はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『まあ、いっか』な日々

夫に、叱られた。
「あのさー、子どもじゃないんだから、1枚1枚、脱げよ」
洗濯物を洗濯機に入れる際、洗面所で歯を磨いてた夫に見られ、バレたのだ。下着のシャツと、タートルネックを一度に脱ぎ、2枚重ねて裏返しのまま、洗濯かごに入れていたことが。
「ははは。まぁ、いいじゃん。わたしが洗濯するんだし」
笑い飛ばし、ふたたび夫に睨まれた。

親の背中を見て育つ子ども達も、巣立って行ってしまった、と油断してか、何かにつけて隙だらけのわたしだ。だが、ふたりになった分、おたがいの行動に目が行くようになるのは、当然のこととも言える。
「気を、つけないとなぁ」
とは思いつつ、昨日もシャツ2枚を一緒に脱いでから、自分で、あれ? と気づく。気づいて笑う。ははは。まぁ、いっか。

末娘には、よく言われたものだ。
「我が家の女性陣の口癖は『まぁ、いっか』だよね」
女性陣。上の娘とわたし、そして末娘。なあんだ。すでに背中しっかり見られてるじゃん、と洗濯物を干しながら安心する。って、安心していいところか?

「気を、つけないとなぁ」
と、つぶやく自分がいったい何に気をつけるんだか、すっかり忘れていることに気づく。そう言えばと、以前ホームステイしていったオーストラリア男子サムに指摘された、もう一つの口癖を思い出した。『何だっけ?』
『まぁ、いっか』と『何だっけ?』があれば、夫とふたりの暮らしも、何とかなりそうな気がしてきた。

洗濯物を干すのが、気持ちのいい季節になりましたねぇ。

庭のスズランも、ようやく咲きました。上の写真の右下に咲いています。

一輪だと清楚で可愛らしい感じですが、スズラン畑は青々。

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『ボケ』の花のネーミングに思う

散歩道によく見かける『ボケ』の花が、綺麗だ。
名前で偏見を持ってはいけないが、とぼけたイメージを持たずにはいられず、その印象と相まって忘れにくい名である。
教えてくれた近所の人が「実(み)は、酒に使う」と言っていたことも、何故か酔っぱらって、とぼけた人を象徴するかのように思え、自分のなかで勝手に『ボケ』=「ボケた」に、してしまっていた。

当然のことながら、調べてみると、全く違う答えが返ってきた。
実が瓜のような形にも見えるため、木になる瓜「木瓜(もっけ)」と呼ばれるようになり、その音から『ボケ』に移行したらしい。木瓜は、キウリじゃないのか、というところで引っかかってしまうわたしには、想像もつかないネーミングの由来だった。
花梨同様、実の香りがよく、果実酒のなかでも密かに人気があるとか。
学名speciosa chaenomelesは、「美しい+開ける+林檎」(美しく開花したた林檎かな?)日本名との差に、ただただ驚く。

見た目に騙され、また、名前に騙され、自分勝手にイメージしているものが多いことにも気づかされる、春うららかな散歩道である。

こんなに綺麗な花に『ボケ』は、ないよなぁと、思うことが偏見かな?

すぐそばに、八重の雪柳が咲いていました。可愛い ♪
雪柳って、雪の頃に咲くから? 雪のように白いから?
ネーミングの不思議、あちらこちらに感じます。

これ菜の花だと思うでしょう? 残念! 白菜の花なんです。
あ、白菜の花から白をとったら、菜の花だ! 小さな発見(笑)

木苺は、普通の苺と比べると、木になってるように見えるけど、
これって木じゃないよねぇ、と、気になってる(笑)わたし。

今の時期、ヤマツツジも開花中。『ボケ』と色が似ていて、
遠くから見ると、どちらか判りません。大抵背が高いとヤマツツジです。

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『も』がつく名前?

夫に誘われ、休日の朝食前に散歩している。新緑が気持ちのいい季節。花も、いろいろ咲いている。八ヶ岳下しも、もう吹かない。
「これジミーな雰囲気だけど『ヒメオドリコソウ』って可愛い名前なんだよ」
「花の名前とか、よく覚えてるねぇ」と、夫。
「最近、facebookに花をアップしてるお友達がいて、実は覚えたばっかり」
野に咲く雑草達だって、みんな名前を持っていて、その名前を覚えると、それだけでちょっと楽しくなるから不思議だ。
「あ、これ、よく見かけるよね」と、わたし。
紫の花だ。多年草なのだろう。庭に咲かせている家も多い。
「ああ、よく咲いてるね」と、夫。
「名前、忘れたぁ。何だっけ? うーん『も』が、ついた気がする」
夫は興味なさそうに、山桜など見上げつつ歩いていく。
「も、も、も。何だろう。でもさこの頃『も』がつくと思ってて、実際『も』がついた試しないんだよねぇ」
「確かに」その言葉には、夫はきちんと興味を示し、深くうなずいた。

帰って調べると『ムスカリ』だった。多年草のなかでもチューリップのように土のなかで球根に栄養を蓄え、春になると芽を出し花を咲かせるものだ。
「やっぱ『も』つかなかった。でも惜しかったよね。同じ『ま行』だもん」
「何処が、惜しいんだか」と呆れ顔で、夫。
「おっかしいなぁ。もっとこう、モウリーニョとかいう名前かと思ったのに」
「それは、チェルシーの監督だろ。常にアルマーニのスーツ着てる」
サッカー選手や監督の名前なら、彼の脳内には膨大な情報量がインプットされている。花の名前をちょっと覚えたくらいで散歩が楽しくなるんだから、彼がサッカーを楽しく観ている訳が、ほんの少し判った気がした。
「『ムスカリ』さん、この際、モスカリって名前に変えませんか?」
わたしの言葉に『ムスカリ』は、たしなめる様に言った。
「名前を変えるということは、そのものの根底にあるものを変えるということです。根底の歪みはやがて、そのもの自体を変えていくでしょう」

問題の(?)『ムスカリ』さん。野原に自生していました。
肉眼だともっと紫っぽいんだけど、写真にすると青に見えますね。

『ヒメオドリコソウ』我が家の庭にも、散歩道にもいっぱい。

『カキドオシ』小さいけれど、じっと見つめちゃう可憐さ。

『ハナダイコン』白やブルーなど、色もいろいろもあるようですが、
近隣で見かけるのは紫だけです。

『ホトケノザ』という名前ですが、春の七草とは違う同名の花。
食べられないそうです。ちなみに、セリ、ナズナ、ゴギョウ、
ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが、春の七草。
同じ名を持つ違うものも、多々存在しますよね。

ライラックは、紫も綺麗ですね。白いライラックをいただいた
ご近所さんのお庭で撮影。紫の花の写真を、集めてみました。

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雨に濡れたスズランの蕾

庭のスズランが、蕾をつけているのを見つけた。
気温はずいぶんと下がったが、久しぶりに雨を浴び、水を思いっきり吸って、この週末は伸びずにはいられないといった様子をしていた。
スズランの葉は、まるでカンガルーがポケットに入れた赤ん坊を抱きかかえているかのように、蕾を大切に抱いている。
「子だくさんで、たいへんだね」しゃがんで、声をかけた。
「まだ寒いって言ってるのに、この子達、お外が見たいって聞かなくってねぇ」スズランの葉が、答える。
桜が散り、雪柳が眩しく咲いたと思ったら、もう、スズランの季節か。
そんなに慌てて、通り過ぎていかなくてもいいのに。列車の窓から、過ぎゆく風景を眺めているみたいに、あっという間だ。

「季節は、小さなこと一つだって、先送りにしたりしないんだな」
自分に、置き換えてみる。後でいいことは後に、明日でいいことは明日に、来週でいいことは来週に、来月でいいことは来月に、常に様々先送りして、結局は出来ないことのなんと多いことか。
「わたしも、ちょっとは、がんばりますか」
雨に濡れるスズランに、春の冷気を浴びて伸びる強さを、ひとしずく貰った。
  
何年か前に頂いたスズランの苗も、約百もの芽が伸びるようになりました。
そのなかで、今、蕾を見せているのは3つです。

ハナミズキは、例年になく多くの花をつけました。
日々、開いていくのが楽しみです ♪

これも頂いて、挿し木にしたライラック。新しい芽も出てきています。
今年も、道路際に移植しようと、考えています。
  
やはり頂いたクリスマスローズ。と、勝手に出てきたスミレ。
土はいっぱいあるのに、どうして、石の間で咲くのかなぁ。

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請求書の表情

経理を仕事にしていると、よく言われる。
「数字に、強いんだね」「理系なんだ?」
夫が起こした会社も、創業20年。好きで始めた仕事ではないが、楽しくやっているのは、決して数字に強い理系脳だからでは、ない。
毎月の請求書とのにらめっこ。確認、確認に続く確認。苦手な部分は、誰しも慎重になるものだ。苦手だから、1回で済む確認を3回する。3回で済む確認を5回する。理系脳じゃない方が、この仕事には向いているのかも、とさえ最近では考える。

在宅勤務で、机上の仕事だが、五感を味わう楽しさもある。
毎月50枚以上の請求書を手に取り、経理ソフトの数字と照らし合わせ、ネットバンキングで振り込みをする。その請求書の表情が、毎月のことになると捉えられるようになる。それは、目で見るだけではなく、手触り、紙の大きさ、厚さ、色、同じA4の普通のコピー用紙であっても、全体のデザイン、文字の大きさ、バランス、日付けや請求金額、振込先を記載してある位置の違い。1枚1枚の請求書から、かもし出される表情を感じるのだ。また、振込先が地方銀行だと日本地図を思い浮かべたり、支店名でその土地を感じたりもする。
夫と話していても、会社名や個人取り引きの何某さんというだけで、ああ、何県に住む人ねとか、振込先の支店名が花の名前の会社ね、などといらない記憶が飛び出す。請求書の色がパッと見えたりもする。
全く同じ雛形の請求書がないのも面白い。似ている人はいても、同じ人はいないとでも言っているようだ。
そんな請求書の表情が、分類や探し出す時など、仕事にも役立つ。

仕事の楽しさというものは、やりがいという大きなものではなくとも、様々なシーンに見出すことが出来るものなのだと、馴染みとなった似て非なる顔の請求書達は、語ってくれているかのようだ。

リスくん、お庭でかくれんぼしています。背中が針山のリスくんです。

「オオイヌフグリさん、僕の背中の待ち針と同じ色だね」

何故、リスの写真なのかって? 最近「数字に強いんだね」と言われると、
「いやー理数脳じゃなくて、リスの右脳くらいちっちゃい脳なんだよねー」
と、ジョークを飛ばすことを覚えたからです。

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春の花達と風に吹かれて

週末、花見に行った際、楽しんだのは桜だけではなかった。
山梨も北に位置する北杜市の冬は、長い。いちばんに咲く水仙や雪柳も、季節の気まぐれには慣れたもので、三寒四温の温かい日も、本格的に春が来るのを見極め、まだもう少しとでも言っているかのように、ゆっくり咲き始める。
今年は桜も遅かったが、他の花達も開花が遅れ、例年にも増していっせいに咲き誇る姿を目にすることが出来た。

桜は見事だが、山や野に咲く花達も、それぞれ可愛い。
開き始めてから、どうしようかなと逡巡しているような咲き方をする山吹。
綺麗に咲いていると思った途端、風に吹かれてダイビングする椿。
林の木々の間に、かくれんぼしているミツバツツジ。
足元を見つめる楽しみをくれるハナダイコンやヒメオドリコソウ、オオイヌフグリ、そしてタンポポ。
初めて通る道で車を停めると、杉林では、今年芽を出したであろう杉の赤ん坊や、葉の先につけた小さな花を見つけた。
「春が、来たんだなぁ」
春の花達と風に吹かれ、長い冬が終わったのだとようやく実感する。ただし、頭は春到来の喜びでいっぱいになっていても、寒がりのわたしの身体は、まだ春が来たことを受け入れてはいないらしい。
「何で、家のなかでダウン着てんの?」
果てさて、夫に呆れられる日々は、いつまで続くのだろうか?

山吹。大好きな花です。山吹色が大好きです。

ハナダイコンと土筆は、仲良くお喋りしていました。

杉です。花粉を飛ばす嫌われ者ですが、雄花の方ではなく雌花は、
赤ん坊の手のひらみたい。可愛いです ♪

椿。綺麗です。ハッとするような赤。ソウル・レッドって感じかな?

我が家周辺の林には、ミツバツツジが、たくさん咲いています。

帰ってくると玄関で、遅咲きの八重の水仙が迎えてくれました。

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そこ此処に覚える小さな達成感

重い腰を上げた。いつまでも、キリギリスのままではいられない。
中1の時、一つ年上の従姉の勉強机に「キリギリスになるな、蟻になれ!」と習字のお手本かと見まがう様な字で貼ってあったのを目にした。たいそう驚いたことを覚えているが、ただただびっくりしただけで「そうか、自分も」とは全く考えなかったわたしだが、目の前に転がっている薪は、彼女のスローガンよりも、効き目があるようだ。
骨折した左手くんも、frozen shoulder(五十肩)を患った右手くんも、すっかり回復し、今はもう元気だ。そろそろ復帰しなくてはと、夫が割った薪を薪小屋に積んだ。延々と続く、単純作業。そして力仕事である。薪は見た目よりも重い。昨日に引き続き、思う。
「地球の重力、知らないうちに変化してるんじゃないの?」
自分の非力さを棚に上げ、またも地球を疑う。

半分ほど作業をして、部屋で休憩中、夫が窓から薪を眺めていた。笑顔である。まるで、幼子が春の日差しのなか駆け回っているのを見て、微笑ましく思わずにはいられないといった顔だ。
「嬉しそうだねぇ。桜見るより、楽しそうな顔してるじゃん」と、わたし。
「いやぁ、たくさん割ったな、と思って。桜と薪は、別だしね」と、夫。
「判った、あれね。編み物してて、時々手を止めて、あーこんなに編み進めたと、嬉しくなるやつとおんなじような感じ?」
「近くなったけど、編み物は作る作業で、薪割りは破壊作業だからな」
「でもさ、薪を作ってるじゃん」「薪は、完成品じゃないし」
「そっか、完成品はストーブのなかで燃える、火だもんね」
そんなことを話し、ふたたび作業する。
「おー、たくさん積んだな」と、薪小屋を見て嬉しくなる、わたし。
その薪を燃やして完成品の火にするのは、乾燥させた2年ほど先。待ち時間の長い作成途中の作品だけど、小さな達成感は、そこ此処にあるものなのだ。

太い丸太を十字に割り、4本の薪を作っている夫。

積んだぁ! がんばったぁ!でも、途中で疲れてやめました(笑)

道路沿いには、まだ割るべき薪がこんなに。空っぽの薪小屋が待っています。

来年使う薪は、北側の軒下で八ヶ岳下ろしに吹かれて、いい感じに乾燥中。

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桜の花に惑わされて

逆上がりをした。
いや。正確には、逆上がりをしようと試みたが、出来なかった。
「何で、こんなに身体が重いの?」夫に言うも、呆れ顔をされただけ。
しかし、彼も試みたが、やはり出来なかった。
「俺だけが出来ると、きみに悪いからね」
彼は、言い逃れし、ふたたび鉄棒にしがみつこうとはしなかった。
「じゃ、空中前回りなら、出来るはずだ」
わたしは言い、前回りをした。
いや。正確には、前回りをしようと試みたが、出来なかった。
子どもの頃『空中前回り』と呼んでいたのは、連続してくるくると前回りをする技である。小学生のわたしは、それが得意で、友人に数えてもらっては何回まわれるか挑戦していた。30回以上はまわれたと思う。通っていた幼稚園が、鉄棒に力を入れていたのだ。
小学1年生に上がってすぐ、高鉄棒の一番高いところによじ登り、くるくるやっていたら担任の先生が飛んできた。心臓に悪いからやめてくれと。

ショックである。
逆上がりは出来なくとも、空中前回りは出来る自信があったのに。
「地球の重力が、変化してるんじゃないの?」
自分の運動不足を棚に上げ、地球を疑ってみる。
「残念ながら、変化しているのは、あなたの方ですよ」
満開になった桜が、桜の木にとまったツグミが、真実を見つめるようにとたしなめた。普段忘れている重力の存在を、大きく大きく感じた。

それにしても、児童公園の遊具って、こんなに小さかったっけ?
不意に大きさの感覚が、微妙に歪んでいく。ここの桜の木って、こんなに大きかったっけ? わたしの手って、こんなに小さかったっけ? そして、桜を撮る夫のカメラだけが、巨大化し始める。いや、夫が小さくなっているのか? 世界が微妙に、バランスを崩していく。
いけない、いけない。桜の花の魔法に、惑わされてはいけない。もう一度、空中前回りを試みた。くるりと回って、着地すべき場所に、すとんと着地した。

夫と中央線は無人駅『穴山』周辺に、花見に行きました。

こんなところに、児童公園があったなんて、知らなかった。

桜の巨木が、並んでいて圧倒されました。人も多かったです。
無人駅なのに、駅員さんが出現。にわか有人駅に(笑)

ツグミも、人馴れしている様子。写真を撮らせてくれました。

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飲みさしのペリエ

何かにつけて、意味や答えを探し出そうとしてしまい、我に返る。
今のままで、十分楽しく暮らしているのに、ひとつひとつに意味があるような気がして、立ち止まってしまう。多分、ひとつひとつのことにも、繰り返しの毎日にも、意味はあるのだろうが、答えは探さなくてもいいのだと、大人になってようやく考えられるようになったというのに。

バイオリズムだとか、風邪気味だとか、季節の変わり目だとか、雨が降る前日だとか、寝不足だとか寝過ぎたとか、飲み過ぎだとか酒が足りないとか、忙し過ぎるとか暇過ぎるとか。何かと何かが重なって、何かと何かがすれ違い、突然、不安になる。
「今のままで、いいのだろうか?」
不安になると、答えを探したくなる。本を読むことにも旅をすることにも、意味を求めたくなる。そんな自分に気づき、我に返り、ようやく笑う。
「人間だから、しょうがないか。不安な気持ちも、わたしの一部なんだから」

飲みさしのペリエから、炭酸が音も立てずに抜けていく。
時間をかけて柔らかくなっていく水。そんな風に少しずつ、時間をかけ余分な硬さが抜けていき、いつもの自分に戻っていく。

たまーに、衝動買いするペリエ。美味しいけど、ちょっと贅沢。

庭の雪柳も、咲き始めました。可愛い ♪

ツルムラサキも、一つ咲いていました。

芝桜も、これから。今年は雪でだいぶダメになったので、植え足そうかな。

前の道のアスファルトでは、スミレがこそこそ、おしゃべりしていました。

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ポケットに温もりを

「手が冷たい人は、心が温かく、逆に手が温かい人は、心が冷たい」
中学の頃、だろうか。誰かが言いだした。多分、根拠などない。
娘達の年代でも、知っている話なので、昔から変わらず言い伝えられているのだろう。都市伝説か、諺か。

わたしは東京出身だが、神戸出身の夫も、この伝説は知っていた。日本中くまなく広がっているのだろうか。
「何で、こんな風に言うようになったんだろうね」と、夫に言うと、
「女の子の手、握りたい男が、広めたに決まってるだろ」と、即答。
「どっちが、冷たいかな? 意外と、あったかいじゃん。心、冷たいんじゃねぇの?」と、まだテレが入った中学生男子が、女子の手を握りしめたいが故に、根も葉もない話を広めたという説だ。

だが調べてみると、出処は手相占いで、温かいはずの手に血液が回っていないのは、心臓に、つまりハートに、血液が集まっている。だから手が冷たい人は、ハートが温かいと言われるようになったのだという。

ところで、わたしの手はやたら温かく、冬の朝、車で駅まで送る時に、末娘はホッカイロのように、わたしの手で温まっていた。
彼女の手はひどくクールで、手袋をするのさえ無駄だと、あきらめていた。もともと冷たいものを覆ったところで、冷たいままの温度が保たれるだけだと言い、頑なに手袋をしなかった。末娘ほどではないにしろ家族の誰よりも、手が温かいわたし。
「クールなみずがめ座だけに、心もクールなのさ。雪の女王と、お呼び」
などと、いつもギャグにしてる。

だが「心が冷たい」という言葉から思うのは、人に対しての冷たさじゃなく、自分のなかで冷え切ってカチコチに凍り、ガラスのようにもろくなっているハートのような気がしてならない。
そんな時には、ポケットに入れる。誰かにもらった大切なもの。手紙。お守り。人形などのちょっとした小物。もらった言葉をメモにかいて入れることもある。そこには誰かの心の欠片が宇宙の如く大きく存在し、微熱を放っている。そして凍ったハートを、少しずつ解かしてくれるのだ。

小さなモノたちにも、微かな熱はあるものなのです。

山梨は明野町。ようやく桜が咲き始めました。

春の魔法は、手も心も何もかも、凍った部分を解かしてくれるようですね。

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桜色に染まった空白

空白とかくが、その色は空色とも白色ともつかない。多分多くの人がイメージする色は、無色透明なんじゃないだろうか。
もちろん、闇のような底のない黒だと思うこともあるかも知れないし、新しい画用紙の眩しい白を思い描くことも、宇宙の広がりを思い星の光を見出すこともあるかも知れない。
だが、わたしのなかの空白は、ドーナッツの穴の如く透明だ。

そんな30年もの空白を持ち寄り、中学時代の友人と再会した。
待ち合わせたのは品川駅で、30分ほど早く着き、ぶらりと散歩する。折しも桜の季節である。駅に戻ると、彼女はもう、待っていた。何年経っていても、おたがいに一目で判る不思議。
「ランチだけど、お酒好き?」と、彼女。「いいねぇ」と、わたし。
昼から飲める居酒屋で、生ビールで乾杯した。

共通の友人の話や、家族のこと、子ども達のこと、仕事のこと。30年ぶりとは思えないほど、ふたりとも、よく飲み、よく喋った。
空白が、心地よく埋まっていく。それはさっき眺めた桜の花が、胸のなかでぽつりぽつりと咲いていくかのようだった。
両親はずいぶんと歳はとったが、たがいに元気で、でも、自分だっていつどうなるか判らないよねぇなどと、胸の奥にある不安も口にしたりした。
「だからさ、毎日楽しく、生きていかなくちゃね」と、彼女。
「その通りだねぇ」と、わたし。
中学時代テニス部のキャプテンだった彼女は、やはり変わらず、静かに導いてくれるキャプテンのままだった。

品川駅前の桜です。もうすっかり葉桜。葉っぱの方が生き生きしています。

でも青い空の下、桜を眺めて歩くのは気持ちよかったです。

八重桜は、山桜とおなじく葉が伸びるのと一緒に咲くんですね。
まだ、蕾もたくさんありました。濃いピンクが可愛い ♪

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薪割り体験始め

週末、夫が薪割り機を、取ってきた。彼の友人と息子くんが来るので、薪割り体験で、もてなそうという訳だ。
薪割り機は油圧式の危険が少ないタイプで、6軒で共同購入したものだ。明野町には、薪ストーブ所有者が多い。気心知れた近所の方々と話し合い、ルールを決め、修理しながらかれこれ7年ほど使っているだろうか。

薪は見た目よりも、重い。足の上に落としたら、それだけで骨折することさえある。だから、ひとりの時には、大きな作業はしないことにしている。夫がひとりで薪割りをする時には、食事の支度をしていても、時々様子を見に行く。怪我をして動けなくなっていたらと、心配になるのだ。薪割り機は音が大きく声を上げていても気づかない可能性がある。だが、助っ人がいれば安心だ。

薪ストーブの季節も、そろそろ終わりを迎える。それと同時に、薪割りの季節が始まる。冬に暖かく過ごすためには、春夏秋の頑張りが必要なのだ。と言っても、夫はわたしに、薪割りさせてくれない。
「怪我しそうだから」というのが、理由だ。
言い換えれば「きみは、どんくさいから」になる。多分。
ここ何年か、左手を骨折したり、frozen shoulder(五十肩)になったりと、薪割りで怪我しなくとも、薪運びでさえたいへんな状況が続いていたし、彼の言い分も最も。うんうんと大きくうなずける。
だが考え至るに、これではまるで、イソップの『蟻とキリギリス』のようではないか。どちらがどちらなのかは、自明の理である。

ところで、『蟻とキリギリス』のお話。ラスト蟻が、飢えたキリギリスに食べ物を分け与えるものだとばかり思っていたが、蟻が「夏には歌ってたんだから、冬には踊ればどうだい?」と冷ややかに見捨て、キリギリスが飢え死にするものと、2パターンあるそうだ。イソップがかいたのは、後者。前者で有名なのはウォルト・ディズニー版で、キリギリスはお礼にバイオリンを弾く。
なんだか、急に肩身が狭くなったような気がしてきた。
「蟻さん、来年の冬もお世話になっていいですか? 」

前の晩は、ワインで乾杯。飲みすぎました(笑)

いただいた『富士屋ホテル』のアップルパイ。
シナモンが、たっぷりと効いていて甘さ控えめ。ワインにもよく合います。

割った薪は、右手の薪小屋に。2年ほど乾燥させてから使います。

とは言え、昨日は寒が戻り雪が舞い、薪ストーブがんがんに燃やしました。

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大人になってから触れたカルチャーショック

対ベガルタ仙台アウェイ戦。攻めに攻めたが1-1と引き分けに終わった。
仙台駅から地下鉄で15分ほどの場所にあるユアテックスタジアムは、サッカー専用の気持ちのいいスタジアムだった。気温は23℃まで上がり、うららかな春の陽気。サッカー観戦日和となった。
「全席、屋根つきだよ」と、夫。「すごい!」と、わたし。
「椅子も背もたれつきで、ゆったりしてるね」「うん、いい感じ」
「ここは、食べ物が美味しいのでも有名なんだよ」
「ほんと、美味しい! 利休の牛タンつくねとカレー味唐揚げ。嬉しいね」
と、もちろん生ビール。アウェイ戦観戦も、なかなかいいものである。

夫は中学の頃からサッカー部で、ワールドカップなどもテレビにかじりついて観ていたそうだ。テレビ観戦時などは、よく解説者と同じことを言い、下手な解説者より上手いんじゃないの? と思うほど判りやすく解説してくれる。そんな優秀な解説者も隣にいるのだから、贅沢極まりない観戦だ。

ところで、いつも観に行き、違和感を覚えることがある。ブーイングである。大人になってからサッカーを観始めたわたしには、応援しているチームが情けない試合をしたとしても「ぶー!」と声を上げ親指を下に向けて振り、責めることが出来ない。相手のチームが汚いプレイをした時も然り。
「そういうことするのって、人としてどうよ?」と思ってしまうのだ。
ホームとアウェイの違いも、まだまだ、受け入れられていない。ホームで勝ってるからロスタイム(今はアディショナルタイムと言うそうですが)の時間を審判は短くするはずだとか「それ、ルール違反じゃない?」と思えてしまう。

「いいんだよ」と、夫は言う。「それが、サッカーなんだから」
O型大らか大雑把なわたしだが、カレンダーは月が変わってからじゃないとめくれない様な杓子定規なところもある。大人になってから触れたカルチャーショックって、そう簡単に身体の奥までは浸透しないものだ。
だがちょっと、乗り越えてみたいハードルだって気もしている。とりあえず来月は3日前にカレンダーをめくってみよう。ハードルをひとつひとつ超えていけば、ブーイングだっていつか楽しんで出来るかも知れない。

看板はブルーでしたが、全体にチームカラーの黄色が効いています。

仙台チームキャラクター鷲の『ベガッ太』さん。血液型は勝利のV型。
性格は、Jリーグキャラクターにしては珍しいヒール(悪役)キャラ。
ふてぶてしく悪戯好き。気に入らないことがあるとふてくされる。

試合前の練習風景。全天候型いいな。選手はもちろん雨が降れば濡れますが。

ヴァンフォーレ甲府の応援団。久しぶりにその後ろで観ました。

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疑問の切れ端を、たどって

夫より1日早く仙台を訪ねたのは、東日本大震災で両親を亡くした子ども達のために寄付を募っている『JETOみやぎ』に行ってみようと思ったからだ。
友人とんぼちゃんのホームページにある『今、わたしにもできること』のコーナーで紹介されていた『JETOみやぎ』ホームページを見て、寄付をしたが、どんな人達がどんな気持ちで運営しているのか、話を聞いてみたかった。
メールすると「お待ちしています」との返事。

「これまで赤十字などに寄付をしてきたんですが、何を優先してどんな風に使われているのか、よく判らなくて」
漠然と胸にあった疑問の切れ端を口にすると、『JETOみやぎ』を立ち上げた経緯を判りやすく話してくれた。

発起人は東日本大震災の際に、多くの人の葬儀に携わった『清月記』という葬儀会社の代表だという。
話をしてくださったのは『清月記』社員で『JETOみやぎ』の運営をしている千葉さんと鈴木さんだ。
「あまりに多くの人が亡くなり火葬が間に合わず、仮埋葬として土葬したご遺体を掘り起し、ご家族に確認していただかなくてはならなかったんです」
千葉さんは、思い起こすようにゆっくり話してくださった。
「その遺体確認に来るのが、まだ幼い子どもさんだったりするんです。おばあちゃんに手を引かれて来たり。親戚の方だったり。普通なら、考えられない光景です。それを目の当たりにして、この子達のために何かできないかと、そんな気持ちから始まったんです」
亡くなった両親の遺体を確認する、幼い子ども達。思いも及ばないことだった。自分の想像力のなさを思い知り、打ちのめされた。

チャリティー・ライブを企画してくれるアーティストや、大学生ボランティアが活躍してくれたサマースクールのことなど、明るく楽しいイベントを企画していることなども、話してくれた。
最後に聞いてみた。こうして訪ねてくる人はいるのかと。
「よく、いらっしゃいますよ」笑顔で、千葉さん。
ああ、みんな、模索しているのだと思った。他にもたくさんの団体が、被災した人のために寄付を募り活動していると思う。たくさんの団体ががんばっていることは悪いことではないが、たくさんすぎて何処に寄付したらいいのか判らず、結局何もできないままだと、胸のなかに漠然とした疑問の切れ端を持っている人も多いんじゃないかな。
行って、話を聞き『JETOみやぎ』と、模索している人達の姿が見えてきたように感じた。

事務局には、パンフレットやピンバッジの他、
活動報告のニュースレターが、並べてありました。
  
千円以上寄付した人に、配っているというピンバッジ。ちょっと素敵。
「震災孤児支援グッズで、一緒に支援表明をしましょう」
と、パンフレットにあります。意思表示も大切ですよね。
  
昨日は『語り部タクシー』で、夫とふたり被災地を回りました。
写真は津波に飲まれた荒浜の、お寺があったところです。
流されたお寺の後に、戻してもらったお地蔵さん達や、
亡くなった両親や兄弟のお骨を、ひとりで持ってきた小学生の話など、
偶然来ていた、地元の方にお話を聞くことが出来ました。

此処も津波に飲まれた閖上(ゆりあげ)の戦没者の碑が奉られた高台。
津波の高さは、この高台の遥か上だったそうです。
  
『東北に水仙を』というプロジェクトがあるのは知っていました。
それを足元で見つけた時の驚き。来年は水仙の球根を送ろうと思います。
  
閖上中学校の屋上で助かった子ども達と、助からなかった子ども達。
3月11日は、卒業式だったそうです。
時計の時間は、そこでとまっています。桜やモミジも流されたそうです。
ワシントンから贈られた桜の苗が、春だよと、静かに語っていました。

拍手

自分の持つ力を侮ってはいけない

やはり、迷った。気の迷いとか、どうしようかなと迷うとかではなく、またしても道に迷った。
夫より一日早く仙台入りするので、牛タンならここ、というチェーン店『利休』を下見しておく約束になっていたのだ。『利休』は、仙台駅周辺に何店舗もあり、予約しないと並んでいて入れないことも多いという。なので駅から徒歩十分のホテル近くの『利休』にしようということになり、場所だけでも見ておこうと歩き始めたのだ。

「やっぱり」ひとりごちる。方向音痴の自分には、不可能なんじゃないかと予測できる範囲だった。さっさとあきらめて、駅に向かった。仙台出身の友人に聞いていたJRの駅ビル3階に入っているという『牛タン通り』を見て、ふらふら歩き、その後、早めの夕飯を食べようと思っていた。
新幹線はやぶさで、うきうき駅弁とビールでもと計画していたのだが、青森まで行くと知り眠ってはいけないと飲むのも食べるのも辞め、腹ペコだった。
しかし、自分ですら予想もしていなかった壁にぶち当たった。『牛タン通り』が見つからないのだ。
「えっ? だって、駅ビルにあるんでしょ? 何でないの? これちょっと、人に聞くのも恥ずかしいレベルだよねー?」
駅構内を探し回るが『牛タン通り』という道しるべはない。途方に暮れ、恥ずかしながらJRの制服を着た女性に聞いた。
「そこのエスカレーターを、降りてください」
彼女は相当忙しかったらしく、それだけ言い立ち去った。
それからも「そこのエスカレーターって、何処よ?」と、迷うことしばし。だいたい何で3階なのに降りるんだ? 右も左もどころか、上も下も判らない。とにかく下に向かうエスカレーターのみを探し回って見つけ、1階に降りると、エレベーターがあり「3階『牛タン通り』」とかかれていた。
「あったー!!」と叫びたいのを我慢し『牛タン通り』を闊歩した。そして、心のなかで言った。「残念だけど、牛タンは、明日ね。ふふふ」
そして満ち足りた気持ちで、探してもいないスペインバルで、3種類のタパス(スペイン風おつまみ)を食べ生ビールを美味しく飲んだのである。仙台は、山梨よりずっと都会だ。牛タン『利休』はなかなか見つからないかも知れないが、リーズナブルで美味しいスペインバルなら、すぐそこにある。
まさか、ここすらも判らないなんてことが、あるはずないじゃない、などと、自分の持つ力を侮ってはいけない。いや、持たない力と言うべきか。

歩き回ったせいもあり(?)ものすごーく美味しかった茄子のフリット。
と、もちろん生ビール。フリットは、バジルと粉チーズがアクセントに。
これなら、簡単に作れて、お客様にも出せそうなタパスです ♪

その後、性懲りもなく再び『利休』を捜し歩きましたが見つからず、
素敵な雰囲気の遊歩道を、見つけました。ラッキー!

暮れゆく仙台の早春。桜の並木でしたが、まだ春は遠いようです。

遊歩道を出たところに、綺麗なお地蔵さん達が並んでいました。
「今日見つからなくても、きっといつかは見つかるよ」
優しいお顔で、声をかけてくださいました。

夫の道案内で、ぶじ着いた『利休』東口分店。彼も初めてなのに・・・。

普通の牛タン焼きよりも、ちょっとだけ値が張るけどやわらかーい、
『極(きわみ)』の美味しさったら! 絶対おススメです!

夫が最後にオーダーした『テールスープうーめん』
何ともコクのある、それでいてさっぱりしたスープに、しこしこ麺。
「やっぱ、〆はこれだね!」と、夫。彼の言う通り、うん。

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わたしのペース

片づけが、苦手だ。
在宅勤務で経理の仕事はしているが、主婦であるから、洗濯もするし、料理すれば洗い物もする。買い物もする。
洗濯物を干すのも、料理も、買い物も好きだ。楽しい。だが、そのあとの片づけが、思うようにいかず、我が家は常に散らかっている。
取り込んだままだったり、たたんだ洗濯物が、リビングに置きっぱなしになっていたり、洗い終わった食器や箸も、カウンターの上。食器棚はすぐそこなのに、食器達は歩いて行ってはくれない。
買ってきた買い物袋を、玄関や廊下に置いたままにしてしまったり、紙袋に何か入れて出かけ、帰ってきたら紙袋を仕事部屋に置きっぱなしにすることも多い。紙袋がいくつも増えていく現象に、夫はただただ呆れるばかりだ。

洗濯も然り、料理も然り、買い物も然り。ひとつの作業を終えると、ああ、終わったと安心してしまうのだ。すべてを、ひとつの作業だと思うことが出来ず、とりあえずここまでの場所で、いつでも立ち止まってしまう。
電車に乗り、降りるのを忘れることも、よくある。乗った途端ホッとして、次の駅での乗り換えなどすっかり忘れ、乗り過ごしてしまうのだ。
電車に乗るという作業と電車から降りるという作業が、ひとつに繋がらない。

そんな風に、出来ないことだらけの自分に苛立ち、がんばってみる時もある。しかし、あれが出来ればこれが出来ず、苛立ちは募るばかり。仕事だけはミスしないようにと気が張っている月末などは、他でのポカが多くなり、訳もなく悲しくなって、ぽろぽろ涙がこぼれたりする。
なので、今日はこれだけがんばろうとか、ひとつがんばったりしている。
マイペースって、あまりいいイメージの言葉じゃないけれど、悪い言葉でもないとも思う。わたしのペースで、他の人よりはのんびりめに生活していくのも、悪くないんじゃないかな。そんな風に考えて、日々一歩一歩生きている。
  
風になびく洗濯物を、見ているのが好きです。
同じ明野に住む、洋裁の好きな友人がネット販売しているワンピース。
ページはこちら。わたしは、チュニックとして着ています。

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好きな道を行こう

好きな道は、人それぞれ違う。哲学的な話ではない。道路のことだ。
我が家から、韮崎駅まで行くのに使う道は、いく通りもあり、最短の時間で行くための信号が少ない道もあれば、道路の幅がわりと広く走りやすい道もある。少し遠まわりをすれば、車の通りが少ない道を気持ちよく走れるし、途中パン屋に寄ったり、帰りにガソリンスタンドに寄る時には、何も考えずその前を通る道をゆく。

わたしは、ゆっくり幅の広い道を、遠まわりするわけでもなく、ごく普通に走るのが好きだ。だが夫は違う。最短で行ける道を、常に探している。
「こっちの方が、速い」「あっちの方が、速かった」
などと、運転中よく口にする。

この間、ヴァンフォーレの試合を観に行った時にも、駐車場から、スタジアムのどちら側を歩く方が近いか、考えつつ歩いていた。
「やっぱり、行きに歩いた道の方が、近いかな」
帰りに分岐点である横断歩道を歩きつつ、つぶやく。
「でも、向こうの道は、誘導がうるさいからな」
「そうだね」わたしも同意する。
中銀スタジアムの無料駐車場に近い道を歩くと、警備員が、横断歩道がある道に誘導するため、違う場所に車を停めているわたし達は、いつも、叱られるように「こっちの道を行ってください」と言われ「いや、向こうに停めてあるから」と言い訳し、歩かなくてはならない。時間ぎりぎりに行くと、無料駐車場は満車で停められないのだ。
「ちょっとくらい、遠くても気持ちよく歩きたいよね」
距離も大切だが、気持ちよく歩けることも大切だ。
ゲームであれば、わざわざ怪獣が待ち伏せしている道を通り抜けるスリルも楽しいかもしれないが、現実世界で聞かされる小さな文句は、楽しいものではない。道を選ぶときの重要な要素にだって、なり得るのだ。

ところで夫は、最短距離を探して走ることも好きだが、新しい道を探して走るのも大好きだ。
「いつも同じ道を走るのも、面白くないじゃん」
常に行きとは違う道を、帰りには走りたがる。彼は運転中やただ歩く時でさえ、いや、多分何をするにつけ、いつもいつでも面白さを求めているのだ。

いつも、通る道。

急ぐ時に、通る道。

のんびり気分で、通る道。

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『あかずの間』で育っている、何か

寝坊して朝食も取らず、慌ててパンツスーツを着込み出かけて行った。全く忙しいことである。昨日、大学の卒業式を迎えた、上の娘のことだ。
今、彼女は生活の拠点を東京はわたしの実家に移し、毎日バイトに励んでいる。お金を貯めてヨーロッパを旅して、その後カナダに渡る予定だそうだ。

留守中、娘の部屋は閉めっ放しになっていて、空気を通そうかと思う度に、なんとなく止めていた。
「決してなかは、覗かないでください」
などと言われた訳でもないが『あかずの間』的雰囲気が、入口に漂い、
「なかで、何か育っているかも」と、つい要らぬ想像をしてしまった。
何かって、いったいなんだよ? と聞かれても、判らない。そして判らないものほど、恐いものはない。娘の部屋で、どんどん膨らみ、大きくなる、何か。

しかし卒業式のために、彼女が帰って来て開け放たれた部屋には、何者も育ってはいなかった。
ただ、数えきれないリラックマ達が、変わらず微笑みをたたえているのみである。成長し、膨らみ、大きくなっていたのは、わたしの想像だけだった。

娘は明日から、また東京に行くという。
そんな風にして何か月か後には「明日、ヨーロッパに行くから」と、バタバタと朝食も取らず、旅立っていくんだろうな。

「リラックマはもう、卒業しようかな」と、娘。
  
なのに何故か、始めたブログのURLに、リラックマの名が(笑)
→ 『23歳、旅人いぶきのブログ』

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校長先生のお話

先月、思わぬ大雪の際、小中学校の先生方が、学校周辺を雪かきしていた。
「先生方も、たいへんだ」頭が下がる思いで、ゆっくり車を走らせた。
「あ、校長先生まで。多分、役員さん達も駆り出されてるんだろうなぁ」
大人になると、先生の大変さも判る。そして子どもの頃の自分は、じつに呑気で自分中心に生きていたのだなぁとも判る。

その呑気で自分中心な子どもに言わせれば、校長先生のお話というものは、長く退屈で眠いものだとの前提の上に成り立っているものだった。
最近のことは知らないが、26歳の息子が小学生だった頃も同様に感じたらしく、真面目な顔で『校長先生のお話を乗り切る方法』を教えてくれたっけ。

「まず、頭のなかに50音のあいうえお表を、思い浮かべる」
小学生の息子の話を熱心に聞きつつ、母は、あいうえお表を思い浮かべた。
「今日のテーマを決める。例えば、食べ物」「うん、食べ物ね」
「『あ』から順番に、頭にその字がつく食べ物を、思い浮かべる」
なるほど、なるほど、とやってみる。
あ、アンパン。い、石焼き芋。調子よく進む。
「50音が終わるまでには、校長先生の話も大抵終わってるんだ」
「ほーう。素晴らしい!」
「でも、では次に、ご来賓の皆様から、とかいう時には二巡目に入るけど」
子どもって、どんな状況でも遊びに変えちゃうんだなと感心した。

しかしその遊びも、大人がやると、ままならない。
う、うに丼。うに丼と言えば、今じゃあまちゃんだけど、昔、釧路の和商市場でたらふく食べたなぁ。え、エビフライ。揚げたてのエビフライって、ジューシーで美味しいよなぁ。タルタルソースがまた、美味しいんだよなぁ。でも作るのけっこう手間なのよ。などと、横道にそれる。横道にそれて、あれ、次はなんだっけ? タルタルソースだから、た、ち、チーズ。などと思ってしまい、まだ、あ行終わってないじゃん、と自分でツッコミを入れる。エビフライ、い、石焼き芋? ありゃりゃ、しりとりじゃないって。

息子の頭のなかにある、きちんと整列したあいうえお表は、わたしのなかでは、ぐにゃりと曲がったり、サボっている文字があちこちに穴をあけたり、こっそりとりかえっこしたりしているようだ。校庭で整然と整列した子ども達と、あっちこっちふらふらしている子ども達の対比の図に可笑しくなる。

ところで、最近では校長先生のお話は、どうなんだろうか。
「待ってました!」という掛け声と共に、口笛が鳴り響き、紙テープが紙ふぶき入りで飛ぶほど、面白くなっていると、いいんだけどなぁ。

まだ雪が残る、明野中学校の校庭。周囲に植えられた木は桜です。
町には、小学校も中学校もひとつずつ。40人ほどの学年は9年間一緒です。
上の娘は、不器用で校則が守れず、よく先生とぶつかっていたなぁ。
今となれば笑い話ですが、その時は親も子も真剣でした。

桜の蕾は、まだ硬く閉じています。
入学式の頃には、毎年咲くけど、今年はどうかなぁ。

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今、わたし達にもできること

三日前から、口内炎が出来ている。食べる度に痛く、歯を磨くのも痛い。たったそれだけのことなのに、気持ちは沈む。
自分で挽いてドリップしたタンザニアの浅煎り珈琲は、つかの間、痛みを和らげてくれたが、仕事で電卓を叩き、銀行や郵便局を回り、帰ってくると午後には、何も口にせずとも痛むようになっていた。

口のなかにぽちっと出来た小さな傷の痛みは、他愛もないことに日々くよくよしている自分を象徴しているかのようで、情けない気持ちになる。しかし、小さな口内炎でさえ憂鬱になる弱さも、多分、人はみな抱えているのだ。
今日は、3月11日。東日本大震災で大きな傷を受けた人ひとりひとりのことを考えてみる。3年という時間は、どんな風に過ぎていったのだろう。大きな傷に、小さな傷はかき消されていくものなのだろうか。それとも。

友人とんぼちゃんのホームページに『今、わたしにもできること』というコーナーがある。彼女は毎日募金という彼女ならではの企画で、毎日小銭を瓶に貯め貯まったら寄付している。『毎日』なのは、震災を忘れないためだそうだ。

だが、何をやっても三日坊主のわたしには、毎日募金は、ムリそうだ。
募金は別に考えるにしても『今、わたし達にもできること』は何だろうかと、夫と話した。彼は、仕事で仙台に行ったことはあるが、わたしは、東北地方には行ったことがない。去年も仙台に行こうと計画したが、一緒に行く約束をしていた『伊坂幸太郎ファンクラブ』(在籍2名)の仲間の都合がつかず、実現しなかった。(伊坂の小説は、ほとんどが仙台を舞台にかかれている)
「じゃあ、今月行こうか」と、夫。「仙台で、アウェイ戦がある」
「そうだね。まずは、行って見なくちゃね。行かないうちに3年経っちゃったし。牛タン食べて東北応援して、ヴァンフォーレも応援して来よう!」

上の娘は、先月ボランティアで、陸前高田市などいくつかの場所を訪ね、
「被災地だからじゃなく、いいところだと思ったらまた来て欲しい」
そう声をかけられたことが印象深かったと、話してくれた。
おなじく先月、友人達にも、仙台を訪ね『語り部タクシー』で雪のなか、被災地を見て歩いたと聞いた。

東北を訪ねても、大きな力になれる訳でも、誰かの痛みを理解できる訳でもないことは、知っている。それでも今、行ってみようと思う。

冬に飲む珈琲は、いいですね。心の底から温まります。
あー、もう3月だから、早春って言うのかな? 春遠からじであって欲しい。
  
一人の夕飯は、仙台麩の白菜スープ。湯通しする前はフランスパンの様相?

生姜と鶏がらスープの薄い味付けだったからか、すき焼きなどに入れるより、
はっきりと自己主張していました。「こんがり揚げてあるんだぜ!」
優しい味の柔らかく煮たスープは、口内炎にも沁みませんでした。

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ディズニーシー大人散歩

自分に限って、一生足を踏み入れることはないだろうと思っていた。だが『誰々に限ってない』という言葉が、ことごとく裏切られるためにあるようなものだということも、また知っていた。
「のんびりペースで、楽しもうよ!」と、友人達2人に誘われた。
「何という偶然! その日、家族で行くんだよー」
と、もう一人の友人。彼女は、いつもいつでも手配が早く、すぐに、
「ランチ予約したから、一緒に生ビール飲もうね!」
至れり尽くせりの誘惑メールが、届く。
「嘘! 何がどうして、そんなことに?」
小学生の頃には、両親は何故か遊園地が苦手で、我が家では連れて行っては貰えないのだと悟っていた上の娘も、面白がってマリーちゃんのヘアバンドとパスケースを貸してくれた。
『自分に限って』と信じていたことなど、いとも簡単に手のひらを返すことが出来るのだと、この歳になって再確認した。この歳とは45歳以上ならではの、お得な大人旅パスが使える年齢のことである。

かくして、生まれて初めて『ディズニーシー』へと足を踏み入れたのだった。
遥か昔、末娘と『ディズニーランド』に行った時とは違い、ネットで前日に購入しプリントして持参したパスで入園。並んで入るものとばかり思っていたゲートは今や、狭く閉ざされていた時代を乗り越え、大きく開いていた。
地図が読める女である友人に連れられるまま、3人ただ、のんびりと歩く。歩いている間も並んでいる間も、お喋りに花が咲き『ディズニーシー』に来ていることさえも忘れそうになるほど、気持ちは解き放たれていった。
その後、ランチを予約してくれた友人家族と合流し、生ビールで乾杯し、また喋る。お母様やお嬢さんとも打ち解けて、喋る、喋る。友人のお孫くん達が可愛らしく、それだけで思いもよらぬほど嬉しくなり、笑う、笑う。
いいのだ、と思った。何処でも、いいのだと。気の置けない友人達と、他愛のない話をして笑い、過ごす楽しさは、何処でも同じなのだ。春の晴れた青空の下で、生ビールつきとなれば、尚更ことさらだ。

わたし達は『で、ず、にーランド』と発音するほど、歳はとっていない。だが、娘が貸してくれたヘアバンドをするほどに、若くもない。しかし。
「でさ、あの白い猫、なんて名前だっけ?」「知らないけど、顔は判る」
と『マリーちゃん』の名を思い出そうともせず、笑い合えるほどには、いい歳のとり方をしているなぁと、青空の下を歩きつつ、気持ちよく思った。
もう一人の友人が「寒い」と言い、ミッキー耳、グレー単色の毛糸の帽子を買った。それはとても似合っていて、わたし達のシンボルのようだった。

山を見慣れているだけに、余計に異世界の雰囲気漂います。
     
こういった風景に囲まれて歩くだけで、楽しいものなんですねぇ。
    
とりあえず『海底二万マイル』に、乗ってみました。
「昔、読んだなぁ」「ダイオウイカが出てくるんだっけ?」
「忘れた」「これって海水かな?」「潮の匂いは、しないねぇ」

ブッフェでのんびりと飲む生ビールは、格別でした。

帰りがてら「この長蛇の列は何?」と思ったら、
シーのシンボルモニュメントの前で写真を撮る人々の列でした。

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春待つメロディ

日曜の朝、窓から西側の林を見て、夫が言った。
「雄のキジがいる。綺麗だよ」「どれどれ」
わたしがキッチンに立つ手を休め見に行くと、彼は双眼鏡をのぞき訂正した。
「あ、キジじゃない。カケスだ! 羽根が青い」
双眼鏡を借りて見ると、確かにカケス。ドングリらしきものを無心に食わえては食べ、飛び立つ様子はない。家の中からわたし達に見られているとは、思いもよらなかったのだろう。雪が解けるまで待ち、あまりの空腹に我慢出来なかったのかも知れない。
わたしは、デジカメを思いっきり望遠モードにして、何回かシャッターを切った。青い羽根の縞々が、綺麗だ。
「カケスなんて、久しぶりに見たね」と、夫。
「うん。雪が解けて、ようやくドングリが食べられるって、張り切ってやって来た感じだよね」
すると夫は「!」という顔をした。わたしも「!」と、彼の言わんとすることが判った。そして次の瞬間、ふたり歌った。
♪ 雪がぁ解けて 川ぁになぁって 流れていきますぅ(ランちゃん!) ♪
ちなみに(ランちゃん!)は、夫のソロである。

それからずっと、頭のなかにそのメロディが流れ続けていて、止まらない。
キッチンで、お風呂でつい歌ってしまう。
♪ もうすぐ春ですねぇ 恋をしてみませんか ♪

わたしの頭にリピートされ続けるこの春待つメロディに免じて、雪にもそろそろ遠慮してもらいたいものだ。ところでカケスは、他の鳥の鳴き声を上手に真似るらしい。カケスくん。ついでに、キャンディーズも歌ってみませんか?

頭に乗せた冠と、羽根の青と縞々が特徴的。雄雌、同じ模様だそうです。

主食はドングリだとか。隣の林には、ドングリが山ほど落ちています。

雪が解けた庭を探ると、ふきのとうが一つだけ顔を出していました。

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今シーズンのジンクス

振動も鼓動も伝わって来ないまま、Jリーグ開幕戦は鹿島に4-0で完敗した。雪が残る小瀬、中銀スタジアムでの開幕戦は、中止との知らせが入った。だが急遽、東京は国立競技場を借り、ホームでの試合を行うことが決まり、夫とふたり観戦しに行くことにした。
雪の予報に、そぼ降る雨。暗雲垂れ込める天気に不安にもなったが、天気は相手とて同じ。防寒グッズで身を固めヴァンフォーレのマフラーを巻き、千駄ヶ谷から意気揚々と歩き出す。すると、すぐに誘導され長い列の後ろに並んだ。
「こんなに並んでるんだねぇ」と、わたし。
「昼は、中で買って食べるしかないか」と、夫。
国立競技場近くに昔からあるラーメン屋『ホープ軒』で食べるのもいいねと、話しつつやってきたのだ。

しかしなんと、ゲート入口まで来ると、そこは鹿島サポーターの入口で、甲府サポーターは入場できないという。
「なにそれ、早く言って欲しいよね」文句を言うわたしに、夫は慣れた様子。
誘導もバイトくんが多く、指示されたことをするのみというパターンは、大きなスタジアムではよくあることらしい。
「それよりさ、せっかくだから『ホープ軒』行こうよ」
「いいね、それ」わたしもすぐに機嫌を直し、同意した。
熱々でこしのある葱ラーメンは、大盛りで美味かった。それから、ふたり満腹でスタジアムに向かった。向かう途中笑っていた。
「今日、ぼろ勝ちしたら、これから毎週ラーメン食べなきゃならないかもね」
夫が言うと、わたしが返した。
「えっ? じゃあ負けたら、週末はラーメン食べられないってこと?」
昨シーズン、わたし達が決死のチキン断ちをして応援しJ1残留を決めたヴァンフォーレ。そのジンクスもリセットだと笑っていたのは行きだけだった。
行きはよいよい、帰りは恐い。今シーズン、金曜土曜は愛するラーメン断ちという試練が、わたし達には課せられたのだった。

「ACミランだって、3-0で、負けることだってあるんだから」
夫は、自分を励ますように言ったが、試合終了寸前ダメ押しの4点目を決められた。夫は、再び言った。
「ACミランだって、4-0で、負けることだってあるんだから」
我らがヴァンフォーレの躍進に期待する、Jリーグシーズンが始まった。
  
サッカー観戦をする人々でにぎわうという『ホープ軒』

初めて行き雑然とした雰囲気に飲まれるも、ラーメンは美味かった!

シーズンはこれからだ! がんばれ、ヴァンフォーレ☆

帰りに『ヴァンフォーレ甲府応援たまご』を、買って帰りました。
売上金の一部が、選手強化費として使われるそうです。

多くの地元スポンサーに支えられている、地元に根を張ったチームです。
そういうチームを、イタリアでは『プロビンチア』と、言うのだとか。

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福山雅治で、冬を乗り切る

最近、福山雅治である。
彼のことはドラマ『愛はどうだ』(1992年放送)で、緒方拳の草食系っぽい部下役をやってた頃から注目しているし、NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、やっぱ、かっこいいなと思ったが、CDを聴くほどのファンでもない。
この冬、福山に倣い、風呂で身体を洗うのに石鹸を使わない、というのを実践しているというだけだ。

彼は乾燥肌故、苦労してきたそうだが、石鹸、ボディソープ、シャンプーなどをいっさい使わず、お湯だけでゆっくり洗うというやり方にしてみたら、これがカサカサせず、痒みも出ず、いい感じなのだという記事を読んだ。全部が全部、倣うのも躊躇するところがあるので、とりあえず、毎年冬に乾燥し、かきむしってしまう足(特にすね)をお湯だけ洗いにしてみた。これが、効いている。例年ひっかき傷を作るこの時期、いまだ、すねは痒みを訴えて来ない。すごい効果だ。
しかし、友人に話すと「えっ? 毎日石鹸で洗ってたら、そりゃ乾燥するでしょ」という返事。なーんだ。福山流って訳でもなかったのね。

このところ雪かきで疲れているせいか、やたら濃い夢を見るのだが、福山がよく登場する。福山と付き合っているという設定で(なのに福山は出て来ない)同僚の江口洋介とお弁当仲間。新作メニューを見せ合うシーンに、焼きそばコロッケを自慢げに食べると、江口に「ずるい!」と非難され、勝利に歓喜しつつ、これって浮気かなと不意に思うのだ。もちろん、福山に対して。
いや、江口洋介、全然タイプじゃないんだけど。ふたりが共演していたドラマ『ひとつ屋根の下』のイメージで登場しただけだと思うんだけど。

まあ、綺麗にし過ぎるのも、よくないのかもね。身体も、心も?
  
吉祥寺の雑貨屋『 quatre saisons 』吉祥寺は、雑貨屋さんだらけ。

ナチュラルテイストなフランス製の石鹸『SAVONNIERE
店員さんおススメ乾燥肌にいい『アルガンとミツロウ』20gを購入。
左側手前の白い石鹸です。匂いは本当に微かで、それが気に入りました。

香りが強いものや、色に目を魅かれるものもたくさん。
石鹸って、なにか魅かれるものがありますよね。

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くだらないおしゃべりの効用

「わたしの青春は、もう終わった」
19歳の末娘が、レディボーデンをスプーンですくいつつ、言った。
「『ビバリーヒルズ青春白書』では、大きな容器からそのままアイスクリームをすくって食べてたよ」と昔、アメリカで流行ったドラマの話をしたばかり。
彼女はそれを真似て、レディボーデンを独り占めしつつ、黄昏ている。
「何言ってんの。まだまだ青春真っただ中でしょう」と、呆れ顔でわたし。
「だって、青春18きっぷって言うじゃん」と、娘。
「青春18きっぷは、何歳でも使えるんだよ」と、わたしが返す。
「知ってるよ。でも、ネーミングは18でしょ」
「ネーミングより、中身が大切なのさ」

昨日、おしゃべりな末娘は、大学のある埼玉に帰っていった。彼女を送って帰ってくると、家のなかが、しんとしている。
その昔、友人に教わった。
「反抗期の子どもに、親がしてあげられることがあるとすれば、美味しい食事を作ることと、くだらないおしゃべりをして一緒に笑うことだけ」と。
ご飯を美味しく食べながら、くだらないことをしゃべり、笑う。子ども達にとって、わたしがしてきたことは、どんな風に残っているのか判らないが、巣立ちの時を迎えつつある娘達に教えられた。「くだらないおしゃべりをして笑うこと」は、今や、子ども達にしてあげることでも何でもなく、逆にわたしが楽しんでいることだ。大雪で疲れ果てた身体には、よく効いた。娘達と、とりとめもなく、くだらないことをぐだぐだしゃべり、よく笑った効用。

「甘栗ってさぁ、脳みそと似てるよね」と、末娘。
「えっ? 似てないよ」と、いきなり否定するわたし。
「似てるじゃん、形が」「あー、見た目のこと?」「味だったら恐いよ」
「ん? だったら、脳みそじゃなくて脳でしょ」と違和感に気づき、わたし。
「脳だね。脳みその味はさすがに知らない」「食べたことあるのかと思った」
「ある訳ないじゃん」「一人暮らし初めて、多くの経験をしてるんだなって」
「それでも、脳みそは食べない」「だよねー」

くだらないおしゃべりを山ほどして、末娘は帰った。食べかけのレディボーデンと甘栗と、そこ此処に甘く明るい青春の気配を残して。

『ビバリーヒルズ青春白書』上の娘が幼稚園の頃、ハマって観ていました。
懐かしいなぁ。でも「ビバリーヒルズ」がなかなか思い出せなくて、
末娘に話す時に苦労しました。「超都会でニューヨークじゃなくって」(笑)

これが、脳かぁ。じっと見ていたら、食べられなくなった(笑)

末娘と車中で食べたたこ焼き。ソースマヨと激辛ソースマヨ。
「普通、どっちかかいてない?」「あるよね?」でも記載なし。
辛いのが苦手な彼女は、約1分迷って辛くない方を選び当てました。
それから、はふはふ言いつつ食べてる間じゅう、辛い物談議。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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