はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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ひとり一人のなかの宇宙を感じて

ポール・マッカートニーは、かっこよかった。
東京ドームで2時間半ぶっ続けで歌い続けた彼は、70歳を過ぎているなどとは、とても信じられない若々しさで、遠目(2階席、実質は3階)に見ていたこともあるが、青年そのものに見えた。歌もギターもピアノも、もちろんだが、彼特有のコミカルなパフォーマンスや、派手なことが大好きといった演出、たどたどしい日本語で笑いを取るサービス精神、本当に素敵なショーだった。何よりポール自身に、楽しくてしょうがないという気持ちがあふれていて、それが会場全体に伝わり、2回目のアンコールが終わった後には「楽しかったぁ」と、ため息とともに言葉が漏れるような時間を過ごさせてもらった。

会場には若者もいたが、同年齢以上の人が目立った。十代、二十代の頃ビートルズを毎日のように聴き、過ごしたその時を思い出しつつ聴いていた人も多いのだろう。夫も、一緒に行った夫の従弟もそうだ。だがわたしは違った。ビートルズにハマったのは2年と少し前で、この2年間を凝縮したような思いを巡らせつつ、聴いていたのだ。

ああ、あの曲。ああ、あの歌と聴きながら、気づいた。
明るくにぎやかな『オブラディ・オブラダ』や『レディ・マドンナ』は、辛い気持ちの時によく聴いた。そんなほろ苦さが、底抜けな明るさにトッピングされている。
そんな気持ちが落ち着いてくると優しいメロディラインの『ブラック・バード』や『レット・イット・ビー』を、運転しつつも泣きながら聴いたりした。涙がエッセンスとなっている。
元気いっぱいな時によく聴いたのは『ペーパーバック・ライター』や『デイ・トリッパー』そこにはただ平穏があった。

わたしは、この2年を思うが、集まった多くの人は、何年もの様々なエッセンスを振りかけた思いを抱えつつ聴いていたんだろうな。
そんなひとり一人のいくつもの思いが同じ場所に集まって、またバラバラに散っていく。そう考えると人の気持ちの不可思議さにたどりついてしまう。人というもののなかに宇宙を感じる、ファンタジックな夜だった。

ものすごい数の人いきれでした。ドームは静かに存在していますが。

会場内は、ケータイでの撮影OKでした。
わたしのケータイで2階席からでは、開演前風景はこんな感じ。
  
東京はもう、あちらこちらがクリスマスでした。

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右か左か、表か裏か

2分の1の確率で、手に取ったものに、やたらと「外れ」が多い。
たとえば毎朝つけるワンディコンタクトレンズ。左右の視力が違うので、右か左かどちらかなのだが、長年の習慣から右を先につける方がつけやすく、右用と思って手に取ると左だったというような具合だ。眼鏡をはずしてつけるわけだから、手に取って目に近づけないとわからず、どちらかなのだからと適当に手にする。それが、「あー、また今日も外れだ」と、贔屓目に見ても80%以上の確率で外れ。その上、つけるときにも表裏があり、人差し指にとった小さな薄いソフトレンズは、たいていが裏なのである。

その他にも、セーターを着る時にも背中についたタグを確かめているのに、前後ろ逆に着てしまったり、大柄の刺繍が気に入っているショールを巻く時にも、裏表逆に羽織ってしまったりする。左右もとっさに判らず「そこ、右行って」と助手席の夫に突然言われると、確実に左に行く。方向音痴だとは何度もかいたが、逆方向に歩いていることのなんと多いことか。
こうなるともう左右裏表認識能力が欠如しているか、または右脳左脳が逆になっているとか思えない。その他、考えうることとしては「どっちでもいいや、違ってたらやり直せばいいんだし」と、自分も気づかぬ心の奥深くで、いい加減さが限りなく広がり巨大な樹海を作っているという可能性くらいだ。

そんな右も左もわからないわたしだが、大人になり、仕事をして、結婚し子どもを育て、車だって運転している。なんとか人並みに生きていけるものだよなぁと、朝の洗面所でコンタクトレンズをつける度「また、外れ」と笑い、憂いつつ、2分の1以上は生きたであろう人生を振り返ってみたりするのである。

お気に入りのショールは、ベージュベースに藍色の刺繍部分がポイント。
  
買い物に行った甲斐市のショッピングモール駐車場から観た、富士山。
「横に広がったものを、縦で撮ってみるとまた面白いよ」とは、夫。
富士山の表裏問題は微妙ですが、わたしは山梨県民ですから、断然、当然!

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鏡の気持ちに、寄り添って

運転中、カーブミラーを見て、気持ちが和むことがある。田んぼに映った空が見えたり、紅葉した山桜が目に眩しかったり、すれ違う車が少ない田舎町だからこそ、そんな景色もゆっくりと胸に落とし込むことができる。

我が家の近くの四つ角にも、ミラーが設置されているが、その角度が微妙にズレている。もう10年以上、直そうとする人もないが、事故も起こらず平和だ。どんなズレ方かというと、右からやって来る車が見えるはずなのに、自分が見えてしまうのだ。ボーっとしていると、あ、黒のフィットが来た、と何年経ってもとっさに、アクセルを踏むタイミングが遅れるわたしである。

最近ふと思うのだ。フィットは、ここで出会う黒のフィットのことをどう思っているのだろうかと。鏡の存在を認識し「あ、ちょっと汚れてきたなぁ。洗車して欲しいよなぁ」などと文句を言っているのか。はたまた「あ、いつもここで会うね。こんにちは。元気だった?」などと挨拶しているのか。更に想像をふくらませれば「あ、あの子だ。ポッ」などと恋心が芽生えていたりするかもしれないなどと考え、楽しんでいる。

鏡は時に、意外なものを映し出して、驚かせてくれる。そんなハッとする瞬間に出会う度、鏡がくすりと笑っているように感じる。事故を起こさず過ごさせてくれている、日本中に設置された数えきれないミラーも、様々な景色を映し出し、何かを感じたり、笑ったり、喜んだりしているといい。長い年月そこで働いて、いろいろなものを目にしてきたのだろう。感じる心が生まれても、可笑しくはないと思うのだ。
  
当然ですが、見る方向によって映る風景も変わってきます。
車からは見えない、下から覗いて撮った風景。
   
要注意人物&要注意犬? ミラーの下には、蔓が紅葉していました。

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紅葉には、気持ちを高揚させる効用がある

紅葉には、気持ちを高揚させる効用がある。って、いきなり駄洒落ネタ?
いやいや。これがけっこう的を得ているのだ。

綺麗なものを見て、ハッとする。驚きがある。気持ちが高揚する。そんな体験は誰しも持っていると思う。そのなかでも、赤と黄色に目を奪われる紅葉の美しさには、色がもたらす効用が混じっているらしい。
赤にはアドレナリンの分泌を高め、黄色にはパッと気分が明るくなる効果があるという。そして、その2色には共通して、元気が出る効果、ストレスを和らげる効果があるともかかれていた。
それって、高揚した気持ちがすとんと着地し、心を落ち着かせてくれるという至れり尽くせりの癒し効果を期待できるんじゃないかなと勝手に考えた。

何気なく、ただただ綺麗だよなぁと、歩いては見て、見ては歩いている秋の道に、ああ、わたしは、もしくは人間は、あるいは動物たちも、心癒されているのだなぁと、色の効用を調べてみて、何かがやはり、すとんと着地した。

調べたホームページには、何色だろうと好きな色がそばにあると落ち着くとあり、自分の好きな色を考えたところ、クールであるはずのみずがめ座にあるまじきことだが、『ピンク』なんじゃないかと思い至り、部屋じゅうピンクの物を置いたところを想像してみた。
「いや、絶対落ち着かないって」と、やたら落ち着かない気分になり、何処にでもある「個人差」という言葉で着地させることとした。

漆(うるし)の色の変化は、本当に面白いです。

紅葉とかいてモミジと読むくらいだから、色も形もやっぱり素敵。
「紅葉つ(もみつ)」=「葉が色づく」が、モミジの語源だとか。

山桜の赤は、深くて綺麗。ハッとさせられる赤ですね。
  
足元の白いキノコも、1週間ほどで傘が開いて色づきました。

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娘の特技

23歳の上の娘は、大きな特技を持っている。
それは、様々なことを楽しむ素質だ。楽しむことにかけての情熱の傾け方は、彼女を知ってはいても、いつもながら驚かされる。どうでもいいことなど、人生において何一つないとも言うが、どうでもよさそうなことは、山ほどある。
「どうだって、いいじゃん」と娘が口にすることも多い。
血液型はA型だが、大雑把なところが目立つ性格をしている。
その彼女にとって「どうでもよくないこと」=「楽しむ要素があること」なのだ。常に全力投球。山があるから登るが如く、そこに楽しむべきものがある限り、休む暇なく楽しみ続ける。この姿勢に揺るぎはない。

大学の学園祭でもまた、わたしは驚かされることとなった。英会話サークルで『お化け屋敷』を出すことは知っていた。それに情熱を傾ける姿も「青春よ、のう」と、見守っていた。前日夜中まで、案内板ポスターを印刷しながら「恐い。恐い。眠れない」とひとり恐がっていて、それにも笑ってしまったが、驚いたのは、当日娘が帰って来てからだった。
「ただいまー。お腹空いたぁ」
そう言ったその顔は、白と赤で塗りたくられ、所々ブラックジャックさながらの傷が描かれている。
「その顔で、1時間、運転して帰ってきたの!?」
対向車線で彼女を見かけた人は、災難だったろうにと思いつつ、聞く。
「だって、疲れちゃったんだもん。顔洗う気力、なかった」
全力投球のあとは、全力で脱力。わかりやすい。『お化け屋敷』は大盛況で、恐くて泣く子も出たという。
「すっごい恐かった。お化けやってる時、ひとりでいるのが超恐くて、人が来るとまた恐いんだよー」
何もそこまで恐くしなくても。聞けば、企画も化粧も、娘が考えたという。
「だって『お化け屋敷』が恐くなくっちゃ、面白くないじゃん」
そう言いながら、その顔のまま、わたしが作った味噌ラーメンをすする娘が、わたしは恐かった。

凝った感じの看板。描くのが好きな友達の作品だとか。

右の小さい方の案内用ポスターを印刷していて、恐くなったらしい。
このポスターを、学校中に貼ったようです(笑)
オーストラリアのゾンビウォークで、覚えたという化粧。
その姿が見たい方はこちら→『23歳、旅人いぶき』

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薪ストーブの上にいる応援団

先月行った、高遠の『薪ストーブ祭』では、お目当ての薪用ラックは、売り切れていた。夫から話を聞くだけで、わたしはお目にかかることもできず、たいへん残念な思いをした。
だがそこで、小さな味方と出会った。その名も『ストーブファン』

小さいが重くて存在感がある。不思議な形にも目を魅かれた。そして、またの名を『エコファン』という。薪ストーブの上に置いておくだけで、その熱で自動的に電気が起こり、ファンが回るのだ。自然の法則に従い、上に上がってしまう温まった空気を前に送ってくれる。我が家は、薪ストーブの上が吹き抜けになっていて、暖気が2階に逃げやすい。どうやってリビングで温かく過ごすかは、毎年の課題なのだ。
「これは、すぐれものだね」「うん。すごい」ふたり即決し、購入した。

それが今、リビングの片隅、薪ストーブの上に置いてある。その羽や姿格好が、滑稽にも応援してくれているように見えるのだ。ふと見せる、モノの表情の面白さ。それに気づこうとすることで、気づこうとしないより、自分達が生きている小さな世界が少しだけ豊かになる気がする。
「本番は、これからだよ。よろしくね」小さな応援団に、声をかけた。
  
「フレー、フレー、右手くん! がんばれ、がんばれ、左手くん!」
なんて言っているように見えるのは、わたしだけ?

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霧が作ったモノトーン

温度が急激に上がったり下がったりするこの季節、愛車フィットのフロントガラスが、よく曇るようになった。エアコンを調節し、曇らないようにするが、実は霧だったりする。目の前のガラスの曇りを、いくら取っても無駄である。温度の変化は、霧をも創るのだ。

しかしだ。「また、霧かぁ」とライトを低くし(フィットにはそういう機能がある)しばらく走ってから、フロントガラスが曇っていることに気づく。全く、目の前にことが見えていない自分に呆れつつ、ライトを上げ、エアコンを調節する。自然が作る温度変化に、ただただ遊ばれているわたしである。

『木を見て森を見ず』という諺があるが、木を見ていては森は見えず、森を見ていては木は見えないものなのかもしれない。

山梨は明野に越して来て面白く思ったのは、3分走ると霧は晴れる。そしてまた3分走ると霧の中に入る。たとえば最寄りの無人駅穴山に、朝夕末娘の送り迎えをしていた3年間。
標高600mの我が家からひたすら下る。その間に霧から抜け出る。そして国道を突っ切り、ひたすら上る。穴山というくらいだから、山である。また霧のなかに入る。逆に降りた国道の辺りが霧で、我が家も穴山の霧が晴れていることもある。

行く先が不透明になるのは恐い。霧の中に、誰にも見られてはいけない何かを隠してしまいたくなる。そして隠した途端、気づくのだ。霧は晴れている。単にフロントガラスが曇っていただけなのだと。

我が家の玄関にある、駐車場からの風景。

右の山桜の木は、13年前に隣の林から3㎝のチビくんをいただいたもの。
もっと背が伸びたけど、あまりにひょろひょろしていて夫が剪定しました。
(モノクロバージョンで撮った訳ではありません)

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落としたボタンの行方

ウッドデッキで、蛙が日向ぼっこしている。
「おっと!」洗濯物を干しつつ、踏みそうになり驚かされた。
「きみ、秋らしい、色になってきたねぇ」
どの程度、蛙が変色するのかは知らないが、最近見かける蛙は、見るからにアマガエルです、という綺麗な緑色ではなくなった。身体も太ったものが多く、すっかり冬眠の準備は出来ているかのようだ。
洗濯物を干し終える頃には、もういなくなっていた。ウッドデッキの下に、降りたのだろう。これだけ涼しくなっても、長い日向ぼっこは身体に応えるのかもしれない。約30㎡のウッドデッキの下は、冬眠するのに打って付けのような気もする。

13年前、越して来た年の夏、夫を手伝い、まだ中学生だった息子と3人で、炎天下、素人ながらに基礎を組み立て、水平を計り「そこ、右、右、いや左だ」などと言いながら、何日もかけて張ったウッドデッキだ。それからの年月に、半分ほどの板は傷み、張り替え、何年かごとに塗り替えもした。

この板張りのデッキの上で、いったい何度バーベキューをしたことだろう。
年に1度、デッキの下を夫が掃除しているが、スプーンや箸やハマグリの貝殻、ボタンやアクセサリーなどが出てきたりする。暗く見えないなかで、落ち葉を掃きだすための掃除なので、まだまだお宝も眠っていそうだ。
ふと、さっきの蛙が、ボタンやスプーンや貝殻で飾った、土のなかの家に住み、冬支度であれこれ調達に回っているかのような想像が膨らんだ。そしてこの間、高遠をドライブした時に、落としたワンピースのボタンを思った。あのボタンも、何処かで誰かが、大切に使ってくれているといいんだけれど。

眠たそうな気怠い感じが、目元に表れていますね。

けっこう広いです。10人でバーベキューOK!
木が痩せて、板と板の隙間もずいぶんと空きました。

高さも、1mほどあります。小さい子が来ると、落ちないかとハラハラ。

ウッドデッキから見上げた、隣の赤松の林です。

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台風一家?

子どもの頃、ニュースから流れてくる「台風一過」という音(おん)を聞き、台風の家族を思い浮かべた。童話に出て来そうな、台風のお父さんとお母さん、そして子ども達。台風一家だ。
最初に描いたイメージというものは、強く残るものらしい。いまだに台風一過から、台風の家族を連想してしまう。本物の台風は、そんなに可愛らしいものではなく、恐いものだと見聞きし、知っているにもかかわらず。

昨日も午後になると、青空が見え、紫外線の強そうな秋の陽射しが眩しく降り注いだ。秋も深まったこの時期、台風が通り過ぎた風景は、何もかもが色鮮やかで、日に日に秋が深まっていることを、あらためて教えてくれる。

夫の1週間の出張も、今日でおしまい。
上の娘との攻防戦も、幕を閉じる。
「寒いなら、薪ストーブ、焚けば?」「お母さん、焚けば?」
そう言いつつ、薪も運ばずに厚着して、または毛布をかぶり、ふたり過ごした。そんなことを言っていられないほど、冷たい冬がもうそこまで来ている。娘との攻防も、今はプロローグで、本章に入るのはこれからかもしれない。
高く青い台風一過の空を見上げつつ、明日は薪運びかなと覚悟を決めた。

ススキが1本、背伸びしていました。

桜の葉は、紅葉の季節も楽しませてくれますね。

駐車場は、落ちてきた山栗でいっぱい。

またまた未確認キノコ発見。マッシュルームじゃ、ないよね?きみ達。

今年植えたばかりのハナミズキですが、実が真っ赤になりました。

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おー! フラッシュ!

機を逸した。もう少し、もう少しだけ、と色づくのを待っていたノブドウの実が、綺麗に刈り取られていた。ノブドウを食べる人はいないので、ただ地元の人が草刈りしただけだろう。もちろん、わたしが日々観察していたことなど知る由もなく、邪魔な草を刈っただけのことだ。悪気などありはしない。

ブログをかき始めてから、夫にずっと言われていた。
「デジカメ、買ったら?」
うん。と言いつつ、1年半過ごしてきたのは、ガラケーの画像の精度がなかなかよかったことと、余分なものは持ちたくないという性格からだ。
しかし、5年も使っているガラケーは、フラッシュさえたけない。このたびようやくマイデジカメを購入し、試しに1枚撮ろうとした瞬間、自動でフラッシュが立ち上がり、驚かされた。
「おー! フラッシュ!」すごい。フラッシュだ。フラッシュがある。
フラッシュという言葉が、ゲシュタルト崩壊していくほど、フラッシュとは疎遠だった日々を思う。これからはフラッシュとも親しくなれそうだ。だが、自動でフラッシュが立ち上がらないようにするにはどうすればいいのか? さらに四苦八苦。先が思いやられるが、少しずつ仲良くなっていこう。

ノブドウは、デジカメを、待っていてはくれなかった。
たわわに実るノブドウは撮り損ねたが、小さく実るノブドウをカメラに収めた。植物の季節とはまた別に、そこに人が介入する難しさを感じる。それが自然だとも思う。人も草刈りも自然のうちなのだ。
写真なら、待たずともいくらでも撮れる。機を逸することなく、パシャパシャ撮ろうと、刈り取られたノブドウの痕を見て、カメラの電源をオフにした。

ノブドウの実は、不思議なグラデーションで楽しませてくれます。

蔓梅擬(つるうめもどき)は、まだ、これからかな?
オレンジ色のガクのような部分が割れると、なかには真っ赤な実が。

ひとつだけ開いて、赤い実をのぞかせていました。
赤とオレンジが、ドライフラワーにしても色あせないので人気。
うかうかしていると、また、失くなってしまいそうです。

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ストレス解消法は何ですか?

是枝裕和監督映画『そして父になる』を、観た。
映画を観て、こんなにもぽろぽろと涙をこぼしたのは久しぶりだ。
赤ん坊の取り違えを知った2つの家族の物語。子ども達は6歳になっている。6年間過ごしてきた我が子が、他人の子だと初めて知ったら。
描き過ぎないところが、観ていてとても心地よい映画だった。そして、女優、真木よう子がとてもよかった。それ以外のことは、伝えられる自信がない。観ないと判らない。まあ映画なんて、そういうものなんだけど。

子ども達が幼い頃、ひとりで夜中に、よくレンタルした映画を観た。観て泣いた。思いっきり泣いた。アイロンを掛けながらだったり、洗濯物をたたみながらだったり、ビールを飲みつつよく泣いた。今思えば、泣くことで子育てのストレスを、たとえばひとりでふらりと出かけられない状況とかに対するストレス? を、解消していたように思う。

末娘と久しぶりに会い、思いっきりしゃべり、食べ、飲み、笑った。夜にはひとりふらりと、バーにマティーニを飲みに出かけたりもした。マティーニの強さのせいか、熟睡した。右手くんが frozen してから、朝まで起きずに眠ったのは初めてだ。
何もかもがすっきりし、まるでリセットされたかのように感じつつ、浦和駅から新宿湘南ラインに乗った。

しゃべること。食べること。酒を呑むこと。笑うこと。眠ること。そして、泣くことも。人は必要としているんだと実感した。貪欲だなぁとも思うが、そのくらいのことなら、たまに思いっきりしたって、贅沢未満で許されるんじゃないかな。じつに判りやすい、わたしのストレス解消法である。

浦和シネコンの入口、飛行場みたいと思うのは、田舎者の発想?
水曜レディースディで、千円でした。
 
福山雅治、昔から好きです。夫は、真木よう子のファンです。
そう言えばこの二人、NHK大河ドラマ『龍馬伝』で共演してましたね。

帰りに寄った浦和名物の和菓子屋『花見』西口駅前にあります。

白鷺宝(はくろほう)という、丸っこく可愛い和菓子が有名。

たまには、ひとりマティーニ。リフレッシュしますよ。
ジンとドライベルモットとレモンピール。家でも作ってみようかな。
あ、忘れちゃいけないのが、オリーブでした。

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坂のない街

結婚してからというもの、坂のない街で暮らしたことがない。
引っ越しは3度した。最初に住んだ6畳一間のアパートも、坂の上だった。
自転車で買い物に行くも、帰りが坂道となるとあまり意味がない。マイカーなど、駐車場代だけでもバカにならない都心で持てるはずもなく、不便極まりない生活を、何とも思わず受け入れていた。若かったよなぁと思う。
今住む田舎町では、車がなければ何処にも行くことができない。しかしこれまで暮らしてきた街より、遥かに便利だ。車がある。ただそれだけの違いだが、マイカーを買い、車ってこんなにも便利なんだと、途方に暮れるほど驚いたのを覚えている。地球のことを考えると、その便利さに頼り、甘えすぎるのもどうかとは思うけれど。

末娘が春から暮らしている浦和には、田舎にないものが何でもある。
コンビニやヨーカドー(末娘は『イトヨさん』と呼ぶ)だけではなく、パルコも伊勢丹もある。シネコンも県立図書館もある。居酒屋も銀行もたくさんあるし、当然のようにスタバもある。なにしろ駅がある。西口駅前には、浦和レッズのメンバーの手形や足形、サインがある。小野伸二の足形だってある。
商店街もある。彼女は越して来た時に、コロッケを揚げて売っている肉屋が、物語世界のなか以外で実在することを確認し、感動していた。
あるあるだらけ。それなのに、坂はない。もうこれは便利すぎるぞと、実在する街なのか疑わしくなるほどの便利さだ。

だが今はもう、便利とか不便とかを越え、長い坂道を、のぼってそして、くだって。そうして歩いた生活がただ懐かしい。風情と言おうか、坂のある街が持つ味わいは、わたしのなかに、しっかりと息づいていて、わたしという人間の一部を形成しているようにさえ思える。

坂のない街で、彼女がつつましく暮らしている様子も、垣間見えた。
「最近、卵、食べてないんだよねぇ」と、娘。「なんで?」と、わたし。
「だって、イトヨさんで、安売りしないんだもん」
「卵って200円くらいでしょ? 安売りじゃなくても」
「安売りだと、98円なんだよ。その違いは大きい!」
ふたりゆっくりランチした後、イトヨさんで、198円の卵を買った。末娘はピンクのエコバッグを、ちゃんと持参していた。

末娘が、いつも前を通るだけで入ったことがないというイタリアンで。
ピザは、窯で焼いていました。ハロウィン一色のにぎやかな店内。

ピッツァ・マルゲリータは、フレッシュトマトでジューシーでした。

雑貨屋さんも、探さなくてもたくさんあります。

小野伸二の足形とサイン。伊勢丹前の歩道です。
「こないだ、ヴァンフォーレがレッズに、ロスタイムで追いついてさ」
「しぃっ!」と、娘。「非県民だって、白い目で見られるよ!」

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とれないペットボトルのフタ

新宿に向かう特急あずさのなかで、推定2歳の男の子がぐずっていた。
「だからね、これは、とれないの」と、必死に説得するお母さん。
「いやだ、とって! ふた、とって!」と、べそをかく男の子。
水を買ったはいいが、フタがとれないタイプのペットボトルだったのだ。確かに小さい子などでも、フタを落としたりせずに扱えるから、便利な部分もあるかもしれない。だが、個人差は大きいが、初めてのこと、初めてのものに対して、子どもは簡単に受け入れられないことが多い。
しばしの間、揉めた挙句、水飲みたさか、疑心暗鬼になりながらも彼は一口だけ飲み、眠ってしまった。

息子が、そうだったなぁと思い出した。同じ道を歩くことや、同じ服を着ることに、こだわった。そういえば、晴れの日も常に気に入った長靴ばかり履いて、買っておいた運動靴がほぼ履かずに小さくなってしまったこともあったっけ。パジャマが小さくなって着られなくなった時には、泣いてずいぶん抵抗した。新しいパジャマがあるのに、小さなパジャマを着続けた。

こだわりを持つことは、大切だ。それと同じく、新しいものを受け入れることも大切だ。大人になったって、その両方をバランスよく大切にしていける人は少ないんじゃないかな。
家族で言えば、わたしと息子と末娘は、こだわる方に傾き、夫と上の娘は、新しいものをどんどん受け入れる方に傾いている気がする。
だが、息子は東京で働き、ひとり暮らしている。末娘も、さいたまで大学に通い、ひとり暮らしている。新しい街を受け入れ、新しい職場や学生生活を受け入れ、暮らしているのだ。すごいことだよなぁと思う。息子は今、たぶんパジャマなど着て寝たりはしないのだろうと想像する。部屋ではコンビニにだって行ける格好で、過ごしているに違いない。

ペットボトルのフタがとれずぐずっていた男の子も、これから様々な新しいことを受け入れ、大人になっていくのだろうと当たり前のことを考えた。
春に大学生になった末娘のマシンガントークが聞きたくなって、さいたまは浦和に向かう途中のことである。
  
浦和までは約3時間。駅前には、うなこちゃんが立っています。
やなせたかしさんが作った、鰻の街、浦和のシンボルキャラです。

西口の仲町商店街。昭和の香りがするけれど、にぎわいはあります。

ちょっと歩くと、雰囲気のあるお寺『玉蔵院』が。
春には樹齢百年の古木、しだれ桜が綺麗だとか。

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木を見ず林を見ず、ただ秋の林で

松葉が絨毯のように敷きつめられた、我が家の隣の林を歩いた。
テーマは「木を見ず、林を見ず」
自然と目に入るもの以外は見ず、ただただ感じる。

しかし、足元は見て歩かないと、何がいるかわからないので不安である。
蛇などは音で判りそうだが、蛙を踏みつぶしても可哀想だ。冬眠の季節までのわずかな時間を楽しませてあげたい。

案の定、蛙に出会う。太っていて元気そうな目をしていた。冬眠する場所を探しているのだろうか。ゆっくりと跳ねていく。
漆は、赤く染まり始めた。まだ青いマツボックリや、素敵な茶色に成熟したドングリもたくさん落ちている。
芽を出したクヌギも、あちらこちらに見つけた。ドングリって種だったんだ、木に育っていくんだと、あらためて気づかせてくれる。
不思議な形のキノコを、見つけた。聞けば『エリマキツチグリ』と言うそうだ。確かに土のなかに生った栗のようにも見える。

松食い虫にやられ、命を落とした赤松が横たわっている。松食いは伝染するし、枯れて倒れても危ないしで、役場から依頼された業者が切っていく。越して来た頃の3分の1は切られただろうか。それでも、切り倒される赤松は後を絶たない。ここが松林ではなくなる日もいつか来るのだと、想像してみる。

眠るもの、実を落とすもの、日々彩りを変えていくもの、目を覚ますかのように土のなかから顔を出すもの、切られ朽ちていくもの。妖精も魔物も、見えないだけで棲んでいるのかもしれない。十年後、二十年後、この林には、どんな命が棲み、どんな風景を生み出しているのだろうか。
秋の林。「木を見ず、林を見ず」ただただ歩くことで、そこに息づく様々な命を思い、ふいに、空とも地面とも水平な場所に心を置いている瞬間を感じた。

蛙も、日向ぼっこするのかな?

漆の赤が、林を彩っていくのが楽しみです。
旧暦9月を『色取り月』と言うそうです。今の9月末から11月初めくらい?

倒した松は置きっぱなし。自然に朽ちていくのを待ちます。

「食べられるが、食べる意味なし」味に厳しい、きのこ図鑑より。
昔は、マツタケ(!)も生えていたそうですが、見たことはありません。

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たくさん、笑っていますか?

「たくさん、笑っていますか?」
facebookで友人が呼びかけてくれた。結婚式に新郎から新婦へのプレゼントの動画をシェアしていて、そのなかに「たくさん笑って、たまに泣いて、すてきな家族になろう!」というメッセージがかかれていたのだ。
「最近、笑顔足りないかも」
思いっきり笑ったのって、いつだっけ? と考える。

上の娘が、犬に噛まれた時に行く病院を調べていて、
「『がいか』ってとこで、いいみたい」
「それ、げか(外科)でしょ!」などと会話した時。

ヴァンフォーレ甲府が、首位レッズの本拠地浦和で、ロスタイムも終了1分前にゴールを決めて追いついた時。

伊坂幸太郎の小説で、何気ない文章が、笑いのツボにハマった時。

夫が寝言で、それはそれは嬉しそうに「餃子!」と言うのを聞いた時。

友人宅での女子会で、静かにたくさん飲む派の友人が、おしぼり入れに使っていた大きな器で「わたし、これで」と、ワインを飲もうとした時。

思い出したらそれだけで、気持ちがほっこりした。
小さなことで(ヴァンフォーレの1点は大きいけれど)けっこう笑ってるんだ。家族や友達やヴァンフォーレや伊坂に、笑顔をもらってるんだと思えた。
どうですか? たくさん、笑っていますか?
  
23歳の頃、ハマっていた人形作り。泣き寝入りした寝顔のよう。
いったいどんな気持ちで、この子を作ったんだろう。

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ようやく晴れた高遠の空

高遠を訪ねたのは、2度目だ。十年ほど前に夫とふたり、桜の名所と歌われる高遠城址公園に花見に行った。

『薪ストーブ祭』を楽しみ、高遠蕎麦を食べ、それから今回も、城址公園を歩いた。桜の木はまだ紅葉には早く、3連休とは言え、人も出ていなかった。ずいぶんと前のことなので、ふたりともうろ覚えの部分が多く、ああだったね、こうだったかなと話しつつゆっくりと歩いた。
たしか春の高遠は、いちめんに桜が咲き、露店が出て人でにぎわっていた。だが、その桜を見ても、気持ちが晴れなかったことを覚えている。
多分子ども達のうちの誰かのことで悩み事を抱えていたのだと思う。今となってはすっかり忘れてしまったが、その時には胸の内の広くを占める悩みだったに違いない。通り過ぎてしまえば小事でも、渦中にいるとそうとは思えないことの方が多い。そんな悩みに違いなかった。満開の桜を見て泣きたくなったことだけが、記憶にある。

その時帰り道、集落のなかにある陶器の店に立ち寄った。そこで平たいぐい飲みを買った。淡い桜色が、本物の桜より心に沁みた。この十年ほど、夫と日本酒を呑む時に、わたしがいちばん気に入って使っているのがそのぐい飲みだ。
「あの店、あるかな?」と、わたし。「集落のなかだったよね」と、夫。
果たしてその陶器屋『凡窯(ぼんよう)』は、見つかった。雰囲気も変わらぬまま、タイムスリップして迷い込んだかのように、十年前のままだった。
わたし達は顔を見合わせて微笑み、店をゆっくりと見て回った。一人の作家が作ったとは思えぬ多様な器があったが、ここで買ったぐい飲みと対になるような、やはり淡い桜色した片口を選んだ。
店を出て見上げると、空は晴れていた。わたしのなかで、十年間曇ったままだった高遠には、今ようやく、高く青い空が広がっている。
  
迷って走った集落の一つにありました。『真澄』のひやおろしを買って。

柔らかな桜色と、ゆるいカーブが気に入っているぐい飲み。

片口は、見えないところにつけられた模様が、洒落ています。
「会えたね、兄弟。って感じ?」と、わたし。
「いや、兄弟っていうよりは、片口の方が後輩かな」と、夫。

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当りか、外れか

カランカランカラン! と、高らかに鐘はなった。福引きである。
「おめでとうございます!」と、係の女の子。
「えっ、嘘、当たったの?」と、わたし。
「バーベキューセットだ!」と、何も聞かず置いて在る物を見て断定する夫。
「あ、違います。これです」差し出されたのは、着火剤だった。
「あ、これ?」「これか」と、わたし達。
手渡されて歩き出してから、ふたり笑った。
「だって、あの鐘の鳴らし方は、どう考えても1等だよねぇ」
「4等で、あれはないね。確かに」
人生初、福引きでの当たりは着火剤だった。

行楽日和の昨日、夫とふたり、高遠の『薪ストーブ祭り』に出かけたのだ。
「すごくいい、薪用のラックがあるんだよ」
夫の言葉に誘われ、蕎麦が美味い高遠ならと出かけた。
福引きは、来場者全員が、受付と同時に出来るようになっていた。

回して球が出るタイプの福引き『ガラポン』は、これまでも何度かやって来た。だが、これまで当たりと言われ手渡された外れは、ポケットティッシュか飴玉だった。今回初めての当ったと言ってもいい当たりは着火剤だったが、いい気分だった。ゆっくりと回して球が出た。あ、飴玉を貰った夫は黄色だったけど、わたしは黒? と思った途端、カランカランカラン! 大きく鐘が鳴った。それだけで、もう何とも言えないいい気分だ。

運を小出しするのはよくないとか、それじゃ大きな幸運には巡り合えないとか余計なことを言う人もいるが、福引きでカランカランカラン! と鐘を鳴らされた時の一瞬の高揚は、けっこう大きな幸運だよと、着火剤を手に考えた。

整然と並んでいるのは似合わない、居心地悪そうな薪ストーブ達。
  
薪割り用の斧も、お洒落な感じ。   えっ? これも薪ストーブ?

様々な小物も、並んでいました。

帰りにも聞きました。カランカランカラン!「おめでとうございます!」

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木はそこに立っている

束縛されるのは、苦手だ。もちろん束縛するのも、好きじゃない。
だが生きていれば、仕事があり、家庭があり、絡みついてくるものも多い。

この春まで、末娘が高校に通うため、朝夕駅まで送り迎えをしていた。無人の最寄駅まで歩けば1時間以上かかる田舎での暮らしでは、子どもの送迎は親の仕事の一つになる。所用で東京に出かけた時でさえ、娘を少し先の無人ではない駅で待たせ、待ち合わせて帰っていた。それを束縛だと思ったことは、1度もない。朝夕の彼女とのおしゃべりは楽しく、またしゃべらなくてもホッとする温かな時間だった。
娘が県外の大学に行った今、その送迎がなくなり、時間と心のスペースは、微妙にズレとひずみを生んでいる。

森を散歩していて、長く蔓に絡まれていたであろう木を見つけた。共に生きてきた蔓は朽ちてしまったのか、人の手で切られたのか。その木が自分に重なって見えた。淋しいとは思っていない。ただ、母と娘という関係で深く絡み合った時間を愛おしいと思うだけだ。

だが淋しいと思わずにいられたのは、思う暇もなかったからだとも言える。
上の娘がオーストラリアのワーキングホリデーから帰って来て、サム、マルコス、マリー、クリス。彼女を訪ねて4人の外国人がやって来た。娘はあれやこれや、にぎやかしく忙しくしていて、そんな彼女としゃべるのもまた楽しい。

絡んでいた蔓が失くなっても、木はそこに立っている。何年くらい絡み合っていたら、こんな風になるのだろうかと、木に深く刻まれた溝を撫でた。
  
北杜市は大泉町。ドライブの途中で車を降りて散歩した森で。

こちらは、びっきー側の隣の林です。

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どうしても譲れない部分

「虫、だいじょうぶなんだねぇ」
先日、久しぶりにランチした友人に、恐る恐るという口調で言われた。口に出すのもはばかられるほど、虫が苦手だそうだ。
「中学時代の愛校作業での草取りだけはねぇ、真面目にやろうといくら頑張ってもできなかった」と、真面目な彼女が告白した。
わたしが『パセリ』と名まで付け、可愛がっていたキアゲハの幼虫の写真を見て、もしかして触れるのかな? と思ったと言う。
「触るのは平気だけど、虫のためにならないから触らない」
と言うわたしの言葉にも、はーっとため息をつく。
「そうじゃないと、田舎暮らしはできないよねぇ」

彼女とは、価値観も感じ方も似通った部分が大きいと思っている。たぶん、彼女もそう思ってくれていると思う。それでも譲れない部分は、当然ある。人って、友達ってそれが面白いんだよなぁと、虫びいきのわたしに感心する彼女と一緒に、その違いを笑いつつ体感した。

よく晴れた昨日、ウッドデッキに洗濯物を干そうと出ると、カマキリが椅子に座っていた。
「ちょっとぉ、そこ、洗濯物置きたいんですけど」
声をかけたが、どうも威嚇している様子。面白いのでケータイで激写した。
ついには、攻撃を仕掛けるべきと判断したのか、ケータイに飛び乗り、わたしの肩まで上っていく。
「虫って、どうして上へ上へと、上って行くんだろう」
と考えつつ、親切にもデッキに下ろしてあげた。
友人が見ていたら、悲鳴を上げるのだろうか。
「ほらほら、カマキリ! よく見ると、可愛いいんだよ」
などと無理強いしようとは、無論思わない。うーん、ちょっとだけ思うかも。

堂々とした風格、感じませんか?
  
それ、威嚇してるの?      「洗濯物干すの手伝ってよ」by右手くん

今朝もウッドデッキに、別のカマキリが。カマキリ達の人気スポット?

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螺旋階段は、何処へ向かっていくのか

日曜、行楽日和ですよと言わんばかりの秋晴れに誘われて、夫と出かけた。
『ワイン&クラフトフェスタ』を、同じ北杜市は長坂町でやっていると、出店する鉄刻屋さんに聞いたのだ。ふたりなのでネットで調べることもせず、まあ行ってみようかとスーパーに買い物にでも行くような気軽さで出かけた。
山梨に越して来て、もう13年。何度か足を運んだ店も、いくつも出店している。余計にのんびりとした気分になり、ふらふら冷やかして歩いた。

一通りの店を見て、ランチにカレーを食べ、夫はワイン、わたしはアイス珈琲を飲み、誰かと会ってはしゃべったり、ぼんやり空を見たり、手に取ったものを買おうかと真剣に悩んだりした。
「あ、これ素敵」と思った途端、夫が言った。
「これ、いいねぇ」同じものである。
木製の一輪挿しで、作ってから川に浸しておき、流木風に仕上げたという。
小さなもので8千円。手が出ない値だが、夫は大きい方を持ち上げ、聞いた。
「これ、いくらですか?」
すると、遊び心で作ったもので値は付けていないという。要相談だそうだ。
「1万円ってことは、ないですよね?」と、探りを入れる夫。
「1万円じゃ、嫌です」と、きっぱり木工作家さん。
うーんと唸り「今度、工房にお邪魔します」と案内ハガキをもらい、すごすごとブースを出るしかなかった。

その一輪挿しは、階段をデザインしてあった。四角い木を削り、下から螺旋階段で上まで上れる。
「この階段を見ながら、酒を呑んだら美味いだろうな」と、夫。
うなずきつつ、わたしはフィッシャーのだまし絵を思い浮かべていた。何処まで上っても頂上に着かない階段だ。
いつも全力で真っ直ぐに階段を上っていく夫は、常にわたしのずいぶんと先を行っている。彼は、極度の方向音痴であるわたしと違い道に迷うことはない。これ、本当に上っているのだろうかと疑ったり、立ち止まったりはしないのだ。その彼が先に行っていることが、わたしの行く道を微かではあるが確かに照らしてくれている。そんなそれぞれの足元を、ふたり見据えつつ、階段の一輪挿しを前に酒を呑むのもいいなと、秋空を見上げ考えた。

18のブースに、個性豊かなお店が、出店してました。

ランチは、青空の下で『ぼんてんや』の盛りだくさんカレー。

『平山郁夫シルクロード美術館』の裏にある公園です。

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いつ咲いたってヤマツツジ

「燃ゆる思い」という花言葉を持つヤマツツジが、咲いている。
春咲いたその木が、季節外れにふたたび花を咲かせることを、狂い咲きと呼ぶのは知っていた。今年は山梨でも5月に咲いた藤が、8月またも綺麗に花を揺らし、ニュースにもなった。温暖化の影響、と一言では済ませられないが、そう思わずにはいられない。植物達も、悩み惑っているのだろうか。狂い咲きの季語は冬だというから、季節はもうごちゃごちゃだ。

試しにエキサイト翻訳で「狂い咲き」を英語にしてみたら
「It is out of order and blooms.」となった。
意地悪く再度日本語訳にしてみると「それはオーダーと花が不足しています」
その花、オーダーと違うじゃん、とも取れるような可笑しな日本語になる。
そう言われると(いや誰も言ってないのだが)いつ咲いたっていいじゃん、という気持ちになった。
確かなことは、どんなに環境が変わろうと科学技術が進歩しようともヤマツツジに薔薇は咲かない。自分の花を自分なりに咲かせるしかないのだ。どんなオーダーをされようと自分は自分。他の誰かにはなれないし、なる必要もない。

「燃ゆる思いで、咲いたんだね」
万人に微笑みかけるかのように咲いたヤマツツジに、思わず笑顔になる。彼らは知っているのかもしれないと、ふと考えた。自分の寿命どころか、この先、地球がどうなっていくのかも、人がどう変わっていくのかも。

火の色に近いこの色から、花言葉はイメージされたようです。

のびのびと陽を浴びて、大きく咲いたね。

赤い実をつけたハナミズキが、てっぺんにとまった赤トンボと秋の空と、
「華やかな朱色が素敵だね」と、ヤマツツジを眺めていました。

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雨音は、子守唄

雨音は、子守唄だ。
子ども達が幼い頃、雨の日に限って、よく眠った。昼寝を十分とっても、夜も眠る。3人目が生まれた頃、雨の日にはホッとした覚えがある。おっぱいをあげながらうとうとしているうちに、騒いでいた上のふたりも、こてんと眠っていることがよくあった。

更年期を迎え、睡眠がうまく取れないことが増えてからも、雨の日にはよく眠れる。それは夫も同じようで、彼が熟睡しているとホッとする。おたがい、疲れがなかなか取れにくいお年頃なのだ。

義母からのメールに「あなたの生まれ月の2月『如月』は更衣ともかき、一度生えたものが落ちたり枯れたりしたあと、さらに新しいものが生える「生更る(おいかわる)」という意味を持つようです」とかかれていた。
そう考えると、更年期も『如月』春を待つ時間なのだと思える。「更に」の更でもあるこの字を、更年期にあてはめた人間の思いを感じる。

そんなメールを時々くれる義母は、神戸在住の80歳。義父と二人喧嘩しつつも仲良く暮らしていて、今日5日はコンサート。ドイツリートを歌うという。

人が雨音を子守歌に熟睡するのは、植物と同じく、暗い土のなかで力を蓄えるためなのだろうか。雨音のなかに義母の澄んだ歌声を聴きながら、秋の林に降る雨を眺め、土の匂いを感じた。

ドングリが芽を出した周りには、雨で傘を閉じた松ぼっくり。

苔生す朽ちた赤松の切株に、また新しい松の芽が出ています。

桜は、葉を赤く染め始めました。

花を咲き終えた萩の葉には、雨粒が光っていました。

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地面に近づくことで見えるもの

夫が、庭のライラックを移植した。挿し木でもらった木が増えて、新しく生えてきた分を道路から見える場所に移そうと話していたのだ。
植え替えたばかりのライラックに、水やりをする時、しゃがんで根元にたっぷりあげた。その時ふと隣の金木犀が見えた。
「今年は、金木犀、咲かなかったね」
夫と話していたのだが、小さな花がいくつかついている。
「金木犀、咲いたんだぁ」
ホースを手に、金木犀に見入った。近づくと香る。気がついてよかった。ライラックのおかげだ。

しゃがんで地面に近づくことで、見えてくる風景もある。
保育士時代、立ったまま子どもを叱っていたら、先輩にアドバイスを受けた。しゃがんで子どもと同じ目線になって話してみたら? と。
そのアドバイスのおかげで、母親になってからも子ども達を上から見下ろすのではなく、同じ目線で話すことを忘れずにいられた。

今でも忘れられないシーンがある。
東京は大田区に住んでいた頃、2歳の息子と池上線の石川台駅まで義母を迎えに行った。義母は息子を見て、嬉しそうにしゃがんで「こんにちは」と神戸のイントネーションで挨拶した。すると息子は、自分の目線に合わせて義母がしゃがんだことなどもちろん理解できず、これがお婆ちゃん風の挨拶の仕方だと思ったのか、しゃがんで「こんにちは」と言ったのだ。

しゃがむどころか、芝生の上に寝っころがっていろいろと見た。いつもは見えない風景が、そこには広がっていた。

近づくと確かに金木犀の香り。思いっきり吸い込みました。

ニイニイゼミの抜け殻も、たくさん見つけました。

モミジに落ちてきて、引っ掛かったままのドングリ達。

踊るカマキリも発見。アスファルトが熱いのかと救出しようとしたら、
飛んでいきました。そうだった、きみ、飛べるんだったね。

ガクだけ残った姫シャラごしには、秋の空。

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煙突掃除、完了

「明野には、秋がないよね」
娘が言う通り、山梨も八ヶ岳のふもとにある我が町明野町では、猛暑の夏が終わっても、秋を楽しむ時間は短い。すぐに寒くなることを、みな知っている。

夫も慣れたもので、秋晴れの日曜日、煙突掃除を始めた。いつでも薪を燃やせるよう、年に1度、秋の行事だ。
室内の煙突を外し、庭で煙突掃除用ブラシで擦る。真っ黒いすすがもわもわと煙を立てながら出てくる。その間にわたしが、ストーブの庫内の灰を取り除き、ふたりでふたたび煙突を取り付ける。煙突は重いし、ネジとネジ穴がなかなか合わず、取り付けで手間取るのは毎年のことだったが、今年の煙突は素直に穴と穴を合わせてくれた。おたがい知れた仲になったということか。

家の外側の煙突の先には、網がかけてある。これは、鳥が巣を作るのを防止するためだ。以前一度、夏のあいだにスズメがストーブのなかに入って来て、困り果てたことがあった。その時夫は仕事で東京にいて、途方に暮れ電話すると、くすくす笑われた。「そんなことで、電話してきたの?」と。
しかたなくビニール袋をかぶせ、ひとり恐る恐るストーブの戸を開けた。だがスズメも必死だ。わずかしかない隙間から、二階に飛んで行った。必死で逃げるあまり気が動転し、二階を飛び回り、頭などをぶつけてはまた飛んでいる。お手上げだった。虫も鳥も可愛いとは思っても恐いと思わぬわたしだが、家のなかで飛ぶものには、ひどく恐怖を覚えるのだ。
もう、キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所さんに助けを求めるしかなかった。電話すると、5分と待たず来てくれた。
だが彼が到着した頃には、スズメはあっちこっち飛び回り頭をぶつけ脳震とうを起こし、動かなくなっていた。そっと抱いてデッキに下ろしてもらい、ふたりで観察した。そのうち、ぶじに意識を戻し、飛んでいったっけ。
ご近所さんが、じつはスズメよりスズメバチが好きだということは、スズメ事件より何年も後で知ることとなった。

薪ストーブで、暖を取る暮らし。日々、火を眺める生活は楽しみも大きいが、一言では片づけられない思いもよらぬことが、こまごまとあるものだ。それも、もう14回目の冬を迎える。知れた仲になっても可笑しくはない年月である。とは言えできることなら、秋が長く続いてほしいものだが。
 
煙突をブラシでこする夫。芝の上でやるのは、すすが栄養になるからです。
 
家の外の煙突と、取り付けたばかりの家のなかの煙突。当然繋がっています。
外の網はかっこ悪いけど、得体の知れない焼き鳥ができるのは、ちょっとね。

今はひんやり冷たい、石造りのストーブくんですが、
早くも、熱く熱く、燃えたがっている様子です。

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天井の木目と金縛り

上の娘が、金縛りにあったと言う。
「金縛り、こわいよねー」と、娘。「ただの疲れだと思うよ」と、わたし。
妊娠中にしか金縛りにあったことのないわたしには、やはり身体の疲れから来るもののように思える。まだまだ若い彼女にも、バイトに遊びに忙しかった夏の疲れが出たのだろう。
「ベッドから浮きそうになって、必死で浮かないようにした」と、娘。
「べつに、浮いたって、いいじゃん」と、わたし。
「そう言えばそうだね。べつにいいのに、必死でがんばった」
何故か、がんばってしまうものらしい。
「がんばって声出して、金縛りが解けることはあるよね」
「うん、あるある。人が見えたことある?」と、娘。
わたし的金縛りは、ただ動けず声が出ないと言うものだ。
「わたしもない。見る人もいるらしいよ。見えなくてよかった」と、娘。
確かに金縛り中に、実在しない誰かに、会いたくはない。

「きみが小学生の時に、高熱が続いたことあったよね?」と、わたし。
「あー、覚えてる」「あれは、恐かった」「恐いよねー」
何が恐かったかと言えば、高熱でうなされつつベッドに横たわる娘が天井を仰ぎ見て、言ったのだ。
「あの子、誰?」
思わず天井を見上げたが、誰かがいるわけもなく、わたしは強く娘の手を握り「だいじょうぶだよ」と言うしかなかった。一瞬シューベルトの『魔王』が頭をよぎったが、冷たい冬の夜で窓はしっかりと閉まっていた。娘が連れていかれなくて、本当によかった。
もう、何度も話したことがあるので、彼女にはあたかも自分の体験を記憶しているかのように、思い出すことができるらしい。
「子どもの頃は、夜寝るとき、天井の木目が恐かったなぁ」
娘は、天井を見上げ、懐かしそうに言った。

生きていれば、身動き取れないこともある。にっちもさっちもいかず動かずにいることしか出来なくなる時だってある。動くだけのパワーが出ないことだってある。そんな時には、そこでじっとしていればいい。それでもいつかは、動きたくなるものだ。そして、きっと動けるようになる。右肩はfrozen中だが、自由に動ける今を身体じゅうで感じつつ、娘と共に天井の木目を見上げた。

わたし、美人?

二階の廊下の換気窓と天井。顔、いくつ探せますか?

寝室の梁と天井。丸が二つ並んでいるだけで「目」に見えてしまう不思議。

リビングの天井です。ライトはLEDで、電球色にしています。
この天井と梁は、この土地に生えていた赤松を製材したものです。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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