はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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蛙の待ち時間

洗濯物を干していて、物干し竿の上にけろじを発見した。
ウッドデッキから2mほどの高さ。よく登ったものだと感心しつつ、椅子に乗りカメラを向ける。カメラを向けても微動だにしないけろじが多いなか、彼はふわっと顔を上げた。羽虫が接近したのだ。
「そうか。ここで待っているんだね」
邪魔者は退散と、すぐに椅子を降りた。
その後2日間、けろじは物干し竿の上にいた。羽虫はたくさん食べられたのだろうか。待ちぼうけを食って、場所替えをしたのだろうか。けろじの姿は見かけても、虫を捕らえる瞬間は見たことがない。人間がいては気も散るだろうし、捕獲も難しいのかも知れない。

アマガエルの寿命は、長生きすれば10年生きる者もいるようだが、4~5年ほどだそうだ。その間、こうして獲物を待っている時間はどのくらいに当たるのか。何を思っているのか。過去や未来などの概念を持っているのか。はたまた、待つという意識すら持っていないのか。
考えているうちに雨が降り出し、蛙の時間に気持ちが寄り添っていく。
雨粒が、林の風景を斜めに切断しながらストライプ模様を作っている。水たまりのなかで揺れていたヤマボウシの葉が、地面に広がる空へと伸び始める。物干し竿からゆっくり落ちるしずくは意外と大きく、見つめていると大小の感覚が揺らいでいく。空気中の水分の多さに呼吸がしづらくなり、霧の海を泳いでいるような心持ちになっていく。

彼らにとって待つことは、食べることであり生きることなのだと知っている。だけど本当のところは、何も知らないのと同じだ。

物干し竿の上に乗っかっていた、けろじ。ちょっと貫禄あり。
この鳴き袋の大きさからすると、たぶんオスかな。

ウッドデッキの薪置き場の上にも、乗っかっていました。

薪のなかにも、目を凝らして探すと、けろじの姿が。

ウッドデッキに置いたテーブルの下がお気に入りの子もいます。

硝子のテーブルの上にも、上がってきました。

けろじ、笑ってるんだよね? 楽しいことあったの?

雨上がりの朝、生まれたてっぽいけろじがいました。可愛い~。

やっぱり性格もそれぞれ違うんだよね。この子はちょっと怖がりさん。
わたしを見るなり、壁にのぼって行ってしまいました。

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だんだん、けろじに見えてくる

庭にいるアマガエルのけろじ達は、ウッドデッキの上でじっとしていることもあるが、隠れていることの方が多い。外敵から身を守りつつ、餌になる虫を捕獲しやすい場所にいるのだろう。そんな彼らを探すのも、この季節の楽しみとなっている。
「けろじー」と呼びながら、あるいは「くわっくわあ」と鳴きながら庭を歩く姿はかっこいいものではないが、誰が見ている訳でもない。ペットが可愛いくて赤ちゃん言葉で話しかける人もいると聞けば、可愛がっている子のまえでは、無防備になるのも何ら珍しいことではないとも思える。

「わ、こんなところに、いた!」
「ずっとここにいるけど、気に入ってるんだねえ」
「そこには、いっぱい羽虫は飛んでくるの?」
などと、探し出しては話しかけているのだが、最近、他の小さなモノがけろじに見えてくるという現象に陥っている。体調1~2cmほどのけろじは、緑だったりモスグリーンだったり灰色だったり黒と緑のマダラだったりする。
探していると、小石や葉っぱ、木の実などが一瞬けろじに見えてしまいハッとするのだ。そんな「見つけた」と「違った」を何度か繰り返し、よくやく本物を見つける。だんだんと自分の目が、獲物を捕らえる野鳥の如くけろじに照準が合うようになっているような気がするのだが、似たモノにも照準を合わせてしまうらしい。けろじの天敵である野鳥達も、獲物と似たモノに飛びかかっては、あ、違った! を繰り返しているのかも知れない。

宝探しをするように庭をゆっくりと歩くと、もしかしたら小石が葉が木の実が、くるりと変身してアマガエルになったりして、なんてふと思ったりする。
目をつぶり、そっと開いた次の瞬間とかに。

アイビーの陰に隠れている、けろじ。みーつけた。

家の基礎と外板の間に入り込んでいた、けろじ。

一週間前からずっとデッキの隙間にいる、けろじ。つぶらな瞳。

蕗の葉の上でカメレオンに徹する、けろじ。笑顔~。

大きさが同じくらいの石に、ハッとしたり。

緑の葉っぱの色に、いた! と喜んだり。

たたずまいがそっくりで、かけよったりしてしまいます。

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途方もない小ささに

ほんとうに、春が来た。そう感じる瞬間が、訪れた。
ウッドデッキに、我が家の土地に住むアマガエル達が上がってきたのだ。
わたしが勝手に「けろじ」と呼ぶ彼らは、ウッドデッキの端っこの日陰で、じっと動かずにいた。日陰であるが、日向ぼっこ、という言葉を思わせる趣である。可愛い。

体長2cmほどのけろじ達。重さにしたら、人と比べてどのくらいの比率になるのだろう。調べれば 1gにも満たないらしい。千倍してようやく1kg。同じ大きさの空気の粒を吸い、息をしているとはおもえないほどに小さい。その小ささは、宇宙を想像するときに感じる途方のなさを感じさせる。
このほんの小さなもの達が、自分で考えで、あるいは衝動のままに、ウッドデッキに登ってきたという事実。それに、わくわくする。

もしかすると彼らは、人よりもずっと強く「生きている」ということを感じているのではないだろうか。小さな頭に、心に、空気に触れる緑色の肌に。
肌に触れる空気の粒は、たぶん、わたしのそれよりもずいぶん大きいのだろうが、その大きな空気の粒を吸い、虫を食べ、身体が大きくなるごとに脱皮して、それを静かに受け入れ生きている。そんな彼らを見ていると、純粋に「生きている」のだよなあと思うのだ。

デッキの下から出てきたばかりで、背中が黒いけろじ。

真緑の、でも、まぶしそうに眼は半開きのけろじ。

黒と緑の真ん中で、微かに笑っているけろじ。

これは、去年の夏のけろじ。雨で、のびのび遊んでる~。



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クリスマスローズが咲いて

雪もだいぶ解け、穏やかに晴れた土曜日、久しぶりに庭仕事をした。
伸びすぎたツルニチニチソウを切り、落ち葉をどけてあげないと、そろそろクリスマスローズの蕾が顔を出す頃だ。昨年の記録を見てみると、やはり蕾が恐る恐るといった感じで土から顔をのぞかせたのがバレンタインの時期だった。
しかし、すぐに驚いて声を出すこととなった。
「あ、もう咲いてるのがある! こっちも蕾が膨らんでる。早い!」
例年2月末頃に顔を出すふきのとうも、すましてちょこんと座っている。
「わ、 ふきのとうも、出てる!」
「こりゃあ、今夜は天麩羅かな」夫が落ち葉を集めながら、言った。

暖冬、暖冬と来て、50cm の積雪があり、寒波がやってきてマイナス10度の朝があり、また暖かな日が続いて。これじゃあ植物だって、いつ顔を出していいやら迷うよね。2年前には、バレンタインに1m を超える大雪が降った。今年もまだまだ安心はできない。
「だいじょうぶかな、クリスマスローズ。こんなに早く咲いちゃって」
もみじの枝には、地面から2m のところにカマキリの卵がある。カマキリの卵の高さで、その年の積雪量を予測できるとも言われているのだが、大雪だった年には、いつになく高い70cm ほどの高さの枝に産んだにもかかわらず、生まれてこられなかった命が多かったらしい。その夏、庭で闊歩する姿が見られず、淋しかったのを覚えている。
「だけど、カマキリさん。2m は大袈裟だよね?」
大袈裟であってほしい、大雪はもうたくさん、というのが正直なところ。
「命を懸けてるカマキリには、正常性バイアスはないのかも知れないけど」
クリスマスローズの蕾達を愛でながら、大きなお腹で2m の高さまで登って行ったカマキリ母さんの凛々しい姿を想像した。

去年植えた、真っ白な花。吸い込まれそうな白です。

これも去年植えた、小さめの濃いピンクの花。

薄いグリーンの花をつける種類もあります。

こちらは植えてから4年ほど経つ、大きめの薄いピンクの花です。

ふきのとうです。雪の下で縮こまっていたんだね。
陽の光を浴びて、ゆったり伸びをしてる。

こっちには、まるまる太ったのが3つも。

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田舎のはりねずみ

山梨の田舎に移り住んで、15年が経つ。
東京生まれのわたしは都会に住む友人が多く、都会と田舎の違いを目の当たりにする機会もまた、多くある。友人達との何気ない会話のなかにも、いつもそれは潜んでいるのだ。
田舎で暮らすいいところはたくさんある。
山が綺麗に見えるとか、とれたて新鮮野菜を美味しく食べられるとか、静かだとか、野鳥がたくさん遊びに来るとか、時間がゆったり流れていて、のんびりした気持ちで生活できるとか。
だが、都会のいいところも当然ながら、多い。
歩いて行けるコンビニがあるとか、歩いて行ける毎日出せるゴミ集積所があるとか、電車が町に通っている(酒を飲んでもタクシーではなく電車で帰れる)とか、面白い店がたくさんあるとか、フジテレビが地上波で放映されているとか、友人達といつでも会えるとか。

ここで暮らし始めてから『田舎のねずみと都会のねずみ』というイソップの童話が、常に頭の片隅にある。2匹はたがいに行き来してみて実感する。田舎のねずみには田舎が暮らしやすく、都会のねずみには都会が暮らしやすい。どちらにもいいところも悪いところもあって、どちらがいいという訳ではない。
そして大人になれば、何処で暮らすかを選ぶのは自分で、だから今、ここで暮らしているのだが、それでもわたしは、もともとは都会のねずみだったのだとしみじみ考える夜もあるのだ。

家の補修のために大工さんが組んだ足場にとまるジョウビタキ。
こういう風景も、田舎ならではなんでしょうね。

家のなかをのぞいて、また周りを見まわして、きょろきょろ。

羽根の白がチャームポイントの雄くんです。
ばたばたと飛び回っては窓ガラスにわざとぶつかってるけど、
羽根が傷ついたりはしないのかな? ちょっと心配。

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ジョウビタキの習性

ジョウビタキが来る季節になった。
だが、今年のジョウビタキは一味違う。これまでコンタクトをとってきた野鳥達は、渡り鳥ではなく常にこの辺りにいるシジュウカラやヤマガラが多かった。人懐っこいキジなどもたまにいるが、まあ、たまにである。

彼のコンタクトの取り方は、印象的だ。彼、雄と判るのは、ジョウビタキは雄、雌の外見がすぐに見分けられるほど違うからだ。
その彼は、2階のベランダに出るドアにやってくる。取っ手にとまって、首を傾げたり、伸ばしたり、きょろきょろしたり。そして、飛ぶ。ドアのガラスに向かう形で上に飛びあがり、ふたたび取っ手に着地する。それを何度も繰り返すのだ。そのさまは、首を伸ばしてもどうにも見えない家のなかが見たくてたまらないというように見える。
こつんこつんとドアに当る音を聞いて、夫が目を細める。
「また、やってるよ」
「何がしたいんだろうね。昨日はリビングの窓からのぞいてたよ」
首を傾げたりしながらこちらをのぞく様子は、何とも可愛らしい。
「我が家に、興味があるのかな?」
「好奇心旺盛な、子なのかもねえ」
ベランダのドアの下には、糞やら木の実やらが散らかっているが、ふたりとも気にしない。ジョウビタキの愛嬌ある仕草にただ微笑むばかりである。

調べれば、ジョウビタキはテリトリー意識の強い鳥らしく、車のミラーや窓などに映った自分の姿をほかの雄だと思い追い払おうとするらしい。イソップの橋の上から川に映った自分を吠えた犬を思い出す。しかし、うちの子に限って、ねえ。とも思うのだ。あどけない顔を見ていると、そんな対戦的な理由ではなく、家のなかをのぞく可愛らしい悪戯のようにしか思えない。
「どう見てもあれは、のぞいてる顔だよねえ」
すでに彼を「うちの子」は違うと、特別視している自分がいた。
  
家のなかはどうなってるのかな? と首を伸ばして覗いてるよう。

ドアの取っ手を、お気に入りの止まり木にしているのでしょうか。
イソップの橋の上の犬のようには思えないんですが。
photo by my husband

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野鳥達のリサイクル精神

野鳥達が、ウッドデッキに飛んでくる季節になった。
とは言っても、まだ餌となる向日葵の種を撒いている訳ではない。
「おまえら、甘えてんじゃないよ。まだまだ、食い物あるだろ」
夫は、目を細めながらも、野鳥達に言う。
野山には、虫も木の実も豊富なこの季節から餌を撒いてしまっては、彼らの自生能力が低下してしまうと心配しているのかも知れない。

それでも彼らが飛びまわり、ピィピィとかジィジィとかにぎやかな声が聞こえることに、気持ちが和む。
「北側の蜂の巣、鳥が使ってるよ」そんな折、夫が言った。
北側の外板にあるキイロスズメバチの巣の残骸を見にいくと、確かに、鳥が敷きつめたらしい藁のようなものが、蜂の巣のなかに見えた。
3年前に作られたものだが、キイロスズメバチは同じ巣をふたたび使うことはないらしく、今では鳥に穴をあけられ無残な姿になっている。片づけることも考えたが、高所の危険な作業になるので、いまだそのままになっているのだ。それを野鳥達が、今度は使っている。
「まったく、たくましいねえ。何でも利用するんだね、彼らは」

究極のリサイクルだな、と考えつつ眺めた。
人のように、リサイクルできるものはしなくちゃと環境を考えて行動している訳ではなかろう。使えるものは使う。いたってシンプルな考えをもとに、行動しているだけなのだ。考えれば、彼らの生活はすべてがリサイクルなのだ。
自然のなかで生活する生き物達に、教えられることは数知れない。

キイロスズメバチの巣です。下部に藁のようなものが見えます。
彼らの、いや巣の? 現役時代の写真はこちら → 『好奇心もほどほどに』

アップにすると、蜂の巣の形も、まだまだくっきりと見えます。

カメラをひくと、こんな感じ。逆光でよく見えませんが、
北側のいちばん高い場所に、位置しています。

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わたしにとっては自分の子

「きみの友達、でかけろじが、いるよ」
夫が庭で呼んだ。庭のアマガエルを、我が家では「けろじ」と呼んでいる。
わたしが、けろじ達をとても可愛がっていることを知っているので、彼はわざわざ呼んでくれたのだ。秋になり、けろじ達はますます太り、大きくなった。
「どれどれ。どのくらい太ったかな?」
ヘンゼルとグレーテルに登場する人食い魔女のように、わくわくしながら庭に出たが「でか」と呼ぶほどには大きくない。
「そんなに大きくないじゃん」と言うと、夫は怪訝な顔をした。

いや、しかしと考える。夏に見たけろじ達は、本当に小さかった。小指の先くらいの小ささだった。それと比べると、秋の庭にいるけろじは大きかった。4倍、いや5倍はあるだろうか。もしも隣りに並んでいたなら、確かに「ちびけろじ」「でかけろじ」と呼び分けすることだろう。

けろじも、子ども達と一緒なのだと思った。大きくなるさまを近くで見ていれば、だんだんに大きくなっていくから、突然大きくなったような気がしたり、驚いたりすることもない。「人の子は、大きくなるのが早い」とよく言うが、久しぶりに会う友人の子が五歳から十歳になっていたら「大きくなったねえ」と年月の流れを知ってはいても驚いてしまう。それと同じことなのだ。
「夫にとって、けろじは友達の子で、わたしにとっては、自分の子なんだ」
納得し、うんうんとうなずきつつ見つめたけろじは、大きくなってはいたが、じつに可愛かった。もうほんとうに、ただただ可愛かった。

綺麗な緑色。アップにすると、大きい感あります。迫力!
雄か雌か見分けようと、鳴き真似していたら娘に笑われました。
お返事しなかったから、女の子かな?

立ち上がって見下ろすと、やっぱり小さいなあ。背中も可愛い。

ここからは、これまでのけろじの写真です。雨上がりの夏の朝。

こんなところに入りこめるほど、ちっちゃかったんだよねぇ。

脱皮中のけろじ。大きく口を開けて、閉じて。

手を振って皮を脱いでいきます。その皮は口を開けた時に、
少しずつ食べていくんだそうです。そうして大きくなるんだね。

果敢に草をかき分けるけろじも、何とも可愛い。

がんばって登ったね! いつも触りたいのを我慢しています。

ダンゴムシを大切に抱えてる、けろじ。お弁当にするのかな?
いっぱい食べて、少しずつ大きくなっていったんだよね。

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ウラギンシジミのなかの夕焼け

庭で羽を閉じ、じっとしている蝶を見かけた。
ずいぶんと白い。わざわざ白い絵の具を塗り重ねたかのような白さである。だが、次の瞬間、蝶はふわりと羽を開いた。
「わっ、オレンジ?」
開いた羽のなかは、何とも鮮やかなオレンジ色だったのだ。
調べれば、ウラギンシジミというシジミチョウの仲間だとか。
蝶の羽は、開いた中側を表と呼ぶのだそうだが、その表側は、外敵に見つからないよう進化の過程で木の幹などに似せた色になっていった蝶も多いらしい。しかし、何故に裏表こんなにも違う色になったのかは調べても判らなかった。

「ため息が出るほど、白いよなあ」
ウラギンシジミという名。その白の深さに白銀を思い、名づけた人の感性にうなってしまう。
「そして、驚くほど明るいオレンジ色」
赤茶けた木の幹に、澄ましてとまっているウラギンシジミを思い浮かべる。
思い浮かべた途端、まぶたの裏側の風景は、山燃ゆる秋の夕焼けとなり、視界のすみずみまでその夕焼けが、明るく広がっていったのだった。

本当に真っ白。モンシロチョウよりも白いです。
赤いのは、落ちた垣根のイチイの木の実。

それが羽を開くと別人! いや、別蝶です。ちなみにこの子は、雄。
雌は、もっとジミーなグレーっぽい茶色をしているそうです。

庭には、他にも小さな生き物たちがいっぱい。
オキナワスズメウリの葉には、おんなじ色したバッタくん。

秋の顔、赤とんぼくん達も、たーくさん飛んでいます。

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パセリ可愛いや、可愛いやパセリ

今年も、庭のイタリアンパセリにキアゲハの幼虫が生まれた。3年目だ。
あまりに可愛いので、最初の年に名前をつけた。イタリアンパセリで生まれ、パセリを食べて育っていくので「パセリ」何とも単純である。単純であるが、一度呼び始めたら、もうそれが名前になってしまう。名前とはそういうものなのだ。それから此処で生まれたキアゲハは、すべて「パセリ」と呼んでいる。

最初の年には、突然いなくなったことにショックを受けサナギを探し回った。
「鳥に、食われたんだろ」
夫の心ない言葉に傷つき、パセリのいなくなったイタリアンパセリを眺めて過ごした。しかし昨年もパセリは、やってきた。3匹いた。
「去年のパセリが、卵を産んだんだ。絶対そうだ」
そう信じることにした。だからやはり昨年も丸まる太って来た頃に忽然と姿を消した彼らの捜索はしなかった。信じてしまえば、目をつぶるとイタリアンパセリから離れ、サナギになるためにこっそり移動して行くパセリの姿が容易にまぶたの裏に見えるようになったのだ。
そして今年も、パセリはやって来た。うれしい。じっとしているところも、草を食む様子も、なんて、なんて可愛いのだろう。本当に可愛い。

芋虫であるパセリ達を可愛いと思う自分は、何か可笑しいのかという疑問は、常に頭の隅にある。だが、可愛いものは可愛いのだ。
「前世、キアゲハだったのかな。わたし」
母の目で、日々パセリを観察している。マジ、可愛い~!

日に日に太って、ますます可愛くなっていきます。もちろん、
わたしの主観ですが(笑)今年は、孵化するところ、見たいなあ。
去年のパセリの様子は、こちら

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茗荷畑で生まれた蝉達

毎朝の味噌汁の薬味に、庭の茗荷を入れている。
朝、食べる前に採ってくるので新鮮だし、味が濃い。嬉しい季節だ。

その茗荷畑で、最近、蝉の抜け殻を目にするようになった。孵化したところは、今年は見ていないが、たくさんある。地面に穴も開いているから、茗荷畑の土のなかで育ったのだろうと想像できる。アブラゼミで6年、土のなかで過ごすというから、たぶん茗荷を植える前からここにいたのだと思うと、不思議な気持ちになる。長くは17年も土のなかで過ごす蝉もいるらしい。15年前にわたし達が家を建てる前から、この土地にいた可能性もあるということになる。気が遠くなる話だ。

長く土のなかにいて、外の世界に出てきてからは2週間ほどしか生きられず、その寿命を知っているかのように鳴き続ける蝉達。若い頃には、何のために生まれ、何のために生きているのだろうと考えたこともある。しかし、50年以上生きた今思うのは、彼らは何のためになど問わず、ただ精一杯生きているということだ。今日も、いく種類もの蝉達が、うるさいほどに鳴いている。

登って来て、ここで孵化したんだね。今、鳴いている子かな。

ここにも。陽の光を浴びた茗荷の葉は、眩しく美しいです。

地面にも落ちていました。茗荷は毎日、花を咲かせています。

茗荷畑のすぐ脇には、吾亦紅が咲いています。控えめだけど大好きな花。

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蜘蛛の巣にかかって

毎年、陥る失敗だが、今年もやってしまった。
顔から、思いっきり蜘蛛の巣に突っこんだ。ウッドデッキでのことである。
洗濯物を干そうと洗面所からかごを持って出ると、そこに大きな蜘蛛の巣が張られていたのだ。まるで陽射しが意地悪でもしているかのように目隠しし、全く見えなかった。
「もう! どうして、ここに!」
文句を言うも、蜘蛛は蜘蛛で一晩かけて作った家を壊され、うらめしげだ。
ここは、うちの敷地内だよと言いたくなるが、虫達は、わたしなどよりもずっと前から先祖代々松林だったこの土地で暮らして来たのかも知れない。そう思うと、無下にもできない。できるなら殺さず共存していきたいと思ってる。
地獄に落ちた際には、蜘蛛の糸を垂らしてはもらえないだろうが、わたしとて好き好んで蜘蛛の巣に顔を突っ込んでいる訳ではないのだ。

しばらくは気をつけていてひっかからないだろうと思うが、今シーズンあと1回くらいはやりそうだ。蜘蛛も蜘蛛でわたしがひっかかった場所に2度巣を掛けることはない。なので余計に思わぬところで再びということが起こるのだ。
「しかしまあ、いいか。食べられるわけじゃなし」
蜘蛛の巣にかかった蝶は、もう次に注意を払う必要はないのだから。

裏庭の蜘蛛さん。家作り、精が出ますねえ。ほどほどにね。

夏トンボ、マイコアカネかな? たくさん飛び回っています。

もちろん、けろじもあちらこっちらで、跳ねまわっています。

カマキリは前肢で獲物をつかんで「み~た~な~」という顔。

家の外壁にからんで伸びてきたヘクソカズラ。今綺麗に咲いています。

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夏のウグイス

昨日の朝は、ぐっと気温が下がった。
寒い、と感じて窓を閉めると、朝の5時。ああ、幸せ、あと30分眠れる、と布団にもぐりこむ。布団のなかでうつらうつらとする朝の30分は、至福のときである。デジタル時計に表示された気温を見ると23℃。前夜の雨のせいか、涼しく気持ちのいい朝だ。

そんな布団なのかで、ふわふわとした気分のまま、耳に入って来たのはウグイスの鳴き声だった。ホーホケキョ。春の頃、たどたどしく鳴いていた声とは違い、しっかりとした自信を感じる、透明感のある美しい声だ。
「夏にも、ウグイスはいるんだなあ」
ぼんやりと考えた。ウグイスは春の鳥というイメージが強すぎて、まるで春にだけ現れ、すっと消えていくかのように思っていた。しかし、幻の野鳥という訳ではないのだから、当然どの季節にも何処かにいるはずだ。野鳥図鑑で調べれば、寒冷地では暖地に移ることはあっても、1年中一所に住むウグイスも多いらしい。ホーホケキョと鳴く時期が、春から夏なのだった。

見えない部分、見ようとしていない部分、知らない部分は、まるで「ない」ように思いがちだ。だがウグイスは、いつもいつでも何処かにいるのだ。

八ヶ岳を覆うように湧き出ていた、夏らしい雲達。

こちらは、南アルプスは甲斐駒ケ岳にかかった雲の様子です。
じつは、ウグイス、目撃したことはありません。

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夜明け前に聴いた波音

目覚めると、波の音がした。
夢だ、と思った。ここ山梨県には海はない。
まだ夜明け前。外は真っ暗だ。
波は大きく小さく、その音を響かせている。ザーッと打ち寄せては、サーッとひいていく。それを繰り返している。
海か、と思う。家の向こうに海が広がっているのもいいかも知れないと、夢うつつで考える。

そのとき、枕元の蝋燭ライトが消えた。サーモスタットで夜明けの頃に消えるようになっている。その様子があまりにリアルで一気に現実に引き戻された。

それは夢でも何でもなく、聴こえていたのはヒグラシの鳴き声だった。
カナカナカナと鳴くというが、文字にするとまるで違う。寄せる波音に近い、まとまった高音のカナカナカナなのだった。

東側の林の木にとまっていた、アブラゼミです。
ヒグラシは、昼間、何処にいるのかな。
日が暮れるころだけじゃなく、夜明け前にも、集団で鳴くんですね。

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可愛いと好きと綺麗

雨。ウッドデッキには、たくさんのけろじ達が集合している。我が家では、ウッドデッキにのぼってきたアマガエルをみな「けろじ」と呼んでいるのだ。
数えると十匹いた。陰に隠れている子も、まだまだいそうだ。どのけろじもまだ小さく、今年生まれたのだろうと想像する。いったい何処で卵が孵ったのか。アマガエルは水辺で産むはずだが、田んぼから行列を作りわざわざここまで来たとは思えない。ウッドデッキの下にでもちょうどよく湿った場所があるのかも知れない。

久しぶりに会ったけろじは、どの子も可愛かった。
薄緑色の子。黄緑色の子。背中に黒い斑点がある子。顔に模様が入っている子。じっとしてくりくり目玉を動かしているのも可愛いし、飛び跳ねた時に見える脇の下の頼りなさもまた可愛い。胸がキュンキュンしてしまう。
「もうほんとに全くもって、可愛いなあ」
カメラを構えるわたしの胸のなかには、可愛いと好きと綺麗がぐるぐる回っている。シャッターを切りながら、この可愛いと思う気持ちはいったい何処から来るのだろうと考えた。そして思った。心の底から湧き出てくるのだと。だとするとそれは純度の濃い可愛いであり、好きであり、綺麗だ。様々な要素で発生する嫌いという気持ちよりも、たぶんずっと純粋な気持ちだ。

泳いでるの? 雨が嬉しいんだね。のびのびー。

バーベキューセットのタイヤの上にも、乗っかっていました。

湯加減はどうかな? って言ってるみたい。

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がつがついくぜ!

久しぶりにからっと晴れた週末。
夫が呼ぶので庭に出てみると、彼は隣りの林のクヌギの木を見上げていた。昆虫酒場と呼んでいるクヌギで、幹の樹液を虫達が吸いに来る昆虫スポットだ。ついこのあいだまでは、蝶だらけだったが、見ると大きなカブトムシがいた。
「大きい!」と、わたし。
「上の方には、カナブンもたくさんいるよ」と、夫。
「おお! 綺麗な緑色」
さっきまで、国蝶オオムラサキも蜜を吸っていたらしい。
「カブトムシ、すごいね。角でカナブンを追い払ってるよ」
「6本肢全部をのばして、ふんばって、近づけないようにもしてる」
「だけど、カナブンも負けてない」
「追い払われても、全然気にしてないね」
迫力のある大きなカブトムシもだが、カナブンも小さな身体で頑張っていた。がつがついくぜオーラが、身体じゅうにあふれているのは同じだ。彼らの関係は、身体の大きさこそ違うが、同じ釜の飯を食らう仲間、あるいはライバルといったところなのだろう。

がつがつするのは、恰好悪い。人間はそう思いがちだ。
強欲だとか、執着心が強いだとか、そんなのは恰好悪い。欲を失くし、他人と争わずに生きる方が、格好いいのだと。
しかし久しぶりに見た、虫達のがつがついく姿は、とても恰好よく見えた。
人間の理論や表裏やそんなものを超えた格好よさを、虫達は持っているのだ。

おもいっきり足をのばして、カナブン達を牽制するカブトムシ。

木の上の方ではカナブン達が、蜜採りバトル真っ最中でした。
綺麗な緑色をした子は、アオカナブンというそうです。

夕方には木の皮が浮いた場所から、コクワくんもわらわらと出てきました。

隣りの林、昆虫酒場の足もとには、ホソバウンランが一面に咲いています。

庭では桔梗が咲き始めました。幾何学的な不思議な形と深い紫色。
そのままの色がここには写らないのですが、この色大好きです。

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猫とつる草

散歩をしていて、猫を見かけた。
野良だろうか。じっとこちらを見ているが、すぐに逃げられるように四足に力を入れているのが判る。しかし毛なみは美しい。外出自由な、何処かのお家の飼い猫さんかも知れない。

1年半前に、飼っていたびっきー(雄犬)が死んでから、動物とは無縁の生活を送っている。子どもの頃にやはり犬を飼っていたが(よくある話だが、チビと名づけてその後大きくなり、違和感を覚えつつもチビと呼び続けた)そう言えば、猫を飼ったことはなかったとふと思った。
犬派? 猫派? などと話題になることがあるが、わたしはたぶん、どちらかと言えば猫派だ。もちろんびっきーは特別な存在で、何派などの分類からは外れる訳だが、何故犬を飼っていたのかと言えば、それは上の娘が犬大好きな犬派だったからに他ならない。

犬派は人が好きだというタイプが多いそうだが、娘は小さな頃から常に誰かと遊んでいないと落ち着かない子どもだった。まさに人が好きなのだ。びっきーにも、そんなまっすぐな愛情を注いでいたし、それがもし猫だったとしても、変わらず可愛がったのだろうと思う。無論、犬派、猫派など、当てにならないところはある。猫派はマイペースで孤独を好むなどとも言うが、猫大好き、人大好き、という友人も多いのだ。

わたしはこの先も、猫を飼うことはたぶんないと思う。きっとこのまま、動物とは無縁の生活が続くだろう。何しろ自分の根底にある猫的と思える部分さえ、持て余しているのだ。そんなこと考えながら足もとを見ると、びっきーが好んで食べていたつる草が目に留まり、不意になつかしい気持ちになった。

警戒はしているみたいですが、カメラを向けても逃げませんでした。

ちょっと近づくと、逃げの姿勢に。それでも、じっと見ています。
バイバイと手を振ると、びくんとしましたが姿勢はこのままでした。
昨日は猫日和。買い物に出た車中でも、たくさんの猫と会いました。

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野鳥達からの贈り物

庭に向日葵が咲いている。
種を蒔いた訳ではない。冬の間、野鳥のために撒いていた種が、土をかぶって芽を出したものだ。餌用の種から咲いたからか、背の低い小ぶりの花は向日葵らしさに欠けてはいるが、それが可愛くもある。蕾は特徴があり、どれも黒っぽかったので、変わり種の花が咲くかとも思ってもいたが、咲いてみれば小ぶりだがごく普通の花だった。

野鳥達は、この季節もたくさん飛んでいる。鶯やホトトギスは、毎日のように声を聞くし、フクロウが鳴く夜もある。バードセイバーを貼っていても窓にぶつかって脳震とうを起こすそそっかしい子もいる。
だが虫や木の実など食べ物も豊富なこの季節、それぞれに必要な栄養もその方が摂れるのだろうからと、餌を撒くことはしない。庭を歩く姿は見られないが、山や林でたくましく生きている彼らの存在を楽しむだけでじゅうぶんだ。

その彼らが冬、食べこぼした向日葵が4つ、今咲いているのだ。
800gの大袋で何度か買って来た向日葵の種は、いったいいくつあったのだろう。確実に、数えきれないほどだ。しかし芽を出し花を咲かせたのはたったの4つだけ。如何に彼らが必死で食べていたのかがうかがえる。食べている姿は目の前で見ていたのに、その食べっぷりに今頃になって気づかされるとは。
梅雨の晴れ間にからりと笑顔で咲く向日葵。忘れた頃になっての野鳥達からの贈り物かも知れないと思うと、余計にまぶしく見えてくるから不思議である。

ちょっといびつな形だけれど、のびのびと咲いています。
向日葵の黄色には、陽の光が似合うなぁ。

すっかり夏の雲。雪がなくなって、八ヶ岳もゆったりとしています。

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じっと見ている

今年は、木苺が豊作である。
植えた訳でもない木苺だが、庭の北側に、30本以上も芽を出し枝を伸ばしている。隣りの林も然り。道を歩いていても見かけ、おお、ここにも、と思う。その実が今、陽当たりのいい場所では、熟し始めた。
「ヨーグルトに入れて、食べようかな」
熟したところから収穫していけば、しばらく楽しめそうだ。
木苺の木には棘があるので、その棘に気をつけながら、収穫する。一つ一つ、手で摘んでいくのだ。気をつけていても、棘が肌をかすったり、服にひっかかったりする。熟しているように見えても、まだ固く枝を離れようとしない実もある。集中して木苺の実を摘んでいった。

そんなふうにして木苺摘みをしているとき、ふと、気配を感じ、振り向いた。誰もいないはずの庭。それも、道路からは離れた家の影になる場所だ。
「わっ!」思わず声を上げた。
じっと、見ている者があったのだ。
猫だった。たぶん、野良だろう。
ずっと、そこにいたのだろうか。それとも、忍び寄って来たのだろうか。
何も判らぬまま放心していると、猫は、素早く駆けて行く。
「あ、待って」何故か、そんな気持ちになった。

誰もいない場所で、何かに集中しているとき、何者かが自分をじっと見つめている。それはとても、怖いことだと思った。
しかし。と、考える。
誰もいない場所など、ないのかも知れない。誰かが、何者かがいつも、何処からか見ているのかも知れないのだ。

木苺。艶やかな赤い粒々が、帽子のようにのっかっています。

木苺を採りに行って、石段で出会ったニホントカゲくん。
シッポが青いのは、まだ子どもなんだそうです。

駐車場にはカミキリムシくん。調べましたが種類が判りませんでした。

玄関には、コクワくんが「お初ですー」とやって来ました。
猫や人間などよりも、虫達の方が元気に動き回る季節到来ですね。

ガク紫陽花も咲き始めました。挿し木した時にはピンクだった花です。
紫陽花の色の変わりゆく姿は、味わい深いモノがあります。

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モノクロ画像の蝶

一瞬、そこだけがモノクロに色抜きしたかのように見えた。
庭のもみじに、蝶がとまっていたのだ。大きく立派な、白と黒のまだら模様をした蝶である。これまでにも、何処かで見たような気がしたが、よく見かけるやはり白黒のミスジチョウより格段に大きいし、黒地に三本の白い筋が通った名のミスジには、模様も違っていた。

調べると、ゴマダラチョウという名のタテハチョウだった。
見たことがあるような気がしたのも、色抜きしたかのように見えたのも、毎年飛んでくる国蝶オオムラサキに、形や醸し出す雰囲気がよく似ていたのだ。
幼虫も見分けるのが難しいほどそっくりで、花の蜜ではなくクヌギやエノキの樹液を吸って生きているのも同じだとか。オオムラサキのモノクロ版、などといったらゴマダラチョウに叱られそうだが。

映画などで、過去や回想シーンをモノクロ画像を取り入れたりするのを見たことがある。いちばん目立たせたいものだけに色を残して色抜きした画像なども、最近はよく見かける。パソコン上で素人でも簡単に色抜きなどができるようになったからだろう。
ふと想像した。逆に、ゴマダラチョウがカラフルな世界を飛び回ったら?
ここは田舎でカラフルと言っても緑ばかり多いが、赤や黄やブルーがあふれた世界を、モノクロの蝶が飛び回ったら? 考えるだけで、楽しくなった。

わたしの想像など知りもせず、ゴマダラチョウは、半日ゆっくりともみじの葉の上で羽を休めていた。夕刻から強い雨が降り始めた昨日、その後何処で過ごしているのだろうかと気になったが、目をつぶると丸みを帯びた形をしたゴマダラチョウのモノクロ画像が、くっきりと浮かぶのだった。

もみじの葉の上で、ゆっくり休んでいたゴマダラチョウ。

もみじの先は不器用にのびて、開くのをためらっている手のひらのよう。

まだ青いですが、すでにプロペラ(種)ができていました。
赤くなり重さを減らしたら、プロペラは風にのって飛んでいきます。
去年のオオムラサキの様子をかいたページは → こちら

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蛙、カエル、何故に登る

一昨日の夕刻、ブラインドを閉めようと、ふと窓を見ると蛙の影が見えた。
「わ、けろじ、やっと来た!」
ウッドデッキにアマガエル達が登ってくるのを、心待ちにしていたのだ。

去年も、今頃。梅雨入りの声が聞こえるか聞こえないかという頃に、人差し指の先くらいの子蛙が毎日のように登って来て「けろ」と名づけて可愛がっていた。可愛がると言っても、挨拶したり、写真を撮ったり、あまりに暑い日にはウッドデッキを水で濡らしたり、踏まないようにする(これが一番大切!)くらいのことで、向こうからすれば、何とも思っていなかったかも知れない。だが、カメラを向けても嫌な顔一つせず、何枚もの写真に納まっているのだから、嫌だとは思っていなかったはずだ。
その「けろ」が何処かへ行ってしまってからは、他のアマガエル達に名前をつける気持ちにはなれず、みなまとめて「けろじ」と呼んでいた。「けろじゃない」と「けろ二」をかけてつけた名だ。ウッドデッキに登ってくる子は、みな「けろじ」なのである。

今年も、ウッドデッキにけろじがやって来て、梅雨が来る。そう思えば、梅雨を迎えるのだって、憂鬱になるどころか、逆にうきうきする。

しかし、アマガエルくん達。何故に1mもの高さのウッドデッキに登ってくるのだろう。そのうえ、網戸まで登って行くのだ。ウッドデッキ以外にも、木の葉の上で見かけることも多い。
餌となる羽虫を捕らえるため。身体を雨に濡らすため。天敵から身を守るため。どれも当たらずとも遠からず的な感じで、どんぴしゃだとは思えない。
「そこに、山(ウッドデッキ)があるから、かな」
ぴょんと跳ねて登った気持ちよさが、けろじ達の表情には見てとれるのだ。

まる1日雨が降った日、網戸をのぼっていました。うーん、可愛い。

翌朝、ウッドデッキを見て、あ、いる! と思いましたが、残念。
もみじの葉でした。ちょっとくすんだ緑も、四足で身体を支えているような
姿も、まるで、アマガエルの真似をしているかのようでした。

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低音の魅力

「てっぺんかけたか てっぺんかけたか」
この季節、朝夕問わず、けたたましく鳴くのはホトトギスだ。頭痛がする時には、どうか鳴くのをやめてほしいと思うような高音である。
それとは対照的な低音が、このところ庭から響くことが多くなった。特に雨が降ったりやんだりしていた土曜、その声は、やはり朝夕問わず響いてきた。

「あれは、きみの友達が鳴いているの?」
夫に聞かれたが、わたしも鳴いているところは目撃したことがないので、何とも言えない。小さな身体で、鳥と大差ない大きな声を発することができるのかも疑問だ。その疑問を晴らすべく、そっと庭に出て探してみた。そして、声の主を見つけた。
わたしを見て、彼は鳴くのをやめたようだが、あきらかに今まで鳴いていたという顔をしている。顔にかいてあるので、否定しようがない。おはぎの餡子を口の周りにつけて、食べてないと言い張るようなものだからだ。
アマガエルの口の下には、鳴き袋が大きく膨らんでいたのだ。

鳴くところが見たかったので、鳴き真似をしてみた。しかし、彼は(鳴くのはオスだけなので、はっきりと彼と言える)眉をしかめ(眉があればの話だが)人間のメスはご無用とでも言うかのように、そっぽを向いてしまった。蛙が鳴くのは、大抵メスを呼んでいるときだそうだ。
低い声で鳴くのにも理由がある。身体が大きいほど声が低くなるので、出来る限り低く鳴き、大きく強いオスであることをアピールしているのだ。そして、鳴き袋が大きければ大きいほど、声は大きく遠くまで響くらしい。
「胸はって見栄はらず」とは、よく行くラーメン屋のモットーだが、アマガエルの世界では、見栄をはるのもまた、自らの子孫を残す術なのだ。

「がんばれ」小さく言い、部屋に戻った。
すると、夫が言った。「今鳴いてたね。鳴くところ、見られたの?」
「いや、それ、わたしの声だから。呼びかけたら、応えてくれるかと思って」
夫は、唖然とするばかりだ。
わたしは、と言えば「うーん、そんなに似ていたのかな。もしかしたら、メス蛙、呼べるようになるかも」と、一瞬考えたのだった。

鳴き袋、こんなに膨らませて鳴くんだね。鳴いてるところが見たいなぁ。

場所は、写真の真ん中。アイビーが絡んだコンクリの柱の上です。

朝から夕方まで、ずっとここに。土曜は、蛙的いい天気だったからね。
恋人(恋蛙?)見つかったかな。卵は田んぼまで行って生むのかな。

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ツバメは町に

4月に入ってから、ツバメをよく見る。だがそれは、我が家の周辺ではない。
例えば、隣町の商店街、よく行くクリーニング屋さんの軒先。また例えば、たまに特急が停まる隣りの市にある韮崎駅で。
ツバメは人と共生する鳥だとは、知っていた。人家の軒先に巣を作る野鳥で、渡り鳥。それなのに、我が家には巣を作らない。アオゲラに突かれ、キイロスズメバチの大きな巣が作られ、アマガエル達がウッドデッキで集う我が家にだ。ずっと不思議に思っていた。

それが何故かを、最近知った。何故に人と共生しているのか、考えてみれば当然のことだが天敵から我が身を守るためだ。我が家の周辺には、ツバメの天敵となる蛇やカラスもいる。ツバメ的観点から見れば、我が家は人家と見なされていなかったということになる。ツバメは、田舎ではなく町に住む鳥なのだ。

「自分の生きる場所は、自分で決めなくちゃ」
アジアの島々と日本とを渡るツバメ達に、言われた気がした。
見上げれば、透き通った青い空。そこにゆっくりと流れる白く眩しい雲が、ツバメ達の迷いのない歌声と共に、胸のなかに広がっていく。

しかし、そんな心持ちで駅から家に戻ると、我が家周辺をリサーチしているツバメを見かけた。どうやらツバメソムリエに田舎認定を取り消される日も遠くはないようだ。状況は流れゆく雲の如く、日々刻々と変化していくのだ。

韮崎駅にて。思いっきり声を張り上げて鳴く姿に、生きる力を感じます。
「土食って、虫食って、しぶーい」と聞こえるのだとか。

仲間と一緒にいることも、多いです。3羽、4羽でいることも。

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カタツムリの眼

庭仕事をしていたら、薪割りしていた夫に呼ばれた。
指差された薪の上を見ると、立派なカタツムリがいる。
「割った薪のなかに、いたの?」と聞くと、夫は首を傾げている。
薪太郎が、おぎゃあと生れなくてよかったのだが。

カタツムリは、眼を出したり引っ込めたり。カメラのシャッター音にも反応するようで、すぐに大小の触覚を引っ込めるが、頭まで引っ込めることはなく、少しずつ前進している。
「よくよく見ると、眼の先に黒目があるんだね」と観察した感想を言うと、
「カタツムリをよくよく見る人は、普通いない」と、夫は呆れていた。
しかし、あんなにあっちこっちが見えて混乱しないのだろうかとわたしの思考は、すでに先を、カタツムリのようにゆっくりと歩いて行く。調べると、明暗しか判らない眼なのだそうだ。

ぼんやりと全体を見ていて、パッと黒目を凝視すると、カタツムリはまるで違う生き物のように見えた。突然、そこに表情が現れるのだ。漠然としていたカタツムリの「意思」が見えたような気がした。

こうしてカタツムリを見るときと同じく、人の顔を見るときにも、眼を中心に見ているのだなと気づき、ハッとした。眼にあるものは「意思」なのだ。

この後、隣りの林のクヌギの葉に、移動してもらいました。
夕方見に行くと、いなくなっていました。
夫曰く「鳥に食べられたのかもね」それも、自然淘汰かも知れません。

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アトリは花鶏

「庭に、アトリが来るんだよ」と、末娘に言うと、
「ああ、花ニワトリって、漢字の野鳥ね」と返された。
花鶏とかいて、アトリと読むそうだ。美しい言葉や難しい漢字などに興味を持つ彼女は、大学で日本語を学んでいる。だが、種明かしを聞けば、好きな物語に鳥の名を地名に使っているネーミングに凝ったモノがあり、そのなかに「花鶏」という村があったそうだ。

庭に来ている野鳥達の名が、漢字でかかれているなどとは、考えても見なかった。調べてみると常連さんのシジュウカラは四十雀。ヤマガラは山雀。カワラヒワは河原鶸。ツグミは鶫、とみな漢字がある。アカゲラは赤啄木鳥。啄木鳥という漢字は、キツツキと入力すると出てきた。赤キツツキという名だ。
漢字は苦手だが、知ればまた面白い。末娘が、好むのも判らないでもない。

野鳥達のために庭に撒いている向日葵も、太陽の方を向く葵なんだなと漢字を見ただけで語源が判るようで面白い。ところで、この向日葵、音読みでは「こうじつき」と読むらしい。漢字検定で音読みと指定され「ひまわり」とかいたらバツだそうだ。
「そこまで、知らなくてもいいか」
わたしの漢字への興味は、面白いと思うラインでストップした。
そして、ストップしたと言っていられない小中高の子ども達は、日々そのラインより先まで勉強しているんだろうなと、明野小学校や中学校の方向をちらりと向いてみたが、その瞬間、さっき考えたことはすっかり忘れて「あ、学校の桜、観に行かなくっちゃ」と浮き浮きと考えたのだった。

アトリです。動きが速くて、なかなかうまく撮れませんでした。

雨のなか飛んできたカワラヒワ達。
大きめのクチバシで、種をしっかりくわえています。

鳥さん達、きっちり食べてくださいな。毎年、こうして向日葵が芽吹きます。

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HN:
水月さえ
性別:
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本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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