はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『愛の夢とか』

川上未映子の短編集『愛の夢とか』(講談社文庫)を、読んだ。
裏表紙の紹介文には「なにげない日常の中でささやかな光を放つ瞬間を美しい言葉で綴った七つの物語」とある。

表題作『愛の夢とか』では、隣人である老女(テリーと呼んで)のピアノを聴きに行く主婦(じゃあ、わたしはビアンカで)を描き、『日曜日はどこへ』では、いつかこの小説家が死んだら、もう一度会おうという初恋の人との約束を。そして『十三月怪談』では、若くして病死した妻。夫のその後、そして死んだ妻のその後を描いている。

以下、身重の妻との小旅行で、親になることへの不安から、生きていくことにさえ危うさを感じ始めるふたりを描いた『三月の毛糸』より。

薄暗い部屋の真ん中にあるベッドが薄闇の中でぼんやりと白く浮かびあがっていた。シーツにくるまって横になっている彼女をしばらく見ていたけれど、それはまるで置物みたいに動かなかった。表面によった皺や陰りにふくらんだそのかたまりは、見れば見るほどそれは人の輪郭をかたちどったものではなく、その膨らみの下には、本当はなにもないんじゃないかというようなそんな気持ちがしてくるのだった。あの白く盛りあがった膨らみの中にあるのは何でもないただの暗さなんじゃないかと思えてくるのだった。拳で突けば簡単に沈んでしまう、あれはただの空洞なのじゃないか。
僕は立ちあがって窓のそばへ行き、カーテンをひいて、窓の向こうに広がる街並を眺めた。ビルや車の流れや空や何もかもが、夜に塗りかえられる直前の薄暮に沈んでゆく最中だった。

心って、人の想いって、わたしが思っているよりも、遥かに深く壮大なものなんじゃないか。この短編集を読み終えて、じんわり感じた疑問だ。
本当は、自分の心を、そして周りの人の想いを、もっともっと深く広く感じられるはずで、それならば感じていきたいものだと思ったのだった。

その他『アイスクリーム熱』『いちご畑が永遠につづいてゆくのだから』
表紙のイメージは『お花畑自身』かな。 第49回 谷崎潤一郎賞受賞作。
表題作『愛の夢とか』に「とか」をつけるところが川上未映子らしいな。
意外ですが、初めての短編集だそうです。

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『七緒のために』

島本理生の小説『七緒のために』(講談社文庫)を、読んだ。
読み始めて、その描写の美しさにハッとした。以下本文から。

転校前の女子校では、毎朝、光溢れる下駄箱で女子たちと擦れ違った。彼女たちはいつも手を繋いで、髪の先までよい香りをさせ、色づいた唇を開いて笑いながら、転がるように廊下を歩いていく。
彼女たちは、扱いづらい綿菓子だった。乱暴に扱えば、あっという間に潰れてしまう。水に濡れれば溶けて消える。ひとたび受け入れれば、喉を焼くほどに甘く、中途半端に触れたなら、べたつく感触を肌に残す。それに気付いてしまった私の右手だけがいつも空いていた。

雪子は、転校してきた共学の中学で、七緒と出会う。人なつっこく雪子の似顔絵を描いてくれた彼女は、しかし、学校のなかでは孤立する存在だった。それでもあえて雪子は、七緒と行動を共にするようになる。七緒の虚言癖に気づき振り回されていく自分に苛立ちながらも、そんな七緒を救い出そうともがき苦しみ、深く深く七緒のなかへと落ちていくのだった。以下本文から。

「七緒」
彼女は大きく目をむくと、まるで私を責めるように訴えた。
「そもそも、なんで私が嬉しいとか、悲しいとか言ったら、それだけじゃダメなの? どうせみんな、分かることしか分からない。時間や人がつながるには本当とか嘘なんてない。だったら、なんの意味があるの?」
私はようやく痛み始めた腕を曲げて膝を抱え込んだ。
今にもやんでしまいそうな雪のひとひらを見ながら、いっそ吹雪いてしまえばいいのに、と思った。七緒の言葉も、どこへも行けない私の気持ちもすべて白い雪の中に閉じ込められてしまえばいいのに。

言葉では、伝えられないことがある。そういう気持ちは、確かにある。だいたい、気持ちを正確な形に置き換えることなんてできるはずがない。なのにむりやり言葉にしようとすると、傷つけてしまったり、傷ついたり。
雪子と七緒のあいだには、常にそんな言い表せない気持ちが漂っていて、胸痛く子どもの頃を思い出させられた。
本当は大人になったって、言い表せない気持ちはいつも胸の奥でざわついていて、大人になるとただ、それを掘り起こしてまでムリに言葉にしようとはしなくなるだけ、なのかも知れない。

白地に黒、臙脂が効いたデザインの、シックな文庫本です。
島本理生が高校時代にかいた『水の花火』も収録されています。

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『結婚』

井上荒野の連作短編集『結婚』(角川文庫)を、読んだ。
タイトルは「結婚」だが、テーマは、結婚詐欺だ。しかしミステリーの如く、その手口や巧妙さを描いたものではない。愛する男から金を騙し取られた女達。帰って来ないと判っていて待ち続ける女。何もかもを失い絶望する女。男を探し出そうと決意する女。彼女達に共通することは、詐欺師の男、古海(うるみ)への恋心を断ち切れないということだった。騙された女達の、そして手配師の女るり子の、さらには騙す側の古海の心の行方を、その危うさを、小説は描いていく。以下本文から。

「彼女、警察へ行くわよ、きっと」
「それはないよ」
「そんなことがどうして言えるの」
ある考えがるり子を捉える。古海は女が警察に行かないと思っているのではない。女が警察に行ってもかまわないと思っているのではないか。どうして? そうすれば終わりになるから。何が? いろいろなことが終わりになるだろう、その中には私との関係も入っている。
ばかげている。私と関わり続けるくらいなら捕まった方がましだとでもいうのか。まさか。そう思いながらるり子は唇を嚙んだ。ふるえるのを抑えるために。古海が、それまでとは違った目つきでちらりと見る。彼の敏感さは、たとえゴミみたいに思っている女にもきちんと発揮されるのだ。

女達は、心に空いた穴を埋めてくれた古海を、どうしても忘れられない。共謀して詐欺をしてきた、るり子でさえも。

大人になって、ずいぶんと経ってから気づいたことがある。
恋人がいたって、結婚していたって、愛する人がいたって、じゅうぶんに愛されていたって、人は、心に淋しさというスペースを持ち続けている、ということだ。恋をすれば、その淋しさを埋められると思ってしまいがちだが、そのスペースが、他の何かで満たされることはない。そして、それを知っていてもなお、淋しさを何かで埋めようとするのが、人、というものなのだと。

「西加奈子さん推薦」の文字に弱いわたし。衝動買いしました。
赤い糸、足首ってところが、絡んでいく気持ちを表してるなあ。

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『嫌な女』

桂望実『嫌な女』(光文社文庫)を、読んだ。
女優、黒木瞳が自ら望み、初監督をする映画の原作小説である。
主人公は石田徹子、弁護士。遠縁の親戚で同い年の小谷夏子が、ある日トラブルに巻き込まれたと頼ってきた。しかしトラブルメーカーはその夏子自身だった。彼女は、男をその気にさせる天才。生まれながらの詐欺師だったのだ。
以下本文から。

いいかい、よーくお聞きよ。この世には、生来の詐欺師ってのがいるんだよ。それが夏っちゃんだ。詐欺師なんて、嫌われもんだと思うだろ。違うんだ。愛されるんだよ、詐欺師ってのは。人から愛される特技のあるもんじゃなきゃ、人なんて騙せない。カウンターにさ、男と並んで座るんだ。でさ、なにを話してんのかと思うとさ、宝くじで百万円当たったら、どうするって男に聞いてんだよ。その男が、成田空港から海外旅行に行きたいと言ったとするだろ。そうしたら、行き先はどうするか、いつがいいかって、どんどん夢を膨らませるんだ。楽しそうにね。実際は宝くじなんて当たりゃしないし、買ってもいないのかもしれないよ。だけどさ、そんなんで、二時間も楽しい時間を過ごすんだ。帰りにさ、来月の家賃、払えなくって、なんて言ってごらんよ。男は黙って手持ちの金を出すだろ。次の日には、別の男とカウンターに並んでる。そんで、言うんだよ。宝くじで百万円が当たったら、どうするって。

徹子は、夏子に振り回されつつも、いつしか彼女に深く興味を抱いていることに気づく。夏子は人をだますが、相手に与えるのもあるのだ。人づきあいが苦手で孤独を感じ続けた徹子もまた、夏子の存在に影響された一人だった。
「宝くじで百万円」と、もう一つ、夏子ならではのネタがあった。「人生で楽しかったランキングベストテン」だ。十個もないよと言う老人に、夏子は怒って言うのだった。「絶対ある」と。
8つの短編で構成された連作小説は、徹子が弁護士になりたての24歳から始まり、29歳、36歳、40歳、47歳、56歳、65歳、71歳まで、順を追って紡がれていく。徹子と夏子、ふたりの人生の物語でもある。

NHKでドラマ化されたキャストは、徹子が黒木瞳、夏子が鈴木保奈美。
映画版では、徹子を吉田羊、夏子を木村佳乃が演じます。
6月25日公開だそうです。主題歌は竹内まりや『いのちの歌』
一度聴いたら、耳に、そして胸に残るメロディです。

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『七つの会議』

誰かに感謝する気持ちは、力になる。

読み終えたばかりの池井戸潤の小説『七つの会議』(日本経済新聞出版社)に、そんな意味合いの言葉が出てきた。
小説は、中堅の電機メーカー東京建電で起こった不祥事を、立場の違う様々な社員達の目線から描いた群像劇。会議中に居眠りばかりしている万年係長を厳しく注意したやり手の営業課長が、パワハラで移動になった。そこから、隠された不祥事はほころびを出していく。謎解きミステリーのように、わくわくしながら読める小説だった。
そのストーリーとは関係なく、登場人物のひとり、親会社から出向してきた副社長村西が、父を亡くしたときを回想するシーンに魅かれたのだ。まるで引力を感じるみたいに。以下本文から。

そんな村西に、跡取り息子が会社を継がなかったからだと口にする者は誰ひとりとしていなかった。村西がソニックで成功していたこともあるだろうが、生前、周囲に後継問題をきちんと説明しておいてくれた父のおかげだ。
家族をはじめ、大勢の人たちに支えられてきた。
それを実感できることが、村西の力であった。もちろん仕事でも、誰が自分を支えてくれているかをよくわかっていた。それは先輩であり後輩であり、スタッフであり、そしてなにより顧客である。

そして村西は、父の言葉を思い出すのだった。
「客を大事にせん商売は滅びる」

本を読んでいると、こうして何気ないシーンや言葉に引力を感じるときがある。それは人によって違い、そして読んでいるときの気分によっても違ってくるのだろう。それに、誰かに感謝する気持ちは力になるというところに魅かれたからといって、感謝する気持ちを持とうと思うとかそういうことじゃない。
ただ引力を感じたものを、しばらく留めておこうと思うのだ。
それはたぶん、読んだ人のなかへと沈んでいき、何かを小さく変えていく。
だから、なのかも知れない。本を読むことをやめられないのは。

夫が買って先に読んだKindle版を借りて、読みました。
日本経済新聞電子版に連載した小説。8話の短編で構成されています。
群像劇と呼ばれるだけあって、村西だけじゃなく何人かの登場人物が、
生い立ちからプライベートな悩みまで、深く描かれていました。

☆熊本の地震に、胸を傷めています。
 今日また、大きな地震があったそうですが、
 どうかこれ以上、被害が大きくなりませんように。

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『母性』

湊かなえの『母性』(新潮文庫)を、読んだ。
帯には「事故か、自殺か、殺人か」とある。17歳の娘が倒れているのを、母親が発見したという新聞記事から始まるミステリーだ。
交互に語られる「母親の手記」と「娘の回想」から、母に愛され母を偏愛した女が、娘を愛する「母性」に欠けていたことが浮き彫りになっていく。
以下本文から。

からだが分裂してしまいそうな痛みに耐えたあと、かん高い声でギャーギャーと泣く赤紫色のかたまりを顔の横に近付けられ、「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と言われても、それがどうしたのだ、としか感じませんでした。上質な作品とは言い難い、しわくちゃで鼻の低いぶさいくな顔で、これでは母ががっかりしてしまうのではないかと涙がでそうになったくらいです。
「パパも今呼びますからね」
看護婦にそう言われて、「パパ」とは誰のことだろう、と一瞬考えました。田所は両親を「親父、おふくろ」と呼び、私は「お父さん、お母さん」と呼びます。子どもが生まれるからといって、互いを「パパ、ママ」だのと呼び合ったことはありません。子どもにどう呼ばせるかと、二人で相談したこともありませんでした。自分と同じように「お父さん、お母さん」と呼ばせるのだろうと漠然と考えていたのですが、ふと、それはイヤだ、と思いました。お母さん、などと呼ばれたくない。私にとって「お母さん」という言葉は、愛する母ただ一人のためにあるのだから。

母親になったすべての女性に「母性」が芽生える訳じゃない。
「母性」について調べていく中学校教師が登場するのだが、彼女はそう言い切っている。わたし自身「母性」なるものがあったのだろうかと考えると、判らない。子ども達を愛して育てたとは思っているが、それが「母性」から来たものなのかどうなのかは知りようもないし、ただでさえパーソナルスペースが広いわたしは、子ども達とも一定の距離を保ち暮らしてきたように思う。
人間の動物的な部分が退化し「母性」も失われつつあるのだろうか。
虐待されている疑いで通告された児童数が3万人を超えたと、数日前に報じられていた。そういうことを含め「母性」あるいは「無償の愛」とは何なのだろうと深く考えさせられた。

友人が、読み終わったからと回してくれた文庫本です。
友人と本の話ができるのも、本好きならではの楽しみです。

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『いつも彼らはどこかに』

小川洋子の短編集『いつも彼らはどこかに』(新潮文庫)を、読んだ。
タイトルの「彼ら」というのは、動物のことだ。馬、ビーバー、兎、小鷺、犬、チーター、蝸牛、竜の落とし子。8つの短編は、それら人以外の生き物と、世の中から少し外れてしまった人々の物語。そのなかには、生きてはいない者もいる。例えば『愛犬ベネディクト』は、14歳の少女が制作中のドールハウスに住むブロンズ製の動かぬ犬だ。以下本文から。

この家をこしらえるのに忙しくて彼女は学校を休んでいるのだろうか。ならば工作が完成すればまた学校へ行くのだろうか。おじいちゃんと僕はひそひそ声で話し合ったが、結論は出なかった。
「デリケートな年回りだからな」
おじいちゃんはこの一言で、事態をまとめた。
いずれにしても妹はもう二度と学校へは行かなかったし、彼女の家は延々今でもまだ完成していない。
「これはたぶん、ドールハウスというものだよ」
僕はおじいちゃんに説明した。
「ままごとに使うのか?」「いや、もうちょっと大人向けかもしれない」
「世の中にはそういう家を作って楽しむ人がいるんだな?」「うん」
「そうか。あの子が自分で編み出したのかと思ったが・・・」
おじいちゃんはため息をついた。学校へ行かないことより、ドールハウスが孫娘の発明でないことの方が、残念であるかのような口振りだった。

読んでいて、胸がしんとした。どの短編にも、普通からはみ出してしまった人を、自然体で受け入れる人が登場する。
例えば、おじいちゃんは、学校へ行かずドールハウスを作り続ける孫娘を。スーパーのデモンストレーションガールは、試食だけをして決して買おうとしない老女を。美術館の女性は、一枚の絵だけを観るためにそこまで目をつぶって歩く老人を。
一人一人、大切なことは違っていて、それが奇異に映る場合もある。それを奇異だということに捉われず、何かを大切にするという心根を見つめることができる人々を、その自然体で受け入れていく姿を、描いた小説なのだと思った。

帯と、購入した戸田書店の栞が、同色でした。
こういう気配りができる本屋さんっていいなあ、と思います。
こうして写真を見ると、紐栞がうさぎの尻尾みたい。

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『高校入試』

湊かなえのミステリー『高校入試』(角川文庫)を、読んだ。
舞台は、地方都市で県下有数の進学校とうたわれた公立高校、一高。その地域では一高ブランドは、滑稽なほどに絶対だった。その入試の裏で、匿名のネット掲示板が立ち上げられる。「入試をぶっつぶす!」
そのかき込みと同時進行で、23人の視点から、それぞれの思惑や学校の様子などが語られていく。試験中に違反とされていたケータイが生徒のポケットで鳴り、答案用紙が足りなくなったと思ったら、見つかったのは他の受験番号のもの。同窓会長や議員の妻などモンスターペアレンツも登場し、教師達の保身も見え隠れする。
主人公は教師1年目の帰国子女、春山杏子。一高ブランドなど到底理解できない熱血教師だ。以下本文から。

「一高の合格発表後には、学区内の粗大ゴミ置き場に学習机が山積みにされる、っていう伝説だよ」「まさか、落ちた腹いせに?」
「逆だよ。一高に合格すれば、もう勉強する必要なし、ってこと」
「俺も、親が親戚の家から軽トラ借りてきて、一緒に捨てに行きましたよ」
気のいい後輩、相田っちがフォローしてくれる。
「じゃあ、入学後はどうやって自宅学習するんですか?」
「まあ、今はあんまり見ないかな。昔は偏差値高くても、進学する人間は限られていたから、地元の名門校、一高合格が最終目的で、そういうことをやっていたんだろうけど」

小説は、異様に思えるほどの一高ブランドへのこだわりから起こるそれぞれに巣食うどろどろとしたものをあぶりだすと同時に、匿名のかき込みによって拡散していく目に見えぬ敵への恐怖を鮮明に描いていく。

通過点。高校入試もその一つだろう。だが、通過点をただ通過点と捉えられずに、立ち戻り、引っかかり、つまずき、負のスパイラスに陥ることさえある。主役であるはずの子ども達ではなく、高校入試を通過してきた大人達の物語。同じ高校入試でも、それを見つめるアングルは一人一人全く違っていた。

フジテレビでドラマ化された同じ著者による脚本をもとに、
小説として、かき直されたものだそうです。
解説は、フジテレビのプロデューサー 羽鳥健一。

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『猫を抱いて象と泳ぐ』

小川洋子の長編『猫を抱いて象と泳ぐ』(文春文庫)を、読んだ。小川洋子の小説は何冊か読んでいるが、こんなに美しいと感じた小説は初めてだ。

主人公は、チェステーブルの下に潜り人形の身体を借りてチェスを指す、リトル・アリョーヒン。彼は、11の歳に大きくなることをやめた。それは、チェステーブルに潜り込むためであり、いくつかの出来事から深く胸に刻み込まれた言葉「大きくなること、それは悲劇である」からくる恐怖によるものでもあった。その出来事の一つに、デパートの屋上で大きくなりすぎて生涯そこから降りることができなかった象のインディラの存在がある。リトル・アリョーヒンは、チェスの駒の一つ、象を祖先に戴く斜め移動の孤独な賢者、ビショップにインディラを重ね、チェスを愛し、小さな身体のままで生きていく。
この小説の魅力の一つは、駒の動きの描写の美しさにある。以下本文から。

ビショップが対角線を鋭くにらんだり、ナイトが気紛れな妖精の舞を踊ったりするたびに拍手を送った。孫の指した手でも老婆令嬢の手でも同じだった。祖母は両方の駒を平等に褒め称えた。
そんななか、リトル・アリョーヒンは12手め、c6と指した。今度はどんな様相が現れるかと胸を膨らませて待っていた祖母は、ポーンが思慮深く、慎ましやかに一歩だけ前進したのを見て、緊張感のこもった吐息を漏らした。まさに祖母の感じた緊張感は正しかった。それは彼にとっての特別な駒、d6のビショップにc7の退路を用意し、対角線のにらみを保持するための手だった。

チェスを深く深く愛したリトル・アリョーヒン。彼はチェスの駒を動かすのと同じように、人に対しても、投げやりだったり考えなしな手を打つことは決してなかった。そして彼は常に寡黙で、じっくりと一手一手考えるようなその丁寧な生き方を雄弁に語るのは、彼が残したチェスの棋譜(きふ)だけだった。

チェスというよりサーカスを連想させる、シックな表紙。
解説は、俳優の山崎努さんがかいています。
感化され、ネットでチェス指してみましたが、むむむ難しすぎる・・・。

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『僕らのごはんは明日で待ってる』

瀬尾まいこの恋愛小説を、とても久しぶりに読んだ。ちょっと不思議なタイトルの『僕らのごはんは明日で待ってる』(幻冬舎文庫)だ。
17歳の兄を病気で亡くした葉山亮太(仇名はイエス)は、落ち込んだまま人と関わろうとせずに十代を過ごしていた。そこに現れたのが同級生、上村小春。紆余曲折の末、結婚した二人を待ち受けていたのは小春の病気だった。
以下本文から。

「いろんなこと話してみればよかったのに」
小春はほんの少し顔を上げた。
「そうだよなあ。だけど、いつ何が兄貴の痛みを呼びおこしてしまうかわからなかったし。もし言葉がうまく響かないで兄貴をぐらつかせてしまったらと思うと、不安だった。本当はもっと言いたいことも話すべきこともあったのにな。まあ、今こんなこと言ってもどうしようもないんだけど」
「ちょっと、悲しいこと言わないでよ」「そうだな」
「そうだなって、イエスのせいですごく重い雰囲気になっちゃったじゃない」
小春は両手で涙をぬぐった。たぶんこういうところが小春のいいところなんだと思う。
「だからさ、小春には思いついたことは口にしてみる。もし、それがうまく伝わらなくて傷つけたりしても、俺、悪気はないから。どんな言葉でも、小春のこと考えてかけてる言葉だから。それは知っておいて」
「何、そのずるいルールは」「便利だろ?」
「じゃあ私も。たぶんこれからひどいことたくさん言うけどそれって病気のせいだから。本当は私はちゃんとイエスのこと愛してて、すごくいい人だから」
小春は目を赤くしたままで笑った。

二人の恋は、マック&ケンタッキーから始まり、ガストor ココスを経て、小さなテーブルの食卓へと移行していく。
ご飯を、一緒に食べる。昨日も一緒に食べたし、今日も一緒に食べた。そして明日も、たぶん一緒に食べるだろう。そんな「ご飯を食べる」ことって、じつは甘い言葉やキラキラ光るエンゲージリングなどよりも、恋する二人にとってもっともっと大切なことなのかも知れない。

来春、映画『僕らのごはんは明日で待ってる』公開予定だそうです。

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『羊と鋼の森』

宮下奈都の小説『羊と鋼の森』(文芸春秋)を、読んだ。
ピアノの調律師を目指す、青年の物語だ。タイトルの羊は、ピアノのなかの部品であるハンマーが、羊毛から作られているところから来ている。ピアノは、木や羊、そして鋼を使って作られた楽器なのだ。
主人公、外村(とむら)は、高校の体育館で、ピアノを調律する板鳥(いたどり)と出会う。ピアノを弾いたこともない彼だったが、そのたった一度の出会いに、迷うことなく調律師を目指そうと決意した。板鳥を始めとする3人の先輩や、調律する先で待っている様々なお客さんとピアノ達に触れ、外村は、かみしめるように一つずつ調律というものを理解していくのだった。
魅力の一つは「森の匂いがした」から始まる冒頭もそうだが、外村の内にある森や山々の風景とピアノを結んでいく描写だ。そしてもう一つは、北海道の山で育った外村の天然とも純粋とも言える、しかしそれともちょっとずれているようなキャラクターにある。以下本文から。

「外村ががんばってるのは無駄じゃない」
「えっ・・・?」
思わず聞き返すと、柳さんも驚いたように、えっ、と小さく声を上げた。僕たちは立ち止まって顔を見合わせた。
「無駄かどうかは、考えたことがありませんでした」
正直に言うと、柳さんは、ふふふと笑って、
「いいよなあ、外村は。そうか、無駄だと思ってないか」
ふふふがそのうちはははになり、柳さんは車のドアに手をかけたまま、あははははと笑った。それから不思議そうに聞いた。
「無駄だったんじゃないかと後悔したり反省したりすることもないの? つまりさ、無駄っていう概念がないの?」
「いえ、言葉は知っています」慌てて答える。
「そりゃそうだろうけど」
「よくわかりません。無駄ってどういうことを言うのか」
何ひとつ無駄なことなどないような気がすることもあれば何もかもが壮大な無駄のような気もするのだ。ピアノに向かうことも。今僕がここにいることも。

聴いているようで、聴いていない。見つめているようで、じつは見ていない。雑多な日々のなかでは、そういうことの方が多いのではないだろうか。
心の扉を開けて、耳を澄ませてみよう。今目の前にあるものを、じっと見つめてみよう。きっと違う音が聴こえ、違うものが見えてくるはずだ。読み終えて、そんなことを考えた。

楽譜の上で草を食んでいるかのようにのんびりたたずむ羊達の表紙。

カバーを外すと、栞と同じ色合いの深い緑色の本でした。

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『ことり』

小川洋子の小説『ことり』(朝日文庫)を、読んだ。
帯には「世の片隅で、小鳥のさえずりにじっと耳を澄ます兄弟の一生」とあるが、弟の方、幼稚園の鳥小屋の掃除をしていることから「小鳥の小父さん」と呼ばれた彼の一生を描いた小説、と言った方が正しいように思う。

物語は、小鳥の小父さんが、鳥籠を抱いたまま死んでいるのを発見されるところから始まる。そして、鳥の言葉を理解し、小鳥のさえずりのような言語を確立していく7つ年上の兄との子ども時代へと静かに戻り、スタートしていく。
彼の兄は11歳を過ぎたあたりから人の言葉を一切しゃべらなくなり、後に小父さんが「ポーポー語」と呼ぶ言葉を使い始めた。その言葉を理解できるのは、弟である小父さんだけだった。
生涯仕事を持たず、ポーポー語しかしゃべらず、変化に順応できず昨日と同じであることに安心する。そんな兄は、世間で言うところの障害を持った人ということになるだろう。だが小父さんは、その兄を誰よりも尊敬していた。
以下本文から。

夜は二人で一緒にラジオを聴いた。番組の種類にこだわりはなく、小説の朗読もあれば、オペラ公演の中継もあった。ラジオは居間の片隅にある。古びたチェストの上、母親の写真の隣に置かれていた。耳を澄ませることに関して、お兄さんは特別な才能を持っていた。感想など述べなくても、その姿を見ていれば、ラジオから流れてくる一語一語、一音一音をどれほど深く味わっているか、よく分かった。彼の中身は透明で、空っぽで、ただ耳だけが小鳥や朗読やオペラに向かって捧げられる。だからこそ音たちは余計なものに邪魔されず、意味さえも脱ぎ捨て、ありのままの姿でお兄さんの中に染み込んでいった。

小父さんも、その兄も、変わり者として世間には扱われる。
小父さんは、幼稚園に出入りしていることから、ある日を境に、幼女が好きな変質者なのではないかと疑われることにもなる。小父さんを理解しようとした人はほんのわずかだったし、彼の心根の優しさや純粋さ、善良さを理解できたのは、兄と、園長先生と、巣から落ちたメジロの雛だけだった。
著者小川洋子は、彼らのことを「取り繕えない人たち」と呼んでいると解説にあったが、澄んだ善良な心を持ち続けること。それは、理解者を得ようと取り繕うよりも、ずっと難しく、尊いことなのではないだろうか。
例え多くの人に理解されることはなくとも、自分が信じる正しいと思う生き方ができれば、きっと、生きていて幸せだったと思える瞬間が訪れるはずだ。
などと、取り繕うことにも、善良であることにも中途半端なわたしは、この小説を読み、しんとした心持ちで考えたのだった。

タイトルをじっと見つめていると、不思議な言葉に思えてきます。
文中では「小鳥の小父さん」とかかれていたのに何故平仮名なのか。
「小父さん」も「おじさん」では、雰囲気ががらりと変わってくるし、
きっと考え抜いた末に、平仮名のタイトルにしたのでしょう。

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『サファイア』

軽いミステリーが読みたくなり、湊かなえの短編集を手にとった。7つの短編それぞれに宝石の名をタイトルにつけた『サファイア』(ハルキ文庫)だ。
『真珠』は、しつけの厳しい母親に反発して生きてきた女性を。
『ルビー』は、施設で暮らす老人と交流する家族を。
『ダイヤモンド』は、結婚詐欺にひっかかった男性を。
(ラスト、ぞくぞくっと怖くなったのはこれでした)
『猫目石』は、猫を助けた家族の秘密を。
『ムーンストーン』は、一対のピアスを分けた女子中学生たちのその後を。
(じわりと泣けたのは、これです)
表題作『サファイア』は『ガーネット』と対になっていて、二十歳の誕生日に恋人を亡くした女性を。どれもミステリー色濃く、描いている。
以下『ガーネット』本文から。

彼女のことを悪く言われたのが気に入らなかったのか、その人は、自分が彼女を好きになったのに外見は関係ない、とはっきり言い切ったのです。ならばどういうところだ、と訊き返しました。その人はこんなふうに言いました。
自分は、彼女を通して見える世界が好きなのだ。同じ景色を見ているのに、彼女の語るその景色には自分には見えない色があり、匂いがあり、空気がある。それは自分一人では気づくことができないけれど、彼女を通して見えたとき、ずっと自分が探していた世界のように感じることができる。だから一緒にいたいのだ。視力の悪い人にとってのメガネのような存在なのか、と訊ねました。そんな気もするけれどちょっと違う、と言われました。
自分の目に映る世界にまだ向こう側があることを教えてくれる、映画監督や作家のような存在かな、と。

宝石と言えば、美しい。そして、高価なものである。だからなのだろう。愛の証として贈られることが多い。「美」「金」「愛」の象徴のように思える。
しかしその3つの裏には、妬み、憎しみ、裏切り、企て、別れ、そして詐欺や殺人までもが、うごめいている。人の心の深い闇の恐ろしさと、そのなかで無垢な宝石のように光る人の思いの温かさを、光と影を交互に見せていくかのように描いた短編集だった。

モノクロの裸体に色とりどりの宝石達。ハッとする表紙です。
わたしの誕生石(2月)は、アメジスト。
透き通った薄紫色の宝石には、どんな物語があるのかな。

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『はだかんぼうたち』

江國香織の「著者が初めて結婚をテーマにすえた群像劇」と帯にある長編小説『はだかんぼうたち』(角川文庫)を、読んだ。
群像劇と呼ばれるだけあって、様々な人の視点で語られていく。だが、そのなかで核となるのは、桃とヒビキだ。35歳の女達。
桃には、まだ恋人とは呼べない9歳年下の鯖崎がいて、ヒビキには、性欲が強すぎる夫と4人の子ども達がいる。そして桃には、夫と過ごす時間や家庭というものに固執している母親がいて、ヒビキには、夫を亡くした後、ネットで知り合った恋人と同棲中に亡くなった母親がいる。(あるいは、もういない)
桃の母親は、幸せの定義から「結婚」を外すことが考えられない女で、桃が結婚をなるべく視野に入れないように生きているのは、たぶんそのせいもある。鯖崎を「恋人」と定義できないことも。そんな桃を知っていてヒビキは言う。「でも別れたんでしょう? その色男のために、石羽さんと」
鯖崎は、そのヒビキにも魅かれていくのだった。以下本文から。

「でも、結婚は解放にはならないのね」桃は言った。
「解放?」
「だってほら、奈良橋さんは結婚しているし、ヒビキだってそうだわ。でも二人とも、べつな相手とべつなことが起きてる」鯖崎は苦笑する。
「奈良橋さんはともかく、ヒビキちゃんは何事も起こさないようにしてるよ」
運ばれたグラス二つに氷を入れた。
「おなじことだわ」
桃は断じる。紹興酒のグラスを手渡すと、そのままカランと氷の音を立てて一口飲み ― 桃の白い細い喉に鯖崎は見とれた ― 、
「みんな、いつまでこんなことをするのかしら」
と言って目元をほころばせて笑った。口元ではなく目元をほころばせる、桃の笑い方が鯖崎は好きだ。
「こんなことって、デート? セックス? 男女交際?」
土曜日だし、場所も近いので、このあとはたぶん桃の部屋に行くことになるのだろうと思いながら言うと、
「その全部」というこたえが返った。
「考えこんじゃうこととか、突然淋しくなることとか、不安になることとか」

普段は考えることもないが、考えてみれば、結婚って不思議な形だ。
そのなかに身を置いているわたしは、必要な制度だとは思うし、今の生活は幸せでもあるのだが、こうも思う。それぞれの生き方が認められ始めている今の時代、3人の子ども達は、好きにすればいいと。
小説のなかでは、桃の母親が、いちばん近い環境にある人物だったが、もっとも相容れないと感じる考え方をする女性でもあった。幸せの定義は、人それぞれでいいと、わたしは思う。そのなかに「結婚」が入っていようと、いまいと。結婚しているから、逆にそう思えるのかも知れないけれど。

読んでいた喫茶店に入ってきたカップルが、夫婦なのか恋人なのか。
やけに盛り上がっている二人を、見るともなしに読んでいました。
「結婚と恋愛、どちらがいいのだろう」という帯の文句に、
「いや、そういう問題か?」と、ちょっと笑いながら。

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『怒り』

吉田修一の長編小説『怒り』(中公文庫)を、読んだ。
表紙に殴るように描かれたタイトルの真っ赤な「怒」の文字に目を魅かれたのだ。読み始めるとそれは、若い夫婦が惨殺された現場に残された血文字だった。犯人は、被害者とは面識のない、山神一也(27歳)と断定。全国に指名手配されるが、目撃証言もなく1年が過ぎていた。

この小説のテーマの一つは、他人を信頼するために、その人物の生い立ちや過去が必要なのかということだ。つまりは、素性の知れない人間と親しくなったときに、自分の知っているその人というだけで、彼は殺人を犯すような人間ではないと言い切れるのか、というところにある。そのために、殺人犯を追う刑事達と並行して、3人の男を追っていく。浜崎の漁村で働く、洋平、愛子の父娘のもとに現れた、田代。東京の大手企業に勤めるゲイの優馬と暮らし始めた、直人。沖縄、波留間の無人島で女子高生、泉と出会った、田中。3人とも、過去は一切語ろうとせず、それでも周囲の人達に少しずつ溶け込んでいくのだった。そして、殺人犯を追う刑事、北見もまた、素性を明かそうとしない恋人との関係に、行き場のない気持ちを抱えていた。以下本文から。

美佳が開かない窓から逃れるように浴室へ向かおうとする。しかし北見は摑んだ手首を放さなかった。
「こういう付き合いがずっと続くのか」
と北見は言った。美佳は何も答えない。
「・・・こうやってたまに会って、こうやって同じラブホテルの部屋に入って、こうやってただ・・・。つらくなるんだ。会うたびに、つらくなる。相手がどんな人間なのか、知らずに付き合うのはつらい」
「それでいいって言ってくれたじゃない。それでいいって約束してくれたじゃない」「うん。分かってる」
北見の手から美佳が逃れようとする。
「ごめん。これでいい。これでいいんだ」
北見は美佳の手を放した。

もう一つのテーマはタイトルの『怒り』だ。怒りは、上流から下流に川が流れていくかの如く、力の強い者、立場が勝る者から、弱者へと向かっていく。
コンビニで対応が遅いと店員を怒鳴る人や、電車が遅れたイライラを駅員にぶつける人を見るにつけ、彼らは、何処かで感じた怒りを晴らす場所を求め、ここにいるのではないかと思ってしまう。そんな光景を目にすることが多い昨今だからこそ、読み終えて、怒りの流れを感じたのだろう。
そんな人ばかりじゃない。そんなふうにはなりたくない。そうは思うが、誰のなかにも、自分のなかにさえ、弱い者へ怒りを向けるような弱さがないとは断言できない。イライラしたときに、子どもに八つ当たりしたことだって、たぶんあっただろう。人間だもの、と言える程度のことだったかも知れないが、知っておこうと思った。怒りと、そして暴力は川が流れるように、自分よりも立場の弱い者、力の弱い者へと向かっていきやすいのだと。

映画化が決まっているそうです → 映画『怒り』公式サイト
誰がどの役をやるのかな~? 楽しみです。

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『ナオミとカナコ』

奥田英朗の話題作『ナオミとカナコ』(幻冬舎)を、読んだ。
読んだばかりの『沈黙の町で』に、奥田の俯瞰力とも言えるような力に魅了され、あえて分厚い新刊を購入したのだ。
帯には「わたしたちは親友で、共犯者」とある。
28歳の二人は、大学時代から親友。仕切り屋で気の強い直美と、線の細い穏やかな加奈子は、性格は違えど価値観がとても似ていて、気が合うだけではなく、たがいに尊敬しあえる無二の友だった。
ある日直美は、加奈子が夫に日常的に暴力を振るわれていることに気づく。
子ども時代、父親の母親への暴力を目の当たりにしてきた直美は、事態を深刻に受け止め自分のことのように思い悩むのだった。以下本文から。

朱美が表情を険しくし「殺しなさい」と言い放った。
「そんな男に生きている価値はないのことですね。殺されても文句は言えません」「それはちょっと・・・」さすがに直美は絶句した。
「殺したら刑務所行きじゃないですか。割に合わないでしょう」
「じゃあ捕まらなくてもいい方法を考えなさい。わたしなら上海旅行に連れ出して、そこでギャングに頼んで殺します。中国のギャングだから、日本の警察は手を出せません。中国の警察は日本人旅行者が一人死んだくらいではろくな捜査をしません。それで終わります」
朱美が事もなげに言う。直美はこの女社長ならやりかねないなと思った。きっと中国人にとって生きるということは戦いなのだ。だから己の生活を守るためのうそや策略は、すべて正当防衛なのである。
「わたしもそれくらい強くなりたいです」
直美がため息まじりに言った。
「あなたは充分強いです。わたしが会った日本人の女の人でいちばん強いのことですね」

二人は、とめどなく暴力を振るい続ける加奈子の夫を、殺害する。
直美にも加奈子にも、後悔はなかった。捕まらず、死ぬこともせず、生きていく。彼女達の選択肢はそれだけだ。
この小説の魅力は、二人の女性が、強く変わっていく姿にある。
特に、線が細かった加奈子のなかに、しっかりとした芯のようなものが確立していくさまには、心を打たれた。
人を、殺してはいけない。人を、殴ってはいけない。人を、傷つけてはいけない。誰もが判っていることだ。それをあらためて、深く考えさせられる。

左がカナコで、右がナオミかな。フジテレビ系列でドラマも放映中。
ナオミを広末涼子が、カナコを内田有紀が演じています。
で、中国人の女社長は? とキャストを見ると、高畑淳子。
オンデマンドで観てみたら、はまり役でした。

カバーをとると心の影を表すような、ふたりのモノクロ肖像が。
人の心の光と影を、あらためて思ってしまいます。

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『異類婚姻譚』

芥川賞を受賞したばかりの本谷有希子『異類婚姻譚』(講談社)を、読んだ。本谷作品はまだ『嵐のピクニック』一冊しか読んでいないが、その奇抜な着想に思う存分楽しませてもらい、また読みたい! と思っていた。そして、受賞作のこの小説にもまた、思う存分楽しませてもらったのだった。今回は「奇抜さ」もさて置きながら「気味悪さ」にぞくぞくさせられた。文章は小気味好く読みやすいのにもかかわらず、気味が悪い。「小気味好い気味悪さ」とでも言おうか。夫婦が、共に生活することにより、自分と相手の境目が曖昧になっていく。というようなストーリーだ。
弟の恋人、ハコネちゃんと結婚観について話していた主人公、サンちゃんは、蛇ボールの話を聞く。たがいの尻尾を共食いしていき、やがて頭と頭だけのボールのような形になり、ついには両方ともが食べられて消えてなくなるのだという話だった。以下、本文から。

ハコネちゃんの話には、ひそかに感心させられた。
というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれにとって代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。やめようとしても、やめられなかった。おそらく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私の根を通して、深いところに入り込んできた。新しい誰かと付き合うたび、私は植え替えられ、以前の土の養分はすっかり消えた。それを証明するかのように、私は過去に付き合ってきた男たちと過ごした日々を、ほとんど思い出せないのである。

サンちゃんは、夫の顔が自分に、自分の顔が夫に似ていくさまを、恐怖と諦めの狭間で見つめていくのだが。

毎日同じご飯を食べ、同じテレビを観て、セックスをし、子どもを産み育てていく夫婦というモノ。自分と相手の境い目が判らなくなってしまったとしても、全く可笑しなこととは言えないよなあ、確かに。
読み進めていくうちに、この小気味好い気味悪さを、するりと受け入れてしまっている自分にもまた、驚かされたのだった。

風変わりな、おかめとひょっとこの表紙です。
表題作のほか、3つの短編が収録されていました。

リスさん達、可愛いけど、怖いよ~。それ、化かし合いしてるの?

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『しずく』

西加奈子の短編集『しずく』(光文社文庫)を、読んだ。
「女ふたり」の物語が、6編収められている。
『ランドセル』は、大人になって偶然再会した小学校の同級生ふたり。『灰皿』は、年老いた大家と若く破天荒な借主。『木蓮』は、恋人の娘と彼女を預かる女性。『影』は、失恋旅行をする女と地元に住む嘘つき少女。『しずく』は、恋人がそれぞれ飼っていた雌猫二匹。『シャワーキャップ』は、これから同棲を始める娘とその母親。噛み合わない「女ふたり」が噛み合わないまま、たがいを受け入れていくさまを描いている。以下『シャワーキャップ』より。

母が、歌を歌っている。「のんちゃん」そう私を呼び、私のために泣き、私を、恐ろしいほどに愛している、母がいる。どれほど頼りなくても、情けなくても、母は、全力で、私の「母」だった。母のことを子供のようだと思っていた私は、誰あろう、その母から生まれてきたのだ。その事実が、どれほど私を慰め、そして勇気づけたか。
大丈夫、間違えても、山手線はぐるっと一周するんやろ?
いつもそうだ。母は、思いもかけない言葉で、私を安心させる。彼のことは、何も解決していないし、三十の私の行く末も、分からない。でも、母の「大丈夫」を聞くと、結局私は、いつだって大丈夫なのだ。山手線が一周するように、はは、私は、大丈夫だ。

苦手だけれど、何処か魅かれる。そういう相手っているよね。それで、苦手とも何とも感じない人よりも、何故か仲良くなったりするんだよね。

シンプルな猫の線画は、作者、西加奈子によるものです。
2話目を読んで、以前読んだことがあることに気づきました。
たぶん図書館で借りたんでしょう。それでも、じゅうぶん楽しめました。

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『沈黙の町で』

奥田英朗の長編小説『沈黙の町で』(朝日文庫)を、読んだ。
地方都市の中学校で、男子生徒の死体が見つかった。死んだのは2年の名倉祐一。死因は、所属するテニス部の部室の屋根、2階の高さから転落し頭部を強打、即死だと思われる。小柄でおとなしい生徒だったという。その後、警察の調べで、祐一は4人の生徒からいじめを受けていたことが発覚。異例にもそのうちの14歳以上の生徒2人が逮捕されたのだが。

分厚い文庫の3分の1は、大人達の視点で語られていく。
死体を発見した2年生を受け持つ国語教師、飯島。飯島とはもと同級生の刑事、豊川。新人の女性新聞記者、高村。いじめの加害者である市川健太の母親。同じく坂井瑛介の母親。呉服屋を切り盛りする商売上手な、祐一の母親。二十代で正義感の強い検事、橋本。
そのなかで、何が起こったのかが、少しずつ明らかになっていく。
そして3分の1を過ぎ、子ども達の視点(健太。クラスメイトの安藤朋美)で事件以前の出来事が、進行中の現在と照らし合わせる形で語られていく。彼らには彼らの事情があり、簡単に大人に話せないことも、例え話したとしても理解しあえないだろうと思えることも多かった。
解説の池上冬樹はかいている。「人間の未熟さが引き起こす悪意や中傷や暴力といったものを、逃げずにしっかりと描ききっている」以下、本文から。

「子供は基本的に呑気だな。それが彼らの特権だよ」
飯島が唇に白い泡をつけたまま答える。豊川は同感だった。自分の少年時代を振り返ってみても、嫌なことがあっても一晩寝たら忘れた。
「別の言い方をすれば、動物的だってこともあるんだろうけど」
「ああ、そうだな。刹那的で、短絡的で、自分のことしか考えてないし」
「おれさあ、最近考えたんだけど、人間って、特に男子は、子供の頃平気で残酷なことをするじゃないか。豊川、おまえ小学生のとき、田圃でカエルを見つけたらどうしてた?」
「捕まえた。男子なら誰だってそうだろう」
「捕まえてどうした」
「殺した。空に向かって投げてアスファルトに叩きつけたり、尻にストローを突っ込んで風船にして破裂させたり、火あぶりの刑にしたり」
豊川は答えながら顔をしかめた。思い起こせば実にひどいことをした。
「子供にはそういう残虐性が誰しもあって、長じるにつれ、徐々に消えていくものじゃないか。中学生にはその性質が残っているんだよな。ひどいいじめは中学生が一番だ。高校生になると手加減するし、同情心も湧く」

いじめについて真っ向から挑み、淡々と丁寧に作り上げたという印象の群像劇だった。どの語り手にも寄り添い読んでしまう上手さがあり、一つの事柄にも、それにかかわる人の分だけ、違う視点、異なった見方があるのだと言われているような気がした。

夫が買って読んでいた文庫です。奥田英朗の小説は、夫婦で楽しめるかも。
『空中ブランコ』で直木賞をとった、夫と同い年の作家です。

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『スーツケースの半分は』

近藤史恵の連作短編集『スーツケースの半分は』(祥伝社)を、読んだ。
30歳手前の真美は、フリーマーケットで青いスーツケースに一目惚れ。そのスーツケースのなかには一枚のメモが入っていた。
「あなたの旅に、幸多かれ」
真美は、心配する夫の反対を押し切り、ひとり憧れのニューヨークへと旅に出る。そしてそのスーツケースは、友人達の手から手へ。世界中を旅するうちに「幸運のスーツケース」と呼ばれるようになっていった。
以下、第2話『三泊四日のシンデレラ』より。

「建物の内装が豪華なのはもちろんだけど、サービスが素晴らしいの。何度か泊まったら、食べ物や枕の好みとかを覚えていてくれるし、まるでお姫様みたいに扱ってくれる」
そう口に出して、自分の少女趣味に恥ずかしくなった。だが、桂木は言った。
「丁寧に扱ってもらうことって大事ですよね」
はっとした。言われてからやっと気づいた。
自分は大切に、丁寧に扱ってもらいたかったのだ。たった三泊四日でもいいから、そのときだけは誰かに、丁寧に扱われたかったのだ。それが払ったお金の対価であり、時間切れになれば覚めてしまう魔法だったとしても。
花恵ははっきりと口に出した。
「うん。わたし、大事に扱われたかったの」
つかの間、そうしてもらえれば、また頑張れる。日常に戻って戦える。
思い切って言ってみた。
「でもさそれって少しわびしいよね。お金を払って大切にしてもらうなんて」
桂木は即答した。
「そんなことないですよ。誰にも親切にされず、お金も払わず、なのに大切にしてもらえないって愚痴ばっかり言う人は、世の中にたくさんいるでしょ。そっちの方がずっとわびしいし、自分以外の人に甘えてますよ」

スーツケースは、ニューヨーク、香港、中東アブダビ、パリ、ドイツはシュットゥットガルトと途中、行方不明になりながらも旅していく。ファンタジー要素がちらりと見える小説だが、そこはミステリー上手の近藤史恵。きちんと伏線を回収しているところがまた魅力の一つとなっていた。
いちばんの魅力はと言うと、それぞれの旅、そしてその時々の旅があるのだと再確認できるところかな。同じ場所を同じ人物が旅しても、そのときの心の持ちようで旅はがらりと色を変えるものなのだと。

帯の言葉「大丈夫。一歩踏み出せば、どこへだって行ける」
「いつも、今ここが出発点」にも、魅かれました。

カバーには、世界中のスナップ写真が描かれていました。
メンフクロウ(白いフクロウ)は、小説のなかにも登場します。

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『キアズマ』Kindle版

Kindleで読んでいた『キアズマ』(新潮社)を、読み終えた。
自転車ロードレースに挑む若者達の物語だ。たがいのホイールを交換するシーンで、魂や命といったものまでもをホイールに託し託され乗せていく、彼らのロードレースに対する熱い思いを描いている。「キアズマ」とは、相同染色体同士の接着点のうち、染色体の交換が起こった部位をいう。ホイールを交換する間に交わる形のないものを「キアズマ」と重ねたタイトルだ。

トモス(オランダ製の原動機付自転車)に乗る入学したての大学生、正樹は、自転車部の学生達のロードバイクに追いかけられ、転倒した拍子にトモスで怪我を負わせてしまう。全治十か月の怪我をしたのは自転車部の部長だった。彼は意外なことに、走れなくなった自分の代わりに、正樹に自転車部へ入部してくれと持ちかけてくる。エース櫻井のアシストが必要だというのだ。正樹は、2年生でヤンキーっぽい関西弁の櫻井に振り回されつつ、ロードレースの魅力にとりつかれていくのだった。

せっかくKindle版で読んだので、Kindleならではの紹介をしようと思う。
Kindleは栞も挟めるが、ハイライト(マーカー)を引くこともできる。そしてそのハイライトは、同じ本を読む人に共有される。いいな、と思った文章にハイライトが引かれることが多いと思うが、何人もがマーカーを引いた個所に、例えば5人なら「5人がハイライト」と表示される。こんな箇所だ。

半年後、もしくは一年後、必死に頑張り続けたら、いつか俺の手にきらきらしたなにかが引っかかってくることはないだろうか。
どこまで行けるか試してみたい。自分を追い込んでみたい。

遠くに見える櫻井の背中を見ながらペダルを踏む。追われる側よりも追う側のほうがアドレナリンが出る。決して悪い状況ではない。

「でもな、正樹。俺の好きな選手が言ってたよ。〈運がよくないと勝てない。だが、運がいいだけでは勝てない〉ってな」
俺は息をのんだ。
「お前は運がいいだけで、必死に勝利を狙ってきた百人以上の選手を蹴落として頂点に立てたと思うのか?」

自分が悲観的なのか、楽観的なのかわからない。
だが、どちらにせよ、思い描く未来は明るいほうがいい。あとで失望することになったとしても。このレースだってそうだ。きっと勝てる。俺はひとりで走っているのではないのだから。

などなどである。
『サクリファイス』シリーズのなかで唯一、ミステリー要素がなかったのが個人的には残念だが、ドラマとしてじゅうぶん楽しめる小説だった。
そうそう。Kindleで読んだことで、唖然としたことがあった。本ならあと何ページくらいかなというのが手に持った感触で判る。なので驚いた。
「うそ! ここで、終わり?」
特に唐突に幕を閉じた訳ではなかったが、まだまだ続くと思っていたのでショックだったのだ。ちなみに、残り何ページなどと確認もできるらしいが、わざわざしなかった。正常性バイアスが働き(?)情報を見ようともせず、まだまだ読みたーいという願望が受け入れられるものと信じてしまった。
そんなこんなでKindleはまだまだ使いこなせてはいないが、自転車ロードレース青春小説『キアズマ』は、読み終えるのが惜しいほどにおもしろかった。

やっぱり表紙は、本の装幀には勝てないでしょう。

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キンドルの民

「あー、キンドルミンになっちゃったの?」
末娘が夫に責めるような声を上げたのは、昨夏のことだった。

一瞬、カタカナ変換をして何の事だか判らなかったのだが、それは「Kindleを使う民」の意味だった。検索してもヒットしないところをみると、彼女の造語なのだろう。こよなく本を愛し、今は大型書店でバイトする大学生の彼女にとって、Kindleで電子書籍を読む、などということは信じられない裏切りのように思えるらしい。彼女の本棚は、新刊と文庫それぞれ作家別五十音順に並べてあるし、本が日焼けしないよう本のためにカーテンを閉めている。食べたり飲んだりしながら本を読むなどもってのほか。ブックオフで高く買い取ってもらえるのもうなずける気の配りようだ。書店のバイトとして優秀であることは間違いない。何しろ、本を扱い慣れている。大きさ別十種類以上あるブックカバーも、レジに本を差し出された瞬間に判るし、すぐに忙しいレジに回されるようになったのだと言っていた。

ところで、そのKindleを夫が購入して、すぐのこと。
「きみにも貸してあげるよ。一冊買ってみたら?」
そう勧められ、近藤史恵の『キアズマ』(新潮社)を買ってみた。既に読んでいる『サクリファイス』(新潮社)など自転車ロードレースを舞台にかかれたミステリーの最新刊で、わくわくしながらポチッとしたのを覚えている。
だがその後、なかなかそれを読むことはできなかった。夫が常に携帯しているため、Kindleはわたしの手もとに落ち着いてくれないのだ。読んでいる途中で持っていかれるかと思うと、読み始めるのも気が進まない。そうこうしているうちに新しい年になってしまった。
それを考えると、やっぱり本はいいよなあと思ってしまう。そこにちゃんとある、ってことだけで落ち着く。

しかし、遅めの新年の挨拶にと出かけた夫の実家がある神戸への道のりで、ようやくKindleを開き『キアズマ』を読み始めた。これが、読みやすい。文字は老眼の目にちょうどいい大きさに調整できるし、片手で持っていても、勝手に閉じたりしない。ワンタッチでページをめくることができる。一度閉じても、開けばまたそのページ。栞だって幾枚でも挟める。
「いいじゃん、Kindle」
だったら自分用のものを購入すればいいって? うーむ。娘も言うところの「キンドル民」になるのはなあ、ともまた思うのだった。

赤いカバーの可愛いやつです。車窓が似合いますね。
塩尻から名古屋へ向かう、特急しなのにて。

開くとこんな感じ。セールやってます(笑)

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『望郷』

湊かなえの短編集『望郷』(文春文庫)を、読んだ。
帯にあった北村薫の言葉「群を抜いていた。鮮やかな逆転、周到な伏線、ほとんど名人の技である」に魅かれ衝動買いした。日本推理作家協会賞を受賞した短編『海の星』に向けた選評の言葉だろうか。
湊かなえの故郷である瀬戸内海の島を舞台にかかれた短編集だということにも、興味をそそられた。ある意味で閉鎖された空間で、助け合い暮す島民達のなかで起こるドラマ。猟奇的な殺人などは登場しない、ドラマとして楽しめるミステリーだと確信したのだ。

舞台は瀬戸内海の白綱島(モデルは因島)。本土とを結ぶ大橋が架かったのは、30年ほど前という設定だ。『海の星』は、父親が失踪し、行方知れずのままになっている島育ちの洋平が主人公。都会で家族と共に暮らす彼のもとに一枚のハガキが届いた。「お父さんのことでお伝えしたいことがあります」
島の同級生、美咲からだった。以下本文から。

「橋、きれいだね」
橋を見ながらそう言うと、ネックレスみたい、と母は答えたが、お互い、足を止めることはなかった。母が何を思っていたのかはわからない。私は橋を見ているうちに、もしや父は橋の向こう側に行ってしまったのではないかという不安が込み上げ、じっと見ることが怖くなってしまった。
島内にいるのなら父は帰ってくる。しかし、父がもし橋を渡ってしまっていたら、もう二度と帰ってくることはない。今となれば、白綱島大橋など、単に隣の島とをつなぐだけのものでしかないし、当時だって、橋を渡って本土に行ったことは何度かあったのだが、夜の闇に浮かぶ東洋一の長さの吊り橋の向こうには、未知のとてつもなく魅力的な街があるように感じられた。

解説で光原百合が、かいている。
「何かが不可能であること自体は人間を苦しめません。可能であるのに何かに阻まれてできないことが人間を苦しめます。白綱島での暮らしに閉塞感を感じ外の世界に憧れる作中人物達にとって、白い美しい橋は外に通じる希望であると同時に、はかない夢を見せる残酷な存在でもあったのはないでしょうか」

生きていくのは、自由なことばかりじゃない。可能であるのに、何かに阻まれてでききないこと。たぶんそれは、多かれ少なかれ誰もが抱え、苦しんでいることでもあるだろう。
それを象徴する大橋が、小説のなかに白く美しく浮かび上がっていた。

『海の星』のイメージの表紙ですね。
夜の海では、夜光虫(プランクトン)が刺激を受けると青く光るのだとか。
それを「海の星」と呼ぶのだそうです。

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を読んだ。主人公、多崎つくるの高校時代の親友達4人は、それぞれ苗字に色を持っていた。アカ、アオ(男子)、シロ、クロ(女子)と呼び合っていて、つくるだけ色を持っていなかったが、その5人組を「乱れなく調和する共同体」であると確信するのに、色は必要なかった。しかし二十歳の夏、つくるは4人から一方的に絶交を言い渡される。それはつくるにとって、何もかもを変えてしまう大きな出来事だった。つくるは、色彩を持たない自分をつまらない人間だと考えるようになり、36歳になった今も、人と深くかかわることに対し臆病になっていた。それが、年上のガールフレンド沙羅に出会い、何かが動き始める。以下本文から。

「あなたの頭には、あるいは心には、それともその両方には、まだそのときの傷が残っている。多分かなりはっきりと。なのに自分がなぜそんな目にあわされたのかこの十五年か十六年のその間その理由を追及しようともしなかった」
「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」
沙羅は薄い唇をいったんまっすぐ結び、それから言った。
「それはきっと危険なことよ」
「危険なこと」つくるは言った。「どんな風に?」
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」
沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。
「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」

つくるは、沙羅に促されるまま、4人に会いに行く。そのうちのひとりクロは結婚し、遠くフィンランドにいた。
村上春樹の長編のなかでは、読後、明るい気持ちになれる小説だった。
それはたぶん、つくるの心と身体の健康さにあるのだと思った。過去をありのままに肯定し、受け入れられるだけの健康さを彼は持っていた。そして一つ受け入れるたびに、沙羅への思いが変化していくさまに温かな心持ちになった。
ニューヨークタイムズでベストセラー第1位に輝いたという、この小説。
誰もが深いところに沈め、もてあましている記憶を少なからず持っているということかな。それが、共感を呼んだのかも知れない。

個人的に、新刊よりも文庫の装幀の方が好きです。
色が混ざり合う雰囲気に、心の混沌を連想させられるからかな。
レビューを読んでみたら酷評が多くてびっくりしましたが、
読み方いろいろ ~ 楽しんで読むことをおススメします。

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『ワン・モア』

桜木紫乃の短編連作『ワン・モア』(角川文庫)を、読んだ。
帯には「人生っていいね。って言いたくなる・・・。みんなつらいことはあるけれど立ち直れる」とある。タイトルの「もう一度」の意味合いそのままに、登場人物達はあきらめてしまいそうになるぎりぎりのところで、その先へと行ってみようとする。もう一度だけ、やってみようと。

余命を宣告された開業内科医の鈴音は、別れた夫とよりを戻そうとし、安楽死事件を起こし失墜した元同僚の美和は、鈴音を生かすために鈴音のあとを継ぐ決意をする。患者、赤沢への思いを最後の恋だと感じ戸惑う看護婦、浦田寿美子。鈴音を思い続ける放射線技師、八木。病院にDV患者を担ぎ込んだ本屋の店長、佐藤などが短編の主役として脇役を固める。
鈴音は、自分の分身のように可愛がっているミニチュアシュナウザー犬、リンに子どもを産ませることにした。5匹のうちの1匹は自分が、あとの4匹は幸せな人に里親となってもらおうと決めて。以下本文から。

だいたい一週間あれば、と泣きながら思っていた。そのくらいの時間があれば浮上できる。経験則だ。赤沢はどうだろうか。似たようなものだろうと思えば間違いはなさそうだ。みんな、通り過ぎていく。リンが今抱えているお産の痛みも同じなのだろう。
居間がしんと凪いだ気配に包まれた。短く荒い呼吸を繰り返し、リンは一匹目の子犬を産んだ。深い息をひとつ吐いて舌先で胎盤を破る。みな、新しい命に釘付けだった。
「あぁ、男の子だ」
母となったリンに舐められながら、ころりとした黒い塊がちいさくあくびをした。どれどれと美和が産箱に近づいてきた。居間全体が、言葉にならない温かいもので包まれていた。リンは「くぅん」と細く鳴いたあと、十分ほどかかって二匹目の子犬を産み落とした。今度はプラチナホワイトのメスだった。
鈴音が「わぁ」と言って喜んでいる。
「白衣の天使みたいだ。浦田さん、この子どう?」
「ありがとうございます。この子にします」
寿美子は産箱の中でリンに舐められている白い子犬を見た。

長く生きていると、あきらめてしまった方が楽だと思えることが、ことのほか多いと気づく。だけど、もう一度だけ。そんな思いが詰まった小説だった。

『ホテルローヤル』で直木賞を受賞する2年前にかかれた小説です。
解説、北上次郎は、
「ここから桜木紫乃の第2ステージが始まっていく」と絶賛していました。

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