はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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ナンプラーは隠し味で

「マンネリ打破に、ナンプラー」
ネットで、そんな言葉を目にするこの頃。我が家でも、ナンプラーを使った料理に挑戦している。海老団子鍋は定番になったが、炒め物に気軽に使えると、さらに広がりそう。失敗もするが、繰り返しトライしている。

その失敗。ほぼ塩味が濃い、しょっぱいというもの。ナンプラーは、塩味が濃い調味料なのだ。それを知りながらも、失敗を繰り返すのは、ナンプラーの色が薄いからなのだと思う。たぶん醤油より味の濃いナンプラー。しかし醤油よりもかなり色が薄い。そこに騙されてしまうのだ。
「見た目に騙されるな」というのは、人は見た目に騙されやすいモノだからこそ発生した言葉。そしてさらに言えば、名前にも騙されている気がする。ナンプラーと醤油を比べると、どうしてもナンプラーの方がさっぱり薄味の印象を持ってしまう。ナンプラーと「ラー」で終わる軽そうな音に、うっかり油断してしまうのだ。
そんなこんなでナンプラーに翻弄され、手玉に取られ、踊らされ、いく度となくまんまと騙される日々。

うーむ。ナンプラー炒めというよりは、これ何で味つけしたの? というくらいの隠し味って感覚で使った方がいいのかな、などと試行錯誤している。

いつも隣町のスーパーにある、ユウキ食品のナンプラーを使っています。
天秤印のナンプラーが、塩味薄めらしいので、今度買ってみようかな。

セロリと海老のナンプラー炒め。色はやっぱり薄いです。
セロリは、サラダの残りを使って。ニンニクが効いています。

白髪葱と生姜の千切りと合わせたレンコン&ポークソテー。
ナンプラー + お酢の味つけがぴったりでした。

ゴールデンウイークに取り寄せた、石巻の帆立です。
バター焼き with ナンプラー。レモンとパクチーを添えて。

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マイブームはもずくスープ

このところ、もずくスープに心酔している。
「あ、ダイエット効果あるかも」という下心(?)で買ったインスタントのカップスープが、驚くほど美味しかったのだ。

ところで、もずくを食べるたびに疑問に思っていたことがある。海のもくずとどうしてこんなに似た名前にしたのかな? ってこと。ややこしすぎる。
そこで、もずくの名前の由来を調べてみた。由来を知ると合点がいった。
「藻につく」「藻づく」から来た名だったのだ。もずくは「藻」にくっついていたもので、藻屑は文字通り「藻」の屑。「藻」が一緒だったのだ。
水雲(もずく)ってかく方が趣があって好きだな、なんて勝手なことを思ったりもするけれど、こっちの方が当て字だった訳だ。

スープはメーカーによって少しずつ入っているものが違い、それもまた楽しい。卵、三つ葉、ワカメ、柚子、胡麻など。ワカメ入りのスープを飲み、あれ? 切れてないじゃん、と思ったわたし。もずくはもともとこういう形状なの! 人が切ってる訳じゃないの! と自分にツッコんだりした(笑)
そう言えば、藻の代表であるワカメが、もずくスープのなかでは脇役だ。くっついていた方のもずくが主役になってるってことも、またおもしろい。

これからの季節は、もずく酢も美味しい。だからといってもずく自体に深入りし、素材を買い求めたりしても長続きしそうにない。ここはやっぱりインスタントで、あるいはパック入りのもずく酢で、楽しもう。

カップタイプのが、ワカメ入りでした。

この軽ーい固形が、膨らむんです。むくむくと夢が膨らむように。

3分待たなくてもいいというのも、魅力の一つ。

☆熊本の地震もそうだったみたいですが、カップ麺などのインスタントモノは
 支援物資として役に立たないこともあるようです。
 水と、お湯を沸かすガスや電気がないときには。
 でも、送ったおむすびが無駄になったケースもあったみたいだし、
 日持ちのするものは、無駄にはならないのかな。
 あったかいモノって、ホッとするし。
 ただ、支援物資は、置き場所に困ることも多いらしいですね。
 ニュースを観ては、いろいろ考えます。

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ぐんぐん伸びて

神戸から帰ってくると、にょきっとアスパラが伸びていた。
夫と庭をゆっくり歩くと、タラの芽は伸びすぎているし、蕗も葉を広げ、イタリアンパセリは茂り、ニラも収穫できるほどに伸びていた。3日の帰省の間、雨を吸い込み、やわらな陽射しを浴び、何に邪魔をされることもなく思う存分伸びました、と言っているかのようだ。

根がずぼらなので家庭菜園などはできないが、強く生き残り勝手に伸びてくれるものだけでもけっこう食べられるものもあり、楽しませてもらっている。
五感(視、聴、触、嗅、味)のうちの「味わう」までもを庭からもらえるというのは、とても贅沢なことかも知れない。

庭に立ち目をつぶると、植物達が目に見えるような速さでぐんぐん伸びていくような気がする。
「誰も見てないうちに」なんてつぶやきながら、こっそりと。
      
 すっくと伸びていた、アスパラガス。さっと茹でて。

脚立に乗っても届かないところまで伸びてしまった、タラの芽。

天麩羅では食べ切れそうにないので、お浸しにしました。

木の芽は、食べ頃になりました。筍ご飯、炊くぞー。

でもとりあえず、神戸で買ってきたいかなごのくぎ煮にのせて。

ニラも伸びてきました。チゲ鍋に入れて、いただきました。

蕗の葉も広がって。もうすぐ煮物ができるかな。

イタリアンパセリは種が飛んで、お隣の林でも伸びています。

レモンバームは、ほんとうにいい匂い。アジアン料理に。

西側の駐車場いっぱいに広がった、呆れるほど強いアップルミント。
定番のアンチョビポテトサラダに、ぴったりのハーブです。

けろじも、うっすら緑色になってきたね。笑ってる。

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料理の原点

久しぶりに、玉葱と人参の炒め物を作った。
作ったと言っても、胡麻油で炒めて塩胡椒しただけの簡単な一品だ。
簡単な一品だが、これがわたしの料理の原点。思い出の味だ。

小学校の頃、八百屋の子と仲が良かった。帰り道も同じ方向で、たがいの家にもよく遊びに行った。
あれは、何年生のときだったのだろう。彼女の家に昼ご飯を食べてから遊びに行くと「ご飯、まだなんだー」と言って、彼女が店にいる父親から玉葱1個と人参1本をもらってきた。そして、台所で皮を剥き、刻み、炒め始めた。
わたしはまだ、料理というものを知らなかった。作ったことがあるとすれば、インスタントラーメンくらいのものだったと思う。
「どうぞ」とすすめられるままに口にしたその炒め物はとてもおいしかった。
やわらかく甘く、塩味もちょうどよく胡椒が効いていた。献立は、その炒め物とご飯だけ。本当に簡単な昼食だった。そのとき、思ったのだ。
「ああ、料理って、こんなにもシンプルなモノなんだ」
それからわたしは、キッチンに立つようになった。

今では、シンプルな炒め物でさえ、こだわればキリがないことも知っている。
太白の胡麻油で炒め、粗塩と粗挽き黒胡椒で味つけしたものは、きっとあのときの味とは違うはずだ。
「でも、あれ、おいしかったなあ」と思い出す。
むかし体験した食の記憶って、なかなかに手ごわい。

油をしいたら、両方いっぺんに入れちゃいます。

すぐにしんなり。玉葱が人参色にうっすら染まるところも好き。

昨日の朝ご飯。豆腐とシメジとワカメのお味噌汁と、メザシ、
玉葱人参炒めは、目玉焼きと一緒にたっぷり盛りつけて。

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葱坊主くん、こんにちは

焦りを、感じてきた。味噌汁に、納豆に、うどんに、炒め物にと毎日いただいた葱を食べているのだが、一向に減る様子がないのである。
ここらで大量消費する料理を考えなければと、料理本をめくってみた。やわらかく煮た葱ならいくらでも食べられそうだが、塩分が多くなるのも心配だ。そう考えて、韓国風大根の煮物を思い出した。鶏がらスープの素で手羽先をやわらかく煮てから大根を入れる薄味の煮物だ。後入れなら、短時間でやわらかくなる葱にもぴったり。たっぷり煮るぞと、6~7本の葱を切り始めた。

すると、玄関で育っていたのだろう。葱坊主の蕾がいくつも顔を出しているのに驚いた。可愛い。そして、美味しそうだ。
とりあえず、一緒に煮てみることにした。鶏がらスープの味と鶏の脂が、とてもよくしみていて、葱バージョンにしてみて、大正解。葱坊主くんも、甘くやわらかく煮えていた。

植物は、どんな場所でも育っていこうとする。そんな強さがとても眩しい。
葱坊主を見て、感じたことだ。無駄にしないように、しっかり食べよう。

植物の芽って、どうしてこんなに可愛いんでしょう。
天麩羅にするのが、一般的みたいです。

お鍋のなかでも、葱坊主くんの赤ちゃん、存在感あります。
韓国風の煮物は、ニンニクと生姜と鶏肉を炒めて鷹の爪を入れて、
鶏がらスープで煮ます。味つけは少しの醤油、酒、酢と胡麻油。

くたくたに煮えた葱坊主くん、よく見ると蕾の粒々が。
栄養いっぱい詰まってますって、言っているかのよう。
四川赤山椒をかけて、いっぱいいただきました。

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珈琲タイムに

珈琲豆がなくなったので、注文した。
いつもの『珈琲問屋』だ。ネット注文ではなく、甲府にある店から、豆を郵送で送ってもらっている。豆の種類も豊富で、豆の煎り方も8段階のうちから選べ、何より煎りたて新鮮なのがいい。
苦みが強くないすっきりした酸味を好むわたしは、このところイルガチェフェとグァテマラを頼むことが多かったが、今回は、夫が好きだと言っていた「ポピュラーなブレンド」も合わせて注文した。ブラジルとコロンビアを半々にブレンドした苦み、酸味、コクなどバランスのとれた豆だ。

夫は、わたしが淹れた珈琲をたいてい美味しいと飲んでくれるのだが、たぶん、わたしが好むものよりも、もう少し苦みがプラスされている方が好きなのだろうとは知っている。ただ、美味しいと飲んでくれるので、それをふと忘れ、だんだんと自分の好み寄りに傾いてしまっていた。

久しぶりに味わったポピュラーなブレンドは、思いのほか美味しかった。
もしかしたら、たがいの好みはこうして一緒に味わっていくうちに近づいていくモノなのかも知れない。
「新しい豆も、開拓してみようかな」
最近開いていなかった『珈琲問屋』のホームページを、眺めてみた。

豆はスケールで量っています。ふたりで3杯分淹れて32gぐらい。

「一般大衆向き」とかかれるとちょっと違和感。
普通とか一般的という言葉に反発を覚える自分は嫌いではありません。
でも、もちろん普通もいいんだよね、とも思います。

煎りたての豆は膨らむなあ。気持ちもゆっくり膨らんで。

お気に入りのカップはそれぞれ。ごっつい手つきのカップが夫のです。

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1日30品目食べてますか?

ふと思い立って、数えてみることにした。
1日30品目の食品をとろうと栄養学で勧められた時代は終わったらしいが、こうしてたまに数えてみたくなるのだ。

朝食 味噌汁(油揚げ、葱、小松菜、茗荷、味噌、和風だし)
   ほうれん草のバター炒め(ほうれん草、バター、塩、白胡椒)
   納豆(葱は味噌汁と同じ)めざし 奈良漬
   いかなごの佃煮(神戸の叔母のお手製)
   野沢菜のえごま油炒め(長野土産)
   ご飯 でこぽん ヨーグルト 緑茶 19品目
昼食 山菜蕎麦(蕎麦、山菜、茄子の天麩羅、葱、七味唐辛子)
   4品目
午後のお茶 レモンジャーティー + レモンバーム 2品目
夕食 セロリのきんぴら
  (セロリ、人参、鷹の爪、胡麻油、醤油、みりん)
   オムレツ&ケチャップ
  (卵、トマト、チーズ、ベーコン、イタリアンパセリ、バター、
                      塩、粗挽き黒胡椒)
   朝の味噌汁 + とろろ昆布
   ビール 14品目
合計 39品目(調味料を別にしたら28品目)

まあ、及第点かな。数えてみると、朝食でずいぶん稼いでいるのが判る。あ、この他にも毎朝起きがけにざくろバーモントのお湯割りを飲んでいる。夕食はひとりだとこんなものだが、夫と飲むならけっこう品目も増えるはずだ。
これでばっちり健康になるとか、そんなたいしたことじゃない。
ただ、1日30品目でも、和食推奨のま・ご・わ・や・さ・し・いでも、何でもいい。いろいろ覚えて、たまにでいいから意識することが大切かなと思っていることもあり、思い立ったが吉日とこうして数えてみた。

ところで、何故30品目の勧めが説かれなくなったのかというと、30という数字に捉われ、食べ過ぎて肥満になる人が増えたからだそうだ。ちょっと笑っちゃう話だけど、我が身に置き換え、気をつけよ。これでワイン赤白飲んだら30品目達成とかいうのは、とりあえずやめておこう。

我が家では、スタンダードな朝食の風景です。
今年はいかなごをたっぷりいただいて、毎朝食べています。

ヨーグルトは恵。ガセリ菌SP株が体脂肪を燃焼するんだとか。

お昼は夫と駅蕎麦を食べました。山菜蕎麦に茄子の天麩羅をのせて。
山菜は、いろいろ入っていましたが、カウントは1で。

寒い季節には欠かせないレモンジンジャーティー。
庭のレモンバームを摘んで入れたら、意外にも甘くなりました。

オムレツのイタリアンパセリは、毎春庭に芽を出すものです。
セロリのきんぴらは、定番千切りセロリサラダの残りで作りました。

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葱を山ほどいただいて

近所の農家さんに、葱を山ほどいただいた。
太い部分が赤みがかった葱は、採れたて新鮮。生でも煮ても、美味しそうだ。
まずは、鮪とねぎま鍋にした。けっこうすぐにやわらかくなる。とろける。
白髪葱でも、たっぷりいただいた。豚肉の梅肉蒸しと軽く蒸して。それから、定番の鯵と茗荷の酢味噌和えにも混ぜて。生で食べるとやわらかい辛味。

和風味だったのに、どれも何故かワインにぴったり。煮れば煮たで甘いし、生は生でピリッとくるし、薄めの味つけで素材の旨味がたっぷり味わえるメニューは、特に白ワインに合う気がする。

ところで、いただいた葱だけど、新聞紙にくるんで玄関に置いてある。
1年分の玄米の保存場所である玄関は、我が家の貯蔵庫でもあるのだ。たぶん保存場所としては最適な環境だと思う。最適だとは思うが、匂いだけでも絶対に風邪ひかないだろうというほど、玄関を開けるたびに鼻を突く葱の匂い。採れたての葱の匂いって、本当にすごい。
宅配便屋さん、鼻がつんとするかも知れませんが、ご容赦ください。

採れたて、いっぱい。うれしいな。赤葱というらしいです。

生姜と葱、鮪のみのシンプルなねぎま鍋。生卵につけて食べます。
昆布のだし汁は、おすましより少し濃い目に味つけて。
食べるのに夢中で、鍋そのものの写真撮るの忘れました(笑)

鯵と茗荷の酢味噌和えです。栗原はるみレシピです。

豚肉の梅肉蒸し。梅肉は「ばいにく」と読むのか「うめにく」と読むのか。
夫と話していて「肉って訓読みだよねえ、それなら」という話になりましたが、梅肉は「ばいにく」と読むのが一般的らしいです。
肉「にく」は音読みだそうです。訓読みはないんだとか。

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ジューサラダで、野菜もりもり

世の中では、ジャーサラダなるものが流行っているらしいが、我が家で流行っているのは、ジューサラダだ。栗原はるみレシピの蛸の香味サラダのことなのだが、柚子ポンで味つけした仕上げに、熱々の胡麻油を食卓に運んでからジューッとかけ回す。その音にまた食欲をそそられるのである。

先週は一週間、東京と神戸で過ごした。外食の日々。それも、肉率の高い外食が続いた。だからなのか、もりもり野菜が食べたーい! という欲求が自然と沸き上がり、それならとジューサラダを作っては食べている。

夫と蛸サラダにした翌日も、山芋バージョンでひとりの夕食にもりもり食べた。もりもり食べて、落ち着いた。人の身体って不思議だ。身体は正直ってよく言われるが、肉を食べれば野菜が欲しくなるのって、健康な証拠なのかな。そしてひとりワインも、すすんじゃった訳なんだけど。

山芋スライスに、クレソン、白髪葱、セロリ、紫玉葱、大葉をさらして。
レシピでは、葱は小口切りでしたが白髪葱大好きなのでアレンジ。

ジューッと胡麻油をかけた、出来あがり図。
胡麻油は、熱し方が足りないとベタッとしてしまうそうです。
ん? いつもより葱が太い? ひとりご飯の油断かな(笑)

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神戸で美味い焼肉屋なら『松竹園』

神戸に帰省した際に、よく行く焼肉屋がある。
三宮にある『松竹園』だ。優しい顔の店主とは、夫は高校時代、サッカー部でチームメイトだった。なので気軽にLINEして席が空いているかと聞いては食べに行く。しかし何度も足を運んでしまう理由は、気軽さだけではない。それはもう「肉が美味い!」からのひと言に尽きる。

そんな訳で、先週もまた『松竹園』へと食べに行ったのだが、LINEで繋がった夫の高校時代の友人達が集まり、ぷち同窓会となった。
「この値段で、この肉は、ありえへん」
「なんぼでも、食えるわあ」
口々に絶賛しながら、食べて飲んだ。
そのなかで、大発見を発表するかのように一人が言った。
「この前気がついたんやけど、白飯(しろめし)と食うのがまた美味いんや」
それを合図に、みなご飯を注文し始める。
飲んで食べて、そのうえご飯を食べるんだな。男の子だなあ。50代も後半に突入した彼らに向かって男の子はないかもしれないが、いやあ、男の子だよ。

そんなことを考えながら生ビールを追加していくと、酔うほどに関西弁でしゃべる彼らの言葉は判らなくなっていく。まるで、知らない国の焼肉屋の暖簾をくぐったような不思議な気分になっていく。その空気にさらにまた酔っぱらっていく。そして思うのだ。ああ、こんなふうに気持ちよく酔えるのも、あるいはご飯を食べたくなるのも、何しろ肉が美味いからなんだよねえ、と。

『松竹園』は、JR三宮駅東口から、徒歩7~8分。

最初は塩で、タンやハラミを。レモン汁や甘辛味噌をお好みで。
夫と友人は、やかんに入ったマッコリを早々に飲み始めていました。

たれに移行して。このカルビがまた、とろける美味しさ。

めっちゃ美味かった!

もやしスープも、絶品。わたしは、さすがに白飯はもう・・・。

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軍鶏鍋タイムスリップ

東京では、夫と思い出の店に行った。恵比寿にある『軍鶏丸(しゃもまる)』25年ほど前、夫が恵比寿にある会社に勤めていた頃に行った、軍鶏鍋や焼き鳥が美味しい鶏の店だ。
「このあいだ偶然『軍鶏丸』の前を通ったら、変わらなくってさ」
「『軍鶏丸』! なつかしいねえ」
それで、二人で上京する機会があれば、行ってみようという話になったのだ。

「なつかしいなあ。全く、変わらないですねえ」
夫は、店に着くなり連発する。店の女将に昔の話をしたら、ちょうど開店して間もない頃だったのだと判った。そのあと夫も、今の会社を立ち上げて22年。店の歴史と自分達の歴史が重なったような気がして、不思議な気持ちになる。女将もとても喜んで、あの頃は、という話に花を咲かせた。

焼き物と軍鶏鍋のコースを堪能しつつ呑みながら、自然と昔の話になる。
「あの頃は、子ども達が小さかったのもあって、きみの仕事をきちんと理解しようとしていなかったなあって、今思うと判るんだよねえ」と、わたし。
「そう? 協力的だったと思うけど?」と、夫。
「仕事人間で家庭をかえりみない夫と、それが不満でしょうがない妻っていうステレオタイプな図式には当てはまらなかったけどさ」
若かったというのは言い訳かも知れないが、たがいに自分のことで精一杯で、相手を理解しようっていう気持ちが欠けていたんじゃないかと、振り返れば思うのだ。末娘が1歳のときからわたしも経理事務を担当してきたが、3人の子ども達との雑多な時間の方が多くを占めていた。ケンカも日常茶飯事だった。

そんななかで時間をやりくりし『軍鶏丸』でゆっくり食事をしたことは、とてもよく覚えている。そういう小さな時間の積み重ねがあったから、きっとこれまでやってこられたのだろう。熱々のつくねを味わいながら、二人いつのまにか、遠い時間にタイムスリップしていた。

焼き物と鍋のコースの最初は、塩レバー。マスタードと山葵が美しい。

手羽先は、粗挽き胡椒が効いていて、パリッと焼けていました。

ビールの泡もこだわり強く。恵比寿だけに、えびすの琥珀です。

鍋に突入。砂肝、胸肉、ささみ、レバーを、炭火でしゃぶしゃぶ。
鉄鍋のなかは鶏がらスープです。タレには大根おろしに山椒をかけて。

つくねは、目の前で作って入れてくれます。
見事な手さばきでした。さすがに、年季が入っています。

肉が美味しすぎて、写真にも残ってませんでした(笑)

〆はうどんで。灰汁が浮いているように見えますが、つくねの卵だそうです。
鶏がらスープに粗塩と粗挽き胡椒を足して、もう何とも言えない美味しさ。

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KITTE、馴染みの空間が作る魔法

東京でよくランチする友人と、いつもKITTEで待ち合わせる。
東京駅の真ん前にある、旧東京中央郵便局があった場所だ。
どちらからともなく誘い合い、年に2~3回、お昼を食べて近況報告などするのだが、最近は「じゃあ、KITTEで」ということになる。1階のフロアは室内にしては広く、吹き抜けで明るく見通しがいいし、椅子とテーブルも人でいっぱいにはならないほどの数が揃っている。レストランもいろいろあるし、ゆっくりできるカフェもある。いちばんの目的がおしゃべりであるならば、おススメの待ち合わせスポットと言えるだろう。
最初に待ち合わせたときには「郵便局だからKITTEなんだね」
「ローマ字にしたところがお洒落だねえ」などとしゃべったのを思い出しつつ、4か月ぶりにランチをした。

ガールズトークという定義に、たぶん年齢は関係ない。しゃべることの多さは、逆に歳を重ねた方が増すような気もする。親のこと。子どものこと。夫のこと。自分のこと。共通の友人のこと。最近感じたこと。いいことも、いいとは言えないことも、たっぷりある。
「いろいろあるけど、自分がムリしない範囲でやろうね」
などと掛け合う言葉も、少しずつ変わってきた。

カフェでたがいの飲み物がすっかり乾いているのを見て、彼女が言った。
「あれ? 今、何時?」「えー? もう3時間経ってる!」
二人、笑い出した。
「時間、飛んだねえ」「さっきは、1時間くらいだと思ってたのに」
KITTEで過ごすことに、たぶん二人ともすっかり馴染み、油断し、時間そのものの存在を忘れてしまったのだろう。馴染みの空間というものは、小さな魔法をかけたりするもの。そんないつにも増して、楽しいランチだった。

ちょうど写真を撮ったときに、郵便局の車が通りました。
KITTEは、日本郵便初の商業施設だそうです。

いつも待ち合わせする1階のフロアは吹き抜けになっていて、
ガラス張りの天井から明るく陽が射していました。

思う存分しゃべって外に出るともう夕方。丸の内南口側の東京駅。
しゃべるのに夢中で、ランチも珈琲も写真撮ってなかった(笑)

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ウエッジウッドへの憧れ

娘の芝居を観に行く途中、早く着き過ぎたので新宿で珈琲を飲んだ。
飛び込みで入ったのだが、豆を厳選したきちんとドリップしてくれる店で、思いがけず美味しい珈琲を味わうことができた。
大江戸線の改札近く、京王モールにある『亜麻亜亭』だ。
夫は、コロンビア。わたしは、モカハラーをオーダーした。そこで、もう一つ思いがけないことがあった。その珈琲カップが、ウエッジウッドのワイルドストロベリーだったのだ。十代の頃、憧れたカップ。食器好きなら、同じように憧れた人も多いのではないだろうか。憧れはしても、高価なカップを購入するには至らなかった、というところまで同じだという人も。

そのワイルドストロベリーで酸味の効いた珈琲を飲みながら、考えた。
いったいあの憧れは、何処に行ってしまったのだろうと。まるで不思議の国のうさぎ穴にでも落としてきたように、ウエッジウッドへの憧れは、いつの間にか消えてしまった。嫌いになったというのではない。確かに今は、土をこねたような人の手を感じる温かみのある器を好んで使うが、好みが変わる以前の空白があったように思う。

考えるにそれは、仕事でいっぱいいっぱいだったり、子育てで余裕がなかったり、そんな時間が作った空白だったのかも知れない。憧れとか、夢とか、そういうものを思い出すこともなく、精一杯の一日一日を過ごしてきた頃。
そこに落としてきたものは、きっと他にもたくさんあるのだろう。そして、今気に入って使っている作り手が見える珈琲カップの温かみのように、たぶん拾ったものもまた多々あるのだろう。

今読んでいる小川洋子の短編集『いつも彼らはどこかに』と一緒に。
憧れていたのは、正しくは紅茶茶碗の方でした。
どうしても欲しかったなら、買えるであろう値段。
あの頃は、一生手に入らない高価なものだと思っていました。

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ちびちんのクリーム煮

春を待ち、三寒四温を繰り返すこの頃。急に冷え込んだ一昨日、青梗菜のクリーム煮が食べたくなった。
我が家では定番となった栗原はるみレシピで、生姜を炒めて香りを出し、青梗菜を炒めてから帆立の缶詰と牛乳、鶏がらスープと粗挽き胡椒でやわらかく煮て、最後にとろみをつけるだけ。簡単なうえに、洋風なシチューなどよりさっぱりしていて、思いっきり青梗菜を食べられる。
「冷えたなあ。何かホッとするものが食べたいなあ」
そう思ったときに食べたくなるのが、これなのだ。

そのいつものレシピで、新しい発見があった。出先で寄った普段はいかないスーパーで「ちびちん」とかかれたミニサイズの青梗菜を見つけたのである。
まず名前に魅かれた。「ちびちん」ちび青梗菜を縮めただけだが、可愛い。ぴったりくるネーミングだ。そしてそのミニサイズの青梗菜もまた、可愛い。何より魅かれたのは、やわらかそうに見えたこと。実際料理してみると、普通サイズのものより筋が少なくやわらかかった。

音楽でも、絵でも、小説でも、何か無性にホッとするものを欲するときがある。食で言えば、たぶんそれが青梗菜のクリーム煮。
生姜で温まるし、胃にもやさしいから、身体がホッとするんじゃないかな。もしも、スーパーでちびちんを見かけたら、どうぞお試しあれ。

小さいだけに、エネルギーが凝縮しているように感じます。
調べたらここで作られたものでした → fresh vegetable ZUCCA

器も大切ですよね。ホッとする雰囲気のものに盛りつけて。

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山葵(わさび)尽くしの宴

神戸では、義母が入院する病院にほど近い三宮に泊まった。
飲み屋には困らない街である。以前から行ってみようと話していた居酒屋『和さびや』に夕飯代わりに飲みに行った。その『和さびや』さん。名前だけではなく、山葵の店だった。最初に生の山葵が1本、鮫皮のおろし器を添えて出され、どの料理にも使えるようになっているのだ。

ふたり生ビールで乾杯すると、疲れも吹き飛ぶ。
「山葵が1本出てくるのって、うれしいものだねえ」
最近、家でも山葵をおろすようになったわたしが、言う。
「本物の山葵って、チューブのより辛くないけど、旨味が濃いよね」
夫も、蛸の刺身をほおばりながら、うなずく。

山葵の効能は、たくさんあるそうだ。抗菌作用、抗がん作用、食欲増進、シミ・ソバカスをなくす、血栓予防や骨増強、防カビ防虫などなど。
しかし、山葵を食べているとき、そんなことは考えない。
「美味しい」
ため息とともに発せられる心からの声が、既に効能だと思える。

料理に山葵を添え、また、山葵だけをつまみつつ考える。うん。「美味しい」っていうのは、実際に「効能」の一つなのかも知れないなと。

最初は少しおろしたものと刻み山葵を出してくれました。
もちろん、お刺身にはぴったり。

牛タンも半生で、 山葵をたっぷりのせて。

野菜にも合います。揚げ茄子のとろろに山葵を混ぜて。
写真は撮りそこねたけど、アボカドと揚げじゃが芋のサラダには、
山葵ドレッシングがかかっていて、とっても美味でした。

日本酒にも。もう山葵だけで、じゅうぶん肴になります。
ビールを飲んでいたのですが、夫がぐい飲みを選んでいるのを見て、
「わたしも、選びたーい!」と(笑)一口もらいました。

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「ありがとう」という言葉について

夫とふたり神戸に帰省すると、たがいに掛け合う言葉が一つ増えるのが判る。「ありがとう」だ。
電車に乗るときに、切符を買ってもらって「ありがとう」
荷物を持ってもらって「ありがとう」
モーニングの珈琲を、片づけてもらって「ありがとう」
お弁当を買ってもらって「ありがとう」
家にいると、役割分担が自然にできていて、たがいに「ありがとう」と声を掛け合うことも少なくなる。それが家を離れ、役割の分担が不安定になったことで、その言葉を使う頻度が顕著に増えるのだ。

義母の病院の手続きや雑用などをこなし、長旅の疲れもあって夜にはふたりともがくたくたになっているが、ぎすぎすした雰囲気にならないのは、「ありがとう」と声を掛け合うことが増えるからなのかも、とわたしは思っている。

ハワイには「ホ・オ・ポノポノ」という精神療法みたいなものがあって、つらいことがあったときにそれを心の中心に据えてから「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛してる」と繰り返し唱えると、それら4つの言葉が持つ力で、つらいことや我慢できないような理不尽なことが、浄化されると言われているそうだ。
「ありがとう」一つだけでも、きっと何かを浄化する作用があるのではないか。うん、きっとある。と、わたしは思う。
そうそう。「ホ・オ・ポノポノ」の4つの言葉は、心から発する言葉じゃないと効果はないそうだ。いつも隣りにいる誰かに、感謝の気持ちを込めて「ありがとう」って言ってみませんか。もちろん「愛してる」でも、いいし。

新神戸駅の時計は、風見鶏のデザイン。お洒落ですね。

カモノハシ型の、のぞみを見るのにも慣れてきました。

夫が食べた『牛肉炙り焼き弁当』味見しました。美味しかった!

わたしは贅沢に『海の贅沢にぎわい飯』弁当をいただきました。
味見と言って、夫に3分の1くらい食べられたような気が・・・。
夫曰く「牛炙り焼き、ずいぶん食べたやん」おたがいさまか。

蟹型の入れ物に、入っていました。こういう小さなことが楽しい。

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30分のタイムラグ

急ぐのが、苦手だ。
走ったり、早足で歩くのが苦手、という訳ではない。ゆっくりじっくりやりたいのだ。買い物も、料理も、洗濯物をたたむのも。だから、逆に移動時間を節約するために、早足で歩くことが多い。

仕事も、同じ。
何日までに、これをやらなければならないという期限が毎月きっちり決まっているのが、経理事務の一つの特徴だ。自宅勤務だから、朝でも夜中でも仕事はできる。じっくり取り組むために、期限をいつも前倒しに設定している。

待ち合わせの時間にも、遅れる遅れると焦ったりするのが嫌だから、早く着くようにする。30分待つことになっても、本を開けばいい。

性質(たち)というものなのだろう。
だが、もちろんいつもいつでも時間に余裕がある訳ではない。休日、夕食の支度は大抵7時までに調うようにしているが、間に合わないこともある。間に合わないと思うと、気持ちが焦る。料理も楽しくなくなる。

そういうときには30分のタイムラグを使うことにしている。夕食前に入る習慣となっている風呂を、きっぱりやめるのだ。
たったそれだけのことだが気持ちはすっきりと楽になり、料理を楽しめる。夕食後、あまり酔っぱらっていなければ(笑)風呂に入ってもいい。
「気にせずに風呂、入れば?」と、夫に言われることもある。
「腹減った」と、夫がタイムラグを歓迎するときもある。
だが、わたしが気にしているのは、たぶん夫のことではない。時間というものが左右する自分のなかの何かが、気になってしょうがないのだ。

ある休日の夕食です。赤ワインが飲みたいという夫のリクエストで、
セロリとささみのサラダと、鮪のカルパッチョにしました。

こちらは最近ヒットした栗原はるみレシピ、蛸の香味サラダ。
セロリやクレソン、大葉、白髪葱などをたっぷりのせて、柚子ぽんをかけ、
最後に熱々に熱した胡麻油を、ジューッと音を立てて回しかけます。

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プランナーと料理人

何も予定が入っていない休日。久しぶりに、夫とのんびり散歩した。
貯水池で鴨を見て、アカマツが枯れていく林を憂い、梅の花を愛で、暖かさにかすむ山々を眺めて歩いた。
「ふきのとう、出てるかな?」と、夫。
「あ、あった!」と、わたし。
散歩終盤は、ふきのとう狩りとなる。
「あの辺の石の隙間に、去年出てたよね?」
「うーん。先客がいたようだね。だいぶ採られてる」
それでも、たった二人の食卓。十個も採れば、じゅうぶんだ。
「天麩羅にする?」わたしの問いに、夫はちょっと考えていった。
「パスタはどう?」「いいかも! ワインに合いそう」
帰宅して、さっそくネットレシピを検索し、冷蔵庫にあるベーコンとニンニクでペペロンチーノにすることにした。

春の苦みが、口いっぱいに広がる。予想通り、ワインにもぴったりだ。
「うーん。美味い。さすがだ」
夫が、褒めちぎる。ただのペペロンチーノなんだけどなあ、ふきのとうが活躍してくれてるだけで。そう思いながらも、こちらも返す。
「きみの企画のおかげで、春らしい晩餐になったねえ」
休日の夫とわたしの関係は、夫婦というより、プランナーと料理人。そして、飲み友達といった方が近いのだ。

収穫したふきのとう達。蕾も咲いている花も、美味しそう。

二人分パスタ150g分を、大皿に盛りつけました。
ネットには、クリームパスタのレシピもありましたが、
シンプル&さっぱり風味のペペロンチーノがおススメです。

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駅弁と小さな楽しみ

山梨から神戸に帰省するのに、往復10時間ちょっと。その楽しみの一つに、駅弁がある。先週は、東京駅で売っていた広島駅の駅弁『かきの土手わっぱ』と、東海道新幹線内やその駅で発売している『春らんまん』を楽しんだ。

どちらも初めて食べる駅弁で、牡蠣にしみた味噌味に唸ったり、思いがけず入っていたタラの芽の天麩羅をじっくり味わったりした。
駅弁それぞれの名もまた、工夫されていて、おもしろい。
『かきの土手わっぱ』は、牡蠣の土手鍋からつけられた名だと思うが、土手鍋ではもちろんない。土手を作り上げるかのように鍋に味噌を塗り、ほんのり焦がして風味を味わうことから、味噌味の牡蠣鍋をそう呼ぶようになったらしいが、そこからさらに「土手」がひとり歩きし、味噌味の牡蠣だから鍋ではなくても「土手」でよしとしたのだろう。
『春らんまん』は、素材の名ではなく、しかし、春先に花が咲き乱れるような華やかな弁当のイメージが持てる。桜の花の塩漬けや桜色の蒟蒻、卵の黄色といくつかの緑。小ぶりの大きさにしたのは、ターゲットを女性に絞ってのことだろう。鯛めしも入っていて、春ならではの進学などを祝う席でもOKだ。
車中で駅弁を食べながら、そんなことをつらつらと考えるのもまた楽し。

往復10時間かけての帰省は、しんどいことも多いけれど、小さな楽しみは何処にでもあるもの。手術を終えてICUで過ごす義母が言っていた。
「本を読んだりはできないけど、退屈しないのよ。いろんな機械があって、看護士さん達のお仕事も様々で、興味深いの」
どんなときにも楽しみを見つけられる義母。見習わせてもらっている。

行きの新幹線で食べた、広島産牡蠣の『かきの土手わっぱ』弁当。

帰りの新幹線で食べた『春らんまん』弁当。
春に獲れるイサダ(ツノナシオキアミ)や、わらびも入っています。
夫は隣りで、もりもりと牛タン弁当を、ほおばっていました。

乗換の塩尻駅で、夫が食べた『鴨そば』生卵入り。
さっき、牛タン弁当たべたでしょ(笑)
東京周りと長野の塩尻周り、時間的にはどっこいどっこいです。
時刻表に合わせて、乗り継ぎのいい方を使うことにしています。

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ひとりランチの親子丼

出先で、ひとりランチに親子丼を食べた。
娘達が、東京で暮らすようになってから、そう言えば、親子丼を作っていない。帰省してきたときに親子丼をリクエストするのは、決まって息子と末娘だ。上の娘は、スパイシーな味を好むようになったせいか、チゲ鍋などを食べたがる。そして息子は、もう5年ほど帰ってきていない。
我が家の親子丼は、親子丼鍋などは使わず、大鍋でたくさん作る。テーブルの真ん中にどんと置き、それぞれがご飯をよそった茶碗やらどんぶりなどにかけるのだ。半熟、というよりももう少しやわらかめにするのが、我が家の味。三つ葉は一束分豪快に散らす。
その親子丼を、スプーンで食べるか、箸で食べるかで、夫とは意見が分かれた。わたしは、スプーン派。食べやすいから、というのが理由だ。夫は、箸派。蕎麦屋にスプーンはない、という理屈だ。もちろん、それぞれ好きな方で食べる訳だが。
ランチをした店は、蕎麦屋ではなく和カフェだったこともあり、木製のスプーンがついていた。ちょっとうれしくなる。

親子丼には、スプーン vs 箸だけではなく、様々なことを思い出す。夫の帰りが遅い日には、子ども達が食べた親子丼の残りに卵を落としなおし、酒の肴として出していた。だがある日、昼食に家族そろって出来立てを食べたときに、彼はひどく驚いた。
「出来立てって、こんなに美味しいの? 違う食べ物じゃん」
それから彼は、親子丼を作るたびに言うのだ。
「出来立て食べさせてもらったことないから、うれしいねえ」
わたしは呆れ顔をする。いったい何回食べて言ってるの? と。

末娘とは、二人して読んだ中村航の小説『あのとき始まったことのすべて』(角川文庫)にでてきた「親子丼できたどーん」と言って笑うのが常になっていたし、家族のなかで、翌朝残りの親子丼は早い者勝ちというルールまででき、けっこう緊迫感をみなが感じていた。親子丼にはあまり興味を示さない上の娘が一人勝ちしたときには、夫がけっこう本気でムッとしていたっけ。
「ひとりで食べていても、家族がいるってことだよなあ」
ひとりランチの半熟親子丼に、ほっこり胸が温かくなった。

和カフェの親子丼は、少し甘めでしたが、半熟に満たない卵がgood!
少しの三つ葉と、海苔がのせてありました。

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神戸『うまみや』の元気玉コロッケ

神戸でお弁当屋さんを営む夫の友人から、コロッケが送られてきた。丸く厚みのある、じゃが芋の旨味たっぷりのコロッケだ。店の名は『うまみや』という。名前の通り、旨味の濃いコロッケだ。

山梨は明野に越してきて16年になるが、越してきたばかりの頃にも、こんなふうにコロッケを送ってくれた。
4月に越してきたときには、玄関のドアさえもなく、風呂もひと月銭湯に通った。まだ未完成の家を、とんとんカンカンやってもらいながら夏を迎えたのだ。作りつけの食器棚ができあがったのもゴールデンウィーク。食器は段ボールから出し入れしていた。
そんなときに届いたコロッケは、本当にうれしかった。今はもう大人になり、それぞれ暮らす3人の子ども達も食べ盛りだったのだ。

そのときにも、揚げたてのコロッケをほおばって思ったけれど、コロッケって、元気の素が詰まった元気玉みたいだ。熱々をほおばると、たちまち元気が出る。部活の帰りに肉屋のコロッケを買い食いする子ども達は、今でも存在するのだろうか。あれも彼らの元気玉だったのだろう。などと、昭和の時代に思いを馳せるのも『うまみや』のコロッケの奇をてらわない味に、何とも言えないなつかしさを感じるから。神戸にいらっしゃる方は、どうぞお試しあれ。
☆ お持ち帰りレストラン『うまみや』食べログはこちら

一人ランチに揚げました。ホックホクです。はふはふです。

たっぷりの長芋キムチも、送ってくれました。食べ始めたらとまらない~。
季節のキムチなど、何種類か置いてあるそうです。

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大河ドラマがひき起こす時差

今年はNHK大河ドラマ『真田丸』を、楽しみに観ている。
大抵、日曜の晩酌を楽しみつつ8時から観るのだが、先週は夕飯が早かった。サッカーの試合で走りまわった夫が、夕方にはお腹が空いたというので、6時前に食卓についた。
「大河ドラマ、BSで先行して6時からやってるんだって」と、夫。
「そうなの? 知らなかった。じゃ、観ようか」と、わたし。
時間は早かったが、毎日曜の通りだ。夕飯を食べながら、
「カノちゃん、もう死んじゃうんだあ。いいキャラだったのになあ」
「歴史は、変えられないからなあ」
「わ、生きてた」「大河ドラマは、歴史を変えられるんだ」
などと談笑しつつ、くいくいとワインを飲む。

ドラマが終わった頃、夫が言った。
「9時のような気がするけど、まだ7時なんだね」
「ほんとだ。大河ドラマ観たら、すっかり9時になった気分」
まだゆっくり飲めるねと、その後もう1本録画しておいたドラマを観て、WOWWOWでやっていた映画もさらに観た。
夜と酒は、2時間の時差など綺麗に飲み込んでいく。と思いきや、朝目覚めたときには、しっかり2時間分呑みすぎたことが身体に現れていたのだった。うーむ。大河ドラマがひき起こす時差、侮るなかれ。

アボカドの緑が、まったり綺麗。
ちょうどいい硬さのアボカドに当たると、それだけで幸せ感じます。

大きめの鮪の塊だったけど完食しました。ワイン、何本空けてんの~。
翌朝、酔ってくだをまくなと、ワイン禁止令を言い渡されました。とほほ。

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やげんナンコツと記憶の区分け

「ナンコツにもいろいろあるんだよ。やげんナンコツとかひざナンコツとか」
ふたり、ビールを飲み、焼き鳥をつまみながら、夫に教えてもらった。
夫の実家、神戸に帰省する新幹線のなかでのことだ。
「やげん、って初めて聞いた。よく知ってたね」
「よく行く焼き鳥屋に、あるからさ」
その場でスマホを操り、夫が調べる。胸下にある船形をした軟骨で、漢方薬をすりつぶす道具、薬研に似た形をしていることから、名がついたという。

「しかし、よく覚えてたね」
わたし達の年代なら、みなそうだと思うが「あそこのあれがさあ」とか「なんたらとなんたらが」などという訳の判らない会話が増えてきている。
それなのに彼は、サッカーチームや選手の名前や、何年にあった何処チーム対何処チームのなんたら戦のあのシュートなどという、わたしにはさっぱり覚えられないことをはっきりと記憶しているのだ。
彼の脳には、サッカーコーナーとその他という区分けができているのだと、これまでわたしは考えていた。
だが、やげんナンコツの話を聞き、それは彼の脳の特異性でも何でもなく、すべての人に共通する、興味があることと、どうでもいいことの区分けだったのだなとあらためて考えたのだった。
ということは、覚えられないことは、意識下でどうでもいいこととして区分しているってことなのだろうか。本当にそうなのだろうか。
新幹線が新神戸に着くまでの間、わたしは待っていた。
「じつは、やげんっていう名前のサッカー選手がいてさ」
夫がそんなふうに種明かしすることを。だが、その瞬間は訪れなかった。
うーむ。それにつけても、やげんナンコツは美味かった。これは単に、美味しいモノの名前は、忘れないってだけかも知れないな。

いちばん上のこの形が、やげんナンコツです。

ナンコツやももには七味をかけて、たれのレバーには山椒をかけて。
我が家でもネットで注文して使っている京七味。美味しいんです。

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醤油の鳴き声

醤油の鳴き声、というものを初めて耳にした。
食卓で納豆に、また、大根おろしなどにかけたあと「きゅー」とひらかな的なやわらかい音を出すのだ。
キッコーマンの密閉ボトルに入った『しぼりたて生しょうゆ』が、空気を吸う音である。いや、密封なのだから空気を吸ってはいないのかも知れないが、ボトルをぎゅっと押して醤油を出した分のふくらみを取り戻すべく、がんばっている音だ。正確に言うと「醤油の鳴き声」ではなく「醤油が入ったボトルの鳴き声」なのだが、初めて聞いたときの「醤油が鳴いた!」との驚きとともに、わたしのなかでは「醤油の鳴き声」としてすっかり定着している。

醤油の鳴き声を意識するようになってから、様々なものの出す声が気になるようになった。例えば、ワイン。コルクを抜くときの「ポンッ」グラスに注ぐときの「とく、とく、とく」炊飯器ではお米が「シューッ」フライパンと豚肉のコーラス「ジュ、ジューッ」煮物の鍋の蓋が浮いては落ちる控えめな「かん、かん、こん」そして、ピーピーやかんは、親近感だろうか。醤油のボトルを優しい目で見つめている気がする。
そんなキッチンの小さなモノ達の声に耳を澄ますのもまた、楽しい。不思議なことに、醤油の鳴き声を聞いてから、何も変わらないキッチンが色を変えたようにくっきりと見えてきたのだった。

しぼりたて生しょうゆ。ラベルも醤油にしては新鮮な雰囲気です。

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トマトソースのなかの宇宙

十代の頃、パスタのトマトソースを生のトマトから作ることに憧れていた。
すべてを手作りするということに、こだわっていたのだ。だが満足のいく味に仕上がったことは、一度としてなかった。

今はそんな憧れもこだわりも落ち着き、トマトの水煮缶で簡単にトマトソースを作っている。オリーブオイルでニンニクを炒め、パスタの具材を炒めたあと、水煮缶を入れて煮詰め、塩と胡椒。塩は水煮缶1缶に対し、小さじ1入れている。この時点で味見をすると、何か物足りない。トマトソースのなかのトマトもニンニクも野菜も塩も胡椒も、バラバラでまとまりがないような印象。はっきりしない味だ。星ができあがる前の宇宙のよう、とでも言うのだろうか。混沌とした感じなのだ。
ハーブやスパイスを加えたり、塩を減らしてコンソメスープで煮てみたり、試行錯誤はしてみたが、トマトソースのなかの宇宙は混沌としたままだった。
そうして最後にたどり着いた技は、ケチャップだった。ほんの少しのケチャップを加えることで、全体の味が驚くほどまとまりを持つのだ。トマトソースのなかの混沌は、ケチャップ一つでしっかりまとまり、輝く星となった。それが、我が家のトマトソースの味である。

十代の頃のわたしに言ったら、ふんっと鼻で笑われそうだ。
まあ、笑いたければ、笑えばいいさ。若さとは、ケチャップやマヨネーズの偉大さを軽んじることなのだ。

海老を使ったペスカトーレ。ペスカトーレはイタリア語で「漁師」
漁師達が売れ残りの雑魚などをトマトソースで煮込んだ料理のことで、
日本の海辺で漁師さん達が煮る、あら汁のようなものだとか。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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