はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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季節の狭間に

「あんまり、変わってないねぇ」
スペインから帰って来て、夫と庭を歩いた。
花が咲く季節でもなく、雑草が一気に伸びることもなく、紅葉にもまだ早い。
「そういう季節、なんだろうね」と、夫。
季節に狭間があるとしたら、ちょうどその時期だったのだろうか。

もう会えないかも知れないと、半分あきらめていたけろじ達も、3匹ほど顔を出した。ウッドデッキで日向ぼっこをする彼らを眺める。
赤とんぼが群れを成して飛びまわっていて、けろじにとまろうと何度か挑戦していた。迷惑そうにしているが、けろじも意地でも張っているかのように、動こうとしない。赤とんぼが背中にとまった途端、けろじは、くるりと方向転換をした。赤とんぼは、あきらめて飛んで行った。

季節は、スローモーションで流れていたのだろうか。
いや。と、考える。変わらないように見える季節だからこそ、じっと見つめると見えてくるものが、より多くあったのではないか。
夕焼けさえも、一期一会。同じ風景はない。
今、見えるものを見て、感じて、暮らしていこう。あらためてそう思った。

南アルプスの、夕暮れ前のワンシーン。飛行機雲が流れ星のよう。

庭のフジバカマの蕾達。すぐにでも、ほころび始めそうです。

イチイの木の先にとまった、赤とんぼ。

南天の実にとまった、赤とんぼ。色にシンパシーを感じているのかな?

ナナカマドのてっぺんには、いつも誰かがとまっています。

けろじ、太ったねぇ。口をパクパクしてるのは脱皮中かな。
まだ大きくなるんだね。もう少しの間、一緒に遊ぼうね~。

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銀杏の木から見た、夕焼け

公園で、銀杏の実が、木漏れ日に揺れているのを、見つけた。
庭の様々な木に、実が生る季節なのだから、イチョウにだって実が生っても当然だが、イチョウは、黄色く紅葉する、その木自体が特別であり、だからまた、銀杏も特別のような気がしていたのだ。
「ほら、銀杏、生ってる」夫に言うと、彼もまた、驚いたようだった。
「本当だ。まだ、紅葉してないのにねぇ」と、うなずく。

イチョウと銀杏。どちらも同じ「銀杏」とかくのは、イチョウという名前がメジャーになる前には「銀杏(ぎんなん)の木」と呼ばれていたからだそうだ。

子どもの頃生まれ育った、東京は板橋の家の前に、大きなイチョウの木があった。「よく登ったなぁ」と、思い出す。
大きな木、といっても、小学生女子が登れるような木だった訳だから、そう太くもなく、枝も下の方で分かれていたのだろう。銀杏の生らないイチョウだった。だからこそ、銀杏の実に親しみがないのだ。木に登って、いったい何が、楽しかったのか。しかし、木の上から眺めた夕焼けが綺麗だったことは、覚えている。「淋しかったのかな」と、思い出す。弟と妹、そしてわたし。近所の子ども達と遊んだ記憶も多いが、ひとりでいた時間も多かったのだと思う。
今となっては、何を思っていたのやら。他人事のような遠い気持ちが、イチョウの葉の隙間から見える夕焼け空に、浮遊しているのみである。

あのイチョウは、まだ、生きているのだろうか。時々、見に行ってみたい衝動に駆られる。駆られるが、いまだ足を運んではいない。

色づき始めた葉も、銀杏の実も、優しい色ですね。

銀杏の実って、まん丸なんですね。種からは想像つきませんでした。

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金木犀の香り

庭で、金木犀が香っている。
10年ほど前に、小さな苗木を植えたのだが、花を咲かせるようになって、まだ何年も経たない。

新婚の頃、住んでいた大田区のアパートと、私鉄の駅とを行き来する道に大きな金木犀の木があり、この季節になると歩いているだけで不意に香りがした。
また、川崎に越してから、子ども達を幼稚園に送る道にもまた、金木犀があった。不意に香るその匂いは、忙しい生活のなかで、季節を思い出させてくれたものだ。

そんな思い出もあり、金木犀を植えた訳だが、その時、小学生だった末娘の反応が面白かった。
「えーっ! 金木犀の匂い、大嫌いなのに!」
そう言い捨てて、娘は、自分の部屋に行ってしまった。わたしは、あっけに取られ、それから、笑い出したくなる感情が、ふつふつと湧いてきた。
彼女は、好き、嫌いをはっきりと持っている。そのことが、嬉しかったのだ。
金木犀が咲く度に、その時のことを思い出す。

彼女は今でも、金木犀の香りが、嫌いなんだろうか。

優しいオレンジ色が、香りを表現しているかのようです。

アップにしてまじまじ見つめると、不思議な形に見えてきます。

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花びらがついた「バカ」

自分で閉めた車のドアに、思いっきり頬をぶつけた。
痛い。だが誰も責められない。痛みが、ただ情けなく頬に残るのみである。

何故ぶつけたかといえば、原因がない訳ではない。降りた場所に、バカの花が咲いていたのだ。この辺りでは「アメリカセンダングサ」のことを「バカ」と呼ぶ。いや、バカの花は、何も珍しくもなく、庭にも道端にも咲き乱れているのだが、ちょっと珍しいバカだったのだ。バカの花にはついていないはずの平たい花びらがついていたのだ。
「あれ、珍しい」と、足元に視線を落とし、そのままドアを閉めた。
その途端、ガツンと顔を殴られたような衝撃。幸せなことに顔を殴られた経験は、まだないが、想像するに、こんな感じだろうと判った。

もともと二つのことを同時にできない不器用な性格である。のんびり、ゆっくりを身上にしている。身体も、その辺を理解して行動して欲しいものである。

ところで、何故「アメリカセンダングサ」が「バカ」と呼ばれているかというと、種になると衣服につきやすい「ひっつきむし種」故にだ。
小学生男子が、わざと友達の背中にくっつけて「バカが、ついてる!」などとやりあう姿は、登下校時によく見られる。季節の風物詩と言ってもいい。
「バカ」と呼ぶ地域は、意外に多くあるそうだ。

「何故、足元に花びらつきのバカが? 誰かの罠か?」
ひとり、バカに毒づくも、こんな手の込んだ罠を仕掛ける者も、意味もなかろうと判ってはいるのだ。
「バカのバカ」つぶやくと、自分でも可笑しくなって、ひとり笑った。

これが、ごく普通の「バカ」

これが、花びらつきの「バカ」

ごく普通の「バカ」の葉っぱ。

花びらつきの「バカ」の葉っぱ。

そしてこれが種。先端の枝分かれした部分で、くっつきます。

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記憶の扉を叩くもの

記憶の扉を叩くものには、様々ある。
例えば匂い。里芋を煮た時に、末娘が言った。
「ああ、お正月の匂いだぁ」彼女は、里芋の煮しめが大好きだ。
また例えば、目の前に広がる風景。霞がかった山々を見ると、東山魁夷の絵と、彼の絵が好きだった友人を思い出す。
そんな風に、単純に思い出す記憶もあれば、何かきっかけとなるものがあり、ぱたりと記憶の扉が開く場合もある。

洗濯物を、干していた時だった。
今年買った、辛子色のチュニックを干し、陽の光が温かにチュニックにそそぐのを見た瞬間、川崎に住んでいた頃の出来事を思い出したのだ。

もう15年以上も前のことである。
夫の辛子色のシャツは、ベランダの物干しで揺れていた。マンションの部屋は1階で、小さな庭がついていて、それが気に入って越したのだった。だが、幼い子どもとの生活に、慣れない環境に、庭いじりをするどころではなかった。それでも、その秋、庭に菊の花が綺麗に咲いた。もともと植えてあったものだ。放っておいても咲くものなのか。植物は強いものだと、ひとり納得していた。庭は西側で、西陽射すなか洗濯物を取り込もうとベランダに出た時だった。隣の老人が、フェンス越しに我が家の庭で咲く菊に水をあげていたのだ。
「ああ、ただ強くて咲いた訳じゃなかったんだ」
わたしは、洗濯物も取り込まず、そっと部屋に入って窓を閉めた。何故だか、声をかけられなかった。

そんなワンシーンが、あの部屋の匂いや、子ども達の幼かった姿や、いろいろな出来事と共に、温かに陽が射す辛子色のチュニックのなかに、通り過ぎて行ったのだ。物干し、辛子色のシャツ、温かに射す秋の陽射し。それが揃ってこそ、不意によみがえった記憶。一生思い出すこともない記憶だったのかも知れないな、と、チュニックの裾を丁寧に伸ばした。
   
夏の間、涼しく着て、これからの季節は重ね着で、重宝しそうです。
「裾を伸ばして、これ?」と、言われちゃいそうですが、
やわらかいガーゼの生地で、しわしわも、味の一つなんです。

このチュニックも、重ね着で楽しめますね。そう言えば、あろうことか、
娘がブログで家族を紹介していて「アジアン雑貨が好きな母は、いつも
不思議な服を着ている」とかいていた。ほっといてください(笑)
現在、チェコに滞在中の娘のブログは、こちら 『23歳、旅人いぶき』

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冬の空気をまとった鳳凰三山

山がくっきり、見え始めた。雨上がりの朝、気温が下がり、雲間からのぞいたその出で立ちは、冬の空気をまとっている。
我が家の前の道路から、毎日のように眺める、南アルプスの山々。甲斐駒ケ岳は、雲のなかにいたが、鳳凰三山のオベリスクと呼ばれる突起は、綺麗に見ることができた。

「あれが、鳳凰三山のオベリスクだよ」
夫に教わったのは、20年以上も前になるだろうか。
だが、わたしには、山の違いなど見分けることはできず、かろうじて富士山と八ヶ岳が、判別できる、という情けない状況。教えてもらっては、忘れ、また教えてもらって、を繰り返していた。
しかし、もう判る。甲斐駒のごつんと丸い形や、鳳凰三山は地蔵岳の不思議に尖ったオベリスク。それが、少し車で走ると、形を変えることや、気温によって、霞んだり、くっきり見えたりすること。15年も、住んでいれば、当たり前と言えば、当たり前だ。

夫に「あそこまで、行ったことあるの?」と、聞いてみた。
すると、彼は「あるよ」とドラマ『HERO』のバーのマスターのように言い、それからしばらく大学の山歩きサークルでの話をしてくれた。ちょっと一言ではかけない、彼の歴史と言ってもいいような、初めて聞く話だった。
今も、あそこを登っている誰かがいるのだろうか。もしかすると、大学生だった頃の夫が、仲間たちと登っているかも知れない。そんなことを考えながら、またオベリスクを眺めた。

「山なん、いっさら見んずら」(山なんか、ちっとも見ないよ)
越して来た頃に、地元の人に言われた。生まれた時から見慣れた山。そこにあるのが当然のモノとして、ただあるなぁと受け入れているのだ。
15年経っても、わたしは、毎日山を観る。いつまでたっても、新住民と呼ばれるのも、しょうがないかも知れないな。

一昨日。我が家の前の道路から見た、南アルプス連峰の、鳳凰三山。
肉眼で見たのと、近い感じの写真です。

カメラを風景モード、アップにして、地蔵岳のオベリスク。

これは昨日の朝、散歩しながら撮った、甲斐駒ケ岳です。
「紅葉が始まってるね」と、双眼鏡で眺めつつ、夫が言っていました。

裾野には、彼岸花が、咲き乱れています。美しいです。

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秋の庭の、木の実達

庭の様々な木に、実が生っている。秋である。
ハナミズキ、ナナカマド、南天には、赤い実。紫式部には、その名の通り紫の実。山椒の赤かった実は、すでにはぜて、黒い種をのぞかせている。

植物に、迷いはない。春には花を咲かせ、秋には実をつける。
人も生きていく上で、花を咲かせるとか実を結ぶとか、比喩として表現されることが多い。結婚して、子どもを産む。何か大きな成功を収める。などなど。

庭を歩き、思った。比喩としてこれまで表現されていることとは、多少違うかもしれないが、今、わたしは、実を結んでいる時期なんじゃないかと。
特別、大きなことを成さずとも、50年以上も、こうして生きている。今、生きていること、それが、庭で実を結ぶ植物達と重なったのだ。誰と比べる訳ではなく、わたしは今、実をつけて、これから熟していこうとしているのだと。

季節も秋だが、人生の季節も秋。そんなことを実感しつつ、庭で実を結ぶ赤や紫の木の実達を、眺めた。

ハナミズキは、赤い実を太らせてている最中です。

南天はまだ渋い赤ですが、寒くなるにつれ、鮮やかな赤に。

ナナカマド。七回釜戸に入れても燃え尽きないといわれる木ですが、
我が家の庭では、まだまだ若く細い木です。

紫式部も、綺麗に色づきました。優しい気持ちになる紫です。

山椒は、もうはぜて、黒い種が光っていました。
足元には、今年出た芽が、少しずつ育っています。

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顔を持たない、小さな花達

運転中、車に人の顔を見ることがよくある。
もちろん、運転席にという訳ではなく、ライト二つが目に見える車自体の、表情を感じるということだ。
「あの車、人相悪いね」「悲しそうな、顔してる」
などと、車の表情に感想を言い合った経験を持つ人もいらっしゃるかと思う。
それがまた、運転の仕方と相まって、表情に色がつく場合がある。例えば、後ろの車が、怒り顔をしている上に、車間を詰めて来た時など「速く行けって、言ってるのかな?」などと思ってしまう。前に遅い車がいる時など、こちらとしてもどうしようもなく「怒らんといてーな」などとひとりごちるしかない。じつは後ろの運転手は、元々車間を小さく取るのが癖だというだけかもしれないのだが。
そしてこれがまた、可愛い顔をした車だと、車間を詰めて来ても、あまり威圧感はない。じつは「遅いよ!」と、怒っているかも知れないのだが。

人は、人工物を自らに似せたがる。車も、然り。ロボットなども、然り。
だからだろうか。花を見ると、ホッとするのは。しっかりと生きているにもかかわらず、花達は顔を持たない。顔を持たずに、表情を作る。
名も知らぬ小さな花達に、ホッとする秋である。

可愛いけれど、毒があるハエドクソウです。庭に咲いていました。

萩は、アップにしてみることが少ないから、新鮮に映ります。

つゆくさも、まだまだ、いっぱい咲いています。

マルバルコウソウ。散歩道でよく見かけます。小指の爪ほど小さいんです。

庭のバジルも、花を咲かせつつ、まだまだ活躍中です。

ミズヒキは、よく見ると花の先が、小さな鉤のようになっています。
生きものに、引っかけてもらって、種を増やしていくためだそうです。

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どんぐりが落ちる音

庭に出ていると、どんぐりが落ちる音が、聞こえる。
かさり。こそっ。ぽとん。擬音に変換することは、難しい。どちらにしても、ひらがなが似合う、優しい音だ。

歩けば、足元でバッタが飛び、赤トンボが、葉や花の先など、てっぺんと言えるいたる所にとまっている。

昨日の朝は、前日のポットの冷めた湯を、起き掛けに飲んだ。温かな白湯が喉を通るのが、心地よい。これまで冷たい水を美味しいと飲んでいたのが、不思議にさえ感じた。
朝食を作りつつ、庭で茗荷を探したが、見つからなかった。毎朝薬味にしていた茗荷のない味噌汁は、いつもと全く違う味がした。

わたしが眠っているうちに、起き出して散歩に出た夫は、久しぶりにリスを見たと、嬉しそうに話してくれた。

先週、薪ストーブの煙突掃除を終え、冬支度は万全だ。薪が燃える暖かい部屋で過ごす時間を思うと、気持ちも温かくなる。
それでも、何故だろう。夏の終わりは、淋しい。

重力に従いつつ、空気抵抗に助けられ、ふわりと落ちてきます。

けろじ? それ、トンボくんの真似してるの?

道端には、コスモスが、秋の風に揺れています。

夫が撮った、リスの写真です。空飛ぶリスくん、何処へ行く?

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イチイの実に見た先入観

今年も、庭のイチイの木が、赤い実をつけている。
クリスマスツリーのような鮮やかな緑と赤のコントラストに、目を魅かれる。何度も見ては微笑んでしまうような、可愛らしさだ。
イチイは2年前に植えた木で、大きくなっていく様も、また可愛く思え、しばらく見とれていたりする。大雪で枝が折れた時にはひどく胸が痛んだが、その部分も判らぬほどに、今は葉が生い茂り、植物の強さに、感心するばかりだ。

その濃いピンクとも赤とも言える実を、初めて見た時には、木がつけた実だとは思えず、じっと見つめてしまった。
それというのも、木の実のようには、見えなかったからだ。まるでクリスマスツリーに飾るプラスチックか、ゴムか何かで作ったモノのように見えた。いや、今だって、そんな風に見えてしまうのだ。
自然が創ったモノと、人間が作ったモノ。その違いを考えると、混乱する。人も自然の一部なのだから、その二つは対義語ではないという考え方もあるが、対極にあるものとして考えられることが多い。

先日夫が、稲を実らせた広がる田んぼを見つめ、ぽつりと言った。
「サッカー場みたいだな」「えっ? 田んぼのこと?」わたしは耳を疑った。
田んぼとサッカー場も、対極にあるもののように思えたからだ。
サッカー好きの夫の目には、田んぼもサッカー場に見えるのだと思うと、イチイの実を見て人工物のようだと感じる訳が、腑に落ちた。わたしのなかにある自然のモノと人工物に対する先入観が、そう思わせたのだと。案外単純にもクリスマスツリーの記憶が、わたしのなかにそれを創っていたのかも知れない。

そんなことを考えながら、信号待ちで、床屋の赤青白のくるくる回るサインポールを見るともなく見ていた。そしてふと考えた。ここは床屋だと先入観から思い込んでいる訳だが、じつはドアを開けてみたら、全く違う店なのかも知れない。バーかも知れないし、拳銃麻薬密売店だったりするのかも知れない。
イチイの可愛らしい実に、人の持つ先入観の不思議と、その先入観の危うさ、怖さが、見えた気がした。

イチイの木の実。何処か人工的に見えるのは、わたしだけでしょうか?

イチイだけじゃなく、この季節、庭はカラフルです。
ピンクのガウラは、夏の初めから花を咲かせていましたが、
今が一番、綺麗。ありったけの花を咲かせている感じです。

清楚なニラの花。田んぼの畦道でもよく見かけます。

ヤブランも、蕾が膨らんできました。もう、咲くね ♪

レンガの間からタンポポ。可愛い~って言ってられないんだけど(笑)

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青にならない信号待ちをして

人は変われないとは思わないが、なかなか変われない部分を持つ、ということは知っている。わたしの場合、何度も失敗しているのに、度々陥る落とし穴は「答え待ち」だ。
何かを、質問する。その答えを、待つ。だがその答えは、永遠に返ってこないものだと気づく。時すでに遅し。そういった失敗を、繰り返してしまうのだ。

仕事では期限があり、答えが帰らない場合、何度も確認する。電話もする。
だが、プライベートであれば、期限が漠然としたものも多く、忙しいのだろうと勝手に判断することが増える。メールの弊害というものもあるだろう。
そしてそのまま、答えを待つ。信号待ちに例えれば、赤と黄を繰り返すのみの状態。陽がくれた頃に、その信号は、もともと青を持たない種類であることが判る。そこに至るまで気づかず、愚直にも青になるのを待ってしまう。やがて、自分が何処へ行こうとしていたのやらすっかり判らなくなっていることに気づくという有り様。
それもこれも自分のなかに、質問されれば答えることが自然なのだとの考えが根をはっているからだ。何度も同じ穴に落ち、繰り返される失敗。そこには、自分に根づいてしまったものがあり、その根を引き抜けずにいることに、原因がある。大人になってから知った「答えたくないこと、面倒なことには答えない」というやり方に、いまだ馴染むことができずいるのだ。不器用で、生真面目。質問には、答えを求める。全く、つき合いにくい人間である。

だが最近、自分自身、忘れることが多くなり「答え待ち」でのギャップに悩むことが少なくなった。返事がないのは「うっかり」なのだと、自分を見て思うこの頃。「忘れっぽいのも、いいかも知れない」と、如何にも気楽だ。はっていた根っこが、思わぬところでスポッと抜けた嬉しさがある。
まあ、果たして本当に「いいかも知れない」かは、誰にも問わずにいることにしよう。それが、答えを待たずに済む最善の方法なのだ。

何年か前に設置された、町内4つ目最新の信号「永井」
いまだに此処で信号待ちすると、やれやれと思うのは、
信号がなかった頃を、知っているからですね。人間の心理たるや。

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鏡のなかに

洗面所でコンタクトをつけた途端、不意に娘が見えた。ヨーロッパを旅している上の娘である。
もちろん、それは娘ではなかった。鏡に映った自分の姿だ。
キッチンに立っていると、夫にはよく間違えられたものだが、自分で似ていると思ったことはない。前髪が伸び、美容室に行かずただ伸ばすだけの娘の髪形に近くなっていたのが原因だろう。やはり輪郭が似ているのかも知れない。
前日に、メールのやり取りを何度かしたし、送ってくれと頼まれた郵便物を、チェコのステイ先に送ったばかりでもあった。

今の世は何処にいてもすぐに連絡が取れ、娘が遠い国いることが、実感として湧いていなかった。それが何故か、自分のなかに彼女を見たことで、突然、遠くにいるのだと感じるようになってしまった。不思議なものである。
中国からフランスに渡り、オランダ、ベルギー、ドイツ、ポーランド、そして今チェコにいるらしい。楽しむことにかけては、誰よりも長けている娘だ。何も心配はない。それでも、なんとなく気になって facebook を開くと、誰かの家で如何にも楽しそうに笑っている写真がアップされていた。

洗面所の鏡に映った、フクロウの時計です。新しいものが苦手な末娘は、
帰省中「なに、あいつ」と洗面所にいくたびにケンカしていました(笑)
上の娘のヨーロッパでの様子は、こちら『23歳、旅人いぶき』

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たくさんのなかの、一つ

今年も玄関の石垣に、キンミズヒキが咲いた。
金水引とかく、黄色い野の花だ。ひっつきむし種(?)なので、誰かについて、我が家の玄関先までやって来たのだろう。もう何年も前から、この季節、定位置で花を咲かせている。
昨日はそぼ降る雨に濡れ、黄色く小さな花がしずくを滴らせる様が、いつにも増して愛らしかった。花言葉は「感謝の気持ち」だそうだ。「運んで下さって、感謝しています」ということか。いや、人が後づけで作った花言葉などに左右されるはずもない。野の花達は、たくましく咲き続けるのみだ。

写真を撮って、初めて気づいたことがある。
1本にたくさんの花をつけていることは、もちろん知っていたが、その一つの花に、雄しべが何本も伸びていることだ。愛らしいとだけ思っていたキンミズヒキの強さを、垣間見た気がした。
まとまって咲く小さな花は、その一つが「一輪」と呼ばれることは、ほとんどない。キンミズヒキもそんな花の一つだ。
漠然と視覚で捉えたままに、そのまとまりを一つだと思いがちな自分を、雨に濡れ、美しく揺れるキンミズヒキの一輪のなかに見た気がした。

小さな花ですが、一つ一つをよく見ると、たくさんの雄しべが。
今年も咲いてくれて、ありがとう。

それが1本にいくつも咲くので、つい一つ一つを見落としがち。

この蕾が、長く伸びて、いくつもの花を咲かせていきます。

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5本の鍵

夢のなかで、わたしは、鍵を持っていた。
5本の鍵は、束ねられていたが、そっくりだ。だが、わたしには一目で判る。
誰かに狙われている鍵。いつ失くしても構わない鍵。自分の部屋の鍵。誰かの部屋の鍵。そして、エレベーターの鍵。

誰かに狙われている鍵は、もちろん誰かに狙われている訳で、夢のなかでも、わたしは鍵を守ることに最善を尽くした。鍵を狙うのは常に厳つい顔した大人なのだが、その周囲には子ども達が戯れている。守っているのは子どもなのだと、漠然と思うのだが、子どもはいつか大人になる訳で、考えれば、わたしの子どもも、みな大人になっている訳で、そのギャップが縮められずにいた。
そして、わたしは、束ねたリングから鍵を外して隠すことを、思いつく。しかし、鍵はリングから外した途端、するりと、いつ失くしても構わない鍵となる。そして狙われている鍵は、しっかりとリングのなかに収まっているのだ。

目覚めてからも、しばらく鍵のことを考えていた。
手放したくないもの。すでに失くしたもの。今この現実。知ることのない現実。未知なる場所へ続く道。5本の鍵は、そんなものを象徴していたのではないか。わたしはいったい、何に固執し、何を手放すまいとしていたのだろう。

何処のか判らなくなった鍵と、キーホルダー達です。
青いキーホルダーは、15年前に乗っていた青い車のキーをつけていたもの。
黒い車に買い替えた今、ついているのは、いったい何の鍵?

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見る人の心持ち次第で

朝起きると、首に痛みを感じた。
右側の腕全体に、神経痛のような鈍い痛みも伴っており、
「もしや、 frozen shoulder(五十肩)再発か」と手を上げてみる。
と、するりと上がった。楽観はできないが、違うようである。
洗濯機を回すだけ回し、首にフェイタスを貼り、ベッドに横になった。右手のハンドマッサージをしているうちに、左手も硬くなっていることに気づき、両手をよく揉み解した。ひとつ気づくと、身体じゅうの痛みが気になり、左足のふくらはぎがずいぶんと張っていることにも、気づいた。
「冷えだな」結論を、出す。
洗濯機のなかでは、すぐにでも干してもらおうと、サッカー壮年である夫の練習着が待ちくたびれているのを知りつつも、2時間ほど起き上がれなかった。

ようやく洗濯物を干そうと、ウッドデッキに出ると、庭で百合が、綺麗に咲いている。前日の夕暮れ、咲き始めたねと、夫と話していた。飛んできた種が勝手に芽を出し、何年か前から咲くようになったものだ。こうして、庭で野の花が咲くのは嬉しい。
だが、わたしの心持ちは、前日とは違っていた。
「なんだか、頭、重たそうだねぇ」
見る人の心持ちしだいで、すべてのものが違って見えるのだと、ひとつ気づいて、多くに気づいたのだった。
(夕方には、だいぶ楽になりました。どうぞ、ご心配なく)

この子は、小さめの蕾でしたが、大きく花開きました。

コアオハナムグリくん、うまく蜜のある場所に、たどりつけるかな?
まだまだ、蕾がいっぱい。楽しみです ♪

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プチ旅 ― 初めて歩く道で

週末、夫と、お隣は須玉町の瑞牆山のふもとに、蕎麦を食べに行った。30分ほどのドライブである。
夫は、久しぶりに一眼レフを出し、寄り道して写真を撮ろうと、ゆっくりと走った。彼は、石仏を撮るのが好きで、瑞牆を登る道には、たくさんの石仏がいる。撮りだしたら止まらなくなるのは知っていたので、わたしは「先を、歩いてるね」と声をかけ、歩き始めた。

すぐ隣の町なのに、見かけない植物を見つけ、新鮮な気分になる。facebookで見たばかりの葛の花や、ミズヒキなども見ることができた。
「初めて歩く道って、いいな」
なだらかな登りだが、標高が高いせいか涼しく気持ちがいい。カメラを向ける植物にも事欠かず、退屈もしなかった。だが歩けど歩けど、夫の車は来ない。
「遅いなぁ。こんなに待たされたら、こっちが、石仏になっちゃうよ」
ぶつぶつ、言い始めてからも、写真を撮っては、歩いた。
「ん? ぶつぶつって、仏々ってかくんだっけ? いや、違うから」
冴えないひとりギャグを飛ばすようになった頃、ようやく夫の車が到着した。
「いやー、よく歩いたね。2キロくらい歩いたんじゃない? あんまりいないから、どっかの家に上がりこんでお茶でもご馳走になってるのかと思ったよ」
「んな訳、ないでしょ!」冷たく言い放つと、彼は言い訳を始めた。
「ごめん、ごめん。近所の人が出てきて、石仏さんの説明してくれてさ」
「おなか、すいたー」「俺も」
始めて歩く道。見たことのない植物。一体一体同じものはない石仏さん達。話し好きな土地の人。ゆったり流れていく時間。たった30分のドライブは1時間半に拡大され、プチ旅となった。そしてもちろん、予期せずしてウォーキングした後の蕎麦は、やたらと美味かったのだった。

ポインセチアの葉っぱのような、この植物は何でしょうか?
『ショウジョウソウ』だと、教えてもらいました。
別名で『サマーポインセチア』と呼ばれることもあるとか。

早くも、栗が落ちていました。中身がないのは動物の仕業かな。

バッタくん、こんにちは。ようやく涼しくなったね。
野葡萄の葉っぱの上は、居心地よさそう。

近所にもあるセンニンソウかと思いきや、葉の形が違うボタンヅル。
花達が、マラカス振ってるみたいに見えて可愛い ♪

生命力が強い葛の蔓。大きな葉っぱは、何処でも見かけますが、
花は、近所では見かけませんでした。よく見るとアーティスティック。
ミズヒキは何枚も撮ったのに、全くピンが合いませんでした。
細長い茎に、小さな赤い花がいくつもついていて、可愛らしいんです。残念。

蕎麦処『みずがき』の、おばちゃん達が打つ手打ち蕎麦は、素朴な味。

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夏と秋の狭間で

甲府からの帰り道、農道を走っていると、道路にふわふわと舞う白いものを見た。「雲?」あり得ない思いつきに、自分で笑う。
心ない誰かが捨てた、ティッシュペーパーだろう。それでも、動いていると生き物のようにも見え、轢いてしまうのも気が引けて、スピードを落とした。

「夏の雲。秋の雲。夏の雲。秋の雲」
季節の狭間に浮かぶ雲達を、ひとつひとつ、選別したくなる。
そんな空が広がっていたから、つい足元に舞うものまで、雲だなんて思ってしまったのだろう。運転の気が散らないよう、道路脇が広くなっているところまで走り、駐車して雲の写真を、心ゆくまで撮った。そこまで走っているうちにも、雲は形を変えていく。空の色も、少しずつ夕方の色へと変わっていった。

ふたたび、走り出してすぐだった。
今度は、真っ直ぐにフロントガラス目がけて飛んできた。あわや、正面衝突。急ブレーキをかけ、難を逃れた。いや。向こうが高度を上げなければ、ぶつかっていた。カーブで、たがいに見えなかったのだ。
反対車線の車が、のろのろと走りながら、飛んで行った猛禽類を物珍しそうに見て「こんなに間近で見られるなんて」とでも言うかのように嬉しそうな顔をしている。羽根を広げた大きさはフロントガラスの幅ほどあり、茶色が強かったことを考えると、多分トビだ。道路に餌でも見つけたのか。

いつも空で見ているからと言って、足元には絶対にないとは言い切れない。
「さっきの白いものは、夏の雲の切れ端だったんですよ」
もしかしたら、トビは、教えてくれたのかも知れない。

北側の夏らしい雲は、八ヶ岳をすっぽり覆っていました。

北側の高いところには、にぎやかに様々な雲が混じりあって。

東側には、夕方なのに真夏の青空が広がり、入道雲がどーん。

西側の南アルプス連峰は、ちょっと霞んで、夏を惜しんでいるようでした。

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いつかマレーバクに会いに行こう

マレーバクについて、調べてみた。
白黒ツートンカラーで、ジャングルの湿地を好んで生息する草食動物だ。夜行性で、一見目立つツートンは、補色となっている。夜には白い部分しか見えず、天敵である虎などは、その身体を把握できないらしい。生息できる森の減少から、絶滅危惧種に指定されている。前足に4本、後ろ足には3本の指があり、もちろん、夢は食べない。

何故、マレーバクなのかというと、2か月ほど前に気に入って買ったフェルトのブローチが、それなのだ。
布製の夏用鞄につけてから、見る人見る人「可愛い!」と言う。その度に得意気に「マレーバクなんだよ」と説明しつつ、そう言えばマレーバクのこと、何も知らなかったなぁと思い当たったのだ。
モノとの出会いも、また不思議なものである。

体長は、約2m。体重、約300kg。じつは巨大だ。
「300kgって、毎年買う米1袋が30kgだから、あれ10袋分!?」
一袋だって一人で運べないのに、これはもう想像もできない。ちなみに、じゃ象は何kgよと調べると、約6000kg。米200袋分。米だわら1俵60kgだから100俵分だ。想像の範囲を軽く超え、マレーバクは重さを失くし、宙を飛んだ。ふわふわと漂うマレーバクを眺めつつ、思う。
「夢も食べる訳だよなぁ」
動物園でいい。いつか、マレーバクに会いに行こう。そう決めた。

一目惚れして購入したフェルトのブローチ。まわりの水色が効いています。
夢を食べるといわれているのは、中国に伝わる架空の動物だそうです。
鼻は象、目はサイ、尻尾は牛、足は虎、身体は熊だとか。
架空の麒麟がいるんだから、架空のバクがいても可笑しくないですよね。

日本人がデザインし、ラオスで作られたコットンバッグです。
リバーシブルでも使えて、なかにはポケットもあります。

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靴擦れ

履きなれたサンダルで、靴擦れした。
もともと靴擦れしやすい足で、かかとの高いサンダルなどは履かない。スリッパのように平坦な、かかとなどないサンダルだ。その上、今年も普段履きに毎日履いていて、突然のことに、ただただ驚くばかりである。
確かに、油断していた。1時間ほどの散歩に、裸足でサンダルは、油断としか言いようがないかも知れない。だが、その同じコースの散歩でさえ、昨日までは、靴擦れなど全く起こらなかったのだ。

昨日まで起こらなかったことでも、何も変わらないように見える今日、それが起こるかも知れないと、右足小指つけ根の小さな擦り傷が、語っている。
サンダルでも靴擦れとは、これ如何に、などと擦り傷よりも小さなことを考えつつ、何が起こるかもしれぬ日常を、しばし見つめた。

散歩コースの田んぼでは、すでに稲が実り、頭をもたげてきました。

田んぼが広がる道を、夏の涼しい朝に歩く幸せ、感じます。

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嫌いではない「それ、嫌い」

末娘が大学生になり、埼玉でひとり暮らしを始めてから1年と少しが過ぎた。
時にはふたりで、飲みに行ったり、ランチしたりと、外で会うことが多くなり、気づいたことがある。彼女は、わたしの服装について、意外と厳しい目で見ている、ということだ。
「それ、嫌い」
先日も、アジアン雑貨屋で3年ほど前に見つけたお気に入りのサンダルを履いていると、彼女に言われた。
「スリッパっぽいんだもん」「そう?」
しかし、わたしは気にしない。彼女と服装の好みが違っていることは、重々承知だ。そして、わたしが気にしないことを知っているからこそ、彼女は正直な感想を口にするのだ。わたしは、彼女のそういうきっぱりとしたところが嫌いではない。彼女がもちろん、誰にでも言う訳ではないことも知っている。友人には気を使って、言わないことが多いらしい。
わたしは、意見を求められた時には、正直に答えるが、こちらから言うことはしない。どちらにせよ、家族なのだから「正直に」というところが大切だ。だからこそ互いに安心して、聞けるというものである。

先月、彼女がスマホを買うために au の手続きに、つきあった。その時にオレンジ色のカーディガンを着て、au オレンジの紙袋を提げた彼女に「それとそれ、おそろいだね」と、ジョークを飛ばし、嫌な顔をされた。
彼女はもちろん、気にしない。家族であるから、わたしのジョークには慣れっこになっているのだ。そして多分、彼女はわたしのジョークが嫌いではない。わたしだって誰彼かまわず、くだらないジョークを飛ばすわけではないのだ。

こんな風に服装の好みを正直に言い合えて、くだらないジョークを飛ばせる仲、というのは、けっこう理想的な家族だと思うのだが、どうだろうか。

軽くて足の負担がまるでありません。そういうところ、確かにスリッパ?
かかとを折り曲げて、スリッパのように履いても、OKです。

革のボタンに、革のひもをくるくる巻いて留めます。このゆるさも好き。

切り抜いてある模様も、靴下と合わせられるところも気に入っています。

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宵待草のやるせなさ

誰かを待たせるのは苦になるが、待つのは苦にならない。
山梨の田舎町、明野に越して来てからは、家族を待つ機会が増えた。夜の無人駅で年頃の娘を待たせる訳にはいかないので、早めに迎えに行く。中央線はよく遅れるので、駅で長い時間、待たされることもしばしば。
そんな時には、車のなかで、のんびり本を読む時間を楽しむ。または、ぼーっとする。考え事などというほどのこともない、考え事をする。
待つのが苦にならないのは、そんな時間が好きだからだ。そして、家族を待つことのいいところは、必ず帰ってくるというところである。
末娘がひとり暮らしを始めた今では、駅で夫を待つ。彼は待つのが苦手だから、早めに行ってわたしが待つのだ。

今、町じゅうに、宵待草が咲いている。
黄色い可憐な、花だ。夕暮れ時にならないと花を咲かせないところから、名づけられたという。月見草も似たような種類だとか。
竹久夢二は、歌っている。

♪ 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな ♪

「帰って来ない人を待つのは、さすがに嫌だな」
宵待草を見て、思う。いくら待つことが苦にならないわたしでも、帰ってくる人がいるからこそ、待つことができるのだなと。

太陽に向かって、咲かない花もあるんですね。

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千日紅と「ありがとう」

トイレの窓に、庭の千日紅を飾った。半日もすると、太陽に向かい始める。植物ってすごいなぁと、ハッとさせられる瞬間だ。
人のように目で見てこっちが明るいと判断するわけじゃなく、身体じゅうで明るい方へと向かって行く。
飾ったわたしとしては、こっち向いてよと言いたくもなるが、太陽に向かって精一杯、背伸びをしているような姿が可愛く、ただ見とれるばかりだ。

似た名前の「百日紅」の木は、庭にはないが、よく見かける。暑い夏に華やかなピンクの花を咲かせ、楽しませてくれる。
千日紅は、その百日紅よりも長く咲き続けるからと名づけたられたとか。もちろん千日咲くわけもなく、1年草なので翌年には咲かないが、好きで毎年植えている花の一つだ。

この「千」という言葉で思い出すのは、イタリア語の「グラッチェ・ミッレ」「ありがとう + 千」で「本当に感謝しています」となる。「千」は「たくさん」という意味で使われている訳だが「千回分ありがとう」みたいに思えて、それが素敵で覚えているのだ。

「ありがとう」ってよく使う言葉だけれど、最近、深く意味も考えず、使いすぎているようにも感じる。「ありがとう」をたくさん言うのはいいことだと思う。平和と繋がる言葉だとも思っている。でもちょっと意識して「千」を溶かして混ぜてみようかな。さらに素敵な言葉になっていく予感がする。

アップルミントと合わせて、飾りました。金属のお香立ての双葉も、
心なしか、太陽に向かっているかのように見えます。

次々と小さな花をつけていきます。今年は紫にしました。

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習慣の重み

伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮社)で「やばいってのは野に咲く梅のことだ。野梅だ」と、泥棒黒澤が言っているが、大辞林で「やばい」と引くと、やはり「野梅」だ。それとは全く関係なく、今非常に、やばい状態である。
体重が、2キロ増えた。3年ほど前、2キロ増えて戻らないと言い始めてから、さらに、である。

考えるに、これは、びっきーが死んだことに起因している。彼と歩いた、懐かしい朝夕20分ずつの散歩。30分を越えないと脂肪は燃焼しないとも言われるが、その20分のウォーキングがわたしの健康を、そして体重を維持してくれていたのである。
習慣というものは、こうして現実の重みとなって現れるのだとしみじみするが、しみじみしている場合ではない。半年で2キロの増加。1年で4キロ、2年経ったら8キロ増加などと計算すると、深刻さが増してくる。
これは本当に、やばい。野に咲く梅ではなく、やばい。ということで、毎日体操することに決め、プログラムを組んだ。どうせなら、ウエストや二の腕を細くしたい。ウォーキングとは違った角度で攻めよう。朝夕20分とまでは言わない。半分の10分からでいい。習慣化しよう。大切なのは、習慣なのだ。

ところで、人というものは、また女性であるなら尚更であるが、ダイエット成功の自慢話などというものは、聞きたくないものである。なので数か月後、スリムになるであろうわたしだが、事後報告はしないことに決めた。いやー、本音は、自慢話したいところなんだけどなぁ。まぁ、誰も聞きたくもないもんね。やっぱ、やめとこう。うん。ははは。(自虐的笑いです)

そう言いつつ、夫とふたり、週末簡単バーベキュー。
ステーキ食べて、がんばろう! おう!(自虐的掛け声です)

炭火で焼くと、アメリカンビーフも柔らかで、ワインが進みます。
「ダイエットするんなら、酒やめれば?」と、夫。
「知ってる? 正論を言うやつは、嫌われるんだよ」と、わたし。

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スイッチを切り替えて

知らず知らずのうちに、スイッチを切り替えている。
大きく分けると、ふたつ。『仕事モード』と、名づけて『嬉し楽しやモード』

在宅勤務であるから、経理の仕事をする時には『仕事モード』スイッチオン!は当然のことだが、苦手な掃除などは、仕事モードのスイッチが入らないと、なかなか手をつけられない。しかし、好きな料理は、スイッチを入れる必要もなく、やっている。それがどうも『嬉し楽しやモード』らしいのだ。創りだす楽しさが、そこにあるからかも知れない。いや、それは人それぞれなのだろう。主婦には2パターンあると聞いたことがある。料理好きと、掃除好き。どちらなのかは、考えるまでもないが。

ところで、苦手なこと、嫌いなことは、負担に感じるのはしょうがないが、好きなことでも、負担になる時がある。日々好きなことをやっている人なら判ると思うが、料理が好きでも、今日は面倒くさいなぁと思う日も当たり前にある訳で、好きを続けたいのならやりたい時だけにすれば本当はいいのだろうが、食べることはそうもいかない。適当にサボりつつも、自分のなかで「最低限これだけは」の線引きを守り、キッチンに立ち続ける。
そんな日には意識して『嬉し楽しやモード』をスイッチオンにする。すると気持ちが軽くなる。あきらめにも似た自己暗示とも言えるが、前向きにあきらめる、この姿勢がわたしは嫌いではない。

さて。今戸惑っているのは、この2パターンにない新しさと懐かしさを両手に下げてやってきた「勉強」だ。スペイン語講座に通い始めたのはいいが、思うように宿題が進まず、なかなか『勉強モード』がつかめない。
分析するに、好きで始めた苦手なこと。掃除とも料理とも違う、新しいパターンだ。って、分析しててどうする? Give upには早すぎるぞ!

『バルめし』のレシピ本が、紛れているところが、わたしらしさ(笑)

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夢は、いつでも波乱万丈

物語のような夢を、よく見る。

神社を隔て、東に猫、西に人間が住んでるのだが、月がいい具合に欠けた夜、神社では、人も猫も堺なく、祭りが行われる。
わたしは旅の途中で、老夫婦の住む家に世話になっているのだが、祭りの夜に限り、眠ってしまう。翌朝、目覚めると老夫婦は何処にもいなくて、昨日までいなかった若夫婦が、朝食の支度をしてくれる。ふたりとも老夫婦と顔つきがよく似ていて、息子夫婦なのだと思い込むのだが、違和感はすでに生じていた。ふたりともが似ていることなど、ある訳もないのだ。ビールに眠剤を、もられたと気づくと同時に、若夫婦は、老夫婦が若返ったのだと判ってしまう。
尋常ではないと背筋が冷たくなり、慌てて逃げるが、追手は足が速い。高層マンション最上階の一室に忍び込み、鍵をかけるが、ふたりは外壁を垂直に登ってくる。獣のようである。わたしは箒でふたりを払い落とす。夢であるから、簡単に追手は落ち、胸を撫で下ろした。
そして、ベランダから部屋に戻ったわたしを迎えたのは、拍手喝采する猫達だった。人間達が祭りの夜、不老不死の薬として、猫を食べる習慣に悩まされていたという。そのリーダーが、すでに妖怪と化したあの夫婦だった訳だ。
わたしは、猫達に見送られて、ふたたび旅に出る。なついた子猫が一匹ついて来て、宙返りすると3歳くらいの女の子に変身し、笑顔を向けた。

朝起きて、開口一番、夫に発した言葉は、もちろん「疲れたー」だった。
何故に眠りながら、こんなにも波乱万丈。夢は選べないとは言え、眠っている時くらい、安らかでありたいと思い、できる限り心静かにベッドに入っているというのに。夢占いなどというものもあるらしいが、果てさて、この夢から、いったい何が判るのだろうか。

モデルロケ地(?)は、お隣、韮崎市『穂見神社』だと思われます。

狛犬さんも苔生す、雰囲気のある神社です。

背中に森を背負っています。東側ですね。

そして、西には田んぼが広がり、住宅が・・・。



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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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