はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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朝の駅で

先週金曜、東京本社に出勤した。
いつもは夫を駅前のバスターミナルまで送るだけなので、平日の朝のホームは、ちょっと新鮮に感じた。駅にも朝の顔、昼の顔、夜の顔がある。
朝は、ちょっと慌ただしいなかに、これから1日が始まる希望が感じられる。
昼は、通勤通学ラッシュを終えたあとの気だるい感じが、改札口にさえだだよっている。夜は、おかえり、お疲れさまとねぎらい、1日に別れを告げ、眠りに入る準備をしているようだ。
ただこれは、長いこと子ども達や夫を送り迎えしてきたわたしが感じる駅だ。
ホームに立つひとひとりひとりに、それぞれの駅があり、そしてそれは、そのときどきの心の向いている方向でさえ変わっていくのだと思う。

そんなことをつらつらと考えていたら、電車のドアがぷしゅっという音を立てて開いた瞬間、『スライディングドア』という映画を思い出した。
タッチの差で、電車に乗れた場合と、乗れなかった場合のその後の運命を並行して描いた、グィネス・パルトロー主演のラブストーリーだった。
駅にはきっと、そんなドラマが、人の数だけあるのだろう。
階段を右足から上るか左足を先に出すか、文庫本のページをめくるかめくらないか、お茶を買うかスパークリングウォーターにするか。そんな些細な出来事とも言えないようなことで、この先の運命は変わったりするのだろうか。ふっと、考えてもしょうがないことを考えこんでしまう瞬間がごくたまにある。
だが、1時間に1本しか電車が来ないような田舎では、たった5分の違いで変わる運命など知れているような気もする。田舎には都会にないものも多いが、多少の運命などには左右されない大らかさが、あるのかも知れない。

午前9時少し前の韮崎駅ホームです。涼しい風が吹いていました。
9時1分のあずさに乗りました。東京駅までまっすぐ向かってくれます。

朝のなかでも昼に近い時間。出勤する人も遊びに行く人もいるのかな。

ホームから見下ろした大きな鳥居。学問の神様が祭られているとか。

この『小坊主』っていう呑み屋さん、なんだか気になるなあ。
もしかして、何年か前に行ったことがあったかも。

ホームから見上げた観音様は、南の空を眺めていらっしゃいました。

涼やかなお味の加賀の棒ほうじ茶を買って、さあ、出発。

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夏に冷えを防ぐには

夏にも、身体は冷えている。
そう実感するのは、歳だけのせいではあるまい。
ガンガンに冷房が効いた場所も多く、我が家にはエアコンはないが、標高600メートル。朝夕の冷え込みは寒いほどだ。
ヨガ教室で、促されるままに身体じゅうのあちらこちらを触ってみると、汗をかくほど暑い日だったにもかかわらず、思ったよりもずっと冷たくて驚いた。

そこで先生が教えてくれた冷え対策を、毎日実行している。
なに、実行というほどのことではない。とても簡単なことなのだ。
冷えたところを、さする。ザッツオール。
お腹、背中、腰、腕、膝、ふくらはぎ、そして頭も。
触ると、多少の差はあるが、身体じゅうが冷えていることが判る。
要するに何処でもいいから気持ちのいいように、手に負荷がかかるほどの力も入れず、たださする。それだけ。ほんの少しさするだけでも新陳代謝がよくなるそうだ。さすらずとも触るだけでその部位に意識が向き、血流がよくなるという。それで肩こりや足の張りがほんのすこーし楽になる。たったそれだけのことなんだけど。

その簡単さ、その手軽さ、場所も時間も選ばないところ、気が向いたらできる自由さが、いい。ずぼらなわたしでもできる。
テレビを観ながら、ベッドに入って眠るまでの間、夫を迎えに行き車で待ちながら、身体のあちこちをさすっている。さすっていると思い出す。もう記憶にないくらい小さな頃に、母に背中をさすってもらったことを。そんな記憶も相まって、新陳代謝もよくなるのかも知れない。

夏、雨上がりの朝の庭です。テッポウユリが次々咲いていきます。

ウッドデッキに顔を出したキノコさん。そこ、困るんですけど。

あっ、ポストの屋根には!
(ポストのペンキ塗り直さなくっちゃ)

生まれたての苔達が・・・。

切り株のオブジェには、苔さんもキノコさんもいらっしゃいました。

ガウラが、濃いピンクの花を風に揺らしています。

エゾ蝉。力尽きて地面に落ちたのかと思いきや、飛んでいきました。

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反対の反対は、反対じゃない?

「うわっ、逆だった!」ということが、よくある。
昨日かいた、生姜の皮vs大根の皮、然り。思い違いが多いのかも知れないが、位置関係を認識するのが苦手なのだ。

左右を、よく間違える。
運転していて「そこ、右に曲がって」と言われ、左に曲がってしまうことは日常茶飯事だ。方向音痴である所以、ここにあり、である。
子どもの頃は、左手の甲の真ん中にホクロがあった。左右はいつもそれを見て判断していたのだが、そのホクロも大人になる頃には跡形もなく消えていた。子どもの頃に増して、右も左も判らない状態になった。

さらに前後も、よく間違える。
毎日の生活のなか、2日に1回やるのが、Tシャツを着る時に、背中側についたタグを確認しつつ頭を通すにもかかわらず、逆になってるというもの。さすがにそのまま着ることはないが、自分でも原因が判らない。
「きみは、小さな子どもなのか?」
自らツッコむほか、どうしようもない。
冷えとり靴下も、五本指タイプの左右が目視で認識できず、指が入らなくて履き直すのも毎日のことだ。

縦横も、間違える。
特にリボン結びが縦結びになることが多く、結ぶ手をとめ考え込んでしまう。

若い頃は、脳の造りが他人と違うのだろうかとまじめに悩んだこともあった。だが、悩んだところでどうなる訳でもなし、すとんと受け入れてしまった。
よかったこともある。誰にでもできるようなことをできない人もいるのだと、知っていたことだ。子ども達と過ごす時間、どうしてこんなに簡単なことができないの? と思ったとき、自分だって簡単なこと(他の人にとっては)ができてないじゃんと考えられた。そして、間違えたらやり直せばいいのだと、じっくり向き合うことができた。
幼い息子や娘達が、Tシャツの前後ろを間違えずに着られるようになったときには、本当にすごいと感動したっけ。誰もわたしの反対遺伝子(?)を受け継ぐことはなく、ちょっと淋しいような気持ちにもなった。

反対は、反対で、反対の反対は、反対じゃなくなって、反対の反対の反対は、反対だ。考えれば考えるほどに、こんがらがってくるのである。

冷えとり靴下は、ワンセット8枚。洗濯物のなかでも、存在感があります。
夫は左右を確認してから、五本指靴下を履くそうです。すごいな~。

正しいリボン結び。背中で結ぶタイプは、特に間違えやすいです。
エプロンとか、できません。それもあって、しないのかも。

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色、いろいろ 人、いろいろ

最近、色について考える機会が増えた。
定期的に、ネイルをしてもらうようになってからのことだ。
「涼し気な水色にしようかな。久々にやわらかいピンクにするのもいいな。濃いターコイズも夏っぽくていいかも」
色の世界は、無限に広がる宇宙だ。しかしその芯となるものは、赤、青、黄の3原色。ネイルだとピンクやオレンジ、パープルに白なんかがよく使われる。
大抵は、ブルー系にするか、ピンク系にするか、白ベースにするかを考える。好みから黒や真っ赤なネイルを選ぶことはないから、選べる色はたくさんあるようで、そうでもない。
「レインボーカラーに、してもらおうかな」
今回、ふっと思いつき、白ベースにピンク、水色、薄紫を散らしてもらうことにした。やさしい雰囲気に仕上がった。
ネイルをしてもらうと、気持ちもすっきりする。色の効能なのかも知れない。

レインボーカラーのネイルを見ていて、思い出したことがある。
息子の大学の学園祭に、末娘と遊びに行ったときのことだ。もう十年近く前になるから、末娘は小学生だったと思う。ふたりでふらふらと出店をひやかし、娘にかき氷を買った。その店が、虹色かき氷の店だったのだ。大学生の男の子達がエプロンをして売っていた。彼らは娘にやさしく声をかけた。
「どの色のシロップも、好きなだけかけていいんだよ」
苺の赤、メロンの緑、レモンの黄色、ブルーハワイ。周囲を見ると、様々な色を綺麗に組み合わせたり、ぐちゃぐちゃに混ぜたりしたかき氷を食べる学生達が目に入った。かき氷を食べることよりも、色を組み合わせたり混ぜ合わせたりの実験的要素を楽しんでもらおうという企画だったのだろう。しかし、娘はレモンシロップだけをかけ、その場を離れようとした。彼女はただレモン味のかき氷を食べたかっただけなのだ。
「えっ? レモンだけでいいの? もっといろいろかけていいんだよ」
そのときの学生達の残念そうな顔が、今でも忘れられない。
小学生が来てくれた、きっと楽しんで遊んでくれるだろう。その期待を、娘は見事に裏切った。わたしはそれを傍観し考えていた。
「小学生だってひとりひとり違うんだよ。子どもだってひとりの人。色が無限にあるように、人もいろいろなんだから」

レインボーカラーのネイル。ベースをピンクにするか迷いました。
ゴールドのラメが入ると、まとまった感じになります。

これは玄関。夏の間は、京都の藍染の暖簾を掛けています。
天井近くの梁からは、赤い薄布を飾っています。

防災用も兼ねて、リビングに飾ってあるお家の形の蝋燭。
ブルー系とピンク系。いつも寄り添って立っています。

いただきもののトマトとスモモです。同じ赤でも全然違う赤。

何処からか種が飛んできて庭に咲いた、テッポウユリ。
この夏、いちばん最初の花が開きました。真っ白です。

こちらは、土曜日に観戦に行った山梨中銀スタジアム。
ヴァンフォーレ甲府のカラーは、風林火山イメージの赤と青です。
サッカースタジアムは、芝生の緑がまた綺麗ですね。
J1残留を目指して、がんばれ! ヴァンフォーレ甲府!

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電話の声に

夏バテしたという末娘と、電話でしゃべった。
「夏休みなんでしょ。帰って来ないの?」
「うーん、バイトあるしなあ」
何を話すでもない、ごく普通のやりとりだ。思ったよりも元気そうで、安心した。ただその声が、やけに幼く感じ、ちょっと切なくなる。
彼女は、メールもクールで余計なことはかかない。用がなければ、連絡してくることもない。本が大好きなのに、理系が入った合理主義。わたしとよく似ている。だがその声には、クールさは感じられない。

彼女と会ってしゃべっているときには感じない幼さを、声だけだと感じてしまうことがよくある。会って、顔を見て、笑ったり肩をすくめたりしながらしゃべると、その全体がわたしのなかに流れてくる。クールさを前面に出した印象。それが実際には、本当の彼女なのかも知れない。しかし声だけの、幼さを残した彼女も、わたしのなかでは本当の彼女だ。

娘じゃなくとも、普段会っている人が、声だけ聴いてみたら、また違う印象になるということもあるのだろうか。その人の本質が、会って初めて判ることもあるだろう。しかし、何度も会っているにもかかわらず、声を聴いたときに不意に何かが判るということも、ないとは言えないなと思った。
いや。声だけを聴いたとき、わたしの母親としての感情が、彼女の幼さを誇張して聞き取ってしまうということだって考えられる。
娘の声に耳を傾けながら、つらつらとそんなことを考えた。彼女の部屋に吊るしたままの風鈴が、ちりちりりんと音を立てている。

昨日の庭の様子です。
隣りの林との間に広がるホソバウンラン。やさしい黄色です。

ワレモコウには、夏トンボがとまっていました。

テッポウユリは、日に日に蕾を膨らませています。

ムクゲは、毎日新しい花を咲かせて。

むっくり顔を出したキノコさんも、いらっしゃいました。

山桜の葉っぱが、赤く紅葉して落ちていました。

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あきらめずに伝えること

久しぶりに、最寄りの無人駅JR穴山駅から電車に乗った。
たいていは、東京寄りの有人駅(?)韮崎から乗るので、穴山駅の利用は少ない。頻繁に使っていたのは高校に通っていた頃の娘達で、その送り迎えでわたしも毎日のように駅前まで車を走らせていた。その日々も、もう3年以上も前のことになるが、その道を走ると思いだすことがある。

冬の入口の乾いた風が吹く頃だった。朝いつもの時間に、高校に通う上の娘を送るべく坂道を上っていた。穴山駅は、山とつくだけに小さな山の上にある。うっそうと木々が茂る山道をくねくねと登っていくと駅にたどり着くのだ。
「うわあっ!」「キャーッ!」
娘とわたしの叫び声、どちらが先だっただろうか。
大きな木の枝が、ボンネットに落ちてきたのだ。最初の枝が次々に下の枝を折り連なって落ちてきたらしく、衝撃は3本分。ドンドドドン! という大きな音と振動に、身体じゅうが震えた。
幸いフロントガラスには当たらず、ボンネットはへこんだが車は動いた。娘が一緒にいたことでしっかりしなくてはと思ったのか気が動転することもなく、駅まで送り届けてから保険屋さんに電話して、行政の管轄だろうと教えてもらった。そのとき初めて、警察の事情聴取というものを受けた。

時間、走行速度、通勤か通学か、対向車や後続車の有無、様々訊かれひとつひとつに丁寧に答えた。ボンネットに落ちてきたのだからこちらに落ち度はなく、韮崎市の管理する森林だったこともあり、市に修理保証の申請を出すことになるとの説明を受けた。聴取は30歳くらいの歳若い警官一人で、謙虚な態度にとても好感が持てた。だから、話すことができたのかも知れない。
「ここは、通学する高校生達が、バイクや自転車で通る道なんです。もし、車のボンネットではなくバイクの上に重たくて大きな枝が落ちてきたら、死亡事故につながり兼ねません。張り出した枝の整備をしてください」
行政の対応の遅さには、呆れることも多い。特に山梨では倒木の危険にさらされた道路も多く、順番に整備していても間に合わず、事故が起こることもままあるのだ。だからつい、どうせ言ってもダメだろうと思ってしまいがちになる。それでも、やっぱり伝えておこうと思った。

その2週間後、穴山に続く道の枝は、綺麗に整備されていた。
あのときの警官の名前も顔も覚えてはいないが、彼が子ども達を守るためにがんばったのだろうと、わたしは今でも思っている。警察だって行政だってみんな人なのだ。穴山駅へと続く道を走りながら、いつもそんなことを思う。

一昨日の定点観測地点から撮った八ヶ岳。涼し気です。
気温が下がり、くっきりとした夏ならではの顔を見せてくれました。
それが、昨日は甲府では39℃を超えたそうです・・・。
どうぞみなさま、体調を崩されませんように。

最寄りの無人駅JR穴山駅です。後ろに見えるのは南アルプスの山々。
我が家からは、車で15分ほどです。

電車に乗るには、乗車駅証明書を発行して持っていきます。

帰りの切符は、この箱に入れます。改札はもちろんありません。

夏らしいお習字の文字。風林火山ゆかり駅も紹介されていました。

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自らの重みを感じて

最近、自分の「重み」を感じるようになった。
それは、体重が増えたというのとは違う。実際にある重みを、意識するようになったのだ。
ストレッチポールに毎日乗るようになり、ポールにかかる自らの重みで姿勢を矯正していくものなのだから、自然と「重み」に意識がいくようになる。

例えば、左側に寝返りを打つと、左肩、左の腰、左足のどの部分かに体重を乗せることになる。その体重がかかるいくつかの点に意識がいく。あるいは、仰向けになり両手両足をだらりと伸ばす。すると、体重は分散され、解放されていくように感じる。
寝返りが悪いということではない。それを利用して指圧をしようかと考えるようにもなったし、これまで存在していたにもかかわらず意識することのなかった自らの「重み」を意識するようになり、知らなかった自分を知ったような、それで少し楽になったような気がするのだ。

考えてみれば、足ってすごい。たった24cm × 5cmほどの小さな面2つで、身体全体を支えられるのだから。感謝を込めて、疲れを感じたらストレッチポールをふくらはぎで転がすマッサージをしている。

体重をちょっと乗せて、ころころころころ。
自分でハンドマッサージをするよりも、楽ちんです。

こうして足の裏で軽く転がすのも、気持ちがいいんです。
ヨガの先生によると、身体のあちらこちらを軽く叩くだけでも、
いつも意識しない部分に意識が行くので、身体にいいんだそうですよ。

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境い目に立っている

毎日のように車で通過する堰の上。橋というほどのものではないが道路の継ぎ目で、かすかにバウンドする。ここは、区と区の境い目になっている。県境いなどではナビが「山梨県に入りました」などとアナウンスするが、もちろんそんなことはない。小さくバウンドし、通過するのみだ。

小さな境い目は、何処にでもある。
例えば、昼と夜の境い目。訳もないもの淋しさと、逢魔が時の胸騒ぎとが混在するその境い目には、細い線で区切ることのできないもどかしさが伴う。

大人と子どもの境い目。歳をとっても大人になれない人は、いつその境い目をまたぐのだろう。わたしは子どもと大人の境い目をまたいだのだろうか。

小学校の頃、教室の木製の机は二人分がくっついていた。真ん中に線があり、ノートの端が消しゴムのカスが、その線から出ると腹を立てる男子がいた。

花と蕾の境い目。風と嵐の境い目。黄色とレモン色の境い目。歩道と車道の境い目。できるとできないの境い目。光と影の境い目。きっととたぶんの境い目。幸せと不幸せの境い目。なかと外の境い目。家族と自分の境い目。
誰もが、何かしらの境い目に立っているんじゃないだろうか。
堰の上を通過するたびに、自分のなかの小さな境い目が、ぴくんと揺れる。

この堰沿いが、区と区の境い目になっています。

こちらは上流側。ずっとずっと上の方から流れてきます。

我が家の北側は、堰上までが所有地。急な傾斜で何もできません。

ユキノシタが、白くひっそりと咲いていました。

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研ぎ澄まされた朝に

乾いた砂が水を吸うように、様々なモノがすんなりと入ってくる朝がある。
空気抵抗を感じることなく、見るモノすべてが目に焼きつき、耳に入る音すべてを身体じゅうに感じるような、そんな研ぎ澄まされた朝。

例えば、農道の脇に落ちていた片方だけのビーチサンダル。黒地にショッキングピンクの鼻緒。細身の女性の足が似合いそうだ。
田んぼの杭にひっかかったスーパーのビニール袋。風を含み、膨らむ。車で通り過ぎる一瞬の間にも、形を変える。
いつもは目に留めることのない道路標識の文字が、頭にすっと入って来ては消える。それを繰り返していく。
オートバックスの「車検予約承ります」の旗は、9本。同じ間隔で並んでいるが、風に揺られる姿は、同じではない。
床屋のトリコロールカラーのポールは、営業時間外だからか回転していない。止まっていることに違和感を覚え、目が吸いよせられる。
駐車場では、セキレイが尾を振り、道標の上で、カワラヒワがきょろきょろと首を動かす。
神社の石造りの鳥居に彫られた狐の顔が、こちらをじっと見つめている。

そんな研ぎ澄まされた朝だから、そうだ、向日葵を見に行こうと思い立った。夫を駅まで送った帰り道、少し遠回りをするだけでいくつかの向日葵畑を見て回れる。週末から『サンフラワーフェス』が始まった。明野町がまだ村だった頃、村おこしで始められた向日葵畑は、20もの場所で順番に咲いていくように植えられているのだ。
思った通り、向日葵一輪一輪が、くっきりと見えた。いつもなら目を向けない蕾や、ハート形のような葉や、後ろ姿も楽しく眺めた。上を向いて咲く花あり、うつむいた様子の花もあり、蜜を吸う蜂やアブのかすかな重みにふっと揺れる花もあり。そんな何でもない風景がそのままの姿ですっと胸に収まった。
向日葵咲く明野で夏を迎えるのも、17回目だ。

上を向いて咲いてるなあ。でも、みんながみんなって訳じゃない。

ここの畑は、まだ五分咲きでした。

花が開く前の姿って、すっぱそうな顔(笑)と笑ったり。

蕾、個性的な形だなあ、とじっと見つめてみたり。

我が家からほど近いこちらの畑は、けっこう咲いていました。

後ろ姿の向日葵達です。
よく見ると、顔を見合わせて微笑み合ってる子がふたり。
こういう姿に気づくのも、研ぎ澄まされた朝、限定です。

後ろ姿も、意外と絵になるなあ。

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我慢でもがんばりでもなく

何年かぶりに、サウナに入った。じつは、苦手である。
温泉に行っても、自分から入ろうという気にはならない。暑いのを我慢して何が気持ちいいんだろうとまで思っていた。我慢がない性質なのかも知れない。
それがふとした気まぐれでサウナの蒸気に当たると、気持ちよかったのだ。
「あ、あったかい」
暑いではなく、そう感じた。
「わたしの身体、けっこう冷えてるんだ」と。
そう感じて、サウナは暑さを我慢するモノから、冷えた身体を温めるモノへと変わった。温まったら出ればいい。歳とともに夏でも冷えやすくなった身体には、サウナで少し温まるのも有効なのだろう。わたしの苦手意識は、サウナ室の蒸気と一緒に消えていった。

ところで、先月から始めた、姿勢矯正中心の軽いタイプのヨガ「ひめトレ」だが、続けているだけではなく、ストレッチポールを購入した。
「買っても、どうせやらないんでしょう?」
夫の言うことは、もっともだ。以前やっていたヨガのマットは押し入れで眠っている。言われなくとも、自分でも不安はあった。
「買っても、どうせやらないんじゃないだろうか」
しかし約2名の予想に反し、ストレッチポールは毎日活躍している。
サウナと同じく、ひめトレポールによるストレッチは、我慢してがんばるモノから、身体が伸びて矯正されていくのを体感するモノへと変化を遂げたのだ。
ひと言で言えば「気持ちいいから、乗る」ザッツオール。
身体が求めているものが、変わって来ているのか。身体が求めるものが、顕著に表れるようになってきたのか。その両方か。

「お昼食べ過ぎた。背中痛いから、乗ろうっと」
休日の昼間、居間でポールに乗っていると眠くなる。さすがに落ちると痛いから、寝ないけど。
「ねえねえ、わたし、ストレッチがんばってるでしょ」
日々ストレッチに励んでいる夫に言うと、即答された。
「それは、がんばっているのとは違う」

これが、ストレッチポールです。軽くてちょっと硬め。
この上に、仰向けに寝るように乗ります。

長さは、こんなふうに頭から腰が乗るくらいです。
「ひめトレ」ではポールに乗って手足を動かす体操をします。
ただ乗るだけでも、身体が伸びて正しい状態に戻っていくそうです。
「これは、いいわあ」と、夫も使っています。

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潜在意識の誘導に従うか否か

連休。夫とふたり朝食まえに散歩を楽しんだ。
わたしのスピードに合わせて歩くことになるので、30分くらいの道程も1時間弱かかる。びっきーとよく歩いたコースだが、遠回りすればできるし、南に回るか北に回るかも選べる。最初の分岐で、夫が言った。
「どっちにいく?」
「気持ち的には、こっちに行きたいよね」
わたしは、下り坂を指さした。
「そこを、あえて登るのがいいんだよね」と、夫。
急ぐ旅じゃなし、どちらへ行ってもかまわない。
「人の心理って不思議だよね。楽な方へつい足が向く」
そう答えて、あえて登る夫の後ろを歩きながら思い浮かべていたのは、サッカー観戦で見たPKのシーンだった。

キッカーが準備する間、キーパーがゴールの左半分をゆっくりとストレッチしながら歩いている。右が空いてるよとキッカーの潜在意識に訴えているのだそうだ。もちろん、キッカーもそれを知っているから、キーパーの思惑通りにはいかない。それを見て、人の潜在意識の不思議と、それを利用しようとするスポーツマンのしたたかさを、おもしろく思った。
人は自然と楽な方へ流される。大切なのは、それに気づいたときに潜在意識の誘導に従うか否かをきちんと選ぶということだ。そうは言っても、楽な方へ流されるのもまたよしと、どこかで思っているわたしがいる。

「びっきーも、いつもここで下りに行きたがったよね」
歩きながらそう言って、ふたり笑った。

上り坂です。少し登ると、陽が当たる道に出ます。

下り坂です。両側に林があって、見るからに涼しそう。

今年は漆の当たり年。綺麗な葉っぱだけど、危険! かぶれます。

ヘクソカズラも、この季節、あちらこちらに咲いています。

オニグルミが、大きな実をつけていました。

山栗も、いっぱい生っています。

足もとには、つゆ草の青。目を魅かれます。

道端に咲いていた花。野生のハナトラノオかな。

林のなかに居たアマガエルくん。きみは、何処へ行くのかな?

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障子張り

3連休。夫婦で、障子の張り替えをした。
我が家は、和と洋が点在する造りになっていて、和室以外にもいくつか障子がある。張り替えたのは、穴が空いたまま放っておいた末娘の部屋の障子だ。吹き抜けになっている1階の居間からも見える場所なので、いい加減格好悪いよねと、重い腰を上げたのだ。

案ずるより産むがやすし。張替えは、ことのほかスムーズに終わった。
一つ実感したのは、障子ってコワレモノなんだよなあ、ということ。ちょっとぶつけただけで、あっさり穴が空いてしまう。
そういうモノを触ること自体、最近なかったと思い至った。
「ここに置いたまま作業したら、絶対、穴空ける」と、わたし。
「そこも、風が吹いたら、倒れそうじゃない?」と、夫。
張り替え自体よりも、張ってからの作業の方に気を使う。

だが若い頃なら、もっと緊張感を持って臨んだだろう。今やっている自分の仕事が無駄にならないよう、細心の注意を払ったことだろう。しかし、歳をとるのもまたいい。もし穴を空けてしまったらやり直せばいいさという開き直りが、胸の奥の芯となるところにあるのを感じる。歳をとり、失敗が多くなったことをきちんと自覚している、ということなのかも知れない。軽々またげると思っていたところでつまづくことにも知らず知らず慣れてきたのだ。
それが、たかが障子張りであるが、そこに楽しさを見出せる鍵となる。
50代を生きててよかった。そう思えるささやかなひとときである。

けっこう簡単にできるものなんですね。精度を追及しなければ(笑)

完成図。この3枚を張り替えました。
子ども部屋ですが、築16年の現在、いまだ壁を塗っていません。
障子を張りながら、今年は塗ろうかと話しました。

昔はこういう普通の障子を「明かり障子」と呼んだそうです。
ガラスがなかった時代の知恵から生まれた彩光を取り込む建具なのだとか。
ここの障子は、確かに陽の光が入ってきますね。
夏は開け放って風を通しますが、冬の光はまたやわらかそう。

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蓮の雫

食材の買いだしの帰り、蓮池に寄った。
そろそろ咲いてるかな、と思いながらも、時を過ごしていたのだ。
気づいたときには、その季節が終わっているということが、ままある。気がつけば7月。今年も蛍を見に行くことなく、過ごしてしまった。

果たして、蓮は咲いていた。思い立ったが吉日とは、このことである。
蓮池がある庭園にはベンチが置いてあり、誰でも自由に楽しめるようになっている。先客は、散策するご夫婦らしきおふたり、ベンチでのんびりとおしゃべりを楽しむ女性がふたり、そして、三脚を立て、一眼レフを構える70代くらいの男性がひとり、いた。
わたしは、池の周りをゆっくりと歩き、心にとまるたびにシャッターを切った。そして、カメラのおじさんとすれちがうとき、会釈を交わした。
「綺麗ですね」と、蓮の花を愛でつつ、言い合う。
「少し、遅かったかもしれないねえ。蕾はもうほとんどない。でも」
そう言いながら、おじさんは、蓮の葉を指さした。
「こういうのを撮るのも、おもしろいんだ」
蓮の葉の上には、雫が載っている。見れば、雫を載せた葉が多い。
「太陽の光が綺麗に反射したり、風に揺れて形を変えたりとね」
「なるほど」
わたしはその場で、ススメられるままにシャッターを切った。おもしろい写真を撮れるほどの腕がないことは判っていたが、確かに風に揺れ形を変え、陽を浴びて光る雫を眺めるのもまた、楽しかった。

「蓮は泥より出でて泥に染まらず」とは、蓮が水のなかに居ながらも、こうして水をはじく性質を持っているところから出た言葉らしい。
水をはじく葉の上に載った小さな雫が、きらきら、ゆらゆらと光る。
周囲に染まり、様々なことを吸収していくのも大切だが、染まらずに置いておきたい部分を誰しもが持っているはず。じっと見つめていると、自分のなかのそういう部分が、雫に共振したかのように静かに揺れるのを感じた。

明るいピンク色の花に、気持ちも明るくなります。

水面近くで、ひっそり咲く花もあり。

凛と首を伸ばすように、一輪咲く花もあり。

寄り添うように、咲く花もあり。

蕾には、蕾の趣きがあり。

散った後の花びらもまた、美しく。

開き切る手前のさまにも、とても魅かれます。

花が散った後の姿は、愛嬌がありますね。まるでレンコン。

おじさんおススメのショットです。

雫のなかの虹や空が撮れたら、かっこいいんだけどなあ。

大中小と池がありますが、いちばん大きなこの池だけが満開でした。

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風の廊下

暑くなってきた。
標高600mの我が家では、まだエアコンが欲しいほどの暑さにはならないが、欲しいほどの暑さになったとてエアコンは設置していない。年々暑さが厳しくなるなか、暑さをしのぐ術を考えるのも夏の行事だ。

居間にはゴザを敷き、すだれを掛け、寝室回りも寒色のカバーリングに替えた。小さなことだが、それだけでずいぶんと過ごしやすくなる。昔ながらの知恵の大切さを感じる。
廊下の天井近くと足もとには小窓がたくさんついていて、すべて開けるとかなり風通しがよくなる。家を建てたとき、設計士さんは『風の廊下』と名づけた。わたし達もそれに習い、そう呼ぶ。
「そろそろ、風の廊下の窓、開けようか」という具合いに。
それも、夏を迎える行事だ。

設計士さんに、どんな家を建てたいかと問われ「風通しのいい家」と答えた。それは、家の機能として実際に風が通るということとは、違う。3人の子ども達が大人になっていく過程で、家族のなかに空気が滞らないようにという意味だった。設計士さんは、子ども部屋は2階だけれど、トイレは1階にしましょうと言い、階段を下りてすぐの場所に置いた。成長期の子ども達は嫌な顔もしていたけれど、吹き抜け上部の子ども部屋で話す声は居間に筒抜けだったし、居間で話す大人の声もまた子ども部屋に筒抜けだった。機能としての風通しも、過ごす家族の風通しも、悪くない家となった。

だからと言って、それで子ども達がすんなりと大人になったかといえば、そんなことはない。悩み多き子育ての時期を過ごしたことには変わりないし、まだまだ悩みも尽きない。
でももし、密閉された場所でそれぞれの時間を過ごすような家だったら?
それは住む人次第なのだろうが、家族間の風通しも、今とはまた違うものになっていただろうことは想像できる。

廊下を通る風を感じ、都会で暮らす子ども達を思う。息子は5年も帰って来ないけれど、どうしているのだろうかと。

天井近くの窓です。開け閉めは、専用の棒があります。

こちらが足もとの窓。一度、蛇が入って来てしまい往生しました。

反対側から見たところ。ライトをつけてみました。
廊下は16年間も壁を塗らずにいましたが、冬にようやく完成しました。
収納が大きく助かっています。扇風機を出し、カーペットを仕舞いました。

足もとです。ルンバは、ここを走るのが好きなようです(笑)
突き当り右が玄関、左が居間、階段を上ると子ども部屋です。

廊下には、ギャラリーがあります。夫、お気に入りの場所です。
もうちょっと、置くものを充実したいです。



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たゆたう帆の光

真珠婚の結婚記念日から、半年と少し過ぎた休日。夫が、ペンダントをプレゼントしてくれた。
友人の友人で漆のアクセサリーを作るアーティスト『月ノ聖』さんの作品で『帆』と名のつく帆船の形をしたものだ。
わたしがブランド品や宝石などに興味がないことを知っている夫は、彼なりに試行錯誤し、探してくれていたらしい。
漆でできた帆船の中央にはいくつかの石がはめ込んであり、それがきらきら光っている。ラブラドライトかラピスラズリだろうか。まるで帆船から見た波のように、光たゆたう。見る方向や洋服の色などによって光の色を変え、とても綺麗だ。うれしい。

ペンダントをつけていて、ふっと「今、何色に見えるのかな」などと考えるのも楽しい。それがまた、自分に見えないというのがおもしろい。
「自分は、自分には見えないもんなあ」
たぶん人から見たわたしも、たゆたう『帆』の光と同じく、見る方向によって見え方によって、違うように光り、あるいはくすみ、まるで違って映るのだろう。友人から見たわたし。両親から見たわたし。子ども達から見たわたし。
夫からは、じつはどんなふうに見えているのだろうか。少なくとも、このペンダントが似合うとは思ってくれているのだろうけれど。

全く色を見せない、光っていない状態です。

真ん中だけ、ピンクっぽく光っています。

それが、違う角度から見ると、同じところが緑に。

今度は、帆船の甲板部分がグリーンに光っています。

全体が淡いブルーと白い光を放っていたかと思えば、

こんなふうに、緑、青、紫といろいろな色に光ったりもします。
楽しんで、使いたいです。大切にします。

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根強い感性の違い

「あれ? ほんとに痩せたんじゃない?」
珍しく身体にぴったりしたシャツを着ていると、夫が言った。
「だから言ってるじゃん。1kg痩せたって」と、わたし。
だが、その後に夫が言った言葉の方に、ほう、と思った。
「やっぱり、ひめトレの効果かな」

ヨガ教室で、姿勢矯正ができる軽いタイプのヨガ「ひめトレ」を始めて、ひと月になった。インドア派で身体を動かすのが苦手なわたしが「トレーニング」と名のつくことを続けているのが、夫としては驚きであるらしい。
彼は、いまだ社会人サッカーを続けるスポーツマンである。
わたしがダイエットと称し様々取り組んでいることを知ってはいても彼のなかで「痩せた訳」 = 「トレーニング効果」なのだ。そこに、ほう、と思った。わたしはスポーツは苦手だし、元保育士で栄養学をかじっていることもあり =「食事のカロリー制限効果」と思いがち。ひとつの出来事に対する捉え方も、それぞれ。根強い感性の違いがあるのだなあと思ったのだ。

しかしまあ、5年もだらだらとダイエットをしていて効果を得られず5年目にしてようやくの1kg減。何がよかったのかなど特定できるものではないだろう。夫曰く。「1kgぐらいは誤差のうち」誤差でも何でも痩せれば女性はうれしいのだが、まあ彼のいうことも正論だとは知っている。

さて。だらだらダイエットを続けるなかで、最近注目しているのは「デトックス」だ。デトックス効果が期待できる冷えとり靴下も続けているし、オイルマッサージを楽しんでもいる。カロリー摂取やカロリー消費とはまた違った身体の不思議を感じるのがおもしろくもあるし、老廃物をすっきり追いだして健康な身体になれば、なおいい。
ここまでくると、もう何がダイエットなのかさえ忘れてしまいそうだけど、忘れるくらいがちょうどいいのかも、と性懲りもなくだらだらと続けている。

蝋燭の形をした、固まったタイプのマッサージオイルです。
デトックス効果があるという香りを選びました。なので「DTO」

火を灯し、オイルを温めて溶かします。

火を点けて5分ほど経った状態。だいぶ溶けてきました。
10分ほど溶かしてから使います。塊のまま掌で温めても使えます。
坐骨神経が痛いという夫に、マッサージしてあげました。
「すごく楽になったわ。毎晩やってくれる?」と、夫。
「うーん。酔っぱらって寝ちゃった日以外はね」と、わたし。
「・・・」vs「・・・」

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山百合の意志

「山百合が、咲いてるよ」
いつも通る道で、助手席の夫に声をかけた。
「百合って、夏に咲くんだっけ」
「そうだねえ。今咲いてるってことは、夏の花なんだよね」
いつ咲くのかは覚えていなかったが、去年も同じ場所で山百合を愛でたことは記憶にある。道端に咲いた百合だが、支柱が添えてあり、どなたかが大切にお世話しているのだと心に留まったのだ。
そのときに調べ、山に自生するから山百合と名づけられたことや、1年にひとつ花を増やすといわれていることなどを知った。

大輪のあでやかな花は美しいが、その印象とは違い、山に自生し、こつこつと年にひとつずつ花を増やしていくというところにも、また魅かれる。
1年経ってふたたび眺めた山百合が、花の数を増やしているのかどうかは判らない。けれど香りを放ち、まるで胸をはるかのように花びらをそらせている花ひとつひとつを見ていると、その意志が伝わってくるような気がした。
「生きていく。またひとつ花を増やす。昨日よりも今日、今日よりも明日」
そんな意志がなければ、ここまで花を増やし続けることなどできないんじゃないかと思ったのだ。小さな種から芽を出し葉を広げ、蕾を生む。その蕾は、花を咲かせたいという強い意志から生まれるに違いない。きっと、そうだと。

百合って、ぱっと目を引くような華やかさがありますね。

アップにしてみました。見事です。

こんなふうに道端に咲いています。まだまだ蕾がいっぱい。

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新しいぞぞさんが来て

十年働いてくれた「ぞぞさん」が引退することになり、我が家に新しい「ぞぞさん」がやってきた。「ぞぞさん」とは冷蔵庫のことである。
川上弘美の連作短編集『ニシノユキヒコの恋と冒険』で登場人物が冷蔵庫をそう呼んでいるのを読んでから、それ以上にぴったりしたネーミングを思いつかない。以来、わたしのなかで冷蔵庫は「ぞぞさん」という名になっている。

入れ替えの際、古いぞぞさんの下にたまった埃を掃除機で吸った。もちろんルンバではなく普通の掃除機だ。よし、きれいになったとふとルンバに目をやると「僕がやるー」「僕も吸いたいのに」と言っているかのように見える。
そんなこと思っている訳もなかろうに、そう思えてしまうのはこちらの感覚で勝手に考えているからだ。ぞぞさんだって、デーンと構えているように見えて、じつは新しい居場所に馴染めず心細い思いをしているのかも知れない。ルンバにつんつん突かれこっそり涙を流しているということだって考えられる。

ある朝車中で、田んぼを悠々と飛ぶ白鷲に、つい言葉がこぼれた。
「のんびりと、飛んでるなあ」
しかし、夫曰く。「鷺だって餌を探して、じつは真剣なんだよ」
こちらの感覚で捉えると、のんびりしているように見えるだけなのだろう。

庭で見かけたカマキリにも、逆パターンで思う。
「餌を探して、目を光らせているのかな?」
カマキリだって、花の上でゆったりしているかも知れないのに、その姿かたちから受ける印象で、そう思ってしまう。

ルンバもぞぞさんも、白鷲もカマキリも、何を思っているのだろう。たぶん、わたしには想像もつかないことなのだろうな。

エコ重視で選んだぞぞさんは、日立の冷蔵庫です。

開け閉めしたときに、こんな表示が出てすぐに消えます。

こちらは、庭で見かけた若いカマキリ。
赤ちゃんっていうほど小さくないけれど、まだ透き通った黄緑色。
鎌も、やわらかそうです。
ここにじっとしていたのですが、カメラを向けると・・・。

気配に気づいたのか、あわてて動き出しました。可愛い。
ちゃんと気配を察知して、生き残る能力を備えた子のようです。
がんばって、生きろよ!

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落とし物は、いったい何?

とあるJRの駅のホームで、電車を待っていたときのこと。
アナウンスが流れた。
「改札付近に落ちていた、落とし物を預かっています。お心あたりのある方は、改札口までお越しください」
えっ? 落とし物? 途端に不安になり、バッグのなかを探る。財布ある。スイカある。ケータイある。ハンカチもある。
ふと周りを見回すと、老若男女みな一様に不安げな面持ちでバッグを探ったり、ポケットに手を入れたりしている。通り過ぎた年上のご婦人二人は、顔を見合わせて話していた。
「落としたものはないと思うけど、不安になるわねえ」
「そもそも何が落とし物なのか判らないんじゃ、心あたりも何もねえ」
まさにその通り。何か判らないから、誰もが不安になってしまったのだ。

電車に乗ってからも、想像を膨らませた。落とし物、いったい何だったんだろう。判らないからこそ想像は膨らんでいく。傘や財布やケータイではない、何か。構内放送で言えないようなもの? それとも、例えば「財布」などと特定しない方が安全と考えたのか。

一輪の真っ赤な薔薇。生まれたての真っ白い子猫。オーブンから出したばかりのサックサクのクロワッサン。貝のなかで眠る真珠。木から転げた椰子の実。片目だけ入っただるま。チョークの粉だらけの黒板消し。ネバーエンディングストーリーに出てきた空飛ぶ竜ファルコン。
考えるほどに改札口はにぎやかになっていく。そんな在らぬ想像を膨らませているうちに車中珍しく本を開くことなく時間はあっという間に過ぎていった。

駅のホームに置かれていた、鉢植えの花です。

花達は何色であれ、放送に動揺することはありませんでした。

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「どうして」と「どうしたら」の違い

何を勘違いしたのか、完璧だと思っていた。
いや。実際には思っていたわけではない。常に自分が完璧なはずはあるまいと疑ってはいるのだ。それなのに、意識下でそんな妄想を抱いてしまっていた。
朝6時。炊き立てのご飯。味噌汁は油揚げ、大根、椎茸、ワカメ、薬味に茗荷をのせた。鯵のひらきには大根もおろし、納豆には新鮮な葱を刻んだ。庭で生った山椒の実をちりめん雑魚と佃煮にしたものもある。
心の何処かで、思っていたに違いない。完璧だ!

しかし、それを写真に撮ろうとカメラを探したが見当たらない。
「あっ!」夫が、声をあげた。
「昨日、庭でカメラ置いたまま、草取りしてたでしょ」
「あーっ!」今度はわたしが、声をあげた。
一晩中降り続いた雨。土砂降りとはいかずとも、本降りの雨だった。カメラはずぶぬれになり、電源を入れようとしても沈黙したまま。大失敗である。
「うつむいて咲くホタルブクロを、下から撮ろうなんてことしたから、ばちが当たったのかな」
ぽつりとつぶやくも、ばちとかそういう問題じゃないことは、自分がいちばんよく知っている。自らの不注意以外の何ものでもないのだ。

そう言えば、と末娘が自分で作った土鈴を落としてわってしまったときのことを思い出した。彼女は5歳くらいだっただろうか。失敗した本人がいちばんショックで、いちばん辛い。それなのに親は、つい「どうして、しっかり持ってなかったの!」などと叱ってしまうことも多い。この場合の「どうして」は問いかけではなく、責めの言葉に他ならない。わたしは喉まで出かかったその言葉をごくりと飲み込んだ。そして瞬間接着剤で土鈴を修理しながら、どうしたら落とさずにしっかりとモノを持てるのか、ふたりで話したのだった。片手で持たないとか、指を全部使うとか、そんな些細なことだったと思う。
「どうして」と自分を責めず「どうしたら」いいか考えよう。カメラは、決して外には置かない。今のところ考えつくのはこのくらいなのだが。

庭のイチイの木の下に咲いたホタルブクロ達。あっちこっち向いてる。

アップにして。小さな蕾が大きく膨らむ姿に、毎年驚かされます。

下から覗き込むようにして撮りました。恥ずかしかったかな。
カメラは修理に出しました。2週間ほどかかるそうです。
とりあえずデータはぶじでした。このホタルブクロも。とほほ。

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鉄のやわらかさを知る

気持ちよく晴れた土曜日。夫婦で、清里に出かけた。
夫の友人が『萌木の村』で鉄細工のワークショップをやっていて、それを見に行ったのだ。彼、三井亮さんは『鉄刻屋』さん。鉄細工のアーティストだ。

鉄細工体験でキーホルダーかペンダントを作れるというので、三日月の形のペンダントを作らせてもらうことにした。
皮の手袋をはめ、金槌を握る。まずは練習だ。鉄の台を叩く。
「もっと強く叩いてください」
アドバイスに従い叩くが、なかなか思うような場所に振り下せない。
それからバーナーで細い鉄の棒を熱した先を、実際に叩いた。
それをペンチで、三日月のカーブに曲げてもらう。
「三日月の形にするには、カーブの外側を叩いてくださいね」
叩いた場所が伸びるのだという。内側を叩いてしまうと、カーブが広がってしまうらしい。少し緊張しながら叩く。
そのあと、紐を通す部分を輪にするために熱をあて、彼が細く伸ばしていく。そして、鉄の棒からカットするのをやらせてもらった。片方が平たくなった金槌をカットする部分にあてて、金槌の平らな方を叩いていく。カットが終わると、そこからはプロの仕事。紐が通せるようにお洒落な輪っかを作り、ワックスを塗ってからもう一度焼いて蝋をとばし、仕上げてくれた。

鉄を叩いたのは初めてのことだったが、熱すれば鉄が硬いモノではなくなることはもちろん知っていた。それなのに、たった10分ほどの体験が、とても新鮮に感じられた。自分の力で鉄が形を変えていく瞬間、たぶん鉄のやわらかさを体感したからなのだと思う。それは、新鮮であると同時に「わくわく」と「小さな驚き」がないまぜになったような、ちょっと不思議な、今までに体験したことのない感覚だった。

この週末『萌木の村』の広場で行われていたイベントです。
『鉄刻屋』さんの作品は → こちら

銀の金槌と金の金槌、どっちがあなたの金槌ですか?
言うたびに、夫に嫌な顔をされるギャグです(笑)

うわー、まさにへっぴり腰。一生懸命叩いてたんだけどなあ。

輪になる部分を細く叩くために、熱しています。
火の色に焼けていますね。「あついよ」とかかれているのは、
金槌がしっかり握れる3歳のお子さんから体験できるから。
体験コーナーのこのバーナーで600℃くらいになるそうです。

カットした端を、やすりで整えているところです。

輪っかの部分を整えるために、また焼いています。

真剣な鉄刻屋さん。やさしく感じの好い彼ですが、腕が太い!
重たい鉄を叩く仕事をしているんだなあと、実感しました。

できあがった三日月のペンダント。うれしいな。

叩いたところの凹凸がが、いい感じ。世界に一つだけのペンダント。

『鉄刻屋』さんの看板です。もちろん鉄でできています。

『萌木の村』の『萌木窯』を拠点に、活動中だそうです。

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ずぼらな性格に胡坐をかかない

ジェルネイルをしてもらうようになって、もうすぐ1年になる。
新しいことを始めると大抵そうだが、今まで気にならなかったことが気になってしょうがなくなることがある。ネイルもそうだ。これまで頓着しなかった「手」が、気になるようになったのである。
手荒れをしないようにと、夏でもハンドクリームを塗るのは以前からの習慣だが、気になるようになったのは日焼けだ。ネイルしてもらいながら、ぼんやり眺め「黒いなあ」ついつぶやいてしまうほどに、日に焼けている。
顔や首にはUVカットのファンデーションや強めの日焼け止めを塗っているが、手はすぐに洗ってしまうし、日焼け止めのついた手でやりたくないことも多い。それで、そのまま洗濯物を干したり、運転したりして、夏を待たずしてすでに黒く焼けてしまった。

「ずぼらだから、曇りの日とか手袋せずに運転しちゃったりするんだよね」
ネイルをしてもらいながらのおしゃべりも、紫外線対策だ。
「曇りの日でも紫外線、けっこう強いんですよ」と、若い彼女。
「そうだよね。ずぼらを言い訳にしてちゃだめだよね」
今年は、指先までちゃんとあるUVカットの手袋を買った。買っただけで使わなければ意味がない。ずぼらな性格に胡坐をかかず、しっかり手袋をはめて運転するぞ。洗濯物だって干しちゃうぞ。誓いを新たにしたのだった。

夏らしい涼しげなモロッコネイルにしてもらいました。
手、焼けてる~。でも真っ白な手よりも、逆に似合うかも(笑)

愛用のクジャクの羽根模様の帽子と指先まであるUVカットの手袋。
手袋は、手のひら部分に滑り止めがついていて運転も安心です。

これも、UVカットのショール。冷房よけにも重宝します。

広げると、お花畑。お気に入りのショールです。

この紫のお花は、ホタルブクロ? いえ、リンドウでしょうか。

これはサクラソウかな? なんて考えるのも、楽しいです。

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ちょっと寄り道 その4

ちょっと寄り道する場所の一つに、コイン洗車場がある。
買い物ついでに気軽に寄れる国道沿い。最初は夫と行っていたのだが、最近は一人で寄り道するようになった。ずぼらな性格であるが、あまりに汚い車に乗るのは、そんなわたしでも気が進まないモノだ。シャンプーだけして軽く拭いて15分。ドライブスルー洗車と看板にあるだけのことはあり、お手軽だ。

ところで、何度やっても慣れないのが、停車している車の周りを機械の箱が動いていく、あれ。まるで、自分の車が動いているかのような錯覚に陥ってしまう。油断をしていると、うわっ! と声を出してしまうことさえある。
洗車機のなかでは、さすがにパニックにはならないが、駐車場でバックしているときに隣りの車が動いたりすると、自分の車が操れなくなったような感覚になり一瞬パニック状態になることがある。あれは、怖い。

特に運転しているときには、自分が動かしているという意識から、自分中心に感じてしまうのかも知れない。
些細なことである。だが、とるにたらないような感覚だけれど、これはこれで無駄じゃないとも思う。一瞬でも怖いと感じた経験が、注意深く運転することにつながっていくような気がするのだ。潜在意識に働きかけるひとつひとつのことが多々あって、ようやく普通に生きることができているような、そんな見えない力に守られているような気が、ふっとするときがあるのだ。

突き当りを右に曲がったところに、コイン投入口があります。
シャンプーだけなら400円。置いてあるタオルも使い放題です。

この赤い箱の中に入るんだけど、
停まっている車の前後を、これが微妙にゆっくりと動くんです。

わ~! 判っていても、つい顔を避けたり瞬きしたりしちゃう。

そして乾燥機。水滴を風で飛ばし、乾かしてくれます。

置いてあるタオルで窓ガラスとボディを拭いて。うん。綺麗になった。
シャンプーだけじゃピッカピカとはいかないけど、こんなもんでしょ。

寄り道ついでに大賀蓮の池に行ったけど、まだ蕾もありませんでした。

紫陽花も、まだまだこれからのようです。

今の季節、笑顔で出迎えてくれたのはアイリスだけでした。

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娘と雀とスマートフォン

週末帰ってきた、26歳の上の娘と過ごした時間の出来事。
のんびりとした日曜の朝だった。リビングで娘としゃべっていると、コツンと窓ガラスに何やらぶつかる音がした。
「鳥かな?」と、わたし。
「あ、落ちてる」と、娘。
見ると、窓ガラスに空を見て激突したであろう雀が、北側の窓の下でうずくまっている。すぐにふたり、様子を見に行った。
「お、動いた。生きてるね」と、娘。
「首の骨が折れてなければ、だいじょうぶだよ」と、わたし。
雀はうつろだが、瞳も開いている。羽に傷もなさそうだ。
「脳震盪を起こしてるだけみたいだね」と、わたし。
すると娘がおもむろにスマホをとりだし、操作し始めた。
「仲間の声を聴かせてあげようかと思って」と、娘。
スマホから、チュンチュンと雀らしき声が聞こえ始める。
しかし、雀に反応はない。
「じゃあ、リラックス音楽にしてみる?」と、娘。
「効果あんの? それ」と、わたし。
次の瞬間、ジャカジャカジャーンというにぎやかなメロディが。途端に雀は、慌てふためいた様子で北の空へと羽ばたいていった。羽を広げた姿もしっかりしていたから、怪我はなかったのだろう。それにしても。
「それが、リラックス音楽?」と、わたし。
「そのはずだったんだけど、CMが、流れちゃった」と、娘。
大笑いである。

短い時間だったが、久しぶりに娘と過ごし実感した。我が娘ながら、彼女の行動は全く読めない。当然のことではあるのだが、子どもというのは、母親とも父親とも全く違う独立した一個の人間なのだとしみじみと思う出来事だった。

その後また、リビングでしゃべっていると、物干し竿に野鳥がとまった。
「お、雀の恩返しかな?」と言ったわたしに、娘は笑って言った。
「恩返しじゃなくて、仕返しじゃないの?」

ここが雀が落ちたところ。苔がやわらかく守ってくれたのかも。

北側は急な斜面になっていて、その下には堰が流れています。

雀がぶつかった窓に貼ってある、フクロウのバードセイバー。
フクロウくん、もうちょっとがんばって野鳥達に威嚇してあげてよ。

西側の窓には、オオタカのバードセイバーが貼ってあります。

緑濃い初夏。蔦も『ジャックと豆の木』のような勢いで伸びています。

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夫はルンちゃんに夢中

「ルンちゃん、こっちこっち」
夫が、ルンちゃんを呼んでいる。とても楽しそうだ。わたしはそれを傍観しているが、夫はわたしに見せたがる。
「ほら、見て見て。ルンちゃん、すごいんだよ」
「ふうん」
わたしは、何故だか気持ち穏やかではない。
「ほら、こんなところにも入れるんだよ」
「すごいね」
わたしのそっけない返事にかまわず、夫は、しみじみと言う。
「いやー、ロボットが可愛いっていう気持ち、判るよねえ、ほんと」

お掃除ロボットルンバが、我が家にやって来た。
夫は彼を「ルンちゃん」と呼び、可愛がっている。わたしは傍観者のスタンスを崩さず、ただ観察する。何故こんなにも気持ちが乱れているのか。それは、掃除が苦手な女オリンピックメダリスト有力候補とうたわれた(?)わたしであるからに他ならない。とは言え「掃除なんかしちゃってさあ」と舌打ちしたくなるのは、すでに彼を生き物として認めている証拠でもある。何しろその存在感、ただならないモノがある。今にもしゃべりだしそうで、怖い。それでつい、つんつんしたり、通せんぼしたりしたくなってしまう。

ルンバを可愛がる人は、けっこう多いらしい。部屋から出てしまうと「脱走した」とか、何処かに入り込んで見当たらなくなると「かくれんぼしてる」とか、そういう表現はもう一般的。壊れたときに「修理してください」じゃなく「可哀想だから早く直してあげて」と言う人もいるそうな。
そう考えると、夫の反応はまんざら可笑しい訳ではないのかも知れない。

「ルンちゃん、可愛がってね。いじわるしないでね」
夫は、心配そうに出かけていった。わたしは、返事をしなかった。ちょっと苦手なルンバとの共同生活は、始まったばかりだ。

ルンちゃんです。よろしくね。ママは、ルンって呼んでるよ。

がんばってお掃除します。いくぞー! ルンルン。

「ドッグ」ボタンを押すと、充電器ドックに戻ります。
やれやれ、一休み。明日もまた、がんばルンバ!

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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