はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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淋しい相槌技術の衰え

「びっくりした?」とは、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』に登場する殺し屋キルオの決めゼリフだが、それとは全く関係なく、びっくりした。

末娘が、帰省している。
夫婦二人となった暮らしに慣れた今、判っていたことではあったが、びっくりした。彼女は、ノンストップで喋り続けるのだ。
帰って来た日は、5時間ノンストップだった。夫が帰らない日だったこともあり、その間に二人お昼を食べ、夕食を食べた。
喋ることがよくなくならないものだと思いつつ相槌を挟み、娘の話を聞く。久しぶりに会ったということ、またサークル以外での芝居を経験し話したいことが山ほどあったということを差し引いても、その若さとパワーに驚かずにはいられなかった。二十歳になった彼女を子どもと呼ぶのははばかられるが、知っていたはずの我が子の持つパワーは、親などには計り知れないものなのだ。

「こういう生活をしていたんだ。何年か前までは」
呆然としつつ、なんとなく思い出す。毎朝、毎夕、送り迎えの車中で、学校のことや読んだ本のことをしゃべり続けた彼女。だからか、今でも彼女の友人達の名や好きだったアニメや本のストーリーは、わたしも覚えている。
そして、もう一つ発覚したことにも驚いた。2年前までは、掛け合い漫才のように打てた相槌が上手く打てず、なめらかな会話ができなくなっていたのだ。これまで知らず知らずのうちに、彼女に鍛えられていたことを知った。それが、ひとりの時間が多くなった今、夫や友人達との会話に支障はないものの、彼女のノンストップお喋りに対する相槌技術は衰えてしまっていた。
「こうして、歳をとっていくのかな」
若さあふれる娘を眩しく感じつつ、淋しくも思ったのだった。

親子丼を作ったのは、久しぶりでした。末娘の大好物です。

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心の温度上昇中

庭で、クローバーを見つけた。
と言うと、ごく当たり前の風景のように思えるが、普通のクローバーではない。『クローバー・ティントブロンズ』という種類の葉が赤紫色のものだ。ティントは赤の意味を持ち、ブロンズは言うまでもなく銅。赤銅色という名なのだろうが、赤紫という方がぴったりくる色である。
まあ、見つけたと言っても、去年わたしが植えたものなのだ。ホームセンターで一目惚れし、クローバーなら強いだろうと庭に植えたのだ。夏の終わりだったかと思う。それが、すぐに枯れてしまい、がっかりした。水やりをサボった訳もないし、理由も判らず、ただただがっかりした。そして、そのまま忘れてしまった。

それが、今頃になって芽を出し葉を開き、陽の光を浴びている。全く、植物にはびっくりさせられることばかり。まるで、トラップにかけられたような気分だ。それでも、開いた葉の可愛らしさに見とれ、胸のなかに春が来たようにぽかぽかと温かい気持ちになる。心に温度があるとしたら、確実に上昇していると思われる。植物にハッとして春を感じ心の温度が上がるとしたら、たぶんこの季節、日本じゅうでたくさんの人の心の温度が上がっているはずだ。植物と人のそんな連動が春を呼ぶのかも知れないな、と仮説を立ててみる。
「眠っていたんだね。おはよう」
クローバー・ティントブロンズに、小さくしゃがんで挨拶をした。

何と言っても、葉っぱの形が、可愛いんですよね。

暑いより、寒さに強いのかな? 陽があたって、嬉しそうです。

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バスソルトで、のんびりお風呂

夫の手は、とても冷たい。そして、わたしの手は、非常に温かい。
末娘も夫に似たのか、いつも冷たい手をしていて、冬の朝、駅までのドライブで、よくわたしの手を握り、暖をとっていたのを思い出す。
熱があるみたい、と言われ、おでこに触れた途端「あつっ」とギャグにされるのもしょっちゅうだった。わたしの手の方が、触れたおでこよりも温かいのが常なのだ。いつも「どうせ、心が冷たいのさ」と、すねてみせるが、冷たいよりは温かい方がいいだろうとは漠然と思っていた。

その、手の冷たい夫が、人間ドックの再検査で手が冷たいことを話すと、バスソルトを 薦められたという。
「アマゾンで、売ってますからって言う医者って、信用できる気がする」
夫の判断で、購入してみることにした。

そして、薦められたエプソムソルトが届き、ようやく使い始めたところだ。
まずわたしが風呂に入り、温まった。分量通り入れてみたが、湯が濁るでもなく、香りも何もしない。肌がひりひりすることもなく、まるで何も入れていないようだった。だが。
「なんか、あったまった気がする」と、わたし。
確かにいつもよりも、身体が温かい。気温のせいではないことは、このところの三寒四温の四温は何処へ行った? と言いたくなるような寒さで、よく判る。しかし、と考えた。せっかく温まる塩を入れたんだから、どうせならゆっくり入ろうと、いつもより長く湯船につかってはいなかっただろうか。その「どうせなら効果」のせいではないのか。疑問符が、頭に浮かぶ。
そして、夫が入った。「なんか、あったまった気がする」
やはり、反応は同じだった。しかし、とふたたび考えた。「気がする」ことも大切かも知れない、と。何しろ「信用できる気がする」と、購入してみたのだ。果てさて、エプソムソルトで夫の末端冷え症は解消できるのか。気長に試してみようと、のんびりと湯船につかる日々である。

注意書きには「ソルトの名前ですが塩ではありません。15世紀末イギリスのロンドン郊外にあるエプソム地方で発見された白い結晶のことです」と。
塩じゃないのに、ソルトって名前使っていいんだ?

昔使っていたほうろうの米びつに入れて、洗面所に置きました。
1回の入浴に200g = 約コップ1杯分使います。

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珈琲タイム募金

東日本大震災から、今日で4年が経つ。
昨年春、仙台を訪ね、震災で親を亡くした子ども達のためにと寄付を募っている団体『JETOみやぎ』で話を聞かせてもらい、翌日には『語り部タクシー』に乗って、津波の爪痕の残る地を案内してもらった。
『JETOみやぎ』への寄付は、会員になったことで忘れず定期的に納められるようになったが、仙台を訪ねたことも、ずいぶんと昔のような気がしていて記憶の薄れていく速度に追いつけずにいる自分を俯瞰せずにはいられない。

ずっと、いいなと思いつつ、ずぼらなわたしには真似できないとあきらめていたことがある。友人、とんぼちゃんのホームページにある『今、わたしにもできること』と題し、続けている活動だ。それは毎日募金で、自分のなかで震災を繰り返し思い出し、考える時間を持つためにと、日々少しずつ小銭を貯めていき、ある程度の額貯まったら寄付をするというものである。

そのなかに「贅沢をした時には、ちょっと多めに」とかかれていたのを見て、ふと思いついた。日々の贅沢である珈琲タイムの度に、小銭を貯めていくというのはどうだろう。続けられるかどうかわからないが、挑戦してみようと、昨日、募金用の缶を珈琲を淹れるコーナーに置いた。これからは、珈琲タイムの度に、震災のこと、被災した人々のことを考えていこうと思う。

いつ誰にいただいたのかも忘れてしまった、お気に入りのお菓子の缶。
缶が綺麗だというだけでも、楽しく続けられそうな予感がします。

お財布の小銭、多い時も少ない時も、忘れずに募金していきます。

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春一番に咲く星の瞳

雪が降ったと思ったら、急に気温が上がったり、翌日には1日じゅう雨が降っていたり。三寒四温とはこのことさ、と空が言っているような早春である。
毎年この時期、一番に花を見せてくれるのは、オオイヌノフグリ。青くて小さな雑草で、犬のふぐりに実の形が似ているところからつけられた名だそうだが、別名にとても素敵な名を持っている。「星の瞳」だ。4枚の花びらの形や、綺麗なブルー、密集してたくさん咲いている様子など、確かに星が瞬いているのを連想する。春の訪れを一番に告げてくれる、一番星ともとれる名だ。

「一番星、みーつけた!」と、歌いながら、庭をのんびりと歩く。
密集して咲いているところはなかったが、一つ一つが愛らしく、小さく瞬く青い星達の美しさに心が澄んでいくようだ。
二番星、三番星も、すぐに咲くだろう。ずっと待っていたはずなのに、いつの間に春が来たんだろうと、不意打ちに似た感覚でハッとする。一番星が瞬くとすっと幕が下りたように暗闇が濃くなっていくのと同じく「あ、春が来た」という瞬間は、水面下で意識していたにもかかわらず、ある日いきなりやって来て、いつもこうして驚かされるのだ。

ブルーが眩しい、オオイヌノフグリです。可愛い!

水仙の蕾も、膨らんできました。楽しみです。

雪柳も、いくつか開きかけた蕾が見られます。

ふきのとうもちらほら、顔を出してきました。美味しそう(笑)

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まますき券

仕事部屋の引き出しを整理していたら、思わぬものが出てきた。
娘がくれた手作りの品である。鏡文字が混じっているのを考えると、4歳か5歳くらいの頃か。たぶん、二十歳になった末娘の作品だ。

11色の水玉を並べた「かわいしいる」は「可愛いシール」のことだろう。裏側には、やはり様々な色で、所狭しとリボンが描かれている。
もうひとつは「まますき」とかかれた色紙が7枚、セロテープで束ねられていた。すべて違う色の色紙に同じように「まますき」と平仮名で右からかかれている。一枚一枚、大きさがまちまちなのを見ると、ひとつひとつ丁寧に色を選び、切ったのだろう。一瞬、昔親の誕生日にプレゼントするのが流行った「肩たたき」券を思い出したが、これが「まますき」券だとすると、いったいどうやって使うのだろうと悩んでしまった。

使うことがなかった「まますき」券。これから、使わせてもらおうかな。
いい大人になったって、わたしって何てダメなやつなんだろうと、負のスパイラスに陥ることだって少なくない。そんな時、心から「すきだよ」って言ってもらえたら、大きな勇気になるに違いない。そんな本気の「すき」が、小さな紙いっぱいにかかれた文字から読み取れる。家族であれ、恋人であれ、友達であれ、好きって気持ちから湧き出るパワーは、本当に大きいのだ。

今はもう子ども達が幼かった頃のように「ママ」と呼ばれることはないけれど、久しぶりに「ママ」と呼ばれた気がして、自然と口元が緩んだ。

「可愛いシール」は、貼れません。可愛いところが大事だったのでしょう。
「まますき」券は、何故か右から「シール」は、左からかかれています。

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霧とフロントガラス

風が吹いていなかったにもかかわらず、またしても未明に音で起こされた。
北側の屋根からする、ガサゴソというかなりの大きな音に目が覚めたのだ。さては。と思った。軒にノックし続け穴をあけた犯人はアオゲラと判明したが、とうとう巣を作ったのか。推理しつつも、うとうとと眠りに入ってしまった。
朝、カーテンを開けて、合点した。雪が積もっていた。あれは、屋根から固まった雪が割れ、滑りつつ落ちていく音だったのだろう。暖かくなるという予報のはずが、まさかの雪に起こされることとなった。

見渡せば、霧である。不思議世界への入口が、すぐそこに開かれていても可笑しくないような朝だった。車の雪を掃い、いくつかの用事を足しに出かけた。霧なのでゆっくり走る。路面も日陰になる場所は凍っているかも知れない。大抵は、村道まで降りると霧は晴れるのだが、まだまだ煙っていた。
ふと気づき、ワイパーをオンにする。あっさりと霧は晴れた。雲っていたのはフロントガラスの外側だったのだ。霧だという先入観ありきで、ガラスの曇りだとは気づかなかった。それは、いつものことながら「目の前のものを受け入れてしまう」性質(たち)によるところが大きい。霧ならば、慎重に走ればいいと、その状況を受け入れてしまう、といった手におえない自分の性質。

散らかった部屋も、汚れた車も、ベッドに積んである本も、わたしは、いつしか受け入れてしまい、片づけるという発想を失くしてしまう。そういう性質なのだ。性質であるから、直そうと思ってもなかなかそうもいかない。
霧が晴れた昼間。リビングを綺麗に片づけた。
霧とフロントガラスからの、片づけられない女代表であるわたしへのアドバイスを、ここは素直に受け入れようと思ったのだ。

朝8時。春の雪に戸惑い、西側の林は霧に煙っていました。

野鳥達の水場にも、雪が混じって凍っています。

アイビーのオブジェも、青々としてきたのが、しゅんとして。

ウッドデッキのテーブルは、こんな感じ。すぐに解けていきました。

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耳は記憶をひも解いて

「せつえん、だ」
朝7時前、駅まで送る車のなかで、富士山を見て夫が言った。
「せつえん、って何?」と、わたし。
「雪が風に飛ばされて、煙みたいに見えるやつだよ。雪煙」
昨日の朝は、それほどに風が強かった。八ヶ岳にも、八ヶ岳下ろしを吹かせる雲が、べったりと張りついている。
「春一番、じゃあないね」「完全に、北風だ」

目覚める前も、夜中じゅう、家が揺れるほどの風が吹いていた。眠りも浅く、様々な音が聞こえる。「あれ?可笑しいな」と思うような音がしても、半分眠りのなかにいて起きて確かめようとは思わない。
一昨日は、玄関でバスケットボールをドリブルする音が聞こえた。上の娘は小学生の頃、バスケをやっていて、よく玄関でボールをついていた。しかし、その娘は今、カナダにいるはずだ。はっと気づく。夫が階段を降りる音だった。
そして、昨日の朝浅い眠りのなかで聞いた音は、水道水がちょろちょろと流れている音だった。「蛇口がちゃんと閉まってないのかな?」だが、朝確かめてみても、何処からも水は漏れていない。それでも、音はやむ様子はなく、夢のなかで聞いた訳でもなさそうだ。耳をすませて音の方向を確認する。外からだった。薪小屋の屋根に貼ったプラスチックの波板が壊れ、それが北風に揺られて鳴いていたのだ。「キー」と「チー」の間のような、人間が発するのは難しい音がしていた。

犯人が割れ、全く違う音なのに、バスケットボールの音だと思ったり、蛇口の閉め忘れだと思ったりする自分を笑った。どうせなら、もっと違う音をききたかった。例えば、小川のせせらぎとか。けれど、わたしの耳は、しっかりと自分の記憶をひも解いて判断していたのだ。
「次は、あり得ないことを想像してやるぞ!」
意味なく、闘志を燃やしたのだった。

南側の薪小屋ですが、八ヶ岳下ろしがまっすぐに吹いてくる場所にあります。

アップにすると、こんな感じ。犯人は、意外な場所に居る!

午後1時の富士山。朝のような雪煙は見られませんでしたが、
雲がいい感じにたなびいていて、綺麗でした。

八ヶ岳を覆った雲が、風に飛ばされていきます。
夕方には、北風もやみました。薪小屋の波板の音も、もうしません。

やっぱ、八ヶ岳って綺麗! 個人的には、富士山より綺麗だと思います。

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ゆるく生きるのも難しい

歯を食いしばるのが、自分の癖だということは、判っている。
意識して俯瞰し始めると、気づいた時、常に歯を食いしばっていて、それは、リラックスしているはずの珈琲をドリップしている時や、読書をしている時にさえもみられる症状なのだ。
クレンチング症候群という名がついていることは、最近知った。そうだろうとは思っていたが、ひどい肩こりや首のこりの原因の一つは、歯を食いしばっていることにもあるようだ。

予防法はと調べてみると「ストレスを失くす」「ストレッチする」など。
ストレッチがストレスになる場合は、どうすればいいんだ? などと考えつつ、毎朝の体操は続けている。ストレッチとも言えない「肩ポン体操」という名のゆるーい体操だ。右手で左肩をポンと叩き、左手で右肩をまたポンと叩く。次は、腰にポン。ポン。その繰り返しの簡単なものだが、遠心力に身体を任せる感じがけっこう気持ちがいい。
「きみの体操は、どうしてそんなに、ゆるいの?」
夫は言うが、それも当然のことだ。彼はサッカーを続けるために、トレーナーについて教わり、自分の身体にあわせたストレッチを、毎日欠かさず念入りに行っている。わたしには、絶対にできないことである。できないことだと彼も判って言っているので聞き流し、ゆるく体操を続ける。そのあいだにも、歯を食いしばっていることに気づき、力を抜く。
「歯を食いしばるの、癖なんだよねー」と、夫に言うと驚かれた。
「ぼーっとしながら、歯を食いしばることなんてできるの?」
力を抜いて、ゆるく生きていくのだって、とっても難しいことなのだ。

カナダでワーキングホリデー中の娘の部屋で留守を守る、リラックマ達。
肩ポン体操を実演してもらおうと思ったら、手が肩に届きませんでした。

ゆるく生きるには、どうしたら、いいんでしょうか? リラックマさん。

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うっかりなわたしの環境保護について

環境保護に対する意識は、きちんと持っているつもりだが、うっかりな性格だけは、どうにも変わらず「失敗した!」と思うことがよくある。

例えば、スーパーなどではマイバックを使い、袋は欲しい時には購入する形になっているのでいいのだが、その状況に慣れているせいもあり、本屋やコンビニなどで「袋いりません」の言葉がワンテンポ遅れ、すでに袋に入れられていることが多い。全く本当に、うっかりである。
また例えば、セルフサービスではない珈琲屋で、店員さんが行ってしまう前に「砂糖とミルク、いりません」というのを忘れることもあり「失敗した! この砂糖とミルクは捨てられてしまうんだな」と、悲しい気持ちになったりもする。これもまた、うっかりである。

様々なシーンで気をつけていないと、うっかりなわたしは、小さく環境保護に貢献することも難しいのだ。気をつけようと、がんばってはいるのだが。

ところで、今年ももうすぐJリーグが開幕する。毎年、ヴォンフォーレ甲府のホームゲームを観に行くと、ドリンクのリサイクルカップの徹底には、心地よい潔さを感じる。購入時に百円プラスした金額を支払い、リサイクルコーナーで使用後のカップを百円と交換してもらう仕組みなのだ。この方法、すごくいいなと思う。何処がいいって何しろ、うっかりする暇がないのがいい。
まあ、その有無を言わせないやり方には、異論を唱える人もいるかも知れないが、様々な人が様々な方法を模索しているのだ。
うっかりなわたしも、模索中。いったい、どうしたらいいんでしょうねぇ。

お砂糖さん、ごめんなさい。これからは持ち帰る勇気を、持とうかな。
半蔵門駅近くの珈琲館のアメリカン。好きな味でした。



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クリーニング屋のおばちゃん

土曜の夕方。1週間分の夫のYシャツが、クリーニングからあがってきた。
ホッとして、胸を撫で下ろす。いろいろあって出すのが遅くなり、仕上がってくるか不安だったのだ。急いで仕上げてもらい、感謝である。

だが、その「いろいろ」のひとつには、クリーニング屋のおばちゃんがおしゃべり好きだと言うことが含まれる。出がけにちょっと寄って、と思っていたら、電車に乗り過ごした。などということになり兼ねず、ここ山梨で電車に乗り過ごすと、30分や1時間は、次の電車まで待たねばならず、ちょっと寄る訳にはいかないのだ。

けれど、そのおばちゃんとのおしゃべりは、楽しみでもある。
そう言えば、末娘が小学生の頃、よく連れて行ったものだったが、彼女も、おばちゃんにとてもなついていた。可愛がってくれる大人を瞬時に察知し、甘えるのが上手な子どもだったのだ。
「ワンちゃん、見せてください」はきはきと、笑顔で言う。
おばちゃんは「いいよ。吠えるけど、噛まないからね」などと嫌な顔一つせず、いつでもミニチュアダックスフントを、抱えて来てくれた。
「夏休みは、何してるの?」と聞かれれば、娘は胸を張って答える。
「ごろごろ、してます」おばちゃんは「それが一番さよ」と笑っていた。

ある時など「全く、ほんとに、いつもいつも可愛いんだから。お小遣いあげちゃう!」と言って、何と百円玉を娘に握らせていた。
娘は、満面の笑みをたたえ「ありがとう!」と、はきはきと礼を言っている。
もし、それが7つ年上の息子の時だったら、母親1年生らしく杓子定規に「理由もなく、お金なんて貰えません」と、返していたかも知れないが、母親になって10年以上経っていたわたしは「おばちゃん、しょうがないなぁ」と苦笑し「よかったね」と、娘に言ったのだった。

おばちゃんは、最近、娘の話をすると、ちょっと淋しそうにする。
「もう二十歳になったんですよ」と、わたしが言うと、目を細めて、
「あんなんちっちゃかったのに、もう二十歳けぇ」と甲州弁で言いながら。
だからいつも、時間に余裕をもって、おばちゃんの店に向かうのだ。

クリーニング屋さんとは関係ありませんが、夫がもらってきた洗濯用石鹸。
単身赴任中の高校時代の友人が、何ともマメな人で、愛用しているそうです。
飲み会で「おまえも、洗えや」と神戸の言葉で言いつつ配っていたとか。

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春色のセーター

所用で東京に出た際、まだまだ寒いし、セーターでも買おうかと百貨店をのぞいた。すると、暗い森から突然花畑に出たかの如く、ぱっと明るい色合いに目を奪われた。当然のことながら、売り場はもう、春の装いなのである。
「うちのほうは今朝、マイナス7℃だったのになぁ」
つぶやきつつも、突然やって来た春に楽しくなり、ゆっくりゆっくりと歩く。安くなっている冬物目当てである。

しかし、目をとめたのは、春らしい水色のセーターだった。値引きはしていないが、厚手でしっかりと温かく、色合いだけが春らしいピンクや水色で揃えてある。着れば長めでもあり、腰のあたりまで寒さをカバーできるようになっていて、それは春物とは呼べないものだったが、4月になっても寒い日には、違和感なく着られそうだった。

他の売り場を見ても、薄手のブラウスなどに混じり、きちんと温かい春色のセーターが、何処にも並んでいる。
「見た目に惑わされるな」というのは、人が見た目に惑わされがちだからこそある言葉である。こうして春色のセーターを着て街を歩く人が増え、野山だけではなく街にも春がやって来たような気持になっていくのだろう。それは錯覚、というより、春を待つ、人の知恵なのかもしれない。

こうして見ると薄手に見えますが、けっこうっしっかり厚手です。

揃いのネックウォーマーが、ついていました。

暖かい場所では、取り外せます。お洒落で、便利です。

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幸せって、何だっけ?

朝目覚めると、頭のなかにメロディが流れていた。運転中によく聴くクラプトンやビートルズではない。さんまである。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ ♪
それも、醤油のCMソング。もと歌は、美味い醤油があることが幸せだとは歌っていないのだが、インパクトのあるCMだったなぁと思い出す。

「幸せって、何だっけ?」
その言葉を頭の隅に放置しながら、仕事をこなし、隣りの隣り町、高根町まで行かなくてはならず、車を走らせる。
所用が済んで、空を見上げると、コッペパンみたいな雲が浮かんでいた。歌詞にもある。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ 空に浮かんだ白い雲 ♪
「このまま、走って、遠くまで行こうかな」
遠くって何処よ。それは、おなじ高根町内の清里辺りだと漠然と考える。そして、いつのまにか『萌木の村』を目指して走っていた。

そこには、好きな店がある。『萌木釜』という陶器や雑貨などを置いた店だ。そこで、小一時間、ゆっくりと過ごした。そして、見つけた。一目惚れというしかないスープ皿。5客あったが、二つだけ購入した。我が家は今や、ふたり家族なのだ。
器を選ぶときには、当然、料理を盛りつける様を想像する。熱いスープ。シチューやミネストローネ、シンプルなコンソメの野菜スープ。それに、エクストラバージンオイルをたらす。いや、大根の煮物を盛りつけてもいい。アボカドのサラダさえも、似合うだろう。

幸せって、やっぱり温かい料理のある食卓ですよね、とスープ皿が言っていた。無論、美味い醤油があることも、必須ではあるけれど。

『萌木の村』トレードマークの木製トナカイ達が、入口でお出迎え。

栗のイガ製の帽子をのせた、シンプルお洒落な雪だるまくんもいました。

一目惚れしたスープ皿。焼き物の温もりを感じます。

布や糸などを扱う手作り回帰の入口になりそうな雑貨屋さんで思わず購入。
写真だと大きく見えますが、5㎝くんと2㎝さん。2つで400円也。

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2月の庭で

冷たい風がやんだので、久しぶりに庭仕事をした。クリスマスローズが、どうなっているか心配でもあったのだ。
しかし心配をよそに、クリスマスローズは花芽をつけていた。庭に植えた昨年は、ひとつだったのに、今年は3つ。嬉しい。植物って、すごいなぁと思わずにはいられない瞬間である。

日本で広まったクリスマスローズは、イギリスでクリスマスの頃に咲くものとは、品種が違うらしく、クリスマスの名を持ちながら、2月や3月に咲く。
日本でつけられた名は「ゆきおこし」といい、雪の季節に、その雪を持ち上げて咲くからと、名づけられたそうだ。

春が来る前、まだ冷たい北風のなか咲く花達は「咲きたい」という強い思いを持っている。春がくるから咲くのではなく、花達が咲こうと雪を持ち上げるから春が来るのだ。
「今年もがんばって、春を連れてきてね」
クリスマスローズの花芽に、陽が当たるよう、丁寧に枯れ葉を取り除いた。

クリスマスローズの花芽。うれしいな~。早く咲かないかなぁ。

初雪かずらも、ピンクが鮮やかになってきました。

イタリアンパセリも、芽を出しています。

雪柳の蕾も、だんだんと大きく膨らんできました。

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薪ストーブの休暇

東京に1泊し帰ってくると、家じゅうが冷たくなっていた。室温計を見ると5℃。薪ストーブも、触ると手が凍るほどひんやり冷たくなっている。

さて。と腕まくりし、まずは、ストーブのなかの灰をかき出す。毎日燃やしていると、燃え残った火が心配で、じゅうぶんに灰を出してあげることができない。残り火のない今がチャンスとばかりに、すっかりきれいになるまで、灰をバケツに移す。下の灰受け皿に落ちた分も、すべて取り除く。
それから、小さめの薪を2本ほどと小薪(こまきと、我が家では呼んでいる、枝や薪割りの際に出た木くずのことだ)を入れ、丸めた新聞紙に火をつけ、薪を燃やしていく。

もちろん、ストーブ庫内に火の粉が残っている方が燃えやすいのだが、灰をとってきれいになったストーブは、冷たくなっていても、燃えがいい。休暇をとって、リフレッシュしたかのように、勢いよく燃え始める。
それでも、室内の温度が10℃に上がるまで、3時間ほどかかり、それまで、室内用ダウンパーカーを着て、熱い珈琲を淹れ、炬燵で、わたしもひと休み。薪ストーブを真似て、何をするでもなく珈琲を飲み、リフレッシュする。誰にだって(?)リフレッシュする時間は、必要なんだよなぁと思いつつ。
そして、キッチンに立ちながら、
「いつも、ありがとう。今日からまた、よろしくね」
などと薪ストーブに声をかけつつ、夫が帰る夜までには、室温を15℃ほどに上げておこうと、薪をどんどんくべたのだった。

灰をすべて出してあげると、すっきりしたなぁと喜んでいるかのよう。

も~えろよ、燃えろ~よ。

熱い珈琲を、カップになみなみと淹れました。落ち着きますね、珈琲。

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燃え崩れる薪のなかに

薪ストーブの横で仕事をしながら、ふと火に目がいく時がある。
そんな時に偶然、ことん、と小さな音を立て、薪が燃え崩れる瞬間を目にすると、あ、さっき薪を入れてから、そんなに時間が経ったんだと気づく。
そして不意に、時間の流れを身体じゅうで感じて、時計などなくとも時間は過ぎていくのだという当然のことを思い出す。途端に感覚がずれ、時間のバランスが崩壊し、自分という宇宙のなかに放り出される。

窓の外では、砂時計で時間の経過を計るかの如く、しんしんと音もなく雪が降り積もっている。空の果てから落下してくる粉雪と、薪を燃やし煙突から立ち上る煙が、挨拶を交しすれ違っていく。どちらも、すれ違った一瞬の時間と同じく、地面や空に溶け込んで消えていく。見ていると、自分も一緒に消えてしまいそうな気がして、今こうして生きていることすら頼りなく思えてくる。

雪と同じように、音もなく流れていく時間。スケールでも、物差しでも計れないけれど、確かにそこにあるもの。緩やかに流れていく時というものが、一瞬ではあったが、燃え崩れる薪のなかに、確かに見えた。

ストーブの火は、赤々と燃え、部屋のなかは暖かです。

午前10時。うっすらという感じで積もっていました。

すでに雪掻きの跡が、ありました。堰沿いの道を通るのは、怖いです。
午後にはやんで、家も林も、霧に包まれました。

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雪の落葉松林で

日曜。先週の雪がまだ残る、同じ北杜市は小淵沢まで、ドライブした。
「雪のなかで、石仏さんを撮りたい」と、夫に誘われたのだ。
彼は3年前、武田信玄が信濃に攻め入るために作ったというまっすぐな道「棒道」を歩こうというイベント『棒道ウォーク』に参加しており、その時に出会った石仏がお目当てだったようだ。

その石仏がいる場所は、松林だった。
標高が高いだけあり雪は残っていたが、風のない穏やかな正午。明野よりも寒いとは感じなかった。夫は、車から降りるなりカメラに集中している。邪魔にならないよう、わたしはゆっくりと雪道を歩いた。

我が家の周辺と違うのは、雪の量だけではなく、同じ松林でも赤松ではないということが判る。赤松よりは、ずいぶんと小ぶりのマツボックリが、枝についたまま落ちていたからだ。落葉針葉樹の落葉松(からまつ)だそうだ。見上げると青空のなか、マツボックリたちの影が、小さく小さく見える。その下には、雪をかぶった石。雪が解けだしたところには、落ちた松葉に守られた苔が、瑞々しく光っている。

のんびりとした気持ちで歩くと、枝に巻きついたまま枯れた蔓に、種を落としたあとの実がドライフラワーのように綺麗に乾燥している姿に目を魅かれた。
そして、それを見て、突然陽が射し込んできたかのように、不意に思った。
雪のなかの、この松林には、春待つ命があふれているのだ、と。そう思った途端、何か判らぬ乾燥した蔓の実が、マツボックリが、落葉松の木肌が、陽を浴びる苔が、林全体が、美しく見えてきた。
「ああ、今、森林浴してる」
しばしの間、身体じゅうで、ただ静かに、そこにあふれる生命を感じていた。

『棒道(ぼうみち)』は、落葉松林を横切っているそうです。

松の太くて背の高い影が、雪の上に伸びていました。

足もとには、たくさん落葉松のマツボックリが落ちていました。
小さくてフリルのようにウエーブが、かかっています。

ガク紫陽花も、そのままの姿で残っていました。

種を落とした蔓の実です。何の蔓でしょうか。

苔は陽にあたり、生命の輝きを放っていました。

動物の足跡もありました。7~8㎝。鹿、でしょうか。

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息子の年賀状

夫の実家に帰省した際、義母が、孫からの年賀状を見せてくれた。
27歳の東京に住む、我が息子である。

よくあるタイプの印刷された賀状に、手書きで「今年もよろしくお願いします」とかかれている。決して上手いとは言えない字が、落ち着きのない様子で並んでいるが、それは精一杯、丁寧にかかれた字だと判った。
ひっくり返すと、差出人欄には、名前のみ。思わず、愚痴がこぼれる。
「自分の住所くらい、かくのが常識でしょう」
夫に見せると、全く同じ反応を見せた。
「自分の住所くらい、かけよ」
すると、義母が、言った。子育てには、あまり口を挟まない義母である。
「親は、欲張りだからねぇ」
義母は、去年の賀状と比べて、成長している様子が読み取れると話してくれた。それを聞いても、そうとは思えないのが親なのかも知れないが。

「欲張って、いるのかな」家に戻り、考えた。
大学卒業後、就職しようとせずバイトして、ひとり東京で生活している息子。ご飯でも食べようよと誘っても、常に忙しいと断ってくるし、正月にも、帰って来なくなった。自分のことは、何ひとつ話そうとしない。
「君が、心配なのだよ」と言いたくもなる。
もちろん、そんなことは言わないけれど。

そんな息子が、義母とは、長電話をするという。
多分、何事が起ったとしても、自分を認めてくれる人だと知っているのだ。

これは、わたしが年賀状用に使っているスタンプです。
名刺にも、ぺたぺたしています。

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キリギリスの夢

初雪ではないが、今年初めて、雪が積もった。
雪が積もっているのを目にした一瞬は「あ、雪」と嬉しい気持ちで思う。そして、すぐさま「あーあ、雪だぁ」とため息をつく。凍えたキリギリスの如く、「蟻さんのように、準備万端に整えておけばよかったなぁ」と。

昨日の雪は、午後から降り始めた。
薪を運び入れ、車のワイパーを上げ、軽く雪をかく。
「判っているのに、何故午前中にやっておかないの?」
会社で仕事中の夫の声が、聞こえた気がするが、空耳だ。
彼は、こういうことを先延ばしにしない。週末、雪の予報を聞いた訳でもないのに、ウッドデッキまで薪を運ぼうと提案し、一緒に運んだ。
わたしは、風が吹いているから今度にしようと言ったのだが、夫は耳を貸さなかった。そうやって何度も彼に教えられているというのに、もともとの性格というものは直らないものだ。だいたい、今度っていつよ? と、過ぎてしまえば、自らツッコミを入れ笑うしかない。全く、我ながら呆れるばかりである。

そう言いつつも、わたしは自分のそんなところが嫌いではない。
キリギリスの「つい先延ばしにしちゃうところ」に、蟻さん達は、きっと憧れに似たものを持っているのだろうと、どこかで考えているのだ。
なんていうのは、キリギリスの夢かな。

ウッドデッキから見た、庭の風景。雑草が見えなくって綺麗(笑)
真ん中に置いてある野鳥達の水場にも、積もっています。

隣りの林の枝々は、雪化粧という言葉がぴったりくる感じ。

年末、夫が山に入って切ってきた薪用の丸太です。冷たく凍っています。

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ひょうげたる織部

辞書で「ひょうげる」を引くと、「おどけた。ひょうきんにふるまう」などと出てくる。耳に新しい言葉だった。
銀座松屋で開催中の『古田織部展』に、行ってきた。その広告にあった言葉である。「新春のひと時、是非ひょうげたる世界をご堪能ください」
織部のその形から「ひしゃげたような」などの曲線を表す言葉かと思えば、そうではなかった。調べればマンガに『へうげもの』という古田織部を描いたものがあるらしい。利休の弟子だった彼が、利休が求めたものとは違う自分らしさを追求するうち「笑い」にたどり着いたとの記述があった。確かに織部は、かしこまった器ではない。おどけている、という表現もありかも知れない。

じつを言うと、これまで「織部」とは、焼き物発祥の地などの名かと勘違いしていたが、茶人、古田織部が好んで使った器を称して「織部」と呼んだのだということさえ初めて知ったのであった。興味の対象はストレートに器に向き、うんちくなどとは縁のないわたしである。

ゆっくりと器を見て回ると、歴史を感じさせるものも多くあったが、新しさが光っているものもあった。そう言えば、織部の形は、最近注目されている「オーガニック・デザイン」に通じるものもある。自然や生き物が持っている美しさからひらめきを得て作るという「オーガニック・デザイン」は、左右上下などのバランスをとることにこだわらないのが特徴だそうだ。
そんなところに魅かれるのかな。人間だって、左右対象にはできていない。心臓は大抵左側にあるし、わたしの目は、左が奥二重で右が二重だ。綺麗な円を描かない織部の魅力に、今なお、人がモノを創りあげていく挑戦を思った。

没後400年だという、古田織部。今ならどんな器を好んで使うのだろうか。

90%くらいかな。来場者は、ほとんど女性でした。
会場内は、人、ひと、ヒト。田舎者には、過酷な展覧会でした。

人いきれに、頭がボーっとなり、すぐ近くの喫茶店に入りました。
グァテマラのストレートを飲んだら、頭すっきり。美味しかった。

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家用ダウン

夫には、内緒にしていたのだが、1週間ある年末年始の休みの間、嘘をつき通すことはできないと覚悟を決めた。
「どうして、家のなかで、ダウン着てるの?」と、夫。
「あ、これ? いつも着てるんだよ」と、わたしは、しかたなく白状した。
着ているのは、去年ユニクロで買った、腰までかくれる長さのウルトラライトダウンである。

「うそ。だって、ここ、家のなかだよ?」想像通り、夫は、怪訝な顔をする。
「うん。これね、家用ダウンなの」と、わたし。
「いや、ダウンに家用は、ないから」夫は、さらに抵抗を示した。
「去年のダウン、ぺちゃんこになっちゃったから。軽量ぺちゃんこダウンは、家で着るのに最適だよ。背中もお尻もあったかいし」
夫は、怪訝な顔のまま、無言になった。

大掃除も、御節作りも、薪運びも、家用ダウンのおかげで、何もかもが楽になった。温かいというのは、素晴らしい。何をするにも、気持ちが楽なのだ。
だが、夫は、あきらめなかった。日に何度も、皮肉を言う。
「ねぇ、どうして、家のなかで、ダウン着てるの?」
「あったかいからだよ。家用ダウンだよ」わたしは、笑顔で答える。
休みの間じゅう、こんな会話が、何十回となく、繰り返されることとなった。
だが、わたしの心は決まっている。寒い時には、着る。会話のリピートが、何百回を記録しようとも、この冬は、これで乗り切るつもりだ。

こうして見ると、けっこうごっつく見えますが、とにかく軽いんです。
ハリーとネリーも、家のなかでぬくぬくおしゃべりしています。

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鳥居の上の石

正月2日。お隣りは韮崎市の『武田八幡神社』に、初詣に行った。
おなじ「武田」でも、甲府の『武田神社』とは違い、車も人も空いている。なので毎年、初詣は此処に行くのだ。
雪の予報も、何処かへ行ってしまい、晴天のなかの詣でとなった。
帰省している末娘は、レポートを仕上げなくてはならないというので、夫とふたり、のんびりと参拝した。
家族5人で、詣でた日々を、思い出す。末娘の手を引いて階段を上ったこと。おみくじを見せ合ったこと。息子が、鳥居の上に石を乗せるまでは帰らないと、何度も石を投げていたこと。

「彼は今も、石を投げ続けているのだろうか」
ふと、考える。息子はもう3年ほど帰って来ないが、何を考え、何をしているのだろうか。もう大人になった彼の考えることは、わたしには判らない。

「初詣に行って、お守り買ったから、送るね」
電話すると、彼は短く「うん」とだけ、返事をした。

息子がよく石を投げてのせていた、石の鳥居を見上げました。
なかなかのせられなくて、待ちくたびれたなぁ。

雪の予報は消え、富士山も、綺麗に見えました。

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入口は出口

昨日のイブ。お隣りは韮崎市の図書館に行くと、クリスマスツリーが飾ってあった。イブなので、それはもちろん事件というほどのことではなく、ごく自然な風景だったのだが、そのツリーの装飾が、ブルーに統一されていて「おっ」と目を留めた。
ツリーの横には、立札がある。
「ブルーツリー ブルーに秘められたパワー」
精神を落ち着かせる色、などと説明書きもかかれている。
そしてその横には、さらに、金色に光るツリーがあり「ゴールドツリー」との立札。さらに「シルバーツリー」「ピンクツリー」「レッドツリー」と続く。
説明書きは、サンタさんが言っている風にかかれているのだが、どれも最後に「らしい」とあり、自信なさげなところが、笑えた。

そして、5本目のレッドツリーの立札の横には、さらに立札が。
「あなたの気持ちに合う色のツリーに、飾りつけをしましょう」
その下に「受付に5色の飾りがあります」そして続く。
「歳末助け合い運動に、ご協力を」
なるほど、そういうことだったのかとうなずいた。
私が入った入口は、出口だったのだ。その最後の立札こそが、スタートラインなのだった。だが、最初に募金の立札を見ていたら、こんなにしげしげと6つの立札を見ていただろうか。いや。素通りしていた可能性が高いと思われる。
「おっ」と目を留めた、その瞬間の小さなクエスチョンマークが、わたしに6つの立札を読ませ、じっくり逡巡させ、受付でブルーの飾りをもらい、募金箱にチャリンと音を立てるくらいの気持ちだが、募金をさせたのだ。

順路と反対に、回るのもまたよし。ちょっぴり楽しい気持ちで、予期せず募金をさせてもらった。それが嬉しかった。
いや、もしかすると。わたしの入口を出口にさせたのは、サンタの魔法だったのかも知れない。2つの入口は10メートルと離れていないが、車を降りて歩く途中、木枯らしに吹かれ、その10メートルを温かくと近くの出口から入ったのだ。サンタめ、木枯らし吹かせたな。そう思うとまた、嬉しくなった。

手前が入口で、向こうが出口でした。最後まで気づかない自分にも???

ブルーを選んだのは、穏やかな雰囲気が好きだから。

シルバーにも、ずいぶんと魅かれました。

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ひとつひとつ、あるいはふたつ、着実に

買い物をしていて、失敗することがよくある。
先日も、いつもの歯ブラシを、いつもの薬局で購入した際、失敗した。
使っているのは、歯周病専門医が設計したという、デントウェルのやわらかめ。「ふつう」「やわらかめ」は掛けてある列が違う。だからそれを確認し「やわらかめ」の列に手を伸ばす。
ここまでは、大抵順調に事が運ぶ。だがそれから、歯ブラシの色を選ぶ段になって、失敗するのだ。夫のコップはグリーンなので、それに合わせてグリーンを選ぶ。「やわらかめ」の列にグリーンがない時には、「ふつう」の列に「やわらかめ」のグリーンがまぎれこんでいないか探すことになる。それでもない時には、ブルーにする。ブルーもない時にはピンクにする。この辺りで、すでに「やわらかめ」が頭から飛び「あ、グリーンあったじゃん」などと「ふつう」の歯ブラシをカゴに入れてしまうのだ。

気づくのは、夫に指摘されてから。
「新しいの使おうとしたら、ふつうの歯ブラシが、あったけど?」
硬さに気持ちを向ければ色が、色に気持ちを向ければ硬さが。最初に注意していたことが、頭から飛んでしまう。
「ひとつひとつ、着実に」とは言うけれど、ふたつのことを一度に注意しなければならなくなると、それは「ひとつひとつ」ではなく「ふたつ」だ。
自分には「ふたつ」のことを一度にすることが、すでに難しくなっているのを実感する今日この頃。しかし。
「次回は、何としても、このふたつの注意項目をクリアするぞ!」
硬さ「ふつう」の歯ブラシをいまいましく見つめ、心に決めた。

年の瀬も押し迫っているが、多くのことをいっぺんにやろうとするのは、早々にあきらめた。年をまたごうと季節をまたごうと、何も気にすることはない。「ひとつひとつ、あるいはふたつ、着実に」が、目下の目標だ。

「ふつう」「やわらかめ」の他に「超コンパクト」「コンパクト」の違いも。
選択肢が多いのは、いいことだとは思いますが、ちょっと多すぎるかも。
薬局の割引き日に、まとめ買いしなくっちゃという気合いが、空回り~。

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木枯らし吹きすさぶ夜

木枯らし吹きすさぶ夜、隣りの林の赤松が倒れた。
我が家から50mほどの場所で、道路をふさぐように垂直に倒れている。近所の友人が、危ないからと、わざわざ夜の8時過ぎに知らせに来てくれた。

その日は、夫も東京に泊まりで、ひとりの夜。強風と呼ぶには、言葉が足りないだろうと思われるほどの風に家が揺れ、竜巻などの災害を連想し、怖いなぁと思っていたのだ。風の音がごうごうと鳴り響き、家も揺れていたので、多分そのせいで、倒木の音や揺れには気づかずにいて、知らせてもらい助かった。車で出る予定はなかったが、もし気が変わって何処かに行こうとしていたら、うっかり倒木に突っ込んでいたかも知れない。

見上げると、残された隣の赤松がキィと揺れ、とても淋しそうに見えた。ちょっと離れた、向かい側の赤松と、何やら話しているかのようにも見える。
「すぐ近くにいても、支えてやることはできないんだ」
ふと親と子の距離を、思った。
木々達にないとは言わないが、人間には、言葉がある。離れていても、支え合うことだってできる。たがいに近づこうとさえしていれば。
ただ隣りの松が倒れるのをじっと見ているのは、辛かっただろうにと、凍った空気のなか、空にも届くほど背の高い赤松を見上げた。

倒れた状態です。完全に、道をふさいでいました。
夜、真っ暗ななか知らずに車で走っていたら、危なかった。

翌朝には、きれいに片づけてくださっていました。
周囲の人々に助けられて生きているのだと、実感します。

左手奥に、折れた松が写っています。
やはり強風に勝てず、途中で折れたようです。

石仏さんの上じゃなくて、よかった。

残された赤松達が、
淋しそうに見えるのは、人間の感傷ですね。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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