はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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引っ越しました

いつも『はりねずみが眠るとき』を読んでいただいてありがとうございます。

一日一筆。毎日、一つずつ随筆をかいてきて5年目に入り、
気持ちも新たに、ブログを新しくすることにしました。

新しいブログは、こちらです → 『はりねずみが眠るとき』

これからも、変わらずかき続けていきます。
気軽に訪ねていただけると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

                            水月さえ



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赤ん坊の足の指

ヨガ教室に行くと、忘れていた様々なことを思い出す。
先週は思いもよらず、とても小さな女性が一緒にレッスンに参加することになった。生後5カ月の赤ちゃんだ。
「すみません。抱っこしたままのレッスンになっちゃうんですけど」
先生が、妹さんの赤ちゃんを預かっているのだという。
たまたまその日は、わたしひとりの個人レッスン。レッスンにもだいぶ慣れ、やるべき形はだいたい判ってきた。「ひめトレ」という激しい動きのないタイプのヨガでもあるし、ノープロブレムだ。
ストレッチポールを使い、いつものレッスンを始めた。やわらかなメロディの音楽が流れていたこともあり抱っこ紐のなかの彼女はすぐに眠ってしまった。

お目覚めは、レッスン後半。足の指を開いたり閉じたりしていたときだった。
「いい見本が、ここにあります」
先生は「教えてあげてね」と赤ちゃんに話しかける。赤ん坊の足の指は、きれいに開いていてどの指も他の指に頼ることなく自立していた。
「まだ靴、履かないんだもんね」と、わたし。
「本当は、これが自然の形なのかも知れないよね」と、先生。
靴のなかに収められていつしか指達は寄り添う姿が当然のようになってしまったのだろう。裸足で歩いていた太古の人々の足の指は、赤ん坊のように開いていたのだろうかと思いを馳せる。足の指を開くと、しっかりと立つことができるようになり自然と姿勢がよくなり、疲労回復などにも有効なのだそうだ。
「立ったことすらないんだもんね。足ツボ押しても痛くないんだろうな」
「内臓も、健康そうだしね」ふたり、笑う。
とてもシンプルに生きているんだ、と思った。呼吸し、母乳を飲み、眠る。
だが彼女は、曇りのない瞳で珍しそうにわたしを見ていた。ずっとじっと見ていた。知らない人、と思っているかのように。そのシンプルな生活には今、大量の情報が流れ込んでいるのかも知れない。それを摂取し、育っていく。
記憶にもない、ずっと昔の自分を見ているようななつかしい気持ちになった。

リビングに敷いたままのヨガマットと定位置に馴染んだストレッチポール。

冷えとり靴下で失礼します。思いっきり開いてこのくらいです。
これでも開くようになった方。どうぞお試しあれ。

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きのうのお好み焼き

「きのうのお好み焼きって、美味しいよね」
お好み焼きを焼いた次の朝は、たいてい残ったお好み焼きを食べることになる。豚バラ肉をかりかりに焼いた焼きたても美味しいが、しっとりとした翌朝のお好み焼きもまた美味い。きのうの煮物も、きのうのカレーも、具に味が染みて味わい深くなっているが、きのうのお好み焼きも捨てたもんじゃない。

しかし翌朝食べるとなると、ご飯とみそ汁、漬物などと合わせてお好み焼きを食べることになる。わたし的には、お好み焼きにご飯という組み合わせは、どうにも許容しがたいのだ。神戸出身の夫は、焼きそばにもご飯を組み合わせる。関西では、お好み焼き定食などもあるという。お好み焼きにご飯の組み合わせは、普通というより当然なのだそうだ。わたしは、お好み焼きはお好み焼き、焼きそばは焼きそばだけで食べたい。炭水化物に炭水化物はないでしょう、と身体が言っているこの感じ、自分でもどうしようのない罪悪感にも似たこの違和感は、やはり東京出身だからこそのものなのだろうか。(あるリサーチによると「お好み焼きはおかずだと思わない」という東京人92%)

だが今の季節、新米が美味い。我が家では晩は晩酌をするのでご飯は食べない。炊き立ての白いご飯を食べるのは、朝だけだ。きのうのお好み焼きも捨てがたいが、新米も捨てがたい。という訳で初めて「お好み焼きにご飯」を体験した。美味だった。ソースとご飯が意外にもマッチしていた。
けど、いったい何なのだろう。抗えない強い波を、かき分けてもかき分けても前に進めないような、もがき苦しむがごときこの感覚は。
東京に生まれ育ったことは確かだが、両親ともに北海道育ちだし、いちばん長く暮らしている家は今、山梨のこの家だし、夫は神戸育ちだし、東京に固執しているところなど、これっぽっちもないと思っていたのに。

「美味しければ、どうやって食べたっていいじゃない。ふふん」
そう思って生きてきたはずだった。だけど、わたしってけっこう、杓子定規で融通の利かないカタブツだったのかな。とほほ。

ご飯は、少な目。遠慮がちにそっとよそいました。
豆腐と油揚げの味噌汁も大豆大豆そのうえ味噌も大豆だけど違和感なし。

ラーメン大好きなのに、食べると罪悪感を覚えるという友人がいます。
わたしはラーメンはだいじょうぶ。でもラーメンと餃子は炭水化物だよね。
夫とラーメン屋に行くと、たいてい餃子もオーダーします。
ひとつかふたつ分けてもらいますが、これはちょっと慣れたかな。
でもラーメンライス or 炒飯は、あり得ない。

こちらは、きのうのグリーンカレーに茄子をプラスしたもの。
カレーライスにナンは、やっぱ食べられないなあ。
米なら米、ナンならナン。なんか損してる気がしてきた(笑)

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『リストランテ アモーレ』

井上荒野の連作短編集『リストランテ アモーレ』(ハルキ文庫)を読んだ。
本屋で発見したときには、わくわくした。井上荒野。短編集。料理小説。
「これこれ! こういうのが! 読みたかったの!」
本屋の店頭ではかろうじて声を出さずに済んだが、漠然と求めていたお宝を見つけた喜びが込み上げた。ああ、井上荒野はわたしのなかで「好きな作家」のひとりになったんだあと実感する。本屋で一冊の本を手に取りわなわな震えている人を見ると、手を握りしめ「よかったねえ!」と言ってあげたくなるのは、わたしだけではあるまい。そこは踏みとどまるけど。

目黒の小さなリストランテ「アモーレ」は、28歳のイケメンシェフ杏二と32歳の姉、偲(しのぶ)が切り盛りする小さな店だ。11話の短編にはそれぞれメニューがある。例えば8話目『本日のメニュー8』は、こんな具合。
 ブッラータのカプレーゼ
 野生アスパラガスのタリオリーニ
 茄子のグラタン
 豚と羊のロース肉の香草オーブン焼き
 不毛な男
一夜を共にする女性には事欠かないが恋に落ちたことのない杏二。ただ一人を思い続ける偲。放浪癖のある二人の父。常連客の訳ありカップルや訳ありひとり客、杏二の師匠とその彼女、その他諸々の恋愛と格別な料理が「アモーレ」のテーブルにはいつでも並んでいる。以下『本日のメニュー8』から。

「偲も知ってる女なのか、あれ?」
「あれって言われてもどれだかわかんないわ。いっぱいいるんだもの。たまたま前の晩に一緒にいた娘でしょ」
父は肩をすくめて見せ、私は「めずらしい雰囲気」ということについてあらためて考えてみた。
「そういえば、最近ちょっとめずらしい感じではあるわね」
「女ができたんじゃないのか」
杏二の日頃の素行を考えれば、おかしな言い草には違いない。でもそれは、私もちらりとは考えていたことだった。
「とうとう年貢を納める気になったってことかしら」
「へっへっへ」
父が笑った。あまり笑わないひとなのでこれもまためずらしいことではある。爽快な笑いかたとは言えなかった。
「それは無理だな。あいつは絶対そういうことにはならないよ」
「そう?」
「あいつの土地に草は生えない」
「うまいこと言うわねえ」
私は感心した。父親が息子を論評する言葉としてはどうかと思ったけれども。
「たまには店に来てみたら?」
いつか言おう、と思っていたことがなぜか今口から出た。
「いやだよ」父は言下に断った。
「不毛な男と不毛な男は相性が悪いんだ」

読み終えて感じたのは、きっと誰もが持っているような種類の淋しさ。店の名前に「アモーレ」ってどうよ、と読む前には思っていたのだが、そこは井上荒野。きちんと落としどころを心得ている。愛って、ともすれば幸せと対になっているような気がしてしまうけれど、じつは淋しさと対になってるんだよなあと、胸の奥に眠っていた何かを揺り起こされたような気がしたのだった。

井上荒野の料理小説を読むのは、3冊目。
これも短編集の『キャベツ炒めに捧ぐ』『ベーコン』
おもしろかったからこそ、手にとった文庫本でした。

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窓を開ける人

夫は、窓を開けるのが好きだ。
真冬でも、雨の日でも、窓を開け放ち、空気を入れ替えるのを好む。まるで彼には、淀む空気が見えているかのように、空気を新しくしたがる。
わたしはと言えば、ずっと閉めっぱなしでも、その空気に慣れ馴染み、それを受け入れてしまう。例え淀む空気が目に見えたとしても、そこにあるものとして受け入れてしまうだろう。

些細なことだが、性分というものを感じる違いがそこにはある。
常に新しいものを取り入れようと動いている彼は動で、今ここにあるものを受け入れてしまうわたしは静、だろうか。
そんなまったく正反対の性分を持つ彼と暮らし、わたしの部屋の空気は、定期的に新しく入れ替わるようになった。
窓だけではない。彼は、思いもよらなかった方向へとわたしを誘い出す。
旅も、外での食事も、展覧会も、映画や本も、自分では選ばない思いもよらない場所やモノの扉を開けていく。
たぶんどんな夫婦でも、互いが違うということに、悩みぶつかることが多いと思う。しかしそれは、互いのよい部分に影響を受け合っていくことでもある。

「あ、また窓を開けてる」
若い頃には、どうしてまたこんな日にと思ったものだったが、最近「夫が窓を開けること」が好きになっている自分に気づいた。

まるで窓を開けていくみたいに、雲の隙間から顔を出した青空。

こんな空を見てると、雲の手前に空がぽっかり浮いた騙し絵のように
見えてきます。この秋は、こういう曇り空が多かったですね。

羊雲。秋の雲。玄関で家越しに撮ったのでアンテナが写っています。

足もとでは、カマキリさんとテントウムシくんが雑談中。
いや、にらめっこかな。2匹とも、肉食なんだよね。



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ひとかけらの後悔

涼しくなって、毛糸物を編みたくなった。
ずっと前に買ったベージュの毛糸があったので、自分用にマフラーでも編もうかなと編み始めた。久しぶりに棒針で、だが簡単なモノ、簡単な編み方というスタンスは崩さず、リブで編んでいった。編んでいくうちに、思いついた。
「そうだ。この間衝動買いしたベレー帽に合わせられるような、ショールマフラーにしよう」
ベレーは、ベージュと白が基調になっていて、様々な色が入っている。ラベンダーピンク。クリーム。ブラウン。そして小さなアクセントにターコイズや赤、オレンジ、山吹色、明るい黄緑など。すべてを入れなくとも色を少し合わせてみようと、手芸用品売り場や百均の毛糸売り場を歩き、いくつか毛糸玉を買った。アジアン風なショールマフラーに仕上がる予定だ。

編んでいてふと、やわらかな笑顔になっている自分に気づいた。カラフルな色のせいか、ウールの手触りのせいか、自然と優しい気持ちになっていたのだ。
「編み物って、いいな」
だがそう思えるのは、今気持ちに余裕があるからなのかも知れないとも思う。

子ども達が幼かった頃、よく子ども部屋で寝かしつけながら編み物をした。彼らの手袋やセーター、マフラーなんかを編んでいた。
しかしそれは、気持ちに余裕があったからではない。逆だった。自分の時間がとれないことに日々焦りを感じ、子ども達を寝かしつけながらでもできることを模索して編み棒を手に取っていたのだ。
今なら思える。もっと、子ども達に向き合うべきだったと。若かったのだ。しかし、若かったからできたこともたくさんあったのだろうとも思う。

もう、全く思い出せないけれど、子ども部屋で編み物をしていたとき、わたしは今のように優しい気持ちになったのだろうか。
そうだったらいい。少しでも、明るい色のやわらかな毛糸が、子ども達との毎日にやさしい風を吹かせてくれていたのなら、と思わずにはいられない。
母親は、たぶんどんな母親でも、ひとかけらの後悔を胸に沈めているのだ。

これが衝動買いしたベレー帽です。早くかぶりたいな。

こちらが、編み始めたばかりのショールマフラー。

こうやって何度も並べてみて、編み進めています。
この先、ベージュ基調にするか、白基調にするか迷っています。
そんなふうに迷えるのも、編み物の楽しみのひとつですね。

カラフル部分は、ターコイズと山吹色、赤と黄緑の2種類の糸を入れて。

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『ハドソン川の奇跡』

映画『ハドソン川の奇跡』を、観た。
経験豊かな機長の機転でハドソン川に着水した飛行機のニュースは覚えていたが、英雄と讃えられた機長サリーが、その後1年半にも渡り、乗客を命の危険にさらした容疑者として扱われていたことは、全く知らなかった。

2009年1月15日、USエアウェイズ1549便は、ニューヨーク・ラガーディア空港を離陸した直後、雁の群れに遭遇しバードストライクにより両エンジンが停止。機体は急速に高度を下げていき、目前には大都市マンハッタンが迫っていた。予測し得なかった危機のなか、機長サリーはハドソン川への不時着を決断する。そして着水後、乗員乗客155人はぶじ救助され、サリーの偉業は「ハドソン川の奇跡」と称賛された。しかし、サリーを待っていたのは、彼の決断に疑いをかける国家運輸安全委員会の執拗な調査と尋問だった。
空港に引き返せなかったのか。他の空港に緊急着陸できなかったのか。本当に両エンジンとも停止していたのか。不時着水は乗客の命を危険にさらす無謀な判断ではなかったか。
酒は飲んでいなかったか。睡眠はとれていたのか。夫婦仲は悪くなかったか。
サリーは、次第に追い詰められ、憔悴していく。

胸を打ったのは、サリーのプロ意識の揺るぎなさだ。
映画のシーンにはなかったが、彼はテレビのインタビューで「奇跡ではありません」「英雄と呼ばないでください」と訴えたそうだ。彼がやったことは、奇跡 = 「人の限界を超えた現象」ではないし、彼は、英雄 = 「危険を冒す者」(ある辞書の定義)でもないのだと。
それは決して謙遜している訳ではなく、危険な賭けに乗員乗客を巻き込むような真似はしない、というプロとしてブレない自信からくる言葉だった。
コンピューターでのシミュレーションで、空港への着陸が可能だったという結果が出ても、彼の自分への信頼が崩れることはなかった。

映画を観て、これまで何度となく飛行機に乗ってきたが、人が操縦していることすら意識しなくなっていた自分に気づいた。だがいつでも飛行機には、一瞬たりとも危機管理を怠らず真剣に操縦するパイロットがいる。
機械と共生せずには暮らせなくなった今、だからこそ人がやるべきこと、人にしかできないことがあるのだと知っておこうと思った。

原題は『SULLY(サリー)』機長の名前です。
映画広告の言葉は「155人の命を救い、容疑者になった男」

クリント・イーストウッド監督作品です。

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気楽にビネグレットソース

夫からリクエストされる定番メニューのなかに、ポークソテーonビネグレットソースがある。そのリクエストの際、彼はいつも言ってくれる。
「たいへんだったら、ただのポークソテーでもいいよ」
いく種類もの野菜をみじん切りにして作るソースは、見るからに手間がかかりそうだと思うのだろう。しかし、わたしはいつも笑って請け合う。
「だいじょうぶだよ。ビネグレットソースにするね」
この手間がかかりそうに見えるソース。じつはけっこう気楽に作れるのだ。

トマト、パプリカ、玉葱、ピーマン、ニンニクを入れるのが我が家ではスタンダードなのだが、みじん切りにするのはニンニクひとかけらのみ。あとはすべて粗みじんでOKだ。この粗みじんというのが、気楽さの素。何だってそうだと思うが、完璧にやろうと思うと緊張する。しっかりみじん切りにしなくてはならない料理と粗みじんの「まっこのくらいでいっか」という料理では、緊張の度合いが違うのだ。
「美味しいね」と言い合って食べるときに思う。
突き詰めて完璧を求めるだけが、いいって訳じゃない。特に家庭のなかの仕事は、粗みじんくらいがちょうどいいのかもって。

帆立のカルパッチョ、ブロッコリーのサラダとワインの食卓。

添えてある茄子は、町内の産直野菜売り場で買った茄子。
手がきのレシピに、ロッサビヤンコとカプリスという名が。

次の日の朝食にも、余ったロッサビヤンコにソースをかけました。
目玉焼き、失敗したあ! でも胡麻油が香ばしく美味でした。

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穴があいた冷えとり靴下

冷えとり靴下に、穴があいた。
足には身体の様々な部位のツボがあり、弱っていたり疲れている部位のツボから毒素が出て、シルクを溶かし穴があくのだと聞いていた。これは、治癒の過程で不要なものを排出する瞑眩(めんげん)という症状なのだそうだ。
ほんまかいなと疑心半分興味半分でいたのだが、つま先やかかとのような擦り切れやすい場所ではなく土踏まずにあいたので、まさしく瞑眩なのだろうと調べてみた。土踏まずは、腎臓のツボだった。毎年健康診断は受けていて異常はないのだが、不安になる。

しかし、穴のあいた場所をよくよく見て、あっと声を上げた。
「左の土踏まず。怪我をした場所だ!」
ひと月ほど前、無花果を採りに来ないかと突然誘われ畑に入った。不用心にも裸足にサンダル。無花果の実に気をとられていて小枝を踏み、器用にも土踏まずに刺してしまった。けっこう血が出て痛かったので、深く深く刺してしまったかといつになく動揺した。だが傷はそう深くもなく、消毒し軟膏を塗りバンドエイドを貼ったのは1日だけで、その後は放っておいた。それを、冷えとり靴下は見逃さなかったのだ。
「冷えとり靴下もすごいけど、身体ってすごいなあ」
わたしがすっかり忘れてからも、傷をしっかり治そうと、悪いもの、不要なものをせっせと排出してくれていたのだ。
「もうちょっと、大切にしてくださいな」
そう言われたような気がして、サボっていた体操をにわかに再開した。

洗いざらしで失礼します。3足を使いまわしています。

ほんとうに傷と重なる位置に、ぽっかりと。不思議。
穴があいたのは4枚重ねて履くうちの1枚目のシルクです。
この夏は冷えとり靴下のおかげか、足をつることがありませんでした。

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新米の力、種の力

今年も、新米が届いた。毎年、近所の田んぼのお婆ちゃんから買っているお米。モミを突いてその日のうちに届けてくれる、ほんまもんの新米だ。
さっそく精米し、炊いて食べた。
「今年は、美味しくできたよ」とおばあちゃんが言う通り、例年にも増して甘くもっちりとしたご飯が炊きあがった。それを噛みしめるとき、至福の時というのはこういう瞬間を言うのだなとしみじみ思う。

そして、瑞々しい新米を食べると、不思議と力が湧いてくる。
以前、初めて種まきから米作りをしたという人が、言っていた。
「米って、米粒を撒いてできるんだよ。すごいよね」
一粒のお米も、種なのだ。
モミを突く前の米を土に撒けば、そこから芽が出て稲穂を揺らし米ができる。
「そりゃあ、力も湧いてくるはずだ」
生まれてこの方、いったいいく粒の米を食べたのだろう。その米がもし芽を出していたら、どのくらいの広さの田んぼになるのだろう。
身体のなかで、一粒の米が芽を出す様子を思い浮かべる。
陽の光を浴び、土の栄養とたっぷりの水を吸い、ぐんぐんと伸びていく。そして重そうに稲穂を垂らす。
「命の起源って、いまだ科学でも解明できてないんだよな」
不意に、何が不思議で何が正しくて何があり得ないのか、判らなくなった。

新米、炊き立て、つやつや、もちもちです。

夜は晩酌をするのでご飯を食べないのですが、特別に炊きました。
根菜たっぷりの豚汁と、大根と鶏肉の煮物、小松菜と鶏の辛し和え。

炊いた残りは、おむすびにして一人ランチに。

玄米で1年分、田んぼのお婆ちゃんから買っています。
よく見ると、まだ緑がかった色をした米粒もあります。

自動精米機に、精米しに行きました。30kg300円です。

町内の田んぼは今、稲刈りを済ませた田んぼとこれからの田んぼが、
入り混じっている風景です。

稲刈りを済ませ、天日干しをしている田んぼもあります。
干してからも米は稲の栄養を吸い、成長していくそうです。
お米を干すために、木製や竹、金属で組み立てたものを、
山梨では「牛」と呼ぶそうですが「馬」と呼ぶ地方もあるとか。

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クレソンを買いに

車で30分ほどの市内は大泉町のスーパー『ひまわり市場』に、たまに足を伸ばすようになった。クレソンを買いに行くときに限り、である。
いつも行くスーパーで売っているクレソンは、少量で高価、鮮度もすごく新鮮とは言えない。それが偶然立ち寄ったときに『ひまわり市場』の売り場に並んでいたクレソンが、瑞々しく束も大きかったのだ。それ以来、クレソンが重要な脇役となる蛸の香味サラダを作るときにのみ、ちょっとだけ遠い『ひまわり市場』に出かけるようになった。

『ひまわり市場』には、市内の野菜が数多く直販されているほか、山梨県産の肉や魚まで並んでいた。建物の外見が地味で、チェーン店でもないのに流通が充実していることに驚く。クレジットカードは使えないし値段が高いものも多いが、直販野菜などは新鮮で安価だ。買いだめなどではなく、必要なものを少しだけ買い、散策するように歩くのが楽しい。

「クレソン買いに、行ってくるね」
夫にそう言い置き、車を走らせるとき、いつもとは違う気分になる。「買い出し」というより「おつかい」に行く感じ。バスケットを持って森を歩く赤ずきんのような気分、というのは大袈裟だろうか。
たまに違う店に行くと、新しい発見もあるし気分転換にもなる。「いつもの」に慣れ過ぎて「いつもと違うもの」に手を伸ばすことが億劫になっていた自分に気づく。そういうときに限って、ふと手にした「いつもと違うもの」に小さな輝きを見つけられたりするものだ。最初に出会ったクレソンの瑞々しさは、そんな小さな輝きを放っていた。
クレソンをたっぷりと籠に入れ散策する『ひまわり市場』では、赤い頭巾を被っていったところで狼に食べられる心配もないしね。

外見から、産直野菜の店くらいの規模かと思いきや、
しっかりお酒も売っている品揃えのいいスーパーでした。

大皿に、3束分のクレソンをたっぷりと載せた蛸の香味サラダ。
なかには白髪葱、セロリ、大葉、生姜の千切りも入っています。
柚子ポンで味つけし食卓に出してから、熱い胡麻油をジュッとかけます。

ふるさと納税でいただいた陸前高田の炙り蛸のお刺身で作りました。
わたしも夫も、このサラダが大好き。ふたりで完食です。

一緒に買った、市内の白州町で作ったという素朴な味わいの
ウインナーを入れて、スペイン風オムレツも焼きました。

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『嫌われる勇気』

ベストセラー『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)を、夫のkindle版で読んだ。彼に薦められたのだ。自分では手に取らない本を読む機会に恵まれたとき、本との出会いの不思議、そして人と人との繋がりの不思議を感じる。

この本は、副題に『自己啓発の源流「アドラー」の教え』とある。
心理学者アルフレッド・アドラーの思想を、判りやすく対話式にまとめたものだ。アドラー心理学を実践し、世界は何処までもシンプルで人は今日からでも幸せになれると説く「哲人」と、その考え方はあり得ないと反論する、世界の矛盾と混沌と不幸を抱えた悩み多き「青年」が、身近なことを例に挙げつつ、アドラーの考えに深く切り込んでいく。以下本文から。

 さて、彼女の悩みは赤面症でした。人前に出ると赤面してしまう、どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。そこでわたしは聞きました。
「もしもその赤面症が治ったら、あなたは何をしたいですか?」
すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。密かに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。赤面症が治った暁には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。
 ひゅう! いいですね。なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。
 はたして、ほんとうにそうでしょうか? わたしの見立ては違います。どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは彼女自身が「赤面症を必要としている」からです。
 いやいや、なにをおっしゃいますか。治してくれといっているのでしょう?
 彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。ところが、赤面症を持っているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には「もしも赤面症が治ったらわたしだって」と可能性のなかに生きることができるのです。
 じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえてると?

哲人は説く。原因論で言えば、彼女は赤面症だから彼に告白できない。目的論で言えば、彼に告白することから逃げるという目的があって赤面症になっている。すべてを目的論で捉えていけば「今の自分」を受け入れる勇気が必要だと、おのずと判ってくるはずだと。

人は怒りを捏造するとか、自慢する人は劣等感を持っているとか、特別でありたい人が進む2つの道とか、おもしろいことがたくさんかいてあったけど、
いちばん共感したのは、過去はもう過ぎ去ったこととして、そして未来がどうであれ「今、ここ」でやるべきことをやればいい、ってことかな。
そう考えれば、世界は確かにシンプルだ。

哲学者、岸見一郎、古賀史健の共著です。
はりねずみの塩胡椒入れ、ソルト&ペッパーも興味津々の模様。

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ブラウンな秋

スキャナ機能が必要になり、プリンターを新調した。
これと選んだものは、在庫にスタンダードな白や黒がなく、まあいいかとブラウンにした。
仕事部屋に鎮座した、そのブラウンのプリンターを見て、何処かで見たなあという気持ちになる。
そう言えば、ガラホと同じ色。Faxも。夫と共用しているキャリーバッグも。そして、先月台風で足止めを食らった東京で、着替えにと買ったシャツも、同じブラウンだ。わざわざ選んだ訳でもないのに集まってくるのは、好きな色だからに他ならない。

さて。プリンターを使ってみて、不思議なほど落ち着くことに違和感を覚えた。新しいものを使い始めた感覚にはならず、古くからの友のような気がするのだ。これって、ブラウン効果なのかなと思った。
色から発せられる効果を調べ、身の回りのモノ達をじっくり見つめてみるのもまた、おもしろいかも知れない。
土、大地の色。木の色。茶、というくらいだからお茶の色。珈琲の色。遠い記憶を表すようなセピアにも通じるところがある。
そして、秋の色だ。8月末にはもう婦人服売り場は秋物が並んでいて、選んだブラウンのシャツも半袖だが秋物だった。
「あ、いい色」
そう思ったのは、秋の色が新鮮に映ったからなのだと思う。

ブラウンは、使い込んだ馴染み深い木製の家具などに感じる時間の経過を思わせる。だからこそ温もりを感じ、気持ちが落ち着くのだろう。
すでに仕事部屋に馴染んだ新しいプリンターの、これから経過していく時間を思う。コツコツと一つ一つを大切に積み上げていくのが、経理事務の仕事。いい相棒になりそうだ。

プリンターです。機能とコンパクトさで選びました。

夫が一目惚れしたというキャリーバッグ。軽いです。

Faxも馴染みすぎてて忘れてたけど、ブラウンだった。

軽く涼しい半袖シャツ。暑くるしくないブラウンです。
お気に入りのベージュのカーディガンと合わせて、着ています。

ガラホと並んでいるペンダントは、昔、屋久島を旅したときに買ったもの。
イスの木で作ったと聞きました。屋久島の木を使った木工細工の店で。



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キャベツのバター炒め考

キャベツのバター炒めを作るたび、思い出すことがある。
以前住んでいた川崎で、ママ友が言っていた話だ。
「今日は、キャベツのバター炒めだから、楽ちんなんだ」
夕飯のおかずのことである。
彼女の旦那様はキャベツのバター炒めが大好きで、それを食べるときには他のおかずは食べたくないのだそうだ。子どもが小さいうちは、子ども用の食事と夫用の酒の肴を別々に用意することも多く、ひと手間もふた手間も省けると、彼女は喜んでいた。
家庭での食卓模様はそれぞれで、何が正解ということはない。ただ、我が家ではキャベツのバター炒めが主菜になることはなく、その話は驚きとともに記憶され、頭の片隅に居座ることとなった。

さて。その記憶には、思いがけない効能があった。
忙しいなかキッチンに立つとき、キャベツを炒めるとホッとするのだ。
「これだけだっていいんだよ」
キャベツのバター炒めは、いつもそう言ってくれる。
そして、わたしは思う。
「これだけだっていいんだけれど、他にもおかずを作ろうかな」と。
子育てで忙しい日々、キャベツのバター炒めに何度救われたことかと、今もフライパンでしんなりしていくキャベツにホッとした心持ちになる。
こうしなくちゃと思い込み過ぎて自分自身をがんじがらめにしていた頃を、なつかしく思い出しつつ。

キャベツのうっすら緑が、食卓に彩りを添えます。

あり合わせですが、ちょっと豪華になった日曜のランチ。
冷凍しておいた栗ご飯と、茄子の胡麻油炒めと茗荷の味噌汁、
カマスと鯵の干物を半分こして、バーベキューの残りの帆立を焼き、
前日の南瓜の煮物と、いただき物のゴーヤの佃煮も出しました。

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薪ストーブの煙突掃除

ようやく晴れた日曜日、薪ストーブの煙突掃除をした。
「17シーズン目だっけ?」と、夫。
「越してきたばかりの4月に燃やしたから、18シーズン目かな」と、わたし。17回目の冬を迎える準備だ。
夫は慣れたもので、外煙突はそのまま、家のなか部分は外して庭に出し、煙突用のブラシをなかに通してこする。年に一回の行事だが、例年通り、今年もけっこうすすが削り取れた。これをやらないと、シーズン中に煙突が詰まって、なかなか火がつかなかったり、煙が部屋に逆流したりする。薪の準備と同様に、大切な仕事だ。
「晴れて、よかったね」
「もういつでも、燃やせるな」
夫とふたり、煙突とその上に広がる秋の空を、見上げる。そして、足もとに落ちたすすを見下ろした。

煙は、空へ上っていく途中に、これだけのすすを煙突に残していった。上へ上へとのぼっていくために、次々いらないものを脱ぎ捨てて。
人もきっと本来の自分になりたくば、脱ぎ捨てなくてはならないものが限りなくあるのだろう。そんなことを考えながら、流れる雲を見送る。
明野の秋は、短い。すぐに、冬がやって来る。

昨日は、ほんとうに気持ちのいいお天気でした。
八ヶ岳も、すっきりとした秋の顔をしています。

家のなか部分の煙突は、取り外して掃除します。

すす。本当に真っ黒です。艶やかな美しい黒。

煙突を外した薪ストーブは、心細げな表情をしていました。

すすは、掃除機で吸わず、すす用のタンクを通して吸い取ります。

さっぱりしたね。もういつでも薪を燃やせるね。

外国童話に出てくるような、洒落た煙突ではありません。
そう言えば、家を建てる前に小学生だった娘が言ってたなあ。
「サンタさんが通れる、煉瓦の煙突が欲しい!」
今シーズン、最初に煙を出すのはいつになるのかな。

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招き猫の気持ち

新宿高島屋で、開運招福 招き猫「福の市」をやっていた。
ふらりと立ち寄ると、これがなかなかおもしろい。招き猫といっても、一匹一匹表情も仕草も違うのだ。もちろんスタンダードな形はあるが、展示品には個性的なものも多かった。

その個性に見入りつつ、ゆっくりと歩いて回った。
歩きながら胸のなかにあったのは、一体の招き猫。23年前に夫が会社を興したときに従弟からお祝いにと貰ったものだ。創業時からの社員がいないこともあり、引っ越しのたびに「それ、持っていくんですか?」などと怪訝な顔をされたりもするが、夫もわたしもとても大切にしている。何しろ創業時からともに働いてきた仲間なのだ。

展示された表情豊かな招き猫達には、命が吹き込まれているのかと思わせるような、心あるものの存在感が感じられた。
「何を、思っているんだろうか」
そう考えつつ歩くと、無表情に思えた招き猫にも、不意に意思があるように思えてくるから不思議だ。実際人形には、人とは違う形だとしても、何かを思う心があるのかも知れない。

会社をずっと見てきた招き猫は、何を思っているだろう。
それに限って言えば、判る。応援してくれているに決まっているんだから。
そんなことを考えていたら、声が聞こえた。
「福を招くのは、わたしじゃありません。あなたです。あなたが自ら扉を開けて、福を招き入れるなら、福はおのずとやってくるものなのです」

開運招福 招き猫「福の市」は、明日26日までです。
猫グッズも、たくさん販売していました。

日本各地の招き猫達が、おもしろかった。個性豊かです。

岩手。牡丹の模様に味わいがあります。

埼玉。赤い招き猫は、子どもの麻疹や疱瘡避けの意味があるとか。

京都。いっぱい福が来そうな感じ。

広島。大きな鯛に乗っかってる。

愛知。瀬戸市には『招き猫ミュージアム』があります。
そこの協力で開催された展覧会だそうです。

鹿児島。招き猫にも、しっかり眉毛がありますね。
手を高く上げているほど、遠くからも福を呼び、
左手は、人やお客を、右手は、お金を招くそうです。

現代アートも、展示されていました。

九谷焼の招き猫もありました。日本の美が感じられますね。

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おばんざいの木の芽

東京で、友人とランチした。ゆったり和食だ。
野菜がいっぱい食べられそうだと「おばんざい膳」を選んだ。イメージ通り、里芋の煮物やセリのお浸し、オクラ味噌、切り干し大根の煮物、牛蒡と白滝のきんぴらなど、いく種類もの野菜を楽しめた。
シルバーウィーク前半、バーベキューをし、自分でも信じられないほど肉を食べた。身体じゅうにパワーがみなぎり、やっぱり肉を食べなくっちゃと思った。しかしそれから、野菜が恋しい季節となったのだ。身体は、自然と必要なものを欲するものなのである。

そのおばんざいの里芋の煮物に、木の芽が載せてあった。木の芽は新芽でやわらかく香りがよかった。
「庭の木の芽、山椒の葉っぱは、もうすっかり硬くなっちゃったのに」
こうして季節を問わず、作っている人がいるんだなと、つんとした香りを楽しみつつ感心した。
普段は野菜売り場を歩き、冬でもトマトや胡瓜が買えることに違和感さえ持たない。だが、庭の木となるとぐんと身近で、旬の季節もはっきりと判り、こうして驚かされたのだ。知っていながら忘れていることの多いこと。
そう考えてやっと、里芋も、大根も、牛蒡も、オクラも、セリも、いいものを作ろうと丹精込めている作り手がいるのだと思い出す。

京都のおばんざいは、お番菜とかくのが一般的で、番の字には「常用、粗品を示す」意味があるらしい。普段のおかずということなのだろう。
久しぶりに目にした「おばんざい」という言葉に、その味に、普段のおかずにも、もっと心を配ろうと思った。素材ひとつひとつにも、心を寄せつつ。

冷奴が最初に出てきました。粗塩でいただきました。

お漬物3種類とちりめん雑魚は、おかわり自由。

「おばんざい」という名の通りのおかず。厚焼き卵はちょっと甘め。

赤出汁の具、大根や牛蒡が大きい! 煮ものくらいの大きさでした。
今度やってみよう。と新しい風を食卓に吹かせるのも外食のいいところ。

ご飯はもちもち。もう新米だったのかなあ。

丸の内オアゾ6階『蔵人厨ねのひ』でのランチでした。

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『祈りの幕が下りる時』

東野圭吾の加賀恭一郎シリーズ最新刊『祈りの幕が下りる時』(講談社文庫)を、読んだ。加賀恭一郎とは夢中になった時期を経て、 久しぶりの再会だ。

日本橋署の刑事、加賀に、従弟で警視庁捜査一課の松宮から連絡が入った。担当の殺人事件に加賀の知人が関係しているという。アパートで絞殺された女性は、直前に演出家、角倉博美と会っていた。加賀は数年前、博美に子役の剣道指導を頼まれたことがあり、細く長く交流を続けていた。
行方不明の男が借りていたアパートのカレンダーには、月ごとに日本橋を囲む12の橋の名がかき込まれていた。それを聞き、加賀は驚愕する。小学生の時に家を出たまま行方知れずになっていた加賀の母親の遺品に、それと同じ順に並べられた橋の名のメモが残されていたのだ。以下本文から。

「今年の一月、柳橋に行かれたみたいですね」
「はっ?」博美は眉根を寄せていた。「柳橋? 何のことですか」
「行っておられない? おかしいな」
加賀は手帳を出し、中を広げて首を捻った。
「どういうことでしょうか」
「いや、今年の一月、柳橋の近くであなたを見たという人がいるんです。あなたに間違いなかったとおっしゃっているんですがね。一月の何日かは覚えていないそうですが。よく考えてみてください。お忘れになっているんじゃないですか」
加賀は、じっと博美の目を見つめながら訊いた。博美は目を合わせたまま口元を緩め、小さく首を振った。
「いいえ、そんなところには行っておりません。柳橋なんて、近づいたこともありません。その方は誰かと見間違えたんですよ」
加賀は頷いた。
「そうですか。あなたがそうおっしゃるんだから、その通りなんでしょう。失礼しました。もしあなたが一月に柳橋に行っておられたら、橋巡りの法則について何かご存じかと思ったのですが」
「橋巡りの法則? 何ですか、それ」
「こういうものです」加賀は手帳を広げ、博美のほうに向けた。
そこには『一月 柳橋 二月 浅草橋 三月 左衛門橋・・・』というように十二の月と橋の名称が並んでいた。

この物語のテーマは、親子の愛。「愛」と一文字で呼ぶことすらためらってしまうような、強い想いが深く沈められていた。加賀は、殺人事件と母親のもとに残されたメモの謎を解くため、一つ一つの疑問を辛抱強く解き明かしていく。真相は、数え切れないほどのベールに包まれていたが、彼があきらめることはなかった。そんな加賀にも理解し得ない気持ちもある。恋仲になった看護婦の登紀子から訊かされた、死を間近にした患者の話が印象的だった。
「子ども達の今後の人生をあの世から眺められると思うと楽しくて仕方がない。そのためには肉体なんか失ってもいい」
愛する人が死んだあと、最期はどういう気持ちだったのか、辛さや淋しさに耐えかねて死んでいったのか。知りたくても、あるいは知りたくなくても、永遠に知ることはできないそれを、考え続けていくのは残された者にとってとても辛いことだと思う。それでも加賀は、一歩ずつ母親の最期に近づいていく。彼は彼のやり方で、深く母を愛していたのだ。

シリーズ10冊目にして、吉川英治文学賞受賞作です。
日本橋の謎を解いた加賀は、警視庁捜査一課に戻ります。
次、11冊目、早く出ないかなあ。

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ほおずき、鬼灯、フルーツホオズキ

いつもは行かないスーパーで、フルーツホオズキが売っているのを見かけた。以前、寿司屋でデザートにと出され口にしたことがあり、不思議な美味しさという印象だったので目を留めたのだ。見れば、血中コレステロールを下げ動脈硬化や脂肪肝の予防効果大のスーパーフードとある。試しに買ってみた。

「珍しいでしょ。身体にいいらしいよ」
シルバーウィークに遊びに来た夫の友人と夫に出す。ふたりとも、お酒は好きだけれど身体のあれこれが気になるお歳頃。味も珍しいが効能の方に魅かれているようにも見えた。トロピカルな甘さという表現が、曖昧なようで的を得ている。瑞々しいがトマトほどの水分はなく、実はしっかりして甘酸っぱい。香りにはパパイヤやパイナップルを連想した。

調べてみると、最近注目のフルーツらしい。名前がたくさんある。
フルーツホオズキのほか「ストロベリートマト」「ほおずきトマト」「オレンジチェリー」など。「恋どろぼう」「太陽の子」と名づけ販売している生産者さんもいるようだ。英語でほおずきは 「ground cherry」畑のサクランボ 「Chinese lantern」中国のランタン「husk tomato」殻つきトマトなど、やはり似たような呼ばれ方をしている。ほおずきの漢字は「鬼灯」赤く怪しげな提灯の意味。中国のランタンとイメージは同じだ。そのほか「summer cherry」「golden berry」などと呼ぶ国もあるそうだ。

新しく生まれたフルーツ。あちらこちらで名づけ親がいて、様々な呼ばれ方をしているのがおもしろい。子どもが生まれれば家族が名前をつけるけれど、フルーツホオズキに名前をつけた生産者さんも、大切に育てた子どもの名前を考えるような気持ちだったのかなと想像する。どっちかというと、箒星を見つけた人が名前を考えるのと近いものがあるかも知れない。
個人的には、鬼灯という漢字が趣があって好きだな。わたしだったら、何て名前をつけるだろう。そんなことを考えつつ、黄色くまあるい実を味わった。

市内は大泉町の農場チュトワで作ったという、フルーツホオズキ。
もっと入ってたんだけど、味見後に写真を撮りました。

実を包んだ殻の形に、味がありますね。

まん丸の実は、薄い黄色をしています。

トロピカルサラダということで、アボカド&トマトサラダにしました。
これ、すごく美味しかった! いくつでも食べられそう。

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蛙の待ち時間

洗濯物を干していて、物干し竿の上にけろじを発見した。
ウッドデッキから2mほどの高さ。よく登ったものだと感心しつつ、椅子に乗りカメラを向ける。カメラを向けても微動だにしないけろじが多いなか、彼はふわっと顔を上げた。羽虫が接近したのだ。
「そうか。ここで待っているんだね」
邪魔者は退散と、すぐに椅子を降りた。
その後2日間、けろじは物干し竿の上にいた。羽虫はたくさん食べられたのだろうか。待ちぼうけを食って、場所替えをしたのだろうか。けろじの姿は見かけても、虫を捕らえる瞬間は見たことがない。人間がいては気も散るだろうし、捕獲も難しいのかも知れない。

アマガエルの寿命は、長生きすれば10年生きる者もいるようだが、4~5年ほどだそうだ。その間、こうして獲物を待っている時間はどのくらいに当たるのか。何を思っているのか。過去や未来などの概念を持っているのか。はたまた、待つという意識すら持っていないのか。
考えているうちに雨が降り出し、蛙の時間に気持ちが寄り添っていく。
雨粒が、林の風景を斜めに切断しながらストライプ模様を作っている。水たまりのなかで揺れていたヤマボウシの葉が、地面に広がる空へと伸び始める。物干し竿からゆっくり落ちるしずくは意外と大きく、見つめていると大小の感覚が揺らいでいく。空気中の水分の多さに呼吸がしづらくなり、霧の海を泳いでいるような心持ちになっていく。

彼らにとって待つことは、食べることであり生きることなのだと知っている。だけど本当のところは、何も知らないのと同じだ。

物干し竿の上に乗っかっていた、けろじ。ちょっと貫禄あり。
この鳴き袋の大きさからすると、たぶんオスかな。

ウッドデッキの薪置き場の上にも、乗っかっていました。

薪のなかにも、目を凝らして探すと、けろじの姿が。

ウッドデッキに置いたテーブルの下がお気に入りの子もいます。

硝子のテーブルの上にも、上がってきました。

けろじ、笑ってるんだよね? 楽しいことあったの?

雨上がりの朝、生まれたてっぽいけろじがいました。可愛い~。

やっぱり性格もそれぞれ違うんだよね。この子はちょっと怖がりさん。
わたしを見るなり、壁にのぼって行ってしまいました。

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熱い珈琲が美味しい季節

夏の間、珈琲をドリップすることはなかった。
アイス珈琲は、インスタントで済ませている。ネスカフェのゴールドブレンドが、インスタント珈琲のなかでいちばん好きだ。簡単で喉を潤してくれるアイス珈琲に、汗にまみれた夏の日、癒されたことは数知れない。
久しぶりに淹れた、夏を茶筒(珈琲豆用)で過ごした豆の珈琲は、確実に新鮮さを失っている許容しがたい味がした。珈琲は、生物なのである。酸化してしまったことは明らかで、残念だけれど新しい豆を買うことにした。

焙煎したての豆を購入し、ミルで挽く。挽く手に伝わってくる感触も、古い豆とは違っている。湯を落とした瞬間に広がる香りも、全く違う。カップを鼻先に近づけたときにくすぐられるような香ばしさも、口に含んだときのやわらかい酸味と苦みも、新鮮さに満ち満ちている。
ひと口飲んで、ほーっとため息をついたと思ったら、
「美味しい」
ため息と一緒に、言葉がこぼれ落ちた。いつになく、ホッとした気持ちになったのだ。そんなとき、言葉というものは自然にこぼれるものなのだろう。
熱い珈琲が美味しい季節が、ふたたび巡ってきた。
秋。読書の秋。芸術の秋。物思いにふける秋。珈琲の香りが、もっとも似合う季節かも知れない。

封を切ったばかりは、キッチンいっぱいにコーヒーの香りが広がります。
いつもの珈琲問屋で、目の前で焙煎してもらって購入しました。

たまには違うカップにしようかな。右のカップは、何年か前の誕生日に、
夫に貰ったものです。森下慎吾ちゃん作。

欠けてしまったところも、慎吾ちゃんに金継ぎしてもらいました。

煎りたて挽きたての珈琲は、膨らむなあ。いい香り。

やっぱり焙煎したての珈琲へのこだわりは、捨てられないなあ。
さて。珈琲を入れてから、まず最初にすることは何でしょう?
答 → キッチンの電気を消す。ここまでが一つの作業になっています。

トイレの写真で失礼します。消臭剤代わりに古い珈琲豆を置きました。

庭のアップルミントも、消臭剤代わりによく飾ります。

気が向いたときにお香を焚きます。それだけで消臭剤はいりません。

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舞台『アヒルと鴨のコインロッカー』

伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間と芝居を観に行った。
伊坂原作の舞台『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。

場面は、椎名が河崎と本屋に向かう車のなかから始まった。
「一緒に、本屋を襲わないか?」
椎名は、大学生活を始めるためアパートに越してきたその日、隣人である河崎という男に誘われた。元気がない外国人の友人のために広辞苑を盗もうという計画だ。何も盗まなくても、と口ごもる椎名に河崎は言う。
「シャローンとマーロンの話を知っているか?」
河崎は、話し始めた。
「シャローンは、煉瓦色のアパートの5階に恋人のマーロンと住んでいた。シャローンは部屋の窓から外を見下ろすのが好きだった。いつもマーロンが帰ってくるのをそこから見ていた。ある雨の日、シャローンは窓から顔を出していると、下に子猫がいることに気がついたんだ。ずぶ濡れの子猫だ。シャローンは、マーロンにこう言った。『あそこで濡れている子猫が欲しい。ここから見える、あの雨に濡れたかわいそうな子猫が』マーロンは、すぐに部屋を飛び出した。そして猫を抱えて戻り、びしょびしょの猫を綺麗に拭いてシャローンに手渡した。ところがシャローンは怒った。『わたしが欲しかったのは、ここから見た雨に濡れた可愛そうな子猫よ。今ここにいるのは、あなたに抱かれた濡れていない可愛い子猫でしょ。わたしの欲しかったものじゃない』そうして二人は別れ、マーロンは子猫と仲良く暮らしましたとさ」
訳が判らないという顔の椎名に、河崎が言う。
「シャローンにとっての猫と同じさ。俺は広辞苑をプレゼントしたい訳じゃない。本屋を襲って奪った広辞苑が欲しいんだ」

このストーリーのテーマは重い。外国人への無意識下の差別、動物虐待、宗教による考え方の違い、死と輪廻転生。その重さを受け止めながら、わくわくと楽しめる伊坂幸太郎の小説はすごいとあらためて思う。
舞台では、シャローンとマーロンの話が、歌っている訳ではないのにミュージカルのようにも感じられ、「裏口から悲劇は起こる」や「ブータン人は代用品で誤魔化すのが得意」とか、伊坂の文体そのままの洒落た文句も効いていて、やはりテーマの重さをきちんと据えたうえで、舞台だからこそ楽しめる演出になっていた。伊坂がかいたセリフが散りばめられた生の芝居は、とても人間味が感じられた。

仲間とは、久しぶりに会った。
軽くイタリアンを食べながら「アイス珈琲だと思って飲んだらコーラだったとき」(『チルドレン』)や「映画で表現されなかった小説『グラスホッパー』の好きなシーンそれぞれ」や「『重力ピエロ』と『オー!ファーザー』の映画で好演した岡田将生くんについて」など、とりとめもなくしゃべった。同じ作家が好きな仲間がいるというのは、しみじみとふつふつと楽しいものである。
そう言えば、スイカロッカーができ始めた頃「これはコインロッカーじゃない!」と彼女と熱く語ったものだったなあ。

入口に展示してあったチラシです。

中野駅から歩いて5分の『ザ・ポケット』での公演でした。

小説です。映画はもう9年も前に公開されたんだっけ。
そういや濱田岳くん、18歳だったー。

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どんぐり、どたんばたん

どんぐりが、屋根を叩いて落ちていく。
風情があるというには、派手な音だ。屋根が瓦ではなく金属だからなのだろう。庭からも、また違ったどんぐりの音が聞こえる。軽トラの荷台に落ちる音だ。こちらも金属なので、けっこう響く。どんぐり、ころころならぬ、どんぐり、どたんばたんである。

先週辺りから、どたんばたんとよく落ちる。この季節だけのことなので、うるさいけれど、さほど気にはならない。不思議だなと思うのは、どんぐりが落ちる音を聞き、それまで閉まっていた耳の扉が開くことだ。聞こえていたのに聴いていなかった音が、どんぐりが開けた扉からいっせいに入ってくる。堰を切ったかのように。
蛙が鳴く声、蝉や秋の虫達の声、野鳥達のそれぞれの鳴き声、堰を水が流れる音、風が木々を揺らす音、そして、どんぐりが屋根ではない場所に落ちるカサコソという音も。

耳に扉があったとて、それを閉めることはできない。それなのに無意識のうちに、その扉は閉まったり、突然大きく開いたりする。何かに集中していたり、ぼんやり考え込んでいたり、耳は聞こえていても、心が何処かへ行ってしまっているのだろう。
リビングで仕事をしているときに、どんぐりが開いた扉からいっせいに入ってきた様々な音に、しばし耳を澄ますのは、悪くない感覚だ。

軽トラの荷台に落ちたどんぐり達です。

隣りの林は、どんぐりだらけ。クヌギ林ですから。

朽ちていくばかりの切り株オブジェにも、落ちていました。

これが、派手な音を鳴らす玄関の屋根です。

足もとを見ると、キノコさん。何茸さんかな?

庭のウドの花。大木になりつつある?

田んぼの畦には、あちらこちらに彼岸花が咲き始めました。

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キイロスズメバチの巣作り

ご近所さんの玄関先に、キイロスズメバチが巣を作った。
触ろうと思えば届くほどの位置なので、見兼ねた夫が駆除した方がいいと言ったのだが、ひとり暮らしの彼はただ笑うのみ。全く怖がっている様子はなく、むしろおもしろがっているようだ。ペットにしては危険を伴うが、何処か可愛がっているような感じもある。
巣はまだ製作中のようで、日々大きくなっていく。写真を撮らせてもらったのだが、蜂達はとても活発に作業をしていた。

近くで見ると、キイロスズメバチの巣は、とても美しい。マーブル模様とも、貝殻模様とも言われているが、何匹もの働き蜂が様々な素材を集め、巣作りをすることで色の濃淡ができるのだそうだ。こつこつと同じ作業を繰り返し、積み重ねていく作業だ。
「どんな気持ちで、巣を作っているんだろう」
しばし、蜂達の作業を見つめた。
「楽しそう」
ふっと自分の口からこぼれた言葉に、驚く。
近くで見るまでは、働き蜂は働かなくてはならず苦行を強いられているような感覚を持っていたのだが、じっと見つめていたら、そうは思えなくなった。
美しく機能的な巣を作るために試行錯誤し、ベストを尽くしている職人のように見えてきたのだ。
「そこのラインは、もっと薄いベージュがいいかな」
「そこ、ブラウンが重なっちゃってるじゃないか」
「そっち、もっと盛った方がラインが滑らかになるよ」
などと会話してる訳ではないだろうが、きびきびと働く蜂達の姿は、いかにも楽しそうに見えた。
その姿を見て、無心に何かを積み重ねていく作業って、じつは楽しいんだよなと、忘れていたことを思いだしたような気持になったのだった。

キイロスズメバチの巣は、球形がスタンダード。
こんなふうに平らなのは珍しいのだそうです。

アップにしてみました。美しい模様がよく見えます。

右側が玄関で、巣の下はウッドデッキの出入り口です。
だいじょうぶなのかな? 心配なんですけど・・・。

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電車に乗って

普段、車にばかり乗っているので、たまに電車に乗ると新鮮な気分になる。
電車を使うのは遠出するときがほとんどなので、指定席を間違えないように何度も確認したり、駅弁やお茶を選んだりしながらも、周囲の人々を知らず知らず観察していたりする。そわそわ、というところまではいかないが、いつもは使っていない扉を開けたような、新しい空気に触れたような感じがするのだ。

老若男女、いろいろな人がいる。持ち物も服装もそれぞれだ。
赤ん坊が泣いていれば、お母さん、周りの人に申し訳ないって顔してる、たいへんだなと思ったり、座席に誰かの忘れ物のハンカチがあれば、その隣に座っている人や座ろうとした人に目がいったりする。この間、全く同じガラホを持っている女性がいて、ちょっとうれしくなった。ガラホの使い勝手の悪さと料金の安さを秤にかけて選んでいるのだから、何処か価値観が似ているところがあるかも知れないとも思うが、ストレートヘアに真っ黒なベースボールキャップを被ったスポーティな雰囲気は、わたしと正反対のようにも思えた。

お年寄りや妊婦さんに席を譲ることはあっても、わたしから、そうして気になった人に声をかけることはない。そんなとき、想像してみる。あの友人だったら、どうするだろう。あるいは、あの人だったら? と。
「たいへんねえ」と笑いかけ、赤ん坊をあやす姿。
「落としませんでしたか?」と、ハンカチを指さす姿。
「同じガラホ!」と、意気投合する姿。
わたしにはできないそんなことをするであろう友人の姿を思い浮かべて、思わず一瞬笑顔になり、それから少し淋しくもなる。
人との繋がりが希薄になった現代では、わたしのような人がほとんどだろう。それでも、友人のようにお節介と言われることをいとわず誰にでも親切にできたら、またほかの友人のように飛び切りの笑顔で誰にでも話しかけられるようになれたらという気持ちは、わたしのなかにいつもあるのだ。

電車で食べた、駅弁を紹介します。
神戸帰省で、狐のお顔に魅かれて買った、きつねの鶏めし。
義母のマンションの近くにある、淡路屋さんの駅弁です。

黒七味をかけて食べます。左上三角の味が染みたお揚げが美味。

これも蟹の絵に魅かれて買った、山陰鳥取かにめし。
鳥取はアベ鳥取堂の駅弁。蟹寿司を出しているお店です。

シンプルなお弁当。ハサミには蟹肉がちゃんと入っていました。
何故、福神漬けがついているんだろう。蟹の形の容器は、
環境にやさしい自然分解樹脂で、できているそうです。

鳥取の観光案内が包みの裏側に載っていました。行ってみたいな。

石狩鮭めし。北海道札幌は弁菜亭の駅弁です。
大正12年からのロングセラー弁当だそうです。
骨までやわらかく煮えた鮭の昆布巻きが、美味しかった。

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水月さえ
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自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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