はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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凍った白い月

「全国的に、この冬一番の冷え込みとなりました」
朝のニュースでそう聞いた昨日の午前6時半。車のドアを開けるとき、ばりっと音がした。凍っていたのだ。
「うわ、マイナス3℃だよ」と、車の表示を見て、夫。
「車も凍る訳だねえ」と、わたし。
今年の冬は、スタートが暖かかったので、まだ床暖房も入れていない。リビングは薪ストーブと炬燵だけでじゅうぶんに暖かいが、正月にかけて娘達が帰ってくるし、そろそろ試運転しておいた方がいいだろう。

凍った朝は、山が綺麗だ。
南アルプスがそびえる東側の空には、白い月が浮かんでいる。手にとってパリンと割れそうな薄氷のようだ。
眺めながら、月も凍るのだろうか、と考えてみる。
実際の月は、表面温度がプラス100℃以上にも、マイナス100℃以下にもなるそうだ。手にとってパリンと割れそうな月とは、異なるものである。
想像の域を超えたものを捉えようとするときにも、人は自分の領域内で賄おうとしてしまうものなのだろう。
そう考えると、実際の月よりも「お月さま」と呼ぶ、うさぎが餅つきをする月の方が、わたしのなかでは近しいもののようにも思えてくる。
知識ではなく、今、目に見えているものを捉えたい。凍った朝の山々に、薄氷のような月に、思った。

富士山にも雲一つかかっていませんでした。陽が昇ったばかりの顔です。

最低気温の表示はマイナス4℃でした。車も凍るはずですね。

帰り道に撮った南アルプスは甲斐駒ケ岳。凍った白い月と一緒に。

八ヶ岳です。定点観測の場所ではなく、村道から撮ってみました。
明野町になってからも、村だった頃の名残で村道と呼んでしまいます。

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黒曜石のなかの光と影

先日、所用で長野県は茅野駅に行った際、ホームの大きなオブジェに目を魅かれた。八ヶ岳で採石された黒曜石だという。
遠目に見ると、ただの黒っぽい石なのだが、近づいて見ると、町内の埋蔵文化センターで見たものと同様、輝きがある部分を持っている。黒く光る石には、見るものを惹きつける魅力があるようだ。明るく透き通ったものに感じるまっすぐな美しさとは違い、見通せないものに対する恐れや怪しさが漂っている。そういうところに惹かれるのかも知れない。

石には、石言葉なるものがあるという。
黒曜石の石言葉の一つは「潜在能力の開花」
人の心の光と影を映し出す鏡、とも言われているそうだ。心を守るように包んでいる弱さをとり払い、その奥にある真の自分を引き出す力があるのだとか。
パワーストーンの効果のほどは、よく判らない。
だが、黒曜石の怪しい黒を見ていると、何かしらエネルギーを持っているようにも感じる。掌でそっと触れてみると、その冷たさに一瞬、バランスを失ったような何処に立っているのか判らなくなったような、危うい感覚に囚われた。

信州産黒曜石は、和田峠や八ヶ岳冷山などで産出し、旧石器時代から
縄文時代まで、狩猟用の矢尻、調理用ナイフなどに重用されたそうです。

光っているところと濁っているところの違いは何なのでしょうか。

石の裏に回ると、茅野駅の標高がかかれていました。790メートル。
標高約600メートルの我が家より、冬はずいぶんと厳しいのでしょう。

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ジェルネイルな日々

先週、クリスマスを前にジェルネイルをしてもらった。
明るいピンクと薄く落ち着いたピンクのツートンで、わたしの指には少し明るすぎるようにも感じるが、例えば毎朝、洗面所の鏡を見ながら、頬に化粧水をつける指を見るたびに華やいだ気持ちになり、ああ、ネイルっていいものだなあと実感している。

ジェルネイルは、聞いていた以上に丈夫で、マニュキアを塗ったのとは大違い。簡単にはがれたりせず、逆に爪を守ってくれている。マニュキアとの違いは、通気性にもある。爪の呼吸を妨げず、劣化を防いでもくれるらしい。

しかし、それでも大切にしようという気持ちが働くのか、ぶつけないように、ひっかけたりしないように注意するようになった。缶詰のプルトップをムリムリ爪で開けたりしなくなったし、軍手をするのを面倒がり素手で薪を運ぶこともなくなった。ハンドクリームも頻繁に塗るようになった。これまで如何に手や爪を大切にしようという気持ちを持たず生活していたのかが、よく判る。なにしろ、がさつなのだ。これでは、例え世界一美しい手の持ち主であったとしても、手のモデルにはなれまい。無論、世界一美しい手である訳もなく、捕らぬ狸の皮算用にもならないのだが。

そんなジェルネイルな日々を送るなか、夫との会話によく使うギャグがひとつ、追加された。
「年賀状の宛名ラベル、貼っておいてくれないかなあ。ほら、俺、薪の切り出しで、右手傷めちゃったから」と、夫。
「うーん、できるかなあ。ほら、わたし、爪綺麗だから」
そう言うたび、彼は苦笑するのみである。いや、もちろん賀状のラベル貼りはわたしの右手くんと左手くんがやった訳なんだけど。

photo by my husband
手を撮るのって、意外と難しいものなんですね。
夫婦ふたり、何やってんだかと思うほど、四苦八苦しました。
「左手くんが、主役っぽいなあ」と、右手くん。
「いやいや。後ろの右手くんあってこその僕だよ」と、左手くん。
そう言いつつも、左手くん、ちょっと得意げでした。

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サッカーボールは丸く

サンフレッチェ広島と広州のサッカー中継をテレビで観ていて、解説の岡田武史の言葉に、目から鱗が落ちた。
「ゴールを決めるときには、3種類のやり方しかない。キーパーがいない隙を狙うか、キーパーが取れないコースを突くか、力で押し込むか。ゴールゲッターは、このシュートはそのうちのどれか、ということを迷いなく判断し、シュートを打たねばならない。コースを突くか、力で決めるかが曖昧なまま打ったシュートは中途半端なボールとなり、ネットを揺らすことはできない」
だいたい、こんなようなことを言っていたと思う。サッカーに詳しくないということもあるが、そこまで考えるのかと驚いた。

何をするにも、自分自身が目指すところをしっかり把握していなければ、そこには到達しないということか。奇しくも、尊敬する年上の友人に、同じようなことを言われたばかりだった。
「毎日、なんとなく、生きてるよなあ」
だから余計に、岡田の言葉が、胸に残ったのかも知れない。

リビングに転がったサッカーボールを見るともなく眺めると、上も下も、右も左もなく、丸い。その果てしない丸さに、何処へ転がっていってもおかしくない、自由さと頼りなさを感じた。

これは、夫の部屋用のボール。何故に部屋用が必要なのか不明です。
☆ メリークリスマス! どうぞ楽しいクリスマスを ☆



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イライラの連鎖を断ち切る

師走である。道を走ればいつもより車が多い。師走だからと言って、何故そんなにもわらわらと車が増えているのかよく判らない気もするが、そういう自分も、年末年始に珈琲を切らさないようにと甲府に出た際『珈琲問屋』に寄ろうと走っている訳だから、山梨じゅうの人が「今のうちに」「あのついでに」などと考えたとすれば、それは車も増えるだろうと合点がいく。

しかし、車が増えることで承知する訳にいかないこともある。イライラの連鎖だ。山梨も田舎の我が市は、渋滞などとは縁のない場所。なので、少し車が増えただけでもイライラする人が出てくる。割り込み。ムリな追い越し。それに加え、ウインカーを出さずに曲がる車や、我が物顔で道路の真ん中を走る車。
「何なんだよ、いったい」
普通に運転しているこちらまで、イライラの連鎖に巻き込まれる。

ムリムリに割り込んできた車に、いつもは鳴らさないクラクションを鳴らそうかと思ったときだった。CDが変わり、軽快なメロディが流れた。
 ♪ Karma karma karma karma karma chameleon ♪
カルチャー・クラブの『カーマは気まぐれ』二十代の頃に流行った曲だ。
その底抜けに明るいメロディに、一瞬にして気分は変わった。そう。トンネルを抜けたら、そこはハワイだった、というほどに。
苦笑し、クラクションを鳴らそうとした手をハンドルに戻し、思った。
「人間って、単純だよなあ」
その単純さを喜び、気持ち明るく運転することにした。
そうして立ち寄った『珈琲問屋』で豆を選んでいたら、有線だろうか。ふたたび『カーマは気まぐれ』が流れてきたのだった。

初めて選んだ豆、エチオピアのイルガチェフェです。
「バランスのとれた酸味とモカフレーバーが特徴」とあります。
カルチャークラブのCDジャケットはやっぱ、レトロですねえ。
これからは「イライラする」を「カーマカーマする」って言い替えるのは、
どうでしょう? イライラ、いや、カーマカーマしないかも~?

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意味はあったか、なかったか

上京した際、上の娘に会った。銀行からの書類が届いていて、それを渡すためだ。データにして送ればいい、または郵送すれば。しかし、それが面倒なときもある。海外にいるのなら、会う機会もない。面倒も、面倒なりにこなすしかない。だが会う機会があると思えば億劫という言葉が顔を出す。なので、夕飯でも食べない? と誘った。親の驕りとあらば、遠慮もなく馳せ参じるのが子どもというもの。果たして彼女もやってきた。パエリアとサラダを食べ、しゃべって食べ、食べてはしゃべり。彼女は飲まなかったので、わたしはひとり気持ちよくビールを飲んで。

知らない言葉も教わった。
「トランスジェンダー」性同一障害と日本では言われているが、カナダでは「障害」という言葉は使わないのだそうだ。少数派、というくらいの意識なのだろうか。ジェンダーについて日本という国の意識の低さに気づかされた。

楽しく美味しく濃い時間を過ごし、さて帰ろうかと書類を渡した。
「あれっ?」「んんっ?」
よくよく見れば、宛名が違う。手渡したそれは、同時期に夫宛に来ていた書類であった。ふたり呆然とし、そして同時に笑い出した。
「わざわざ会った意味、ないじゃん!」と、わたし。
「わたしは、美味しいご飯が食べられて意味あったけどね。それにその書類、急がないからお正月に帰った時でいいし」と、笑いながら娘。
さて、ここで問題です。娘と会った意味はあったのでしょうか?
全く。いったい何をやっているのやらである。

待ち合わせの待ち時間に見つけた、はりねずみのマスコットと手拭い。
これをゲットしただけでも、意味はあった! と、思いたいです。

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きっかけが大事

最近、夫の車を運転する機会が増えた。
2年前に買い替えたマツダのCX-5で、ディーゼルなので燃費もよく、かといってエンジン音がうるさい訳でもなく、乗り心地がいい。マイカー、フィットも小回りが利き乗りやすいが、CX-5に乗ると地に足がついたような感じがする。運転していて、とても落ち着くのだ。

そのCX-5。最近の車にはよくある機能らしいが、明るさをセンサーで感知し自動でライトがつくようになっている。夏に富山は氷見までドライブしたときには山道を走り、トンネルのたびにライトをつけたり消したり、または消し忘れたりということがなく、とても快適だった。
さてそのライト。夕暮れ時の感知し方が人間っぽくて笑いの種となっている。
「あれ? ライトまだつかないね」と、わたし。
「まだそれほど暗くないってことかな」と、夫。
直後に高速の高架下を通ると当然の如くライトが点灯。しかし、すぐに消えるかと思えば、そのままスモールライトを点灯したまま走っている。
「やっべ。ライトつけるの忘れてたぜ」と、CX-5・・・はもちろん言わないが、まさにそう言ったかのように思え、そんなことが何度となく続いた。

「きっかけって、大事だよなあ」
もしも、CX-5が軽油以外の酒でも飲めるなら、そんなふうに語り合いたいなあと思う。じつは飲み会が延期になった週末、ぽっかり空いた時間をきっかけに、年賀状の印刷をした。やらなくっちゃとけっこう負担にも感じていたのだが、やり始めたら何のことはなくするすると終わってしまった。
うん。何ごともきっかけが大事なんだよ。ねえ、CX-5くん。軽油しか飲めないなんて、じつに惜しい。じっくりと失敗談などを語り合いたい友である。

ナンバーが写らないように写真を編集したら、CX-5くん、
ちょっと上目遣いのお茶目な表情になりました。

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自分自身が幸せになる

週末、赤松の林を隔てたお隣に住むペーパーアート作家、小林さちこさんの個展を観に行った。会場「富士川町・切り絵の森美術館」は、車で1時間ほど走った場所にある、気持ちのよい公園のなかに建つガラス張りの建物だ。
さちこさんの個展は、何度か観に行ったことがある。その作品は、彼女と少しでも触れ合ったことのある者として言わせてもらえば、彼女と彼女の子ども達にとてもよく似ている。そう感じて、何とも言えない暖かい気持ちになったことを覚えている。決して主張ではない、湧き出るような自己肯定。それをできる人は実はなかなかいないんじゃないか。そう思ったのだ。

「周囲の人を幸せにしたいなら、まず自分自身が幸せになりましょう」
さちこさんの言葉として、今回展示されていたものだ。それを読み、これまで感じていたものは間違っていなかったのだと思った。
そして、展示された天使達の姿に、風や光に包まれたような穏やかな気持ちになっていく自分を感じながら、ゆっくりとギャラリーを歩いたのだった。

『小林さちこペーパーワーク展』は12月20日まで開催されています。

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睡蓮の浮く水の底

上野は東京都美術館に『モネ展』を観に行った。
夏に旅したパリ、オランジェリー美術館で観られるとばかり思っていた『睡蓮』を、まさかの改装中で見逃し、思いは募っていたのだ。それを空の上で誰かが見ていたかのように、チケットが降ってきた。偶然にも泊まったホテルのパックに、チケットがついていたのだ。
「これはもう、行くしかないよね」
娘の引っ越しの翌日、久しぶりに上野を歩いた。不忍池を散歩するような感覚で、美術館に足を踏み入れた。しかし、散歩するかのようにのんびりとモネを観て歩くことはできなかった。ものすごい人だったのだ。人いきれに疲れ、絵を観る気持ちは、たぶんその場の雰囲気にずいぶん左右されることだろうと、冷めた気持ちになっていった。

だが、睡蓮を描いた一番大きな絵の前に立った途端、覚めていた気持ちなど、すっかり何処かへいってしまった。
一瞬にして、透き通った水の底を覗きこんだときのように、不意に吸い込まれてしまうかのような危うい感覚に襲われたのだ。
モネは連作『サン・ラザール駅』で、蒸気の向こうにある機関車の漆黒を描きたかったのだという。駅や機関車を描きたかった訳ではなく、蒸気や煙の向こうに見える世界を描き出したかったのだと。
睡蓮の浮く水の底には、何を見て、何を描こうとしていたのだろうか。

晩年、白内障をわずらい、色彩感覚のバランスを失いつつも描き続けたモネ。蒸気の向こうの、水の底の、見えない部分まで目を凝らし、心を傾けて描いていたからこそ、描き続けることができたのかも知れない。

上野は、初冬の透き通った陽射しがまぶしく暖かでした。

〈「睡蓮」、画家が最後まで手放さなかった一枚。〉
86歳で亡くなるまでモネの手もとにあった絵が、展示されています。
今週末、13日、日曜日までです。



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帰ってきたブーツ

修理に出していたブーツが、帰ってきた。
とても綺麗に仕上がっている。うれしい。
人の手をかけて修理してもらったのだと思うと、今までにも増して大切に履こうという気持ちになる。それは、新しい靴を買ったときよりも強い気持ちだ。しかし、そう考えて、気づいた。新しい靴だって、人の手をかけて作られたことに変わりはない。あたりまえすぎて、忘れているだけなのだ。

わたし達は、何処かの誰かが作った靴を履き、何処かの誰かが作った服を着て、日々過ごしている。物言わぬ帰ってきたブーツは、そんなあたりまえのことをそっと教えてくれた。
様々な人の手を、思い浮かべてみる。デザインした人、作った人、運んだ人、売り場に並べた人、修理した人。ブーツ一足だが、かかわった人は、それだけではあるまい。大切に履こうという気持ちは、さらに大きく膨らんだ。

足に馴染んだ、わたしだけのブーツ。これからもよろしく。足もとも暖かな冬になりそうでうれしいよ。

ジーンズにもスカートにも合わせやすく、カラフルなレッグウォーマーを、
合わせて楽しめるところも、気に入っています。

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ミニマムな彼女

娘達が、東京で二人暮らしを始めた。
家族で様々話し合った末、今はそうすることがベストだということになったのだ。場所は末娘の大学にも通学できる範囲内の十条だ。にぎやかな商店街が楽しい町である。

上の娘は、新生活のためにそろえなければならないものが多々あり、家から持っていくものは、夫の車で運んだ。
その際、わたしが食器など一通り用意したのだが、彼女はその半分も持っていかなかった。例えば、茶碗2つのうちの一つ。皿4枚のうちの2枚。コーヒーカップは使っていなかったソーサー付きの新しいものをと思ったのだが、マグカップ一つで事足りるそうだ。ミニマムなどと耳に新しい言葉を使わなくとも、彼女にはモノを持たない生活が身についているようだ。
換算すれば2年以上海外で暮らしているのだから、感覚が違ってあたりまえなのかも知れない。あたりまえなのかも知れないが、しかしそのことに、わたしはとても驚いたのだ。どんなふうに? と聞かれれば、たぶんこう答える。
「これは、本格的に大人になったってことだよなあ」
ミニマムがいいとか悪いとか、そういうことじゃない。彼女がライフスタイルを確立していることに驚いたのだった。

さて。娘達二人の生活は、どんな化学反応を起こすのだろうか。

引っ越しの手伝いに行き、パンを買いに行った近所のパン屋さん。
クリームパンが可愛かったので、購入後、写真を撮らせてもらいました。

大き目のマドレーヌ型。こういうの、憧れていた頃がありました。

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おニューのヒートテックでホッ

ユニクロで、ヒートテックのシャツとタートルネックを買った。
3年ほど着たものをリサイクルに出し、買い替えた新しいものを着ると、着心地がまるで違う。去年まで着ていた洗いざらして擦り切れたヒートテックとは、雲泥の差。ヒートテック然としている。比べ物にならないくらい暖かい。今年は薄手のフリース生地のタートルネックもヒートテックになったらしく、さらにまた暖かい。ダブルで着ていると、肩の凝りも少し楽になったような気がする。何と言うか、じわりじわりとホッとする感じだ。その「ホッ」が普段着には、必要不可欠なのだ。
もったいなくて毎年新しいものには買い替えられないが、今年の冬はいつもより暖かく過ごせそう。小さな幸せは、ヒートテックのなかにもあるようだ。

先週、八ヶ岳下ろしが吹き、青空の下、雪が舞ってきた。
冷たい木枯らしだが、舞う雪を眺めるのは悪くない。粉のように軽い雪を掌で受けとり、冬が来たんだなあと実感した。

ハリー「ヒートテック、あったかいなあ」
ネリー「ほっかほかねえ」
いやいや。ハリーとネリーもあったかくて、ほっかほかだから。

昨日の朝の八ヶ岳です。日中陽が照って夕方には雪は解けていました。
これからの季節、そんなふうに毎日表情を変えていくのが楽しみです。

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ヴァンくんとフォーレちゃん

週末、今季 J1の試合すべてが終わった。
この機会に(?)ヴァンフォーレ甲府のマスコットキャラクター、ヴァンくんとフォーレちゃんを紹介したいと思う。甲斐犬をモチーフにしたキャラクターで、「風林火山」からとったクラブ名のヴァン「風」とフォーレ「林」の名をそれぞれつけられたふたり。やんちゃなヴァンくんとおしゃまなフォーレちゃんは、スタジアムで見かけるだけで心が和む存在だ。Jリーグの他のマスコットと比べ特出すべき点は、大いなる普通さ。奇をてらうことのない安心する可愛らしさは、Jリーグいち、いや世界一だろう。
そして、ヴァンフォーレならではの近しさも、魅力の一つ。例えば、アウェイゲームを観戦に行ったサポーターからは、こんな声が聞かれる。
「きょう、ヴァンくん、来てないね」「お金、なかったのかな?」
まるでヴァンくんが新幹線のチケットを買おうと財布の中身を確認する姿が思い浮かべられるような会話だが、本当のところは、ヴァンくんを連れてこられるだけの余裕がチームになかったのかな? という会話だ。ヴァンフォーレサポーターは、常にクラブの懐を心配している。それゆえの会話なのだった。

プロビンチア(小規模都市に本拠地を置く経営予算の少ない地方クラブ)の代表であるヴァンフォーレは、専用練習場も去年出来たばかり。環境整備にも、選手獲得に割ける予算も、何処よりも少ないなかでがんばっている。近くで見ていたら、思わず応援したくなるようなクラブなのだ。そこでいつも笑顔で応援するヴァンくんとフォーレちゃん。会えた日は、いいことがあったような気持ちになる爽やかなマスコットキャラクター達である。

さて。今季優勝したサンフレッチェは、本当に強かった。その強いチームのなかで、ヴァンフォーレで育ち移籍した佐々木と柏が活躍した。それが、ヴァンくんとフォーレちゃんにとって、とてもうれしいことだった、らしい。
来季も、J1! がんばれ、ヴァンフォーレ甲府!

最終節の試合を終え、セレモニーに参加するヴァンくんとフォーレちゃん。
おそろいのTシャツは、今季前半勝てなかったヴァンフォーレの年間順位が
折れ線グラフになっています。残留まで苦しんだことがうかがえます。
とっても仲良さそうなツーショットですが、関係はお友達だそうです。

監督のご挨拶をまじめに聞く背中としっぽも、りりしいですね。

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浮遊する魂

最近よく、魂が浮遊する。
と言っても、何のことはない。くしゃみがよく出るだけだ。
家に一人でいるときに出ることが多く、魂を戻すおまじない「bless you」と言ってくれる人はいない。なので、くしゃみと同時に口から出た魂は、部屋のなかを浮遊し、天井にぶつかり、床をバウンドし、吹き抜けの一番高い天井の隅っこでうとうとしていたりする。
海外の迷信である「くしゃみをすると魂が抜ける」という話を聞いて以来、たびたびそんな空想をしてしまうのだ。くしゃみがよく出るようになったのも、案外そんなふうにふわふわと空想していたからかも知れない。

魂の抜けた身体は余計な力が入ることもなく、浮遊する魂と同等にふわふわと軽くなったような気がする。重力を、忘れる。記憶を、失くす。目を、閉じる。光を、感じる。そしてしばらく待って、自ら言うのだ。
「bless you」

天井にぶつかって、ふわりと落ちて、また飛んで、またぶつかって。

2階にある窓ガラスをスーッとすり抜けて、青い空へ。

雲と一緒に、ふわふわ遊ぶのも楽しいかも知れません。
リフレッシュ術、と言うほどのことでもありませんね。

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ぺたりとくっついている重要性

はりねずみは眠るとき仰向けになることは、まずないだろうが、わたしは仰向けで眠ることが多い。掌を上に向けて眠ると、身体じゅうで何かをキャッチしているような、パワーを溜めているような感覚になる。それはそれで好きなのだが、うつ伏せで眠るのも好きだ。抱いているのは布団だが、大地を抱いているような感覚になる。大地に溶けていくような、と言ってもいい。身体じゅうが何かにくっついている感覚は、うつ伏せ寝の方が強いかも知れない。

子ども達が赤ん坊のとき、息子は仰向けで寝かし、娘たち二人はうつ伏せ寝をさせた。どっちがいいとか、流行りだとか、若く経験のない母親はいつも試行錯誤のなかにいる。最近では、うつ伏せ寝は危険だという意見が多いと聞く。本当のところは判らないが、深く眠りすぎてそのまま目を覚まさないことがあるとの説も語られているらしい。
もぐらは、足の裏以外の身体の何処かが何かにくっついていないと死んでしまうという話を聞いたこともある。不安で不安でしょうがなくなるのだとか。
身体の何処かが何かにぺたりとくっついているということは、それだけ心落ち着くことなのだろう。子どもがお母さんの抱っこが好きなのも、暑くてもくっついてくるのも、そんなことも少し関係しているのかも知れない。

末娘が成人し、今はもう、子どもを抱くことはなくなった。しかし、しばらくぶりに会ったとき、ふざけた感じでハグをする。それはまあ、たいてい酔っぱらっているときなので「お母さん、うざい」などと呆れられる訳なのだが、酔った頭でも、意外にしっかり考えているのだ。
大人になってもきっと、誰かに抱きしめられると心落ち着くものなのだと。
いや、もう母は必要ないだろうって? それは、そうかも知れないけど。

「ハリーったら、何してるの?」
「アイピローだよ。お母さんが気持ちよさそうにしてるやつ」

「あ、ほんと。気持ちいい」「だろー、ネリー」
いつも枕元にいる、はりねずみの手袋達の会話でした。
読んでいる本が何冊か、常に置いてあります。

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雪化粧した八ヶ岳

冷え込んだと思ったら、八ヶ岳が雪化粧をしていた。初冠雪だ。
「山の上は、凍える寒さなんだろうな」
雪を降らせた雲に覆われていたが、雪化粧した山肌は見るからに冷たく、鋭利な刃物を連想させる。
その姿を見て、毎年のことなのに、ああ、と再認識することがある。
「雲は冷たい」ということだ。

雪は手で触り、冷たさを知っている。だが、雲に触ったことはない。霧のなかにいるとき、雲のなかにいるようなものなのかも知れないが、雲に触ったという実感はない。そのうえ、あのふわふわとした外見。青空のなか、のんびりと流れるさま。その印象が、山を覆っているときにも頭から離れない。黒雲が雨を降らせることはきちんとイメージできるのに、真っ白い雲には、何か暖かなものを感じてしまうのだ。
だから、八ヶ岳が雲をかぶっていると、まるでダウンパーカーを着ているかのように暖かそうに思えてしまう。そして毎年、こんなふうに雲間から雪化粧をした八ヶ岳が顔を見せると、驚くのだ。ああ、雲は冷たいのだと。

「本格的な冬が、やってくるなあ」
夏とは違う顔を見せる八ヶ岳に、思うのだった。

初冠雪を祝っているような、しかし不穏さも感じる印象的な雲。
この冬、大雪になりませんように。

アップにすると、こんな感じ。ピークスという言葉が浮かびます。
八ヶ岳だから、エイトピークスってことになるのかな?

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東京時間とロクシタン

何年かぶりに、いや、何十年かぶりにぎゅうぎゅうの満員電車に乗った。新橋から赤坂見附に向かう銀座線は、乗る前からものすごい人だった。
「これって、日常の風景なんだよね?」
はるばる異国にやって来たかのように、自分が身を置いている人ごみのなかを俯瞰してしまう。だいたい、わたしにしたら次々と電車が来ること自体が、夢のなかの出来事のようなのだ。乗り遅れても、次の電車に乗ればいいなんて、びっくりだ。山梨では電車に乗り遅れてしまったら、次は1時間後に来ればましな方。東京という場所は、何とも便利にできているのだなあと感心する。
東京生まれ東京育ちのわたしだが、15年以上も住んでいれば田舎の人間になるのだろう。東京時間についていけず、足早に歩く人や満員の電車を、何処か遠くから眺めている気分になってしまうのだった。

先日も、ああ時間の流れ方が違うのだとハッとした出来事があった。
新宿小田急のロクシタンで、どうしても欲しかったルバーブのハンドクリームとリップバームのセットを予約したときのことだ。予約票に名前と電話番号をかきこみ、手続きがすべて終わったあとに店員さんが言った。
「明日発売なので、一週間以内にご来店ください」
「一週間?」
驚いて聞き直してしまった。一週間以内に東京に来る予定はなかった。
「すみません。山梨に住んでいるので、ムリそうです」
感覚の違いに呆然としつつ言うと、店員さんも、驚いた顔をしている。
「では、いつ頃ご来店できそうですか?」
「一か月以内、なら」
遠慮がちに言うと、彼女はすぐに予約票に一か月後の日にちを記入してくれた。その柔軟な対応に感謝しつつも、東京時間に馴染めなくなっている自分を再確認したのだった。どちらがいいとか悪いとかではなく。

昨日、予約したセットを取りに行った。
さっそくハンドクリームを塗ってみると、山梨のなかでも田舎時間の我が家のリビングにルバーブのいい香りが広がった。
 
お洒落な箱に入っていました。試供品のヘアオイルを使うのも楽しみです。

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小さなつまづきと熱いシャワー

小さなつまづきが続くとき、というのがある。
普段しないようなミスを繰り返し、時間や場所を間違え、だいじょうぶだと思っていたことが思わぬ方に転ぶ。そしてその重なったつまづきによって、押し出された時間や仕事が、また次のつまづきを呼ぶ。その繰り返しは、やがて大きな失敗につながっていく。そんな流れにハマってしまうと、何処かで感じていたはずの自分のなかにあった失敗の予感にさえも気づかない。小さなつまづきは、余裕という隙間をも埋めてしまうのだ。

ようやくその流れから逃れられたと思った瞬間もまた、小さなきっかけだった。仕事で出かけた東京で、疲れたなあとため息をつきながら、ホテルで熱いシャワーを浴びた。そのとき、いくつものつまづきによる疲れが流れていくのを、はっきりと感じたのだ。
何のことはない。我が家のシャワーより、ホテルのそれの方が水圧が強かっただけのこと。肩に強く当たる熱いシャワーが、思いのほか身体の芯の部分に届くかのようで、それは、いつの間にか心にたまった澱のようなものも、溶かして流してくれるように感じたのだった。

小さなつまづきは、自らのふとした不注意によって起こるが、次々重なっていくさまには、天から見ている誰かの悪戯のようにも思える。そして、その流れが終わる瞬間も、偶然によって起こることが多く、やはり誰かが悪戯していたのかと、空を見上げたりしてしまう。
そんなふうに考えるとこのところ続いたあれやこれやも、熱いシャワーを浴びられる幸せを忘れていたわたしに、それを教えようと誰かが企んだプログラムだったのかも知れない。などと、考え込んでしまったりもするのだった。

東京は汐留。クリスマス仕様にライトアップされていました。

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木っ端と、とるにたるるモノ達

「薪、運ばなくちゃ」「今夜の分は、持つんじゃない?」
そんな会話が交わされる季節となった。
まだ日中は薪を燃やすことはないが、夕方からは毎日薪ストーブに火を入れている。リビングは、薪の炎でやわらかく暖かい。寒いのは苦手だが、ゆらゆらと燃える薪の炎を眺められる季節になったかと思うとうれしくなる。
「木っ端も、運んでおいたよ」「ありがとう」
夫は、まめに薪割り後の木っ端を集め、きちんと焚きつけ用に乾燥させている。これがあると、火を入れるのがとても楽だ。小枝なども焚きつけに使うが、木っ端の方が断然よく燃える。木っ端達は、薪ストーブに火を入れる際とっても頼りになるやつらなのだ。

木っ端を燃やしながら、そう言えば「木っ端」って、あんまりいい意味で使われないよなあと考えた。「木っ端役人」と言えば、たいして役に立たない役人のことだし「ガラスが木っ端微塵」などと聞くと、ガラスなのに「木っ端」? と混乱する。「木っ端」を辞書で引くと、案の定「とるにたりない、つまらないもの」とあった。

いやいやいや。木っ端、役に立つし、とるにたるるよ。つまらなくなんかないよ。木っ端があってこそ、薪だって勢いよく燃えてくれるのだ。
うーん。とるにたりないものだと思っているもののなかにも、なくなったら困るものがたくさんあるのかも。輪ゴムとか、ビニール袋とか、鍋つかみとか。
揺らめくストーブの炎を眺めつつ、とるにたるるモノ達を数えてみた。

薪ストーブの周りは、いつも雑然としています。
今、ベランダ補修工事中で、足場が組んであるのが窓から見えています。
ストーブの上で回っているのは、熱伝導で回る温風機です。

噂の木っ端さん。よ~く乾いている優良の木っ端です。

火をつけると、ぱちぱちと音を立てて、すぐに燃え始めました。

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富士山の教え

最近、笠雲をかぶっている富士山をよく見る。
季節の風物詩なのだろうか。その姿もお馴染みとなり、へーベルハウスのCMのように、笠雲をシルクハットよろしく「はーい」と持ち上げ、挨拶する姿を思い浮かべたりもする。
「おはよう、富士山。おはよう、笠雲」
こちらも挨拶する。

富士山を見るのは、大抵、車で走っている時だ。我が家から八ヶ岳と南アルプスの端っこは見えるが、富士山は見えない。富士山をよく見るということは、それだけ車を走らせているということになる。ぼんやりと富士山の何層にも重なった雲を見ていて、不意に思った。
「足もとに広がる秋を、見ていないなあ」
このところ、運転中に山々を愛でる以外、じっと見つめているものは、文庫本の活字とパソコンのなかのあれこれが多いと気づいた。

そろそろ霜が降りる。庭の水道を凍結防止の冬仕様に切り替え、かさこそと落ち葉を踏んで歩いた。庭は今、隣りの林から落ちたクヌギの葉でいっぱいだ。もちろんどんぐりも。庭の紅葉も落ちている。ヤマボウシや姫シャラの葉も。
「もう少し、外に出なくちゃなあ」
インドア派のわたしにも、富士山は様々なことを教えてくれる。

一昨日の風景。韮崎へ向かう農道からは、富士山がよく見えます。

いくつもの層が重なってできた笠雲は、レンズ雲の一つだそうです。
富士さ~ん、その帽子、とっても似合ってるよ。

こちらは庭の様子です。南天の実は赤く、赤く。

雪柳の赤くなった葉に、季節を間違えた真っ白い花がちらほらと。

サザンクロスは、夏じゅう咲いていましたが、最後の蕾がふたつ。

ワイルドマジョラムは、霜を待っているかのような顔をしています。

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アイルランドの丸い石

アイルランドの土産をもらった。上の娘が旅してきたのだ。
丸い石にフクロウを描いたものだ。様々な絵が、様々な石に描かれていたという。人と同じく、石も、絵も、同じものはない。そのなかで「お母さん、こういうの好きだろうなと思って」と選んでくれたものだ。
「フクロウは、福が来る、幸せを呼ぶ鳥だって言われているらしいよ」
「そうなの?」
意味など考えてもいなかったというように、彼女は言った。ただ感覚のみで選んだのだろう。シンプルな絵も、色合いも、確かに好みだった。親子とは不思議なものである。

丸い石を手に取って、川を流れ角が削れ、丸くなったのだろうと、掌につややかな丸みを感じながら考えた。アイルランドにも川が流れ、それは海に続いている。ふと思い出したのは、映画『おくりびと』のワンシーンだった。
自分の心の形をした石を、いちばんぴったりとくるものを、幼い頃、主人公は、河原で父親と探した。丸いのかごつごつしているのか、大きいのか小さいのか、白っぽいのか黒ずんでいるのか、重いのか軽いのか。映画では、亡くなってから再会することとなった父親が、その手に丸い石を持っているのを大人になった主人公が見つける。

自分の心の形を思い描くとき、誰もが丸い石を思うのではなかろうか。それは、こうあってほしいというささやかな願いだ。思い描く形が丸だとしても、掌にのせてみたら、ささくれてがさがさした手触りかも知れない。決定的に欠けた部分が見つかるかも知れない。
しかし、丸くあってほしいと願う気持ちがあれば、欠けた部分もきっといつか、削れて角が取れ、丸くなっていくだろう。
娘がくれたフクロウが描かれた丸い石に、そんなことを思った。

ピンクストライプの薄紙の包装紙に、無造作に入っていました。
誰が描いたのかなあと、遠くアイルランドに思いを馳せます。

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新しいものと手をつなぐ瞬間

パソコンが、寿命が近づいたことを告げるメッセージを発し始めたのはしばらく前のことだ。突然画面が暗くなったり、エラーが多くなったり。
経理の仕事で使っているので、突然ダウンされると大ごとになる。早めに新しいパソコンを購入した。

以前はパソコンの設定など、自分ではできないものだと思いこんでいたが、子ども達が軽々とやっているのを見て、そんなに難しいものではないのだと自分でやるようになった。
案ずるより産むがやすしとはこのことだ。やってみれば、何とでもなるものだった。たぶん、以前より簡単にできるようにもなっているのだろう。
メール設定も済み、仕事用のいくつかの設定をし、やれやれと一息つく。
一息つくと、デスクトップの画像が気になって来た。綺麗な植物の写真だが、綺麗過ぎて落ち着かない。何にしようかと古いパソコンを起ち上げて探した。
「あ、これにしよう」
これまでは、夫が撮ったリビングにある雑貨の写真にしていたが、今年の夏に撮った、ちょうどいい写真があった。雨上がりのけろじだ。

デスクトップにけろじの画像がいっぱいに映ったとき、すっと胸に落ちた。
「あ、今わたしのパソコンになった」
新しいものと手をつなぐ瞬間というのは、こういう瞬間なんだろうな。

水遊び中のけろじ。何とも、気持ちよさそうなんです。

古い方のパソコンのデスクトップ画像です。これも気に入っています。

今、デスクトップはこんな感じ。設定、がんばります。

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来年のカレンダー

来年のカレンダーを買った。
トイレに置くのにちょうどいい、卓上の小さなものだ。予定をかき入れる訳でもないので、デザイン重視。新宿の雑貨屋で気に入ったのを見つけ、気が早いかとも思ったのだが、これも出会いだと購入した。

カレンダーを買うと、月ごとのデザインを見てみたくなる。日めくりなら、たぶん365枚をめくることはないのだろうが、たったの12枚。楽しみながらあっという間にめくり終えてしまう。
だが、いつだったか末娘に同じように新しいカレンダーを見せようとしたところ、怪訝な顔をされた。
「先に見ちゃったら、月の初めにめくる楽しみがなくなっちゃうじゃない」
ほう。そういう考え方もあるのかと、目から鱗だった。
それ以来、めくってみることはせず、月初めを楽しみにしている。
というのは、嘘。そうしてみたいなと思いつつ、我慢できずについ全部めくって見てしまうのだ。

刺しこんで立てるタイプです。来年の成人の日は11日なんですね。

2種類売っていました。これは、白地に赤と青バージョン。
藁半紙色(?)に緑とオレンジバージョンもありました。

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近未来の街を眺めて

久しぶりに新宿に出ると、クリスマスの装いに驚かされた。
南口の改札を抜けると、花屋にはポインセチアが赤い葉を揺らし、クリスマスリースだのスノーマンだのが飾られている。雑貨屋『フランフラン』や東急ハンズでは、クリスマスツリーやリースなどの飾りが店内入口に眩しいほどの華やかさで売られている。
「ついこのあいだまでは、ハロウィン色だったのかな」
そう思うと、季節の先取りに人間の方が踊らされているようにも思えて、可笑しくなった。だが売る方は商売なのだ。真剣に取り組んでいる姿には敬意を払いたい。子ども達が巣立ち、クリスマス飾りと無縁になった今、それらを手に取ることはないのだが。

そんな都会の風に吹かれ、所用で一泊した朝、JR南口にあるお気に入りのパン屋で朝食をとった。焼き立てのパンと美味しい珈琲。1階に売り場があり、2階にはテーブルやカウンター席が並ぶ。朝の明るい陽射しが爽やかだった。
「いろいろだねえ」カウンターから通り行く人を眺め、夫が言った。
「ああ、服装のこと?」同じように感じていたので、すぐに判る。
コートを着てマフラーを巻いた人。薄手のパーカーを羽織る人。分厚いセーターを着た人。ジーンズに半袖シャツ1枚の人。ダウンジャケットをしっかり着込んだ人。本来の季節が判らなくなってくるほどに、まちまちだった。
会社員はスーツだから簡単だろうという訳でもない。かく言う夫も、毎朝のように迷っている。
「コーデュロイじゃ、暑苦しく見えるかな?」
「でも、さすがに夏物って訳にはいかないよねえ?」
11月なら、とっくに着ているような服装だが、今年は北風小僧がやってくるのを嫌がっているかのような暖かな日が続いている。まるで季節にからかわれているかのようだ。

熱い珈琲を飲みながら、近未来みたいだな、と思う。クリスマスの装いの街に半袖シャツの人。何処か遠くの星を旅しているような、地に足がつかないような不安定さを一瞬感じ、ふわりと立ちくらみがした。

JR南口改札前のお花屋さん。ポインセチアの赤が眩しかったです。

こちらがパン屋さん『GONTRAN CHERRIER(ゴントラン シェリエ)』

白が基調の店内は、何気なく赤と青が効いたトリコロールカラー。

焼きたてのイカ墨フォカッチャと珈琲の、朝ご飯です。

JR新宿駅南口が見える、明るいカウンターで食べました。

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ブーツの修理

迷いに迷って、決めた。ブーツの修理である。
以前、真冬の箱根に温泉で温まろうと出かけたとき、履いていたブーツのかかとが外れてしまい、慌てて入った靴屋で買ったブーツだ。壊れたのはかなり年季が入ったブーツだったのでショックは大きくなかったが、旅先で靴が壊れるというのは、何とも心許ないものだとすっかり落ち込んでいた。
だが、そこで入った靴屋で見つけたブーツを履いた途端、春の光が射しこんだかのような明るい気持ちになった。ぴっりだったのだ。こんなにぴったりの靴は履いたことがない、というほどだ。

そのブーツを履いて3年ほど。白っぽい色なので汚れが落ちず、爪先などはすり切れている。下駄箱から出してみて、これでは雪の日の長靴代わりにしか履けないと、顔をしかめた。
「何とか、ならないかなあ」
靴を修理できるところを探したが、けっこう値が張る。見積もりをしてもらうと、色を塗り直す必要があり、1万円弱かかるという。
「1万円出せば、新しいブーツ買えるよなあ」
お気に入りのブーツは、普段履きにして、新しいものを買おうかと考えていたら、夫が言った。
「気に入ってるんだったら、修理に出せば? 足に合う靴は、なかなか見つからないもんだよ」
迷いに迷っていたのは、箱根で出会ったときにわくわくしたあのブーツを、もう一度履きたいと思っていたからだったのだ。夫にアドバイスしてもらい、もやもやしていた自分の気持ちがはっきりと判った。
修理には2週間ほどかかるという。
「綺麗になって帰ってくるのを楽しみにしているよ」
修理屋さんで手渡すとき、心のなかでそっと声をかけた。

『旅靴屋』という何故か箱根にあった神戸のお店で購入したブーツ。
正面から撮ると、ほんとうにしみだらけなので斜め後ろから撮影しました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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