はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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オニオンスライスな日々

家庭菜園をしている近所の方に、葉のついたままの玉葱をいただいた。
「サラダ用の玉葱だから、生で食べても甘いよ」
青葱のような部分は、炒めてもよし、軽く湯がいてぬたにしてもよしと教えてくださった。見ているだけでもよだれが出そうなくらい新鮮である。
さっそく昼はサラダに入れて、夜はオニオンスライスとソテー、ぬたも作ってみた。採れたて野菜の甘みが口のなかに広がった。

そう言えばむかし、毎日オニオンスライスを刻んだことがあった。上の娘が中学生の頃だから、もう十年ほど前になる。
反抗期だった彼女は、母親となんかしゃべりたくないモード全開だった。そこでわたしがとった作戦は、彼女の好きなものを食卓に並べるというもの。太ってもいないのにダイエットに励んでいた彼女は、来る日も来る日も、それこそ飽きるまでオニオンスライスを所望した。ドレッシングで、柚子ポンで、醤油で、出汁つゆで、マヨネーズで日々共にオニオンスライスを食べたのだった。
その間、彼女との会話は、食卓に上がったもののことのみ。まあ、それでもいいやと思っていたし、食についての会話ならけっこうあるものだ。
「スーパーに、新玉葱が出てきたんだ。やわらかいでしょ」
「あ、ほんとだ」
「柚子ポン、変えてみたんだけど」
「うん。こっちの方がさっぱりしてるね」
そんな日々を過ごすうち、彼女は反抗期を卒業していった。

反抗期の頃の子ども達って、みんなそうかも知れないけど、学校のことをあれこれ聞かれるんじゃないかとか、勉強しろって言われるんじゃないかとか、親と対峙するときには構えちゃうんだよね。でもわたしは、普通にテレビの話でも、食べ物の話でも何でもいいから、ただ娘としゃべりたかった。

そんな気持ちで玉葱刻んだら、涙が出そう? それが、半分に切ってからよく水で洗った玉葱は、刻んでも涙が出ないもの。反抗期っていうのは、料理で言うと、そんな下ごしらえ時期なのかも。

ぷーんと玉葱特有のいい匂い。陽の光と似合うなあ。

キャベツとクレソンとフライドガーリックと合わせたサラダです。

オニオンスライスは、柚子ポンがいちばん好き。

どう見ても葱のぬたですが、葱よりも甘みが濃い!

白ーい。種類は聞かなかったけれど、ホワイトオニオンかも。

オリーブオイルで焼いて塩胡椒。仕上げはバルサミコ酢。これ絶品!

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その人を思う時間

娘の誕生日にプレゼントを送ろうと、ショッピングモールを歩いた。
26歳の上の娘。就職したばかりの彼女には、服とか鞄だろうかと漠然と思い描きつつ、しかし歩いても歩いても、これといったものが見つからない。
イタリア製のバッグ。ちょっと高価すぎるかな。
本革を2枚合わせたカラフルな小銭入れ。ユニークなだけ?
紺のロングブラウス。これはわたしの趣味そのまんまだ。

1時間ほど、歩き回っただろうか。結局、実用的な夏物の白いノーカラーのブラウスと薄いターコイズのカーディガンを選んだ。普段にも仕事にも重宝するような。と選ぶ方は考えたのだが、若い彼女が気に入るかどうかは判らない。

いろいろ考えて選びながら、会社の引っ越しを思い出していた。夫のデスクには娘からもらったという小物がたくさんあって、彼はそれを大事にしていた。
「あいつ、けっこういろいろくれるんだよね」
「そう言えば、クリスマスにワイングラス、もらったねえ」
家にも、彼女からもらったものがけっこうある。
わたしの50歳の誕生日には、写真立てに応援メッセージを入れて病院まで持ってきてくれた。骨折手術のその日だったのだ。

娘にプレゼントを選んでいて、ふと思った。プレゼントをもらうっていうことは、誰かのこういう時間をもらうっていうことなのかも知れないなあと。
あーでもない、こーでもないと思い悩みながらプレゼントを選ぶ時間、その人を思う時間、とでも言おうか。彼女がこれまで過ごしたそういう時間を思いつつ、ちょっとうれしい気持ちでショッピングモールをゆっくりと歩いた。

4年前の誕生日にもらった写真立て。タイプライターのデザインが可愛い。
写真は、ふたりでロスの友人の家に遊びに行ったときのものです。

オーストラリアにワーキングホリデーに行ったときのお土産。
アボリジニアートで、キャンプをしている絵なんだとか。
子どもの頃よくキャンプしたせいか海外でも平気でキャンプする娘です。

こっちは、カナダのワーホリから帰って来たときにもらいました。
『ハウルの動く城』を思い出しました。

アイルランドへの小旅行で選んでくれた石。いろんな絵があった中で、
「お母さんが好きそうだったから」お気に入りです。

何年か前のクリスマスプレゼント、ペアのワイングラス。
ワインはもう飲んじゃったので違うものでしたが、こんな雰囲気。

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こだわりの蕎麦屋、こだわりの木の器

ゴールデンウイークはのんびりと家で過ごした。出かけたと言えるのは、同じ北杜市は隣町の隣町、高根町の蕎麦屋へ行ったくらいだ。
『やつこま』は、このところのお気に入り。平打ちの蕎麦にこだわり、山葵も注文されなければ出さない。本来の蕎麦の味を味わうには、山葵抜きで食べるべしという店主のこだわり抜いた姿勢を表している。まずは蕎麦つゆにもつけずにじっくり嚙んでみてほしいと、メニューに添えがきしてあるくらいだ。

そのこだわりは、器にも徹底していた。
「この袴、久しぶりに見たなあ」と、夫の友人。
薪割りに来た夫の友人と連れ立って暖簾をくぐったので、ふたりにビールを勧めたのだが、大瓶のスーパードライが袴を穿いていた。
「木のグラスが冷えてるのって、うれしいよね」夫も、喉を鳴らした。
蕎麦を待つ間に出された焼き味噌は、竹をくり抜いた器ごと焼いてある。
「見て、この箸置き、小枝だよ」
箸も木なら箸置きは小枝。見れば、ランチョンマットも、蕎麦つゆの器も、天麩羅の皿も、塩を持った匙も、すべて木か竹でできていた。
「すごい、こだわりだねえ」
こだわりの蕎麦をこだわりの器ですすりながら、矯めつ眇めつ器を愛でる。木の軽さと温かみを手に感じる。木を感じ始めると、何も考えずに座った椅子も、テーブルさえもが木だったと思い至る。

そのうち、食卓に陶器がないということに、ふっと不安になった。
木と竹。森や竹林の風景を容易に思い浮かべられる、器達。しかし、いつも使っている陶器の器は、もともとのものなど思い起こすこともなくなってしまったが、土だ。言い替えれば、地球。それを、人の手でこねたものなのだ。
風に揺れる竹林。天に伸びゆく大木。それを生み出していく大地。「道具」とひとくくりにできない大きさを、吹き抜けていく風を、木と竹の器に、そしていつも使っている陶器の食器達に、ひととき感じた。

まずはビール。大瓶の下に穿かせる袴も、コースターも木製です。
残念ながらわたしは、運転手に徹しました。

竹をくり抜いた器。味があります。
焼き味噌には、蕎麦の粒と葱も入っていてまろやかでした。

本当に何もかも、木と竹でできています。箸置きの小枝、いい形。
つややかな蕎麦の入った器も、磨き上げられた木です。

野菜ときのこの天麩羅。籠のような、これも木の器。
山葵はお持ち帰りができるよう、下にビニール袋が置いてありました。
山葵おろし器は、鮫の皮。森の中に迷い込んだ、鮫?



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『七緒のために』

島本理生の小説『七緒のために』(講談社文庫)を、読んだ。
読み始めて、その描写の美しさにハッとした。以下本文から。

転校前の女子校では、毎朝、光溢れる下駄箱で女子たちと擦れ違った。彼女たちはいつも手を繋いで、髪の先までよい香りをさせ、色づいた唇を開いて笑いながら、転がるように廊下を歩いていく。
彼女たちは、扱いづらい綿菓子だった。乱暴に扱えば、あっという間に潰れてしまう。水に濡れれば溶けて消える。ひとたび受け入れれば、喉を焼くほどに甘く、中途半端に触れたなら、べたつく感触を肌に残す。それに気付いてしまった私の右手だけがいつも空いていた。

雪子は、転校してきた共学の中学で、七緒と出会う。人なつっこく雪子の似顔絵を描いてくれた彼女は、しかし、学校のなかでは孤立する存在だった。それでもあえて雪子は、七緒と行動を共にするようになる。七緒の虚言癖に気づき振り回されていく自分に苛立ちながらも、そんな七緒を救い出そうともがき苦しみ、深く深く七緒のなかへと落ちていくのだった。以下本文から。

「七緒」
彼女は大きく目をむくと、まるで私を責めるように訴えた。
「そもそも、なんで私が嬉しいとか、悲しいとか言ったら、それだけじゃダメなの? どうせみんな、分かることしか分からない。時間や人がつながるには本当とか嘘なんてない。だったら、なんの意味があるの?」
私はようやく痛み始めた腕を曲げて膝を抱え込んだ。
今にもやんでしまいそうな雪のひとひらを見ながら、いっそ吹雪いてしまえばいいのに、と思った。七緒の言葉も、どこへも行けない私の気持ちもすべて白い雪の中に閉じ込められてしまえばいいのに。

言葉では、伝えられないことがある。そういう気持ちは、確かにある。だいたい、気持ちを正確な形に置き換えることなんてできるはずがない。なのにむりやり言葉にしようとすると、傷つけてしまったり、傷ついたり。
雪子と七緒のあいだには、常にそんな言い表せない気持ちが漂っていて、胸痛く子どもの頃を思い出させられた。
本当は大人になったって、言い表せない気持ちはいつも胸の奥でざわついていて、大人になるとただ、それを掘り起こしてまでムリに言葉にしようとはしなくなるだけ、なのかも知れない。

白地に黒、臙脂が効いたデザインの、シックな文庫本です。
島本理生が高校時代にかいた『水の花火』も収録されています。

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だんだん、けろじに見えてくる

庭にいるアマガエルのけろじ達は、ウッドデッキの上でじっとしていることもあるが、隠れていることの方が多い。外敵から身を守りつつ、餌になる虫を捕獲しやすい場所にいるのだろう。そんな彼らを探すのも、この季節の楽しみとなっている。
「けろじー」と呼びながら、あるいは「くわっくわあ」と鳴きながら庭を歩く姿はかっこいいものではないが、誰が見ている訳でもない。ペットが可愛いくて赤ちゃん言葉で話しかける人もいると聞けば、可愛がっている子のまえでは、無防備になるのも何ら珍しいことではないとも思える。

「わ、こんなところに、いた!」
「ずっとここにいるけど、気に入ってるんだねえ」
「そこには、いっぱい羽虫は飛んでくるの?」
などと、探し出しては話しかけているのだが、最近、他の小さなモノがけろじに見えてくるという現象に陥っている。体調1~2cmほどのけろじは、緑だったりモスグリーンだったり灰色だったり黒と緑のマダラだったりする。
探していると、小石や葉っぱ、木の実などが一瞬けろじに見えてしまいハッとするのだ。そんな「見つけた」と「違った」を何度か繰り返し、よくやく本物を見つける。だんだんと自分の目が、獲物を捕らえる野鳥の如くけろじに照準が合うようになっているような気がするのだが、似たモノにも照準を合わせてしまうらしい。けろじの天敵である野鳥達も、獲物と似たモノに飛びかかっては、あ、違った! を繰り返しているのかも知れない。

宝探しをするように庭をゆっくりと歩くと、もしかしたら小石が葉が木の実が、くるりと変身してアマガエルになったりして、なんてふと思ったりする。
目をつぶり、そっと開いた次の瞬間とかに。

アイビーの陰に隠れている、けろじ。みーつけた。

家の基礎と外板の間に入り込んでいた、けろじ。

一週間前からずっとデッキの隙間にいる、けろじ。つぶらな瞳。

蕗の葉の上でカメレオンに徹する、けろじ。笑顔~。

大きさが同じくらいの石に、ハッとしたり。

緑の葉っぱの色に、いた! と喜んだり。

たたずまいがそっくりで、かけよったりしてしまいます。

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ナンプラーは隠し味で

「マンネリ打破に、ナンプラー」
ネットで、そんな言葉を目にするこの頃。我が家でも、ナンプラーを使った料理に挑戦している。海老団子鍋は定番になったが、炒め物に気軽に使えると、さらに広がりそう。失敗もするが、繰り返しトライしている。

その失敗。ほぼ塩味が濃い、しょっぱいというもの。ナンプラーは、塩味が濃い調味料なのだ。それを知りながらも、失敗を繰り返すのは、ナンプラーの色が薄いからなのだと思う。たぶん醤油より味の濃いナンプラー。しかし醤油よりもかなり色が薄い。そこに騙されてしまうのだ。
「見た目に騙されるな」というのは、人は見た目に騙されやすいモノだからこそ発生した言葉。そしてさらに言えば、名前にも騙されている気がする。ナンプラーと醤油を比べると、どうしてもナンプラーの方がさっぱり薄味の印象を持ってしまう。ナンプラーと「ラー」で終わる軽そうな音に、うっかり油断してしまうのだ。
そんなこんなでナンプラーに翻弄され、手玉に取られ、踊らされ、いく度となくまんまと騙される日々。

うーむ。ナンプラー炒めというよりは、これ何で味つけしたの? というくらいの隠し味って感覚で使った方がいいのかな、などと試行錯誤している。

いつも隣町のスーパーにある、ユウキ食品のナンプラーを使っています。
天秤印のナンプラーが、塩味薄めらしいので、今度買ってみようかな。

セロリと海老のナンプラー炒め。色はやっぱり薄いです。
セロリは、サラダの残りを使って。ニンニクが効いています。

白髪葱と生姜の千切りと合わせたレンコン&ポークソテー。
ナンプラー + お酢の味つけがぴったりでした。

ゴールデンウイークに取り寄せた、石巻の帆立です。
バター焼き with ナンプラー。レモンとパクチーを添えて。

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ゲラニウム・カロリニアヌム発見!

ゲラニウム・カロリニアヌムを発見した。
と言っても、庭に生えている雑草だ。和名を、アメリカフウロという。

昨日の朝、NHKの朝ドラ『とと姉ちゃん』を観ていた。
学生、星野が新種の植物を発見か? というシーン。それがゲラニウム・カロリニアヌムだった訳だが、その葉の形を観て「あ、ゲラニウム」とつぶやくわたしを、夫が怪訝そうな顔をして見つめた。
「すごいね。何で、判るの?」
何故、判ったのか。それは、わたしのなかではものすごくタイムリーな話題だったからに他ならない。偶然とシンクロが作り出したモノだとも言える。

この春、宿根草のゲラニウムを植えた。その葉は、ちょっと変わった形をしていて、それが記憶に残っていた。さらに、ゴールデンウイークに庭の草取りをしていて、ゲラニウムとよく似た葉をした雑草を見つけた。
「もしかすると、ゲラニウムの種類かも知れない。宿根草なら、スミレみたいに増やせるかも」
そう思い、抜かずに残しておいた。調べてみようっと、と思いつつも、ただそのまま放っておいただけなのだが。
そこで『とと姉ちゃん』のゲラニウム・カロリニアヌム。
「あ、ゲラニウム」となった訳である。

調べてみると、残念ながらゲラニウム・カロリニアヌムは一年草で、珍しくもない雑草だった。強いのだろう。アメリカから荷物に種がつき渡ってきたらしいが、一年草なのに日本中に広がった。とと姉ちゃんの時代には、確かに日本では新種の植物だったのだ。
「遠ーいむかしに、アメリカから渡ってきたんだねえ」
庭で小さな花を咲かせるゲラニウム・カロリニアヌムに、そっと声をかけた。

庭に咲いていたゲラニウム・カロリニアヌムです。

小さく可憐な花です。

咲きかけのものも、ありました。

この葉っぱ形が、特徴的。雑草らしからぬ趣があります。

こちらが買ってきて植えたゲラニウムです。葉っぱ、似てる~。

紫の花が咲く、マックスフライという種類です。

まだ蕾もつけていません。花が咲く日が楽しみです。

薪割りロードで踏みつけられつつ、綺麗な赤に色づいた葉っぱ。
花が終わると草紅葉(くさもみじ)になるとありました。

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時間の川に芽吹くモノ達

夢を見た。 
10歳くらいの男の子がひとり、ゲームをしている。
広めの部屋には、テレビだけ。他には何もない。しばらくして、男が入ってきた。長く伸びたコードに足に引っかけ、コンセントが抜けてしまう。ゲーム画面を映したテレビがプツンと切れ、沈黙する。男の子は、怒るでもなくただコンセントを差し込み、再び0地点からゲームを始める。
男はいつの間にか消え、部屋には、男の子がさっきまでゲームをしていた時間、過ぎ去った時間がゆらゆらと浮いている。川のように浮いた時間の表面には、芽を出したばかりのような双葉が並んでいた。なかには蕾を持ったものもある。ゆらゆら、ゆらゆら。時間は、流れながら続いていく。

目が覚めて、ぼんやりと考えた。
「あの子の失くしたとも思えるような、あの時間は、無駄じゃなかったってことだろうか」
宙に浮く時間の川に揺れる、芽や蕾達。
「何気ない時間のなかにも、これから伸びゆく葉や、咲いていく花のもととなるモノがあるってことなのだろうか」
早すぎた目覚めにベッドのなかで時間を持て余しながら、ゆらゆらと揺らめいていた時間の川を、若い緑色をした芽を蕾を、思い出していた。

夢で見た芽のように、ドクダミさん、にょきっと伸びています。

ぐんぐん、という感じで伸びているのは、茗荷達です。

あらら、こんなところに芽を出しちゃって、もみじさん。

ヒメシャラの若葉は、優しい色合いです。

ヒイラギも、若葉はトゲトゲがやわらかく頼りなげな感じ。

アイビーの若い緑が、庭を明るくしてくれています。

ツルニチニチソウは、日々蕾を開いて。

雑草代表で、カタバミさん。可愛いんだけど、強すぎる・・・。

隣りの林では、今、ツツジが花盛り。今年はたくさん咲きました。

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衣替えの季節に

「あ、気持ちいい」
新しいスリッパに替えて、思わずそんな言葉がこぼれた。
「あ、これ、気持ちいいね」
夫も、同じことを言う。
冬仕様のスリッパをようやく夏仕様に替えたのだが、新しく買ったスリッパは内側がスエードのような風合いに作られていて、裸足のつま先を入れたときのそのフィット感がつい言葉を漏らすほどに気持ちがよかったのだ。

山梨でも標高の高い我が家では、この時期まで薪ストーブを焚く日がある。炬燵もまだまだ仕舞えない。それでも、少しずつ春夏モノに替えていくのは楽しい仕事。少しずつ始めるのに、ゴールデンウイークはちょうどいい。

「気持ちいいなあ」
もう一度声に出して言い、ああ、こういう感覚って久しぶりだなと、忘れていたことを思い出したような気がした。冬の間、縮こまっていた身体と心。まだまだ、すっかり解放されてはいないのかも知れない。一つずつ小さな衣替えを繰り返していくうちに、身体も心も新しい季節に馴染んでいくのだろう。衣替えをして気持ちがいいなと思うのって、じつはとっても大切なことなのかも。

裸足で新しいスリッパを履き、窓を開けて、深呼吸する。
「うーん。気持ちいい」
何度でも、声に出しながら。

シンプルなデザインも、気に入っています。
むかしは、スリッパのサイズはあんまりありませんでしたが、
このごろでは、ちゃんと選べるようになりましたね。

こちらは先週、衣替えした玄関の暖簾。
何年か前に京都の藍染の店で、一目惚れしました。
店主の指が、藍色に染まっていたのが印象的でした。

ベッドの枕元には、涼しげな色合いの日本手拭い。
手拭い、選ぶのに迷うほど様々な模様のものが作られていますね。

トイレの小窓には、いっぱい咲いたスズランを飾って。

昨日の八ヶ岳。すっかり夏の顔です。

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薪割りとレディファースト

ゴールデンウイーク後半、夫は、庭木の剪定と薪割りを始めた。わたしは、東京に行っていた間の掃除や洗濯。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。思わず昔話の始まりを思い浮かべるが、ごく普通の5月の休日だ。

薪割り機は、ご近所さん7軒ほどで共有している油圧式のもので、メーリングリストで使いたい日を調整して取りに行く。使い終わったら、次の人が使うまで使った人の庭に置いておくのが決まりで、それが今、我が家の庭にある。
夫の友人が、ワインを持って遊びに来るというので、薪割り機を用意してのお出迎えという訳だ。

ところで夫の薪割りには、わたしはほとんど手を出さない。運ぶ、積むはしても、薪割り機を動かすのは、ちょっと怖いし、左手くんと右手くんが腱鞘炎やテニス肘になりやすいからムリしないようにしていることもある。そして夫は、ほとんど料理はしない。
たがいの役割りを尊重するなんて、堅苦しく考えてる訳じゃない。やれる方がやる、あるいはやりたい方がやるって感じでうまくいっている気がする。

レディファーストは、力が強い男性の、女性に対する思いやりから生まれた文化だという説を聞いたことがある。だからってレディファーストが絶対にいいとは思わないけれど、夫が力仕事をしてくれるとき、重い荷物を持ってくれるとき、こっそりと思うのだ。
「あ、思いやり」
言葉にするのは「ありがとう」や「お疲れさま」だけど。

左側の平らなステンレスの上に、丸太を置きます。

これが薪割り機全体を見た感じ。こんな大きな丸太でもだいじょうぶ。

ゆっくり動いていくので、危険も少ないんです。

メキッ! バリバリッ! 音がして、丸太が裂けていきます。

割った丸太を半分ずつまた載せて、再び割ります。

それをまた割って、燃えやすい大きさにしていきます。

ここにあった半分は丸太でしたが、ダーリン、がんばりました。

薪割り機くんも、がんばったね。就寝中の様子です。

ウッドデッキに出てきたものの、けろじは潜ってしまいました。
人が普通に歩いている分には無関心ですが、逃げ足は速い。
大きな音がして、怖かったんだよね~。

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青い光の記憶

ゴールデンウイーク前半は、会社の引っ越しがあった。
身体は疲れたが、気持ちは晴れ晴れとしている。オフィス街広がる神田錦町の明るく広々とした事務所への引っ越しとあって、社員達もみな笑顔だった。

「引っ越し」というキーワードで、思い出したことがある。「青い光の記憶」と自分のなかでは呼んでいる16年前に山梨の田舎に越してきたときのこと。
4月に越してきて、家が完成したのは7月後半。大幅に納期は延びたが、子ども達の学校のことを考え、住みながら建ててもらおうということになった。引っ越してきたときの引っ越し屋さんの言葉は、今も耳に残っている。
「家、まだできてませんよ。荷物入れちゃっていいんですか」
何しろ、玄関のドアが、まだついていなかったのだ。

子ども達3人は、それぞれ保育園、小学校、中学と新しい環境になれないことも多く、それはわたしもおなじだった。風呂も入れず銭湯に通い、大工さんや左官屋さんに気を使いつつ暮らす毎日。精一杯やっていたと思う。いや、精一杯どころかキャパを超えていたのだろう。ある朝ひとりになったとき、床にぺたんと座り込み、力が抜けたように動けなくなった。そのとき、曇りガラスの向こうに青くキラキラ光るものが見えた。綺麗だった。陽の光を反射したブルーが、ゆらゆらと揺れ眩しかった。思わず頬が緩むほどの美しさだった。
「こんなところに、いったい何があるんだろう」
期待を込めて窓を開け、脱力した。これから使う木材をブルーシートで巻いて立て掛けてあるだけだった。工事現場でよく目にする、ベタな青色のシートだ。急に可笑しくなり、ひとり笑った。安っぽいビニールが陽の光と作った青い光。宝石でも何でもない、ただの青い光だったのだ。
しかし、それは確実にそこにあり、わたしの疲れた心にしんと染み込むように長いこと留まっていた。じっと見つめていると、胸のなかで荒く揺れていた波が、次第に水平になっていくような変化を感じた。
そして「もう少し、がんばろう」と、思ったのだった。

新天地、神田錦町では、第二便の荷物を載せたトラックを待つ間、20代の男子社員ふたりが窓から高速道路を眺め、赤と青、どっちの車が多く通るか賭けをしていた。モノクロの自動車が多いなか、勝ったのは青い方だったようだ。

青い光つながりで、淡い色合いも涼しいアクアマリンのネックレス。
ブルーを身につけると、何か落ち着きます。

アップにすると、石のなかの模様が浮き出て、綺麗。
間に挟んであるのは、ラブラドライトです。
前世の記憶にアクセスする力を持つ石だとか。

白の上に置くと、また違った趣です。

むかーしむかし、夫に貰ったペンダント。たぶんアクアマリン。

輝きが強いタイプですね。韓国のお土産だったと思います。

白の上に置くと、カットがくっきり見えて全く違う石みたい。

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途方もない小ささに

ほんとうに、春が来た。そう感じる瞬間が、訪れた。
ウッドデッキに、我が家の土地に住むアマガエル達が上がってきたのだ。
わたしが勝手に「けろじ」と呼ぶ彼らは、ウッドデッキの端っこの日陰で、じっと動かずにいた。日陰であるが、日向ぼっこ、という言葉を思わせる趣である。可愛い。

体長2cmほどのけろじ達。重さにしたら、人と比べてどのくらいの比率になるのだろう。調べれば 1gにも満たないらしい。千倍してようやく1kg。同じ大きさの空気の粒を吸い、息をしているとはおもえないほどに小さい。その小ささは、宇宙を想像するときに感じる途方のなさを感じさせる。
このほんの小さなもの達が、自分で考えで、あるいは衝動のままに、ウッドデッキに登ってきたという事実。それに、わくわくする。

もしかすると彼らは、人よりもずっと強く「生きている」ということを感じているのではないだろうか。小さな頭に、心に、空気に触れる緑色の肌に。
肌に触れる空気の粒は、たぶん、わたしのそれよりもずいぶん大きいのだろうが、その大きな空気の粒を吸い、虫を食べ、身体が大きくなるごとに脱皮して、それを静かに受け入れ生きている。そんな彼らを見ていると、純粋に「生きている」のだよなあと思うのだ。

デッキの下から出てきたばかりで、背中が黒いけろじ。

真緑の、でも、まぶしそうに眼は半開きのけろじ。

黒と緑の真ん中で、微かに笑っているけろじ。

これは、去年の夏のけろじ。雨で、のびのび遊んでる~。



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一瞬を引き延ばせる力(仮説)

「いたっ!」と、左手くん。
「だ、だいじょうぶ?」と、右手くん。
「だいじょうぶだと、思ってたんだけどなあ」
「たいしたことないよって、言ってたもんねえ」
ミルで珈琲豆を挽きつつの、左手くんと右手くんの会話だ。
「利き手の僕の方が注目されがちだけど、しっかりと押さえる力があってこそミルを回せるし、だから珈琲豆を挽くことだってできるんだもんね」
右手くんの言う通りだ。動きが大きい方が、働きも大きいように感じるが、じつはそうでないことも多いのだろう。
「力には、自信があるんだけどなあ」
左手くんは、右手くんにさすってもらい、力なく言うのだった。

数日前のこと。断捨離に力を入れていたわたしは、段ボール4箱分の古本を処分した。何故そんなにもためてしまったのかというと、表紙が破けていたり、汚れたりしていて何処も買い取ってくれない本を廃棄するのに忍びなく、役立ててくれるところを探していたのだ。それを見つけ、仕分けし、郵便局に取りに来てもらった。わたしにとっては、けっこうな力仕事だった。
「ムリしないで」と夫に言われていたにもかかわらず、ムリだと思わぬままにムリしていたのだろう。自分の身体だが、自分で思うよりもずいぶんと、ムリが効かなくなっているのだ。事故は、そういうときに起こるもの。
本の入った段ボールにつまずき、玄関の三和土から土間へと落下し、転倒した。あっ! と思ってから落ちるまで、何故かスローモーションのように感じられた。その間、たぶん一瞬のことだったのだろうが、スローモーションだったことで考える余裕が生まれた。「手をついてはいけない。今下になっている左手くんは、手の甲を一度骨折している」と。そして身体を丸め、肘から落ちた。結果、左肘の打撲だけで、大事には至らなかった。

「『火事場の馬鹿力』って、とっさのときに、いつもは出せないような力が出せることを言うじゃない?」と、左手くん。
「非力な人が、ものすごい力出しちゃったりする、あれ?」と、右手くん。
「うんでもね、もともと人間って、普段は身体に負担がかからないように力をセーブするようにできてるんだって。だから火事場で出せる力は、本来持ってる力なんだよ」「そうなの?」
「そうなんだよ。だからもしかすると、って思ったんだよね」
「とっさのときに、一瞬を引き延ばせる力もあるんじゃないか、とか?」
「そうそう、昔もあったじゃない。右手くん、大活躍だったよね」
「ああ、あれね。あった、あった」
そう言えば息子が2歳のとき、彼が階段から転げ落ちるさまがスローモーションに見え、上から追いかけたことがあった。途中で右手くんが彼の足をつかむことができ、やはり事なきを得たのだった。
「人の力には、計り知れないものがある、ってことかな」
「もうだめだと思ったときにも、あきらめちゃいけないってことなのかも知れないねえ」

とは言え、大事には至らなかったが、左手くんのダメージは大きかったようだ。打撲だけではなく全体が軋んでいるらしい。
「それにしてもさあ、転ばないように気をつけてくれないかなあ」
「全くだよ。不注意極まりないよねえ。どうにかしてほしいよねえ」
左手くん、右手くん、ほんとうにごめん。

こちらは、落下転倒事件の現場、玄関の三和土です。

左手くん、がんばりました。右手くんも、お疲れさま。
おかげさまで、美味しい珈琲を飲ませていただけます。

カリタの手回しミル。豆を挽く粗さも、好みに合わせてあります。

お気に入りの器達。温かみのあるごつごつした感じが好きです。

美味しく入りました。豆は、イルガチェフェ。ほどよい酸味です。
左手くんと右手くんの会話は → frozenshoulder 徒然で。

拍手

『結婚』

井上荒野の連作短編集『結婚』(角川文庫)を、読んだ。
タイトルは「結婚」だが、テーマは、結婚詐欺だ。しかしミステリーの如く、その手口や巧妙さを描いたものではない。愛する男から金を騙し取られた女達。帰って来ないと判っていて待ち続ける女。何もかもを失い絶望する女。男を探し出そうと決意する女。彼女達に共通することは、詐欺師の男、古海(うるみ)への恋心を断ち切れないということだった。騙された女達の、そして手配師の女るり子の、さらには騙す側の古海の心の行方を、その危うさを、小説は描いていく。以下本文から。

「彼女、警察へ行くわよ、きっと」
「それはないよ」
「そんなことがどうして言えるの」
ある考えがるり子を捉える。古海は女が警察に行かないと思っているのではない。女が警察に行ってもかまわないと思っているのではないか。どうして? そうすれば終わりになるから。何が? いろいろなことが終わりになるだろう、その中には私との関係も入っている。
ばかげている。私と関わり続けるくらいなら捕まった方がましだとでもいうのか。まさか。そう思いながらるり子は唇を嚙んだ。ふるえるのを抑えるために。古海が、それまでとは違った目つきでちらりと見る。彼の敏感さは、たとえゴミみたいに思っている女にもきちんと発揮されるのだ。

女達は、心に空いた穴を埋めてくれた古海を、どうしても忘れられない。共謀して詐欺をしてきた、るり子でさえも。

大人になって、ずいぶんと経ってから気づいたことがある。
恋人がいたって、結婚していたって、愛する人がいたって、じゅうぶんに愛されていたって、人は、心に淋しさというスペースを持ち続けている、ということだ。恋をすれば、その淋しさを埋められると思ってしまいがちだが、そのスペースが、他の何かで満たされることはない。そして、それを知っていてもなお、淋しさを何かで埋めようとするのが、人、というものなのだと。

「西加奈子さん推薦」の文字に弱いわたし。衝動買いしました。
赤い糸、足首ってところが、絡んでいく気持ちを表してるなあ。

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マグノリアのサシェ

買い物をした店のレジ横に「サシェ」とかかれた籠が、置いてあった。
聞きなれない名だと手にとってみると、いい香り。小さめの封筒くらいの大きさの紙の袋に、花の香りの素が入っている匂い袋のようだ。バラ、ラベンダー、コットンなど、いろいろある。500円というお手頃さに魅かれて、次々香りを嗅いでみる。そのなかで気に入ったのが、マグノリアだった。

今、そのマグノリアのサシェをベッド横に置き、眠っている。タンスや鞄に忍ばせてもよいというその香りは、香水のような強さはなく、やわらかい。甘すぎず、人工的なものも感じさせない。ホッとする香りだ。

それで、知りたくなった。マグノリアって、どんな花なんだろう。
すると何のことはない、春先によく見かける木蓮の花だった。むかし、トムクルーズ主演の映画『マグノリア』を観たこともあり、てっきり外国にしかないような特別な花だとばかり思っていた。
「木蓮が、咲いてるね」
春先によく、夫と車で走りながら、そんな会話を交わす。
「あれは、コブシ?」「いや、木蓮でしょう」なんて。

「青い鳥は、いつだってすぐそばにいるものなのさ」
マグノリアのサシェが、ベッドの横でささやいた。

絵を見ても、木蓮だとは思いませんでした。外国の花に見えました。
サシェって、フランス語で匂い袋のことなんですね。

こちらは、何かのおまけでいただいたくすのきのブロック。
木の香りが微かにします。防虫効果もあるのですって。

先月から使っている、SHIGETA の香りエッセンスとマッサージオイル。
ふくらはぎを下から押し上げるようにマッサージすると、よく眠れます。
ふくらはぎは、第2の心臓と呼ばれているそうです。
血流やリンパが滞ると、身体じゅうに影響があるのだとか。
エコノミークラス症候群の予防にも、効果があるそうです。

もう1年以上、車に乗せてある匂い袋。京都は松栄堂のものです。

庭では、スズランが香り始めました。とってもいい香りです。

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庭の花達と漢字のなりたち

草冠に化けるとかいて、花。草が化けるかあ。なるほど確かに。
今、庭では、草木がどんどん化けている。

漢字って、おもしろい。
人が木によりかかって「休む」とか、「忙しい」は心を亡くすとか、「忘れる」も同じく亡くす心だし、人を心配する、憂う「優しい」も言い得て妙。田んぼで力仕事をする「男」にも、なるほどと膝を打つ。
だけど「思う」は、どうして田んぼの田と心なんだろう。
調べると、今は田とかくところが最初は「囟(しん)」だったらしい。「囟」は、幼子の頭を表す漢字だそうだ。幼い子が頭と心で感じることが「思う」
うーん。深いなあ。大人の頭で考えることには、雑念が多いってことだろうか。純粋に考え「思う」こと、もっと大切にしなくては。

などなどつらつらと考えつつ、庭仕事のあいま、隣りの林の木によりかかって「休んで」みた。草木の化身である花達を、遠目に眺めながら。

何年か前、ストーブの灰と物々交換でいただいた、ライラック。

ハナミズキは、今、満開です。

スズランも、一番手が咲き始めました。

ツルニチニチソウは、日に日に花を増やしています。

静かに咲いている、ドウダンツツジの花。

濃いピンクの芝桜も、満開です。

ブルーベリー。今年もいっぱい生るといいな。

スミレも、まだまだ咲き続けています。

ヤマブキは、最後の花を開きました。

もともと土地にあった、コバノガマズミ。この名前が覚えられない。

ツツジも、咲いています。今、五分咲きくらいかな。

雑草代表で、カラスノエンドウさん。目に眩しい紫色。
ん? よーく見ると、ありんこが写ってる。

緑色のけろじ、発見。垂直ジャンプに、挑戦していました。
見上げる視線の先に、春の空は映っているのかな。
けろじの写真がもっと見たいとおっしゃる方は → こちら




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マイブームはもずくスープ

このところ、もずくスープに心酔している。
「あ、ダイエット効果あるかも」という下心(?)で買ったインスタントのカップスープが、驚くほど美味しかったのだ。

ところで、もずくを食べるたびに疑問に思っていたことがある。海のもくずとどうしてこんなに似た名前にしたのかな? ってこと。ややこしすぎる。
そこで、もずくの名前の由来を調べてみた。由来を知ると合点がいった。
「藻につく」「藻づく」から来た名だったのだ。もずくは「藻」にくっついていたもので、藻屑は文字通り「藻」の屑。「藻」が一緒だったのだ。
水雲(もずく)ってかく方が趣があって好きだな、なんて勝手なことを思ったりもするけれど、こっちの方が当て字だった訳だ。

スープはメーカーによって少しずつ入っているものが違い、それもまた楽しい。卵、三つ葉、ワカメ、柚子、胡麻など。ワカメ入りのスープを飲み、あれ? 切れてないじゃん、と思ったわたし。もずくはもともとこういう形状なの! 人が切ってる訳じゃないの! と自分にツッコんだりした(笑)
そう言えば、藻の代表であるワカメが、もずくスープのなかでは脇役だ。くっついていた方のもずくが主役になってるってことも、またおもしろい。

これからの季節は、もずく酢も美味しい。だからといってもずく自体に深入りし、素材を買い求めたりしても長続きしそうにない。ここはやっぱりインスタントで、あるいはパック入りのもずく酢で、楽しもう。

カップタイプのが、ワカメ入りでした。

この軽ーい固形が、膨らむんです。むくむくと夢が膨らむように。

3分待たなくてもいいというのも、魅力の一つ。

☆熊本の地震もそうだったみたいですが、カップ麺などのインスタントモノは
 支援物資として役に立たないこともあるようです。
 水と、お湯を沸かすガスや電気がないときには。
 でも、送ったおむすびが無駄になったケースもあったみたいだし、
 日持ちのするものは、無駄にはならないのかな。
 あったかいモノって、ホッとするし。
 ただ、支援物資は、置き場所に困ることも多いらしいですね。
 ニュースを観ては、いろいろ考えます。

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ぐんぐん伸びて

神戸から帰ってくると、にょきっとアスパラが伸びていた。
夫と庭をゆっくり歩くと、タラの芽は伸びすぎているし、蕗も葉を広げ、イタリアンパセリは茂り、ニラも収穫できるほどに伸びていた。3日の帰省の間、雨を吸い込み、やわらな陽射しを浴び、何に邪魔をされることもなく思う存分伸びました、と言っているかのようだ。

根がずぼらなので家庭菜園などはできないが、強く生き残り勝手に伸びてくれるものだけでもけっこう食べられるものもあり、楽しませてもらっている。
五感(視、聴、触、嗅、味)のうちの「味わう」までもを庭からもらえるというのは、とても贅沢なことかも知れない。

庭に立ち目をつぶると、植物達が目に見えるような速さでぐんぐん伸びていくような気がする。
「誰も見てないうちに」なんてつぶやきながら、こっそりと。
      
 すっくと伸びていた、アスパラガス。さっと茹でて。

脚立に乗っても届かないところまで伸びてしまった、タラの芽。

天麩羅では食べ切れそうにないので、お浸しにしました。

木の芽は、食べ頃になりました。筍ご飯、炊くぞー。

でもとりあえず、神戸で買ってきたいかなごのくぎ煮にのせて。

ニラも伸びてきました。チゲ鍋に入れて、いただきました。

蕗の葉も広がって。もうすぐ煮物ができるかな。

イタリアンパセリは種が飛んで、お隣の林でも伸びています。

レモンバームは、ほんとうにいい匂い。アジアン料理に。

西側の駐車場いっぱいに広がった、呆れるほど強いアップルミント。
定番のアンチョビポテトサラダに、ぴったりのハーブです。

けろじも、うっすら緑色になってきたね。笑ってる。

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『夢幻花』

東野圭吾のミステリー『夢幻花(むげんばな)』(PHP文芸文庫)を読んだ。
花を育てるのが好きな一人暮らしの老人が、殺された。第一発見者である孫の梨乃は、祖父が大切にしていた鉢植えがなくなっていることに気づく。とても珍しい黄色い花が咲いたと喜んでいたことを思い出したのだ。気になって、祖父が撮ったその花の写真をブログにアップすると、植物学の情報収集をしているという男から「すぐにブログを閉鎖し、今後一切その花にはかかわらない方がいい」と一方的に言い渡される。祖父を殺したのは誰なのか。花は、祖父の死と関係しているのか。梨乃は、黄色い花を追ううちに知り合った蒼太とタッグを組み、真実に近づいていく。以下本文から。

「私はここで毎年種を蒔いている。神様から許された種だけを蒔いている」
「神様?」蒼太は老人の横顔を見た。
「変化アサガオは面白い。私のように何年も関わってきたものでも交配によってどんな花が咲くか完全には予測できない。それが面白い。しかしね、それは遺伝子を組み合わせる遊びでもある。崇高でもあるが、非常に危険でもある。だからそれを楽しみにするには神様から許された範囲内でなければならない」
「どういう花なら神様から許されるんですか」
そう訊いたのは梨乃だった。田原は優しげな目を彼女に向けた。
「それはわからない。生存を続ければ、許されているということになるんじゃないかな。あるものはあるがままに、というのが私の考えなんだ。逆にいえば、消えゆくものは消えゆくままに、ということになる。ある種が滅びたということは、滅びるだけの理由があったわけだ。黄色いアサガオが絶えたのにも、それなりの理由があったはずだ」

50年前の通り魔殺人。10年前、突然連絡を絶った蒼太の初恋の人。自殺した梨乃のいとこ。ぎくしゃくとした蒼太と兄の関係。いくつものからみあった糸がスッとほぐれる瞬間を存分に楽しめる推理小説だった。
そして、探偵役の若い二人には、それぞれ抱える葛藤があった。
「あたしたち、何だか似てるよね。一生懸命、自分が信じた道を進んできたはずなのに、いつの間にか迷子になってる」
そんな二人は、真相を追ううちに宿命から逃げずに生きる人の思いに触れ、立ち止まっていた場所から一歩を踏み出していく。「夢」と「現実」の狭間を生きる、人間というものを描いた小説でもあった。

柴田錬三郎賞受賞作だそうです。
タイトルの黄色が、怪しい花の雰囲気を醸し出しています。

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偶然とシンクロ

小説を読んでいて、なるほどと腑に落ちた。
偶然について、または、シンクロニシティについての記述だ。要約すると、
「偶然はけっこう頻繁に起きているものであり、シンクロするかしないかはそれに気づくか否かにかかっている。気づかなければ、その偶然は起こらなかったものと同じで認識されない。シンクロニシティとは、偶然を認識することで起こる現象だ」という考え方。

昨日のブログで、時間のずれのことをかこうと考えた。考えていたから、花時計の写真を撮ろうと思った。すると、まるで時間のずれというテーマそのもののように、時計を修繕している最中だった。単に花の植え替えをしていただけだったのだが、わたしにとっては、そのいつもとは違う花時計を見られたことが「偶然」であり「シンクロ」と感じた訳だ。

神戸からの帰り道、そんな偶然とシンクロのことを考えていたら夫が言った。
「この曲、さっきも聴いたな」
「けっこうあるよね、そういうの。たまたまさっき家で聴いた曲がさ、これもたまたま入った喫茶店でかかってたりとか」と、わたし。すると、夫。
「まあ、耳が覚えてるっちゅうやつやろなあ」
それはまさに、さっき小説で読んだばかりの「偶然とシンクロ」を言い当てていた。うーん、不思議。だがその偶然は、わたしの認識が生んだシンクロであって、必然だったのだと合点がいった。

日常のなかの偶然は、けっこうな頻度で潜んでいるっていうことだろうか。
それって、もしかしたら空の上の誰かが、じつはおもしろがって仕組んでいるのかも知れないよなあ、と空を見上げて考える。
うむ。偶然を拾うように日々を過ごすこともまた、おもしろいかも知れない。
帰省の帰り道に読んだ小説の紹介は、明日。

昨日はもう、前日の植え替えなどはなかったかのよう。

これが、一昨日の様子です。

フラワーロードは、様々な花であふれていました。
それもみな、人の手で植えられたものだと思うと、余計に愛おしくなります。

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今日と明日の境い目に

数日前の朝日新聞「しつもん! ドラえもん」のコーナーで「うるう秒」というのが取り上げられていた。カレンダーのわずかなずれを修正する4年に一度のうるう年のほかに、数年に1秒追加されるそうだ。そういうものがあるのだとは知らなかった。大人になっても、知らないことの何と多いことか。

ところで時間のずれと聞き、毎日更新しているブログの更新時間を連想した。
毎晩、真夜中0時にシンデレラ更新の予約をしてから眠るのが習慣になっている。だがじつは 0時ちょうどにしている訳ではない。0時1分に設定している。今日の24時は明日の0時であり、それが今日なのか明日なのか曖昧で不安なのだ。だからしっかり1分経って、きちんと明日になったところで更新する。24時ぴったりではまだシンデレラの魔法だって解けてはいないだろう。

国境とか県境とか、境界線のようなものも、その線自体はどちらでもある訳で、やはりとても曖昧だ。曖昧なものは、人を不安にさせる。しかし、毎晩真夜中には今日と明日の境い目が、曖昧に存在していることも現実なのだ。
とは言え、何もはっきりさせるだけがいい訳じゃないことも知っている。
知らないことの多い大人ではあるが、曖昧さを見過ごして歩いていけるだけの死角は、子どもの頃より着実に育っているらしい。

朝日新聞の「しつもん! ドラえもん」のコーナーは、
1面に問題があって、答がある面は、その日によって違います。
子ども達に探してもらうことで新聞に親しんでもらおうという取り組みです。

毎日は見ていませんが、たまにこうして探してみます。

神戸に帰省しています。 三宮の花時計です。
写真を撮ろうと思ったら、花の植え替えをしていました。
花時計、こうして人の手で作られているんですね。
まるで、時間のずれを修正しているかのよう。
いつでも何処でも、様々なずれはあるのかも。

三宮フラワーロードには、様々な花達が咲き乱れていました。
リハビリ病院に入院中の義母は、ずいぶん元気になっていました。

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パワーストーンと月

宝石というものには無縁だが、誕生石のアメジストは2つ持っている。
一つは、義母から誕生日に貰った指輪。輝きの強い大きなアメジストの指輪は、普段着に合うものではなく、特別なときにしかはめられない。2~3度はめて出かけただろうか。次はいつかな、と出番を待っているかも知れない。
もう一つは、清里のお祭り、ポールラッシュ祭で、手作りアクセサリーの露店で買ったペンダント。濁ったその石は、宝石というより石に近い。とても気に入っていて、普段使いに重宝している。そのペンダントをつけると何でもないセーターが、華やかになるというのではないが、何かぴたりと落ち着くのだ。

突然気になって、2月の誕生石であるアメジストの効能を調べてみた。
「アメジストのグラスで水を飲むと、悪魔が追い払える」と言われるほど、魔よけのパワーを持つ石だそうだ。
自分のなかにあるマイナス思考をプラスに変換させる力もあるらしい。そして、身に着けて酒を呑むと、悪酔いや二日酔いをしないという。
パワーストーンの効能が、すべて本当だとは思わないが、これはもっと身に着ける時間を増やすべきだと思った。特に夜、お酒を呑むときに(笑)
指輪だって、大切にするがあまり身につけないのではもったいない。

石は、持ち主からマイナスエネルギーを吸うと疲れてパワーが弱まるそうだ。2時間ほど月の光に当て浄化する方法は、どの石にも効果があるらしい。満月なら、なお効果的だとか。そう聞くと、石の力を純粋に信じられるような気持ちになってくる。地球の引力に支えられた月と、月に光を送る太陽と、地球の地面に眠っていた石と、人。そこでつながっている、目に見えない何かを。

☆今夜は、満月だそうです。九州地方が、晴れますように。
 そしてパワーストーン達、どうか余震を沈めてください。

義母に貰った指輪です。誕生石を貰うのは初めてでした。

アップにすると、輝きも大きくなったよう。

露店で買ったペンダントです。何処のどなたの作品なんだろう。
もう10年近く前のことなので、判りません。

こちらは、アップにするとさらにごつごつ感もアップ。

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『嫌な女』

桂望実『嫌な女』(光文社文庫)を、読んだ。
女優、黒木瞳が自ら望み、初監督をする映画の原作小説である。
主人公は石田徹子、弁護士。遠縁の親戚で同い年の小谷夏子が、ある日トラブルに巻き込まれたと頼ってきた。しかしトラブルメーカーはその夏子自身だった。彼女は、男をその気にさせる天才。生まれながらの詐欺師だったのだ。
以下本文から。

いいかい、よーくお聞きよ。この世には、生来の詐欺師ってのがいるんだよ。それが夏っちゃんだ。詐欺師なんて、嫌われもんだと思うだろ。違うんだ。愛されるんだよ、詐欺師ってのは。人から愛される特技のあるもんじゃなきゃ、人なんて騙せない。カウンターにさ、男と並んで座るんだ。でさ、なにを話してんのかと思うとさ、宝くじで百万円当たったら、どうするって男に聞いてんだよ。その男が、成田空港から海外旅行に行きたいと言ったとするだろ。そうしたら、行き先はどうするか、いつがいいかって、どんどん夢を膨らませるんだ。楽しそうにね。実際は宝くじなんて当たりゃしないし、買ってもいないのかもしれないよ。だけどさ、そんなんで、二時間も楽しい時間を過ごすんだ。帰りにさ、来月の家賃、払えなくって、なんて言ってごらんよ。男は黙って手持ちの金を出すだろ。次の日には、別の男とカウンターに並んでる。そんで、言うんだよ。宝くじで百万円が当たったら、どうするって。

徹子は、夏子に振り回されつつも、いつしか彼女に深く興味を抱いていることに気づく。夏子は人をだますが、相手に与えるのもあるのだ。人づきあいが苦手で孤独を感じ続けた徹子もまた、夏子の存在に影響された一人だった。
「宝くじで百万円」と、もう一つ、夏子ならではのネタがあった。「人生で楽しかったランキングベストテン」だ。十個もないよと言う老人に、夏子は怒って言うのだった。「絶対ある」と。
8つの短編で構成された連作小説は、徹子が弁護士になりたての24歳から始まり、29歳、36歳、40歳、47歳、56歳、65歳、71歳まで、順を追って紡がれていく。徹子と夏子、ふたりの人生の物語でもある。

NHKでドラマ化されたキャストは、徹子が黒木瞳、夏子が鈴木保奈美。
映画版では、徹子を吉田羊、夏子を木村佳乃が演じます。
6月25日公開だそうです。主題歌は竹内まりや『いのちの歌』
一度聴いたら、耳に、そして胸に残るメロディです。

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ベンチ達の待ち時間

東京で、千鳥ヶ渕を歩いているときに、石のベンチが目に留まった。
切り出したものをそのまま置いたような大きな細長い石に、金属のひじ掛け(?)をつけて区切り、ベンチであるということをアピールしている。

緑道をお堀沿いに歩いていたのだが、通り過ぎる人はいても、ベンチに座る人は誰もいなかった。平日の朝だということもあったのだろう。ずっしりと重そうな石のベンチは、冷たそうで、そして何か物足りなさそうに見えた。
ベンチという人工物は、それで完成品ではないのだなあと考える。人が座ってこそ、完成されるモノなのだ。

そう考えて見つめると、彼らは待ち時間を過ごしているように思えてきた。誰かが座る瞬間をそこで待っているかのように。もしかしたら、もう誰かが座る日は来ないかも知れない。あるいは1分後に誰かが腰を掛けるかも知れない。そんな不安定な時間を過ごしているのだろうか、と。
わたしは、待つことは得意な方だと思っている。待たせるよりもよほど気が楽だ。だが、来るかも判らない誰かを待つのは、どうだろう。
世界中にある、数々の、様々な場所に置かれたベンチ達。緑道を歩きながら、彼らの待ち時間に思いを馳せた。

ボートのような形をした石のベンチ。かっこいいです。

こういうタイプのベンチも、たくさん並んでいました。

木製のベンチも、一味違うお洒落な雰囲気。

千鳥ヶ渕緑道の入り口です。入り口は出口です。

緑道を出たところにも、こんな石のベンチがありました。

その近くでは、モッコウバラが気持ちよさそうに咲いていました。

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春霞立つ富士山

春霞。はるがすみ。何とも美しい日本語だ。
日々、見るともなしに眺めている山々が、霞んできた。山を眺めるには、やはり冬がいちばんだ。しかし春の山もまたよし。緑が芽吹き、山桜の淡いピンクが目に眩しい。

ところで春霞は「立つ」と表現される。春霞立つ、と。
違和感を覚えたのは、山って春も夏も秋も霞んでいるよなあと思ったからだ。だが、霞んだ富士山を見ていて、ああ、と腑に落ちた。
雪が解けて蒸気を上げていくさまが見えたような気がしたのだ。地面から立ち上る雪。それが春霞となるさまが。
「春霞立つ」と最初に表現した人もたぶんこんなふうに、いや、もっともっと身近に、山や雪や木々や季節を感じていたのだろう。

春霞立つ富士山。その上を、ゆっくりと雲が流れていく。それを見て、やわらかくほどけた空気を、その空気の粒ひとつひとつを肌に感じた。

山桜って、こうして遠くから眺めるのがいいんだよな~。

ここにも、ここにも、って数えながら、眺めたり。

春霞立つ富士山と雲達。富士山に祈らずにはいられませんでした。
九州で困っている方々が、そしてエクアドルで地震にあった方々が、
少しでも早く、安心して暮らせる日が来ますように。

真後ろを振り返れば、八ヶ岳。雪もずいぶん解けました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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