はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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ネムの葉は、おじぎしない

ネムノキに花が咲いている。綿毛のようにふわふわした濃いピンク色の花だ。
車で走っていると市内のあちらこちらで見かける。高い木の上に咲くネムの花を愛でつつ走るのも、この季節ならではの楽しみだ。

庭にネムノキを植えてはいないが、ネムの葉と似たような植物が伸びてきた。まだ何者であるか不明だが、抜かずに置いてある。しかし、ネムノキは種から芽を出し十年経たないと花が咲かないという。判明する前に枯れるか抜かれるかしてしまうかも知れない。
その葉っぱ。子どもの頃、学校に植えてあったオジギソウとよく似ている。あまり似ているので、つい触って確かめてしまった。オジギソウは、触るとすぐに葉を閉じるのがおもしろく、人気の植物だったのだ。
だが、葉は閉じなかった。オジギソウではないということだけは判明した。そのオジギソウ、調べるとネムノキ科の植物だった。どうりで似ているはずだ。

不思議なもので、ネムノキの葉を見るまで、オジギソウのことなどこれっぽっちも思い出さなかったというのに、不意に記憶は甦るものである。
小学校の砂埃舞う校庭や、校舎の前の植え込みや、ひんやりした廊下、瓶に入った牛乳なども同時に浮かんでは、消えていった。

花はふわふわしていて、鳥の羽根のようです。
長く伸びた先がピンク色の糸状の部分は、雄しべだそうです。

高い場所で上を向いて咲いています。もう咲き終えたものもありました。

オジギソウ似(?)の葉っぱも綺麗です。細長い葉が規則正しく並んで。
夜になると、この葉が閉じることから、ネムノキと名づけられたとか。
やっぱり、オジギソウの仲間なんですね。

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雨の日はよく眠れる

夏バテしたなと思ってから寝苦しい夜が続いていたが、雨が降り、ようやくぐっすり眠れた。気温が下がったせいでは、たぶんない。エアコンのない我が家だが、ここ山梨県は北杜市では真夏でも夜には25℃以下になる。気温とは関係なく、雨だからよく眠れたのだ。

子ども達が幼かった頃を思い出すと、やはり雨の日には、ことんと眠りにつき、物音に目覚めることもなくよく眠った。外で身体を動かしたりせずとも、不思議とよく眠るのが雨の日だったのだ。
雨の日によく眠れる理由としては、湿度が睡眠に適しているからとか、雨音が子守唄代わりになるからとか、様々あげられているらしいが、満月、満潮に生まれる赤ん坊が多いのと同じように、何か宇宙規模の大きな力が働いているようにも感じる。

だとすると、そんな理由から起こる宇宙規模の衝動も、人にはあるのかも知れない。満月の夜は吠えたくなるとか、雨が降ると訳もなく掃除がしたくなるとか。わたし的には、よく眠れることをありがたく受け入れているだけだが、雨の日に無性にやりたくなる何か、ありますか?

雨に湿った隣りの林です。木々の緑は雨がうれしそうですね。

庭のムクゲも咲き始めました。雨を仰ぐように上を向いて咲いています。

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苔生す森で

早くも夏バテをした。
身体じゅうが思うように動かず一日じゅうごろごろしていると、夫がドライブに行こうと誘う。車に乗っているだけならなんとかなりそうなので、気分転換に出かけることにした。彼が連れて行ってくれたのは、尾白川渓谷。森のなかを少し歩けば川に出る場所で、以前も涼みに来た記憶がある。

森はこのところの雨で、たっぷり湿っていた。全体的に苔生しているのだが、その苔が水を吸い、歩くと靴が沈むほどだ。森じゅうがひんやりと冷たい。深呼吸すると、湿り気が冷たさが、わたしのなかにも入ってきた。それは、思いのほか心地よかった。もしかしたら身体じゅうが乾いていたのかも知れない。
何度も、深呼吸をしながら歩き、声には出さず夫に感謝した。

杉の木の根もとにも、苔がびっしり。芽を出しているのはクヌギかな。

竹宇駒ヶ岳神社の入口です。灯篭も苔生していました。

ベンチはその用途を放棄し、苔玉ならぬ苔ベンチに進化中。

ベンチの上には、杉の新芽が出たり枯れたりしています。

近くには吊り橋がありました。台風の跡を思わせる濁流が流れていました。

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胸のなかの波紋と蓮の花

買い物に行く途中の道で、夫が突然思い立ったように言った。
「そういえば、蓮、もう咲いてるよね?」
「そうだね。もう咲いてるね。でもどうかな。午後だし」
蓮の花が綺麗に開くのは、午前中なのだそうだ。しかし、台風は通り過ぎたが台風一過の快晴とはいかず空は曇っている。蓮がまた、昼前だと勘違いしても可笑しくないような天気だ。
少しだけ回り道をして蓮池に寄ってみると、やはり咲いていた。咲き終えた花の跡も多く、満開の季節は過ぎたのだと判ったが、綺麗に咲いている花も見ることができた。このあいだ寄った時には、まだこれからだと思っていたのに、季節は気づかぬうちに早送りしていたのだ。日々何をしていたのだろうと思うが、たいしたことはしていない。普通に暮らすことがあわただしいのだと言えば、それはそうかも知れない。

凛と咲く蓮の花を見て、胸のなかにある小さな池を思った。たいしたこともしていない日々なのだが、それでも毎日様々な事象がそこに波紋を広げていく。いくつもの波紋が重なり胸がざわついて眠れない夜もある。蓮の花は、そんなわたしの小さな池に広がる波紋を、静かに見つめているようだった。生きていれば、誰の胸のなかからも波紋がなくなることはないのだろう。それでも蓮の花を見ていると、胸がしんとしてくるように感じるのは何故だろう。

開ききった蓮の花は、微笑んでいるかのようです。

こちらは、二輪仲良く一緒に風に揺られていました。

これを見ると、ああ、レンコンなんだなあと思います。

蕾もまた味わいがあります。かたい蕾もまだ少しありました。

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コインランドリーの記憶

今年の梅雨は、新しい洗濯機にずいぶん助けられている。
十年使った洗濯機が壊れ、買い換えたのは4月のこと。思い切って乾燥もできるドラム式にした。ドラム式のなかでは一番小さいサイズなので、大きさ的にはこれまで使っていたものと同じでわりとコンパクト。威圧感はない。
十年前に買った洗濯機と比べると音も静かで、もちろん省エネ力もアップしている。電力も水も節約できるので、その分だと考えて、雨の日には惜しみなく乾燥機を使うことにした。室内干しせずに済むのでじめじめ度もかなり抑えられ、降り続く雨を横目に見ながらも家のなかでは快適に過ごすことができた。

ところで、乾燥機はコインランドリーでしか使ったことがなかったので、購入してしばらくは懐かしい気持ちになった。
末娘がまだ1歳にならない頃、家族5人で北海道横断キャンプをしたときのこと。新潟からフェリーに揺られ小樽がスタート。1週間ほどかけて釧路まで行った。キャンプ場を転々とし、その途中、コインランドリーで洗濯をした。
後にも先にも、コインランドリーで洗濯をしたのはそのときだけ。あれは何処のキャンプ場だったのだろう。記憶はとうに飛んでしまっているが、断片的に思い出す。生うに丼、美味しかったなぁ。(やはりそれがいちばん先に来る)息子が足を切って一針縫い、行く先々で病院に寄ったんだったなぁ。テントを張ったすぐそばの木に、雷が落ちたこともあった。大雨で避難勧告が出て、キャンプ場を移動したこともあった。だけど、なにより思い出すのは、子ども達のサイズが今よりかなり小さかったことだ。5人 + キャンプ用品を積んでの旅も、そう窮屈ではなかった。洗濯物も然り。コインランドリーで洗った小さな洗濯物達を思いだし、ふと懐かしい気持ちになったのだ。

洗濯機は、英語でもスペイン語でも女性名詞。洗濯機さんと呼んでいます。

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呼吸するいぐさで涼しく

北側の窓際の敷物を、いぐさカーペットに替えた。
今頃? と思われるかもしれないが、山梨も長野寄り、それも標高600メートルの我が家ではまだ扇風機も不要なくらい涼しく、炬燵を仕舞ったのでさえ、ついこのあいだ。夏バージョンへの衣替えも、のんびりとやっている。
とは言え、替えてみたら思いのほかすっきりした。見た目が涼しいだけでも、気分はずいぶんと違うものだ。

同じいぐさで作られた畳は、畳となってなお呼吸するというから、カーペット(ござと言った方が正しいのか?)になったいぐさも呼吸しているのかも知れない。雨で湿気が多い日も、爽やかな感じがする。

そう考えて、いぐさを見つめていると、家じゅうの柱や壁や床やテーブルなどの木々達が口々に言い始めた。
「俺だって、呼吸してるさ」「わたしだって」
切り倒されても、刈り取られても、それからもずっと呼吸し続ける植物って、本当にすごい。

感触にも涼しさを感じますが、涼しさを演出するには見た目も大事かも。
この下は、収納スペースになっています。
本や雑誌を置くことが多いコーナーですが、ベンチとしても活躍中。

ブルーが効いています。日本の夏らしい藍色イメージ。
じっくり見ていると、呼吸してるのが判るような気がします。

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山百合の秘密

いつも通る道に、みごとな山百合が咲いている。
あまりにみごとなので、通るたびに見入ってしまう。車で通ることが多いので、じゅうぶんに気をつけて見入るようにしている。

場所は、歩いても十分ほどのところ、平岡勘三郎良辰さんのお墓の脇だ。平岡さんは、ここ明野の農業用水、朝穂堰(あさほせぎ)を作るために尽力したお人。この町に緑豊かな棚田が広がるのは、彼のおかげだとも言える。通るたび、娘達が小学生の頃、堰周辺を散策したり、堰ができるまでを学び、学芸会でその劇を演じたりしていたのをなつかしく思い出す場所だ。

さて、山百合のこと。そのお墓のある町所有であろう土地に咲いているのだが、見入るようになり気づいた。花を重たげに傾ける山百合達には、支柱が添えてある。誰かが世話をしているのだ。山百合は、その名の通り、山に自生する百合。わざわざここに植えたのではあるまい。芽を出した山百合を見つけた誰かが大切に育てているのかも知れないと想像を膨らませる。山百合は、1年にひとつずつ花を増やしていくともいわれるデリケートな花だそうだ。もう、ずいぶんと前から大切にされてきたのだろう。
「いったい誰が?」
問いかけても、山百合は凛と風に揺れるのみである。

わたしの手のひらよりも、大きな花です。花弁のオレンジ色が鮮やか。

それが3つも4つも並んで咲いていて、迫力があります。

竹の支柱があればこその、美しさ。蕾もいっぱいつけています。

平岡勘三郎良辰さんのお墓を、見守るかのように咲いています。

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梅雨の晴れ間に

梅雨の晴れ間の空を、見上げた。
いつ降り出すか判らない雨。そして降り出せば、いつやむのか判らない。
専門家でさえ、梅雨明けはいつと断定できないあいまいさに、自然の測り知れなさを感じる。それでも植物達は、それを受け入れ、花を咲かせている。
そうして受け入れざるを得ないことが、人にだって生きていれば多いけれど、植物と違うところは、人にはプラスにしろ、マイナスにしろ、行動を起こすことができるということだ。

曖昧模糊な梅雨空を見ていると、何も考えず、ただそこにあるものを受け入れてしまいがちな自分にたどりつく。そして、自ら受け入れたものでいっぱいいっぱいになり、やがては身動きがとれなくなる自分に。

江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』(あかね書房)に、こんな文がある。
ときにふと思い出す一節で、気が優しいだけのような主人公「ぼく」が、じつは懐の大きな人間だと読み取れるシーンだ。

「一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか」
いつだったか、そう言われたことがある。昔ここにいた、ある日いきなりやってきて、やがていきなりいなくなってしまった、こげ茶色の小鳥ちゃんにだ。
「欠点?」
ぼくは訊き返した。夏で、ぼくたちは窓をあけた部屋のなかにいた。
「あなたはうけいれすぎるのよ」
小鳥ちゃんはぼくの目をみずにそう言った。
「いけないことかな」
「ときどきとても淋しくなるの」
小鳥ちゃんは顔をあげてぼくをみた。切るようにかなしい目をしていた。

空を見上げて思うことは、人それぞれ違う。そして同じはずの自分でも、そのときの心持でずいぶんと違っている。

庭の姫シャラ。立ち姿がとても綺麗な木です。梅雨の晴れ間の空と。

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白いホタルブクロ

白いホタルブクロを初めて見た。
今年はまだ見にいっていないが、徒歩十分ほどの小川では、たぶん蛍が舞っているはずである。その蛍の名を持つホタルブクロは、蛍の季節の花。庭にも今、薄紫色のホタルブクロがあちらこちらに咲いている。静かな雰囲気に似合わず強い花で、踏まれても踏まれても、という感じで毎年必ず花を咲かせて楽しませてくれる。野山に自生していることも多い。
ここ山梨は明野町では、薄紫色のものしか見たことがなく、なので、ホタルブクロといえばこの色だと思い込んでいた。

ところが富山県は氷見で咲いていたホタルブクロは、白くて驚いた。
道端にも咲いていたが、鉢やプランターで育てている家も多く見かけ、宿泊した宿でもプランターに咲いていたのだが、野生のものと比較するからだろうか、少しふっくらとしたやわらかな感じに見える。最初は違う花かと思ったが、茎も葉もガクも花も、見れば見るほどそっくりだった。ホタルブクロに白があったのだと、新しい発見を楽しみながら氷見の街を歩いてきた。

さて、帰り道の車中のことである。長野の松本辺りを走っていると、やはり白のホタルブクロが見えた。あちらこちらに咲いている。行きにも通った同じ道なのだが、そのときには白いというだけで、まさかホタルブクロだとは思わず通り過ぎ、気にかけることもなかった。
知っているからこそ見えてくる、ということがあるのだ。
もしかしたら明野にも白いホタルブクロが咲いているのかも知れないと、買い物に行く道々、梅雨の季節の花達に目を留めるこの頃である。

氷見の宿のプランターで咲いていたホタルブクロです。

こちらは、我が家のホタルブクロ。比べてみると野性的に見えます。

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『稲村ジェーン』の6曲目

氷見へのドライブは、往復十時間近くかかった。
長いドライブの間、楽しみの一つは音楽だ。
「最近聴いてなかったCD、持ってきたから」
夫が選んだ何枚かのなかに、サザンオールスターズがあった。
夏だ! サザンだ! というキャッチコピーが本当にあったかどうかは知らないが、そう言いながらドライブしたことを思い出す。子ども達を連れて、よくキャンプしに行ったなぁと。
そんなふうにして夫や子ども達と乗っている時には、普通に流しているCDだが、ひとりで運転する時には、好きな曲だけを繰り返し聴くことが多い。
例えばアルバム『稲村ジェーン』だったら『真夏の果実』、『タイニイ・バブルス』だったら『C調言葉に御用心』、『フロムイ エスタデイ』だったら『悲しい気持ち』といったぐあいにアルバムのなかでもリピートしてそればかり聴いた曲というのがある。

昨日ひとりで運転した時に、急に『真夏の果実』が聴きたくなり、ナビのなかに録音したデータを探した。そのときふと「6曲目だ」と思い出し驚いた。
好きな曲を覚えていただけじゃなく、こうして何度もそのナンバーに合わせた記憶までがまだ残っていたのである。記憶というのは、不思議なものだ。
何曲目かだけじゃなく、その曲を聞いた頃の気持ちが甦ってくることもある。それは大抵、苦しかったり、もうがんばれないよというくらいがんばっていたりした頃の気持ちで、思いだすのも辛かったりする。だけど過ぎてしまえば、ああ、このメロディに、この歌詞に助けられていたんだと思うこともできるのだ。これから何年か経ち、今よく聴いている曲が何曲目に入っていたかをするりと思い出すことがあるだろうか。そして、どんな気持ちだったかを思いだす日が、来るのだろうか。
うーん。サザンのメロディは、胸に沁みるなぁ。

はりねずみの塩胡椒入れ、ソルトとペッパーです。よろしくー。
『稲村ジェーン』と、桑田圭佑ソロアルバム『フロム イエスタデイ』

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飛騨高山の古い町並み

氷見に行った帰り、飛騨高山に寄った。
気ままな車の旅なので全く予定はしていなかったが、帰る日の朝、夫が急にそっちを通ってみようと言いだしたのだ。
じつは飛騨高山は、何度か行こうと計画しながら計画段階でだめになったことのある土地である。だが、だめになったことは覚えていても、それ以外のことはふたりとも全然覚えていなかった。
ただ、何度計画してもだめになる。それだけは脳に強くインプットされていたため、わたしは今回も、計画倒れ歴に飛騨高山素通り歴がプラスする感じになるのだろうと思っていた。
「どうして何度も行けなくなったのか、すっかり忘れちゃった」と、わたし。
「そもそもどうして、飛騨高山に行こうと思ったのかさえ忘れた」と、夫。
そんな話をしつつ走っていたそこは、もうすでに飛騨高山なのだったが、ごく普通の家並みやスーパー、ドラッグストアなどが並ぶ国道で、味わいも何もなく、ここを通り過ぎればまさに素通り歴プラス1とカウントするにふさわしい場所に思えた。
すると道標に「古い町並み」とかいてあるのが目に留まった。
「行ってみる? でもさ、本当に古い町並みがあるのかな?」と、夫。
「そうだね。古い町並みっていう名前の新しい町だったりして」と、わたし。
飛騨高山に疑心暗鬼になっている、わたし達ならではの会話である。

しかし、そこには確かに古い町並みが広がっていた。なんと、計画も倒れず素通りにもならず、飛騨高山に足を踏み入れることができたのだ。
車を停め小一時間、のんびり歩いて店を冷やかし、ランチに蕎麦屋の暖簾をくぐり、外国人観光客のように写真を撮ったりした。忘れた頃にやってきた飛騨高山。そこは、黒に近い茶色で塗られた外板の家が並ぶ、もう一度訪ねたいなと思うような味わいのある町だった。ずっと行けなかった場所に、こんなに簡単に「ちょっと寄り道」ができるなんて思ってもみなくて、もう驚きだった。

だが、旅の驚きはそれで終わりではなかった。帰って来て明野の風景を見て、運転していた夫が吹きだした。
「氷見よりも、飛騨高山よりも、田舎だ」「本当だ」
旅はいい。最後には家に帰ることができる、何よりそれがいい。そう言ったのは、誰だったか。
見慣れたいつもの風景が、洗い直したように新鮮に見えてきたのである。

お茶とお茶道具のお店。川沿いの橋がかけられた場所にありました。

油屋さん? お店は閉まっていました。昔の看板かな。

甘味屋さん、漬物屋さんなども多くありました。

昼食を食べたお蕎麦屋さん、お洒落な雰囲気の『のの花』

冷たいおろし蕎麦。箸置き一つ見ても陶器にこだわっている!という感じ。
飾りやランプシェードなどにも、様々な陶器を使っていました。
蕎麦も手打ちで、蕎麦らしい味がしました。

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喪黒福造に思う

氷見は、藤子不二雄Ⓐの故郷だそうだ。
商店街は「藤子不二雄Ⓐまんがロード」となっていて、忍者ハットリくんや『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造の他、藤子不二雄Ⓐがまんがロードのために作った『氷見サカナ紳士録』キャラクター達のモニュメントが、あちらこちらに設置されている。

なかでも喪黒は、ドーン! という感じで存在感があった。サカナ紳士録達のように、商店街を歩いていて、そこにあるのを見たということではなく、少し外れた場所にあるモニュメントをわざわざ観に行っただけのことはある。
「ココロのスキマ、お埋めします」
喪黒のしゃがれた声が、聞こえてきそうだった。
久しぶりに喪黒の顔を見て、作られた笑いが貼りついた顔って怖いなぁと思った。作り笑いが普段の表情と化してしまった人。それは、本当のことを隔すために顔を作らなければならなくなっている人だろう。
例えば、戦争ができる国にしようと企みつつ、にっこり笑って憲法改正その他を着々と進めていく政治家とか。

「私の名は喪黒福造、人呼んで笑ゥせぇるすまん。ただのセールスマンじゃございません。私の取り扱う品物は心、人間の心でございます。この世は老いも若きも男も女も、心のさみしい人ばかり、そんな皆さんの心のスキマをお埋め致します。いいえ、お金は一銭もいただきません。お客様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。さて、今日のお客様は・・・」

喪黒福造氏。まんがロードの端に、一線を隔すように立っています。

忍者ハットリくんと弟シンゾウは、ポストの上に乗っていました。

サカナ紳士録のキャラ「タコ八」前を通るとしゃべります。

おなじく、とびうお「トビ―」も、しゃべります。

サカナ紳士録のなかでも中心的存在、ブリの「ブリンス」も。

もともとの商店街「潮風通り」にモニュメントが設置され、
「藤子不二雄Ⓐまんがロード」に変身したようです。

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蓮池の紫陽花

蓮の花にはまだ早いと知りつつ、蓮池に寄ってみた。
そこには紫陽花もたくさん咲いているのだ。最寄りの無人駅『穴山』近くにある、大賀蓮を咲かせる池である。『穴山』は、高校に通っていた末娘を3年間送り迎えした馴染みの場所でもある。毎朝7時1分に「7・01」というナンバーの車とすれ違い「おはよう、7時1分」と車中でこっそり挨拶したことなどをなつかしく思い出しつつ、車を走らせた。

駅近くの感応式信号で停まり、変わらない信号に失敗したと気づく。信号待ちの道路の幅は2車線分ほどの広さを持っていて、だからと自分が曲がりたい右方向に車を寄せて停めてしまったのだ。しかし、わたしは知っている。感応機は中央よりわずかに左側についていて、中央に停めないと反応しないことを。
以前は、今のわたしのように右に寄せて停める車を見て、判ってないなあと舌打ちしたものであるが、しばらく通らぬうちに、すっかり忘れて同じ落とし穴に落ちているのだから笑ってしまう。ところが、そのとき信号が変わった。まるで、しばらくぶりだから勘弁してやるよ、とでも言っているみたいに。もちろんそれは、感応機の位置が変わったというだけのことなのだが。

「ここは、もう通り過ぎた場所だってことかな」
ほんの少しだけ感傷的になる。7時1分さんは、今頃どうしているだろうか。

蓮池の紫陽花は、見事に咲いていた。そんな心持ちで見たからか、自ら色を変えていく花達は、移りゆく人の世を眺めているかのようにも見えた。

白い紫陽花のコーナーです。雨に濡れて、光っていました。

ブルーや薄紫の紫陽花達。色を変えていく途中のようです。

大賀蓮は、まだこれから。蕾もちらほら見られる程度でした。

そのなかで一輪だけ、深呼吸をするかのように花開いていました。

大賀蓮の池の全体はこんな感じ。花を楽しめるのはもう少し先かな。

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アップルミントの匂い

アップルミントを家のあちこちに飾り、楽しんでいる。
庭の道路側、駐車スペースにしている場所のほとんどがアップルミントに浸食され、足の踏み場もなくなってしまった。今や雑草扱いなのだが、爽やかな匂いは大好きで、緑が伸びるうちは遠慮せずに切っては飾らせてもらっている。

アップルミントの効能は様々あるようだが、匂いだけでもう爽やかな気分になる。部屋の空気も清浄化されるような気がするほどだ。切り花として飾ると、おまけもついてくる。水を変えるときに流すその水に匂いがしっかり移っていて、流しの匂いも爽やかに更にキッチンも綺麗になったような気がするのだ。

気がする、ってけっこう大切だ。
流しが綺麗になった気がして、料理が楽しくなった気がして、料理の腕が上がったような気がして?
などなど。プラス思考の「気がする」は、そのまま脳内発酵させ、いつしか「確信」へと熟成させることにしている。

夫が収集している日本酒『佐久の花』の瓶、重宝しています。
北側の窓辺には、災害時用に25時間蝋燭も飾ってあります。

きみ達、そこ駐車スペースなんだけど、どういうつもり?
踏まれても踏まれても、元気いっぱい起き上がるんだよね。

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指を開いていくように

庭でパクチーの花が咲いている。
今年初めて植えてみたのだが、独特の匂いとは印象の違う白く小さな花だ。ハーブは、たいてい匂いの主張で満足しているかの如く、自己主張のない小さな花を咲かせる。しかしその花は、よく見ると本当に可愛く、気づいて目を留める人にだけ愛でる楽しみを分けてくれるのだ。

パクチーは5枚の花びらを持ち、まるで握った手のひらをゆっくりと開くみたいに咲いていく。1本1本の指を順番に開いていくようだ。
その様子が可憐で、食べずに咲かせてよかったなと思う。
間引きが苦手で上手くできず、ひょろひょろと育って行くうち、食べ損ねたのだ。花が終わるころには茎は硬くなるだろうが、味わおうと思っている。

パクチーの咲き方を見て、それから他の花達を見ると、咲いていく様子をスローモーションで見せてくれているのように思えた。花達が咲いていくゆったりとした時間は、早送りにでもしないとはっきりと目にすることはできない。でも庭にいるとそれを感じることができる。そして、あっという間に散っていくのだということも。

「ずいぶんと、庭に楽しませてもらっているよねぇ」
もみじの剪定を終えた夫に言うと、うなずいた。
「確かに。遊ばせてもらってるねぇ」
雑草だらけの、他人から見れば雑然とした庭であるが、この季節、毎日のように小さな楽しみが見つかる場所なのだ。

パクチーの花です。1本1本、ほんとうに指を開いていくかのよう。

ワイルドマジョラムは、東側の駐車場にたくさん咲いています。

イタリアンパセリの花。お隣の林にも種が飛び、花が咲きました。

紫陽花も、ゆっくりと開いて、咲いていきますね。

花びらに、赤ちゃんカマキリ発見。がんばって、大きくなあれ!

蛍の季節。ホタルブクロも、あちらこちらに揺れています。

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新しい街燈

「あ、対向車!」夫と、声を合わせてしまった。
夜、駅まで夫を迎えに行った帰り道、カーブミラーにライトが映ったのだ。
だが、ブレーキを踏んでも、一向にすれ違う様子はない。
「あれ?」「来ないじゃん」
肩透かしを食らい、狐にでもつままれたような気分になった。

我が家は標高600メートルほどの場所にあり、町内を横切る村道から、くねくねとした坂道をのぼる。その道は細く、車ですれ違える場所も限られていて「大曲がり」と呼んでいるヘアピンカーブもある。だからそこを走るときにはカーブミラーに注意を払い、常に対向車に気をつけなければならないのだ。

「街燈だ」夫が灯りを見上げた。
「とうとう、ついたんだ」対向車ではなく、街燈の灯りだった。
しかし、わたしの言った「とうとう」には、プラスとマイナス両方の気持ちが含まれていた。
村道からの道は、夜、歩いてのぼると真っ暗で、人家もなく、歩く人も、学校に通う子ども達くらいしかいない。悪意の人による事件などは起こったことはないが、ここを娘達が歩くのが心配で、暗くなるときには迎えに行っていた。子ども達は、熊鈴を鳴らしながら歩いているが、動物も怖い。ここは人が通る道だよと、動物達に教えることも大切かも知れない。

だけど、またこれでいくつかの星が見えなくなったんだろうな、と思わずにはいられなかった。空の都合によっては天の川が肉眼で見える土地なのである。
「街燈が放つ光は、何処まで行くんだろう」
節電はこれ以上は難しいというくらいしているつもりだけれど、我が家から放つ光も抑えてみようかなと思った出来事だった。

大曲がりのカーブの先にあるミラー。映る道も曲がっています。

お隣りには、お化けのような木が。というより指揮者みたい?

こちらが、新しく設置された街燈です。蔓達は、古きも新しきも
隔てることなく、そして容赦なく巻きついていきます。

下からのぼると、こっちのミラーに街燈の灯りが映ります。

大曲がりのすぐ下にある、平岡勘三郎良辰さんのお墓です。
明野町に緑豊かな棚田の風景が広がるのは、
彼が、朝穂堰(せぎ)を作ることに尽力を注いだおかげだそうです。

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「断捨離」考

半月ほど前、割れてしまった奥歯を抜いて感じたことは、歯が1本なくなると、歯と歯の間も一つなくなるということだ。

抜歯あとは順調に回復し、噛むうえで大切になってくるのは奥から2本目の歯であり、いちばん奥の歯であれば、インプラントなどの必要はないとの説明も実感できるようになってきた。そして、歯だけではなく歯と歯の間も一つなくなり、メンテナンスがずいぶんと楽になったように感じる。
本当は必要なモノだったのだとはもちろん判っているが、失くしてすっきりする場合もあるのだと、漠然とある言葉を思い浮かべた。「断捨離」である。

夫とふたり「断捨離」を合言葉に、家の整理を少しずつ続けてはいるが、中休み中である。だが歯を1本失くし、モノを減らすということはモノとモノとの間も減らしていくことになるのだと腑に落ち、一つ減らすと一つ分だけではない何かが減っていくのだと気づくことができた。これまで見えなかった効果が、不意に見えるようになった気分だ。これで、ペースが落ちていた「断捨離」も、また元気よく再開できそうな気がしてきた。

無論であるが、今ある歯は1本も減らさぬよう大切にしていきたい。歯も、歯と歯の間にも、もう「断捨離」は、無用である。

夫が収集している、日本酒『佐久の花』のミニボトルです。
爽やかなブルーの瓶は綺麗で、わたしも気に入っています。
「断捨離」とは真逆の収集欲がまた、ヒトの心根にはあるんですよね。

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カナダと日本のディスタンス

久しぶりに、カナダにいる上の娘とスカイプする約束をした。
3か月ぶりくらいだろうか。しかし、何ということであろう。夫もわたしも、2日前にしたその約束を、すっかり忘れていた。言い訳をすれば、会社の決算直後で仕事が立て込んでいたのだ。
「ごめん、忘れてた!」
10分後、あわててコールすると、娘はすぐにパソコンに顔を映し、呆れたように言った。「だと思ったよ」
「元気?」「うん。元気」「元気?」「うん。元気」
そこへようやく夫が到着。「ごめん、夫婦ふたりして忘れてた」
「うん。だと思った」娘は、クールにただ肩をすくめる。

カナダで暮らす娘の友人達に言わせると「アンビリーバボー」なのだそうだ。スカイプの約束を忘れていたことが、ではない。何か月もスカイプせずにいる親子が、である。遠くに住んでいて会うことはできなくても、パソコン上のテレビ電話がどんなに味気なくても、それでも毎週、会話をするのが家族、という感覚なのだという。
カナダと日本の違い、という話ではないのだろう。海外と日本、というのでもない。同じ日本の家族でも、その距離の取り方はそれぞれだ。では我が家は、その距離が遠い方なのだろうか。いや、それもちょっと違うかな、と考えた。カナダは遠いが、娘との距離が遠いと感じたことはない。それって「距離」の取り方というより「間」の取り方なんじゃないかな。お互いがちょうどいいと思える「間」の取り方ができれば、いい関係でいられるってことなのかもと。
まあ、今のところ彼女がカナダでの生活を楽しんでいて、少なくとも毎週スカイプをしたがっている訳じゃない、ということだけは判っている。多分互いの距離の取り方が上手く作用しているのだと、互いに思っているということも。

「でさ、何か忘れてない?」1時間ほど喋ったあと、娘に言った。
「えっ? んー? あ、誕生日おめでとう!」折りしも夫の誕生日だったのだ。
うーん。距離の取り方、間の取り方云々ではなく、これはもう単純に、ぼんやり親子というだけのことなのかも知れない。

娘が旅にでてから、あとひと月で1年経ちます。
彼女が出かけたときには、すっかり夏だったよなぁと思い出しました。
庭では今、様々な花が咲いています。深紅の薔薇も綺麗に咲きました。
そうやって庭を見回すと、夏の準備をしているかのように見えてきます。

ヤマボウシの白い花は、2階のベランダからよく見えます。

シモツケ。10年ほど前、末娘が小学校でもらった苗を植えました。

ラベンダーは、道路沿いの軽トラの横で咲いています。
カナダでワーキングホリデー中の娘のブログは、こちらです。
最近『世界新聞』というサイトにも旅するライターとして記事アップ中。

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のびゆく雲に

食料品の買いだしをした帰り道、運転席から見える雲に目を魅かれた。雲は、広げた扇の骨のように、放射状に広がっていた。
「おーっ!」思わず声を上げる。なにやら神々しい感じがしたのだ。
帰宅してすぐに、空の事典とも言える『空の名前』(光琳社出版)を開いた。放射状雲。形そのままの名前だ。だが、その放射状に広がっている雲は、じつは平行なのだとかかれていた。
「まっすぐに伸びる鉄道のレールの先の方が、一点に集まっているように見えるのと同じ理由です」
近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見えるということか。
雲など、みな手の届かぬ遠い遠い場所にあるものだとしか考えていなかったので、逆に新鮮だった。

目に見えるものと、実物や真実は、いつも同じという訳ではない。ただ、自分の瞳が映しているモノ、というだけで、それが本当だとは限らないのだ。

けど、と考えてみる。それを見て感じたことは、本当なんじゃないかな、と。例えば、あの雲を見て、神々しいと思ったり、綺麗だと思ったりした気持ち。ただの平行に並ぶ雲なのだけれど、後光が射している訳でもなんでもないのだけれど、見て、感じたその気持ちは、きっと本当なのだ、と。

南アルプスの北側に、気持ちよさそうに広がっていました。

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シュミラクラ現象に負けるな

休日の朝7時。夫に誘われて、散歩に出た。
すでに汗ばむような陽射しだったが、未明には気温が下がったのだろう。山々がくっきりと綺麗に観えていたのだ。
一昨日、久しぶりに丸1日寝込んでいたので逡巡したが、気分転換にいいかも知れないと、ついていくことにした。行きはほとんど下り坂で影になる場所が多いが帰りは登り坂で日向ばかり。「行きはよいよい帰りは怖いコース」だ。山がいちばん綺麗に観えるコースが、それなんだからしょうがない。

「僕にかまわず、先に行ってくれ」
登り坂になった途端、わたしが言うと、夫がなつかしそうに笑った。
「びっきーじゃ、ないんだからさ」
1年半前に死んだびっきー。最後の1年くらいは体力も落ち、散歩で登り坂になると突然あからさまにスローペースになったり、草の匂いを嗅いで誤魔化そうとしたりしていたっけ。

コース終盤は、堰沿いの平坦な木陰の道を歩く。ホッとするはずの場所なのだが、ここにも難関が待ち受けている。我が家の北側の道で、堰向こうを見上げると北側の外板に、何年か前キイロスズメバチが作った巣がよく見える。
「またずいぶんと穴が、大きくなったなぁ。鳥が、住んでるのかも」
夫が言ったのと同時に、巣から鳥が飛んで行った。
「住んでるね。はっきり」ふたり、苦笑する。
キイロスズメバチは、翌年には移動し、同じ巣は使わないので、あとは朽ちるか、野鳥達が再利用するかのどちらかだ。まあ、何の害も与えない野鳥が住む分には、かまわない。かまわないのだが、その穴の空け方だけ何とかしてほしいと、常日頃から思いながらも直視するのを避けている場所がそこなのだ。

その巣に空けられた穴は、丸いものが2つ、切り込むような線になっているものが1つ。それが何故か、いびつなヒトの顔に見える。
我が家の外板に顔があるなんて、嬉しいことじゃない。見るたびに、あれは顔じゃないと自分に言い聞かせるが、どうしても顔に見えてしまう。負けないぞ、と戦いの意思を示した時点で、すでに巣を誰かの顔だと認識しつつ戦いを挑んでいることに気づき、がっくりと膝をつく始末。昨日もやはり、穴あきキイロスズメバチの巣に勝つことはできず、「僕にかまわず、先に行ってくれ」と、先を行く夫に、力なく声をかけたのだった。

どうしても、口を大きく開けたヒトの顔に見えてしまいます。
3つの点が顔に見える「シュミラクラ現象」は、動物にプログラムされた
外敵を認識するためのものだそうです。でも、点が1つ足りないのに。

八ヶ岳の雪もほとんど解けました。もうあとは、根雪かな。

南アルプスの甲斐駒ケ岳は白い石が多く、夏でも白く見えるのだとか。

畔にはアザミがのびのびと咲き、気持ちのいい散歩でした。

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ナデシコ(もっともポピュラーではない)

庭のナデシコが、咲き始めた。
「つい撫でたくなる、可愛い子のよう」 →「撫でし子」が名の由来だから、という訳ではないが、やはり可愛い。薄いピンクの小さな花が、身を寄せ合うかのように咲いているところがまた、いい。とても丈夫で、放っておいても毎年咲く様子にも、飄々としたものを感じ、いいなと思う。

我が家のナデシコは、色も形もすべて同じだ。数えれば百以上の花を咲かせているのだろうが、一種類しかないので、ナデシコと言えばこの色、この形の花だと思っていた。しかし、ナデシコは色も形も多種多様なのだと最近知った。
ネットで探しても、同じ色形のものにたどりつくまで、けっこうかかる。調べているうちに、このナデシコは日本原種の「カワラナデシコ(大和撫子とも言う)」ではなく、中国から来た「セキチク(石竹」)」という種類らしいと判った。珍しい訳ではないが「ナデシコ」と言って思い浮かべる花は、一般的に、カワラデシコの方なのだろう。

身近にあるものを、もっともポピュラーなのだと思い込んでしまうことって、じつはよくあることなのかも知れない。
例えば、食器を洗うスポンジ。食器洗い用のものを購入してはいるが、そう言えば、他の場所では同じものを見たことがない。実家でも、夫の実家でも、会社でも、違うタイプものを使っている。そしてある日突然「えっ、これが何よりどれより普通なんじゃなかったの?」なんて感じで、気づくのだ。

身近にある親しくなったモノ達には「何より普通で、もっともポピュラー。ではないかも知れない」という、注意を怠るべからず。
無論ナデシコ達は、そんなことにはおかまいなし。春の風に、微笑んでいるかのように身を任せ、静かに揺れるのみである。

柔らかい印象をあたえる薄ピンク色。ギザギザも大和撫子より浅目です。
葉の緑も控えめな薄い色で、中心だけ赤に近いピンクで飾られています。

濃いピンク色をした開きかけの蕾も、とっても可愛いです。

競うように咲き始め「撫でて、撫でて」って・・・言ってる訳ないか。
本日5月29日の誕生花だそうです。

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叢雲(むらくも)迷う夕べにも

昨日の早朝、夫を駅まで送る時間、春らしからぬ雲が空を泳いでいた。
「春なのに、うろこ雲?」と、わたし。うろこ雲は、秋の雲ではなかったか。
「うろこ雲が浮かぶと、雨が降るらしいよ」とは、夫。

帰宅してから、空の事典とも言える『空の名前』(光琳社出版)の雲のページを開いてみた。窓から見える雲とうろこ雲の写真を比べてみると、ずいぶんと雰囲気が違う。うろこ雲は、低気圧が近づいたときに現れる巻積雲という種類の雲で、夫が言った通り、雨の予兆となることも多いらしい。
しかし、窓から見える雲にいちばん近い雰囲気を持つ写真は、高積雲だった。予報を見ても雨が降る様子はないし、たぶん高積雲だろうと推定。高積雲のなかには、鯖雲、羊雲などもあったが、叢雲(むらくも)に近い感じだ。
叢雲、群がり立つ雲の説明文には、『源氏物語』に「風騒ぎ 叢雲迷う 夕べにも」と使われている、とあった。続きは「忘るる間なく 忘られぬ君」風に叢雲が乱れる夕べでも、あなたのことを片時も忘れられない、のような意味らしい。乱れ迷うモノと、一途な迷いのない気持ちが対照的な歌だ。その乱れ迷うモノの象徴として、叢雲が使われているのだった。

叢雲らしき雲は静かに形を変え、3時間も経つと空が見える部分の方がわずかとなった。乱れ迷う様子もなく、深呼吸でもするかのようにゆっくりと空を覆っていく雲達。その様をぼんやりと見ていたら、日々の細かな迷い事などは、次第に小さくなっていき、やがては消えていくもののように思えてきた。

定点観測地で朝7時過ぎに撮影。風はなく雲もじっとしていました。

午前11時過ぎには、こんな感じに雲が広がりました。

同じく11時過ぎの富士山側の雲。我が家からだと南側になります。
韮崎駅に向かう農道で。ちょうどお田植えの真っ最中でした。

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野薔薇への憧れ

山に林に町に、今、野薔薇が咲いている。花壇だけではなく、薔薇の季節だ。
庭にも咲いているその薔薇は、一重の白い五枚の花びらを持つ、ごく普通の花で、いく枚もの花びらを重ねて咲く薔薇とは、まるで違う。花だけ見ると、知らなければ薔薇だと気づかず通り過ぎてしまいそうだ。
しかし、茎にはしっかりと棘を持ち、花びらの形も似ている。真ん中が少しへこんだ、ちょっといびつなハート型だ。

「綺麗な薔薇には、棘がある」
薔薇達にとっては、心外だと感じる諺かも知れない。
そして、わたしが持つ薔薇のイメージは、この諺とは違っている。高貴な雰囲気を持つ花だが、じつはいく枚ものハートを持つ薔薇は、誰かを傷つける自分の棘に、ずいぶんと心を痛めているんじゃないか、と思うのだ。

しかし、野薔薇のイメージは、更にまた違う。野薔薇は、5枚の花びらをしっかりと開き、清々しい面立ちで空を見ているように思える。
同じように棘を持ち、ハート型の花びらを持つ薔薇なのに、強く見えるのは何故だろう。野薔薇は、自分の棘くらいでは傷つかない何かを、たぶん持っている。そしてわたしは、そんな野薔薇に、憧れを持っている。

何処からか飛んできて根づいた、庭の野薔薇です。

野薔薇の棘。若く赤みを帯びた棘には、美しさをも感じます。

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夕闇の影絵

「夕暮れの田んぼを、観に行かない? たぶん山が綺麗に映ってるはずだよ」
夫に誘われて、町内を車で走った。夕暮れ時。午後7時前のことである。
風呂上がりだったわたしは洗った髪を乾かしもせず、フリースを着てカメラだけ持ち、夫の車に乗り込んだ。5月も後半のこの時期にフリースを着る寒さは、ここ山梨でもそう多くはなく、気温が下がれば下がるほどくっきりと見える山々が、なるほど綺麗に観えていた。

「ほら、鏡みたいでしょう?」5分と走らず、夫は車を停めた。
彼は、三脚を抱え一眼レフを肩にかけ、嬉しそうに撮影地点を探すべく歩いていく。わたしも、小さなデジカメを持ち、適当に歩く。
まだ田植えをしていない水を張っただけの田んぼは、本当に鏡のようにくっきりと、何もかもを逆さに映していた。

夕暮れから夕闇へ、そして夜の闇へと向かっていく時間だ。田んぼが作った鏡のなかの闇も、見る間に濃くなっていく。
もし光がなかったら、闇だけの世界になるのだろうか。だとすると闇は、光よりも遥かに大きな、根底となる存在だということだろうか。
濃さを増す夕闇に立ちすくみ、それが胸に抱えた闇と共鳴しないうちに、わたしは車に戻った。洗ったばかりの髪だけが、一滴の夜の闇を持ち帰っていた。

木々の影が、西洋のお城のように見え、手前の木々の葉は細かい影を作って
いて、藤城清治の影絵を連想しました。明野町御領平にて。

こちらは、八ヶ岳が映った田んぼです。村道を仁田平に向かう途中、浅尾で。

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木洩れ陽とドクダミ

5月。木漏れ陽が美しい季節だ。
我が家の庭で、いちばん綺麗に木漏れ陽が揺れる場所は、東側の林との境目、昨年ドクダミをいただいて植えた場所である。
そのドクダミ達がようやく葉を広げ、今、気持ちよさそうに木漏れ陽を浴びている。可愛い。可愛くてつい、幼子相手のような口調で「木漏れ陽、きらきらしてるね。気持ちいいね」と話しかけてしまう。

太陽の光が、木々の影を用いて作り出す、木漏れ陽。この美しさを作っている功労者のひとりは、風だろう。
「ほら、綺麗だろう?」
5月の風がそう言って、目覚めたばかりのドクダミ達のために、優しく木々を揺らしているのを感じる。
きらきら光る太陽の光を浴びて、ときに雨や風と立ち話をしながら、土の暖かさに守られて、新しい命は、のびのびと呼吸の数を増やしていくのだ。

ふと、考えた。ドクダミをここに植えなければ、こんなふうにゆっくりと木洩れ陽を見つめることもなかったのだと。そう思うと、不思議だ。びっきーのテリトリーだった東側の雑草が生えない庭。そこを歩き回っていた彼が死んで1年半経ち、今ようやく草が生え始めている場所を見回した。
「住み始めて何年経っていても、新しいことって始まるんだ」
木洩れ陽は、穏やかな微笑みをまとい、ドクダミ達に降りそそいでいる。

木洩れ日に揺らめく、ドクダミ達。少し離れた場所にも出てきました。

一枚一枚の葉っぱが、陽の光を受けて、はにかんでいるかのよう。

木洩れ陽を作っている木々達は、日ごとに緑濃くなっていきます。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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