はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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居心地のよさは違うということ

最近、家族というモノについてよく考える。
夫の実家に頻繁に帰省するようになり、夫婦でも親子でも、個なのだなあと感じる機会が増えたのだ。家では、誰もが居心地よく過ごしたいものだろう。だが、その居心地のよさは、一人一人違うのだと。

例えば、天井に吊したペンダントライト。義母は、すべてつけて明るい部屋で過ごす方が好きだが、義父は、半分だけ灯すのが好みらしい。同じ場所で過ごすためにはどちらかが譲らなくてはならない。
また、家族であれば、あるいは夫婦であれば、相手にも、自分の好みを判ってもらいたいと思う気持ちもあるだろう。明るくした方がいいのに。または、明る過ぎない方がいいのに。そんなふうに、相手が自分とは別の部屋にいるときにさえ、気になってしまうということも、ままあることだ。
小さなことだが、譲れないことは、家じゅうに転がっている。家族と言えど、自分ではない誰かと共に暮らすということは、本当に大変なことなのだ。

かくいうわたしたち夫婦にも、もちろん違うことがいっぱいある。
夫はキッチンカウンターのライトをつけるのが好きだが、わたしはキッチンのライトでじゅうぶんだからと、わざわざカウンターのライトまでつけることはなかった。彼がそのライトをつけるのが好きだと判ってはいても、キッチンで立ち働くときには気にかけなくてはならないことが山ほどあり、ライトにまで心配りができずにいたのだ。だがある日、彼が言った。
「ああ、そうか。俺はキッチンの外側の人間だから、このライトがついていた方がいいと思うんだ」
「なるほど。わたしは、なか側の人間だから、そこは気にならないんだね」
そんな会話をしてから、わたしはキッチンカウンターのライトを、毎晩つけるようになった。食卓に料理を運び、キッチンのライトを消すときに。

立っている場所も、見えているものも、同じ家で暮らしていても違うのだ。
もちろん、思うことも、感じる心も。
体調を崩した義母の代わりに夫の実家のキッチンに立ち、彼の両親と過ごす時間に、家族のなかの個が浮き上がるかのように見えてきたのだった。

滅多にスポットライトが当たることのないカウンターのライトです。
キッチンカウンターは栗の木。栗は、水に強いそうです。

薪ストーブのある西側の窓についても、夫にはこだわりがあり、
暮れなずむ林を見ていたいからと、真っ暗になるまでカーテンを閉めません。
でも、ある冷え込んだ夕暮れ、カーテンを閉めずにいたら言われました。
「寒いじゃん」わたし的には「!」そりゃ臨機応変って言葉は知ってるけど。

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後ろ髪という記憶の糸

後ろ髪を引かれる、という表現がある。
ことわざ辞典などによれば、未練が残り、なかなか思い切れないさまとある。
最近そんな気持ちになることがよくあるのだが、未練などというたいそうなものではない。例えば、スーパーに買い物に行った帰り、なんとなくホームセンターが気にかかる。後ろ髪を引かれるのである。しかし、どうして後ろ髪を引かれるのかが判らない。なので、そのまま後ろ髪を引かれる思いを振り切って帰ってくる。そして自宅のリビングで窓際を見た途端、思い出す訳だ。
「ああ、夫に、野鳥達の餌を買ってきてって頼まれていたんだっけ」と。

仕事部屋が気にかかり、訳もなくドアを開けることもある。しかし、やはり何が気にかかっているのか判らない。仕事部屋をぐるりと見まわして、それでハッと気づけばまだいい方だ。判らないままに、キッチンで野菜を刻みながら、不意に思い出す。
「そうだ。通帳を取りに行ったんだった」

また、パソコンを開かなくてはならないと開いたのだが、何をしようとしていたのか思い出せず、後ろ髪を引かれる思いでシャットダウン。立ち上がった途端、思い出す。
「あーっ、閉じちゃったけど、生協のオーダーするんだった!」

そんな日々である。全く、嫌になる。しかし、とも考える。ときどき、この後ろ髪さえも引かれず、しっかり忘れていることがある。ひどいときには、思い出したはずなのに、忘れていたという意識さえ飛んでいることも。
今は繋がっている、この後ろ髪という細く頼りない記憶の糸。大切にしていかなくては、としみじみ考える。大切にするためには、思い出せないことでも、思い出そうとがんばってみるのが効果的らしい。50代。記憶というものが崩壊していくさまを目の当たりにしつつ、日々がんばっているのである。

庭のヤマボウシにとまる、カワラヒワ達です。
「鳥さん達のために、向日葵の種、忘れないでね~」と、夫。
「判っては、いるんだけどなあ」と、わたし。

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エスカレーターに乗るときに

「あれ? どっちやったっけ?」と、わたし。
「わからんように、なってまうなあ」と、夫。
今年に入って義母が体調を崩し、頻繁に神戸に帰省している。
山梨と、会社のある東京、そして神戸を行ったり来たりしているものだから、夫は、もともとの関西弁と二十歳の頃に習得した東京弁とが入り交じり、わたしにも移ったりしている。だが、わからんようになったのは言葉ではない。エスカレーターの話だ。

東京でエスカレーターに乗るときには、左側に立ち、右側は歩く人用に空けるのが常識になっている。それが神戸では逆。右側に立ち、左を開けるのだ。
帰省中は、荷物を入れたキャリーバッグを引くことが多く、反対側に並んでしまうと人の波に乗れずに困ることになる。
その右立ち、左立ち。関西では、阪急電鉄が梅田駅で右立ちを推奨したのがきっかけらしく、右利きの人が多いことから右手の方が手すりが摑みやすいと考えたからだとか。関東では、自動車の左側通行に倣ってのことだそう。なので右側通行の外国では、関西と同じく右立ちが一般的らしい。
もともと歩くものではないエスカレーター。安全のために歩行禁止にした方がいいのではないかと最近言われ始めたが、ラッシュ時に人がはけなかった場合ホームからの転落事故などの危険性が危惧され、解決策は霧のなかだそうだ。

義母の病院に付き添った帰り、JRの駅についたのが、夕方のラッシュ時間になってしまった。エスカレーターを見ると、なんと左右両側を速足で歩く人達の姿があった。杖を突いた義母は、人の波に乗って歩くことはできない。義母に腕を摑んでもらいながら、ゆっくりとエレベーターまで歩く。
「そんなに急いで、何処へ行くのやら」
昔流行った交通標語が、ふと、こぼれた。

東海道新幹線から見えた、いつもとは反対側からの富士山。
悠々としているなあ。人間は、小さいよなあ。

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これから視野を広げていくであろう彼

クリスマスにして以来伸びるままに放っておいたネイルを、ようやく新しくしてもらった。ミルキーホワイト&ラメのシンプルなネイルだ。とても気に入っている。そのネイルをしてもらっているときに、ハッとする出来事があった。

前日、自宅でネイルをしてくれる彼女からメールがあり、子どもの幼稚園がインフルエンザの流行で休園になってしまって、家にいるんですがいいでしょうか? という内容だった。だいじょうぶですよ、と返信したが、だいじょうぶなのかな? とちょっと心配もしていた。2歳の息子くん。いたずら盛りの反抗期だよねえ、と。
実際、彼はとてもおとなしくしていて、こんなにおとなしいのは珍しいと彼女も言っていたが、少ししてテレビにも飽きると、ネイルに使うラメやビーズが入った小さなケースで積み木を始めた。
叱ったりせず、中身が出ないようにしてねとだけ優しく言う彼女に、こちらもゆったりした気分のまま、爪を塗ってもらう。
「ああっ!」
しかし一瞬、息子くんの気配が消えたような静けさのあと、彼女が呆れたように笑い出した。金色の小さなラメの粒が、キラキラと床に散らばっていた。
彼は、と見ると、ラメが入っていたケースを目の前に持ってきて目を隠し、目をつぶったり、お母さんの顔を覗いたりしている。
「それ、隠れてるつもりなの?」と、笑いながら彼女。
「隠れてるんだねえ」と、笑いながらわたし。
そうかあ、と遠い記憶を手繰り寄せる。まだ、自分に見えていないものは、相手にも見えないと思ってしまうような視野自体も曖昧な世界を生きているのだなあと。これから彼は、自分に見えているものと他の誰かに見えているものを、しっかりと捉えていくようになるのだろうなと。
大人になったって、視野の広さは人それぞれだ。視野を広く持ちたいと常々考えてはいるが、考えるだけで広がるものでもない。
彼は、これからスタートしていくんだ。そう考えると応援したくなる。
がんばれ! 息子くん。そして、お母さんも。

「今回は、ぼくが主役だね」と、右手くん。
「右手くん、シャッター押すの慣れてると思ったら、意外と不器用」
と、左手くん。自撮りしてみました(笑)
左手くんと右手くんの会話はこちら → frozen shoulder 徒然
☆ ネイルとリンパマッサージのサロン『ル・ブラン』は甲府にあります。
  ネイルはラメやストーンを使っても5000円。女性限定サロンです。
  興味のある方は、プロフィールにあるアドレスにメールください。

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久しぶりの雨上がり

「雨上がり」という言葉が好きだ。
それだけで、もう詩のような響きがある。明るいの「あ」から始まり、リンとなる鈴の音のような「り」で終わる綺麗な言葉だ。

雨も嫌いではないが、雨が上がって空が晴れていくのと同様に、気持ちもスッと晴れていくような気がする。などということも「雨上がり」という言葉をイメージアップしている理由の一つなのかも知れない。
雨の日には、雨音が子守歌代わりになるからか、湿度が丁度いいのか、よく眠れる。そんなこともあり、雨上がりには身体の疲れがとれている。だから余計に、穏やかなホッとするような言葉として捉えられるのかも知れない。

週末、しとしとではなく、ザーッと雨が降った。ずいぶんと久しぶりに、雨の音を聴いた気がした。なので当然、雨上がりも久しぶりということになる。

雨のいいところの一つに、バイオリズムの低下を「雨のせい」にできる、というのがある。他のことで悩んでいたり落ち込んだりしていても、すべて「雨のせい」にしてしまえる。そして、雨上がりは、そろそろバイオリズムの波を上に向けていかなくっちゃと思う、きっかけになる。
落ち込むことがあったって、雨だから、雨上がりだからと言いつつ自らバイオリズムを調節し、長い人生なんとか元気にやっていけるのである。

韮崎方面に向かう村道で。西側に広がる山々と逃げていく雨雲達。
帰りには、すっかり明るくなっていました。

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レンズ雲の層の隙間に

一昨日、スーパーで買い物した帰り、北の空にレンズ雲を見つけた。
横長のレンズ雲の塊が4つ、縦に並んでいる。レンズ雲はシャープな雰囲気で、綿菓子のようなふわふわしたイメージの雲達とは一線を画している。空にペタッと貼りついているかのようにも見える。それが4つも重なっているのは、不思議な光景だった。
それ一つでも何層もの雲が重なってできているというレンズ雲を眺めつつ、車を走らせながら重なってできたものを思い浮かべてみた。
「ミルフィーユ。十二単(じゅうにひとえ)。地層。太い幹の年輪」

年輪と言えば、人も様々なモノを積み重ねて生きているのだよなあと思う。
小さな出来事の一つ一つ。人との出会い。読んだ本。目にした風景。心を動かされた音楽。そして幾重にも重なっていくモノの間には、そのときに感じたこと、考えたことなんかが挟まっているのかも知れない。
ドーナッツの穴のように、ないけれどあるモノが、層と層の間には在るのだと思う。レンズ雲の層の隙間にも、きっと何かが存在するのだろう。それは、人に例えれば、心のようなモノなのだろうか。

一昨日の北の空。最初はもっとくっきり4つに分かれていました。

上空には、アラジンの魔法のランプを連想するような雲が流れていました。

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下品でかっこ悪い行動をとらない日常

朝、夫を駅まで送る途中の信号待ち。
前を走っていた軽が、突然右折した。開店前のホームセンターの駐車場を通り抜ける。信号を避けての近道だ。交通法には引っかからないだろうが、他人の所有地を勝手に通り抜けるのはルール違反だろう。
「わ、お下品」夫が、お道化て言う。
「あーゆーの、かっこ悪いよね」わたしも、苦笑する。
忙しい朝に、時間通りに出られないこともあるだろうが、そういうお下品でかっこ悪いことはしたくない。だから、眠くても早起きするのだ。

やはり朝、宿泊したホテルのビュッフェで。
食べ放題だろうと、自分の皿にとったものは食べる。それが我が家の流儀だ。まあ、お腹いっぱいになっちゃって残すのは致し方ないだろう。だが、そのビュッフェで、紅茶のティーバッグやジャムなどをポケットに入れる人を目にすることがある。
「わ、お下品」夫が、お道化て言う。
「あーゆーの、かっこ悪いよね」わたしも、苦笑する。
その場で、いくらでも食べても飲んでもいいって言うんだから、せめてそこで食べようよ。

道にごみを捨てたり、荷物で場所取りをしたり、後ろに並んでいる人がいるのを知っていて大量に買い占めたり。そういうのって、下品だしかっこ悪い。

価値観とか、まあそんな偉そうなことではないのかも知れないが、わたし達夫婦はけっこう大切にしている。下品でかっこ悪い行動をとらない日常を。
もちろん、上品でもかっこよくもないことは重々承知してるんだけどね。

ビュッフェでもらってきたものではありません(笑)
ルピシアで買い物したおまけにいただいた試供品です。
キャラメル&ラムと信楽熟成ほうじ茶と3種類入っていたうちの、
焙煎豆々茶を開けてみました。

豆々茶って言うだけのことはあって、わ、いろいろ入ってる。

うーん、すっごく香ばしい! 身体にもよさそう。

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思い込みを和らげる鍵②

思い込みのなかには「こうしなければならない」というタイプのものがある。
例えば、料理は手作りにこだわっていた若い頃、出汁も煮干しや昆布、鰹でとっていた。子育て中の忙しい毎日。できないことが山積みになっていくなかで、出汁など粉末のものを使えばいいのにと今なら思えるのだが、その頃のわたしは、きちんと料理しなければならないと思い込んでいたのだ。子どもが生まれたばかりの頃は、朝から小間切れの時間を使ってキッチンに立ち、夕食の支度をしていた。だが子どもも3人になると、そんな時間もなくなった。子どもは外で遊ばせなくてはならないし、テレビやゲームに子守させてはならないから、興味が湧く遊びに誘い出さなくてはならない。嫌いなものも食べさせなくてはならない。熱を出したら病院に連れて行かなくてはならない。泣いたら抱いて寝かしつけなくてはならない。こうしなければならない、という思い込みに自分自身が縛られ、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。

あの頃の自分に、言ってあげたい。そのしなければならないこと一つ一つに、本当にそうなの? と問うてごらん、と。

子育ての時期は終えたが、味噌汁の出汁は創健社の粉末『和風だし』を使っている。しなければならないけれどできなくなったあの頃に見つけた無添加の美味しい出汁だ。自然食品を扱う宅配の『地球人倶楽部』で買っていた。
「今日、地球人が来るよ」
宅配の日にそう言うと、息子はうれしそうに笑ったっけ。
「宇宙人は、来ないの?」と。

ひとりランチのあるものでうどん。なめこと卵とたっぷりの葱と柚子。
うどんの出汁は、和風だし1袋に薄口醤油大さじ2とみりん大さじ1で。

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思い込みを和らげる鍵

自分の思い込みの強さに、嫌になることがよくある。
例えば、美容室で聞いた、こんな会話。
「予約の時間に遅れちゃって、ごめんなさい。前の車がのろくって。枯れ葉マークつけてる軽トラで」と、お客の女性。
「だいじょうぶですよ。お疲れさまです」
わたしは、笑いをこらえながら聞いていた。
枯れ葉マークじゃなくって、もみじマークでしょ。いくらなんでも枯れ葉マークは、お年寄りに失礼でしょ、と。
だが、調べると使用され始めた当初「枯れ葉マーク」と呼ばれていたことが判った。わたしと同じく、いくらなんでも失礼と感じる人がいて「もみじマーク」と改名されたそうだ。その後、枯れ葉のイメージを拭い去るため、デザインも緑、黄緑、オレンジ、黄色の四つ葉の形に変わったのだとか。
ここでさらにまた、わたしは思い込んでいた。運転に自信がない初心者と高齢者を合わせたマークなんだな、どっちをつけてもよくなったんだ、と。初心者は若葉マークをつけなければならないことに、変わりはなかったのだが。

なので、常日頃から気をつけている。どうやって気をつけるかと言えば、当然そうだと思っていることに対して、本当にそうなのか? と問うてみるのだ。そうすることで思い込みでの失敗の半分くらいは減っている。(と思いたい)
自分を疑ってみる。これってけっこう大切なことなのだと、若葉マークの若さゆえとは言えない歳に達し、実感しているのである。

最近、駅弁を食べる機会が多いわたし。あ~、なすび亭のお弁当!
大好きな茄子三昧かな~、と思いきや・・・。

「鶏つくね入り親子丼」って、かいてあるやん!
なすび亭のお弁当であって、なすび弁当じゃないっつーの。
こんなんばっかりのわたしです(笑)

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雪は、硬く硬く凍る

日中の温かな陽射しで、路肩や田んぼに残る雪もだいぶ解けた。だが、雪掻きで積まれた山や陽当たりの悪い場所では、まだまだ残っている。
少しでも陽が当たる場所は、残ってはいても踏むとずぼっと靴が沈むが、まったく陽の当たらないところなどは、カチカチに凍っていて、わたしの体重などではビクともしない。
「雪だって顔して、完全に氷だな」
路肩の雪の塊や、我が家の北側斜面を真っ白に染めたままにしている雪を見ていると、苦い思いがよみがえる。

何年前だろうか。やはり雪が路肩に解け残っていた。
マイカーフィットは4輪駆動ではないため、わたしは、雪が解けるまでと夫がその頃使っていた車、ランド・ローバーに乗っていた。気に入って10年以上乗った、頑丈なRV車だ。その頑丈なローバーのバンパーを路肩の雪に当て、凹ませてしまったのだ。対向車とすれ違うためだった。
「うそ。雪で、車が凹むの?」
その路肩の雪は、雪の顔した氷だったのだ。
雪は、硬く硬く凍る。車のバンパーなどよりも、ずっと硬く。
「だったら、氷らしく少しは透明になってよ。雪のフリしないでよ!」
そのときのことを根に持っているわたしは、雪の顔をした氷が嫌いだ。だから、この時期、雪に、もとい。氷に当てないよう、ゆったりと時間に余裕をもって走る。ああ、走りながら目に入ってくる八ヶ岳が、日に日に白くなっていく。あれもきっと、氷なんだろうな。嫌いだ。


在りし日のランド・ローバーくん。今は何処にいるのやら。
折しも、今日から札幌では雪まつりですね。凍ってるんだろうな、雪。



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原因を究明する言葉「なんでやねん!」

♪ 買い物しようと街まで 出かけたが 
  財布を忘れて 愉快なサザエさん ♪
サザエさんは、偉大だ。財布を忘れてさえも愉快で済ませられるのだから。それに比べてわたしときたら、なんと人間が小さいことか。ケータイを忘れて街(東京)まで出かけてしまい、がっくりと落ち込んだ。
「なんでやねん!」
ツッコんでくれる人もいないから、自分でツッコミを入れるが空しい。
夫にケータイでメールしようとして、そのケータイを忘れたのだと再確認し、さらに落ち込んだ。

常々考えていたのだが「なんでやねん!」という関西弁は、思いもよらぬ出来事が起こった際に、その原因を究明したいという人の根底にある願望から生まれた言葉だと思っている。
「どうして、こんなことに?」
サザエさんなら考えないようなことを、くよくよ考えるのが凡人というもの。凡人であるわたしは「どうしてまた、ケータイ忘れちゃったの? ほんとにもう!」と、くよくよと考えた。

一つは、雪のせいだ。朝から降り始めた雪に、電車トラブルが起こる前に出かけなくてはと気が急いていた。
もう一つも、雪のせいだ。我が家のリビングには雨漏りならぬ雪漏りする場所があり、雪が積もって凍って解けたときにだけ水が漏ってくる。そこがケータイ充電の定位置だったため、場所が変わったことにより充電するタイミングが遅れ(充電をさぼったとも言える)朝になってあわてて充電していたのだ。
もう一つは、歳をとったせい? 昨日は折しもわたしの誕生日だった。ひとつ歳をとるということは、こういうことなのかも知れない。
だが、判ってもいる。うっかりぼんやりな性格のせい、というのが50%以上の原因なのだろう。
原因究明は滞りなく行われたが、さらに「なんでやねん!」と言いたい気分だ。「なんでやねん!」は、怒りをぶつけるためにも使われる言葉なのだ。

さて。ケータイなしで、昨夜は夫と浅草で待ち合わせをした。時間と場所を決め、連絡を取り合わずに待ち合わせするのは、何年ぶりだろうか。こういうのも、いいな。そう思えたのは、すれ違いにならなかったから、かな。

雪が降りだした昨日の朝の庭の様子です。
ホワイトバースディをしっとりかこうと写真撮ったのに、とほほ。

隣りの林にも、薪にする丸太の上にも、しんしんと。

北側は、家の影になっているので、春まで解けないかなあ。

アイビーも、冷たそう。

ヒイラギの葉にも、積もって。雪が似合う常緑樹ですね。

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酒と雪掻き

年末に取り寄せた日本酒『佐久の花』2本を、呑み切った。
美味い酒だった。もう少しゆっくり楽しみたかったのだが、昨年お世話になった夫の友人を招いての新年会で、3人で一升以上空けたのではないだろうかというほどに呑んでしまった。そしてウイスキーまで。
「あれ? ウイスキー、もうこんなに呑んじゃったっけ?」
夫の言葉に、呆れて返した。
「彼が来たときに、〆で呑んだじゃん」
「いやいや。呑んでないでしょう」
夫はまるで覚えていなかった。わたしも覚えていなかったが、翌朝キッチンには、宴会の残骸と共に、ウイスキーのロックグラスが3つ置いてあったのだ。
酒を呑むとあとをひく性質(たち)なのだと、自分でも判っている。
これも覚えていなかったが、タクシーを呼ぶという彼に、泊まって行けとしつこく誘ったそうだ。誰でもない、このわたしが。

50センチの積雪のあと、そんなことをよく考えるのは、酒と雪掻きが似ているなあと思うにつけだ。雪掻きは、酒のようにあとをひく。
よく晴れた午後などに雪を掻いていると気持ちがいいのに加え、あと少し、いやもう少しと時間を過ごしていく。酒はいつも呑みきれないほどにあるし、雪だって50センチも積もれば掻き切れないほどにある。そして、そんな時間はいつも、時間というものの普遍性のなかに飲み込まれていくのだ。

薪運びのための道を雪掻きした庭には、野鳥達の足跡がありました。
夫が撒く向日葵の種を食べに、様々な鳥達がやってきます。

ウッドデッキまで来るシジュウカラ。小首かしげて考えごとかな?

冬鳥のツグミも、やってきます。

カワラヒワが、足で雪を掻いて飛沫を上げていました。

ホオジロって、その名の通りほっぺたが真っ白なんですね。

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今ここから見えるもの

里に雪が積もっているのだから、当然山にも積もっている。
「八ヶ岳、今年はなかなか白くならないね」
暖冬からゆっくりとスタートした今年の冬、よく夫と話していたのだが、その八ヶ岳もようやく白く美しい雪化粧を施した。
雪掻きをしていると、掻いたときに混ざった砂利や土の汚れを目の当たりにし、雪が美しいものだとばかりは思えない。溶ければぐちゃぐちゃにもなる。
眺めている分には美しいと感じるだけでいいが、実際手にしてみたら汚れた部分も見えてくるし、その重さも怖さも感じざるを得ない。雪は、そんな例えにするには最適と言えるアイテムかも知れない。

「田舎の暮らしも、都会の人から見たらそんなふうに素敵に思えるのかな?」
そう考えて、ハッとした。
それは、都会から田舎に越してきたわたしの視点だ。田舎の人から見たら、都会の暮らしの方がきらきら眩しく見えるってこともあるだろう。
「立っている場所で、見方が変わるんだ」
ほんの少し移動しただけでも、山は形を変える。遠かったり近かったりしても見えるものは変わるが、その時々に立つ位置によっても見え方は変わるのだ。
今、八ヶ岳の反対側、長野の何処かから見えるのは、どんな風景なのだろう。たぶんこちらより雪深いであろう土地に立つ人の視点を、想像する。
今ここから見えるものを、しっかりと見ていかなくては。遠く美しい八ヶ岳も、足もとの土にまみれた雪も。

雪化粧した八ヶ岳は、本当に綺麗。昨日の午後の風景です。
我が家から徒歩1分、夏には青々とした棚田が並ぶ道で撮影。

アップにしてみました。それでも、まだまだ遠く、美しい。

遠景にすると、こんな感じです。
足もとの道には、まだ誰の足跡もありませんでした。

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人の力、機械の力

空の色が薄い。腕も腰もだるく、身体はほてっている。
どうしたのかと言えば、雪掻きでへとへとになるとこうなるのだ。目は雪目で、空の色さえ、いつもと違って見えている。

「とにかく、車を出せるようにしよう」「おう!」
50センチの積雪があった一昨日の午後、雪がやんだ頃を見計らって、雪掻きを始めた。お隣が離れているので、雪掻きしている姿は遠く見えるが話はできない。なので、ご近所さん達とも電話で連絡をとり、除雪車が来るであろう道まで、なんとか車が通れる道を作ろうということになった。
我が家の前の道路は、まだ轍がなかった。新聞配達も、郵便も、宅配も来る様子はない。誰の足跡もない真っ白な道だ。美しい。美しいが、雪は重い。すぐに腱鞘炎になるわたしは、少しずつ掻くしかない。夫の半分にも満たない労力だが、それぞれできることをやるしかないのだ。それにしても雪掻きをするとなると、道は広く長く、なんと果てしなく見えることであろうか。

休憩を挟んで、3時間くらい掻いただろうか。
「なんとか、車、出せそうだね」
足もとのみを見て、ただ雪を掻いていたのだが、夫に声をかけられて顔を上げると、道はずいぶんと広がっていた。
「おーっ、すごい!」
人の力って、すごいんだなあと、感動した。うん、そうだよ。薪だって、一本ずつ運んでも、いつかは軽トラ1台分運び終わるんだから。何だかんだ言っても、やっぱり人の力って、ほんとすごいんだよ。
その直後だった。ユンボが、雪を掻きながら通り過ぎていった。除雪車はいつ来るか判らないと、同じ地区の人がユンボで回ってくれているらしい。
「おーっ、 すごい!」
機械の力って、やっぱりすごいんだなあと、ふたたび感動したのだった。

昨日の朝の風景。除雪車が通ったあとの道です。

田んぼも真っ白。四角い形だけが、くっきりと浮かんでいます。

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雪と正常性バイアス

朝起きて、窓の外を見て驚いた。30センチ以上、雪が積もっていたのだ。
テレビをつけると特急は午前中のすべてが運休を決めていたし、中央高速も通行止め。慌てて車の雪掻きをしたものの、夫は出勤できない状況だと判った。

何も驚くことではないのだ。前日から、明日は雪が積もるかも知れないとニュースなどで聞いていた。しかし、考えてもいた。まあ、そうは言っても、たいした積雪ではないだろうと。

自分は、だいじょうぶ。ここは、だいじょうぶ。
こういう心理を「正常性バイアス」と言うそうだ。
人は、自分にとって何らかの被害が予想されるシーンでも、都合が悪い情報を無視したり「自分はだいじょうぶ」「今回はだいじょうぶ」などと根拠なく考えたりするという。そういう心理が自然と働いてしまうらしい。そしてそれが、状況判断を狂わせることが多いと聞く。
「気をつけよう」
正常性バイアスが、知らず知らず自分にも働いているのだと今回、実感した。
大切なのは、自分自身の感覚を信じすぎないこと。一つ一つの情報を冷静に受け止めること。それらを含め、俯瞰する目を持つことだろうか。
しんしんと降り続ける雪を眺めつつ、そんなことを考えた。

ウッドデッキのテーブルです。
午前10時には、50センチ以上積もっていました。

夫が山で切り出してきた薪の上にも、ずっしり積もっていました。

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小さな棘を抜いていこう

よく、指に棘を指す。
薪運びをするときには軍手をはめるが、ストーブに薪一本を入れるために手袋をしたりはしない。単なる油断とずぼらからくる、小さな怪我だ。自業自得である。棘は本当に小さな怪我だが、これがけっこう痛い。そして、小さければ小さいほど、とれにくい。とれないと気にかかる。小さな棘に振り回されている気分になり、そのくだらなさに、余計イライラしたりする。
その分、棘が抜けたときには、思いもよらないほどすっきりとした気分になる。どのくらいすっきりした気分かと言えば、もとはと言えば、棘を刺したから棘が抜けた訳で、そのおかげで、こんなにもすっきりと晴れ渡った心持ちになったのだと勘違いしそうになるほどだ。

生きていれば、日々小さなことに振り回され、気になりながら放っておくことが増えていく。ありふれた毎日のなかにも、いつしか小さな棘がたまっていく。小さな棘は、放っておくこともできるかもしれないが、酷く膿んだりするかも知れない。小さな棘を一つ一つ抜きながら暮らしていくことが大切なのだろうと、棘を抜いたあとの傷を見つめた。
棘抜きのような軽い気持ちで、そして、棘を抜くときのように真剣に、断捨離、しようかな。
この期に及んで「しようかな」という曖昧さ(笑)
さて。暮らしのなかの棘はどれくらい抜けるだろうか。

軍手、とりあえず、します。忘れなければ、たぶん、おそらく(笑)

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新しい加湿器

壊れたまま使っていなかった加湿器を、買い替えた。
薪ストーブ運転全開の季節。室内に洗濯物を干してはいるが、部屋じゅう乾燥しきっている。買ったばかりの加湿器の水蒸気が白く上がると、ホッとした。

以前使っていたものもそうだったが、タンクの水を入れる口は、下側についている。水を入れて栓をすると逆さにしてもこぼれないが、加湿器にセットすると栓が開くようになっている。これは、灯油ファンヒーターでも同じことなのだが、見るたびにすごいなあと思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

新しい加湿器で快適に暮らしながら、それも、こういう小さな栓を発明する人がいるから成り立っているんだよなあと思うのだ。
ノーベル賞をとることはない、小さな発明の数々に乾杯! と、加湿器の丸いカーブをそっと撫でた。

木製の丸いものを選びました。加湿器もデザイン豊富になりましたね。
何故か、リビングに木製のブーメランが(笑)

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真珠婚レポート

きのう、結婚して30年を迎えた。
30年目の結婚記念日は、真珠婚というらしい。海のなかで時間をかけて形作られていく美しく丸い真珠に、30年という月日を例え名づけられたそうだ。

とは言え、何をする訳でもない。じつを言うと、たがいに忘れていたのだ。
週末、昨年お世話になった夫の友人を招き、日本酒『佐久の花』で新年会をした。その際、ふたりのなれ初めは? などと久しぶりに聞かれ、一通り話し終えて、ふたり一緒にはたと気づいた。
「あれ? もうすぐじゃない。結婚記念日」
「あ、ほんと。結婚記念日だ。29年目だっけ?」
ふたり指を折りながら数えてみると30年だったという具合だ。
だいたいわたしは、何かと記念日を忘れ、夫に呆れられることの方が多い。
女子力のなさ全開で、30年も経ったらもう、忘れてたって普通でしょ、と何処かで考えている節もある。

しかし、ふたりして忘れていた日を、酒の席で思い出したのも偶然という訳でもあるまい。思い出させてくれた夫の友人と酒の神バッカスに感謝しつつ、出勤前の夫に声をかけた。
「いつも、ありがとう」ぼそっとした感じの声になった。
彼も、ぼそぼそと言う。「こちらこそ、ありがとう」
「今年も、あと11か月と3週間だな」
「早いものだねえ」
そんなふうに、笑った。
「ねえ、すごい確率だよ。今年は12日のうち、もう1日休肝日作った」
「日にちじゃなくて、量の問題なの。すでに、飲みすぎてるんだからさ」
日本酒の好きな酒の強い夫の友人と手をつないだ酒の神バッカスは、30年目の結婚記念日だけではなく、休肝日をもプレゼントしてくれたのだった。

エンゲージリングが、真珠でした。
『赤毛のアン』で、アンが、真珠を涙の粒に例え、
「喜びの涙も悲しみの涙も、共に」と言うのに憧れて選びました。

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吊るし雲の名前から吹いた風

八ヶ岳下ろしが、北側の外板を叩いている。
叩くだけならまだいいが、ときに、つかみかかり揺さぶったりもする。木の家は揺れる。風や地震に弱い訳ではない。揺れることで自らを守っているのだ。柔軟なのである。だから毎年の北風にもふっと怖くなるほどに揺れ、リビングでくつろぎながらも自然の力を、その恐ろしさを感じさせられるときがある。
「今夜は、吹くな」
昼間、低い場所に浮かぶ吊るし雲(つるしぐも)を見たときから、判っていた。空高い場所で吹き荒れた風が作るその雲は、人が暮らす里にも強い風を吹かせるのだ。

吊るし雲。不思議な名だ。
流れゆく気ままにも見える雲のなかでは、その場にじっとして動かないように見えることで、まるでそこに吊るされているかのようだと名づけられたという。名前というのは、その名を知った瞬間から、そのもののイメージとなる。
吊るされた雲からは、細い細いピアノ線が天まで伸びているかのように思えてくるし、そう思うと、その天上には誰かがいて、ピアノ線を垂らしているようにも思えてくる。そう考えた瞬間、他の雲達まで、さっきとは何やら違う顔をしているかのように思えてくる。一つの名から作られたイメージが、空全体を変えていく。それは、自分のなかで一瞬吹いた風のような感覚だ。

翌朝、木枯らしはやんでいた。吊るし雲も、もう吊るされてはいなかった。

8日の午後の空です。雲の形って、ほんとうに不思議ですね。

定点観測地点で少しずらして、八ヶ岳と並べて撮ってみました。
吊るし雲と八ヶ岳、なにかおしゃべりしているように見えますね。

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数字達の表情に思う

数字の並びに、ふと目を留めることがある。
例えば時計を見て「2:01」と並んだ時間に、2月1日生まれのわたしは、自然と親近感が湧く。それは夫の誕生日であっても、子ども達の誕生日であっても、果ては両親や妹、弟の誕生日などでも同じことだ。意味のない時間や車のナンバーが、親しみを込めたウインクを送ってきたかのように感じる。さっきまで見ず知らずだと思っていた後ろ姿が、じつは親しい人だと判った時のような感覚、とでも言うのだろうか。
なのでホテルの部屋など、狭い場所では、デジタル時計の数字が変わるだけで、部屋の雰囲気も変わったように感じることがある。わたしのなかでは、親しい数字と、そうではない数字があるようだ。

数字占いのようなものはよく判らないが、ただ、その数字が持つ雰囲気もまた、影響しているのかも知れない。例えば、1は始まりだとか、5は半分、または真ん中に位置しているとか、7はラッキーナンバーだとか。そういう一つ一つの数字の表情が、並んだ数字にも表情を与えていくのだろう。そうやって、数字に限らず小さなモノの表情を感じる瞬間が、わたしは好きだ。

それでも先月、年末調整の書類に書き写したマイナンバーに、心魅かれることはなかった。わたしの理解できる範囲は4桁くらいが精一杯なのかも知れないが、デジタル時計の表情に目を留めつつも、果てしないデジタル化の波にのまれていく不安を消し去ることはできないのだと感じたこともまた、事実だ。

とは言っても、我が家にあるのはアナログな時計さんばかり。
ウイスキーの樽をリサイクルした、秒針までついた時計です。

友人かよちゃんの雑貨屋さん『マッシュノート』の掛け時計。
ナタリー・レテのふくろうの絵が、とっても気に入っています。

アンティークな時計の隣にいるのは、鉄細工のお香立てです。
芽吹いた双葉がモチーフの、可愛いやつです。

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春に向かっている

一年でいちばん日が短いとされる冬至から、半月ほどが経った。
きのうの北杜市明野町の日の出は、午前6時56分。日の入りは午後4時46分。わずか10分ほどだが、冬至の頃と比べると日が長くなっている。
12月の朝5時半に起きるとき、外は真っ暗だった。それが今では、窓から射し込む日の出近くの明るさを感じられ、ホッとする。
ああ、春に向かっているんだな、と感じるのだ。

これから、朝が少しずつ明るくなっていく。そう思うと気持ちも明るくなる。
冬本番の厳しい寒さはこれからなのだが、春は確実に近づいてきている。
玄関の雪柳の蕾が膨らむさまを見て、やはり思うのだ。
ああ、春に向かっているんだ、と。

仕事初めの5日、日の出時刻の富士山。韮崎に向かう農道で。

ちょっと富士山寄りにして撮ると、こんな感じです。

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新しく始まっていく

帰省していた娘達が東京に戻った3日、夫と初詣でに行った。
お隣は韮崎市の『武田八幡宮』人出は多くないが、古く歴史ある神社だ。山になった森を背負う雰囲気も好きで、毎年詣でている。
「あったかいねえ」と、夫。
「ここに初詣でして、こんなに暖かかったの、初めてだよね」と、わたし。
穏やかな正月である。暖かな陽射しに、森のなかを歩く足どりも軽くなる。いつもなら目にも留めない石段や枯葉の上に散らばったどんぐりさえ、やわらかな気持ちで見つめたくなる。

この無数のどんぐり達のなかで、芽吹き、木となり育っていくものはあるのだろうか。ぼんやりと考えた。考えた途端、大きな杉の大木や、細いクヌギの木や、花をつけた椿や、様々な木々のささやきが聴こえた気がした。
そうか。この森の木、一本一本が、何年か前、何十年か前に、芽吹き、枝葉を伸ばし、年輪を重ねてきたのだ。そしてその時の流れのなかに、これから芽吹く木々も混ざりあっていくのだろう。

暖かな正月。森の息吹きを感じ、ああ、今この瞬間からも、きっと何かが新しく始まっていくのだなあと、木々のささやきに耳を傾けた。

『武田八幡宮』入口。「祝ノーベル賞・大村智博士」の看板も。

足もとに落ちていた、数えきれないほどのどんぐり達です。

大きな杉の木が中心となった森のなかの、雰囲気のある神社です。

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まわるものになって

まだ三日坊主にも満たないが、年が明けてから毎日体操をしている。去年覚えた肩ポン体操だ。右手で左肩をポンとたたき、左手で右肩をポンとたたく。それを繰り返すだけの簡単な体操だが、遠心力も手伝ってくれるので、汗もかくし、気持ちがいい。肩凝りも、少し楽になる。

リビングで体操をしているのだが、身体を動かしながら目に留まるものがある。薪ストーブの上で回るエコファンだ。ストーブが温まるとその熱で回るようになっていて、温風を部屋に送ってくれる優れもの。そして、こちらは電気で回っているのだが、天井に取りつけたファンも、見える。肩ポン体操は、正面を向くパターンと上を仰ぎスピードを増すパターンがあり、二つのファンが回っているさまが、パターンごとに見えるのだ。

何故、目を留めたのかと言えば、なんと親近感を覚えてのこと。
自分が遠心力に任せ回っているものだから、ファン達が回っているのが、ああ、彼らもがんばっていると思えるのだ。
「ピポピポ、ポポ、ピピピ」
暮れに観た映画『スターウォーズ/フォースの覚醒』のボール型ドロイドBB-8の声ともつかない声を真似てみる。思えば映画を観て、くるくる回るBB-8に一目惚れしていた。まわるものに対する親近感は、すでにその時点で生まれていたのかも知れない。なかなか体操習慣が身につかないわたしだが、そうだ。BB-8になったつもりで、今年は肩ポン体操、続けるぞ!
「それにしても、BB-8、可愛かったなあ」
『スターウォーズ』の感想は、どうかいたところでネタバレになりそうなので、かかないけれど。

薪ストーブの上で回っているのが、エコファン。可愛い奴です。

その上で、温まった空気を下してくれているファンが回っています。

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パノラマの視点で

元旦は、雲一つない快晴で、澄み渡った空気に山々がくっきりと見えていた。夫婦ふたり、雪化粧した八ヶ岳に向かうように、散歩に出かけた。
「赤松、ずいぶん減ったなあ」と、夫。
「ほんと、しばらく見ないうちに、何本も倒れてるね」と、わたし。
車で走るのとは違い、ゆっくり歩くと、いつもは見えないものが見えてくる。あちらこちらの林では赤松が病んで倒れ、少しずつ姿を変えていた。
林のなかとはいえ、家のなかにいては見えない自然の厳しさを、冷たい風に吹かれながら感じた。

15分ほど歩くと、八ヶ岳と南アルプスが見渡せる気持ちのいい場所に着き、思わず深呼吸をする。カメラを構えると、夫が言った。
「それ、パノラマ撮影できないの?」
操作が簡単なコンパクトデジカメであるが、メニューを開くと「かんたんパノラマ180度」がすぐに見つかった。
「お、できるみたい。知らなかった」
シャッターを切りながら、ゆっくりと横へスライドさせていく。やってみると、何度か失敗したが、なんとか1枚撮れた。
カメラと一緒に身体を動かしながら、不思議な感じがした。
一度に見ることのない南アルプスは鳳凰三山と八ヶ岳。すぐ横を向けば見える風景は、じつは一度には見えていない。今、見えていない部分というのは案外多いものなのだなあと思ったのだ。
パノラマ写真を撮るときのように、じっくりゆっくり視点をスライドさせながら、周りを見つめるのもまたいいものだ。小さなカメラに、教わった。

かんたんパノラマで撮った写真が、これです。

八ヶ岳は、最高峰の赤岳がずいぶんと白くなってきました。

こちらは、パノラマ左側、南アルプスは鳳凰三山と甲斐駒ケ岳。

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同じ時代を生きている

このところ車で走るたびに、シェリル・クロウのCD『Very Best of Sheryl Crow 』ばかり聴いていた。末娘に貸していたCDが却ってきて、久しぶりに聞いたら止められなくなったのだ。
特別、シェリル・クロウのファンという訳ではない。もう十年以上前になるが40歳の誕生祝いにと、妹に貰ったCDがこれだった。
「同じ40歳のシェリルにしたよ」
永遠に同い年である女性、シェリル・クロウの歌は、すっとわたしのなかに入り込み、けっこう辛いときなんかによく聴いた気がする。

久しぶりにシェリルを聴き、同い年という不思議に思いを馳せた。
同じ時代に生きているのだなあ、と。
末娘は、もちろんシェリルと同い年ではないが、助手席で彼女の歌を聴き、気に入ったのだろう。突然、聴きたくなったのか、CDを貸してとメールが来た。娘が聴くシェリルは、わたしが聴くシェリルとは違うのかも知れないが、同じ時代に生きているってことに変わりはない。

今、この時代に生きているからこそ、聴ける音楽があり、読める本がある。そして、出会うことができる人がいる。そう考えると、この時代に生きていることをもっと楽しみたい、と思えてくる。そして、今この同じ時代に生きている人に、幸あれとも。

御節のお煮しめを一つ一つ煮ながら、この蓮根も、この牛蒡も、
今、同じ時代を生きる人が作ったものなのだなあと考えました。
ひとりが生きる一生のうち、いったい何人の人が関わり、
支えられているのだろうと、気の遠くなる思いがしました。
☆ あけましておめでとうございます。
  今年も、一日一日大切にかいていきますので、
          よろしくお願いいたします ☆

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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