はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『夕子ちゃんの近道』

空気に種類があるのなら、そこには「不可思議」と呼ぶのにふさわしい空気が流れていた。『夕子ちゃんの近道』(講談社文庫)を、読んだ。長嶋有の連作短編集だ。すっと吸い寄せられるように魅きつけられ、購入した文庫である。

物語は、主人公が、アンティークショップ『フラココ屋』の2階に間借りし、その店で働き始めるところから始まる。以下、フラココ屋の商品を買わない常連、瑞枝さんの章『瑞枝さんの原付』から。

瑞枝さんはここを「若くて貧乏なものの止まり木」ともいった。瑞枝さんをふくめた四代目までの住人はそうだったのかもしれない。だが僕は若者というほど若くもないし、実は貧乏でもない。貯金もまだ十分ある。働くのが嫌になってしまっただけだ。働くのだけではない。たとえば広くて暮らしやすい新居を探すことや、部屋を暖めるものを買いにいくことすら。布団に地雷のように埋め込んだアンカに囲まれて、底冷えをやり過ごしながら生きている。(やり過ごそうとしているのは、底冷えだけなのか)

「僕」は、人生の春休みを過ごそうと流れてきたのだ。タイトルの夕子ちゃんは、隣りに住む大家の孫娘で、定時制高校に通っている。フラココ屋で「僕」の淹れる珈琲を飲んでから、学校に行く。美大に通う姉、朝子さんは、卒業制作に箱を作り続けている。漂々とした店長は、家庭を持っているが、前カノ(元カノって言うんじゃないの? と本文にもあるが)フランソワーズという上顧客と親しくもしている。瑞枝さんは、離婚できずにいながら子どもは欲しいなどと複雑なことを平気で言う。以下、やはり『瑞枝さんの原付』から。

「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」
私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。
いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。失恋でもしたの、という初めの質問からして、なんだかもう羨ましそうな口調だった。

人生の春休み。こんな場所で過ごせたらなぁと思える、ユートピアがそこにはあった。ユートピアって、場所じゃない。人なんだと、思えるような世界が。

第1回大江健三郎賞受賞作です。巻末には、大江さんの選評がありました。
「長嶋有は、意味のあいまいな文章は決して書かない。しかも背負わされた意味によって言葉が重くなったり、文節が嵩ばったりしないよう細心な注意をはらう。つまりは、すべて具体的な事物にそくして、スッキリと書く努力をおこたりません」選評の一部より

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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