れないが、たがいに自分のことで精一杯で、相手を理解しようっていう気持ちが欠けていたんじゃないかと、振り返れば思うのだ。末娘が1歳のときからわたしも経理事務を担当してきたが、3人の子ども達との雑多な時間の方が多くを占めていた。ケンカも日常茶飯事だった。

そんななかで時間をやりくりし『軍鶏丸』でゆっくり食事をしたことは、とてもよく覚えている。そういう小さな時間の積み重ねがあったから、きっとこれまでやってこられたのだろう。熱々のつくねを味わいながら、二人いつのまにか、遠い時間にタイムスリップしていた。

焼き物と鍋のコースの最初は、塩レバー。マスタードと山葵が美しい。

手羽先は、粗挽き胡椒が効いていて、パリッと焼けていました。

ビールの泡もこだわり強く。恵比寿だけに、えびすの琥珀です。

鍋に突入。砂肝、胸肉、ささみ、レバーを、炭火でしゃぶしゃぶ。
鉄鍋のなかは鶏がらスープです。タレには大根おろしに山椒をかけて。

つくねは、目の前で作って入れてくれます。
見事な手さばきでした。さすがに、年季が入っています。

肉が美味しすぎて、写真にも残ってませんでした(笑)

〆はうどんで。灰汁が浮いているように見えますが、つくねの卵だそうです。
鶏がらスープに粗塩と粗挽き胡椒を足して、もう何とも言えない美味しさ。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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