はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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ナデシコ(もっともポピュラーではない)

庭のナデシコが、咲き始めた。
「つい撫でたくなる、可愛い子のよう」 →「撫でし子」が名の由来だから、という訳ではないが、やはり可愛い。薄いピンクの小さな花が、身を寄せ合うかのように咲いているところがまた、いい。とても丈夫で、放っておいても毎年咲く様子にも、飄々としたものを感じ、いいなと思う。

我が家のナデシコは、色も形もすべて同じだ。数えれば百以上の花を咲かせているのだろうが、一種類しかないので、ナデシコと言えばこの色、この形の花だと思っていた。しかし、ナデシコは色も形も多種多様なのだと最近知った。
ネットで探しても、同じ色形のものにたどりつくまで、けっこうかかる。調べているうちに、このナデシコは日本原種の「カワラナデシコ(大和撫子とも言う)」ではなく、中国から来た「セキチク(石竹」)」という種類らしいと判った。珍しい訳ではないが「ナデシコ」と言って思い浮かべる花は、一般的に、カワラデシコの方なのだろう。

身近にあるものを、もっともポピュラーなのだと思い込んでしまうことって、じつはよくあることなのかも知れない。
例えば、食器を洗うスポンジ。食器洗い用のものを購入してはいるが、そう言えば、他の場所では同じものを見たことがない。実家でも、夫の実家でも、会社でも、違うタイプものを使っている。そしてある日突然「えっ、これが何よりどれより普通なんじゃなかったの?」なんて感じで、気づくのだ。

身近にある親しくなったモノ達には「何より普通で、もっともポピュラー。ではないかも知れない」という、注意を怠るべからず。
無論ナデシコ達は、そんなことにはおかまいなし。春の風に、微笑んでいるかのように身を任せ、静かに揺れるのみである。

柔らかい印象をあたえる薄ピンク色。ギザギザも大和撫子より浅目です。
葉の緑も控えめな薄い色で、中心だけ赤に近いピンクで飾られています。

濃いピンク色をした開きかけの蕾も、とっても可愛いです。

競うように咲き始め「撫でて、撫でて」って・・・言ってる訳ないか。
本日5月29日の誕生花だそうです。

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『嵐のピクニック』

本谷有希子の短編集『嵐のピクニック』(講談社文庫)を読んだ。
本屋での衝動買いは珍しいことではないが、帯の文句に魅かれることは、わたし的にはとても珍しい。
「奇妙な味」の短編が発想と形式の見本帳というほどにも、繰り返される。
               ― 大江健三郎 と、帯にはかかれていた。
薄い文庫であり、13の短編とも掌編とも言える小説を収めているところにも魅かれた。裏表紙の紹介文に、「狂気」「妄想」「ブラック」「奇想天外」などの言葉が並んでいるのにも、わくわくした。
そしてわたしは、読み始めてすぐ、そこに言葉を追加した。「呆然」

2話目『私は名前で呼んでいる』は、会議中、カーテンの膨らみが気になってどうしようもなくなる女性部長を描いた掌編。以下本文から。

なんでそんなにも思わせぶりに膨らんでいるの? さっきは弱気になったけど、私はあなたたちのことを「気のせい」なんて認めない。そうやって、さも何かいる雰囲気で膨らんで、私だけじゃない、今まで世界中の人たちをどれだけ動揺させてきたのよ。誰かいるの? いないの? はっきりしなさいよ。

やがて彼女は会議室を飛び出し、走りだした。そして、見上げたビルの窓に、自分を見下ろす誰かを見つけたのだった。

大江健三郎賞を受賞したときの選評がラストに収められているのだが、そこで大江はかいている。「フクシマ3.11以来」と前置き「まったくの久しぶりで、希望の気配のある小説を読んだ思いがしました」
これを読み、えっ、そうなの? と思ったが、この短編集を読み終えると、確かに気持ちが明るくなっていた。ヒトって、実はどうでもいいことを真剣に思い悩み生きているのかも知れないと、すとんと腑に落ち肩の力が抜けたのだ。

本谷有希子(もとやゆきこ)1979年生まれ。
2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。本書で、第7回大江健三郎賞を、『自分を好きになる方法』(講談社)で、第27回三島由紀夫賞を受賞。

短編タイトルの、この絶妙微妙な傾き加減にも奇妙さが表れています。

ここまでくると、はっきりと奇妙です。まっすぐにはなれない悲しさ?
それは、喜びでもあるのかな。または、まっすぐにはならないという決心か。

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『いつかばったり』

二十歳の末娘が出演する、芝居を観に行った。
Aqua mode planning という劇団のリーディング公演に、役者として参加させてもらったのだ。3作の短編戯曲を続けて行うオムニバス作品で、公演名は『おわりのはじまりのつづき。』
彼女が演じたのは、一つ目の『いつかばったり』という短編劇詩だ。
脚本は劇団アマヤドリの広田淳一で、男優とふたり、椅子に座ったまま脚本を「読む」というカタチの芝居だった。それは、こんなふうに始まった。

今までいろんな人たちと出会ってきたけれど、まだ出会ったことのない人、というのがこの世界には、まだまだ、たくさんいて、その中には出会ったらきっと楽しい、とても素敵な、うまい酒の酌み交わせる、ものすごく趣味の合う、ずっと一緒にいても疲れない、ような、そういう人たちがたくさんたくさんいるのかもしれなくて。 そんな人たちと、どうにかして、いつか、ばったり。

テーマは、出会いだ。主人公は、自問自答する。そんな「いつかばったり」がないのは自分に「人を見る目」がないのではないかと。

やっべ。どこで落として来たんだろう? あたしの「人を見る目」。
そもそも人を見る目って何? どうにかして手に入れられるものなんだろうか? 人生経験とかいっぱい積んで、人間観察とかいっぱいして、あるいは、どっかに売ってたら結構いい値段でも買うのに。人を見る目。買うな。買っちゃうな、こりゃ。27万までなら出す! なぜなら、普通運転免許証よりも私は人を見る目が欲しいから!

若いんだよなぁ、彼らは。と思いつつも、まだまだ自分にも、そんな「いつかばったり」があるかも、とも考える。そしてそれ以前に、今「美味い酒の酌み交わせる」人達とのこれまでの出会いを思うのだった。

『いつかばったり』が「はじまり」なら、2つ目の演目『まだ、わかんないの。』は、震災のあとずっと会っていなかったもと恋人の消息を探す「おわり」が、3つ目の『ハイパーリンくん』は、知識を繋いでいく先生と生徒の「つづき」が、テーマとなっていた。
終わり、始まり、そして続きは続く。普段は考えてもみないことだが、そんな確かで不確かなモノ達のなかを、わたし達は浮遊し続けているのだろう。

自由創作空間をレンタルする、西武池袋線江古田駅近くの兎亭にて。観客は10人ほど。でも演じる彼らは、いいものを創ろうと眼を輝かせていました。

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叢雲(むらくも)迷う夕べにも

昨日の早朝、夫を駅まで送る時間、春らしからぬ雲が空を泳いでいた。
「春なのに、うろこ雲?」と、わたし。うろこ雲は、秋の雲ではなかったか。
「うろこ雲が浮かぶと、雨が降るらしいよ」とは、夫。

帰宅してから、空の事典とも言える『空の名前』(光琳社出版)の雲のページを開いてみた。窓から見える雲とうろこ雲の写真を比べてみると、ずいぶんと雰囲気が違う。うろこ雲は、低気圧が近づいたときに現れる巻積雲という種類の雲で、夫が言った通り、雨の予兆となることも多いらしい。
しかし、窓から見える雲にいちばん近い雰囲気を持つ写真は、高積雲だった。予報を見ても雨が降る様子はないし、たぶん高積雲だろうと推定。高積雲のなかには、鯖雲、羊雲などもあったが、叢雲(むらくも)に近い感じだ。
叢雲、群がり立つ雲の説明文には、『源氏物語』に「風騒ぎ 叢雲迷う 夕べにも」と使われている、とあった。続きは「忘るる間なく 忘られぬ君」風に叢雲が乱れる夕べでも、あなたのことを片時も忘れられない、のような意味らしい。乱れ迷うモノと、一途な迷いのない気持ちが対照的な歌だ。その乱れ迷うモノの象徴として、叢雲が使われているのだった。

叢雲らしき雲は静かに形を変え、3時間も経つと空が見える部分の方がわずかとなった。乱れ迷う様子もなく、深呼吸でもするかのようにゆっくりと空を覆っていく雲達。その様をぼんやりと見ていたら、日々の細かな迷い事などは、次第に小さくなっていき、やがては消えていくもののように思えてきた。

定点観測地で朝7時過ぎに撮影。風はなく雲もじっとしていました。

午前11時過ぎには、こんな感じに雲が広がりました。

同じく11時過ぎの富士山側の雲。我が家からだと南側になります。
韮崎駅に向かう農道で。ちょうどお田植えの真っ最中でした。

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野薔薇への憧れ

山に林に町に、今、野薔薇が咲いている。花壇だけではなく、薔薇の季節だ。
庭にも咲いているその薔薇は、一重の白い五枚の花びらを持つ、ごく普通の花で、いく枚もの花びらを重ねて咲く薔薇とは、まるで違う。花だけ見ると、知らなければ薔薇だと気づかず通り過ぎてしまいそうだ。
しかし、茎にはしっかりと棘を持ち、花びらの形も似ている。真ん中が少しへこんだ、ちょっといびつなハート型だ。

「綺麗な薔薇には、棘がある」
薔薇達にとっては、心外だと感じる諺かも知れない。
そして、わたしが持つ薔薇のイメージは、この諺とは違っている。高貴な雰囲気を持つ花だが、じつはいく枚ものハートを持つ薔薇は、誰かを傷つける自分の棘に、ずいぶんと心を痛めているんじゃないか、と思うのだ。

しかし、野薔薇のイメージは、更にまた違う。野薔薇は、5枚の花びらをしっかりと開き、清々しい面立ちで空を見ているように思える。
同じように棘を持ち、ハート型の花びらを持つ薔薇なのに、強く見えるのは何故だろう。野薔薇は、自分の棘くらいでは傷つかない何かを、たぶん持っている。そしてわたしは、そんな野薔薇に、憧れを持っている。

何処からか飛んできて根づいた、庭の野薔薇です。

野薔薇の棘。若く赤みを帯びた棘には、美しさをも感じます。

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夕闇の影絵

「夕暮れの田んぼを、観に行かない? たぶん山が綺麗に映ってるはずだよ」
夫に誘われて、町内を車で走った。夕暮れ時。午後7時前のことである。
風呂上がりだったわたしは洗った髪を乾かしもせず、フリースを着てカメラだけ持ち、夫の車に乗り込んだ。5月も後半のこの時期にフリースを着る寒さは、ここ山梨でもそう多くはなく、気温が下がれば下がるほどくっきりと見える山々が、なるほど綺麗に観えていた。

「ほら、鏡みたいでしょう?」5分と走らず、夫は車を停めた。
彼は、三脚を抱え一眼レフを肩にかけ、嬉しそうに撮影地点を探すべく歩いていく。わたしも、小さなデジカメを持ち、適当に歩く。
まだ田植えをしていない水を張っただけの田んぼは、本当に鏡のようにくっきりと、何もかもを逆さに映していた。

夕暮れから夕闇へ、そして夜の闇へと向かっていく時間だ。田んぼが作った鏡のなかの闇も、見る間に濃くなっていく。
もし光がなかったら、闇だけの世界になるのだろうか。だとすると闇は、光よりも遥かに大きな、根底となる存在だということだろうか。
濃さを増す夕闇に立ちすくみ、それが胸に抱えた闇と共鳴しないうちに、わたしは車に戻った。洗ったばかりの髪だけが、一滴の夜の闇を持ち帰っていた。

木々の影が、西洋のお城のように見え、手前の木々の葉は細かい影を作って
いて、藤城清治の影絵を連想しました。明野町御領平にて。

こちらは、八ヶ岳が映った田んぼです。村道を仁田平に向かう途中、浅尾で。

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木洩れ陽とドクダミ

5月。木漏れ陽が美しい季節だ。
我が家の庭で、いちばん綺麗に木漏れ陽が揺れる場所は、東側の林との境目、昨年ドクダミをいただいて植えた場所である。
そのドクダミ達がようやく葉を広げ、今、気持ちよさそうに木漏れ陽を浴びている。可愛い。可愛くてつい、幼子相手のような口調で「木漏れ陽、きらきらしてるね。気持ちいいね」と話しかけてしまう。

太陽の光が、木々の影を用いて作り出す、木漏れ陽。この美しさを作っている功労者のひとりは、風だろう。
「ほら、綺麗だろう?」
5月の風がそう言って、目覚めたばかりのドクダミ達のために、優しく木々を揺らしているのを感じる。
きらきら光る太陽の光を浴びて、ときに雨や風と立ち話をしながら、土の暖かさに守られて、新しい命は、のびのびと呼吸の数を増やしていくのだ。

ふと、考えた。ドクダミをここに植えなければ、こんなふうにゆっくりと木洩れ陽を見つめることもなかったのだと。そう思うと、不思議だ。びっきーのテリトリーだった東側の雑草が生えない庭。そこを歩き回っていた彼が死んで1年半経ち、今ようやく草が生え始めている場所を見回した。
「住み始めて何年経っていても、新しいことって始まるんだ」
木洩れ陽は、穏やかな微笑みをまとい、ドクダミ達に降りそそいでいる。

木洩れ日に揺らめく、ドクダミ達。少し離れた場所にも出てきました。

一枚一枚の葉っぱが、陽の光を受けて、はにかんでいるかのよう。

木洩れ陽を作っている木々達は、日ごとに緑濃くなっていきます。

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パソコンに映った空

田んぼに水が入り、お田植えする姿を見かける季節。
この季節に限り見られるものがある。それは、車のサイドミラーに映った空だ。坂道が多く棚田広がる明野町では、曲がりくねった上り坂で、ふと覗いたサイドミラーに、5月の空がすこんと抜けて広がっていたり、雲がのんびり流れていたりするのだ。そんな風景にも、ずいぶんと慣れ、驚かなくなった。

それが昨日、対面式キッチンで洗い物をしていて、こんな場所にも? と、思わず微笑んでしまうようなところに、空を見つけた。
居間のテーブルの上に開いたまま置いてあるノートパソコンの画面に、空が映り、雲が流れていたのである。

パソコンのなかの空は青く、白い雲がどんどん表情を変え、すーっと移動していく。地上何千メートルにいるのだか判らないが、きっとずいぶん速く進んでいるのだろうな、などと手を動かしつつ考えていた。そのとき不意に雲が表情を変え、こちらを見たような気がした。それは鏡越しに誰かと眼があったときの感覚と似ていた。鏡越しに相手が見えるということは、その相手にも自分が見えるということなのだと、子どもの頃に知り不思議に感じたのを思い出す。
あの雲にも、パソコンに映るキッチンに立ったわたしのことが見えていたのだろうか。もし見えていたとしたら、どんなふうに見えていたのだろうか。

映っているのは、北側の窓から見える空。置き方が絶妙だったかも。

定点観測している八ヶ岳スポットも、空が青く、白い雲が綺麗でした。
昨日は強風で、水田は波打ち濁り、残念ながら何も映ってはいませんが。

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歯医者の椅子

歯医者に、通い始めた。
山梨に越して来てから3件目にして、ようやく信頼できる歯科医院に巡り合い、最近はトラブルもなかったので、定期健診と歯石の掃除のため半年に一度診てもらうだけだったが、先週くらいから奥歯に違和感を覚え、痛みはないのだが診察してもらった。すると、左上の一番奥の歯が、被せてある銀歯のなかで真っ二つに割れてしまっていた。神経を抜いて20年以上経った歯には、よくあることらしい。もう、抜くしかないそうだ。嬉しいことではないが、受け入れるしかあるまいと抜歯の予約を入れ、帰ってきた。

「歯医者の椅子って、特異な場所だよなぁ」
そこに座ると、いつも思う。
待合い室で読んでいた小説も物語途中で遮断され、さっきまで覗いていたケータイも鞄のなかで眠りに入る。口を開けたまま返事もできない状態も長く、痛かったら手を上げてと言われるが、痛い以外の意思表示は難しく、何度か繰り返すうちに返事をすることへの諦めが居座り始める。そうすると、どんどん自分一人の世界へ入っていく。
そこでいつも思い出すのが、アンデルセンの童話『パンをふんだ娘』だ。
ドレスを汚すまいと、道に広がった水たまりにパンを投げ入れ、踏んづけて渡ろうとした高慢な娘。彼女はパンを踏んだ途端、水たまりのなかの世界に落ち、地の底で暮らすことになる。
歯医者の椅子で一人の世界へ入っていくときの感じは、地の底へ落ちるイメージを呼び起こす。落ちて落ちて、何処までも落ちていくアトラクションの椅子に座ったような、重力の変動を思わせるのだ。

今通っている歯科医院は、治療してもらう椅子の前に窓があり、ブラインドの向こう側には、駐車場と、そこを歩く人と、空が見える。目の前が明るくひらけていることにいつもホッとする。決して今の歯科医院が地の底へ落ちるイメージを作った訳ではない。そういう感覚って、子どもの頃に見た夢を覚えているようなものなのかも知れない。

で、本日が、その抜歯の日。
今日はお酒、ダメって言われるだろうなぁ。痛くても腫れてもいいから、飲みたいなぁ。飲んじゃおうかなぁ。じつは真っ先に、何より真剣に画策する事案は、そこなのである。こういうことでもないと自覚すらしないが、掛け値なく根っからの酒飲みなのだ。地の底に落ちることはなくとも、酒の水たまりで溺れる自分は容易に想像できる。それもまたよしと思いつつ、画策は続くのだ。

田舎の暮らしもいいけど、ときに都会のネオンが恋しくなります。
これは、東京出張の際、久々にオーダーしたソルティドッグ。
ジュースのようにくいくい飲める、軽いカクテルでした。

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がっついて? シンガポールチキンライス

昨年、出張でシンガポールにいった夫から「チキンライスが美味かった」と何度も聞かされた。何度も聞かされすぎて、もう味も判ったような気分にさえなっていたが、わたしは食べたことがない。
それを東京で、食べようということになった。そして日本橋にある『シンガポール海南飯店』で、初めてシンガポールチキンライスを食べた。

話に聞いていたので、出てきたものはイメージ通りだった。柔らかく茹でたチキンを切り分け、タレにつけて食べる。パクチーものせてあり、タレは葱生姜やチリソースで、アジアン・スパイシーな香りを漂わせている。細長いタイ米の鶏の茹で汁で炊いたご飯と、茹で汁のスープもついていた。
そんな訳で、食べるまでわたしは、漠然とした疑問が胸にあるのを突きつめようとはせず、茹で鶏とご飯のセットを「チキンライス」と呼ぶなんて、海外の文化って不思議であるなぁと思っていた。

しかし、食べて思わず「何これ」と言ってしまった。「美味しい!」と。
その美味さは、チキンの旨味だけじゃないのだ。タイ米だということもあり、さっくりと炊けたライスは、ご飯と言うよりサラダに近い。それは、生姜や葱以外のスパイス、レモングラスの香りが口いっぱいに広がるからなのだ。テーブルに置かれた「シンガポールチキンライスの食べ方」には、レモングラスの他にパンダンリーフ(タコ椰子の葉)の香りが効いているのだとかかれていた。この葉っぱは「東洋のバニラ」とも呼ばれているそうだ。
「これは確かに、チキンライスだな、うん」
納得した。チキンとライスではなく、チキンとその茹で汁で炊いたライスでもなく、これはチキンのライスであり、ライスの方が主役。「ライス・チキン・ライス」と名乗っても可笑しくはない料理なのだった。

ところで、シンガポールで多く飲まれているタイガービールの生があり、すっきりとした飲み心地がわたし好みで、3杯おかわりした。
そして、もう20年以上実践してきたわたし的ルールのなかに、ビールを飲んだらご飯は食べないというのがあり、オーダーしたときにはチキンライスは味見くらいにするつもりだった。それなのに、ビールもライスもこんなに美味しいなんて。ルール? そんなもの実家に置いてきました、とでも言いたくなる。テーブルの上の「チキンライスの食べ方」には、ルールなど笑いとばすかの如く「がっつくのが正しいチキンライスの食べ方です」とかかれていた。

マーライオンがお出迎えの、フードコートのような気軽に入れる雰囲気。

シンボルはライオンで、ビールはタイガーなんですね。

「野菜食べたいねー」とオーダーした空芯菜、ガーリック炒め。
見た目より油っこさがなく、ビールにぴったりでした。

来ました、チキンライス。タレは葱生姜、チリ、ブラックの3味です。

3杯目の生タイガーと、シンガポールチキンライスの食べ方カード。

ラストはホッケンミーです。いり卵入りの焼きそばは、ナンプラー味。
熱々でやわらかい麺。ライムをかけて、さっぱりといただきました。

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『夜と妻と洗剤』

江國香織の小説のなかで、とても好きな掌編がある。
『江國香織とっておき作品集』(マガジンハウス)に収められた『夜と妻と洗剤』だ。この小説は、こんなふうに始まる。

妻が、僕と別れたいと言った。私たち、話し合わなきゃ、と。
夜の十時をすぎていた。僕は疲れていた。僕たちは結婚して五年目で、子供はいない。
気がつかないふりをして暮らすことはできるわ、と、妻は言った。でも、気がつかないふりをしても、それはなくなりはしないのよ、と。
僕が返事をせずにテレビをみていると、妻はテレビを消してしまった。何に気がつかないふりをして暮らすのか、何がなくなりはしないのか、僕にはさっぱりわからない。いつものことだ。

文字数にすると、ここまでで200字と少し。ラストまで行っても多分この5倍くらいにしかならないだろうから、約1000字。原稿用紙換算にして3枚に満たない掌編中の掌編だ。

主人公は、妻のペティキュアが剥がれかけているのに気づき、除光液を切らしていてイライラしているのだろうと推測する。だが、そうではなかった。
「私が言っているのは、そういうことじゃないの」
主人公は、さらに足りないものを言い並べていく。
「洗剤は? 牛乳は? ダイエットペプシは?」
それは、コンビニに売っているモノばかりだ。しかし、妻はため息をつく。
「私が言おうとしていることは、そういうものとは関係がないのよ」
だが主人公は、妻を振り切ってコンビニに向かう。そして洗剤やら牛乳やらダイエットペプシやらを大量に買い込んできて、妻は呆れて笑いだすのだ。

ストーリーは以上だ。何が好きかと言えば、男と女が求めているモノの違いと、永遠にすれ違っていく滑稽さが、この短い文字の羅列のなかに、多すぎず少なすぎず描かれているのが、いい。この小説を読むと、永遠に続く平行線も、笑って歩けるような気分になるのだ。

エッセイ集『やわらかなレタス』(文芸春秋)と一緒に。

銅版画家、山本容子の、不思議な雰囲気の絵がついていました。

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低音の魅力

「てっぺんかけたか てっぺんかけたか」
この季節、朝夕問わず、けたたましく鳴くのはホトトギスだ。頭痛がする時には、どうか鳴くのをやめてほしいと思うような高音である。
それとは対照的な低音が、このところ庭から響くことが多くなった。特に雨が降ったりやんだりしていた土曜、その声は、やはり朝夕問わず響いてきた。

「あれは、きみの友達が鳴いているの?」
夫に聞かれたが、わたしも鳴いているところは目撃したことがないので、何とも言えない。小さな身体で、鳥と大差ない大きな声を発することができるのかも疑問だ。その疑問を晴らすべく、そっと庭に出て探してみた。そして、声の主を見つけた。
わたしを見て、彼は鳴くのをやめたようだが、あきらかに今まで鳴いていたという顔をしている。顔にかいてあるので、否定しようがない。おはぎの餡子を口の周りにつけて、食べてないと言い張るようなものだからだ。
アマガエルの口の下には、鳴き袋が大きく膨らんでいたのだ。

鳴くところが見たかったので、鳴き真似をしてみた。しかし、彼は(鳴くのはオスだけなので、はっきりと彼と言える)眉をしかめ(眉があればの話だが)人間のメスはご無用とでも言うかのように、そっぽを向いてしまった。蛙が鳴くのは、大抵メスを呼んでいるときだそうだ。
低い声で鳴くのにも理由がある。身体が大きいほど声が低くなるので、出来る限り低く鳴き、大きく強いオスであることをアピールしているのだ。そして、鳴き袋が大きければ大きいほど、声は大きく遠くまで響くらしい。
「胸はって見栄はらず」とは、よく行くラーメン屋のモットーだが、アマガエルの世界では、見栄をはるのもまた、自らの子孫を残す術なのだ。

「がんばれ」小さく言い、部屋に戻った。
すると、夫が言った。「今鳴いてたね。鳴くところ、見られたの?」
「いや、それ、わたしの声だから。呼びかけたら、応えてくれるかと思って」
夫は、唖然とするばかりだ。
わたしは、と言えば「うーん、そんなに似ていたのかな。もしかしたら、メス蛙、呼べるようになるかも」と、一瞬考えたのだった。

鳴き袋、こんなに膨らませて鳴くんだね。鳴いてるところが見たいなぁ。

場所は、写真の真ん中。アイビーが絡んだコンクリの柱の上です。

朝から夕方まで、ずっとここに。土曜は、蛙的いい天気だったからね。
恋人(恋蛙?)見つかったかな。卵は田んぼまで行って生むのかな。

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ツバメは町に

4月に入ってから、ツバメをよく見る。だがそれは、我が家の周辺ではない。
例えば、隣町の商店街、よく行くクリーニング屋さんの軒先。また例えば、たまに特急が停まる隣りの市にある韮崎駅で。
ツバメは人と共生する鳥だとは、知っていた。人家の軒先に巣を作る野鳥で、渡り鳥。それなのに、我が家には巣を作らない。アオゲラに突かれ、キイロスズメバチの大きな巣が作られ、アマガエル達がウッドデッキで集う我が家にだ。ずっと不思議に思っていた。

それが何故かを、最近知った。何故に人と共生しているのか、考えてみれば当然のことだが天敵から我が身を守るためだ。我が家の周辺には、ツバメの天敵となる蛇やカラスもいる。ツバメ的観点から見れば、我が家は人家と見なされていなかったということになる。ツバメは、田舎ではなく町に住む鳥なのだ。

「自分の生きる場所は、自分で決めなくちゃ」
アジアの島々と日本とを渡るツバメ達に、言われた気がした。
見上げれば、透き通った青い空。そこにゆっくりと流れる白く眩しい雲が、ツバメ達の迷いのない歌声と共に、胸のなかに広がっていく。

しかし、そんな心持ちで駅から家に戻ると、我が家周辺をリサーチしているツバメを見かけた。どうやらツバメソムリエに田舎認定を取り消される日も遠くはないようだ。状況は流れゆく雲の如く、日々刻々と変化していくのだ。

韮崎駅にて。思いっきり声を張り上げて鳴く姿に、生きる力を感じます。
「土食って、虫食って、しぶーい」と聞こえるのだとか。

仲間と一緒にいることも、多いです。3羽、4羽でいることも。

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迷路のなかへ

ストーリー性を感じる夢を、よく見る。例えば、先週見た夢。

廃墟の高層ビル。最上階の窓には、ガラスもない。打ちっぱなしのコンクリ。そこに監禁された少年。その周辺には彼を見張っている人々。そこには、悪意はないが、夢は、悪意のある人々の場所へと移動する。彼らは笑っている。誰かを監禁し続けられる立場にいることに、心から喜びを感じている。百年ぶっ続けで笑っていても、物足りないくらいの大きな喜びだ。だが、その笑いのなかには、悪意によって生まれた鋭い無数の棘が存在し、笑っている彼らをも刺し続けている。彼らは、そのことには全く気づかない。日々繰り返される自らが生んだ鈍痛に、身体は慣れていく。心も然り。そして、彼らの慣れは、他人にも同じことを求めていく。
「おまえも、刺されろ! おまえも! おまえも! おまえも!」

それは、大きなモノが、小さなモノを支配しようとするそのイメージととても似ていた。例えば、戦争に向かっていく国と、子ども達とか。

「大きなものに飲み込まれそうになった時には、逃げるしかない」
最上階のコンクリに囲まれた部屋にいた少年は、心に芽生え始めた棘を残らず抜き捨て、裸足のまま全速力で走り出した。
「走れ!」そう言ったのは、わたしだろうか。いや。そこにいた、誰かだったのだろうか。
「空耳でも、いいさ」少年は走り出す。そして、迷路のなかに消えていった。

目覚めて、何か気になって、夢占いをしてみた。ネットでキーワードから検索する簡単なものだ。
「廃墟」→ 思い出。変化の前兆。虚しさ。価値観を変える必要性。
「少年」→ 無防備。好奇心。子どもっぽさ。明日への希望。
「笑う」→ 緊張の解放。エネルギーの高揚。自らを嘲笑する気持ち。
「これって、いい夢ってこと? 悪い夢ってこと? どっちなんだ?」
うーん。よく判らないが、夢に何かしらの意味を探し求めようとすること自体、違うのだということは判ったかも。考えるに、戦争に向かっていこうとする今の日本の不穏さを感じていて、夢に表れたというのが妥当な線だろう。

それにしても、続きはどうなるのだろうか。そして、これからの日本も。

「蛙」→ 目覚め。新たな気づき。無意識と意識の二つの世界を繋ぐ。
カエルくん、今晩、夢に出てきてくれない? 出演依頼OK?
よーく見ると、首を傾げて、うっすら微笑んでいるのが判ります。
蕗の葉の上で、気持ちよさそう。カメラを向けると、少し顔を上げました。

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ビーフストロガノフは、阿吽の呼吸で

「夕飯、何にする?」
夫がいる日は、大抵リクエストを聞く。
「あれとこれで、いいかな?」
と、わたしが聞くのは、それならば買い物に行かなくても済むと思ったとき。
「何でも言って。何でも作っちゃうから」
と言えるのは、これから買い物に行く予定があるとき。
そして昨日は、「何でも言ってDay」だった。

「うーん。そうだな」
夫が考え込むのを見て、しかし、わたしにはその瞬間、答えが判った。
「ビーフストロガノフ、ね」と、わたし。
「なにそれ。なんで、判ったの?」と、夫。
もちろん、我が家の食卓にビーフストロガノフなるものが登場したことは、一度もない。「これなら、作れないだろう」という意地悪発言だ。
その瞬間、同じ言葉が降って来たのは、夫婦だから、としか言いようがない。
「で、何バージョンのビーフストロガノフにする?」と、わたし。
「チキン?」とわたしが聞くのと、
「じゃ、チキンで」と夫がいう声が重なる。
こういうのを、阿吽の呼吸と、言うのか言わぬのか。
「醤油味の白滝入り、チキンバージョンのビーフストロガノフにする?」
言いつのるわたしに、夫はすっかりあきらめ、降参した。
「ミートソースが、食べたい、です・・・」

という経緯で、夕べはスパゲッティ・ミートソースと鯵のカルパッチョになった。日々、献立との闘い、主婦みな同じである。たぶん。

昨日かいたベジブロス効果を期待し、庭のイタリアンパセリの茎と蕾を
入れて煮込みました。もちろん葉っぱも、たっぷり振りかけて。

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ベジブロスで味噌汁

雑誌などで見かけ、気になっていた『べジブロス』に挑戦してみた。
聞いたことのないカタカナだったが、ベジタブル・ブロスの略で、直訳すれば、野菜の出汁。野菜と言っても、野菜くずの出汁だ。人参のヘタや玉葱の皮、セロリの葉、パセリの茎、パプリカの種、しなびた葱の青い部分などなど、水と酒で20分ほど煮込み、漉して使う。加熱することで溶け出すファイトケミカルという成分が、免疫力や抗酸化力を高めてくれるのだそうだ。

捨てていた部分を使い、和洋中、どんな料理にでも合うということも、人気の所以だろう。野菜くずでスープを煮たことはあるが、玉葱の皮にも栄養が詰まっているから使うのだと聞き、驚いた。切って煮るだけだが、そのスープには旨味と栄養分がたっぷりと移行するのだとか。

だが、それを作り置きして冷凍保存したりするのは、ずぼらなわたしにはムリそうだ。すぐに忘れて、やめてしまうだろう。
考えたのは、翌朝の味噌汁用に、味噌汁の鍋でべジブロスを作っておくと言うやり方だ。それなら、保存の手間はないし、続けられる可能性もある。
試してみると、野菜の旨味が濃い、一味違う味噌汁ができた。人参のヘタや皮つきの尻尾は、具として活躍もしてくれた。
「いいかも、べジブロス。習慣化するぞ!」

べジブロスを紹介した雑誌には、玉葱の芯、人参のヘタなどには、これから芽を出していく力が、南瓜やパプリカの種には、命の源となる力があり、そのパワーが解けだしたスープなのだとかいてあった。
野菜にも命があり、その命をまた次へと繋いでいるのだということを思い出す。優しい旨味に詰まった、野菜本来の力は、身体の免疫力アップだけじゃなく、疲れた心にも効くかも知れない。

人参の葉っぱって、綺麗。葉つき人参が手に入ると、ちょっと嬉しい。

セロリは味噌汁には合わないかなと思いつつ、入れてみました。
全然、邪魔になる感じはしませんでした。

ごく普通の玉葱、じゃが芋、若芽の味噌汁です。
試しに、いつも使っている鰹だしは使わず、味噌だけ入れました。
うん。薄味好みのわたしには、いい感じ。庭の木の芽も活躍中です。
県内産人参の葉っぱは、きんぴらにしました。

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初、親子カラオケ

二十歳の末娘が住む浦和に行き、ふたりで食事をした。
イタリアンに舌鼓を打ち、その後、カラオケに。カラオケには、ちょっと苦手意識があり(音痴である)自分から行くことはないのだが、彼女が歌いたいだけだと判っていたので、気楽に同行したのだ。
カラオケで歌うのは、何年ぶりだっただろう。娘達が好きでよく聴いていたバンド『GO!GO!7188』の歌を何曲か、一緒に歌った。
「初、親子カラオケ?」と、末娘。「お初、だねぇ」と、わたし。
そして思い出したように「母の日、おめでとう」と、彼女。
「そこは、おめでとうって言うところじゃない」と、わたし。
もちろん、末娘はジョークを飛ばしたのだと判っていたのだが。

母の日。父の日。よくよく考えると、照れ臭くてプレゼントをすることなどできなくなるような記念日である。だから、何事もなかったかのようにやり過ごしたいと考えるタイプ。それが、わたしと娘達に共通する、ちょっとひねくれたとも言える性格だ。それを判っているのでプレゼントなど求める気持ちはない。そもそも母の日ってなんだ? と考えたときに、わたし的に一番ぴたりとくるのは「子ども達が生まれてきたからこそ母親になったのだ、ということを思い出す日」という解釈だ。それ以上でもそれ以下でもない、ただそのことを静かに思い出す日でいいと思っている。文章にすると更にひねくれ度が増す気がするが。そして毎年義母にはトマトを贈り、喜んでもらっているのだが。

『GO!GO!』の歌が、頭のなかでリピートしている。
♪ 雨上がり アスファルト 新しい靴で 
 どこまでも行けそうさ どこまで行こう?
 泣きたいときだって 笑うときだって 何でもないときだって 
 自分のままでいたいだけ ♪ 『雨上がり アスファルト 新しい靴で』より

娘と『GO!GO!』を歌ったら、そんなひねくれた母娘がいたっていいじゃんと、すっきりした気分で思えたのだった。

娘が発掘したイタリアンの店は、とにかく料理が美味しい! 店でした。
粗挽きポークウィンナーは、熱い鉄を焼いた上にローズマリーをのせて、
香りを出していました。「大変お熱いので、触らないようお願いします」
「そう言われると、触りたくなるんだよなぁ」とは、娘。

ピッツァ・マルゲリータは、ナポリ風。娘が誘った店で、娘がオーダーしたピッツァなのに「パリパリしたやつの方が、好き」と、娘。美味しかったよ?

わたしは生ビール。彼女はブルー・ウォーターをオーダー。
「ブルーとか言いながら、赤いのが出てきたらどうする?」と、わたし。
「黄色かも知れないじゃん」と、娘。残念。青い瓶に入った透明な水でした。
「ある意味、黄色い。勝った!」と檸檬を見てガッツポーズをした娘です。

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小さな出来事が変えていく日々の明度

旅先で必要な洗面用具などを、よく忘れる。
その代表格が、髪を整えるムースだったのだが、最近は忘れることが少なくなった。と言うのも、普段使いでミニサイズのものを見つけたからだ。
『oilim(オイリム)』というヘアオイルミストで、80mlのものをほんの少しだけ使う。持ち運びにも軽く、オイルと名がつくのにべたつかず、香りも気に入っていて、出会いに感謝している化粧品の一つだ。
近所の薬局では見つけられなかったのでネット注文し、旅行用と、普段使いの2本を並行して使うようになり、忘れることも減ったのだ。

『オイリム』との出会いは、末娘が住む浦和に出かけたときのことだった。
忘れること自体は、そう珍しくもないので、ただ自分に呆れ、薬局でミニサイズのものを探した。そして勧められたのが『オイリム』だったのだ。
「Look at the bright side」という友人にもらった言葉は、ふと思い出すことも多いのだが、やはりそれを思い出した。直訳すると「明るい方を見なさい」かな。マイナスである失敗のなかにも「プラス」の要素がある。旅先で忘れ物をしたことが、その出会いにつながったのだから、そんな失敗も、そう悪くはないかも知れないと思えてくる。
そして、毎朝『オイリム』を使う度に、どんよりと曇った朝でも明るい気持ちになることに気づいた。『オイリム』と bright side は、いつのまにか同時に連想されるモノになっているらしい。それってもしや、とハッとした。「Look at the bright side」を思い出す度に、同時連想するものが増えていけば、さらに明るい気持ちがもたらされる瞬間は、日々のなかに増えていく。そして小さな毎日の放つ明度は、日々増していくのだ。

ブラシも、my ブラシを持ち歩くようにしているのですが、よく忘れます。
ブラシは、買い求めたりはせず、ホテルのアメニティを使い、持ち帰ります。

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バーベキュー、次の朝

「夕べは盛り上がってたねぇ」「いやしかし、よく食べてたよね」
「そのうえ、よっく飲んでた」「ビール、ワイン、さらに日本酒」
「みんな、ほとんど、しゃべったこと覚えてないんじゃないかな」
しゃべっている5人(?)は、アウトドア用の折りたたみ椅子達である。人間5人でバーベキューした翌朝、午前5時のこと。彼らはまるで、会議でもしているかの如くこじんまりと丸くなり、声を発していた。最初はぼそぼそと世間話風だったが、そのうち、会話は熱をおびていった。例えば、こんな感じ。

「イスってさ、座る人の人格に寄り添うところ、あるよねぇ?」
「そう? 寄りかかってるのは、人間の方だと思うけど?」
「ぼく、わかる。自分がイスだか人だか、わかんなんくなるとき、あるもん」
「座ってくれる人の体温が嬉しくて、気持ちも温かくなって寄り添うのかも」
「人格? 人間にイスほどの人格、あんの?」

「ときにはイスであることを、忘れてみたいと思わない?」
「そもそも折りたたみ椅子は、忘れてる時間が長いと思うけど?」
「頭にのせてくれる人がいたら、一瞬忘れるかも」
「イスであることが好きだから、ないかな」
「忘れる? それ自分から逃げてるだけじゃね?」

「じゃあさ、正面から見た自分と後姿の自分、どっちが好き?」
「座れること。イスに一番求められているのは、そこだと思うけど?」
「足元を歩くアリさんに、見上げられる瞬間が、僕は好き」
「前と後ろ。うーん、どっちも捨てがたいなぁ」
「前と後ろ? 横からとか、上からはどうすんだよ?」

十人十色ならぬ、5脚5色。
仕切り屋さん、現実直視さん、天然不思議ちゃん、前向きさん、皮肉屋さんの会話は、朝の気持ちのいい空気のなか、続いたのだった。

椅子達の会議、露が降りたウッドデッキで白熱していました。

庭では、クローバー・ティントブロンズが、花を咲かせています。

ツルニチニチソウは、庭いっぱいに咲いて。うれしいな。

アイビーは、新緑から濃い緑へと日々変化中。

雪柳は、星形の種を房いっぱいにつけています。

紫陽花の葉っぱの上には、アマガエルくん。地上から1m ほどの高さ。
どうしてそこまで登るのか、理由を聞きたいです。

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バーベキュー&『よくねたいも』

『よくねたいも』というじゃが芋をスーパーで見かけ、買ってみた。
生協のカタログにもあり、ネットレシピなども簡単に見つけられたので、話題の商品なのだろう。芽が出ないように空気を調節した保管庫で3か月寝かせることで、でんぷんが糖質に変化し、甘味が増すそうだ。

昨日は、夫の高校時代の友人が3人、東京から遊びに来た。
テーマは「薪割り体験 & バーベキュー」
我が家のバーベキューは、野菜は焼かず、いつも野菜スティックや洗ったレタスやサラダなどを用意するのだが、そこに『よくねたいも』で作ったアンチョビ味の大人のポテトサラダも加えることにした。
ご縁があり豚舎を見学させてもらった「みやじ豚」や、三重からサザエも取り寄せ、お土産にいただいたワインを空けた。舌鼓を打つも、もう何が美味しいのやら判らなくなる。炭火焼きこそ、素材の味が大切になってくる調理法。そういう意味では、とても贅沢なバーベキューだった。

『よくねたいも』も、素材の味を出していた。よく寝てすっきりと起き、他の食材に負けじとじゃが芋の旨味を前面に出しアピールしてくれた。「寝る子は、育つ」野菜にまで当てはまる日が来るとは、諺の方が驚いてるかも。
だが旨味の濃い『よくねたいも』に出会い、野菜を焼かないポリシーは揺らいだ。今度はアルミホイルに包んで焼いてみるのもいいかなと思ったのだ。新しい素材に出会うことで、かたくなにこだわっていた自分のやり方を見直すことができ、ラッキーだったのかも知れない。

縦読みにすると『よくねたいも』横読みにすると『いねよもたく』
『よくねた人参』『よくねた玉葱』なども開発中だそうです。

いつもの『バルめし』レシピのポテトサラダですが、一味違いました。

始める前から盛り上げるのが夫流。なんと駅でこれを持ってお出迎え。
保育士時代、へたうまと褒められた画力(?)を久々に発揮しました。

サザエです。海のない山梨にいて、サザエが食べられる幸せ!

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都会の藤と田舎の藤

野山に咲き乱れる藤の花を見て、なつかしく思い出した。びっきーがいた2年前の春まで、彼と散歩する道すがら、藤の花が咲いたことを教えてくれたのは足もとに散ったいく枚かの花びらだった。

それを都会に住む友人に話すと「田舎では、そうなんだね」と言われた。
都会では、藤は藤棚で咲くもので、それは花壇に咲いているチューリップの如く、人によってきちんと整備された主張を怠らない花であり、そのイメージが定着しているのだそうだ。なので、高い、視野の範囲を超えた場所で咲き、地面に落ちた花びらでその花が咲いたことを知るなど、あり得ないことらしい。

それを聞き「そうだっけ」と、すでに都会での暮らしを思い出せなくなっている自分に気づいた。山梨の田舎に越して来て15年と少しが経っている。それでも、東京で暮らした時間の方が遥かに長いというのに。
わたしはもう、すっかり田舎のねずみになったのだろうか。
見上げる高さの藤の花を愛で、嬉しいような淋しいような気持になった。

東側の林で咲いている藤の花です。高い場所にもたくさん咲いています。

こちらは、夫が一眼レフで撮った写真。
普段は遠目にしか見えないひとつひとつの花を、綺麗に捉えています。

足もとに落ちた藤の花。風情がありますよね。散った花びらは、藤色じゃなくて紫色なんですよね。藤が終わると、白い房のニセアカシアですね。あの匂い、犬的観点からは強すぎて好きにはなれないなぁ。ところでおかーさん、足もとで藤の花びらを見つけてないってことは、散歩をサボっているんでしょう。それじゃあ太る一方ですよ。全くしょうがないなぁ。ぶつぶつ。

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わたしがエプロンをしない理由

甘いモノを受けつけなくなり、数年が経つ。
ただ食べられなくなっただけではなく、その「甘いモノ」に付随して受けつけられなくなったモノがいろいろとある。それは、様々なイメージで成り立ち、自分でもはっきりとは把握できずにいる。例えば、お菓子作りをする自分。または、エプロンをする自分。このふたつのイメージは、キッチンで嗅ぐ甘い匂いを連想させる。そして、わたしとの大き過ぎる隔たりを。エプロンをかけ、お菓子を焼く女性のイメージと、自分とのギャップに耐えられなくなるのだ。
「違う。違う、違う、違う!」
間違ってエプロンをかけてしまったら、わたしは狂ったように叫びだすだろう。お菓子作りやエプロンや、はたまたエプロンをする人を、憎んでいる訳では決してない。それをする自分は、きっと自分以外の者だと知っているのだ。

思えば、幼稚園の頃、スカートを穿かない女子だった。先生に説得された。フォークダンスのときにはスカートを穿こうよ、と。きっと、可愛いよ、と。母は、赤いスカートを買ってきた。そのとき、わたしは自分ではない者に初めてなったのだった。

その頃を思えば、今は自由である。お菓子を焼くことも、エプロンをすることも、誰一人、強要しない。そんなことを思い出して、気づいた。イメージに嫌悪を抱いているのではなく、自分ではなくなる瞬間を、ただ拒んでいるだけなのかも知れないと。

ビールを飲んでいるときが、一番わたしらしいかも。
ゴールデンウィーク。夫が友人と飲みにいった日に、ひとり小さな贅沢。
外国ビールを、飲み比べしました。Corona が、好きかな。

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相容れない部分、薪割り編

ゴールデンウィークは、薪割りと庭の草取りでほぼ終わった。
薪割りと言っても、割るのは夫で、わたしは運ぶのみ。手を痛めてからは、それも両手で1本ずつしか持つことができなくなった。山から切り出して来たばかりの薪は、重い。3年ほど乾燥してから燃やすために運ぶ薪とは、まるで重さが違う。だから、1本ずつゆっくりと運ぶ。冬はまだ先なのだ。

その薪運び用の通路とも言える庭の道に、軽トラを停めている。薪割りもそこでするので、軽トラは、道沿いの駐車スペースに移動し、薪割り仲間で共同購入した油圧式の薪割り機を運び入れ、薪を散らかしながら割っていく。
その軽トラでゴミだしをした後(ゴミ捨て場までは、遠くて歩けない)まだ薪が散らかる通路に軽トラを入れようとするので、わたしは不思議に思った。どう見ても軽トラ分のスペースはなかったのだ。
「道沿いに、停めておけばいいじゃん。駐車スペースなんだから」
しかし夫は、どうしても所定の位置に停めたいようだ。
「どうして、そこにこだわるの?」わたしは、心から疑問に思って聞いた。
「だって、ちゃんとしたいじゃん」と、夫。
「それだけ?」と怪訝な顔をして、わたし。
「ちゃんと、いつもの場所に停めたいと思わない?」と、夫。
「全く、思わない。道路に停めてるんならまだしも」と、わたし。
それを聞き、今度は夫が怪訝な顔をした。

夫は、スローペースなわたしの薪運びの姿勢にも、相容れないところがあるようだ。1本1本運ぶなど、例え腕を痛めていようがあり得ないらしい。わたしとしては、ぼんやりしながらゆっくりと単純作業をするのは嫌いではないので、何をそんなに急く必要があるんだろう、と逆に思う。千本ある薪だって、1本ずつ運べば、いずれ運び終わるのだ。
薪割りに関して、相容れない部分の多いふたりだが、たがいにそれ以上は何も言わず、ただ黙々と作業をした。そして相容れない部分は置いておき、夕方には共に美味しくビールを飲んだのだ。夫は「スーパードライプレミアム」で、わたしは「のどごし生」と、そこもまあ、相容れない部分な訳なんだけど。

このままでも、何も問題ないのに。しかし、夫にはそう思えないのですね。

薪をどかし、きっちりとまっすぐ、車庫入れしていました。
右側には、わたしが1本ずつ運んで積んだ薪が写っています。

割った薪は、こんな感じ。まだまだ、いっぱいあります。

「全く人間ってややこしい生き物だなぁ。もちろん水道の蛇口を創った人は、
尊敬するけど。ああ、このひんやり感がたまらない」とは、アマガエルくん。

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『サラバ!』

西加奈子の『サラバ!』(小学館)を、読んだ。
冒頭文から、物語のなかにひき込まれた。読みながら、わくわくした。
そして、自分の読書ポリシーは間違っていなかったと叫びたくなった。テーマも、教訓もいらない。本とは、まずは面白くあるべきものなのだ。
「面白くない本は、読まなくていい」「読書は、娯楽だ」
何度も子ども達に、言って聞かせたっけ。そして彼らは、わたしよりも遥かに多くの本を読む大人になった。
もし子ども達に読書の楽しさを伝えたいのなら「国語力が伸びるよ」「ためになるよ」などとは口が裂けても言わず、ぜひ「読書は、娯楽だ」と言い続けてほしい。どうしても読んでほしい本がある場合には「この本は、子どもが読むには面白すぎるから絶対に読んではいけない」と言い置き、鍵つきの引き出しに仕舞うのもいいかも知れない。(そして、感想は聞かない。これが基本だ)
しかし、読み終えて呆然とした。『サラバ!』が描くものは、そのテーマがしっかりと、もう地球をがんじがらめにするほどに強く根をはった骨太のものなのだった。二の次だと思っていたテーマ性は、面白さに上回るほどインパクトの強いものだったのだ。

『サラバ!』の語り手は、ひとりである。圷歩(あくつあゆむ)が生まれた時から、37歳の「今」に至るまでを、歩が語る。その歩の物語の主要登場人物を、文中の言葉で紹介していこうと思う。

まずは母、奈緒子。歩を産んで退院した時の写真から。
「ピンボケしているので、はっきりと確認出来ないが、母は唇を真っ赤に塗っているようだったし、つまり彼女は、母になっても自分のスタイルを変えないタイプの人間だったのだ。短いスカートを穿きたいと思えば穿いたし、それに合うヒールの靴を、ぺたんこの靴に履きかえることもなかった」
そして姉、貴子。長らく母と対立してきたことについての彼女の言葉。
「母親って、お腹を痛めて産んだ子を愛するって言うけど、私はそうじゃないと思うわ。お腹を痛めれば痛めるほど、苦しめば苦しむほど、その痛みや苦しみを、子供で取り返そうとすんのよ。分かる? あんたはいいわよ、麻酔してなーんにも分からない間に、するっと生まれてきたんだから、何も取り戻す必要ないの。ほら、あんたって、全然期待されてないじゃない? でも私は、覚えてないから迷惑な話だけど、だいぶあの人を苦しめたわけでしょ、だからあの人は、私から何か取り戻したいのよ。あんなに苦しんだんだから、せめて可愛い子であってほしい、とか、優秀であってほしい、とか。ご希望に添えなくて、申し訳ないけどね」
そして父、憲太郎。圷家で、磐石な態勢で長きに渡り顕在していたモノ。
それは「母vs姉、そして、その間をオロオロと揺れ動く父」なのだった。

そんな家族のなかにいて、歩は空気を読む子どもに育っていく。
幼稚園時代に流行ったクレヨンを取り換える遊び(一番好きな男子には「青」を、一番好きな女子には「ピンク」を渡す)についての記述。
「僕のクレヨン箱は非常に鮮やかだった。数本の青とたくさんの水色、黄緑色、緑などの美しい色たち。僕は決して一番人気の園児ではなかったが、2番か3番につけていた。そしてもしかしたら、そのほうがアンチもいる1番の〈すなが れん〉より優れていたのではなかろうか」

『サラバ!』は、そんな周囲の空気を常に読みつつ成長した歩と、破天荒な姉、幸せになろうとし続けた母と幸せになることを拒んだ父の物語である。

表紙は、著者、西加奈子による16枚の絵を分割し組み合わせたものです。
圷家が家族4人で過ごしたイランやエジプトの風景も。それはすなわち西加奈子が生まれたイランや、幼少期を過ごしたエジプトの風景なのですが。
小学館のサイトから、その16枚の絵を見ることができます。

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カタツムリの眼

庭仕事をしていたら、薪割りしていた夫に呼ばれた。
指差された薪の上を見ると、立派なカタツムリがいる。
「割った薪のなかに、いたの?」と聞くと、夫は首を傾げている。
薪太郎が、おぎゃあと生れなくてよかったのだが。

カタツムリは、眼を出したり引っ込めたり。カメラのシャッター音にも反応するようで、すぐに大小の触覚を引っ込めるが、頭まで引っ込めることはなく、少しずつ前進している。
「よくよく見ると、眼の先に黒目があるんだね」と観察した感想を言うと、
「カタツムリをよくよく見る人は、普通いない」と、夫は呆れていた。
しかし、あんなにあっちこっちが見えて混乱しないのだろうかとわたしの思考は、すでに先を、カタツムリのようにゆっくりと歩いて行く。調べると、明暗しか判らない眼なのだそうだ。

ぼんやりと全体を見ていて、パッと黒目を凝視すると、カタツムリはまるで違う生き物のように見えた。突然、そこに表情が現れるのだ。漠然としていたカタツムリの「意思」が見えたような気がした。

こうしてカタツムリを見るときと同じく、人の顔を見るときにも、眼を中心に見ているのだなと気づき、ハッとした。眼にあるものは「意思」なのだ。

この後、隣りの林のクヌギの葉に、移動してもらいました。
夕方見に行くと、いなくなっていました。
夫曰く「鳥に食べられたのかもね」それも、自然淘汰かも知れません。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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