はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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井津建郎『インド 光のもとへ』

市内の清里フォトミュージアムに、写真展を観に行った。
井津建郎(いづけんろう)『インド 光のもとへ』
井津は、インド、ベレナスで、死者が荼毘に付されるさまを目の当たりにし、それから10年後に本格的に写真を撮り始めた。ベレナスは、ヒンドゥー教徒が死後、ガンジス河に流されることを切望する聖地だ。そこでは人の死は、悲しむべきものではない。命は永遠に続いていく。死して光のもとへ帰ることは次の生への旅立ちであり、穏やかに受け入れられる出来事だという。

井津は、頭では知りつつも知りえなかったことに写真を撮りながら気づいていったのだと、写真を観ていくうちに判ってきた。自分とは圧倒的に違う感覚で「死」をそして「生」を捉えているのだと。
ベレナスの火葬場で、家族が集まって亡くなった人を焼く火を見つめながら談笑しているのを見たときや、火葬をする最後の儀式を行えるのは男性だけで、そのために男の子の誕生を願うのだと聞いたとき、火葬場で働く人の家族がその残り炭を使い夕餉の支度をするのがしきたりだと知ったときなどに。

死を迎える人々と家族に無料で部屋を提供する施設、モクティ・バワンでの写真もあった。通称「死を待つ家」の言葉そのままに捉えていたのだが、何年かかけ写真を撮っていくうちに違和感が生まれたそうだ。死を待つのではなく「家族とともに最期を生きる家」なのだと感じられるようになったという。
モクティは「解脱」の意味を持つ。「解脱」はこれまでの行いにより繰り返されていく輪廻転生から解き放たれた理想の状態で、そのために瞑想や断食が行われるそうだ。

宗教を持たないわたしは「死」について持論と呼べるようなものはない。今、生きてる。確かなことはそれだけだ。死してその先何が待っているのか、考えようとも知ろうとも思わない。ガンジス河のほとりで、最期を迎える人々の気持ちを理解しようとしても、理解しがたいものがある。
写真展には、寡婦や孤児達のポートレートもあった。
モクティ・バワンでの写真も含め身近な人の死を経験しているであろう人がほとんどだ。みな穏やかな表情をしているのがわたしにはとても印象的だった。

清里の森のなかに建てられたミュージアムです。

入り口に展示されていた、大きなカメラ。

反対側から見ると、こんな感じ。

気持ちのいい中庭がありました。

写真展は、10月10日まで。
井津建郎は「小児病院をつくった写真家」としても知られています。
アンコール遺跡で地雷で傷ついた子ども達と出会い建設を決意したそうです。
カンボジアのアンコール小児病院開院式での井津の言葉は、
「この病院では自分の子どもにすることはすべてやってください。
自分の子どもにしないことは、絶対にやらないでください」

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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