はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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向日葵畑に消えた「my pleasure」

「my pleasure」という言葉が、好きだ。「thank you」と言われた時に返す「no problem」や「you are welcome」と同じく「どういたしまして」という時に使われるが、直訳すれば「わたしの喜びです」となる。「あなたが喜んでくれて嬉しい」という意味合いだろう。

以前、夫がイベントで講演をお願いしたアメリカの方に(その講演は素晴らしかったとのことだが)お礼を言うと、笑顔で「my pleasure」と返してくれたという。それを夫に聞き、知った言葉なのだが、電車で席を譲ったり、狭い通路で道を譲り合ったり、何ていうことのないシーンでも使われるらしい。
そんな英語の文化って、素敵だなと思う。

ところで、何年か前のこと。向日葵が咲くと思い出す、出来事がある。
買い物帰り、村道で信号待ちをしていると、前の車から70代前後の夫婦が降りて、わたしのところに来た。向日葵畑までの道を、教えてほしいという。
当然、道は知っているのだが、なにせ方向音痴のわたしである。道を教えるのは大の苦手。たいして遠回りでもないので、先に走って、ついて来てもらった。その方が、簡単だったからだ。
だが、ぶじ向日葵畑に着き「ここです」と言って帰ろうとすると、ご婦人が車から降りてきて、わたしに何かを手渡した。千円札だった。
「そんなつもりじゃ、ないですから!」戸惑うわたしに、ご婦人は無理やり千円札を押しつけるようにして頭を下げ、足早に車に戻って行った。
呆然自失。しばらく何が起こったのか、判らなかった。
わたしも、悪かったんだと思いはする。ただ道を教えられれば、気を使わせることもなかったのだ。しかし、それでもこれは違う、という気持ちばかりが膨らんでいった。「うちの村に、向日葵を見に来てくれて嬉しいです」そんなわたしの「my pleasure」は、千円札という形を拒み消えていったのだった。

我が家から車で走ること2分。朝9時。風が吹いて涼しかったです。

向日葵が揺れるほどの風では、ありませんでした。

平日でも夏休み。親子連れが、何組か、訪れていました。

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向日葵畑と野に咲く花達

我が町、明野町では、夏の花と言えば、向日葵だ。
昨日から『サンフラワーフェス』も始まった。日照時間が日本一だということから何年か前に村おこし(当時は村だった)で始めた、向日葵畑で観光客を呼ぼうというイベントだ。そのイメージも、定着しているようで、この季節、向日葵を観に訪れる人も多い。

だが町内に住む人は、わざわざ観に行ったりはしない。車で通って「今年も、ようけ咲いたじゃんねぇ」とちらりと見るだけだ。
何しろ、村おこしで始めた当時と、日中の気温が違う。都心より涼しいからといっても、炎天下、花を愛でるような気持には、なかなかなれないというのが正直なところ。訪れる人達には、しっかり熱中症対策をしてほしいと、心配になるほどだ。

早朝、涼しいうちに散歩して、日影に咲く目立つこともない小さな花達を、静かに愛でる日々。向日葵畑より、こっちのほうが田舎である明野を満喫できると思うんだけどなぁ。まあ、そうはいかないよねぇ。野に咲く花は、何処でも見られるかも知れないけれど、向日葵畑となると、何処にでもある訳じゃない。涼しい時間は下を向いてしまう向日葵。太陽に向かって咲く、夏の象徴。みな、そんな一面に咲いた向日葵を、観に来る訳なんだから。
人が作ったものには、自然が作ったものとはまた違った美しさがあるけれど、変わりゆく地球に対応できるほど人の力は大きくないと、向日葵のこの季節、考えさせられてしまう。

ボタンヅルだそうです。実が生ると、仙人のように髭が
伸びるセンニンソウとそっくりの花。道端に咲いていました。
見分け方は、葉っぱの形。3つに割れているのがボタンヅルです。

紫式部の花。実は綺麗な紫で、そちらの方が注目されがちです。

ヘクソカズラ。こんな名前つけた人、誰~?

ノコギリソウ。隣の林で、花を咲かせていました。

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興味の行方

連休を利用して、神戸にある夫の実家に、帰省した。
滞在時間は40時間ほどだったが、夫の両親とゆっくり食事をしながらしゃべり、久しぶりに墓参りに行くこともできた。
その他愛のないおしゃべりのなかで、義母から興味深い話を聞いた。

その話は「わたしは、全然覚えていないんだけど」との前置きで始まった。
「久しぶりに甥と食事をしたんだけど、そこで、聞いたの」
義母の甥子さんは、義母より10歳ほど年下で、子どもの頃遊んでもらったことなどを、懐かしく話したという。もちろん、そのことは義母も覚えていたのだが、記憶にないという出来事は、一緒に映画に出かけたことだそうだ。
「『風と共に去りぬ』に連れて行ってもらったことに感謝してるっていうの。そこで自分の人生を変えるシーンに出会ったんだって、話してくれたのよ」
前編ラスト、スカーレットが痩せた土から根菜を掘りだすシーンを観て、子どもながらに深く感動し、いずれ土に関係する仕事に着くのだとの予感を持ったそうだ。その予感通り、その後土木工学を学び、神戸の都市計画などに携わり、生涯土木関係の仕事をして生きてきたという。
「本当に、何が出会いになるか、判らないものよね」
義母は、とても嬉しそうに話してくれた。

話を聞き、考えた。同じ映画を観ても、興味を持つ部分は人によって全く違い、そのなかで、魅力的に映ったものや、興味を持った部分を、自分のなかに取り入れていくものなんだなと。

そう言えば、神戸までの長距離移動で電車のなか、誰かがブランドバッグのことなど話しているのが聞こえても、うるさいなぁと思うだけだが、美味しいカルパッチョのレシピなどを話していたら、自然と聞き耳を立てる。最近可愛がっているアマガエルの生態について、語っていたら「ちょっと、周りの人、静かにして!」と言いたくなる。(そんな話をしている人はいなかったが)
そうして、それぞれが興味のある情報を自然と選別し、より多く取り入れていく。それはごくごく普通のことであるのだが、義母の話を聞いた途端、ものすごく不思議な、そして大切なことに思えてきた。

夫の実家には、大きな蝉の抜け殻がたくさんありました。
「こんなに大きいの、明野じゃ見ないよねぇ」「ほんと、大きい!」

こちらは我が家のウッドデッキに滞在していたアマガエル、けろじ。
だいじそうに、ダンゴムシを抱えていました。
電車の中で、アマガエルとダンゴムシの関係を語っている人は、
残念ながら、いませんでした。

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美しいものを見よう

朝食前に、蓮を見に出かけた。
涼しいうちにとの散歩中、野の花を見て、夫が思い出したように言った。
「そう言えば、もう蓮の花、咲いてるよねぇ」
「ああ、もう7月も半ばなんだねぇ」
思い立ったが吉日。蓮は、昼には花を閉じてしまう。とるものもとりあえず、車を出した。15分ほど走ると蓮池に着く。
「すごい人だったら、どうする?」と、車中ジョークを飛ばすが、無人駅近くの穴場。貸切状態で、ふたり蓮の花を眺めた。濃いピンク色をした大輪の花を咲かせる大賀蓮の池。花は、やはり咲いていた。

大賀蓮の花の美しさは、どう形容しても追いつかない。凛と咲く蓮を見ていると、煩悩だらけのわたしでさえ、心洗われていくのを感じる。
美しいものを見て、心の汚い部分が洗われるのなら、美しいものをたくさん見たいものだよなぁと、しみじみ思った。
美しいものを日々みんなで見て暮らせば、世界から戦争だってなくなるかも知れないなどとも、ふと思ったりした。
蓮は、もちろん何も言わない。ただ凛と咲き、昼には花を閉じるのだ。

本当に、美しいです。深い深いため息が、出ます。

蕾がまだ、たくさんありました。しばらく楽しめそう。

開きかけも綺麗だし、開ききった花も素敵 ♪ 大輪のこの花を、
弥生時代の種から再生させた植物研究者、大賀さんの名をつけたとか。

花びらが落ちた後の姿です。
花を見ていると連想したりしませんが、地下茎は蓮根なんですよねぇ。

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雨乞いを100%成功させるには

台風一過の昨日。朝、夫を駅まで送った帰り、運転しながら見る田んぼは、ぴかぴか光っていた。畦道や、道路沿いには、東京で過ごした子どもの頃から見慣れた野の花達が、咲いている。アザミ、ツユクサ、昼顔。
「子どもの頃、聞いたけど、あれ、ほんとかな?」と、考える。
昼顔を摘むと、雨が降る、と。
昼顔は、別名『雨降り花』と呼ばれているそうだ。梅雨時から咲き始める花だからなのか、摘むと雨が降るという言い伝えと関係があるのかは、判らない。

人間の力を持ってしても、天候までは変えられない。だからこそ、迷信と言われるものや備える知恵が、身近なところで伝えられるようになったのだろう。

『雨乞いを100%成功させるには』という、笑い話がある。
答えは『雨が降るまで、雨乞いを続けること』だ。
あきらめなければ、やがて雨は降る。あきらめずに続けていれば、願いはやがて、叶うということかも知れない。

台風一過の南アルプス連峰です。雲の流れ方が普段は見られない感じ。

ノアザミというのが、正式名称らしいです。
野草に詳しい方に、葉っぱの天麩羅、ご馳走になったことがあります。

ツユクサの青って、本当に綺麗。子どもの頃から、大好きでした。

昼顔は、強い日差しを浴びて、まぶしそうにしていました。

そんなところにすっぽり入っちゃって。冬眠するには早いよ~。
ウッドデッキにいたアマガエル。けろじゃないカエルくんです。

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雲がかかった富士山

車で、韮崎駅へ向かう途中に、富士山が見えた。
「あ、富士山」と、上の娘、24歳。「あ、綺麗だね」と、わたし。
しかし富士山には、雲が何層にもかかっていて、すっきりと綺麗に見えているとは言えなかった。つい、口に出る。
「でも、もうちょっと、雲が流れてくれたらいいのにね」
娘は、わたしの言葉には反応せず、富士山を見ている。
その娘の顔を、チラリと見て気づく。
「そうか。今見えている富士山は、今しか見えない富士山なんだ」と。

ヨーロッパを巡る長旅に出る娘は、しばらく富士山を見ることはないだろう。わたしの言葉は、その思いから出たのだが、彼女はもう違う方向を見ていた。
「もうちょっと、こうだったら」
そんな思いは、彼女のなかにはなかった。今この時に、見えるものを、感じられることを、そのまんまに受け入れて、穴が空くほど見よう、感じよう。
それは挑戦的なものではなく、とても静かな決心のように思えた。

「で、いつ帰るのか、決めてるの?」と、わたし。
彼女は笑って言った。「いつか、帰ってくるよ」
帰り道、振り返ると、富士山は雲に埋もれていた。梅雨晴れの雲間に姿を現した富士の姿は、旅立つ彼女へのプレゼントだったのかも知れない。

わたしも受け止めよう。「もうちょっと、こうだったら」とは思わずに、毎日見える、そして見えない富士山を。

娘を送り、帰って来て、ひとりのんびり散歩しました。
散歩コースでは、今、ネムノキが花盛りです。

オカトラノオも、ちらほら見かけるようになりました。

クヌギの若い葉は、ポインセチアを連想させます。

にょきっと落ち葉のなかから顔を出した、きのこ。毒ありそう。

「ただいまぁ」と帰ると「おかえりー」と、玄関でコクワくん。
季節ごとに違う顔を見せてくれる道を散歩する幸せ、感じます。

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花言葉は「無駄じゃない」

庭にピンクの花を咲かせたシモツケの、花言葉を調べた。
「無駄」「無益」「整然とした愛」「はかなさ」
花言葉にしては珍しい「無駄」に、驚く。「なんとかな愛」とか「はかなさ」なら在りがちだが「無駄」という花言葉は、初めて聞いた。

由来は、中国に伝わる話から来たという説があるとか。
戦国時代、少女は囚われた父を助けに敵地に行くが、すでに病死しており、父の墓のかたわらに咲いた花を持ち帰って植えると、毎年花を咲かせた。それがシモツケの花で、中国では少女の名、繍線(しゅうせん)をとって、繍線菊と名づけられたという。

「花言葉を考えた人は、彼女の行動を、無駄だと思ったのかなぁ」
シモツケに聞いても、答えはない。

50年以上生きてきて、後悔はたくさんある。だが、あれは無駄だったと思うことは、ない。悩んだり、苦しんだり、嫌な思いをしたことも、すべて含めて、今の自分だし、ああすればよかった、もっとこうすればよかったと思うことはあれど、小さな出来事一つ一つが、人を作っていくのだと信じたい。

ということで、わたしひとりの独断だが、シモツケの花言葉は「無駄じゃない」に決定した。いいよね? シモツケ。
  
シモツケは、鮮やかなピンクが可愛いです。ラベンダーも、もう終わり、
かと思えば、次々花開いています。ドライフラワーは蕾なんですね。

南天の花は、これから。蕾がいっぱいです。
  
黄色いホソバウンランは、咲き始めたばかり。桔梗は、もう開くかな。

ハナミズキは、空を眺めて、実を大きくしていきます。

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頭に生えた「サガシツヅケルダケ」

頭に、きのこが生えた。
最近 facebook で、駄洒落ジャブの嵐のなかに突撃することがあり、静かにジャブを返していたのだが、たまにはアッパーカットを狙いたいなどと、頭のなかで駄洒落をこねくり回して考えることが多くなった。

「タマゴダケ、ベニテングダケ、ワタシダケ」と来たので「ダケ、ダケ、ダケ」とつぶやくが、結局アッパーカットどころかジャブも返せず、そのままコメントはしなかったのだが、きのこだけが、頭に生えてしまったのだ。

このところ、車でよく聴く曲にGO!GO!7188の『種』があるのだが、
♪ 振り向かないで 行ける あたしはまだ 探し続けるだけ
  あるのかさえもわからない 答えを探すだけ ♪
これを聴いて「サガシツヅケルダケ」と「サガスダケ」がポンポンッとが生え
♪ 思い出だけを頼りにして この薄汚い空に 何を願えばいいの ♪
ここで「オモイデダケ」が生えるという始末である。

夫としゃべっていても「ちょっと、気になっただけだよ」と言えば、
「キニナッタダケ」が生えるし、「イッテミタダケ」や、
「クリーニングダスノコレダケ?」や「ウイスキーラストコレダケ?」
などなど、どんどん生える。
仕事の話をすれば「イチオウカクニンシタダケ」が、よく生える。

うーん。このきのこ、けっこう強い菌を持っていそうだ。

隣の赤松林。むかしは、マツタケもとれたそうですが、
これ、ナニダケ? 食べられないと思います。

足元にも、いっぱい広がっていました。

きのこを探して、ふらふら散歩しましたが、結局見つからず。
熟れた桑の実が、木漏れ陽に輝いて綺麗でした。
生えていたのは「アカマツシュウヘンダケ」

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満ち満ちた生命力が放つパワー

地下鉄で、赤ん坊が泣いているのを、ぼんやり眺めていた。
若い母親が抱いて揺らしても、いっこうに泣きやもうとしない。身体を突っ張って、力のすべてを泣くことだけに注いでいる。
「すごいなぁ。大人があんなに力一杯泣いたら、3日くらい寝込みそう」
などと、ひとり考える。
「お母さんも、たいへんだ。もう、子育てするパワーはないなぁ」
3人の幼児を抱えていた頃を思い出すが、あの頃とて、そんなパワーがあったとも思えない。どうやって育てたのか、思い出すことすらできない。

地下鉄に乗ったのは、久しぶりに東京に住む両親の家を訪ねた帰りだった。
父が「夏バテして痩せた」と電話してきて「検査してもどこも悪くなくて、ただ食欲が出ないだけ」というのだが、とりあえず見舞いに行ったのだ。
会うと確かに痩せており、病人然とした雰囲気を漂わせている。
話も暗い方に進みがちだったが、笑顔で聞くしかない。あいづちにも疲れた頃「自分に何かあったら、車は息子(わたしの弟)に」などと縁起でもないことを言うので、話を変えた。
「そう言えば、車、友達に売ったって」24歳になった上の娘のことである。
長旅に出るに当たり、10万キロ以上走った中古の軽だが、facebookで買い手を探し当て、交渉し、売却したらしい。その車のローンも大学在学中に、バイトしたお金で家に全額返金してもらったことなどを、話した。
すると父は、ぽかんとした顔をして、
「廃車にしたんじゃ、なかったのか」と言い、声を上げて笑い出した。
「全く、ぼーっとしてるようで、ちゃっかりしてるなぁ。いや、しっかりしてるところがあるってことだけど」
それからまるで人が変わったように、父は笑顔でしゃべり始めた。孫娘の活発さを、いたく面白がっているようである。
その娘から、来週泊りに来ると、電話があったと言う。
「荷物があるから、車で迎えに行くんだ」
と、80歳までタクシードライバーだった父は、心なしか嬉しそうだ。
しかし、その娘の行動に、わたしは腹を立てた。
「おじいちゃん、具合悪いんだから、面倒掛けるなって言ってあるのに! 何考えてんの? 断っていいからね」と、父にまで腹が立ってくる。
だが父も、だいじょうぶだと言って譲らない。
「全く、もう。孫娘も孫娘なら、おじいちゃんもおじいちゃんだ」
ぶつぶつ言いながらの、帰り道だったのだ。

赤ん坊は、いつのまにか眠っている。
「生命力に、満ちあふれているよなぁ」
寝顔からも見てとれるそのパワーについて、考えてみる。親は、あんなに満ち満ちた生命力と日々向き合っているんだから、そりゃあパワーも出る訳だよ、と思えてきた。自分もそうだったのかも知れないなぁ、と。
そして孫娘の話をした途端、明らかに元気になった父について、考えてみる。あんなに満ち満ちた生命力(娘)がやってきたら、やっぱパワー、出るかも、と思えてきた。とりあえず、来週のことは、彼らに任せるしかない。
雷雨だったという東京の雨も届かない地下鉄で、ゴーゴーと響く走行音を赤ん坊の寝息と重ねて聞きつつ、ひとり自分を納得させた。

帰りに、最寄駅『穴山』近くの蓮池庭園に、寄ってみました。
蓮は、まだかたい蕾でしたが、紫陽花を観に行きました。

実家の都営団地にも、紫陽花がいっぱいだったから、なんとなく。

どんな色でも、綺麗だなぁ。雨に濡れて、輝いて。

ちょっと変わり種のガク紫陽花も、咲いていました。

花達を大切に育てていることが、一目で判る庭園です。

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もし世界中の時計がなくなったら

洗面所の時計が、壊れた。
電池切れかと思ったが、電池を替えても動こうとしない。15年も使っていれば、壊れもしよう。ホームセンターで千円で買った時計である。シンプルで見やすさが身上、丸く白いベースに黒い文字で数字が大きくかかれた「時計人生、ただただ正確に、時を刻むのみ」と言っているかのような時計だった。15年間、ありがとう。

歯を磨きつつ、または風呂上りに、時計のあった場所を見る。だが、取り外した時計はない。時間までもが消えたかのように、空虚さだけが漂う。
「ああ、もう。また、見ちゃった」
ぼやいては、時間確認が必要ない時まで、時計を見ている自分に気づく。

そこにようやく、新しい時計を掛けた。
これまでの時計とは、対極にある、フクロウ型の、フクロウそのものが文字盤になっている時計だ。
「針が、見えないじゃん」と、夫は言う。
だが、もうこれは買うしかない! と、気に入って購入したものである。
本当は、リビングに掛けたかったのだが、それでは夫が言う通り、針は見えそうにない。寝室も間接照明しかなく、やはり、時計として使えそうにない。
しかし、狭い洗面所なら、ばっちりだ。木の壁にも、とても似合う。

何処に掛けるか考えもせずに、購入した時計だが、定位置は決まった。もう、洗面所に空虚さはなく、テキパキと時間は動き出している。
たった1日、ひと所の時計を外し、過ごしただけなのに、時間さえもがなくなったような錯覚を起こすとは。もし世界中の時計がなくなったら、当然の如く跡形もなく、時間というものも消えるような気がしてきた。
  
フクロウなのに、可愛い ♪  購入した『マッシュノート』を紹介します。

年下の友人かよちゃんがオーナーの、ネット販売中心の雑貨屋さんです。
不定期に開く、リアルショップが、原宿にできました。

パリのデザイナー、ナタリー・レテの作品がいっぱい。
フクロウの時計も、ナタリーの作品です。

天井からつるしたバッグ達もお洒落。猫のカーテンは、かよちゃんお手製。

気に入って手放せなくなるモノ達に出会える、素敵なお店です ♪

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カーディガンに、ぽっかり空いた穴

お気に入りのカーディガンに、穴が空いた。
薄くて軽くて、合わせやすい紺色で、上下逆にすれば、ポンチョのような形にもなる夏用の七分袖だ。無印良品で、何年か前に購入したもので、洗濯ネットに入れれば、洗濯機でもガラガラ洗えて、普段使いにも、気合いを入れて出かける女子会にも気軽に羽織れる。冷房対策にはうってつけの強い味方だ。

穴は、肩甲骨の辺りで、縫うと目立つかとも思ったが、ブローチなどをつけられる場所でもないし、まだまだ着たい。お洒落して出かける時には、もう1枚あるベージュのカーディガンを羽織ることにして、普段に着ようと針を刺した。なんとか目立たないように縫いあがり、ホッとする。

これまで、くしゃくしゃにして鞄に突っ込んだり、ソファに置きっぱなしにしたり、車のドアに挟んだりしても、気にも留めなかったが、穴が空いて初めて、どれだけ、このカーディガンに助けられていたかに気づいた。
「あんまりです。ぽっかり、穴が空きました。もっと、大切にしてください」
がさつな持ち主に、そう伝えるために、空いた穴なのかも知れない。

あるいは、と考えを巡らす。
『不思議の国のアリス』は、ウサギ穴に落ち、異世界にワープした。小さな穴だが、この穴は不思議の国への通路を開くために、空いたのだろうか、とじっと見てみる。まあ、もしそうだとしても、白ウサギは此処にはいないし、不思議の国への入口は、ぶじ閉じられた。いや、もしかすると、これは出口だったのか。カーディガンに問うても、濃紺の沈黙が広がってゆくだけだ。
「すぐに穴を閉じちゃって、ちょっと惜しかったかなぁ」
そう思う自分を笑いつつ、カーディガンを丁寧にたたんだ。
  
カーディガンタイプと、ポンチョタイプ。
なかに着ている服によって変えたりして、楽しんでいます。

「不思議の国への案内役は、何も白ウサギだけじゃないよ」と、けろ。

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蝋燭ライト

寝室の就寝時に灯すライトが壊れているのは、もちろん知っていた。
知っていたが長い年月のうちに、その事実は空気の如く、あって当然のこととなり、新しく買い換えようなどとは思いもよらないまま、いつの間にか10年近くが経っていた。
電気がつかなくなった訳ではなく、壊れたのはシェードの方だった。なので裸電球だが使うことはできる。買い換えの必要に迫られなかったことが、長い間放置していた大きな理由だろう。

そのライトを、新しくした。
夫とふたりで、夕食後ふらりと入ったワインバーで、見つけたものだ。
「蝋燭の灯りって、いいですよね」と、ほろ酔いで、わたし。
それは、蝋燭そのままの形をしていて、火が揺れる様まで、そっくりだった。我が家に災害用にと購入した60時間蝋燭が、同じくらいの大きさであることも、それを蝋燭だと思い込んだ原因だ。
「残念ながら、LEDライトなんです」
マスターは、リモコンでライトを消して見せた。
「おーっ、すごい!」と、夫とわたし。
「一人でやってるんで、蝋燭の火を使うのは危険もあるし、お客様が席に着いた途端、このリモコンでライトをつけると、手品みたいで喜ばれるんですよ」
マスターは、ちょっと得意げに笑った。ワインを褒められた時のように。

夫は、メーカーを聴き、さっそく注文した。
リモコンは購入しなかったが、点灯してから5時間で消える設定にでき、夜明け前、静かに明るくなっていくなか、ふっと息を吹きかけたように消える。
その柔らかい明るさに、わたしもすぐに馴染んだ。心なしか、よく眠れるようになった気がする。蝋は本物で、優しく香る匂いのせいかも知れない。

変えてみたら、快適だったり便利だったり、いい感じだったりするのに、そのままを受け入れて放りっぱなしにしていることの、何と多いことか。見直してみようかな。普段の生活。

半蔵門駅近く、こだわりのワインバー『Bapapa』
大きな木製のカウンターを生かした、シンプルな雰囲気のお店です。

寝室のライト。本物の蝋燭のように温かい光が、安全に楽しめます ♪

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静けさに静けさを塗りたくったような夜

道路を挟んだ南側の別荘だった場所に、ソーラーパネルが設置されることになり、半月ほど前、突然工事が始まった。
我が家の土地ではないのだから、もちろん文句は言えない。別荘のおじいちゃんとは懇意にしていたが何年か前に亡くなってからは覚悟していたことでもある。マンションが建つよりマシだとも言える。(こんな田舎に建つ訳ないが)

おじいちゃんは、赤松林だった土地を『松原農園』と名づけ、ひとり黙々と植物園を作っていた。外見は全く違うのだが、わたしのなかでのイメージは『赤毛のアン』に登場する寡黙で働き者でアンを誰よりも愛したマシュウだった。

赤松も、もみじも、百日紅も、山桜も、椿も、花梨も、銀杏も、梅も、みんなみんな切り倒されていった。その騒音は、耳にうるさいだけではなく、胸に響く。外出する日が増えたのもそのせいで、旅した初島では眠ってばかりいた。

業者さんは、夕方5時きっかりに仕事を切り上げる。きちんと挨拶をしてくれる気持ちのいい人達だ。その後は、いつもの静けさが戻るのだが、それがいつもの、とは思えない。身体のなかに音と振動が残っている。いつもよりも、静かなのだ。静けさに静けさを塗りたくったような夜に、変な夢ばかり見るようになった。豆腐を大事に抱えて人ごみのなかエレベーターに乗ったり、終電もとっくに過ぎた真夜中の駅をひとり高架下から見上げていたり、たった今自分で焼いたばかりの出汁巻き卵に触れると氷のように冷たかったり。

此処、北杜市には、次々にソーラーパネルが設置されている。大抵は、林や農地だった場所だ。此処だけじゃない。たいしたことじゃない。と、思ってみる。おじいちゃんにいただいた、もみじも、雪柳も、南天も、庭で元気に育っている。原発再稼働には、絶対反対だ。太陽光発電が、必要だということも判る。それでも、思ってしまう。
「人間は、いったい何をやっているんだろう」と。

空が、やたらと広くなりました。秋の空のように見えるなぁ。

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28℃の視線

林を挟んだ向こう側、お隣にお住いのイラストレーター、小林さちこさんの個展を観に、小淵沢のギャラリーを訪ねた。
いただいた葉書きには『小林さちこ天使展 ―天使のメッセージ―』とある。天使が何か、白くふわふわしたものを大事そうに抱え、祈るように目を閉じている絵が、葉書きにはプリントしてあって『想いの力を信じて』というタイトルに目を魅かれた。

絵を観ていると、さちこさんが現れた。廃材や漆喰に出会い、表現方法が広がっていったことなどを興味深く聞いた。そして、
「最近、とても嬉しいことを知ったの」と聞かせてくれた。
「祈る視線って、伏し目がちで下を向いているでしょう?」
さちこさんが描いた天使達も、下を向いている。
「仏様の視線もそうなんだけど、それが28℃の角度なんですって」
「28℃?」数字が出て来たことに驚き、相槌を打つ。
「そう、28℃。それがね、地面にあたって跳ね返ってね、空に向かうと北極星に行きつくんですって。星空に広がると思うと、祈るってことが腑に落ちてね。それが、最近知った嬉しいこと」
さちこさんの笑顔は、少年のようだ。我が家の前をウォーキングしている姿を見ても、遠目では少年にしか見えない。ヨガの先生であり、空手の段を持ち、日々身体を鍛える姿勢からして真似できない先輩なのである。

観せてもらった天使達に、東日本大震災で被害にあった人々を思わずにはいられなかった。『想いの力を信じて』祈ることの方角を見た気がした。

いただいた葉書きを、アップにした写真です。
廃材の木を彫り、漆喰を塗ったり、紙を貼ったりしているそうです。
ペーパークラフトの作家さんですが、変化、進化を感じます。

小淵沢のギャルリーアビアント。1Fには、カフェもあります。

建物は、不思議な曲線。とても静かな場所にあります。

庭は手入れが行き届き、様々なハーブや花達が咲きほころんでいました。

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助手席の役割り

「助手席に座る人には、役割りと責任がある」
とは、夫の言葉である。ふたりのんびり初島の旅は、熱海まで車で行った。
土砂降りの雨のなか  ♪ 運転手は、夫  車掌は、僕だ ♪
「運転中、運転手が退屈して眠らないように、助手席に座る者は、常に気を配り、しゃべり続けなくてはならない」と言うのだ。「助手」なのであるから。

という訳で、がんばる。しゃべり続けることは難しい。しかし、それより何より、乗り物に乗り眠らないことは、わたしにとっては、ものすごく難しいことなのだ。何しろ、あずさで1時間半眠って乗り過ごし、松本まで行ったことはあるわ、イタリア行きの飛行機では、6時間眠ったといまだ語り草。座った途端に眠る。それは特技と言ってもいい。だが助手席では、その特技は決して使ってはならない。夫もそれを知っているから、わたしが眠らないようサポートしてくれる。話しかけては笑わせたり、外を見るように注意を引いたり。
これって、いつのまにか立場が逆転しているのでは? と、気づいた。
「運転手には、役割りと責任がある。助手席に座る人が眠らないよう、退屈させないようにしゃべり続けなくてはならない」に、なっちゃってるかも、と。

今回もふたりの努力空しく、箱根の山越え辺りで、わたしは眠ってしまった。
「全くきみが口空けて、眠ってる顔見てると、百年の恋も冷めるよ」
夫婦も30年近く一緒にいると、自然とたがいの役割りを判りあえるようになるのである。ほんと、いつも眠っちゃって、ごめん。でもまあ、百年の恋にはまだ時間は足りない。冷めた恋を、温めるチャンスもあるだろう。多分。

雨は横殴りで、霧も出ていました。バスが遅くて、前の車はイライラ。

途中でお昼ご飯を食べると、眠気も倍増してしまいます。

初島では、雨のなか、ツツジが満開でした。

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ドクダミには、毒はない

ドクダミには、毒があるものだとばかり思っていた。
名前に「ドク」と、あるからだ。表に出ているものに騙されやすい単細胞だということが、ことあるごとに証明される。
だいたい毒があるのなら、ドクダミ茶など、在る訳がない。ところが、思い込みというものはやっかいで、その種は、芽を出せば、すぐさま成長し、どこまででも伸びていく。渋柿を干すと甘くなるように、ドクダミも太陽にあてれば毒は消えるのかも知れないと、曖昧で自分勝手で適当な自己判断を経て、子どもの頃から今に至るまで、その蔓は太く空高く伸びていたのだ。

その思い込みを、一瞬にして消し去ったのは、友人の写真だった。
「ドクダミって、なんて綺麗なんだろう」
見とれること、しばし。呆然とし、頭からドクダミが離れず、近隣の林に咲いていないか、ふらふら歩きまわった。
それを友人に言うと、彼女はすぐに、庭のドクダミを送ってくれた。
ドクダミには、毒を抑えるという意味があるのだという。漢方では解毒剤に使われるそうだ。全く逆の意味だったのである。

今、いちばん好きな花は、迷うことなくドクダミだ。
日陰の湿った場所を好むドクダミのために、早く梅雨が来ればいいなと、空を見上げる日々である。

ポットの土は、たっぷり湿っていました。送り主の優しさ、感じます。

それでも土に植え、水をあげると、のびのび深呼吸していました。

木漏れ陽を反射して、まぶしそうにしています。元気に根づいてね!

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バジルを植えた庭

庭に、バジルを植えた。毎年、ハーブで買って来て植えるのはバジルだけだ。
イタリアンパセリは、種が強く必ず芽を出すし、アップルミントは、強すぎて雑草扱い。ワイルドマジョラムや、ローズマリーなども、放りっぱなしで、すくすく育っていく。

1ポット百円のバジルを2つ、購入。スーパーの食品売り場、ハーブコーナーで買えば、一袋200円以上する。庭に植えれば秋まで食べられるのだから、かなりお得である。トマトとモツァレラチーズのサラダなど、アクセントにバジルがあるのとないのとでは雲泥の差。今年も、料理にバジルを楽しめると思うと、浮き浮きする。

夫が、ウッドデッキの下に溜まった落ち葉を掃出し、わたしは、スズランに侵略された茗荷のスペースを広げた。小さな虫達を見て、微笑む。抜いた雑草の根の長さに、また微笑む。去年広がり過ぎたマーガレットを、雑草と一緒に捨てた場所で咲いているのを見て、また微笑む。

日に焼け、汗をかき、虫に刺され、それでも庭仕事をすることですっきりしている自分を見つける。インドア派のわたしなのに。不思議だ。

もうちょっと伸びたら、少しずつ食べさせてね。

双葉の間に出てくる小さな葉が、可愛い ♪

マーガレットって、清楚な雰囲気だけど、ものすごく繁殖力強いんです。

茗荷は、対立していたスズランを抜いてあげると、のびのび深呼吸。

イタリアンパセリには、あおむしくんが、忙しく歩いていました。

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音を立てて弾けるほどの強い思い

昨日、キアゲハが飛んでいるのを見かけ、イタリアンパセリに卵を産みに来たのかなと、去年幼虫を見つけたことを思い出した。
庭のイタリアンパセリが、花を咲かせ始めている。緑そのままの色で、蕾か花か判別が難しいほどジミーな花だが、花火のように丸く散らばって小さな花をたくさんつけるのが可愛く、わたしは大好きだ。多くの種を落とすためにたくさんの花を咲かせる強さにまた、けなげさを感じる。

春の花が、咲き乱れる季節。だが今、蕾を膨らませている花も多い。
イタリアンパセリに花火を連想し、パンッ、と音を立てて咲いていくところを思い浮かべた。蓮の花は早朝、本当に、パンッに近い音を立てて咲くという。
他の花達も、音を立てて咲いているのかも知れない。と、考えてみる。人には、聞こえない音。仲間にしか聞こえない音かも知れないし、動物達、虫達には聞こえる音かも知れない。
花を咲かせるパワーみたいなものって、そんな、音を立てて弾けるほどのものがないと、生み出すことができないんじゃないかと、思うのだ。パンッと弾けるほどの強い思いを、花達は、胸に抱えて咲いていくんじゃないのかな、と。

花が咲いて、種を落として、芽を出して、を繰り返して、
春夏秋冬、食卓に上る、イタリアンパセリです。
気がついた。花火って、花のように夜空に咲くから花火なんですよね。
花をみて、花火みたいっていうのは、さかさまかな(笑)

ナデシコも、咲き始めました。蕾がいっぱいで、楽しみ♪

姫シャラは、木の立ち姿も、葉の艶も、丸い蕾も、大好き。

ラベンダーも、すこーしだけ、色づいてきました。

今年は大雪の被害か、紫陽花は、ほとんど蕾をつけていません。
悲しいけど、少しだけでも咲いてくれそうで、よかった。

紫陽花といえば、蛙くん。もうすぐ、きみ達にはいい季節が来るよねぇ。

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季節外れの蓮池

季節外れの蓮池を訪れたのは、夢を見たせいだ。

夢のなかで、わたしは無口な女子高生だった。友達もなく、窓際で校庭を眺めながら本を読むのが好きだった。教室は、さして居心地は悪くなく、みなが適当に距離を置き、マイペースに過ごしているようだった。
突然話しかけてきたのは、クラスメイトの妹で、あどけなさ残る小学生だった。彼女は、わたしが制服のポケットで飼っていた蛙と、友達になりたいと言う。彼女の姉であるクラスメイトは、毎日学校に妹を連れて来ていた。
何故、わたしの蛙のことを知っているのだろう。誰にも話していないのに。不思議に思いつつ、わたしはポケットから蛙を出し、彼女の手のひらに乗せた。
(どうして、学校に妹を連れて来てるの?)
クラスメイトに聞きたかったが、聞いてはいけないような気がしてやめた。

次の瞬間、わたしは蛙を彼女の手のひらからポケットに戻すと、逃げた。追手が来たのだ。生活指導の目つきが鋭い男性体育教師だ。
蛙を池に、放さなくては。走って階段を下り、校庭を突っ切る。蛙はその池が好きで、放課後、そこで餌を捕らせるのが習慣になっていた。
走って、走って、走って。ようやく池にたどり着いた。なのに、そこに池はなかった。ポケットを探ると、蛙もいない。追手の教師も、消えた。クラスメイトも、その妹も、消えたのだと判る。呆然と立ち尽くし、後悔した。
(どうして、学校に妹を連れて来てるの?)
あの時、彼女に聞かなくては、いけなかったのだと。一歩近づいて、距離を縮めていれば、こんなことにはならなかったのにと。
渇いた校庭の砂を見つめたまま、目が覚めた。

久しぶりに行った蓮池に、蛙はいなかったが、池はそこにあった。
今度同じことが起こったら、彼女達に、一歩近づくことができるだろうか。

前夜の雨が、蓮の葉の上で、宝石のように光っていました。

紫陽花も、たくさん植えられていて、梅雨の季節が楽しみです。

桜の木の下で、1時間ほど読書しました。誰も現れませんでした。

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ラオス、モン族の刺繍に思う

代々木公園に、ひとりふらりと出かけた。
『ラオスフェスティバル』が、昨日今日と開催中なのだ。
ラオスに、特別興味があった訳ではない。
「せっかく東京に一泊するんだから、ゆっくりしてきたら?」
という夫の言葉に甘え、何処に行こうかなぁと、ホテルでパソコンを開き、目に入った。Facebookで友人が紹介していたのだ。天気もいいし、露店を見て回るのは大好きだ。紹介されていた刺繍も見てみたい。

週末の代々木公園は、すごい人だった。
会場を一回りして、刺繍の店を見つけた。大きなタペストリーに、目を魅かれた。小さなポーチなどの細かい刺繍は、ひとつひとつ色や模様が違っている。
ラオスのなかでも山岳地帯に住む山の民、モン族の刺繍だそうだ。ポスターには十歳に満たないような女の子が、無心に布に向かっている姿が映っている。購入したポーチと文庫カバーのなかに、モン族のことがかかれた紙が入っていた。「畑仕事の合間に、小さな女の子からおばあさんまで、女たちが一針一針一生懸命作った刺繍です。刺繍がノートになり薬代の助けになっています」

わたしが昨日、代々木公園に行ったのは、偶然度が高いような気がするが、果たして本当に偶然だったのだろうかと、考えてみる。
今、手元にある、たくさんのなかから気に入って買ったポーチと文庫カバー。この刺繍をしたのは、少女だろうか。あるいは、お婆さんだろうか。もしかすると、お腹に赤ちゃんがいるお母さんかも知れない。
そう思うと、昨日まで全く知らなかった『ラオス』が、急に近しく思えてくる。そしてまた、考える。これらが、わたしの手元にやって来たのは、偶然だろうか。必然なのだろうかと。

帰り際、水を買った店で、ラオス語を教えてもらった。「thank you」と言ったわたしに、彼は笑顔とジェスチャーで教えてくれた。
「ありがとう、thank you = コーブチャイ」
「コーブチャイ」わたしも、笑顔で返した。
その国の人と、その国の言葉を交わし合うのは、とても素敵だ。

ポーチのように全体を埋め尽くされた刺繍柄が多いなか、
文庫カバーの鳥の刺繍が、新鮮に映りました。

これは、別のお店ですが、日本人がデザインして、ラオスの布で、
ラオスの人が作ったバッグ(右上)が、とてもお洒落でした。
  
アジアのもの全般を扱ったお店や、フルーツや缶詰などのお店も。

夏日の代々木公園で、ラオスビール。飲みたかったぁ。
残念ながら、運転があるので、がまん!

スパイシーなフランク『サイ・ウア』と、水でランチ(笑)
麺類や、もち米とチキンのセットランチなど、いろいろありました。

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ミッション『秘密』

この1週間、くよくよしていた。
庭で草取りをしていて虫に刺されたのである。痒みが十日以上続く、刺されたくないタイプの虫だ。刺されたのは、主に首周辺で、このあいだまでタートルネックを着て保護されていただけに、皮膚の抵抗力がなくなっていたのだろう。そこを、狙われたのかも知れない。痒い上に、湿疹のように赤いボツボツが20ほどもでき、けっこう目立つ。首を出すのがためらわれ、スカーフなどで隠して出かける有様である。悲しい。

普段なら、このくらいのことは、まあ気にしない訳だが、昨日は「おお! 久しぶり」と懐かしく会う人が多い集まりに出かけた。普段着ではあるが、お洒落もしたい。黒のチュニックに赤を効かせたビーズのペンダントと、赤い腕時計をつけよう、などと計画していたのだ。それなのに、全く、こういう時に限っての出来事。ペンダントは隠れるが、スカーフを巻くしかないと、やむなく予定変更した。予定変更を決めつつ、くよくよしていたのだ。

くだらないと思いながらも、日々、小さなことにくよくよしているわたし。
「人間、小さいなぁ」でもまあ、それが器だと、すっかりあきらめているわたし。どちらもわたしだが、開き直って、どうせなら楽しんじゃおうというのも、またわたしだ。決心した。わたしは「秘密」を持っている。その「秘密」は誰にも知られてはならない。だから「秘密」を隠すために、スカーフを巻いている。これは、大切なミッションだ。何も考えずに遂行せよ。

ミッション・イン・ポッシブルのメロディを頭のなかで流しつつ、会場に向かう。ところが。友人達に会った途端、全部忘れた。もうすっかり忘れて、ただ、楽しんだ。「そのスカーフ、素敵」と褒められ、嬉しくなって、バカみたいにくすくす笑った。
そして、薦めていただいた九州から持参したと言う焼酎『千鶴』をお湯割りで美味しく呑み、酒が進むうちに暑くなって、スカーフを外した。
「草取りしてて、虫に刺されちゃってさぁ」
ミッション「秘密」は、いともあっけなく失敗に終わったのだった。
     
before すっきりした感じでしょう? → after もったりした感じ・・・。
他に合いそうなのも持ってないし、このチュニックには、やっぱ無地だよね。

たまに気に入ったアクセサリーを、つけるのって楽しいですよね。
何歳になったって、お洒落を楽しむ気持ち、持ち続けたいなぁ。

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『この道はいつか来た道』

町内に信号は4つしかないが、ニセアカシアの木は、いったい何本あるのだろうか。お田植えのこの季節、満開になる花である。百本は下らないだろう。千本? もっと? うーん。数の概念についていけず、推測するのをあきらめる。
いつも通る道にも、これでもかというほど咲いている。美味しい蜂蜜のもととなる花だそうだから、放っておかれているようで大切にされているのかも知れない。食べたことはないが、房ごと天麩羅にすれば、ほのかな蜜の甘みが効いた季節の味を楽しめるそうだ。

もとは『アカシア』と呼ばれていた『ニセアカシア』だが、海外から来た『アカシア』と種類が違っていたため、区別する意味で『ニセアカシア』と呼ばれることになったとか。『アカシア』の方が黄色っぽいらしい。それなら『ホワイトアカシア』とか『アカシア・ブラン』とか、いくらでも呼び方はありそうなものだけど、『偽(ニセ)』をつけられちゃった訳だ。だが日本でスタンダードなのは『ニセアカシア』の方。名前に負けず、堂々と咲いている。

北原白秋の『この道』で歌われたアカシアも『ニセアカシア』だそうだ。

♪ この道はいつか来た道 ああ そうだよ アカシアの花が咲いてる ♪

アカシアとは関係なく『この道はいつか来た道』というフレーズに、参ってしまう。ふと何かを、そして誰かを思い出す瞬間を感じ、泣きたくなる歌だ。
夕暮れ時、山々がかすんでシルエットになった散歩道。「ああ、東山魁夷の絵みたいだぁ」と思った瞬間、今はもういない魁夷が好きだった友人を思い出す。道を、歩く。単純にも思えるその行為に隠されたいくつものトラップに、人は、つまずきつつ歩いていくものなのかも知れない。
晴れた日には、家のなかに居てさえ、ニセアカシアの匂いがふわりと舞いこんでくる。『この道』のメロディと共に。

数えきれないほど咲いています。香りも強く、むせるよう。

アップで見ることはあまりありませんが、清楚な花。
『アカシア』とは『房』の意味だそうです。

背の高い木が、ほとんどですが、手が届く所まで花が咲いています。

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スタジアムのなかのドラマ

夫と、声を潜めて、話していた。
「この親子、どうなってんの?」「うん。不思議な光景だね」
久しぶりにヴァンフォーレ甲府の応援に、スタジアムに出向いた。いつも通りキックオフぎりぎりに着き、空いている席に座ると、前に小学校2年生くらいだろうか、小さな男の子がひとり、甲府のユニフォームを着て、座っている。隣の男性は、相手チーム、柏レイソルの黄色いユニフォーム。ひとりで来たのかなぁと思っていると「ねぇ、お父さん」と、彼は柏サポーターに話しかけた。親子で、違うチームのサポーターだったのだ。
ふたりが席を外した隙に、夫とやはり声を潜めて、話す。
「お父さんが柏出身で、息子くんは山梨育ちなのかな」と、わたし。
「そう考えるのが、まあ、妥当だろうね」と、夫。
でもさ、とわたしの詮索は続いた。長く離ればなれになっていた親子の再会、とか。実は柏に暮らす親子なのだが、息子くんが何故かヴァンフォーレを愛してやまない、とか。

わたしの右隣は、男女の柏サポーターだった。夫婦だろうか。恋愛中だろうか。考えると、スタジアムじゅうの人々のドラマが、押し寄せてくる。
相手サポーターとは敵同士とは言え、同じ試合を観戦し、応援して、その時間を共有している。その連帯感に似た感覚は、悪くない。親しみさえ覚える。勝った時に限りだが。

甲府が2点リードした頃から、柏サポのお父さんは言葉少なになったが、紳士的に息子くんと会話していた。いい感じの親子だった。
考えれば逆に、わたし達夫婦のドラマは、どんな風に見えているんだろうか。
隣の柏サポーター男性の視線は、確実に「あ、奥さん2杯目の生ビール。いいなぁ。旦那も大変だな」と、語っていた。
「いや、これは、わたしが生ビールを飲むと、勝つっていうジンクスが」
視線で語られても言い訳はできず、ただただ美味しくビールを飲んだのだった。運転手の夫には申し訳ないが、夏日のスタジアムでの生ビールは、最高に美味かった。そしてもちろん、ジンクスを守り通したわたしのおかげで(笑)ヴァンフォーレ、3-0で完勝! やったー!

行きの車中から見た、富士山。ちょっとの気温の変化で、
くっきり見える日と、かすんでいる日があります。昨日はくっきり。

甲府、小瀬公園の中銀スタジアムは、暑かった!

やっぱり富士山も、応援してくれていたんだね ♪

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スズランと茗荷の攻防

おしくらまんじゅうを、連想する。庭の、スズランと茗荷である。

今、満開のスズランは繁殖力が強く、庭いじりが好きな近所のご夫婦にいただいたものだが、何年か経ち、いただいた時の5倍以上にはなっている。白く可愛らしく香りのいいスズランは大好きな花で、毎年花を愛でるのを楽しみにしている訳だが、1年前から心配の種にもなった。隣に植えた茗荷も同じように強く、じりじりと自分の土地を広げてきたのだ。
今年はすっかり境界線が曖昧になり、先に芽を出したスズランの下に、茗荷は根を伸ばしていたのだろう。スズランの隙間、あちこちから芽を出し始めた。
スズランの花が終わったら、茗荷に譲ってもらおうと思っているが、その断固として譲らない両者の攻防は、観ていて胸がすく。勇ましく、隙あらば見逃さず根をはる強さ。ただただ、感心するのみである。

春の庭に出て、植物達をためつすがめつ見ていると、忘れていたことに気づく。生命の源だとか、難しいことは判らない。だが、生きていこうとするチカラは、もともと自分のなかにもあるものなんだってことを、思い出す。
植物も動物も人も、誰もが生きようとする強さを持っているはずなんだって。

スズランとツルニチニチソウの間に、茗荷が芽を出しています。

写真のちょうど真ん中、スズランの陰に、茗荷の芽が。
スズランも、茗荷も、どちらも譲らず、テリトリーを広げていきます。

スズランは今、満開。花が終わったら、茗荷に譲ってって言ったら怒る?
  
美味しくいただいたタラの2つ目の芽は、食べないのが決め事。
ぐんぐん伸びて、来年も美味しく、よろしく ♪
白いナデシコの新種(?)は、最初の一つを咲かせました。

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女子会とマムシグサ

毒があるのは知っているが、心魅かれる草花がある。
スズランもそうだが、清楚な可愛らしさや、上品な香りに魅かれるのみで、毒のあるなしに関係はない。しかし、その毒々しさゆえの美しさを感じる花もある。その名も『マムシグサ』

カラーに似た形だが、色は緑や紫で、蛇が獲物を見つけた時のように首をもたげている。茎には蝮の模様と似た斑があり、秋には毒素を含んだ真っ赤な実をつけ、里芋と間違えそうな根にもまた、毒を忍ばせている。

そのマムシグサが、散歩道にたくさん咲いている。芽が出ているなぁと思ってから1週間ほどでもう、立派な花を咲かせているのだから、ジャックと豆の木並みに(と言うのは、もちろん大げさだが)にょきにょき伸び、ぐんぐん育つ不思議な花だ。強いのだろうなと、見とれる。
鳥や動物達に、すべて食べられ根絶やしにならないよう、猛毒とまでは言えない程度の毒を持つようになった植物は多いのだそうだ。
「生きていくために、必要な、毒かぁ。それも何か、悲しいな」
我慢し続けて胸に溜まった『毒』も、我慢できなくて言葉にして投げてしまった『毒』も、この歳になったって、わたしだって、手に余るほど持っていて、それも自分、と受け止めてみる。受け止めて、深呼吸する。だがその深呼吸の息さえも、毒素を含んでいるようにも思えてくる。

そんなことを考えていたら、友人からメールがあった。女子会のお誘いだ。
「嬉しい。友よ、ありがとう!」口に出した自分に、思わず微笑む。
そうだ。人には『毒』を浄化する言葉が、あるのだ。
「ありがとう」と「ごめんなさい」と「愛してる」心から発したその言葉は、自分の『毒』も、周りの人の『毒』も浄化していくという説がある。
「友人達に心からの感謝をこめて、いい酒、飲むぞー!」
その時点で『毒』はすでに、海の水すべてで薄めたほどの効き目しか失くなっていた。いやー、持つべきものは、酒と友だよ。マムシグサくん。

首をもたげた感じがマムシっぽいと言われれば、うなずけます。
でもわたしには、羽根(葉)を広げた鶴にも見えるような。

首をおろす前は、こんな立ち姿。なかは紫色です。調べたら種類が多く、
何々マムシグサですとは、断定できませんでした。

そっぽ向いたふたり、って雰囲気で咲いています。喧嘩中かな?
ふたりとも、しょんぼりしないで仲直りしたら?(笑)
毒を持つきみ達も、光合成しては、地球上のあらゆる生き物に、
酸素を作ってくれているんだよねぇ。ありがとう!

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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