はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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喪黒福造に思う

氷見は、藤子不二雄Ⓐの故郷だそうだ。
商店街は「藤子不二雄Ⓐまんがロード」となっていて、忍者ハットリくんや『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造の他、藤子不二雄Ⓐがまんがロードのために作った『氷見サカナ紳士録』キャラクター達のモニュメントが、あちらこちらに設置されている。

なかでも喪黒は、ドーン! という感じで存在感があった。サカナ紳士録達のように、商店街を歩いていて、そこにあるのを見たということではなく、少し外れた場所にあるモニュメントをわざわざ観に行っただけのことはある。
「ココロのスキマ、お埋めします」
喪黒のしゃがれた声が、聞こえてきそうだった。
久しぶりに喪黒の顔を見て、作られた笑いが貼りついた顔って怖いなぁと思った。作り笑いが普段の表情と化してしまった人。それは、本当のことを隔すために顔を作らなければならなくなっている人だろう。
例えば、戦争ができる国にしようと企みつつ、にっこり笑って憲法改正その他を着々と進めていく政治家とか。

「私の名は喪黒福造、人呼んで笑ゥせぇるすまん。ただのセールスマンじゃございません。私の取り扱う品物は心、人間の心でございます。この世は老いも若きも男も女も、心のさみしい人ばかり、そんな皆さんの心のスキマをお埋め致します。いいえ、お金は一銭もいただきません。お客様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。さて、今日のお客様は・・・」

喪黒福造氏。まんがロードの端に、一線を隔すように立っています。

忍者ハットリくんと弟シンゾウは、ポストの上に乗っていました。

サカナ紳士録のキャラ「タコ八」前を通るとしゃべります。

おなじく、とびうお「トビ―」も、しゃべります。

サカナ紳士録のなかでも中心的存在、ブリの「ブリンス」も。

もともとの商店街「潮風通り」にモニュメントが設置され、
「藤子不二雄Ⓐまんがロード」に変身したようです。

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福来る魚と生酒の縁

福来魚(フクラギ)という魚の名前を初めて知った。週末、富山県の氷見に魚を食べに行ったのだ。
車で5時間。夫と交替で運転しながら、のんびりと走る。家族旅行で子ども達を連れて行った場所である。車中でも「あのときも、ここ通ったね」「あそこで寄り道した」などという話になり、のんびり感が更に増したことを実感した。夫婦ふたりになり、旅行に出るのも道中のあれこれも、気を配らなければならないことが極端に少なくなったのだ。
氷見へ行って、新鮮な魚を食べる。予定もそれだけ。何とも気ままな旅だ。

一風呂浴びてから、さっそく魚が美味いという小料理屋へ飲みに行った。
「富山に来たんだから、白海老は食べたいね」と、わたし。
「刺し盛りに、白海老も入れてもらおうか」と、夫。
生ビールで乾杯し、獲れたての魚達を堪能した。
富山では、新鮮な魚を「きときと」と形容する。音の感じから「脂ののった」という意味かと思っていたのだが「新鮮な」が正しいらしい。まさにその、きときとな魚だった。慣れ親しんだ味の鯵刺し一つとっても、やわらかいだけではなく、麺類などの言葉で言うなら「コシが強い」と形容したい感じ。
きときと、なのだなぁと思いつつ味わった。

さて。夫が日本酒を呑み始める。「冷酒を」とオーダーすると、店主が「少し濁った生酒があるんですが」とすすめてくれた。氷見の酒『曙』という。その酒がやたらと美味かった。『曙』醸造元創業者の名『利右ヱ門』を銘柄にした生原酒の濁り酒だ。美味い美味いと(わたしは生ビールと交互に)飲んでいると、すぐに酔っ払ってしまった。
次に頼んだ「フクラギ」の刺身を食べる頃には、けっこう回っていて「福が来る魚なんですよ」と店主に言われたが、それが「フクラギ」を漢字でかいた「福来魚」だということもうろ覚え。翌朝夫は「フクラハギだっけ?」などと言う始末だった。
しかし、酔いが冷めればまた飲みたくなる。夫はちゃんと酒造元のパンフをもらっていて、昨日、訪ねることができた。生酒『利右ヱ門』の一升瓶を購入することができ、冬、搾りたてが出来る頃に連絡をもらえるよう頼んできた。
「これって、縁だよね」と、夫。
「氷見の街なかで、魚の美味しいといわれる数あるお店のなかであの店に行き、酒好きに見えたらしく生酒をすすめてもらい、気持ちよく酔っぱらって福来魚を食べ、酒造元を教えてもらってそこに行き、一升瓶を手に入れ、そこの店主とまた話が弾み、来冬の酒の準備までしちゃったんだから、これはもう」
「うん。やっぱり、縁を感じるよね」
いや。これは、もしかすると福なのかなぁとも、わたしは考えた。福来魚が持ってきた、福だったのかもと。だとしたら、大切に、美味しく呑まないと。

お刺身盛り合わせ。富山湾で獲れた白海老はとっろとろでした。

フクラギのお刺身。大きくなるたびに名が変わる出世魚、ブリの子どもの
頃を富山では「フクラギ」と呼ぶそうです。
一般的にいう「ハマチ」くらいの大きさの呼び名だそうです。

『曙』の酒造元です。12月には、搾りたての生原酒が出来るそうです。

海はこんな感じ。海のない県に住んでいるだけに、やっぱり気持ちがいいな。

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蓮池の紫陽花

蓮の花にはまだ早いと知りつつ、蓮池に寄ってみた。
そこには紫陽花もたくさん咲いているのだ。最寄りの無人駅『穴山』近くにある、大賀蓮を咲かせる池である。『穴山』は、高校に通っていた末娘を3年間送り迎えした馴染みの場所でもある。毎朝7時1分に「7・01」というナンバーの車とすれ違い「おはよう、7時1分」と車中でこっそり挨拶したことなどをなつかしく思い出しつつ、車を走らせた。

駅近くの感応式信号で停まり、変わらない信号に失敗したと気づく。信号待ちの道路の幅は2車線分ほどの広さを持っていて、だからと自分が曲がりたい右方向に車を寄せて停めてしまったのだ。しかし、わたしは知っている。感応機は中央よりわずかに左側についていて、中央に停めないと反応しないことを。
以前は、今のわたしのように右に寄せて停める車を見て、判ってないなあと舌打ちしたものであるが、しばらく通らぬうちに、すっかり忘れて同じ落とし穴に落ちているのだから笑ってしまう。ところが、そのとき信号が変わった。まるで、しばらくぶりだから勘弁してやるよ、とでも言っているみたいに。もちろんそれは、感応機の位置が変わったというだけのことなのだが。

「ここは、もう通り過ぎた場所だってことかな」
ほんの少しだけ感傷的になる。7時1分さんは、今頃どうしているだろうか。

蓮池の紫陽花は、見事に咲いていた。そんな心持ちで見たからか、自ら色を変えていく花達は、移りゆく人の世を眺めているかのようにも見えた。

白い紫陽花のコーナーです。雨に濡れて、光っていました。

ブルーや薄紫の紫陽花達。色を変えていく途中のようです。

大賀蓮は、まだこれから。蕾もちらほら見られる程度でした。

そのなかで一輪だけ、深呼吸をするかのように花開いていました。

大賀蓮の池の全体はこんな感じ。花を楽しめるのはもう少し先かな。

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『窓の魚』

衝撃が走った。西加奈子の小説『窓の魚』(新潮社文庫)。
その衝撃は、冒頭から始まる。以下本文から。

バスを降りた途端、細い風が、耳の付け根を怖がるように撫でていった。あまりにもささやかで、頼りない。始まったばかりの小さな川から吹いてくるからだろうか。川は山の緑を映してゆらゆらと細く、若い女の静脈のように見える。紅葉にはまだ早かったが、この褪せた緑の方が、私は絢爛な紅葉よりも、きっと好きだ。目に乱暴に飛び込んでくるのではなく、目をつむった後にじわりと思い出すような、深い緑である。

描写だとか比喩だとかそういうこと以前に、何だこの文章は、と唖然とした。
かっこよすぎる! としか表現できないことが嫌になる。
2組の恋人達、ナツとアキオ、ハルナとトウヤマが、山深い温泉宿で一夜を過ごし、翌朝、一体の死体が発見される。小説は、その一夜を、四人それぞれの視点から描いている。

冒頭は、ナツ。次は、トウヤマの章。

空は、油断していると、すぐに色を変える。ついさっきまで見えていた木の幹や、足元に落ちた何かの葉や、煙草の吸殻などが、いつの間にか目を凝らさなければ見えないようになり、ああしまった、そう思って上を向くと、もう遅い。薄墨を一滴垂らした、雫のようなそれが藍色に広がり、だらしなく、しかしすばやく、黒に変えてしまう。さっきまでの空の色を、黒になる前のそれを思い出そうとしても、駄目だ。それはもう、昨日の中にしかなく、俺は、これから始まる朝までの長い時間のことを思って、げんなりする。そしてだらしない夜の、その中から零れ落ちたようなあの女のことを考え、何度も舌打ちをするはめになる。

ハルナの章。

煙草の煙が、空気をどんどん汚してしまっていた。夜は、もうすっかりあたしたちを包んで、そこから出すまいとしていた。出るつもりなんて、あたしにはなかった。「トウヤマ君は?」そう聞くと、トウヤマ君はあたしを膝から突き飛ばした。何を気に入らないことがあったのだろうと、泣きそうになったけど、見上げたトウヤマ君の顔を見て、はっとした。何て綺麗な顔なのだろう。夜の影に半分体を取られている、煙草を吸わないと生きていけないこの男は、なんて綺麗な顔をしているのだろうと、思った。

アキオの章。

降りるバス停を告げていたので運転手が声をかけてくれた。あやうく乗り過ごすところだった。皆は相変わらず眠っていたし、僕はそのとき窓から見える昼間の白い月に、目を奪われていたのだ。手術着を思わせる清潔な水色の空に、誰かの目玉みたいな白い月が浮かんでいる。圧倒的であった木々の緑も、空までは届かないのか。そう思うと、心地よい絶望感のようなものが僕を包んだ。

そして、宿の女将の言葉。

私は、宿の窓に映っている、自分の顔を見ました。赤く引いた私の唇は、私の顔を走る傷のようにも、池で泳いでいる、鯉たちの、濡れた体のようにも見えました。ここから決して出ることもなく、何かを請うように、体を揺らす、魚たちの、哀しい体のように見えました。

四人ともが、いや。生きていれば誰でもが持つ閉塞感を、タイトル『窓の魚』はイメージしている。読み終えると、窓に映るモノだけではなく、目に見えるモノも見えないモノも、くっきりと見えてくるような小説だった。

東京からの帰り、特急かいじの車窓で。窓に魚は映りませんでした。

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アップルミントの匂い

アップルミントを家のあちこちに飾り、楽しんでいる。
庭の道路側、駐車スペースにしている場所のほとんどがアップルミントに浸食され、足の踏み場もなくなってしまった。今や雑草扱いなのだが、爽やかな匂いは大好きで、緑が伸びるうちは遠慮せずに切っては飾らせてもらっている。

アップルミントの効能は様々あるようだが、匂いだけでもう爽やかな気分になる。部屋の空気も清浄化されるような気がするほどだ。切り花として飾ると、おまけもついてくる。水を変えるときに流すその水に匂いがしっかり移っていて、流しの匂いも爽やかに更にキッチンも綺麗になったような気がするのだ。

気がする、ってけっこう大切だ。
流しが綺麗になった気がして、料理が楽しくなった気がして、料理の腕が上がったような気がして?
などなど。プラス思考の「気がする」は、そのまま脳内発酵させ、いつしか「確信」へと熟成させることにしている。

夫が収集している日本酒『佐久の花』の瓶、重宝しています。
北側の窓辺には、災害時用に25時間蝋燭も飾ってあります。

きみ達、そこ駐車スペースなんだけど、どういうつもり?
踏まれても踏まれても、元気いっぱい起き上がるんだよね。

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指を開いていくように

庭でパクチーの花が咲いている。
今年初めて植えてみたのだが、独特の匂いとは印象の違う白く小さな花だ。ハーブは、たいてい匂いの主張で満足しているかの如く、自己主張のない小さな花を咲かせる。しかしその花は、よく見ると本当に可愛く、気づいて目を留める人にだけ愛でる楽しみを分けてくれるのだ。

パクチーは5枚の花びらを持ち、まるで握った手のひらをゆっくりと開くみたいに咲いていく。1本1本の指を順番に開いていくようだ。
その様子が可憐で、食べずに咲かせてよかったなと思う。
間引きが苦手で上手くできず、ひょろひょろと育って行くうち、食べ損ねたのだ。花が終わるころには茎は硬くなるだろうが、味わおうと思っている。

パクチーの咲き方を見て、それから他の花達を見ると、咲いていく様子をスローモーションで見せてくれているのように思えた。花達が咲いていくゆったりとした時間は、早送りにでもしないとはっきりと目にすることはできない。でも庭にいるとそれを感じることができる。そして、あっという間に散っていくのだということも。

「ずいぶんと、庭に楽しませてもらっているよねぇ」
もみじの剪定を終えた夫に言うと、うなずいた。
「確かに。遊ばせてもらってるねぇ」
雑草だらけの、他人から見れば雑然とした庭であるが、この季節、毎日のように小さな楽しみが見つかる場所なのだ。

パクチーの花です。1本1本、ほんとうに指を開いていくかのよう。

ワイルドマジョラムは、東側の駐車場にたくさん咲いています。

イタリアンパセリの花。お隣の林にも種が飛び、花が咲きました。

紫陽花も、ゆっくりと開いて、咲いていきますね。

花びらに、赤ちゃんカマキリ発見。がんばって、大きくなあれ!

蛍の季節。ホタルブクロも、あちらこちらに揺れています。

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胡麻油か、ベジブロスか、玉葱か

爪が伸びて来たので切ろうと思い、驚いた。どこも欠けずに3ミリほど伸びている。最近では、なかったことである。
子どもを産んでからだから、もう20年以上になるが、爪がもろくなり欠けやすくなった。たんぱく質をしっかり摂るとか、カルシウムが大切などと聞き、爪のためにと考えて食事したりしていた時期もあったが、効果はなかった。
2ミリも伸びると欠け、伸びるから切るのではなく、欠けるから切るのが習慣になってしまった。その爪が、綺麗に伸びている。
「どうしたんだろう」
自分の身体の変化に嬉しく思いつつも、原因が判らない。

「そういえば、サプリメント飲むのサボってたなぁ」
それが原因ではあるまい。
「毎朝の目玉焼き、バターから胡麻油に変えたけど」
胡麻油が、変化をもたらしたのだろうか。
「べジブロスを使い始めてから、ひと月以上たった」
こちらも驚くべきことだが、三日坊主にならず続けている。
「ここんとこ、毎日、玉葱食べてるなぁ」
どっさりいただいたのである。その半端ではない量に、昔読んだルイス・サッカーの小説『穴 HOLES 』(講談社)を思い出していた。細かいストーリーは忘れたが、無人の荒野に取り残された少年が、玉葱だけを食べて生き残り、生還したことは覚えている。フィクションだというのに、それを読んでから「玉葱パワーはすごい」と思い込んでいる自分がいるのだ。

うーむ。胡麻油か、べジブロスか、玉葱か。
「まあ、どれのせいだか判らないけど、健康的な生活してるってことかな」
どれかはっきりしないのだから、どれも続けていくしかなさそうだ。
そんなことを考えつつ、爪を切った。伸ばしているのは、苦手なのである。

こんなにいただきました。葉つきのまま保存すると鮮度が落ちにくいとか。

つややかで、切ると白い汁があふれてきます。根っこが、長い!
無農薬だし、ベジブロスを作るのにも、ぴったり。

毎朝のご飯に、胡麻油で炒めて塩胡椒したものを食べています。

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じっと見ている

今年は、木苺が豊作である。
植えた訳でもない木苺だが、庭の北側に、30本以上も芽を出し枝を伸ばしている。隣りの林も然り。道を歩いていても見かけ、おお、ここにも、と思う。その実が今、陽当たりのいい場所では、熟し始めた。
「ヨーグルトに入れて、食べようかな」
熟したところから収穫していけば、しばらく楽しめそうだ。
木苺の木には棘があるので、その棘に気をつけながら、収穫する。一つ一つ、手で摘んでいくのだ。気をつけていても、棘が肌をかすったり、服にひっかかったりする。熟しているように見えても、まだ固く枝を離れようとしない実もある。集中して木苺の実を摘んでいった。

そんなふうにして木苺摘みをしているとき、ふと、気配を感じ、振り向いた。誰もいないはずの庭。それも、道路からは離れた家の影になる場所だ。
「わっ!」思わず声を上げた。
じっと、見ている者があったのだ。
猫だった。たぶん、野良だろう。
ずっと、そこにいたのだろうか。それとも、忍び寄って来たのだろうか。
何も判らぬまま放心していると、猫は、素早く駆けて行く。
「あ、待って」何故か、そんな気持ちになった。

誰もいない場所で、何かに集中しているとき、何者かが自分をじっと見つめている。それはとても、怖いことだと思った。
しかし。と、考える。
誰もいない場所など、ないのかも知れない。誰かが、何者かがいつも、何処からか見ているのかも知れないのだ。

木苺。艶やかな赤い粒々が、帽子のようにのっかっています。

木苺を採りに行って、石段で出会ったニホントカゲくん。
シッポが青いのは、まだ子どもなんだそうです。

駐車場にはカミキリムシくん。調べましたが種類が判りませんでした。

玄関には、コクワくんが「お初ですー」とやって来ました。
猫や人間などよりも、虫達の方が元気に動き回る季節到来ですね。

ガク紫陽花も咲き始めました。挿し木した時にはピンクだった花です。
紫陽花の色の変わりゆく姿は、味わい深いモノがあります。

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『明野朝市』天然酵母のパン

明野に住んでいながら『明野朝市』には、初めて行った。
町内でも標高の高い場所、南アルプスが見渡せる駐車場を利用し、月に1回、行われている市である。上の娘の同級生のお母さんが天然酵母を使った手作りパンの店を出していることを、知ったのだ。
「久しぶり」と声をかけると、こちらのことも覚えてくれていたようで、パンを選び、娘達の近況をひとしきりしゃべった。

しゃべりながら、娘が小学生の頃よくお家に遊びに行かせてもらったなぁと思い出した。明野は田舎なので、子ども達が友達の家に遊びに行くのにも歩くには遠すぎたりして、親が車で送り迎えすることが多く、例にもれず、わたしは彼女の家まで何度か車を走らせた。
丁寧に焼かれた天然酵母のパンを見ていて、ふとそんな、冬のある日のことを思い出した。何故か助手席には、娘ではなく同級生だった彼女の方が座っていて、彼女はわたしと、おしゃべりしていた。何をしゃべっていたのかは、もうすっかり忘れてしまったが、路地に入る場所で凍った道にタイヤを滑らせてしまい、対向車とぶつかりそうになったのは、はっきりと覚えている。
そのとき、彼女が言った言葉も。
「わたしが話しかけてたからですね、運転中なのに。ごめんなさい」
もちろんドライバーであるわたしの注意不足で、謝らなくてはならないのはこちらの方だったのでそう言ったのだが、小学生である彼女のその気遣いにいたく驚き、たぶんそれで覚えていたのだ。

あの子のお母さんなら、美味しいパンを焼くだろう。
わたしのなかにはそんな確信があり、これまで足を運ぶことのなかった『明野朝市』に行こうと思ったのかも知れない。
外をぶらぶら歩きながら、買い物するのはとても気持ちがよく、天然酵母のパンは、噛むほどに口いっぱいに旨味が広がっていった。

昨日は曇っていて、山は霞んでいました。
無農薬野菜の店が多く、その他、手作りの木製品、革製品なども。
来月は、豚の丸焼きをする大きめのイベントになるのだとか。

知人が焼いた天然酵母のパンと、無農薬の野菜を購入しました。
オレンジ色のパンはトマトの酵母で、小さいの2つは柚子の酵母で、
それぞれ発酵させて焼いたそうです。お昼に、いただきました。

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新しい街燈

「あ、対向車!」夫と、声を合わせてしまった。
夜、駅まで夫を迎えに行った帰り道、カーブミラーにライトが映ったのだ。
だが、ブレーキを踏んでも、一向にすれ違う様子はない。
「あれ?」「来ないじゃん」
肩透かしを食らい、狐にでもつままれたような気分になった。

我が家は標高600メートルほどの場所にあり、町内を横切る村道から、くねくねとした坂道をのぼる。その道は細く、車ですれ違える場所も限られていて「大曲がり」と呼んでいるヘアピンカーブもある。だからそこを走るときにはカーブミラーに注意を払い、常に対向車に気をつけなければならないのだ。

「街燈だ」夫が灯りを見上げた。
「とうとう、ついたんだ」対向車ではなく、街燈の灯りだった。
しかし、わたしの言った「とうとう」には、プラスとマイナス両方の気持ちが含まれていた。
村道からの道は、夜、歩いてのぼると真っ暗で、人家もなく、歩く人も、学校に通う子ども達くらいしかいない。悪意の人による事件などは起こったことはないが、ここを娘達が歩くのが心配で、暗くなるときには迎えに行っていた。子ども達は、熊鈴を鳴らしながら歩いているが、動物も怖い。ここは人が通る道だよと、動物達に教えることも大切かも知れない。

だけど、またこれでいくつかの星が見えなくなったんだろうな、と思わずにはいられなかった。空の都合によっては天の川が肉眼で見える土地なのである。
「街燈が放つ光は、何処まで行くんだろう」
節電はこれ以上は難しいというくらいしているつもりだけれど、我が家から放つ光も抑えてみようかなと思った出来事だった。

大曲がりのカーブの先にあるミラー。映る道も曲がっています。

お隣りには、お化けのような木が。というより指揮者みたい?

こちらが、新しく設置された街燈です。蔓達は、古きも新しきも
隔てることなく、そして容赦なく巻きついていきます。

下からのぼると、こっちのミラーに街燈の灯りが映ります。

大曲がりのすぐ下にある、平岡勘三郎良辰さんのお墓です。
明野町に緑豊かな棚田の風景が広がるのは、
彼が、朝穂堰(せぎ)を作ることに尽力を注いだおかげだそうです。

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『大統領の料理人』のファルシ

映画『大統領の料理人』をDVDで観た。
映像とサウンドのアクセントの一致が、とても素敵な映画だった。
フランスの片田舎で小さなレストランを営む女性シェフ、オスタンス。調理法はもちろん、素材に強くこだわりを持つ彼女は、大統領が求めた「おばあちゃんの味」を再現するため、スカウトされる。ミッテラン大統領と女性シェフの実話をもとにしたストーリーだ。
長く務めるシェフ達との確執なども描かれていたが、何より楽しめたのは、いいモノを創り上げようとするオスタンスと彼女のチームの姿勢だった。

そして、とても好きだったのは、オスタンスの助手、ニコラの台詞。
試作し続けたチーズ料理、ジョンシェを厨房で試食するシーンだ。
「ジュレが多すぎない?」と言うオスタンスに「これでいい、これだからいい」と説明する。そして、口に入れてうっとりと言う。
「これを食べると、子ども時代がよみがえる」
オスタンスの人としての魅力を理解し尊敬して成長していく彼の姿は、この映画の大切なスパイスになっていた。ジョンシェは他のシェフ達とのトラブルで、大統領の口には入らず幻の一皿となったが、試行錯誤し創り上げた昼食会の料理を食べた大統領は、ニコラと同じ言葉でオスタンスに礼を言う。
子どもの頃に何を食べたかを、身体が覚えているってことなんだろうな。それって、じつはとても大切なことなのかも。

映画のなかの料理は、もちろんものすごく美味しそうだった。だけど、日本の家庭じゃあ作れそうにないものばかり。ポルチーニやトリュフなど入手できない素材も多く、味すらも想像できない料理も多かった。そのなかで、唯一作れそうだと思ったのが「きゃべつとサーモンのファルシ」だ。
「今夜は、ワインかな」
夫がそう言って出勤していったので、ワインに合うことは間違いなさそうだしと、昨夜、挑戦してみた。まさかそれを食べ、子ども時代はよみがえらないだろうと思っていたのだけれど、子どもの頃、弟と鮭缶の背骨を取り合って喧嘩しつつ食べたことを、思い出したのだった。

「きゃべつとサーモンのファルシ」というより、
「きゃべつと鮭の重ね蒸し」になってしまいました。

全体像です。ふきんに包んで、ベジブロスで茹でました。

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『ジョゼと虎と魚たち』

引き続き、田辺聖子を読んでいる。
短編集『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)だ。
もう十年以上前にことになるが『ジョゼと虎と魚たち』が映画化された際、レンタルして観た印象が強烈で、そのとき、田辺聖子をいつか読もうと思ったのだ。それから、ひと昔というほどの時間は過ぎたが、実現することができた。『朝ごはんぬき?』が新装版で復刻し、本屋に平積みされていて偶然手に取ることとなったのだが、いつか読もうと思っていたからこその偶然である。
『ジョゼ』は、文庫本で25ページ程度の短編だ。映画とは、ストーリーもだいぶ違っていたが、下肢が麻痺して車椅子に乗っているジョゼと恒夫のラブストーリーだということは、変わらない。

祖母とふたり、生活保護を受け暮らしていたジョゼは、ジョゼの言うところの「悪意の気配」によって、座っていた車椅子を押され、下り坂を転げ落ちた。それを助けたのが大学生の恒夫だった。この小説の魅力は、何と言ってもジョゼのキャラクターである。以下本文から。

「アタイなあ、これから自分の名前、ジョゼにする」
といったことがあった。
「なんでクミがジョゼになるねん」
恒夫は何が何だか分からぬ顔付きでいる。
「理由なんかない。けど、アタイはジョゼいうたほうがぴったし、やねん。
クミいう名前、放下(ほか)すわ」
「そんな簡単に名前変えられるかいな。役所『ふん』言いよらへんテ」
「役所なんかどうでもええ。アタイが自分でそうすると思てるだけでええねん。あんた、アタイのこと、ジョゼ、呼ばな返事せえへんよ。これから」

ジョゼは、他人とつるまず、障害者の集まりにも参加しない。恒夫にはいつも高飛車な態度で、車椅子に乗せてもらうのが遅れたりすると、容赦なく文句を言う。自分を捨てた父親のことを優しい人だと思って疑わず、恒夫が悪く言おうものなら、ものすごい剣幕で怒る。ジョゼは、虎が怖い。嬉しすぎると不機嫌になる。そして、魚たちを見るのが好きだ。以下本文から。

(アタイたちは死んでる。「死んだモン」になってる)
死んだモン、というのは屍体(したい)のことである。魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。

水族館で泳ぐ魚たち。屍体となった自分。そして、幸福。
どれも穏やかで、思い浮かべれば、気持ちがしんと静まっていく。

『夕ごはんたべた?』も、一緒に購入しました。分厚い文庫です。
『ジョゼと虎と魚たち』には、短編9編が収められています。
映画では、池脇千鶴がジョゼを好演していました。

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『朝ごはんぬき?』

田辺聖子を、初めて読んだ。
『朝ごはんぬき?』(新潮文庫)1976年に出版された小説だ。
裏表紙の紹介文に「ハイ・ミス」という言葉が使われていることからも、最近かかれたものではないと判る。主人公はそのハイ・ミス。31歳で未婚の明田マリ子。ハイ・ミスという言葉も聞かなくなったが、31歳をハイ・ミスと呼ぶこと自体、今ではあり得ないんじゃないか、などと思いつつ読み始めたのだが、ページを捲る指は止まらなかった。ユーモア小説と言われるだけのことはあり、おもしろいのだ。

失恋して会社を辞めたマリ子は、女流作家秋本えりか(本名、土井ヨシ乃)の家で住み込みで働くことになった。お手伝い兼、秘書兼、イヌの散歩係だ。その家族の様子が、何ともおもしろい。
売れっ子作家のえりかは、締め切りぎりぎりにならないと原稿をかきはじめず、編集者からの電話には「いないと、言って!」と怒鳴る。えりかの夫は、そんな妻にも慣れていて、常にのんびりと傍観。放って熟睡し、マリ子に「鉄人・ねむり犀(さい)」とあだ名をつけられる。女子高生の娘、さゆりちゃんは、反抗はしないが大人とは関わりたくないと思っている様子。カップヌードル党。3人の家族は、一緒に食事をしない。マリ子は、そんな3人に何やら納得しない思いを抱きつつも、自分の仕事をきちんとこなすのだ。
以下、ねむり犀、土井氏が、帰りが遅くなったさゆりちゃんを叱るシーン。

「困った子やな。そう外食ばかりしてはあかん。子供はちゃんと、家でモノをたべる」土井氏は嘆息して「何を食べた」と好奇心にみちて聞いた。
この人、食べ物の話をするときは、とみに生き生きする。
「豚珍軒のごもく焼きそば …… 」
と、さゆりちゃんは悪事を働いたごとく、うなだれる。
「ごもく焼きそばか、あれは量が多いばかりでまずい。豚珍軒はラーメンのおつゆがうまいのです。塩味ラーメン食べればよかったのに、なんで、まずうて高うて量ばかり多いごもく焼きそばなんか、食べるのや!」
さゆりちゃんは泣きべそをかいて、もじもじする。
「もし焼きそばなら、向かいの天珍楼にすればよかったのに!」

ここまで的を外し説教できる父親って、じつにすごいと思ってしまった。
そして、蒸発(?)した土井氏を迎えた、えりか氏の台詞がまた、すごい。

「夫というものは、家に帰ればいつもいるもの、妻にさからわず、妻の邪魔をせず、要るときだけ、前へ出てくるもの、勝手にかげで自由行動することは許さん! 離婚の、蒸発の、とそういう自由も許さん …… 」

こんな家族、あり得ないと呆れつつも、読みながら、まるで幸せのお裾分けを貰ったみたいにふくふくとした気分になってくるのは何故なのだろうか。
共に食事をするのも大切だけど、それだけが家族じゃないんだよね。

わりと今風の表紙、と思ったら、新装版で4月に発売されたばかり。
「ハイ・ミスというものは、意地が悪いものだ。意地が悪くなくてハイ・ミス商売張っていけるか」というマリ子の恋愛話も、もちろん楽しめます。
帯には、西加奈子の言葉がありました。
「田辺さんの手にかかると、日常はこんなにも滋味深い」
同時発売の『夕ごはんたべた?』も、ぜひ読みたいなぁ。

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ソラマチ天麩羅シャトルバス

ソラマチタウンで、義母と天麩羅を食べた。
スカイツリーにはいまだ登ったことはないが、それはまた次回ということにして、その下でのランチ。義母が所用で上京するのに合わせ、わたしも上京し、お昼でも一緒に食べようということになったのだ。
天麩羅が食べたいとは、義母の希望だ。家では揚げ物はしないから、揚げたての天麩羅を食べられるのは、外での食事に限られるのだそうだ。
初めて行くソラマチだったが、レストラン街に入っていた『つな八』は、客の食べ進む頃合いをきちんと見て、揚げたての天麩羅を出してくれる店だった。
「美味しいわねぇ」
繰り返し言い、舌鼓を打つ義母に、わたしも嬉しくなる。
天ざる以外には外で食べることのなかった天麩羅だが、胃にもたれることもなく、ビール党の義母とわたしには、昼間から飲むよく冷えた生ビールがまた、何とも言えず美味しかった。

さて、その帰り道。新幹線に乗る義母を送り、東京駅に向かった。
杖をついて歩く義母のためにタクシーに乗ろうかとも思ったが、ソラマチタウンから東京駅行きのシャトルバスが出ていて、そっちの方が楽しそうだということになる。タクシーで行くのと道もそう変わらないはずだが、観光バス仕様の座席位置の高いバスに乗ると、地上から高い分、視界が変わり、その分だけしっかりと気持ちがよかった。
「たったこれだけの高さの違いで、心持ちも変わるモノなんだな」
義母もとても楽しそうで、それがまた嬉しい。そして、これだけの高さでこんなに違って感じるものならと、シャトルバスから見上げた。
「天麩羅もいいけど、やっぱり今度はスカイツリー、登ってみようかな」と。

スカイツリーを真下から見上げて、歩きました。

天麩羅6種は、まず、トリュフ味のじゃが芋、鮎、いんげん。

そして、茗荷、刻み生姜と醤油で味つけした大浅蜊、鱧(はも)
生ビールで乾杯して(2杯も)とても贅沢なランチでした。

なんと天麩羅もおかわりしました。大浅蜊、ポワロー葱、車海老。
塩は、天然塩、山葵塩、ゆかり塩、昆布塩の4種類ありました。

鯛の茶漬け(胡麻味噌風味)も、仕上げにいただきました。

バス(スカイツリーシャトル)から撮ったスカイツリーです。

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「断捨離」考

半月ほど前、割れてしまった奥歯を抜いて感じたことは、歯が1本なくなると、歯と歯の間も一つなくなるということだ。

抜歯あとは順調に回復し、噛むうえで大切になってくるのは奥から2本目の歯であり、いちばん奥の歯であれば、インプラントなどの必要はないとの説明も実感できるようになってきた。そして、歯だけではなく歯と歯の間も一つなくなり、メンテナンスがずいぶんと楽になったように感じる。
本当は必要なモノだったのだとはもちろん判っているが、失くしてすっきりする場合もあるのだと、漠然とある言葉を思い浮かべた。「断捨離」である。

夫とふたり「断捨離」を合言葉に、家の整理を少しずつ続けてはいるが、中休み中である。だが歯を1本失くし、モノを減らすということはモノとモノとの間も減らしていくことになるのだと腑に落ち、一つ減らすと一つ分だけではない何かが減っていくのだと気づくことができた。これまで見えなかった効果が、不意に見えるようになった気分だ。これで、ペースが落ちていた「断捨離」も、また元気よく再開できそうな気がしてきた。

無論であるが、今ある歯は1本も減らさぬよう大切にしていきたい。歯も、歯と歯の間にも、もう「断捨離」は、無用である。

夫が収集している、日本酒『佐久の花』のミニボトルです。
爽やかなブルーの瓶は綺麗で、わたしも気に入っています。
「断捨離」とは真逆の収集欲がまた、ヒトの心根にはあるんですよね。

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ひと手間省いて、楽しく美味しく

今年も、庭の山椒の実を収穫した。
去年より実の数は少なめだが、ふたりで食べるならじゅうぶんと、小女子と一緒に佃煮にし、楽しんでいる。

さて、レシピである。去年もネットで検索したレシピで煮たので、保存してあるかと思ったのだが見つからず、ふたたびレシピを検索した。
下ごしらえの仕方も、見てみる。そこで、去年とは違うやり方を見つけた。大まかな部分は同じだが(というのも沸騰した湯に入れて5分ほど茹で、水にさらすという簡単な下ごしらえだからだ)いちばん手間がかかる部分をスキップしたレシピで、それを見たときには目から鱗だった。
実についた軸を取り除かず、そのまま食べるというものだったのだ。
「木の芽は若い茎ごと食べられるんだもの。茹でれば、全く問題ないよね」

べジブロスを使うようになってから、野菜の皮や根の栄養に着目していたが、手間を省いていいところでは省くことで、さらに採れる栄養もあるのだと気づいた。人参の皮を剥かずに煮たり、玉葱の根元をとらずに炒めたり。
山椒の軸も、同じこと。「ひと手間かけて、美味しく」とはよく聞く言葉だが、心を砕いて料理する = 手間をかける、とばかりは言えない。
「ひと手間省いて、美味しく」食べられたら、それはそれでちょっと嬉しく、料理がますます楽しくなる気がした。

硬くならないうちに、採ります。今がまさに収穫時期。

これが軸つきの実です。くっついている双子くんもいます。

軸は全く気になりませんでした。というか、市販の山椒の実の水煮より
刺激がずーっと強くって、美味しい! これぞしびれる旨さです。

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カナダと日本のディスタンス

久しぶりに、カナダにいる上の娘とスカイプする約束をした。
3か月ぶりくらいだろうか。しかし、何ということであろう。夫もわたしも、2日前にしたその約束を、すっかり忘れていた。言い訳をすれば、会社の決算直後で仕事が立て込んでいたのだ。
「ごめん、忘れてた!」
10分後、あわててコールすると、娘はすぐにパソコンに顔を映し、呆れたように言った。「だと思ったよ」
「元気?」「うん。元気」「元気?」「うん。元気」
そこへようやく夫が到着。「ごめん、夫婦ふたりして忘れてた」
「うん。だと思った」娘は、クールにただ肩をすくめる。

カナダで暮らす娘の友人達に言わせると「アンビリーバボー」なのだそうだ。スカイプの約束を忘れていたことが、ではない。何か月もスカイプせずにいる親子が、である。遠くに住んでいて会うことはできなくても、パソコン上のテレビ電話がどんなに味気なくても、それでも毎週、会話をするのが家族、という感覚なのだという。
カナダと日本の違い、という話ではないのだろう。海外と日本、というのでもない。同じ日本の家族でも、その距離の取り方はそれぞれだ。では我が家は、その距離が遠い方なのだろうか。いや、それもちょっと違うかな、と考えた。カナダは遠いが、娘との距離が遠いと感じたことはない。それって「距離」の取り方というより「間」の取り方なんじゃないかな。お互いがちょうどいいと思える「間」の取り方ができれば、いい関係でいられるってことなのかもと。
まあ、今のところ彼女がカナダでの生活を楽しんでいて、少なくとも毎週スカイプをしたがっている訳じゃない、ということだけは判っている。多分互いの距離の取り方が上手く作用しているのだと、互いに思っているということも。

「でさ、何か忘れてない?」1時間ほど喋ったあと、娘に言った。
「えっ? んー? あ、誕生日おめでとう!」折りしも夫の誕生日だったのだ。
うーん。距離の取り方、間の取り方云々ではなく、これはもう単純に、ぼんやり親子というだけのことなのかも知れない。

娘が旅にでてから、あとひと月で1年経ちます。
彼女が出かけたときには、すっかり夏だったよなぁと思い出しました。
庭では今、様々な花が咲いています。深紅の薔薇も綺麗に咲きました。
そうやって庭を見回すと、夏の準備をしているかのように見えてきます。

ヤマボウシの白い花は、2階のベランダからよく見えます。

シモツケ。10年ほど前、末娘が小学校でもらった苗を植えました。

ラベンダーは、道路沿いの軽トラの横で咲いています。
カナダでワーキングホリデー中の娘のブログは、こちらです。
最近『世界新聞』というサイトにも旅するライターとして記事アップ中。

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モノクロ画像の蝶

一瞬、そこだけがモノクロに色抜きしたかのように見えた。
庭のもみじに、蝶がとまっていたのだ。大きく立派な、白と黒のまだら模様をした蝶である。これまでにも、何処かで見たような気がしたが、よく見かけるやはり白黒のミスジチョウより格段に大きいし、黒地に三本の白い筋が通った名のミスジには、模様も違っていた。

調べると、ゴマダラチョウという名のタテハチョウだった。
見たことがあるような気がしたのも、色抜きしたかのように見えたのも、毎年飛んでくる国蝶オオムラサキに、形や醸し出す雰囲気がよく似ていたのだ。
幼虫も見分けるのが難しいほどそっくりで、花の蜜ではなくクヌギやエノキの樹液を吸って生きているのも同じだとか。オオムラサキのモノクロ版、などといったらゴマダラチョウに叱られそうだが。

映画などで、過去や回想シーンをモノクロ画像を取り入れたりするのを見たことがある。いちばん目立たせたいものだけに色を残して色抜きした画像なども、最近はよく見かける。パソコン上で素人でも簡単に色抜きなどができるようになったからだろう。
ふと想像した。逆に、ゴマダラチョウがカラフルな世界を飛び回ったら?
ここは田舎でカラフルと言っても緑ばかり多いが、赤や黄やブルーがあふれた世界を、モノクロの蝶が飛び回ったら? 考えるだけで、楽しくなった。

わたしの想像など知りもせず、ゴマダラチョウは、半日ゆっくりともみじの葉の上で羽を休めていた。夕刻から強い雨が降り始めた昨日、その後何処で過ごしているのだろうかと気になったが、目をつぶると丸みを帯びた形をしたゴマダラチョウのモノクロ画像が、くっきりと浮かぶのだった。

もみじの葉の上で、ゆっくり休んでいたゴマダラチョウ。

もみじの先は不器用にのびて、開くのをためらっている手のひらのよう。

まだ青いですが、すでにプロペラ(種)ができていました。
赤くなり重さを減らしたら、プロペラは風にのって飛んでいきます。
去年のオオムラサキの様子をかいたページは → こちら

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蛙、カエル、何故に登る

一昨日の夕刻、ブラインドを閉めようと、ふと窓を見ると蛙の影が見えた。
「わ、けろじ、やっと来た!」
ウッドデッキにアマガエル達が登ってくるのを、心待ちにしていたのだ。

去年も、今頃。梅雨入りの声が聞こえるか聞こえないかという頃に、人差し指の先くらいの子蛙が毎日のように登って来て「けろ」と名づけて可愛がっていた。可愛がると言っても、挨拶したり、写真を撮ったり、あまりに暑い日にはウッドデッキを水で濡らしたり、踏まないようにする(これが一番大切!)くらいのことで、向こうからすれば、何とも思っていなかったかも知れない。だが、カメラを向けても嫌な顔一つせず、何枚もの写真に納まっているのだから、嫌だとは思っていなかったはずだ。
その「けろ」が何処かへ行ってしまってからは、他のアマガエル達に名前をつける気持ちにはなれず、みなまとめて「けろじ」と呼んでいた。「けろじゃない」と「けろ二」をかけてつけた名だ。ウッドデッキに登ってくる子は、みな「けろじ」なのである。

今年も、ウッドデッキにけろじがやって来て、梅雨が来る。そう思えば、梅雨を迎えるのだって、憂鬱になるどころか、逆にうきうきする。

しかし、アマガエルくん達。何故に1mもの高さのウッドデッキに登ってくるのだろう。そのうえ、網戸まで登って行くのだ。ウッドデッキ以外にも、木の葉の上で見かけることも多い。
餌となる羽虫を捕らえるため。身体を雨に濡らすため。天敵から身を守るため。どれも当たらずとも遠からず的な感じで、どんぴしゃだとは思えない。
「そこに、山(ウッドデッキ)があるから、かな」
ぴょんと跳ねて登った気持ちよさが、けろじ達の表情には見てとれるのだ。

まる1日雨が降った日、網戸をのぼっていました。うーん、可愛い。

翌朝、ウッドデッキを見て、あ、いる! と思いましたが、残念。
もみじの葉でした。ちょっとくすんだ緑も、四足で身体を支えているような
姿も、まるで、アマガエルの真似をしているかのようでした。

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変わりねばねば丼

ひとりランチに「変わりねばねば丼」を、食べた。
玄米を混ぜ炊いたご飯に、山芋をおろしたとろろと小口切りにしたオクラ、それから細かく刻んだ蕨(わらび)。鰹節とだし醤油をかければ出来上がり。
蕨をたくさんいただいて、いつもは納豆にするところを、蕨にしてみたのだ。
お味のほどは、うーん。いつものとろろ飯より、コクがある。苦味とまではいかない、穏やかな山菜のコク。納豆もいいけど、蕨もまたよし。ネットで検索したところ、味噌や山椒と叩いて酒のつまみにもできるらしい。灰汁抜きは済ませたから、しばらく楽しめそうだ。

ねばねばしたものが、好きである。山芋、オクラ、納豆はもちろん、もずくやめかぶも好きだ。ぬるぬるしたなめこも好きで、よく味噌汁に入れる。ねばねば丼は、ときどき無性に食べたくなる。「夏バテ防止に」とレシピにかかれていることが多く、疲れたときに食べたくなる食材なのかと調べれば、ねばねば食材は、胃の粘膜を保護してくれるらしい。食べたくなったらもりもり食べて、しっかり保護してもらおう。
胃が疲れているときには、胃に優しい食材を食べたくなる。情報がない時代には、そんな欲求が、ヒトの身体を守ってきたのだろうか。
「日本人は頭で食事する」と聞いたことがある。身体にいいものをと考えることはいいことだと思うが、本当は考え過ぎず、身体の欲求に耳を傾けて美味しく食べるのがいちばんいいのかも知れない。

しかし、蕨を欲求のままに食べるのは、禁物である。
灰汁を抜いたと言っても、そこは山菜。ふきのとうを食べすぎて目を腫らしたという前科のあるわたしは特に、注意が必要だ。

いーっぱいいただきました。量ったら、800gありました。

ネットレシピを参考に、小麦粉と塩で灰汁抜きして。

煮物、お浸し、天麩羅もできるかな。半分は、冷凍に。

変わりねばねば丼。小豆島のだし醤油をかけて、いただきました。

厚揚げと一緒に煮ました。煮ても、ねばねばがいい感じです。

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ハマナスの強さたるや

ハーブティーによく使われるローズヒップとは、ローズと言うだけに薔薇の実のことだとばかり思っていたが、ハマナスの実もローズヒップと呼ぶらしい。

庭のハマナスは、半月ほど前から咲き始め、毎日目を楽しませてくれている。茎の棘が多く、と言うより、棘で形成された茎は触ることもできないほどで、草取りの際に触れてしまい痛い思いをしたことも数えきれない。なので、剪定も思い切りよく、花芽も何も気にすることなく切っている。それでも、強さにおいてはどの植物にも負けないとでも言うかのように、素知らぬ顔で伸びては咲き、毎年、濃いピンクの花を美しく咲かせている。
いつも、ローズヒップがたわわに実っても放置していたが、今年は収穫してハーブティーを楽しもうと計画中。ビタミンCがレモンの20倍あるとかで、それも、加熱することで壊れやすいビタミンCが壊れにくいタイプだとか。
「ハマナスの強さたるや、ビタミンCにまで」

散った花のあとに、すでに青い実をつけ始めた。茗荷畑と隣接しているため、この夏もまた痛い思いをしそうだが、いつになく大切にしようという気持ちが芽生えている。いや。ハマナスに限り、そんな気遣いは無用かも知れない。せいぜい棘に刺されないよう、気をつけた方がいいのかも。

最近は、ハーブティーを置いている喫茶店が増えましたね。
ローズヒップティーを頼むと「ハイビスカスとブレンドした方が、
美味しく飲めますよ」とアドバイスしてくれました。

ハマナスの花は、毎日綺麗に咲き、すぐに散っていきます。

ハマナスの茎はトゲトゲが痛いのに、登ったんだね、アマガエルくん。
きみは、ずいぶん艶やかな背中してるけど、今年生まれたのかな?
それとも、「ビタミンの爆弾」とも呼ばれるローズヒップの効用?

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一瞬一瞬を積み重ねて

週末、5月の終わりの日。居酒屋で、社長である夫と打上げをした。
会社の21期、21年目がぶじ終わり、22期の始まりである。末娘がお腹にいるときに起ち上げた会社は、彼女と同い歳。娘は秋に21歳になる。

看護婦だった母が定年で仕事を辞めたのを機に、わたしが経理の仕事に着いたのが、末娘が1歳のときだった。当時は、今のようにパソコンを使ったところで自宅でできる仕事も限られていて、出勤する日も必要だったのだ。

その頃の記憶も、もう曖昧になってしまったが、はっきりと覚えていることがある。あれは娘が2歳になるかならないかの頃だったと思う。母が来る = わたしが仕事に行く、というのが判っていたのだろう。聞き分けよく、おばあちゃんが来たことを喜び、すぐに母と遊び始めるのが常だった。そしてわたしが「行ってくるね」と声をかけると、ぐずりもせずに手を振った。だが、その手を振る姿は、いつも後ろ姿。わたしを見ようとしないのだ。
「我慢してるんだな」
あの頃は、そんな娘の後ろ姿に見送られ、出勤したものだった。

そんな一瞬一瞬を積み重ねて、21年。呑めば酒も深くなるはずである。

姫筍と蕗の土佐煮です。わかめもたっぷり入っていました。

熱燗は、夫がオーダーした「大七」福島のお酒です。

稚鮎の唐揚げには、香ばしく揚げたコシアブラも。

本鮪のすじ焼き。脂がのっていて、ほろりとやわらかでした。

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のびゆく雲に

食料品の買いだしをした帰り道、運転席から見える雲に目を魅かれた。雲は、広げた扇の骨のように、放射状に広がっていた。
「おーっ!」思わず声を上げる。なにやら神々しい感じがしたのだ。
帰宅してすぐに、空の事典とも言える『空の名前』(光琳社出版)を開いた。放射状雲。形そのままの名前だ。だが、その放射状に広がっている雲は、じつは平行なのだとかかれていた。
「まっすぐに伸びる鉄道のレールの先の方が、一点に集まっているように見えるのと同じ理由です」
近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見えるということか。
雲など、みな手の届かぬ遠い遠い場所にあるものだとしか考えていなかったので、逆に新鮮だった。

目に見えるものと、実物や真実は、いつも同じという訳ではない。ただ、自分の瞳が映しているモノ、というだけで、それが本当だとは限らないのだ。

けど、と考えてみる。それを見て感じたことは、本当なんじゃないかな、と。例えば、あの雲を見て、神々しいと思ったり、綺麗だと思ったりした気持ち。ただの平行に並ぶ雲なのだけれど、後光が射している訳でもなんでもないのだけれど、見て、感じたその気持ちは、きっと本当なのだ、と。

南アルプスの北側に、気持ちよさそうに広がっていました。

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シュミラクラ現象に負けるな

休日の朝7時。夫に誘われて、散歩に出た。
すでに汗ばむような陽射しだったが、未明には気温が下がったのだろう。山々がくっきりと綺麗に観えていたのだ。
一昨日、久しぶりに丸1日寝込んでいたので逡巡したが、気分転換にいいかも知れないと、ついていくことにした。行きはほとんど下り坂で影になる場所が多いが帰りは登り坂で日向ばかり。「行きはよいよい帰りは怖いコース」だ。山がいちばん綺麗に観えるコースが、それなんだからしょうがない。

「僕にかまわず、先に行ってくれ」
登り坂になった途端、わたしが言うと、夫がなつかしそうに笑った。
「びっきーじゃ、ないんだからさ」
1年半前に死んだびっきー。最後の1年くらいは体力も落ち、散歩で登り坂になると突然あからさまにスローペースになったり、草の匂いを嗅いで誤魔化そうとしたりしていたっけ。

コース終盤は、堰沿いの平坦な木陰の道を歩く。ホッとするはずの場所なのだが、ここにも難関が待ち受けている。我が家の北側の道で、堰向こうを見上げると北側の外板に、何年か前キイロスズメバチが作った巣がよく見える。
「またずいぶんと穴が、大きくなったなぁ。鳥が、住んでるのかも」
夫が言ったのと同時に、巣から鳥が飛んで行った。
「住んでるね。はっきり」ふたり、苦笑する。
キイロスズメバチは、翌年には移動し、同じ巣は使わないので、あとは朽ちるか、野鳥達が再利用するかのどちらかだ。まあ、何の害も与えない野鳥が住む分には、かまわない。かまわないのだが、その穴の空け方だけ何とかしてほしいと、常日頃から思いながらも直視するのを避けている場所がそこなのだ。

その巣に空けられた穴は、丸いものが2つ、切り込むような線になっているものが1つ。それが何故か、いびつなヒトの顔に見える。
我が家の外板に顔があるなんて、嬉しいことじゃない。見るたびに、あれは顔じゃないと自分に言い聞かせるが、どうしても顔に見えてしまう。負けないぞ、と戦いの意思を示した時点で、すでに巣を誰かの顔だと認識しつつ戦いを挑んでいることに気づき、がっくりと膝をつく始末。昨日もやはり、穴あきキイロスズメバチの巣に勝つことはできず、「僕にかまわず、先に行ってくれ」と、先を行く夫に、力なく声をかけたのだった。

どうしても、口を大きく開けたヒトの顔に見えてしまいます。
3つの点が顔に見える「シュミラクラ現象」は、動物にプログラムされた
外敵を認識するためのものだそうです。でも、点が1つ足りないのに。

八ヶ岳の雪もほとんど解けました。もうあとは、根雪かな。

南アルプスの甲斐駒ケ岳は白い石が多く、夏でも白く見えるのだとか。

畔にはアザミがのびのびと咲き、気持ちのいい散歩でした。

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「疲れ」のベールをはがせば

何年かぶりに、突然の吐き気に襲われ、倒れ込むようにして眠った。
夜、オンデマンドでドラマを観ている途中、夫が帰宅し「おかえり」と立ち上がった途端のことだった。彼が風呂に入っている間に、料理の仕上げをしようと試みたが、途中で断念。あとは任せて、ベッドに入った。
「どうしたの?」当然、夫は心配顔だ。
自分でも、原因を探ってはみたが、食中毒になるようなものも食べていない。観ていたドラマの映像も地味目だったし映像ショックなどの心配もなさそうだ。昼間庭で、虫に刺されてかなり痛かったという記憶が甦るが、蜂などの毒だとしたら時間が経ち過ぎている。空腹にビールを飲んではいたが、それはいつものことである。

「疲れ、かな」と、夫とふたりなんとなく納得し、食べることも薬を飲むこともできそうになかったので、ただ眠ることにした。
うつらうつらしつつ「疲れ」とは、便利な言葉だと考えた。
「原因不明で」と言うと、何か悪い病気なのではないかという憶測が不穏な空気を呼ぶ。だが「疲れが出た」と言えば、休めば治るであろうものであり、原因も幅広く考えられ、また暗に本人の落ち度ではない、きみは悪くないんだよといういたわりの気持ちも伝えられる、全くよくできた言葉なのだ。
じつは「疲れ」のベールをはがせば、なかには「原因不明」という骨格が、ドクロの如く歯をカチカチ言わせて笑ってるんだけどね。

ところで「疲れが出た」っていうの、「幽霊が出た」っていうのと、ちょっと似てるかもって思うのは、わたしだけかなぁ。

昨日午前中に、おむすび(めんどくさくて、具は入れず)を食べ、
胃薬を飲んで眠り「疲れ」だいぶとれました。
炊飯器にお米セットしてからぐあい悪くなって、よかった。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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