はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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通り過ぎる道すがら

昨日の朝、いつものように夫を駅まで送った。その車中でのこと。
「いつも、ここ観察してるよね?」と、わたし。
そのからかうような言い方に、かちんときたのか、
「いいでしょう。見たって」と、夫。
いつも通る道の左側。林が切り開かれ、薪が積んである場所だ。薪を運び出す動力運搬車が置かれている。傾斜がきついなか、薪の長さも切りそろえてあることからプロの仕事だろうと、以前も話題になった場所だ。
「薪運搬車、欲しいなあ、いいなあって思ってるだけだよ」
たぶん買うことはないモノだが、気になるらしい。薪ストーブ生活は、彼の田舎暮らしの中心にあるのだ。

駅まで通り過ぎる道すがら、眺めるともなしに目に入ってくる様々なモノを見て、文章にするとちょっと気恥ずかしいようなことを考えた。
「人生みたいだな」と。
目に入って来ても気づかぬモノ。一瞬だけ目を留め次の瞬間には忘れていくモノ。いつも見つめてしまうモノ。そして、車を停めて対峙するモノ。そうやって通り過ぎていくモノのなかで、知ることも出会うモノも、ほんの一握りだ。その出会いはたぶん、偶然もいっぱいあるだろうけれど、結局はこうして自分で選んでいるんだろうな、と考えた。

帰り道、いつも車を停め、八ヶ岳の写真を撮る定点観測地点に寄った。昨日の朝は、冷え込んだせいか空気が澄み、山が綺麗に見える。
「気持ちいいなあ」
これまでも何度となく車を停めて対峙してきた八ヶ岳は、そのときどきのわたしの気持ちに寄り添ってくれる親しい友人の顔をしていた。

定点観測地点から眺める、昨日の朝の八ヶ岳です。

アップで撮った権現岳。螺旋階段のように見えるところが好き。

最高峰の赤岳です。アップで観るとごつごつしてる感じ。

通り過ぎてきた道を振り返ると、南アルプスの山々が。

向かいの田んぼには割烹着の案山子さん。ポーズに表情が感じられます。

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空中庭園デート

末娘と、久しぶりにランチした。
待ち合わせたのは、池袋の西武百貨店屋上にある睡蓮の池。『食と緑の空中庭園』と名づけられた気持ちのいい屋上で、そこに睡蓮の花が咲く池がある。

待ち合わせは11時だったが、天気もいいので早めに出かけた。娘を待つ間、睡蓮をのんびり眺める。睡蓮だけではなく巨大な寄せ植えの鉢といった感じに、綺麗に花々が植えられ、春から夏にかけて咲く様々な花が揺れていた。
デパートの屋上といえばミニ遊園地があったものだが、お洒落になったものだなあと感慨に浸る。しかし買い物の合間か、または庭園散歩に訪れたのか、子ども連れのお母さんが多いのは今も昔も変わらないのかも知れない。
「ほーら、お花いっぱい咲いてるよ。綺麗だねえ」
3歳くらいの女の子の手を引くお母さんが、小さな娘に笑顔を向ける。
2歳くらいの走り回る男の子のあとを、追いかけるお母さんもいる。
ふと、20年後の小さな彼らが大人になった姿を思う。それは、もうすぐ現れるであろう21歳の娘とわたしの姿と重なるだろうかと。そして、ちょっと自慢したいような気持ちになる。大学生の娘と睡蓮の池を歩けることを。娘がいちばん好きな花が睡蓮だからと、ここで待ち合わせをしたことを。

「お待たせ」時間通りに、娘はやって来た。
「睡蓮、咲いてるよ」ふたりで、池を眺める。
だが1分もしないうちに、娘は言った。
「お腹減った! お腹減った!」
まるで駄々をこねる3歳児さながらに。
「・・・そっか。行こうか。何食べる?」「お寿司!」
デパートの屋上では、子どもは子どもに返るという法則があるのだろうか。もともとのキャラだという気もしないではないが。どちらにしても、母娘で睡蓮の池を歩けると楽しみにしていたのは、わたしだけだったようだ。名残り惜しくも睡蓮の池に別れを告げ、一つ下の階にある回転寿司に向かった。
「アイス―!」
小さな子が、駄々をこねる声が聞こえ、ふたりくすりと笑った。

ウッドデッキの階段を上ると、花に囲まれた池がありました。

わーい。睡蓮、咲いてる~。うれしい。

綺麗。モネの絵『睡蓮』を思わずにはいられません。

アップで見ると、一輪一輪の瑞々しさが伝わってきます。

色もいろいろ。黄色っぽい睡蓮も、ありました。

濃いピンクの睡蓮も、魅力的です。

池の周りの花々です。お洒落な白のカシワバアジサイ。

白い紫陽花に埋もれるように咲いているのは、アオイの種類かな。

ホタルブクロは、都会の空近くでも、ひっそりうつむいて。

ツボサンゴの赤は、庭全体のアクセントになっていました。

パクチーの花に似ていますね。あちらこちらに咲いていました。

マツムシソウでしょうか。これもいっぱい咲いていました。

薔薇は盛りを過ぎましたが、やっぱり綺麗。風格があります。

庭園の奥には、お稲荷さんがありました。お参りしてきました。



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冷えとり靴下を試して

冷えとり靴下なるものを、試している。
3年ほど前から流行っていたらしいが、知ったのはつい最近だ。シルク、コットン、シルク、コットンと重ね履きするのだが、シルクは身体のなかの悪いモノを吸いとるらしい。それをコットンが外に出してく。さらにそれをシルクが吸いコットンへ。そんな毒出し、つまりはデトックス効果があるのだという。
夫のいとこ夫婦にいただいた『千代治のくつ下』の履き心地がよく、ネットで調べると、知ったばかりの冷えとり靴下があったので、ポチッとした。

1日目。夕方入浴後から履き始める。ベッドに入ったが、左ふくらはぎの張りが気になり、なかなか寝つけず、マッサージをしながら眠りにつく。
2日目。昼間は、おまけの入っていた洗い替えのシルク5本指とコットンの2枚で過ごす。就寝後、やはりふくらはぎの張りが気になる。
3日目。1日中眠い。昼寝をしたら2時間眠ってしまい、驚く。入浴時、肩やお腹がすべすべになっていることに気づき、ふたたび驚く。
とまあ、まだ1週間も経っていないので、効果のほどは判らない。

ところで、その効果とは全く関係なく、思い出したことがある。
日中出かける時に普通の靴下を履き、その違和感に驚いた。その違和感。何かに似ていた。ずいぶんとなつかしい感覚だ。さて、と考えて思い当たった。赤ん坊が生まれて、何か月かぶりに美容室に行ったとき、久しぶりに外をひとりで歩いたときの、あの心もとなさに似ていたのである。いつもぴったりくっついていたものがない、あのスースーしたような感覚。
「足の指1本1本に密着した五本指靴下の如く、きっとそれくらい子ども達とくっついていたんだよなあ」
子どもは独立した一人の人間だと、もちろん知っている。知ってはいても、自分の身体と区別がつかないほどに近しかった頃もあった。
ぴたりと足に密着していく4枚の靴下を重ねて履いて、1枚ずつ剥がすように脱いでいくたび、そのころの記憶がひとひらひとひら、湧いてくるのだった。

右から順番にシルク、コットン、シルク、コットンと履いていきます。
『千代治のくつ下』基本の冷えとり靴下4足セットです。

1足目の5本指シルクです。密着感あります。

2足目の5本指コットンは、やわらかく包む感じ。

3足目のシルク。色が違うので、判りやすいです。

4足目。これを履くともう、さすがに靴は入りません。

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小さな試み

「夕方になると帳簿が見えづらくて、コンタクト外しちゃうんだよね」
ぽつりとこぼれたわたしのひと言を、夫は聞き逃さなかった。
「老眼鏡買えば? コンタクトの上にかければいいじゃん」
普段は、近視のコンタクトレンズをつけている。その上に老眼鏡?
「レンズの上に、レンズ重ねちゃうの?」
そんな発想はなかったが、使う時間も限られているし、目の負担は、どちらの方が軽くなるのか確かめてみるのもいいかも知れない。仕事上、パソコンの前に座ることが多く、ブルーライトカットの方にも興味がある。とりあえず見てみようと、週末、眼鏡屋に足を運んだ。

眼鏡屋さんで話を聞くと、ブルーライトカットと老眼鏡を兼ね合わせた眼鏡があるという。オーダーメイドもいいが、パソコン&読書限定で使うのなら、とりあえずいちばん度の軽いものを使ってみては? と勧められた。2800円と安価だ。さっそく使ってみることにした。
ブルーライトカットの眼鏡をかけると目が疲れないというのは、以前から聞いていたが、確かにパソコンの白がかなりやわらかくなり、眩しさが違う。何より、老眼鏡ってこんなによく見えるんだと実感した。

試しにとやってみたら、ずいぶんと快適になることってたくさんある。
それを試してみようとしないのは、それほど困っている訳じゃないからだ。
老眼も、それでそのまま先延ばしにして、もう何年も経ってしまった。
けれど50代も、もうすぐ半ば。そろそろ、少しでも快適に暮らせるような小さな試み、いろいろやってみようかな。たかが老眼鏡ひとつだが、そんな小さな一歩を踏み出したような気がした。

軽くてツルがやわらかくて、疲れません。いい感じ。
文庫本も、ガラホも、楽ちんです。

ネリー「ハリーったら、何やってるの?」
ハリー「新しいことには、何でも挑戦したい僕なのさ」

ハリー「あー、なんか、ネリーの方が似合う。くやしい!」
ネリー「ふふふ。そうかなあ」

欠けて困っていた爪を放置せず、ジェルネイルにしてみたことも、
やってみてよかったことのひとつです。とても楽になりました。
そして、爪が綺麗になることが、すごーく楽しみにもなりました。

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畦道の花々

お田植えの季節だ。
自らお田植えをする訳ではないが、通るたび、ああ、水が入ったなあとか、蛙が鳴き始めたとか、もうお田植えが済んだ田んぼがあるよとか、日々、目に入ってくる。そのお田植えが済んだばかりの田んぼが広がる道を、歩いた。

風に揺れる水張田(みはりだ)。まだ頼りないまばらな稲達。そこに映る木々山々。そして、田んぼの周りには様々な草花が咲いている。
シロツメクサ。アカツメクサ。ヤグルマギク。スイカズラ。芽を出したばかりのコスモス。その他色とりどりの雑草達。

雑草も、何処かから種が飛んできて根づいた花もあるだろうが、田んぼや畑の持ち主が種を蒔いたり、球根を植えたりした花もあるだろう。
畦道や道端の花を見かけるたび、漠然と考えていた。農作業だけでもたいへんなのに、花を植えるんだなって。小さな楽しみを、大切にしてるんだなって。

デスクにお気に入りのペン立てを置くように、パソコンのデスクトップを好きな画像にするように、密やかな楽しみに花を植えているんだろうなって。

うっすらと見える八ヶ岳が、田植えの様子を見守っているかのよう。

この季節、まだ植えていない稲が、そこ此処に残っています。

こうして鏡の如く、様々な風景が田んぼのなかに映し出されます。

こんなに頼りない稲が、田んぼいっぱいに広がって、
重そうに稲穂を垂らすなんて、信じられませんね。

アカツメクサ。何処にでも咲いていますが、可愛くて好きな花。

たくさん咲いているヤグルマギクですが、一輪だけじっと見つめると、
その美しさにハッとさせられます。

一輪だけ咲いていた、ちょっと気の早いコスモス。

ドイツアヤメのラテン・レディ。アヤメは、英語でアイリス。
アメリカ男子にアヤメだよって教えたら、アイリスですと教わりました。

スイカズラは、別名、金銀花(きんぎんか)こういう黄色の花と、

白い花をいっぺんに咲かせるから、その名で呼ばれたそうです。

鬼灯(ほおずき)も咲いていました。鬼の灯ってかくんですね。

青く小さな実が、既に生り始めています。

雑草代表、根っこが食用にもなる、野蒜(のびる)の花。
味噌と一緒にたたくと、美味しいんですよね。

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ヤマボウシを見下ろして

庭のヤマボウシが、咲いている。
今年は、例年になくたくさんの花をつけた。うれしい。
「いっぱい咲いたねえ。でも」と、わたし。
「うん。毎年のことだけど、2階に上がらないと見えないよね」と、夫。
背の丈3mほどの木だ。見上げて花を愛でようにも、その花は枝の上につき、空へと向かうように花開く。
なのでこの時期、ときどき2階に上がってはベランダから眺める。
人が植えた庭木だからといって、人が見やすいように花を咲かせるとは限らない。毎年そんなことを気づかせてくれるのが、ヤマボウシの花だ。

見下ろさないと、見えない花がある。そして、小さくしゃがんで見上げないと見えない花もある。
いつも見ているものも、違う場所に立ってみると、違って見えてくる。花咲く季節は、花達にそんなことを教えられる季節でもある。
2階のベランダで深呼吸をすると、肌に触れる風も、鳥達の声も、広がる空の色さえも違うような気がした。

ヤマボウシ。上を向いて、のびのびと咲いています。

今年は、こんなにいーっぱい花をつけました。

アップにすると、こんな感じ。白い花っていいな。

一輪でも、凛とした雰囲気を持っています。

こちらは、もみじの種。プロペラ型の赤くて可愛いやつです。

もみじは、濃い緑も若い緑も美しいですね。

その横には、夫が洒落で言うわたしのイングリッシュガーデンが。
蕗の葉っぱが広がって、日本風になっていますね(笑)

プラムの木が、実をつけています。野鳥に食べられるばかりの実。
空からは、よく見えるんだろうなあ。

プラムの横には、薪小屋と積んだ丸太があります。

2階から見下ろした、ウッドデッキです。パラソルがジミーな色。
開いて下から見上げると鮮やかなグリーンなのに、日に焼けて(笑)




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ガラホにしました

いまだ使っていたガラケーを、ようやく卒業した。
スマホに? いや。「ガラホ」なるものに変えたのだ。その言葉の音が表現している通り、ガラケーとスマホのあいのこ。LINEができて、カメラの解像度はスマホ級、しっかりインターネットにつながるが、料金形態はガラケーと同じ。でも、ネットをいっぱい使ったらスマホ並みの料金になりますよ、ただWi-Fiが飛んでいるところなら料金かかりませんよ、というのもスマホと同じ。新しいタイプのケータイだ。

「LINEは、便利だよ~。楽しいよ~」
夫から言われて迷っていたのだが、どうしてもスマホにする気が起こらない。経理事務用のパソコンを持ち歩くのが習慣になっていて、LINE以外の必要性を感じていなかったのだ。しかし、待てば海路の日和あり。なんて、見つけてうれしくなったが、ガラホは去年から売り出されていたとのこと。多様性を考えて、開発してくれた方々には頭が下がります。

それにしても「ガラホ」ってネーミングはすごい。
日本のケータイを、世界標準を無視した独自の進化を遂げているからと「ガラパゴスケータイ」って言った人もすごいと思ったが、略語は、もはやもとの言葉が何だったのか考えてみようとすら思えなくなるほどに進化を遂げている。いや、何も考えずに響きと使いやすさで略語を口にしていることを考えると、こうして言葉って退化していくのかも知れないなあとも思えてくる。
今はガラホにしたのがうれしくて「ガラホ、ガラホ」言ってしまうけれど、「やばい」と口にしない日本語の好きな末娘を見習って、きちんと選んで自分の言葉をしゃべらなくちゃ。ところで、ガラホって、略さないと「ガラパゴスフォン」なのかな?

左の濃いブラウンのが、ガラホ。どこからどう見てもガラケーです。
ピンクちゃん、今までありがとう。下取りに旅立つ予定です。
エコなシステムができるのは、うれしいことですね。

開いてみても、やっぱりガラケーそのまんま。
ふくろうくん、どう思うよ? 中身が大切って? ごもっとも。

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ちょっと寄り道 その1

美容室へ向かう途中、寄り道した。
時間調整が微妙で、30分ほど早く着いてしまいそうだったのだ。
「天気もいいし、写真でも撮ろうかな」
車を停めたのは、道沿いに広がったポピー畑。公園になっている訳でもなく入り口も出口もない、ただただ広がる花畑だ。もちろん入園料など必要ない。
駐車場らしき花が咲いていない場所が一応あり、そこには先客が1台だけあった。スーツ姿の男性がひとり、運転席に座っている。外回りの営業マンが休憩中、といった風情か。

さて。写真を撮っていると、その男性に声をかけられた。
「朝日新聞のものですが、このポピー畑を取材していまして」
なるほど。ちょっとお話を? いいですよ。時間あるし。
「今日は、わざわざこちらに来られたんですか?」
「あ、美容室に行く途中、時間余っちゃったんで、写真撮ろうと思って」
「ポピー畑のことは、以前からご存知でしたか?」
「よく通るんです。通るたびに、あー、咲いてるとか、綺麗だなーとか」
「実際に車を停めて、間近で見てみると、どうでしょうか?」
「うーん。遠目に見た方が綺麗かな。蕾とかちょっとグロテスクな感じ」
記者さんは、それ以上聞くことなく、礼を言い、車に戻って行った。
正直に話しすぎたかな? でもまあ、嘘つく必要も何もないか。

翌々日の朝日新聞山梨版には、確かに記事が載っていた。
「近くを通るたびにきれいだと思っていた。改めて見ると感動します」と、
家族で立ち寄ったという市内の20代の男性のインタビューがある。
実際には、わたしのように感じている人も多いと思うけど、それじゃあ記事にはならないもんね。何人かに話を聞いて、そのなかで記事にするにふさわしいことを選ぶんだろうな。取材、お疲れ様です。
ところで、わたしが話したこともひとつだけかかれていた。
「秋には、ここ、コスモス畑になりますよね」と、わたし。
「あ、そうなんですか?」と、記者さん。
―初夏はポピー、秋はコスモスが植えられ地元の名所として親しまれてきた。
そしてわたしも、ひとつだけ教えてもらった。
「誰がお世話してるんだろうな―と、思っていました」と、わたし。
「シルバー人材センターの方々だそうですよ」と、記者さん。

ほんの15分ほどの寄り道だったけど、これまで何度も前を通っていたポピー畑がぐんと近しいものになった気がした。

ポピー畑。こんなふうに、広がっています。
夫はここを通るたびに、車にポピー♪ と歌います(笑)

真っ赤な花が、いちばん多いです。

でもよく見ると、ポピーもいろいろ。

八重のピンクさん。可愛らしいです。

白にターコイズ。作り物のようにも見えますが、本物です。

白くて、縁取りがピンクのものも。

子どもの頃にティシュペーパーで作った花を思い出しました。

向こうの方には、黄色いポピーも咲いていました。

60万株もあるんですね。今年は開花、早かったんだ。

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四つ葉のクローバーができる訳

約1週間ぶりに、我が家に帰ってきた。
新緑を過ぎた緑は濃く深くなり、倍に増えていた。ナデシコとハマナスが最初の花を咲かせ、シロツメクサも咲き乱れている。

ところで偶然読んだ記事で、四つ葉のクローバーが何故できるのかを知った。人に踏まれ、成長点(植物の根や芽の先端にある新しい組織を作る部分)が傷つくことによって、もう1枚の葉が出てくるケースが多いのだそうだ。
だから、公園など踏まれやすい場所には多く見つかるらしい。
「だとしたら、うちの庭にもあるはず」
薪割りロードに広がったシロツメクサ。踏まれてもしょうがない場所に生きている。探すとやはり、四つ葉がすぐに見つかった。
「踏まれるたびに傷ついて、四つ葉を、つまりは幸せの象徴を生み出すんだ」
じっと見つめていると、四つ葉のクローバーが言った。
「心が傷ついたモノほど、優しく、そして強くなれるんです」

クローバー。花も可愛いけれど、葉っぱも可愛らしいですよね。
シロツメクサという名は、江戸時代、オランダから輸入された
ガラス器の梱包に詰め物として使われていたことから詰め草と呼ばれ
その後、日本じゅうに広がっていったとか。

四つ葉のクローバー。ほんとにすぐに見つかりました。
謎が解けても「いいことあるかな~」と思っちゃいます。

こちらは、クローバー・ティントブロンズの花。
同じクローバーでも、買って花壇に植えた箱入りさんです。

玄関側では、ナデシコが咲き始めたばかり。

いつの間にか根づいた野バラ。そこ此処に咲いています。

ハマナスは、最初の一輪を咲かせました。

パクチーの花は清楚な白。向こうに見える紫はツルニチニチソウ。

マーガレットは留まること知らず、そこらじゅうに花を咲かせて。

雑草代表、ゲラニウム・カロリニアヌムさん。いっぱい咲いてる。

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反対の反対への挑戦

自他ともに認める、方向音痴である。
神戸で過ごしたこの何日かの間に、またもやそれを実感した。

「あ、今、反対方向行こうとしたでしょ?」
義母が暮らし始めたマンションでエレベーターに乗り、降りるとどうしても反対方向に行こうとしてしまう。荷物の積み下ろしや買い物など、ゆうに十回は乗り降りしているというのに。

「トイレは、反対側や」
新幹線では、常に反対方向に。

「そっちに出口は、ないっちゅうに」
買い物に行ったホームセンターは、迷路だった。

「ここをまっすぐ行くと、何があるでしょう?」
夫は、意地悪くもわたしの方向音痴を再確認し、楽しんでいる。
「えーと、ミント神戸だよね?」
「うそやろ。ミント神戸は、真後ろや!」
もちろんご期待にお応えするだけの素質を、わたしはじゅうぶん備えている。

さて。方向音痴とは、地図を見て行きたい場所にたどり着けないというだけではない。漠然と探しているもののある場所へも、なかなかたどり着けないのだ。例えば。
「喉、乾いたねえ」「自動販売機か、コンビニ探す?」
そうして歩き出した方向には、延々と自販機もコンビニもないということが、ままある。そこで、今回ちょっと工夫してみた。
「わたしが行こうとした方向の反対に、行けばいいんじゃない?」
「じゃあ、行ってみる?」と、夫。
すると、すぐに永遠とも言えるほどに延々と自販機が並んでいるのが見えたのだ。もちろんコンビニも、ドトールさえもある。
「おー! すごい! やったあ」
常に、野生の勘で踏み出した一歩をくるりとひるがえし、反対に行けば、方向音痴解消の道が開けるのでは? いや、まさか。でもこれ、試してみる価値ありかもと、ちょっとわくわくしている。

義母の部屋を訪ねてくれた夫のいとこ夫婦から、
「プレゼント!」と靴下をいただきました。わーい、うれしい。
この靴下を履けば、たちまち行きたい場所に行ける魔法の靴下!
道に迷うこと一切なし!・・・んな、わけないか(笑)

『千代治のくつ下』だそうです。

足の裏になる部分が分厚く編まれていて、履いて気持ちがいい♪

淡いブルーと紺色を織り交ぜた風合いが、素敵。夫曰く。
「夏モノというには分厚いのに、履いてて涼しいわあ」

履いてみました。脛の部分、ゴム編み部分がとってもやわらか。

お気に入りの靴とパンツと合わせて。綺麗な色が足もとにあるのっていいな。

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気持ちが弱っているときに

とうとう、腰を痛めてしまった。
古本の断捨離に、精を出したこともあっただろう。転んだときの衝撃で、身体が歪んでいたこともあっただろう。会社の引っ越しで、ちょっと張り切り過ぎたこともあっただろう。要は、ムリを重ねたということだ。
自分の身体は自分がいちばんよく判っている、などというセリフは、わたしには到底言えない。自分がいちばんよく判っていないとさえ思えてくる。要は、そんなふうに思ってしまうほどに、落ち込んでいる訳だ。

身体の何処かが故障すると、気持ちまで弱ってしまう。小さなことにくよくよしたりする。買い物に行って、油揚げを買い忘れたくらいのことで、めそめそ泣きそうになったりする。

だが、そんなときだからこそ、小さなことがハッとするほどうれしかったりもするもの。コルセット代わりに出した腹巻と、ふくらはぎを冷やさないためにと出したレッグウォーマーが合わせて買った訳でもないのに、色がぴたりと合っていた。両方とも見えない場所に穿くものだが、こっそりうれしい。
そんな小さなお洒落に喜びつつ、冷やさずムリせず、早く治そうと思う。

腹巻だけど、ネックウォーマーにもなるとかいてありました。
たぶん、首には巻かないと思いますが。
標高600メートルの我が家。朝夕の冷え込みは侮れません。

シンプルメリヤス編みのレッグウォーマー。
並べると、合わせるのにぴったりの色合いです。両方とも、
何年も前に買ったものなのに色が合うと思ったのは初めて(笑)

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マムシグサ・パレイドリア

シュミラクラ現象とは、動物にプログラムされた「3つの点から顔を見出す」脳の働きを言う。外敵を判断するためだと考えられている。
しかし、3つの点がないにもかかわらず、それを顔のように感じてしまうものが、ままある。花は、そのひとつだろう。

散歩するのに気持ちのいいこの季節。何だか見られているように感じることがある。視線を感じて振り向くと、そこ此処に咲いている花がある。マムシグサの花だ。3つの点は持たないが、生き物であるマムシに似ていると名をつけられただけあって、存在感は大きい。

シュミラクラ現象でなければ、何なんだ? と思って調べると、これかも知れないと思えるものが出てきた。
「パレイドリア」
普段からよく知ったパターンを、本来そこには存在しないにもかかわらず思い浮かべる現象。ギリシャ語で「映像通りじゃなく」というような言葉らしい。
雲が魚の形に見えたり、壁のシミが動物に見えたり。違うって判っていながら、何かのように見えてしまうことを言うそうだ。

知っているものを、置き換える。うーん、確かによくある。
もみじの葉っぱを見て、赤ん坊の手みたいだと思ったり、どんぐりのヘタ(?)を、帽子をかぶっているみたいだと思ったり。
パレイドリア。知らない言葉だったけど、身近にあることだったんだな。
ところで、パレイドリアと聞いてドリアの仲間なのかな? なんて思ったりするのも、パレイドリアなんだろうか。

こんなふうに、道端に咲いています。「居る」という雰囲気。

蔓が絡んだものも、ありました。

マムシではなく、鳥が羽を広げたようにも見えますね。

くるんと丸まって、咲くものも。

三角関係的な位置で、咲くモノ達も。

ふたりでフラダンスするように咲くモノ達も、ありました。
毒があるそうです。赤い実が生るけど食べてはいけません。

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その人を思う時間

娘の誕生日にプレゼントを送ろうと、ショッピングモールを歩いた。
26歳の上の娘。就職したばかりの彼女には、服とか鞄だろうかと漠然と思い描きつつ、しかし歩いても歩いても、これといったものが見つからない。
イタリア製のバッグ。ちょっと高価すぎるかな。
本革を2枚合わせたカラフルな小銭入れ。ユニークなだけ?
紺のロングブラウス。これはわたしの趣味そのまんまだ。

1時間ほど、歩き回っただろうか。結局、実用的な夏物の白いノーカラーのブラウスと薄いターコイズのカーディガンを選んだ。普段にも仕事にも重宝するような。と選ぶ方は考えたのだが、若い彼女が気に入るかどうかは判らない。

いろいろ考えて選びながら、会社の引っ越しを思い出していた。夫のデスクには娘からもらったという小物がたくさんあって、彼はそれを大事にしていた。
「あいつ、けっこういろいろくれるんだよね」
「そう言えば、クリスマスにワイングラス、もらったねえ」
家にも、彼女からもらったものがけっこうある。
わたしの50歳の誕生日には、写真立てに応援メッセージを入れて病院まで持ってきてくれた。骨折手術のその日だったのだ。

娘にプレゼントを選んでいて、ふと思った。プレゼントをもらうっていうことは、誰かのこういう時間をもらうっていうことなのかも知れないなあと。
あーでもない、こーでもないと思い悩みながらプレゼントを選ぶ時間、その人を思う時間、とでも言おうか。彼女がこれまで過ごしたそういう時間を思いつつ、ちょっとうれしい気持ちでショッピングモールをゆっくりと歩いた。

4年前の誕生日にもらった写真立て。タイプライターのデザインが可愛い。
写真は、ふたりでロスの友人の家に遊びに行ったときのものです。

オーストラリアにワーキングホリデーに行ったときのお土産。
アボリジニアートで、キャンプをしている絵なんだとか。
子どもの頃よくキャンプしたせいか海外でも平気でキャンプする娘です。

こっちは、カナダのワーホリから帰って来たときにもらいました。
『ハウルの動く城』を思い出しました。

アイルランドへの小旅行で選んでくれた石。いろんな絵があった中で、
「お母さんが好きそうだったから」お気に入りです。

何年か前のクリスマスプレゼント、ペアのワイングラス。
ワインはもう飲んじゃったので違うものでしたが、こんな雰囲気。

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ゲラニウム・カロリニアヌム発見!

ゲラニウム・カロリニアヌムを発見した。
と言っても、庭に生えている雑草だ。和名を、アメリカフウロという。

昨日の朝、NHKの朝ドラ『とと姉ちゃん』を観ていた。
学生、星野が新種の植物を発見か? というシーン。それがゲラニウム・カロリニアヌムだった訳だが、その葉の形を観て「あ、ゲラニウム」とつぶやくわたしを、夫が怪訝そうな顔をして見つめた。
「すごいね。何で、判るの?」
何故、判ったのか。それは、わたしのなかではものすごくタイムリーな話題だったからに他ならない。偶然とシンクロが作り出したモノだとも言える。

この春、宿根草のゲラニウムを植えた。その葉は、ちょっと変わった形をしていて、それが記憶に残っていた。さらに、ゴールデンウイークに庭の草取りをしていて、ゲラニウムとよく似た葉をした雑草を見つけた。
「もしかすると、ゲラニウムの種類かも知れない。宿根草なら、スミレみたいに増やせるかも」
そう思い、抜かずに残しておいた。調べてみようっと、と思いつつも、ただそのまま放っておいただけなのだが。
そこで『とと姉ちゃん』のゲラニウム・カロリニアヌム。
「あ、ゲラニウム」となった訳である。

調べてみると、残念ながらゲラニウム・カロリニアヌムは一年草で、珍しくもない雑草だった。強いのだろう。アメリカから荷物に種がつき渡ってきたらしいが、一年草なのに日本中に広がった。とと姉ちゃんの時代には、確かに日本では新種の植物だったのだ。
「遠ーいむかしに、アメリカから渡ってきたんだねえ」
庭で小さな花を咲かせるゲラニウム・カロリニアヌムに、そっと声をかけた。

庭に咲いていたゲラニウム・カロリニアヌムです。

小さく可憐な花です。

咲きかけのものも、ありました。

この葉っぱ形が、特徴的。雑草らしからぬ趣があります。

こちらが買ってきて植えたゲラニウムです。葉っぱ、似てる~。

紫の花が咲く、マックスフライという種類です。

まだ蕾もつけていません。花が咲く日が楽しみです。

薪割りロードで踏みつけられつつ、綺麗な赤に色づいた葉っぱ。
花が終わると草紅葉(くさもみじ)になるとありました。

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時間の川に芽吹くモノ達

夢を見た。 
10歳くらいの男の子がひとり、ゲームをしている。
広めの部屋には、テレビだけ。他には何もない。しばらくして、男が入ってきた。長く伸びたコードに足に引っかけ、コンセントが抜けてしまう。ゲーム画面を映したテレビがプツンと切れ、沈黙する。男の子は、怒るでもなくただコンセントを差し込み、再び0地点からゲームを始める。
男はいつの間にか消え、部屋には、男の子がさっきまでゲームをしていた時間、過ぎ去った時間がゆらゆらと浮いている。川のように浮いた時間の表面には、芽を出したばかりのような双葉が並んでいた。なかには蕾を持ったものもある。ゆらゆら、ゆらゆら。時間は、流れながら続いていく。

目が覚めて、ぼんやりと考えた。
「あの子の失くしたとも思えるような、あの時間は、無駄じゃなかったってことだろうか」
宙に浮く時間の川に揺れる、芽や蕾達。
「何気ない時間のなかにも、これから伸びゆく葉や、咲いていく花のもととなるモノがあるってことなのだろうか」
早すぎた目覚めにベッドのなかで時間を持て余しながら、ゆらゆらと揺らめいていた時間の川を、若い緑色をした芽を蕾を、思い出していた。

夢で見た芽のように、ドクダミさん、にょきっと伸びています。

ぐんぐん、という感じで伸びているのは、茗荷達です。

あらら、こんなところに芽を出しちゃって、もみじさん。

ヒメシャラの若葉は、優しい色合いです。

ヒイラギも、若葉はトゲトゲがやわらかく頼りなげな感じ。

アイビーの若い緑が、庭を明るくしてくれています。

ツルニチニチソウは、日々蕾を開いて。

雑草代表で、カタバミさん。可愛いんだけど、強すぎる・・・。

隣りの林では、今、ツツジが花盛り。今年はたくさん咲きました。

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衣替えの季節に

「あ、気持ちいい」
新しいスリッパに替えて、思わずそんな言葉がこぼれた。
「あ、これ、気持ちいいね」
夫も、同じことを言う。
冬仕様のスリッパをようやく夏仕様に替えたのだが、新しく買ったスリッパは内側がスエードのような風合いに作られていて、裸足のつま先を入れたときのそのフィット感がつい言葉を漏らすほどに気持ちがよかったのだ。

山梨でも標高の高い我が家では、この時期まで薪ストーブを焚く日がある。炬燵もまだまだ仕舞えない。それでも、少しずつ春夏モノに替えていくのは楽しい仕事。少しずつ始めるのに、ゴールデンウイークはちょうどいい。

「気持ちいいなあ」
もう一度声に出して言い、ああ、こういう感覚って久しぶりだなと、忘れていたことを思い出したような気がした。冬の間、縮こまっていた身体と心。まだまだ、すっかり解放されてはいないのかも知れない。一つずつ小さな衣替えを繰り返していくうちに、身体も心も新しい季節に馴染んでいくのだろう。衣替えをして気持ちがいいなと思うのって、じつはとっても大切なことなのかも。

裸足で新しいスリッパを履き、窓を開けて、深呼吸する。
「うーん。気持ちいい」
何度でも、声に出しながら。

シンプルなデザインも、気に入っています。
むかしは、スリッパのサイズはあんまりありませんでしたが、
このごろでは、ちゃんと選べるようになりましたね。

こちらは先週、衣替えした玄関の暖簾。
何年か前に京都の藍染の店で、一目惚れしました。
店主の指が、藍色に染まっていたのが印象的でした。

ベッドの枕元には、涼しげな色合いの日本手拭い。
手拭い、選ぶのに迷うほど様々な模様のものが作られていますね。

トイレの小窓には、いっぱい咲いたスズランを飾って。

昨日の八ヶ岳。すっかり夏の顔です。

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薪割りとレディファースト

ゴールデンウイーク後半、夫は、庭木の剪定と薪割りを始めた。わたしは、東京に行っていた間の掃除や洗濯。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。思わず昔話の始まりを思い浮かべるが、ごく普通の5月の休日だ。

薪割り機は、ご近所さん7軒ほどで共有している油圧式のもので、メーリングリストで使いたい日を調整して取りに行く。使い終わったら、次の人が使うまで使った人の庭に置いておくのが決まりで、それが今、我が家の庭にある。
夫の友人が、ワインを持って遊びに来るというので、薪割り機を用意してのお出迎えという訳だ。

ところで夫の薪割りには、わたしはほとんど手を出さない。運ぶ、積むはしても、薪割り機を動かすのは、ちょっと怖いし、左手くんと右手くんが腱鞘炎やテニス肘になりやすいからムリしないようにしていることもある。そして夫は、ほとんど料理はしない。
たがいの役割りを尊重するなんて、堅苦しく考えてる訳じゃない。やれる方がやる、あるいはやりたい方がやるって感じでうまくいっている気がする。

レディファーストは、力が強い男性の、女性に対する思いやりから生まれた文化だという説を聞いたことがある。だからってレディファーストが絶対にいいとは思わないけれど、夫が力仕事をしてくれるとき、重い荷物を持ってくれるとき、こっそりと思うのだ。
「あ、思いやり」
言葉にするのは「ありがとう」や「お疲れさま」だけど。

左側の平らなステンレスの上に、丸太を置きます。

これが薪割り機全体を見た感じ。こんな大きな丸太でもだいじょうぶ。

ゆっくり動いていくので、危険も少ないんです。

メキッ! バリバリッ! 音がして、丸太が裂けていきます。

割った丸太を半分ずつまた載せて、再び割ります。

それをまた割って、燃えやすい大きさにしていきます。

ここにあった半分は丸太でしたが、ダーリン、がんばりました。

薪割り機くんも、がんばったね。就寝中の様子です。

ウッドデッキに出てきたものの、けろじは潜ってしまいました。
人が普通に歩いている分には無関心ですが、逃げ足は速い。
大きな音がして、怖かったんだよね~。

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青い光の記憶

ゴールデンウイーク前半は、会社の引っ越しがあった。
身体は疲れたが、気持ちは晴れ晴れとしている。オフィス街広がる神田錦町の明るく広々とした事務所への引っ越しとあって、社員達もみな笑顔だった。

「引っ越し」というキーワードで、思い出したことがある。「青い光の記憶」と自分のなかでは呼んでいる16年前に山梨の田舎に越してきたときのこと。
4月に越してきて、家が完成したのは7月後半。大幅に納期は延びたが、子ども達の学校のことを考え、住みながら建ててもらおうということになった。引っ越してきたときの引っ越し屋さんの言葉は、今も耳に残っている。
「家、まだできてませんよ。荷物入れちゃっていいんですか」
何しろ、玄関のドアが、まだついていなかったのだ。

子ども達3人は、それぞれ保育園、小学校、中学と新しい環境になれないことも多く、それはわたしもおなじだった。風呂も入れず銭湯に通い、大工さんや左官屋さんに気を使いつつ暮らす毎日。精一杯やっていたと思う。いや、精一杯どころかキャパを超えていたのだろう。ある朝ひとりになったとき、床にぺたんと座り込み、力が抜けたように動けなくなった。そのとき、曇りガラスの向こうに青くキラキラ光るものが見えた。綺麗だった。陽の光を反射したブルーが、ゆらゆらと揺れ眩しかった。思わず頬が緩むほどの美しさだった。
「こんなところに、いったい何があるんだろう」
期待を込めて窓を開け、脱力した。これから使う木材をブルーシートで巻いて立て掛けてあるだけだった。工事現場でよく目にする、ベタな青色のシートだ。急に可笑しくなり、ひとり笑った。安っぽいビニールが陽の光と作った青い光。宝石でも何でもない、ただの青い光だったのだ。
しかし、それは確実にそこにあり、わたしの疲れた心にしんと染み込むように長いこと留まっていた。じっと見つめていると、胸のなかで荒く揺れていた波が、次第に水平になっていくような変化を感じた。
そして「もう少し、がんばろう」と、思ったのだった。

新天地、神田錦町では、第二便の荷物を載せたトラックを待つ間、20代の男子社員ふたりが窓から高速道路を眺め、赤と青、どっちの車が多く通るか賭けをしていた。モノクロの自動車が多いなか、勝ったのは青い方だったようだ。

青い光つながりで、淡い色合いも涼しいアクアマリンのネックレス。
ブルーを身につけると、何か落ち着きます。

アップにすると、石のなかの模様が浮き出て、綺麗。
間に挟んであるのは、ラブラドライトです。
前世の記憶にアクセスする力を持つ石だとか。

白の上に置くと、また違った趣です。

むかーしむかし、夫に貰ったペンダント。たぶんアクアマリン。

輝きが強いタイプですね。韓国のお土産だったと思います。

白の上に置くと、カットがくっきり見えて全く違う石みたい。

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マグノリアのサシェ

買い物をした店のレジ横に「サシェ」とかかれた籠が、置いてあった。
聞きなれない名だと手にとってみると、いい香り。小さめの封筒くらいの大きさの紙の袋に、花の香りの素が入っている匂い袋のようだ。バラ、ラベンダー、コットンなど、いろいろある。500円というお手頃さに魅かれて、次々香りを嗅いでみる。そのなかで気に入ったのが、マグノリアだった。

今、そのマグノリアのサシェをベッド横に置き、眠っている。タンスや鞄に忍ばせてもよいというその香りは、香水のような強さはなく、やわらかい。甘すぎず、人工的なものも感じさせない。ホッとする香りだ。

それで、知りたくなった。マグノリアって、どんな花なんだろう。
すると何のことはない、春先によく見かける木蓮の花だった。むかし、トムクルーズ主演の映画『マグノリア』を観たこともあり、てっきり外国にしかないような特別な花だとばかり思っていた。
「木蓮が、咲いてるね」
春先によく、夫と車で走りながら、そんな会話を交わす。
「あれは、コブシ?」「いや、木蓮でしょう」なんて。

「青い鳥は、いつだってすぐそばにいるものなのさ」
マグノリアのサシェが、ベッドの横でささやいた。

絵を見ても、木蓮だとは思いませんでした。外国の花に見えました。
サシェって、フランス語で匂い袋のことなんですね。

こちらは、何かのおまけでいただいたくすのきのブロック。
木の香りが微かにします。防虫効果もあるのですって。

先月から使っている、SHIGETA の香りエッセンスとマッサージオイル。
ふくらはぎを下から押し上げるようにマッサージすると、よく眠れます。
ふくらはぎは、第2の心臓と呼ばれているそうです。
血流やリンパが滞ると、身体じゅうに影響があるのだとか。
エコノミークラス症候群の予防にも、効果があるそうです。

もう1年以上、車に乗せてある匂い袋。京都は松栄堂のものです。

庭では、スズランが香り始めました。とってもいい香りです。

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庭の花達と漢字のなりたち

草冠に化けるとかいて、花。草が化けるかあ。なるほど確かに。
今、庭では、草木がどんどん化けている。

漢字って、おもしろい。
人が木によりかかって「休む」とか、「忙しい」は心を亡くすとか、「忘れる」も同じく亡くす心だし、人を心配する、憂う「優しい」も言い得て妙。田んぼで力仕事をする「男」にも、なるほどと膝を打つ。
だけど「思う」は、どうして田んぼの田と心なんだろう。
調べると、今は田とかくところが最初は「囟(しん)」だったらしい。「囟」は、幼子の頭を表す漢字だそうだ。幼い子が頭と心で感じることが「思う」
うーん。深いなあ。大人の頭で考えることには、雑念が多いってことだろうか。純粋に考え「思う」こと、もっと大切にしなくては。

などなどつらつらと考えつつ、庭仕事のあいま、隣りの林の木によりかかって「休んで」みた。草木の化身である花達を、遠目に眺めながら。

何年か前、ストーブの灰と物々交換でいただいた、ライラック。

ハナミズキは、今、満開です。

スズランも、一番手が咲き始めました。

ツルニチニチソウは、日に日に花を増やしています。

静かに咲いている、ドウダンツツジの花。

濃いピンクの芝桜も、満開です。

ブルーベリー。今年もいっぱい生るといいな。

スミレも、まだまだ咲き続けています。

ヤマブキは、最後の花を開きました。

もともと土地にあった、コバノガマズミ。この名前が覚えられない。

ツツジも、咲いています。今、五分咲きくらいかな。

雑草代表で、カラスノエンドウさん。目に眩しい紫色。
ん? よーく見ると、ありんこが写ってる。

緑色のけろじ、発見。垂直ジャンプに、挑戦していました。
見上げる視線の先に、春の空は映っているのかな。
けろじの写真がもっと見たいとおっしゃる方は → こちら




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『夢幻花』

東野圭吾のミステリー『夢幻花(むげんばな)』(PHP文芸文庫)を読んだ。
花を育てるのが好きな一人暮らしの老人が、殺された。第一発見者である孫の梨乃は、祖父が大切にしていた鉢植えがなくなっていることに気づく。とても珍しい黄色い花が咲いたと喜んでいたことを思い出したのだ。気になって、祖父が撮ったその花の写真をブログにアップすると、植物学の情報収集をしているという男から「すぐにブログを閉鎖し、今後一切その花にはかかわらない方がいい」と一方的に言い渡される。祖父を殺したのは誰なのか。花は、祖父の死と関係しているのか。梨乃は、黄色い花を追ううちに知り合った蒼太とタッグを組み、真実に近づいていく。以下本文から。

「私はここで毎年種を蒔いている。神様から許された種だけを蒔いている」
「神様?」蒼太は老人の横顔を見た。
「変化アサガオは面白い。私のように何年も関わってきたものでも交配によってどんな花が咲くか完全には予測できない。それが面白い。しかしね、それは遺伝子を組み合わせる遊びでもある。崇高でもあるが、非常に危険でもある。だからそれを楽しみにするには神様から許された範囲内でなければならない」
「どういう花なら神様から許されるんですか」
そう訊いたのは梨乃だった。田原は優しげな目を彼女に向けた。
「それはわからない。生存を続ければ、許されているということになるんじゃないかな。あるものはあるがままに、というのが私の考えなんだ。逆にいえば、消えゆくものは消えゆくままに、ということになる。ある種が滅びたということは、滅びるだけの理由があったわけだ。黄色いアサガオが絶えたのにも、それなりの理由があったはずだ」

50年前の通り魔殺人。10年前、突然連絡を絶った蒼太の初恋の人。自殺した梨乃のいとこ。ぎくしゃくとした蒼太と兄の関係。いくつものからみあった糸がスッとほぐれる瞬間を存分に楽しめる推理小説だった。
そして、探偵役の若い二人には、それぞれ抱える葛藤があった。
「あたしたち、何だか似てるよね。一生懸命、自分が信じた道を進んできたはずなのに、いつの間にか迷子になってる」
そんな二人は、真相を追ううちに宿命から逃げずに生きる人の思いに触れ、立ち止まっていた場所から一歩を踏み出していく。「夢」と「現実」の狭間を生きる、人間というものを描いた小説でもあった。

柴田錬三郎賞受賞作だそうです。
タイトルの黄色が、怪しい花の雰囲気を醸し出しています。

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偶然とシンクロ

小説を読んでいて、なるほどと腑に落ちた。
偶然について、または、シンクロニシティについての記述だ。要約すると、
「偶然はけっこう頻繁に起きているものであり、シンクロするかしないかはそれに気づくか否かにかかっている。気づかなければ、その偶然は起こらなかったものと同じで認識されない。シンクロニシティとは、偶然を認識することで起こる現象だ」という考え方。

昨日のブログで、時間のずれのことをかこうと考えた。考えていたから、花時計の写真を撮ろうと思った。すると、まるで時間のずれというテーマそのもののように、時計を修繕している最中だった。単に花の植え替えをしていただけだったのだが、わたしにとっては、そのいつもとは違う花時計を見られたことが「偶然」であり「シンクロ」と感じた訳だ。

神戸からの帰り道、そんな偶然とシンクロのことを考えていたら夫が言った。
「この曲、さっきも聴いたな」
「けっこうあるよね、そういうの。たまたまさっき家で聴いた曲がさ、これもたまたま入った喫茶店でかかってたりとか」と、わたし。すると、夫。
「まあ、耳が覚えてるっちゅうやつやろなあ」
それはまさに、さっき小説で読んだばかりの「偶然とシンクロ」を言い当てていた。うーん、不思議。だがその偶然は、わたしの認識が生んだシンクロであって、必然だったのだと合点がいった。

日常のなかの偶然は、けっこうな頻度で潜んでいるっていうことだろうか。
それって、もしかしたら空の上の誰かが、じつはおもしろがって仕組んでいるのかも知れないよなあ、と空を見上げて考える。
うむ。偶然を拾うように日々を過ごすこともまた、おもしろいかも知れない。
帰省の帰り道に読んだ小説の紹介は、明日。

昨日はもう、前日の植え替えなどはなかったかのよう。

これが、一昨日の様子です。

フラワーロードは、様々な花であふれていました。
それもみな、人の手で植えられたものだと思うと、余計に愛おしくなります。

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今日と明日の境い目に

数日前の朝日新聞「しつもん! ドラえもん」のコーナーで「うるう秒」というのが取り上げられていた。カレンダーのわずかなずれを修正する4年に一度のうるう年のほかに、数年に1秒追加されるそうだ。そういうものがあるのだとは知らなかった。大人になっても、知らないことの何と多いことか。

ところで時間のずれと聞き、毎日更新しているブログの更新時間を連想した。
毎晩、真夜中0時にシンデレラ更新の予約をしてから眠るのが習慣になっている。だがじつは 0時ちょうどにしている訳ではない。0時1分に設定している。今日の24時は明日の0時であり、それが今日なのか明日なのか曖昧で不安なのだ。だからしっかり1分経って、きちんと明日になったところで更新する。24時ぴったりではまだシンデレラの魔法だって解けてはいないだろう。

国境とか県境とか、境界線のようなものも、その線自体はどちらでもある訳で、やはりとても曖昧だ。曖昧なものは、人を不安にさせる。しかし、毎晩真夜中には今日と明日の境い目が、曖昧に存在していることも現実なのだ。
とは言え、何もはっきりさせるだけがいい訳じゃないことも知っている。
知らないことの多い大人ではあるが、曖昧さを見過ごして歩いていけるだけの死角は、子どもの頃より着実に育っているらしい。

朝日新聞の「しつもん! ドラえもん」のコーナーは、
1面に問題があって、答がある面は、その日によって違います。
子ども達に探してもらうことで新聞に親しんでもらおうという取り組みです。

毎日は見ていませんが、たまにこうして探してみます。

神戸に帰省しています。 三宮の花時計です。
写真を撮ろうと思ったら、花の植え替えをしていました。
花時計、こうして人の手で作られているんですね。
まるで、時間のずれを修正しているかのよう。
いつでも何処でも、様々なずれはあるのかも。

三宮フラワーロードには、様々な花達が咲き乱れていました。
リハビリ病院に入院中の義母は、ずいぶん元気になっていました。

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パワーストーンと月

宝石というものには無縁だが、誕生石のアメジストは2つ持っている。
一つは、義母から誕生日に貰った指輪。輝きの強い大きなアメジストの指輪は、普段着に合うものではなく、特別なときにしかはめられない。2~3度はめて出かけただろうか。次はいつかな、と出番を待っているかも知れない。
もう一つは、清里のお祭り、ポールラッシュ祭で、手作りアクセサリーの露店で買ったペンダント。濁ったその石は、宝石というより石に近い。とても気に入っていて、普段使いに重宝している。そのペンダントをつけると何でもないセーターが、華やかになるというのではないが、何かぴたりと落ち着くのだ。

突然気になって、2月の誕生石であるアメジストの効能を調べてみた。
「アメジストのグラスで水を飲むと、悪魔が追い払える」と言われるほど、魔よけのパワーを持つ石だそうだ。
自分のなかにあるマイナス思考をプラスに変換させる力もあるらしい。そして、身に着けて酒を呑むと、悪酔いや二日酔いをしないという。
パワーストーンの効能が、すべて本当だとは思わないが、これはもっと身に着ける時間を増やすべきだと思った。特に夜、お酒を呑むときに(笑)
指輪だって、大切にするがあまり身につけないのではもったいない。

石は、持ち主からマイナスエネルギーを吸うと疲れてパワーが弱まるそうだ。2時間ほど月の光に当て浄化する方法は、どの石にも効果があるらしい。満月なら、なお効果的だとか。そう聞くと、石の力を純粋に信じられるような気持ちになってくる。地球の引力に支えられた月と、月に光を送る太陽と、地球の地面に眠っていた石と、人。そこでつながっている、目に見えない何かを。

☆今夜は、満月だそうです。九州地方が、晴れますように。
 そしてパワーストーン達、どうか余震を沈めてください。

義母に貰った指輪です。誕生石を貰うのは初めてでした。

アップにすると、輝きも大きくなったよう。

露店で買ったペンダントです。何処のどなたの作品なんだろう。
もう10年近く前のことなので、判りません。

こちらは、アップにするとさらにごつごつ感もアップ。

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ベンチ達の待ち時間

東京で、千鳥ヶ渕を歩いているときに、石のベンチが目に留まった。
切り出したものをそのまま置いたような大きな細長い石に、金属のひじ掛け(?)をつけて区切り、ベンチであるということをアピールしている。

緑道をお堀沿いに歩いていたのだが、通り過ぎる人はいても、ベンチに座る人は誰もいなかった。平日の朝だということもあったのだろう。ずっしりと重そうな石のベンチは、冷たそうで、そして何か物足りなさそうに見えた。
ベンチという人工物は、それで完成品ではないのだなあと考える。人が座ってこそ、完成されるモノなのだ。

そう考えて見つめると、彼らは待ち時間を過ごしているように思えてきた。誰かが座る瞬間をそこで待っているかのように。もしかしたら、もう誰かが座る日は来ないかも知れない。あるいは1分後に誰かが腰を掛けるかも知れない。そんな不安定な時間を過ごしているのだろうか、と。
わたしは、待つことは得意な方だと思っている。待たせるよりもよほど気が楽だ。だが、来るかも判らない誰かを待つのは、どうだろう。
世界中にある、数々の、様々な場所に置かれたベンチ達。緑道を歩きながら、彼らの待ち時間に思いを馳せた。

ボートのような形をした石のベンチ。かっこいいです。

こういうタイプのベンチも、たくさん並んでいました。

木製のベンチも、一味違うお洒落な雰囲気。

千鳥ヶ渕緑道の入り口です。入り口は出口です。

緑道を出たところにも、こんな石のベンチがありました。

その近くでは、モッコウバラが気持ちよさそうに咲いていました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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