はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
バスソルトで、のんびりお風呂
夫の手は、とても冷たい。そして、わたしの手は、非常に温かい。
末娘も夫に似たのか、いつも冷たい手をしていて、冬の朝、駅までのドライブで、よくわたしの手を握り、暖をとっていたのを思い出す。
熱があるみたい、と言われ、おでこに触れた途端「あつっ」とギャグにされるのもしょっちゅうだった。わたしの手の方が、触れたおでこよりも温かいのが常なのだ。いつも「どうせ、心が冷たいのさ」と、すねてみせるが、冷たいよりは温かい方がいいだろうとは漠然と思っていた。
その、手の冷たい夫が、人間ドックの再検査で手が冷たいことを話すと、バスソルトを 薦められたという。
「アマゾンで、売ってますからって言う医者って、信用できる気がする」
夫の判断で、購入してみることにした。
そして、薦められたエプソムソルトが届き、ようやく使い始めたところだ。
まずわたしが風呂に入り、温まった。分量通り入れてみたが、湯が濁るでもなく、香りも何もしない。肌がひりひりすることもなく、まるで何も入れていないようだった。だが。
「なんか、あったまった気がする」と、わたし。
確かにいつもよりも、身体が温かい。気温のせいではないことは、このところの三寒四温の四温は何処へ行った? と言いたくなるような寒さで、よく判る。しかし、と考えた。せっかく温まる塩を入れたんだから、どうせならゆっくり入ろうと、いつもより長く湯船につかってはいなかっただろうか。その「どうせなら効果」のせいではないのか。疑問符が、頭に浮かぶ。
そして、夫が入った。「なんか、あったまった気がする」
やはり、反応は同じだった。しかし、とふたたび考えた。「気がする」ことも大切かも知れない、と。何しろ「信用できる気がする」と、購入してみたのだ。果てさて、エプソムソルトで夫の末端冷え症は解消できるのか。気長に試してみようと、のんびりと湯船につかる日々である。
注意書きには「ソルトの名前ですが塩ではありません。15世紀末イギリスのロンドン郊外にあるエプソム地方で発見された白い結晶のことです」と。
塩じゃないのに、ソルトって名前使っていいんだ?
昔使っていたほうろうの米びつに入れて、洗面所に置きました。
1回の入浴に200g = 約コップ1杯分使います。
末娘も夫に似たのか、いつも冷たい手をしていて、冬の朝、駅までのドライブで、よくわたしの手を握り、暖をとっていたのを思い出す。
熱があるみたい、と言われ、おでこに触れた途端「あつっ」とギャグにされるのもしょっちゅうだった。わたしの手の方が、触れたおでこよりも温かいのが常なのだ。いつも「どうせ、心が冷たいのさ」と、すねてみせるが、冷たいよりは温かい方がいいだろうとは漠然と思っていた。
その、手の冷たい夫が、人間ドックの再検査で手が冷たいことを話すと、バスソルトを 薦められたという。
「アマゾンで、売ってますからって言う医者って、信用できる気がする」
夫の判断で、購入してみることにした。
そして、薦められたエプソムソルトが届き、ようやく使い始めたところだ。
まずわたしが風呂に入り、温まった。分量通り入れてみたが、湯が濁るでもなく、香りも何もしない。肌がひりひりすることもなく、まるで何も入れていないようだった。だが。
「なんか、あったまった気がする」と、わたし。
確かにいつもよりも、身体が温かい。気温のせいではないことは、このところの三寒四温の四温は何処へ行った? と言いたくなるような寒さで、よく判る。しかし、と考えた。せっかく温まる塩を入れたんだから、どうせならゆっくり入ろうと、いつもより長く湯船につかってはいなかっただろうか。その「どうせなら効果」のせいではないのか。疑問符が、頭に浮かぶ。
そして、夫が入った。「なんか、あったまった気がする」
やはり、反応は同じだった。しかし、とふたたび考えた。「気がする」ことも大切かも知れない、と。何しろ「信用できる気がする」と、購入してみたのだ。果てさて、エプソムソルトで夫の末端冷え症は解消できるのか。気長に試してみようと、のんびりと湯船につかる日々である。
注意書きには「ソルトの名前ですが塩ではありません。15世紀末イギリスのロンドン郊外にあるエプソム地方で発見された白い結晶のことです」と。
塩じゃないのに、ソルトって名前使っていいんだ?
昔使っていたほうろうの米びつに入れて、洗面所に置きました。
1回の入浴に200g = 約コップ1杯分使います。
『あなたに贈るⅩ(キス)』
本を衝動買いする時、多くの人がそうかと思うが、作家で選ぶ。
そして大抵は、出先で読んでいた本を読み終えてしまったり、持っている本を読む気分じゃなかったり、といった時に購入することになるので、基本、荷物にならず、電車での移動中で読みやすい文庫本だ。ミステリーが多いのは、気軽に楽しめるからだろう。
そんな状況で手にとったのが、近藤史恵『あなたに贈るⅩ(キス)』(PHP文芸文庫)だったが、当たりといえた。洗練された文章で、さらりと描かれた切なく純粋な思い。そして秀逸な謎解き。帯には「青春ミステリー」とある。
近未来。唇と唇を合わせることは、国際的に禁じられていた。感染から数週間で100%死に至る新種ウィルスの感染ルートが「キス」だけだと判明したのだ。主人公である高校1年の美詩(みうた)の世代では、頬やおでこにするのは「キス」と呼ぶが、唇と唇を合わせることは考えるだけでも淫らで恐ろしい行動であり、愛を確かめ合うものではなくなっていた。
物語は、美詩が慕っていた先輩、織恵が、そのウィルスで死んだところから始まる。ウィルス研究者の父を持つ梢に犯人を捜そうと持ちかけられ、美詩は、織恵を殺した発症しないウィルス保持者、キャリアを探し始めた。
近藤史恵のあとがきが、素敵だった。以下、あとがきから。
もちろん、この本が誰かを救うなんて大それたことは考えていない。それでも十代の頃のわたしはきっとこの本を気に入るだろうし、ポケットに詰め込んだ小石のうちの、小さな一粒になったかもしれないとは思う。
本という鎮痛剤が効くのは、一日か、せいぜい数日かもしれない。だが、人生なんてその一日の繰り返しなのだ。
「鎮痛剤」という表現に共感した。
個人的には、本に娯楽以外のものは求めず、という姿勢で趣味である読書に臨んでいるのだが、そうか、鎮痛剤だったのかと思えば、腑に落ちる。本を読んでいると、求めずとも向こうからやってくるモノは、大きい。つかの間効く色とりどりの鎮痛剤達は、わたしに日常を忘れさせてくれるのだ。
駅ナカの本屋さんで買い、駅ナカの喫茶店で檸檬ミントティーを
飲みつつ、電車待ち。便利な世の中になったなぁ。
そして大抵は、出先で読んでいた本を読み終えてしまったり、持っている本を読む気分じゃなかったり、といった時に購入することになるので、基本、荷物にならず、電車での移動中で読みやすい文庫本だ。ミステリーが多いのは、気軽に楽しめるからだろう。
そんな状況で手にとったのが、近藤史恵『あなたに贈るⅩ(キス)』(PHP文芸文庫)だったが、当たりといえた。洗練された文章で、さらりと描かれた切なく純粋な思い。そして秀逸な謎解き。帯には「青春ミステリー」とある。
近未来。唇と唇を合わせることは、国際的に禁じられていた。感染から数週間で100%死に至る新種ウィルスの感染ルートが「キス」だけだと判明したのだ。主人公である高校1年の美詩(みうた)の世代では、頬やおでこにするのは「キス」と呼ぶが、唇と唇を合わせることは考えるだけでも淫らで恐ろしい行動であり、愛を確かめ合うものではなくなっていた。
物語は、美詩が慕っていた先輩、織恵が、そのウィルスで死んだところから始まる。ウィルス研究者の父を持つ梢に犯人を捜そうと持ちかけられ、美詩は、織恵を殺した発症しないウィルス保持者、キャリアを探し始めた。
近藤史恵のあとがきが、素敵だった。以下、あとがきから。
もちろん、この本が誰かを救うなんて大それたことは考えていない。それでも十代の頃のわたしはきっとこの本を気に入るだろうし、ポケットに詰め込んだ小石のうちの、小さな一粒になったかもしれないとは思う。
本という鎮痛剤が効くのは、一日か、せいぜい数日かもしれない。だが、人生なんてその一日の繰り返しなのだ。
「鎮痛剤」という表現に共感した。
個人的には、本に娯楽以外のものは求めず、という姿勢で趣味である読書に臨んでいるのだが、そうか、鎮痛剤だったのかと思えば、腑に落ちる。本を読んでいると、求めずとも向こうからやってくるモノは、大きい。つかの間効く色とりどりの鎮痛剤達は、わたしに日常を忘れさせてくれるのだ。
駅ナカの本屋さんで買い、駅ナカの喫茶店で檸檬ミントティーを
飲みつつ、電車待ち。便利な世の中になったなぁ。
ポストに入っていた沢庵
東京に一泊して帰ると、郵便ポストのなかには、新聞と2日分の郵便の他に、包装紙の小さな包みが入っていた。
「けっこう重いな。何だろう?」
開けてみようと、包装紙をよくよく見ると、林を隔てたお隣に住むご主人の名前がかいてある。そしてその名の後には「作」と続いている。お、お隣りのご主人の作品、と期待しつつ包みを開くと、やわらかく黄色い沢庵が出てきた。糠がついたままのものをビニールに入れ、折り曲げて包んであったのだ。
さっそく糠を洗い、切ってみた。綺麗な黄色である。塩味もほどよく、食べた途端、夫と顔を見合わせ「美味しい!」と口に出さずにはいられなかった。
お礼の電話をすると、今年のは自信作とのこと。毎年、試行錯誤しつつ漬けている様子だ。出来上がりを楽しむばかりで申し訳ないが、毎朝切っては、嬉しくいただいている。手作りならではの優しい黄色が、朝食に花を添えてくれているかのようだ。
先日観たばかりの映画『繕い裁つ人』で、印象的だったシーンを思い出した。
「美味しいお茶を淹れるには、何が大切だと思う?」主人公、市江に高校時代の恩師が聞く。「真心、とか?」自信なさそうに答える市江は、裁縫以外のことは何もできない。「真心だけじゃ、だめ」恩師は言う。茶葉選びから、お湯の温度や茶葉の蒸らし時間、何度も繰り返し淹れてみる研究心、技術の会得。「そういうことに時間をかけて美味しく淹れられるようになるためには、真心が必要だってことなの」
お隣りのご主人が漬けた沢庵は、間違いなく真心にあふれている。毎朝、ぽりぽりとその真心を、炊き立てのご飯と共にいただいている。
春を思わせる淡い黄色が、美しいです。うーん、芸術品。
*映画のなかの台詞は、記憶にあるもので、映像通りではありません*
「けっこう重いな。何だろう?」
開けてみようと、包装紙をよくよく見ると、林を隔てたお隣に住むご主人の名前がかいてある。そしてその名の後には「作」と続いている。お、お隣りのご主人の作品、と期待しつつ包みを開くと、やわらかく黄色い沢庵が出てきた。糠がついたままのものをビニールに入れ、折り曲げて包んであったのだ。
さっそく糠を洗い、切ってみた。綺麗な黄色である。塩味もほどよく、食べた途端、夫と顔を見合わせ「美味しい!」と口に出さずにはいられなかった。
お礼の電話をすると、今年のは自信作とのこと。毎年、試行錯誤しつつ漬けている様子だ。出来上がりを楽しむばかりで申し訳ないが、毎朝切っては、嬉しくいただいている。手作りならではの優しい黄色が、朝食に花を添えてくれているかのようだ。
先日観たばかりの映画『繕い裁つ人』で、印象的だったシーンを思い出した。
「美味しいお茶を淹れるには、何が大切だと思う?」主人公、市江に高校時代の恩師が聞く。「真心、とか?」自信なさそうに答える市江は、裁縫以外のことは何もできない。「真心だけじゃ、だめ」恩師は言う。茶葉選びから、お湯の温度や茶葉の蒸らし時間、何度も繰り返し淹れてみる研究心、技術の会得。「そういうことに時間をかけて美味しく淹れられるようになるためには、真心が必要だってことなの」
お隣りのご主人が漬けた沢庵は、間違いなく真心にあふれている。毎朝、ぽりぽりとその真心を、炊き立てのご飯と共にいただいている。
春を思わせる淡い黄色が、美しいです。うーん、芸術品。
*映画のなかの台詞は、記憶にあるもので、映像通りではありません*
東京駅のお抹茶
先週は、末娘の芝居を観ようと、神戸からも義母が上京した。
東京駅で待ち合わせ、翌日も東京駅は新幹線のホームで見送ったのだが、東京駅構内の早送りでもしたかのように変わっていく様に、驚いていた。
「構内で、お抹茶もいただけるのねぇ」と、義母。
待ち時間に、まろやかに泡だったお抹茶をいただいた。義母は、春色の桜餅と共に。甘いものが苦手なわたしは、お抹茶のみで。
義母は、長い間、茶道を教えていたので、こだわりもあるかとも思うが、カウンター席に椅子という何とも気軽な雰囲気に、微笑んで桜餅を頬張っていた。新しいモノ、変化を柔軟に受け入れ、面白がる性質(たち)なのである。82歳にして、Windows8だって使えちゃうのだ。
末娘の芝居も、若い人達の感性を感じられると楽しみにしていた。そしてもちろん、思う存分楽しんだ。観終ってから一緒に過ごした半日は、娘のことを褒めちぎっていた。母親のわたしが語る娘の姿と、義母が語る孫娘は、まるで別人のように聞こえるに違いないと、いつも思う。
「目に入れても痛くない」とは、こういうことを言うのだろう。
娘達は、義母をとても尊敬しているし、大好きだ。「憧れの女性」だと口にすることさえある。そこに理由などないのかも知れないが、手放しで愛し認めてくれるお婆ちゃんだと、そして、何事もまずは受け入れて面白がる魅力ある先輩だと、知っているのだと思う。
ちょっと妬けるが、そんな女性が娘達のお婆ちゃんでよかった。そして、わたしも義母に憧れを持つ自分を知っているのだ。
朱塗りのお盆も、カラフルなお茶碗も綺麗です。ゆったりした時間でした。
駅ナカにある『奈良 天平庵』渋谷はヒカリエにも、店舗があるようです。
東京駅で待ち合わせ、翌日も東京駅は新幹線のホームで見送ったのだが、東京駅構内の早送りでもしたかのように変わっていく様に、驚いていた。
「構内で、お抹茶もいただけるのねぇ」と、義母。
待ち時間に、まろやかに泡だったお抹茶をいただいた。義母は、春色の桜餅と共に。甘いものが苦手なわたしは、お抹茶のみで。
義母は、長い間、茶道を教えていたので、こだわりもあるかとも思うが、カウンター席に椅子という何とも気軽な雰囲気に、微笑んで桜餅を頬張っていた。新しいモノ、変化を柔軟に受け入れ、面白がる性質(たち)なのである。82歳にして、Windows8だって使えちゃうのだ。
末娘の芝居も、若い人達の感性を感じられると楽しみにしていた。そしてもちろん、思う存分楽しんだ。観終ってから一緒に過ごした半日は、娘のことを褒めちぎっていた。母親のわたしが語る娘の姿と、義母が語る孫娘は、まるで別人のように聞こえるに違いないと、いつも思う。
「目に入れても痛くない」とは、こういうことを言うのだろう。
娘達は、義母をとても尊敬しているし、大好きだ。「憧れの女性」だと口にすることさえある。そこに理由などないのかも知れないが、手放しで愛し認めてくれるお婆ちゃんだと、そして、何事もまずは受け入れて面白がる魅力ある先輩だと、知っているのだと思う。
ちょっと妬けるが、そんな女性が娘達のお婆ちゃんでよかった。そして、わたしも義母に憧れを持つ自分を知っているのだ。
朱塗りのお盆も、カラフルなお茶碗も綺麗です。ゆったりした時間でした。
駅ナカにある『奈良 天平庵』渋谷はヒカリエにも、店舗があるようです。
珈琲タイム募金
東日本大震災から、今日で4年が経つ。
昨年春、仙台を訪ね、震災で親を亡くした子ども達のためにと寄付を募っている団体『JETOみやぎ』で話を聞かせてもらい、翌日には『語り部タクシー』に乗って、津波の爪痕の残る地を案内してもらった。
『JETOみやぎ』への寄付は、会員になったことで忘れず定期的に納められるようになったが、仙台を訪ねたことも、ずいぶんと昔のような気がしていて記憶の薄れていく速度に追いつけずにいる自分を俯瞰せずにはいられない。
ずっと、いいなと思いつつ、ずぼらなわたしには真似できないとあきらめていたことがある。友人、とんぼちゃんのホームページにある『今、わたしにもできること』と題し、続けている活動だ。それは毎日募金で、自分のなかで震災を繰り返し思い出し、考える時間を持つためにと、日々少しずつ小銭を貯めていき、ある程度の額貯まったら寄付をするというものである。
そのなかに「贅沢をした時には、ちょっと多めに」とかかれていたのを見て、ふと思いついた。日々の贅沢である珈琲タイムの度に、小銭を貯めていくというのはどうだろう。続けられるかどうかわからないが、挑戦してみようと、昨日、募金用の缶を珈琲を淹れるコーナーに置いた。これからは、珈琲タイムの度に、震災のこと、被災した人々のことを考えていこうと思う。
いつ誰にいただいたのかも忘れてしまった、お気に入りのお菓子の缶。
缶が綺麗だというだけでも、楽しく続けられそうな予感がします。
お財布の小銭、多い時も少ない時も、忘れずに募金していきます。
昨年春、仙台を訪ね、震災で親を亡くした子ども達のためにと寄付を募っている団体『JETOみやぎ』で話を聞かせてもらい、翌日には『語り部タクシー』に乗って、津波の爪痕の残る地を案内してもらった。
『JETOみやぎ』への寄付は、会員になったことで忘れず定期的に納められるようになったが、仙台を訪ねたことも、ずいぶんと昔のような気がしていて記憶の薄れていく速度に追いつけずにいる自分を俯瞰せずにはいられない。
ずっと、いいなと思いつつ、ずぼらなわたしには真似できないとあきらめていたことがある。友人、とんぼちゃんのホームページにある『今、わたしにもできること』と題し、続けている活動だ。それは毎日募金で、自分のなかで震災を繰り返し思い出し、考える時間を持つためにと、日々少しずつ小銭を貯めていき、ある程度の額貯まったら寄付をするというものである。
そのなかに「贅沢をした時には、ちょっと多めに」とかかれていたのを見て、ふと思いついた。日々の贅沢である珈琲タイムの度に、小銭を貯めていくというのはどうだろう。続けられるかどうかわからないが、挑戦してみようと、昨日、募金用の缶を珈琲を淹れるコーナーに置いた。これからは、珈琲タイムの度に、震災のこと、被災した人々のことを考えていこうと思う。
いつ誰にいただいたのかも忘れてしまった、お気に入りのお菓子の缶。
缶が綺麗だというだけでも、楽しく続けられそうな予感がします。
お財布の小銭、多い時も少ない時も、忘れずに募金していきます。
『糸杉』(短編集『A』収録)
ぞくり、とした。中村文則の短編集『A』(河出書房新社)を、読んでいる。
図書館で手にとった時から、見かけよりもずしりと重たいような、持っているのを忘れるほど軽いような、不安定な感覚に陥り、カウンターに出さずにはいられなかった。彼の本はベストセラーとなった『掏摸』とデビュー作『拳銃』を読んだが、内容がけっこう重かったので、短編ならと借りたことに起因しているのかも知れない。
13編あるなかの冒頭の短編『糸杉』は、風俗嬢の後をつける男の話だ。後をつけることに、衝動以外のものはなく、特に何をしようという気持ちもない。ただ「この女」と思った女性の後をつけると、何故か風俗店で働いていることが判明する。服装が地味でも、何処で見かけても、いつも終着地点は風俗店なのだ。以下、本文から。
僕の想像は終わり、僕の内面が急速に消えていく。初めからわかっている。その領域に行くには、僕にはまだ孤独が足りない。糸杉は消えている。糸杉に類似した何かも。僕の内面はまだ日常の粋を出ない。日常の輪郭の中で、閉じている。だからこそ、フライングをしている。僕は周囲を気にし始めている。恐怖すらも感じている。卑俗な日常に対して。
「糸杉」は、ゴッホが自殺する1年前に描いた絵だ。「僕」は理由も判らず「糸杉」に魅かれる自分に戸惑っている。女をつけるのと同じように、いや、それ以上に「糸杉」を観に行かずにはいられない衝動に駆られるのだ。
「孤独が足りない」というフレーズが、読んだ途端に、すっと胸の奥に収まった。まるでずっと、そこに居たみたいに。足りない孤独と、狂気を、わたしは自分のなかに見た。
ひとり、バーボンソーダを飲みながら、読んでは閉じ、読んでは閉じ。
栞と見返しは濃紺でした。夜の闇を思わせるような。
図書館で手にとった時から、見かけよりもずしりと重たいような、持っているのを忘れるほど軽いような、不安定な感覚に陥り、カウンターに出さずにはいられなかった。彼の本はベストセラーとなった『掏摸』とデビュー作『拳銃』を読んだが、内容がけっこう重かったので、短編ならと借りたことに起因しているのかも知れない。
13編あるなかの冒頭の短編『糸杉』は、風俗嬢の後をつける男の話だ。後をつけることに、衝動以外のものはなく、特に何をしようという気持ちもない。ただ「この女」と思った女性の後をつけると、何故か風俗店で働いていることが判明する。服装が地味でも、何処で見かけても、いつも終着地点は風俗店なのだ。以下、本文から。
僕の想像は終わり、僕の内面が急速に消えていく。初めからわかっている。その領域に行くには、僕にはまだ孤独が足りない。糸杉は消えている。糸杉に類似した何かも。僕の内面はまだ日常の粋を出ない。日常の輪郭の中で、閉じている。だからこそ、フライングをしている。僕は周囲を気にし始めている。恐怖すらも感じている。卑俗な日常に対して。
「糸杉」は、ゴッホが自殺する1年前に描いた絵だ。「僕」は理由も判らず「糸杉」に魅かれる自分に戸惑っている。女をつけるのと同じように、いや、それ以上に「糸杉」を観に行かずにはいられない衝動に駆られるのだ。
「孤独が足りない」というフレーズが、読んだ途端に、すっと胸の奥に収まった。まるでずっと、そこに居たみたいに。足りない孤独と、狂気を、わたしは自分のなかに見た。
ひとり、バーボンソーダを飲みながら、読んでは閉じ、読んでは閉じ。
栞と見返しは濃紺でした。夜の闇を思わせるような。
春一番に咲く星の瞳
雪が降ったと思ったら、急に気温が上がったり、翌日には1日じゅう雨が降っていたり。三寒四温とはこのことさ、と空が言っているような早春である。
毎年この時期、一番に花を見せてくれるのは、オオイヌノフグリ。青くて小さな雑草で、犬のふぐりに実の形が似ているところからつけられた名だそうだが、別名にとても素敵な名を持っている。「星の瞳」だ。4枚の花びらの形や、綺麗なブルー、密集してたくさん咲いている様子など、確かに星が瞬いているのを連想する。春の訪れを一番に告げてくれる、一番星ともとれる名だ。
「一番星、みーつけた!」と、歌いながら、庭をのんびりと歩く。
密集して咲いているところはなかったが、一つ一つが愛らしく、小さく瞬く青い星達の美しさに心が澄んでいくようだ。
二番星、三番星も、すぐに咲くだろう。ずっと待っていたはずなのに、いつの間に春が来たんだろうと、不意打ちに似た感覚でハッとする。一番星が瞬くとすっと幕が下りたように暗闇が濃くなっていくのと同じく「あ、春が来た」という瞬間は、水面下で意識していたにもかかわらず、ある日いきなりやって来て、いつもこうして驚かされるのだ。
ブルーが眩しい、オオイヌノフグリです。可愛い!
水仙の蕾も、膨らんできました。楽しみです。
雪柳も、いくつか開きかけた蕾が見られます。
ふきのとうもちらほら、顔を出してきました。美味しそう(笑)
毎年この時期、一番に花を見せてくれるのは、オオイヌノフグリ。青くて小さな雑草で、犬のふぐりに実の形が似ているところからつけられた名だそうだが、別名にとても素敵な名を持っている。「星の瞳」だ。4枚の花びらの形や、綺麗なブルー、密集してたくさん咲いている様子など、確かに星が瞬いているのを連想する。春の訪れを一番に告げてくれる、一番星ともとれる名だ。
「一番星、みーつけた!」と、歌いながら、庭をのんびりと歩く。
密集して咲いているところはなかったが、一つ一つが愛らしく、小さく瞬く青い星達の美しさに心が澄んでいくようだ。
二番星、三番星も、すぐに咲くだろう。ずっと待っていたはずなのに、いつの間に春が来たんだろうと、不意打ちに似た感覚でハッとする。一番星が瞬くとすっと幕が下りたように暗闇が濃くなっていくのと同じく「あ、春が来た」という瞬間は、水面下で意識していたにもかかわらず、ある日いきなりやって来て、いつもこうして驚かされるのだ。
ブルーが眩しい、オオイヌノフグリです。可愛い!
水仙の蕾も、膨らんできました。楽しみです。
雪柳も、いくつか開きかけた蕾が見られます。
ふきのとうもちらほら、顔を出してきました。美味しそう(笑)
『嘘吐きゴッホと眼のない少女』
芝居を、観に行った。演劇を中心に活動中の「キレイゴト。」5枚目の演劇『嘘吐きゴッホと眼のない少女』だ。
二十歳の末娘が、団員ではないが、参加させてもらい舞台に立つという。大学のサークル以外では、もちろん初舞台だ。3人の主役達の脇を固めるヒロインの妹、志保子役で、明るく健気な、主役の秀に恋する女子高生を、生き生きと演じていた。
ストーリーは、美大生、秀(しゅう)が双子の兄である響(きょう)を交通事故で亡くすところから始まる。響の車に同乗していた恋人、朱里(あかり)は、響の死を受け入れられず、目隠しをして何も見ずに生活することで心のバランスを保つという治療を受けていた。だが、見えない朱里は見舞いに来た秀を、響だと思い込んでしまう。そして以前から朱里に想いを寄せていた秀は、響の身代わりになることを選んだ。
テーマは「嘘」だ。秀は朱里にだけではなく、相手を傷つけたくなくて、嘘をつく。優しいのだ。自分の気持ちを誤魔化すために、自分にも嘘をつく。弱いのだ。しかしその優しさと弱さは、やがて周囲の人々をも傷つけていく。
演じる彼らは、登場人物達同様に若く、エネルギッシュだった。その若さ故に、やはり登場人物達同様に、悩みも多かろう。そんな風に考えずにはいられないような、混沌という霧のなかに立つ危うさを持っていた。けれど日々様々、悩みつつ生きているであろう彼らの舞台から伝わってくる鼓動に、優しさや弱さで誤魔化そうとする嘘は、ない。それは大人であるわたしの胸の底で静まった水たまりに一滴の危うさを落とし、静かに波紋を広げていったのだ。
参宮橋駅近くのスタジオ「トランスミッション」にて、本日8日まで。
「彼らは、ひりひりと、ひりつくような熱を持って生きている」
総合演出、日向あこさんの「ごあいさつ」にあった一文です。
友人まりりんも、一緒に観てくれました。
二十歳の末娘が、団員ではないが、参加させてもらい舞台に立つという。大学のサークル以外では、もちろん初舞台だ。3人の主役達の脇を固めるヒロインの妹、志保子役で、明るく健気な、主役の秀に恋する女子高生を、生き生きと演じていた。
ストーリーは、美大生、秀(しゅう)が双子の兄である響(きょう)を交通事故で亡くすところから始まる。響の車に同乗していた恋人、朱里(あかり)は、響の死を受け入れられず、目隠しをして何も見ずに生活することで心のバランスを保つという治療を受けていた。だが、見えない朱里は見舞いに来た秀を、響だと思い込んでしまう。そして以前から朱里に想いを寄せていた秀は、響の身代わりになることを選んだ。
テーマは「嘘」だ。秀は朱里にだけではなく、相手を傷つけたくなくて、嘘をつく。優しいのだ。自分の気持ちを誤魔化すために、自分にも嘘をつく。弱いのだ。しかしその優しさと弱さは、やがて周囲の人々をも傷つけていく。
演じる彼らは、登場人物達同様に若く、エネルギッシュだった。その若さ故に、やはり登場人物達同様に、悩みも多かろう。そんな風に考えずにはいられないような、混沌という霧のなかに立つ危うさを持っていた。けれど日々様々、悩みつつ生きているであろう彼らの舞台から伝わってくる鼓動に、優しさや弱さで誤魔化そうとする嘘は、ない。それは大人であるわたしの胸の底で静まった水たまりに一滴の危うさを落とし、静かに波紋を広げていったのだ。
参宮橋駅近くのスタジオ「トランスミッション」にて、本日8日まで。
「彼らは、ひりひりと、ひりつくような熱を持って生きている」
総合演出、日向あこさんの「ごあいさつ」にあった一文です。
友人まりりんも、一緒に観てくれました。
菜の花の季節に
生野菜を毎日摂取するのは、身体によくないとネットで読んだ。いくつかの記事に同様にかかれていたのは、生野菜を大量に食べると、胃腸から冷えがきて、体調を崩す原因になるということで、もちろん、少量であれば問題はないとの注意書きがあった。
過ぎたるは及ばざるがごとし、ということか。身体のためにと生野菜をバリバリ食べるのは、決していいとは言えないらしい。
3月に入り、春の声もあちらこちらから聞こえてくるが、まだまだ寒い。1日じゅう薪ストーブを燃やす日々である。自然と生野菜を食べる量も減っている。食卓には鍋や汁物が多く登場し、食べては温まっている。生野菜云々の記事から、我が家の食生活は、見直す必要はなさそうだ。
多分、身体が欲しいているものを、見分けられる年齢になったのではないかと思う。生野菜をバリバリ食べられるほど、もう若くはないのだ。
先日、県内産の菜の花が売っていたので、2束買って楽しんでいる。茹でて食べるので、安心だ。見直す必要はないと言いつつも、気にしている自分が可笑しくもある。待てよ。加熱することで失われるビタミンも多いと聞いたが、そこのところどうなんだろうか。まあ、いろいろ考えてみても、そのうちすっかり忘れて、関係なく献立を立てるんだろうけれど。
情報は情報として、食べたいものを食べることが身体にいいのだと、長くキッチンに立ち続け、確信しているところがある。経験からくる自信と確信。
酔っ払って食べ過ぎるのは「見分けられる年齢」からの指令が届かぬ遠くへと意識が遊泳しているからで、それは無論、いいとは思ってはいない訳だが。
紫玉葱とマスタードマリネにしました。洋風辛し和え、かな。
玉葱は生ですが、こうやって混ぜるのもシャキシャキ感が味わえていいかも。
茎の部分を集めて、胡麻油で炒めました。プレーンオムレツに添えて。
お味噌汁にもたっぷりと入れました。やわらかく煮すぎない方が好きです。
過ぎたるは及ばざるがごとし、ということか。身体のためにと生野菜をバリバリ食べるのは、決していいとは言えないらしい。
3月に入り、春の声もあちらこちらから聞こえてくるが、まだまだ寒い。1日じゅう薪ストーブを燃やす日々である。自然と生野菜を食べる量も減っている。食卓には鍋や汁物が多く登場し、食べては温まっている。生野菜云々の記事から、我が家の食生活は、見直す必要はなさそうだ。
多分、身体が欲しいているものを、見分けられる年齢になったのではないかと思う。生野菜をバリバリ食べられるほど、もう若くはないのだ。
先日、県内産の菜の花が売っていたので、2束買って楽しんでいる。茹でて食べるので、安心だ。見直す必要はないと言いつつも、気にしている自分が可笑しくもある。待てよ。加熱することで失われるビタミンも多いと聞いたが、そこのところどうなんだろうか。まあ、いろいろ考えてみても、そのうちすっかり忘れて、関係なく献立を立てるんだろうけれど。
情報は情報として、食べたいものを食べることが身体にいいのだと、長くキッチンに立ち続け、確信しているところがある。経験からくる自信と確信。
酔っ払って食べ過ぎるのは「見分けられる年齢」からの指令が届かぬ遠くへと意識が遊泳しているからで、それは無論、いいとは思ってはいない訳だが。
紫玉葱とマスタードマリネにしました。洋風辛し和え、かな。
玉葱は生ですが、こうやって混ぜるのもシャキシャキ感が味わえていいかも。
茎の部分を集めて、胡麻油で炒めました。プレーンオムレツに添えて。
お味噌汁にもたっぷりと入れました。やわらかく煮すぎない方が好きです。
まますき券
仕事部屋の引き出しを整理していたら、思わぬものが出てきた。
娘がくれた手作りの品である。鏡文字が混じっているのを考えると、4歳か5歳くらいの頃か。たぶん、二十歳になった末娘の作品だ。
11色の水玉を並べた「かわいしいる」は「可愛いシール」のことだろう。裏側には、やはり様々な色で、所狭しとリボンが描かれている。
もうひとつは「まますき」とかかれた色紙が7枚、セロテープで束ねられていた。すべて違う色の色紙に同じように「まますき」と平仮名で右からかかれている。一枚一枚、大きさがまちまちなのを見ると、ひとつひとつ丁寧に色を選び、切ったのだろう。一瞬、昔親の誕生日にプレゼントするのが流行った「肩たたき」券を思い出したが、これが「まますき」券だとすると、いったいどうやって使うのだろうと悩んでしまった。
使うことがなかった「まますき」券。これから、使わせてもらおうかな。
いい大人になったって、わたしって何てダメなやつなんだろうと、負のスパイラスに陥ることだって少なくない。そんな時、心から「すきだよ」って言ってもらえたら、大きな勇気になるに違いない。そんな本気の「すき」が、小さな紙いっぱいにかかれた文字から読み取れる。家族であれ、恋人であれ、友達であれ、好きって気持ちから湧き出るパワーは、本当に大きいのだ。
今はもう子ども達が幼かった頃のように「ママ」と呼ばれることはないけれど、久しぶりに「ママ」と呼ばれた気がして、自然と口元が緩んだ。
「可愛いシール」は、貼れません。可愛いところが大事だったのでしょう。
「まますき」券は、何故か右から「シール」は、左からかかれています。
娘がくれた手作りの品である。鏡文字が混じっているのを考えると、4歳か5歳くらいの頃か。たぶん、二十歳になった末娘の作品だ。
11色の水玉を並べた「かわいしいる」は「可愛いシール」のことだろう。裏側には、やはり様々な色で、所狭しとリボンが描かれている。
もうひとつは「まますき」とかかれた色紙が7枚、セロテープで束ねられていた。すべて違う色の色紙に同じように「まますき」と平仮名で右からかかれている。一枚一枚、大きさがまちまちなのを見ると、ひとつひとつ丁寧に色を選び、切ったのだろう。一瞬、昔親の誕生日にプレゼントするのが流行った「肩たたき」券を思い出したが、これが「まますき」券だとすると、いったいどうやって使うのだろうと悩んでしまった。
使うことがなかった「まますき」券。これから、使わせてもらおうかな。
いい大人になったって、わたしって何てダメなやつなんだろうと、負のスパイラスに陥ることだって少なくない。そんな時、心から「すきだよ」って言ってもらえたら、大きな勇気になるに違いない。そんな本気の「すき」が、小さな紙いっぱいにかかれた文字から読み取れる。家族であれ、恋人であれ、友達であれ、好きって気持ちから湧き出るパワーは、本当に大きいのだ。
今はもう子ども達が幼かった頃のように「ママ」と呼ばれることはないけれど、久しぶりに「ママ」と呼ばれた気がして、自然と口元が緩んだ。
「可愛いシール」は、貼れません。可愛いところが大事だったのでしょう。
「まますき」券は、何故か右から「シール」は、左からかかれています。
霧とフロントガラス
風が吹いていなかったにもかかわらず、またしても未明に音で起こされた。
北側の屋根からする、ガサゴソというかなりの大きな音に目が覚めたのだ。さては。と思った。軒にノックし続け穴をあけた犯人はアオゲラと判明したが、とうとう巣を作ったのか。推理しつつも、うとうとと眠りに入ってしまった。
朝、カーテンを開けて、合点した。雪が積もっていた。あれは、屋根から固まった雪が割れ、滑りつつ落ちていく音だったのだろう。暖かくなるという予報のはずが、まさかの雪に起こされることとなった。
見渡せば、霧である。不思議世界への入口が、すぐそこに開かれていても可笑しくないような朝だった。車の雪を掃い、いくつかの用事を足しに出かけた。霧なのでゆっくり走る。路面も日陰になる場所は凍っているかも知れない。大抵は、村道まで降りると霧は晴れるのだが、まだまだ煙っていた。
ふと気づき、ワイパーをオンにする。あっさりと霧は晴れた。雲っていたのはフロントガラスの外側だったのだ。霧だという先入観ありきで、ガラスの曇りだとは気づかなかった。それは、いつものことながら「目の前のものを受け入れてしまう」性質(たち)によるところが大きい。霧ならば、慎重に走ればいいと、その状況を受け入れてしまう、といった手におえない自分の性質。
散らかった部屋も、汚れた車も、ベッドに積んである本も、わたしは、いつしか受け入れてしまい、片づけるという発想を失くしてしまう。そういう性質なのだ。性質であるから、直そうと思ってもなかなかそうもいかない。
霧が晴れた昼間。リビングを綺麗に片づけた。
霧とフロントガラスからの、片づけられない女代表であるわたしへのアドバイスを、ここは素直に受け入れようと思ったのだ。
朝8時。春の雪に戸惑い、西側の林は霧に煙っていました。
野鳥達の水場にも、雪が混じって凍っています。
アイビーのオブジェも、青々としてきたのが、しゅんとして。
ウッドデッキのテーブルは、こんな感じ。すぐに解けていきました。
北側の屋根からする、ガサゴソというかなりの大きな音に目が覚めたのだ。さては。と思った。軒にノックし続け穴をあけた犯人はアオゲラと判明したが、とうとう巣を作ったのか。推理しつつも、うとうとと眠りに入ってしまった。
朝、カーテンを開けて、合点した。雪が積もっていた。あれは、屋根から固まった雪が割れ、滑りつつ落ちていく音だったのだろう。暖かくなるという予報のはずが、まさかの雪に起こされることとなった。
見渡せば、霧である。不思議世界への入口が、すぐそこに開かれていても可笑しくないような朝だった。車の雪を掃い、いくつかの用事を足しに出かけた。霧なのでゆっくり走る。路面も日陰になる場所は凍っているかも知れない。大抵は、村道まで降りると霧は晴れるのだが、まだまだ煙っていた。
ふと気づき、ワイパーをオンにする。あっさりと霧は晴れた。雲っていたのはフロントガラスの外側だったのだ。霧だという先入観ありきで、ガラスの曇りだとは気づかなかった。それは、いつものことながら「目の前のものを受け入れてしまう」性質(たち)によるところが大きい。霧ならば、慎重に走ればいいと、その状況を受け入れてしまう、といった手におえない自分の性質。
散らかった部屋も、汚れた車も、ベッドに積んである本も、わたしは、いつしか受け入れてしまい、片づけるという発想を失くしてしまう。そういう性質なのだ。性質であるから、直そうと思ってもなかなかそうもいかない。
霧が晴れた昼間。リビングを綺麗に片づけた。
霧とフロントガラスからの、片づけられない女代表であるわたしへのアドバイスを、ここは素直に受け入れようと思ったのだ。
朝8時。春の雪に戸惑い、西側の林は霧に煙っていました。
野鳥達の水場にも、雪が混じって凍っています。
アイビーのオブジェも、青々としてきたのが、しゅんとして。
ウッドデッキのテーブルは、こんな感じ。すぐに解けていきました。
『夕子ちゃんの近道』再考
昨日、音にまつわる記憶の不思議をかいたが、最近読んだ本で、主人公が、何だか判らない音「海猫の鳴き声」に思いを馳せるシーンが効果的に使われていたのを思い出した。長嶋有の連作短編『夕子ちゃんの近道』だ。
この小説は、最近読んだ小説のなかでは自分的に久々の大ヒットだった訳だが、大ヒットだと気づかぬうちに読み終えてしまうような、ぼんやりとした雰囲気を持っている。しかし読み終えてからじわりじわりと、そのよさが押し寄せてくるのを感じ、ページをめくっては、ほーっとため息をつくような大切な一冊となった。
その素敵さの一つに、日々の生活に散りばめられた謎解きがある。主人公が毎朝聞く、その音も、ラスト近くになってようやく明かされる小さな謎だ。
それは、ミステリーという言葉が似合わぬ謎で、明かされずともぼんやりとした雰囲気のなかに馴染んでしまうような類のものだった。「この音、何だろう?」と思いつつも、無論推理したりせず、読み進めていくうちに忘れてしまうくらいのものなのだ。だが、書き手が意識して謎を散りばめたのは、明確だ。その音についても、忘れた頃に繰り返し登場する。どんでん返しのミステリーの「やられた!」感とはまた別の「やられた!」が、これもやはりじわりじわりと押し寄せてきた。
日常に散りばめられた「あれ?」や「これ、何だろう?」は現実にも多々あるのだろうが、気づかぬうちに通り過ぎてしまうことが多いのだと思う。そんな「あれ?」を見過ごさずに暮らしていけたら、同じ時間を過ごしていても、全く違ったものになるに違いない。そんな風に暮らしていけたらと、思うのだ。
再読しながら、飲みたくなるのはワインかな。以下本文から。
「じゃあ君、わたしの子供つくってくれる」えっと言った後で、あーはいと言ってしまう。「本当かなあ」瑞枝さんは首を動かして僕の方を向いて笑った。いつもはもっと大げさに笑うから、やはり熱があるのだ。「でもありがとう。君はつくづく背景みたいに透明な人だね」意味が分からなかったが、そう言われて後ろを振り向いてみた。バンカーズランプの明かりが僕の影も大きく襖障子に映している。
アップにしないと見えないほど控えめにタイトルを置いた文庫の装幀です。
これはイタリア産のゴルゴンゾーラチーズですが、
小説のなかには、フランス人、フランソワーズとパリも登場します。
この小説は、最近読んだ小説のなかでは自分的に久々の大ヒットだった訳だが、大ヒットだと気づかぬうちに読み終えてしまうような、ぼんやりとした雰囲気を持っている。しかし読み終えてからじわりじわりと、そのよさが押し寄せてくるのを感じ、ページをめくっては、ほーっとため息をつくような大切な一冊となった。
その素敵さの一つに、日々の生活に散りばめられた謎解きがある。主人公が毎朝聞く、その音も、ラスト近くになってようやく明かされる小さな謎だ。
それは、ミステリーという言葉が似合わぬ謎で、明かされずともぼんやりとした雰囲気のなかに馴染んでしまうような類のものだった。「この音、何だろう?」と思いつつも、無論推理したりせず、読み進めていくうちに忘れてしまうくらいのものなのだ。だが、書き手が意識して謎を散りばめたのは、明確だ。その音についても、忘れた頃に繰り返し登場する。どんでん返しのミステリーの「やられた!」感とはまた別の「やられた!」が、これもやはりじわりじわりと押し寄せてきた。
日常に散りばめられた「あれ?」や「これ、何だろう?」は現実にも多々あるのだろうが、気づかぬうちに通り過ぎてしまうことが多いのだと思う。そんな「あれ?」を見過ごさずに暮らしていけたら、同じ時間を過ごしていても、全く違ったものになるに違いない。そんな風に暮らしていけたらと、思うのだ。
再読しながら、飲みたくなるのはワインかな。以下本文から。
「じゃあ君、わたしの子供つくってくれる」えっと言った後で、あーはいと言ってしまう。「本当かなあ」瑞枝さんは首を動かして僕の方を向いて笑った。いつもはもっと大げさに笑うから、やはり熱があるのだ。「でもありがとう。君はつくづく背景みたいに透明な人だね」意味が分からなかったが、そう言われて後ろを振り向いてみた。バンカーズランプの明かりが僕の影も大きく襖障子に映している。
アップにしないと見えないほど控えめにタイトルを置いた文庫の装幀です。
これはイタリア産のゴルゴンゾーラチーズですが、
小説のなかには、フランス人、フランソワーズとパリも登場します。
耳は記憶をひも解いて
「せつえん、だ」
朝7時前、駅まで送る車のなかで、富士山を見て夫が言った。
「せつえん、って何?」と、わたし。
「雪が風に飛ばされて、煙みたいに見えるやつだよ。雪煙」
昨日の朝は、それほどに風が強かった。八ヶ岳にも、八ヶ岳下ろしを吹かせる雲が、べったりと張りついている。
「春一番、じゃあないね」「完全に、北風だ」
目覚める前も、夜中じゅう、家が揺れるほどの風が吹いていた。眠りも浅く、様々な音が聞こえる。「あれ?可笑しいな」と思うような音がしても、半分眠りのなかにいて起きて確かめようとは思わない。
一昨日は、玄関でバスケットボールをドリブルする音が聞こえた。上の娘は小学生の頃、バスケをやっていて、よく玄関でボールをついていた。しかし、その娘は今、カナダにいるはずだ。はっと気づく。夫が階段を降りる音だった。
そして、昨日の朝浅い眠りのなかで聞いた音は、水道水がちょろちょろと流れている音だった。「蛇口がちゃんと閉まってないのかな?」だが、朝確かめてみても、何処からも水は漏れていない。それでも、音はやむ様子はなく、夢のなかで聞いた訳でもなさそうだ。耳をすませて音の方向を確認する。外からだった。薪小屋の屋根に貼ったプラスチックの波板が壊れ、それが北風に揺られて鳴いていたのだ。「キー」と「チー」の間のような、人間が発するのは難しい音がしていた。
犯人が割れ、全く違う音なのに、バスケットボールの音だと思ったり、蛇口の閉め忘れだと思ったりする自分を笑った。どうせなら、もっと違う音をききたかった。例えば、小川のせせらぎとか。けれど、わたしの耳は、しっかりと自分の記憶をひも解いて判断していたのだ。
「次は、あり得ないことを想像してやるぞ!」
意味なく、闘志を燃やしたのだった。
南側の薪小屋ですが、八ヶ岳下ろしがまっすぐに吹いてくる場所にあります。
アップにすると、こんな感じ。犯人は、意外な場所に居る!
午後1時の富士山。朝のような雪煙は見られませんでしたが、
雲がいい感じにたなびいていて、綺麗でした。
八ヶ岳を覆った雲が、風に飛ばされていきます。
夕方には、北風もやみました。薪小屋の波板の音も、もうしません。
やっぱ、八ヶ岳って綺麗! 個人的には、富士山より綺麗だと思います。
朝7時前、駅まで送る車のなかで、富士山を見て夫が言った。
「せつえん、って何?」と、わたし。
「雪が風に飛ばされて、煙みたいに見えるやつだよ。雪煙」
昨日の朝は、それほどに風が強かった。八ヶ岳にも、八ヶ岳下ろしを吹かせる雲が、べったりと張りついている。
「春一番、じゃあないね」「完全に、北風だ」
目覚める前も、夜中じゅう、家が揺れるほどの風が吹いていた。眠りも浅く、様々な音が聞こえる。「あれ?可笑しいな」と思うような音がしても、半分眠りのなかにいて起きて確かめようとは思わない。
一昨日は、玄関でバスケットボールをドリブルする音が聞こえた。上の娘は小学生の頃、バスケをやっていて、よく玄関でボールをついていた。しかし、その娘は今、カナダにいるはずだ。はっと気づく。夫が階段を降りる音だった。
そして、昨日の朝浅い眠りのなかで聞いた音は、水道水がちょろちょろと流れている音だった。「蛇口がちゃんと閉まってないのかな?」だが、朝確かめてみても、何処からも水は漏れていない。それでも、音はやむ様子はなく、夢のなかで聞いた訳でもなさそうだ。耳をすませて音の方向を確認する。外からだった。薪小屋の屋根に貼ったプラスチックの波板が壊れ、それが北風に揺られて鳴いていたのだ。「キー」と「チー」の間のような、人間が発するのは難しい音がしていた。
犯人が割れ、全く違う音なのに、バスケットボールの音だと思ったり、蛇口の閉め忘れだと思ったりする自分を笑った。どうせなら、もっと違う音をききたかった。例えば、小川のせせらぎとか。けれど、わたしの耳は、しっかりと自分の記憶をひも解いて判断していたのだ。
「次は、あり得ないことを想像してやるぞ!」
意味なく、闘志を燃やしたのだった。
南側の薪小屋ですが、八ヶ岳下ろしがまっすぐに吹いてくる場所にあります。
アップにすると、こんな感じ。犯人は、意外な場所に居る!
午後1時の富士山。朝のような雪煙は見られませんでしたが、
雲がいい感じにたなびいていて、綺麗でした。
八ヶ岳を覆った雲が、風に飛ばされていきます。
夕方には、北風もやみました。薪小屋の波板の音も、もうしません。
やっぱ、八ヶ岳って綺麗! 個人的には、富士山より綺麗だと思います。
ゆるく生きるのも難しい
歯を食いしばるのが、自分の癖だということは、判っている。
意識して俯瞰し始めると、気づいた時、常に歯を食いしばっていて、それは、リラックスしているはずの珈琲をドリップしている時や、読書をしている時にさえもみられる症状なのだ。
クレンチング症候群という名がついていることは、最近知った。そうだろうとは思っていたが、ひどい肩こりや首のこりの原因の一つは、歯を食いしばっていることにもあるようだ。
予防法はと調べてみると「ストレスを失くす」「ストレッチする」など。
ストレッチがストレスになる場合は、どうすればいいんだ? などと考えつつ、毎朝の体操は続けている。ストレッチとも言えない「肩ポン体操」という名のゆるーい体操だ。右手で左肩をポンと叩き、左手で右肩をまたポンと叩く。次は、腰にポン。ポン。その繰り返しの簡単なものだが、遠心力に身体を任せる感じがけっこう気持ちがいい。
「きみの体操は、どうしてそんなに、ゆるいの?」
夫は言うが、それも当然のことだ。彼はサッカーを続けるために、トレーナーについて教わり、自分の身体にあわせたストレッチを、毎日欠かさず念入りに行っている。わたしには、絶対にできないことである。できないことだと彼も判って言っているので聞き流し、ゆるく体操を続ける。そのあいだにも、歯を食いしばっていることに気づき、力を抜く。
「歯を食いしばるの、癖なんだよねー」と、夫に言うと驚かれた。
「ぼーっとしながら、歯を食いしばることなんてできるの?」
力を抜いて、ゆるく生きていくのだって、とっても難しいことなのだ。
カナダでワーキングホリデー中の娘の部屋で留守を守る、リラックマ達。
肩ポン体操を実演してもらおうと思ったら、手が肩に届きませんでした。
ゆるく生きるには、どうしたら、いいんでしょうか? リラックマさん。
意識して俯瞰し始めると、気づいた時、常に歯を食いしばっていて、それは、リラックスしているはずの珈琲をドリップしている時や、読書をしている時にさえもみられる症状なのだ。
クレンチング症候群という名がついていることは、最近知った。そうだろうとは思っていたが、ひどい肩こりや首のこりの原因の一つは、歯を食いしばっていることにもあるようだ。
予防法はと調べてみると「ストレスを失くす」「ストレッチする」など。
ストレッチがストレスになる場合は、どうすればいいんだ? などと考えつつ、毎朝の体操は続けている。ストレッチとも言えない「肩ポン体操」という名のゆるーい体操だ。右手で左肩をポンと叩き、左手で右肩をまたポンと叩く。次は、腰にポン。ポン。その繰り返しの簡単なものだが、遠心力に身体を任せる感じがけっこう気持ちがいい。
「きみの体操は、どうしてそんなに、ゆるいの?」
夫は言うが、それも当然のことだ。彼はサッカーを続けるために、トレーナーについて教わり、自分の身体にあわせたストレッチを、毎日欠かさず念入りに行っている。わたしには、絶対にできないことである。できないことだと彼も判って言っているので聞き流し、ゆるく体操を続ける。そのあいだにも、歯を食いしばっていることに気づき、力を抜く。
「歯を食いしばるの、癖なんだよねー」と、夫に言うと驚かれた。
「ぼーっとしながら、歯を食いしばることなんてできるの?」
力を抜いて、ゆるく生きていくのだって、とっても難しいことなのだ。
カナダでワーキングホリデー中の娘の部屋で留守を守る、リラックマ達。
肩ポン体操を実演してもらおうと思ったら、手が肩に届きませんでした。
ゆるく生きるには、どうしたら、いいんでしょうか? リラックマさん。
『火星に住むつもりかい?』
伊坂幸太郎の新刊『火星に住むつもりかい?』(光文社)を、読んだ。
平和警察なるものが、日本を支配していくストーリーだ。小説は、危険人物と思われる人間を逮捕し、冤罪であろうとなかろうと、物見遊山の人だかりのなか公開処刑する世の中を描いている。これから罪を犯す恐れがある、というのだから証拠はいらないのだ。
人は、慣れていく。こういうものだと、思ってしまう。自分が、処刑される側にさえならなければ、その可笑しな世の中に疑問を持つ気持ちも、自然消滅する。こんなのは可笑しいと声を上げる人は、次々に処刑される。余計に、誰も何も言わなくなる。戦時中の日本を思わせるような状況が、物語のなかでは、リアルに創られていた。以下、本文から。
「あの、正義って何でしょう」それは本心から生まれた質問だった。
警察とは治安を守る、正義の側の組織ではないのか。しかも平和警察には「平和」の文字もある。そのメンバーがこうして、自分を閉じ込め、恐ろしい話をしてくるのが信じがたかった。しまいには「それなら火星にでも住めばいいだろうに」と捨て台詞にも似たことを言うのだ。
加護エイジは憐れみをたっぷりと浮かべ、笑った。
「こちらの正義は、あちらの悪、そんなことはあちこちにある。どんな正当な罰でも、受けた側からすれば悪、となるからね。だいたいどんな戦争だって、はじまるときの第一声は同じだというよ」「何ですか」
「『みんなの大事なものを守るために!』」加護エイジが目を細める。
「戦争はそのかけ声ではじまる」
読み始めると、止まらなかった。分厚さを感じず、一気読みした。伊坂は、インタビューで娯楽小説だと言っている。無論、面白かった。胸に痛みを覚えつつも、読み進めずにはいられない面白さがあった。しかし、伊坂に問いただしたいような気持にもなる。
「これ、これから起こる本当の話じゃないですよね?」
もちろん、伊坂は、笑って否定するだろうが。
英語タイトルは『LIFE ON MARS?』伊坂が、よく聴く
デヴィッド・ボウイの曲だそうです。その和訳は「火星に生物が?」
それをこの本のタイトルのような意味だと、勘違いしていたとか。
本を開くと、綺麗なラベンダー色の見返し。栞も、合わせた色です。
平和警察なるものが、日本を支配していくストーリーだ。小説は、危険人物と思われる人間を逮捕し、冤罪であろうとなかろうと、物見遊山の人だかりのなか公開処刑する世の中を描いている。これから罪を犯す恐れがある、というのだから証拠はいらないのだ。
人は、慣れていく。こういうものだと、思ってしまう。自分が、処刑される側にさえならなければ、その可笑しな世の中に疑問を持つ気持ちも、自然消滅する。こんなのは可笑しいと声を上げる人は、次々に処刑される。余計に、誰も何も言わなくなる。戦時中の日本を思わせるような状況が、物語のなかでは、リアルに創られていた。以下、本文から。
「あの、正義って何でしょう」それは本心から生まれた質問だった。
警察とは治安を守る、正義の側の組織ではないのか。しかも平和警察には「平和」の文字もある。そのメンバーがこうして、自分を閉じ込め、恐ろしい話をしてくるのが信じがたかった。しまいには「それなら火星にでも住めばいいだろうに」と捨て台詞にも似たことを言うのだ。
加護エイジは憐れみをたっぷりと浮かべ、笑った。
「こちらの正義は、あちらの悪、そんなことはあちこちにある。どんな正当な罰でも、受けた側からすれば悪、となるからね。だいたいどんな戦争だって、はじまるときの第一声は同じだというよ」「何ですか」
「『みんなの大事なものを守るために!』」加護エイジが目を細める。
「戦争はそのかけ声ではじまる」
読み始めると、止まらなかった。分厚さを感じず、一気読みした。伊坂は、インタビューで娯楽小説だと言っている。無論、面白かった。胸に痛みを覚えつつも、読み進めずにはいられない面白さがあった。しかし、伊坂に問いただしたいような気持にもなる。
「これ、これから起こる本当の話じゃないですよね?」
もちろん、伊坂は、笑って否定するだろうが。
英語タイトルは『LIFE ON MARS?』伊坂が、よく聴く
デヴィッド・ボウイの曲だそうです。その和訳は「火星に生物が?」
それをこの本のタイトルのような意味だと、勘違いしていたとか。
本を開くと、綺麗なラベンダー色の見返し。栞も、合わせた色です。
ふきのとうの探し方
北風もやわらかかった一昨日の朝、久しぶりに散歩した。ふきのとうを採りに、でかけたのだ。
そこは、毎年、この季節になると歩く場所で、びっきーともよく散歩した。
庭のふきのとうは、まだまだ沈黙を守っているが、そろそろ陽当たりなどによっては、頭を出している場所もあるだろうと、歩いたみることにしたのだ。
堰(農業用水)沿いに、毎年採れる場所があるのは判っていたが、その年によって、少しずつ場所がずれたり、花の数も違ってくる。昨年は、誰かに先を越されてしまい、悔しい思いもした。
夫は、堰沿いの道にさしかかると、靴で枯れ葉を散らし、探し始めた。わたしは、ただ目を凝らしてゆっくりと歩いていく。その探し方の違いに、たがいの性格がよく表れているなぁと可笑しく思いつつ、それでも目的は同じであるので、たがいの探し方には文句をつけることもなく、探す。探す。探す。
「あ、モグラが通った痕がある」であるとか、
「びっきー、ここ、怖がって遠回りしてたよね」などと話す間も、探す。
「あった!」最初に見つけたのは、わたしだった。
ぽつんとひとつ、枯れ葉の間から顔を出していたのだ。ふたりでその周辺の枯れ葉を散らすと、次々と見つかった。
「ふたりで天麩羅だから、そんなにいっぱい、いらないよね」余裕である。
「あった!」次の場所を見つけたのは、夫だった。
枯れ葉散らし作戦が、功を奏し、美味しそうなかたい蕾を発見。ふきのとうは、花が咲く前の方が断然、美味いのだ。
「まだ、これからみたいだから、隠しておこう」
夫は、採った後、散らした枯れ葉をもと通りにしている。
何をするにも、やり方が違うわたし達だが、ふきのとうの天麩羅を美味しく食べたのは、一緒だ。週末も、ふきのとう、採れるといいな。
あった! 一番最初に見つけたふきのとう。見つけると、うれしい~。
堰の向こうは、陽当りがいいみたいで、すでに咲いていました。
枯れ葉のじゅうたんに穴をあけましたね、モグラくん。
収穫は9個のみ。ふたりで食べるには、じゅうぶんです。
そこは、毎年、この季節になると歩く場所で、びっきーともよく散歩した。
庭のふきのとうは、まだまだ沈黙を守っているが、そろそろ陽当たりなどによっては、頭を出している場所もあるだろうと、歩いたみることにしたのだ。
堰(農業用水)沿いに、毎年採れる場所があるのは判っていたが、その年によって、少しずつ場所がずれたり、花の数も違ってくる。昨年は、誰かに先を越されてしまい、悔しい思いもした。
夫は、堰沿いの道にさしかかると、靴で枯れ葉を散らし、探し始めた。わたしは、ただ目を凝らしてゆっくりと歩いていく。その探し方の違いに、たがいの性格がよく表れているなぁと可笑しく思いつつ、それでも目的は同じであるので、たがいの探し方には文句をつけることもなく、探す。探す。探す。
「あ、モグラが通った痕がある」であるとか、
「びっきー、ここ、怖がって遠回りしてたよね」などと話す間も、探す。
「あった!」最初に見つけたのは、わたしだった。
ぽつんとひとつ、枯れ葉の間から顔を出していたのだ。ふたりでその周辺の枯れ葉を散らすと、次々と見つかった。
「ふたりで天麩羅だから、そんなにいっぱい、いらないよね」余裕である。
「あった!」次の場所を見つけたのは、夫だった。
枯れ葉散らし作戦が、功を奏し、美味しそうなかたい蕾を発見。ふきのとうは、花が咲く前の方が断然、美味いのだ。
「まだ、これからみたいだから、隠しておこう」
夫は、採った後、散らした枯れ葉をもと通りにしている。
何をするにも、やり方が違うわたし達だが、ふきのとうの天麩羅を美味しく食べたのは、一緒だ。週末も、ふきのとう、採れるといいな。
あった! 一番最初に見つけたふきのとう。見つけると、うれしい~。
堰の向こうは、陽当りがいいみたいで、すでに咲いていました。
枯れ葉のじゅうたんに穴をあけましたね、モグラくん。
収穫は9個のみ。ふたりで食べるには、じゅうぶんです。
『繕い裁つ人』
映画『繕い裁つ人』を、観た。
監督は『しあわせのパン』を撮った三島有紀子。脚本は『ゴールデンスランバー』の林民夫である。神戸の坂道や階段が、美しく撮られた映画だった。
舞台は、ポートタワーを見下ろせる坂の上にある「南洋裁店」そこでは二代目、南市江(中谷美紀)がひとり、先代である祖母から受け継いだ足踏みミシンを踏み、一枚一枚丁寧に洋服を仕立てていた。
そこに足しげく通うのは大手デパート服飾に務める藤井(三浦貴大)。彼は、市江の服をブランド化し、多くの人にその良さを判ってもらおうと営業に来ていた。市江は何度も断るが、藤井は毎日のように足を運ぶ。いつしか、市江の仕事ぶりに魅了されていたのだ。
南洋裁店の仕事は、洋服を仕立てるよりも、作った服を仕立て直すことの方が多かった。市江の祖母が仕立てた服を大切に着ていて、体型の変化や、破れた時、また母が着ていた服を着たいなどと持ち込んでくる近所の人が、ひっきりなしにやってくる。市江が仕立てる洋服もまた、祖母のデザインしたものに限られていた。
そんな市江を理解していきながらも、藤井は「市江さんは、自分がデザインした洋服を作り、先代を越えたいと思っているはず」と説得するのだった。
印象に残ったのは、チーズケーキのシーンだ。市江は、行きつけの喫茶店でひとり、ホールのチーズケーキを食べる習慣があった。その味が、いつもと違うと感じたその時、自分の心の変化に気づく。創業以来変わらぬ食べなれた味も、食べる自分の心持ちが変われば違って感じるのだ。人は変わっていく。変わらぬ部分を大切にしながらも、否応なしに変わっていくものなのだと。
あなたの、「人生を変える一着」を仕立てます。
プログラムの最初のページには、この言葉が。映画のテーマにも通じます。
仕事服姿でミシンを踏む、市江。頑固じじいとも言われる職人肌の彼女は、
中谷美紀以外にはできないと思うほど、ぴたりとハマっていました。
映画では片桐はいりがやっている雑貨屋さん。実在するそうです。
今度神戸に帰省した際に、ぜひ行ってみようと思います。
監督は『しあわせのパン』を撮った三島有紀子。脚本は『ゴールデンスランバー』の林民夫である。神戸の坂道や階段が、美しく撮られた映画だった。
舞台は、ポートタワーを見下ろせる坂の上にある「南洋裁店」そこでは二代目、南市江(中谷美紀)がひとり、先代である祖母から受け継いだ足踏みミシンを踏み、一枚一枚丁寧に洋服を仕立てていた。
そこに足しげく通うのは大手デパート服飾に務める藤井(三浦貴大)。彼は、市江の服をブランド化し、多くの人にその良さを判ってもらおうと営業に来ていた。市江は何度も断るが、藤井は毎日のように足を運ぶ。いつしか、市江の仕事ぶりに魅了されていたのだ。
南洋裁店の仕事は、洋服を仕立てるよりも、作った服を仕立て直すことの方が多かった。市江の祖母が仕立てた服を大切に着ていて、体型の変化や、破れた時、また母が着ていた服を着たいなどと持ち込んでくる近所の人が、ひっきりなしにやってくる。市江が仕立てる洋服もまた、祖母のデザインしたものに限られていた。
そんな市江を理解していきながらも、藤井は「市江さんは、自分がデザインした洋服を作り、先代を越えたいと思っているはず」と説得するのだった。
印象に残ったのは、チーズケーキのシーンだ。市江は、行きつけの喫茶店でひとり、ホールのチーズケーキを食べる習慣があった。その味が、いつもと違うと感じたその時、自分の心の変化に気づく。創業以来変わらぬ食べなれた味も、食べる自分の心持ちが変われば違って感じるのだ。人は変わっていく。変わらぬ部分を大切にしながらも、否応なしに変わっていくものなのだと。
あなたの、「人生を変える一着」を仕立てます。
プログラムの最初のページには、この言葉が。映画のテーマにも通じます。
仕事服姿でミシンを踏む、市江。頑固じじいとも言われる職人肌の彼女は、
中谷美紀以外にはできないと思うほど、ぴたりとハマっていました。
映画では片桐はいりがやっている雑貨屋さん。実在するそうです。
今度神戸に帰省した際に、ぜひ行ってみようと思います。
うっかりなわたしの環境保護について
環境保護に対する意識は、きちんと持っているつもりだが、うっかりな性格だけは、どうにも変わらず「失敗した!」と思うことがよくある。
例えば、スーパーなどではマイバックを使い、袋は欲しい時には購入する形になっているのでいいのだが、その状況に慣れているせいもあり、本屋やコンビニなどで「袋いりません」の言葉がワンテンポ遅れ、すでに袋に入れられていることが多い。全く本当に、うっかりである。
また例えば、セルフサービスではない珈琲屋で、店員さんが行ってしまう前に「砂糖とミルク、いりません」というのを忘れることもあり「失敗した! この砂糖とミルクは捨てられてしまうんだな」と、悲しい気持ちになったりもする。これもまた、うっかりである。
様々なシーンで気をつけていないと、うっかりなわたしは、小さく環境保護に貢献することも難しいのだ。気をつけようと、がんばってはいるのだが。
ところで、今年ももうすぐJリーグが開幕する。毎年、ヴォンフォーレ甲府のホームゲームを観に行くと、ドリンクのリサイクルカップの徹底には、心地よい潔さを感じる。購入時に百円プラスした金額を支払い、リサイクルコーナーで使用後のカップを百円と交換してもらう仕組みなのだ。この方法、すごくいいなと思う。何処がいいって何しろ、うっかりする暇がないのがいい。
まあ、その有無を言わせないやり方には、異論を唱える人もいるかも知れないが、様々な人が様々な方法を模索しているのだ。
うっかりなわたしも、模索中。いったい、どうしたらいいんでしょうねぇ。
お砂糖さん、ごめんなさい。これからは持ち帰る勇気を、持とうかな。
半蔵門駅近くの珈琲館のアメリカン。好きな味でした。
例えば、スーパーなどではマイバックを使い、袋は欲しい時には購入する形になっているのでいいのだが、その状況に慣れているせいもあり、本屋やコンビニなどで「袋いりません」の言葉がワンテンポ遅れ、すでに袋に入れられていることが多い。全く本当に、うっかりである。
また例えば、セルフサービスではない珈琲屋で、店員さんが行ってしまう前に「砂糖とミルク、いりません」というのを忘れることもあり「失敗した! この砂糖とミルクは捨てられてしまうんだな」と、悲しい気持ちになったりもする。これもまた、うっかりである。
様々なシーンで気をつけていないと、うっかりなわたしは、小さく環境保護に貢献することも難しいのだ。気をつけようと、がんばってはいるのだが。
ところで、今年ももうすぐJリーグが開幕する。毎年、ヴォンフォーレ甲府のホームゲームを観に行くと、ドリンクのリサイクルカップの徹底には、心地よい潔さを感じる。購入時に百円プラスした金額を支払い、リサイクルコーナーで使用後のカップを百円と交換してもらう仕組みなのだ。この方法、すごくいいなと思う。何処がいいって何しろ、うっかりする暇がないのがいい。
まあ、その有無を言わせないやり方には、異論を唱える人もいるかも知れないが、様々な人が様々な方法を模索しているのだ。
うっかりなわたしも、模索中。いったい、どうしたらいいんでしょうねぇ。
お砂糖さん、ごめんなさい。これからは持ち帰る勇気を、持とうかな。
半蔵門駅近くの珈琲館のアメリカン。好きな味でした。
少年ジャンプのページの合間に
子どもの頃、家の軒下に、古いソファが置いてあった。
ところどころ、スプリングが飛び出たそのソファは、父が何処からか拾ってきたのだろうか。借家なのに、トタン屋根を打ちつけた軒下を作ったのも、父だった。そこには、近所の子ども達がたまり、じめじめした雨の日には、湿ったソファで、誰かが置いていった少年ジャンプや少年マガジンを読んでは、笑ったり真剣な顔つきをしたりしていた。弟も含め、男子率が高かったのだ。
縁日で買ったヒヨコが育ち、雌と言われて買ったのに立派なトサカを揺らす雄に育ったニワトリの小屋も、そこに父が作った。「ココ、ココ」と鳴くニワトリの声と、とうもろこしが混ざった餌の匂いを、今も思い出す。
六畳間に5人家族が川の字になって寝ていたことにも、風呂がなく銭湯に通っていたことにも、玄関の引き戸には鍵がなくつっかえ棒を鍵の代わりにしていたことにも、何ら疑問を持たず生きていたあの頃。裕福だと思ったことはなかったが、自分の家が世界の中心にあり、何処の家もそんな風なのだろうと考えていたのだと思う。
あの軒下の湿ったソファは、コージーコーナー(居心地のいい場所)だったなと、最近になって思う。「自由」なんてものが、見え隠れしていたのかも知れない。たぶん、雨に濡れてくっついた少年ジャンプのページの合間とかに。
長嶋有『サイドカーに犬』を読みました。『猛スピードで母は』(文春文庫)に収録されています。竹内結子主演で、映画化された小説です。
小4の頃を思い出す女性が主人公。時代設定もなつかしい感じがしました。
だからかな、子どもの頃を思い出したのは。単純(笑)
芥川賞受賞作『猛スピードで母は』は、これから。楽しみです。
最近カモミール&アップルティーに、ハマっています。
ところどころ、スプリングが飛び出たそのソファは、父が何処からか拾ってきたのだろうか。借家なのに、トタン屋根を打ちつけた軒下を作ったのも、父だった。そこには、近所の子ども達がたまり、じめじめした雨の日には、湿ったソファで、誰かが置いていった少年ジャンプや少年マガジンを読んでは、笑ったり真剣な顔つきをしたりしていた。弟も含め、男子率が高かったのだ。
縁日で買ったヒヨコが育ち、雌と言われて買ったのに立派なトサカを揺らす雄に育ったニワトリの小屋も、そこに父が作った。「ココ、ココ」と鳴くニワトリの声と、とうもろこしが混ざった餌の匂いを、今も思い出す。
六畳間に5人家族が川の字になって寝ていたことにも、風呂がなく銭湯に通っていたことにも、玄関の引き戸には鍵がなくつっかえ棒を鍵の代わりにしていたことにも、何ら疑問を持たず生きていたあの頃。裕福だと思ったことはなかったが、自分の家が世界の中心にあり、何処の家もそんな風なのだろうと考えていたのだと思う。
あの軒下の湿ったソファは、コージーコーナー(居心地のいい場所)だったなと、最近になって思う。「自由」なんてものが、見え隠れしていたのかも知れない。たぶん、雨に濡れてくっついた少年ジャンプのページの合間とかに。
長嶋有『サイドカーに犬』を読みました。『猛スピードで母は』(文春文庫)に収録されています。竹内結子主演で、映画化された小説です。
小4の頃を思い出す女性が主人公。時代設定もなつかしい感じがしました。
だからかな、子どもの頃を思い出したのは。単純(笑)
芥川賞受賞作『猛スピードで母は』は、これから。楽しみです。
最近カモミール&アップルティーに、ハマっています。
リースリングとベトナム風鍋
ここ2年ほど、夫がベトナムに出張することが、多くなった。
「食べ物が、美味しいんだ」との土産話ばかりで、想像を膨らませるのみだったが、ベトナム料理に挑戦してみることにした。
とは言っても、あくまでベトナム風。豚ひき肉と海老の団子鍋が、雑誌『dancyu(だんちゅう)』の「鍋とリースリング」特集に載っていたのだ。
「あれ? スープの味つけ、ナンプラーだけだよ。いいのかな」
「生パクチー、売ってなかった。乾燥パクチー、香りイマイチだよ」
「フォーって、茹でるの? それとも、戻すだけでいいのかな?」
などと言いつつ、わたしは食べたことのない料理なので、よく判らないままに、レシピに忠実に作った。ナンプラーは、いい匂いとは言えなかった。
だが、夫はナンプラーのスープが煮たってくるや否や「これだよ! この匂い」と、大きくうなずいた。
料理というのは不思議なもので「これが美味いんだ」と自信を持って言われると、美味しいような気がしてくる。ベトナム料理に慣れ親しんだ夫の「これだよ!」は、わたしにも魔法をかけた。さっきまでの疑念「何か変な匂いだな」との思いは払拭され、その匂いは、いつの間にやら、たまらなくいい匂いに変わっていた。そして、海老団子鍋は、何ともスパイシーで美味しかったのだ。
無論、前回の失敗を忘れず、たっぷりとリースリングを冷やしておいた。アジアな鍋にぴったりのその辛口の白ワインを、夫は嬉しそうにグラスに注いだ。
リースリングは、チリのコノスル(700円)辛口すっきりタイプです。
生パクチーの代わりに、イタリアンパセリを飾りました。
仕上げはフォーで。調味料ナンプラー、ハマりそうです。
「食べ物が、美味しいんだ」との土産話ばかりで、想像を膨らませるのみだったが、ベトナム料理に挑戦してみることにした。
とは言っても、あくまでベトナム風。豚ひき肉と海老の団子鍋が、雑誌『dancyu(だんちゅう)』の「鍋とリースリング」特集に載っていたのだ。
「あれ? スープの味つけ、ナンプラーだけだよ。いいのかな」
「生パクチー、売ってなかった。乾燥パクチー、香りイマイチだよ」
「フォーって、茹でるの? それとも、戻すだけでいいのかな?」
などと言いつつ、わたしは食べたことのない料理なので、よく判らないままに、レシピに忠実に作った。ナンプラーは、いい匂いとは言えなかった。
だが、夫はナンプラーのスープが煮たってくるや否や「これだよ! この匂い」と、大きくうなずいた。
料理というのは不思議なもので「これが美味いんだ」と自信を持って言われると、美味しいような気がしてくる。ベトナム料理に慣れ親しんだ夫の「これだよ!」は、わたしにも魔法をかけた。さっきまでの疑念「何か変な匂いだな」との思いは払拭され、その匂いは、いつの間にやら、たまらなくいい匂いに変わっていた。そして、海老団子鍋は、何ともスパイシーで美味しかったのだ。
無論、前回の失敗を忘れず、たっぷりとリースリングを冷やしておいた。アジアな鍋にぴったりのその辛口の白ワインを、夫は嬉しそうにグラスに注いだ。
リースリングは、チリのコノスル(700円)辛口すっきりタイプです。
生パクチーの代わりに、イタリアンパセリを飾りました。
仕上げはフォーで。調味料ナンプラー、ハマりそうです。
クリーニング屋のおばちゃん
土曜の夕方。1週間分の夫のYシャツが、クリーニングからあがってきた。
ホッとして、胸を撫で下ろす。いろいろあって出すのが遅くなり、仕上がってくるか不安だったのだ。急いで仕上げてもらい、感謝である。
だが、その「いろいろ」のひとつには、クリーニング屋のおばちゃんがおしゃべり好きだと言うことが含まれる。出がけにちょっと寄って、と思っていたら、電車に乗り過ごした。などということになり兼ねず、ここ山梨で電車に乗り過ごすと、30分や1時間は、次の電車まで待たねばならず、ちょっと寄る訳にはいかないのだ。
けれど、そのおばちゃんとのおしゃべりは、楽しみでもある。
そう言えば、末娘が小学生の頃、よく連れて行ったものだったが、彼女も、おばちゃんにとてもなついていた。可愛がってくれる大人を瞬時に察知し、甘えるのが上手な子どもだったのだ。
「ワンちゃん、見せてください」はきはきと、笑顔で言う。
おばちゃんは「いいよ。吠えるけど、噛まないからね」などと嫌な顔一つせず、いつでもミニチュアダックスフントを、抱えて来てくれた。
「夏休みは、何してるの?」と聞かれれば、娘は胸を張って答える。
「ごろごろ、してます」おばちゃんは「それが一番さよ」と笑っていた。
ある時など「全く、ほんとに、いつもいつも可愛いんだから。お小遣いあげちゃう!」と言って、何と百円玉を娘に握らせていた。
娘は、満面の笑みをたたえ「ありがとう!」と、はきはきと礼を言っている。
もし、それが7つ年上の息子の時だったら、母親1年生らしく杓子定規に「理由もなく、お金なんて貰えません」と、返していたかも知れないが、母親になって10年以上経っていたわたしは「おばちゃん、しょうがないなぁ」と苦笑し「よかったね」と、娘に言ったのだった。
おばちゃんは、最近、娘の話をすると、ちょっと淋しそうにする。
「もう二十歳になったんですよ」と、わたしが言うと、目を細めて、
「あんなんちっちゃかったのに、もう二十歳けぇ」と甲州弁で言いながら。
だからいつも、時間に余裕をもって、おばちゃんの店に向かうのだ。
クリーニング屋さんとは関係ありませんが、夫がもらってきた洗濯用石鹸。
単身赴任中の高校時代の友人が、何ともマメな人で、愛用しているそうです。
飲み会で「おまえも、洗えや」と神戸の言葉で言いつつ配っていたとか。
ホッとして、胸を撫で下ろす。いろいろあって出すのが遅くなり、仕上がってくるか不安だったのだ。急いで仕上げてもらい、感謝である。
だが、その「いろいろ」のひとつには、クリーニング屋のおばちゃんがおしゃべり好きだと言うことが含まれる。出がけにちょっと寄って、と思っていたら、電車に乗り過ごした。などということになり兼ねず、ここ山梨で電車に乗り過ごすと、30分や1時間は、次の電車まで待たねばならず、ちょっと寄る訳にはいかないのだ。
けれど、そのおばちゃんとのおしゃべりは、楽しみでもある。
そう言えば、末娘が小学生の頃、よく連れて行ったものだったが、彼女も、おばちゃんにとてもなついていた。可愛がってくれる大人を瞬時に察知し、甘えるのが上手な子どもだったのだ。
「ワンちゃん、見せてください」はきはきと、笑顔で言う。
おばちゃんは「いいよ。吠えるけど、噛まないからね」などと嫌な顔一つせず、いつでもミニチュアダックスフントを、抱えて来てくれた。
「夏休みは、何してるの?」と聞かれれば、娘は胸を張って答える。
「ごろごろ、してます」おばちゃんは「それが一番さよ」と笑っていた。
ある時など「全く、ほんとに、いつもいつも可愛いんだから。お小遣いあげちゃう!」と言って、何と百円玉を娘に握らせていた。
娘は、満面の笑みをたたえ「ありがとう!」と、はきはきと礼を言っている。
もし、それが7つ年上の息子の時だったら、母親1年生らしく杓子定規に「理由もなく、お金なんて貰えません」と、返していたかも知れないが、母親になって10年以上経っていたわたしは「おばちゃん、しょうがないなぁ」と苦笑し「よかったね」と、娘に言ったのだった。
おばちゃんは、最近、娘の話をすると、ちょっと淋しそうにする。
「もう二十歳になったんですよ」と、わたしが言うと、目を細めて、
「あんなんちっちゃかったのに、もう二十歳けぇ」と甲州弁で言いながら。
だからいつも、時間に余裕をもって、おばちゃんの店に向かうのだ。
クリーニング屋さんとは関係ありませんが、夫がもらってきた洗濯用石鹸。
単身赴任中の高校時代の友人が、何ともマメな人で、愛用しているそうです。
飲み会で「おまえも、洗えや」と神戸の言葉で言いつつ配っていたとか。
紅しぐれをおろして
紫色だが、紅しぐれという名だそうだ。大根である。
「おろして食べると、美味しいよ」
家庭菜園をしている近所の方に、いただいた。霜が降りる時期でも、収穫できるらしい。アドバイス通りに、おろしてみると、紫が綺麗だ。辛みはやわらかく、旨味が濃い。
「時雨(しぐれ)」を辞書でひくと「初冬の頃、一時風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨」とある。また「涙をこぼして泣く様」とも。風情のある言葉を名に持つ大根だ。
「時雨」という字からも、容易に連想できるが、雨とは気まぐれなものだ。
空から降る雨も然り、心のなかで降る雨も然り。ついこの間、乾燥した指の爪が欠けただけで、たったそれだけのことなのだが、突然ほろほろと涙がこぼれた。痛くもなければ、特別、悲しいことがあった訳でもないのに、バイオリズムなのだろうか。それが自分でも、全く判らない。
そんなことを思い出しつつ、紫色に染まっていく大根をおろした。大根をいくら切ってもおろしても、涙がこぼれることはなかった。
しっぽの方が、やわらかい紫。首の方が、濃い紫色です。
切ると、なかは白いんですね。
ですが、薄く皮もむいたのに、綺麗な紫色の大根おろしになりました。
昨日の朝食です。前日食べそびれた、ぶりを塩焼きにしました。
田舎汁も、前日の残りですが、大根が紫色なだけで、何か特別な感じ。
「おろして食べると、美味しいよ」
家庭菜園をしている近所の方に、いただいた。霜が降りる時期でも、収穫できるらしい。アドバイス通りに、おろしてみると、紫が綺麗だ。辛みはやわらかく、旨味が濃い。
「時雨(しぐれ)」を辞書でひくと「初冬の頃、一時風が強まり、急にぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨」とある。また「涙をこぼして泣く様」とも。風情のある言葉を名に持つ大根だ。
「時雨」という字からも、容易に連想できるが、雨とは気まぐれなものだ。
空から降る雨も然り、心のなかで降る雨も然り。ついこの間、乾燥した指の爪が欠けただけで、たったそれだけのことなのだが、突然ほろほろと涙がこぼれた。痛くもなければ、特別、悲しいことがあった訳でもないのに、バイオリズムなのだろうか。それが自分でも、全く判らない。
そんなことを思い出しつつ、紫色に染まっていく大根をおろした。大根をいくら切ってもおろしても、涙がこぼれることはなかった。
しっぽの方が、やわらかい紫。首の方が、濃い紫色です。
切ると、なかは白いんですね。
ですが、薄く皮もむいたのに、綺麗な紫色の大根おろしになりました。
昨日の朝食です。前日食べそびれた、ぶりを塩焼きにしました。
田舎汁も、前日の残りですが、大根が紫色なだけで、何か特別な感じ。
珈琲のフィルター
買いそびれていた珈琲のフィルターを、ようやく購入した。
切らしていたのは、1人から2人用のもので、3人から5人用のものが手元にあり、大は小を兼ねる訳で、それを切っては使っていた。
だが、上手く切るのが難しく、ぴたりとドリッパーに合わず、ドリップしながら落ち着かない気持ちになっていたのだ。
♪ ひとり、ふたり、3人、のインディアン ♪
意味なく口ずさみつつ、考える。片づけられない女代表であるわたしには「3」より大きい数字は「たくさん」と数えるしかなく、さっき飲んだ珈琲のフィルターを片づける時にさえ、このなかにいくつの粒が、豆を挽いた粒があるのかとふと考えてしまい、眩暈を起こす。
経理事務をしている者が、みな数字に強いと思うのは、知らぬ者の錯覚である。苦手なことをやるときには、慎重になるもので、その慎重さが、経理事務にはもっとも必要なことなのだ。
しかし、購入したフィルターをドリッパーにセットして、笑った。ドリッパーよりもかなり大きい。なんだよ。わたしが不器用に切ったフィルターと何ら変わりないじゃん、と。
機械で作られたものの方が正しいと思い込んでいたが、だいたい正しいって何よ、と自分を笑い、淹れたての珈琲をすっきりした気持ちで味わった。
どうしてもいびつになってしまう、わたしの鋏技術。
O型にあるまじき行為ですが、スケールでグラムを量っています。
ひとり分10gですが、二人分飲むので20g。
21g、ま、いっか。って、量る意味あるのか?
煎りたては、膨らむなぁ。最近のお気に入りは、マサマキリマンジャロ。
タンザニアの酸味が勝った豆です。ガラムマサラではありません。
マイカップは、フリーカップとして売られていたもの。
なみなみと注いで、右手くんがあつっと言うのを聞きつつ、飲んでいます。
切らしていたのは、1人から2人用のもので、3人から5人用のものが手元にあり、大は小を兼ねる訳で、それを切っては使っていた。
だが、上手く切るのが難しく、ぴたりとドリッパーに合わず、ドリップしながら落ち着かない気持ちになっていたのだ。
♪ ひとり、ふたり、3人、のインディアン ♪
意味なく口ずさみつつ、考える。片づけられない女代表であるわたしには「3」より大きい数字は「たくさん」と数えるしかなく、さっき飲んだ珈琲のフィルターを片づける時にさえ、このなかにいくつの粒が、豆を挽いた粒があるのかとふと考えてしまい、眩暈を起こす。
経理事務をしている者が、みな数字に強いと思うのは、知らぬ者の錯覚である。苦手なことをやるときには、慎重になるもので、その慎重さが、経理事務にはもっとも必要なことなのだ。
しかし、購入したフィルターをドリッパーにセットして、笑った。ドリッパーよりもかなり大きい。なんだよ。わたしが不器用に切ったフィルターと何ら変わりないじゃん、と。
機械で作られたものの方が正しいと思い込んでいたが、だいたい正しいって何よ、と自分を笑い、淹れたての珈琲をすっきりした気持ちで味わった。
どうしてもいびつになってしまう、わたしの鋏技術。
O型にあるまじき行為ですが、スケールでグラムを量っています。
ひとり分10gですが、二人分飲むので20g。
21g、ま、いっか。って、量る意味あるのか?
煎りたては、膨らむなぁ。最近のお気に入りは、マサマキリマンジャロ。
タンザニアの酸味が勝った豆です。ガラムマサラではありません。
マイカップは、フリーカップとして売られていたもの。
なみなみと注いで、右手くんがあつっと言うのを聞きつつ、飲んでいます。
『夕子ちゃんの近道』
空気に種類があるのなら、そこには「不可思議」と呼ぶのにふさわしい空気が流れていた。『夕子ちゃんの近道』(講談社文庫)を、読んだ。長嶋有の連作短編集だ。すっと吸い寄せられるように魅きつけられ、購入した文庫である。
物語は、主人公が、アンティークショップ『フラココ屋』の2階に間借りし、その店で働き始めるところから始まる。以下、フラココ屋の商品を買わない常連、瑞枝さんの章『瑞枝さんの原付』から。
瑞枝さんはここを「若くて貧乏なものの止まり木」ともいった。瑞枝さんをふくめた四代目までの住人はそうだったのかもしれない。だが僕は若者というほど若くもないし、実は貧乏でもない。貯金もまだ十分ある。働くのが嫌になってしまっただけだ。働くのだけではない。たとえば広くて暮らしやすい新居を探すことや、部屋を暖めるものを買いにいくことすら。布団に地雷のように埋め込んだアンカに囲まれて、底冷えをやり過ごしながら生きている。(やり過ごそうとしているのは、底冷えだけなのか)
「僕」は、人生の春休みを過ごそうと流れてきたのだ。タイトルの夕子ちゃんは、隣りに住む大家の孫娘で、定時制高校に通っている。フラココ屋で「僕」の淹れる珈琲を飲んでから、学校に行く。美大に通う姉、朝子さんは、卒業制作に箱を作り続けている。漂々とした店長は、家庭を持っているが、前カノ(元カノって言うんじゃないの? と本文にもあるが)フランソワーズという上顧客と親しくもしている。瑞枝さんは、離婚できずにいながら子どもは欲しいなどと複雑なことを平気で言う。以下、やはり『瑞枝さんの原付』から。
「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」
私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。
いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。失恋でもしたの、という初めの質問からして、なんだかもう羨ましそうな口調だった。
人生の春休み。こんな場所で過ごせたらなぁと思える、ユートピアがそこにはあった。ユートピアって、場所じゃない。人なんだと、思えるような世界が。
第1回大江健三郎賞受賞作です。巻末には、大江さんの選評がありました。
「長嶋有は、意味のあいまいな文章は決して書かない。しかも背負わされた意味によって言葉が重くなったり、文節が嵩ばったりしないよう細心な注意をはらう。つまりは、すべて具体的な事物にそくして、スッキリと書く努力をおこたりません」選評の一部より
物語は、主人公が、アンティークショップ『フラココ屋』の2階に間借りし、その店で働き始めるところから始まる。以下、フラココ屋の商品を買わない常連、瑞枝さんの章『瑞枝さんの原付』から。
瑞枝さんはここを「若くて貧乏なものの止まり木」ともいった。瑞枝さんをふくめた四代目までの住人はそうだったのかもしれない。だが僕は若者というほど若くもないし、実は貧乏でもない。貯金もまだ十分ある。働くのが嫌になってしまっただけだ。働くのだけではない。たとえば広くて暮らしやすい新居を探すことや、部屋を暖めるものを買いにいくことすら。布団に地雷のように埋め込んだアンカに囲まれて、底冷えをやり過ごしながら生きている。(やり過ごそうとしているのは、底冷えだけなのか)
「僕」は、人生の春休みを過ごそうと流れてきたのだ。タイトルの夕子ちゃんは、隣りに住む大家の孫娘で、定時制高校に通っている。フラココ屋で「僕」の淹れる珈琲を飲んでから、学校に行く。美大に通う姉、朝子さんは、卒業制作に箱を作り続けている。漂々とした店長は、家庭を持っているが、前カノ(元カノって言うんじゃないの? と本文にもあるが)フランソワーズという上顧客と親しくもしている。瑞枝さんは、離婚できずにいながら子どもは欲しいなどと複雑なことを平気で言う。以下、やはり『瑞枝さんの原付』から。
「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」
私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。
いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。失恋でもしたの、という初めの質問からして、なんだかもう羨ましそうな口調だった。
人生の春休み。こんな場所で過ごせたらなぁと思える、ユートピアがそこにはあった。ユートピアって、場所じゃない。人なんだと、思えるような世界が。
第1回大江健三郎賞受賞作です。巻末には、大江さんの選評がありました。
「長嶋有は、意味のあいまいな文章は決して書かない。しかも背負わされた意味によって言葉が重くなったり、文節が嵩ばったりしないよう細心な注意をはらう。つまりは、すべて具体的な事物にそくして、スッキリと書く努力をおこたりません」選評の一部より
春色のセーター
所用で東京に出た際、まだまだ寒いし、セーターでも買おうかと百貨店をのぞいた。すると、暗い森から突然花畑に出たかの如く、ぱっと明るい色合いに目を奪われた。当然のことながら、売り場はもう、春の装いなのである。
「うちのほうは今朝、マイナス7℃だったのになぁ」
つぶやきつつも、突然やって来た春に楽しくなり、ゆっくりゆっくりと歩く。安くなっている冬物目当てである。
しかし、目をとめたのは、春らしい水色のセーターだった。値引きはしていないが、厚手でしっかりと温かく、色合いだけが春らしいピンクや水色で揃えてある。着れば長めでもあり、腰のあたりまで寒さをカバーできるようになっていて、それは春物とは呼べないものだったが、4月になっても寒い日には、違和感なく着られそうだった。
他の売り場を見ても、薄手のブラウスなどに混じり、きちんと温かい春色のセーターが、何処にも並んでいる。
「見た目に惑わされるな」というのは、人が見た目に惑わされがちだからこそある言葉である。こうして春色のセーターを着て街を歩く人が増え、野山だけではなく街にも春がやって来たような気持になっていくのだろう。それは錯覚、というより、春を待つ、人の知恵なのかもしれない。
こうして見ると薄手に見えますが、けっこうっしっかり厚手です。
揃いのネックウォーマーが、ついていました。
暖かい場所では、取り外せます。お洒落で、便利です。
「うちのほうは今朝、マイナス7℃だったのになぁ」
つぶやきつつも、突然やって来た春に楽しくなり、ゆっくりゆっくりと歩く。安くなっている冬物目当てである。
しかし、目をとめたのは、春らしい水色のセーターだった。値引きはしていないが、厚手でしっかりと温かく、色合いだけが春らしいピンクや水色で揃えてある。着れば長めでもあり、腰のあたりまで寒さをカバーできるようになっていて、それは春物とは呼べないものだったが、4月になっても寒い日には、違和感なく着られそうだった。
他の売り場を見ても、薄手のブラウスなどに混じり、きちんと温かい春色のセーターが、何処にも並んでいる。
「見た目に惑わされるな」というのは、人が見た目に惑わされがちだからこそある言葉である。こうして春色のセーターを着て街を歩く人が増え、野山だけではなく街にも春がやって来たような気持になっていくのだろう。それは錯覚、というより、春を待つ、人の知恵なのかもしれない。
こうして見ると薄手に見えますが、けっこうっしっかり厚手です。
揃いのネックウォーマーが、ついていました。
暖かい場所では、取り外せます。お洒落で、便利です。
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)