はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『賢者はベンチで思索する』

近藤史恵のコージーミステリー『賢者はベンチで思索する』(文春文庫)を、読んだ。コージーミステリーというのは、殺人などは起こらない日常のなかの小さな謎解きをするような推理モノで、ゆったりとした居間のソファで紅茶などを楽しみながらくつろいで読めるという意味がある。
主人公は、21歳の久里子。就職が思うように決まらずファミレスでバイト中。探偵役は、窓際の席でぼんやりと何時間も粘る老人、国枝。認知症気味だと周囲に心配される国枝だが、公園で久里子と会う時には、まるで別人のように頭がキレるのだった。
その公園で、毒入りの餌を犬が食べる被害が多発。久里子の愛犬アンも被害に遭う。久里子の弟、浪人生の信は毎晩夜中に出かけていくが、その事件に関係しているのだろうか。そしていったい、国枝は何者なのか。国枝と関わった3つの事件が、生きあぐねていた久里子を少しずつ変えていく。以下本文から。

いつか現実を受け入れることができたら、彼に話そう。久里子はそう考えた。さっき、小さな声を出してしまったのは、以前も同じことがあったのを思い出したからだ。
いちばん最初にあの人とことばを交わした日。久里子はとても悲しい気分だった。美晴に、子犬が死んだことを知らされて。でも、その子犬は久里子にとっては会ったこともない子犬だから、自分が悲しいのはおかしいと思っていた。
あの人は言ったのだ。
それでも、きみは悲しいのだろう、と。
その一言で、久里子の気持ちはとても楽になったのだ。
さっき、弓田くんも似たようなことを言ってくれた。
― でも、七瀬さんが落ち込んでるのも事実だろ。
ときどき、久里子は自分の気持ちがわからなくなる。悲しいのか、腹立たしいのか、つらいのか、そんなごっちゃになった感情が、だれかの一言でうまく整理できることもあるのだ。

家族でも恋人でも友人でも、知らない面があるのは当然のこと。その人を信じられるか否かは、共に過ごした時間や、交わした言葉や、その温度や、そういったもので測るしかない。いつも隣りにいる人を不意に疑ってしまうような日常のなかの小さな謎の数々は、たぶん誰のそばにも潜んでいる。

蜷川実花 × 文春文庫『夏の青春フェア2016』に選ばれた文庫。
こういうフェアで、好きな作家の本を手にとってもらえる機会が
増えることは、ファンにとってうれしい限り。
近藤史恵作品を読んだのは、数えたら17冊目でした。
全くはずれのない、圧倒的に信頼できる作家さんです。

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田舎のレストランで

週末は、夫の誕生日だった。
この春晴れて会社員になった上の娘が、夕飯をご馳走してくれるという。山梨のフレンチレストランを予約し、わざわざ東京から帰って来てくれた。
夕食会をしたのは、隣りのお隣り、甲斐市にある『カブーロ』というこじんまりした店。フランス語で「田舎のレストラン」という意味だそうだ。
娘と会うのは夫もわたしも久しぶりで、入社したばかりの会社のことや友達のことなど、話は尽きなかった。とても楽しい時間だった。

そのなかで、外国、日本、それぞれの文化によって大切にすることが違うという話になった。例えばイタリアでは庶民的なレストランでも、前菜を食べている間に次の料理が運ばれてくることはない。それが日本では名のあるイタリアンのお店に行っても、客ではなく店のペースで料理がサーブされることも多い。そして、ひとりひとりのオーダーを覚えて確認せずにきちんと出せるサーバントのサービスに対するプロ意識などに話は発展した。

意識して話していたわけではないが、『カブーロ』は老夫婦おふたりでやっている家庭的な店だったけど、ひとりひとりのオーダーを間違えることなく、料理がかぶることなく出してくれた。それってすごいことだよなあと、娘が運転する帰りの車のなかで、夫とほろ酔いで話した。そんな時間を作れるお店っていいな、そういう人って素敵だよなと、ほろほろ酔いながら思ったのだった。
いい夜だった。

欧風料理『カブーロ』の温かみのある看板。

住宅街のなかにある、落ち着いた雰囲気の一軒家です。

ひとつずつ丁寧に作られた7種類の前菜。スパイスが効いていました。

メインは、牛ヒレステーキにしました。夫はポーク。娘は鴨に。

珍しく食べることにしたデザート。木苺のムースと、
プラックベリーシャーベット。ブラックベリーは育てたものだそうです。
7種類ほどのなかから、2種類選ぶことができます。

綺麗に磨かれたオープンキッチン。明るくていい感じでした。

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夫はルンちゃんに夢中

「ルンちゃん、こっちこっち」
夫が、ルンちゃんを呼んでいる。とても楽しそうだ。わたしはそれを傍観しているが、夫はわたしに見せたがる。
「ほら、見て見て。ルンちゃん、すごいんだよ」
「ふうん」
わたしは、何故だか気持ち穏やかではない。
「ほら、こんなところにも入れるんだよ」
「すごいね」
わたしのそっけない返事にかまわず、夫は、しみじみと言う。
「いやー、ロボットが可愛いっていう気持ち、判るよねえ、ほんと」

お掃除ロボットルンバが、我が家にやって来た。
夫は彼を「ルンちゃん」と呼び、可愛がっている。わたしは傍観者のスタンスを崩さず、ただ観察する。何故こんなにも気持ちが乱れているのか。それは、掃除が苦手な女オリンピックメダリスト有力候補とうたわれた(?)わたしであるからに他ならない。とは言え「掃除なんかしちゃってさあ」と舌打ちしたくなるのは、すでに彼を生き物として認めている証拠でもある。何しろその存在感、ただならないモノがある。今にもしゃべりだしそうで、怖い。それでつい、つんつんしたり、通せんぼしたりしたくなってしまう。

ルンバを可愛がる人は、けっこう多いらしい。部屋から出てしまうと「脱走した」とか、何処かに入り込んで見当たらなくなると「かくれんぼしてる」とか、そういう表現はもう一般的。壊れたときに「修理してください」じゃなく「可哀想だから早く直してあげて」と言う人もいるそうな。
そう考えると、夫の反応はまんざら可笑しい訳ではないのかも知れない。

「ルンちゃん、可愛がってね。いじわるしないでね」
夫は、心配そうに出かけていった。わたしは、返事をしなかった。ちょっと苦手なルンバとの共同生活は、始まったばかりだ。

ルンちゃんです。よろしくね。ママは、ルンって呼んでるよ。

がんばってお掃除します。いくぞー! ルンルン。

「ドッグ」ボタンを押すと、充電器ドックに戻ります。
やれやれ、一休み。明日もまた、がんばルンバ!

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通り過ぎる道すがら

昨日の朝、いつものように夫を駅まで送った。その車中でのこと。
「いつも、ここ観察してるよね?」と、わたし。
そのからかうような言い方に、かちんときたのか、
「いいでしょう。見たって」と、夫。
いつも通る道の左側。林が切り開かれ、薪が積んである場所だ。薪を運び出す動力運搬車が置かれている。傾斜がきついなか、薪の長さも切りそろえてあることからプロの仕事だろうと、以前も話題になった場所だ。
「薪運搬車、欲しいなあ、いいなあって思ってるだけだよ」
たぶん買うことはないモノだが、気になるらしい。薪ストーブ生活は、彼の田舎暮らしの中心にあるのだ。

駅まで通り過ぎる道すがら、眺めるともなしに目に入ってくる様々なモノを見て、文章にするとちょっと気恥ずかしいようなことを考えた。
「人生みたいだな」と。
目に入って来ても気づかぬモノ。一瞬だけ目を留め次の瞬間には忘れていくモノ。いつも見つめてしまうモノ。そして、車を停めて対峙するモノ。そうやって通り過ぎていくモノのなかで、知ることも出会うモノも、ほんの一握りだ。その出会いはたぶん、偶然もいっぱいあるだろうけれど、結局はこうして自分で選んでいるんだろうな、と考えた。

帰り道、いつも車を停め、八ヶ岳の写真を撮る定点観測地点に寄った。昨日の朝は、冷え込んだせいか空気が澄み、山が綺麗に見える。
「気持ちいいなあ」
これまでも何度となく車を停めて対峙してきた八ヶ岳は、そのときどきのわたしの気持ちに寄り添ってくれる親しい友人の顔をしていた。

定点観測地点から眺める、昨日の朝の八ヶ岳です。

アップで撮った権現岳。螺旋階段のように見えるところが好き。

最高峰の赤岳です。アップで観るとごつごつしてる感じ。

通り過ぎてきた道を振り返ると、南アルプスの山々が。

向かいの田んぼには割烹着の案山子さん。ポーズに表情が感じられます。

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新宿駅ナカ 『NEWoMan』

新宿駅の新南口に『NEWoMan』(ニュウマン)がオープンして、2か月ほど経った。大人の女性をターゲットに「女性が新しい経験に出会う場所」というコンセプトで作られた商業施設らしい。それで New + Woman なのだろう。
新宿が窓口となる山梨県民にとっては、いいニュースだ。駅ナカが充実してくれたことが、何よりうれしい。特急に乗るまでの待ち時間が、まるで違ってくるからだ。
『NEWoMan』には「エキソト」なるものもあり、興味がそそられる店もいっぱい入っている様子。けれど、とりあえずは「駅ナカ」を楽しんでいる。

「駅ナカ」という言葉が使われるようになったのは、13年ほど前だそうだ。2004年の流行語大賞候補になっている。なんで、カタカナ? これは「デパ地下」から来ているらしい。単なる駅の改札のなかってだけじゃなく、デパ地下をなぞらえてお店が並んでいる雰囲気と、とにかく新しい感じを出そうとメディアが発した言葉だろうと言われている。
最近では、空港のなかを「ソラナカ」高速道路のサービスエリアを「ミチナカ」とも呼ぶそうだ。『NEWoMan』で「エキソト」と駅ビルエリアを呼ぶのもそうだけど、言葉って、こうして広がっていくんだよな。ソラ(空)もミチ(道)もソト(外)も、無限に広がる可能性があるもの。「駅」というそこに固定してあるものが、様々な可能性を広げていく不思議。おもしろいものだ。

JR 乗降者数、堂々全国第1位の新宿駅。かなり出遅れてるよなあと、遅咲きの近所の子どもを見守るように観てきたけれど、ようやく駅ナカらしい駅ナカ(+ エキソト)ができたね。おめでとう! 楽しんで、使わせてもらうよ。

フードコーナー案内図。食品関連店が25店舗入っています。

『NEWoMan』って、最初に見たときには読めませんでした。

洋菓子屋さんも和菓子屋さんも、いろいろ並んでいます。

パン屋さんも、もちろんあります。サンドイッチ屋さんも。

本屋さんも、当然あります。これ、大切ですよね。

雑貨屋さんだけど、ただの雑貨屋さんじゃありません。
日本のモノづくりの素晴らしさを発信するという『ココルミネ』
洋服やファッション雑貨のお店も、あります。

おむすびや海苔巻き、サンドイッチ含め、お弁当類を売っているお店が
いちばん多いかな。『今日のごはん和Saiの国』でお昼を購入しました。

お弁当の種類も豊富です。野菜たっぷりでヘルシーな感じ。

丼ぶりモノもたくさんある~。「KaKeごはん」だって。

「8種類の明太とろろだしごはん」にしました。
特急かいじで、ひとりランチ。いただきまーす。

ご飯と具は、別々に詰めてあります。女性にちょうどいい量です。

薄味ですが、明太子の塩味で美味しくいただきました。
ご飯ももっちりしていいお米使ってるなーと思いました。

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空中庭園デート

末娘と、久しぶりにランチした。
待ち合わせたのは、池袋の西武百貨店屋上にある睡蓮の池。『食と緑の空中庭園』と名づけられた気持ちのいい屋上で、そこに睡蓮の花が咲く池がある。

待ち合わせは11時だったが、天気もいいので早めに出かけた。娘を待つ間、睡蓮をのんびり眺める。睡蓮だけではなく巨大な寄せ植えの鉢といった感じに、綺麗に花々が植えられ、春から夏にかけて咲く様々な花が揺れていた。
デパートの屋上といえばミニ遊園地があったものだが、お洒落になったものだなあと感慨に浸る。しかし買い物の合間か、または庭園散歩に訪れたのか、子ども連れのお母さんが多いのは今も昔も変わらないのかも知れない。
「ほーら、お花いっぱい咲いてるよ。綺麗だねえ」
3歳くらいの女の子の手を引くお母さんが、小さな娘に笑顔を向ける。
2歳くらいの走り回る男の子のあとを、追いかけるお母さんもいる。
ふと、20年後の小さな彼らが大人になった姿を思う。それは、もうすぐ現れるであろう21歳の娘とわたしの姿と重なるだろうかと。そして、ちょっと自慢したいような気持ちになる。大学生の娘と睡蓮の池を歩けることを。娘がいちばん好きな花が睡蓮だからと、ここで待ち合わせをしたことを。

「お待たせ」時間通りに、娘はやって来た。
「睡蓮、咲いてるよ」ふたりで、池を眺める。
だが1分もしないうちに、娘は言った。
「お腹減った! お腹減った!」
まるで駄々をこねる3歳児さながらに。
「・・・そっか。行こうか。何食べる?」「お寿司!」
デパートの屋上では、子どもは子どもに返るという法則があるのだろうか。もともとのキャラだという気もしないではないが。どちらにしても、母娘で睡蓮の池を歩けると楽しみにしていたのは、わたしだけだったようだ。名残り惜しくも睡蓮の池に別れを告げ、一つ下の階にある回転寿司に向かった。
「アイス―!」
小さな子が、駄々をこねる声が聞こえ、ふたりくすりと笑った。

ウッドデッキの階段を上ると、花に囲まれた池がありました。

わーい。睡蓮、咲いてる~。うれしい。

綺麗。モネの絵『睡蓮』を思わずにはいられません。

アップで見ると、一輪一輪の瑞々しさが伝わってきます。

色もいろいろ。黄色っぽい睡蓮も、ありました。

濃いピンクの睡蓮も、魅力的です。

池の周りの花々です。お洒落な白のカシワバアジサイ。

白い紫陽花に埋もれるように咲いているのは、アオイの種類かな。

ホタルブクロは、都会の空近くでも、ひっそりうつむいて。

ツボサンゴの赤は、庭全体のアクセントになっていました。

パクチーの花に似ていますね。あちらこちらに咲いていました。

マツムシソウでしょうか。これもいっぱい咲いていました。

薔薇は盛りを過ぎましたが、やっぱり綺麗。風格があります。

庭園の奥には、お稲荷さんがありました。お参りしてきました。



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冷えとり靴下を試して

冷えとり靴下なるものを、試している。
3年ほど前から流行っていたらしいが、知ったのはつい最近だ。シルク、コットン、シルク、コットンと重ね履きするのだが、シルクは身体のなかの悪いモノを吸いとるらしい。それをコットンが外に出してく。さらにそれをシルクが吸いコットンへ。そんな毒出し、つまりはデトックス効果があるのだという。
夫のいとこ夫婦にいただいた『千代治のくつ下』の履き心地がよく、ネットで調べると、知ったばかりの冷えとり靴下があったので、ポチッとした。

1日目。夕方入浴後から履き始める。ベッドに入ったが、左ふくらはぎの張りが気になり、なかなか寝つけず、マッサージをしながら眠りにつく。
2日目。昼間は、おまけの入っていた洗い替えのシルク5本指とコットンの2枚で過ごす。就寝後、やはりふくらはぎの張りが気になる。
3日目。1日中眠い。昼寝をしたら2時間眠ってしまい、驚く。入浴時、肩やお腹がすべすべになっていることに気づき、ふたたび驚く。
とまあ、まだ1週間も経っていないので、効果のほどは判らない。

ところで、その効果とは全く関係なく、思い出したことがある。
日中出かける時に普通の靴下を履き、その違和感に驚いた。その違和感。何かに似ていた。ずいぶんとなつかしい感覚だ。さて、と考えて思い当たった。赤ん坊が生まれて、何か月かぶりに美容室に行ったとき、久しぶりに外をひとりで歩いたときの、あの心もとなさに似ていたのである。いつもぴったりくっついていたものがない、あのスースーしたような感覚。
「足の指1本1本に密着した五本指靴下の如く、きっとそれくらい子ども達とくっついていたんだよなあ」
子どもは独立した一人の人間だと、もちろん知っている。知ってはいても、自分の身体と区別がつかないほどに近しかった頃もあった。
ぴたりと足に密着していく4枚の靴下を重ねて履いて、1枚ずつ剥がすように脱いでいくたび、そのころの記憶がひとひらひとひら、湧いてくるのだった。

右から順番にシルク、コットン、シルク、コットンと履いていきます。
『千代治のくつ下』基本の冷えとり靴下4足セットです。

1足目の5本指シルクです。密着感あります。

2足目の5本指コットンは、やわらかく包む感じ。

3足目のシルク。色が違うので、判りやすいです。

4足目。これを履くともう、さすがに靴は入りません。

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『神様が殺してくれる』

森博嗣のミステリー『神様が殺してくれる』(幻冬舎文庫)を、読んだ。
読み始めてすぐに陥った。外国の作家が紡いだ物語のなかにいるような錯覚に。栞を挟むたび、我に返る。あ、森博嗣だった、日本人作家だったんだと。それはラストまで続いた。主人公がフランス人だったからというだけではないだろう。それだけでも森博嗣ってすごいと思わざるを得ないのに、ラスト、きちんと驚かせてくれる辺り、もうミステリー好きにはたまらない小説だった。

一人称の語り手、主人公レナルドは大学時代、年下のレオンとルームメイトだった。親しい間柄ではなかったが、レオンのことは忘れたことがなかった。それはレナルドの特別な感情ではなく、レオンに会ったことがある人ならみな持つものだった。誰もが忘れられないほどにレオンは美しい男だったのだ。
事件は、レナルドがインターポール(国際刑事警察機構)で働くようになってから起こった。パリの女優殺人。ミラノではピアニストの男性が絞殺された。それ以前にも、ベルギーの大富豪が同じ手口で殺されていたことが発覚する。そのすべての事件に関係していたのが、レオンだった。以下本文から。

「あまり詳しいことは言えないのですが、その、殺人現場、イザベル・モントロンが殺されていたその部屋に、リオン・シャレットがいたのです」
「それは、つまり、その、彼が殺人犯だということですか?」
と僕はきいた。当然の質問だろう。
「重要な参考人ですね」刑事は簡単に答えた。
「本人は、何と言っているんですか?」
「それが、私たちがこちらへ来た理由なのです。昨日のことですが、リオン・シャレットは、貴方がモントロンを殺したと供述しました。貴方の名前を挙げた。レナルド・アンペールだと。もともと、神様が女の首を絞めた、と話していました。それを見ていた、とも。ところが、その神の名前が、レナルド・アンペールだと言いだしたのです」
これには驚いて、言葉が出なかった。数秒間、息も止めていただろう。

読み終えて、愛というものが向かう先を、捻じれて変わっていくものを、その不可解さを思った。解説の萩尾望都が、プラトンの『饗宴』を挙げ、人は何故人を愛するのかをかいている。
「大昔、人は背中合わせに張り付いていた。二つの頭、二つのボディ、四本の手、四本の足を持っていた。そのボディの性は色々で、男の性と女の性を持つボディ、男だけの性を持つボディ、女だけの性を持つボディがあった。これらのボディ達はとても満足していた。ところが神様はある日、このボディを二つに分けてしまった。分けられてしまったボディ達はかつて己のそばにいた自分の片割れを追い求めるようになった。元の自分に戻り、悲しみと孤独が消えるように。だから人はかつての自分の片割れを追い求めるのだ。男の性のみだった者は片割れの男を、女の性のみだった者は片割れの女を、男と女の性だった者は己とは違う性を。一つに戻ろうとする祈り、これを愛というのだ、と」

帯の文句「女にしては美しすぎる」は、本文からの引用です。
帯の顔、EXILE / 三代目 JSB 岩ちゃんのことではありませんよ。

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小さな試み

「夕方になると帳簿が見えづらくて、コンタクト外しちゃうんだよね」
ぽつりとこぼれたわたしのひと言を、夫は聞き逃さなかった。
「老眼鏡買えば? コンタクトの上にかければいいじゃん」
普段は、近視のコンタクトレンズをつけている。その上に老眼鏡?
「レンズの上に、レンズ重ねちゃうの?」
そんな発想はなかったが、使う時間も限られているし、目の負担は、どちらの方が軽くなるのか確かめてみるのもいいかも知れない。仕事上、パソコンの前に座ることが多く、ブルーライトカットの方にも興味がある。とりあえず見てみようと、週末、眼鏡屋に足を運んだ。

眼鏡屋さんで話を聞くと、ブルーライトカットと老眼鏡を兼ね合わせた眼鏡があるという。オーダーメイドもいいが、パソコン&読書限定で使うのなら、とりあえずいちばん度の軽いものを使ってみては? と勧められた。2800円と安価だ。さっそく使ってみることにした。
ブルーライトカットの眼鏡をかけると目が疲れないというのは、以前から聞いていたが、確かにパソコンの白がかなりやわらかくなり、眩しさが違う。何より、老眼鏡ってこんなによく見えるんだと実感した。

試しにとやってみたら、ずいぶんと快適になることってたくさんある。
それを試してみようとしないのは、それほど困っている訳じゃないからだ。
老眼も、それでそのまま先延ばしにして、もう何年も経ってしまった。
けれど50代も、もうすぐ半ば。そろそろ、少しでも快適に暮らせるような小さな試み、いろいろやってみようかな。たかが老眼鏡ひとつだが、そんな小さな一歩を踏み出したような気がした。

軽くてツルがやわらかくて、疲れません。いい感じ。
文庫本も、ガラホも、楽ちんです。

ネリー「ハリーったら、何やってるの?」
ハリー「新しいことには、何でも挑戦したい僕なのさ」

ハリー「あー、なんか、ネリーの方が似合う。くやしい!」
ネリー「ふふふ。そうかなあ」

欠けて困っていた爪を放置せず、ジェルネイルにしてみたことも、
やってみてよかったことのひとつです。とても楽になりました。
そして、爪が綺麗になることが、すごーく楽しみにもなりました。

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畦道の花々

お田植えの季節だ。
自らお田植えをする訳ではないが、通るたび、ああ、水が入ったなあとか、蛙が鳴き始めたとか、もうお田植えが済んだ田んぼがあるよとか、日々、目に入ってくる。そのお田植えが済んだばかりの田んぼが広がる道を、歩いた。

風に揺れる水張田(みはりだ)。まだ頼りないまばらな稲達。そこに映る木々山々。そして、田んぼの周りには様々な草花が咲いている。
シロツメクサ。アカツメクサ。ヤグルマギク。スイカズラ。芽を出したばかりのコスモス。その他色とりどりの雑草達。

雑草も、何処かから種が飛んできて根づいた花もあるだろうが、田んぼや畑の持ち主が種を蒔いたり、球根を植えたりした花もあるだろう。
畦道や道端の花を見かけるたび、漠然と考えていた。農作業だけでもたいへんなのに、花を植えるんだなって。小さな楽しみを、大切にしてるんだなって。

デスクにお気に入りのペン立てを置くように、パソコンのデスクトップを好きな画像にするように、密やかな楽しみに花を植えているんだろうなって。

うっすらと見える八ヶ岳が、田植えの様子を見守っているかのよう。

この季節、まだ植えていない稲が、そこ此処に残っています。

こうして鏡の如く、様々な風景が田んぼのなかに映し出されます。

こんなに頼りない稲が、田んぼいっぱいに広がって、
重そうに稲穂を垂らすなんて、信じられませんね。

アカツメクサ。何処にでも咲いていますが、可愛くて好きな花。

たくさん咲いているヤグルマギクですが、一輪だけじっと見つめると、
その美しさにハッとさせられます。

一輪だけ咲いていた、ちょっと気の早いコスモス。

ドイツアヤメのラテン・レディ。アヤメは、英語でアイリス。
アメリカ男子にアヤメだよって教えたら、アイリスですと教わりました。

スイカズラは、別名、金銀花(きんぎんか)こういう黄色の花と、

白い花をいっぺんに咲かせるから、その名で呼ばれたそうです。

鬼灯(ほおずき)も咲いていました。鬼の灯ってかくんですね。

青く小さな実が、既に生り始めています。

雑草代表、根っこが食用にもなる、野蒜(のびる)の花。
味噌と一緒にたたくと、美味しいんですよね。

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ヤマボウシを見下ろして

庭のヤマボウシが、咲いている。
今年は、例年になくたくさんの花をつけた。うれしい。
「いっぱい咲いたねえ。でも」と、わたし。
「うん。毎年のことだけど、2階に上がらないと見えないよね」と、夫。
背の丈3mほどの木だ。見上げて花を愛でようにも、その花は枝の上につき、空へと向かうように花開く。
なのでこの時期、ときどき2階に上がってはベランダから眺める。
人が植えた庭木だからといって、人が見やすいように花を咲かせるとは限らない。毎年そんなことを気づかせてくれるのが、ヤマボウシの花だ。

見下ろさないと、見えない花がある。そして、小さくしゃがんで見上げないと見えない花もある。
いつも見ているものも、違う場所に立ってみると、違って見えてくる。花咲く季節は、花達にそんなことを教えられる季節でもある。
2階のベランダで深呼吸をすると、肌に触れる風も、鳥達の声も、広がる空の色さえも違うような気がした。

ヤマボウシ。上を向いて、のびのびと咲いています。

今年は、こんなにいーっぱい花をつけました。

アップにすると、こんな感じ。白い花っていいな。

一輪でも、凛とした雰囲気を持っています。

こちらは、もみじの種。プロペラ型の赤くて可愛いやつです。

もみじは、濃い緑も若い緑も美しいですね。

その横には、夫が洒落で言うわたしのイングリッシュガーデンが。
蕗の葉っぱが広がって、日本風になっていますね(笑)

プラムの木が、実をつけています。野鳥に食べられるばかりの実。
空からは、よく見えるんだろうなあ。

プラムの横には、薪小屋と積んだ丸太があります。

2階から見下ろした、ウッドデッキです。パラソルがジミーな色。
開いて下から見上げると鮮やかなグリーンなのに、日に焼けて(笑)




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ガラホにしました

いまだ使っていたガラケーを、ようやく卒業した。
スマホに? いや。「ガラホ」なるものに変えたのだ。その言葉の音が表現している通り、ガラケーとスマホのあいのこ。LINEができて、カメラの解像度はスマホ級、しっかりインターネットにつながるが、料金形態はガラケーと同じ。でも、ネットをいっぱい使ったらスマホ並みの料金になりますよ、ただWi-Fiが飛んでいるところなら料金かかりませんよ、というのもスマホと同じ。新しいタイプのケータイだ。

「LINEは、便利だよ~。楽しいよ~」
夫から言われて迷っていたのだが、どうしてもスマホにする気が起こらない。経理事務用のパソコンを持ち歩くのが習慣になっていて、LINE以外の必要性を感じていなかったのだ。しかし、待てば海路の日和あり。なんて、見つけてうれしくなったが、ガラホは去年から売り出されていたとのこと。多様性を考えて、開発してくれた方々には頭が下がります。

それにしても「ガラホ」ってネーミングはすごい。
日本のケータイを、世界標準を無視した独自の進化を遂げているからと「ガラパゴスケータイ」って言った人もすごいと思ったが、略語は、もはやもとの言葉が何だったのか考えてみようとすら思えなくなるほどに進化を遂げている。いや、何も考えずに響きと使いやすさで略語を口にしていることを考えると、こうして言葉って退化していくのかも知れないなあとも思えてくる。
今はガラホにしたのがうれしくて「ガラホ、ガラホ」言ってしまうけれど、「やばい」と口にしない日本語の好きな末娘を見習って、きちんと選んで自分の言葉をしゃべらなくちゃ。ところで、ガラホって、略さないと「ガラパゴスフォン」なのかな?

左の濃いブラウンのが、ガラホ。どこからどう見てもガラケーです。
ピンクちゃん、今までありがとう。下取りに旅立つ予定です。
エコなシステムができるのは、うれしいことですね。

開いてみても、やっぱりガラケーそのまんま。
ふくろうくん、どう思うよ? 中身が大切って? ごもっとも。

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ラーメン屋の死角

ちょっと寄り道は、日々続いている。
所用で甲府に出た際、行ったことのないラーメン屋を開拓しようと『白虎』に立ち寄った。あらかじめネットで美味いとの評判を確認していたので、ちょっと浮き浮きしつつドアを開ける。
ひとりで初めての店の暖簾をくぐるときはいつもそうだが、心地よい緊張感が伴う。そのなかには期待もあるけれど、その店の流儀を知らないアウェイ的な不安もある。特にラーメン屋は、座って注文タイプと券売機タイプに分かれ、券売機が見当たらなければ席につく。
『白虎』では、ドアを開けた途端、声をかけられた。
「いらっしゃいませ。券売機をご利用ください」
ドア横に立っていた女性店員が、にこやかにとても感じよく片手で券売機を指し示した。そう。この店の券売機、入口すぐの右手にある。客席が広がっているのは左側で、自然と左方向に進んでしまいがち。券売機の位置が、死角なのだ。初めての客が戸惑う要素を生む造りになっていると言ってもいい。
しかし『白虎』は、客に戸惑わせないサービスを提供することで、それをみごとにプラスのイメージに転換していた。

それだけのサービスをする店だ。もちろんラーメンは美味かった。
子どもの頃、広い友人宅でかくれんぼをした時のことを思い出しながら食べた。入口のドアの陰に隠れていた男子が最期まで見つからなかったっけ。死角という言葉は、そのときに初めて知った。

「びゃっこ」と耳で聞くと漠然としますが「白い虎」なんですよね。
白と黒にわずかな赤のデザインが、シンプル綺麗です。

入って右手の券売機。客席は左側に広がっています。
どうしても、左に目が行くような造りになっているんです。

店内、白と黒で統一されています。テーブルも椅子も。

どんぶりも蓮華も黒。コップもモノトーン。こだわりですね。
いちばん人気だという豚骨味噌ラーメン。麺はしっかり太め。
分厚い炙りチャーシュー。おろし生姜の甘みが効いていました!

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『大きな鳥にさらわれないよう』

川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社)を、読んだ。
何百年後、何千年後の遥か未来を描いたファンタジーだ。その未来には、今の世界が崩壊を迎えた後、小さな集落ごと、たがいに交流することなく、作物を育て動物を狩りながらもコンピューターを操り暮らす人々がいた。

ある集落では、男達は工場で働き、女達は集団で子どもを育てる。工場は、食料と子どもを作るためのものだった。
また、ある集落では、人の名は数字だった。苗字が15ならいちばん先に生まれた子どもは「15の1」という名になる。
ある集落では、クローン技術によって作られた「わたし」が何人もいた。若いわたしは、年老いたわたしから役割を受け継いでいく。
ある集落では、光合成もする食事を摂らずとも生きていけるタイプの人間がいた。火を起こしたいと思うだけで起こせる者も、心が読める者もいた。
「見守り」と呼ばれる様々な集落を偵察して回る人達がいた。集落と集落の摩擦が起きることはなかった。戦争は、何処にも起こらない。
人の生の意味は、命を繋ぐことのみに向かっていく。生殖のためだけにセックスをする。誰の子どもでも関係なく育てる。クローンを作る。
いつしか希望らしきものも、憎しみらしきものも忘れ去られていた。だがそのなかにも、希望や憎しみの意味を知りたいと思う者もいた。以下本文から。

「ねえ、憎むって、どういうことなのかな」
あたしは、30の19に聞いてみました。
「わからない。でも、もしかすると、少しはわかるかもしれない」
不思議な返事を、30の19はしました。わからないけれど、少しわかる。それはいったい、どういうことなのでしょう。
「前に、昨日の昨日のもっと前の話をしただろう」「うん」
「何十万という人がいたって、言ってたよね」
何十万、などという数字は、想像しようとしてもできなかったと、30の19は言いました。
「あたしも、同じ」「だから」
30の19は言うのです。わかろうとしないで、ただみずうみに泳ぎに出る時水に体をまかせるように、その数字に身をまかせる。すると、少しだけ、何十万という感じが、向こうからやってくる。30の19は、説明するのでした。
「でも、それ以上のことは、わからないな」
明るく、30の19は笑いました。
「何十万という数字がどんなものかはっきりわかる、とか、憎しみを誰かにおぼえる、とかいうことは、ぼくらには生まれつきできないんじゃないかと、思うんだ」

タイトルの「大きな鳥」って、何のことだろう。読み終えてから、ずっと考えていることだ。神様のような、わたし達を俯瞰している存在のことだろうか。もしかすると、そういうものが今もこの世界の何処かにいるのだろうか。

川上弘美は、新刊を買うことを自分に許している作家のひとり。
本屋さんで見つけると、わくわくします。
ネットで見つけたときよりも、今すぐ手にとれる感がいい。

見返し部分のブルーが、ハッとするほど綺麗です。空かな、海かな。

カバー全体の絵は、こんな感じです。未来というよりむかしな雰囲気。

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ちょっと寄り道 その3

甲州弁の一つに「よってけし」がある。「お寄りください」という意味だ。
寄り道というほどの大袈裟なものではないが、たまに立ち寄るのが産直野菜販売所。『よってけし』という名で親しまれている。
町内にある直販所は名を『明野サンヒル直販所』というが「よってけし」と言わんばかりの雰囲気。その言葉に誘われるように、ふらりと寄っていく。スーパーにも山梨産や町内産の野菜もあるし、直販所には季節によって置いていない野菜もあるので、ふらりと立ち寄るくらいがちょうどいい。
ということで、ふらりと寄ってみた。
「ゴーヤ、あるかな~?」と探したが、まだゴーヤはなく、トマトや胡瓜、ピーマン、茄子などの夏野菜とバジルの鉢植えを買った。
「今夜は、レタスもアスパラもトマトもピーマンも明野産だよ」
夕食は、ポークソテーに生野菜を刻んで作ったソースをかけた。
「美味い!」夫の感想は、簡潔なひと言だ。
そこでとれた野菜を食べるのが、そりゃあいちばん美味しいよね。明野に越してきて16年。もうすっかり忘れていたけれど、越してきた頃は野菜が美味しくて、お米がまた美味しくて驚きの連続だったっけ。こういうこと、忘れずにいなくちゃいけないよな。
それとはべつに、最近は熊本産の野菜を見るたびに買ってしまう。微力としか言えない応援だが、続けていこうと思う。野菜の産地に敏感になったのも、こうして田舎に越してきて作る人の顔を見るようになったからかも知れない。

その山梨の方言、甲州弁は、外から入ったわたしにはそっけなく聞こえることも多いのだが(『花子とアン』にでてきた「こぴっと」は可愛い感じがするけど、めったに聞かない)よってけしは温かみがあり好きな言葉だ。
「よってけし」と誰かを誘うには、まだまだ甲州弁の修業が足りないけれど、いつか使ってみたいな。

『明野サンヒル直販所』2階は、お食事処になっています。

観光農園も、たくさんあります。向日葵は、町の顔です。
もうすぐ、さくらんぼ狩りの季節です。

入り口には、お花やハーブも売っています。

元気そうなバジルが、一鉢100円でした。

サニーレタスも、1個100円です。

梅干し用の小梅、いーっぱい入って300円。

長芋も、作っている農家さんが多いようです。瑞々しいです。

町内産のトマトとピーマンを買いました。玉葱はいただきもの。
ビネグレットソースの材料を、並べてみました。これ残らず全部刻んで
バージンオリーブオイル1に対し白ワインビネガー2、塩胡椒で和えます。

そして、庭に生えていた(自主性に任せている)アスパラガス。

予期せず、ご近所さんに採れたてレタスもいただきました。

ポークソテー on ビネグレットソースのできあがり。
野菜たっぷりの夕食になりました。&ワイン!

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ちょっと寄り道 その2

夕飯の買い物に行く途中ふたたび寄り道をしてみた。お隣りは須玉町にあるカフェ『廃校喫茶フィトンチッド』だ。
「夫も仕事でいない土曜日だし、ちょっと寄り道もいいかも」
と、分岐をいつもとは違う方向に曲がった。

廃校になった小学校を利用したカフェは、ひとつしかないという教室で珈琲が飲めるようになっていた。窓が大きいからか、空気がしんとしていて開放感がある。とても静かな空間だった。自分のなかにあるものまでもが、しんとしていくような、解放されていくかのような心持ちになっていく。
カフェの名「フィトンチッド」は樹木から分泌される物質の名前で、森林浴で癒されると感じるのは、このフィトンチッドのおかげらしい。林の隣りに住むわたしは日々森林浴をしているつもりになっていたが、こうして空気がしんとしているのを感じる時間をもっと大切にしようとあらためて考えさせられた。

さて。寄り道することを「道草を食う」ともいう。馬に乗り移動していた頃、馬が道端の草を食べなかなか前へ進まないことから来た言葉らしい。馬は馬で、きっと道草食ってパワーをつけてたんだろう。人間も道草食いながら、その道草に小さなパワーをもらいつつ、どうにかこうにか歩いているのかも知れない。フィトンチッドは、そんな心の道草にはぴったりの場所だった。

入口の看板です。すべてが手作りっていう感じ。

この英語のスペル、フィトンチッドと読めなくて戸惑いました(笑)

ちょっと離れて見ると、もと学校だった雰囲気が伝わってくる感じ。

教室に入ると、クッキーやショートブレッドが並んでいます。
陶器や絵、金属のアーティストさんの作品もありました。

カウンターとメニューがかかれた黒板。文庫本がたくさん。

カフェオレ。苦み濃い目でオーレにして美味しい珈琲でした。

天井からつるされた電球には、さりげないドライフラワー。

薪ストーブも、すぐそばには薪もありました。

黒板に、オルガン。教室だったんだもんね。

窓を見ても、むかし学校だったことがよく判ります。

窓際には、手作りかな? 楽器が置いてありました。

子猫が7匹いるそうです。お母さんのおっぱいを飲んだり、遊んだり。

白い子も黒い子も、いました。とことことこ。

きゃわいいにゃー。おなかも肉球も見せ放題だにゃー。

子猫達は、7匹みんな貰い手が決まっているそうです。

手作りの白梅干しと鉄細工のペン立て&ペンを、購入しました。
北杜市在住のアーティストさんの作品だそうです。

ボールペンです。重みがあって、かきやすいです。
会社の新オフィスで、夫に使ってもらおうと思います。

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ちょっと寄り道 その1

美容室へ向かう途中、寄り道した。
時間調整が微妙で、30分ほど早く着いてしまいそうだったのだ。
「天気もいいし、写真でも撮ろうかな」
車を停めたのは、道沿いに広がったポピー畑。公園になっている訳でもなく入り口も出口もない、ただただ広がる花畑だ。もちろん入園料など必要ない。
駐車場らしき花が咲いていない場所が一応あり、そこには先客が1台だけあった。スーツ姿の男性がひとり、運転席に座っている。外回りの営業マンが休憩中、といった風情か。

さて。写真を撮っていると、その男性に声をかけられた。
「朝日新聞のものですが、このポピー畑を取材していまして」
なるほど。ちょっとお話を? いいですよ。時間あるし。
「今日は、わざわざこちらに来られたんですか?」
「あ、美容室に行く途中、時間余っちゃったんで、写真撮ろうと思って」
「ポピー畑のことは、以前からご存知でしたか?」
「よく通るんです。通るたびに、あー、咲いてるとか、綺麗だなーとか」
「実際に車を停めて、間近で見てみると、どうでしょうか?」
「うーん。遠目に見た方が綺麗かな。蕾とかちょっとグロテスクな感じ」
記者さんは、それ以上聞くことなく、礼を言い、車に戻って行った。
正直に話しすぎたかな? でもまあ、嘘つく必要も何もないか。

翌々日の朝日新聞山梨版には、確かに記事が載っていた。
「近くを通るたびにきれいだと思っていた。改めて見ると感動します」と、
家族で立ち寄ったという市内の20代の男性のインタビューがある。
実際には、わたしのように感じている人も多いと思うけど、それじゃあ記事にはならないもんね。何人かに話を聞いて、そのなかで記事にするにふさわしいことを選ぶんだろうな。取材、お疲れ様です。
ところで、わたしが話したこともひとつだけかかれていた。
「秋には、ここ、コスモス畑になりますよね」と、わたし。
「あ、そうなんですか?」と、記者さん。
―初夏はポピー、秋はコスモスが植えられ地元の名所として親しまれてきた。
そしてわたしも、ひとつだけ教えてもらった。
「誰がお世話してるんだろうな―と、思っていました」と、わたし。
「シルバー人材センターの方々だそうですよ」と、記者さん。

ほんの15分ほどの寄り道だったけど、これまで何度も前を通っていたポピー畑がぐんと近しいものになった気がした。

ポピー畑。こんなふうに、広がっています。
夫はここを通るたびに、車にポピー♪ と歌います(笑)

真っ赤な花が、いちばん多いです。

でもよく見ると、ポピーもいろいろ。

八重のピンクさん。可愛らしいです。

白にターコイズ。作り物のようにも見えますが、本物です。

白くて、縁取りがピンクのものも。

子どもの頃にティシュペーパーで作った花を思い出しました。

向こうの方には、黄色いポピーも咲いていました。

60万株もあるんですね。今年は開花、早かったんだ。

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『橋を渡る』

吉田修一の長編小説『橋を渡る』(文藝春秋)を、読んだ。
新次元の群像ドラマと謳われるこの小説は、ビール会社の営業課長、明良(あきら)、都議会議員の妻、篤子、テレビ局の報道ディレクター、謙一郎の3人を中心に、その周囲で起こる2014年、春、夏、秋の出来事を描いていく。
そして4章目である冬は、2085年に飛ぶ。70年後の世界では、人の細胞から作られた「サイン」と呼ばれる普通に感情を持つ人間 ― 生殖能力がなく、身長は低め、寿命は40歳くらい ― が存在し、彼らをロボットのように扱う差別社会ができていた。

タイトル『橋を渡る』は、自ら選ぶことのできる選択肢の数々を、橋を渡るか渡らないかに例え、渡った橋の向こう側と渡らずにいたこちら側との微妙な違いを表現しようとしている。以下、春 ― 明良の章から。

堀下にあるY駅には、そのホームを跨ぐように橋がかけられている。すぐそこにある迎賓館と対応させて作られたネオ・バロック様式の橋で街灯には美しい九つのランプが並んでいる。
この街灯の一つを包み込むように大きな桜の木がある。
明良たちは今の家に越してくるまで、八年ほど駅向こうのマンションに暮らしていた。そのころから春になるとこの桜を見に来ている。
深夜、人や車が減り、都心の寂しさがただよう橋を明良たちは渡った。今年も内側からライトアップされた満開の桜がそこにあった。
いつものように見上げて、明良はふと視線を落とした。この十年、毎年感じていた感動がなぜか今年に限ってない。少し焦って横を見る。心なしか、歩美の横顔にもそれがない。いや、去年あったのかも曖昧になってくる。
「きれいだよな」と明良は言った。
「うん」と返事は短い。
明良は今渡ってきた橋を振り返った。子供じみた発想だったが、もう一度渡り直せば、例年の感動が味わえそうな気もした。

渡った橋の向こうに何があるのかを知る前と、知った後では、何気ない風景さえも違って見えることがある。小説は、一人の小さな選択が未来を変えていく可能性を描いている。橋を渡るか、渡らないか。行動するか、しないか。言うか、言わないか。知るか、知らないかさえも。
読んでいて、わたし達一人一人の小さな選択が、未来を変えていくかも知れないのだと突きつけられる感覚に陥った。
戦後70年にかかれた、この小説。では70年後は? と問いかけてもいる。
戦争をしない国を選んだ70年前の一人一人と、これから多くのことを選んでいくわたし達一人一人の心の重さは変わらないはずだと。

夫が、Kindle 版で買った小説です。表紙は → こちら
『週刊文春』で、連載されていたものだそうです。
2章目の篤子は、その『週刊文春』のクレーマーでもありました。
実際にあったニュースが取り入れられているのも週刊誌連載小説ならでは。
都議会の女性議員へのセクハラ野次や、マララさんのノーベル賞受賞など、
登場人物が、社会的出来事をどう受け止めていたのかも描かれています。

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四つ葉のクローバーができる訳

約1週間ぶりに、我が家に帰ってきた。
新緑を過ぎた緑は濃く深くなり、倍に増えていた。ナデシコとハマナスが最初の花を咲かせ、シロツメクサも咲き乱れている。

ところで偶然読んだ記事で、四つ葉のクローバーが何故できるのかを知った。人に踏まれ、成長点(植物の根や芽の先端にある新しい組織を作る部分)が傷つくことによって、もう1枚の葉が出てくるケースが多いのだそうだ。
だから、公園など踏まれやすい場所には多く見つかるらしい。
「だとしたら、うちの庭にもあるはず」
薪割りロードに広がったシロツメクサ。踏まれてもしょうがない場所に生きている。探すとやはり、四つ葉がすぐに見つかった。
「踏まれるたびに傷ついて、四つ葉を、つまりは幸せの象徴を生み出すんだ」
じっと見つめていると、四つ葉のクローバーが言った。
「心が傷ついたモノほど、優しく、そして強くなれるんです」

クローバー。花も可愛いけれど、葉っぱも可愛らしいですよね。
シロツメクサという名は、江戸時代、オランダから輸入された
ガラス器の梱包に詰め物として使われていたことから詰め草と呼ばれ
その後、日本じゅうに広がっていったとか。

四つ葉のクローバー。ほんとにすぐに見つかりました。
謎が解けても「いいことあるかな~」と思っちゃいます。

こちらは、クローバー・ティントブロンズの花。
同じクローバーでも、買って花壇に植えた箱入りさんです。

玄関側では、ナデシコが咲き始めたばかり。

いつの間にか根づいた野バラ。そこ此処に咲いています。

ハマナスは、最初の一輪を咲かせました。

パクチーの花は清楚な白。向こうに見える紫はツルニチニチソウ。

マーガレットは留まること知らず、そこらじゅうに花を咲かせて。

雑草代表、ゲラニウム・カロリニアヌムさん。いっぱい咲いてる。

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珈琲と砂時計

神戸で暮らす義母が、心臓弁膜症の手術をして入院した。手術は成功し、その後も順調だ。
義母が最初に入院したのは真冬のこと。病院までの道すがら冷たい空気を吸い込むと、不意に珈琲の香りが鼻先をかすめた。ふらふらと乗り継ぎ駅構内の珈琲屋にふたり入ってていったのを思い出す。ただ温かく座れる場所さえあれば、珈琲の味などどうでもいいと思っていた。だが、義母と顔を見合わせた。
「あ、美味しい」
「ああ、ほんと。美味しいわねえ」
そう笑い合い、すっと気持ちがほどけていくのが見えたような気がした。やわらかい苦味とほどよい酸味、そして温かな香り。
義母が入院し、それから何度となく、そこの珈琲を口にすることとなった。
あるときふと、ディスプレイされた砂時計に目が留まった。もちろん砂は落ちたままで時計としては止まっている状態だ。その向こうは窓になっていて、駅構内を早足で歩く人がひっきりなしに通り過ぎていく。止まっている時計と、前へ前へと進んでいく人達。その対比がおもしろく、珈琲を飲みながら、ぼんやりと眺めた。
(砂時計って、実用云々よりも、時間を目に見えるようにしたくて作られたモノなのかも知れないな)
時計の針の進み具合は、人の目にはゆっくりすぎて見ていてもよくわからない。けれど砂時計ならば、時間というモノがしっかりと目に見える気がする。そんなことを考えていたら、行きかう人の波が、時間を刻んでいる砂時計の砂のように思えてきた。
そして義母の心臓も、今この瞬間時を刻んでいる。そう思うと、一瞬一瞬の時間の重さが胸に落ちてきた。
珈琲の香りが見せてくれた。
いつもは目に見えない、ほどけていく気持ちや刻まれていく時間を。

スープセットモーニング。夫はスクランブルエッグ&ハムのセットを。

大小の砂時計が、飾ってありました。何分計だろうか。

セピア色の落ち着いた雰囲気の地球儀も、素敵です。

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反対の反対への挑戦

自他ともに認める、方向音痴である。
神戸で過ごしたこの何日かの間に、またもやそれを実感した。

「あ、今、反対方向行こうとしたでしょ?」
義母が暮らし始めたマンションでエレベーターに乗り、降りるとどうしても反対方向に行こうとしてしまう。荷物の積み下ろしや買い物など、ゆうに十回は乗り降りしているというのに。

「トイレは、反対側や」
新幹線では、常に反対方向に。

「そっちに出口は、ないっちゅうに」
買い物に行ったホームセンターは、迷路だった。

「ここをまっすぐ行くと、何があるでしょう?」
夫は、意地悪くもわたしの方向音痴を再確認し、楽しんでいる。
「えーと、ミント神戸だよね?」
「うそやろ。ミント神戸は、真後ろや!」
もちろんご期待にお応えするだけの素質を、わたしはじゅうぶん備えている。

さて。方向音痴とは、地図を見て行きたい場所にたどり着けないというだけではない。漠然と探しているもののある場所へも、なかなかたどり着けないのだ。例えば。
「喉、乾いたねえ」「自動販売機か、コンビニ探す?」
そうして歩き出した方向には、延々と自販機もコンビニもないということが、ままある。そこで、今回ちょっと工夫してみた。
「わたしが行こうとした方向の反対に、行けばいいんじゃない?」
「じゃあ、行ってみる?」と、夫。
すると、すぐに永遠とも言えるほどに延々と自販機が並んでいるのが見えたのだ。もちろんコンビニも、ドトールさえもある。
「おー! すごい! やったあ」
常に、野生の勘で踏み出した一歩をくるりとひるがえし、反対に行けば、方向音痴解消の道が開けるのでは? いや、まさか。でもこれ、試してみる価値ありかもと、ちょっとわくわくしている。

義母の部屋を訪ねてくれた夫のいとこ夫婦から、
「プレゼント!」と靴下をいただきました。わーい、うれしい。
この靴下を履けば、たちまち行きたい場所に行ける魔法の靴下!
道に迷うこと一切なし!・・・んな、わけないか(笑)

『千代治のくつ下』だそうです。

足の裏になる部分が分厚く編まれていて、履いて気持ちがいい♪

淡いブルーと紺色を織り交ぜた風合いが、素敵。夫曰く。
「夏モノというには分厚いのに、履いてて涼しいわあ」

履いてみました。脛の部分、ゴム編み部分がとってもやわらか。

お気に入りの靴とパンツと合わせて。綺麗な色が足もとにあるのっていいな。

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バッカスに愛された女性

心臓弁膜症の手術をして入院していた84歳になる義母が、ひと月半のリハビリ入院の末、昨日ようやく退院した。
相談を重ねた末、バリアフリーで安心がついている高齢者用マンションに移ることを決め、昨日はその引っ越しの日でもあった。
ということで、ふたたび神戸に来ている。

「バッカスに愛されて、幸せよねえ」
というのは、義母の口癖の一つである。バッカスというのは、ギリシャ神話に登場する酒の神の名。何よりビールが好きな義母は、退院と共に解禁になるお酒が楽しみだったようだ。
「バッカスに愛されて、幸せですねえ」
わたしも、義母とビールを飲める日を楽しみにしていた。

しかし義母は、わたしなど足元にも及ばぬほど、正真正銘、掛け値なしにバッカスに愛されている女性なのだと、しみじみ思う。
何しろ、神戸の卸酒屋の娘として生まれたというだけならまだしも、これから暮すマンションは日本酒のもと酒蔵街。徒歩1分の場所には『櫻正宗』の酒蔵とそれを楽しめる食事処や資料館などもある。『白鶴』や『菊正宗』の酒蔵やもと酒蔵だった場所に建てた資料館も近い。
「子どもの頃に、酒蔵について来たことを思い出すわあ。まさか、ここで暮らすことになるなんて」義母は、うれしそうに言った。
「どうか呑み過ぎず、楽しんで暮らしてください」
自分のことを棚に上げ、そう思わずにはいられない。

黒板の壁沿いを歩いていくと、すぐに櫻正宗記念館の入口。
夫と引っ越し準備をして、ここでランチを食べました。

1階の展示スペースに入ったところ。むかしの看板でしょうか。
「正宗」という名は「清酒」の当て字に使われたことから、
日本酒の名に冠することが多いのだとか。

『櫻正宗』山邑酒造の日本酒の銘柄が、並んでいます。

20センチ角くらいの焼き印です。酒樽に押したそうです。

2階を見上げると、大きな樽を使った斬新なデザインの展示コーナー。

2階には酒造りの道具が展示され、酒造り工程のVTRを上映中でした。
むかしの電話もあって、タイムスリップしたような雰囲気。

つい「けさ」と読んでしまいますが「さけ」ですね。
2階の奥には『酒蔵ダイニング』『呑処三杯屋』があります。

ランチした1階のカフェの入口。大きな瓶と石臼が並んでいます。

店内には、レトロなポスターが何枚か掛けてありました。

酒樽の大きな蓋も、カフェの壁に飾ってあります。

特性粕汁うどんを、いただきました。いやー、酒粕の甘みが濃い!

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『愛の夢とか』

川上未映子の短編集『愛の夢とか』(講談社文庫)を、読んだ。
裏表紙の紹介文には「なにげない日常の中でささやかな光を放つ瞬間を美しい言葉で綴った七つの物語」とある。

表題作『愛の夢とか』では、隣人である老女(テリーと呼んで)のピアノを聴きに行く主婦(じゃあ、わたしはビアンカで)を描き、『日曜日はどこへ』では、いつかこの小説家が死んだら、もう一度会おうという初恋の人との約束を。そして『十三月怪談』では、若くして病死した妻。夫のその後、そして死んだ妻のその後を描いている。

以下、身重の妻との小旅行で、親になることへの不安から、生きていくことにさえ危うさを感じ始めるふたりを描いた『三月の毛糸』より。

薄暗い部屋の真ん中にあるベッドが薄闇の中でぼんやりと白く浮かびあがっていた。シーツにくるまって横になっている彼女をしばらく見ていたけれど、それはまるで置物みたいに動かなかった。表面によった皺や陰りにふくらんだそのかたまりは、見れば見るほどそれは人の輪郭をかたちどったものではなく、その膨らみの下には、本当はなにもないんじゃないかというようなそんな気持ちがしてくるのだった。あの白く盛りあがった膨らみの中にあるのは何でもないただの暗さなんじゃないかと思えてくるのだった。拳で突けば簡単に沈んでしまう、あれはただの空洞なのじゃないか。
僕は立ちあがって窓のそばへ行き、カーテンをひいて、窓の向こうに広がる街並を眺めた。ビルや車の流れや空や何もかもが、夜に塗りかえられる直前の薄暮に沈んでゆく最中だった。

心って、人の想いって、わたしが思っているよりも、遥かに深く壮大なものなんじゃないか。この短編集を読み終えて、じんわり感じた疑問だ。
本当は、自分の心を、そして周りの人の想いを、もっともっと深く広く感じられるはずで、それならば感じていきたいものだと思ったのだった。

その他『アイスクリーム熱』『いちご畑が永遠につづいてゆくのだから』
表紙のイメージは『お花畑自身』かな。 第49回 谷崎潤一郎賞受賞作。
表題作『愛の夢とか』に「とか」をつけるところが川上未映子らしいな。
意外ですが、初めての短編集だそうです。

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気持ちが弱っているときに

とうとう、腰を痛めてしまった。
古本の断捨離に、精を出したこともあっただろう。転んだときの衝撃で、身体が歪んでいたこともあっただろう。会社の引っ越しで、ちょっと張り切り過ぎたこともあっただろう。要は、ムリを重ねたということだ。
自分の身体は自分がいちばんよく判っている、などというセリフは、わたしには到底言えない。自分がいちばんよく判っていないとさえ思えてくる。要は、そんなふうに思ってしまうほどに、落ち込んでいる訳だ。

身体の何処かが故障すると、気持ちまで弱ってしまう。小さなことにくよくよしたりする。買い物に行って、油揚げを買い忘れたくらいのことで、めそめそ泣きそうになったりする。

だが、そんなときだからこそ、小さなことがハッとするほどうれしかったりもするもの。コルセット代わりに出した腹巻と、ふくらはぎを冷やさないためにと出したレッグウォーマーが合わせて買った訳でもないのに、色がぴたりと合っていた。両方とも見えない場所に穿くものだが、こっそりうれしい。
そんな小さなお洒落に喜びつつ、冷やさずムリせず、早く治そうと思う。

腹巻だけど、ネックウォーマーにもなるとかいてありました。
たぶん、首には巻かないと思いますが。
標高600メートルの我が家。朝夕の冷え込みは侮れません。

シンプルメリヤス編みのレッグウォーマー。
並べると、合わせるのにぴったりの色合いです。両方とも、
何年も前に買ったものなのに色が合うと思ったのは初めて(笑)

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マムシグサ・パレイドリア

シュミラクラ現象とは、動物にプログラムされた「3つの点から顔を見出す」脳の働きを言う。外敵を判断するためだと考えられている。
しかし、3つの点がないにもかかわらず、それを顔のように感じてしまうものが、ままある。花は、そのひとつだろう。

散歩するのに気持ちのいいこの季節。何だか見られているように感じることがある。視線を感じて振り向くと、そこ此処に咲いている花がある。マムシグサの花だ。3つの点は持たないが、生き物であるマムシに似ていると名をつけられただけあって、存在感は大きい。

シュミラクラ現象でなければ、何なんだ? と思って調べると、これかも知れないと思えるものが出てきた。
「パレイドリア」
普段からよく知ったパターンを、本来そこには存在しないにもかかわらず思い浮かべる現象。ギリシャ語で「映像通りじゃなく」というような言葉らしい。
雲が魚の形に見えたり、壁のシミが動物に見えたり。違うって判っていながら、何かのように見えてしまうことを言うそうだ。

知っているものを、置き換える。うーん、確かによくある。
もみじの葉っぱを見て、赤ん坊の手みたいだと思ったり、どんぐりのヘタ(?)を、帽子をかぶっているみたいだと思ったり。
パレイドリア。知らない言葉だったけど、身近にあることだったんだな。
ところで、パレイドリアと聞いてドリアの仲間なのかな? なんて思ったりするのも、パレイドリアなんだろうか。

こんなふうに、道端に咲いています。「居る」という雰囲気。

蔓が絡んだものも、ありました。

マムシではなく、鳥が羽を広げたようにも見えますね。

くるんと丸まって、咲くものも。

三角関係的な位置で、咲くモノ達も。

ふたりでフラダンスするように咲くモノ達も、ありました。
毒があるそうです。赤い実が生るけど食べてはいけません。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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