はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
[33]  [34]  [35]  [36]  [37]  [38]  [39]  [40]  [41]  [42]  [43

自分の持つ力を侮ってはいけない

やはり、迷った。気の迷いとか、どうしようかなと迷うとかではなく、またしても道に迷った。
夫より一日早く仙台入りするので、牛タンならここ、というチェーン店『利休』を下見しておく約束になっていたのだ。『利休』は、仙台駅周辺に何店舗もあり、予約しないと並んでいて入れないことも多いという。なので駅から徒歩十分のホテル近くの『利休』にしようということになり、場所だけでも見ておこうと歩き始めたのだ。

「やっぱり」ひとりごちる。方向音痴の自分には、不可能なんじゃないかと予測できる範囲だった。さっさとあきらめて、駅に向かった。仙台出身の友人に聞いていたJRの駅ビル3階に入っているという『牛タン通り』を見て、ふらふら歩き、その後、早めの夕飯を食べようと思っていた。
新幹線はやぶさで、うきうき駅弁とビールでもと計画していたのだが、青森まで行くと知り眠ってはいけないと飲むのも食べるのも辞め、腹ペコだった。
しかし、自分ですら予想もしていなかった壁にぶち当たった。『牛タン通り』が見つからないのだ。
「えっ? だって、駅ビルにあるんでしょ? 何でないの? これちょっと、人に聞くのも恥ずかしいレベルだよねー?」
駅構内を探し回るが『牛タン通り』という道しるべはない。途方に暮れ、恥ずかしながらJRの制服を着た女性に聞いた。
「そこのエスカレーターを、降りてください」
彼女は相当忙しかったらしく、それだけ言い立ち去った。
それからも「そこのエスカレーターって、何処よ?」と、迷うことしばし。だいたい何で3階なのに降りるんだ? 右も左もどころか、上も下も判らない。とにかく下に向かうエスカレーターのみを探し回って見つけ、1階に降りると、エレベーターがあり「3階『牛タン通り』」とかかれていた。
「あったー!!」と叫びたいのを我慢し『牛タン通り』を闊歩した。そして、心のなかで言った。「残念だけど、牛タンは、明日ね。ふふふ」
そして満ち足りた気持ちで、探してもいないスペインバルで、3種類のタパス(スペイン風おつまみ)を食べ生ビールを美味しく飲んだのである。仙台は、山梨よりずっと都会だ。牛タン『利休』はなかなか見つからないかも知れないが、リーズナブルで美味しいスペインバルなら、すぐそこにある。
まさか、ここすらも判らないなんてことが、あるはずないじゃない、などと、自分の持つ力を侮ってはいけない。いや、持たない力と言うべきか。

歩き回ったせいもあり(?)ものすごーく美味しかった茄子のフリット。
と、もちろん生ビール。フリットは、バジルと粉チーズがアクセントに。
これなら、簡単に作れて、お客様にも出せそうなタパスです ♪

その後、性懲りもなく再び『利休』を捜し歩きましたが見つからず、
素敵な雰囲気の遊歩道を、見つけました。ラッキー!

暮れゆく仙台の早春。桜の並木でしたが、まだ春は遠いようです。

遊歩道を出たところに、綺麗なお地蔵さん達が並んでいました。
「今日見つからなくても、きっといつかは見つかるよ」
優しいお顔で、声をかけてくださいました。

夫の道案内で、ぶじ着いた『利休』東口分店。彼も初めてなのに・・・。

普通の牛タン焼きよりも、ちょっとだけ値が張るけどやわらかーい、
『極(きわみ)』の美味しさったら! 絶対おススメです!

夫が最後にオーダーした『テールスープうーめん』
何ともコクのある、それでいてさっぱりしたスープに、しこしこ麺。
「やっぱ、〆はこれだね!」と、夫。彼の言う通り、うん。

拍手

本のなかに広がっていく視界

初めての仙台行きに向けて、伊坂幸太郎の短編を再読した。
恋愛がテーマのアンソロジー『I LOVE YOU』(祥伝社文庫)に収められた『透明ポーラーベア』
伊坂にしては珍しく、恋愛色の濃いストーリーだ。主人公の優樹は、22歳。転勤を間近に控え、恋人の千穂との遠距離恋愛は避けられない状況に、デートと言うには、ふたり不安定な気持ちのまま動物園を歩いていた。

そのなかにも、全体に漂う伊坂色は、色濃く出ている。
彼の文章の魅力の一つに、逆視点の面白さがある。例えば。

「ねぇ、蛙が爬虫類館にいるなんて、おかしいよね」千穂は何事にも規則や秩序を求める性格で、たとえば、緑黄色野菜の仲間に、人参が含まれること自体、あれは緑でも黄色でもないよね、と苛立つくらいだったので、承知しかねるという顔で、僕の脇腹を突いた。
仕方がなくて「この蛙もきっと、こっちを見て『人間って爬虫類じゃないよね。なんでここにいるんだよ』とか言ってんじゃないの」と応えた。

ストーリーとは無関係だが、伊坂っぽい! と、彼のファンを喜ばせてくれる文章だ。それからまた、鳥瞰視点の面白さも魅力である。
宇宙人が存在するならどうして姿を現さないのかという疑問への仮説として、地球を動物園に指定していて、外から観るだけに決められている、という話をふたりでする。そして、壁を見ているホッキョクグマを見ながら優樹が言う。

「壁を見ているホッキョクグマを、見ている富樫さんたち」
「を、見ているわたしたち」千穂が嬉しそうに言う。
「を、見ている宇宙人」僕が重ねると、千穂が爆笑した。
「を、見ている優樹君のお姉さん」「な」僕は当惑した。
「何で、そこで姉貴が出てくるんだ」

動物園で偶然会った、富樫さんは、行方不明になって3年経つ優樹の姉の元彼だ。彼らに出会ったその偶然。そして、人のつながりの不思議に、読み終えて胸が温かくなる短編に仕上がっている。
反対側から、あるいは外から、わたしは見ているだろうか。自分だけの方向からしか、見えていないものが多いんじゃないだろうか。真実を(例えば、シロクマは本当に白いのかとか)、きちんと見つめているだろうか。
『透明ポーラーベア』を久しぶりに読み、雨上がりに思いもよらず、深いブルーの空が眩しく見えたかのように、視界が広がっていくのを感じた。
  
このなかでの他におススメは、本田孝好『Sidewalk Talk』
「勝手なんだな、と二十歳の僕が笑う。
知らないの? と二十歳の彼女も笑う。女の子って勝手なのよ」
あー、いいなぁ、恋愛小説 ♪

はやぶさって青森まで行くんですね。乗り過ごさなくてよかった!

夕方、石田衣良を読んでいる途中、仙台駅に着きました。

拍手

わたしのペース

片づけが、苦手だ。
在宅勤務で経理の仕事はしているが、主婦であるから、洗濯もするし、料理すれば洗い物もする。買い物もする。
洗濯物を干すのも、料理も、買い物も好きだ。楽しい。だが、そのあとの片づけが、思うようにいかず、我が家は常に散らかっている。
取り込んだままだったり、たたんだ洗濯物が、リビングに置きっぱなしになっていたり、洗い終わった食器や箸も、カウンターの上。食器棚はすぐそこなのに、食器達は歩いて行ってはくれない。
買ってきた買い物袋を、玄関や廊下に置いたままにしてしまったり、紙袋に何か入れて出かけ、帰ってきたら紙袋を仕事部屋に置きっぱなしにすることも多い。紙袋がいくつも増えていく現象に、夫はただただ呆れるばかりだ。

洗濯も然り、料理も然り、買い物も然り。ひとつの作業を終えると、ああ、終わったと安心してしまうのだ。すべてを、ひとつの作業だと思うことが出来ず、とりあえずここまでの場所で、いつでも立ち止まってしまう。
電車に乗り、降りるのを忘れることも、よくある。乗った途端ホッとして、次の駅での乗り換えなどすっかり忘れ、乗り過ごしてしまうのだ。
電車に乗るという作業と電車から降りるという作業が、ひとつに繋がらない。

そんな風に、出来ないことだらけの自分に苛立ち、がんばってみる時もある。しかし、あれが出来ればこれが出来ず、苛立ちは募るばかり。仕事だけはミスしないようにと気が張っている月末などは、他でのポカが多くなり、訳もなく悲しくなって、ぽろぽろ涙がこぼれたりする。
なので、今日はこれだけがんばろうとか、ひとつがんばったりしている。
マイペースって、あまりいいイメージの言葉じゃないけれど、悪い言葉でもないとも思う。わたしのペースで、他の人よりはのんびりめに生活していくのも、悪くないんじゃないかな。そんな風に考えて、日々一歩一歩生きている。
  
風になびく洗濯物を、見ているのが好きです。
同じ明野に住む、洋裁の好きな友人がネット販売しているワンピース。
ページはこちら。わたしは、チュニックとして着ています。

拍手

保険を、かけ捨てにしないように

どうしても、保険をかけてしまう。
「あれが足りなかったら、困るかも」「もし、あれも必要になったら」
家族との食事を精一杯楽しもうと、そんな風に買い物をするから、野菜庫や冷凍庫が満杯になり、すみっこで傷んでいる可哀想な生姜や、しなびた人参が発掘されることとなる。

この春から、上の娘が東京はわたしの実家に拠点を移し、バイトをしている。月曜火曜は、夫も東京に行くので、昼も夜も、ひとりご飯だ。
うどんで、いいか。と、サボることもしばしば。
しかし、もしかするとこれは、冷蔵庫の整理には、丁度いいのではないかと気づいた。
国産のアスパラが出ていたので、固めに茹でて、サラダにしようと思っていたのだが、週末ヴァンフォーレ甲府が初勝利。「すき焼きにしよう!」ということになり、「まあ、1勝だから豚肉だね」「優勝したら、牛ですき焼きかな」と、ふたり、ぶたすきを、お腹いっぱい食べた。そこには、アスパラを茹でる隙間はなかった。
紫キャベツと林檎と鶏のコールスローサラダも、新しいレシピを見て作ろうと、材料を買ってあった。だが、それも、週末の献立から外された。

自分だけのために、手間を惜しまず料理するほど、マメではない。綺麗でちょっと贅沢な、野菜達。ザクザク切って下ゆでも何もせず、炒めてみた。オリーブオイルに、にんにくも大きめのざく切りで、わいわい炒めた。味付けは塩胡椒。皿に盛ってから、お好みでバルサミコ酢をかけて、出来上がり。何と簡単。しかし、何とも贅沢。
「贅沢は、敵だ」との戦時中の言葉をもじって「贅沢は、素敵だ」と言ったのは誰だったっけ。
これからは、保険をかけた野菜達を、かけ捨てにしないよう、若者言葉では『ぼっち飯』と言われるひとりご飯だけど、精一杯楽しもう。気合いを入れ、フライパンでにぎやかに騒ぐ野菜達の声に、耳をすませた。

野菜って、ほんと、綺麗ですよねぇ。

シンプルな味付けで楽しむのに、春野菜は適してると思います。

拍手

ミノムシアートに思う

夕方、キツツキのコツコツという音に誘われて、庭を歩いた。
カメラを構え、キツツキを探したが、音はすれども姿は見えず、音の大きさでアカゲラだろうと思うことにして、あきらめた。あまり近づくと気配に逃げてしまうので、食料調達の邪魔をしても申し訳ないと、遠慮したのだ。

いつもは、ただ通過するだけの玄関の石段をゆっくり歩く。すると、まだ息吹の時を迎えていないツツジに、ミノムシを見つけた。数えると、なんと7匹もいる。やはり大雪を予測していたのだろうか、高いところにばかり。それでも、元々1mないツツジは、雪の中に埋もれてしまったが。カマキリの卵も例年より高く、50㎝以上ある位置に産み付けられていたが、やはり雪に埋もれていた。ぶじ生まれて来るのだろうか。

雪が解けた足元の土には、モグラか蛇か、いくつもの穴が空いている。動物達は、大雪など知らなかったかの如く、呑気に春を迎えたのだろうか。虫達も、そうであるといいなとミノムシを見つめた。

ミノムシアートは綺麗だ。整然としていて、人間の家で言うなら、まるでログハウスのよう。同じ太さの枝をびっしりと並べている。几帳面なのに四角四面ではない、何ともお洒落な家だ。ある意味、ログハウスよりお洒落だとも言える。見習いたいものだ。
几帳面さを? いやいや。四角四面ではない生き方を。
わたし以外の家族は、みな血液型Aの我が家。「お母さんは、O型だからね」で、すべてをあきらめてくれている。
ミノムシのように生きたいと思うといっても、まあ誰も驚かないだろうな。

お家を作っていく過程を、観察してみたくなりました。

「この黄色、何処から持ってきたんでしょうか?」インタビュー?

シンプル賞、おめでとうございます! 四角四面な性格でしょうか?

この穴を見ると、蛇? と疑いますが、周りにはこんな穴が・・・

やっぱり、モグラくんでしょうか? 会いたいなぁ。モグラくんならね。

拍手

春が来たよ、びっきー

毎朝、我が家の前を犬が通る。もちろん、犬だけではない。飼い主も通る。散歩コースにするのに気持ちのいい道なのだろう。
3か月前、びっきーが13歳で死んでから、犬を見る度に胸が痛むものなのかと覚悟していた。しかし、そんなふうに思う朝は一度もなかった。捨て犬だった雑種の彼と重ね合せるほど似た犬に会っていないこともあるが、他の犬とは全く違うのだと、頭ではなく胸の奥の部分で認識していたことを、今になって知ることとなった。
びっきーを思い出さないというのとは違う。玄関横の彼の小屋には、今でも声をかける。
「びっきー、ただいま」
リビングにはまだお骨があり、雪が解けたら埋めてあげようかと相談したりもしている。だがもう、胸が痛んだりはしない。静かに眠る彼の安らかな心持ちが判るのだ。

よく晴れた週末、久しぶりに土いじりをした。伸びすぎたツルムラサキを切り、落ち葉を除くと、先週取り残したふきのとうが出ているのを見つけ、クリスマスローズが蕾をつけていることに驚き、気持ちよく汗をかいた。
夫が落ち葉を集めるカサコソという音。頬にあたるやわらかな風。そして、湿った土の匂い。そのとき、不意にびっきーを思い出した。濡れた鼻をひくひく動かし、土の匂いを嗅ぐびっきーを。
頭でも胸の奥でもなく、彼と一緒に嗅いだ土の匂いを身体に感じて、びっきーがすぐそこに居るかのように思い出したのだ。
一つ思い出すと、記憶は堰を切るようにして押し寄せてきた。何かを探し土を懸命に掘る力強い前足。落ち葉を踏む音を楽しみつつ歩くピンと伸びた耳。陽だまりで眠る安心しきったような背中。
「びっきー・・・、春が来たよ」
土いじりの手を休め、暮れていく早春の空を、しばし仰いだ。

ふきのとう、3つ発見! 大人になっても楽しい宝探しです。

このところ、毎日食卓に登場するイタリアンパセリ。

大雪の下に埋もれていて、あきらめていたから、なお嬉しい。
クリスマスローズの濃いピンクの蕾です。

春の空気を思いっきり吸い込むには、こうしてみてください。

ハァハァ。ちょっと息が切れました、失礼。
うーん、撹拌された春が、身体じゅうに満ちていきます。
胸の奥でも、頭を出したばかりの小さな芽が、草の匂いを放っています。

拍手

人生の至る所に仕掛けられている葱の青い部分

暗がりで、転んだ。新鮮な葱の青い部分を、踏んだのだ。
踏んだ右足は、後ろに滑り、前のめりに転んで膝小僧をしこたま打った。
「だいじょうぶ!?」夫が、飛んできた。
暗がりとは言っても、家のなか。キッチンからリビングに向かう途中である。我が家の照明は、暗い。
「なんで、こんなとこに、葱があんの?」と、わたし。
確かに、有機栽培のはち切れんばかりに新鮮さを漂わせる葱を買った。ラタトウィーユに入れるには、最適のよくしまった葱だったからだ。ラタトウィーユには、白い部分のみ入れた。だが、青い部分は、まだキッチンに置いてあり、落とした覚えはない。

「突発的な痛みは、怒りを呼ぶんだよ」
とは、ずいぶん前に通っていた整体師の言葉だ。2階の天然木の手すりが痩せて、体重をかけた途端落ち、腰を打ってしまった時、お世話になったのだ。
「いやー、怒りより、手すり直すの手配しなくっちゃとか、お金かかるなぁとか、考えましたけどね」と、わたし。
「女性は、現実的だな」と、呆れ顔で言われたのを覚えている。
今回も、怒りはなかった。ただ、こういうトラップは、人生の至る所に仕掛けられているのだと、静かに考えつつ、足首をひねっていないか、確認した。
そしてただ、何故葱が落ちていたのか判らぬが、自分の仕業以外に考えられないことから、転んだのが夫ではなく自分でよかったと、打算的に考えるのだった。何しろ、整体師の言葉通りならば、男は、突発的な痛みに怒りを覚えるものなのだから。
「だいじょうぶ。骨は折れてないし、ビールもこぼしてない」
片手に缶ビールを持ったまま転んだわたしの言葉に、夫は、呆れ顔で食卓に戻るのだった。

春。人生の至る所に仕掛けられている葱の青い部分も、新鮮で滑りやすくなっている。一歩一歩、注意して歩くに越したことはない。自分に限って、そんなことは絶対にないと思っているそこのあなたも、どうぞ、ご注意あれ。

夏によく冷やして食べるのもいいですが、冬に熱々を頂くのもまたよし。
長葱を入れるのが、我が家風です。

近所の畑の、葱です。見るだけで滑りそうだと、つい思ってしまいます。
明野の畑にも、少しずつ春が来ているんですねぇ。

拍手

ドラマスタート直前、かけこみ読書はいかが?

「早くしないと、始まっちゃうよ」夫が、急かす。
「うん。そうだね」生返事の、わたし。
野球には明るくないし、大会社の様子もさっぱり判らない。手に取るには、分厚く、重く、難しそうだと、敬遠していた。
「それでも、絶対に読んだ方が面白いよ」と、きっぱりと夫。

来月からTBS系で始まる日曜劇場が『ルーズヴェルト・ゲーム』だと知り、彼はアドバイスしてくれているのだ。池井戸潤を何冊も読んだ彼が「これを、ドラマ化するのか?」と驚きの声を上げていたからには、さぞ訳ありなんだろうとは思ったのだが、なかなか手を出せずにいたのだ。「いつでも、どうぞ」と爽やかグリーンの背表紙を見せ、彼の本棚に収まっているにもかかわらず。

「これを、ドラマ化するのか?」と聞き、まず思い浮かんだのは、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。映像化することで、「あれ」が物語途中でバレちゃうんじゃないかとの危惧を、鮮やかに打ち破った、すごい映画だ。でも「あれ」は、やはり読んでから観ることをオススメする。ならば『ルーズヴェルト・ゲーム』も然り。なのではないかと、読み始めたのだった。・・・「あれ」が知りたい方は、本を読むことをおススメします。by 伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)

今は半分読み進め、もう頭のなかは、廃部寸前の青島製作所野球部でいっぱいになっている。コンビニに夫所望のシュークリームを買いに行き、スポーツ新聞の赤や青の大見出しを見て「あ、青島製作所野球部は?」と一瞬思ってしまったほどだ。(マジです。自分の頭の構造を疑いました)

「一番おもしろい試合は、8対7だ」
『野球を愛したルーズヴェルト大統領は、そう語った』と、帯にある。
ルーズヴェルト・ゲーム =『奇跡の大逆転』とも、かかれている。
増税前のかけこみ需要ならぬ、ドラマスタート直前のかけこみ読書、ご一緒にいかがですか?

赤ワインを飲みながら、のんびり読書の連休です。
監督、主力選手共にライバル社に引き抜かれた、かつての名門、青島製作所野球部。会社は不況にきしみ、大規模なリストラをせざるを得ない状況。廃部か存続か。それ以前に会社は生き残れるのか。
「人生を賭した男達の戦いがここに始まる」帯より

拍手

毎食ごとに、春を感じて

焼きそばには、キャベツと豚肉と相場は決まっているが、我が家ではレタスを入れる。豚肉を炒めて麺を入れると同時にたっぷりのレタスを入れるのだ。シャキシャキ感が残っている方が美味しく、ここからが腕の見せ所で、手早く仕上げなくてはならない。

このレシピは、上の娘が中学の時、彼女のボーイフレンドが遊びに来て作ってくれたもの。最近の中学生は『おうちごはん』を作りっこしたりするんだなと、驚いたのを覚えている。彼の家が焼きそばレタス派な理由は、5月には『レタス祭り』がある明野ならでは、なのだろうか。
(『レタス祭り』では、百円でレタス食べ放題! って、そんなに食べられないんだけど、青空の下で生のレタスを頬張るのも、またよしかな)
それ以来我が家でも、焼きそばは、レタスがあればレタスで作っている。

明野に越して来て、レタスに火を通して食べる美味しさを、あらためて知った。レタスの煮びたしは、今では我が家の定番となっている。越して来た頃は、10個ものレタスを一時に頂いて、ダメにしてしまったこともあったが、今では毎日でも美味しく食べられる。水分を飛ばしたレタスなら、けっこうたくさん食べられるものなのだ。

レタスの語源は、ギリシャ語で『牛乳』を意味する言葉だそうだ。新鮮なレタスを切ると切り口から白い汁が出て来るところから名付けられたとか。
スーパーで買ったレタスは香川県産だった。町内で採れた白い汁したたるレタスを生でバリバリといく、新鮮レタスの季節も、そう遠くない。こうして毎食ごとに春を感じ、意識のなかに、自然と春が色濃くなっていくんだな。

いつもレタスは1個分、ちぎって洗ってしまいます。
残りもその日のうちに、だいたい食べきってしまうので。

もちろん、紅生姜はたっぷりと。
息子が3歳の頃「ドバッと出ないように」と何度も唱えつつ、
青海苔をかけていたのを、焼きそばを食べるたびに思い出します。

夕飯には、残りのレタスに、人参とオレンジのサラダをのせて。
オリーブオイルと白ワインビネガーと、クミンシードを効かせて。

拍手

春を感じつつ、まだ気配残る冬を楽しむ

義母の誕生日に、苺を送った。博多のあまおうだ。
「こんな立派ないちごがあるのですね。まるで芸術品です」
春生まれの義母は、とても喜んでくれた。ネットで送ったわたしは、芸術品が観られず、惜しい気もするが、すぐにひとつ摘まんでみたという、義母からのメールに、嬉しく春を感じた。

先日は、朝食の味噌汁をひと口すすり、夫が言った。
「おっ、これ、菜の花?」嬉しそうである。
「うん。県内産のが出てたから、買ってみた」
庭のふきのとうも、天麩羅にして楽しんだ。
野菜や果物に、春を感じる季節なのだ。

ところが、思わぬところでも春を感じることとなった。
「まだ寒いし、今夜は、おでんにしようかな」
おでんの食材コーナーに行くと、コーナーは様変わり。今年よくおでんに入れていた、蛸や舞茸のつみれもなくなり、生姜味の魚河岸揚げもない。牛筋の串もない。動揺したせいで、はんぺんも買い忘れた。(関係ないが)
季節を先取りも大切だけど、まだまだ、おでんは食べたいのに。
「待ってくれー!」と、冬という袋に、ぴょんぴょん飛び込んでいくおでんの食材達を追いかけたい気分になる。春を感じつつ、まだそこ此処に気配残る冬だって、もうちょっと楽しみたいのだ。そう思うのは、我がままなのだろうか。まあ、どんな季節も惜しまれつつ過ぎていくってことかな。

スーパーで買った『さがほのか』甘すぎないところがわたし好み。
確かに苺は芸術品と言ってもいいくらい、綺麗ですね。

ふたりで食べるには丁度いい量の収穫。来週も出てくるといいな。
  
花を綺麗に揃えて束ねて売っている菜の花も綺麗だけど、
ほうれん草や小松菜のような袋入りも、ワイルドな感じで好きです。
出て来たばかりの春の味は、濃く瑞々しいのが嬉しい。

でっかい新じゃが入りの、春おでん?

拍手

時間は人を変えていく

どのストーリーも時同じくして読んだのに、ひとつの物語だけが印象に残っている短編集がある。
宮部みゆき『人質カノン』(文春文庫)だ。
帯の奇抜さとセンスに魅かれて買った文庫は、リビングに置いておくと、娘たち二人もそのインパクトにやられたのか、それぞれ部屋に持ち込み読んでいた。6、7年前になるだろうか。

表題作でもない二つ目に収められた『十年計画』は、読んだ時に「似てるけど、正反対」と思った短編小説があり、それがものすごく好きな小説だったこともあり、忘れられないストーリーになっている。
「似てるけど、正反対」なのは、山本文緒『絶対泣かない』(角川文庫)に収められた『今年はじめての半袖』手ひどい失恋をして、職までも失った20代の女性。傷つき、男を恨み、人生が変わった。それは、ふたつの短編の共通項。その二人の女性が取った行動、必死に働くというのもまた、共通項。違っていたのは『半袖』の女性は、両親が死ぬまでは死ねないが、その後、自殺しようと考えた。『十年計画』の女性は、タイトル通り十年後に、男を殺そうという計画を立てた。

「あたしはね、お嬢さん。人をひとり殺してやろうと思って、それで運転免許を取ろうと決めたんです」
ちょっとの間、わたしは黙った。顔には笑顔が張りついたままだったと思う。

『十年計画』の女性はタクシードライバーで、客であるわたしに、昔語りをする。もちろん殺人計画は、遂行されなかった。こうして昔語りをしている時点で、明確である。ハートウォーミングストーリーと銘打つ映画のような華やかさはないが、こういう短編に出会うと、ああ、本が好きになってよかったと、小さく微笑んでしまう。心がほぐれ、解放されていく。

時間は、人を変えていく。2つの短編は、語っている。

最近読み始めた、小川洋子『人質の朗読会』と一緒に。

腕時計をつけるのは、苦手です。だから時間が止まっているのかなぁ。

拍手

好きな道を行こう

好きな道は、人それぞれ違う。哲学的な話ではない。道路のことだ。
我が家から、韮崎駅まで行くのに使う道は、いく通りもあり、最短の時間で行くための信号が少ない道もあれば、道路の幅がわりと広く走りやすい道もある。少し遠まわりをすれば、車の通りが少ない道を気持ちよく走れるし、途中パン屋に寄ったり、帰りにガソリンスタンドに寄る時には、何も考えずその前を通る道をゆく。

わたしは、ゆっくり幅の広い道を、遠まわりするわけでもなく、ごく普通に走るのが好きだ。だが夫は違う。最短で行ける道を、常に探している。
「こっちの方が、速い」「あっちの方が、速かった」
などと、運転中よく口にする。

この間、ヴァンフォーレの試合を観に行った時にも、駐車場から、スタジアムのどちら側を歩く方が近いか、考えつつ歩いていた。
「やっぱり、行きに歩いた道の方が、近いかな」
帰りに分岐点である横断歩道を歩きつつ、つぶやく。
「でも、向こうの道は、誘導がうるさいからな」
「そうだね」わたしも同意する。
中銀スタジアムの無料駐車場に近い道を歩くと、警備員が、横断歩道がある道に誘導するため、違う場所に車を停めているわたし達は、いつも、叱られるように「こっちの道を行ってください」と言われ「いや、向こうに停めてあるから」と言い訳し、歩かなくてはならない。時間ぎりぎりに行くと、無料駐車場は満車で停められないのだ。
「ちょっとくらい、遠くても気持ちよく歩きたいよね」
距離も大切だが、気持ちよく歩けることも大切だ。
ゲームであれば、わざわざ怪獣が待ち伏せしている道を通り抜けるスリルも楽しいかもしれないが、現実世界で聞かされる小さな文句は、楽しいものではない。道を選ぶときの重要な要素にだって、なり得るのだ。

ところで夫は、最短距離を探して走ることも好きだが、新しい道を探して走るのも大好きだ。
「いつも同じ道を走るのも、面白くないじゃん」
常に行きとは違う道を、帰りには走りたがる。彼は運転中やただ歩く時でさえ、いや、多分何をするにつけ、いつもいつでも面白さを求めているのだ。

いつも、通る道。

急ぐ時に、通る道。

のんびり気分で、通る道。

拍手

飛べるとこまで

同じ明野町内にある『草至庵』に、初めて蕎麦を食べに行った。
同じ町にあるにもかかわらず、テレビを観ていて偶然知った。夫は前から耳にはしていたようで、一度行ってみたいねという話になったが、すぐに行けると思うからか足を運ぶことなく1年程が過ぎ、ようやく実現する運びとなった。

庭には、山羊が6頭ほどいて、鳥小屋では、烏骨鶏が20羽ほど「コッココココォ」と鳴いている。その烏骨鶏の卵の出汁巻きが、看板料理なのだそうだ。
店は、200年前の古民家を再生したという建物。その広さと梁の黒に、思わず天井を見上げる。
蕎麦は、美味かった。しっかりと、こしがあるのに硬くない。蕎麦と、畑で作ったという野菜のかき揚げ、出汁巻き卵を食べ、異世界の雰囲気に、夫とふたりしゃべることもせず、日常から解き放たれたかのようにぼんやりした。

遠い昔を思い出した。小学生の頃、縁日で何も考えずに買ったヒヨコが育ち、赤いトサカが綺麗な、大きなオスのニワトリになった。借家だったが一軒家で、家の前の広場を庭のように使っていて、父がそこにニワトリ小屋を作った。わたしは『トット』というベタな名前をつけ、可愛がっていた。
鳴き声がうるさいと時々大家のおばさんに言われたが、トットは気にせず、毎朝元気いっぱい「コケコッコー!」と鳴くのだった。
ある日、そのトットがいなくなった。日曜、家族で買い物に出かけ、夕方帰ってくると小屋のなかは空っぽ。網をクチバシで突き、鍵を開けて脱走したらしい。両親と弟と妹とみんなして探した。
「トット―!」と名を呼びつつ、薄暗い夕闇のなかを探し回った記憶は古い映画のワンシーンのように、わたしのなかに残っている。そして。
「あ、トットがいた!」見つけたのは、弟だっただろうか。
上を見ると、トットがいた。家族みんなで、トットを見上げた。トットは鳴きもせず、得意そうにすまし、物干し竿にとまっていた。
「トット、飛べるんだ!?」「鳥なんだもんね」「すごい!」
口々にトットを褒め、笑った。ニワトリは、空を羽ばたくことはできずとも、人間の頭よりも高いところまで飛ぶことはできるのだ。
「トット。飛べるとこまで、飛んでみたかったのかな?」
わたしは、忍者のように屋根から屋根へと飛び移るトットの姿を思い浮かべた。もしかしたら、そんな風に散歩して、帰ってきたのかも知れないと。

「コココォ」と鳴く烏骨鶏の出汁巻き卵を味わいつつ、得意そうに物干し竿にとまっていたトットを思い出した。思い出し、ひとりこっそりと笑った。

子山羊2頭は、大雪だったバレンタインの夜に生まれたそうです。

黒く高い梁に圧倒されます。吾亦紅のドライフラワーが飾ってありました。

立派な囲炉裏も、ありました。昔話に出てきそう。

烏骨鶏の出汁巻き卵は、薄味で熱々。美味でした。

かき揚げは、春菊のほか、じゃが芋とムカゴ入り。

器は、古いものが好きで、昔から集めていたものを使っているそうです。



拍手

『あかずの間』で育っている、何か

寝坊して朝食も取らず、慌ててパンツスーツを着込み出かけて行った。全く忙しいことである。昨日、大学の卒業式を迎えた、上の娘のことだ。
今、彼女は生活の拠点を東京はわたしの実家に移し、毎日バイトに励んでいる。お金を貯めてヨーロッパを旅して、その後カナダに渡る予定だそうだ。

留守中、娘の部屋は閉めっ放しになっていて、空気を通そうかと思う度に、なんとなく止めていた。
「決してなかは、覗かないでください」
などと言われた訳でもないが『あかずの間』的雰囲気が、入口に漂い、
「なかで、何か育っているかも」と、つい要らぬ想像をしてしまった。
何かって、いったいなんだよ? と聞かれても、判らない。そして判らないものほど、恐いものはない。娘の部屋で、どんどん膨らみ、大きくなる、何か。

しかし卒業式のために、彼女が帰って来て開け放たれた部屋には、何者も育ってはいなかった。
ただ、数えきれないリラックマ達が、変わらず微笑みをたたえているのみである。成長し、膨らみ、大きくなっていたのは、わたしの想像だけだった。

娘は明日から、また東京に行くという。
そんな風にして何か月か後には「明日、ヨーロッパに行くから」と、バタバタと朝食も取らず、旅立っていくんだろうな。

「リラックマはもう、卒業しようかな」と、娘。
  
なのに何故か、始めたブログのURLに、リラックマの名が(笑)
→ 『23歳、旅人いぶきのブログ』

拍手

探究する喜びに、目覚めて

気にかかる、という言葉を最初に使った人はすごいよなぁと感心する。
何かこう、背中の辺りの見えないところに引っ掛かっているような感じと言えばいいのだろうか。そんな風な引っ掛かりがあることは、知っていた。底面化で蔓延している空気には、背中の辺りでは気づいていたのだ。それでもキッチンを切り盛りするようになって30年近く経つと、自分の背中の辺りのことなど、忘れた振りをするのにも慣れてくるものだ。
気にかかっていたのは、献立のマンネリ化だ。
「探求してないなぁ」そう、認識させてくれたのはDVDで観た映画だった。

『天地明察』
本屋に平積みになっていた本は、手に取ってはいないが、昨夏観たという友人に薦められた時から、いつか観たいと思っていた。
今年は大河ドラマ主演で注目株の岡田准一が、新しい暦創りに挑む安井算哲(やすいさんてつ)を演じている。
芯になるストーリーは、八百年もの間使われてきた中国渡来の暦に、狂いが生じていると発覚していた江戸時代前期。それを知りつつも朝廷は、幕府からの申し入れにも耳を貸さず、古くからの暦を使い続けようとした。新しく正しい暦に変えていくことは、朝廷支配の世を変えることだと恐れを抱く者もあり、容易ではなかったのだ。

映画は、よかった。何がよかったかと言えば、岡田准一の嬉しそうな顔が、何にも増してよかった。算術を解く時に夢中になりこぼれる笑顔。星を見上げる時の澄んだ瞳。新しい発見に躍り上がる心。
人間の持つ『探究心』を、そして『探究する喜び』を描いた映画だと、彼の顔には、はっきりとかいてあった。

「探求、かぁ」
上映後、明るくなった映画館で一人、とり残されたようにぼんやりと、リビングのテレビの前で考えた。そして、新たな誓いを立てるのだった。
「新しい料理に、挑むぞー!」
そこかい!? と『天地明察』を観たすべての人にツッコミ入れられそうだけど、映画も本も、詩も音楽も、観た人読んだ人聴いた人それぞれが、その時々の気持ちに沿って、限りなく自由に感じるべきものだとわたしは思うのだ。

セロリの千切りサラダも、我が家では定番です。
でも昨夜は、最初ににんにく醤油で焼く鶏ささみのにんにくを倍の量に。
コクが出ました! でも、ちょっと味が濃かった。次につなげよう!

海老のアヒージョも、何度も作っています。
でも昨夜はレシピを見て、レモンを絞ってみました。さっぱり風味!
  
料理本の新しいレシピも楽しいけど、食材についてくるものも面白い。
右は、茗荷についてきたレシピです。美味しそう!

拍手

そろそろ、友人と呼べる仲に

「よく、降るなぁ」
まだ雪が残る庭に出て、イタリアンパセリを摘んだ。雨は、いったい何を自棄になっているのかと問いたくなるほどに、派手に降っている。
「けど、冷たくないんだよなぁ」
パセリを摘む指先が濡れるも、凍ることはない。つい先週までは、カメラのシャッターを切る手に、よく雪女が息を吹きかけて来たのに。
頭を出したふきのとうや水仙が、春の雨を喜んでいるのが伝わってくる。傘にあたる雨音も、心なしか楽しそうに聞こえてくる。

イタリアンパセリは、何年か前に植えたものだ。種を落としては芽を出し、冬の間もひっそりと落ち葉の下で生息していた。種が飛び、隣りの林にも広がっている。育てるでもなく手などかけずとも、強く強く生きているが、枯れずに冬を越したのは初めて。根もしっかりと張って来たのだろう。昨夏は、パセリ好きなキアゲハの幼虫も見かけた。
しかし、土地にはすっかり馴染んだのだろうが、たまにちぎって料理に使うだけのわたしとは、友人というよりは、特別親しくもない知り合い程度の仲である。だいたいわたしは、植物を枯らすのが特技と言ってもいいほど。触るだけで植物が元気になるという『緑の指』には程遠く、言うなれば『茶色い指』を持つ。触っただけで枯らしてしまうんじゃないかとの危惧もあり、一定の距離を置いているのだ。

だがイタリアンパセリも強く育っていることだし、今年は少し手をかけて、友人と呼べる仲になれるよう努力しようかな。
そうして、山盛りイタリアンパセリオンリーサラダに挑戦しよう。オリーブオイルと酢、下ろしニンニク、塩胡椒の手作りドレッシングで。
「や、やめてください。今のままが、いいんです」
イタリアンパセリの微かな叫びが、雨音に混じって聞こえた。ような気がした。ふふふ。まあ、そう言わず、仲良くやろうぜ!

雨が降るのを、温かい部屋のなかから眺める幸せ。
わずかに雪が残る隣の林は、霧に煙っていました。

イタリアンパセリは濃い緑をして、摘んでと言っているようでした。

茹で卵に、マヨネーズの他、エシャレットとマスタードもたっぷり入れて。
ワインのつまみに持って来いの、簡単一品に映える緑。

拍手

校長先生のお話

先月、思わぬ大雪の際、小中学校の先生方が、学校周辺を雪かきしていた。
「先生方も、たいへんだ」頭が下がる思いで、ゆっくり車を走らせた。
「あ、校長先生まで。多分、役員さん達も駆り出されてるんだろうなぁ」
大人になると、先生の大変さも判る。そして子どもの頃の自分は、じつに呑気で自分中心に生きていたのだなぁとも判る。

その呑気で自分中心な子どもに言わせれば、校長先生のお話というものは、長く退屈で眠いものだとの前提の上に成り立っているものだった。
最近のことは知らないが、26歳の息子が小学生だった頃も同様に感じたらしく、真面目な顔で『校長先生のお話を乗り切る方法』を教えてくれたっけ。

「まず、頭のなかに50音のあいうえお表を、思い浮かべる」
小学生の息子の話を熱心に聞きつつ、母は、あいうえお表を思い浮かべた。
「今日のテーマを決める。例えば、食べ物」「うん、食べ物ね」
「『あ』から順番に、頭にその字がつく食べ物を、思い浮かべる」
なるほど、なるほど、とやってみる。
あ、アンパン。い、石焼き芋。調子よく進む。
「50音が終わるまでには、校長先生の話も大抵終わってるんだ」
「ほーう。素晴らしい!」
「でも、では次に、ご来賓の皆様から、とかいう時には二巡目に入るけど」
子どもって、どんな状況でも遊びに変えちゃうんだなと感心した。

しかしその遊びも、大人がやると、ままならない。
う、うに丼。うに丼と言えば、今じゃあまちゃんだけど、昔、釧路の和商市場でたらふく食べたなぁ。え、エビフライ。揚げたてのエビフライって、ジューシーで美味しいよなぁ。タルタルソースがまた、美味しいんだよなぁ。でも作るのけっこう手間なのよ。などと、横道にそれる。横道にそれて、あれ、次はなんだっけ? タルタルソースだから、た、ち、チーズ。などと思ってしまい、まだ、あ行終わってないじゃん、と自分でツッコミを入れる。エビフライ、い、石焼き芋? ありゃりゃ、しりとりじゃないって。

息子の頭のなかにある、きちんと整列したあいうえお表は、わたしのなかでは、ぐにゃりと曲がったり、サボっている文字があちこちに穴をあけたり、こっそりとりかえっこしたりしているようだ。校庭で整然と整列した子ども達と、あっちこっちふらふらしている子ども達の対比の図に可笑しくなる。

ところで、最近では校長先生のお話は、どうなんだろうか。
「待ってました!」という掛け声と共に、口笛が鳴り響き、紙テープが紙ふぶき入りで飛ぶほど、面白くなっていると、いいんだけどなぁ。

まだ雪が残る、明野中学校の校庭。周囲に植えられた木は桜です。
町には、小学校も中学校もひとつずつ。40人ほどの学年は9年間一緒です。
上の娘は、不器用で校則が守れず、よく先生とぶつかっていたなぁ。
今となれば笑い話ですが、その時は親も子も真剣でした。

桜の蕾は、まだ硬く閉じています。
入学式の頃には、毎年咲くけど、今年はどうかなぁ。

拍手

恋は切なく

「オススメしないよ」末娘に、言われた。
何年か前に文庫化を機に、ふたりで読んだ中村航『100回泣くこと』(小学館文庫)が、昨年映画化され、それを観た彼女の感想だ。
「全く別物と、思った方がいいね。本を薦めた友人にも、評判よくなかった」
夢中になって読んだこともあり、落胆したのだろう。
「あの、歯磨きのシーンは?」「そんなの、あったっけ?」
「いちばん好きなシーンなんだよぉ」
「ブックとの出会いのエピソードがカットされてたのには、唖然としたけど」
それぞれに感じる印象深いシーンは違うし、映画を観てどう思うかも違うのだと思いつつ、反論もする。
「そんなにこき下ろされたら、観られないじゃん」
腹いせに村上春樹『ノルウェイの森』は、観ない方がいいよと嫌がらせした。

その中村航の新刊『デビクロくんの恋と魔法』(小学館)を、読んだ。
帯の「圧倒的な多幸感に包まれる」に魅かれたのだ。ハッピーエンドの恋愛小説が読みたい気分だったのもあり、末娘が冷静に「出版と同時に映画化が決まってるし、映像向けな雰囲気感じた」との感想を漏らしたのもあり。

読みながら、そして読み終えて「恋するって切ないよなぁ」と、胸がきゅーんと切なくなった。切なくなりつつ、時には声を出して笑った。恋する切なさに包まれるものの滑稽さは、年齢問わず永遠である。そんな抜粋したい文章が、数々あれど、どれも抜粋したら判らないだろうと思われるのが、中村航だ。

千葉県流山市では、恋愛中の証にと『恋届』をまるで『婚姻届』の如く役所に提出する企画が始まったとテレビのニュースで観た。
「結婚しててもわたし夫に恋してますって『恋届』出していいのかな? で終焉を迎えたら、夫との恋終わりましたって出したりとか」
夫相手にジョークを飛ばし、失笑を買う。なんでも、若者の結婚離れや、少子化への問題提起もあり、始めた企画だとか。
「恋ってさぁ、もっとさぁ」何か違うよなぁと、ひとりごちるのだった。

ショッキングピンクが効いていますね。帯が素敵だと嬉しくなります。
  
主人公の書店員、光は、いつか自分の絵本を創りたいと思っています。
時々デビクロくんに変身し『デビクロ通信』を様々な場所に配る変な奴、
でもあります。『デビクロ通信』ポストに入ってたらいいのになぁ。

拍手

今、わたし達にもできること

三日前から、口内炎が出来ている。食べる度に痛く、歯を磨くのも痛い。たったそれだけのことなのに、気持ちは沈む。
自分で挽いてドリップしたタンザニアの浅煎り珈琲は、つかの間、痛みを和らげてくれたが、仕事で電卓を叩き、銀行や郵便局を回り、帰ってくると午後には、何も口にせずとも痛むようになっていた。

口のなかにぽちっと出来た小さな傷の痛みは、他愛もないことに日々くよくよしている自分を象徴しているかのようで、情けない気持ちになる。しかし、小さな口内炎でさえ憂鬱になる弱さも、多分、人はみな抱えているのだ。
今日は、3月11日。東日本大震災で大きな傷を受けた人ひとりひとりのことを考えてみる。3年という時間は、どんな風に過ぎていったのだろう。大きな傷に、小さな傷はかき消されていくものなのだろうか。それとも。

友人とんぼちゃんのホームページに『今、わたしにもできること』というコーナーがある。彼女は毎日募金という彼女ならではの企画で、毎日小銭を瓶に貯め貯まったら寄付している。『毎日』なのは、震災を忘れないためだそうだ。

だが、何をやっても三日坊主のわたしには、毎日募金は、ムリそうだ。
募金は別に考えるにしても『今、わたし達にもできること』は何だろうかと、夫と話した。彼は、仕事で仙台に行ったことはあるが、わたしは、東北地方には行ったことがない。去年も仙台に行こうと計画したが、一緒に行く約束をしていた『伊坂幸太郎ファンクラブ』(在籍2名)の仲間の都合がつかず、実現しなかった。(伊坂の小説は、ほとんどが仙台を舞台にかかれている)
「じゃあ、今月行こうか」と、夫。「仙台で、アウェイ戦がある」
「そうだね。まずは、行って見なくちゃね。行かないうちに3年経っちゃったし。牛タン食べて東北応援して、ヴァンフォーレも応援して来よう!」

上の娘は、先月ボランティアで、陸前高田市などいくつかの場所を訪ね、
「被災地だからじゃなく、いいところだと思ったらまた来て欲しい」
そう声をかけられたことが印象深かったと、話してくれた。
おなじく先月、友人達にも、仙台を訪ね『語り部タクシー』で雪のなか、被災地を見て歩いたと聞いた。

東北を訪ねても、大きな力になれる訳でも、誰かの痛みを理解できる訳でもないことは、知っている。それでも今、行ってみようと思う。

冬に飲む珈琲は、いいですね。心の底から温まります。
あー、もう3月だから、早春って言うのかな? 春遠からじであって欲しい。
  
一人の夕飯は、仙台麩の白菜スープ。湯通しする前はフランスパンの様相?

生姜と鶏がらスープの薄い味付けだったからか、すき焼きなどに入れるより、
はっきりと自己主張していました。「こんがり揚げてあるんだぜ!」
優しい味の柔らかく煮たスープは、口内炎にも沁みませんでした。

拍手

十月を目指して

リビングに置きっぱなしにしていた『Vaho』のトートバッグを、倒してしまった。倒して初めて、底の部分を見た。『Vaho』のバッグや小物は、すべてビニール製ポスターをリサイクルしたもので、様々なポスターを組み合わせて作られている。だから、どんな模様でもどんな色でも可笑しくはない。買った時には見たのかも知れない底の部分も、何か月か経つうちにすっかり忘れている。いや、よくよく見て選んだと思ってはいたが、見ていなかったのかも知れない。何しろ普段は、見えない部分なのだから。

「何にでも、見える部分と、見えない部分があるんだよなぁ」
つぶやいてみて、金子みすずの詩『星とたんぽぽ』を思い出した。

 青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ、
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、
 春がくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ、
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

トートバッグの底には、藍色がかったブルーの生地に白い文字で『OCTUBRE →』とかかれていた。調べるとスペイン語で『十月』だ。この矢印は『十月に向かえ』ということか。もちろん、意味などないのだと判ってもいる。だが何があるのかと期待しつつ、十月を楽しみに暮らしていくのもまた、いいかも知れない。何か月後かの未来だって、はっきりとは見えると言えない世の中だけれども、未来はあると信じたい。
いや『十月に向かえ』じゃなく『十月を目指して』だったら?
うーん、いったい十月までに、何かが出来るのだろうか。そう思うと、途方に暮れる。ただ途方に暮れ、空を見上げる。見えない星を見いだすように、ピカピカに磨かれた冬の青空に、微かに見える未来を見上げるのみである。

うっかり倒すまで、気にも留めませんでした。
  
リラックマの背中に、ファスナーがついていることは知っていました。
でも、上の娘がびっきーのお骨の前にお供えした、星つきリラックマの
肩とお尻にハートがついていたなんて、知らなかった。
  
この小鉢を裏返すと『美山』と窯元の名が入っているのは知っていました。
でも、選んだ時に気に入った、雪えくぼのようなへこみがあることは、
すっかり忘れていました。見えなくなってしまうものなんですねぇ。

拍手

焼きが回った?

「焼きが回ったな」と、実感した。
スーパーのポイントを、懸命に貯めている。250ポイントでポイント券が1枚発行され、3枚で千円分の買い物ができるのだ。そのために、いつも郵送されてきたポイント5倍券を切り取って財布に入れている。ところが一昨日は、その手順をひとつサボり、切り取った5倍券をポケットに入れ買い物した。
「今日はポイント5倍だから、いっぱい買い物しようっと」
ビールやらストック用の調味料なども、いつもの買い物に加えカゴに入れた。
「ポイント5倍 ♪ ポイント5倍 ♪」
ルンルン気分で、食材が山と積まれた買い物かごをカートで押しつつレジに並ぶ。レジも空いていてラッキーだよなぁと、嬉しくなる。
そして、買い物が終わり、気づいた。
「あーっ! ポイント5倍券、出すの忘れたぁ」後の祭りである。

そしてまた、昨日も実感した。
「ラーメンでも食べに行くか?」と、夫「いいねぇ」と、わたし。
「あ、でも3時までに帰らなくっちゃ、テレビでヴァンフォーレのアウェイ試合観るから。あーっ! 何言ってんだよ、ラーメン食べちゃダメじゃん」
「ほんとだ!」
ふたりしてすっかり忘れていたことに、もう爆笑するしかない。
先週、わたし達がラーメンを食べてから試合を観に行ったばかりに、ヴァンフォーレは開幕戦に完敗。週末はラーメンを断ち、新しいジンクスで応援するぞと、ふたり誓い合ったばかりだったのに。

そしてまた、その1時間後。
「昼ご飯、出来たよ」夫を呼ぶと、彼は遠慮がちに言った。
「あのさ、チャーハンじゃなかったの?」
「あっ! ごめん」と、そこでわたしは、ようやく気づいた。
さっきのラーメンの話の後に、彼が「じゃあ、家でチャーハンにしようか」と言ったことに。味噌汁も大根の煮物もあるし、目刺しもあるから焼こうっとと、すっかり忘れてテーブルに並べた目刺し定食に目を落とす。
「ほんと、ごめん」と、しおれるわたしを、彼は責めなかった。
だが「美味しいね」と、顔をひきつらせ口にした言葉の裏にある「チャーハンが食べたかったのに」という思いは、はっきりと伝わってくるのだった。

『焼きが回る』とは、刃物を作る際に使われていた言葉だそうだ。切れ味のいい刃物を作るには、焼き過ぎないのがポイントだとか。焼き過ぎて『焼きが回る』と、刃はぼろぼろ。切れ味も何もあったものではない。
『焼きが回った』包丁は、砥いでも切れるようにはならない訳だが「切れない包丁で、手を切った方が痛い」と、料理好きな父が昔、砥石で包丁を研いでいたのを思い出した。
切れ味鈍くなった自分を静かに受け入れて、誰であろうと、切れない包丁で傷つけることのないように、生きていきたいものだよなぁ。
今日は、チャーハン作ろ。よく『焼きが回った』胡麻油が香ばしい美味しいやつ。今日は今日とて、ふたたびみたび、忘れちゃいそうだけど。

一番切れる包丁で、スパッと。切れ味いいと、気持ちいいなぁ。

おやつには、夫、ご所望のキウイを食べました。
ヴァンフォーレは、FC東京と、1-1で引き分けました。
ラーメン食べに行かなくて、よかった! のかな?

夕食の出汁巻き卵も、同じ包丁で切りました。
ささくれ立っているのは、熱々の上に、帆立の缶詰入りだからです。

拍手

ディズニーシー大人散歩

自分に限って、一生足を踏み入れることはないだろうと思っていた。だが『誰々に限ってない』という言葉が、ことごとく裏切られるためにあるようなものだということも、また知っていた。
「のんびりペースで、楽しもうよ!」と、友人達2人に誘われた。
「何という偶然! その日、家族で行くんだよー」
と、もう一人の友人。彼女は、いつもいつでも手配が早く、すぐに、
「ランチ予約したから、一緒に生ビール飲もうね!」
至れり尽くせりの誘惑メールが、届く。
「嘘! 何がどうして、そんなことに?」
小学生の頃には、両親は何故か遊園地が苦手で、我が家では連れて行っては貰えないのだと悟っていた上の娘も、面白がってマリーちゃんのヘアバンドとパスケースを貸してくれた。
『自分に限って』と信じていたことなど、いとも簡単に手のひらを返すことが出来るのだと、この歳になって再確認した。この歳とは45歳以上ならではの、お得な大人旅パスが使える年齢のことである。

かくして、生まれて初めて『ディズニーシー』へと足を踏み入れたのだった。
遥か昔、末娘と『ディズニーランド』に行った時とは違い、ネットで前日に購入しプリントして持参したパスで入園。並んで入るものとばかり思っていたゲートは今や、狭く閉ざされていた時代を乗り越え、大きく開いていた。
地図が読める女である友人に連れられるまま、3人ただ、のんびりと歩く。歩いている間も並んでいる間も、お喋りに花が咲き『ディズニーシー』に来ていることさえも忘れそうになるほど、気持ちは解き放たれていった。
その後、ランチを予約してくれた友人家族と合流し、生ビールで乾杯し、また喋る。お母様やお嬢さんとも打ち解けて、喋る、喋る。友人のお孫くん達が可愛らしく、それだけで思いもよらぬほど嬉しくなり、笑う、笑う。
いいのだ、と思った。何処でも、いいのだと。気の置けない友人達と、他愛のない話をして笑い、過ごす楽しさは、何処でも同じなのだ。春の晴れた青空の下で、生ビールつきとなれば、尚更ことさらだ。

わたし達は『で、ず、にーランド』と発音するほど、歳はとっていない。だが、娘が貸してくれたヘアバンドをするほどに、若くもない。しかし。
「でさ、あの白い猫、なんて名前だっけ?」「知らないけど、顔は判る」
と『マリーちゃん』の名を思い出そうともせず、笑い合えるほどには、いい歳のとり方をしているなぁと、青空の下を歩きつつ、気持ちよく思った。
もう一人の友人が「寒い」と言い、ミッキー耳、グレー単色の毛糸の帽子を買った。それはとても似合っていて、わたし達のシンボルのようだった。

山を見慣れているだけに、余計に異世界の雰囲気漂います。
     
こういった風景に囲まれて歩くだけで、楽しいものなんですねぇ。
    
とりあえず『海底二万マイル』に、乗ってみました。
「昔、読んだなぁ」「ダイオウイカが出てくるんだっけ?」
「忘れた」「これって海水かな?」「潮の匂いは、しないねぇ」

ブッフェでのんびりと飲む生ビールは、格別でした。

帰りがてら「この長蛇の列は何?」と思ったら、
シーのシンボルモニュメントの前で写真を撮る人々の列でした。

拍手

藤沢周平に、作戦を練る

「おっ、生きてた」
息子からのバースディメールに、ついこぼした言葉である。
もう3年ほど帰ってこないが、母親の誕生日は覚えていたらしい。ちょっとひらめいて、メールを返した。
「ありがとう。最近読んだ本で、オススメある?」
相変わらず、本の虫なのだろうとは思ったが、人間変わっていくものだし、まだ26歳だ。しかし返信はすぐに来た。
『用心棒日月抄』
絵文字も、そっけもないメールだったが、調べてみる。『用心棒日月抄』(新潮文庫)は、藤沢周平の時代物連作短編集だった。

時代物は守備範囲ではないが、とりあえず文庫で買って読み始めた。
時代小説に慣れていないせいで慣れるまで四苦八苦したが、今では本を閉じるのが惜しいくらいに面白く読んでいる。

不意に考える。娘達とは、同じ本を読み、時には同じ音楽を聴き、同じ映画を観て、ああだこうだとくだらないことばかり喋ってきた。わたしには「本の感想は聴かない」という子育てポリシーがあった。何故なら、読んだ本の感想をいちいち聞かれていたら、オチオチ本も読めないからだ。読後の余韻に浸っている時間は、大人だろうと子どもだろうと、そっとしておいてほしいはず。だからこそ、ある程度時間が経ってから、主人公は和菓子党だとか、脇役の皮肉な性格がそこはかとなく好きだとか、テレビドラマやバラエティなどを一緒に楽しむように喋ってきた。
だが、息子は寡黙だった。うん、とか、ああ、しか言わず、大学入学と同時に出て行ったきり、東京に移り住み、その後、笑って喋った記憶はない。

読み終えたら、彼を訪ねてみよう。いや、今までもランチに誘ったことはあるのだが、ことごとくフラれている。何か作戦が必要だ。どうせ『用心棒日月抄』読んだよと言ったとしても、そう、とか、もう忘れた、と返ってくるのは目に見えているのだから。読み始めると、主人公で用心棒、青江又八郎は、息子とおなじく26歳だった。

新潮社のマークは葡萄。息子が幼い頃探していた葡萄のマークでした。
文庫の裏表紙には「江戸時代の庶民の哀歌を映しながら、同時代人から見た『忠臣蔵』の実相を鮮やかに捉えた」と、あります。

「山梨陸の孤島に!」の報道後も音沙汰がないので、息子にメールしました。
「雪、だいじょうぶ?」「だいじょうぶ。」反対だろ!? 気づけよ!
あ、失礼しました。つい、感情的に・・・。

八ヶ岳は雪深く、彼の如く寡黙です。

拍手

左手くん、トリガーポイントについて語る

「毎日が、穏やかに過ぎていくねぇ、左手くん」
「うん。雪はもう、見たくもないけどねぇ、右手くん」
frozen shoulder(五十肩)を患っていた右手くんは、全快とまではいかずとも、痛みがすっかり引き、穏やかな心持ちのようだ。右手くんをサポートしてきた左手くんも、おなじく穏やかな心持ちになっている。
「そう考えるとさ」と、左手くん。
「身体の痛みと、心の痛みは、繋がっているんだって実感するよね」
「うん。まさに、その通りだね」と、右手くん。
「ところで、トリガーポイントって知ってる?」と、左手くん。
「トリガーって、英語で引き鉄のことだよね? そのポイント?」
「うん。身体の筋肉は思いもよらないところで繋がっていて、痛むところとは別の場所に、痛みを発生させる引き鉄になるポイントがあるんだよ」
「複雑なんだねぇ、僕たちの身体は」
「その上、心は更にね。痛むところだけ、守ろうとか、癒そうとかとしても、痛みの引き鉄は別のところにあったりするんだ」
「例えば?」と、右手くんが身を乗り出す。
「例えば、失恋して胸が痛くなるだろ?」「おっと、いきなり失恋かい?」
「でも、よくあることだって自分に言い聞かせて普段通りに会社に行ってさ」
「がんばって、乗り越えようと必死なんだね」
「ところが、ようやく笑顔が戻った頃にさ、駅ですれ違っただけの男に『どけよ、のろま!』って言われた途端、引き鉄が引かれてさ」
「自分のトロいところが、ダメだったんだ。悪いのはわたしだったんだわぁって、立ち直れないほど、ずどーんと落ち込んじゃう訳だね」
「例えその男が1日に千回『のろま!』って口癖を、口にするとしてもね」

「また例えば、年頃の娘が夜遅くまで帰って来ないと、親は心配するだろ?」
「うん。おろおろしちゃうよね」
「それが門限1分前に駆け込みセーフだったりすると、その心配は何処にも行きようがない訳だよ」「おろおろ損だ。腹も立ってくるよね」
「で、帰ってきた娘が、鞄をソファーに投げてお風呂に入ろうとしたら」
「引き鉄、引いちゃったんだね。ちゃんと片づけてお風呂に入りなさーい!」
「怒りの引き鉄、だね」「せっかく門限守ったのにねぇ、残念」

「また例えば、就活が上手くいかなくってさ」「今度は就活?」
「面接に行けども行けども、落ちまくって、それでも泣きたい気持ちを必死にこらえてがんばってる時に、親友が内定もらったって遠慮がちに言うんだ」
「そりゃ辛いけど、おめでとうって言わなくちゃね」
「もちろんさ。おめでとうって言った途端、よかったね、よかったねって、涙が止まらなくなっちゃって、もう、悲しいのか、嬉しいのか」
「うぇーん。涙のトリガーポイントだ」

「また例えば」「まだ、あんの?」「芋が転がって」
「それ笑いの引き鉄、でしょ? だいたい芋じゃなくて、箸だし」
すっかりとは言えなくとも回復した右手くんと左手くんの『トリガーポイント』についての会話は、止め処を知らず続くのだった。

「雪だねぇ」と、ハリー。「綺麗だねぇ」と、ネリー。
「雪が、降ったら雪見酒だねぇ」と、わたし。
ふたり声をそろえる「雪は、酒のトリガーポイントじゃない!」

昨日朝10時、まだまだ雪降りしきる家を後に、東京に出てきました。

雪道の運転も慣れたけど、あーあ、もういい加減にしてほしいよ。

拍手

孤独の手のひらに、包まれた時には

江國香織の小説で一番好きなのは、何といっても『ぼくの小鳥ちゃん』だが、初期の短編集『つめたいよるに』(新潮文庫)は、格別に好きで、不意に手に取って、当てもなくページをめくりたくなる。
そのなかでも『ねぎを刻む』は、またしても格別に魅かれるものがあり、手に取るとつい読んでしまう短編だ。その小説はこんな風にして始まる。

「孤独がおしよせるのは、街灯がまるくあかりをおとす夜のホームに降りた瞬間だったりする。0.1秒だか0.01秒だか、ともかくホームに片足がついたそのせつな、何かの気配がよぎり、私は、あっ、と思う。あっ、と思った時にはすでに遅く、私は孤独の手のひらにすっぽりと包まれているのだ」

孤独の手のひらに瞬時に包まれ、ハッとする瞬間は誰しもにあることで、それは、恋人がいても夫がいても、両親がいる温かい食卓があっても、子ども達の笑い声が響いていても、時間をいとわず長電話してくれる友人がいても、解消されるものではない。

「誰にも、天地神明にかけて誰にも、他人の孤独は救えない」
主人公の私は、確信を持っている。そして、そんな夜には、ねぎを刻むのだ。

淋しいなと、ふとつぶやいてしまうような、薄暗くぬるい沼のような孤独を感じつつ過ごすことにも、歳と共に慣れてきた。誰しもにあることなのだと、たぶん、昔よりは判っているということなのか。

しんとした心持ちで、葱を、たくさん刻みました。

茗荷とオクラも、刻みました。生姜は針生姜に。

ひとりランチのフカヒレスープ卵とじ雑炊が、超豪華に!
ちなみに、末娘に聞いたところ『ひとりランチ』を若者言葉で、
『ボッチめし』と言うそうな。ひとりぼっちのご飯だから?
「でも悲惨な雰囲気漂うから、仲間うちでは『ソロランチ』って言ってた」
若者達も、言葉に工夫もしているんだな。

拍手

12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
Template by repe