はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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小説「カフェ・ドC」 5. 窓に描かれたスマイル

 このところ、イライラしている。
 原因は、新しく入ったバイトの美大生、ジュンだ。まじめだが愛想がない。分厚いメガネに、長髪をひとつに束ねていて、いつも同じような洗いざらしのシャツとジーンズはいいけれど、おそろしく仕事が遅い上に、そそっかしい。
 五条坂を割ってくれた。形あるものは壊れるとはいえ、どうして店じゅうでいちばん安定したカップをひっくり返すのか、理解に苦しむ。しかし、怒ったところで五条坂は帰ってこない。失敗は、怒らず正すのが僕のやり方だ。
「そのうち慣れるわよ。ジュン君、不器用で頑固なところが、あなたにそっくりだし」
 妻は呑気に言う。どこがいいのか、ジュンを気にいっている様子だ。だいたい、不器用で頑固って、どっちも褒め言葉じゃない。
「京都旅行の計画も立てたくなったし」
 どこまでも、彼女は前向きで、僕は苦笑しつつもうなずく。珈琲屋の僕と、広告代理店に勤める彼女。異色の取り合わせといってもいいふたりが、これまでうまくやってこられたのは、彼女が吹かせる風に流されるのがいちばんいいと、僕が知っているからだ。
 しかし、十日立ち、僕のイライラは頂点に達した。
「ジュン!」
「すいません!」
「ぼーっとしてるからだろ!」
 グラスを割ったジュンを、ついに怒鳴ってしまった。僕は彼に窓ガラスを磨くように命じ、店の外に出した。これ以上、怒りたくなかったからだ。たしかに今日は忙しかった。七人の珈琲通らしき女性客が、それぞれ違う珈琲を注文し、それを一度にださなくてはならなかったし、途切れることがなく、お客はやってきた。やっと一息ついたと思えば、これだ。
「気つけの一杯に、深煎りのエチオピアでも、淹れるか」
 そのとき僕は、何か違和感を覚えた。今日は忙しかったが、とてもスムーズに店が回っていた。ジュンがのろのろと、珈琲を運んでいたにもかかわらず。
「深煎りのエチオピアです」
 ジュンは、ひとりひとりに、珈琲の名を告げカップを置いていた。「エチオピアの方?」ではなく、「エチオピアです」と。そういえばジュンは、注文を間違えたことがない。どのお客が何を注文したかを覚えている。十八種類ある珈琲の名も、全部?  いつのまに?
 そのとき窓に、ガラス磨きのスプレーが吹きつけられた。スプレーは、ゆっくりと絵を描いていった。なつかしいスマイルマークだ。僕に笑いかけたその顔が一瞬ジュンと重なったと思ったら、笑顔の目からスーッと涙が流れた。ジュンが、ガラスを不器用に拭き始める。不器用だがジュンは、隅から隅までピカピカになるまで磨くだろう。
 僕は、エチオピアの豆をふたり分スケールで量り、手挽きのミルに入れた。彼が窓を磨き終わるまで、気つけの一杯はおあずけだ。
 


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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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