はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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トリセツ読む派ですか?

ああ新緑だと思ったら、夏のような日差しが続いている。緑も濃くなり、あちらこちらで花が咲き、虫達が忙しく動き始めた。
今年はたくさんの花を咲かせた庭のナナカマドにも、カナブンの種類だろうか。無心に蜜を吸う姿を見かけたし、ウッドデッキでは、蜂が巣を作るのに一所懸命だ。
「どうする? これ」と、わたし。
「ここに住まわせる訳にはいかないけど、もう少し様子見ようか」と、夫。
大きくした後に巣を壊す方が可哀想だとも思うが、観察中だ。
昨年キイロスズメバチが作った立派な巣は、結局そのまま放置してある。今度は、毎日洗濯物を干す場所だし、そのまま観察することもできない。
「毒針が、なければいいのにな」ひとり、つぶやいてみる。
しかし、見るからに黒と黄色の踏切注意的な危険色。向こうにその気はなくとも、近づいて来るとやっぱり恐い。共生は難しいだろう。それにしても綺麗に巣を作っていく。誰に教わった訳でもなく、取扱説明書を読む訳でもなく。

「で、トリセツ読んだ?」とは、夫の口癖。
ナビ付きの車にした時には、彼を車に乗せる度、百万回ほど言われた。
「何でお母さんって、トリセツの3項目目から読むの?」とは息子の疑問。
「だって、1と2は大抵準備段階じゃん」と、何か組み立てつつ、わたし。
「ちゃんと読めば誰でもできるのに、読まないからできないんじゃない」
トリセツ読む派の男達には、トリセツ読まない派のわたしが理解できないようだ。わたしだって理解できない。あの難解なトリセツなるものを読み下すためにはどうすればいいのか。トリセツのトリセツが欲しいくらいなのだ。

蜂の巣を見て、勝手に仲間意識を持つ。トリセツ読まない派同士だね。
「きみはトリセツ読めない派だろ」と、天の声が聞こえたような気もするが。

秋には赤い実をつけるナナカマド。今年は秋も楽しみです。
海外では魔除けの木と言われ玄関にナナカマドの杖を置くところもあるとか。

卵を産んでいるんでしょうか。初めは女王蜂1匹で巣作りを始めるそうです。
食べようと襲ってくる敵に、危険ですと教えるための踏切注意色らしいです。
トリセツ読みつつ巣作りしてる蜂がいたら、それはそれで見てみたいなぁ。

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彼女の秀でた才能

母の日に少し遅れて、上の娘にカーネーションを貰った。嬉しい。
彼女は小さな頃からよく笑う優しい子で、誰かと一緒にいるのが好きだった。人が好きなのだ。いつも誰かと遊んでいて、勉強はあまりしなかった。そんな自分を、特に秀でるものは持ってないと彼女自身は思っているようだ。だが、わたしは違うと思っている。彼女の明るく優しく人とコミュニケーションをとるのが大好きなその性格は、特に秀でたものだ。持とうと思ったところで、誰にでも持てるものではないのだ。

カナダのホームステイでルームメイトだったフランス娘イザベルも、オーストラリアで知り合ったサムも、フィリピンでたまたま一緒に観光したマルコスも、娘を頼り日本にやってきた。彼女はそれを温かく迎え、出来る限り日本を楽しんでもらおうと、バイトや大学をやり繰りしている。だからこそ、わたしも楽しんでもらおう、歓迎しようという気持ちになる。

「マルコスを、富士山近くまで連れて行きたいから、フィット貸して」
ナビが必要だというので、マイカーフィットを貸し、しかたなくわたしは、娘のアルトを使うことにした。だが夫と密かに『リラックルマ』と呼んでいるアルトには、リラックマがあちらこちらに乗っている。
「話しかけないでね」と、わたし。
「リラックス、リラックス」とは、リラックマ。
運転中、歯を食いしばるのがわたしの癖なのだ。その度に「リラックス、リラックス」とリラックマが主張する。
郷に入れば郷に従え。『リラックルマ』に乗ればリラックマになれ?
娘といると、誰もがリラックスするのかも。彼女の秀でた才能をまた一つ発見した…… かもしれない。

花束を貰うのは、昨年、左手を骨折し入院して以来です。

みつばちリラックマは、いつもは後部座席にいます。
大学入学時の娘の自己紹介は「好きなキャラクターは、リラックマです」
小学校1年生の自己紹介のようで、笑っちゃいました。

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藤と5月の空

藤が咲いたことを知るのは、毎年足元に落ちた花を見た時だ。
今年もびっきーと散歩していて、足元に散らばった、紫に変色した花に目を留め、空を仰ぎ見るように顔を上げた。
藤の花と共に目に入ってくる。新芽を広げた木々。青く広がった空。流れる雲。悠々と空を舞う鳥。
「ああ、いい季節だ」実感する。

春はもちろんいい季節なのだが、なにかと忙しい季節でもある。ゆったりと花を愛でることさえ忘れがちになる。早足になり、伏し目がちになり、足元を見て歩くことが多くなる。
足元に散った藤の花は、毎年、そんなわたしに教えてくれる。
「見上げてごらんよ。5月の空が見えるよ。木々の新芽達が小さな手のひらに乗せた、朝露を含んだ透き通った綺麗な空だよ」
花を終わらせ紫に色を変えた小さな花びらは、ばたばたと忙しくしているわたしに、あらためて5月の空を見せてくれる。
「ほんの少しだけ立ち止まって、空を見上げてごらん」と教えてくれるのだ。

誰が植えた訳でもないと思いますが、毎年隣の林に藤が咲きます。
綺麗に整えた藤棚も素敵ですが、山に見かける藤の花も、いいですよね。
にわかに国際化が進んでいる我が家に、昨日はアメリカ男子マルコスが、
遊びに来ました。ふたり新緑の昇仙峡を歩いてきたと、ホストである上の娘。
新緑を伝えるのにふたりで四苦八苦。結局 new leaf で伝わりました。
(エキサイト翻訳では、新緑=fresh green レタスみたい?)

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ただまっすぐに伸びていく

様々なものを植えては忘れ、放置している我が家の庭に、立派なアスパラガスが伸びてきた。植物とは言え弱肉強食の我が家の庭で育っているタラの芽やうどと共に、天麩羅にした。山菜に負けず劣らず濃厚な味だ。
「美味い!」夫は絶賛。

それにしても植物は面白い。来年のためにと1本残しておいたアスパラは、いまだ天に向かって伸びている。
トイレに飾ったミントの葉も、キッチンの一輪挿しのアイビーも、窓の方に、太陽に、天に向かって背伸びをするかのように、日々わずかながらも背を反らしていく。
「生きるため」なのだなぁとあらためて考える。
ほんのわずかでも太陽の光を浴びるために背伸びをし、ほんのわずかでも水を吸うために根を伸ばす。

人は、なかなかそうはいかなよなぁと、ふたたび考える。迷い選ぶことができるから。迷子になりがちなわたしは、ただまっすぐに伸びていく植物が羨ましくもある。しかし迷い選ぶことで、人はたぶん、自分になれるのだろう。
新しく植えた花達に水をやり、春の太陽を浴びて深呼吸した。
4月18日5月8日
にょきっと音を立てて、     両手を広げるように伸びています。
出てきたような感じ。      風に吹かれて踊っているかのよう。

繁殖力が強く綺麗な葉を伸ばすアイビーを、デッキ近くに移植しました。
上手く育つといいな。

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偶然を装った必然

ずっと一緒にいると、思考回路まで似てくるのだろうか。
「今夜はカレーにしようかな」わたしが考えたすぐその後に、夫が言った。
「今、びびっと来た! 今夜はカレーにしよう」
まるで神でも降りてきて「今夜はカレーにせよ」とのお告げを受けたかのような言い方。それにしてもの偶然に、ふたり驚かざるを得ない。
わたし的には、キッチンにある材料で買い物に行かなくともできるメニューを考えていた訳だが、彼的には関係もなく、ただ食べたいと思っただけだそうだ。実際、わたしは買い物に行った。彼のリクエストは、茄子と挽肉のカレーで、茄子も挽肉もなかったからだ。

以心伝心というものか、波長が関係しているのか、一緒にいる時間が長いから、そういうことが数多く起こるだけなのか何なのかよくわからない。しかしその頻度は、不思議としか言いようもないほどに頻繁なのだ。

「クラプトンの新しいCD、車に乗せようか」
夫が言ったその時、わたしの鞄には、まさにそのCDが入っていた。
「持ってきたよ」「おお! さすが、かあちゃん」
わたしは、愛車フィットのオーディオにCDを挿入した。軽快なメロディが流れる。夫が買ってから、しばらくたっていたし、いつも車のオーディオに録音しようと思いつつ忘れていたものだ。それをふと思い出し鞄に入れたタイミングが、彼の言いだした瞬間とぴったりだっただけだ。

友人にメールしたら同じ時間に偶然メールが来ていた時のような、人と人とを繋ぐ波。不可思議なもの。しかし夫婦であれば、押し寄せては引き、引いては押し寄せてと、そんな波を何万何千と繰り返しているはず。ぴたりと合う時があるのは、あたかも偶然を装った必然と言えるのかもしれないが。

ルーは、こくまろの辛口と中辛を混ぜています。
茄子を入れると甘みが増すので、次回は辛口のみでと相談がまとまりました。

夫を車に乗せるたび「またビートルズ聴いてるのぉ?」と言われるのが嫌で、
反射的に、クラプトンのCDを鞄に入れただけかも。必然要素大ですね。
アルバムは『OLD SOCK』 直訳すると古い靴下。ソックスの単数形。
SOCKには、大切なものを隠しておく場所という意味もあるそうです。
たとえば、クリスマスプレゼントとか。

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小さな記憶スペースの中に

庭のすずらんが咲き始めた。花は小さいが眩しい白。風に吹かれるその姿は、本当に鈴の音を鳴らしているかのように、可愛く揺れる。
花の可愛らしさに加え「すずらん」という爽やかな響きのせいか、日本中に「すずらん通り」と名付けられた商店街があると聞く。
かく言うわたしも「すずらん」と聞いて、最初に思い出すのは「三井住友銀行 すずらん支店」だ。

人の記憶とは不思議なものだ。自分の忘れっぽさに辟易しているわたしだが、そのぽっちりしかない頭の中の記憶スペースに、あまり必要ではないものが詰め込まれているのを感じることがある。
「三井住友銀行 すずらん支店」とは、毎月振り込みがある外注先の支店名だ。経理を仕事とするわたしは、銀行の支店統合が頻繁だった一時期から、登録済みの振込先さえ毎月確認しなくてはならなくなった。覚える必要は何もない。正確に確認すれは済むことだ。しかし「すずらん」は、小さな記憶スペースから「三井住友銀行 すずらん支店」を取り出してくる。

でもまあ、こんな記憶も余計なことばかりではない。社長である夫と話していて「A社のBさんが」と言われ「はいはいA社のね」と、すぐに社名がわかったり、C社の支店名から本拠地は関西だとか想像できたりと、話が通じやすくなることも多い。もちろん一緒に仕事をしていればいいことばかりという訳にはいかない。わたしのミスで家庭の雰囲気まで嫌な感じになったりもするし、
「お父さん、先月出張日当、ずいぶんもらってたよね?」「そ、それは……」
などと、夫には都合が悪いこともあったりする。
それでも、いいことの方が多いと思っていたい。夫の会社も、今年で設立20年を迎える。ただ庭で、静かに笑うように揺れるすずらんを眺めつつ、末娘がお腹にいる時に、言い出しにくそうに「会社創りたいんだけど」と、彼が言い出したのを思い出した。

すずらんの繁殖力たるや、びっくりさせられます。雑草達もたじたじ。
すずらん付近に生息しようとするのはスギナくらいです。
根には毒を持つというすずらん。可愛い顔して、食えないやつかも。

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トイレの窓

トイレの窓に、庭のミントの葉を飾った。銅でできた一輪挿しを買い、草花を飾りたくなったのだ。

久しぶりに小さな模様替えをして、思い出したことがある。
13年前の今頃の季節のことだ。
越して来た建てたばかりの家には、驚くことに玄関のドアさえ付いていなかったが、3日ほどでそのドアは取り付けてもらった。しかし、障子や引き戸など、部屋の中の扉類は付いていないものも多く、風呂も使えず、新築の家特有の冷たさに、身も心も冷え切ってしまった。
夫は東京までの通勤に、子ども達は新しい学校での環境に慣れるのに精一杯。わたしはわたしで、大工さん、左官屋さん、建具屋さんが作業する家で引っ越しの荷物を片づける毎日。がんばらねばと思いつつも心労はたまっていった。
「疲れたなぁ」
誰もいない時間に、ホッとしたのか、ふいに涙がこぼれた。
「だめだ、だめだ。もうすぐ子ども達が帰ってくる」
涙を拭き、何気なく入ったトイレで、わたしは、あっと声を上げた。トイレの窓が青くキラキラと光っていたからだ。綺麗だった。世の中にこんな綺麗なものがあったのかと思うほど美しく、何も考えずしばし見とれていた。それから窓を開け、その青いものの正体を見て笑った。材木に被せた工事用のブルーシートに、ただ太陽が反射していただけだったのだ。

トイレの窓とブルーシートは、教えてくれた。綺麗だと感じる心があれば、いくらでも綺麗なものを見つけられること。可笑しいと思える気持ちがあれば、どんなに疲れていても笑えること。
4月頭に越してきて、家が完成したのは7月に入ってからだった。あの一瞬があったからがんばれたのだと、今でもトイレの窓を見ると、ふと思い出す。

薪ストーブも作るという、熊本に住む金属製品の作家さんの作品です。
銅製なので、ずしりと重く安定しています。
ドライフラワー化した南天を、アクセントに。


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たどりつければ、それでいい

道に迷った。比喩ではなく、実際にたどりつくべき場所にたどりつかず、うろうろと30分以上歩き回った。徒歩5分とかかれた目的地に行くまでにだ。
一時期流行った『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)は、男脳と女脳の違いユーモラスにをかいた本らしいが、まさに地図が読めない女である。道を曲がった時に、地図の方向転換ができず、気がついた時には、四つ角の真ん中に立ち、道ばかりが四方に伸び天を仰ぐしかなくなっているのだ。
「ああ、東京はもう新緑じゃないんだな。緑濃く風薫る5月なんだ」
などと木々を眺めつつ、それでも四方のどれかを選び、歩き出すしかない。
夫いわく。
「方向音痴なのを自分で知ってるくせに、だいだいこっちだろうとか言って歩き始めるから、そうなるんだよ」
まさにその通り。言い訳もする気も起きない。道に迷い疲弊した気分の時には、人生半分以上の時間、道に迷ってるんじゃないかと思うほどに疲れている。なのに、ふたたび道に迷う。目的地にたどりついた途端、着いた! という喜びと共に、迷ったことをすっかり忘れてしまうからだ。

「でも、まあいっか」と、夜には美味しくビールを飲んだ。たどりつければ、それでいい。わたしの時間は、のんびりと進んでるんだから。

写真を撮るまで、生ビールを待てませんでした。こういう時の時間は早い。
鮪と蛸とアボカドのサラダ、わさび風味ドレッシング。
半蔵門の居酒屋で。

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捨てるべきものの捨て場所

友人に、夢の話をした。
男の部屋を訪ねると、奥さんと小学生の男の子が二人いて、せんべい布団を敷き、奥さんの隣で寝ることになった。男と子どもは、何処に行ったのだろうか。気がつけば、奥さんとふたりきりになっている。
頬のラインが綺麗なその女は、真っ赤な口紅がくっきりと浮かび上がって見えるのが印象的だった。そして、何に動ずることもなく煙草を燻らせていた。
「いかが?」
煙草を勧められ、迷う。煙草は吸わないが、美味しそうに見えたのだ。
「いただきます」
わたしは咳き込まないよう注意を払いつつ、煙草を吸った。美味い。
煙草は時間をかけ、少しずつ先端から灰になっていく。わたしは灰皿を探した。だが灰皿は何処にもない。
女の煙草は、いくら煙を吐いても灰にはならず、真っ赤な唇がたずさえた微笑みが煙と共にゆらゆらと浮遊している。その横でわたしは、どんどん灰になっていく煙草を片手に、男の家を隅から隅まで灰皿を探して回るしかなかった。

話を聞いた友人いわく。
「捨てるべきものの、捨て場所を探してるんじゃない?」
「捨てるべきものかぁ」
彼女の言葉に、いつしか捨て場所ではなく、捨てるべきものの方を探している自分に気づく。たくさんのものを持ちすぎているのかもしれないなぁと、友人が淹れてくれた紅茶を飲みつつ、ふと考えた。

とりとめもなく、ふたりゆっくりとしゃべった友人のマンションからは、
スカイツリーが見えました。完成して、初めて目にしたスカイツリーかも。

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方向音痴もいいもんさ

甘やかして育てても、厳しい態度を持ってしても、子どもを育てるのはたいへんなことだ。甘やかして育てた末娘は、わたしに叱られた記憶というものがないと言う。しかし彼女はよく泣いた。どうして泣いているのか、何が気に入らないのか、全く見当がつかず、途方に暮れることもよくあった。
「どうして泣くの? いい加減に泣き止みなさい!」
そう怒鳴りつけたい衝動に駆られたことも、何度もある。
だが、宣言してしまった。
「この子は、甘やかして育てます!」
それもあってか、わたしは自然と逆へと向かう技を会得していった。

怒鳴りつけたい衝動やパワーを、逆方向に転換するのだ。そういう時、いつも一つ大きく息をついてから、彼女を抱きしめた。
「いい子だね。いい子だね。いいんだよ。泣いてもいいんだよ」
できる限り優しい声でささやき、できる限りの時間抱きしめていた。そうすることで自分も静まった。それで娘が泣き止んだかどうかは、忘れてしまった。そんなに簡単に泣き止むものなら、母親は苦労しないだろう。
だが、怒鳴りつけても、抱きしめても、わたしが娘にぶつけるパワーに変わりはなかったように思う。だったら抱きしめようと決めた。理由もわからず、ただ泣く子を怒鳴りつけたところで、何一ついいことはないのだ。
その逆さ技のおかげで、ずいぶんと気持ちが楽になり、ようやく3人の子どもを育てる母親らしく、子ども達と付き合えるようになった気がする。
正反対の方向へ向かうことは、悪いことばかりではない。道に迷う度わたしは思うのだ。「方向音痴も、いいもんいいさ」と。

以前、夫と旅したヴェネツィアで見つけた道標。
「どっちへ行こうがいずれはサン・マルコ広場とリアルト橋にでますよ」
それはそうと、昨日も新宿で反対方向に向かっていたわたし。
健康のためのウォーキングだと思えば「方向音痴もいいもんさ」?

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雰囲気重視?

南アルプスの彼は、その日、南アルプスにはいなかった。
贔屓にしているマッサージ師の彼は南アルプス店店長だが、姉妹店の甲斐市に出張しているという。我が家からは甲斐店の方が近いのでさっそく予約した。
姉妹店なのでポイントカードも両方で使えるが、ふたつの店は全く雰囲気が違う。南アルプス店は、指圧などの施術を行うクリニックの雰囲気。対して甲斐店の方は、リラクゼーションルームであり、アロマ漂う洒落た雰囲気。
彼は最初、甲斐店にいたので、こちらの雰囲気もわかっている。しかし、南アルプス店に慣れ親しんでみると、小さな違和感が芽を出した。

ウェアをいつもの白衣から、甲斐店イメージカラーのブラウンに着替えちょっとスリムに見えるのはいいとして、マッサージ師くんの口数がやけに少ない。いつも昨年末に生まれた赤ちゃんの話や、拾った猫の話などを取りとめもなく話す彼が、しゃべらない。南アルプス店では、他のマッサージ師さんもかなりおしゃべりだ。笑い声が高らかに上がることも茶飯事。照明も、人も明るい。だが甲斐店では、静寂と薄暗い照明が雰囲気作りには、欠かせないらしい。それはそれで、まあいいかな、雰囲気も大切だもんね、確かにさぁと思いつつ、彼に聞いた。
「『ミドリムシ』買っていこうかな」
「すみません。こっちでは扱ってないんです。『ミドリムシ』っていうネーミングが雰囲気に合わないみたいで」
『ミドリムシ』とは、最近流行っている彼おススメのサプリメントだ。
「そこまで雰囲気にこだわるんだ!」「雰囲気重視です」
彼も、多少呆れた感じで申し訳なさそうに言う。
「また行くわ。南アルプス」「来てください」
彼のマッサージは、相変わらず冴えていた。スッキリした肩を軽くまわしつつ、雰囲気重視に走りすぎるのもなんだかなぁと、考えた。

我が家のトイレに飾ってある、ピカソの絵ハガキです。
左はドラ・マール。右はマリー・テレーズ。ピカソが愛した女性達です。
ふたつの店の違いを思い、連想したのがこの二枚の絵でした。

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からみ合いつつ生きている

新緑の季節。森の木々達が柔らかく明るい色の若葉を開いていく。
その木々にからみついた様々な蔓(つる)は、冬の間、まるで枯れたようにも見えた。だがその枝からも、小さなあくびをするかのように、ひとつ、またひとつと若葉が開いていく。古株の蔓は、からみついた木と変わらぬ太さになったものもあり、そんな蔓にからまれた木は、苦しみつつ空へ伸びているようにも見えるが、支え合っているかのようでもある。

「人と似てるよなぁ」蔓を見る度に、思う。
しっかりと根を張った木がそばに居たら、寄り掛かりたくもなるだろう。寄り掛かれば、からみつきたくもなるだろう。からみついた挙句その木をダメにしてしまう蔓もあれば、太陽のまぶしさに魅かれ、からみついた木を離れ、頼りなげに空へ伸びていく蔓もある。隣の木へ、またその隣の木へとからみついていくものもあれば、蔓同士からみ合いつつ、空へ伸びることもなく地面を這うように生きていくものもある。
男とか女とか、夫婦とか恋人とか、友達とか親子とか、そういうことではなく、森を歩き蔓を見る度に感じるのだ。その姿かたちも生き方も、人と似てるよなぁと。そして静かに考える。今の自分をこの森の蔓に例えたら、いったいどんな蔓だろうかと。

新緑の森で、からみ合ったまま目覚めた蔓達。

がんじがらめのようにも見えますが、支えあっているようでもあり。

木に寄り掛かることを拒むかのように、太陽に向かい風に揺れる蔓。
我が家から徒歩30秒ほどの場所で。

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脳をコントロールしよう

「脳にコントロールされず、脳をコントロールしよう」という記述を読んだ。友人とんぼちゃんの日記にかかれていたものだ。
脳は主人に忠実で「年だから」と思うと年なんだと判断し、そのように身体に指令を送る。嫌なことが起こった時「なんだこれぐらい」と思えば、これぐらい大丈夫と身体は判断するという。
年だ年だと思うと老け込んでいき、嫌だなぁと思う程にひどく疲れたり、眠れなくなったりするということか。全く人の身体ときたら、不思議でつかみ所がない。気持ちとなると更にまたややこしい。だからこそ人間って面白い訳なんだけど。とりあえず、2つくらいなら覚えていられそうだから「まだまだ若い」「くよくよしない」と、思い出す度に身体に指令を送ることにしようか。それだけでも、少し背筋が伸びそうな気がする。

ところで昨日、サムは旅立って行った。淋しい。たったの2週間だったが、家族のように過ごし、彼のことが好きになった。身体も気持ちもボーっとしてしまいがちだ。だがここは、さっそく脳にコントロールされず、こちらからコントロールしよう。淋しいとは思わず、楽しかったよなぁ、せめて少しはしゃべれるように英語勉強しようかな(たぶん)と指令を出そう。
サムは「行ってきます」と言い、旅立って行った。わたしも「行ってらっしゃい」と言い、見送った。たぶん彼は、またいつか日本に帰ってくるだろう。

ヴァンフォーレの応援に行く途中で。

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不敗神話?

ヴァンフォーレ甲府は、柏レイソルに快勝した。3-1だった。
今期J1に昇格した甲府の試合をホームで観ようと、夫がサムと娘を誘い4人で出かけた。スタジアムの周囲は露店が並び、ヴァンフォーレカラーの濃いブルーとレイソルカラーの黄色を身にまとった人々が交錯している。田舎の祭りの趣きたっぷりの、のんびりした雰囲気を楽しんだ。
そして試合は前半初めにヴァンフォーレが先制。それが最後まで効いた試合となった。ヴァンフォーレサポーターの夫とわたしは盛り上がっていた。
「ヴァーンフォーレ!」「チャチャッチャチャッチャ!」
帰り道も、ふたり歌いながら機嫌よく歩いた。
「不敗神話、更新だね」と夫。
「わたしが応援に来ると負けないんだよ」わたしの言葉を娘が訳す。
「おー!」と、サム。
「そのうえさぁ、わたしがビールを飲むと点が入るんだ」と、わたし。
「おー……」と、サム。
「やっぱお母さんが来ないとね。アウェイも行く?」と、夫。
「うーん。どうしようかな」と、わたし。
一昨年、夫とふたりよく応援に行った。大阪でガンバとの試合にも勝った。国立競技場でレッズとの試合にも勝った。ホームでグランパスとの試合にも勝った。いつもわたしは、ビール片手の応援。夫はいつも運転手だ。彼はチームメイトやサッカー好きの友人と応援に行くこともあるが、勝敗はまちまちだ。
「行こうかな」サッカースタジアムで飲む生ビールは、美味い。
その時、後ろを歩くサムが言った。「日本のサッカーソング、覚えました」
しかし、彼が歌ったのは。
「ララララララ、かしわ~♪  ララララララ、かしわ~♪」
当日券で混んでいたため、柏レイソル側の自由席で応援していた。柏の応援ソングが、彼の耳には色濃く残ったようだ。

山に囲まれた気持ちのいいスタジアムです。

帰宅後、娘はサムと習字に挑戦。左は娘、右はサムの作品です。
百匹もいるのに、リラックマまだ欲しいんかい!?

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ドーナッツへの挑戦

春である。八ヶ岳の雪もずいぶんと少なくなり、ツクシがあちこちに顔を出している。ニョキニョキと顔を出したツクシさながらに、世の中ぴかぴかの一年生だらけ。末娘も大学一年生になった。

「これから、どうするの?」友人に言われる。
「何か新しいことを、始めてみたら?」夫にも言われる。
末娘が一人暮らしを始め、彼女との時間がなくなったわたしを、心配してくれているのだ。この1年、上の娘がオーストラリアに行っていたこともあり、末娘と共に過ごす残り少ない時間をとても大切にできた。充実した1年だった。わたしとしては、長距離走を全力で走り切った感いっぱいで、次のマラソンのことなど考えられないというのが正直なところ。今は余韻をゆっくりと楽しんでいる。末娘が家を出たことで、心にぽっかり穴が空くのではないか。そんな心配は、自分のなかには欠片もないのだ。自宅の山梨支社勤務とは言え会社員だし、持て余すほどの暇があるとも思えない。

それにまあ、穴が空くのなら空くで、それもいいかとも思っている。穴の空いた自分を、どれだけ楽しんで受け入れられるか、挑戦しようではないか。
うん、そうだ。ドーナッツのごとく、穴を自分の一部にしよう。そんな風に出来たら素敵なことだなと思いつつ、八ヶ岳を眺め、足元のツクシを愛でた。

雲をかぶっては雪化粧し、雲を脱いでは汗をかくかのように雪を解かす、
毎日、忙しく表情を変える八ヶ岳です。

土の筆とかいて、ツクシ。本当に土から出た筆のよう。ナイスネーミング!

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昨日までの風景を覚えていることは難しい

北側の窓から見える風景が変わった。先週のよく晴れた風のない日に、大きく育ち過ぎていた楢(なら)の木を切ったのだ。窓の向こうには新しく出来上がったばかりのような空が広がり、木の枝に隠れていた八ヶ岳も頭を見せた。

約7メートルの楢は、夫が知り合いのツテでプロに依頼し切ってもらった。
木に登り、枝を切り、枝を下ろし、という作業を繰り返すうち、枝はきれいに無くなった。幹は倒す側にくさび形に切り口を入れ、ワイヤーで引っ張りながら反対側からチェーンソーで切ると、計算通りの場所に倒れた。さすがプロだ。「ブラボー!」と拍手を贈りたくなる瞬間だった。
ご夫婦で仕事をしていると言うふたりと、休憩中話をしたが、重機等を使わず、登りながら切っていく技術を持つ人を「アーボリスト」と言い、日本語では表現が難しいらしい。「樹木医」が近い言葉だそうだ。
楢を切ることにしたのは、傾斜地に生えているため剪定ができず、伸び放題に伸びていくまま、何もできず困っていたからだ。
「この楢も切ってよかったと思います。枝が傷んで虫が入っていましたから」
そう言ってもらい、ちょっとホッとする。これまでに比べ、この冬はアカゲラ、コゲラが楢の枝をつつく姿をよく見かけた。虫が入っている木をキツツキ達は知っているのだ。
楢は再来年には、よく乾いていい薪となり、我が家を暖めてくれるだろう。しかし昨日までそこにあったものが、姿を消すのは、淋しい。童話のように、切り株が芽を出すとは限らないのだ。

突然空き地になった場所に、昨日まで何があったのか思い出せないことがよくある。毎日通る道でさえ、すぐに忘れてしまう。現実に、今見えるものの方がどうしてもインパクトが強く映るのだろう。昨日までの風景を覚えていることは、思いのほか難しいということだ。だがわたしは、楢の木のことは、たぶん忘れない。銀色の雪で枝を飾った姿も。新緑の眩しさも。

二株立ちの楢の木でした。
見た目より傾斜は急で、下には農業用の堰(せぎ)が流れています。

薪の長さ(約45cm)にチェーンソーで楢を切る夫。

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嬉しい気持ちを伝えること

サムは、箸のプレゼントをびっくりするほど喜んでくれた。
「わお! ありがとうございます! うれしい! すげー! よしっ!」
喜んでもらって、わたしも嬉しくなる。嬉しくなって、あらためて思う。嬉しい気持ちを伝えることってとても大切なことだよなぁと。

娘がつけた日本名「秋(しゅう)」についても、彼は嬉しいと言った。
「サムはふつう。but 秋は、新しい。だからうれしい」
なので夫もわたしも、秋と呼ぶことにした。

また、日本語を勉強中だと言うサムは、こんなことも言ってくれた。夫と薪割りをした彼に「お疲れさま」と声をかけた時だ。
「僕は、ラッキーです。ここに来て、本で勉強してない。but さはさんの言葉、たくさん勉強できる」
英語がわからないわたしに、気持ちを伝えようとしてくれる。

「わたしは、ラッキーです」
サムを真似て、心のなかでつぶやいた。こうして言葉だけじゃなく気持ちを伝えあおうと会話することなど、日本人同士でもなかなかしようとはしない。こんな機会に恵まれたことは、実のところ本当にラッキーなことなのかもしれないと。サムがいる間に、そんな気持ちをちゃんと伝えたいと思っている。

娘はサムにリラックマの箸をもらったそうです。「みどりだー」とサム。

娘の中学時代の友人が、サムのためにたこ焼きパーティを企画しました。
サムの人生初たこ焼きに、マヨネーズをかけるかどうか、もめました。
最初はノーマヨネーズでと言う、夫、娘の友人、わたしの言葉に耳を貸さず、
娘はサムのお皿にマヨネーズを山盛りに。
サムは「ノーは3、イエスは1」と冷静に分析「マヨなし」と判断しました。

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窓の向こうに

夫が赤坂見附での個展に行き、珈琲カップを買ったということは聞いていた。
「これまでとは違った趣向なんだ」「ふうん」
彼が嬉しそうに話すのを、やっかみ半分ふくれて聞いた。
「窓に影が映ってるんだけど、それが何かはっきりわからなくて、想像がふくらむんだよなぁ」「ふうん」
「一目で、これだって思ったんだ」「ふうん」
悔しい。わたしだって行きたかったのに、東京は遠い。近くて遠いのだ。一緒に行って一つずつ手に取って選びたかったのに。

しかし、その珈琲カップを創った陶芸家は、とても近くに住んでいる。歩いて1分とかからない。キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち、珈琲の焙煎もする多趣味で日本野鳥の会所属のご近所さんだ。
彼は個展を終え、「窓」を持って来てくれた。
夫が話していた言葉に納得する。窓に映る影は見方によって姿を変える。まるで月に見え隠れするうさぎの影のごとし。
明日はご近所さんが焙煎してくれたパナマ・ゲイシャを淹れて飲んでみよう。
窓の向こうには、何が映るのだろうか。楽しみだ。

photo by my husband
ご近所さんのブログはこちら→このはずく山麓記
彫金作家の奥様とのアートな日々を綴っています。

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ニックネームは「さは」

何年か前から我が家で「さは」と呼ばれている。
呼び始めたのは末娘だが、上の娘も夫も、この頃では時にそう呼ぶ。わたしも「お母さんが」と言うべきところを「さはが」と言ったりする。
右とか左とか思想的背景はない。背景と呼ぶべきものがあるとしたら、それは児童心理学的なものである。

言葉を覚え始めてすぐの幼児には「お母さん」より「ママ」の方が言いやすい。なので「パパ」「ママ」と教える親も多い。ご多分に漏れず我が家もそうだった。しかし、中学生になる頃には、大抵の子が「ママ」と呼ぶのが気恥ずかしく感じるようになる。そこで「お母さん」へとすっと移行できる子も多いのだが、違う呼び方へと流れていく子もいる。我が家は三人三様だった。
息子は小学校入学と同時に宣言した。
「今日から、お父さん、お母さんと呼びます」
有言実行。彼は中学まで持ち越さずにスムーズに移行した。
上の娘はと言うと、中学生のいつからか覚えていないが、自然に「お母さん」と呼ぶようになった。
そして末娘である。あさっての方向に移行していくことになるのだが、それにも過程があった。「ママ」→「ハハ(母親のハハ)」→「ハハリン(呼び捨てのようでハハが呼びづらかったらしく可愛くしてみた)」→「サハリン(ハハリンと似ている既存の言葉へ移行。ここでずれるのが可笑しい!)」→「さは(可愛く呼ぶことに、またも抵抗が生まれ省略)」ここで定着した。
「さは」の「は」は母親の「は」だが「さ」はサハリンの「さ」だ。ここでもことわりを入れておくが、思想的背景は全くない。
そんなわけで、まあ、彼女は一生わたしのことを「さは」と呼ぶんだろうな。友達っぽいニックネームでもあったりして、じつは自分でも気に入っている。

オーストラリアではNBAが大人気だそうです。
ユニフォームを着て、友達を誘い、花見に行くという娘とサム。
「さはさん」とサムは呼んでくれます。ちょっとうれしい。

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「どうせなら」効果?

失敗した。よく落ちる場所に落とし穴があることを、すっかり忘れて確認せずに鼻歌など歌いつつ歩いていたら、いきなり足を取られ尻餅をついた気分だ。
美容室の予約時間を3時間、間違えたのだ。
「よくあることだよ」
誰かの失敗なら、そうなぐさめるところだが、このところ、こういうことがないようにと注意していたにもかかわらずの失敗に、落ち込むばかりだ。幸いだったのは、3時間早く間違えたことと、仕事が一段落していてキャンセルせずに済んだことだ。だが、家に帰り出直すという選択肢はない。甲府にある美容室『ETT』まで往復2時間かかってしまう。帰る意味はない。

こういう時にむくむくと湧いてくるのは「どうせなら」という気持ちだ。
「どうせなら」この失敗を活かして、ぽっかり空いた3時間を有効に使おうではないか。「どうせなら」時間がたっぷりある時ならではのゆったりとした気分で「どうせなら」甲府に出た時にしかできない買い物をし「どうせなら」いつもならひとりでは食べないランチをしよう。

それで「どうせなら」効果のほどは? ばっちりだった。サムにプレゼントしようと思っていた箸をゆっくり選び、末娘に送る大さじ小さじ親子を買い、珈琲問屋で買ったことのない豆を焙煎してもらい、甲府駅まで足を延ばして『とんかつ力(りき)』のヒレカツ定食を食べた。
「どうせなら」失敗を乗り越え(?)楽しくやりたいではないか。銀行での用事を済ませ、きっかり3時間。カットとカラーをしてもらい美容室『ETT』を出る頃には、充実した1日だったよなぁと髪も心もすっきりしていた。

珈琲焙煎機。ミディアムローストだと200gを約2分で焙煎します。
珈琲豆が踊っているのが見えて楽しい!

甲府駅南口駅前の『とんかつ力』のとんかつは、本当に柔らかい!
左手に写っている大きな壺には、自家製ソースがたっぷり入っています。
ポテトサラダのマヨネーズにもこだわって、手作りに徹しているそうです。

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トラップにハマりつつ慣れていくこと

軽井沢の朝は、ゆっくりと時間が過ぎて行った。
娘の引っ越しで埃をかぶった身体を洗い流し、温泉で身体の芯まで温まった。朝食は、盛りだくさんの和食。前日の夜、空腹で雨の高速を走ったことが、遠い夢だったかのように、空は晴れ、お腹も満たされた。
朝食後、ホテルの売店に寄り、一通り品定めをした。土産を買う予定はなくとも、土産物屋を物色するのが好きなのだ。
「あ、ご当地キャラメル! 末娘のお土産に……」
と考え、あ、彼女は引っ越していったんだと気づいた。
家族が家を離れるって、こういうことだよなと、しみじみ考えた。いく度となくそんなトラップにハマりつつ、慣れていくものなのだ。

軽井沢を軽くドライブし『鬼押し出し』や『白糸の滝』そして浅間山を眺め、佐久でラーメンを食べ、一般道を1時間も走ると北杜市に入った。スーパーで夕飯の買い物をする時には、もう帰ってきた気分になっている。
スーパーを歩きつつ「あ、娘が好きな2秒の口溶けプリン! お土産に……」
トラップは、日常のあちらこちらに張り巡らさているようだ。

盛りだくさんなだけじゃなく、器にも盛り付けにも気遣いを感じる朝食。

浅間山はなだらかな山ですね。家から見る八ヶ岳とも南アルプスとも違い、
「お山」と「お」をつけて呼びたくなるような優しいラインです。

『白糸の滝』にはまだ雪が残っていました。水は心をしんとさせてくれます。

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クリエイティブな靴下のたたみ方

あるプレゼンテーションを聴く機会があり、クリエイティブという言葉に開眼した。「創造的」「独創的」などの意味を持つ言葉であり、「クリエイティブ・ディレクター」「クリエイティブ・プランナー」といった横文字の職業を表すのに使われていることもあり、仲良くなれそうにない言葉だという印象を持っていた。
しかし話し手は、どんな仕事にもクリエイティブな感覚が必要だし大切なのだと言った。魚を売る仕事にも、電気工事をする仕事にも、森の木を切る仕事にも、野菜を育てる農業にも。そしてわたしが生業としている経理の仕事にも、工夫や創造が生かされ、それによって会社全体が潤っていくというようなことが起こりうるのだと。そう言われれば考え工夫し、より良くしようと仕事をしている。新しいことを提案することもある。

何かを作り上げる仕事は、クリエイティブな感覚を必要とするところが大きいかもしれない。だが、作る人ばかりでは世の中は回らない。どんな仕事にも、工夫や創造があるのだ。確かに。

靴下をたたみつつ考える。主婦の仕事はクリエイティブに満ちていると。

一足を揃えて→半分に折り→くるり→きれいにまとまりました。
これで、引き出しの中で、一足が離れ離れになることもありません。

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春の雨に思う

東京は桜と一緒に傘の花が咲いた。
三寒四温。一段と冷え込んだ朝、ダウンを羽織って出かけた。もう季節外れかとも思ったが、風も冷たくセーターにダウンでちょうどよかった。
この冬は、ユニクロの超軽量ダウンパーカーにずいぶんと助けられた。びっきーの散歩。娘の受験の付添い。仕事で東京に出かける時にも、お気に入りのコートではなくダウンを羽織ることが多かった。何しろ軽い。着ていても、脱いで持っても、あずさでケット代わりにしても。

「肩の荷」という言葉があるが、やはり荷物は軽い方がいい。鞄に詰めたこまごまとしたものが一つ一つなら小さく軽いのに、ずしりと重みを持っていく。その重みが、肩ばかりか、心にもずしりと来る時がある。まだ持てる。そうして無理をしているうちに、ハンカチ程の軽さのものを持った途端、心のキャパを超えてしまい、突然一歩も動けなくなったりする。何もかも放り出し、わあわあ泣きたくなったりする。
この冬は、いつにも増して忙しかった。必要な荷物もたくさんあった。
何度となく歩けなくなりそうなわたしを支えてくれた人がいることと、超軽量ダウンに感謝する春だ。

冷たい雨に、桜も凍えているようでした。

身軽さのおかげで、和菓子屋に立ち寄る余裕もできました。
娘へのお土産の道明寺粉のさくらもち。


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滑稽に見えるほど、必死に生きてみろよ

「もう雪の心配はないね」「もうだいじょうぶだよ」
雪柳に産み落とされたカマキリの卵を見ながら、夫と話した。
この冬は、例年になくカマキリは高い位置に卵を産んでいる。一番高いものは地上1メートルの位置。そのラインで、その年の雪の深さがわかると言う。カマキリは子孫を残すため、雪が積もらない高さに卵を産むのだ。
今年は1度、80cmほど積もったが、1メートルには満たなかった。カマキリ達も元気に生まれてくるだろう。ホッとして、温かい気持ちになる。

如何にも神経質そうな三角の顔をした肉食のカマキリは、物語でも嫌われ者の役まわりが多いがわたしは好きだ。
そこに居るだけで踊っているような印象を受けるのは、鎌がフラメンコの裾が広がった袖のように見えるからだろうか。その姿は滑稽でもあり、必死に生きているようにも思える。
「俺みたいに、滑稽に見えるほど、必死に生きてみろよ」
出会うたびにカマキリは、わたしに言うのだ。
 
雪柳に6個見つけました。ちびカマキリが生まれてくるのは梅雨前頃かな。

去年の夏の写真です。鎌のフリルはあまり派手じゃないタイプですね。

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手を握らなくてはならない時と、その手を離さなくてはならない時

寒さ厳しき山梨でも、突然のぽかぽか陽気に桜は咲き始め、わらわらと何処からか湧き出したように子ども達が外に出て走り回っている。
「待って!」駅前ロータリーで、若いお母さんの声に目を留めた。
見れば、2歳くらいだろうか。そのお母さんの手を振り払って走り出したのだろう。小さな男の子が歩道を走っていく。たどたどしく危なっかしいようでいて、スピードはけっこう出ている。お母さんが追いつき手をつなごうとするが、その手をまた振り払う。
「僕は自分が思うままに走りたいんだよ」とは言葉にしないがそんな表情だ。
「わかるよ」わたしは、胸の中で言った。
「でも君はまだ、周りの危険に目を向けられるだけの経験がないんだよ」

やはり息子が2歳の頃。わたしの手を振りほどき走り出したことがあった。わたしは、娘がお腹にいて、夢中で走っても追いつくことができなかった。息子はそのまま、信号のない交差点をひとりで走り抜けた。
「誰か、止めて!」叫んでも、わたしの声に気づく人はいない。
しかし、その時車は通らなかった。だから幸運にも彼は今も元気に生きている。無理矢理にでも、強く手を握らなくてはならない時がある。若い母親は、ひとつずつ覚えていったのだと振り返る。

末娘の巣立ちの日を間近にし、クールなみずがめ座にあるまじき行為だが、センチメンタルになっているのだろうか。その強く握った手を離さなくてはならない時があると、今、自分に言い聞かせている。

昨日、韮崎駅前の桜は五分咲きでした。2日前にはまだ蕾だったのに。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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