はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
内面から美しくなる?
上の娘が「健康」にハマっている。
彼女が「健康」にハマるのは初めてのことではなく、昔の日記にも「娘が毎日オニオンスライスを食べたがる」「夕飯は豆腐にしたいと言い張る」「お肌にいいクッキーを検索し焼く」などと数えたらきりがない。
それが、ハマり始めたら一直線だ。睡眠をきちんと取り、キウイとヨーグルトを毎朝食べ、家でヨガを始めた。と、ここまではいい。
豆乳を買って来た。ここら辺で「おっ、来た来た」と観察する。
近所の農家さんにいただいた南瓜を四苦八苦して切り、南瓜豆乳冷製スープを作る。なかなか美味しい。
次は、図書館で『美人のレシピ』なる本を借りてきた。玄米ご飯を炊いていいかと、わたしに聞く。「おっ、来た来た来た」
「いきなり女子力、アップじゃん」と、からかうわたし。
娘は自ら、自分はオヤジ女子だと公言している。
「そういうことじゃなくて、内面から美しくなりたいの!」と、娘。
「内面ねぇ」内面というのは、身体のなかのことではないんじゃないかとの疑問を口に出さず、観察を続ける。
レシピ本にあった「キノコのスープパスタ」にも挑戦。なかなか続いている。
果たして10日ほど経ち、洗面所で遭遇した際、彼女は嬉しそうに言った。
「肌が、綺麗になった気がする」
「そ、そうだね」ほんとかいなと思いつつも、わたし。
いつまで続くのやらと観察しつつ、考える。バイトから夕方5時半に帰ってきて「お腹空いた―!」という彼女は、もともと健康そのものだ。
そろそろ誘ってみようかな。「焼き肉、食べに行かない?」
エリンギ、シメジ、玉葱、にんにく、生姜、梅干しが入っています。
隠し味はオリーブオイルかな。(ラーメンどんぶりに入れるかな、普通)
季節ごとの「美人の作り方」というページがありました。
秋は乾燥の季節。肺に疲れが出やすいとか。(秋の長雨ともいうけど)
「肺=悲しみの臓器」肺と悲しみの感情は、深くかかわっていて、
疲れてため息ばかりついくのも、肺が弱っているせいかも、と。
歌ったり笑ったり、深呼吸したりして、疲れをとるのがおススメだそうです。
彼女が「健康」にハマるのは初めてのことではなく、昔の日記にも「娘が毎日オニオンスライスを食べたがる」「夕飯は豆腐にしたいと言い張る」「お肌にいいクッキーを検索し焼く」などと数えたらきりがない。
それが、ハマり始めたら一直線だ。睡眠をきちんと取り、キウイとヨーグルトを毎朝食べ、家でヨガを始めた。と、ここまではいい。
豆乳を買って来た。ここら辺で「おっ、来た来た」と観察する。
近所の農家さんにいただいた南瓜を四苦八苦して切り、南瓜豆乳冷製スープを作る。なかなか美味しい。
次は、図書館で『美人のレシピ』なる本を借りてきた。玄米ご飯を炊いていいかと、わたしに聞く。「おっ、来た来た来た」
「いきなり女子力、アップじゃん」と、からかうわたし。
娘は自ら、自分はオヤジ女子だと公言している。
「そういうことじゃなくて、内面から美しくなりたいの!」と、娘。
「内面ねぇ」内面というのは、身体のなかのことではないんじゃないかとの疑問を口に出さず、観察を続ける。
レシピ本にあった「キノコのスープパスタ」にも挑戦。なかなか続いている。
果たして10日ほど経ち、洗面所で遭遇した際、彼女は嬉しそうに言った。
「肌が、綺麗になった気がする」
「そ、そうだね」ほんとかいなと思いつつも、わたし。
いつまで続くのやらと観察しつつ、考える。バイトから夕方5時半に帰ってきて「お腹空いた―!」という彼女は、もともと健康そのものだ。
そろそろ誘ってみようかな。「焼き肉、食べに行かない?」
エリンギ、シメジ、玉葱、にんにく、生姜、梅干しが入っています。
隠し味はオリーブオイルかな。(ラーメンどんぶりに入れるかな、普通)
季節ごとの「美人の作り方」というページがありました。
秋は乾燥の季節。肺に疲れが出やすいとか。(秋の長雨ともいうけど)
「肺=悲しみの臓器」肺と悲しみの感情は、深くかかわっていて、
疲れてため息ばかりついくのも、肺が弱っているせいかも、と。
歌ったり笑ったり、深呼吸したりして、疲れをとるのがおススメだそうです。
泣くことも笑うこともしっかりと受け止めて
雨の日曜日、同じく北杜市は高根町の蕎麦屋『森ぴか』にランチに行った。
安曇野に蕎麦でも食べ行きがてらドライブでもしようかと、夫とふたり話していたのだが、雨も降っているしと寝坊した上、だらだらと過ごしてしまった。
しばらく改装中だったため、なんとなく足が遠のいていた『森ぴか』だが、蕎麦の美味さとおばちゃんの威勢の良さは相変わらずで、雑然とした店内の雰囲気も、かなり広くなったにもかかわらず不思議なことに変わらない。
二人掛けの席に着くと、さっそくおばちゃんが声をかけてくれた。
「広いテーブル使いなよ。気にしなくていいから」
ふたりで、贅沢にも6人掛けのテーブルに座らせてもらった。
隣のテーブルには、若い夫婦と赤ちゃん、おじいちゃんおばあちゃんの5人。
「赤ちゃんがぐずって、お母さんはちょっと大変そう」
そう思った途端、おばちゃんが赤ちゃんに声をかけた。
「いい声出すねぇ! ほんとにいい声だ」
若い夫婦が礼を言い、その両親も笑顔になり、代わる代わる赤ちゃんをあやしている。おばちゃんも天ぷらを揚げながら、厨房の中から「いい声だねぇ。いい子だよ」と、本当に感心したという声で繰り返している。
3人の子ども達が幼かった頃、落ち着いて外食などできなかったことを思い出した。うるさくして迷惑をかけているんじゃないかと気をもみ、なかなか楽しめずにもいた。
『森ぴか』でも、わたしも夫も、たぶん他の客も、うるさいなどとは思ってはいなかったと思うが、親は気になるのだろうなとも考えていた。
だがそれは、おばちゃんの一言で逆転した。
赤ちゃんの声は決してうるさいものではなく「いい声」なのだ。
そしてどのテーブルにも蕎麦が揃った頃、赤ちゃんが楽しそうに笑い出した。
「よく笑える子は、頭がいいんだよ。動物は、笑ってるのかどうかよくわからないでしょう? 声を出して笑うのは人間だけなんだよ」
泣くことも笑うことも、あるいはすべてのことをしっかり受け止める大切さを、蕎麦一杯で、おばちゃんに教えてもらった。
天麩羅は紫蘇やつるむらさきの他、ズッキーニや大根もありました。
厨房に飾ってある大皿。天麩羅を揚げる音が、よく聞こえました。
安曇野に蕎麦でも食べ行きがてらドライブでもしようかと、夫とふたり話していたのだが、雨も降っているしと寝坊した上、だらだらと過ごしてしまった。
しばらく改装中だったため、なんとなく足が遠のいていた『森ぴか』だが、蕎麦の美味さとおばちゃんの威勢の良さは相変わらずで、雑然とした店内の雰囲気も、かなり広くなったにもかかわらず不思議なことに変わらない。
二人掛けの席に着くと、さっそくおばちゃんが声をかけてくれた。
「広いテーブル使いなよ。気にしなくていいから」
ふたりで、贅沢にも6人掛けのテーブルに座らせてもらった。
隣のテーブルには、若い夫婦と赤ちゃん、おじいちゃんおばあちゃんの5人。
「赤ちゃんがぐずって、お母さんはちょっと大変そう」
そう思った途端、おばちゃんが赤ちゃんに声をかけた。
「いい声出すねぇ! ほんとにいい声だ」
若い夫婦が礼を言い、その両親も笑顔になり、代わる代わる赤ちゃんをあやしている。おばちゃんも天ぷらを揚げながら、厨房の中から「いい声だねぇ。いい子だよ」と、本当に感心したという声で繰り返している。
3人の子ども達が幼かった頃、落ち着いて外食などできなかったことを思い出した。うるさくして迷惑をかけているんじゃないかと気をもみ、なかなか楽しめずにもいた。
『森ぴか』でも、わたしも夫も、たぶん他の客も、うるさいなどとは思ってはいなかったと思うが、親は気になるのだろうなとも考えていた。
だがそれは、おばちゃんの一言で逆転した。
赤ちゃんの声は決してうるさいものではなく「いい声」なのだ。
そしてどのテーブルにも蕎麦が揃った頃、赤ちゃんが楽しそうに笑い出した。
「よく笑える子は、頭がいいんだよ。動物は、笑ってるのかどうかよくわからないでしょう? 声を出して笑うのは人間だけなんだよ」
泣くことも笑うことも、あるいはすべてのことをしっかり受け止める大切さを、蕎麦一杯で、おばちゃんに教えてもらった。
天麩羅は紫蘇やつるむらさきの他、ズッキーニや大根もありました。
厨房に飾ってある大皿。天麩羅を揚げる音が、よく聞こえました。
来てよ、ピーマン!わたしのところへ
ミニトマトならぬ、ミニピーマンをいただいた。可愛い。
種も好きなわたしは、洗ってそのままオリーブオイルで炒めた。写真の5倍ものピーマンをいただいたが、パスタに入れたりもして3日で食べ切った。
ピーマンは中身が空っぽというが、ミニピーマンは種がぎっしり詰まっていた。それがまた味わい深く、種も捨てるのはもったいない。苦味もスタンダードピーマンよりも軽い感じがする。
ピーマンは子ども達には、嫌われ者的存在だ。かく言うわたしも、幼少期ピーマンが嫌いだった。大きなことは言えない。苦いもの、辛い物を、食の初心者、子ども達が嫌うのも納得できることである。ムリに食べさせられた記憶はないが、大人になり、こんなにも好きになってしまうのだから、食の好みというものは計り知れない。
保育士時代、アニメ『パーマン』の替え歌をピーマンで歌ったのを思い出す。
♪ ピーマン ピーマン ピーマン 遠くで呼んでる声がするぅ
来てよ ピーマン 僕のところへ
来てよ ピーマン わたしのところへ
心伝える合言葉 ピーマン ピーマン ピーマン ♪
長い年月が経ち、ピーマンはわたしのところへ、列をなしてやって来た。
ところで、食べ終えてからの、夫の言葉には笑った。
「美味しかったね、このシシトウ」
トマトや茄子が取り立てて大きい訳ではありません。
一緒にいただいた茄子は、炒めるとすぐに柔らかくなるタイプ。
オリーブオイル、塩胡椒のシンプル炒め、これもたくさん食べました。
フライパンで踊るミニピーマン達。
火が通ったところで、ミニトマトを入れました。
トマトの酸味が、ピーマンを引き立ててくれます。グッド!
種も好きなわたしは、洗ってそのままオリーブオイルで炒めた。写真の5倍ものピーマンをいただいたが、パスタに入れたりもして3日で食べ切った。
ピーマンは中身が空っぽというが、ミニピーマンは種がぎっしり詰まっていた。それがまた味わい深く、種も捨てるのはもったいない。苦味もスタンダードピーマンよりも軽い感じがする。
ピーマンは子ども達には、嫌われ者的存在だ。かく言うわたしも、幼少期ピーマンが嫌いだった。大きなことは言えない。苦いもの、辛い物を、食の初心者、子ども達が嫌うのも納得できることである。ムリに食べさせられた記憶はないが、大人になり、こんなにも好きになってしまうのだから、食の好みというものは計り知れない。
保育士時代、アニメ『パーマン』の替え歌をピーマンで歌ったのを思い出す。
♪ ピーマン ピーマン ピーマン 遠くで呼んでる声がするぅ
来てよ ピーマン 僕のところへ
来てよ ピーマン わたしのところへ
心伝える合言葉 ピーマン ピーマン ピーマン ♪
長い年月が経ち、ピーマンはわたしのところへ、列をなしてやって来た。
ところで、食べ終えてからの、夫の言葉には笑った。
「美味しかったね、このシシトウ」
トマトや茄子が取り立てて大きい訳ではありません。
一緒にいただいた茄子は、炒めるとすぐに柔らかくなるタイプ。
オリーブオイル、塩胡椒のシンプル炒め、これもたくさん食べました。
フライパンで踊るミニピーマン達。
火が通ったところで、ミニトマトを入れました。
トマトの酸味が、ピーマンを引き立ててくれます。グッド!
初秋の宝石
庭の紫式部の実が、色づいてきた。綺麗な薄紫が宝石のように光り、まるでアメジストのようだ。わたしの誕生石は紫式部色のアメジスト。普段、気に入って使っているペンダントは、アメジストの原石を加工した、まだ新人だというアクセサリー作家が安く売っていたものだ。もう10年くらい使っているだろうか。1か所欠けてもいる。それを大切にしている。
そんな風で、宝石やブランド品などとは、何ら縁のない生き方をしてきた。
正式の場で身に付ける真珠のネックレスとイヤリングは、結婚した時に義母にプレゼントしてもらったし、夫が誕生日やらクリスマスやらに(5年に1度くらいの割り合いかな? 忘れた頃にってやつです)贈ってくれた、小さなダイヤがついたネックレスや指輪もいくつかある。だから、それなりの服装をした時には、きちんとしたものを付けられる。それ以上は望まない。欲しいと思わないのは、わたしのなかのみずがめ座的性格「少年性」によるものだろうか。
去年のクリスマスのこと。わたしは夫のリクエストを受け、マフラーをプレゼントした。そして「欲しいものある?」と聞かれ、考えた。
「アクセサリーも、服も、欲しくないなぁ」考えて、言った。
「そういうのは、これからはもういいや。何か欲しいとしたら、ふたりで食事したり、旅行に行ったりしたいなぁ。そういう時間が欲しい」
そして受験生だった末娘の送り迎えを1日だけ休ませてもらい、表参道のイタリアンレストランでふたりゆっくりと食事をした。いいクリスマスになった。
紫式部の実を見て、こんな風に綺麗だと思う気持ちを失くさずにいたいなと思った。そういう気持ちや、誰かとの時間を、より大切にしたいと思うようになったわたしには、たぶんもう宝石などいらないのだ。
根元から、色づいていきます。そのままの色が綺麗に撮れなくて残念です。
それでも太陽の光が、宝石っぽく輝かせてくれました。
欠けている側の方に透明感があり、気に入って表にしているペンダント。
そんな風で、宝石やブランド品などとは、何ら縁のない生き方をしてきた。
正式の場で身に付ける真珠のネックレスとイヤリングは、結婚した時に義母にプレゼントしてもらったし、夫が誕生日やらクリスマスやらに(5年に1度くらいの割り合いかな? 忘れた頃にってやつです)贈ってくれた、小さなダイヤがついたネックレスや指輪もいくつかある。だから、それなりの服装をした時には、きちんとしたものを付けられる。それ以上は望まない。欲しいと思わないのは、わたしのなかのみずがめ座的性格「少年性」によるものだろうか。
去年のクリスマスのこと。わたしは夫のリクエストを受け、マフラーをプレゼントした。そして「欲しいものある?」と聞かれ、考えた。
「アクセサリーも、服も、欲しくないなぁ」考えて、言った。
「そういうのは、これからはもういいや。何か欲しいとしたら、ふたりで食事したり、旅行に行ったりしたいなぁ。そういう時間が欲しい」
そして受験生だった末娘の送り迎えを1日だけ休ませてもらい、表参道のイタリアンレストランでふたりゆっくりと食事をした。いいクリスマスになった。
紫式部の実を見て、こんな風に綺麗だと思う気持ちを失くさずにいたいなと思った。そういう気持ちや、誰かとの時間を、より大切にしたいと思うようになったわたしには、たぶんもう宝石などいらないのだ。
根元から、色づいていきます。そのままの色が綺麗に撮れなくて残念です。
それでも太陽の光が、宝石っぽく輝かせてくれました。
欠けている側の方に透明感があり、気に入って表にしているペンダント。
夏の疲れに、池井戸潤はいかが?
ドラマ『半沢直樹』で大ブレイクした直木賞作家、池井戸潤の小説を初めて読んだ。『ようこそ、わが家へ』(小学館文庫)わりとマイナーなところから入ったと思われるかもしれないが、直木賞を取った『下町ロケット』も、吉川英治文学新人賞『鉄の骨』も、『空飛ぶタイヤ』も、すでにドラマで観てしまっている。『半沢直樹』の原作本も然り。夫が買った文庫を気軽に開く程度がいいかなと読み始めたものだ。
真面目が取り柄の50代の会社員、倉田は、駅のホームで女性を押しのけ割り込む男を注意した。そこから執拗なストーカー行為が始まり、妻、大学生の息子、高校生の娘との穏やかな暮らしは一変する。争いを好まない性格の倉田だが、家族を守るべく敵に立ち向かっていく。偏執的なストーカーに対する恐怖だけではなく、他人が踏み入ることでこれまで見えなかった家族の違う一面が見えてくるのも興味深く、最後まで楽しんで読めた。
基本、池井戸潤の小説はハッピーエンドだ。ごく普通の人や、優秀であっても仕事に活かせずに生きてきた主人公が、何かトラブルに巻き込まれたり、窮地に陥った時に本当の力を発揮する。
数多くドラマ化されているのも、普通の真面目な人が、社会の汚れた部分、保身に走るこずるい敵などと戦い、そして最後には「正義は勝つ!」という痛快さがウケているのだろう。
生きていれば、そうそうハッピーエンドで終わることばかりではない。理不尽だとの思いをいくつも抱えて生きていく世の中だからこそのブレイクである。
夏の疲れに、池井戸潤はいかが?
『ルーズヴェルト・ゲーム』も夫が購入したものです。緑の栞が綺麗。
『七つの会議』は、明野図書館にありました。
人気作家の本が、無造作に置いてあったりするのも田舎ならではかな。
真面目が取り柄の50代の会社員、倉田は、駅のホームで女性を押しのけ割り込む男を注意した。そこから執拗なストーカー行為が始まり、妻、大学生の息子、高校生の娘との穏やかな暮らしは一変する。争いを好まない性格の倉田だが、家族を守るべく敵に立ち向かっていく。偏執的なストーカーに対する恐怖だけではなく、他人が踏み入ることでこれまで見えなかった家族の違う一面が見えてくるのも興味深く、最後まで楽しんで読めた。
基本、池井戸潤の小説はハッピーエンドだ。ごく普通の人や、優秀であっても仕事に活かせずに生きてきた主人公が、何かトラブルに巻き込まれたり、窮地に陥った時に本当の力を発揮する。
数多くドラマ化されているのも、普通の真面目な人が、社会の汚れた部分、保身に走るこずるい敵などと戦い、そして最後には「正義は勝つ!」という痛快さがウケているのだろう。
生きていれば、そうそうハッピーエンドで終わることばかりではない。理不尽だとの思いをいくつも抱えて生きていく世の中だからこそのブレイクである。
夏の疲れに、池井戸潤はいかが?
『ルーズヴェルト・ゲーム』も夫が購入したものです。緑の栞が綺麗。
『七つの会議』は、明野図書館にありました。
人気作家の本が、無造作に置いてあったりするのも田舎ならではかな。
待ち時間に通った天使
何も予定がなかった休日。夫と買い物がてら、隣町に出来たティー・レストラン『spoon』にランチを食べに行った。午後2時前だったが人が並んでいる。
「どうする? 並んでまで食べる?」「うーん」
しぶしぶだったが、新しい場所への興味もありドアを開けた。ドアを開け案内されると、まあいいかという気持ちになる。
しかし座ったはいいが、オーダーを取りに来るまで何もないテーブルで10分以上は待たされた。待つのはいい。先に予定が詰まっている訳ではないのだ。
夫は撮ったばかりの風景などを、カメラのモニターで見ている。周りを見回すとほとんどが女性客で、にぎやかにおしゃべりしている様子だ。わたし達のテーブルのみ、ぽつりぽつりと写真の話をするだけ。
突然焦りを感じた。沈黙した一瞬、天使が通っているのが見えてしまったのだ。何かしゃべらなくてはいけないという焦燥感に、話題を探した。そうだ、彼が好きなサッカーの話題がある。
「ら、来年のワールドカップは観に行くの?」「うーん、考え中」
夫はカメラを見ながら、上の空だ。
「遠いからね、ブラジル」「遠いねぇ」
「観光名所とか、あるの?」と、わたし。すると夫は、
「急に話フラれても、わかんないよ」会話を終わらせてしまった。
そこでようやく、女の子がオーダーを取りに来た。料理は美味しく、様々な味の紅茶がポットに用意されるたび、何杯でも注いでくれる。
ゆったりとした、気持ちのいいランチとなった。
さて。車に乗ってからわたしは、文句を言うのも忘れなかった。
「何かしゃべらなくちゃって、緊張して話題探したのにさ」
「えっ? 緊張してたの?」と、助手席で笑いながら夫。
そう言われて、ふたりで旅行した時など、何時間も飛行機や電車に揺られ、おたがい本を読んだり眠ったり好き勝手しているのにと、わたしも急に可笑しくなった。女性客ばかりのあの雰囲気に、やられた。わたしとしたことが、天使の幻影を見てしまうとは。
国道141号沿いですが、小さなガーデンがありました。
茄子とモツァレラチーズのトマトパスタ。
メニューはピザ、石焼丼、飲茶セットなど種類豊富でした。
淹れてくれたのは、メロン風味の紅茶。香りより味がしっかりメロン!
にぎやかな場で一瞬沈黙した時に「天使が通った」と表現するのは、
フランスの諺から来ているそうです。
「どうする? 並んでまで食べる?」「うーん」
しぶしぶだったが、新しい場所への興味もありドアを開けた。ドアを開け案内されると、まあいいかという気持ちになる。
しかし座ったはいいが、オーダーを取りに来るまで何もないテーブルで10分以上は待たされた。待つのはいい。先に予定が詰まっている訳ではないのだ。
夫は撮ったばかりの風景などを、カメラのモニターで見ている。周りを見回すとほとんどが女性客で、にぎやかにおしゃべりしている様子だ。わたし達のテーブルのみ、ぽつりぽつりと写真の話をするだけ。
突然焦りを感じた。沈黙した一瞬、天使が通っているのが見えてしまったのだ。何かしゃべらなくてはいけないという焦燥感に、話題を探した。そうだ、彼が好きなサッカーの話題がある。
「ら、来年のワールドカップは観に行くの?」「うーん、考え中」
夫はカメラを見ながら、上の空だ。
「遠いからね、ブラジル」「遠いねぇ」
「観光名所とか、あるの?」と、わたし。すると夫は、
「急に話フラれても、わかんないよ」会話を終わらせてしまった。
そこでようやく、女の子がオーダーを取りに来た。料理は美味しく、様々な味の紅茶がポットに用意されるたび、何杯でも注いでくれる。
ゆったりとした、気持ちのいいランチとなった。
さて。車に乗ってからわたしは、文句を言うのも忘れなかった。
「何かしゃべらなくちゃって、緊張して話題探したのにさ」
「えっ? 緊張してたの?」と、助手席で笑いながら夫。
そう言われて、ふたりで旅行した時など、何時間も飛行機や電車に揺られ、おたがい本を読んだり眠ったり好き勝手しているのにと、わたしも急に可笑しくなった。女性客ばかりのあの雰囲気に、やられた。わたしとしたことが、天使の幻影を見てしまうとは。
国道141号沿いですが、小さなガーデンがありました。
茄子とモツァレラチーズのトマトパスタ。
メニューはピザ、石焼丼、飲茶セットなど種類豊富でした。
淹れてくれたのは、メロン風味の紅茶。香りより味がしっかりメロン!
にぎやかな場で一瞬沈黙した時に「天使が通った」と表現するのは、
フランスの諺から来ているそうです。
近しい人の顔の横で呼吸すること
「アロハ」が「ハロー」や「サンキュー」と共に「I love you」の意味を持つことは知っていた。昔、漫画で読んだのだ。
「アロハ」=「ハロー」だとばかり思っていた彼女に、彼は「aloha」と彫った指輪をプレゼントするが、彼女はハワイの記念くらいにしか思わなかった。そして、時間を経て気づく。「aloha」と彫られた指輪の意味を。
「alo」は、顔「ha」は、呼吸するという意味を持つと聞いた。顔の横で呼吸する。それは近しい人に挨拶し、感謝し、愛し、信じ、尊敬する気持ちを表す。「aloha」これ以上になく温かみを感じる言葉だ。
先週ハワイアン・ライブを聴きに行き、フラダンスなどのショーを楽しんだ。そこで「aloha」の持つたくさんの意味がかいてあるのを目にした。笑顔が素敵なライブだった。
日本にもいろいろな意味合いで、挨拶に使える言葉がある。「どうも」
「ハロー」「バイバイ」「サンキュー」全部「どうも」でOKだ。でもわたしは好きになれない。「どうも」に温かみはない。どちらかと言うと便利さ故に生まれた言葉に思える。今も「どうも好きになれない」と、かきそうになったが、もともとはっきりしない気持ちを表す言葉なのだから「aloha」とは正反対の場所にいるのだろう。
酔っ払った時に使う便利な言葉もある。たとえば家族で焼き肉屋に行った時。
「このカルビ、美味しいね」と、娘。「そーらね」と、すでに酔ったわたし。
ここで重要なのは「そうだね」ではなく呂律の回らないフリ、または実際に回っていない「そーらね」であることだ。
「牛タン、けっこう分厚いじゃん!」「そーらね」
「ビールおかわりする?」「そーらね」
「ユッケがメニューから消えたのは、淋しいよね」「そーらね」
「お母さん、うるさい!」と、笑いながら娘。
「そーらね」挑戦的にも、さらに言いつのる、わたし。
といった具合に、同意の言葉「そーらね」は、かなり嫌がられているという点で「どうも」を抜きんでているかもしれない。
入口では、アロハシャツやお花の髪飾りが売っていました。
ビュッフェは、ハワイアン料理?
というより、ハワイアンな雰囲気で何でもありって感じかな?
笑顔っていいなぁと、素直に思えるステージでした。
「アロハ」=「ハロー」だとばかり思っていた彼女に、彼は「aloha」と彫った指輪をプレゼントするが、彼女はハワイの記念くらいにしか思わなかった。そして、時間を経て気づく。「aloha」と彫られた指輪の意味を。
「alo」は、顔「ha」は、呼吸するという意味を持つと聞いた。顔の横で呼吸する。それは近しい人に挨拶し、感謝し、愛し、信じ、尊敬する気持ちを表す。「aloha」これ以上になく温かみを感じる言葉だ。
先週ハワイアン・ライブを聴きに行き、フラダンスなどのショーを楽しんだ。そこで「aloha」の持つたくさんの意味がかいてあるのを目にした。笑顔が素敵なライブだった。
日本にもいろいろな意味合いで、挨拶に使える言葉がある。「どうも」
「ハロー」「バイバイ」「サンキュー」全部「どうも」でOKだ。でもわたしは好きになれない。「どうも」に温かみはない。どちらかと言うと便利さ故に生まれた言葉に思える。今も「どうも好きになれない」と、かきそうになったが、もともとはっきりしない気持ちを表す言葉なのだから「aloha」とは正反対の場所にいるのだろう。
酔っ払った時に使う便利な言葉もある。たとえば家族で焼き肉屋に行った時。
「このカルビ、美味しいね」と、娘。「そーらね」と、すでに酔ったわたし。
ここで重要なのは「そうだね」ではなく呂律の回らないフリ、または実際に回っていない「そーらね」であることだ。
「牛タン、けっこう分厚いじゃん!」「そーらね」
「ビールおかわりする?」「そーらね」
「ユッケがメニューから消えたのは、淋しいよね」「そーらね」
「お母さん、うるさい!」と、笑いながら娘。
「そーらね」挑戦的にも、さらに言いつのる、わたし。
といった具合に、同意の言葉「そーらね」は、かなり嫌がられているという点で「どうも」を抜きんでているかもしれない。
入口では、アロハシャツやお花の髪飾りが売っていました。
ビュッフェは、ハワイアン料理?
というより、ハワイアンな雰囲気で何でもありって感じかな?
笑顔っていいなぁと、素直に思えるステージでした。
天秤は揺れている
強い青を光らせた空の下、土砂降りの雨が堂々とフロントガラスを叩く。崩れたバランスを表すかのような天気雨。ふいに不安になる。自分のなかの天秤が、ぐらぐらと揺れるのを感じる。
理由もない微かな不安は誰もが持っているもので、自分のなかにだけに座り込んでいるものではないと、今では知っている。
それでもふいに不安になる時のバランスの崩れ方は、予測不可能だ。座り込んでいた不安は立ち上がり、何処までも伸びていく。どんな狭い場所にも入り込み、強い生命力を持つ蔓のように、何もかもをがんじがらめに締め付ける。
「狐の嫁入り」は、不安を引き起こす兆候だ。昔の人も、不安になってファンタジックな連想をしたのだろう。
そんな時には目をつぶり、天秤を思い浮かべる。
片方に幼いわたしだけが乗った、地につき安定した天秤。それが生きていくに連れ、もう片方に乗せるべきものや、自分の脇に置いておきたいものや、そのいろいろが増えていく。シーソーのように天秤は揺れているのが常で、静止するのはどちらかが地についている時しかない。それは、独りぼっちになった時だろうか。それとも、自分を失くした時だろうか。
意識せずとも、常に天秤は揺れている。揺れている方が、余程自分のままに生きていると言うことなのだ。そう思うと、少し楽になる。少しだけでも楽になった分、たちこめる黒雲の向こうの青空が浮き上がって見え、胸のなかの雲が少しずつ晴れていくのだ。
あっという間に、空は泣き出しました。
森の木も、赤い実も、雨に打たれていたでしょう。
カーブの道標が、道しるべのよう。「雨が来るよ。急ぎなさい」
青いまま落ちたどんぐりも、アスファルトの上、濡れているのかな。
理由もない微かな不安は誰もが持っているもので、自分のなかにだけに座り込んでいるものではないと、今では知っている。
それでもふいに不安になる時のバランスの崩れ方は、予測不可能だ。座り込んでいた不安は立ち上がり、何処までも伸びていく。どんな狭い場所にも入り込み、強い生命力を持つ蔓のように、何もかもをがんじがらめに締め付ける。
「狐の嫁入り」は、不安を引き起こす兆候だ。昔の人も、不安になってファンタジックな連想をしたのだろう。
そんな時には目をつぶり、天秤を思い浮かべる。
片方に幼いわたしだけが乗った、地につき安定した天秤。それが生きていくに連れ、もう片方に乗せるべきものや、自分の脇に置いておきたいものや、そのいろいろが増えていく。シーソーのように天秤は揺れているのが常で、静止するのはどちらかが地についている時しかない。それは、独りぼっちになった時だろうか。それとも、自分を失くした時だろうか。
意識せずとも、常に天秤は揺れている。揺れている方が、余程自分のままに生きていると言うことなのだ。そう思うと、少し楽になる。少しだけでも楽になった分、たちこめる黒雲の向こうの青空が浮き上がって見え、胸のなかの雲が少しずつ晴れていくのだ。
あっという間に、空は泣き出しました。
森の木も、赤い実も、雨に打たれていたでしょう。
カーブの道標が、道しるべのよう。「雨が来るよ。急ぎなさい」
青いまま落ちたどんぐりも、アスファルトの上、濡れているのかな。
砂利に咲いた千日紅
千日紅が、咲いている。
韮崎駅近くのその駐車場を借りて、もうすぐ1年。
「そうか。1年経ったんだ」
千日紅に話しかけるでもなく、つぶやく。
1年前にその駐車場を借りることに決めた時にも、砂利に淡々と、と言った風に千日紅は咲いていた。
植物はすごいなぁと思う。忘れず芽を出し花を咲かせる。千日紅に教えられなかったら、駐車場を借りて1年経ったことも思い出さず、ただ車を停め、駅に急ぐだけだっただろう。
あの時は、長く借りていた駐車場でトラブルがあり、ささくれた気持ちで新しい場所を探していたのだ。千日紅はそこに咲いていた。ささくれた気持ちを溶かすように、柔らかい色合いで、静かな風に揺れていた。
毎日する洗濯や食事の支度は忘れたくとも忘れられないし、生業としている経理事務の月々のサイクルでのいろいろも忘れようがない。繰り返しすることは忘れにくいのだ。しかし、年単位だったり、イレギュラーな予定などは忘れることが多く、花達に思い出させてもらうことも多い。1年前のこと。何年か前の同じ季節のこと。季節など心の片隅からも追いやられるほどに忙しい時、ああ、もうこんな時期なのかとハッとさせられることもある。
そうやって季節を教えてくれるのは、桜などの注目を集める花ではなく、大抵は野に咲く小さな花なのだ。
駐車場のあちらこちらに咲いていました。可愛くて大好きな花です。
韮崎駅近くのその駐車場を借りて、もうすぐ1年。
「そうか。1年経ったんだ」
千日紅に話しかけるでもなく、つぶやく。
1年前にその駐車場を借りることに決めた時にも、砂利に淡々と、と言った風に千日紅は咲いていた。
植物はすごいなぁと思う。忘れず芽を出し花を咲かせる。千日紅に教えられなかったら、駐車場を借りて1年経ったことも思い出さず、ただ車を停め、駅に急ぐだけだっただろう。
あの時は、長く借りていた駐車場でトラブルがあり、ささくれた気持ちで新しい場所を探していたのだ。千日紅はそこに咲いていた。ささくれた気持ちを溶かすように、柔らかい色合いで、静かな風に揺れていた。
毎日する洗濯や食事の支度は忘れたくとも忘れられないし、生業としている経理事務の月々のサイクルでのいろいろも忘れようがない。繰り返しすることは忘れにくいのだ。しかし、年単位だったり、イレギュラーな予定などは忘れることが多く、花達に思い出させてもらうことも多い。1年前のこと。何年か前の同じ季節のこと。季節など心の片隅からも追いやられるほどに忙しい時、ああ、もうこんな時期なのかとハッとさせられることもある。
そうやって季節を教えてくれるのは、桜などの注目を集める花ではなく、大抵は野に咲く小さな花なのだ。
駐車場のあちらこちらに咲いていました。可愛くて大好きな花です。
サンドイッチに欠かせないもの
サンドイッチを食べていつも思い浮かべるのは、研いだばかりのよく切れる包丁だ。村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)で印象的なシーンがあったのだ。
何ということのない、読み飛ばしてもストーリーとは関係のないようなワンシーンだ。それも読んだのは20年以上も前になるというのに、その時わたしのなかに作られたイメージはいまだ変わることはない。
「私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価が辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過ごされがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ」
サンドイッチの、パンでもバターでもハムでも胡瓜でもなく、食卓に登場することのない包丁が大きな役割を担っているというところに焦点を当てた意外性。それ故なんでもないシーンがこうしていつまでも残っているのだろう。
変化したサンドイッチのイメージと共に、小説のワンシーンの面白さも感じる。たとえそのサンドイッチの(彼はサンドウィッチとかいているが)シーンが特別印象的だと感じる読み手がわたしひとり、もしもたったひとりだったとしても、人ひとりの小さな何かを変えたことに変わりはない。わたしにとって、そんな文章の魔法を感じるワンシーンだった。
「久しぶりに、包丁を研ごうかな」
村上春樹の世界へと思いを馳せつつ、ブランチのサンドイッチを口に運んだ。
サンドイッチ屋さんのBLTサンド。
1985年出版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は箱入り。
その箱も、かなり日焼けしていますね。
何ということのない、読み飛ばしてもストーリーとは関係のないようなワンシーンだ。それも読んだのは20年以上も前になるというのに、その時わたしのなかに作られたイメージはいまだ変わることはない。
「私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価が辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過ごされがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ」
サンドイッチの、パンでもバターでもハムでも胡瓜でもなく、食卓に登場することのない包丁が大きな役割を担っているというところに焦点を当てた意外性。それ故なんでもないシーンがこうしていつまでも残っているのだろう。
変化したサンドイッチのイメージと共に、小説のワンシーンの面白さも感じる。たとえそのサンドイッチの(彼はサンドウィッチとかいているが)シーンが特別印象的だと感じる読み手がわたしひとり、もしもたったひとりだったとしても、人ひとりの小さな何かを変えたことに変わりはない。わたしにとって、そんな文章の魔法を感じるワンシーンだった。
「久しぶりに、包丁を研ごうかな」
村上春樹の世界へと思いを馳せつつ、ブランチのサンドイッチを口に運んだ。
サンドイッチ屋さんのBLTサンド。
1985年出版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は箱入り。
その箱も、かなり日焼けしていますね。
新しいジンクス
ジンクスは崩された。
今季J1に昇格し、シーズンも半ばまで来たところで6連敗したヴァンフォーレ甲府。わたしが試合を観に行き、ビールを飲むと勝つというジンクスは、家族の間だけで有名な話だった。しかし、東京は味の素スタジアムまで応援に行き、2杯のビールを飲んだにも関わらずFC東京に1-4と完敗した。その後もホームで負け、まさかの8連敗に、我が家のジンクスは無きものになったと、夫婦で考え込んでいたのだ。そして考えに考え……。
「チキンだ!」と、わたし。「チキン?」と、夫。
「この間も負けた時に、ビール&チキンだった!」と、わたし。
「そういえばスタジアムで食べた。チキンだったのかぁ!」と、夫。
このあいだの広島戦。わたしは友人達と池袋で暑気払いだった。夫はひとりホームの中銀スタジアムで応援すると言う。
「絶対にチキンを食べないこと」「うん。チキンは食べない」
ふたり誓い合い、彼は応援に、わたしは飲み会にと参戦した。
「今日は、鶏肉は食べられないから」
友人達にジンクスの話をすると、口々に言う。
「それってまず、ビールに問題あるんじゃない?」
「うん。ビールだよ、きっと」
しかしわたしのなかの確固たるものは、微動だにしない。
「ビールじゃない。絶対にビールではない。今日は鶏肉は食べません」
焼きトン、焼き鳥の店であるが、付き合いのいい友人達は鶏をオーダーせず、豚と野菜で暑気払いした。結果ヴァンフォーレは首位広島に2-0の大勝利。
「今季最高と言ってもいい、ゲームだったよ」とは、夫。
「やっぱ、チキンだ」「もう甲府の試合の日はチキンは食べられないね」
応援する以外には、何もできないサポーターのわたし達だが、今季は鶏断ちでの応援となりそうだ。祈る気持ちで今日もまた、豚を食べよう。
がんばれ! ヴァンフォーレ甲府!
ナイトゲームは、暑さで有名な甲府でもだいぶ涼しいです。
チーム名は、フランス語の「Vent(風)」と「Forêt(林)」
『風林火山』から、つけられたものです。
今季J1に昇格し、シーズンも半ばまで来たところで6連敗したヴァンフォーレ甲府。わたしが試合を観に行き、ビールを飲むと勝つというジンクスは、家族の間だけで有名な話だった。しかし、東京は味の素スタジアムまで応援に行き、2杯のビールを飲んだにも関わらずFC東京に1-4と完敗した。その後もホームで負け、まさかの8連敗に、我が家のジンクスは無きものになったと、夫婦で考え込んでいたのだ。そして考えに考え……。
「チキンだ!」と、わたし。「チキン?」と、夫。
「この間も負けた時に、ビール&チキンだった!」と、わたし。
「そういえばスタジアムで食べた。チキンだったのかぁ!」と、夫。
このあいだの広島戦。わたしは友人達と池袋で暑気払いだった。夫はひとりホームの中銀スタジアムで応援すると言う。
「絶対にチキンを食べないこと」「うん。チキンは食べない」
ふたり誓い合い、彼は応援に、わたしは飲み会にと参戦した。
「今日は、鶏肉は食べられないから」
友人達にジンクスの話をすると、口々に言う。
「それってまず、ビールに問題あるんじゃない?」
「うん。ビールだよ、きっと」
しかしわたしのなかの確固たるものは、微動だにしない。
「ビールじゃない。絶対にビールではない。今日は鶏肉は食べません」
焼きトン、焼き鳥の店であるが、付き合いのいい友人達は鶏をオーダーせず、豚と野菜で暑気払いした。結果ヴァンフォーレは首位広島に2-0の大勝利。
「今季最高と言ってもいい、ゲームだったよ」とは、夫。
「やっぱ、チキンだ」「もう甲府の試合の日はチキンは食べられないね」
応援する以外には、何もできないサポーターのわたし達だが、今季は鶏断ちでの応援となりそうだ。祈る気持ちで今日もまた、豚を食べよう。
がんばれ! ヴァンフォーレ甲府!
ナイトゲームは、暑さで有名な甲府でもだいぶ涼しいです。
チーム名は、フランス語の「Vent(風)」と「Forêt(林)」
『風林火山』から、つけられたものです。
はじめまして、旧友イケフクロウ
バッタリと『イケフクロウ』に出会った。
池袋駅を酔っ払って、ひとり歩いていた時である。
一瞬にして時は昔にさかのぼり、末娘が小学生の頃、流行りの漫画によく登場したイケフクロウを探し、2人歩き回ったのを懐かしく思い出す。その時にはいくら探しても見つからなかったイケフクロウ。こんなところに居たのかぁ。
「おおーっ! イケフクロウ!」
酔っ払いが旧友にふいに出会った時のように、握手を交したい衝動に駆られた。だが残念なことに、または幸いなことにも、彼らに手はなかった。
探している時には見つからず、探すことをとうにやめ、忘れた頃に目の前に現れる。人生のブラックホールは、駅ナカにも、鞄のポケットにも、引き出しの奥にも存在し、常に何かを探し生きていくのが人の性(さが)というものか。
いや、単に整理整頓ができない方向音痴なわたしの問題なのだろうか?
酔った頭で考えても答えなど出るはずもなく、初めて会う旧友イケフクロウと握手を交わすこともなく別れを告げ、あずさの待つ新宿へと急いだ。
『イケフクロウ』は、池袋駅の待ち合わせスポットです。
我が家の近所には、梟の巣穴だった木の洞(うろ)が、けっこうあります。
もちろんイケフクロウの巣については、わかりません。
池袋駅を酔っ払って、ひとり歩いていた時である。
一瞬にして時は昔にさかのぼり、末娘が小学生の頃、流行りの漫画によく登場したイケフクロウを探し、2人歩き回ったのを懐かしく思い出す。その時にはいくら探しても見つからなかったイケフクロウ。こんなところに居たのかぁ。
「おおーっ! イケフクロウ!」
酔っ払いが旧友にふいに出会った時のように、握手を交したい衝動に駆られた。だが残念なことに、または幸いなことにも、彼らに手はなかった。
探している時には見つからず、探すことをとうにやめ、忘れた頃に目の前に現れる。人生のブラックホールは、駅ナカにも、鞄のポケットにも、引き出しの奥にも存在し、常に何かを探し生きていくのが人の性(さが)というものか。
いや、単に整理整頓ができない方向音痴なわたしの問題なのだろうか?
酔った頭で考えても答えなど出るはずもなく、初めて会う旧友イケフクロウと握手を交わすこともなく別れを告げ、あずさの待つ新宿へと急いだ。
『イケフクロウ』は、池袋駅の待ち合わせスポットです。
我が家の近所には、梟の巣穴だった木の洞(うろ)が、けっこうあります。
もちろんイケフクロウの巣については、わかりません。
しんとした心持ちで苔を見つめて
最近、夕立ちが降るせいだろうか。びっきーとの散歩で見かける苔達が元気だ。静かに水を吸い、静かに生きている。
言葉を発することなく生きているもの達を見ていると、こちらの胸もしんとする。雑念がそぎ落とされ、とてもシンプルに、自分の気持ちの芯の部分が見えてくるように感じる。
昨日、マザー・テレサの言葉に出会った。
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから」
その後も3行続くが、なるほどと思ったのはここまで。
考えていることが言葉になり、言葉にすれば行動につながるということか。
そう考えると突然人の世に生きることが空恐ろしくなり、苔を見に走った。何も考えず何も言わず、しんとした心持ちでただ苔を見つめることに集中した。
倒れた木にびっしり。いつからここで生息していたのでしょうか。
夜中に雨が降った朝は、生き生きとしていますね。
最近は苔に癒しを求める『苔ガール』なる女性が存在するとか。
何でも『ガール』つければいいのか? とちょっとひねくれて思ってみる。
言葉を発することなく生きているもの達を見ていると、こちらの胸もしんとする。雑念がそぎ落とされ、とてもシンプルに、自分の気持ちの芯の部分が見えてくるように感じる。
昨日、マザー・テレサの言葉に出会った。
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから」
その後も3行続くが、なるほどと思ったのはここまで。
考えていることが言葉になり、言葉にすれば行動につながるということか。
そう考えると突然人の世に生きることが空恐ろしくなり、苔を見に走った。何も考えず何も言わず、しんとした心持ちでただ苔を見つめることに集中した。
倒れた木にびっしり。いつからここで生息していたのでしょうか。
夜中に雨が降った朝は、生き生きとしていますね。
最近は苔に癒しを求める『苔ガール』なる女性が存在するとか。
何でも『ガール』つければいいのか? とちょっとひねくれて思ってみる。
冷蔵庫の空っぽの皿
冷蔵庫を開けると、空っぽの皿が入っていた。
「葡萄だけ食べて、お皿置きっぱなし?」娘に文句を言うと、
「そんなの小さなことじゃん」と返ってきた。上の娘である。
その小さなことに、人は日々翻弄されているのだよとは言わず、娘を見る。
すると「洗い物もしたし、お風呂のお湯も替えたのに」と、不満げに娘。
見るとキッチンは綺麗になっている。
「あ、ほんとだ。ありがと」
わたしが整骨院に行っている間に、気遣って家事をしてくれたのだと判る。
失敗したなぁと思いつつ、笑いは抑えられない。
「しかし、きみのボケようは、全く見事だね」と、わたし。
「べつにボケてないし」と、娘。
「それ、かなりボケてるからね」と、わたし。
笑いつつも、彼女に感謝し反省した。出来ていないところは目立つけれど、出来ている部分は目立たない。子ども達と過ごした時間で学んだはずなのに。
冷蔵庫の空っぽの皿が目立ち過ぎたということもある。それで娘がしてくれたあれこれに目が行かなかったのだ。
午後、ふたり別々に銀行に行き、ふたり別々にすごすごと帰ってきた。
「判子が違った」と、娘。「判子、忘れた」と、わたし。
娘は勝ち誇ったように言った。
「わたしは、判子を忘れてないからね。一緒にしないでね。ボケてるのお母さんの方じゃない?」
「お母さんは、忘れっぽいだけです!」
全く親子である。
冷蔵庫から消えた『シャインマスカット』は、いただきもの。
種なしで皮ごと食べられます。その美味しさは、うーん。表現に困ります。
皮をぷちっと噛んだ食感と、その後に広がる味わい。月並みですが最高!
「葡萄だけ食べて、お皿置きっぱなし?」娘に文句を言うと、
「そんなの小さなことじゃん」と返ってきた。上の娘である。
その小さなことに、人は日々翻弄されているのだよとは言わず、娘を見る。
すると「洗い物もしたし、お風呂のお湯も替えたのに」と、不満げに娘。
見るとキッチンは綺麗になっている。
「あ、ほんとだ。ありがと」
わたしが整骨院に行っている間に、気遣って家事をしてくれたのだと判る。
失敗したなぁと思いつつ、笑いは抑えられない。
「しかし、きみのボケようは、全く見事だね」と、わたし。
「べつにボケてないし」と、娘。
「それ、かなりボケてるからね」と、わたし。
笑いつつも、彼女に感謝し反省した。出来ていないところは目立つけれど、出来ている部分は目立たない。子ども達と過ごした時間で学んだはずなのに。
冷蔵庫の空っぽの皿が目立ち過ぎたということもある。それで娘がしてくれたあれこれに目が行かなかったのだ。
午後、ふたり別々に銀行に行き、ふたり別々にすごすごと帰ってきた。
「判子が違った」と、娘。「判子、忘れた」と、わたし。
娘は勝ち誇ったように言った。
「わたしは、判子を忘れてないからね。一緒にしないでね。ボケてるのお母さんの方じゃない?」
「お母さんは、忘れっぽいだけです!」
全く親子である。
冷蔵庫から消えた『シャインマスカット』は、いただきもの。
種なしで皮ごと食べられます。その美味しさは、うーん。表現に困ります。
皮をぷちっと噛んだ食感と、その後に広がる味わい。月並みですが最高!
右手くん、思いっきり弱音を吐く
「今日は、思いっきり弱音を吐いてみない?」
「負のスパイラルから、抜け出すために?」
「うん。きみはいつも、我慢しすぎていると思うんだ」
「だからって、弱音を?」「そう。たまには思いっきりね。そうだ、あの晴れた南アルプスの山々に向かって『大弱音吐き大会』をしようよ」
五十肩になり何もかも上手くいかないと負のスパイラスに陥った右手くんは、左手くんの言葉に、感極まった様子だ。
「わーん! 痛いよー! ものすごーく痛いんだよー! 痛くて眠れないんだよー、もうやだよー、疲れちゃったよー、うぇーん!!」
「そうか、…… そんなに痛いんだ。我慢してて辛かったね、右手くん」
「へへ。ちょっと恥ずかしいけどすっきりしたかも。ありがとう、左手くん」
五十肩になった右手くんは、自然治癒を待たず先週から整骨院に通い始めた。電気治療を3種類と引っ張ったりねじったり、これがけっこう痛い様子だ。
しかし寡黙な右手くんは、一言も弱音を吐かず我慢している。その姿はいじらしくもあるが、また痛々しくもある。
いつも我慢してしまうタイプの人は特に、たまに思いっきり弱音を吐くのもいいんじゃないかなと、わたしは思う。晴れた南アルプスの山々に向かって『大弱音吐き大会』企画したら、人、集まるかなぁ?
昨日は朝冷え込み、南アルプスの山々がくっきり見えました。
ごつんと丸い真ん中の山が甲斐駒ケ岳。うーん、秋の空。
八ヶ岳も、深呼吸でもしているかのように気持ちよさそうに見えました。
ケータイで撮っても、このくらいは綺麗に撮れるほど空気が澄んでいました。
「負のスパイラルから、抜け出すために?」
「うん。きみはいつも、我慢しすぎていると思うんだ」
「だからって、弱音を?」「そう。たまには思いっきりね。そうだ、あの晴れた南アルプスの山々に向かって『大弱音吐き大会』をしようよ」
五十肩になり何もかも上手くいかないと負のスパイラスに陥った右手くんは、左手くんの言葉に、感極まった様子だ。
「わーん! 痛いよー! ものすごーく痛いんだよー! 痛くて眠れないんだよー、もうやだよー、疲れちゃったよー、うぇーん!!」
「そうか、…… そんなに痛いんだ。我慢してて辛かったね、右手くん」
「へへ。ちょっと恥ずかしいけどすっきりしたかも。ありがとう、左手くん」
五十肩になった右手くんは、自然治癒を待たず先週から整骨院に通い始めた。電気治療を3種類と引っ張ったりねじったり、これがけっこう痛い様子だ。
しかし寡黙な右手くんは、一言も弱音を吐かず我慢している。その姿はいじらしくもあるが、また痛々しくもある。
いつも我慢してしまうタイプの人は特に、たまに思いっきり弱音を吐くのもいいんじゃないかなと、わたしは思う。晴れた南アルプスの山々に向かって『大弱音吐き大会』企画したら、人、集まるかなぁ?
昨日は朝冷え込み、南アルプスの山々がくっきり見えました。
ごつんと丸い真ん中の山が甲斐駒ケ岳。うーん、秋の空。
八ヶ岳も、深呼吸でもしているかのように気持ちよさそうに見えました。
ケータイで撮っても、このくらいは綺麗に撮れるほど空気が澄んでいました。
彼女が本を好きになるまで
大学1年の末娘は、帰省して3泊すると「サークルの合宿があるから」と早々に、大学のあるさいたまへ帰ってしまった。たったの3泊4日の帰省なのに、鞄のなかには分厚い文庫本が3冊。本が好きなのは、相変わらずだ。
今の彼女からは想像もつかないが、小学3年生までは全く本を読まない子どもだった。7つ上の息子と4つ上の娘には、幼い頃毎日のように絵本を読んでいたわたしも、3人目ということもあり忙しさもありで、彼女にはあまり本を読もうとしなかったのだ。
そしてようやく子育ても落ち着き、気がついた。末娘が本を読まないことに。このままではいけないと、重い腰、というか上げ忘れていた腰を上げたはいいが、何をしたらいいのかと考えあぐねた。上の子達は、読むペースや分野に違いはあれど、自然と本に馴染んでいたからだ。
わたし自身も、読書に対し考え方の違うお母さんの話を聞き、何か違うんじゃないかなと思うところもあった。本を読むと国語力がつくから、子どもに読ませたい。あるいは、知識が身につくから、また、情緒や想像力が豊かになるから。上の子達が高校生、中学生に育っているのだから、受験やなにやら勉強に絡め、読書について様々な考え方を持つ人がいるのだと知った。
だが目を閉じじっくりと考えるにつけ、何か違うという思いは深くなっていく。何かを身につけるため? そもそもそこが違う気がする。国語力がつくから本を読みなさいと言って、本を読みたいと思う子どもがいるだろうか。
「やっぱり本は面白いから読むんだ。他のあれこれは後からついてくるかも知れないけど、ついてこなくたって、まあいいだろう。まずは読まなきゃ始まらないんだから。大切なのは、本を読む楽しさを教えてあげられるかどうかだ」
気持ちはストンと落ち着き、わたしは「娘が面白く読める」ところにだけに焦点を当て図書館で本を借り「面白くない本は読まなくていい」と呪文のように唱えた。そしてほぼ1年間で彼女は本が好きな子どもへと変身を遂げたのだ。
今でも時々、口をついて出てしまう。「面白くない本は読まなくていいよ」
「うん、そうだね。読書は娯楽だからね」と、末娘。そう言いつつも、彼女は笑って言うのだ。「本がない人生なんて、絶対に考えられないけどね」
末娘が面白いと言っていた、中村文則の『銃』(河出書房新社)
「昨日、私は拳銃を拾った。あるいは盗んだのかもしれないが、
私にはわからない」この出だしに、ハートを撃ち抜かれました!
今の彼女からは想像もつかないが、小学3年生までは全く本を読まない子どもだった。7つ上の息子と4つ上の娘には、幼い頃毎日のように絵本を読んでいたわたしも、3人目ということもあり忙しさもありで、彼女にはあまり本を読もうとしなかったのだ。
そしてようやく子育ても落ち着き、気がついた。末娘が本を読まないことに。このままではいけないと、重い腰、というか上げ忘れていた腰を上げたはいいが、何をしたらいいのかと考えあぐねた。上の子達は、読むペースや分野に違いはあれど、自然と本に馴染んでいたからだ。
わたし自身も、読書に対し考え方の違うお母さんの話を聞き、何か違うんじゃないかなと思うところもあった。本を読むと国語力がつくから、子どもに読ませたい。あるいは、知識が身につくから、また、情緒や想像力が豊かになるから。上の子達が高校生、中学生に育っているのだから、受験やなにやら勉強に絡め、読書について様々な考え方を持つ人がいるのだと知った。
だが目を閉じじっくりと考えるにつけ、何か違うという思いは深くなっていく。何かを身につけるため? そもそもそこが違う気がする。国語力がつくから本を読みなさいと言って、本を読みたいと思う子どもがいるだろうか。
「やっぱり本は面白いから読むんだ。他のあれこれは後からついてくるかも知れないけど、ついてこなくたって、まあいいだろう。まずは読まなきゃ始まらないんだから。大切なのは、本を読む楽しさを教えてあげられるかどうかだ」
気持ちはストンと落ち着き、わたしは「娘が面白く読める」ところにだけに焦点を当て図書館で本を借り「面白くない本は読まなくていい」と呪文のように唱えた。そしてほぼ1年間で彼女は本が好きな子どもへと変身を遂げたのだ。
今でも時々、口をついて出てしまう。「面白くない本は読まなくていいよ」
「うん、そうだね。読書は娯楽だからね」と、末娘。そう言いつつも、彼女は笑って言うのだ。「本がない人生なんて、絶対に考えられないけどね」
末娘が面白いと言っていた、中村文則の『銃』(河出書房新社)
「昨日、私は拳銃を拾った。あるいは盗んだのかもしれないが、
私にはわからない」この出だしに、ハートを撃ち抜かれました!
遥か彼方に見える微かな光に向かって
夏休みもそろそろ終わりであるが、駅でもスーパーでも、子どもをよく見かける。幼い子ども達はパワーが有り余っているらしく、意味もなく走っていることも多々ある。全力で、まったくいったい何処へ向かっているんだろうと、今はただ感心するのみだ。
走る子どもを見て、思い出すことがある。
幼稚園の運動会。わたしは5歳くらいだっただろうか。かけっこで転び、痛さと情けなさがないまぜになり泣き出して、そのままトラックの外にいた母のもとへと走ってしまった。
「ゴールまで走ればよかったのに」と、母。
その言葉に傷つき、余計に泣きじゃくった記憶がある。
しかし自分が母親になると、母がそう言わずに居られなかった気持ちもよくわかる。だがもしも同じことが起こったら、何も言わず子ども達を抱きとめようとも思っていた。それを期待していた訳ではなかったが期待に添わず、3人の子ども達は運動会の徒競走で転ぶことなく、毎年ぶじゴールを切った。
末娘が大学生になった今、思う。ゴールは何処でもいいと。
走る速さもゴール地点も、それぞれでいい。誰かが定めたものではなくとも、多くの人に認められるようなもではなくともいいのだ。そしてたどり着く場所は、決してわたしのもとではないだろう。
わたし自身まだまだ、ゴール地点など見えるか見えないかの遥か彼方にある。それは微かな光であるとしか判りようもないが、ただ静かな心持ちで、遠く見えたり見えなかったりする光を目指し、自分のペースで歩いている。
アジアン雑貨屋で見つけたLED電池のライトは、
光が微か過ぎてライトの役割は果たしていませんが、お気に入りです。
photo by my husband
走る子どもを見て、思い出すことがある。
幼稚園の運動会。わたしは5歳くらいだっただろうか。かけっこで転び、痛さと情けなさがないまぜになり泣き出して、そのままトラックの外にいた母のもとへと走ってしまった。
「ゴールまで走ればよかったのに」と、母。
その言葉に傷つき、余計に泣きじゃくった記憶がある。
しかし自分が母親になると、母がそう言わずに居られなかった気持ちもよくわかる。だがもしも同じことが起こったら、何も言わず子ども達を抱きとめようとも思っていた。それを期待していた訳ではなかったが期待に添わず、3人の子ども達は運動会の徒競走で転ぶことなく、毎年ぶじゴールを切った。
末娘が大学生になった今、思う。ゴールは何処でもいいと。
走る速さもゴール地点も、それぞれでいい。誰かが定めたものではなくとも、多くの人に認められるようなもではなくともいいのだ。そしてたどり着く場所は、決してわたしのもとではないだろう。
わたし自身まだまだ、ゴール地点など見えるか見えないかの遥か彼方にある。それは微かな光であるとしか判りようもないが、ただ静かな心持ちで、遠く見えたり見えなかったりする光を目指し、自分のペースで歩いている。
アジアン雑貨屋で見つけたLED電池のライトは、
光が微か過ぎてライトの役割は果たしていませんが、お気に入りです。
photo by my husband
持っていた価値観がガラガラと音を立てて崩れる時
「それ、風呂敷ですか?」
帰省した末娘を行きつけの美容室に迎えに行くと、いきなり聞かれた。
「ふ、風呂敷じゃ、ないと思います」
聞かれると、自信がなくなり答えに詰まった。だが一瞬考えはしたものの、断然風呂敷ではないとの思いが、むくむくと湧く。
「風呂敷ではありませんが、涼しいんです、これ」
「確かに、涼しそうですね」と、笑顔で美容師さん。
(でも、風呂敷に見えるのかな?)
風呂敷じゃないとの思いと共に、むくむくと湧いたのは疑問。何気ないたったの一言だ。しかし思いもかけないその表現の可笑しさで、自分が持っていた自信やら価値観やら感覚やらが、ガラガラと崩れていく音を聴いたのだった。
「きみって。不思議な服着るよね」と夫に言われるも、気にも留めなかったわたしだが、風呂敷と来たか。いや無論、風呂敷を否定する気はないのだが。
車に乗ると、末娘がまた「ピロシキ?」と聞く。
「ピロシキは、ロシアのパンでしょう」と、わたし。
「だって、なんか民族衣装っぽく聞こえた。フロシキが」
「み、民族衣装?」風呂敷であり、民族衣装でもあるのか? このショール。
涼しくノースリーブの上に着たり、冷房が効いた場所では痛めた右肩に掛けたりして重宝しているし、可愛いと思うんだけどな。
全体はこんな感じ。確かに真四角ではあるんだけど。
真ん中が開いていて、ボタンで留められるようになっています。
前と後ろ、その日の気分で使い分けています。
アクセサリーを目立たせたいときには、花柄が少ない方を前に。
帰省した末娘を行きつけの美容室に迎えに行くと、いきなり聞かれた。
「ふ、風呂敷じゃ、ないと思います」
聞かれると、自信がなくなり答えに詰まった。だが一瞬考えはしたものの、断然風呂敷ではないとの思いが、むくむくと湧く。
「風呂敷ではありませんが、涼しいんです、これ」
「確かに、涼しそうですね」と、笑顔で美容師さん。
(でも、風呂敷に見えるのかな?)
風呂敷じゃないとの思いと共に、むくむくと湧いたのは疑問。何気ないたったの一言だ。しかし思いもかけないその表現の可笑しさで、自分が持っていた自信やら価値観やら感覚やらが、ガラガラと崩れていく音を聴いたのだった。
「きみって。不思議な服着るよね」と夫に言われるも、気にも留めなかったわたしだが、風呂敷と来たか。いや無論、風呂敷を否定する気はないのだが。
車に乗ると、末娘がまた「ピロシキ?」と聞く。
「ピロシキは、ロシアのパンでしょう」と、わたし。
「だって、なんか民族衣装っぽく聞こえた。フロシキが」
「み、民族衣装?」風呂敷であり、民族衣装でもあるのか? このショール。
涼しくノースリーブの上に着たり、冷房が効いた場所では痛めた右肩に掛けたりして重宝しているし、可愛いと思うんだけどな。
全体はこんな感じ。確かに真四角ではあるんだけど。
真ん中が開いていて、ボタンで留められるようになっています。
前と後ろ、その日の気分で使い分けています。
アクセサリーを目立たせたいときには、花柄が少ない方を前に。
雨がもたらす小さな変化達
傘を買った途端、雨がやんだ。
「雨が降ったら傘さして、傘がなければ濡れていく。そんな人生が丁度いい」
その昔CMで流行った言葉が身上のわたしだが、持ち歩いていたパソコンを濡らしたくなく、ゲリラ豪雨を予感させる雷に脅されるように、傘を買ったのだ。途端に、雨はやんだ。よくあることである。
すれ違う人のなかには「傘買ったのに、雨やんじゃったよ」と、苦笑しつつ友人に言う人あり、雨がやんだことに気づいているのかいないのか、傘をくるくる回しながら歩く小学生男子あり、濡れたレースの日傘を傾げて日がさすのを確かめ、そのまま日傘としてさして歩く老婦人あり、また、駅のトイレには忘れられた傘もあり。
世の中は進化し続けても、雨が降るだけで、人はそうして右往左往し小さなドラマのワンシーンが生まれたりもする。
何年も前の話だが、夫と喧嘩をした。3日ほど口をきかなかった。口はきかずとも食事は作り共に食べ、彼のスーツにアイロンを掛けた。
そして会社に行く時には玄関まで見送りに出た。見送りに出ても、口をきけないからすることもない。なのでわたしは、昨日の雨で濡れた傘を干し始めた。子ども達の傘。わたしの傘。夫の傘。
パーン、パーンと傘が開いていく。パーン、パーン、パーン。夫とわたしの間で、傘が開く音だけが鳴っていく。だが細くたたまれた傘が大きく丸く開くその瞬間、変化が起きた。不思議なことに、ふたりの気持ちが同時にするりとほどけたのだ。気がつくと顔を見合わせて、笑っていた。
傘を開くと、今でもその時のことを思い出す。
買った傘は晴雨兼用で、シックなピンク色。これから活躍してもらおう。
庭に干したら、ナナカマドの木の影が映って素敵な模様になりました。
傘を干して上を見上げると、もう、秋の空かなぁ。
「雨が降ったら傘さして、傘がなければ濡れていく。そんな人生が丁度いい」
その昔CMで流行った言葉が身上のわたしだが、持ち歩いていたパソコンを濡らしたくなく、ゲリラ豪雨を予感させる雷に脅されるように、傘を買ったのだ。途端に、雨はやんだ。よくあることである。
すれ違う人のなかには「傘買ったのに、雨やんじゃったよ」と、苦笑しつつ友人に言う人あり、雨がやんだことに気づいているのかいないのか、傘をくるくる回しながら歩く小学生男子あり、濡れたレースの日傘を傾げて日がさすのを確かめ、そのまま日傘としてさして歩く老婦人あり、また、駅のトイレには忘れられた傘もあり。
世の中は進化し続けても、雨が降るだけで、人はそうして右往左往し小さなドラマのワンシーンが生まれたりもする。
何年も前の話だが、夫と喧嘩をした。3日ほど口をきかなかった。口はきかずとも食事は作り共に食べ、彼のスーツにアイロンを掛けた。
そして会社に行く時には玄関まで見送りに出た。見送りに出ても、口をきけないからすることもない。なのでわたしは、昨日の雨で濡れた傘を干し始めた。子ども達の傘。わたしの傘。夫の傘。
パーン、パーンと傘が開いていく。パーン、パーン、パーン。夫とわたしの間で、傘が開く音だけが鳴っていく。だが細くたたまれた傘が大きく丸く開くその瞬間、変化が起きた。不思議なことに、ふたりの気持ちが同時にするりとほどけたのだ。気がつくと顔を見合わせて、笑っていた。
傘を開くと、今でもその時のことを思い出す。
買った傘は晴雨兼用で、シックなピンク色。これから活躍してもらおう。
庭に干したら、ナナカマドの木の影が映って素敵な模様になりました。
傘を干して上を見上げると、もう、秋の空かなぁ。
『花泥棒は、罪』に1票
びっきーと歩いていると様々な人とすれ違う。犬と散歩する人。ウォーキングする人。軽トラで通る農家さん。そして、会いたくもなかった花泥棒にも。
『花盗人は罪にならない』という言葉は知っていた。深く意味は知らずとも聞いたことはある程度の知っていた、だ。
だが目前で、他人の庭の白く綺麗に咲いた花を切る女性を見て驚いた。彼女はわざわざ車を停め、ハサミを手にしていた。花は切ってもわからないくらいにたくさん咲いていたし、花壇に踏み込んで根こそぎ盗っていた訳ではない。
それを泥棒だと思うわたしは、頭が固いのだろうか。風情だとか風流だとかいうものから、遠い場所にいるのだろうか。
調べれば、狂言『花盗人』で、桜の枝を折って捕まった僧が、桜の木に縛り付けられたまま「この春は 花のもとにて縄つきぬ 烏帽子桜と人や見るらん」という歌を詠み、その歌に感動した花見の衆が罪を許して花見の宴に加えたことから花盗人は罪にはならずと言われるようになったとの説があると知った。
花泥棒、推定60代の女性は、目撃者である目を見開き驚くわたしに言った。
「これ、いただいていいですか?」失敗したなぁという顔。だが笑顔だ。
いただいても何も、もう花はハサミで切った後。悪を働く者も、同意が欲しいのだと、ただただ呆れた。
「うちの、花じゃないですから」そう答えるのが精一杯だった。
花泥棒の車が走り去るのを見送り、びっきーのリードを引いた。素直に歩き始めるびっきーが悲しくもあり、泣きたい気持ちで重たい足を動かした。
びっきーと白い花と夕暮れが作りだした混沌のなか、整然としたリビングなどに飾られるのであろう白い花のその後が、ちらちらと見える気がした。
花には、興味ありません。匂いが強いものは好きじゃないんです。
それより、姫に違う犬の匂いがすると思ったら、ドッグカフェなるところで、
働いているらしいんです。それも可愛い犬が来るとか言っていたと、
おかーさんが無神経にも、教えてくれました。ショックです。
ところで姫、散歩まだですかー?
意識して可愛く呼んでみることにしました「クゥーーン、クゥーン」
あっ♪ 散歩ですか? 散歩ですよね。散歩だぁ!
「びっきーが、いちばん好きだよ」と、娘。
「ですよねー」と、びっきー。
「でも、変な声で鳴いて朝起こすのだけは、やめてね」「……」
『花盗人は罪にならない』という言葉は知っていた。深く意味は知らずとも聞いたことはある程度の知っていた、だ。
だが目前で、他人の庭の白く綺麗に咲いた花を切る女性を見て驚いた。彼女はわざわざ車を停め、ハサミを手にしていた。花は切ってもわからないくらいにたくさん咲いていたし、花壇に踏み込んで根こそぎ盗っていた訳ではない。
それを泥棒だと思うわたしは、頭が固いのだろうか。風情だとか風流だとかいうものから、遠い場所にいるのだろうか。
調べれば、狂言『花盗人』で、桜の枝を折って捕まった僧が、桜の木に縛り付けられたまま「この春は 花のもとにて縄つきぬ 烏帽子桜と人や見るらん」という歌を詠み、その歌に感動した花見の衆が罪を許して花見の宴に加えたことから花盗人は罪にはならずと言われるようになったとの説があると知った。
花泥棒、推定60代の女性は、目撃者である目を見開き驚くわたしに言った。
「これ、いただいていいですか?」失敗したなぁという顔。だが笑顔だ。
いただいても何も、もう花はハサミで切った後。悪を働く者も、同意が欲しいのだと、ただただ呆れた。
「うちの、花じゃないですから」そう答えるのが精一杯だった。
花泥棒の車が走り去るのを見送り、びっきーのリードを引いた。素直に歩き始めるびっきーが悲しくもあり、泣きたい気持ちで重たい足を動かした。
びっきーと白い花と夕暮れが作りだした混沌のなか、整然としたリビングなどに飾られるのであろう白い花のその後が、ちらちらと見える気がした。
花には、興味ありません。匂いが強いものは好きじゃないんです。
それより、姫に違う犬の匂いがすると思ったら、ドッグカフェなるところで、
働いているらしいんです。それも可愛い犬が来るとか言っていたと、
おかーさんが無神経にも、教えてくれました。ショックです。
ところで姫、散歩まだですかー?
意識して可愛く呼んでみることにしました「クゥーーン、クゥーン」
あっ♪ 散歩ですか? 散歩ですよね。散歩だぁ!
「びっきーが、いちばん好きだよ」と、娘。
「ですよねー」と、びっきー。
「でも、変な声で鳴いて朝起こすのだけは、やめてね」「……」
珈琲を飲まない珈琲タイムがくれたもの
珈琲が好きになる前から、珈琲屋に憧れていた。
常連と呼ばれる人達がマスターまたは珈琲屋の親父と気軽にしゃべったり、知らない人同士が出会ったり、待ち合わせに使われたり、喧嘩するカップルがいたり、いつも同じ席で本を開く無口な人がいたり。今思えばだが、人と人との様々なドラマが生まれる場所としての独特の雰囲気に憧れていたのだろう。
10代の頃、いくつかの喫茶店でウエイトレスをした。立ちっぱなしの肉体労働ではあったが、楽しかった。珈琲カップを「カシャン」ではなく「コトン」と優しい音を立て置くことや、大きくもなく小さくもない声で「かしこまりました」と言うことにも、細心の注意を払い、自分が納得する仕事ができるようにベストを尽くした。そんな小さな一つ一つが楽しく、今、毎日の生活のなかの何でもない小さなことを楽しんでいる自分の原点が、その珈琲を飲まなかった珈琲タイムにあるようにも思える。
女は愛嬌で生きるタイプではないが、笑顔も珈琲屋で自然と覚えた。
母親に似ず、女は愛嬌で生きるタイプの上の娘が、『ヒッチハイク山梨!!』に参加した感想を facebook にかいていた。
「よく笑顔がいいねって褒められるけど、それは周りの人が笑顔にしてくれるからです」ドッグカフェでバイト中の彼女は、わたしが珈琲屋で過ごしたような時間を今、更にアクティブに過ごしているようだ。
ずいぶんと久しぶりに珈琲をドリップし、ひとり庭で熱い珈琲を飲んだ。
キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所『蜂乃屋』さんが焙煎した珈琲を、安価で譲ってもらったものだ。
コトンとも音がしないこんな静かな時間に流れ着くなどとは、あの頃の自分には、想像もつかなかっただろう。いや。まだ漂流の途中なのかもしれないが。
手書きの字もアートっぽい。さすが『蜂乃屋』さん。
煎りたては、やっぱりふくらむなぁ。気持ちもちょっとふくらみます。
「あー、酸味が効いてて美味しい」夏の間庭に出しているベンチで。
といっても、酒瓶のケース2つの上に板を渡しただけ。
夫がいない平日は洗濯物も少なく、昨日はワンピースだけ洗いました。
ゆらゆら揺れるワンピースを眺めつつの、のんびり珈琲タイムでした。
常連と呼ばれる人達がマスターまたは珈琲屋の親父と気軽にしゃべったり、知らない人同士が出会ったり、待ち合わせに使われたり、喧嘩するカップルがいたり、いつも同じ席で本を開く無口な人がいたり。今思えばだが、人と人との様々なドラマが生まれる場所としての独特の雰囲気に憧れていたのだろう。
10代の頃、いくつかの喫茶店でウエイトレスをした。立ちっぱなしの肉体労働ではあったが、楽しかった。珈琲カップを「カシャン」ではなく「コトン」と優しい音を立て置くことや、大きくもなく小さくもない声で「かしこまりました」と言うことにも、細心の注意を払い、自分が納得する仕事ができるようにベストを尽くした。そんな小さな一つ一つが楽しく、今、毎日の生活のなかの何でもない小さなことを楽しんでいる自分の原点が、その珈琲を飲まなかった珈琲タイムにあるようにも思える。
女は愛嬌で生きるタイプではないが、笑顔も珈琲屋で自然と覚えた。
母親に似ず、女は愛嬌で生きるタイプの上の娘が、『ヒッチハイク山梨!!』に参加した感想を facebook にかいていた。
「よく笑顔がいいねって褒められるけど、それは周りの人が笑顔にしてくれるからです」ドッグカフェでバイト中の彼女は、わたしが珈琲屋で過ごしたような時間を今、更にアクティブに過ごしているようだ。
ずいぶんと久しぶりに珈琲をドリップし、ひとり庭で熱い珈琲を飲んだ。
キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所『蜂乃屋』さんが焙煎した珈琲を、安価で譲ってもらったものだ。
コトンとも音がしないこんな静かな時間に流れ着くなどとは、あの頃の自分には、想像もつかなかっただろう。いや。まだ漂流の途中なのかもしれないが。
手書きの字もアートっぽい。さすが『蜂乃屋』さん。
煎りたては、やっぱりふくらむなぁ。気持ちもちょっとふくらみます。
「あー、酸味が効いてて美味しい」夏の間庭に出しているベンチで。
といっても、酒瓶のケース2つの上に板を渡しただけ。
夫がいない平日は洗濯物も少なく、昨日はワンピースだけ洗いました。
ゆらゆら揺れるワンピースを眺めつつの、のんびり珈琲タイムでした。
日常に潜む心の闇
「『日常』というバランス、それがくずれるとき。誰かの心の暗がりが、そっと目の前に広がる」本の帯には、そう記されていた。
藤野千夜『彼女の部屋』(講談社)を読んだ。短編が、6編収められている。
どれも、大きな事件が起こる訳ではない。毎日のなか、流れていく心の欠片や、微かに感じる「ズレ」、判っている自分の足りないところを見つめてしまう瞬間。そういうものを静かに捉え淡々と描いた短編小説集だ。
たとえば『ハローウィーン』は、未婚の主人公、周子と、子育てを終えた60代の福田夫婦が、マンションのイベントであるハロウィンを迎えるまでのやり取りや、その後を描いている。
表題作『彼女の部屋』は、離婚して1年の主人公、恭子が、親しくもない女性、北原さんに、家に遊びに来ないかと誘われる。誰にでも嫌な顔ができず断れない恭子と、執拗に親しげに誘ってくる北原さん。そんな二人のズレと恭子の微妙な気持ちの揺れを描いている。
自分が持つ『パーソナルスペース』を、一歩踏み出した時、感じるものは人の温かさだとは限らない。隠している傷や、淋しさや、闇に出会うこともある。だが、そういう負の部分も含め、人と人とは関わり合っていくものなのだと、しみじみ感じる短編集だった。
涼をとりに行った明野図書館には「涼」が付く熟語を並べてありました。
帰り道、田んぼの稲がずいぶん頭をもたげて来たなぁと写真を撮りました。
もう、すぐに収穫の秋。今年も美味しいお米が食べられますように。
藤野千夜『彼女の部屋』(講談社)を読んだ。短編が、6編収められている。
どれも、大きな事件が起こる訳ではない。毎日のなか、流れていく心の欠片や、微かに感じる「ズレ」、判っている自分の足りないところを見つめてしまう瞬間。そういうものを静かに捉え淡々と描いた短編小説集だ。
たとえば『ハローウィーン』は、未婚の主人公、周子と、子育てを終えた60代の福田夫婦が、マンションのイベントであるハロウィンを迎えるまでのやり取りや、その後を描いている。
表題作『彼女の部屋』は、離婚して1年の主人公、恭子が、親しくもない女性、北原さんに、家に遊びに来ないかと誘われる。誰にでも嫌な顔ができず断れない恭子と、執拗に親しげに誘ってくる北原さん。そんな二人のズレと恭子の微妙な気持ちの揺れを描いている。
自分が持つ『パーソナルスペース』を、一歩踏み出した時、感じるものは人の温かさだとは限らない。隠している傷や、淋しさや、闇に出会うこともある。だが、そういう負の部分も含め、人と人とは関わり合っていくものなのだと、しみじみ感じる短編集だった。
涼をとりに行った明野図書館には「涼」が付く熟語を並べてありました。
帰り道、田んぼの稲がずいぶん頭をもたげて来たなぁと写真を撮りました。
もう、すぐに収穫の秋。今年も美味しいお米が食べられますように。
キンカンとムヒのみぞ知る
その溝は限りなく底深く、それはいつしか巨大な川となり、濁流が荒れ狂う。対岸へ行こうとも橋はなく、巨大な川は、メビウスの輪の如く永遠に交わることも、終わることもない。
夫と対立している。
ふたりの信念はどちらも曲がることなく、何処までも平行線をたどっていく。
「キンカンの方が、絶対効く」と、夫。
「だってもう、引っ掻いちゃったんだから、キンカン塗ったら痛いもん。ムヒ塗るからいい」と、わたし。
「その痛いのが、効くんだよ」
「キンカンを否定するわけじゃないけど、痛いから塗らない」
キンカンとムヒ。ふたりの対立は、続いている。しつこい痒みが残る虫に、ふたり仲良く足を刺されたのだ。多分庭でのことだろう。
夜中に痒みで目覚め、ムヒを塗ってベッドに戻った。
「何してたの?」と、夫。「ムヒ塗ってたんだよ」と、わたし。
すると彼は「ふん」と鼻で笑った。「なにその、ふんって」と、睨むわたし。
「キンカン、塗ればいいのに」「もうムヒ、塗っちゃったもん」
「ムヒの上に、キンカン塗ったっていいじゃん」
「混ぜるな危険!」「なにそれ」「洗剤によくかいてあるじゃん」
「薬と洗剤は違うでしょう。俺は、ムヒもキンカンも塗るもんね」
「何度も言うけど、キンカンを否定してるわけじゃないの。引っ掻いちゃったとこに塗ると痛いから嫌なの!」
夫婦の間をうねり狂う、キンカンとムヒの溝。その行方は、キンカンとムヒのみぞ知る。などとバカなことを言っている場合じゃなく、痒い。
顔を見合わせ、呆れているムヒとキンカン。
庭に勝手に咲いた百合。花も虫も、好き勝手やっている庭です。
夫と対立している。
ふたりの信念はどちらも曲がることなく、何処までも平行線をたどっていく。
「キンカンの方が、絶対効く」と、夫。
「だってもう、引っ掻いちゃったんだから、キンカン塗ったら痛いもん。ムヒ塗るからいい」と、わたし。
「その痛いのが、効くんだよ」
「キンカンを否定するわけじゃないけど、痛いから塗らない」
キンカンとムヒ。ふたりの対立は、続いている。しつこい痒みが残る虫に、ふたり仲良く足を刺されたのだ。多分庭でのことだろう。
夜中に痒みで目覚め、ムヒを塗ってベッドに戻った。
「何してたの?」と、夫。「ムヒ塗ってたんだよ」と、わたし。
すると彼は「ふん」と鼻で笑った。「なにその、ふんって」と、睨むわたし。
「キンカン、塗ればいいのに」「もうムヒ、塗っちゃったもん」
「ムヒの上に、キンカン塗ったっていいじゃん」
「混ぜるな危険!」「なにそれ」「洗剤によくかいてあるじゃん」
「薬と洗剤は違うでしょう。俺は、ムヒもキンカンも塗るもんね」
「何度も言うけど、キンカンを否定してるわけじゃないの。引っ掻いちゃったとこに塗ると痛いから嫌なの!」
夫婦の間をうねり狂う、キンカンとムヒの溝。その行方は、キンカンとムヒのみぞ知る。などとバカなことを言っている場合じゃなく、痒い。
顔を見合わせ、呆れているムヒとキンカン。
庭に勝手に咲いた百合。花も虫も、好き勝手やっている庭です。
祈りのポーズに思う
庭で見かける虫の種類が、変わってきている。
昆虫酒場と呼んでいるクヌギの木の下には、カブトムシの死骸がいくつも転がっているし、オオムラサキも少なくなった。
その庭で、大カマキリに会った。わたしを警戒しているのか、両手の鎌を閉じ揃え、祈るような恰好で構えている。
カマキリを「おがみ虫」と呼ぶ地方もあると聞いた。イギリスでも「祈り虫」との名だそうだ。捕食する時の構えだそうで、肉食のカマキリだからこそ、命をもらう時に祈るかのように見えるのかもしれない。
わたしも毎日のように肉や魚を食べているが、命をもらっているという感覚は薄れている。何も感ずることなく料理し食べていることの方が多い。
しかしそれを実感する機会が、夏にある。バーベキューをする際、ネットで注文する豚肉『みやじ豚』を食べる時だ。縁あって豚舎に取材に行き、可愛い子豚を見せてもらい、大切に育てているという話を聴いた。通常より広い豚舎で、同じ親から生まれた兄弟のみを一緒にし、何より可愛がって育てることでストレスフリーの美味しい豚肉になるのだそうだ。
それから毎年、大人数でバーベキューをする度に、食べさせてもらっている。それがもう、びっくりするほど美味しいのだ。
可愛がって育てた豚を、殺して食べる。そういうと残酷に聞こえるかもしれない。だが聞こえるだけじゃなく、人が残酷なことをしているのも事実だ。ときに事実に目を向け、考える機会があってもいい。
カマキリのように手を合わせることはしなくとも、命をもらって生きているのだということに感謝しつつ。
祈りのポーズ。威嚇してたんだよね。驚かせてごめんね。
バッタくんもたくさんいます。いっぱい葉っぱ食べたねぇ。
トノサマバッタ。殿っていう顔してますね。ナイスネーミング!
吾亦紅が咲きました。花に乗っているのは、コオロギの種類かな?
昆虫酒場と呼んでいるクヌギの木の下には、カブトムシの死骸がいくつも転がっているし、オオムラサキも少なくなった。
その庭で、大カマキリに会った。わたしを警戒しているのか、両手の鎌を閉じ揃え、祈るような恰好で構えている。
カマキリを「おがみ虫」と呼ぶ地方もあると聞いた。イギリスでも「祈り虫」との名だそうだ。捕食する時の構えだそうで、肉食のカマキリだからこそ、命をもらう時に祈るかのように見えるのかもしれない。
わたしも毎日のように肉や魚を食べているが、命をもらっているという感覚は薄れている。何も感ずることなく料理し食べていることの方が多い。
しかしそれを実感する機会が、夏にある。バーベキューをする際、ネットで注文する豚肉『みやじ豚』を食べる時だ。縁あって豚舎に取材に行き、可愛い子豚を見せてもらい、大切に育てているという話を聴いた。通常より広い豚舎で、同じ親から生まれた兄弟のみを一緒にし、何より可愛がって育てることでストレスフリーの美味しい豚肉になるのだそうだ。
それから毎年、大人数でバーベキューをする度に、食べさせてもらっている。それがもう、びっくりするほど美味しいのだ。
可愛がって育てた豚を、殺して食べる。そういうと残酷に聞こえるかもしれない。だが聞こえるだけじゃなく、人が残酷なことをしているのも事実だ。ときに事実に目を向け、考える機会があってもいい。
カマキリのように手を合わせることはしなくとも、命をもらって生きているのだということに感謝しつつ。
祈りのポーズ。威嚇してたんだよね。驚かせてごめんね。
バッタくんもたくさんいます。いっぱい葉っぱ食べたねぇ。
トノサマバッタ。殿っていう顔してますね。ナイスネーミング!
吾亦紅が咲きました。花に乗っているのは、コオロギの種類かな?
福耳唐辛子
福耳をいただいた。もちろんお金持ちになるというあの耳のことではない。いただいたのは、福耳という名の唐辛子だ。
「万願寺?」「だと思うでしょ? 違うの。辛いんだよ」
一昨日、我が家のウッドデッキで、ご近所さん総勢20名で持ち寄りバーベキューをした。その際、持って来てくれたものだ。同じ北杜市に住むご両親が畑で作ったという。
「生の方が、まだ辛くない」というので、その場でそれぞれ千切って口に入れた。辛いという人あり、これはいけるという人もあり。わたしはもちろん、いける派。「火を入れるともっと辛くなる」という言葉に嬉しくなる。
福耳と聞くと、子どもの頃、父親譲りの大きな耳を見て、大人達に「福耳だね」と言われたことを思い出す。子どもと言っても女の子なのだ。お金持ちになる福耳だと言われても、耳が不格好なほど大きいと言われているのだと、子ども心に傷ついていた。同じく父親譲りの耳を持つ弟などは「サル」と呼ばれていたのだから、自分がそう呼ばれなくとも鏡を見ては、ため息をついた。今は髪を伸ばし耳は隠してはいるがコンプレックスと言うほどではない。ただ思ったのだ。大人ってどうして、そういうことを平気で言うのだろうかと。
また、唐辛子で思い出すのは、保育士時代のこと。区立の保育園だったので、観賞用の唐辛子が区から届いた。赤や緑、黄色。綺麗だった。その唐辛子の匂いを嗅ごうと、鼻に入れてみた女の子がいた。ちょうど鼻の穴にすっぽり入る、大きさのせいもあったかと思う。火がついたように泣き出したその子に駆け寄ると、鼻が赤く腫れ上がっていた。彼女の鼻はしばらく冷やすと腫れも痛みも治まった。そして観賞用の唐辛子はその日のうちに撤去されたが、わたしはただただ思った。子どもってどうして、こういうことをするんだろうかと。
大人はかつて自分が子どもだったことを忘れがちだ。だから子どもの気持ちを想像することなく無神経な言葉をかけたり、子どもの好奇心あふれる行動に驚いたりするのだ。だが子どもはいずれ大人になる。唐辛子を鼻に入れた彼女だって、大人になっているはずだ。大人になった彼女に聞いてみたい気もする。どうして唐辛子などを鼻に? と。もしかしたら「あれは、実はね」と、小さなドラマを秘めた回答が返ってくるかもしれない。
クローバーと並べると、大きさがよく判りますね。
ちょっと色っぽい背中に見えるのは、わたしだけ?
福耳アート。目はズッキーニ、鼻はトマトで前髪はトウモロコシ。
ごま油で豚肉ともやしと炒めて、オイスターソースで味付け。
辛さのほどは? 全く問題なし。美味しい!
「万願寺?」「だと思うでしょ? 違うの。辛いんだよ」
一昨日、我が家のウッドデッキで、ご近所さん総勢20名で持ち寄りバーベキューをした。その際、持って来てくれたものだ。同じ北杜市に住むご両親が畑で作ったという。
「生の方が、まだ辛くない」というので、その場でそれぞれ千切って口に入れた。辛いという人あり、これはいけるという人もあり。わたしはもちろん、いける派。「火を入れるともっと辛くなる」という言葉に嬉しくなる。
福耳と聞くと、子どもの頃、父親譲りの大きな耳を見て、大人達に「福耳だね」と言われたことを思い出す。子どもと言っても女の子なのだ。お金持ちになる福耳だと言われても、耳が不格好なほど大きいと言われているのだと、子ども心に傷ついていた。同じく父親譲りの耳を持つ弟などは「サル」と呼ばれていたのだから、自分がそう呼ばれなくとも鏡を見ては、ため息をついた。今は髪を伸ばし耳は隠してはいるがコンプレックスと言うほどではない。ただ思ったのだ。大人ってどうして、そういうことを平気で言うのだろうかと。
また、唐辛子で思い出すのは、保育士時代のこと。区立の保育園だったので、観賞用の唐辛子が区から届いた。赤や緑、黄色。綺麗だった。その唐辛子の匂いを嗅ごうと、鼻に入れてみた女の子がいた。ちょうど鼻の穴にすっぽり入る、大きさのせいもあったかと思う。火がついたように泣き出したその子に駆け寄ると、鼻が赤く腫れ上がっていた。彼女の鼻はしばらく冷やすと腫れも痛みも治まった。そして観賞用の唐辛子はその日のうちに撤去されたが、わたしはただただ思った。子どもってどうして、こういうことをするんだろうかと。
大人はかつて自分が子どもだったことを忘れがちだ。だから子どもの気持ちを想像することなく無神経な言葉をかけたり、子どもの好奇心あふれる行動に驚いたりするのだ。だが子どもはいずれ大人になる。唐辛子を鼻に入れた彼女だって、大人になっているはずだ。大人になった彼女に聞いてみたい気もする。どうして唐辛子などを鼻に? と。もしかしたら「あれは、実はね」と、小さなドラマを秘めた回答が返ってくるかもしれない。
クローバーと並べると、大きさがよく判りますね。
ちょっと色っぽい背中に見えるのは、わたしだけ?
福耳アート。目はズッキーニ、鼻はトマトで前髪はトウモロコシ。
ごま油で豚肉ともやしと炒めて、オイスターソースで味付け。
辛さのほどは? 全く問題なし。美味しい!
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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